2022年06月20日

壺を壊して【マルコ14:3−9】

「ナルドの香油」物語です。香油には、お客をもてなすためにそれを身体に注ぐ接待法がありました。ナルドの香油は高価な贅沢品です。事の発端は、ひとりの女性が高価なナルドの香油が入った石膏の壺を壊し、香油をイエスさまの頭に注いだことでした。食事の同席者たちは突然の行為に驚き、『なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は300デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに』と彼女を非難しました。

300デナリオンは当時の労働者の300日分の賃金で、 ローマ兵の年収くらいです。 厳しい指摘は、貧しい人々に施せばもっと有効に用いることができたのにというものでした。ヨハネ福音書によると彼女はマルタの姉妹のマリアです。彼女はイエスさまへの全信頼ゆえに、本能的に壺を壊したのでしょう。常識的にものを考える人たちにその行為は当然理解できませんでした。

私は、マリアの中で既に価値観の転換が起っていたと思います。高価だと考えるのは世の常識です。同じ時と場所で、マリアと彼女をとがめた人たちとの間には、二つの異なった世界が現れています。コントラストとして描かれている二つの世界の相違点をしっかり捉える必要があります。日常に埋もれた中で、その相違をはっきり理解するのは困難です。マリアが非難された時、イエスさまはこう言われました。『するままにさせておきなさい。……わたしに良いことをしてくれたのだ』。マリアの行為への意味づけです。さらに 『貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいるから、したい時によいことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない……この人はできる限りのことをした。……埋葬の準備をしてくれた』。律法世界では、貧しい人々への配慮はユダヤ人の義務でした。「落穂拾い」とか「借金の棒引き」とか、私たちを驚かすような思想です。しかし愛や奉仕は本来利害や打算とは無関係で、常識を超えたものです。そこに人間の打算が入り込む余地はありません。

日常に埋もれていると、愛と信仰の世界はいつしか見失われて行きます。マリアが香油を注いだその時は、彼女にとってもっとも重要な時でした。『わたしはいつも一緒にいるわけではない』という受難の予告が、壺を壊した行為とつながっています。私たちの生涯で自分が壺を壊す時はいつでしょうか?その時を逃さないようにしたいと思います。

秋葉正二牧師

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2022年06月06日

預言者と祭司【列王記上22:1〜9、使徒言行録1:8】

説教要旨はありません
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2022年05月30日

自己を中心に愛を叫ぶ【マルコ11:12-14、19-25】

「イエスはその木に向かって『今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように』と言われた。」マルコ11:14

イエスは実がなる季節ではなかったいちじくの木に実を期待します。しかも、実がなっていないことを知ると怒って木を枯らしてしまいます。「季節ではなかった」のですからいちじくの木に全く罪はありません。まさにここでのイエスは自己中であり、逆切れしてしまっています。

福音書は編集されている書物です。この不可解な誤解を与えかねないこの物語をカットしてしまってもよさそうなものです。聖書は古典です。何千年と揉まれてきた書物です。不思議な箇所がある場合あえて残されていると考え、そこにこそ大切なことが書かれていると思ってみるべきかもしれません。

同じ11章にヒントがたくさんあります。11章1節「棕梠の主日」の箇所で、民衆はイエスをローマ帝国をやっつけてくれる凱旋将軍のようにヒーローとして迎えますが、イエスはロバに乗ってやってきます。イエスに季節ではない期待をしていたのです。11章15節「宮清め」の箇所で、民衆はイエスを政治改革をしてくれるヒーローとして期待します。11章27節「権威についての問答」で、民衆はイエスを先代の悲劇のヒーロー、バプテスマのヨハネの再来ではないかと自己中にも期待します。しかし、イエスはそのようなこの世的なヒーローではありませんでした。そのことがわかると、民衆は逆切れしてイエスを殺します。十字架につけて殺します。わずか数日後にです。

そう、枯らされたいちじくの木は十字架でありイエス自身を指し示しています。この不思議な記事は、受難の物語を煮詰めて凝縮したものであると思います。もちろん私たちはいちじくの木を枯らしたことも、人を十字架につけて殺したこともありません。しかし、小さい意味での十字架…「自己中・逆切れ」を起こしてしまう場合があるのではないでしょうか。

伊藤義経牧師

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2022年05月09日

ことばが切り開く世界【創世記1:1〜3、マタイ3:16〜4:4】

言葉はコミュニケーションを図る上で便利ですが、時に人を殺す力も持ちます。教会暦ではイースターからペンテコステへ、つまり神を信じる一人一人に語る言葉が与えられる季節へ向かうのですが、今日は神の言葉に注目します。

今日の箇所はイエスが誘惑を受ける場面で、言葉について考えさせます。「道を外させる者」という意味の悪魔は、神の道から踏み外させる誘惑を3つ試みます。今日はその最初の誘惑です。空腹を覚えるイエスに「神に頼み、石をパンに変えてもらえ」と迫るのです。自分が変わるのではなく、自分の都合に合わせて神を変える誘惑です。この誘惑に対してイエスは「人はパンだけで生きるのではない。神の言葉によって生きる」と答えました。

「人は神の言葉によって生きる」。この発言の根底にはユダヤ教の世界観、特に創世記に描かれた神の言葉への理解があります。創造物語は「地は混沌で、闇が深淵のおもて」と暗闇とカオスの状態に始まり、そこに「光あれ」と神の宣言が差し込みます。この1章の創造物語はバビロン捕囚時代に今のような形に編纂されたと言われます。古代イスラエルが新バビロニア帝国に戦争に負け、多くの人が奴隷として外国に囚われた時代。自由も出口もない抑圧と差別こそが、その当時の現実(混沌と闇)だったのです。

聖書は、その絶望と闇の中で神は言葉を投げかけ、光となってくださったと語ります。創世記において神の言葉は、闇の中で様々な存在を「命あるもの」として浮かび上がらせていきます。混沌や闇の中で見えなくなっているものたちの名を呼び、存在を確認するのです。そしてこの言葉の力をイエスは体験的に知っていました。イエスはこの誘惑直前に洗礼を受けました。その時イエスは「これはわたしの愛する子」という神の語りかけを受け、この言葉と共に試練の場に臨んでいます。「神の言葉、愛が人を生かす」これがイエスの実感であり、信念なのです。

神はわたしたちに語りかけることで、この存在に触れ、共に生きている事実に導きます。そのような言葉を神から受けているのです。さらに言えば、今度はその愛の言葉をわたしたちが他者に扱うように信じられ、託されているのです。

佐原光児牧師

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2022年05月02日

教会の免疫力【使徒20:7〜12】

使徒言行録を読んでいると、エウティコ青年のエピソードにほっとさせられる。トロアスという港町に形成されていた教会の成熟した信仰が、共同体の一つの在り方を示唆してくれているからだろう。パウロの説教中に眠りこけて、窓から転落してしまったこの愛すべき青年に対して、彼らは咎めはしなかった。物語は「人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた」と結ばれる。「エウティコ」とは幸いな男――幸男くんという意味の名。まじめで一途でみんなに愛された青年。しかしときにとんでもないドジをやらかしてくれる青年。そんなエウティコが生きてあることが、教会の恥ではなく、皆の慰めであるような人々の集まり。この教会の芒洋としたおおらかさを見ていると、信仰共同体がどうすればほんとうの意味で強い集団になれるのかというヒントを与えてくれているように思う。

かつて食品への異物混入が世間を騒がせた時、養老孟司は異物混入を嫌悪する日本人の異常さを指摘していった。「もしきたないものを徹底的に嫌うとすれば、自分のなかにある汚れたものを、一切否定することになる。ところが人間は自分のなかにさまざまなきたないものを抱え込んでいる。したがって不潔をあまりに嫌う態度は、結局は自分との折り合いをつかなくしてしまう」。共同体も同じこと。極端な潔癖主義、純粋志向は、集団を弱体化させてしまう。異質なものを排除するのではなく、多少のことは大目にみて、大人の度量を示せる集団。多少ずっこけた青年がいても、むしろいのちがあって、皆が一緒にいられることを慰めと感じることのできる人々。初代教会はこうやって、共同体として時代を生き抜いてゆく高い免疫力をつけていったのではないか。それは、すでにイエスの思想の中に、時代の制約からくる排他性を乗り越えようとする可能性が内包されていたからこそ、そういった懐の深さが教会のなかに育っていたのだろう。

人間は誰一人同じではない。一人ひとりが皆違った存在だ。その私たちが、互いに異質なものを提供しあい、受け入れ合うことで、教会が時代に対する免疫力を高めてゆく――それこそが「聖徒の交わり」といえるのではないか。

青木直人牧師

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2022年04月25日

福音のためならなんでもする〜18歳と81歳のリアル【第一コリント9:19〜23】

以前、四国の松山教会に在任していました。松山教会は1885年に二宮邦次郎という牧師によって設立された教会です。実は二宮邦次郎牧師は1903年に行人坂教会の前身である日本組合教会京橋教会を設立した初代の牧師でもあります。二宮牧師が松山教会を創設した時代はキリスト教や教会に対する迫害の強い時代でした。松山での伝道は非常に困難でしたが、二宮牧師は果敢に伝道に取り組みます。しかし、二宮邦次郎の働きは牧師だけではなく、松山教会創設の翌年に女子のために四国で最初の高等学校を創立し、さらに貧困ゆえに学校にも行けず、昼間から街中でたむろしているこどもたちのために「夜間学校」を作り、職業教育を行ったのです。二宮は教会を建て、伝道だけではなく、当時の社会で片隅に置かれていた女性や学校にも行けなかった子供たちのための働きをしたのです。それらも福音の宣教であったのです。二宮邦次郎の口癖は「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかるためです」でした。

わたしは若い頃、しばらく大阪の浪花教会の副牧師でした。その時の主任牧師は三井久牧師で、「行人坂教会百年史」には「1947年4月、東大森教会牧師であった三井久牧師を行人坂教会の牧師として正式に招聘した」とあります。三井牧師は行人坂教会での3年間の牧会の後、浪花教会へ転任したのです。

三井牧師も教会内だけでなく、日本の教会には労働者がほとんどいないことを反省して、「関西労働者伝道」という活動を行い、責任者となっていました。教会はただ教会のために存在しているのではなく、神の造られたこの世界の中で社会の片隅に置かれている人々と共に生きることを主張していました。

行人坂教会はいま新しい牧師を招聘しようとしています。どのような牧師を招聘するのか、そして行人坂教会はいま世界が直面している現実(リアル)に対してどのようにイエス・キリストの福音を伝えていくのか、教会が建てられている近隣地域の課題をどう担って行くのか、それがいま問われているのではないでしょうか?

上林順一郎牧師

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2022年04月19日

新しい生命の希望【マルコ10:17〜31】

生命について聖書は様々に語ります。創世記のノアの洪水物語には、『“わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉に過ぎないのだから”。こうして、人の一生は120年となった』とあります。人の生命は有限だという神の宣言です。ならば私たちは永遠に生きることをあきらめなければならないのか?

一方、興味深いことも語られています。悪を行う人間に神は心を痛め、人を造ったことを後悔して地上からなくそうとされますが、神に忠実なノアを見て、箱舟で彼と家族を救っています。神に忠実な者に救いの手が差し伸べられているのです。どうも神の前での人間の生き方がその人の生命の在り方に関係しているようです。

その深い意味はやがてイエスさまの口を通して明らかにされていきます。テキストでは、金持ちの男が『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか?』と尋ねています。この人は金持ちで、律法厳守の信仰生活を送りつつも「死んだら自分の存在は無くなるのか?」と悩んでいたのでしょう。イエスさまの答えは簡潔でした。『持っている物を売り払い、貧しい人々に施せ、それから私に従ってきなさい』。これは財産云々の問題ではなく、神に信頼する心の在り方の問題です。

弟子たちには『神の国に入るのは、何と難しいことか』と言われます。人間の弱さに対する憐れみ、悲しみが溢れています。財産や能力に頼る人間の弱さをイエスさまはじっと見つめておられます。『金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい』という言葉を聞けば、誰でも『それでは、だれが救われるのだろうか』となります。しかしイエスさまはこうも言われるのです。『人間にできることではないが、神にはできる』。私たちは神に祈ることができるのです。これは救いです。イエスさまは、人の存在は生物学的な死をもって一切が無になるのではない、ということを明らかにしてくれています。

死の不安から私たちを救ってくれるのは復活信仰です。愛する家族や多くの愛する人たちと永遠の命を受け継ぎたい、復活信仰にはその答えがあります。

秋葉正二牧師

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2022年04月11日

王が還ってこられる。柔和な方でろばに乗り【マタイ21:1〜11】

教会の暦で、レント(「受難節」からイースター(復活祭)そして、キリストの昇天に至る出来事は、人間にとっては、自分の内面での死と再生、苦しみから喜びへと、そして新しい次元、新しい世界の中で生きることに至るプロセスです。

しかし、その喜び、命の再生、新しい命に生きる解放の前に、傲慢に膨れ上がって真実を見失っている自分との対決、悔い改め、キリストの苦しみと十字架の死の共感、苦しみと絶望の中に思いもかけなかった希望と新しいものの見方の発見を体験する時期が必要になります。

キリストのエルサレム入場から受難、十字架の死へのプロセスは昔から「神のケノーシス」 つまり、神・キリストが次第に削られ、空しくされ、無力にされていくプロセスであるとされてきました。裏切られ、無力にされ、死に至り、葬り去られてしまった主に命が新しく注ぎ込まれ、復活をし、神の救済と愛の約束が実現をする。

マタイの福音書は旧約聖書の神の約束がイエス・キリストにおいて実現してくるのを証しする書物です。エルサレム入場の場面は、ゼカリヤ書9章9節の実現であるとされますが、ここで描かれている救い主・メシアは抑圧している敵を軍馬で押しつぶす報復の英雄ではなく、平和の王としてロバの子に乗り、柔和さと謙遜によって人の心と魂を治める方です。

力と富、自己保存のために自分以外のものの支配を求める人間への悪魔の荒れ野での誘惑に対する決定的な答えは、エルサレム入場から始まる神がへりくだられ、空しくされ、自らを犠牲にし、人と世界を生かす自己犠牲と和解の実現によって主の平和と祝福が起こって来る十字架にこそ見出されます。

藤崎義宣牧師(久が原教会)

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2022年04月04日

祈りから始める【マルコ14:32〜42】

主は受難を心底苦しまれました。普段なら一人で祈られるのに、ペトロら三人を共にされたほどです。長い時間、祈りを通してご自分の望みと神の御心とが一致するまで格闘されました。しかし心が決まって戻ってくると、直面するのは眠りこける弟子たちでした。それを見て主は「目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」と言い残し再び祈りに戻られました

▼この「心」は「霊」、「燃える」は「前進する」とも訳されます。霊が神の使命に向けて前進しようとしても、私たちの罪はそれに抗う。主はその相克を弟子たちに見、ご自分もその苦しみを経験してくださり、三度の祈りを経て「もうこれでいい(「支払い済み」の意)」とおっしゃいました。祈れない弟子たちの分も、主は執りなして祈られたということです

▼私たちは日々の行動について祈らずに済ませ、自分の力でどうにかしていると思っています。しかし「祈らない」のは、神の恵みを忘れ自分の力により頼んでいることになりかねません。そのような誘惑に陥らないために、また罪によって的外れの方向にならないように「祈っていなさい」と主は教えました。拙い祈り、間違えた祈りであっても、祈った方がよい。なぜなら祈り方を知らない私たちを神の霊が言葉に表せないうめきをもって執り成し(ローマ8:26)、自分の願望から次第に御心を尋ねる祈りへと導いてくださるからです

▼以前、旅先でたまたま出会った自衛隊高官の方が、子どもの頃に教会学校で「主の祈り」を教わり、やっと覚えられた時の嬉しさを話してくれました。そして、その後教会を離れそれきりなのに、人命がかかった重大な決断をする際に目をつぶると、必ず「天にまします我らの父よ・・」の祈りが湧き上がってくる、そして心がシンと静まり決断を下すのだと。霊の働きが具体的に迫ってくる思いがしました。主の執りなしの祈りは、今も私たちに生きて働いているのです

▼この受難節、主ご自身がどんなに祈りを必要とされたかを覚え、私たちも祈りを深める時としたいものです。行人坂教会がいよいよ新しい時を迎えようとする今、すべてを霊に明け渡して共に熱心に祈ることから始めましょう。

キスト岡崎さゆ里宣教師(RCA)

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2022年03月21日

悲しみながら癒す【マルコ3:1〜6】

聖句「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。」(3:5)

1.《推し聖書》 本気で「聖書って面白いかも」と思えるようになるまで、随分と年月を要しました。初心者は4回もイエスさまの物語が繰り返されるのにウンザリします。四福音書の微妙な違い(視点や解釈や思想)が分からないと面白味が感じられないのです。「こう聖書に書いてある!」等と主張する人に限って、聖書の各文書の違いが分かっていません。グループアイドルのファンに、それぞれの「推し」があるように、自分の「推し聖句」等から入って行くのが良いでしょう。

2.《四福音書》 識字率が低かった近世以前には、四福音書も動物の象徴で示されました。マタイが人間、マルコが獅子、ルカが雄牛、ヨハネが鷲です。ヴェネツィア国際映画祭グランプリのトロフィーが獅子なのは、聖マルコがヴェネツィア市の守護聖人とされているからです。それぞれに翼を持っているので天使です。系図に始まるマタイが「人間キリスト」、旧約からの連続性を示し、マルコは「王なるキリスト」(『ナルニア国物語』!)、ルカが「生贄としてのキリスト」、ヨハネが「聖霊なるキリスト」を示しているとのことです。でも、それなら「福音書記者」が4つの動物で描かれるのは、何だかズレているように思います。

3.《喜怒哀楽》 古人は、人の心に湧き上がる様々な感情を「喜怒哀楽」と4つの感情に代表させて言いました。イエスさまも怒り、悲しんでいます。主が怒ったのは「会堂」という共同体で、同じ信仰の友であるべき「手の萎えた人」を、イエスさまを訴えるための罠に利用しようとしたことです。主が深く悲しんだのは、そんな彼らの「かたくなな心」(石のように硬くなった心)です。「心のかたくなさ/心の硬化」と対照的なのが、「手の萎えた人」を、イエスさまが「ストレッチ」されて回復したことです。礼拝や聖研で、出席者と聖書を読む時、牧師も本来そういう使命を与えられていると思います。固まった頭、固まった聖書の読み方を「解きほぐす、揉み解す」、そういう方向性を目指して行くべきでしょう。癒された人にとっては「喜と楽」が訪れますが、イエスさまにとっては十字架の苦難の道が始まるのです。せめて私たちは「我が心、石に非ず」と訴えましょう。

朝日研一朗牧師

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