2021年01月11日

安息日にこそ救いを【ルカ 14:1〜6】

聖句「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」(14:5)

1.《ぽっぽや》 映画『鉄道員(ぽっぽや)』で高倉健扮する主人公、乙松は北海道のローカル線の終着駅の駅長です。生後2ヶ月の娘が病死した時も、入院中の愛妻が臨終を迎えた時も、鉄道員としての職務を全うしたために、その最期を看取ることが出来ませんでした。定年退職を控えた乙松の前に、幼児、中学生、高校生の3姉妹が順に現われます。それは、幼くして亡くなった娘が成長して行く自分の姿を見せようとして、彼の前に現われたのでした。

2.《四角四面》 『鉄道員(ぽっぽや)』(1999年)の下地に成っているのは、イタリア映画の『鉄道員』(1956年)でしょう。いずれの主人公も、鉄道員としての職務に誇りを持ち、家庭の事情よりもダイヤと乗客の足を守り、職務を全うすることを第一に考えているのです。愚直を通り越して偏屈と言っても良いくらいです。昔の職人気質や職業人のプロ意識なのです。イエスさまの御言葉を読みながら、自分の息子が穴に落ちても、気付かない人もいるでしょうし、仕事を優先する人もいるかも知れないと思いました。イエス一行を自宅に招いて宴会を開いたファリサイ派の議員も、同席した「律法の専門家やファリサイ派の人々」も、決して悪い人たちではなく、ただ自分の職務に忠実な人たちだったのではないでしょうか。

3.《救いの手》 律法には「たとえ敵の驢馬でも荷物の下敷きに成っているのを見たら助けよ」「同胞の驢馬や牛が倒れているのを見て見ぬ振りをするな」と教えられています。況してや自分の家畜なら、自分の息子なら尚更でしょう。言うまでもありません。宴会の席上に「水腫を患っている人」がいました。リンパ液の病気で、体に浮腫が出ているのです。同席していたのですから、議員の身内に違いありません。しかし、居並ぶ面々は、イエスさまから改めて「安息日に病気の治療は許されるか?」と訊かれると、職業意識が邪魔をして黙り込んでしまったのです。議員は誰よりも癒しを願っていたはずです。それなのに私情を差し挟むことは許されないと沈黙してしまうのです。融通の利かない「律法バカ」なのです。彼らこそが井戸に落ちて上がれないのです。イエスさまはそんな面々を通り過ぎて、彼を癒されました。大切なのは愛、神が良しとされるのは愛、私たちを天国へと連れて行ってくれるものがあるとしたら、それは愛だけです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 22:52 | 毎週の講壇から

2021年01月04日

亡命者はナザレをめざす【マタイ2:19〜23】

聖句「ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。」(2:22,23)

1.《巣ごもり生活》 昨年はコロナウイルス感染拡大に伴い「外出自粛」が叫ばれました。在宅で仕事をする「テレワーク」や、外出を減らして「おうち時間」が増えた結果、「巣ごもり需要」と言って調理器具や食品、ゲームや書籍、動画配信サービス、健康器具、家具、学習教材などの販売収益が倍増したそうです。このように「コロナ禍」で大儲けした人がいる一方、仕事や職場を失った人たちも多数あることを思うと、とても遣り切れない気持ちに成ります。

2.《引きこもり?》 昨年は「引きこもり」に取材した番組も多くありました。所謂「8050問題」もありますが、失職や高齢の親の介護を契機に引きこもる人も増えています。米国精神医学会の診断マニュアルに「社会的撤退/Social Withdrawal」とあったのを翻訳したのが「引きこもり」の語源です。聖書にも「引きこもり」が出て来ます。単に時代に迎合したのではなく、キリストの「公生涯」を如何に位置付けるかという問題があります。降誕から洗礼者の登場までの約30年間、イエスさまの動向について、知られざる期間があるのです。社会的に孤立しても、人から知られていなくても、生きている人たちがいるのです。

3.《ナザレの人?》 ヘロデの死後にユダヤ地方の統治を継いだ、アルケラオは大変な悪政を行なったそうです。そこで、ヨセフ一家はガリラヤ地方のナザレに移住したと言うのです。ここに「ルカによる福音書」のクリスマス物語との齟齬があります。「ルカ」では、マリアもヨセフも最初からナザレに住んでいた設定ですが、この「マタイ」では、故郷のベツレヘムに戻らず、泣く泣く東北の片田舎に移住するのです。この齟齬を「面白い」と思うか否かで、信仰の在り方(寛容と不寛容)が分かれます。「彼はナザレの人と呼ばれる」という預言は旧約聖書にはありません。むしろ「ナザレから何か良いものが出るだろうか?」と言われているのです。しかし、その方が本当のキリスト、王宮にではなく飼い葉桶に生まれたイエスさまに相応しいと思います。寄る辺ない亡命者の憂愁、片田舎に引き籠る者の孤立感、田舎者の鬱屈を、イエスさまは御存知なのです。

朝日研一朗牧師

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2020年12月28日

脱出せよと天使は告げた【マタイ2:13〜18】

聖句「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。」(2:13)

1.《子どもの祭》 12月28日は「幼な子殉教者の日」、ヘロデ王に虐殺されたベツレヘムの幼児を記念する日です。クリスマスは「子どもの祭」と言われます。降誕図やプレゼピオは飼い葉桶の赤ん坊を中心にしていますし、サンタが子どもたちにプレゼントを届けます。しかし、幼児虐殺の出来事をも踏まえた上で、クリスマスを受け止めるべきです。現代社会にも子どもの虐殺や虐待はあります。現代にもヘロデ王はいるのです。私たちの中にもヘロデがいるのです。

2.《ガブリエル》 ヘロデの幼児虐殺に先立って、エジプトへの逃避の記事があります。父ヨセフの夢に天使が現われて、危機を知らせ、一家をエジプトに脱出させるのです。この天使の名前は語られませんが、ザカリアとマリアに「受胎告知」をしたガブリエルとされています。羊飼いに救い主の降誕を告げたのも、イースターの朝、墓の前で女弟子たちに主の復活を告げたのも、同じくガブリエルとされています。「ダニエル書」以来、主の御言葉を伝えるのはガブリエルと決まっているのです。御子イエスさまと違って、私たちには神の御心は分かりません。それでも「御心ならば」と、神の御言葉に従って行くべき時があるのです。

3.《雌伏と雄飛》 ガブリエルがヨセフに命じている「連れて行け」には「受け容れる、引き取る、迎え入れる、信じて受け容れる」の意味があります。許婚マリアの懐妊に苦しむヨセフに「迎え入れよ」と告げられた語と同じです。ヨセフは、天使の言った通りに忠実に実行します。男性が父親として「腹を括る」瞬間です。「エジプトに逃げよ」の「逃げる」は「難を免れる」、「エジプトへ去り」の「去る」は「退く」です。「退く」ことは不名誉ではありません。時折り、イエスさまが群集から離れて、山や海辺で祈られた時の「退く」と同じです。私たちの人生にも、将来のチャンスを我慢強く待つ「雌伏」の時が必要なのです。その対語は「雄飛」ですが、オスメスの役割分担と読むべきではありません。タマシギやエミュー、ウコッケイ等は、雄鳥が抱卵して雛を養育するのですから。むしろ「雌伏」を経て初めて、勢いよく羽ばたく「雄飛」の日も巡って来るというものです。

朝日研一朗牧師

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2020年12月21日

人生は光に導かれる旅【マタイ2:1〜12】

聖句「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。」(2:9)

1.《追放と脱出》 聖書に登場する人たちの多くが「旅」をしています。しかし、現代の私たちが考える旅(観光旅行、研修旅行、出張)ではありません。大きな危険と困難を伴う移動でした。「エグザイル/追放、亡命、流浪」と「エクサダス/脱出、移住、退去」の2つの語に集約されるでしょう。2つの語は「バビロン捕囚」と「出エジプト」をも意味します。「旅」と呼ぶには余りにも過酷です。歴史の動乱や運命の流転によって、暮らしも人生も大きく変えられてしまうのです。

2.《旅はドラマ》 私たちにも「人生の旅」があります。今や生まれ育った家で、そのまま生涯を終える人は殆どいません。学業や就職、結婚によって親元を離れます。旅立ちは親子の別れです。夫婦にも死別離別があります。聖書の旅ほどではありませんが、私たちの人生の旅にも多くの困難があります。クリスマスの物語も困難な旅で幕を開けます。ヨセフとマリアの旅の後には、東方から来た博士たちの旅が描かれています。「東方」はユーフラテス川の東側の広大な地域を意味します。曖昧です。同じように博士たちにとっても、目的地は明らかではありませんでした。だからこそ、彼らはエルサレムに行ってしまったのです。

3.《新しい道へ》 明日は木星と土星の397年ぶりの大接近(会合)が観られます。これが「ベツレヘムの星」の正体と言われています。木星は偉大な王や宗教家を、土星は苦難を表わすと言います。博士たちは未来を占うのには長けていましたが、ユダヤの国という以外に、場所の特定は出来ませんでした。それどころか「ユダヤ人の王」故に都に生まれるとの思い込みから、一番行ってはならないヘロデ王の王宮を訪ねてしまうのです。しかし華やかに見えても、それは虚飾、立派そうに見えても、それは虚勢です。そんなものは、私たちを本当に生かしめるものではありません。改めて星に導かれた博士たちは、ベツレヘムでイエスさまに出会い、ひれ伏して、贈り物を奉げました。この3つの行為(出会い、礼拝、献身)によって、彼らの人生は再スタートされたのです。光に導かれる「別の道、新しい道」を通って進んで行ったのです。新しい歩みを恐れる必要はありません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:50 | 毎週の講壇から

2020年12月14日

人として生まれ、人として生きる【ルカ2:1〜7】

聖句「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。…人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。」(2:1,3)

1.《英霊の聲》 今年は三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地で割腹自殺を遂げた「楯の会事件」から50年です。事件の数年前に、三島が発表した短編『英霊の聲』に彼の信条が綴られています。「帰神」という神道の交霊会に「二・二六事件」の青年将校や神風特攻隊員の霊が降りて来ます。彼らは霊媒の口を借りて、現人神への深い愛を語ります。しかしながら「人間宣言」により裏切られ切り捨てられた、悲しみと怨念を語ります。「などて天皇(すめろぎ)は人間(ひと)となりたまひし」と。

2.《人間宣言》 神道や日本の民間信仰では、森羅万象に「魂(たま)」が宿っていて、年ふれば全て神と成ります。伊勢神宮に詣でた西行法師が「何事の/おわしますかは/知らねども/かたじけなさに/涙こぼるる」と歌っています。自然の中に神を感じるセンスは私たちの中にもあり、決して恥じるべきものではありません。しかし、聖書の証しする神は創造主です。それら全てをお造りになった神なのです。私たちは偉大な人を神として祭り上げようとしますが、新約聖書が証ししているのは、反対に人として生まれ、人として生き、人として死なれたキリストです。神でありながら人としての生を全うされた主が尊いと、私は思います。

3.《住民登録》 人としてイエスさまがお生まれになった出来事を象徴するのが「住民登録/アポグラフェー」です。それは「徴税簿」、税金を徴収するための名簿が作成されたのです。ローマ帝国が徴税人を使役して徴収した税金は、全て帝国の国庫に入りました。それと別にユダヤ国の領主であるヘロデ王家も、人頭税、土地税、租税、家屋税などを民から徴収しました。古代ユダヤの民は二重の税負担に苦しめられたのです。しかも、現代と違って、それで医療や福祉などの行政サービスが受けられる訳ではありません。父ヨセフは税金を徴収される立場の人、個人事業者でした。「人頭税」と言うと、マリアやイエスさま等の家族分も支払わされたのでしょうか。イエスさまは、1人の人間としてお生まれになり、庶民の暮らしの中で生きられました。私たちが味わっている「貧しき憂い、生くる悩み」を「つぶさに舐め」られたのです。それが「クリスマスの主」です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:53 | 毎週の講壇から

2020年12月07日

闇を歩む時、光は輝く【イザヤ9:1〜6】

聖句「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(9:1)

1.《みどりご》 クリスマスカラーと言うと、赤や白と思う人も多いようですが、教会では緑がクリスマスの色とされています。赤や白は脇役に過ぎません。イザヤの預言にも「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた」とあります。日本語の「ミドリ」は本来色を示すのではなく「新芽や若枝の瑞々しさ」を表わす語でした。艶のある美しい黒髪を「緑髪」と呼ぶのと同じです。日本のアニメのキャラクターにも緑髪が多いのも、緑の黒髪の伝統かも知れません。

2.《王道政治》 日本語訳は「みどりご」に拘りますが、ヘブライ語は単に「新生児」の意味です。むしろ原典は「男の子/ベーン」に重きが置かれています。「家を建てる、家を興す」者だからです。「権威が彼の肩にある」の「権威」は「政治、支配、統治」です。後に列挙される肩書き「驚くべき指導者」(霊妙なる議士、素晴らしい相談役)は、戦前の「宮中顧問官、枢密顧問官」、「平和の君」は「内閣官房参与」の役職に通じます。イザヤの世代が求めたメシアは、伝説化されたタビデ王のような「王道政治」でした。しかし、アッシリア帝国の「覇道、覇権主義」を前にして、その理想は実現することはありませんでした。

3.《光を灯す》 冒頭の聖句は「キリスト公生涯の始まり」を告げる預言であると共に、暗闇にキャンドルを灯すクリスマスを象徴する言葉です。預言者イザヤの時代も、主が生きられた時代も、私たちの時代も共通すると思いますが、「闇」とは、庶民が暮らしの中に抱える不安です。しかし、そんな「闇路を歩む者」たちが、イエスさまの御生涯と御業と御言葉に、光を見たのです。従って、たとい闇の中にあっても、光を灯し続けるのが私たちの使命です。「死の陰」は更に深い闇(陰府)を表わす語です。アッシリアによる侵略後、最初に多くの人たちが捕囚として連れ去られ、そのまま帰って来なかったのが「暗黒の地」ガリラヤでした。その最も暗い闇から最初に救いの御業が始まるというメッセージなのです。私たちの生きる社会も薄闇に包まれていますが、「光を見た」者として、私たちも自分から光を灯しましょう。それこそが、クリスマス本来の意味なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:56 | 毎週の講壇から

2020年11月30日

誰も知らない【マルコ13:32〜36】

聖句「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である。気をつけて、目を覚ましていなさい。」(13:32,33)

1.《アドベント》 クリスマスを前にして、アドベントの期間があることは、世間では知られていません。しかし、私たちが「イヴ当日」と思っている12月24日も、アドベントの最後の1日に過ぎません。12月25日はクリスマスで、主日と同じ祭日ですが、24日は特別な日ではありません。日没により日付が変更される聖書の習慣に従っているので、日没後に行なわれるイヴ礼拝は、正真正銘のクリスマス礼拝と見なされています。日没前ではダメなのです(笑)。

2.《いつなのか》 日本では、アドベントを「待降節」と訳しました。主を待ち望む私たちの姿勢としては結構ですが、アドベントの本質ではありません。ラテン語の「テンプス・アドウェントゥス」は「到来、接近の時」です。「主が来られる」ことです。「テンプス」はギリシア語の「カイロス/その時」です。聖書では「終わりの日、救いの時」です。神のお膝元、天にいる天使たちも、イエス御自身さえも知らされてはいないと言うのです。私たちに分からないのも当然です。知る必要のないこと、知るべきではないことなのです。小説や映画のオチは勿論、私たちの人生も信仰も、何も知らされていないから面白いと言えるでしょう。

3.《生きていく》 「誰も知らない」「あなたがたには分からない」と言われるものの、旧約聖書の中にメシア(救い主)の到来は何と350回も予告されているそうです。でも、クリスマスの夜、ベツレヘムの町は何も知らず眠っていました。そこで終わりの時、私たちが慌てることのないよう、新約聖書には、キリスト再臨の預言が300回もあるようです。その時がいつなのか、私たちには分かりませんが、その時のための心構えを、イエスさまは教えて下さっています。「気をつけている」ことは、この世の動きや社会の問題から目を逸らさず、この時代に向き合っていくことです。「目を覚ましている」は、他の人たちへの愛と思い遣りを失わずに暮らしていくことです。37節で締めに言われる「目を覚ましている」は「生長する」ことです。「与えられた人生を思う存分に生きなさい」「芽を出し、茎を伸ばし、枝を張って生長しなさい」と、主は仰っているのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:50 | 毎週の講壇から

2020年11月23日

涙と共に種まく人は…【詩編126:5〜6】

聖句「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。/種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/…喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」(126:5,6)

1.《これが種》 皆さんは「種」と言うと、どんな物を思い浮かべるでしょうか。スイカの種、リンゴの種、柿の種など果物の種は大きな存在感があります。けれども、バナナは品種改良の結果、「種無しバナナ」が当たり前になっています。トマトやキュウリも、種があっても意識できない程に小さくなっています。私たちが種の存在に気付くのは、食べる時に邪魔になるからです。実際には、種があるのに、種があると余り意識することのない果物や野菜が数多くあるのです。

2.《これも種》 私たちが食べているトウモロコシの粒は種なのです。豆腐も揚げも、味噌も醤油も、大豆という種から出来ています。おにぎりや日本酒の原料である米も、パンやうどんやスパゲティやビールの原料である麦も、同じです。米や麦の穂に入っているのは「種」に他なりません。蕎麦もソバの種から出来ています。私たちは、穀物の種を頂いているのです。私たちが「実り」と言っている物は、本当は「種」だったのです。考えてみると、不思議な気持ちになります。植物が繁殖のために作っている種を、私たちは食べている。私たちの中に、その種は取り入れられて、そこから私たちは生きる力を頂いているのです。

3.《涙こそ種》 エジプトのピラミッド、ファラオの墓の中から5千年前の小麦の粒が発見されました。それを地面に蒔いて育てたら、驚いたことに発芽したというのです。その種は5千年も芽生える時を待っていたのです。聖書もまた、色々な種の入った袋のようなものです。御言葉の種です。受け入れ準備の出来た豊かな心の中に蒔かれるまで、何十年も何百年も種の形のままです。私も若い頃は、聖書など死んで干乾びた言葉と思っていましたが、石のようになって死んでいたのは、私の心の方でした。私たちの人生は種蒔きのような仕事です。種の入った麻袋を背負って、泣きながら自分のフィールドに出て行きます。楽しいことばかりではありません。むしろ、辛いことや苦しいことの方が多いのです。けれども、あなたが流す涙は、必ず神さまが受け取ってくださいます。それが正しい涙なら、いつか、その涙に代えて、喜びの歌を与えてくださることでしょう。

朝日研一朗牧師

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2020年11月02日

涙は希望に生まれ変わる【ヨハネ11:28〜37】

聖句「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して言われた。『どこに葬ったのか。』」(11:33,34)

1.《看取られ》 近所の診療所の医師から、つい最近も、コロナで亡くなった患者がいて、その連れ合いが診察に来た時に「何十年も連れ添ったのに、最期を看取ってやることも出来なかった」と号泣なさっていたという話を伺いました。重症化すると家族も会話も面会も出来ません。人工呼吸器を挿管すれば意識も失います。家族は最期の時を一緒に過ごすことも出来ないのです。新型コロナウイルスで亡くなる場合、家族や友人から遠ざけられて、孤独の中で死を迎えるのです。

2.《主の憤り》 イエスさまは親友ラザロの死に対して「憤りを覚えた」と書かれています。家族や近所の人たちが悲嘆に暮れている中で、なぜかイエスさまだけは怒っているのです。友の死に対して、怒りの感情を表わすイエスさまに違和感を抱きがちです。しかし、どうでしょう。私たちは「喜怒哀楽」等と容易く4分割してしまいますが、人間の心は綺麗に分けることは出来ません。感情は互いに重なり合っています。怒りが負の感情と限ったものではありません。人種差別やイジメ、経済格差や組織的不平等、犯罪や暴力、人権蹂躙、児童虐待や性虐待など、この世には、むしろ、正しく怒りを向けるべき事柄が沢山あるのです。

3.《希望の娘》 神の子イエスさまが癇癪を起こす姿は「好ましくない」と思うのか、「激しく感動し」「霊の憤りを覚え」等と、イエスの神性を主張する訳が多いのです。けれども、この語は「動揺する、狼狽する」と訳すことも出来るのです。むしろ、親友の死に対して動揺し狼狽する主の御姿に感動します。本当に悲しかったのだろうと思います。「イエスは涙を流された」も、堰を切ったように「ワッと泣き出した」の意味だとする学者もいます。私たちも愛する人を失った時、未整理の感情が渦巻き、何かを契機にドッと悲しみが押し寄せます。イエスさまは、私たちの思いを御存知なのです。しかし、涙は涙で終わりません。死は死で終わらず、復活があるのです。アウグスティヌスは「希望には、2人の美しい娘がいる。彼女たちの名前は『怒り』と『勇気』だ」と述べています。

朝日研一朗牧師

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2020年10月26日

味方を増やす生き方を【ルカ9:49〜50】

聖句「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」(9:50)

1.《ライバル》 往年の戦争映画『眼下の敵』や『好敵手』では、敵軍の将校が互いに虚々実々の駆け引きや知恵比べをします。敵の戦術の見事さに舌を巻いたり、攻撃を見事にかわしたりする内に、相手への敵意が敬意へと変わって行くのです。但し、英語の「ライバル」はラテン語の「リーウス/小川」、つまり、水利権を巡る争いから派生した語です。本来「ライバル」には、日本語に言う「好敵手/好ましい競争相手」という意味合いは無いのです。

2.《主の名前》 イエス一行にとってもライバルの如き存在があったようです。弟子のヨハネは、イエスさまの名前を使って悪霊祓いをしていた者に、使用を禁じたと言います。まるで登録商標、商号の不正使用、専売特許の侵害を告発しているかのようです。しかし、主は「やめさせるな」と仰るのです。なぜなら、イエスさまの行き先は十字架です。誰からも理解されぬ不名誉な死でしたが、万民の救いを目指しています。奇跡や癒しや悪霊祓いは余技に過ぎません。私たちは、世間の評判や評価、名誉や名声、人望や人気ばかりに囚われています。私たちが「信仰の証しのために」と善行に励むのも自意識の裏返しだったりするのです。

3.《同じ方向》 洗礼者ヨハネの所にも「イエスが勝手に洗礼を授けている」とご注進にやって来る人がいました(ヨハネによる福音書3章22節〜)。その時、洗礼者は「私は嬉しい」と答えました。他にも、アスクレピオス教団やテュアナのアポロニオス等、イエスさまと同時代に、地中海世界を遊行しながら、病を癒したり悪霊を祓ったりする個人や団体があったのです。イエスさまは「私たちと一緒に従わなくても」「逆らわない者は味方だ」と言われるのです。原典には「敵/味方」という名詞はありません。「あなたがたと逆に向かう」「あなたがたの方に向かう」という方向性の違いだけです。たとえ信者にならなくても、イエスさまが見詰めて居られたのと同じ方向、主が胸裂かれる思いで見詰められた人々の悲しみや苦しみを見ている、それだけで良いのではないでしょうか。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:56 | 毎週の講壇から