2014年03月26日

羊たちの沈黙

1.卒業の季節

「卒業」と聞いたら、空港のエスカレーターを昇るダスティン・ホフマンの佇まいに、サイモン&ガーファンクルの歌う「サウンド・オブ・サイレンス」が被さるという、私も古い世代に属しています。思わず鶴田浩二の「こんなことを申し上げる私も/やっぱり古い人間でござんしょうかね」という苦笑いの台詞が浮かびます。ところで、「サウンド・オブ・サイレンス」の歌詞が「ヨブ記」4章12節以下から採られているという(旧約聖書学の大家)浅野順一先生の珍説、ご存知ですか。

それからまた、「卒業」と聞いたら、尾崎豊の「これからは何が俺を縛りつけるのだろう/あと何度自分自身を卒業すれば/本当の自分にたどり着けるのだろう」という、狼の遠吠えのような絶叫を思い出してしまう、私もおります。あれには今思い出しても、胸を掻き毟られるような悲痛さがありました。いずれも大昔の「卒業」です。

アメリカン・ニューシネマの代表作、『卒業』(The Graduate)が1967年、日本の公開が1968年、リバイバルが1971年でした。尾崎豊の荒ぶる名曲、『卒業』リリースは1985年、シングルCD化が1989年、再リリースが1999年でした。いずれの「卒業」にも既成の良識や価値観への異議申し立てが込められていたのですが、昨今、そういう反逆めいたものは、本当に流行らなくなりましたね。

2.卒業ソング

それどころか、昨今は「卒業ソング」と呼ばれるジャンルが、日本の音楽業界の中に厳然と確立していて、それが『仰げば尊し』や『蛍の光』等と共に、そのまま卒業式で使用されて、感動の再生産がされる時代になりました。

それでは、具体的に挙げてみましょう。改めて調べてみると、「卒業ソング」のジャンルが確立して、意識的なセールスが始まったのは、2000年前後からでした。kiroroの『未来へ』(1998年)、アクアマリンの『COSMOS』(1999年)、森山直太朗(森山良子の息子)の『さくら』(2003年)、レミオロメンの『3月9日』(2004年)、ゆずの『栄光への架橋』(2004年)、コブクロの『桜』(2005年)、奥華子の『ガーネット』(2006年)、川嶋あいの『旅立ちの日に…』(2006年)、アンジェラ・アキの『手紙〜拝啓 十五の君へ〜』(2008年)、いきものがかりの『YELL(エール)』(2009年)、AKB48の『桜の栞』(2010年)…。

いずれ劣らぬ名曲です。実際、混声二部合唱曲とかに編曲されて、卒業式に歌われているのです。「来賓の方々」「ご家族の方々」も、うっとりとして耳傾けることの出来る作品に仕上がっています。アンジェラ・アキの『手紙』は2008年の、いきものがかりの『YELL(エール)』は2009年の、NHK全国学校音楽コンクール中学生の部の課題曲です。出会いと別れの哀歓を上手に謳い上げていますし、地味だけど頑張っている人への応援歌であったりもします。

とにかく、若者自身をも含む、広い世代の支持を受けて「卒業ソング」が売れているのです。けれども、どれもこれも「お利口さん」な歌ばかりで、悶死した尾崎豊のように、誰彼構わず牙を剥いて噛み付くような歌は、今や全く聴かれなくなってしまっているのです。いや、探せばあるのでしょう。しかし、少なくとも音楽業界メジャーからは駆逐されて、多分、アンダーグラウンドに追いやられてしまっているようなのです。そこに、私は、消費経済と権威主義との癒着を思わせる、一種の不健全さを感じないではいられません。

3.卒業式の罠

我が家の息子兄弟も、最近、それぞれに中学校と小学校を卒業しました。長男の卒業式には出られなかったのですが、二男の卒業式には出席しました。『君が代』の時には起立して、自作の替え歌を(裏声で)披露しました。歌詞の内容は『スター・ウォーズ』です。「おらがヨーダ/小さいけれども/強い騎士だ/ジェダイ・マスター/May the Force be with you(フォースと共にあらんことを)/ウーウウゥー」。

冗談はさて置き、卒業式は「東日本大震災の犠牲者を思っての1分間の黙祷」で始まりました。悪いことではありませんから、一応、私も真面目に黙祷を奉げたのですが、終わった瞬間に、一体、自分は誰のことを思っていたのだろうかと、違和感を抱かざるを得ませんでした。「東日本大震災の被災者」というカテゴリーが、余りにも十把一絡げです。そこに、何だか、政府主催の「全国戦没者追悼式」や靖國参拝と似た雰囲気があったのです。

校長が卒業生の門出を祝しての式辞の中で、「日本国の、大震災の復興は、君たちの双肩に掛かっている」と熱く語っていました。それも「皇国の興廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」という訓示を思い出させるものでした。今の大人が責任を丸投げにして、未来に「負の遺産」(放射能とか財政赤字とか)を押し付けようとしているかの如くです。

「日本のために」「日本の将来のために」と、過度に「日本」が強調されていたようにも思いました。二男の同級生は国際色豊かで、私の知る限りでも、50名中5名の「ハーフ&ハーフ」(ロシア系、米国系、韓国系、中国系、スペイン系)がいるのに…。ナショナリズムの鼓舞は全く不要に思われました。

オーテス・ケーリの『真珠湾収容所の捕虜たち』(ちくま文庫)という本の中に、こんな件(くだり)があります。ケーリさんが、ある留学希望の学生に志望理由を英文で書かせた時の話です(内容から見て、1950年の文章)。「『日本のために』ということが書いてあった。なぜ『世界人類のため』と書けないのだろうか。私が、いつもゴツンと来るところだ」。

日本社会は今や、近視眼的に国粋化しつつあります。そして、尾崎豊の言う「縛られたかよわき子羊」は、何も深く考えることもないまま、それを自然に受け入れているのです。

牧師 朝日研一朗

【2014年4月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 06:23 | ┣会報巻頭言など