2013年12月21日

幽径耽読 Book Illuminationその11

  • 「氷川清話/付勝海舟伝」(勝海舟談、勝部真長編、角川ソフィア文庫)
    「行政改革ということは、よく気をつけないと弱いものいじめになるよ。…全体、改革ということは、公平でなくてはいけない。そして大きいものから始めて、小さいものを後にするがよいよ。言いかえれば、改革者が一番に自分を改革するのさ」。日本の政治家と官僚たちは真逆のことをやっているのですね。これが明治時代の談話だから凄い。この人、どこまで遠く見えてたんだろ。「功名をなそうという者には、とても功名はできない。きっと戦いに勝とうという者には、なかなか勝ち戦はできない。…せんじつめれば余裕がないからのことよ」。勝部による小伝も抜群に面白いです。江戸城明け渡しの際、西郷との談判決裂時の策として、慶喜の英国亡命、江戸の焦土戦術、住民の避難誘導まで準備した上で、臨んでいたとは…。
  • 「ファビュラス・バーカー・ボーイズの地獄のアメリカ観光」(町田智浩+柳下毅一郎著、ちくま文庫)
    私がジョン・ウォーターズの『ピンク・フラミンゴ』を見たのは80年代前半、京大西部講堂でした。確か同時上映はトッド・ブラウニングの『フリークス』だったと思います。その頃、ケネス・アンガーの諸作品も一気に観たのでした。ところで、この本のコンセプトは、アンガーの『ハリウッド・バビロン』ですよね。ウォーターズのインタビュー記事を読むと、「変態だったりバカだったりして(笑)、生きづらい連中と出会って、彼らと映画を作ることで救われたんだと思うよ」という感想(ウェイン町山)が出て来て、大いに納得。それから映画以外でも、1999年の段階で、アウトサイダー・アートについて、繰り返し採り上げていてビックリ。犯罪者、パンクロック、ポルノ、スキャンダル…異端の文化史なのですが、見世物としての映画(エクスプロテーション)の復興を強く念じないではいられません。
  • 「日本人とキリスト教」(井上章一著、角川ソフィア文庫)
    解説の末木文美士が、今の日本人は「お寺と神社と教会とをきちんと使い分けているのだ」という「神仏キ習合」論を展開してくれます。実際、うちの教会のイヴ礼拝の出席者は大半がご近所さん(未信者)です。如何にしてキリスト教信仰を日本文化の中に接ぎ木するかについて、互いにとってより善きシンクレティズムの在り方を、日夜、模索している私にとって、大変に参考になりました。特に禁教下の江戸時代における、切支丹についての言説の分析は瞠目しました。私自身、魔法使いのような帽子とマントの装束で歩き、「邪教」のイメージを意識的に振り撒いています。プロテスタント教会には、もう少しロマンチシズムとエキゾチシズムのスパイスが必要です。
  • 「冬虫夏草」(梨木香歩著、新潮社)
    山奥に生まれる鉱山町の話が出て来ます。その社会の活気は「未来永劫続くようなものではない。儚いものだ。あれも、鉱床が尽きるまでの話だ。…幻の町だ」。私の生まれ故郷にも、神子畑、明延、生野という鉱山町がありました。鉱夫とその家族のために、スーパーマーケット、共同浴場、映画館までもあって、私たちから見ると都会のようでした。今は跡形もありません。「衰えていくものは無理なく衰えていかせねばならぬ」という高堂の言葉もありました。この国だけではない、世界中、衰退のペースが加速し過ぎています。衰退は悪いことではありません。必要で自然なプロセスなのです。でも、その一事を拒絶し、更なる「成長」を目指そうと無理をするので、却って急激な崩壊を招いて、被造物の何もかもが悲鳴を上げているように思います。
  • 「刻刻」第7巻(堀尾省太作、講談社)
    「神ノ離忍(カヌリニ)」化した佐河と飛野の戦闘は、予告画通りの怪獣映画的描写でした。それ以上に、過去を告白する佐河と樹里が対峙する緊迫した描写と台詞、圧巻でした。「ありもしない信頼にすり変えて隠そうとしていたのは、お互い1ミリも妥協できないという現実」。この樹里の台詞、どうしたら、こういう言葉を思い付くのでしょうか。
  • 「怪奇小説日和/黄金時代傑作選」(西崎憲編訳、ちくま文庫)
    ノルウェーのヨナス・リーの『岩のひきだし』は、魔女に魅入られて以来、クリスマスの前々日に姿を消す男の話。M・ボウエンの前世の因縁もの『フローレンス・フラナリー』も、H・ウォルポールの魔術ネタ『ターンヘルム』も、なぜかクライマックスはクリスマスです。E・ボウエンの『陽気なる幽霊』もクリスマスの話。季節柄ピッタリでした。M・P・シールの『花嫁』は、教会の日曜学校の校長をしている男が、下宿先の姉妹二人から同時に愛される話です。しかも、この男、結構ズルイのです。「創世記」のヤコブとレア、ラケル姉妹の話が下敷きに成っています。R・F・エイクマンの『列車』を読んで、昔のホラー映画『女子大生危険なサイクリング』を思い出しました。W・W・ジェイコブズの『失われた船』は短いけれど圧巻です。申し分のない文学です。
  • 「ハカイジュウ」第11巻(本田真吾作、秋田書店)
    トール型(巨大特殊生物)の群れと戦うフューズ・シリーズ…。大変なスペクタクルが展開されると思いきや、意外に面白くない。多分、一体一体のモンスターに思い入れを感じる暇もないからでしょう。それは、各フューズについても言えることです。もはや戦闘はドラマの背景でしかなく、グロテスクも凡庸化するのだなと思いました。物語は佳境なのに面白くない、切り株描写が少ないからでしょうか。
  • 「エンニオ・モリコーネ、自身を語る」(エンニオ・モリコーネ+アントニオ・モンダ著、中山エツコ訳、河出書房新社)
    ファンにとっては堪えられない本。例えば、『天地創造』のために書いた曲を、23年後の『サハラの秘宝』に使ったとか、『続・夕陽のガンマン』のエレキギターの音は、磁石を側に置いて弾いたとか、『シシリアン』のテーマはJ.S.バッハの「フーガ/イ短調」前奏曲から生まれたとか、『ガンマン大連合』と『新・夕陽のガンマン/復讐の旅』に、グレゴリオ聖歌の旋律要素が入っているとか、パゾリーニが『テオレマ』に「モツレク」を入れたのは、芸術的な理由ではなく、厄除けのためだったとか(共産党員のくせに!?)…。訳者、よく頑張っていますが、『ピオヴラ』シリーズ(p.187)は『対決』という邦題でビデオ化されていたことを指摘して置きます。因みに、ウェルトミューラーの『バジリスク』の主題歌を歌ったファウスト・チリアーノ(p.48)こそは、『特捜最前線』の「私だけの十字架」を熱唱した人なのです。
  • 「西洋中世奇譚集成/皇帝の閑暇」(ティルベリのゲルファシウス著、池上俊一訳、講談社学術文庫)
    名古屋の「ひつまぶし」を、いつも「ひまつぶし」と読んでしまう私にピッタリの本。12世紀のヨーロッパ各国を遍歴した知識人が、当時、耳にした「驚異」(mirabilia)の数々を蒐集編纂したのです。「馬頭人類」はスウィフトやコクトーを思い出させます。「ドラクス」は日本の河童か中国の水虎に似た妖怪ですが、子孫の乳母として働かせるために、人間の女を水底に引き摺り込んで誘拐します。動物に育てられた子ならぬ、悪霊に養育された娘も登場します(やはり、言葉は忘れています)。この話、オチが怖いです。ダマスカスの教会にある聖母像は、生身の乳房から癒しの油を分泌します。「エペルヴィエ城の貴婦人」は、必ずミサの途中で退席してしまいますが、正体は悪霊の化身で、強引に引き止めると、礼拝堂を破壊して、奈落へ消え行きます。
  • 「日本怪談集/幽霊篇」下巻(今野圓輔著、中公文庫)
    巻頭の「防空頭巾の集団亡霊」(三重県津市、1963年「女性自身」)が圧巻です。その他、アジア・太平洋戦争の戦死者の亡霊について多くのページが割かれています。日本人が「幽霊」について考察する場合に避けて通れない事柄ではあるのでしょう。それにしても、朝鮮人、中国人、アジア諸国の外国人は幽霊に成りません。多くの惨禍をもたらした張本人である日本人の前に化けて出ないのは、どうしてなのでしょうか。やはり、幽霊とは、日本人の自己言及に過ぎないのでしょうか。著者の指摘するように、交通機関の発達と共に、幽霊も電車、タクシー、飛行機に出現します。いずれ宇宙船にも同乗して来るはずです(『ゴースト・オブ・マーズ』か)。
  • 「日本怪談集/幽霊篇」上巻(今野圓輔著、中公文庫)
    著者が福島県生まれの人のため、相馬地方の山中郷、現在の飯館村の話、双葉郡や相馬郡の話が多く採録されています。原発の出来る前は、この地方、本当に辺鄙な所だったのでしょうね。臨終時に現われて、知人を訪ねたりする幽霊を、秋田県鹿角地方では「オモカゲ」と言うのだそうです。『HUNTER×HUNTER』の映画版に、そんなキャラがいましたね。神奈川県立博物館は横浜正金銀行(東京銀行)の建物だったそうですが、関東大震災の大火災で避難した人々は地下室に…。僅かに開いて空気取りをした窓からは、焼死していく外の人々の断末魔が延々と聞えて来たそうです。これはコワイ。
posted by 行人坂教会 at 09:57 | 牧師の書斎から