2022年01月17日

すずめの涙【マタイ10:26〜31】

聖句「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」(10:29)

1.《五つの銅貨》 連続テレビ小説を見ていて、サッチモこと、ルイ・アームストロングが本人役で出演していた映画『五つの銅貨』(1959年)を思い出しました。劇中、繰り返し歌われる主題歌は、1ペニー銅貨の1つ1つに「願い」「夢」「踊り」「笑顔」「愛」を託した歌詞でした。「愛のある所に天国があるんだ」「たかが5つの銅貨、でも、これさえあれば、君は世界一豊かになれるんだ」。私たちが幸せに生きていくために必要な力を歌っていました。

2.《小さな世界》 英訳聖書「新改訂標準訳」は「1アサリオン」を「1ペニー」と訳していました。米国やカナダでは最小の貨幣でしょう(ペニーはセントです)。日本語にも「安っぽい」の意味で「三文芝居」「一文無し」と言います。「雀の涙」や「お涙金」という語も思い出されます。イエスさまの時代、神殿には屋台が軒を並べていたのですが、煮売り屋(惣菜屋)が雀(もしくは小鳥)を売っていたのです。方や神殿では、牛や羊が丸々1頭屠られて奉げられ、宴会が催されています。豪快な食肉文化です。それなのに、イエスの弟子たちと来たら「焼き鳥が2本10円」の屋台で一杯やっていたのです。随分しみったれていますね。でも、そのような「小さな世界」から見えて来る何かがあるのです。

3.《福音の使命》 小鳥を捕まえて煮売り屋に売っていたのは近所の子どもたちです。駄賃代わりに1円2円を貰っていたのでしょう。しかし、イエスさまは、そんな1羽でさえも、その生き死には神の御心によると仰います。そして、福音の宣教に遣わす弟子たちに向かって「あなたがたは沢山の雀よりも遥かに勝っている」と励まされます。「勝っている」の原意は「通って運ぶ、通り抜ける」です。苦難の中を「通って」福音を「運ぶ」こと、それこそが、弟子たちが雀や鳥よりも「より優れている」ことなのです。彼らが主から託された福音とは、願いや夢、笑顔を忘れないこと、生きる煌めき、希望と愛です。それが他の誰かを豊かに出来るのです。小さい事を恥ずかしいと思ってはいけません。小さな事柄に気付く時、私たちは自らの魂を取り戻すことが出来るのです。

朝日研一朗牧師

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2022年01月10日

ベトザタの池が動くとき【ヨハネ5:1〜9】

聖句「イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた。」(5:6)

1.《ワンオペ》 1つの店舗や事務所、営業所を「単独で切り盛りさせられること」を「ワンオペ」と言います。某牛丼チェーンが全国の店舗で、非正規従業員に長時間ワンオペ深夜営業をさせていたことが社会問題化し、日本の劣悪な労働環境を象徴する語となりました。近年は、家庭の在り方に対しても「ワンオペ家事、ワンオペ育児」と使われています。更に深刻な問題として「ワンオペ介護」も控えています。周囲の援助が無ければ、介護に当たる家族は忽ち孤立してしまいます。

2.《自己責任》 2020年に京都市で、重度の知的障碍を抱える息子を、母親が殺害した後、自殺をはかったという痛ましい事件が起こりました。介護生活に疲れ果て、心中しようとしたのです。一応、日本にも社会福祉制度や窓口は存在しているのですが、当事者や介護者が自分から窮状を訴えて行かない限り、置いてけ堀にされてしまう傾向があります。ベトザタの池の病人が「池の中に入れてくれる人がいない」と、イエスさまに訴えるのを読んで気付かされました。「あなたの援助が必要です」と、私たちは中々言えないのです。「自己責任」という呪いは、私たちの心の奥底にまで根を張っているのです。あたかも自らを孤立させて、自滅するようにプログラミングされているかのようです。

3.《親愛の情》 先ずイエスさまから、この病人に「良くなりたいか」と声を掛けられています。本田哲郎神父は「元気になりたいよね」と「タメ語」風に訳して居られました。主は、この病人の痛みと孤立に共感して居られる。実際、「自己責任」の名の下に、放置され続けた人は悲しみを通り越して、絶望と憤懣を抱えていますから、声を掛けても拒絶される場合が多いのです。それでも声を掛けるのが愛というものでは無いでしょうか。キリストが病気を癒すことを知らない男は「じゃあ、旦那が池に入れてくれるって言うんですかい」と返しているのです。癒しの奇跡を起こせない、私たちにとって、本当に大切なのは、イエスさまが孤立している人に気付いて、深い親愛の情を込めて、声を掛けられたことなのです。これこそ、私たちを互いに孤立させないために必要なことでは無いでしょうか。

朝日研一朗牧師

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2022年01月03日

初穂となるように【ヤコブ1:16〜18】

聖句「御父は、…わたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。」(1:18)

1.《縁起担ぎ》 年が明けると「初夢」が話題になります。年の初めに見た夢の良し悪しによって、その年の吉凶を占う「夢占い」の名残りです。「始め良ければ終わり良し」、何事も滑り出しが良ければ、最後まで上手く行くという縁起担ぎから来ているのです。入園式、入学式、入社式、成人式などの儀式を厳粛に行なうのも同根です。しかし、そんな縁起担ぎの国にして「東京オリパラ」は初めから躓きっぱなしでした。他方、緒戦で連戦連勝の太平洋戦争が如何なる悲惨な結末を迎えたかを考えると、「始め良ければ…」の縁起も全く当てには成りません。

2.《原点思考》 「初物」を食べると縁起が良いと、旬の走りの食材が高値で取り引きされたりします。聖書にも「初穂」という語が何度も出て来ます。パウロはその地域で最初に入信した人たちを「初穂」と呼んでいます。単なる縁起担ぎではなく、原点なのです。原点さえシッカリしていれば、途中で躓いても道に迷っても、必ず立ち返ることが出来るのです。私たちが聖書を何度も読み返し、毎週の礼拝を守っているのも、「イエスさまなら、どう為さるだろう」と考えるのも「原点思考」なのです。自らの立ち位置を見失わないようにしましょう。

3.《初穂奉献》 米国のビジネス書では「ストレングス・ファインダー/自分の強みを見付けよう、自分の価値を再発見しよう」と語られます。私自身も「教会の宝探し」と言って、教会の良さを意識するように訴えて来ました。両者は似て非なるものです。むしろ、教会は自らの弱さを見詰め、その弱さの中に働く主の御力に気付く場所です。「初穂」は「初物を献げる」という動詞から派生しています。聖書本来の信仰からすると、約束の土地も民も収穫も、何もかも神さまの賜物です。神さまの所有なのです。神殿に初物を献げる儀式は、その信仰を表わしていたのです。単なる縁起担ぎではなく、万物の根源である主に立ち返ることです。私たちも、その旧約以来の信仰告白を受け継いでいるのです。私たちが原点を押さえて、そこから出発したら、神は私たちを初穂として迎えて下さるのです。

朝日研一朗牧師

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2021年12月27日

お言葉通りに成りますように【ルカ1:26〜38】

聖句「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』」(1:38)

1.《マドンナ》 映画『男はつらいよ』シリーズのヒロインを「マドンナ」と言います。どうして「マドンナ」なのでしょうか。毎回、寅さんは出会った女性に勝手に惚れて、勝手に失恋して旅に出ます。恋愛にまで発展しないような気持ち、憧れのまま終わってしまうのです。日本の「マドンナ」は夏目漱石の『坊っちゃん』を嚆矢とします。作中、坊っちゃんとマドンナとは一度も会話を交わすこともなく、彼女は坊っちゃんの存在を知らぬまま終わってしまうのです。

2.《天使祝詞》 元来「マドンナ」は「我が高貴な婦人」の意味で「聖母マリア」を表わします。カトリック信徒は「アヴェ・マリアの祈り」を「主の祈り」「使徒信条」と共に大切に唱えています。古くは「天使祝詞」と呼ばれたように、天使ガブリエルの挨拶とエリサベトの挨拶とを組み合わせた聖句です。「アヴェ」、即ち、ラテン語の「アウェー」も、ギリシア語原典の「カイレー」も「御機嫌よう」です。しかしながら、嫁入り前の13、14歳の娘が懐妊を告げられて御機嫌な訳はありません。心をかき乱され、恐れおののくのは当然です。

3.《信じる心》 改めて読み返してみると、天使ガブリエルの長台詞に驚きます。こんな風に捲くし立てられても、マリアの頭の中には何も入っては来なかったでしょう。こんな事を突然言われても、マリアには何一つ理解も納得も出来なかったはずです。でも、理解できなくても良いのです。理解できないこと、納得できないことを抱えて、それでも私たちは生きていかなくてはならないのです。それだから、マリアの応答は僅かに2回だけです。1度目は、天使の「受胎告知」に対する拒絶、否定です。2度目は受容です。全く理解できないし、その現実を素直に受け容れることも出来ない。でも「神さまが仰るなら、お言葉通りに」。これがマリアの信仰でした。そして、信仰の最終形態なのです。イエスさまの「ゲツセマネの祈り」(私の願いではなく、御心のままに)と繋がって行くのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:53 | 毎週の講壇から

2021年12月20日

わたしたちの贈り物【マタイ2:1〜12】

聖句「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(2:11)

1.《イエスは年神》 昔、年の瀬が近付くと「忠臣蔵」の映画がお正月大作として上映されました。12月14日が赤穂浪士討ち入りの日とされているからですが、旧暦では1月30日に当たります。この幅がクリスマスに似ています。クリスマスも年を跨ぐのです。クリスマスはお正月でもあります。日本では、年末に年神様(田の神様、山の神様、祖霊)を迎える準備をしたものですが、田や山の手入れもせず墓仕舞いをする私たちは、イエスを年神様としてお迎えしては如何でしょう。

2.《キリスト礼拝》 鎖国と禁教が国策とされた江戸時代にも、クリスマスはあったのです。長崎出島のオランダ商館や江戸のオランダ屋敷では、幕府に配慮して「オランダ正月」の和名で、幕府の役員や蘭学者も招いて祝われていたのです。勿論、オランダ人は「ケルストミス」と言いました。英語の「クリスマス」です。欧米でも「クリスマス」の呼び名は1つではなく、南欧では「生誕」、ドイツでは「聖夜」、北欧では「冬至」等と言います。しかし、クリスマスは「キリストを礼拝すること」と明快に言い切っているのは、英語と蘭語だけです。

3.《礼拝とは何か》 占星術の学者たちは、ヘロデ王の前で「私たちはキリストを礼拝しに来た」と言います。彼らの姿勢は一貫しています。イエスさまの御前に出た時には「ひれ伏して拝んだ」と「七重の膝を八重に折る」が如き表現がされています。有名な「黄金、乳香、没薬」も心からの献げ物として携えて来たのです。羊飼いたちは「見に行った」に過ぎません。しかし、お告げの通りと見聞きして「神をあがめ、賛美した」のです。「信じて感謝した」とも訳せます。贈り物は何も用意していませんでしたが、信じる者とされたのです。私たちが入信した初めが思い出されます。きっかけは人それぞれですが、礼拝に行ってみる、実際に足を運んでみる、一歩踏み出してみる、全てはそこから始まるのです。これこそが、私たちがイエスさまに献げることの出来る最大のプレゼントなのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:54 | 毎週の講壇から

2021年12月13日

天使の歌【ルカ2:8〜20】

聖句「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」(2:9)

1.《スモック》 ドリフの冠番組「8時だョ!全員集合」の定番コント「少年少女合唱隊」は、聖歌隊のパロディでした。隊員の着用していた白いスモックが印象的です。スモックと言うと、園児の制服、女工さんや絵描きの着る作業着が思い出されます。司祭がミサの際に羽織る「アルパ」に併せて、侍者や聖歌隊(変声期前の少年)も白い衣裳を着用するように成ったのでしょう。教会の白い衣裳(洗礼着やヴェール)は、罪赦されて「神の子」とされた者の新生を意味します。

2.《無翼天使》 他の福音書が「天使」を「白い衣を着た…」と表現している場面で、「ルカによる福音書」だけは「輝く衣を着た…」と表現しています。純白の衣裳は光り輝く衣裳なのです。私たちは、羊飼いの前に突然、天の合唱団のような大勢の天使が顕われたように考えがちですが、羊飼いにクリスマスを告げたのは、1人の天使でした。しかも「空から降りて来た」とか「突然、顕われた」とも書いてありません。普通の旅人のようにして、野宿している羊飼いの焚き火に、歩いて近付いて来たのです。この天使は「これ見よがし」の翼は付けていなかったのです。クリスマスを告げたのは「翼のない天使」だったのです。

3.《共に歌う》 「クリスマスの告知」の後に「クリスマスの賛美」があります。ここで初めて「天の大軍」が登場するのです。けれども「見よ!」と注目を喚起しているのは、天使の1人が羊飼いに近付く場面と、天使が告げたクリスマスの告知だけです。注意を喚起されなければ、それとは気付かないような事柄だったのでしょう。反対に「天の大軍」による賛美は、誰の目にも明らかなスペクタクルだったのでしょう。♪「聞け、天使の歌」と讃美歌にあるように、「天使たちが声高らかに歌った」とイメージしています。しかし、この「賛美する/アイネオー」には「歌う」の意味はなく、むしろ「言う」に近い動詞です。現代では「天の大軍」を目にすることはありませんが、あなたの側にいる人が天使かも知れません。そして、私たちには共に喜び歌う「賛美」が与えられているのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:54 | 毎週の講壇から

2021年12月06日

夢みる惑星【マタイ1:18〜25】

聖句「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。…」(1:20)

1.《ドリカム》 「DREAMS COME TRUE」というバンドがあります。「遂に叶った長年の夢」という英語の慣用句から来ているのでしょう。小学校6年生の書写の課題で書初めは「将来の夢」「夢の実現」等、夢を前向きに捉えた語です。けれども、ドリカム的な夢は戦後、米国文化と共に輸入されたもので、日本人にとっての夢は、松尾芭蕉の「夢の跡」や小野小町の「夢と知りせば」だったのです。幸福追求の権利としての夢も大切ですが、夢そのものは多種多様なのです。

2.《夢に従う》 「マタイによる福音書」の降誕物語は「星」と「夢」、2つのモチーフで展開します。外典「ヤコブ原福音書」では、姦通の嫌疑を掛けられたヨセフとマリアが祭司から審問を受けた上で、潔白が証明されるという手続きが語られますが、ここでは、夢に顕われた天使のお告げを受けて、ヨセフが信仰的に決断し行動するのです。この後も、ヨセフは夢に従って行動します。脱出の際も、夜明けを待たず、直ちに妻子を連れて旅立ちます。夢の告知には、繰り返し「見よ!/イドゥ」という語が使われています。神さまが人の魂に介在して、人を突き動かされるのです。この確信がなければ直ちに行動できません。

3.《別の道を》 降誕物語の片方の主役は「占星術の学者たち」です。彼らは星を見て、キリスト降誕を知り、拝みに来ました。ヘロデ王は祭司や律法学者を聴取して、ベツレヘムという町を特定し、博士たちからは「星の現われた時期」を確かめます(幼子の年齢を確かめるためです)。その後、星が急いで博士たちを導くのは、ヘロデ王が嬰児虐殺の準備をしているからです。しかし、キリストを礼拝した後の博士たちを導くのは、夢なのです。古代オリエントには「夢読み」と「星読み」の伝統があります。本来「星読み」であった博士たちに、同じ「1つの夢/オナル」のお告げがあったのです。彼らは、これまで星を見ながら、自らの進路を決定していた博士たちでしたが、これまでとは異なる「別の道」を通る決心をしたのです。私たちにも、神はチャレンジの時を備えて居られるのです。

朝日研一朗牧師

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2021年11月29日

暗闇の中で生まれた光【マタイ4:12〜17】

聖句「暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」(4:16)

1.《クリスマス》 クリスマス(主の降誕日)を12月25日に決めたのは、325年のニカイア公会議からです。ミトラ教の「不滅の太陽の誕生日」をパクったのです。東方教会は1月6日としていますが、オシリスの祭りが起源だそうです。他にも、神の子は「生没同日」であるべきとの考えから「受難日」とする説、聖書の記述から計算して、ユダヤ教の秋の収穫祭「仮庵祭」と同日とする説もあります。けれども、既に日本社会が受容した通り、12月25日で良いのです。

2.《メッセージ》 クリスマスにとって重要なのは「何月何日か」ということではありません。その内容、メッセージなのです。単なる季節のお祭りにしてはいけないのです。クリスマスのメッセージは「暗闇の中の光」です。明るい光のみを求めて、光ばかり見ようとすると、却ってクリスマスに辿り着けません。「マタイによる福音書」が預言の成就として引用する「イザヤ書」9章では「闇の中を歩む民は…」です。「闇路を行く」なのです。「マタイ」は上の句も下の句に合わせて「住む」と読みました。それは「座る」という動詞ですが、ソファーで寛いでいるのではありません。世の闇に押し潰されて「座り込んでいる」のです。

3.《家なき子ら》 広島で被爆し、朝鮮戦争の開戦後に自死を遂げた原民喜という作家がいます。彼は原爆が再び使用されるのでは無いかと不安に苛まれながら、友人に宛てた手紙に「家なき子らのクリスマス」という詩を書いています。しかし、日本社会は「朝鮮特需」の中、戦争で深い傷を負った者たちの痛みに蓋をしたまま、経済成長に突き進んでいました。マロの『家なき子』にも、クリスマスに賑わう街の喧騒をよそに、寒空の下でイヴを迎える場面があります。ドビュッシーが生涯最後に書いた歌曲(作詞も)「家なき子らのクリスマス」では、第一次大戦の戦災孤児たちが「プレゼントは無くても良いから、せめて日毎の糧を!」と悲痛な祈りを奉げています。クリスマスは元来、暗闇を見詰める季節です。信仰者の人生は「暗闇の中に生まれる光を探し求める旅路」なのです。

朝日研一朗牧師

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2021年11月22日

フルーツバスケット【民数記13:23〜24】

聖句「エシュコルの谷に着くと、彼らは一房のぶどうの付いた枝を切り取り、棒に下げ、二人で担いだ。また、ざくろやいちじくも取った。」(13:23)

1.《チョコ工場》 子どもたちに人気のある『チャーリーとチョコレート工場』という映画があります。これまで一般人が誰も入ったことの無い、謎のチョコレート工場に、金のカードを引き当てた5人の子どもたちが招待されます。食いしん坊、負けず嫌い、我儘な金持ち、捻くれたゲーマー、貧乏だけど家族思いの子です。工場の中には、驚いたことに、チョコレートの滝と小川が流れ、木も草もファッジで出来ている、そんな空間が広がっていたのです。

2.《お菓子の家》 『チャリチョコ』の元ネタは、グリム童話の「ヘンゼルとグレーテル」に登場する「お菓子の家」かも知れません。この物語の背後にも、14世紀にヨーロッパを襲った大飢饉の影響があるとされています。ヘンゼルとグレーテルの兄妹は口減らしのために、実の親によって森の奥深くに捨てられるのです。更に遡ると「民数記」の「エシュコルの葡萄」に辿り着きます。エジプトを脱出した難民が飢餓や数知れぬ困難を経て、漸く「約束の土地」に到達します。モーセが送り出した斥候が、巨大な葡萄の房を二人がかりで棒に下げて戻って来ます。文字通りカナンは「乳と蜜の流れる地」、豊饒の地だったのです。

3.《人生ゲーム》 イスラエルの民はその地に侵入することを躊躇いました。住民のアナク人が巨人だったからです。それで更に数十年間、彼らは荒れ野を流浪する運命と成ります。従って、この物語は「エジプトで奴隷根性の付いた民は、勇気と信仰をもって戦わなかったので、無駄な歳月を過ごす結果と成った」という教訓として語られます。しかし「戦わない」生き方もあって良いのでは無いでしょうか。その土地を奪われたら、アナク人は故郷を奪われるのです。「椅子取りゲーム」ではのんびり屋さんが押し退けられて椅子を奪われます。最後には、1つだけ残った椅子を巡って争います。ゲームだから楽しいのです。でも、世の中が「椅子取りゲーム」一辺倒に成ってはいけません。勉強もスポーツも商売も競争ですが、人生には競争しなくても良い場所(家庭や教会)も必要なのです。

朝日研一朗牧師

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2021年11月08日

いのちのカレンダー【ヨハネ 11:1〜16】

聖句「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。」(11:9)

1.《基礎疾患》 私は軽度の糖尿病を持っていて、毎日錠剤を服用し、毎月血液検査をして体調をコントロールしています。ウイルスワクチン接種の際に、基礎疾患を持っている人が優先されるということがあって、お得感を抱いたものです。基礎疾患は「生活習慣病」と重なる要素が大きい。病気に罹ってから治すのではなく、致命的な病気に罹る前に対処するという「予防医学」の発達の御蔭です。勿論、今から2千年前の古代社会には、基礎疾患も生活習慣病もなく、予防医学の考え方も存在しませんでした。あるのは「病気」だけでした。

2.《ある病気》 「病人」「病気」という語が繰り返されていますが、それが何の病気であったのか、どんな症状なのか、どこが苦しそうなのか、全く説明がありません。病気を特定していません。と言うことは、これはラザロ個人の病気ではなく、私たちの病気であるということです。「病気/アステネイア」は「力が無くなる」という意味です。つまり、私たちの生命も「病気」が進行しているようなものです。体力、知力が衰え、やがては飲食する力、呼吸する力も削ぎ落とされて行きます。昨日できたことが今日はできなくなる。まさしく、生き続けることは「無力」に成って行くプロセスに他なりません。

3.《命の日付》 そんな人間の現実に対して、主は「この病気(無力)は死で終わるものではない。神の栄光のためである」と仰るのです。即ち「命は死で終わるものではない」のです。病気の他にも、この世には不条理な死が溢れています。ホスピスケアのために尽力した精神科医、キューブラー=ロスは、脳梗塞を発症して半身不随となり、そんな自分を受け容れることが出来ず、神を呪いましたが、最期は愛する家族に囲まれて安らかに息を引き取りました。岩崎航という詩人は、3歳で進行性筋ジストロフィーを発症し、17歳で自死を考えるまでに絶望しますが、25歳から詩を詠み始めました。自分の周りに光の源を感じ、そこから自分が自然に光を受け取っていたことに気付いたそうです。「日付の大きい/カレンダーにする/一日、一日が/よく見えるように/大切にできるように」。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 23:43 | 毎週の講壇から