2020年10月26日

味方を増やす生き方を【ルカ9:49〜50】

聖句「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」(9:50)

1.《ライバル》 往年の戦争映画『眼下の敵』や『好敵手』では、敵軍の将校が互いに虚々実々の駆け引きや知恵比べをします。敵の戦術の見事さに舌を巻いたり、攻撃を見事にかわしたりする内に、相手への敵意が敬意へと変わって行くのです。但し、英語の「ライバル」はラテン語の「リーウス/小川」、つまり、水利権を巡る争いから派生した語です。本来「ライバル」には、日本語に言う「好敵手/好ましい競争相手」という意味合いは無いのです。

2.《主の名前》 イエス一行にとってもライバルの如き存在があったようです。弟子のヨハネは、イエスさまの名前を使って悪霊祓いをしていた者に、使用を禁じたと言います。まるで登録商標、商号の不正使用、専売特許の侵害を告発しているかのようです。しかし、主は「やめさせるな」と仰るのです。なぜなら、イエスさまの行き先は十字架です。誰からも理解されぬ不名誉な死でしたが、万民の救いを目指しています。奇跡や癒しや悪霊祓いは余技に過ぎません。私たちは、世間の評判や評価、名誉や名声、人望や人気ばかりに囚われています。私たちが「信仰の証しのために」と善行に励むのも自意識の裏返しだったりするのです。

3.《同じ方向》 洗礼者ヨハネの所にも「イエスが勝手に洗礼を授けている」とご注進にやって来る人がいました(ヨハネによる福音書3章22節〜)。その時、洗礼者は「私は嬉しい」と答えました。他にも、アスクレピオス教団やテュアナのアポロニオス等、イエスさまと同時代に、地中海世界を遊行しながら、病を癒したり悪霊を祓ったりする個人や団体があったのです。イエスさまは「私たちと一緒に従わなくても」「逆らわない者は味方だ」と言われるのです。原典には「敵/味方」という名詞はありません。「あなたがたと逆に向かう」「あなたがたの方に向かう」という方向性の違いだけです。たとえ信者にならなくても、イエスさまが見詰めて居られたのと同じ方向、主が胸裂かれる思いで見詰められた人々の悲しみや苦しみを見ている、それだけで良いのではないでしょうか。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:56 | 毎週の講壇から

2020年10月19日

光に導かれるまま85年【マタイ6:25〜34】

聖句「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」(6:26)

1.《光の子に》 目黒通りを祐天寺方向に入った所で生まれ、油面小学校に通っていましたが、小学校4年生に父の郷里、下妻市に疎開しました。翌年には終戦。戦後は、兄に誘われてフレンド派の教会の日曜学校に通いました。新制中学の1年生で洗礼を受けましたが、その時には、本当に「光の子」になったような気持ちがしたものです。翌年、母の実家のある日本橋人形町に戻り、両親はパン屋を始め、私も配達を手伝い、「パン屋のみどりちゃん」と呼ばれていました。

2.《神の招き》 人形町時代にもバプテスト派の宣教師夫妻の伝道所に通っていました。けれども、4人きょうだいの3番目に生まれた私は、親から疎んじられているように感じて、僻みっぽくなっていたように思います。今思えば、親の愛に気付かないままの可愛げない私でした。縁あって重村光一と結婚して、行人坂教会にも通うようになりましたが、礼拝に導かれる中で、讃美歌517番「『われに来よ』と主は今/やさしく呼びたもう」の歌声に、心が染み入って涙が止まらなくなりました。3年近く子どもに恵まれない中、「跡取りが出来ない」と気を揉む重村家の舅姑から、声を荒げて庇ってくれた夫のことも忘れ難いものがあります。

3.《小鳥たち》 長男が1歳になった頃、重村の父が天に召され、夫が会社を継ぎました。しかし組合運動やオイルショックが重なり、会社は倒産してしまいました。跡取り息子の家に嫁ぎ、実家の親戚から羨ましがられていたが、その財産も消えて無くなり、子どもの貯金も取り崩して社員の給金に当てる始末でした。けれども正直、スッキリしました。幼年時代に口ずさんだ「ことりたちは小さくても」の讃美歌や聖句が私や夫を力づけてくれました。幸い、夫も教会の友人のお世話で再就職先が見付かり、私自身も保育士として働き始めました。以来40年余り、施設長や職員たちにも大切にされました。今でも、その保育園の園児と職員に関わり、年齢相応の仕事に携わっています。信仰の薄い私にも、常に神さまは愛を注いでくださり、導かれて今日があることを感謝しています。

重村みどり

posted by 行人坂教会 at 18:25 | 毎週の講壇から

2020年10月12日

聖書の中に何がある?【ヨハネ5:31〜40】

聖句「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(5:39)

1.《聖書に拳銃》 1968年の西部劇『5枚のカード』の主人公は偽牧師です。縛り首にされた弟の復讐のために町にやって来て、下手人を殺害して行くのですが、それを阻止しようとする男と対決する場面で、聖書の中から小型拳銃を取り出します。ヴェネチア国立考古学博物館には、大型聖書の中身を刳り抜いて、フリントロック式の古い拳銃を納めた物(17世紀後半の作)が展示されています。実際、聖書の中には拳銃や剣、爆弾や核兵器が入っているように思います。

2.《関係の成長》 旧約聖書には、異民族や異教徒は皆殺し、掟破りも殺す、戦争の敵は「聖絶」するという観念があります。選民だけが救われて、他は滅びるという考えもあります。しかし、現代のキリスト者である私たちは、そんなことはしませんし、そんな考えを認めていません。それらは全て、新約聖書の信仰によって乗り越えられた掟です。旧約の神は「怒りの神」、新約の神は「愛の神」と言われますが、怒ってばかりでもありません。慈しみ深く、民の裏切りに涙を流す神も描かれています。つまり、人間関係と同じく、神と人との関係も、時代状況や文化変容を通して成長して行っているのです。そして主がお生まれになったのです。

3.《信仰の解放》 ここで「聖書」と訳されているのは旧約聖書のことですが、単なる「グラファイ/書物」という皮肉もあります。近代プロテスタントもまた「聖書研究」を重んじて来ましたが、これがネックになって入信を妨げたり、信徒に対しても「不勉強」を指弾して劣等感を植え付ける一因になっています。反対にカルトや熱狂主義教会は、聖書の文言を信者の脳にインプリントして支配します。しかし、イエスさまは「幾ら巻物の中を捜しても、永遠の命に出会うことはない」と仰るのです。主は今日の現実の中に立たれています。新約聖書はキリストを証しする文書ですからさて置き、旧約聖書を読む場合には、私たちの現実、主の生きられた時代の現実、2つを見据えた上で批判的に読みましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:57 | 毎週の講壇から

2020年10月05日

最初の晩餐【ルカ22:14〜23】

聖句「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。」(22:21)

1.《最後の晩餐》 レオナルド・ダ・ヴィンチの壁画が有名です。ミラノの修道院の食堂に描かれたテンペラ画です。あの横一列の長テーブルの構図が斬新だったせいでしょう。現代まで映画やマンガで繰り返しパロディにされています。銭湯の富士山のように、修道院の食堂には「最後の晩餐」を描く習いでした。横一列の長テーブルは15世紀に登場します。しかし、裏切り者ユダだけは背を向けていたり、光輪(聖人の象徴)が無かったり黒かったりしたのです。

2.《晩餐コード》 小説『ダ・ヴィンチ・コード』の「コード」は「暗号」ですが、聖画にも「コード/規準」は付きものです。裏切りのユダは黒髪で銀貨の袋を握っています。ペトロは怒った顔で短刀を握っています。トマスは「裏切り者は誰ですか?」「1人ですか?」と主に尋ねています。ヨハネはイエスさまやペトロに凭(もた)れ掛かっています。貧者ラザロが「アブラハムの懐に」招かれたと言われるのと同じく、彼が主の「愛弟子」で「宴会の上席」に着かせて貰ったことが表現されています。福音書の誤読から、裸で逃げた若者と同一視された彼は、レオナルドの絵では「モナリザ」「マグダラのマリア」のように描かれています。

3.《裏切り御免》 聖書の時代には、宴会の客は簡易ベッドに横臥して食事をしていました。時代や地域と共に、聖書の描写も変わります。「最後の晩餐」を「最初の晩餐/聖餐」として受け止める、教会にとっては、主の御言葉が大切です。端的に言えば「私を思い出せ」「約束だよ」の2つです。そして、その席に裏切る者さえもが招かれていたという驚くべき事実です。「裏切る」には「後に残す、棄てる」の意味もあります。主を置き去りにして逃げた使徒だけではありません。信仰者としての務めを放棄したり、信仰を棄てることもある私たちもまた、それでも主は招いてくださるのです。そんな主の御心に救われているのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:55 | 毎週の講壇から

2020年09月28日

わたしがいるから【ヨハネ8:21〜30】

聖句「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。」(8:29)

1.《汚れなき悪戯》 1955年のスペイン映画です。12人の修道士が捨て子にマルセリーノと名付けて育てます。しかし、5歳に成長した坊やは、年配男性ばかりの環境の中で、同じ年頃の遊び相手や母親を求めるようになります。ある日、悪戯坊やは屋根裏部屋に上り、十字架のキリスト像と出会います。痩せて空腹そうな姿を見た坊やが、パンを差し出すと、彫像はそれを受け取り、遂に十字架から降りて腰掛け、坊やとお喋りをするようになるのです。

2.《インマヌエル》 パンとワインを盗むマルセリーノの後を付けた修道士たちは、この奇跡を目の当たりにします。「お母さんに会いたい」と願う坊やは、キリストの膝に抱かれて、微笑みながら天国に旅立つのです。この映画には、聖書や教会の象徴や隠喩が一杯です。三人の博士と降誕、十二使徒、疑いのトマス、会堂長ヤイロと娘、「聖体拝領」の逆転、マルセリーノの名前の由来、カルタゴの聖マルケルリヌス等です。また、独り遊びをするマルセリーノが作り上げた架空の友だちの名前は「マヌエル」でした。それは「インマヌエル/神は我々と共に居られる」、イエスさまの真名です。キリストとの出会いを予告していたのです。

3.《きっと大丈夫》 イエスさまがファリサイ派に対して立てられた証もまた、「神は私と共に居られる」「私を独りぼっちにはなさらない」ということに尽きるのです。「わたしはある/エゴー・エイミ」は「出エジプト記」以来の神さまの本質を表わす名前です。しかし、その証を信じられないファリサイ派の人たちは「道を踏み外したまま死んでいく」(本田哲郎神父訳)のです。これは断罪や裁きの言葉ではなく、彼らの無理解に対する主の悲しみと怒りです。私たちも「去って行った」人たちを「捜し続けて」います。それが人生の切なさです。でも「インマヌエル」が居られるから、きっと大丈夫なのです。天国で会いましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:00 | 毎週の講壇から

2020年09月21日

お前も死ぬぞ【ルカ16:19〜31】

聖句「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。」(16:25)

1.《寺の掲示板》 2018年から「仏教伝道協会」主催の「お寺の掲示板大賞」が始まり、テレビで紹介されたり写真本が出版されたりして盛り上がっています。街角にトタン板で貼られている「聖書配布協力会」の脅迫的・排他的な裁きの言葉と比較すれば一目瞭然ですが、お寺の掲示板には、通行人が思わず足を止めて見つめるようなヒネリがあります。ヒネリとはユーモア、その語源「フーモル、ユーモル」から言うと「血の通った言葉、潤いのある言葉」です。

2.《格差の拡大》 「金持ちとラザロ」は落語の「長屋の花見」のような小噺です。有り余る財産を持って贅沢三昧に暮らしている金持ちと、その門前で物乞いをしながら、金持ちの家の「食卓から落ちる物(残飯、生ゴミ)で腹を満たしたいものだ」と思う程に貧しいラザロとが比較されています。ラザロは皮膚病を患い、野犬の餌になる寸前です。同じ時代に生まれ、同じ街で暮らし、恐らくは、同じ神を信じていたはずですが、2人の境遇は天国と地獄のように懸け離れていました。しかも、古代ユダヤ教信仰では「因果応報」の論理が罷り通っていたのでで、ラザロの貧困も「自己責任」として片付けられたはずです。

3.《神への祈り》 極貧の中で死んだラザロは天国へ連れて行かれ、信仰の父祖たる「アブラハムの懐の中、胸の中」、即ち祝宴の上席に招かれました。他方、金持ちはゲヘナ(地獄)と思しき場所で責め苛まれます。金持ちは悪人で、ラザロは善人だったとか、金持ちは不信仰で、ラザロは信心深かった等とは一言も書いてありません。それは、人間の側、特に宗教団体の運営者が信者をコントロールするために加える条件なのです。神さまは無条件です。ただ、憐れみたい者を憐れみ、恵みたい者を恵まれるのです。私たちが出来るのは、苦難の中で、神の救いと助けを求めて、必死に呼び求めることだけです。それこそが祈りです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:57 | 毎週の講壇から

2020年09月14日

羊たちの沈黙【ルカ 15:1〜7】

聖句「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(15:7)

1.《つくも》 日本では「九十九」と書いて「つくも」と読ませます。「百(もも)に次ぐ」から「次ぐ百(もも)」、訛って「つくも」です。「つくもがみ」は「白髪」の意味です。「伊勢物語」でも「もゝとせに ひとゝせ足らぬ つくもがみ…」の歌が詠まれています。「百歳に1歳足りないような白髪の老婆が…」の意味です。古道具も長く放置していると「付喪神」という妖怪になり百鬼夜行をします。

2.《九十九》 「九十九」は「百」を前提にしています。イエスさまの譬え話では「百匹の羊」は百匹一財産、「十枚のドラクメ銀貨」も「番町皿屋敷」と同じく10枚1セットの箪笥預金です。「完全な価値」なのです。1つでも欠けたら価値が失われてしまうのです。聖数の「7」に1つ足りない「6」は不完全な数字、その三連荘の「666」は神に逆らう「獣の数字」とされています。「過ぎたるは及ばざるが如し」で、聖数「12」に1つ多い「13」も不吉な数字です。「放蕩息子」の譬え話でも、「息子は2人いるから兄弟の1人が失われても構わない」等ということは断じてありません。失われたら耐え難い苦しみ、それが親心というものです。

3.《喜ぶ友》 「1匹対99匹」の対立図式で読むべきではありません。それでは「トロリー問題」「ボート問題」のように、机上の道徳的ジレンマに陥ってしまいます。イエスさまは人間の判断や計算、道徳を言って居られるのではありません。神の摂理(御心は何か)について語って居られます。それは「天の喜び」です。神さまがそれを喜ばれるのです。しかし、私たちは「正しい人」である自分(九十九匹の羊、放蕩息子の兄)が置き去りにされているかのように感じるのです。他方、失われた羊を捜し求めて発見した人と「一緒に喜ぶ人たち」が登場します。呼び集められた「友だち、隣人」が共に喜び、祝宴に与るのです。妬んだり羨んだり、拗ねたり捻くれたりせず「神の友」として、一緒に喜びましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:55 | 毎週の講壇から

2020年09月07日

背負うことが学ぶこと【マタイ11:25〜30】

聖句「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。…わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」(11:28,29)

1.《休みたい》 「コロナ休業」等と言いますが、泣く泣く休業せざるを得なかった人たちが殆どで、生活不安の中にあって、心身の休養が出来た人など余りいなかったと思います。アリストテレスは「休み」を「パイディア/遊び」「アナパウシス/保養」「スコレー/学びの暇」の3つに分けました。イエスさまが「休ませてあげよう」「安らぎを得られる」と仰るのは「アナパウシス」です。

2.《疲れたよ》 休みの前提として労働があります。「疲れた者」は「打ち叩かれている者」の意です。現場監督から鞭や杖で打たれる、古代の奴隷労働を連想します。現代においても、職場での暴力やハラスメント、危険な現場の事故、ストレスや長時間労働による病気の発症、突然死など、働く者たちは多かれ少なかれ心身に鞭打たれていると言えるでしょう。「重荷を負う者」も荷役を思わせる語です。しかしながら、必ずしも「苦役」を意味する語ではありません。例えば、適度な船荷が船体を安定させるのと同じく、人もまた、自らが負う責任や任務を持つことで、自重し、成長して行くことが出来るのです。

3.《天に昇る》 イエスさまは「軛、荷から解放して上げよう」とは仰っていません。軛や荷を背負って行くのが人生だからです。首枷は農耕用の牛2頭を繋ぐ物でした。あなたと軛を共にするパートナーがいるのです。誰もいなくても、イエスさまが一緒です。そして私たちが運ぶべき荷物は愛なのです。人生という航海には、運ぶべき荷物が必要です。余り重荷になってはいけませんが、適度な荷物がなければ空っぽの人生です。「アナパウシス/休息」には「下から上へ」のベクトルがあります。7世紀の東方教会では、母マリアの永眠の日を「アナパウシス」「アナレープシス/上へと取れ去られる」(被昇天)と言いました。本当の意味で、私たちが「労苦を解かれて、安らぎを得る」のは天に召される時です。

朝日研一朗牧師

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2020年08月31日

幸せになろうよ【ルカ6:20〜26】

聖句「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。」(6:20,21)

1.《お幸せに》 結婚式や披露宴の際に、新郎新婦に向かって「お幸せに」とお祝いの言葉を掛けたり、祝辞を申し述べたりします。「いつまでも仲良く、お幸せに」との意味でしょうが、結婚が幸せとイコールとは限りません。結婚情報誌の「ゼクシィ」が「結婚しなくても幸せになれるこの時代に、私は、あなたと結婚したいのです」と新婦が宣言するCM(2017年)を発表しました。結婚についての意識変化と共に幸福観の多様化を見る思いがしました。

2.《神の勝手》 イエスさまも「お幸せに」と仰っています。「貧しい人々は幸いなり」「飢えている人々は幸いなり」「泣いている人々は幸いなり」です。やがて運命の大逆転が起きて、飢えている者は満たされ、泣いている者は笑うようになるからです。「神の国、天の国」の「報い/ミストス」は「賃金、給料」という即物的な語ですが、そこから「葡萄園の労働者」の譬え話が思い出されます。資本主義や功利主義とは真逆の価値観で、主が一人一人に報いてくださるのです。何故かと問われれば、神が「自分のものを自分のしたいようにする」だけなのです。神は慈しみ深い御方なので、貧しい人たちを見過ごしに出来ないのです。

3.《神の招待》 「幸いである」に対応して「不幸である」があります。これは「災いなるかな」という呪詛です。「富んでいる人々」「満腹している人々」「笑っている人々」は「報酬」を前借してしまっているのです。未来の子孫を思わず、自らが便利さと快適さを享受するため資源を浪費し、負の遺産を残す現代社会の在り方を連想します。妖怪「アマビエ」は災いを警告する不吉な前兆でしたが、庶民の間で疫病除け、厄除けの守り神になりました。イエスさまの呪詛もまた、私たちが悔い改めることで、事前に災いを食い止め、私たちを正しい道へと導くためのものです。己の幸せのみ求めるのではなく、誰が一番に「神の国」へと招かれているか考えましょう。それが「天国への招待状」です。

朝日研一朗牧師

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2020年08月24日

我々はどこにいるのか【創世記3:1〜13】

聖句「アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』」(3:8,9)

1.《方向音痴》 私は方向音痴です。自分が今どこにいるのかを見失い、分かれ道や曲がり角を間違えて、とんでもない所に行ってしまいます。カーナビが付いて以後も遠回りをしてしまいます。しかし『相棒』の水谷豊、歌手のGackt、野球のイチロー選手、「2時間ドラマの女王」片平なぎさ等の方向音痴ぶりも有名です。自分の立ち位置を見失うことは、人生の大きなテーマでもあります。

2.《悲憤梗概》 神さまはアダムに「あなたはどこに?」と尋ねられました。神さまが見失ったのではありません。アダムは神さまとの約束を破り、信頼を裏切ることで、関係が失われてしまったのです。刑事が犯罪者の隠れ家に踏み込もうとしているのではありません。アダムの隠れている所等、神は先刻御承知です。ヘブライ語の「どこに?/アイェーカー」は「哀歌」冒頭の「何故に?/ああ哀しいかな!/エーカー」と全く同じ4文字から成っています。主なる神は、アダムが丸裸にされて、所在無く隠れている姿、そんな哀れな人間の姿を見て「どうして、こんな事に…」と嘆いて居られるのです。

3.《永遠の命》 呼び掛けに応えて、アダムの方から姿を現わして欲しいという願いが込められているのです。アダムが食べてしまった「善悪の知識の木」とは「命の木」との対応から「死の木」ではないでしょうか。「秘密の知恵」は神の御もとにあるべきだと「申命記」は言います(29章28節)。「エデンの園」では、判断を下すのは神さまでした。しかし、人間が自分勝手に善悪の判断を下すようになってしまったのです。それは数多の死と災いをもたらしています。しかし、後戻りは出来ません。イエスさまは、神の愛の呼び掛けに「私はここにいます」と応えることの中に「永遠の命」に至る道があると示されました。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:55 | 毎週の講壇から