2018年12月17日

摩訶不思議アドベンチャー【マタイ2:1〜12】

聖句「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(2:2)

1.《西方への旅》 『西遊記』は唐代の僧侶、玄奘三蔵が6万キロに及ぶ旅をして仏教の経典を持ち帰った史実が基に成っています。「西域への旅」と言ったら「占星術の学者たち」も同じです。東方(メディア、ペルシア、パルティア、バクトリアまでを含む)からユダヤまで往復4千キロです。玄奘三蔵には及びませんが、大変な苦難の旅であったろうことは想像に難くありません。

2.《時間の経過》 16世紀の天文学者ケプラーは、惑星運動の立場からキリスト降誕を紀元前7年と特定しました。キリスト降誕日については、最近では、英国のデイヴィッド・ヒューズ説(紀元前7年9月15日)、米国のマイケル・モルナー説(紀元前6年4月17日)等もあります。モルナー説で感心したのは、その距離と時間感覚です。博士たちが東方で星を見たのが4月、ペルシアから旅に出発したのが9月、御子のもとに辿り着いたのが12月だと言います。イエスさまは既に生後8ヶ月、離乳食を食べてハイハイをしています。博士たちは3ヶ月も掛けて旅をした末に、漸くキリストに相見えたのです。

3.《冒険が準備》 降誕日が何日に成ろうと、私たちが教会暦に従ってクリスマスをお祝いすることに変わりありません。大切なのは「キリストを礼拝すること=クリスマス」だからです。「アドベント」はラテン語の「アドウェントゥス/到来」です。「待つ」ことは副次的なことです。むしろ、私たちに求められているのは「冒険/アドベンチャー」かも知れません。欧米には「make a difference/違いをもたらす、世の中を変える」ために、この季節に何か1つ新しい試みをする習慣があります。神さまは、愛する独り子を世に送るという大変な冒険を為さったのです。私たちも小さな愛の冒険をしましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:55 | 毎週の講壇から

2018年12月10日

賢い女子たちのともし火【マタイ 25:1〜13】

聖句「賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。」(25:4)

1.《ある夜の物語》 SF作家、星新一のショートショートです。クリスマスイヴに「何でも願いを叶えて上げよう」と、サンタクロースが現われますが、孤独な青年も病気の女の子も、貪欲な金貸しも社会転覆を企むテロリストも、誰かが自分のことを思ってくれていたと気付いて、権利を譲って行くのです。そして何も貰わないのに、満足や喜びや幸せに溢れて行くという寓話です。

2.《賢者の贈り物》 O・ヘンリーの有名な短編では、若夫婦が自分の宝物を売ってプレゼントを購入しますが、無益な品物となります。その結果だけを見れば、愚かしく思われますが、この愛情の交換こそが、本当の「賢さ」なのだと作者は言います。「賢者」とは「マギ」、キリスト降誕を知って、東方から訪ねて来た占星術の学者たちのことです。メディア(現在のイラン北西部)の部族の中で、天文と魔術に通じた階級と言われています。つまり、本当の「賢さ」とは何なのかという、作者の問い掛けは、聖書のメッセージから来ているのです。

3.《ともし火の油》 迎えに来る「花婿」は再臨のキリスト、「十人の乙女」は信者、「婚宴」は天国です。だから「目を覚まして」「怠り無く準備して励めよ」と教えられて来ましたが、一番大切なのは「壺の中の油」を切らさないことです。「油/エライオン」は「憐れみ/エレオス」に通じますから、「愛の油、愛のともし火」なのです。「賢い」は頭の回転の速さや要領の良さ、利口さではなく「思慮深い」こと、他者のことを慮る愛の心なのです。「目覚めている」人とは、自分は愛されていて、自分もまた、誰かのために何事か出来ると感じている人のことです。「愚かな乙女」も「賢い乙女」も私たち自身の姿です。

朝日研一朗牧師

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2018年12月03日

君はひとりじゃない【マタイ1:18〜25】

聖句「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(1:23)

1.《トラブル続き》 世の中のクリスマスのお祝いモードと間逆で、聖書の中のクリスマスは、悩み苦しむ人たちの姿を描いています。受胎告知を受けたマリアも、許婚の妊娠を知ったヨセフも悩みますし、受け入れた後もトラブル続き。身重でベツレヘムまで旅をして、泊まる宿無く、漸く出産したら「避難しろ」と言われる始末です。「選りにも選って、こんな時に!」という事件の連続です。

2.《二人の修羅場》 新約外典「ヤコブ原福音書」によると、マリアは老人の男寡ヨセフに引き取られた時には12歳、受胎告知の時には16歳だったとされています。妊娠6ヶ月でお腹の膨らんだマリアに、ヨセフはショックを受けて悶え苦しみます。ヨセフは詰問し、マリアは「私にも分からない!」と泣きながら反論します。正典では、マリアもヨセフに独りで苦悩する姿が、それぞれに描かれています。しかるに「ヤコブ原福音書」では、当事者である二人が真正面から衝突する、ドロドロした修羅場が描かれているのです。

3.《インマヌエル》 修羅場を描けばドラマチックですが、繰り返し読み返すと陳腐に感じられるようになります。毎年読み直していても、正典の描く二人の苦悩が陳腐に感じられないのはドラマ性を追求しないで、苦悩の本質である孤独を浮き彫りにしているからに違いありません。ヨセフには「正しい」「憐れみ深い」人だからこその苦悩があります。罪を犯した人ですら苦しみます。しかし、何の罪も犯していないのに苦しむ、不条理に耐えているのです。しかも自己憐憫ではなく、マリアを思って苦しんでいるのです。そんなヨセフに、神さまは「インマヌエル/君はひとりじゃない」と告げられたのです。

朝日研一朗牧師

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2018年11月26日

どんな果実にも種がある【マルコ4:26〜29】

聖句「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」(4:26,27)

1.《食物リレー》 私たちの食べている物は自然からの恵みです。それを収穫するために働いている農業者、漁業者、生産者があり、それを運ぶ人、売る人、料理する人の手を経て、初めて私たちの口に入るのです。後片付けをする人もいます。丁度、人から人へとバトンや襷を繋ぐリレーのようです。自然界に食物連鎖があるように、人間の社会にもリレーがあるのです。

2.《バナナの皮》 バナナを皮ごと食べる人はいません。しかし、中の白い部分も「実」ではありません。「外果皮」に対して「内果皮」と言います。私たちはバナナの皮を食べているのです。イチゴの赤い部分も「実」ではありません。茎の先端に果肉が付いているのです。ミカンも中身に至っては毛なのです。房から細胞の毛が生えて来て、袋の中で成長し、甘い汁が溜まったのです。その名残が白い筋のような繊維質「アルベド」です。食用に品種改良され退化していますが、これらの果物の中にも、かつては種があったのです。

3.《見えない種》 マジシャンが「種も仕掛けもありません」と口上を述べますが、本当は仕掛け(トリック)があるのです。但し、それは種のように小さくて観客が気づくことが出来ないのです。イエスさまの譬え話の農夫も自分で種を蒔いて置きながら、どうして成長して行くのか分からないのです。奈良県の社会福祉施設「たんぽぽの家」で入所者が思い思いのアートを作っています。「エイブル・アート/可能性の芸術」と言うのだそうです。障碍者は「出来ない人」ではなく、何事か「出来る人」なのであり、彼らの創造にこそ、むしろ社会の在り方や仕組みを変えて行く「種」が隠されているのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:54 | 毎週の講壇から

2018年11月19日

この子を受け入れる人が…【マルコ10:13〜16】

聖句「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(10:15)

1.《目的と手段》 最近「ユニセフ・マンスリー・サポート・プログラム」の広告がメディアを使って大々的に行なわれています。テレビやDMは勿論、山手線の車両を使った宣伝もありました。広報の必要性は理解できますが、現場での活動と広告との乖離を感じさせられます。目的と手段の一致は、私が福音から教えられた真理です。目的が愛であるなら、手段もまた愛でなくてはなりません。

2.《子の立会人》 一行が町に入ると、人々がイエスさまに「触れて」頂くために、子どもたちを「連れて来」ました。主は子どもを「抱き」「手を置き」「祝福」されました。まるで保育学の教科書のようです。子どもが成長するのに必要なことばかりです。触れること、抱くこと、「連れて来る」は「外に出す」(外遊び!)、「祝福する」は「誉める」(誉めて伸ばす!)です。「手を置く」は聖別の祈りですが、任務の委託の意味があります。親の願いではなく、神さまが与えられた使命を全う出来るように祈るのです。大人は子どもの人生の立会人なのです。

3.《子供と貧困》 貧困と言っても、衣食住に窮する「絶対的貧困」と、経済的な理由で人生の可能性が損なわれる「相対的貧困」があります。紀元1世紀のパレスチナでは、ヘロデ王家の失政による財政破綻、領土の分割、ローマの支配に加えて、自然災害と飢饉もあり、絶対的な貧困層(プトーコス)に溢れていました。「縮こまる、蹲る」という語源が極貧の状態を表わしています。町の人たちは「養いの奇跡」で評判のイエスさまの来訪に、子どもたちを押し付けようとしたのです。だから弟子たちは叱ったのです。シュテーゲマンは「1人の子どもを受け入れる人が神の国に入る」という解釈を提案しています。

朝日研一朗牧師

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2018年11月12日

神に知られている私【ガラテヤ4:8〜11】

聖句「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに…」(4:9)

1.《自分を知る》 自分を知るということは、そんなに簡単なものではありません。私たちは、自分の性格をある程度知ることも出来ますが、多くの場合、自己理解に基づいており、自己理解を形成してきた過去に溯るもので、絶対的なものではないと言えます。そもそも自分は何者か、ということを知ることが問題です。

2.《自己と他者》 宗教改革者のカルヴァンは『キリスト教綱要』の冒頭に、人生で最も大切なことは、神を知ることと、自分を知ることであって、この二つは結び合っている、と言いました。でも、私たちは普通、自己について無自覚に生きて、自分の業績や生き方に満足している、とも言っています。キルケゴールは、自己とは関係であって、それ自身が関係に関係する関係である、と言っていました。自己は、相矛盾する二つの要素から成っていて、この二つの関係に関係するのが自己ですが、そのように定めた他者が更にいて、この他者との関係が壊れているために、二つの要素も調和せず、自己に成ろうと絶望的な病に陥っている、と言いました。しかも、多くの場合、それを忘れて生きているのです。

3.《十字架の姿》 聖書は、神を知ることは「十字架につけられたイエス・キリスト」をはっきりと見る、その福音を聞くことである、と述べています。十字架のキリストは、私たちの姿をはっきりと目の前に描いて見せてくれます。これは神に呪われた人間の姿である、とも言っています。それだけではなく、これは神に受け入れられ、愛されている人間の姿でもあります。私たちは、この姿のうちに、私たちの惨めな姿を見ると同時に、それが神に知られ、受け入れられ、愛されていることをも見るのです。ここで私たちは、神を知ることと、自分を知ることの、二つのことを、しっかりと見出すのです。

渡部 満(銀座教文館代表取締役社長)

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2018年11月05日

来る年も来る年も【士師記11:34〜40】

聖句「来る年も来る年も、年に4日間、イスラエルの娘たちは、ギレアドの人エフタの娘の死を悼んで家を出るのである。」(11:40)

1.《死の無残さ》 人生の歩みが十人十色であるように、最期の迎え方も同じではありません。同じ病気で亡くなろうと、同じ日に亡くなろうと、全く異なるのです。死は自然の理と言いつつも、愛する者と引き裂かれる人にとっては大きなダメージです。医療の発達により長寿が可能になっても、死の実態は変わっていません。ある日、私たちの絆は無残に断ち切られてしまうのです。

2.《士師エフタ》 勇者エフタはギレアドの長老たちに乞われて、軍の司令官と成り、アンモン人との戦いに勝利します。しかし、決戦の前に「勝利の暁には自宅から私を迎えに出た者を生贄に捧げる」と神に誓いを立てるのです。人間の体と命を捧げる「人身御供」が最も強い影響力を持つとされていたのです。結局、父の凱旋を喜び飛び出した一人娘を生贄に差し出すことになります。エフタは勇者と言っても、実の娘に優しい言葉も掛けず逆ギレするダメ男の典型です。その無責任、無慈悲、無節操は、彼が「ならず者」の親分だった出自を思わせます。男の「冒険」の尻拭いを女性がさせられているのです。

3.《エフタの娘》 娘は12〜13歳の女の子のはずですが、父の誓いの責任を自ら果たそうとするのです。古代社会では、妻となり母となり、子をもうけることが女性の唯一の義務とされていました。さもなければ、神からも民からも「記憶されない者」として打ち捨てられるのです。父のため、その運命を受け入れた娘は、結婚式の付添い人を思わせる女友だちと最期の日々を過ごします。娘は生贄にされますが、少女たちは彼女のことを忘れず、その記念の儀式は伝統に成ったのです。作家の高橋たか子は「死者に対する礼儀は2つある。1つは沈黙すること、もう1つは、彼らのことを決して忘れないこと」と言います。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:55 | 毎週の講壇から

2018年10月29日

悲しみが喜びに変わる時【ヨハネ16:15〜24】

聖句「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」(16:20)

1.《年末の第九》 年末に「第九」の演奏会が恒例になったのには、2つの契機があったと言われています。1943年の学徒動員で兵隊に取られる音大生たちが、入隊直前に「第九」を演奏、その多くが戦死し、戦後、彼らへのレクイエムとして演奏された説。また、戦後の食糧難の折り、NHK交響楽団が楽団員の年越し費用を稼ぐためにk恒例化したとも言われています。

2.《契約の更新》 ベートーヴェンは弱冠25歳にして音楽家として成功を治め、ウィーン社交界の花形と成りますが、やがて難聴に苦しめられ、数年後には自死を思う程に追い詰められます。何しろ、聴覚は音楽家にとって最も大切な感覚です。それを失ってしまったのです。そして、他の人に聞こえる音が、自分には聞こえない不幸は、彼を二重に苦しめたのです。その心中を、弟たちに宛てた「ハイリゲンシュタットの遺言」の中で吐露しています。しかし、芸術への愛の故に踏み止まるのです。ですから「テスタメント」には「遺書」ではなく、むしろ「覚悟表明」「神との再契約」の意味があります。

3.《生まれる時》 私たちの人生にも不幸や苦難の時が訪れます。聖書で「杯」「器」と言うのは、自分の分を表わします。キリスト教信仰は、不幸に対する優れた解釈であり、不幸と向き合う姿勢です。それ故、主は「悲しみは悲しみのままに終わらない」と仰るのです。女性が出産に際して味わう苦しみを例に挙げていますが、「変わる」も「ゲンナオー/子を産む」です。いつか、その悲しみが深い喜びを生み出すのです。「自分の時が来たからである」は、イエスさまの「わたしの時」、十字架の時に通じます。それこそ「人生のクライマックス」、私たちは皆、この時を受け取るために生まれて来たのです。

朝日研一朗牧師

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2018年10月15日

光あるうちに光を信ぜよ【ヨハネ12:27〜36】

聖句「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。…光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(12:35,36)

1.《リプレイ》 誰でも「人生、もう1回やり直せたら」と考えることがあります。ケン・グリムウッドのSF小説『リプレイ』(1988年)では、心臓発作で死亡した主人公の意識が戻ると、18歳に戻っています。その後「強制終了」と「強制再生」が繰り返されるループと成るのですが、何度、過去をやり直しても死は避けられません。過去を変えることに大きな意味は無いのかも知れません。

2.《時がある》 何も「タイム・トラベル・ファンタジー」は小説や映画の中だけの話ではありません。私たちの肉体は時間と空間に縛られていますが、精神は自由なのです。だからこそ、私たちは、亡き人を想起したり過去を懐かしむことが出来るのです。そのジャンルの先駆けとされる、英国の児童文学者、アリソン・アトリーの小説『時の旅人』(1939年)巻頭の題辞に「時あり、時ありき、時はなし」と記されていました。人間には時の移ろい、時の流れを止めることは出来ませんが、その時を知って、決断したり行動したりすることは出来るのです。残念ながら、その時を逃してしまうこともあるのですが…。

3.《光の歩み》 イエスさまの仰る「光と闇」は「昼と夜」です。その意味で日時計を思い出させます。「日時計」は何の仕掛けも無い「ダイヤル/目盛り」に過ぎません。多くの日時計には碑銘が刻まれています。例えば「私は晴れの日だけ時を刻む」「暗い時は刻まず、日の当たる時のみを刻む」とかです。人生には明るい日も暗い日もあります。しかし、復活の光、命の光を投げ掛けられるイエスさまは、闇を抱える私たちを照らし「光の子」へと変えて下さるのです。日時計と同じく、私たちの闇の業をカウントせず、光の業だけをカウントして下さるのです。その約束の徴こそ、この日曜日の朝の礼拝なのです。

朝日研一朗牧師

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2018年10月08日

すべての人と和らげ【ローマ 12:9〜21】

聖句「すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」(12:17,18)

1.《フィラデルフィア》 映画『ロッキー』の舞台は、ペンシルヴェニア州フィラデルフィアです。ここに合衆国建国の理念の原点「信教の自由」があるからです。クエーカー教徒のウィリアム・ペンが、欧州の宗教迫害や不寛容から逃れて来た、全ての教派の人に開かれた町として設立したのです。人が自らの信念によって自由に生きることが保証されているのです。

2.《結び合わされた者》 フィラデルフィアとは「兄弟愛」を意味します。新約聖書に174回も使用される語です。「兄弟愛」と言っても肉親のことではありません。地縁血縁の紐帯ではなく、信仰による繋がりなのです。残念ながら、仲間意識には排他性と現実逃避が付きものです。誰かと誰かが盛り上がれば、疎外感に悩む人が出て来ます。仲間意識を保ちながらも、内輪で固まらず、常に外の人に目を向ける姿勢が大切です。日本では「ブレザレン」を「兄弟」ではなく「同胞」と訳しました。日本語の「兄弟/姉妹」に比べて、ギリシア語の「アデルフォス/アデルフェー」が、性差を強調していないことも忘れてはなりません。

3.《真の幸福とは何か》 キリストに結ばれた者は、年齢の序列や性差、性別も超えて行くべきです。仲間意識も超えて行くのです。勿論、核に成るのは「兄弟愛」ですが、旅する同信の友、喜ぶ者と悲しむ者、身分の低い人へと順々に、その愛は広がって行き、敵や迫害する者にまで向けられるのです。一足飛びに出来ることではありません。「せめて」と訳されている語句は「あなたがた自身に応じて、あなたがた次第、あなたがたに掛かっている」です。自分の愛が偽りであることが露わになるかも知れません。しかし、失敗と挫折を繰り返しながら、神の下さる祝福を信じて、真の幸福を求めて参りましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:56 | 毎週の講壇から