2019年08月19日

平和を作り出す人たち【マタイ5:9】

聖句「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(5:9)

1.《メッセージ》 本日のメッセージは、これまで朝日研一朗牧師を通して私たちに直接語られました説教から編集したものです。平和のメッセージにもう一度耳を傾け、平和について思い巡らします。メッセージの出典は、週報「先週の講壇から」−朝日研一朗牧師説教−『希望がなければ』(2009/8/9)、『正義と平和の接吻』(2010/8/1)、『ピースメーカー(ズ)』(2012/8/26)、『正義と平和はキスをする』(2018/8/5)です。

2.《プログラム》 礼拝出席者には、予めメッセージのプリントが渡されました。2名の朗読者が交互にメッセージを朗読しました。メッセージとメッセージの間に、沈黙の時とオルガンの間奏が挟まれました。

3.《平和の祈り》 メッセージに続く祈祷は、朗読者が「平和の祈り」を祈りました。これは、日本キリスト教団出版局編『きょうを生きる祈り』(1995年)の中から、“正義を求めて”と題された祈りです。

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2019年08月12日

テゼからの手紙【ヨハネ14:27】

聖句「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」(14:27)

1.《メッセージ》 本日のメッセージは「テゼからの手紙2003」「テゼからの手紙2006」の中から、聴いて解りやすいように編集したものです。テゼ共同体は1940年、ブラザー・ロジェによってフランスのテゼ村で始められた男子修道共同体です。ロジェは、ナチスの迫害を逃れて来た人たちをスイスへと逃亡させる支援をしました。以来、カトリックとプロテスタント出身のブラザーたちが25の国々から集まり、テゼや世界の貧しい地域で生活しています。今、多くの人たちがテゼを訪れブラザーたちと共に祈りを捧げています。テゼで歌われている讃美歌は「讃美歌21」にも数多く取り上げられ、私たちも礼拝で歌ってきました。「テゼからの手紙」はロジェによって書かれたもので、アジアの23の言語、アフリカの7つの言語を含む58の言語に翻訳され、世界各地のテゼの集いでテキストとして読まれています。

2.《プログラム》 礼拝出席者には、予めメッセージのプリントが渡されました。2名の朗読者が交互にメッセージを朗読しました。メッセージは4つあり、最後のメッセージは2回繰り返して朗読されました。メッセージの間に、沈黙の時とオルガンの間奏(テゼ共同体の讃美歌)が挟まれました。

3.《平和の祈り》 メッセージに続く祈祷は、朗読者が「平和の祈り」を祈りました。これは日本キリスト教団出版局編集『きょうを生きる祈り』の中から、“平和のために”と題された祈りです。

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2019年08月05日

平和ではなく剣を【マタイ10:34〜39】

聖句「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」(10:34)

1.《聖書の権威》 米国のキリスト教原理主義者の多くは「逐語霊感説」の立場から「聖書に書いてある事は一言一句に至るまで間違っていない」と主張します。確かに、プロテスタントは福音主義の立場から聖書を信仰の規範とします。しかし、終末思想や千年王国思想に関心が集中した上に、細かい字句に拘泥するのは外道です。結局、聖書の権威を絶対化すること(聖書の偶像化)で、指導者の権威を絶対化しようとしているだけのように思われます。

2.《聖書の誤記》 聖書の写本、翻訳、印刷出版の歴史は誤訳と誤記の歴史でもあるのです。聖書は常に「間違いだらけ」だったのです。有名なのは、17世紀英国で出版された「姦淫聖書」です。「十戒」の「汝、姦淫するなかれ」が「汝、姦淫すべし」と誤植されていたのです。他にも「虫聖書」「猿股聖書」「場所取り聖書」「酢の聖書」「愚か者聖書」「不義の聖書」「ユダの聖書」等、近年に至るまで枚挙に暇がありません。聖書が印刷されて大勢の人の目に触れるようになったからこそ、間違いが発見され易くなったのです。手書き写本の時代には、誰も気付かないまま、伝承され続けたはずです。

3.《解放する剣》 8世紀アイルランド典礼用聖書「ケルズの書」では「剣」が「喜び」に誤訳されています。意図的な改変だったのかも知れません。この聖句が受け入れ難いのは現代の私たちとて同様です。「平和の主」イエスが「平和ではなく、剣を投げ込む」と仰るのです。普通の宗教なら「親孝行」「家庭円満」を教えるはずです。しかし、ルツが「嫁の鑑」とされ、「申命記」で親不孝の息子を石打ちで殺せと書かれているのを見た時に、家制度の抑圧に悩む人たちのことが思われたのです。不幸な状況の中、父母、息子娘を愛することが出来ない人にも価値はあると、主は招かれたのでは無かったでしょうか。

朝日研一朗牧師

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2019年07月29日

祈れない日の祈り【Tテサロニケ5:16〜25】

聖句「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神が…」(5:16,17,18)

1.《祈れないとき》 故石井錦一牧師(松戸教会)が「信徒の友」誌巻頭に連載していた祈りを編集した『祈れない日のために』という本があります。その中に「神さま、祈れないのです/祈りたくないのです」という叫びのような祈りがあります。現役牧師が信徒向け雑誌に書いた衝撃も然ることながら、これもまた祈りであるという事実の提示こそは大きな驚きでした。しかし、改めて「詩編」を開けば、同じような嘆き節、怨み節が幾らでも見出されるのです。

2.《通じない祈り》 自らの不信仰に悩むのは信仰者だけです。信仰のない人は信じられない気持ちと葛藤することはありません。不信仰もまた信仰の一種なのです。「不通の/通じない」苦しみなのです。神さまと思いが繋がらない、通じない不安と苛立ちなのです。「神通力」という語があり、特殊な「霊能力」を意味しますが、大抵の人は「祈りの通じない」現実の中にあって苦しんでいます。信仰者か否かを問わず、願いが叶わなかった時、自らの不信仰を嘆くか、反対に神や仏を逆恨みするかです。しかし、不信仰なままで良いから、神に祈ること、訴えることを続けて欲しいのです。神さまとのラインを断ってはなりません。

3.《御心と人の心》 上記の聖句は、嬉しくもないのに「喜べ」、祈れないのに「祈れ」、辛いのに「感謝しろ」と言われているようです。作り笑いをしたり敬虔ぶった仕草、ウソっぽい祈りをしろと言うのでしょうか。でも、それは自身や周りの人に向けたもので、神に向かっていません。「キリスト・イエスにおいて」は「十字架」です。悲しみの中にあって祈れない私たちのために、イエスさまの「十字架」があるのです。神が先ず私たちを祝福し、恵みを約束され、「何でも言ってみなさい」と御心を開いてくださっているのです。それこそが「神が望んでおられること(テレーマ)」、即ち「神の御心」なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:51 | 毎週の講壇から

2019年07月22日

仕えるために生きる【マルコ10:35〜45】

聖句「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(10:43,44)

1.《サンチャゴ》 7月25日は「使徒聖ヤコブの日」という祝日で、ヤコブ崇拝の総本山サンチャゴ・デ・コンポステーラでは盛大な祭りが行なわれています。ヤコブがアグリッパ王の迫害時に斬首された記事は聖書にあります。しかし、その後の伝説は信憑性がありません。遺体はスペインに運ばれて埋葬、星の導きで羊飼いに再発見され、聖地と成り、レコンキスタの旗印にされたのです。島原の乱の一揆軍の吶喊でも「サンチャゴ!」と聖ヤコブの名が叫ばれたのです。

2.《立身と出世》 福音書に描かれるヤコブは聖人でも英雄でも無く、生臭い存在です。兄弟ヨハネと共に「イエスさまがメシア王国を建設した暁には、右大臣左大臣にしてくれ」と願い出るのです。他の10人の弟子たちも「抜け駆け」に立腹します。しかし、それは主が3度目の「受難予告」を為さった直後のことでした。彼らは自分の立身出世を願っていたのです。本来、儒教の「立身」は親孝行の教え、仏教の「出世」は俗世を捨てることでした。このように語が本来とは正反対の意味で使われるのは、教えに対する冒瀆です。権力に抵抗した使徒ヤコブがスペインでムスリムを駆逐する象徴に使われたのと同様です。

3.《仕えるため》 ヤコブも主の十字架と復活を体験するまでは、現世での立身出世のみを願う凡俗だったのです。「自分が何を願っているのか、分かっていない」のです。現代社会では、自らの夢や望みの実現を目指して生きることが尊いこととされ、そんな生き方を望まない人間には「負け組」のレッテルが貼られます。全てを自己目的達成のための手段とします。しかし、それが幸せをもたらすのでしょうか。イエスさまは立身出世の野望に取り憑かれた愚かな弟子たちを憐れみ、彼らを招いて、誰からも(自分の欲望にも)支配されず、コントロールされない生き方を説いて居られるのです。

朝日研一朗牧師

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2019年07月15日

誰を真ん中にするか【ルカ6:6〜11】

聖句「イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、『立って、真ん中に出なさい』と言われた。その人は身を起こして立った。」(6:8)

1.《レイアウト》 所謂「ブレグジット/EU離脱問題」で揺れる英国議会の映像を見ていて、議場が対面型であることを意識しました。二大政党制を前提に、徹底的に議論するのに最適のデザインです。米国の連邦議会や日本の国会は半円型です。また、中国の全人代や北朝鮮の最高人民会議は教室型(劇場型)です。これは指導者の唱える方針を受け取るためのデザインです。

2.《ファリサイ》 「安息日/シャバット」は「仕事を休む/シャーバト」という動詞に由来します。労働を離れて心身を養い、神に思いを向け、命の意味を見詰める時です。労働に取り憑かれると、却って命の価値が見失われるのです。しかし、ファリサイ派はその律法厳守(正しいこと)を、他の人たちにまで押し付けようとしました。「ファリサイ」とは「分離された者」の意味で、延いては「聖なる者、正しい者」のことです。真宗大谷派の僧侶、瓜生崇は「カルトの問題は正しさへの依存」と定義しています。人間が真実を求めて行くならば、むしろ迷いながら、時には間違いを犯しながら歩くのが本当なのです。

3.《信仰の中心》 当時のシナゴーグは、奥に聖書の巻物を納めた「聖櫃」、その前に「講壇」、主要メンバーの上席「モーセの座」と成っていました。ファリサイ派や律法学者は「上席」を巡って、激しい鍔迫り合いを繰り広げていました。そんな中、イエスさまは隅の末席に追い遣られていた「手の萎えた人」を「真ん中に」、講壇の前へ招かれたのです。いつの世も、人間が身分や階級、経済階差、功績の有無などによって勝手な序列を決め、それが社会に分断をもたらしています。しかし、イエスさまは、弱くされた人を「真ん中」に取り戻すことで、信仰(義認)の内実を訴えられたのです。

朝日研一朗牧師

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2019年07月08日

思い通りにならなくても【イザヤ55:8〜11】

聖句「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。」(55:8)

1.《新島とヘッセ》 2013年の大河ドラマ『八重の桜』の中で、スイス滞在中の新島襄が呼吸困難に陥り、遺言を書く場面がありました。その後、持ち直して膏薬を貼り、旅行を続けたようですが、その滞在中にK・O・J・ヘッセ牧師を訪ねています。そこに同席したのが、当時7歳のヘルマン・ヘッセでした。ヘッセは第一次大戦の時、反戦平和を標榜して迫害されますが、同胞の捕虜のために「慰問文庫」を設立して送る活動に従事しているのです。

2.《アウグスツス》 その「慰問文庫」の1冊が童話「アウグスツス」です。結婚後すぐに未亡人となった女性が出産します。それでも母親は子どもの幸せを願って「誰もがお前を愛さずにはいられないように」と願を掛けます。少年は美しく成長し、皆から愛されますが、次第に我儘で高慢に成り、やがて放蕩と歓楽に身を持ち崩します。絶望した青年は「今度は、ぼくが人々を愛せるように」と願を掛けるのです。すると、これまで彼を愛した人々からは憎まれ、投獄され、出獄した後も蔑まれます。しかし彼は、自らの溢れる愛と喜びを出会った人々に注いで行く、そんな巡礼のような生涯を全うするのです。

3.《愛することを》 人生は思い通りになりません。「アウグスツス」は「小児的全能感」を思わせます。私たちは皆、試行錯誤を繰り返しながら成長し、自と他の区別、善悪の区別が出来るようになります。自分の思い通りにしようとすることは、人間の罪ではないでしょうか。例えば、自然をコントロールしよとするのは傲慢です。「お言葉通りに」「御心のままに」と、神の御前にひれ伏していくのが人間の在り方ではないでしょうか。神さまのデザインと流儀にお委ねしては如何でしょうか。そこに幸福と救いがあるのです。

朝日研一朗牧師

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2019年07月01日

少年ジャンプ【ルカ2:41〜52】

聖句「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」(2:49)

1.《理解の糸口》 子ども向けの「偉人伝」には幼少時の逸話が欠かせません。モーツァルトが5歳で作曲した話、アインシュタインが9歳でピタゴラスの定理を証明した話、エジソンの「空飛ぶ薬」やワシントンの「桜の木」等です。才能や資質の賛美である以上に「その後」を予感させる逸話として語られます。その人を理解するための糸口が幼少年期にあると考えられているからです。

2.《奇跡の少年》 2世紀末に成立した新約外典「トマスによるイエスの幼児物語」では、5歳から12歳までのイエスさまの奇跡が描かれます。泥の雀を飛ばしたり、アンナスの息子を呪い殺したり、教師を卒倒させたり、死んだ赤ん坊を生き返らせたり、1粒の麦で大収穫をもたらしたり、荒唐無稽と言っても良い奇跡の数々が描かれています。翻訳者の八木誠一が「まるで悪魔の子」と匙を投げる有様です。しかし、百年近くローマ皇帝によるキリスト教迫害が続き、197年と198年に、セプトゥミウス・セルウェス帝の大迫害が始まります。そんな中、当時の信徒たちは、イエスさまに強力な奇跡の力を期待していたのです。

3.《当たり前だ》 「ルカによる福音書」には、正典中唯一の少年時代の逸話があります。ここには奇跡はなく、イエスさまの御言葉が中心です。過越祭の帰路に息子の不在に気付いたヨセフとマリアが必死に捜し求めて、漸く神殿にいるイエスさまを発見します。「クリスマス」と「公生涯」の間にある記事です。イエスさまは神の子として覚醒し、親元からジャンプするのです。「当たり前」とは「神のお決めになったこと」です。現代は「当たり前」が通らないことが多い、歪んだ時代です。人としての義務と責任、権利と存在意義を振り返り、私たちは「当たり前」を「当たり前」として生きて参りましょう。

朝日研一朗牧師

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2019年06月24日

聴く耳はあるのか【ルカ8:4〜10】

聖句「イエスはこのように話して、『聞く耳のある者は聞きなさい』と大声で言われた。」(8:8)

1.《ソローの雨音》 折角のバザー当日が雨天だったりすると、恨めしく思われます。しかし、信仰の立場から言うと「晴れても恵み、降っても恵み」です。米国の詩人、H・D・ソローは生涯を通じて定職に就かず、瞑想を中心にした暮らしを営みました。湖畔の丸太小屋で暮らした時、1日中雨音を聴きながら、遂には自身と雨音とが一体となる体験をするのです。それが「聴く」ことです。

2.《大喜利謎掛け》 「種を蒔く人」の譬え話の後、イエスさまは「耳ある者は聞け」と叫ばれました。弟子たちすら譬え話の意味を理解できないのに、群集に対しては「神の国の秘密」等と仰ると、主が如何にも大衆を見下しているかに思われます。私は「笑点」の「大喜利」で行なわれる「謎掛け」のようなものだったと思います。目先の御利益や興味本位で集まった群衆に「謎掛けのお題」を出したのです。それを持ち帰った人々は、自身の暮らしや人生の中で「神の国」を思い巡らすのです。答えは1つではなく、模範解答や正解もありません。「群集」が「一人一人」に立ち返って、自身の心で御心を捜し求めるのです。

3.《命を投げ出す》 預言者イザヤが召された時の御言葉が引用されています。ユダ王国の民が預言を聞き入れてくれれば本望ですが、それを民が理解するのは国が滅んでからだと、神は言われます。イザヤは「引き裂かれた心」を抱えて活動をするのです。神の心が引き裂かれているのです。イエスさまの目指す所もまた「この世の王国」でなく「十字架」です。「譬え話/パラボレー」は「側に蒔く/パラバルロー」から来ています。中世には「命を賭ける」の意味で使われるようになったと言われています。主は課題を投げ与えられたのみならず、御自身の十字架によって、神の御心を証されたのです。

朝日研一朗牧師

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2019年06月17日

冬があるから花は咲く【イザヤ35:1〜2】

聖句「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ 野ばらの花を一面に咲かせよ。」(35:1)

1.《飼い犬の死》 日本の昔話「花咲か爺さん」を御存知でしょう。心の優しい老夫婦が飼い犬の示す所を掘ってみたら、大判小判が出て来ます。隣家の意地悪な老夫婦が犬を借り受け、同じように掘りますが、出るのは瓦や瀬戸片ばかり。無残にも犬は殺されますが、犬の墓の傍らに植えた木が成長して、それで臼を作り、老夫婦が餅を搗くと宝物が出て来ます。意地悪夫婦が同じことをすると汚物が出て来ます。彼らは臼を焚き付けにして灰にしてしまうのです。

2.《塵と灰から》 老夫婦が灰を集めて帰って来ると、夢に犬が現われ、「桜の枯れ木に灰を撒け」と言います。爺さんが灰を撒くと枯れ木が蘇り、花咲き、通り掛かりの殿様から褒美を貰います。死んだ愛犬の遺体が木に、臼に、灰に生まれ変わるのです。そして、その灰が死んだ桜を蘇らせて花を咲かせるのです。灰は死んでしまった大切な誰かです。大切な人を喪った悲しみのシンボルです。けれども、その悲しみの灰が次に新しい命を与えてくれるのです。命は塵と灰から生まれます。本当の命は悲しみの中から生まれるのです。

3.《薔薇の名前》 聖書の神さまは、まるで「花咲か爺さん」です。半世紀もバビロンに捕らわれていた民が故国に帰還する、その旅路を、花を飾って、喜び迎えて下さるのです。花は喜びや悲しみの共感を示すのです。「野ばら」と訳されていますが、サフラン、クロッカス、水仙、百合とも訳されます。球根植物も種から始まります。種から育てると開花までに数年かかります。絵本作家のターシャ・テューダーは「冷たい冬があるから、美しい花が咲くのよ」と言います。私たちの人生にも凍える冬の季節、灰と塵に塗れて悲しみに沈む日があります。しかし、だからこそ、新しい命に目覚める日が来るのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:54 | 毎週の講壇から