2013年08月26日

愛敵と隣人愛【マタイ5:38〜48】

聖句「『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言って置く。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(5:43,44)

1.《共生》 行政でも使われる「共生」は、本来、生物学の用語です。2つの異なった種類の生物が密着して生活して、相互の利害を共有しているのです。詩人の石原吉郎は自身のシベリア抑留体験から、共生は便宜的に始まるのではなく、そうしなければ生きられない、切羽詰った形で始まったのではないかと言います。石原は「最も近い者に最初の敵を発見するという発想を身につけた」のでした。

2.《敵性》 ギリシア語の「近い者/プレーシオン」こそは、聖書の「隣人」に他なりません。イエスさまが引用なさった「レビ記」19章を見ても「敵を憎め」等とは書いてありません。兄弟愛、同胞愛、隣人愛を説いているだけです。それは自分の部族の者に限定され、「敵を憎め」へと収斂していきます。これが「隣人愛の正体」です。イエス御自身は「隣人を愛せ」と言わず「敵を愛せ」と仰っているのです。無理難題としか思われません。しかし、私たちもまた、神さまから見れば「悪人」「正しくない者」かも知れません。そのように考える時、私たちは、敵だとても同じこの世に生かされていることを知るのです。

3.《愛敵》 キリスト教会は「敵を愛する」との主の命令を「敵は、愛することによって敵ではなくなる」「敵を味方に付けることによって敵を滅ぼす」(リンカーン大統領)と教えて来ました。しかし、この方法論の根底にあるのは、ユダヤ教と同じ「隣人愛」の教えです。ただ、如何にして敵を隣人に変えてやろうかというのです。このような考え方から欠落しているのは、「天の父」から見れば、他ならぬ私たち自身が「敵」であるかも知れないという思慮深さです。十字架を置き去りにしたら、それはキリスト教信仰ではありません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:46 | 毎週の講壇から