2019年11月11日

ひとりでも多く〜One more for Jesus【マタイ28:19〜20】

聖句「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け…。」(28:19)

1.《生きるために》 若年で乳がんと診断される方、幼い子を抱えていたり、キャリア半ばで生を終えられる方もあります。医療現場でも、何と声を掛けて良いのか分からないような時があります。しかし、私たち、クリスチャンには伝えられる言葉が与えられています。この世での時間が限られている方に対しても、自信を持って「永遠の命」のあることを伝えることが出来るのです。

2.《ゆるされた命》 医学が進んでも、人間が幾ら頑張っても「永遠の命」は得られません。人は罪を抱えた存在です。普段は自分に罪がある等とは思いませんが、他者に対する妬みや憤りが噴き出す瞬間があります。ある婦人患者は、検査の際、待合室での老婦人の緩慢な動きに苛々した気持ちを抱きましたが、臨終が近付いた時、「そんな自分が許せない。残された時間は僅か。罪の告白をしたい」と洗礼を受けられました。人は大小様々な罪を抱えていて、それを赦されたいと願うのです。これを「スピリチュアル・ペイン」と言います。人間は、そのような罪悪感を抱えたまま世を去るべきではありません。

3.《見出された命》 イエスさまはベトザダの病人を癒しただけではなく、その御言葉によって生きる意味をお与えになりました。人は病気や障碍によって、生きる意味を見失うこともあるのですが、反対に、病気や障碍を通して、その人にしか分からない痛みもあり、新たな生の意味に目覚めることもあるのです。生きる喜びを見出された命です。主イエスを知ることで、私たちは「永遠の命」を与えられます。ある60歳代の女性は病床洗礼を受け、笑顔で帰天されました。救われた喜びと感謝から、一人でも多くの人に、イエス・キリストによる「永遠の命」を知って頂きたいと思います。

山内英子(聖路加国際病院ブレストセンター長)

posted by 行人坂教会 at 19:52 | 毎週の講壇から

2019年11月04日

信仰によって今も語る【ヘブライ 11:1〜12】

聖句「神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」(11:4)

1.《死人に口無し》 ディズニーランドのアトラクション「カリブの海賊」では、ライドが落下する瞬間に「Dead men tell no tales/死人に口無し」という声が聞こえます。シュニッツラーの短篇小説にも、メキシコ製西部劇にもありますから、誰もが思うことなのでしょう。日本では、江戸時代の句集「誹風柳多留」の中の「死人に口無し置き土産とぬかし」という古川柳が発祥とされています。

2.《不公平な人生》 しかし、聖書は「信仰者は信仰によって今も尚語る」と全く反対の事を言います。死んでしまえば、もう語ることは出来ず、取り返しはつかないのです。「創世記」4章の「カインとアベル」の物語は不公平な物語です。神はアベルの献げ物にのみ目を留め、その悔しさからカインはアベルを殺害します。殺されたアベルの血は大地に吸い込まれ、その血が復讐と呪いの叫びを上げるのです。突然に命を奪われたアベルにとっても、不条理極まりない話です。けれども、このような不公平や不条理は誰でもが経験することでしょう。

3.《信仰によって》 追放されたカイン(現人類)も「さすらい」の中を生きていかなくてはなりません。本来、旧約聖書では「呪いの物語」だったのです。しかし、新約聖書はそれを「祝福の物語」へと転換しました。アベルが「信仰によって今尚語る」は「ラレオー/小鳥が囀(さえず)る、お喋りをする」です。彼は「信仰」を証しているのです。信仰とは希望が実現すると信じること、未だ見ていないことを信じることです。死後のことは誰にも分かりません。しかし「分からない」に立ち尽くすのではなく、望みや願いを胸に生きること、信じることへと一歩を踏み出しましょう。私たちが神さまに「信じます」と告白しさえすれば、そこにインターネットのように回線が開かれるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 23:01 | 毎週の講壇から

2019年10月28日

パーフェクト・ワールド【マタイ6:5〜15】

聖句「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように…。」(6:9,10)

1.《10月31日》 プロテスタント教会では「宗教改革記念日」ですが、世間は「ハロウィン」一色です。ハロウィンが「子どもの祭り」として定着している米国では、多くの牧師が「ハロウィンを宣教の機会」として積極的に捉えていますが、大人の乱痴気騒ぎと化した日本では躊躇を感じます。だからと言って、これを「異教の祭り」と敵視するのは行き過ぎかとも思います。

2.《完全な世界》 原理主義的な教会では、自らの信仰生活の潔癖さ、完全さを追及する余りに、信徒が自分の子どもたちにハロウィンを禁じたりします。クリント・イーストウッド監督の映画『パーフェクト・ワールド』は、少年時代に父親から虐待を受けた脱獄囚が、「エホバの証人」の母親と暮らす少年を人質にして逃亡する内に、お互いに自らの姿を重ね合うことで生まれる交流を描いています。脱獄囚は、家出したまま戻って来なかった父親がくれたアラスカの絵はがきを肌身離さず持っていました。映画の幕切れに、それを少年に託すのでした。

3.《愛の完成を》 聖書で「完全な世界」と言えば、天地創造です。また「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」とのイエスさまの教えが重要です。信徒は「キリスト者の完全」を目指して、自ら節制禁欲に励むばかりか、家族や周囲の人間にも押し付けて行く傾向にあります。本来、目指していたはずの神の愛とは程遠い、裁きと支配に陥ってしまうのです。イエスさまは「主の祈り」の最初に「御名、御国、御心」を置かれました。神さまの愛の心と願いが世界中に及びますようにとの祈りです。それが「完全な世界」です。人間が完成することではありません。また、自分たち(クリスチャン)だけが救われることを願っているセコイ祈りではありません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:52 | 毎週の講壇から

2019年10月21日

ともにある時間、ひとりで行く時間【Tコリント12:1〜12】

聖句「神の霊によって語る人は…、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(12:3)

1.《遅効性》 小学校2年生の時、日曜学校でペトロの信仰告白(あなたこそ、生ける神の子キリストです)を繰り返し学びました。高校2年生で受洗する際、「あなたにとってイエスとはどういう御方か?」と問われました。戦争体験を聴く会では、戦場でキリスト者として自身を保つことの厳しさを学びました。信仰者の決然たる言葉は、何十年も経ってから効き目の出て来るものです。

2.《しるし》 信仰の告白は聖霊の働きです。ブルーダーの『嵐の中の教会』は、1930年代、ナチス政権の成立によって「キリストのしるし」ならざるものに膝を屈めることを強いる残酷な支配が、ドイツの田舎町の教会にも押し寄せて来る様子を活写しています。ルターが「キリストのしるし」を見失ったローマ教会を批判したこと、教団が「戦責告白」を発表したことも思い出されます。揺るがせに、曖昧にしてはならないものが確かにあるのです。そんな「キリストのしるし」とは何か。消去法で私たちが選び取って行く他はありません。

3.《多様性》 教会は「キリストのしるし」を核として一致していながら、聖霊の働きの多様性、一人一人の違いが強調されているのです。恐らく、パウロは各人の顔を思い浮かべながら書いたはずです。信仰に踏み出す契機が多様であったのと同じように、人生や個性の違いをエンジョイすべきなのです。私たちの最期の時は、自分では保証できません。強い人も自力で支えられなくなります。そんな時、思わず助けを求める叫びを上げる、それも祈りなのです。戦後、東ドイツに留まり、不遇な生涯を送った神学者、シュニーヴィントは「自分が苦しくて祈ることが出来ない時には、私のために祈り給う方にしがみつく」と告白しています。たとえ「死の陰の谷」でも、主に出会うことが出来るのです。

佐治 恵

posted by 行人坂教会 at 19:52 | 毎週の講壇から

2019年10月14日

愛が冷え切った世界で【マタイ 24:1〜14】

聖句「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(24:12,13)

1.《嘆きの壁》 エルサレムには「西の壁」と呼ばれる場所があります。2千年間、ユダヤ教徒はその壁の前で嘆きの祈りを奉げています。紀元66年、第一次ユダヤ戦争の際、ローマ軍によって破壊された神殿の残骸なのです。ユダヤ人は将来、ダビデ王家を継ぐメシアが来臨し、神殿が再建されることを願って祈り続けているのです。それが彼らの終末信仰なのです。

2.《神殿崩壊》 弟子たちはエルサレム神殿の威容を見て感動しています。「おのぼりさん」です。神殿の大きさ(メガス)に見とれて(テアオマイ)いるのです。しかし、イエスさまは神殿崩壊を預言されます。すると直ちに、弟子たちは神殿崩壊と世界の終わりが、いつ起こるのか主に尋ねます。弟子たちは、スペクタクルな展開を期待して、好奇心を満たそうとしているだけです。即物的で興味本位で、自己中心的です。エルサレムの破滅を予感して、涙を流された主の御心とは大違いです。イエスさまは終末の時を「知らない」と突っ撥ねられます。終末の時に執心するのは、福音信仰からすると、邪道、外道なのです。

3.《セカオワ》 「SEKAI NO OWARI」のボーカリストは、ADHD(注意欠陥・多動性障害)を患っていて、何度も「世の終わり」と呻くような挫折と絶望を経験し、それでも音楽を支えに「世界の終わりから始めてみよう」と決意したと言います。偽預言者、戦争と内乱、飢饉や地震などの自然災害、迫害、信仰の躓き、裏切りに憎しみ合い、倫理観の喪失、無法状態、愛の消滅と「世も末」と思われますが、「そういうことは起こるに決まっている」のです。愛を「冷やす」のは「プシュコー」、私たち自身の「プシュケー/息、命、霊魂」なのです。ダメな自分に耐え忍ぶ者に、主は救いを約束されたのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:51 | 毎週の講壇から

2019年10月07日

まだ席がありますか?【ルカ14:15〜24】

聖句「『…まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。…』」(14:22,23)

1.《聖書と血糖》 家庭医から血糖値の高さを指摘されます。聖餐式に使用する葡萄液が甘いものですから、イエスさまの血糖値も気になります。古代から糖尿病はあったそうですから、大酒飲みのイエスさまも、ヘロデ親子や大祭司も糖尿病の可能性があります。古代ローマ人は1日4食でしたから、ピラトも糖尿病だったかも知れません。誰も彼も糖尿病にしたく成るのです。

2.《午餐と晩餐》 古代ユダヤ人は朝夕の1日2食でした。「列王記」の預言者エリヤや「出エジプト記」の鶉とマナからも分かります。ところが、14章12節には「昼食や夕食の会」とあります。英訳聖書は「ディナー」と「サパー」に訳し分けられることが多いです。「ディナー」は時間帯ではなく、その日のメインの食事「正餐」を意味します。「サパー」は「スープを啜(すす)る」から派生した語で、床に入る前の簡単な食事でしたが、照明の発達と共に豪華に成ったのです。ギリシア語の「デイプノン/晩餐」には「御馳走を食べる」の含みがあります。イエスさまの譬え話「大宴会」は「デイプノン・メガ」なのです。

3.《神の招待状》 ある主人が盛大な宴会を催し、予め招待して置いた客たちに、改めて召使いを遣わして案内しますが、招待客は「畑を買った、牛を買った、嫁を買った」と理由を付けてドタキャンするのです。自らの所有と経済活動を優先しているのです。この無礼なドタキャンに対して「神の怒り」は、恐らく生涯を通して、畑も牛も嫁も得ることがない、生活困窮者を招くという方向に転換します。「町の大通り/広場」「路地/巷」から更には「通り/田舎の畦道」「小道/生垣、垣根」まで召使いたちは、客を捜して巡ります。私たちは、そのような神の必死の招きを決して疎(おろそ)かにしてはなりません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:51 | 毎週の講壇から

2019年09月30日

今日までそして明日から【マタイ6:25〜34】

聖句「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(6:34)

1.《明日は別の日》 映画『風と共に去りぬ』の幕切れのヒロインの台詞「明日は別の日」は様々に訳されて来ました。「明日は明日の風が吹く」「明日は明日の陽が照る」「明日に望みを託して」「私には明日がある」「望みはある、また明日が来るのだから」等々…。イエスさまの上記の御言葉と、古代ローマの詩人ホラティウスの「今日の禍は今日にて足れり」が世俗化したものと思います。

2.《思い悩みの種》 歌謡曲にも「明日がある」「明日はきっといい日になる」と歌われ、明日は希望の象徴です。しかし、御言葉を改めて読み直すと、今日には今日の思い悩みがあったように、明日には明日の思い悩みがあるのです。それ故に先取りする必要はないのです。「苦労/カキア」は「悪、不幸、災い」です。生きていれば、どこまでも付き纏うのです。現代人は、人生に付きものの苦労から目を背けるために、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」が幸せであるかのように擦り替えたのでは無いでしょうか。しかし、それがまた、新たな「思い悩みの種」に成っているのですから厄介です。

3.《満ちて来る光》 イエスさまが希望を託すように仰るのは「明日」ではなく、「神の国と神の義」です。「明日の苦労」を背負うのは取り越し苦労、「今日の苦労」を持ち越すのは「持ち越し苦労」です。苦労に対しても「足れり」と断念するべきです。太陰暦の古代ユダヤでは、1日の始まりは日没でした。キリスト教の暦もこれを受け継いでいます。闇で始まり、やがて光に満ちて来るのです。今日の「苦労」は「黄昏」と共に闇に包まれて忘れ去られます。そして、信仰者である私たちは本当の明日、「復活の朝」を目指して生きて行くのです。遥か先にある真の光に満ちた世界が、私たちを待っているのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:55 | 毎週の講壇から

2019年09月23日

その一匹を見つけ出すために【ルカ15:1〜7】

聖句「その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」(15:4)

1.《九十九人の壁!》 岡村隆史と矢部浩之のお笑いコンビ名「ナインティナイン」は、ブレイクダンスの究極難度の技から来ています。クイズ番組「超逆境クイズバトル!! 99人の壁」は、1人だけ選ばれたチャレンジャーに対して、99人のブロッカーが早押しをして、回答を阻止する展開です。「1対99」の対立構図なのです。「99」は絶対多数、圧倒的な多数を意味します。

2.《分かち合う喜び》 私たちの社会では、大抵の人が多数派に属すことを心掛けています。しかし、多数派であるから正しい側にいるとは限りません。しかも、多数派と少数派の問題は、実際には「数」ではなく、「力関係」の問題です。数が多くでも、支配者側、権力者側によって力を奪われて弱められている人たちがあるのです。「エンパワメント/湧活」は、弱い立場に置かれた人に力を付与することで、地位向上、閉塞状態の打破、社会全体の活力を促す改革の提案です。私たちの活力の源は「喜び」です。イエスさまの譬え話の根幹に置かれているのも喜びの感情です。しかも、その喜びは共有されるべきなのです。

3.《その一匹のため》 この社会では「たった1匹のために99匹を置いて行くか?」と問われれば、答えはNOです。全体のためには1匹の犠牲は止む無しです。ところが、イエスさまの天国では、その論理は通用しません。百匹という所有資産の話が「その1匹」と言われた瞬間に、掛け替えの無い人(愛の問題)に変わっているのです。その他の全てを犠牲にしてでも、オンリーユーのあなたを捜し求める、それが愛なのです。ファリサイ派は徴税人に「罪人」のレッテル貼りをして、人とは見ませんでしたが、イエスさまは、彼ら1人1人を「神の独り子」と見て居られたのです。それが「天の喜び」です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:53 | 毎週の講壇から

2019年09月16日

それは主を求める人【詩編 24:3〜6】

聖句「主はそのような人を祝福し/救いの神は恵みをお与えになる。/それは主を求める人/ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。」(24:5,6)

1.《祈りを育てる》 昨年「日大フェニックス反則タックル事件」で被害を受けて注目された関西学院大学ファイターズですが、試合10分前には、顧問の前島宗甫牧師が聖書を解き明かし、選手、コーチ、スタッフ全員が祈るのだそうです。「人間が人間に値する者に育って行く、それを求めるのが祈りだ」と書いて居られました。祈りは人の成長を促し、祈りも成長して深められて行くのです。

2.《紳士たること》 入部の際、新入部員は監督から「どんな人間に成りたいのか?」と問われるそうです。理念なき成長は拡大路線の暴走に過ぎません。東京五輪の際、日本サッカーを指導したD・クラマーは「サッカーは少年を大人にし、大人を紳士にする」との名言を残しています。札幌農学校に招聘されたW・S・クラークが、事細かい学校の規則を廃棄して「紳士たれ」と訴えたことを思い出させます。自分の判断基準や行動規範を、誰かや何か(たとえ聖書であっても)に委ね切ってしまっては自律性の放棄です。自分で判断して自分で行動する、そのようにして生きるのが、紳士淑女の道なのです。

3.《同じ舟の仲間》 神殿の参拝者(巡礼)に対して、検問に立つ祭司が問い掛ける「信仰問答」です。「潔白な手と清い心」は行動とそれに伴う理念です。中身の無い空っぽのものに熱狂したり、欺瞞に誓いを立てる(日大フェニックス)べきではありません。命令や指図に無分別に従うのは空疎です。「主を求める」には「聖書を解釈する」、「御顔を尋ね求める」には日毎の糧の如く「必要とする」の含みがあります。そして最も重要なのは「主を求める仲間」と言われていることです。独りでは祈りは成長しません。共に祈る仲間、同じ舟に乗って生きること(メンバーシップ)が、何よりも大切なのです。

朝日研一朗牧師

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2019年09月09日

あの虹の彼方に【創世記9:9〜17】

聖句「雲の中に虹が現われると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」(9:16)

1.《虹の彼方に》 『オズの魔法使』(1939年)の主題歌です。竜巻で魔法の国に飛ばされたドロシーが、ライオンとカカシとブリキ人形をお供に冒険に旅立ちます。「幸せの国」は「どこかにある素晴らしい場所」ではなくて、自分の身の周りにあったという物語です。作詞者E・Y・ハーバーグは正統派ユダヤ教徒の家庭に育ちました。当然「創世記」の虹が彼の念頭にあったはずです。

2.《虹と十字架》 ヘブライ語の「虹」は「ケシェト」、女性形です。エジプト神話では、虹はイシスの7枚のショールです。バビロニア神話では、イシュタルの首飾りです。天の神エアが地上を滅ぼそうとした時、イシュタルは虹の通路を閉ざして食い止めます。「創世記」もまた、イシスやイシュタルの母心を継いでいるのです。「ケシェト」は「弓」です。虹の弓が天に向かって矢を射掛けようとしています。エアの電光(罪人を射る虹の弓矢)よろしく、地を滅ぼした神が「もう二度と滅ぼさない」と誓って、今度は矢の向きを御自身に向けられたのです。丁度『るろうに剣心』の「逆刃刀」のようなものです。

3.《虹の架け橋》 人間の罪によってもたらされる苦難を、神御自身が引き受けられたのが十字架です。「虹の契約」は「十字架の契約」と同じです。「心に留め」思い起こすのは、神御自身です。この契約に生きようと志を新たにされているのです。私たちが十字架に接する時、果たして、そんな強い気持ちで臨んでいるでしょうか。「カタ・ウパニシャッド」は「天国への虹の橋を渡るのは、剃刀の刃を渡る程に難しい」と言います。十字架も、私たちに命の道を問い掛ける「弓/虹」のようなものです。折角の「広々とした道」を「狭い門」「剃刀の刃」のように薄っぺらにしているのは、私たち自身なのかも知れません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:53 | 毎週の講壇から