2018年06月18日

種を蒔き続けよう【マルコ4:1〜9】

聖句「ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」(4:8)

1.《岩波書店》 岩波書店の商標は「種まく人」です。創業者の岩波茂雄は長野県諏訪郡の農家の生まれで、苦学の末に書店を開いた人です。戦時下にも公然と軍部批判をする硬骨漢でした。青年時代に内村鑑三の影響も受けています。労働と質素と深い思索を重んじるが故に、ミレーの「種まく人」をモチーフにしたのです。勿論、ミレーの絵は「種を蒔く人」の譬えに由来しています。

2.《種は色々》 実は「マルコ福音書」の「種を蒔く人」の譬え話には「種/スペルマ」という語は出て来ません。「マタイ」「ルカ」の並行記事では「種は御言葉」との解説が添えられていますが、「マルコ」にはありません。あなたが蒔くものが、世に善を、人に幸せをもたらすなら、御言葉に囚われなくて良いのです。但し「種を蒔く人/スペイローン」という主体、「種を蒔く/スペイロー」という行為は明記されています。「種を蒔く」ことは「労働、業、働き」であり、そのために労苦するのは私たちです。1粒の「種」のように、小さく目立たないことでも、その思いは天高くに向けられているのです。

3.《種まく人》 イエスさまの譬え話は、芽を出さず、根を張れず、成長できずに枯れて行く種から始まります。農作業に付き纏う徒労感を、主は知って居られるのです。当時の農業技術では、1粒の麦の種から収穫される麦は多くて25粒でした。「30倍、60倍、百倍」は現実の農業ではあり得ないのです。しかし、成長させて下さるのは主なのです。オランダの画家、ゴッホも「種まく人」を描いています。「神の言葉を蒔く人になりたい」と、牧師を志しながら挫折した彼ですが、その絵は今も人の魂を打ちます。「我々の足が続く限り歩き続けよう。足が疲れても、苦難が大きくても、人生を進み続けよう」。

朝日研一朗牧師

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2018年06月11日

うんこ聖書ドリル【エゼキエル4:9〜12】

聖句「大麦のパン菓子のようにそれを食べなければならない。それを人々の目の前で人糞で焼きなさい。」(4:12)

1.《うんこドリル》 昨年「うんこ学習ドリル」という学習教材が出版されて、以来、爆発的に販売を伸ばしています。表紙や挿絵に「うんこ先生」というキャラクターが配されているだけではなく、その例文にも必ず「うんこ」が用いられているのです。子どもたちにとって「うんこ」は非常に愉快な存在なので、学習意欲の向上に繋がっているようです。

2.《巻き糞の誘惑》 しかし、どうして私たちは「うんこ」と言うと、とぐろを巻いたマーク、即ち「巻き糞」を連想するのでしょうか。誰も、あんな物は出したことがないはずです。実際、私の少年時代に『トイレット博士』というマンガが大人気で、小学校の男子は競い合って巻き糞を出そうと研鑽を重ねましたが、2巻き目を達成した者は誰一人いませんでした。私たち人間の腸の長さは7メートルしかありません。それに対して牛の腸は50メートルです。『Dr.スランプ』のアラレちゃんが手にする「うんちくん」は牛糞という設定なのです。

3.《うんこケーキ》 西アジアからアフリカに及ぶ地域では、牛糞に刻んだ麦藁を混ぜて、天日干し乾燥で「うんこケーキ/dung cakes」を作り、竃の燃料に利用します。紀元前589年、バビロンの軍勢によるエルサレム包囲を、エゼキエルは預言します。この未来を言葉によらず、奇妙なデモンストレーションによって預言するのです(象徴預言)。飲食物の欠乏、燃料の欠乏を「牛糞ではなく、人糞を焚き付けにして料理せよ」と主は命じられます。実演によるドリル(反復練習)です。私たちが毎週、礼拝を守っているのも、真の幸せを目指すため、人と神を愛するため、御もとに行くための「ドリル」なのです。

朝日研一朗牧師

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2018年06月04日

祈りはシンフォニー【マタイ18:18〜20】

聖句「どんな願い事であれ、あなたがたのうちの二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」(18:19)

1.《素晴らしき日曜日》 敗戦から2年後の黒澤明監督作品です。ある日曜日に若い男女がデートをしますが、貧しさ故に悔しい悲しい思いを次々に味わうことに成ります。しかし、木枯らしの吹く夕暮れ、日比谷の野音で、二人は自らの想像力の翼を拡げて、シューベルトの「未完成交響曲」を体験するのでした。指揮棒を振る彼、客席で見守る彼女、第1楽章が演奏されるのです。

2.《まだ終わってない》 この野音の場面で「励ましの拍手を!」と、彼女が叫ぶや、フランスの映画祭では実際に観客が大きな拍手を贈ったそうです。音楽の演奏会も演劇も観客の存在があって初めて完成するものです。その意味では、上演が終了する時まで「未完成」なのです。実は、聖書もまた、礼拝の中で声に出して読まれ、解き明かされ、それを受け止めた会衆が1週間の暮らしを始めることで活き始めるのです。「未完成」と言うと「不完全」であるかのように思いますが、「未だ終わっていない」「これからも続くのだ」という意味なのです。

3.《響き合う音のため》 「心を一つにする/シュムフォーネオー」は「共に声を出す、共に呼びかける」から「一致する、調和する、心を同じくする」の意味に成った語で、英語の「シンフォニー」の語源です。ラテン語の「シュムフォーニア」も「協和音」ですから、オーケストラのような大所帯ばかりが教会ではありません。カルテットもトリオもデュオもあります。異なる楽器が、聖書という楽譜に則り、イエスさまという指揮者を仰ぎながら「合奏」する時、地上の私たちも天上の神さまと回線が繋がるのです。自分の願いだけが聞かれることを願うのではなく、隣人の思いを知り、共に祈りましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:55 | 毎週の講壇から

2018年05月28日

訪れを待ちながら【ヤコブ5:7〜20】

聖句「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。」(5:13)

1.《現場を大切に》 バラエティ番組で「料理が出て来るのが速い店」ランキングをしていました。その背景に政府や企業が推進する「働き方改革」「時間短縮」があると知ってゲンナリしました。「上」から命じられることは、実際には待遇改善に結び付きません。却って「改悪」「害悪」に成る場合が多いのです。どの業種にせよ、真の改革は「現場」から始まるのです。

2.《コンテキスト》 聖書の諸文書にも各々の「現場」があるのです。イエスさまの御言葉の受け止め方が、福音書によって異なるのも、パウロの手紙の内容が宛て先によって異なるのも、現場である教会が異なり、抱えている課題が違うからです。それを「コンテキスト/文脈」と言います。単なる文章の前後関係のことではなく、文書が書かれた時代背景や状況、そこに生きた人たちの信仰を丁寧に解きほぐして吟味するのです。そのためには、私たちもまた、常に自らの「現場」から考え、発言して行くことが求められているのです。

3.《教会に留まる》 「忍耐」は「マクロス/大きい」と「テュミア/心」で「寛大な心」です。「気長に、根気強く待つ」ことです。苦難の時の「忍耐」には「ヒュポメノー/生き永らえる、持ちこたえる」が使われています。恙無く過ごす平穏な日々も、苦難に見舞われ悩む日々も、大切なのは祈りと賛美です。苦しい時に神に祈るのは当たり前ですが、上手く行っている時にも、その喜びを神への賛美に向けるのです。共に賛美する時、そこには悩み苦しむ人もいて、それは1つに溶け合って、嘘偽りのない真の賛美へと昇華されるのです。教会生活こそは私たちの「現場」、人生の「場面」、私の「所在地」なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:55 | 毎週の講壇から

2018年05月21日

祈りが勇気を呼び覚ます【使徒言行録4:23〜31】

聖句「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」(4:29)

1.《出る杭は》 アンドレ・レノレ神父は「労働司祭」として、川崎の建設現場で働き、仲間と共に「貸工」の労組を結成しました。彼の『出る杭はうたれる』は25年前の著書ですが、日本社会が個々人を大切にせず、個性や主体性を圧殺する全体主義的傾向(権力構造)が余り変わっていないことを思わされます。しかし、その中にあっても、声を上げる人たちは確実に増えているのです。

2.《仲間の所》 聖霊降臨と言うと、2章ばかりが採り上げられ、「激しい風」や「炎の舌」等の表面的な描写に囚われがちです。「多言語」か「異言」かの解釈の対立もあります。けれども、大切なのは使信(メッセージ内容)です。4章にも「新しい聖霊降臨」と呼ばれる場面があるのです。神殿の境内で、キリストの死と復活を宣べ伝えた廉で、ペトロとヨハネは逮捕され、最高法院の議員たちの前で証を立てるのです。九死に一生を得て釈放された二人は「仲間のところ」へ戻って来ます。仲間と言っても数人、10人弱に過ぎません。

《大胆不敵》 その仲間たちが「心を一つにし、神に向かって声を上げて」祈った時、聖霊降臨の出来事が起こったのです。「心を一つに」は「命を合わせる」ことです。しかも、彼らは神の助けではなく、大胆に御言葉を語るための勇気を祈り求めたのです。我が身可愛さに主を裏切り見捨てた弟子たちが、自らの弱さと罪、主の赦しの力の大きなことを体験したればこその祈りです。「大胆に」とは「言論・行動の自由、確信をもって」の意味です。自由意志の奪われた「迷信・妄信」ではありません。「大胆不敵」と言いますが、私たちも少数者ながら、誰をも敵とせず、勇気と確信をもって「声を上げ」たいものです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:27 | 毎週の講壇から

2018年05月14日

海の星【出エジプト記15:19〜21】

聖句「アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。」(15:20)

1.《海星と暁星》 カトリック教会では「聖母マリア」に「海の星」「暁の星」という称号を冠しています。学校の「海星」「暁星」もマリア会の設立です。航海技術の発達していない時代、夜に海上を行く人たちは北極星と金星を頼りにしていたのです。そこから、人生行路を渡る時に、明らかに道を示してくれるのが「海の星」なる「聖母マリア」であるとの信仰が生まれたのでしょう。

2.《海の雫から》 カトリックの国に行くと、海辺や岬に聖母マリアの像や教会が建立されています。聖母賛歌には「めでたし海の星」と歌われています。マリア、即ちミリアムの名前の意味を「海の星」と言ったのは、「ウルガタ聖書」の翻訳で知られるヒエロニムスとされています。しかし、ヒエロニムス自身は「海の雫」としていたらしい。実は、写本で「海の雫」が「海の星」と誤記されてしまったのです。その後、ローマ教会は現世権力と結び付き、「マリア崇敬」を推し進め、遂にマリアは「天の元后」とされ、王冠に星を輝かせる図像で描かれるように成ってしまったのです。誤記も意図的なものだったのかも知れません。

3.《大海の一滴》 マリアの原型であるミリアムは、「葦の海」の奇跡が起こった時、主を賛美する「海の歌」を踊り歌いました。「デボラの歌」と並んで、旧約聖書最古の詩文とされています。文字が出来て文書化され編集される遥か以前から、何百年も口伝として、親から子へ子から孫へと歌い継がれていたのです。聖書の御言葉は、私たちが「海の雫」の一滴を取り出して吟味する時、「海の星」として輝きを放つのです。ミリアムは「水」と結び付いた存在です。彼女が死んだ時、忽ち民は枯渇するのです。因みに、現代では「ミリアム」の名前は、古代エジプト語の「愛」から来ているというのが定説です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:53 | 毎週の講壇から

2018年05月07日

弱さが神の原動力【Uコリント 12:1〜10】

聖句「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。」(12:9)

1.《氷点と花束》 『氷点』で一世を風靡した三浦綾子は、24歳から13年間も結核で入院生活を送り、その後も「病気のデパート」と言われる程に沢山の持病を抱えながら執筆活動を続けました。パーキンソン病の薬のために、家の中に幻の花束が見えるようになったそうです。副作用の幻覚や妄想に悩まされる患者が多い中、彼女は幻の花束の出現を心待ちにしていたそうです。

2.《アンゲロス》 パウロは何等かの病気か障碍に苦しんでいたようで、それを「棘」「私を打つサタンの使い」と表現しています。シュヴァイツァーは「癲癇の発作」ではないかと言います。当時は原因も分からず、悪霊憑きとされていました。しかし、そんな状態のパウロを使徒として、ガラテヤの人たちは迎え入れ、福音を受け入れたのです(ガラテヤの信徒への手紙4章13〜14節)。「サタンの使い」に苦しむパウロを、不思議なことに、ガラテヤの人たちは「神の使いであるかのように」受け入れたのでした。「使い」は「アンゲロス/天使」です。自分の中に闇を抱えている方が福音は光り輝くのかも知れません。

3.《神の力の種》 物質的な豊かさが実現された現代、何もかも全て揃って、整えられて生まれて来ることが当たり前のことだと、多くの人が錯覚しています。病気や障碍、挫折や弱さを恥ずかしいことと考えて隠そうとする人もいます。しかし、神の光を当てて透かして見たら別のことが見えて来ます。パウロは自らの弱さを通して神の力の働くことを実際に経験したのです。神の力は人の弱さの中で実現する、成し遂げられるのです。私たちが自らの力量に自信を持っている時には、神の力の「種」が蒔かれていることに気付きません。自らの弱さ、無力さと向かい合わざるを得なくなった時、それは発芽するのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:53 | 毎週の講壇から

2018年04月30日

あなたがたの手で食べ物を【マルコ6:30〜44】

聖句「これに対してイエスは、『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』とお答えになった。」(6:37)

1.《主の復活メシ》 『サラメシ』『地球メシ』『ダンジョン飯』『女くどき飯』と「何とか飯」が流行です。個人的には『侠飯』を推薦します。「食べることは生きることだ」と思わされます。イエスさまは復活の後、弟子たちと食卓を囲んだり、自ら食事の用意をしたり、時には「何か食べ物はないか」と所望されたりします。まさしく、これこそは「復活飯」と言うべきでしょう。

2.《天国の大宴会》 「飲食」と言うように食べるに飲むは付きものです。イエスさまも葡萄酒の水割り飲料を飲んだはずですが、「最後の晩餐」の際に「神の国で新たに飲む日まで、葡萄の実から作った物は飲まない」と宣言された手前、それ以後、何も飲まれません。「ワイン断ち宣言」の無い「ヨハネによる福音書」だけは、十字架上で「酸い葡萄酒」を飲むのです。主の「ワイン断ち宣言」は「共観福音書」が「イザヤ書」25章6節の預言「終末の祝宴」の預言を受け継いだからです。実際には復活の主は飲み食いされたはずです。宴会のような非日常もあるのでしょうが、復活の御姿は日常の食事にこそあるのです。

3.《日常の暮らし》 「五千人の養い」の記事を読むと、私たちは、5千人、1万人もの人に給食する、イエスさまの奇跡の大きさに目を奪われがちです。しかし、数の多さではなく、主の御心に目を向けるべきです。「荒れ野」まで付いて来る群衆の寄る辺無さに、主は胸を痛めて「何か食べ物を」と仰るのです。弟子たちは「2百デナリオンの経費」を計算してしまいます。それに対して「与えよ/彼らに/あなたがたが/食べることを」を告げられたのです。主の御心は単純です。目の前にお腹を空かしている人がいれば食べ物を分かち合う。その人と共にいる。それこそが愛の本質であり、愛の業だと思います。

朝日研一朗牧師

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2018年04月23日

箱舟の行方【創世記6:9〜22】

聖句「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。」(6:11,12)

1.《沈みゆく箱舟》 最近では動物園や水族館が「ノアの箱舟」としての使命を主張するようになりました。生物種の精子や卵子、DNAを保存する「冷凍動物園」もあります。現在、1年間に4万種もの生き物が絶滅しています。この40年で「種の絶滅速度」が急速化したのです。環境学者、ノーマン・マイヤーズはこの状況を予見して「沈みゆく箱舟」に私たちは乗っていると言いました。

2.《もののあはれ》 日本的な感受性なのでしょうか、私は「洪水物語」を読むと「平家物語」の「壇ノ浦」(安徳天皇入水)を思い出すのです。滅び行く者たちに思いが向かうのです。SF作家のケン・リュウは、小惑星の衝突で地球が消滅する直前に、宇宙船に乗り組んで「最後の日本人」となった青年を描いています。その彼も宇宙船の船外修理に自らの命を捧げて、彼の死と共に、日本文化も日本語も、日本的感性と悟性も失われます。しかし、彼は宇宙船を未来に送り出したのです。かつて日本人の両親が自分たちは乗船せずに、彼だけを宇宙船に乗せて送り出したように…。箱舟に乗らずに、箱舟を見送った人たち、送り出した人たち、動物や植物がいたのではないでしょうか。

3.《箱舟を去る日》 勧善懲悪のハリウッド映画では、箱舟に乗れなかった人たちは全て「極悪人」のように描かれますが、本当でしょうか。「堕落」と訳されているのは「壊す」、神の秩序の破壊です。「不法」は「暴力」です。破壊と暴力によって犠牲になっている人たち、動植物もいたのです。箱舟の生活も互いに譲り合わなければ生き延びられない窮屈さに、震災後の公民館や体育館が思い出されます。「箱舟」とは「箱/テーバー」です。私たちは限りある命、儚い存在なのです。だから互いを大切にしなければならないのです。「箱」から出る未来に、私たちが主の描く虹を見ることを展望しているでしょうか。

朝日研一朗牧師

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2018年04月16日

朝の食事をしなさい【ヨハネ 21:1〜14】

聖句「イエスは、『さあ、来て、朝の食事をしなさい』と言われた。弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。」(21:12)

1.《食文化の変容》 数年前、朝食を摂らない子どもたちの実態が明らかになり、官民挙げての「朝食キャンペーン」がなされました。しかし、1日3食は近代に生まれた文化です。元禄時代までは朝夕の2食が普通、農民は以後も1日2食でした。先進の欧米でも2百年前まで昼夕の2食が普通でした。1日3食の背景には、各国とも技術革新と産業界の思惑があったのです。

2.《招かれた食事》 復活のイエスさまが弟子たちを「朝の食事をしなさい」と招かれました。「アリスタオー/朝の食事をする」という動詞の存在に驚きます。健啖家の古代ローマ人は1日4食、その「遅い朝食」に当たるのが「アリストン」とされています。古代ギリシア人は1日3食、古代ユダヤ人は1日2食、彼らの「遅めの朝食」は殆どランチタイムでした。事実「ルカによる福音書」14章12節では「アリストン」が「昼食」と訳されています。朝か昼かの時間帯よりも、イエスさまが正式に招待され、その招きに応えて、弟子たちが共に会食した「正餐」であることが一番大切なことなのです。

3.《主に赦されて》 日本社会には「接待」文化があり、業務時間外に取引相手の社員を招待して会食をします。接待では、嫌いな人であっても、上辺だけ取り繕って飲食を共にします。しかし、ユダヤ人は、嫌いな人、許すことの出来ない人とは決して食事をしません。だからこそ、イエスさまが徴税人や罪人と食事をしているのを見て、ファリサイ派が不快感を表明するのです。共に食事をすることは、イエスさまが罪を赦されている何よりの証明です。しかも、主の赦しの恩寵に、弟子たちが気付いて、それを受け取って初めて、赦しは成立するのです。それが主の「ブレックファスト・クラブ」だったのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:54 | 毎週の講壇から