2013年10月16日

こんにゃく問答]V「天国と酒」

1.ヨッパライ

♪「天国よいとこ、一度はおいで/酒はうまいし、ねえちゃんはきれいだ/ワーワーワッワー」と歌っていたのは、ザ・フォーク・クルセーダーズの大ヒット曲『帰って来たヨッパライ』(1967年)でした(作詞:松山猛、北山修、作曲:加藤和彦)。

果たして「天国よいとこ」というのは本当なのでしょうか。この歌の主人公のヨッパライこと「オラ」は、この後♪「だけど天国にゃ、こわい神様が/酒を取り上げて、いつもどなるんだ」と言います。続いて「神様」の台詞「なあおまえ/天国ちゅうとこは/そんなに甘いもんやおまへんや/もっとまじめにやれ」(なぜか関西弁)が入ります。

テープの回転数を高くした甲高い声とホンキートンク調のギター伴奏は、小学生にも受けて、当時、私たちも盛んに声真似をして歌ったものです。しかしながら、ヨッパライである「オラ」にとって「酒はうまいし、ねえちゃんはきれいだ」からこそ「天国」であるはずなのに、そこに偏屈な「神様」がいて「酒を取り上げて」「もっとまじめにやれ」と「いつもどなる」のでは、「天国」も地上と代わり映えがしないのではないか。「天国」と言っても、案外「天国」ではないのかも知れないなと、子供心にも矛盾を感じていました。

そして今、オヤジに成って、再び冷静に考えてみますと、少なくとも下戸である自分にとって「酒がうまい」ことは何の価値もありません。ヨッパライにとっての「天国」は、下戸にとっては「地獄」であるかも知れません。何とかしてアルコールに強くなろうと、日夜、飲酒の訓練をしては嘔吐していた、辛い修行の日々を思い出した次第です。しかし、このような相対的な「天国観」、すぐに底の割れてしまうような安っぽい「天国」の観念は、ある意味、幸せなことなのかも知れません。

2.クルアーン

あるイスラム原理主義の過激派組織は「殉教すれば、天国で72人のフーリーを娶ってセックスできる」と宣伝して、自爆テロ要員の少年を勧誘していたそうです。「フーリー」とはイスラム教の「天女」です。全員、白い肌で金髪なのだそうです。天国では、1人のムスリム(信徒)に72人のフーリーが付いて接待してくれるそうです。彼女たちは「永遠の処女」で、何度、処女膜が破れても、すぐに再生して処女に戻るとされています。

確かに「クルアーン」(コーラン)第55章「慈悲深い御方の章」、第56章「出来事(終末)の章」を即物的に解釈すると、そのようになります。

(イスラムは飲酒厳禁ですが)天国では酒は飲み放題で、幾ら飲んでも「頭痛を訴えることも、泥酔することも」ありません。「好み通りの果実を選び、鳥肉も望み通りの物を得る」そうです(やはり、トンカツは食べられそうにありません)。更に「目の大きな色白の乙女もいる/彼女たちは、まるで秘められた真珠のよう」。救われたムスリム(信徒)のために「我らは、この乙女たちを造って置いた/汚れない処女に造り上げて置いた/同じ年頃の可愛い乙女にして置いた」と続きます。

あれっ、これって「酒はうまいし、ねえちゃんはきれいだ」そのままですね。それに比して、女性の信徒を待っているのは、どのような天国なのか、疑問が湧いて来ます。どうやら、ムスリムの妻たち(一夫多妻制です)は、地上にいた時と同じように、72人のフーリーと共に、自分の夫に仕えなくてはならないようです。

戒律上、イスラム世界にヨッパライが大勢いるはずないのですが、「天国」に対して抱くイメージが、フォークルの『帰って来たヨッパライ』と極めて似ていることに驚きました。しかも、ここには「酒を取り上げて、いつもどなる」「こわい神様」はいないようですから、イスラムの天国は(少なくとも)ハレムやキャバクラを夢見る男性にとっては「天国」に違いありません。

3.聖なる酔漢

ユダヤ系オーストリア人作家、ヨーゼフ・ロートに『聖なる酔っぱらいの伝説』という短編があります。『木靴の樹』のエルマンノ・オルミ監督、『ブレードランナー』のルトガー・ハウアー主演で映画化されましたから、ご記憶の向きもあるかも知れません。

セーヌ川の橋の下をねぐらにしているアンドレアスが、ある日、不思議な紳士に出会います。老紳士は200フランもの大金をアンドレアスに与え、日曜日のミサの時に、リジューの聖テレーズに献金してくれと言うのです。しかし、過去に大きな罪を犯したことが原因で、今も酒に溺れるアンドレアスは、折角のお金を飲み代に使ってしまいます。すかんぴんに成って、再び橋の下に戻ると、また、老紳士が200フランを与えてくれて、同じような依頼をするのです。それでも、やっぱり、そのお金は使ってしまって、朦朧とした状態で、飲み屋に居合わせたテレーズという名前の少女に出会うのですが、そのまま倒れて息を引き取ってしまうのでした。

この作品に登場するリジューの聖テレーズ(あるいは、幼きイエスのテレーズ)は、あの大歌手、エディット・ピアフも帰依していた聖女です。聖テレーズは15歳でカルメル会女子修道院に入り、僅か24歳で亡くなります。修道女としての生活は10年に足りませんでしたが、彼女の書いた自叙伝『魂の物語』(邦訳『小さき花』)は世界中の多くの人に共感を与えました。

彼女は、どんなに冴えなくても、平凡でも、才能に恵まれていなくて、「普通」でしかなくても、小さなことを行ない、神の愛に照らされる日常の義務を果たして、幼子のような自分の「小さき道」を勇敢に突き進みましょうと訴えたのです。彼女は臨終の床で、この世に対する天の贈り物として、自分の死後「薔薇の花の雨を降らせましょう」(Je vais faire tomber un torrent de roses)と約束したと言われています。

実際に「薔薇の花の雨」の奇蹟が起こったということで、テレーズは列聖されたのでしょうが、私には、むしろ「薔薇の花の雨」こそが天国の隠喩に思われるのです。

『酒とバラの日々』(Days of Wine and Roses)という映画もあったように、薔薇の花びらはワインの比喩です。ワインの海に溺れた「聖なる酔っぱらい」のアンドレアスに救いの手を差し伸べるのは、リジューの聖テレーズでなければならなかったのは、そういうことなのでしょう。

さあ、それでは、下戸の私にとっての「天国」は如何に。それは次回のお楽しみお楽しみ。


【会報「行人坂」No.247 2013年10月20日発行より】

posted by 行人坂教会 at 07:33 | ┗こんにゃく問答