2013年10月16日

幽径耽読 Book Illuminationその10

  • 「クロニクルFUKUSHIMA」(大友良英著、青土社)
    『あまちゃん』の劇伴で、すっかり有名になった大友良英が、少年時代を過ごしたのが福島県の渡利。3.11の震災と原発事故を契機に、地元の人たちと色々なイベントを催しながら、汚染の現実と向き合い、引き裂かれた故郷を見つめ、福島人の複雑な心情に寄り添って行きます。坂本龍一、遠藤ミチロウといった同じミュージシャンとの対談は運動論として勉強になります。放射線学者の木村真三との対談では、厳しい現実を改めて思わないではいられません。野外公演のために、皆から寄せられた風呂敷を縫い合わせて「大風呂敷」を作り、それを会場全体に広げて、放射性物質を付着拡散させないという発想。「福島が加害者になってはいけない」というテーゼ、感動しました。詩人の和合亮一との対談でも言われている「ふたをされる」という、問題放棄の仕方、東京オリンピック招致決定で、いよいよ現実と成っている今日この頃です。
  • 「岡本綺堂読物集二/青蛙堂鬼談」(岡本綺堂著、千葉俊二編、中公文庫)
    近年、昔読んだ本をそれとは気づかず再読することが多い。表紙の山本タカトの艶かしいボブカット少女の絵(『一本足の女』)に魅かれて、衝動買いしたものの、読めば八割方記憶が甦って来ました。『一本足の女』は『笛塚』と同じく、所謂「妖刀もの」のヴァリエーションですが、庄兵衛と不具の少女お冬との目合(まぐわい)を、もう少し掘り下げて描写していたら、クローネンバーグ好みの異端文学として突出していたことでしょう。それは『笛塚』の2人の若侍、彌次右衛門と喜兵衛との同性愛的な関係にも言えることです。勿論、そこまで深入りしたら、それは綺堂ではなくなってしまうのです。
  • 「前キリスト教的直観/甦るギリシア」(シモーヌ・ヴェイユ著、今村純子訳、法政大学出版局)
    日本には「本地垂迹説」というのがあります。インド発祥の仏教やヒンドゥー教を日本の風土に接ぎ木する方便として、「大日如来は天照大御神のことなり」と宛がって行きます。ヴェイユも古代ギリシアの文学や思想の中に、キリストの十字架と受難の痕跡を探して行きます。しかも、その独自の理念を通して、当時の政治状況や社会環境を解読することさえしています。例えば、自己放棄による善と幸福への到達について語る時、彼女は聖フランチェスコを思い、「見えなくなりたければ、貧しくなるにしくはない」とのスペイン俗謡を引用します。スペイン市民戦争に参加した時代に覚えたのでしょう。「十字架上の苦悶は、復活よりもはるかに神的なものである。それは、キリストの神性が極まる一点である。今日、栄光なるキリストは、わたしたちの目から呪われたキリストを覆い隠してしまっている」。まさしくヴェイユの「十字架の神学」です。
  • 「百鬼園百物語/百濶異小品集」(内田百闥、東雅夫編、平凡社ライブラリー)
    「子供に神秘的な恐怖を教えたい。その為に子供が臆病になっても構わない。臆病と云う事は不徳ではない。のみならず場合によれば野人の勇敢よりも遥かに尊い道徳である。」―この巻頭言を目にして即買ってしまいました。『豹』では、牧師と法華の太鼓たたきが喰われます。多分、百關謳カ、五月蝿い奴が嫌いなのですね。それにしても、豹の皮の下に別の得体の知れぬ何かが入っているという発想の怖いこと。『キャットピープル』の先駆です。巨大鰻が日比谷のお堀から這い上がって来る『ウルトラQ』もどき、漱石の『夢十夜』を髣髴とさせる『柳藻』も良い。裏切った女の幼い弟を山奥に捨てて来る『残照』の後ろめたさと言ったら、これ以上ないくらい気持ち悪い。百關謳カ、愛猫家かと思っていたら、猫の腹を蹴ったり包丁で刺し殺そうとしたりする話もあります。
  • 「大伽藍/神秘と崇厳の聖堂讃歌」(ジュリス=カール・ユイスマンス著、出口裕弘訳、平凡社ライブラリー)
    大学時代に田辺貞之助訳の『彼方』を読みました。『彼方』では、悪魔学と黒ミサの世界にいた主人公、ディルタルが、この作品では、敬虔なカトリック信者になっていて、遂にはベネディクト派の修道院に入ろうと言うのですからオドロキです。シャルトル大聖堂の彫刻とステンドグラスについての象徴学的・美術的・信仰論的な論述が延々と続くのです。それにしても、こんな本、聖書と聖人伝と聖画と教会史を知らない人が読んでも、全く理解できませんでしょう。プロテスタント側から見れば、偶像崇拝以外の何ものでもありません。非カトリック教徒としては、グリューネヴァルトとレンブラントを褒めてくれているのが、せめてもの慰めか。
  • 「ヒストリエ」第8巻(岩明均作、講談社)
    ビザンティオン・ペリントス攻略戦は、堅固な城塞とアテネ海軍の奇襲によって、マケドニア惨敗。スキタイ遠征も帰途上のトリバロイ奇襲によって大損害を蒙る。そんな負け戦の続く中、エウメネスの慧眼と活躍が際立って来る訳です。特に、トリバロイ戦では、人事不省のアッタロスさんの名前を騙って、敵軍を退却させるのに成功します。ところで、これって「名探偵コナン」と毛利小五郎の関係ですよね。
  • 「シュトヘル」第8巻(伊藤悠作、小学館)
    天水の城門を攻撃するモンゴル(西夏人を先兵にしている)が、金国人を楯にして守備隊の弓兵に対抗する場面は、『ブラックホーク・ダウン』のソマリア民兵、『最愛の大地』のセルビア兵を思い出しました。ナランとトルイがシャーマン(巫者)の村に夜襲をかけて住民虐殺の数を競うのですが、殺した者の耳を削ぎ落として集めます。これも、豊臣秀吉の「朝鮮征伐」(文禄・慶長の役)を思い出します。
  • 「あなたに似た人〔新訳版〕U」(ロアルド・ダール著、田口俊樹訳、ハヤカワ文庫)
    『満たされた人生に最後の別れを』の原題は「Nunc Dimittis」、「ルカによる福音書」3章の、幼児キリストに相見えた老シメオンが「主よ、今こそあなたは、お言葉通り、この僕を安らかに去らせて下さいます」と歌う讃美の詩です。勿論、ダールが使うからには、大変な皮肉と成っています。年老いた独身男性がおバカな復讐心に血道を上げたばかりに、長年属していた社交界から排除されるトホホな話です。私は田舎者なので、連作『クロードの犬』がお気に入りです。特に、ドッグレースで一儲けを企む話『ミスター・フィージー』は(高校時代、夢中で読んだ)アラン・シリトーのような味わいもあって、無惨な幕切れながら、不思議な人生の哀歓を湛えています。
  • 「昭和史/1926―1945」(半藤一利著、平凡社ライブラリー)
    辻正信と田中新一は、関東軍が壊滅的に敗北したノモンハン事件の作戦参謀でありながら、その責任を問われることなく、そのまま太平洋戦争、ガダルカナルやインパールの作戦参謀となり、再び数十万の将兵を死地に追いやることになります。どうして日本国の権力組織は、こうも性懲りもなく同じ失敗を繰り返すのでしょうか。因みに「反軍演説」で知られる斎藤隆夫は、曽祖父が支持者だったらしく、私の実家にもよく出入りしていたようです。親米派の外務官僚として名前が挙げられている堀内謙介は、蒋介石の中国政府との休戦工作「トラウトマン工作」で知られる人物ですが、わが行人坂教会の有力会員でした(1979年召天)。
  • 「時を生きる種族/ファンタスティック時間SF傑作選」(ロバート・F・ヤング、フリッツ・ライバー他著、中村融編、創元SF文庫)
    やはり、T・L・シャーレッドの『努力』が傑出しています。それにしても何と地味な邦題でしょうか(原題はE for Effort)。解説によると、これ1作だけの一発屋らしいのですが、歴史的傑作であることは疑いの余地がありません。タイムマシン・カメラで歴史のエポックをフィルムに収めることが出来たらどうなるかというネタです。映画ファンとしては、とても楽しい筋立てです。結局、映画の愉しみは「のぞき趣味」なのですが、それを政治や軍事の世界でやったら、永遠の反権力闘争になる訳です。ヤングの『真鍮の都』、クリンガーマンの『緑のベルベットの外套を買った日』は少女マンガそのものでした(ほめ言葉です)。
  • 「オタク・イン・USA/愛と誤解のAnime輸入史」(パトリック・マシアス著、町山智浩編訳、ちくま文庫)
    雑誌「映画秘宝」を定期購読していた時代に、彼の連載コラムは読んでいました。深作欣二の『宇宙からのメッセージ』について綴ったくだりで転げ回って笑ったのを覚えています。「…子供の目から見ても、狂っていた。宇宙を飛ぶ帆船、ダボシャツにステテコの宇宙チンピラ、顔を銀色に塗った東洋人が演じるガバナス星人…。それはSFというより麻薬のバッド・トリップのようだった。」―この文章も入っていますが、比較文化論として優れた本です。異文化に対して基本的に排他的であるアメリカ社会が、日本文化の中で醸成されたファンタジーを、どのようにして受容して行ったかという、愛とエロスに満ちた文集です。
posted by 行人坂教会 at 16:22 | 牧師の書斎から