2022年11月29日

いかなる時にも感謝であり得る【ルカ1:26〜38】

宗教改革者ルターのあるクリスマス説教の中に、次のような言葉があります。「神は上をご覧にならない。自分のより上の存在はいないのだから。神は横をご覧にならない。並びたつ者はいないのだから。神は下こそご覧になる。最も低い所にいる者をこそ、見られる。最も低い者のかたわらに、共にいるために」。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(28節)。天使ガブリエルからこの言葉を聞いたマリアは戸惑い、この挨拶は何のことなのかと考え込んだとあります。当然のことでしょう。未婚の女性が身ごもることは、当時の社会ではむしろ恥ずべきことでした。それゆえ、天使が語った「恵まれた方」との言葉を、マリアは素直に受け入れることはできませんでした。

しかし「わたしは主のはしためです」と告白し、一連の出来事をすべて神の恵みの出来事として受け止めていきます。マリアは未婚の女性が身ごもるという、恵みの不在とも思えるような中にこそ、神さまが共におられることを確信したからです。自分の身に何が起ころうとも、すべてが感謝であり得ると。すべてが恵みの出来事であることを体感したのです。

今の社会には「どうして、そのようなことがありえましょう」と嘆かざるを得ない現実が至るところに溢れています。しかし私たちが恵みの不在と感じる中にこそ、神さまは共におられ、働いておられること。クリスマスの出来事はその証しなのです。

原牧人牧師

posted by 行人坂教会 at 20:34 | 毎週の講壇から

2022年11月14日

ユダよ、帰れ― ホームとは何か【マタイ27:1〜10】

今週の説教要旨はありません。
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2022年11月07日

永遠の命の始まり【ヨハネ11:28〜44】

本日は永眠者記念礼拝です。国や文化を超えて人は誰でも、亡くなった親しい者への愛着や思慕があり、それがお盆やハロウィーンなどの習俗となっているようです。本日の聖書個所では、イエス・キリストの親しかったラザロが病で亡くなり、その姉妹マルタとマリアが「もしここにいてくださったら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と訴えました。身も世もなく悲しむ人々を見て、イエスは涙を流されます。それは皆が誤解したようにラザロを惜しんでではなく、人が死に対して持っているどうしようも無い無力感・敗北感に大きな同情を感じたからです。

主イエスは「もし信じるなら、神の栄光を見られると言ったではないか」とおっしゃり、ラザロを死からよみがえらせました。聖書は、神が全ての創造主であり、全てを支配しておられる方であると教えています。そのことを主イエスは私たちにわからせるために、ラザロを生き返せるという奇跡を行ってくださいました。勝利者は死ではなく神なのです。

私たち人間は死の前に無力です。死後の裁きへの恐れもまた、多くの文化に共通しています。カソリックでは遺族が祈ることで煉獄にいる死者が早く天国に行けるという伝承があります。仏教も、遺族による追善供養によって亡者の裁きが有利になるよう、何度も執りなしをします(年忌法要)。14才のアメリカ人の姪がそれを聞いて「私はクリスチャンで本当に良かった、私の罪が、イエス様のただ一度の十字架の犠牲によって赦されたのだから」との言葉を思い出します。使徒信条で告白するように、主は十字架を通して私たちを贖い、死んで葬られ陰府に下り、三日目によみがえりました。まさに「死は勝利に飲み込まれた(一コリント15:54)」のです。

私たち信仰者にとって死は、罪の報いではありません。この世での命の終わりは永遠の命の始まりです。私たちは死を迎える時も一人ではなく、主が手を取って導いてくださいます。今日ここで覚えている多くの天上の友はその証人です。教会は、一人でも多くの人と共に神の栄光に与るために伝道するのです。

キスト岡崎さゆ里宣教師

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2022年11月02日

聖書を土台に生きる【マタイ7:24〜29】

多くの人にとり宗教行為とは「参拝」を意味していて、日本でも正月にはたくさんの人が初詣に詰めかけます。私たちクリスチャンも教会に集い、礼拝をささげます。しかしそれは聖書の御言葉に聞き、共に御言葉に立って生きる共同体を作ることを目指しているからです。聖書とは何でしょう。「人生の取説」とも言えますが、それだけではありません。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益 」(テモテへの手紙二3:16)なのです。

主イエスは様々なたとえを通して人々に御言葉を伝えました。今日の箇所は有名な山上の垂訓の最後にお話しされたことです。「わたしのこれらの言葉を聞いて」というのは、これまでのイエスの教えを聞いていたはずの人々に二種類の応答があるだろうと予測しているのです。一人は岩の上に家を建て、一人は砂の上に家を建てたとあります。「岩の上に家を建てた人」とは、イエスの言葉を聞いてそれに従い、日常の様々な出来事の中でその言葉を自分の生き方に生かして行動した人です。方や「砂の上に家を建てた人」は、イエスの言葉を聞いたけれども日常の生活の中で目先の出来事にとらわれて、イエスの言葉が身につくことはなかった人です。

二人とも、晴れの日にはなんの問題もありませんでした。つまり、順風満帆なとき、自分の力でどうにかできる時は、大丈夫でした。しかし、人生には思いもかけない困難や苦難も起きます。それが人生の「嵐」です。自分の力では知恵では乗り越えられないようなことが起きた時、何を頼りにすればよいのでしょうか。御言葉を実践して生きてきた人は、「誤りを正し、義に導く訓練」を受けてきたため、何が起きてもしっかりとした考え方・生き方の土台があります。聖書の御言葉は素晴らしい。「金にまさり、多くの純金にまさって望ましく 蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」( 詩編 19:11)とある通りなのです。

キスト岡崎エイブラハム宣教師

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2022年10月24日

希望を捉える命【ヨブ記28:12〜28】

財産を失い、子どもたちを失い、自身の健康までも失った苦難の人ヨブ。そんな彼を励ますために、三人の友人が彼の元を訪れます。全身を皮膚病に覆われ、見る影も無くなった彼の元を訪れたわけですから、彼のことを心から心配していたのは想像に難くありません。友人たちはなんとかヨブを苦しみから救おうとします。その彼らは、ヨブに悔い改めと、神に立ち返ることを求めます。きっとこの時は、ヨブにとって苦しいものであったことでしょう。心許せる友人と、身に覚えのない自身の罪について議論しなければならなかったのですから。しかし、友人との議論を経て、ヨブはあることに気づいていくのです。それは、今私たちが知りうる知恵、説明できる常識では、自分が置かれている状況は決して説明することはできないということでした。

ヨブにとって、友人との議論はとても辛いものでした。しかし彼は、友人たちとの議論を経て、自身の苦難が、この世の知識では到底説明できないことを悟りました。その友人たちがいなければ、この世の知恵の在処は神にしかない、という確信には至れなかったでしょうし、これほどの深い肉体的な苦しみや、絶望の中、神の守りがなければ彼は生きていくことができなかったに違いないのです。自分の想像を超えて現れた神の業をヨブは経験しました。この世の出来事の理由を明らかにすることが知恵を得ることではない、その中に、生きていく希望があるのではない。主を畏れ、主を信頼すること、そこにこそこの神の知恵と希望はあると確信するのです。苦難の中で、彼は自分がそこへと導かれたのです。

神を根拠として、この世を見る。苦しみの意味を考え、祈り求めていく。その中にこそ、救いは存在しています。ヨブがこの世界に希望を見、この世を生きる決心をしたように、私たちも生きていく希望と、救いを捉えるのです。そして、苦しみの中にも確かに存在する神の御手を、人間の思いを超えて存在する神の知恵を捉える時、私たちは自身を神に委ねて生きていこうと思えるのです。ヨブがなしたように、私たちも、神に祈り問いながらこの世を生きて参りましょう。

島田直牧師

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2022年10月17日

大いなる者の声

招聘委員会の公募に、3人の先生が応募してくださいました。面談を通じて、先生方は行人坂教会に寄せる真剣な思いを語ってくださいました。私は戦争の危機について質問しました。もし教会員が戦地に赴くことになったら、何と声をかけられますかと。先生方はいずれも、そのときには兵士として行かねばならない人にきちんと向き合うとおっしゃってくださいました。

「殺してはならない」、モーセに与えられた十戒の第六戒に条件はありません。無条件の神の命令です。

アジア太平洋戦争中、学徒出陣で中国河北省の部隊に配属された渡部良三さんという方がおられました。内村鑑三の流れを汲む無教会の方です。彼は捕虜を銃剣で刺し殺す演習に直面し、その瞬間が来たとき、「自分にはできません」と銃剣を上官に返しました。このときのことを彼は短歌に残しています。

鳴りとよむ 大いなる者の 声きこゆ 「虐殺こばめ 生命を賭けよ」

彼は第六戒を守りました。が、そのあと連日凄惨なリンチを受けます。 後年、渡部さんは英雄だと言われました。けれど彼は、自分は弱い人間に過ぎない、あのあと、とても信仰を強く持つことはできなかったと。その絶望を託した歌があります。

信仰も 思想も脆き ものと知る 人倫(みち)ふみしのちの われを支えず

ガラテヤ3.23の言う「信仰」とは何でしょうか。「ピスティス」、「信仰」とも「信実」とも訳せます。「信仰」と言えば人間の側のものですが、「信実」はイエス・キリストのものです。私たちの信仰は自分の持ち物ではありません。渡部さんも「信仰」ならぬキリストの「信実」が支えてくださったから神の戒めを守ることができました。聖書はただキリストの「信実」としてのピスティスが私たちの中を貫いていると述べます。私たちの信仰は私たちの中にはない、私たちのとなりに立つイエス・キリストにあるのだと思います。

佐治恵さん

posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の講壇から

2022年10月11日

エッファタの力【マルコ7:31〜37】

イエスさまが聾唖の人を癒す物語です。異邦人の地を淋しく密かに巡り歩く旅の途上、ガリラヤ湖で聾唖の人を癒してくださいと頼まれます。『指をその両耳に差し入れ……』。不思議な動作ですが、イエスさまの手は相手の身体の不自由な部位に直接触れています。この感覚を感じ取るのは現代では難しいかもしれませんが、記者マルコは「開け」というアラム語をそのまま「エッファタ」と音訳して、その感覚を伝えています。身体機能の一部が癒される以上のことを、主はこの聾唖者に見ておられます。一人の人間として天を仰ぎ、渾身の祈りで聾唖者に向き合われます。『すると、たちまち耳が開き、……はっきりと話すことができるようになった』。これを科学的に問うても無意味です。孤独の世界に閉じ込められていた人が新しい世界に解放された瞬間です。イエスさまと対話できる信仰の人生をスタートできることはどんなに幸いなことでしょうか。

秋葉正二牧師

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2022年10月03日

破壊的な創造、創造的な不調和【マタイ25:14〜30】

今週の説教要旨はありません
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2022年09月26日

見えざる人々の声に聴く【第一コリント12:4〜11】

この8月から、上林順一郎先生の後任として、行人坂教会の代務者に就任しました。

微力ではありますが、皆さま方と共に力を合わせ、主から託された行人坂教会のお働きを支えるため、精一杯尽力したいと思っております。

私は曾祖父から数え、4代目の牧師です。教会の中で育ったこともあり、様々な葛藤を経験してきました。「絶対に牧師にならない」と思っていた私が、献身するに至ったきっかけは、マザー・テレサとの出会いであり、「死を待つ人の家」でのボランティア経験でした。人と向き合い、寄り添って生きることの深い意味に気付かされたことが、人生の転機となりました。

聖書は、3つの形の賜物があると私たちに語ります。1つは神様から人に注がれるもの。二つ目は、その神さまからの恵みに応答する形で、人から神さまに捧げる献げ物などのこと。そして3つ目は、人から人へと送られるもの。これには信仰の継承、あるいは教会の歴史の伝承、喜びの共有、信仰に生きる喜び。そのようなことを指しています。この3つの形の賜物が、何1つおろそかにされることなく、喜びを持って共有され、活かされ、豊かに用いられていく。そこにこそ、教会本来のあるべき姿があります。

実は今日の聖書の箇所において、パウロは、一人ひとりに与えられた賜物が、活かされ、用いられた時、それは全体の益になると、全体を活かす豊かな恵みになると語っています。

今、私たちに求められていること。それはイエスの姿に倣い、社会の中でいと小さき立場に置かれている「見えざる人々」の声に聴くこと。見えざる人たちの声に気付き、その声を聞き逃さないこと。どのような小さな声であっても、その声が社会の中に美しく響くような環境を作っていくことなのです。それが全体が益となる教会の大切な働きだと思います。

原牧人牧師

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2022年09月19日

貧しいやもめの献金から見えてくる世界【マルコ12:41〜44】

テキストは神殿における献金の場面です。教会ではこのテキストを、献金の意味を考えたり奨励したりする場合によく用います。そうした直接的な引用理解はもちろん可能ですが、私はこの話を平和を考える際の価値観の問題として捉えました。イエスさまのお言葉には、「受け身の生き方ではダメだ」という意味があるのではないでしょうか。教会には一つの出来上がった空気があります。聖書を読み、礼拝を守り、祈る……そんな空気です。私はそれをとても大切なことだと考えますが、その中にはエアーポケットのような落とし穴もあるように思えてなりません。私たちキリスト者は社会的課題に何ができるかということにあまり注意を払ってこなかったのではないでしょうか。

テキストには、キリスト者への価値観への問題提起があるように思います。イエスさまは小さなレプトン銅貨2枚を献げた貧しい女性を指して、「誰よりもたくさん入れた」と言われました。十円玉2枚といったところでしょうか。この価値を、イエスさまは何よりも大きいと断定されたのです。貧しい女性は自分の持っているものをすべて献げました。

イエスさまが示された価値観は、すべて捧げることをもって標準とするという判断基準です。十円より千円は大きいという捉え方とはまったく違う標準を示しながら話が進みます。この標準こそがキリスト者が平和をつくり出す原動力です。この視座に立たないと、キリスト者の前進は覚束ないのです。持ち物をすべて捧げるような生き方をしたキリスト者は、マザーテレサのように現代でもたくさんいます。私たちもそういう生き方ができるか、それはあらかじめ分かりませんが、鍵は普段の信仰生活にあるようです。イエスさまは貧しい女性のそれを見抜いておられたのです。

聖餐式では、自分を神さまに聖なる供え物として捧げることを確認しますが、献金の精神はそういうことです。献金の捧げ方一つで、イエスさまにはその人の生き方が見えるのです。私たちは貧しいやもめの行為を通して、イエスさまから問いを受けています。イエスさまの問いに誠実に応えていく人間でありたいものです。 

秋葉正二牧師

posted by 行人坂教会 at 22:16 | 毎週の講壇から