2014年03月23日

キリスト教こんにゃく問答]W「煉獄と地獄」

1.地獄篇

昨年でしたか、『地獄』(千葉県安房郡三芳村延命寺所蔵、白仁成昭・中村真男構成、宮次男監修、風濤社)という絵本がリバイバルヒットしました。30年前に出た絵本の復刻です。死んだ五平が生き返り、見て来た地獄の恐ろしさを語り、皆に「命を粗末にするな」「悪事を働くな」と言って聞かせる、些か説教臭い筋立てになっています。

因みに、この「地獄絵図」を所蔵する延命寺(南房総市)は、『南総里見八犬伝』のモデルとなった里見家の菩提寺だそうです。曹洞宗のお寺です。1784年(天明四年)に、江府宗庵という絵師が「地獄極楽絵図」を製作したそうです。

「天明」年間と言えば、「天明の大飢饉」(1782〜88年)です。岩木山、浅間山の相次ぐ噴火が冷害をもたらしたとされています。最近では、地球規模の視点で、アイスランドのラキ火山、グリムスヴォトン火山の噴火によって発生した塵が成層圏に達し、北半球の低温化をもたらしたことも言われるようになりました。フランス革命の原因の一つとも言われますが、この「天明の大飢饉」によって、日本では、東北地方を中心に推定2万人が餓死したと言われています。つまり、この絵巻物の地獄のリアルな描写は「大飢饉」の現実を反映したものだったのです。

三浦哲郎の『おろおろ草紙』(講談社)は、私が最も強く影響を受けた本の一冊ですが、ここには「天明の大飢饉」の際、南部藩で頻発した人肉食事件の顛末が詳しく描かれています。これには、幼少期からホラー一筋に歩んで来た私の血ですら凍りついたものです。親が子の肉を喰らい、子が親の肉を喰らいます。最後には「脳味噌の塩辛」を漬け込んでいた鬼婆まで登場します。

安房延命寺の「地獄絵図」に描かれている「なます地獄」「火あぶり地獄」「釜ゆで地獄」「針地獄」を見ていると、鬼たちが亡者たちを切り刻んでお膾(なます)にしたり、釜あげうどんにしたりしています。側では、亡者たちの体をムシャムシャ食べている鬼もいます。そして「塩辛」の樽も控えています。間違いなく「天明の大飢饉」が反映されているのです。

京都、東京、奈良の国立博物館には、有名な「餓鬼草紙」や「地獄草紙」が展示されていますが、本来は独立した絵図ではなく、12世紀に確立した「変相図」とか「六道図」といった仏教絵図の一つなのです。しかし、近世の「地獄絵図」は明らかに、現世を描いているのです。丸木位里・丸木俊夫妻の「原爆の図」「南京大虐殺の図」「アウシュビッツの図」等も、その系譜上にあるのではないでしょうか。

2.煉獄篇

生き返った五平の「地獄レポート」と同じような話が、新約聖書に載っています。「ルカによる福音書」16章19〜31節「金持ちとラザロ」の話です。死後、貧乏人のラザロは天に召されますが、反対に贅沢三昧の生活を送った金持ちは「陰府」で「炎の中で悶え苦しめ」られるのです。金持ちは、自分が貧乏人のラザロを憐れむこともなく、「遊び暮らしていた」ことを悔いて、アブラハムに言います。「未だ世に残っている兄弟たちに、何とか死後の世界のことを伝えてやりたい。そうすれば耳を傾けるでしょう」。ところが、アブラハムは冷淡に言い放ちます。「律法と預言者(聖書)に耳を傾けないのなら、たとえ死者から復活する者があっても、言うことを聞かないだろう」。

お話の発端は五平の話と似ていますが、結論が全く逆になっています。どんなに「地獄が恐ろしい」と脅しても、「死後の世界」や「来世」を説いても、そんなことで人間は悔い改めたりはしないのです。五平がお地蔵様(地蔵菩薩)の執り成しで、現世に生きて帰れたのと違って、金持ちが生き返ることは出来ません。それどころか、金持ちの度重なる懇願にもかかわらず、遺族への警告すら「やるだけ無駄」とばかりに拒絶されてしまいます。何という冷徹さでしょうか。

さて、この聖書のエピソードから「アブラハムの懐」(the bosom of Abraham)という慣用句が生まれました。貧乏人ラザロが死んだ後、「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた」と書いてありますが、「すぐそば」を、英語の「欽定訳/King James Version」や「現代英語版/Today’s English Version/Good News Bible」等が「アブラハムの懐」と訳しているのです。

現代では「アブラハムの懐」は「天国」と受け止められています。ところが、どういう訳か、中世には「アブラハムの懐」と言ったら「煉獄」を意味していたそうです。中世の人たちが聖書本文を読んでいないことが丸分かりですね。

さて、問題は「煉獄」です。プロテンタントの教理では完全に否定されていますが、カトリック教会では今でも信じられています。ラテン語で「Purgatorium/プールガートーリウム」と言いますが、罪の償いを果たすまで、霊魂が苦しみを受け、それによって浄化される場所を言います。「プールゴー/purgo/贖罪する」という動詞は、元々「洗浄する、掃除する」という意味ですから、私は「人間洗濯機」と呼んでいます。「天国の待合室」と言った人もいます。

そのまま「地獄流し」(『ゲゲゲの鬼太郎』か、はたまた『地獄少女』か)になるような極悪人ではなくて、小さな罪を悔い改め切れていない普通の人が行く所なのです。例えば、臨終の床で罪を告白して悔い改めたものの、地上において悔い改めの業を為し得ないので、「煉獄」に行って「浄罪の火によって清められる」(アレクサンドリアのクレメンス)と言われています。オリゲネス、アウグスティヌス、トマス・アクィナス等も「煉獄」の存在(有用性)を認めています。しかしながら、プロテスタント教会は、信仰によってのみ(Sola fide)救われる「信仰義認」ですので、当然「煉獄」の教義は否定されたのです。

カトリックの教義によれば、あの金持ちが「陰府」の「炎の中で悶え苦しんで」いるのは「煉獄」の「浄罪の火によって清められ」ていることになります。すると、やがては彼も「天国」に迎え入れられるということになる訳です。

3.陰府篇

日本では最近、仏教の門徒や神道の氏子の葬儀なのに、弔辞で「天国の誰某さん!」と呼びかけている人がいます。本当は、仏教にも神道にも「天国」はありません。しかし、驚くなかれ、旧約聖書の信仰にも、「地獄」「煉獄」はもとより「天国」すらも存在しませんでした。あるのは「陰府/シェオル」だけです。日本の記紀神話の「黄泉」と同じく地下世界(アンダーワールド)のことです。

「陰府」には、後の「地獄」や「煉獄」に通じるような刑罰的な要素は全くありません。義人も悪人も死ねば等しく「陰府」に行きます。「滅び」「墓穴」「暗黒の寝床」「希望のない世界」「塵の上の横臥」「地の深き所」等と表現されるばかりです。

ところが、後期ユダヤ教に「地獄/ゲヘナ」が登場するのです。「ゲ・ヒンノム/ヒンノムの谷」が転訛したものです。エルサレムの郊外「ヒンノムの谷」では、自分の子どもを燔祭に奉げるというような異教の人身御供が行なわれていたそうです。それを目撃した人は、まさしく「地獄だ」と思ったはずです。またしても「地獄」は現実の反映だったのです。

そして「天国」が出て来るのも、後期ユダヤ教の終末論の中からなのです。(つづく)


【会報「行人坂」No.248 2014年3月発行より】

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