2018年09月17日

いのちの深呼吸【創世記2:6〜9】

聖句「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(2:7)

1.《夕べの風》 連続テレビ小説『半分、青い。』では、鈴愛と律が「そよ風の扇風機」の開発に取り組んでいます。聖書に登場する最初の風は、夕方のそよ風です。「日の涼しい風」(創世記3章8節、協会訳)とありますが、ユダヤ教では1日の区切りは夕べにあるからでしょう。顧みて、異常な酷暑で夕涼みの習慣も無くなった私たちは、自然の風を感じることが少なくなりました。

2.《風が必要》 以前、板橋区の園芸センターで鉢植えを物色して、温室のような店内で、観葉植物や大輪の花を観ていた時、店員に聞くと「植物には、陽の光や水や肥料だけではダメで、風が必要なのだ」と教えてくれました。植物が生きて行くために、成長するために風が必要なのだということは、植物学界で理論化されているのかどうか知りませんが、少なくとも園芸店の経験則として受け継がれているようです。目から鱗でした。「天地創造」の記事に「風の創造」は出て来ませんが、その代わりに、主なる神が吹き込んだ「命の息」があります。植物のみならず、動物や人間にとっても「風」が必要なのです。

3.《生ける魂》 関連があるのは「土」と「人」だけではありません。「生きる者」は「生ける魂」ですが、「命の息」の「命」にも「魂」の意味があります。ラテン語訳の「息/スピーラークルム」は「風窓、空気孔」です。「スピリチュアル」と言うと、胡散臭い霊媒師や自己啓発が出て来て如何にも風通しが悪い印象がありますが、真の霊性はそよ風が入って来るような爽やかさなのです。植物が花を咲かせ、実を付けるのは年に1度です。コンビニ化された社会で、私たちも成果主義に取り憑かれて「死んだ魂」と成っています。ありのままに雨風を身を受けて生きましょう。神さまは必ず良い風を送って下さいます。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:53 | 毎週の講壇から

2018年09月10日

聖書は食べられません【エゼキエル2:8〜3:3】

聖句「『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』 わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。」(3:3)

1.《聖書の始末》 私の師、深田未来生はUMCの宣教師を隠退した後、米国の高齢者村で暮らして居られます。彼が手伝っている古本市に持ち込まれる聖書の処分に悩んでいるそうです。手垢が付いて汚れていれば、他の書籍は紙ゴミですが、誰かと人生を同伴して来た聖書だけに、捨てるに捨てられず、売れないことは明らかなのに、市の片隅に置いてしまうとか。米国ならではの悩みです。

2.《聖書と対話》 「バイブル」は「紙草/パピルス」から「書籍/ビブリア」と変化した語で、単に「本」という意味です。それが「聖書」として神聖視されるに至るまでには紆余曲折の歴史があります。世界中で1年間に7億冊も出版され、ホテルにも備え付けられていて、有り触れているが故に、実際には読んで貰えないという逆転現象もあります。聖書は大昔の歴史を綴った本ではなく、歴史を通して働く神を、現代の私たちに証しするものです。それによって私たちの命や人生の意味を問い直すのです。従って、その問い掛けの姿勢さえあれば、信者/非信者に関わり無く、聖書は対話の相手に成ってくれるのです。

3.《甘みと苦み》 私の知人に、実際に聖書を暗記しては1ページずつ食べた人がいます。何とか聖書の御言葉を自分のものにしたいと願われたのです。聖書には「御言葉を食べる、巻物を食べる」行為が描かれています。エゼキエルの場合には、預言者活動の通過儀礼だったのでしょう。その巻物には、神の「哀歌、呻き、嘆き」が記されていました。悲しみは「苦み」です。罪の世にありながら、人間如何に生くべきかと問うことは甘くはありません。聖書の苦みを知り、御言葉の魅力を感じるようになるためには、それ相応に、人生の苦しみ悲しみを体験しなければなりません。精神的、霊的な成長が必要なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:03 | 毎週の講壇から

2018年09月03日

植わった場所で実りなさい【ルカ 13:6〜9】

聖句「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。」(13:6)

1.《しんなり生きる》 リストラや介護離職を契機に孤立した中高年、専業主婦の「ひきこもり」の存在も明らかになり、今や日本の「ひきこもり」人口は百万人を突破していると言われています。お笑い芸人「髭男爵」の「山田ルイ53世」は自身も「ひきこもり」体験者ですが、「皆がキラキラ輝かなくても良い。もっとしんなり生きても良いんじゃないですか」とコメントしていました。

2.《サポートする人》 「しんなり」は「主役」ではなく「脇役」の生き方と言っても良いでしょう。米国では「助演」がプロフェッショナルの仕事として認められています。聖書の主役は「葡萄の木」であるイエスさま、私たちはその枝、主にお仕えする者です。その意味では、いちじくは脇役ですが、決して不要な存在ではありません。葡萄園では、葡萄を移植する時には、いちじくの木に葡萄の蔓を這わせたそうです。いちじくの木は葡萄の実りを支える「葡萄棚」として利用されていたのです。しかも、葡萄園の主人は「主役」の前を素通りして、「脇」にあるいちじくの実りを熱烈に求めているのです。

3.《実を求めて待つ》 「探す−見つける」のモチーフは「ルカ」の定番です。「3年もの間」は「何年も何年も」です。主人の愛着の程が窺い知れます。彼の激しい怒りは悲しみの裏返しです。「土地を塞いで置くのか!」は「仕事をしない者、役立たず」という語ですが、彼の求める「実」は「生産性、利益還元」ではなく「創造の業、神の義に対する応答」です。「園丁」は単なる「番人、庭師」ではなく「葡萄を作る人」ですが、いちじくの木のために尽力を惜しみません。それは、彼が主人の真意を心得ているからです。葡萄園の主人こそは、手ずからいちじくを植えて、これを愛して止まないからです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:53 | 毎週の講壇から

2018年08月27日

ルックスではなくハートを【Tサムエル16:5b〜13】

聖句「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(16:7)

1.《石の中の剣》 ディズニーアニメ『王さまの剣』は、領主の下働きをする孤児の少年が魔術師から本当の強さと優しさを学び、石に刺さった剣を抜いて「未来の王」と成って行く物語です。アーサー王物語を下敷きに、英国のT・H・ホワイトが大戦中に書いた小説が原作です。少年の名前は「Wart/イボ」です。今は「味噌っカス」のあなたも「未来の王」だというメッセージです。

2.《胸の中の剣》 アーサー王の剣と言えば「聖剣エクスカリバー」です。石から抜いたのは「カリブルヌス」と言われます。しかし、大切なのは剣の銘ではなく「心に剣を持つこと」です。細田守監督の『バケモノの子』では、熊徹が「あるだろ!胸ん中に剣が!」と孤児に語り掛けます(剣を握ることをしない私たちは「霊的な孤児」なのです)。キリスト教会は、この世を生き抜くための「剣」を求める者たちの集いです。「信仰」「愛」「希望」等、その信念の名前は何でも構いません。それを握り締めて歩んで行くのです。正解を言葉で言うのは簡単です(ルカによる福音書10:28)。それを実行するのは一生ものです。

3.《選びの基準》 神さまは「人間が見るようには見ない」のです。預言者サムエルがエッサイの家を訪れて、次代の王を探します。家の息子たちが順に紹介されます。いずれも美丈夫な青年ですが、神はお選びになりません。「人間は両の眼で見る。しかし主は心で見る」と書いてあります。「心を見る」のではなく「心で見る」のです。「外面ではなく内面を」と解釈されて来ましたが、「未来の王」ダビデも多くの罪を犯します。むしろ、主の心の琴線に触れる何かがあったのでは無いでしょうか。私たち自身の心が本当に豊かでなければ、神さまがその御心をもって、私たちに触れて来て下さることは決してありません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:53 | 毎週の講壇から

2018年08月20日

悪い時代にあっても【エフェソ5:15〜20】

聖句「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」(5:16,17)

私たちは、人との誠実な出会いや、人生経験の中からも、貴重な知恵を得ることが出来ます。それは素晴らしいことであり、必要なことであります。

しかし聖書は、もうそれだけで十分だとは言いません。「主(神さま)の御心が何であるかを悟りなさい」と、これを悟らないならば、十分で確かな知恵を得ることができないと指摘します。この点について、コロサイの信徒への手紙2章3節にはこう記されています。「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されているからである」と。 したがって、キリストを信ずる者は、聖書の言葉を参考にして人生を歩むという程度のことではありません。イエス・キリストの御言葉と御業に注目し、それに基づいて自らの生き方を吟味して、生活を築いていくことなのです。

さて、私たちがイエス・キリストによって示された主なる神の御心に従い、分別のある生き方をしようと志すとき、「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです」という勧めの御言葉が心に迫ってきます。ハッとさせられ、しっかり生きようと促されるでしょう。たしかに今は悪い時代であると、いろいろな面から誰もが感じているに違いありません。ただし、私たちは今が悪い時代だと感じる場合には、とても「今の時代を生かして用いる」意欲は出てこないのではないでしょうか。「今は悪い時代なので、どうしようもない。何をしてもだめだ。あきらめよう」と、嘆くだけになりがちです。ここにこそ、キリストの福音による希望の力が発揮されるのです。

私がお世話になった田崎健作牧師は、いやなことばかりが起こって大変だと言って、皆が落ち込んでいると、「おもしろい時代になってきたね、さあここでどういう活動をするかね」と、突っ込んでこられました。及び腰にならないで、背筋を伸ばして励みましょう。

定家修身牧師(弓町本郷教会名誉牧師)

posted by 行人坂教会 at 19:55 | 毎週の講壇から

2018年08月13日

目覚めと祈り【マルコ13:32〜37】

聖書は私たちに目覚めて待つ、そういう「待ち方」を求めています。それは、ただ傍観するということではありません。今ここに与えられている務めや役割を日々淡々と忠実に果たしていく在り方の中で、信仰と希望と愛が日に日に新しく与えられていくのでしょう。

聖書の信仰から、ただ単純に純粋に待つこと、任せて委ねること、その中で徐々に視野を広げ、ビジョンを広げていく在り方を学びます。破局と崩壊の時代、いわば終末的ともいえる現代を過ごす中で、神は私たちに、目を覚まして待つということ、そしてその待つことの中で視野を広く持つことへと促しておられるのではないでしょうか。

「気をつけて。目を覚ましなさい」。目を覚ますとは油断せず注意深く見つめる(生きる)ということです。主イエスを見つめると同時に、主の眼差しを確認する、主がいつも私たちを見ていて下さる現実を確信し、御手の中にあることを感謝することです。逮捕の直前、あのゲッセマネの園で祈っておられたイエスを見ようともせず、深い眠りに落ちた弟子たち。「目を覚ますこと」そして「祈ること」がここで示されています。祈りとは、もともと自己を吟味するという意味があります。単に私が神に願い求めをするだけが祈りなのではなく、むしろ神様から生き方や考え方の修正を迫られることがあるのです。

ビクトール・フランクルは著書「夜と霧」の中で、将来に対する希望、そして宗教的なものへの希求が、強制収容所の人々の生と死を分けたと証言しています。悲惨で絶望的な中にあってなお目を覚まして祈り、感謝することを忘れないような精神の持ち主は生き延びることができた確率も高かったということでしょうか。さらに彼は、将来に対して希望を持ち、待つことの意味と同時に待たれることについても語ります。「どんな時にも人生には意味がある。この人生のどこかに、あなたを必要とする何か、誰かがいる。私たちは常にこの何か・誰かによって必要とされ待たれている存在なのだ。たとえあなたが人生にイエスと言えなくても、人生の方からあなたにイエスと光を差し込んでくれる日がいつか必ずやって来るから。・・・」。

それぞれの元に既に送り届けられて来ている意味と使命を発見し、実現することができればと願います。そのためにも、この恵みの事実に目覚めて気付く私たちでありたいのです。

岡田 仁牧師(富坂キリスト教センター総主事)

posted by 行人坂教会 at 19:54 | 毎週の講壇から

2018年08月06日

正義は平和とキスをする【詩編 85:9〜14】

聖句「慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけし/まことは地から萌えいで/正義は天から注がれます。」(85:11,12)

1.《鎮魂の季節》 1962年に日本基督教団は広島原爆投下の日を覚えて、平和と核廃絶のために祈りを合わせるべく「平和聖日」を始めました。「終戦」「原爆」が俳句短歌の季語となる程に、日本の「平和」は「季節もの」です。お盆や祖霊祭と重なって、死者の「鎮魂」に最適なのです。しかし、私たちが祈るべきは、国体に祟りを為さないように「霊を鎮める」ことではありません。

2.《終戦記念日》 8月に沈痛な表情で平和を祈念するのは日本だけの社会現象です。韓国は「光復節」で植民地支配からの解放を祝います。連合国では「対日戦勝記念日」です。「終戦の日」も8月15日ではなく、9月2日や3日です。樺太では8月25日まで戦闘が続いていました。ポツダム宣言の受諾通告は8月14日です。8月15日は「玉音放送」で天皇が国民に「終戦」を告知した日なのです。「終戦の日」から別の人生や暮らしが始まった訳ではありません。被爆者をはじめ、戦争の傷痍を身心に負い、苦しみ続けた人は大勢いるのです。その人たちにとっては「戦争は終わって」いなかったと思うのです。

3.《正義と平和》 ノルウェーの平和学者ガルトゥングが「平和」の定義をしました。ただ戦争がない状態は「消極的平和」、差別や抑圧、人権侵害や搾取もない社会の実現を目指すのが「積極的平和」です。何千年も前に聖書は「愛と真実、正義と平和の一致」を説いています。「正義」のない所に「平和」はないのです。「正義」は天から注がれる雨水に、「真実」は地から芽生える植物に譬えられています。「真実/エメト」を「faithfulness/信仰」と訳す英訳聖書があります。神の義に応答する「人間の誠意」でもあります。その応答関係は「愛と真の出会い」「正義と平和のキス」があって初めて生まれるものです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:55 | 毎週の講壇から

2018年07月30日

かいざる納税、返礼なし【マタイ22:15〜22】

聖句「すると、イエスは言われた。『では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』」(22:21)

1.《消費税》 今や私たちは毎日のように税金を支払い続けながら暮らすようになりました。通称「消費税」、厳密には「付加価値税」です。日本政府は1989年に導入、3%、5%、8%と税率は段階的に引き上げられています。何に対して課税するか、税率は幾らか、時々の政治権力が恣意的に決定しています。正しく税金が使われているか、私たちは監視する責任があります。

2.《変な税》 ローマのヴェスパシアヌス帝は「おしっこ税」で財政健全化に努力しました。英国のジョン王は「臆病税」を諸侯に課したことが災いして「マグナ・カルタ」を押し付けられました。英国は「髭税」「窓税」「帽子税」等、変な税の宝庫ですが、財源確保のための試行錯誤の軌跡を見る思いです。日本でも江戸時代の「間口税」対策が「町屋造り」(鰻の寝床)の起源です。現代でも、肥満防止、健康対策のための「ポテトチップス税」「脂肪税」、少子化対策の「独身税」、「日曜税」「犬税」、温室効果ガス削減の「おなら税・ゲップ税」等、各国で奇妙な税金が制度化されたり、提案されたりしています。

3.《税負担》 「税金/ケーンソス」はラテン語起源です。「住民登録/ケーンスス」によって、ローマ帝国からユダヤの民は人頭税を徴収されていたのです。イエスさまを罠に掛けようと企んだ者たちが「税金を皇帝に払うべきか?」と尋ねました。彼らが持って来たデナリオン銀貨には皇帝の像と銘とが刻まれていました。そこで主は「皇帝のものは皇帝に」と仰ったのです。更に「神のものは神に」と言い添えられました。私たち人間の身心と魂には、神の像と御名、御言葉が刻まれているのです。献身は見返りを期待せずに行なうものです。全て神からお預かりしているものですから、感謝して献げるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:53 | 毎週の講壇から

2018年07月23日

一人の子を受け入れるなら【マルコ9:33〜37】

聖句「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(9:37)

1.《岡山四聖》 「岡山四聖人」と言って、岡山県にゆかりの深い4名のキリスト者が今でも顕彰されています。「全ての人を愛する」をモットーに診療所や学校を設立したアリス・アダムス宣教師、児童の自立支援施設「家庭学校」を設立した留岡幸助、救世軍の山室軍平、そして孤児の救済に生涯を奉げた石井十次です。特に石井十次は「日本の社会福祉の父」と呼ばれています。

2.《石井十次》 石井十次は宮崎警察署に勤務していた時代に、遊郭に売られていた友人の妹と性交渉を重ねて、性病に罹患します。その治療を受けた病院の医師から聖書と医学への道を示されて岡山の医学校に進むのです。診療所で代診をしている時に、お遍路の女性から前原定一という8歳の少年を預けられたのが、孤児救済事業の始まりでした。将来、病気の子を救う医師を目指すのではなく、今目の前にいる孤児を救うという召命を受けたのです。医学校を退学した彼は、その後、濃尾地震の被災児童、日露戦争の孤児、東北冷害の離散農家の孤児などを引き取って保護するようになるのでした。

3.《一人の子》 イエスさまは「受け入れる/デコマイ」という動詞を4回も使っています。それは「受容のプロセス」を言っているように思われます。石井十次が前原定一と出会い、孤児救済の道を進んだのも、迷いや逡巡を経てのことです。私たちが他者、自らの人生、病気や障碍、老いや死など、思うようにならないものを受け入れる過程と重なります。イエスさまが引き取って抱き上げた子は「一人」ですが、その背後には大勢の「子供/パイディア」の存在があります。「一人の子供の手を取る」(引き取る/ラムバノー)ことから、何か新しいことが始まるのです。出会いこそが突破口なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:55 | 毎週の講壇から

2018年07月16日

どっこい生きてる【Uコリント6:1〜10】

聖句「人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず…」(6:9)

1.《半分半分》 解剖学者の養老孟司は見ず知らずの学生から「もう死んだと思っていました」と言われて面食らったそうです。昔から「棺桶に片足を突っ込んでいる」と言いますが、自分から宣言すると超越的な響きがあります。ソチ五輪の後、記者会見で浅田真央が自身の進退を「ハーフハーフ」と答えました。「中途半端」と違い、「宙ぶらりん」は大変な緊張を強いられるのです。

2.《テレーマ》 タロットに「逆さ吊りの男」というカードがありますが、ウェイト版では、T字型十字架に吊るされた男に後光が差しています。罪人ではなく聖人なのです。その意味は「テレーマ/汝の意志するところを行なえ」と言われています。スランプに喘ぐアスリートや芸術家を励ます言葉にも思われますが、本来は、聖書のギリシア語「御心」です。「御心の天に成る如く」の「御心」、「私の願いではなく、御心が行なわれますように」の「御心」です。ゲツセマネでは、神の独り子ですら「御心」が分からずに苦しみ祈られたのです。御心は自明ではなく「心を新たにして自分を変えて頂く」ことが前提なのです。

3.《どすこい》 パウロは自分たちが出遭った幾多のトラブルを挙げると共に、それに対して、如何なる態度で向き合って来たかを語ります。そのトラブルには「抑圧」や「行き詰まり」など、現代社会と教会が直面する問題が含まれています。私たちも「宙ぶらりん」の状態で引き裂かれているのです。しかし、こんな時代であれば尚更、世間の評価ではなく、神さまとの関係を大切にしましょう。「見よ、私たちは生きている」「見よ、今や恵みの日」と言われています。世の人が誰も見ようとしない「御心/テレーマ」にこそ、私たちは目を向けましょう。それこそが「どっこい」「どすこい!」なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:56 | 毎週の講壇から