2021年04月19日

何のために生きるのか【ローマ 14:1〜12】

聖句「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。」(14:10)

1.《驚く為五郎》 その昔、ハナ肇の「アッと驚く為五郎」というギャグがありました。そもそも、ハナが麻雀をしている時、自分の打牌によって他家にロンしてアガられた瞬間に唸っていた口癖だったそうです。元ネタは浪曲「清水次郎長伝」の「為五郎の悪事」の一節、本座村為五郎の驚愕を、名人と言われた二代目広沢虎造が独特の節回しを効かせて唸った(歌った)ものだったのです。

2.《恩を着せる》 ここには「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために生きるのです」という有名な聖句があり、その前後も含めると僅か2節に7回も「ために」が出て来ます。こんなに連発されたら、さぞかし主も鬱陶しいかろうと思いました。愛国心に付け込んで「お国のため」と言っては、兵隊を死地に追いやった歴史があります。親が子どもに「あなたのためなのよ!」と捲くし立てる場合も、大抵、本人のためには成りません。殆ど全ての日本語訳で「主のため」になっていますが、実際には、単に「主に」(定冠詞+与格の名詞)に過ぎないのです。英訳なら「to the Lord」です。人間が神さまに恩を着せよう等とは言語道断、以ての外ではありませんか。

3.《主に生きる》 イエスさまは高い所から下々を見下ろして居られたのではなく、実際に地上に生きて、人間として苦難を受け、十字架に死なれました。そのような御方だからこそ、生きている者にとっても死んだ者にとっても、主であられるのです。その主が「私は誰をも裁かない」と仰っているのに、どうして信徒を自称する者が他人を裁くのでしょうか。主は「ファリサイ派と徴税人」の喩え話をして、他人を見下してはいけないと教えられたのに、どうして同胞を蔑んだり侮ったりするのでしょうか。「裁く」ことは「侮る」ことと同じです。残念ながら、社会は勿論のこと、教会の中にさえ、他者を自分より低い者と見下す人がいます。しかし、私たちがキリストを主と仰ぐなら、同胞と同じ目線で生きて行く道を選ぶべきです。その時にこそ、自分が生きる価値と目的とが知らされるのです。

朝日研一朗牧師

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2021年04月12日

イエスの顔も三度【ヨハネ 21:1〜14】

聖句「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現われたのは、これでもう三度目である。」(21:14)

1.《魂の暗証番号》 最近は、年配者が若い人に説教する姿が見られなくなりました。昔の人は叱るにしても、諺や格言を織り交ぜていました。その人の人生観や職業倫理を裏打ちするものだったのでしょう。愛誦聖句も同じです。朝な夕なに唱えて自分を律する聖句は、私たちの魂の一部になります。クレジットカードの暗証番号みたいなものです。愛誦聖句を忘れるようでは、天国の扉は開きません。

2.《見ずに信じる》 「仏の顔も三度」の由来は、コーサラ国の毘瑠璃王(ヴィドゥーダバ)の軍勢が母の祖国、釈迦族を攻めた時、釈尊が教え諭して戦を押し留めるのですが、遂に4度目に釈迦族を滅ぼしてしまう故事です。「仏の顔」は釈迦の威光ですが、3度までしか効かなかったようです。聖書の「神の御顔」も神の栄光と臨在を意味します。私たち人間が見ることは出来ません。ただ仰ぐのです。イエスさまの復活の御姿も「見る」ものではありません。「ヨハネによる福音書」20章では、マグダラのマリアから始まり「見る」という動詞が繰り返されますが、「見ないうちは信じない」トマスに対して、主は「見ないで信じる者になりなさい」と言われて、復活は見るものではなく信じるものだと解き明かされるのです。

3.《毎日の朝御飯》 21章は後日譚です。最近の映画やアニメはエンディングのクレジットの後に付け足しのドラマが続いたりします。これを映画業界では「ポスト・クレジット・シーン」と言います。派遣命令が出された後に、どうして弟子たちが漁師なんかやっているのでしょうか。それは、私たちの日常生活の中に復活の主が居られるというメッセージです。夜通し働いた弟子たちのために朝御飯を用意して待っているイエスさまは、私たちの家族、学生食堂のおばちゃんのようです。聖礼典だの秘蹟だのと勿体ぶったものではありません。もはや「見たの見ないの」と喧嘩する弟子は一人もいません。イエスさまがそこに居られるのが当たり前なので、誰も「あなたは誰か?」と問うたりしないのです。だって「これでももう3度目」なのですから。私たちの暮らしの中に主は居られるのです。 

朝日研一朗牧師

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2021年04月05日

どこかで朝が始まっている【マタイ 28:1〜10】

聖句「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」(28:8)

1.《朝のリレー》 谷川俊太郎に「朝のリレー」という詩があります。初出は1968年の詩集ですが、1980年代に中学の国語の教科書に掲載され、2004年にはコーヒー会社のCMにも使用されて、多くの人に知られるようになりました。世界の各地に暮らす若者や子どもたちが時間差で朝を迎える様子が、地球上の人から人へと「朝がリレー」されていると表現されています。

2.《何を繋ぐか》 東京五輪の聖火リレーが始まりましたが、正直、コロナ禍とあって素直に祝福できません。聖火リレーの起源は古代ギリシアの「松明競争」と言われます。競技会の前に騎手や走者が松明を消さないように注意しながら、神殿までリレーする宗教儀礼でした。近代リレーの発祥は、米国の大学が大陸横断の「駅馬車」や「早馬」の制度をヒントにして、バトンを手渡すトラック競技を始めたとされています。米国の消防士の消防訓練競技で手旗をリレーしたという説もあります。日本の「駅伝」では「襷を繋ぐ」と言います。駅から駅へ馬を乗り換える「伝馬」制度を利用する役人が、朝廷から支給された「駅鈴」が襷の起源とも言われます。しかし、目に見えない何かを繋ぐリレーもあるのです。

3.《希望の朝だ》 最初に主の復活を伝えられたのは「マグダラのマリアともう一人のマリア」でした。「もう一人のマリア」とは「小ヤコブとヨセの母マリア」です。息子2人を主の弟子として送り出し、自らもガリラヤから従って来て、一行の世話をしていた女性です。十字架の最期を見届け、朝一番に墓参りにも来ています。彼女たちは、そこで転がる墓石、天使の啓示、逃亡する番兵、主の復活という出来事に出会うのです。福音を弟子たちに伝えるために、彼女たちは走ります。聖書の中で女性が走る場面は珍しいと思います。伝え聞いたペトロも墓に走ります。さながら「箱根駅伝」の往路と復路のようです。この2人の女性たちから、復活を伝える「朝のリレー」が始まり、2千年後の私たちの所に届きました。今日に至るまで、途絶える事無く続けられているのです。それが主日礼拝です。 

朝日研一朗牧師

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2021年03月29日

ぞうきんのこころ【ヨハネ13:1〜11】

聖句「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(13:1)

1.《洗足と千束》 大田区には「千束」と「洗足」の地名が混在しています。その昔この地域は寺領だったので「稲千本分」の年貢が免ぜられていたので「千束」だったそうです。その後、日蓮が旅の途中、池で足を洗った伝説が加わり「洗足」の字が当てられたとか。ところが、1926年、この地に前田若尾が「洗足高等女学校」というキリスト主義学校を設立したのです。勿論、イエスさまの「洗足」の御業を建学の精神に掲げて校名にしたのでした。

2.《跣足と清貧》 カトリック教会には「跣足(せんそく)」と銘打った修道会があります。これは、アッシジのフランシスコとキアラ(クララ)が古代の使徒たちに倣って「裸足」で旅をしたことから来ています。それは清貧の実践でしたが、同時に、贅沢三昧を極めたローマ教会の内部改革を促す運動でもありました。因みに、日本では「清貧」と言われますが、ラテン語の「パウペルタース/貧しさ」には、「清い」等という自己主張はありません。そうではなくて、ただ単に「キリストは貧しさと苦しみの中に共に居られる」という信念です。安土桃山時代、フランシスコ会修道士が初めて入って来た時、貧しさを旨とする姿を見て、キリシタンの信仰に入った庶民も多かったと言われています。

3.《足を洗う主》 過越祭の食事(最後の晩餐)の直前、主は弟子たちの足を一人一人洗われました。人に仕える姿を身をもって示された等という教育実践のようなことではなく、洗足の御業そのものがキリストの御心そのものだったのです。確かに「大地/フムス」に触れる足は、私たちが地上の存在(この世の者)であるという限界を常に教えてくれます。その足を洗う主の御姿は「謙遜/フムス」そのものです。ペトロとの対話に気を取られますが、ここで最も焦点が当てられるべきは、イスカリオテのユダの存在です。主は裏切る者の足も洗われたのです。イエスさまは既に悪魔に取り憑かれている者をも「主の晩餐」に招かれているのです。そして手ずから聖餐のパンを差し出されたのです(直接、彼の口に入れたのかも知れません)。これが「世にある彼自身の弟子たちを愛して」愛し抜かれたという事柄の真骨頂なのです。裏切ったり、見捨てたり、逃げ出したり、否認したり、信じなかったりする弟子たちであっても、イエスさまの魂の一部なのです。

朝日研一朗牧師

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2021年01月11日

安息日にこそ救いを【ルカ 14:1〜6】

聖句「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」(14:5)

1.《ぽっぽや》 映画『鉄道員(ぽっぽや)』で高倉健扮する主人公、乙松は北海道のローカル線の終着駅の駅長です。生後2ヶ月の娘が病死した時も、入院中の愛妻が臨終を迎えた時も、鉄道員としての職務を全うしたために、その最期を看取ることが出来ませんでした。定年退職を控えた乙松の前に、幼児、中学生、高校生の3姉妹が順に現われます。それは、幼くして亡くなった娘が成長して行く自分の姿を見せようとして、彼の前に現われたのでした。

2.《四角四面》 『鉄道員(ぽっぽや)』(1999年)の下地に成っているのは、イタリア映画の『鉄道員』(1956年)でしょう。いずれの主人公も、鉄道員としての職務に誇りを持ち、家庭の事情よりもダイヤと乗客の足を守り、職務を全うすることを第一に考えているのです。愚直を通り越して偏屈と言っても良いくらいです。昔の職人気質や職業人のプロ意識なのです。イエスさまの御言葉を読みながら、自分の息子が穴に落ちても、気付かない人もいるでしょうし、仕事を優先する人もいるかも知れないと思いました。イエス一行を自宅に招いて宴会を開いたファリサイ派の議員も、同席した「律法の専門家やファリサイ派の人々」も、決して悪い人たちではなく、ただ自分の職務に忠実な人たちだったのではないでしょうか。

3.《救いの手》 律法には「たとえ敵の驢馬でも荷物の下敷きに成っているのを見たら助けよ」「同胞の驢馬や牛が倒れているのを見て見ぬ振りをするな」と教えられています。況してや自分の家畜なら、自分の息子なら尚更でしょう。言うまでもありません。宴会の席上に「水腫を患っている人」がいました。リンパ液の病気で、体に浮腫が出ているのです。同席していたのですから、議員の身内に違いありません。しかし、居並ぶ面々は、イエスさまから改めて「安息日に病気の治療は許されるか?」と訊かれると、職業意識が邪魔をして黙り込んでしまったのです。議員は誰よりも癒しを願っていたはずです。それなのに私情を差し挟むことは許されないと沈黙してしまうのです。融通の利かない「律法バカ」なのです。彼らこそが井戸に落ちて上がれないのです。イエスさまはそんな面々を通り過ぎて、彼を癒されました。大切なのは愛、神が良しとされるのは愛、私たちを天国へと連れて行ってくれるものがあるとしたら、それは愛だけです。

朝日研一朗牧師

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2021年01月04日

亡命者はナザレをめざす【マタイ2:19〜23】

聖句「ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。」(2:22,23)

1.《巣ごもり生活》 昨年はコロナウイルス感染拡大に伴い「外出自粛」が叫ばれました。在宅で仕事をする「テレワーク」や、外出を減らして「おうち時間」が増えた結果、「巣ごもり需要」と言って調理器具や食品、ゲームや書籍、動画配信サービス、健康器具、家具、学習教材などの販売収益が倍増したそうです。このように「コロナ禍」で大儲けした人がいる一方、仕事や職場を失った人たちも多数あることを思うと、とても遣り切れない気持ちに成ります。

2.《引きこもり?》 昨年は「引きこもり」に取材した番組も多くありました。所謂「8050問題」もありますが、失職や高齢の親の介護を契機に引きこもる人も増えています。米国精神医学会の診断マニュアルに「社会的撤退/Social Withdrawal」とあったのを翻訳したのが「引きこもり」の語源です。聖書にも「引きこもり」が出て来ます。単に時代に迎合したのではなく、キリストの「公生涯」を如何に位置付けるかという問題があります。降誕から洗礼者の登場までの約30年間、イエスさまの動向について、知られざる期間があるのです。社会的に孤立しても、人から知られていなくても、生きている人たちがいるのです。

3.《ナザレの人?》 ヘロデの死後にユダヤ地方の統治を継いだ、アルケラオは大変な悪政を行なったそうです。そこで、ヨセフ一家はガリラヤ地方のナザレに移住したと言うのです。ここに「ルカによる福音書」のクリスマス物語との齟齬があります。「ルカ」では、マリアもヨセフも最初からナザレに住んでいた設定ですが、この「マタイ」では、故郷のベツレヘムに戻らず、泣く泣く東北の片田舎に移住するのです。この齟齬を「面白い」と思うか否かで、信仰の在り方(寛容と不寛容)が分かれます。「彼はナザレの人と呼ばれる」という預言は旧約聖書にはありません。むしろ「ナザレから何か良いものが出るだろうか?」と言われているのです。しかし、その方が本当のキリスト、王宮にではなく飼い葉桶に生まれたイエスさまに相応しいと思います。寄る辺ない亡命者の憂愁、片田舎に引き籠る者の孤立感、田舎者の鬱屈を、イエスさまは御存知なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:55 | 毎週の講壇から

2020年12月28日

脱出せよと天使は告げた【マタイ2:13〜18】

聖句「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。」(2:13)

1.《子どもの祭》 12月28日は「幼な子殉教者の日」、ヘロデ王に虐殺されたベツレヘムの幼児を記念する日です。クリスマスは「子どもの祭」と言われます。降誕図やプレゼピオは飼い葉桶の赤ん坊を中心にしていますし、サンタが子どもたちにプレゼントを届けます。しかし、幼児虐殺の出来事をも踏まえた上で、クリスマスを受け止めるべきです。現代社会にも子どもの虐殺や虐待はあります。現代にもヘロデ王はいるのです。私たちの中にもヘロデがいるのです。

2.《ガブリエル》 ヘロデの幼児虐殺に先立って、エジプトへの逃避の記事があります。父ヨセフの夢に天使が現われて、危機を知らせ、一家をエジプトに脱出させるのです。この天使の名前は語られませんが、ザカリアとマリアに「受胎告知」をしたガブリエルとされています。羊飼いに救い主の降誕を告げたのも、イースターの朝、墓の前で女弟子たちに主の復活を告げたのも、同じくガブリエルとされています。「ダニエル書」以来、主の御言葉を伝えるのはガブリエルと決まっているのです。御子イエスさまと違って、私たちには神の御心は分かりません。それでも「御心ならば」と、神の御言葉に従って行くべき時があるのです。

3.《雌伏と雄飛》 ガブリエルがヨセフに命じている「連れて行け」には「受け容れる、引き取る、迎え入れる、信じて受け容れる」の意味があります。許婚マリアの懐妊に苦しむヨセフに「迎え入れよ」と告げられた語と同じです。ヨセフは、天使の言った通りに忠実に実行します。男性が父親として「腹を括る」瞬間です。「エジプトに逃げよ」の「逃げる」は「難を免れる」、「エジプトへ去り」の「去る」は「退く」です。「退く」ことは不名誉ではありません。時折り、イエスさまが群集から離れて、山や海辺で祈られた時の「退く」と同じです。私たちの人生にも、将来のチャンスを我慢強く待つ「雌伏」の時が必要なのです。その対語は「雄飛」ですが、オスメスの役割分担と読むべきではありません。タマシギやエミュー、ウコッケイ等は、雄鳥が抱卵して雛を養育するのですから。むしろ「雌伏」を経て初めて、勢いよく羽ばたく「雄飛」の日も巡って来るというものです。

朝日研一朗牧師

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2020年12月21日

人生は光に導かれる旅【マタイ2:1〜12】

聖句「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。」(2:9)

1.《追放と脱出》 聖書に登場する人たちの多くが「旅」をしています。しかし、現代の私たちが考える旅(観光旅行、研修旅行、出張)ではありません。大きな危険と困難を伴う移動でした。「エグザイル/追放、亡命、流浪」と「エクサダス/脱出、移住、退去」の2つの語に集約されるでしょう。2つの語は「バビロン捕囚」と「出エジプト」をも意味します。「旅」と呼ぶには余りにも過酷です。歴史の動乱や運命の流転によって、暮らしも人生も大きく変えられてしまうのです。

2.《旅はドラマ》 私たちにも「人生の旅」があります。今や生まれ育った家で、そのまま生涯を終える人は殆どいません。学業や就職、結婚によって親元を離れます。旅立ちは親子の別れです。夫婦にも死別離別があります。聖書の旅ほどではありませんが、私たちの人生の旅にも多くの困難があります。クリスマスの物語も困難な旅で幕を開けます。ヨセフとマリアの旅の後には、東方から来た博士たちの旅が描かれています。「東方」はユーフラテス川の東側の広大な地域を意味します。曖昧です。同じように博士たちにとっても、目的地は明らかではありませんでした。だからこそ、彼らはエルサレムに行ってしまったのです。

3.《新しい道へ》 明日は木星と土星の397年ぶりの大接近(会合)が観られます。これが「ベツレヘムの星」の正体と言われています。木星は偉大な王や宗教家を、土星は苦難を表わすと言います。博士たちは未来を占うのには長けていましたが、ユダヤの国という以外に、場所の特定は出来ませんでした。それどころか「ユダヤ人の王」故に都に生まれるとの思い込みから、一番行ってはならないヘロデ王の王宮を訪ねてしまうのです。しかし華やかに見えても、それは虚飾、立派そうに見えても、それは虚勢です。そんなものは、私たちを本当に生かしめるものではありません。改めて星に導かれた博士たちは、ベツレヘムでイエスさまに出会い、ひれ伏して、贈り物を奉げました。この3つの行為(出会い、礼拝、献身)によって、彼らの人生は再スタートされたのです。光に導かれる「別の道、新しい道」を通って進んで行ったのです。新しい歩みを恐れる必要はありません。

朝日研一朗牧師

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2020年12月14日

人として生まれ、人として生きる【ルカ2:1〜7】

聖句「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。…人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。」(2:1,3)

1.《英霊の聲》 今年は三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地で割腹自殺を遂げた「楯の会事件」から50年です。事件の数年前に、三島が発表した短編『英霊の聲』に彼の信条が綴られています。「帰神」という神道の交霊会に「二・二六事件」の青年将校や神風特攻隊員の霊が降りて来ます。彼らは霊媒の口を借りて、現人神への深い愛を語ります。しかしながら「人間宣言」により裏切られ切り捨てられた、悲しみと怨念を語ります。「などて天皇(すめろぎ)は人間(ひと)となりたまひし」と。

2.《人間宣言》 神道や日本の民間信仰では、森羅万象に「魂(たま)」が宿っていて、年ふれば全て神と成ります。伊勢神宮に詣でた西行法師が「何事の/おわしますかは/知らねども/かたじけなさに/涙こぼるる」と歌っています。自然の中に神を感じるセンスは私たちの中にもあり、決して恥じるべきものではありません。しかし、聖書の証しする神は創造主です。それら全てをお造りになった神なのです。私たちは偉大な人を神として祭り上げようとしますが、新約聖書が証ししているのは、反対に人として生まれ、人として生き、人として死なれたキリストです。神でありながら人としての生を全うされた主が尊いと、私は思います。

3.《住民登録》 人としてイエスさまがお生まれになった出来事を象徴するのが「住民登録/アポグラフェー」です。それは「徴税簿」、税金を徴収するための名簿が作成されたのです。ローマ帝国が徴税人を使役して徴収した税金は、全て帝国の国庫に入りました。それと別にユダヤ国の領主であるヘロデ王家も、人頭税、土地税、租税、家屋税などを民から徴収しました。古代ユダヤの民は二重の税負担に苦しめられたのです。しかも、現代と違って、それで医療や福祉などの行政サービスが受けられる訳ではありません。父ヨセフは税金を徴収される立場の人、個人事業者でした。「人頭税」と言うと、マリアやイエスさま等の家族分も支払わされたのでしょうか。イエスさまは、1人の人間としてお生まれになり、庶民の暮らしの中で生きられました。私たちが味わっている「貧しき憂い、生くる悩み」を「つぶさに舐め」られたのです。それが「クリスマスの主」です。

朝日研一朗牧師

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2020年12月07日

闇を歩む時、光は輝く【イザヤ9:1〜6】

聖句「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(9:1)

1.《みどりご》 クリスマスカラーと言うと、赤や白と思う人も多いようですが、教会では緑がクリスマスの色とされています。赤や白は脇役に過ぎません。イザヤの預言にも「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた」とあります。日本語の「ミドリ」は本来色を示すのではなく「新芽や若枝の瑞々しさ」を表わす語でした。艶のある美しい黒髪を「緑髪」と呼ぶのと同じです。日本のアニメのキャラクターにも緑髪が多いのも、緑の黒髪の伝統かも知れません。

2.《王道政治》 日本語訳は「みどりご」に拘りますが、ヘブライ語は単に「新生児」の意味です。むしろ原典は「男の子/ベーン」に重きが置かれています。「家を建てる、家を興す」者だからです。「権威が彼の肩にある」の「権威」は「政治、支配、統治」です。後に列挙される肩書き「驚くべき指導者」(霊妙なる議士、素晴らしい相談役)は、戦前の「宮中顧問官、枢密顧問官」、「平和の君」は「内閣官房参与」の役職に通じます。イザヤの世代が求めたメシアは、伝説化されたタビデ王のような「王道政治」でした。しかし、アッシリア帝国の「覇道、覇権主義」を前にして、その理想は実現することはありませんでした。

3.《光を灯す》 冒頭の聖句は「キリスト公生涯の始まり」を告げる預言であると共に、暗闇にキャンドルを灯すクリスマスを象徴する言葉です。預言者イザヤの時代も、主が生きられた時代も、私たちの時代も共通すると思いますが、「闇」とは、庶民が暮らしの中に抱える不安です。しかし、そんな「闇路を歩む者」たちが、イエスさまの御生涯と御業と御言葉に、光を見たのです。従って、たとい闇の中にあっても、光を灯し続けるのが私たちの使命です。「死の陰」は更に深い闇(陰府)を表わす語です。アッシリアによる侵略後、最初に多くの人たちが捕囚として連れ去られ、そのまま帰って来なかったのが「暗黒の地」ガリラヤでした。その最も暗い闇から最初に救いの御業が始まるというメッセージなのです。私たちの生きる社会も薄闇に包まれていますが、「光を見た」者として、私たちも自分から光を灯しましょう。それこそが、クリスマス本来の意味なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:56 | 毎週の講壇から