2019年09月30日

今日までそして明日から【マタイ6:25〜34】

聖句「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(6:34)

1.《明日は別の日》 映画『風と共に去りぬ』の幕切れのヒロインの台詞「明日は別の日」は様々に訳されて来ました。「明日は明日の風が吹く」「明日は明日の陽が照る」「明日に望みを託して」「私には明日がある」「望みはある、また明日が来るのだから」等々…。イエスさまの上記の御言葉と、古代ローマの詩人ホラティウスの「今日の禍は今日にて足れり」が世俗化したものと思います。

2.《思い悩みの種》 歌謡曲にも「明日がある」「明日はきっといい日になる」と歌われ、明日は希望の象徴です。しかし、御言葉を改めて読み直すと、今日には今日の思い悩みがあったように、明日には明日の思い悩みがあるのです。それ故に先取りする必要はないのです。「苦労/カキア」は「悪、不幸、災い」です。生きていれば、どこまでも付き纏うのです。現代人は、人生に付きものの苦労から目を背けるために、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」が幸せであるかのように擦り替えたのでは無いでしょうか。しかし、それがまた、新たな「思い悩みの種」に成っているのですから厄介です。

3.《満ちて来る光》 イエスさまが希望を託すように仰るのは「明日」ではなく、「神の国と神の義」です。「明日の苦労」を背負うのは取り越し苦労、「今日の苦労」を持ち越すのは「持ち越し苦労」です。苦労に対しても「足れり」と断念するべきです。太陰暦の古代ユダヤでは、1日の始まりは日没でした。キリスト教の暦もこれを受け継いでいます。闇で始まり、やがて光に満ちて来るのです。今日の「苦労」は「黄昏」と共に闇に包まれて忘れ去られます。そして、信仰者である私たちは本当の明日、「復活の朝」を目指して生きて行くのです。遥か先にある真の光に満ちた世界が、私たちを待っているのです。

朝日研一朗牧師

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2019年09月23日

その一匹を見つけ出すために【ルカ15:1〜7】

聖句「その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」(15:4)

1.《九十九人の壁!》 岡村隆史と矢部浩之のお笑いコンビ名「ナインティナイン」は、ブレイクダンスの究極難度の技から来ています。クイズ番組「超逆境クイズバトル!! 99人の壁」は、1人だけ選ばれたチャレンジャーに対して、99人のブロッカーが早押しをして、回答を阻止する展開です。「1対99」の対立構図なのです。「99」は絶対多数、圧倒的な多数を意味します。

2.《分かち合う喜び》 私たちの社会では、大抵の人が多数派に属すことを心掛けています。しかし、多数派であるから正しい側にいるとは限りません。しかも、多数派と少数派の問題は、実際には「数」ではなく、「力関係」の問題です。数が多くでも、支配者側、権力者側によって力を奪われて弱められている人たちがあるのです。「エンパワメント/湧活」は、弱い立場に置かれた人に力を付与することで、地位向上、閉塞状態の打破、社会全体の活力を促す改革の提案です。私たちの活力の源は「喜び」です。イエスさまの譬え話の根幹に置かれているのも喜びの感情です。しかも、その喜びは共有されるべきなのです。

3.《その一匹のため》 この社会では「たった1匹のために99匹を置いて行くか?」と問われれば、答えはNOです。全体のためには1匹の犠牲は止む無しです。ところが、イエスさまの天国では、その論理は通用しません。百匹という所有資産の話が「その1匹」と言われた瞬間に、掛け替えの無い人(愛の問題)に変わっているのです。その他の全てを犠牲にしてでも、オンリーユーのあなたを捜し求める、それが愛なのです。ファリサイ派は徴税人に「罪人」のレッテル貼りをして、人とは見ませんでしたが、イエスさまは、彼ら1人1人を「神の独り子」と見て居られたのです。それが「天の喜び」です。

朝日研一朗牧師

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2019年09月16日

それは主を求める人【詩編 24:3〜6】

聖句「主はそのような人を祝福し/救いの神は恵みをお与えになる。/それは主を求める人/ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。」(24:5,6)

1.《祈りを育てる》 昨年「日大フェニックス反則タックル事件」で被害を受けて注目された関西学院大学ファイターズですが、試合10分前には、顧問の前島宗甫牧師が聖書を解き明かし、選手、コーチ、スタッフ全員が祈るのだそうです。「人間が人間に値する者に育って行く、それを求めるのが祈りだ」と書いて居られました。祈りは人の成長を促し、祈りも成長して深められて行くのです。

2.《紳士たること》 入部の際、新入部員は監督から「どんな人間に成りたいのか?」と問われるそうです。理念なき成長は拡大路線の暴走に過ぎません。東京五輪の際、日本サッカーを指導したD・クラマーは「サッカーは少年を大人にし、大人を紳士にする」との名言を残しています。札幌農学校に招聘されたW・S・クラークが、事細かい学校の規則を廃棄して「紳士たれ」と訴えたことを思い出させます。自分の判断基準や行動規範を、誰かや何か(たとえ聖書であっても)に委ね切ってしまっては自律性の放棄です。自分で判断して自分で行動する、そのようにして生きるのが、紳士淑女の道なのです。

3.《同じ舟の仲間》 神殿の参拝者(巡礼)に対して、検問に立つ祭司が問い掛ける「信仰問答」です。「潔白な手と清い心」は行動とそれに伴う理念です。中身の無い空っぽのものに熱狂したり、欺瞞に誓いを立てる(日大フェニックス)べきではありません。命令や指図に無分別に従うのは空疎です。「主を求める」には「聖書を解釈する」、「御顔を尋ね求める」には日毎の糧の如く「必要とする」の含みがあります。そして最も重要なのは「主を求める仲間」と言われていることです。独りでは祈りは成長しません。共に祈る仲間、同じ舟に乗って生きること(メンバーシップ)が、何よりも大切なのです。

朝日研一朗牧師

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2019年09月09日

あの虹の彼方に【創世記9:9〜17】

聖句「雲の中に虹が現われると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」(9:16)

1.《虹の彼方に》 『オズの魔法使』(1939年)の主題歌です。竜巻で魔法の国に飛ばされたドロシーが、ライオンとカカシとブリキ人形をお供に冒険に旅立ちます。「幸せの国」は「どこかにある素晴らしい場所」ではなくて、自分の身の周りにあったという物語です。作詞者E・Y・ハーバーグは正統派ユダヤ教徒の家庭に育ちました。当然「創世記」の虹が彼の念頭にあったはずです。

2.《虹と十字架》 ヘブライ語の「虹」は「ケシェト」、女性形です。エジプト神話では、虹はイシスの7枚のショールです。バビロニア神話では、イシュタルの首飾りです。天の神エアが地上を滅ぼそうとした時、イシュタルは虹の通路を閉ざして食い止めます。「創世記」もまた、イシスやイシュタルの母心を継いでいるのです。「ケシェト」は「弓」です。虹の弓が天に向かって矢を射掛けようとしています。エアの電光(罪人を射る虹の弓矢)よろしく、地を滅ぼした神が「もう二度と滅ぼさない」と誓って、今度は矢の向きを御自身に向けられたのです。丁度『るろうに剣心』の「逆刃刀」のようなものです。

3.《虹の架け橋》 人間の罪によってもたらされる苦難を、神御自身が引き受けられたのが十字架です。「虹の契約」は「十字架の契約」と同じです。「心に留め」思い起こすのは、神御自身です。この契約に生きようと志を新たにされているのです。私たちが十字架に接する時、果たして、そんな強い気持ちで臨んでいるでしょうか。「カタ・ウパニシャッド」は「天国への虹の橋を渡るのは、剃刀の刃を渡る程に難しい」と言います。十字架も、私たちに命の道を問い掛ける「弓/虹」のようなものです。折角の「広々とした道」を「狭い門」「剃刀の刃」のように薄っぺらにしているのは、私たち自身なのかも知れません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:53 | 毎週の講壇から

2019年09月02日

わたしがあなたを背負った【イザヤ46:1〜4】

聖句「わたしはあなたたちの…/白髪になるまで、背負って行こう。/わたしはあなたたちを造った。/わたしが担い、背負い、救い出す。」(46:4)

1.《ベビー用品》 赤ちゃん籠やチャイルドシートに変形するベビーカー(一体型モビリティ)を見て、ベビー用品の進化に驚きました。イスラエル製でした。同国製のベビースリング(抱っこ紐)やベビーラップ(お包み)も優れ物です。対面抱き、前向き抱き、横抱き、腰抱き、おんぶの5つの抱き方が出来ます。

2.《抱き方色々》 民族や文化によって赤ん坊の抱き方も異なります。旧約聖書を読むと、赤ん坊の抱き方も一様ではありません。「乳母が乳飲み子を抱くように彼らを胸(懐)に抱き」(民数記11章)は授乳の対面抱き、「抱いて運ばれ」(イザヤ書66章)は腰抱き、「あなたの娘たちを肩に背負って」(イザヤ書49章)は肩車です。肩車は「見失った羊」の譬え話と同じく大きな喜びの表現です。しかも、抱いているのは実の親に限りません。乳母(モーセ)、養父母(異国の王)だったりします。血の繋がりに関係なく、愛情と信頼を持って子育てする姿が描かれています。「担う、背負う」は「上げられる、運ばれる」という語です。

3.《砂上の足跡》 米国には「足跡」という有名な詩があります。詩の殿堂入りを果たした時、作者は誰かの論争が起こり、3名の女性に絞られました。「作者不詳」のまま、教会を中心に静かに浸透して、他者の口を通して再会した不思議な逸話も付け加わりました。しかし、本当の作者は聖書でしょう。「神があなたを背負った」という閃きのような思いは、何千年も前から受け継がれて来ました。ミケランジェロの「ロンダニーニのピエタ」は、十字架から取り降ろされたイエスさまの遺体を母マリアが起こしていますが、まるでイエスさまが老母を背負っているように見えるのです。ミケランジェロの真骨頂です。

朝日研一朗牧師

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2019年08月26日

たとえ小さな信仰でも【マタイ8:23〜27】

聖句「イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。』 そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。」(8:26)

1.《海原と大嵐》 公園の貸しボートですら、何かの拍子に揺れると驚きます。況してガリラヤ湖は霞ヶ浦ほどもあり、地元民からは「ガリラヤの海」と呼ばれていました。ギリシア語聖書では、ガリラヤ湖も紅海や地中海と同様に「タラッサ/海」と呼ばれているのです。周囲を山々に囲まれて、擂り鉢の底のように成っているため、山から湖面に突然の突風が吹き降ろすことがあるようです。

2.《眠るイエス》 イエスさまは乗り込んだ舟の中で、漕ぎ手が尻に敷く座布団を枕に(マルコ4章38節)、安らかに眠り込んでしまいます。「人の子には枕する所もない」と仰るような大変さでしたが、信頼できる弟子たちだけを乗せた舟の上で、すっかり安心なさったのではないでしょうか。ここには、押し寄せる群衆も悩み苦しむ人も、敵対するファリサイ律法学者もいません。「激しい嵐」も何のその、全てを神に委ねて居られるイエスさまにとっては、自然の猛威も神の御手の中ですから、何の心配も要らなかったのでしょう。

3.《小さな信仰》 イエスさまは「風と湖とをお叱りに」なったので、怯える弟子たちを叱責なさった訳ではありません。弟子たちの不信仰を批判して居られるのでもありません。「信仰の薄い者たち/オリゴピストイ」は「小さい、少ない/オリゴス」と「信仰/ピスティス」の合成語です。たとえ小さく薄くても、信仰が無い訳ではありません。主は弟子たちに全幅の信頼を置いて安眠して居られたのです。弟子たちも「主よ救い給え」と叫びました。何より、イエスさまと同じ小舟に乗り込んでいるのです。臆病で小心かも知れませんが、これが信仰なのです。主は「小さな信仰」に目を留められるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:55 | 毎週の講壇から

2019年08月19日

平和を作り出す人たち【マタイ5:9】

聖句「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(5:9)

1.《メッセージ》 本日のメッセージは、これまで朝日研一朗牧師を通して私たちに直接語られました説教から編集したものです。平和のメッセージにもう一度耳を傾け、平和について思い巡らします。メッセージの出典は、週報「先週の講壇から」−朝日研一朗牧師説教−『希望がなければ』(2009/8/9)、『正義と平和の接吻』(2010/8/1)、『ピースメーカー(ズ)』(2012/8/26)、『正義と平和はキスをする』(2018/8/5)です。

2.《プログラム》 礼拝出席者には、予めメッセージのプリントが渡されました。2名の朗読者が交互にメッセージを朗読しました。メッセージとメッセージの間に、沈黙の時とオルガンの間奏が挟まれました。

3.《平和の祈り》 メッセージに続く祈祷は、朗読者が「平和の祈り」を祈りました。これは、日本キリスト教団出版局編『きょうを生きる祈り』(1995年)の中から、“正義を求めて”と題された祈りです。

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2019年08月12日

テゼからの手紙【ヨハネ14:27】

聖句「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」(14:27)

1.《メッセージ》 本日のメッセージは「テゼからの手紙2003」「テゼからの手紙2006」の中から、聴いて解りやすいように編集したものです。テゼ共同体は1940年、ブラザー・ロジェによってフランスのテゼ村で始められた男子修道共同体です。ロジェは、ナチスの迫害を逃れて来た人たちをスイスへと逃亡させる支援をしました。以来、カトリックとプロテスタント出身のブラザーたちが25の国々から集まり、テゼや世界の貧しい地域で生活しています。今、多くの人たちがテゼを訪れブラザーたちと共に祈りを捧げています。テゼで歌われている讃美歌は「讃美歌21」にも数多く取り上げられ、私たちも礼拝で歌ってきました。「テゼからの手紙」はロジェによって書かれたもので、アジアの23の言語、アフリカの7つの言語を含む58の言語に翻訳され、世界各地のテゼの集いでテキストとして読まれています。

2.《プログラム》 礼拝出席者には、予めメッセージのプリントが渡されました。2名の朗読者が交互にメッセージを朗読しました。メッセージは4つあり、最後のメッセージは2回繰り返して朗読されました。メッセージの間に、沈黙の時とオルガンの間奏(テゼ共同体の讃美歌)が挟まれました。

3.《平和の祈り》 メッセージに続く祈祷は、朗読者が「平和の祈り」を祈りました。これは日本キリスト教団出版局編集『きょうを生きる祈り』の中から、“平和のために”と題された祈りです。

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2019年08月05日

平和ではなく剣を【マタイ10:34〜39】

聖句「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」(10:34)

1.《聖書の権威》 米国のキリスト教原理主義者の多くは「逐語霊感説」の立場から「聖書に書いてある事は一言一句に至るまで間違っていない」と主張します。確かに、プロテスタントは福音主義の立場から聖書を信仰の規範とします。しかし、終末思想や千年王国思想に関心が集中した上に、細かい字句に拘泥するのは外道です。結局、聖書の権威を絶対化すること(聖書の偶像化)で、指導者の権威を絶対化しようとしているだけのように思われます。

2.《聖書の誤記》 聖書の写本、翻訳、印刷出版の歴史は誤訳と誤記の歴史でもあるのです。聖書は常に「間違いだらけ」だったのです。有名なのは、17世紀英国で出版された「姦淫聖書」です。「十戒」の「汝、姦淫するなかれ」が「汝、姦淫すべし」と誤植されていたのです。他にも「虫聖書」「猿股聖書」「場所取り聖書」「酢の聖書」「愚か者聖書」「不義の聖書」「ユダの聖書」等、近年に至るまで枚挙に暇がありません。聖書が印刷されて大勢の人の目に触れるようになったからこそ、間違いが発見され易くなったのです。手書き写本の時代には、誰も気付かないまま、伝承され続けたはずです。

3.《解放する剣》 8世紀アイルランド典礼用聖書「ケルズの書」では「剣」が「喜び」に誤訳されています。意図的な改変だったのかも知れません。この聖句が受け入れ難いのは現代の私たちとて同様です。「平和の主」イエスが「平和ではなく、剣を投げ込む」と仰るのです。普通の宗教なら「親孝行」「家庭円満」を教えるはずです。しかし、ルツが「嫁の鑑」とされ、「申命記」で親不孝の息子を石打ちで殺せと書かれているのを見た時に、家制度の抑圧に悩む人たちのことが思われたのです。不幸な状況の中、父母、息子娘を愛することが出来ない人にも価値はあると、主は招かれたのでは無かったでしょうか。

朝日研一朗牧師

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2019年07月29日

祈れない日の祈り【Tテサロニケ5:16〜25】

聖句「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神が…」(5:16,17,18)

1.《祈れないとき》 故石井錦一牧師(松戸教会)が「信徒の友」誌巻頭に連載していた祈りを編集した『祈れない日のために』という本があります。その中に「神さま、祈れないのです/祈りたくないのです」という叫びのような祈りがあります。現役牧師が信徒向け雑誌に書いた衝撃も然ることながら、これもまた祈りであるという事実の提示こそは大きな驚きでした。しかし、改めて「詩編」を開けば、同じような嘆き節、怨み節が幾らでも見出されるのです。

2.《通じない祈り》 自らの不信仰に悩むのは信仰者だけです。信仰のない人は信じられない気持ちと葛藤することはありません。不信仰もまた信仰の一種なのです。「不通の/通じない」苦しみなのです。神さまと思いが繋がらない、通じない不安と苛立ちなのです。「神通力」という語があり、特殊な「霊能力」を意味しますが、大抵の人は「祈りの通じない」現実の中にあって苦しんでいます。信仰者か否かを問わず、願いが叶わなかった時、自らの不信仰を嘆くか、反対に神や仏を逆恨みするかです。しかし、不信仰なままで良いから、神に祈ること、訴えることを続けて欲しいのです。神さまとのラインを断ってはなりません。

3.《御心と人の心》 上記の聖句は、嬉しくもないのに「喜べ」、祈れないのに「祈れ」、辛いのに「感謝しろ」と言われているようです。作り笑いをしたり敬虔ぶった仕草、ウソっぽい祈りをしろと言うのでしょうか。でも、それは自身や周りの人に向けたもので、神に向かっていません。「キリスト・イエスにおいて」は「十字架」です。悲しみの中にあって祈れない私たちのために、イエスさまの「十字架」があるのです。神が先ず私たちを祝福し、恵みを約束され、「何でも言ってみなさい」と御心を開いてくださっているのです。それこそが「神が望んでおられること(テレーマ)」、即ち「神の御心」なのです。

朝日研一朗牧師

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