2020年01月13日

子どもがおとなを支えてる【マタイ18:1〜5】

聖句「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(18:3)

1.《自然の子》 江戸時代中期の漢方医、香月牛山の『小児必用養草』には、乳幼児を大切に育てるために必用な心得が記してあります。例えば、離乳に関しても「断乳」を強いることをしません。これは21世紀の母乳育児を先取りしています。強制よりも自然を大切にしているのです。しかし明治以後、子どもは国家目的のために人材育成(教育)の対象とされて行くのです。

2.《小さい人》 弟子たちは、地上での業績が反映されることを前提に、天国での順列を競い合っていました。しかし、主は「パイディオン/幼児」を彼らの真ん中に立たせて、方向転換をして「小さい子として生まれ変わる」ことをしないと、そもそも天国に入れないと仰るのです。4節の「自分を低くして」は「マリアの賛歌」に「身分の低い、取るに足りない」と言われていた語です。大物を目指すべきではないのです。古来、日本には「小さ子」信仰があります。神が幼児の姿を借りて現われ、人に幸せをもたらすのです。まさにクリスマスです。

3.《天国の門》 イエスさまが最後に仰ったのは「私の名のために、このような一人の子どもを受け入れる」ことです。「受け入れる」は「客として迎え入れる」の意味があり、クリスマスの飼い葉桶を思い起こさせます。「認知する、甘受する」もあります。親たち(特に母親たち)は子どもと一緒に生きるために、自分の人生を犠牲にせざるを得ません。しかし実は、その時、私たちが主の支配と加護(御名、御国)に迎え入れられていたのです。石井桃子は「おとなになってからあなたを支えているのは、子ども時代のあなたです」と言いました。あなたの中にある子どもを受け入れる時、天の門が開かれているのです。

朝日研一朗牧師

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2020年01月06日

新しい歌のたぐい?【黙示録 14:1〜5】

聖句「彼らは玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌のたぐいをうたった。」(14:3)

1.《お目出度さ》 小学唱歌「一月一日」は、♪「年の始めの例とて/終りなき世のめでたさを…」と歌っています。子ども心にも「終りなき世などあるものか」と思っていましたが、改めて歌詞の意味を確認すると「天皇の御世が永遠に続きますように」という祝詞だったのです(作詞の千家尊福は出雲大社の宮司)。穢れた古い年を祓うことで、天皇制の存続をお祈りする歌だったのです。

2.《怪文書誕生》 キリスト者にとってのお目出度さは、世の終わりに救われることです。「ヨハネの黙示録」の内容はそれに尽きます。しかし、意味不明の象徴や数字に溢れていて、決して分かり易い文書ではありません。ドミティアヌス帝の「皇帝礼拝」強制によって流刑に処せられた人物が、迫害時代の只中にあって、ローマ帝国の滅亡の幻を語っているのですから、当時は「怪文書」だったのです。しかし、ローマ帝国が滅亡して久しい現代においては「怪文書」ではありません。オカルトの「怪文書」のようにして読むべきではありません。

3.《新しく歌う》 現代に生きる私たちにとって、「黙示録」の価値は、物事を「終わりから見る」視点です。終わりから現在を見詰め直して、今を如何に生きるべきか考えるのです。今しか見ようとしない人たちは、現権力に迎合するだけで、現状維持と永遠の成長という虚構に執着します。救われた人たちが、神の御前にあって「新しい歌のたぐい」を歌います。直訳すると「あたかも新しい歌であるかのように歌う」のです。新曲ではありません。主の血に贖われて、新しく生まれた人たちが歌っているから「新しい」のです。世の仕組みに追従したままでは「新しい歌として」歌うことは出来ません。

朝日研一朗牧師

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2019年12月30日

宿無しと野宿者のバラード【ルカ2:1〜20】

聖句「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」(2:8)

1.《降誕節》 教会暦に厳密であれば、先週の日曜日は未だ「降誕節」に入って居らず「待降節第4主日」でした。本日こそが「降誕節第1主日」、本当のクリスマス礼拝です。しかし、東方正教会では1月6日の「公現日」こそがクリスマスです。但し、これらは飽く迄も教会暦上のクリスマスです。キリスト者が降誕、復活、聖霊降臨(再臨)の救いの御業を軸にして過ごすための行事暦です。

2.《野宿者》 12月25日にせよ1月6日にせよ、聖地において、真冬に野宿しながら羊の放牧をしていることはあり得ないと言われます。乾季と雨季の二季しかなく、冬は雨季の真っ只中だと言うのです。3世紀末に、アレクサンドリアのクレメンスが降誕を「5月20日」としたのは尤もです。冬のクリスマスはローマ帝国の冬至に設定した後付けとされています。しかし、この「羊飼い」がユダの荒れ野にいるベドウィンならば、冬でも放牧をしているかも知れません。「雨蔭」のために、冬にも降雨量が殆ど無かったからです。

3.《宿無し》 ベドウィンは誇り高い民族ですが、「野宿をしている/アグラウロス」という語の中には「野原(アグロス)が住まい(アウレー)なんだって」という、定住者の側から見下すような、一種の蔑みが感じられます。「野宿者」と言えば、現代の私たちは「ホームレス」を連想します。様々な事情で安心して宿る場所を失った人たちです。それは「泊まる場所がなく」宿無し状態で生まれたイエスさまと、どこかで繋がっていると思うのです。降誕の知らせは寛ぎの「客間」にではなく、(これが雇い人の羊飼いならば)「夜通し」働く非正規雇用労働者の所に先ず届けられたのです。年の瀬に寒風に晒され、心細い思い、憂いや悲しみに心塞がれた人の隣人となるために、主は来られたのです。

朝日研一朗牧師

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2019年12月23日

救い主のまなざしは…?【ルカ1:46〜56】

聖句「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。/身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。」(1:47,48)

1.《神の母として》 カトリック教会では「聖母マリア」と称えますが、プロテスタント教会では「母マリア」と素っ気無く呼んでいます。素っ気無さには理由があります。古代から現代に至るまで、「神の母」「生神女」「パナギア」「天の元后」等と称号を付与され、「永久処女説」「無原罪の御宿り」「聖母の被昇天」と、あたかも女神ででもあるかのように祭り上げられてしまったのです。

2.《ありのままの》 宗教改革者たちは、聖書の証する信仰に忠実であろうとして、マリアを「栄光化」することを拒んだのです。高貴な人が存在する限り、卑賤な人も存在します。「マリア崇敬」のように特定の女性を崇拝することは、女性差別や女性軽侮と表裏一体です。マリアは特別な存在ではなかったと考える方が彼女自身の信仰告白「マグニフィカート」にも適っています。「身分の低い」は身分制や階級を言っているのではなく、「見すぼらしい境遇」「取るに足りない状態」の意味です。年端も行かない小娘であること、信仰や人生経験の不足を言っているのかも知れません。しかし「神の力は弱さの中に働く」のです。

3.《神の偉大な業》 「マリアの賛歌」の中心メッセージは「偉大なこと」です。ペンテコステの記事(使徒言行録2章11節)にもあります。キリストの誕生と教会の誕生に共通する語です。聖霊降臨の祝祭的な様子に比べると、如何にも地味です。実際、マリアは身寄りも宿も無く、祝福する人もいない中で、キリストを出産するのです。けれども、そんな貧しく、何の権力も持たない庶民の一人一人に「主は目を留められる」のです。世間の脚光が照らすのとは全く異なる所に「救い主の眼差し」が注がれているのです。挫折や後悔に満ちた私たちの人生ですが、思い通りに成った人生だけが祝福ではありません。私たちの人生が、他の誰かの人生よりも劣っている等ということはありません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:53 | 毎週の講壇から

2019年12月16日

信じた人は何と幸いでしょう【ルカ1:26〜45】

聖句「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(1:45)

1.《命の瀬戸際》 イングマル・ベルイマン監督の映画『女はそれを待っている』は、産婦人科病院を舞台に同じ病室の3人の女性が描かれます。流産直後に再び妊娠して結婚生活を呪っているセシリア、男に騙されて捨てられ、望まぬ妊娠をしたヨルディス、子どもの誕生を心待ちにしているスティナです。しかし、皮肉なことにスティナの子は死産でした。原題は「命の近く」「命の瀬戸際」です。

2.《喜び仕える》 マリアが天使から受胎告知を授かった時、エリサベトは妊娠6ヶ月でした。聖人伝は、訪問の際、マリアは3ヶ月、エリサベトは7ヶ月と言います。「ロザリオの祈り」の「御訪問」には「自分のことよりも、いつも喜んで他人に奉仕する愛する心を深めることが出来るように」との課題が掲げられています。つまり、マリアは自身が心に大きな不安と苦悩を抱えていながらも、咄嗟に他人に手を差し伸べるために動いたのです。「自分よりも他者を優先するのが愛だ」と言われますが、喜びが宿っていることが大切なのです。

3.《喜びの訪れ》 マリアは喜びの余り「急いで行った」のです。「挨拶した」との表現もギリシア人の挨拶「カイレー/喜べ」と繋がります。受胎告知の場面では「おめでとう」と訳されています。その声を聞いて、エリサベトの胎の子は「歓喜に飛び跳ねる」のです。聖霊に満たされたエリサベトはマリア母子を賛美/祝福します。これら全てに喜びが宿っているのです。マリアは自身の懐妊は誰からも喜ばれない、理解されない、祝福されないと思っていました。しかし、この時初めて、自身も胎の子も祝福された存在であることを実感したのです。そして「マリアの賛歌/マグニフィカート」を歌うのです。他の人と喜びを分かち合う時、私たちの悩みや憂いが喜びへと変えられるのです。

朝日研一朗牧師

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2019年12月09日

信じなかった人にも喜びを【ルカ1:5〜25】

聖句「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」(1:20)

1.《競走馬の名前》 私は賭け事はやりませんから、競馬場に足を運ぶことはありませんが、競走馬のネーミングセンスの面白さには、以前から深い関心を持っています。20年程前に中央競馬会に「ザカリヤ」というサラブレッドがいたのです。「クルアーン」の「ザカリーヤー」からの命名ですが、勿論、新約聖書の洗礼者ヨハネの父親、祭司ザカリアのことに他なりません。

2.《人生の同伴者》 クルアーンの記述には、妻のエリサベトの名前がありません。そもそもマルヤム(母マリア)以外に女性の名前はないのです。「ルカ」には「二人とも」なる語が2度も繰り返されていて、この老夫婦が人生を一緒に歩んで来た道程を想像させます。妻が不妊であれば離縁される時代、何等かの罪を犯した故の不妊と誹謗中傷される時代です。非の打ち所の無い信仰が強調される点からも、二人の闘いが読み取れます。また、エリサベトは大祭司「アロン家の娘」ですから、ザカリアは婿養子、立場の弱い恐妻家だったのかも知れません。

3.《二百日の沈黙》 クルアーンでは、ザカリアの口が利けなくなるのは3日間ですが、「ルカ」では「十月十日」です。余りにも長過ぎるので、御言葉を信じなかった天罰や懲らしめのように思われます。しかし神の御力を示す奇跡の「徴」なのです。これまで何度も流産の経験があったのでは無いでしょうか、妊娠安定期の5ヶ月目に入ったエリサベトが、声高らかに宣言するのを見ると、「信じる」も「信じない」もなく、御言葉を「感じる」、そんな感性も求められているように思います。ザカリアの二百日も、主の御言葉を全身全霊で「感じる」ための期間だったのでは無いでしょうか。たとえ不自由を負わされても、神の恵みを体全体で感じる「喜び」が、ザカリアにも臨んだのです。

朝日研一朗牧師

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2019年12月02日

神を見た者はいない 【ヨハネ1:14〜18】

聖句「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(1:18)

1.《サンタの存在》 今から122年前、米国はNYの「ザ・サン」なる新聞社に8歳の女の子から「サンタクロースはいるのですか?」という質問が届き、その返事が社説として掲載されました。論説委員F.チャーチは「この世には、愛や思い遣り等、目には見えないけれども、確かに存在するものがある。それと同じく、サンタクロースも確かに存在する」と訴えたのです。

2.《真心と想像力》 この記事は大きな反響を呼び、再掲載を求める投書が相次いで寄せられました。そして百年以上経った今も、クリスマスの季節とも成れば、この文書は世界中で語り継がれているのです。「サンタクロース」を「キリスト」、あるいは「真心」と読み替えれば、信仰の有る無しに関わり無く、誰でも得心が行くはずです。私たちが聖書を読む時に必要なのが、この想像力です。愛と思い遣り、真心と信頼です。勿論、私たちに「真心」(嘘偽りの無い誠の心)があるとは言い難いのですが、「一寸の虫にも五分の魂」です。「魂」をもって触れることが大切なのです。「魂」とは愛と寛大さと信仰に他なりません。

3.《神の愛を見よ》 教会生活を続けていると、人に躓くことがあります。そんな時、必ず牧師から言われるのは「人を見ないで、神を見よ」という言葉です。しかし「神を見た者はいない」とあります。しかるに、14節には「私たちは神を見た」と言います。これは「霊的に見抜く」という意味の語です。神なる「父の懐にいる独り子」が世に遣わされました。「懐」とは神さまの「命、魂」そのものです。神さまは、私たちに御自身の「命、魂」を与えられたのです。そこに神の「恵みと真理」「慈しみと真」があるのです。いずれも目に見えるものではありません。しかし、あなたを愛して止まぬ神に心を向けましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:51 | 毎週の講壇から

2019年11月25日

魚の口から銀貨 【マタイ17:24〜27】

聖句「湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。」(17:27)

1.《つつぼ口》 小さい頃、私は母親から「つつぼ口」と言われていました。炊き立てのご飯の中に砂利が入っていたり、コロッケの中に長い髪の毛が入っていたり、味噌汁の中に虫が飛び込んで来たりするのです。その都度、母親から、私が「つつぼ口」のせいだと言われるのです。「つつぼ」とは「土穂」の訛ったもの、「落ち穂」の事だと、最近に成って漸く分かった次第です。

2.《魚の中に》 「太平記」には、壇ノ浦の源平合戦の最中、悪七兵衛が海中に落とした日本刀をイルカが飲み込み、百何十年後に、大森彦七の手に渡る話があります。「南総里見八犬伝」では、犬飼現八の誕生祝いに父親が釣って来た鯛から「信」の珠が出て来ます。ヘロドトスの「歴史」によると、ポリュクラテスは、過ぎたる幸運を諫めるファラオの助言に従って指輪を海に捨てるのですが、釣り上げられた魚から指輪が出て来て、主人の手に還って来ます。グレゴリウスは知らずに犯した罪を悔いて、自ら鉄の足枷を付けて、その鍵を海中に捨てますが、漁師の釣った魚から鍵が出て、罪の赦しを宣言されます。

3.《私らしく》 神殿税の集金人から「あなたの先生は神殿税を納めないのか?」と責められたペトロは、売り言葉に買い言葉で「納める!」と言ってしまいました。本来なら、神に奉げる献金を神の子が支払う謂われは無いのです。しかし、そんなペトロを叱るでもなく、ペトロの体面を保ちつつ、イエスさまは尻拭いをされます。漁師のペトロにとって釣りは得意技です。釣った魚から神殿税1シェケル(4デナリオンに相当)が出て来るのです。私たちの人生でも、挫折や困難に出遭うことがあります。そんな時こそ、自分にがっかりしないで、むしろ自分らしさに賭けてみましょう。神の与えられるチャンスです。

朝日研一朗牧師

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2019年11月18日

目から…うろこ【使徒言行録9:1〜19a】

聖句「すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。」(9:18)

1.《光落ち》 アニメやマンガの世界では、正義のヒーロー転じて悪人と化する展開を「闇堕ち」、反対に悪役が何かの出来事や出会いを契機に正義の心を持ってしまうことを「光落ち」と言います。「闇堕ち」の代表は、ミルトン『失楽園』のルシファーです。「光落ち」の代表は、牛若丸に敗れて家来になる武蔵坊弁慶、ソーニャの祈りに支えられて悔い改めるラスコーリニコフ(『罪と罰』)、息子の叫びに目覚めるダース・ベーダー(『スター・ウォーズ』)等です。

2.《殺戮者》 パウロこそは聖書最大の「光落ち」キャラです。キリスト教徒の迫害者として、ステファノの殉教にも関わり、その後も信徒たちの家に押し入り「男女を問わず」捕らえて「牢に送って」いました。新約聖書の半分以上は、パウロ自身とその弟子筋の人の執筆ですが、元々は残忍極まりない「悪党キャラ」だったのです。「弟子たちに対する脅迫と殺人を荒々しく呼吸する」(1節)と書いてあります。「殺人/フォノス」は、むしろ「殺戮」と訳すべき語です。アナニアも神のお告げに対して「あの男は悪人です」と抗っています。

3.《うろこ》 世に「パウロの回心」と呼ばれる出来事ですが、悪い心を改める「改心」ではなく、過去の価値観を捨てて、正反対の立場に回るのが「回心」です。聖書にある語で言えば「メタノイア/悔い改め」に該当します。「メタノイア」は「認識が変わる事」です。そんな劇的な瞬間を「使徒言行録」は「目から鱗」と表現しました。「鱗/レピス、レピデス」は「人の目を曇らせるもの」の比喩です。「鱗が落ちる」とは、これまでとは正反対の立場に回って、世界や人を見ることです。同じ風景も見る角度や季節、時間帯によって変わるのです。神さまは、私たちにも小さな「回心」の機会をお与え下さっています。

朝日研一朗牧師

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2019年11月11日

ひとりでも多く〜One more for Jesus【マタイ28:19〜20】

聖句「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け…。」(28:19)

1.《生きるために》 若年で乳がんと診断される方、幼い子を抱えていたり、キャリア半ばで生を終えられる方もあります。医療現場でも、何と声を掛けて良いのか分からないような時があります。しかし、私たち、クリスチャンには伝えられる言葉が与えられています。この世での時間が限られている方に対しても、自信を持って「永遠の命」のあることを伝えることが出来るのです。

2.《ゆるされた命》 医学が進んでも、人間が幾ら頑張っても「永遠の命」は得られません。人は罪を抱えた存在です。普段は自分に罪がある等とは思いませんが、他者に対する妬みや憤りが噴き出す瞬間があります。ある婦人患者は、検査の際、待合室での老婦人の緩慢な動きに苛々した気持ちを抱きましたが、臨終が近付いた時、「そんな自分が許せない。残された時間は僅か。罪の告白をしたい」と洗礼を受けられました。人は大小様々な罪を抱えていて、それを赦されたいと願うのです。これを「スピリチュアル・ペイン」と言います。人間は、そのような罪悪感を抱えたまま世を去るべきではありません。

3.《見出された命》 イエスさまはベトザダの病人を癒しただけではなく、その御言葉によって生きる意味をお与えになりました。人は病気や障碍によって、生きる意味を見失うこともあるのですが、反対に、病気や障碍を通して、その人にしか分からない痛みもあり、新たな生の意味に目覚めることもあるのです。生きる喜びを見出された命です。主イエスを知ることで、私たちは「永遠の命」を与えられます。ある60歳代の女性は病床洗礼を受け、笑顔で帰天されました。救われた喜びと感謝から、一人でも多くの人に、イエス・キリストによる「永遠の命」を知って頂きたいと思います。

山内英子(聖路加国際病院ブレストセンター長)

posted by 行人坂教会 at 19:52 | 毎週の講壇から