2020年04月06日

苦しんでいる所に、私もいる【マタイ16:21〜28】

聖句「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(16:24)

1.《聖十字架伝説》 人類の祖アダムが臨終に際して、息子セトをエデンの園に遣わして持ち帰らせた「命の木」の小枝から三聖木が育って、それが十字架の木材に使われたという伝説があります。あるいは、ノアの箱舟の竜骨、燃える柴、モーセの杖、ソロモンの橋を経て、十字架の木材と成り、コンスタンティヌス大帝の母后ヘレナが発見して、聖遺物とされたとの伝説もあります。

2.《ウィルトゥス》 聖遺物は中世の人々にとって崇敬の対象でした。神の御力が宿り、それに触れる者にも見る者にも、保管した容器や安置した場所にすら、ウイルスのように聖性の力(ウィルトゥース)が伝染すると信じられていたのです。近年、寺社巡りで「パワースポット」「パワーが貰えた」と語られるのと同じです。何の信者であろうと無かろうと、誰もが幸せを求めて、聖なる力に頼ります。十字架にも聖なる力があると信じられていたのです。教会に掲げられた十字架も単なる目印ではなく、主の御守りを願っての物です。

3.《見よ十字架を》 しかし本来、十字架は苦しみと不幸の象徴でした。日本社会では、不幸や死を厄として払い、蓋をしてしまいますが、「割れ鍋に閉じ蓋」と言わざるを得ません。どんな人の人生にも必ず十字架があるのです。それを捨て置いたり、他人に背負わせたりするのではなく、自らが取り上げて携え行くのが人生です。「自分を捨てる」は「自らを否認する」です。ペトロがイエスさまを否認してしまうことを予告しています。イエスさまと自分は「関係が無い」と言うのではなく、イエスの十字架を認め、十字架を見上げることが求められています。「あなたが苦しむ所に、私もいる」と主は言われます。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:54 | 毎週の講壇から

2020年03月30日

見捨てて逃げてしまった【マルコ14:43〜52

聖句「一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。」(14:51,52)

1.《逃走は有意義》 数年前にドラマ化されて話題になった『逃げるは恥だが役に立つ』は、海野つなみの少女マンガが原作です。原作では毎回のサブタイトルが諺になっています。実は「逃げ恥」もまた、ハンガリーに伝わる諺で、「恥ずかしい逃げ方だったとしても、生き抜くことが大切」の意味だそうです。兵法の「三十六計逃げるに如かず」(檀道済)と同じ。逃げるしか無い時があるのです。

2.《真夜中の逮捕》 先ず身内に裏切り者がいて、祭司長の下役どもを手引きしています。時間も真夜中で、弟子たちは寝込みを襲われた状態です。日没と共に「最後の晩餐」があり、ゲツセマネに移動し、主が数時間(「一時」の3倍)祈った後、捕縛され、「鶏が鳴く頃」(午前3時頃)にペトロが否認します。この時間割から、捕縛の時が午前0時から1時と分ります。剣を抜いて、下役どもと戦おうとした弟子もいたようですが、イエスさまは武力抵抗を禁じてしまうのです。こう成ってしまっては、もはや逃げるしか無かったのです。

3.《赤裸々な信仰》 逃げるべき時があります。逃げるよりも悪いのは、見捨てることなのです。逃げることと見捨てることとは違うのです。『機動戦士ガンダム』等で知られる安彦良和は、若者が裸で逃げる場面とペトロの否認に、聖書の人間観を見ると語って居られました。土壇場で、人間の「裸」の姿が露呈してしまうのです。惨めな姿です。人間の勇気や決意など木っ端微塵に吹き飛ばされてしまうのです。恥辱の極みです。この敗北こそがキリスト教信仰の原点です。致命的な失敗、取り返しのつかないミスを犯すこともあるのです。しかし、そんな失敗も、イエスさまの愛によって赦されるのです。

朝日研一朗牧師

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2020年03月23日

こんじゅげ 【コロサイ3:12〜17】

聖句「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」(3:14)

1.《帯の長さ》 昔から「中途半端で役に立たないこと」を「帯に短し襷に長し」と申します。その種類にもよりますが、和服の帯の長さは3.6〜4.3m、襷の長さは2.1〜2.4mです。従って、役立たずな長さは2.5〜3.5mです。しかし、2.5mの飾り紐やハーネス、3.5mの巻尺などもあります。中途半端で役立たずとされる長さの物だって、使いようによっては有益なのです。

2.《帯も色々》 「新共同訳」は「きずな」等と訳していますが、それ以外の殆どの翻訳では「帯」と訳されています。「一緒に結わえる」という意味の語です。人体に使う場合には「腱、靱帯」です。古代ユダヤでは、労働や作業の際には、着物の裾を帯に挿し込みました。イエスさまが弟子たちの足を洗う場面などが、その代表です。コロサイのフリギア人は布製の帯を安全ピンで止めました。ギリシア人は青銅製のバックルの付いた革製のベルトを使用していました。民族や文化によって異なりますが、帯が無くては着物がズリ落ちてしまいます。

3.《御心成就》 札束の「帯封」のように束ねる役割もあります。キリスト者を束ねるのは「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」の5つの徳です。この5つの心を結んで仕上げるために「愛を身に着けなさい」と言われるのです。その愛は、私たちの愛ではなく、神とキリストから頂いた愛です。「身に着けなさい」の「エンドゥオー/着せる」は、比喩として使われる場合に受動の意味に変わります。つまり「着せられなさい」です。「仕上げは神さま」なのです。仏語の「コンジュゲ」には「結び付ける」「活用する」の2つの意味があります。不完全な私たちでも、徳を活用させる時、神が完成させて下さるのです。

朝日研一朗牧師

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2020年03月09日

謝罪の神さま【使徒言行録11:1〜18】

聖句「すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。」(11:9)

1.《人間の心》 聖書、とりわけ旧約を読むと各文書の多様性に驚かされます。律法あり歴史物語あり、詩あり小説あり、預言書ありです。どのような歴史的背景があり、どのような文脈で語られているか吟味が必要です。いずれも神を証する文書であることは確かですが、証し人も時代状況も異なりますから、自ずと神さまのイメージも違います。人間の心がそれを映し出しているのです。

2.《神の御心》 聖書の神さまには、時折り驚かされることがあります。例えば、教科書的に「全知全能、唯一絶対の神」と教えられていますが、その神が「後悔なさる」のです。ヘブライ語の「後悔する」には「慰められる」の意味もあります。弔問客の「お悔やみ」に遺族が「慰められる」構図と同じです。民を滅亡させようとする時、神さまが思い直したり、悔いたり為さるのですが、それは人間に対する慈しみの故です。一旦決定した計画を変更できずに、破滅に向かうのを「コンコルドの誤謬」と言いますが、それこそは人間の業なのです。

3.《ブレーキ》 私自身も、子どもたちに暴言を吐くことが多かったのですが、思い直して謝ることを学びました。悪かった時には「悪かった」と素直に謝れる親であることが大切です。それが最大の愛情表現であり、尊厳なのです。私たちが守ろうとしているのは、大抵、面目なのです。ペトロはエルサレム教会の指導者でありながら、ユダヤ教の律法に追従した過去を悔いて、無割礼の異邦人に洗礼を授けて、同じ信仰者と認めました。教会も公認しましした。神の権威は「光輝き」、即ち、礼拝にあっての「臨在」です。「主は生きておられる」「共におられる」事です。イエスさまの力は、愛する力、赦しの力です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:54 | 毎週の講壇から

2020年03月02日

苦しみと恵みのブレンド【フィリピ1:27〜30】

聖句「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」(1:29)

1.《旨味と苦味》 甘味、塩味、酸味、苦味が4大味覚とされて来ましたが、近年これに日本由来の旨味の存在が加えられました。旨味は「風味、心地良さ」に通じます。苦味とは正反対です。苦味は文字通り苦しみに通じます。しかるに、人間は味わいの1つとして認識して来たのです。他の味覚とブレンドすることによって、苦味をコク、深みある味わいとして受け止めて来たのです。

2.《恵みに与る》 恵みは旨味に通じます。上からの特別な恩顧を受けることなのですが、パウロは獄中から「キリストの苦しみに与ることで恵まれる」と訴えるのです。彼の「戦い」(苦闘、苦悶、不安)を知って応援してくれたフィリピの信徒たちの「共闘、連帯」に感謝しているのです。サルトルなら「アンガージュマン/参与」と言うかも知れません。自ら主体的に、この世界に働き掛けて行こうとする姿勢です。そこで初めて「恵みに与る」という事が起こって来るのではないでしょうか。信仰から一歩踏み出した生き方なのです。

3.《交じり合う》 珈琲にもウイスキーにもブレンドがあります。ブレンドすることで異なる個性の味わいが引き立つのです。同調圧力の強い社会ですから「反対者」との摩擦に悩むこともあります。しかし、私たちには信仰の仲間がいます。何よりキリストが共に居られます。苦闘かも知れませんが、共闘なのです。そこから恵みや喜び、感謝や賜物が生まれるのです。アイザック・ウォッツ作詞の讃美歌「栄えの主イェスの」にあるように「恵みと悲しみ」は交じり合って流れて来るのです。私たちの弱さも信仰と交じり合っています。自らの中にある苦さも、主の恵みと溶け合い、人生の味わいを生み出して行くのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:53 | 毎週の講壇から

2020年02月24日

イエスの名、イエスの道【使徒言行録19:1〜10】

聖句「人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り…」(19:5,6)

1.《飼い犬の名前》 ペット専門の保険会社の調査によると、人気ランキングではメスは「モモ」、オスは「レオ」、総合は「ココ」と成っていました。戦前から戦後の昭和時代には「エス」という名前が流行しました。明治時代の讃美歌集では、イエスさまを「ヱス」と記載していました。これが何十年かの歳月をかけて日本国中に拡がり、飼い犬の名前として定着したのかも知れません。

2.《イエスの名前》 カトリック教会では「イエズス」、正教会では「イイスス」と祈られています。日本ですら教派によって異なるのです。英:ジーザス、西:へスース、仏:ジュジュ、伊:ジェズ、独:イェーズース、亜:ヤスエ、中:イェースー(耶蘇)、韓:イェスと、言語によっても異なるのです。新約聖書(ギリシア語)ではイエスースですが、ヘブライ語はヨシュア(イェーシューア)です。斎藤緑雨の川柳「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」が思い出されます。

3.《主の霊の御業》 大切なのは名前の発音ではなく、「イエスの名によって」祈ることです。そこにイエスさまの人格と霊が宿っているのです。御生涯と十字架が掛かっているのです。独りで祈るのではなく、主の名によって集まり、心を合わせて共に祈る時、祈りの力が発現するのです。私たちは「イエスの名によって」洗礼を受け、今や彼の所有とされ、保護下にあります。聖霊なる主が、どんな時にも私たちと共に居られるのです。その意味では、毎日、どの瞬間も特別なのですが、生活者でもある私たちはルーティンに成らざるを得ません。しかし、そんな私たちでも「イエスは主である」と告白するのです(「コリントの信徒への手紙T」12章3節)。それが御名によって祈ることです。

朝日研一朗牧師

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2020年02月17日

Game Over?【ヨハネ13:36〜38】

聖句「イエスが答えられた。『わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。』」(13:36)

1.《ペトロの忠誠》 自らが「去っていく」ことを予告するイエスに、「主よ、どこへ行かれるのですか?」と食い下がるペトロ。だがイエスは「ついて来ることはできない」とあしらう。納得できないペトロは「あなたのためなら命を捨てます」とまで言ってみせるが、イエスは彼の裏切りを予告する。その結末を、既に我々は知っている。しかし私は、彼の忠誠が偽物であったとは思わない。

2.《必然的な敗北》 ペトロは心からイエスを信じて、彼のために尽くすことに喜びを感じていたに違いない。だが、その喜びは唐突に奪われた。そのとき、彼は気付いたであろう。自分には何もないということを。たとえ彼が命を捨てたところで、イエスを救うことはできない。彼は良い時しか見ていなかった。イエスによって社会を正しい方向へ導くという使命感と高揚感が、彼の燃える忠誠の源であった。しかし、全ての人間は既に神の愛の中にいるというイエスの教えを真に理解していなかった。彼の敗北は、イエスにしてみれば必然であった。

3.《敗れざるもの》 しかしイエスは、彼が「後でついて来ることになる」とも告げる。彼はいずれ、その胸に真理を宿し、神の愛を本当の意味で知ることになる。ペトロがイエスの死後、復活の証人となり、エルサレム教会の指導者を担ったことは確かである。厳しい迫害の中、宣教に努めた。彼は再び自らに敗北することはなかった。それはきっと、彼が自らの弱さを受け入れたから、イエスが既に彼の弱さをも受け入れていたことも悟ったからだと、私は想像する。イエスは彼の敗北を予見しながらも、それを受け入れ、なお彼が立ち上がり、自らについて来ることを期待した。これが神の愛である。

池内 裕牧師(金沢八景教会)

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2020年02月10日

信仰のない私が信じます【マルコ9:14〜29】

聖句「その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けください。』」(9:24)

1.《逆説的な真実》 聖書の世界、イエスさまの御言葉は「逆説」に満ちています。例えば「寡婦の献金」の記事では、賽銭箱に1万円を入れる金持ちよりも、50円を献げた寡婦が一番多く奉げたと、主は言われます。明らかに一般的な貨幣価値に反しますが、「彼女は生活費全てを入れた」との真理に私たちは胸打たれるのです。主の示す真実は、私たちの固定観念を木っ端微塵にするのです。

2.《パラドックス》 論理学では「ドクサ/正しい見解」+「パラ/それに反する見解」の合成語で「背理」と言います。しかし、ギリシア語の語源から考えると「私たちの予想を超えた、期待を裏切る」意見です。実際、義人が非とされ、罪人が義とされる逆転が語られるのです。例えば、この父親の叫び「信じます」は信仰告白ですが、それに続く「信仰のない私」は不信仰の告白です。しかし、この信仰の逆説こそが真骨頂です。信仰とは、自らの不信仰を御前に曝け出して神の愛と赦しを乞うことではないでしょうか。

3.《信仰と不信仰》 弟子たちに息子の病気を癒して貰えなかったからでしょうか、この父親は「お出来になるなら」と余計な一言を加えて、イエスさまの逆鱗に触れたかのように訳してあります。しかし「ベザ写本」では「あなたさえ信じることが出来れば」と、父親に信ずるよう促しているのです。それに応えて、父親は「信じます」と叫んだのです。但し、揺るがぬ信仰など持ち合わせていませんから、同時に「この不信仰の故にお助け下さい」とお縋りするより他はなかったのです。「私共をお助け下さい」が「私をお助け下さい」に変化しています。自らの不信仰を曝け出して、救いを求めることが肝要です。

朝日研一朗牧師

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2020年02月03日

人生のローラーチェーン【ローマ5:1〜11】

聖句「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(5:3,4)

1.《七人の敵が》 その昔「男は敷居を跨げば七人の敵あり」と言われたものです。世間の厳しさを諭す諺ですが、夫が妻子を捨て置く際の方便に使われて来たように思います。加納朋子の小説『七人の敵がいる』では、勝気なヒロインが行く先々で波風を立ててしまいます。同調圧力の強い日本社会では、意見の対立を怖れる余り、個人は何も言えずに我慢する習慣が身に着いてしまいます。

2.《摩擦と圧迫》 日本社会でキリスト者に成ることは、ある意味、波風を立てることです。周囲の無自覚な同調圧力と、その都度、対決を余儀なくされます。この社会では、他の人と同じことをしないで、自分で自分なりの生き方や行動を探そうとすると、何かと苦しいのです。しかし、この苦しさこそが大切です。「苦難」と訳されているのは「圧迫、摩擦」です。「忍耐」は「敢えて、その下に留まる」ことです。「練達」は「実証実験、本物であることの証明」です。信仰者と成るために、摩擦や圧迫を受けて悩むことが求められているのです。

3.《和解の務め》 確かに「苦難、忍耐、練達、希望」は連鎖(チェーン)ですが、人間の努力や業績によって希望に至る階段ではありません。先に希望が与えられているのです(2節)。自転車やバイクのローラーチェーンと同じく、十字架の主から頂いた希望が原動力と成り、信仰者の人生を回しているのです。神と和解させて頂いた(10節)私たちには、イエスさまに倣って、敵対の壁を取り払う「和解の務め」が与えられています。多数が少数を呑み込んで同化するのは暴力です。互いに異なる者たちを、同じ神の子として和解させ、本当の平和を目指して行くのが、真の回復であり復興なのです。

朝日研一朗牧師

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2020年01月27日

羊の門【ヨハネ10:7〜18】

聖句「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は門を出入りして牧草を見つける。」(10:9)

1.《ジンギスカン》 北海道では、花見でも運動会でも、海水浴でも紅葉狩りでも、大学の新入生歓迎会でも、時と所を問わず、仲間が集まれば、ジンギスカンが始まります。東京にも「羊門」「喜羊門」等、ジンギスカン専門店があります。思えば、聖書はイエスさまを食べ物(パン、ワイン、魚、羊)に喩えています。命を繋ぐために無くてはならない食材(贖罪)なのかも知れません。

2.《聞き分けぬ羊》 「羊が命を受けるため」の「受ける」は「捉える」です。「囲いに入っていない他の羊もいる」の「いる」も「捉える」、「その羊をも導かなければならない」は「連れて行くために繋ぐ」です。聞き分けの悪い羊を捕まえて、囲いに誘導する羊飼いの重労働が偲ばれます。囲いの中の羊と「囲いに入っていない他の羊」を対比して、「ユダヤ人と異邦人」「従順な信者と未信者」等と単純に仕分けして読んでしまいがちです。しかし、両者は同じ羊の群れかも知れません。むしろ信者を「囲い込もう」とする教会が怖ろしいです。

3.《命も魂も捨て》 「囲い」は狼の群れや盗人(夜間に来る者)から守るための場に過ぎません。羊の群れは毎日そこから放牧地や水場に出て行き、羊飼いは群れを率いて、外に連れ出すのが務めです。「羊の門」もまた、閉じ込めるためではなく、出入りするために存在します。「教会の外に救い無し」等という方便に利用すべきではありません。羊が受ける「命/ゾーエー」は一般的な語ですが、イエスさまが「羊のために命を捨てる」と仰る時には「魂/プシュケー」という語を使って居られます。主は私たちのために、命も魂さえも投げ出すことを厭われなかったのです。神さまの愛を信頼して居られたが故に…。

朝日研一朗牧師

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