2019年06月10日

孤児の叫びに応える霊【ヨハネ14:15〜24】

聖句「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」(14:18)

1.《あしなが》 昭和30年代には、交通事故死者数が年間1万人を超えて「交通戦争」と呼ばれました。そんな中で「交通遺児支援あしなが運動」を始めたのが玉井義臣と岡嶋信治のお二人です。お二人の家族も暴走車や酔っ払い運転の犠牲に成っているのです。現在「あしなが育英会」は、病気や災害、自死によって親を亡くした子どもたちを肌理細やかに援助する活動を展開しています。

2.《孤児物語》 「あしなが」とは、ウェブスターの児童文学『あしながおじさん』から来ています。思えば、19〜20世紀の児童文学は「孤児文学」でもあったのです。『アルプスの少女ハイジ』『赤毛のアン』『秘密の花園』『小公女』『トム・ソーヤーの冒険』『オリバー・ツイスト』…『ハリー・ポッター』シリーズに至るまで、主人公は皆、親を亡くした子どもたちです。Ch・ブロンテの『ジェーン・エア』も孤児です。『レ・ミゼラブル』のコゼットも、孤児として虐待されているのをジャン・ヴァルジャンに救い出されるのでした。

3.《愛する霊》 ペンテコステは「聖霊降臨節」ですが、私たち自身も、聖霊についてはよく分からないのです。むしろ、正直に「よく分からない」と言うべきなのです。神の御心を何もかも分かっているかのように嘯く者の方が、却って不敬虔です。よく分からないからこそ、信じるのです。イエスさまは弟子たちに、聖霊(パラクレートス/助け手、慰め手、弁護者)を送って、「あなたがたを孤児のままに捨て置かない」と約束なさいました。つまり、ネグレクト(育児放棄や虐待、愛さないこと)の反対なのです。孤児(寄る辺ない思いに苦しむ者)を受けて入れて、我が子として愛することです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 23:15 | 毎週の講壇から

2019年06月03日

す巻きにして海に沈めろ!【マルコ9:42〜50】

聖句「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」(9:42)

1.《コンクリ》 東京湾には、コンクリで固めて沈められた死体が多数あるという都市伝説があります。今でも、死体をセメントで固めて海に沈めて遺棄しようとする犯罪者がいる(尼崎事件)のは事実です。戦前のヤクザ、博奕打ちの世界では「す巻きにして」川や海の中に放り込む習慣がありました。吉原の女郎も掟を破ると、殺された後、荒菰で巻かれて浄閑寺の境内に投げ込まれました。中学生がマットで巻かれて圧死した事件(山形圧死事件)もありました。

2.《身体刑罰》 今から2千年前の中東という時代状況を考えると、ここに語られているのは、単なる譬えではなく、実際に存在した刑罰や処刑法ではないでしょうか。国や地域によっては、今でも窃盗犯に「断手刑/手切り」が行なわれているようです。古代中国では、逃亡罪と偽証罪に「臏刑/足切り」が適用されました。神殿や宮殿の不法侵入者、姦通した女性に「抉眼」を行なった記録もあります。西欧の人権団体は身体刑を「拷問」として反対しますが、公開処刑や身体刑が犯罪抑止力に繋がると信じる人たちは今も存在しているのです。

3.《小さな者》 旧約聖書の世界では、身体に欠損のある者は神殿や聖所に入ることを許されませんでした。神は完全な御方であるから、不完全な者は立ち入るべきではないとされたのです。しかし、イエスさまは「たとえ片手、片足、片目になっても天国に入ることが出来る」と主張されているのです。むしろ、天国に入れないのは、身体障碍のある人たちを差別排除する者たちです。「つまずかせる」とは、障碍を理由にして「信じる者の邪魔をする」ことです。それと共に、イエスさまは、私たち自身もまた「小さな者(ミクロン、神の子ども)の一人」とされていることに気付かせてくださるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:50 | 毎週の講壇から

2019年05月20日

ぼんやりと見えます【マルコ8:22〜26】

聖句「すると、盲人は見えるようになって、言った。『人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。』」(8:24)

1.《チコちゃん》 人気番組「チコちゃんに叱られる」では、質問に答えられない回答者に向かって、5歳児のチコちゃんが「ボーッと生きてんじゃねぇよ!」と喝を入れます。しかし、認知神経学の立場からすると、ぼんやりしている時にこそ、人は自己中心の世界から脱却して、他者に共感したり、社会的視点を獲得したり、物語を紡いだり、発見や発明をするのです。「ボーッとしている」状態は人が人として生きるために絶対に必要な時間なのです。

2.《ぼんやりと》 パウロは「愛の賛歌」の中で「私たちは今は、鏡に朧に映ったものを見ている」と言いました。「朧」は「ぼんやり」、ギリシア語の「アイニグマ/謎」という語です。近現代と違い、古代の鏡は銅と錫の合金、もしくは水鏡です。ぼんやりとしか見えないのです。また、神さまの御心は、この世に生きる私たちにとっては「謎」でしかありません。私たちが「はっきり」知るのは、恐らく天国に行った時でしょう。私たちには、はっきりと見えない、「ぼんやり」で良いのです。信仰も愛も希望も見えるものではないからです。

3.《はっきりと》 イエスさまはベトサイダの盲人を村の外に連れ出して、癒しの御業を行なわれますが、彼の視力は完全に回復しません。「人」が「木」のように見える。「歩いている」から「人」だろうと言うのです。そこで再び主は彼の目に両手を置いて癒されるのです。祈りの反復の大切さを思います。イエスさまですら何度も手当てをして下さるのです。私たちも繰り返し祈りましょう。私たちは人間や世界、物事が明確に見えている訳ではありません。況して、神さまの御心など知る由もありません。でも、それで良いのです。神さまの御心は遥かに高く、その御思いは底知れず深いのですから。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:53 | 毎週の講壇から

2019年05月13日

すがりつく信仰【ルカ8:40〜56】

聖句「この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。」(8:44)

1.《タッチとタッグ》 キリスト教美術には「ノリ・メ・タンゲレ/私に触れるな」という主題があります。イエスさまがマグダラのマリアに復活のお姿を顕わされた場面を描いています。「タンゲレ」はラテン語の「タンゴー/触れる」という動詞で、英語の「タッチ」です。また「タグ/下げ札、値札」や「タッグ/鬼ごっこ、プロレスのタッグマッチ」の語源でもあります。

2.《主の心に触れる》 イエスさまがマリアの接触を拒否されたのは、復活して霊の体に成っているので、肉の体を持つ者が触って汚してはならないと、神秘主義的な説明をする人もいます(シュタイナー)。しかし、それでは、トマスの前に顕われた主が「触ってみなさい」と仰ったことと矛盾します。主が復活された以上、もはや私たちが身体的接触を求める必要は無いのです。イエスさまと繋がるのは心と心の絆によるのです(ズンデル)。「触ってはいけない」は、単なる禁止や制限、タブーではありません。「触れずに信じる人は幸い」なのです。

3.《ただ信じなさい》 「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」の記事は2つの事件が重なり合って構成されていてドラマチックです。しかし、物語作者の作為やドラマツルギーによるのではありません。同じ福音が述べられているのです。長血の女が癒されたのは、主の御衣ではなく、御心に触れたからです。それを「信仰」と言います。私たちは皆「信仰」によって救われるのです。「信仰」は私たち自身の「真実」であり、私たちが「主の真実なることに思いを致すこと」です。御心に触れる者を、イエスさまは救って下さいます。その時、イエスさまがタッグを組んで、人生という舞台を共に闘って下さるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:52 | 毎週の講壇から

2019年05月06日

信仰のパントマイム【マタイ6:1〜4】

聖句「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。」(6:3,4)

1.《マルセ太郎》 形態模写芸人、マルセ太郎が「スクリーンのない映画館」という独り芝居をしていました。映画を1本そのまま演じてしまうのです。粗筋や結末が分かれば、映画の楽しみは半減するものですが、マルセの芸は却って映画の味わいを深めるものでした。彼の芸によって、私たちの映画を観る意識が変化したのです。聖書と説教(聖書解釈)との関係にも似ているかも知れません。

2.《秘すれば花》 マルセ太郎の芸名はパントマイムのマルセル・マルソーにあやかったものです。パントマイムは能楽の影響も受けています。世阿弥が「秘すれば花、秘せずば花なるべからず」と教えたのにも通じます。イエスさまも「右手の為す事を左手に知らせるな」と仰います。これが「信仰のパントマイム」です。聖書の施しは心情的なものではなく、神との契約、律法の履行です。「貧しい者に手を開く」ことなのです。手を開くのは誰かに援助を提供するため、手を結ぶのは誰かと契約や信頼を繋ぐため、まさに「むすんでひらいて」です。

3.《主の見習い》 ルター研究で知られる石居正己牧師は「信徒の生活はパントマイム伝道、週日、キリスト者は言葉ではなく、生活を通して福音を伝える」と教えています。日常生活、社会生活で私たちに求められているのは、言葉によらぬ証、行為や立ち居振る舞いによる証です。「善行、施し」も福音伝道もチャーミング、粋であるべきです。「パントマイム」、ギリシア語「パントミームス」の語根「ミームス」は「芝居」、「ミーモス」は「見習う、手本にする」です。大工や左官、看護師、戦前の士官にも「見習い」がありました。私たちの見習うべきはイエスさま、私たちの人生は「見習い期間」なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:55 | 毎週の講壇から

2019年04月29日

おびえる心の真ん中に【ヨハネ20:19〜23】

聖句「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち…。」(20:19)

1.《呼吸家》 加藤俊朗は独自の健康呼吸法を普及して「呼吸家」を自称なさっています。ある時、詩人の谷川俊太郎から、マザー・テレサの額入り生写真を貰って、事務所に掛けていると、マザーが現われて「キリストさん」を紹介してくれたと言います。「キリストさん」は彼に「呼吸に愛を入れなさい」と教えてくれ、以来、左の掌に愛の指文字を書いて呼吸するとのことです。

2.《不偏心》 東方正教会には「ヘシュカム」という祈りの身体技法があり、修道士は独自の呼吸法と座法によって祈ります。但し、ヨーガや座禅が技法だけ利用されて、中身の信仰が疎かにされているのと違い、大切なのは、そこで唱えられる「イエスの祈り」です。カトリックにも「サダナ」という呼吸瞑想法がありますが、その基本はロヨラの『霊操』です。「霊操」の「不偏心/indifferentia」とは「区別しない心」です。病気より健康を、貧困より裕福を、不名誉よりも名誉を求める私たちの価値判断は、被造物に偏っているのです。

3.《息吹き》 弟子たちは「恐怖/フォボス」に囚われています。「ユダヤ人恐怖症」として描かれています。自身もユダヤ人ですから、一種の自閉症です。エルサレム入城の時には得意満面だったのですが、今は自らの弱さ小ささ、ダメさ加減に打ちのめされています。しかし、そんな時に初めて、私たちは神の働きに気付かされるのです。復活の主は「真ん中に」立って、彼らに愛と赦しを宣言されます。復活のイエスさまにとっては、生と死、罪人と義人、信者と不信者、何の「区別」もありません。主が息を吹き込まれると、窒息寸前だった弟子たちは風船が膨らむように希望で満たされます。彼らは死からも、この世の生からも自由にされたのです。「主は生きて居られる」のですから。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:53 | 毎週の講壇から

2019年04月22日

墓守綺譚【ヨハネ20:11〜18】

聖句「マリアは園丁だと思って言った。『あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。…』」(20:15)

1.《七つの顔の男》 片岡千恵蔵演じる探偵「多羅尾伴内」は、色々な職業、面相の人物に変装して潜入捜査をします。そして毎回、クライマックスで犯罪組織のボスに「貴様は誰だ!?」と言われると、「ある時は競馬師、ある時は私立探偵、またある時は画家、ある時は片目の運転手」と列挙、「しかして、その実体は、正義と真実の使徒、藤村大造だ!」と名乗りを挙げ、銃撃戦に突入します。

2.《復活のイエス》 復活の主もまた一筋縄では行きません。ある時には、エマオの旅人の同行者、ある時には亡霊、ある時には岸辺の物乞い、またある時には墓守の園丁です。まるで他の人のようにして御姿を現わされるのです。生前とはすっかり外見が変わってしまっているのです。そうでなくては、こんなに弟子たちが戸惑うはずはありません。パウロは、復活によって「自然の命の体」が「霊の体」に変えられると論じていますが(コリントの信徒への手紙T15章)、何だか彼の言うようには、輝かしくも力強くも無いようです。

3.《最も小さい者》 「園丁、園の番人、園の管理人、庭師」等と訳されますが「墓守」のことです。穢れた場所とされた墓を管理する墓守は賤業とされていました。マグダラのマリアも声を掛けたのが墓守だと思って、キツイ物言いをしています。御生前、弱い立場に置かれた人たち、差別される人たちと共に生きられたイエスさまは、死んで後も、復活された後も、そのような人たちの姿に身をやつして、弟子たちの前に御姿を現わしておられるのです。「マタイによる福音書」25章の「この小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたこと」に通じるものがあります。サン・テグジュペリの「庭師は愛によって、地球のあらゆる土地と、あらゆる樹木に結ばれていた」との言葉も思い出されます。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:55 | 毎週の講壇から

2019年04月15日

子ろばに乗って【マタイ21:1〜11】

聖句「弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。」(21:6,7)

1.《ロバは珍獣》 昭和30年代には「ロバのパン屋」の移動販売が一世を風靡しましたが、馬車を牽いていたのはポニーでした。ロバの来日は飛鳥時代に遡りますが、日本で飼育が拡がることはなく、今も珍獣のままです。日本国内のロバは約2百頭です。馬7万頭、山羊2万頭、羊1万7千頭と比べて少な過ぎます。世界中で飼育されているロバが、どうして日本に定着しなかったのでしょう。

2.《ロバは聖獣》 美術の世界では、降誕場面にもエジプトへの逃避の場面にも、傍らにロバの姿が描かれています。聖書的な根拠は「イザヤ書」1章3節です。ロバは、降誕前から、降誕の時にも、降誕後も主と共にいたのです。そして飼い葉桶と十字架は繋がっていて、イエスさまのエルサレム入城に際して再びロバが登場するのです。イエスさまの一行は、エリコからエルサレムまで25キロの距離を歩いて来ましたが、残り1.5キロのベトファゲに来た時、イエスさまがロバを所望されます。入城に際してロバが必要だと思われたのです。

3.《母子のロバ》 メシアはロバに乗ってエルサレムに入るという預言を成就されるためでした。謂わば「メシアの自覚」です。但し、御自分を立派に輝かしく見せよう等という自己演出のためではありません。この時ハッキリと、イエスさまが十字架の死を覚悟されたのではないでしょうか。「マタイによる福音書」では、母ロバと子ロバの2頭が連れて来られるのですが、ギリシア語原文を細かく読むと、どうやら2頭に交互に乗って行かれたようです。「子ロバ」と言っても「4歳以下の雄」という意味です。母子のロバが仲良く奉仕したことに意味があるのかも知れません。この道がゴルゴタに続くことを、弟子たちも群集も知りませんでした。しかし、主の道をロバは知っていたのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:53 | 毎週の講壇から

2019年04月08日

その人たちの信仰を見る【マルコ2:1〜12】

聖句「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。」(2:5)

1.《パラリンピック》 英語の「下半身の麻痺した人/パラブリージア」とオリンピックの合成語です。「手術よりもスポーツ」を合言葉にして、英国の病院の競技会から始まりました。ランナーには伴走者、ボッチャには介助者が付くことで障碍や麻痺を持った人も競技をすることが出来るのです。障碍があっても、精神と魂と肉体の力によって、そこから出発して動くことが出来るのです。

2.《体の麻痺した人》 脳卒中の後遺症による麻痺を、昔の人は「中風、中気」と呼びました。「邪気、悪い風に中(あた)った」のが原因と考えたのです。ここで「中風の人」と訳されているのが「パラリュティコス/身体麻痺の、身体不随の人」です。一昔前は「脳卒中は老人の病気」という固定観念があり、聖書事典には「若年性脊髄炎、もしくは脊柱カリエスによる麻痺であろう」と解説されていました。しかし近年では、若年層の脳梗塞や脳出血も事例が多く、医学の常識も入れ替わりました。病因の追究よりも大切なのは「生きること」です。

3.《精神と魂を救う》 イエスさまは先ず「罪の赦し」を宣言されます。当時の人たちは、病因は本人や家族の罪にあると考えていたからです。肉体を癒される前に、精神と魂を癒されたのです。そんな主の御言葉に神学的思弁を費やす律法学者たちとは対照的に、家の屋根を剥がして天井から吊り下げてまで、患者をイエスの御もとに連れて行こうとする人たちがいます。指一本動かさず、座ったままの律法学者を尻目に、主は「彼らの信仰を見た」と書かれています。私たちは4人の奮闘に目を奪われて、患者本人のことを忘れがちです。しかし、御もとに行くことを望んだのは「体の麻痺した人」本人です。4人はサポーターでした。主が御覧になったのは、その中心にいる患者その人です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:57 | 毎週の講壇から

2019年04月01日

息の長い生き方をしよう【出エジプト記6:2〜9】

聖句「モーセはそのとおりイスラエルの人々に語ったが、彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった。」(6:9)

1.《ブッチャー》 プロレスで悪名を馳せたブッチャーの現役引退セレモニーが行なわれました。「スーダン出身の黒い呪術師」の触れ込みで、アラビア風の衣装で入場、凶器攻撃や毒針エルボーでリングを鮮血に染めたものです。リング名の「アブドーラ」は「アブド/しもべ」+「アッラー」、イスラム教徒の名前の定番です。旧約聖書にも「主のしもべ/アブデー」が何回も出て来ます。

2.《奴隷の労働》 勿論「奴隷」という悪い意味もあります。「厳しい重労働」と訳されているのは「過酷な奴隷状態」です。労働そのものもエジプト人の厭う3K労働をさせられていたのですが、それ以上に、自らの意志や意欲を奪われた奴隷労働の方が残酷なのです。ピラミッド等の巨大建造物建設に駆り出されたという情景は、絵画や映画の作ったフィクションです。しかし、エジプト人の監督に打たれて労働をさせられていたのです。日本の植民者も旧満州国で満人の召使を「躾」と称して叩いたり打ったりして使っていたと聞いています。

3.《神の深呼吸》 モーセはファラオに民の出国を要請しますが、逆ギレしたファラオは更に重い労働を課して「この怠け者が!」と罵ります。モーセは解放の幻、約束の土地の幻も語りますが、民は耳を貸しません。奴隷労働は、働く者たちから魂を半分奪い取ること(シモーヌ・ヴェイユ)なのです。「意欲を失って」は「息が短くなる、魂が削られる」の意味です。モーセは同胞の「息を長く」する必要があったのです。それがエジプトに対する「十の災厄」だったのかも知れません。「しもべ」は「他の誰かのために働く人」のことです。奴隷になることは魂を半分奪われることです。私たちは奴隷にならず、神さまのために仕えて参りましょう。それが魂を取り返す唯一の道なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:54 | 毎週の講壇から