2014年05月24日

心のバリアフリー

1.車椅子

二男が車椅子で生活するようになって早や6年の歳月が過ぎました。小学校2年生だった彼も、何とか生き永らえて、この春から中学1年生になりました。小学校に復帰した小学2年生の3学期には、1日登校しては1日休むというような生活でしたが、現在は、かなり免疫力が付いたと見えて、殆ど病欠がありません。教会の皆様のお祈りとお励まし、神さまの御守りの御蔭と感謝申し上げます。

さて、リハビリに連れて行ったり、お散歩に出たり、映画に行ったりする度に、車椅子から東京の街の荒廃ぶりが見えて来ます。正直、よくぞ、パラリンピック等を招致したものだと呆れ返ります。多分、東京都庁も日本国政府も「オリンピックがカレーライスで、パラリンピックは福神漬け」くらいにしか考えていないと思いますが、バリアフリーに関して、世界の意識は向上しています。そんな中、1兆円もの予算を投入した上で、認識の低さを世界にアピールして笑いものにならなければ良いが…と危惧しています。

2.バリア

地方暮らしだと、必然的に自家用車を使うことになりますが、東京では、公共交通機関を利用することが大切だと思います。昨年まで、妻は意識的に公共交通機関を利用して、二男と共にリハビリに通っていました。その方が二男にとっても、外界からの刺激が多くあって良いのです。けれども、そんな中で、妻から繰り返し聞かされたのは、駅のエレベーターを利用する人たちのマナーの悪さです。

当然ながら、車椅子の人は(ある程度、ベビーカーの親たちもでしょうが)エスカレーターや階段を使ってプラットホームに辿り着くことは出来ません。ところが、所謂「健常者」の大人たちが(時には割り込みまでして)「我先に」とエレベーターに乗り込む場面に遭遇するのです。車椅子でエレベーターを待っている人間がいるのに、そんな存在は見えないかのように、スマホとかに見入っているのです。あるいは、家族だけ、連れ合いだけで自閉的世界を作って、お喋りに余念が無いのです。

自律歩行が出来ても杖を必要とする人、手押し車や歩行器を必要とする人がいます。あるいは、一見「健常者」に見えても、内臓や血管に病気を抱えている人がいます。高齢者も大変なのです。しかし、そういう人たちは、動作や仕草を見れば分かります。そういう人たちではないのです。身体的には、明らかに元気な、丈夫な人が「楽だから」「速いから」という理由で、無考えにエレベーターを利用しているのです。そうそう、ガラガラとキャスターを転がして横行闊歩する、あの大きなキャリーケースの流行も、周囲への配慮と注意を著しく欠いていることが多く、危険極まりありません。

それでも、車椅子の存在にハッと気付いて、配慮してくださる人、場所や順番を譲ってくださる人もいます。そういう人たちに出会うと、もう、それだけで嬉しくなります。些細なことと思われるでしょうが、そこに幸せがあるのです。だから、私たちは、心を込めて「ありがとうございます」と申し上げます。

車椅子の人がいること等、目に入らない、まるで「透明人間」であるかように徹底的に無視した上、自分の子どもと喋り、エレベーターを家族だけで独占して乗り込む人もいます。そうかと思うと、自分の子どもを制止して、「どうぞ、お先に」と言ってくださった人もあります。確かに親の姿勢を見ていると、子どもの行く末が浮かびます。駅のエレベーターこそは、人間模様の縮図、家族模様の露出なのです

本当に色々な人たちに出会います。お互いへの配慮と注意は、自然と言葉掛けや挨拶を生み出します。その一方、車椅子を無視する人のタイプとして「コミュニケーション不全」とでも言うような症状が見えて来ます。見知らぬ他者との会話や接触を極端に嫌っている(恐れている)ようです。つまり、自分の周囲に強固なバリア(障壁)を作っているのです。

3.フリー 

段差や坂道にも苦労しますが、車椅子の息子と共に移動していて、一番悲しい思いをさせられるのは、人の心にあるバリア(障壁)です。妻も、二男との外出から戻って来て、段差や坂道などの大変さを訴えたことはありません。それは、時間をかけて慎重にしたり、遠回りをしたり、駅員さんに手伝って貰ったりすることで解決できることなのです。むしろ、辛いのは、人の冷淡で横柄な態度や心無い行ないです。

勿論、誰の心にもバリアはあります。障がい児が無垢な訳でもありませんし、障がいを持った子の親たちも、それぞれの心に強烈なバリアを持っています。自分の子よりも軽い麻痺の子を見て妬んだり、自分の子よりも重い障がいを抱える子を見て安心したりしています。結構おぞましいのです。知的障がいや言語障がいの有無によっても、肢体不自由の多少によっても、逐一、そのような感情に振り回されています。

数年前から、特別支援学校の通級に、二男を連れて行っていました。そこで、親御さんたちを見ていると、同じ種類の障がいを抱えている子たち、入院時期が重なっていた子たちのグループが自然に生まれていて、そのお母さんたちの結束力の強さに弾かれると言うか、引け目を感じることがありました。そういうのも、一種のバリアなのでしょう。これは誰にでも言えることですが、人間にとって「個」として生きることには、いつも辛さが付き纏いますから、「要塞家族」を形成したり、あるいは「セクト」によって防衛したりするのです。しかし、傍目から観ても、それが自由な関係とは思われませんでした。

どうしたら、私たちの魂は、もっと自由に成れるのでしょうか。現に私たちが囚われの身であることを意識することで、地道に壁を1つ1つ壊していくより他はありません。

牧師 朝日研一朗

【2014年6月の月報より】

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