2020年08月03日

神の言葉は鎖に繋がれない【Uテモテ2:8〜13】

聖句「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。」(2:9)

1.《平和を祈る日》 8月15日は天皇の終戦詔勅が発布された日に過ぎず、実際の戦闘は8月末まで続いていました。沖縄(6月23日)、広島(8月6日)、長崎(8月9日)と祈念する日には地域による時差があります。教団は8月第1主日を「平和聖日」としましたが、カトリック教会の「世界平和の日」は1月1日、国連の呼びかける「国際平和の日」は9月21日です。

2.《使徒は辛いよ》 大切なのは、平和を祈り求め、平和を作り出していくことです。ある教会の牧師が「平和を作り出す人たちは幸い」と説教の表題を付けたら、看板の奉仕者が間違って「平和を作り出す人たちは辛い」と書いてしまいました。笑い話ですが、それも真実です。世の中が好戦ムードに湧き立つ中で「平和」を主張すれば迫害されます。戦闘下では「非戦」を呟くだけで処刑されてしまいます。「テモテ書」は、ローマで獄中にあったパウロが語るという形式の書簡です。パウロの真作ではありませんが、殉教を前にした彼の心情が偲ばれます。

3.《福音の真理に》 「鎖につながれて」は「監獄に囚われて」とも訳せますが、続く「神の言葉はつながれない」の関連で「鎖」と成っています。この聖句は「バルメン宣言」の第6条のテーゼの前に掲げられているのです。ヒトラー政権下で 「告白教会」が表明した信仰告白ですが、主の御言葉と御業は、人間の願望や国家目的や計画経済などからは完全に自由であり、人間の目論見に御言葉を仕えさせてはならないと言うのです。「ナチス的思考」は、現代日本の教会の中にも起こり得るのです。本末転倒が起こり得るのが、人間の現実なのです。私たちは「人間の不真実」に対して「神の真実」を掲げて参りましょう。

朝日研一朗牧師

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2020年07月27日

み名があがめられますように【使徒言行録19:11〜20】

聖句「このことがエフェソに住む…人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。」(19:17)

1.《主の祈り》 コロナ禍の時代に入り、今や礼拝出席が「信仰の砦」と言い切れなくなって参りました。集会そのものに不安を感じる人がいる状況の中、キリスト教信仰の「最後の砦」と言えるのは「主の祈り」です。私たちの祈りと願いは各人多様です。クリスチャンと言えども、教派によって信条は異なります。しかし「主の祈り」を唱えるという一事だけは変わらないのです。

2.《皆の祈り》 17世紀の魔女裁判では「主の祈り」が唱えられず処刑された人もいました。こうなると命懸けです。前半の「御名・御国・御心」を求める祈りの中では、地上での「御国の完成」「御心の成就」は遠いかも知れません。しかし「御名」をあがめることだけは日常的に出来ることです。私たちの礼拝がそうです。また、未信者や他宗教の人であっても、教会の業に賛意を示したり、協力してくださるなら、即ち「御名」があがめられているのです。エフェソの住民たちがそうでした。「御名の祈り」こそは「皆の祈り」なのです。

3.《神を仰ぐ》 「あがめる」は「メガリュノー」の受身「大きくなる」です。「主の祈り」の「あがめる」は「聖とする」、「テサロニケの信徒への手紙U」では「栄光を帰する」という動詞が使われています。しかし、その心は1つです。私たちの名ではなく、神さまの御名こそが賛美されますようにとの祈りです。パウロの時代にも、イエスさまのお名前を利用して悪魔祓いをする祈祷師たちがいました。今も主の御名を利用して、教祖を飾ろうとする新興宗教やカルトは後を絶ちません。「仰げば尊し我が師の恩」と歌われます。儒教です。米国の歌集にある原曲では、主の御もとでの再会を約束する歌なのです。

朝日研一朗牧師

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2020年07月20日

疲れた使徒たちのレスパイト【マルコ6:30〜44】

聖句「イエスは、『さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい』と言われた。」(6:31)

1.《現代人の疲れ》 こんなにも私たちが疲れ果てているのは、産業革命以降、急速に激変する生活環境に適応できないからです。その筆頭に挙げられるのは、都市の人口過密です。多くの実験動物を狭いケージの中に入れたままにして置くと、ストレスで死んだり殺し合いを始めます。しかし、人間は過酷な環境に置かれても耐えているのです。疲れるのも当たり前なのです。

2.《休息を求めて》 十二使徒はイエスさまに派遣されて宣教の旅に出掛けていたのですが、今漸く帰って来たのです。疲れ果てていました。しかし、イエスさまの周囲には、癒しや教えを求める人が出入りしていて休養できません。そこで「人里離れた所」で「休み」を取るように、主は言われたのです。アリストテレスは「休み」を3つに分類しています。「パイディア/娯楽」「アナパウシス/疲労回復のための保養」「スコレー/真理を求めるためのゆとり」です。ここに出て来る「休み」は「アナパウシス」ですが、3つのバランスが大切なのです。

3.《息を吹き返す》 ところが、舟で湖を渡ってみると、そこにも群集が押し寄せていました。使徒たちの休息は台無しに成ってしまいました。使徒たちは「早く解散させましょう」と進言します。「自分で…何か食べる物を買いに行くでしょう」は「自己責任論」です。それに対して、群集の寄る辺なさに心痛められた主は「あなたがたが食べ物を与えなさい」と仰り、奇跡を起こされました。食べ終わって皆が満腹しても、尚「十二の籠」がパンと魚で満たされました。十二人の使徒たちも満たされたのです。「レスパイト」とは「息を吹き返す」こと、イエスさまの聖霊(愛)を受けて癒され、生き返ることなのです。

朝日研一朗牧師

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2020年07月13日

女やもめに花は咲くか?【マルコ12:41〜44】

聖句「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(12:44)

1.《プレゼント》 米国のクリスマスソング「リトル・ドラマー・ボーイ」では、貧しい少年が小太鼓を叩いて、御子イエスの誕生を祝います。アナトール・フランスの小説『聖母の軽業師』では、修道士に成った元軽業師が聖母を讃えるために礼拝堂でジャグリングをします。それを見咎めた他の修道士たちは「冒瀆」と非難しますが、聖母が祭壇を降りて来て、軽業師の汗を拭うのです。

2.《砕かれた心》 何を奉げるか、幾ら献金するかではないのです。神の御前に自分自身を投げ出すのです。それを「献身」と言います。それこそが信仰の核心です。「詩編」51編では「打ち砕かれた霊」「打ち砕かれた心」と言われます。世間では「もう心が折れてしまいそう」と否定的に言われますが、信仰の世界では、心の折れた人のみが御前に進み出ることが出来るのです。エゴイズムに満ちた人や自信満々、得意満面の人は御前に近付くことすら出来ないのです。自らに絶望した人だからこそ、神さまに希望を託すしかないのです。

3.《生活費全部》 ある貧しい寡婦が神殿の賽銭箱にレプトン銅貨2枚を入れました。「レプトン」とは「薄い物」、当時の最小単位の硬貨でした。今風に言えば「ワンコイン」百円です。2千年前の聖書に「生活費/ビオス」という語が出て来るのが驚きです。「ビオス」には「人生、生涯、生活」の意味もあります。寡婦の生活の行き詰まりが偲ばれます。暮らしが成り立たない、生計が折れてしまっているのです。ここには何も安易な解決策は提示されていません。イエスさまも彼女を見詰めているだけです。けれども、苦しみや悲しみの中から注ぎ出されるものに、主なる神さまは目を留めて居られるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:00 | 毎週の講壇から

2020年07月06日

神さまの宿題はレポート【ローマ10:14〜21】

聖句「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(10:17)

1.《課題レポート》 コロナ禍で自粛していた業種が次々と再開する中、大学だけは一向に再開の兆しが見えません。大学生はオンデマンドの遠隔授業を受けていますが、多くは配信された動画を見て、課題レポートを提出するものです。中には、受験以来、キャンパス内に足を踏み入れたことのない新入生もいるそうです。高額な学費(特に施設設備費)の減額や割引もありません。

2.《何を聞くのか》 戦前からの信徒は「信仰は聞くにより」を胸に刻み、聖日厳守主義で礼拝を休みませんでした。大正文語訳の「信仰は聞くにより、聞くはキリストの言による」です。「聞くこと」は、英訳聖書では単に「hearing」ですが、独語訳「ルター聖書」や「チューリヒ聖書」では「die Predigt/説教」と訳されていて、牧師の説教こそが信仰の入口と主張されています。また「新改訳」は「キリストの言葉」を「キリストについての御言葉」と意訳することで、「イエスさまの発言」ではなく「キリストについての証」「キリスト信仰を告白すること」こそが信仰の始まりであると主張しているのです。

3.《レポート提出》 私は牧師の説教だけが「聞くこと」だとは思いません。それでは、余りに了見が狭い。漢訳聖書「和合本」には「聽道」とあります。「信仰は聴く道」なのです。ラテン語訳「ウルガタ」の「auditio」は「オーディオ」の語源です。賛美の歌声、オルガン、音楽、人々の話に耳を傾けることも信仰に繋がるのです。ある英語の註解は「聞くこと」を「report」と訳しています。信仰とは、主の弟子たちが後世の私たちのために残したレポートです。私たちも、キリストの「命令/レーマ」を受けて、ありのままを、御前に差し出して行きたいと思うのです。主から求められているのは真心のみです。

朝日研一朗牧師

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2020年06月29日

木が歩いているような…【マルコ8:22〜26】

聖句「すると、盲人は見えるようになって、言った。『人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。』」(8:24)

1.《歩く木》 中南米の熱帯雨林には「歩く椰子の木」があるそうです。幹から突き出た「支柱根」が日向で成長し、日陰は枯れるので、結果的には年10センチ程移動しているのです。ガジュマルの「気根」も同じです。トールキンの『指輪物語』の森の番人エント、ウィンダムの『トリフィド時代』の食人植物など、ファンタジーの世界では「歩く木」が登場することがあります。

2.《木の人》 本田哲郎神父は、この盲人の言葉を「人たちが見えます。木のようなのが歩いているのが分かります」と訳して居られます。少しユーモラスですが、この盲人の人生の苦難を思えば、滑稽とまでは言えません。奇跡の舞台は、ベトサイダの「村の外」ですから、彼が目撃した「木のような人」は野良仕事から帰る農民、旅人の一行だったのかも知れません。ベトサイダは「町」とも「村」とも言われる規模の集落でした。この盲人が視力の回復途上で目にした何かも「人」とも「木」とも映り、その違いは曖昧だったのでしょう。

3.《旅の人》 「どうしてイエスさまは一発で癒して上げられなかったのか?」と呟く人がいますが、見えなかった目が少しずつ見えるようになる、このプロセスにこそ、この奇跡のリアリティがあると思います。「見る」の動詞もギリシア語で4種類も使われていて「見る」にも色々あるのです。「木を見て森を見ず」と言いますが、私たちが見落とす事柄も多いのです。星野道夫の『旅する木』では、トウヒの種子が大木となり、流木となり、薪として燃やされ、灰として大気を漂い…、そんな壮大な旅が紹介されています。私たちは永遠に生きられる訳ではありませんが、私たちも永遠の時の中で生かされているのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:55 | 毎週の講壇から

2020年06月22日

いちばん大事なものは何?【ルカ16:1〜13】

聖句「不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。」(16:11)

1.《盗賊と義賊》 盗賊は他人の財産を盗む犯罪者、悪党です。しかし、民衆から「義賊」として称えられる者たちもいます。「梁山泊」頭目の宋江、鼠小僧次郎吉や石川五右衛門、デリンジャー、女盗賊プーラン等です。フィクションの世界では、ロビン・フッド、ルパン、怪傑ゾロが思い出されます。彼らが「義賊」と呼ばれるのは「弱きを助け、強きを挫く」からに他なりません。

2.《マモン洗浄》 この「いんちきマネージャー」も悪党です。金持ちの主人から預かっている財産を横領、嘘の会計報告をしたことがバレたのです。その時に彼が取った行動は、主人の債務者から利息を棒引きすることでした。「不正にまみれた富/マモン」を「喜捨」によって清めたのです。それによって、主人の債務者たちに恩を売って、解雇された時の備えをしたのみならず、主人の持つ「不正にまみれた富」を「資金洗浄/マネーロンダリング」したのです。だからこそ、更なる損失を被った主人が、彼の「抜け目ないやり方」を褒めているのです。

3.《富の使い道》 同胞から利息を取ること自体が「不正」なのです。その「不正にまみれた富」が「いんちきマネージャー」の機転によって「真の富」「本当に価値あるもの」へと変えられたのです。「小事に忠実な者は大事にも忠実なり」と言われますが、「小事」とは、正しい「富の使い道」、困窮者を助けるという信仰者としての義務を意味します。「大事」は、天地万物を創造された神さまのことです。コロナ禍によって休業を余儀なくされた中小企業や店舗、個人事業者が悲鳴を上げていますが、他方「持続化給付金」は一部の企業や天下り役人によって中抜きされています。権力による搾取そのものです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:55 | 毎週の講壇から

2020年06月15日

おめで鯛の尾頭付き【マタイ7:7〜12】

聖句「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。」(7:9,10)

1.《ダラバ?》 NHKで『夢食堂の料理人』という単発ドラマがありました。1964年の東京五輪の選手村に出来た「富士食堂」が舞台です。世界各国から集まった7千人の選手団に食事を提供するために、日本各地から招聘された3百人のコックが悪戦苦闘します。主人公のコックが、ホームシックのアフリカ選手を励ますために、チャドの郷土料理「ダラバ」に挑戦するのでした。

2.《色々な魚》 その魚料理にはティラピアを使いますが、当時、日本に無かったので、マダイを代用していました。福音書のペトロゆかりの魚とされるのが、そのティラピア(カワスズメ)です。ガリラヤ湖には他にも、ユダヤ教徒が安息日に食べるニゴイ、大量に網に掛かるイワシの仲間があります。「魚を欲しがる我が子に、蛇を与えるバカ親がいるか?」と、イエスさまが仰るのは、ガリラヤ湖のナマズが蛇のように長かったことからの類推とされます。鱗や鰭の無い魚は、旧約の律法で食べることを禁じられていたのです。

3.《パンと魚》 似ていると言うなら、当時のパンはフスマを除いていませんから色も黒く、丸いので石ころのようでした。パレスチナは石ころだらけの土地です。でも、親がパンと石、魚と蛇を間違って、子に与えることはありません。同じく天の神さまも、求める人たちには「良い物」をくださいます。思えば、パンも魚も、イエスさまのシンボルでした。大切なのは、探し求める心、諦めないでドアを叩き続ける根性です。それを育むのが、キリスト教の祈りです。誰でも最初からある訳ではありません。子どもも大人も同じ、「三匹の鯛」の喩えの通り、褒められ認められて、自信とやる気が養われるのです。

朝日研一朗牧師

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2020年06月08日

命は人間を照らす光【ヨハネ1:1〜5】

聖句「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(1:4)

1.《無から有を呼ぶ》 「創世記」の天地創造は「初めに、神は天と地を創造された」と語り始めます。前口上など無く、何も無い所から、いきなり始まります。「やつらの足音のバラード」(園山俊二作詞、かまやつひろし作曲)を彷彿させます。そのことを、パウロは「無から有を呼び出される神」(ローマの信徒への手紙4章17節)と表現しました。私たちの神は何も無い所から、いきなり世界をお造りになった「創造神」だというパウロの信仰告白なのです。

2.《明日がある世界》 古代ギリシアの時代から「無からの創造/creatio ex nihilo」は哲学のテーマでしたが、アウグスティヌスは「無からは何も生まれない」と言いました。確かに「光あれ」の御言葉によって創造は始まります。但し、この光は陽光や月光ではありません。天体の創造は第4の日です。今日と明日を区別する「時間」が創造されたのです。「明日がある」とか「明日はきっといい日になる」と歌われるように、「明日」は希望の語です。神さまは「明日がある世界」をお造りになった。時間を通して、私たちを救いへと導かれるのです。

3.《光に照らされて》 「ヨハネによる福音書」の言う「初めにあった言(ロゴス)」こそは「光あれ」の御言葉でしょう。キリスト・イエスは「命の言葉」「人間を照らす光」として世に来られました。父なる神による創造の御業、子なるキリストによる贖罪の御業、聖なる霊による救済の御業、この3つは1つと告白するのが「三位一体主日」です。「ペンテコステは教会の誕生日」と言いながら、殊更に世の滅びを語り、審判や選別を強調して、人々の心を脅かすのは、愛の業を託された教会に相応しくありません。「世の光」「光の子」として、暗い世界の一隅を照らしなさいとの主の御言葉に従って参りましょう。

朝日研一朗牧師

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2020年04月06日

苦しんでいる所に、私もいる【マタイ16:21〜28】

聖句「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(16:24)

1.《聖十字架伝説》 人類の祖アダムが臨終に際して、息子セトをエデンの園に遣わして持ち帰らせた「命の木」の小枝から三聖木が育って、それが十字架の木材に使われたという伝説があります。あるいは、ノアの箱舟の竜骨、燃える柴、モーセの杖、ソロモンの橋を経て、十字架の木材と成り、コンスタンティヌス大帝の母后ヘレナが発見して、聖遺物とされたとの伝説もあります。

2.《ウィルトゥス》 聖遺物は中世の人々にとって崇敬の対象でした。神の御力が宿り、それに触れる者にも見る者にも、保管した容器や安置した場所にすら、ウイルスのように聖性の力(ウィルトゥース)が伝染すると信じられていたのです。近年、寺社巡りで「パワースポット」「パワーが貰えた」と語られるのと同じです。何の信者であろうと無かろうと、誰もが幸せを求めて、聖なる力に頼ります。十字架にも聖なる力があると信じられていたのです。教会に掲げられた十字架も単なる目印ではなく、主の御守りを願っての物です。

3.《見よ十字架を》 しかし本来、十字架は苦しみと不幸の象徴でした。日本社会では、不幸や死を厄として払い、蓋をしてしまいますが、「割れ鍋に閉じ蓋」と言わざるを得ません。どんな人の人生にも必ず十字架があるのです。それを捨て置いたり、他人に背負わせたりするのではなく、自らが取り上げて携え行くのが人生です。「自分を捨てる」は「自らを否認する」です。ペトロがイエスさまを否認してしまうことを予告しています。イエスさまと自分は「関係が無い」と言うのではなく、イエスの十字架を認め、十字架を見上げることが求められています。「あなたが苦しむ所に、私もいる」と主は言われます。

朝日研一朗牧師

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