2014年04月10日

幽径耽読 Book Illuminationその14

  • 「レンタルチャイルド/神に弄ばれる貧しき子供たち」(石井光太著、新潮文庫)  真の「ルポルタージュ文学」というのは、こういうものなのでしょう。以前、著者の『神の棄てた裸体』を読んだ時には、その凄まじい内容にもかかわらず、自分の中では「ルポ」と言って済ませていたのです。しかし、ここに登場するラジャ、マノージ、ナズマ、スマン、ムニ、ソニーといった人間たちの圧倒的な存在感、肉体性はどうでしょう。特に、ラジャとマノージについては、第1部(2002年)、第2部(2004年)、第3部(2008年)と、出会いから6年に及ぶ積み重ねがある訳で、読者にとっても感無量です。丁度、先日、インドの代理母出産ビジネスの実態告発ドキュメントを見たばかりでした。インドの女性たちが置かれている差別的な境遇に、夫婦して仰天したものです。あれは中産階級。「レンタルチャイルド」は、施しを受けさせるために、幼児の肢体切断や身体損傷を行なう最下層の世界です。それでも、同じ社会、私たちと同じ世界なのです。
  • 「アンのゆりかご/村岡花子の生涯」(村岡恵理著、新潮文庫)  以前、マガジンハウス版は、妻から借りて拾い読みし、説教ネタに使ったことがあったのです。6歳の愛児、道雄が疫痢で死ぬ場面です。大森めぐみ教会での葬儀では、「主は与え主は取り給ふ。主の御名はほむべきかな」(ヨブ記1章21節)の式文祈祷に対して、花子は「奪うなら、なぜ与えた」と呻いたとも伝えられています。しかし、その司式者、岩村清四郎牧師自身もまた、その数ヶ月前に愛息、恵を疫痢のために奪われていたことが知られています。花子の初恋の人が澤田廉三で、その後の夫人が澤田美喜として、エリザベス・サンダース・ホームを設立する訳ですが、花子と美喜との親交とか。あるいは、女流文学者グループに主義思想を超えて、多士多才な女性たちが結集している辺りとか、現代には見られないネットワークです。
  • 「半藤一利と宮崎駿の腰ぬけ愛国談義」(半藤一利・宮崎駿談、文春ジブリ文庫)
    海岸線が長すぎる日本に「国防」は無理、資源のない日本に「海外派兵」は無理、海岸線に原発が林立している日本に「紛争」は無理。この端的で、冷徹な論理性にシビレます。司馬遼太郎の言葉らしいですが、「日本はお座敷の隅の、ちょっとトイレが臭うようなところで、でも風通しのいいところに座っていたらいんだよ」という辺りの発想、分かりますかね。縁側と渡り廊下の近くですから、いつでも抜けられるのです。ワシントン軍縮会議調印(1922年)の御蔭で、隅田川の鉄橋インフラが整備されたとか、三国同盟に批判的だった海軍士官を寝返らせたのは、ナチスの「ハニー・トラップ」だったとか(これって、まさに「サロン・キティ」じゃん)、『風立ちぬ』の堀越二郎の夢に出るのは「ノモンハンのホロンバイル草原」だとか(泣けました!)、日中戦争開始当時(1937年)は日本のGNPが過去最高になった年だったとか…。
  • 「ゴーレム」(グスタフ・マイリンク著、今村孝訳、白水社Uブックス)
    典型的な「カバラ小説」。手術後3日目の病床で読み始めたせいもあって(3冊目)、読書そのものが白日夢の如き体験でした。所謂、私たちが思い描く「巨人ゴーレム」は全く登場せず、どちらかと言えば「分身もの」なのです。ゴーレムは「幽鬼」という程度の意味に成っています。カバリストのラビ、人形遣い、悪徳医、闇商人、売女、犯罪者集団…。プラハのゲットーに蠢く奇怪な人間群像の描写にも舌を巻きます。「ヘブライ語のアーレフの文字は、片手で天上をさし、片手で下方をさした人間の姿をかたどったもので、それはつまり『天上に行なわれているとおりのことが地上にも行なわれ、地上に行なわれるとおりのことが天上にも行なわれている』ということを意味している」。けども、そのポーズって、釈尊の「天上天下唯我独尊」でもありますよね(因みに、作者はプロテスタントから大乗仏教への改宗者でした)。巻末の訳者解説(1990年記)に「ヘブライ語などについては森田雄三郎氏に…懇切なご教示をいただいた」と、今は亡き恩師のお名前に出会い、森田先生がヒレルのように、今、病床にある私を、どこかで見守って下さっているように感じられ、不覚にも嗚咽した次第です。「ユダヤの言葉が子音だけで書かれているのを偶然だとお思いですか?―自分ひとりに定められている意味を開示してくれる秘密の母音を各人が見いだすためなんですよ」。
  • 「時が新しかったころ」(ロバート・F・ヤング著、中村融訳、創元SF文庫)
    ハインラインの『夏への扉』と同趣向のロマンティック時間SF。それにしても、この小説、以前、確かに読んだよなあと思いながら読了。何のことはない。同じ内容の中編を作者自身が長編化したものなのです。時間調査員が人類の存在しないはずの白亜紀で2人の姉弟を救助。2人は火星の「グレーター・マーズ」国の王女と王子で、凶悪テロリストに誘拐されて来ていたのです。自称「トラックの運ちゃん」が行き掛かりから、この幼い姉弟を体を張って守ることになるという筋立てが泣かせるのです。主人公が姉弟に「正式のアメリカン・インディアン方式」のキャンプ(要するに野宿)を体験させて上げる場面が秀逸です。食後に枝先にマシュマロを刺して焼いて食べさせるのですが、北海道時代、カナダ合同教会のウイットマー宣教師(先住民の文化にも造詣が深い)とご一緒したキャンプファイアを思い出しました。
  • 「亜米利加ニモ負ケズ」(アーサー・ビナード著、新潮文庫)
    彼の『ベン・シャーンの第五福竜丸』(集英社)の絵本を、以前、小学校の読み聞かせで演ったことがあります。その時、私は生徒たちの関心を引くために、白眼ゴジラのラジコンを持って行って、そこからビキニ環礁水爆実験を説き起こしたのでした。「一文にもならないのに、そこまでするか」というサービス精神に溢れているのは、この作者の思索も同じ。この人の文に接すると、アメリカを否定して日本人に成るのでもなく、日本を見下してアメリカ人に成ろうとするのでもなく、両者を慈しむことが出来るのではないでしょうか。山村暮鳥の「病床の詩」、堀口大學の「お七の火」に寄せる彼の愛着を見ていると、本当にこの人は詩人なのだなあと思われます。しかも、彼の魂は、北米の自然を通してアメリカ先住民の霊とも繋がっているのに違いないと思うのです。
posted by 行人坂教会 at 20:29 | 牧師の書斎から