2020年02月10日

信仰のない私が信じます【マルコ9:14〜29】

聖句「その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けください。』」(9:24)

1.《逆説的な真実》 聖書の世界、イエスさまの御言葉は「逆説」に満ちています。例えば「寡婦の献金」の記事では、賽銭箱に1万円を入れる金持ちよりも、50円を献げた寡婦が一番多く奉げたと、主は言われます。明らかに一般的な貨幣価値に反しますが、「彼女は生活費全てを入れた」との真理に私たちは胸打たれるのです。主の示す真実は、私たちの固定観念を木っ端微塵にするのです。

2.《パラドックス》 論理学では「ドクサ/正しい見解」+「パラ/それに反する見解」の合成語で「背理」と言います。しかし、ギリシア語の語源から考えると「私たちの予想を超えた、期待を裏切る」意見です。実際、義人が非とされ、罪人が義とされる逆転が語られるのです。例えば、この父親の叫び「信じます」は信仰告白ですが、それに続く「信仰のない私」は不信仰の告白です。しかし、この信仰の逆説こそが真骨頂です。信仰とは、自らの不信仰を御前に曝け出して神の愛と赦しを乞うことではないでしょうか。

3.《信仰と不信仰》 弟子たちに息子の病気を癒して貰えなかったからでしょうか、この父親は「お出来になるなら」と余計な一言を加えて、イエスさまの逆鱗に触れたかのように訳してあります。しかし「ベザ写本」では「あなたさえ信じることが出来れば」と、父親に信ずるよう促しているのです。それに応えて、父親は「信じます」と叫んだのです。但し、揺るがぬ信仰など持ち合わせていませんから、同時に「この不信仰の故にお助け下さい」とお縋りするより他はなかったのです。「私共をお助け下さい」が「私をお助け下さい」に変化しています。自らの不信仰を曝け出して、救いを求めることが肝要です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:54 | 毎週の講壇から

2020年02月03日

人生のローラーチェーン【ローマ5:1〜11】

聖句「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(5:3,4)

1.《七人の敵が》 その昔「男は敷居を跨げば七人の敵あり」と言われたものです。世間の厳しさを諭す諺ですが、夫が妻子を捨て置く際の方便に使われて来たように思います。加納朋子の小説『七人の敵がいる』では、勝気なヒロインが行く先々で波風を立ててしまいます。同調圧力の強い日本社会では、意見の対立を怖れる余り、個人は何も言えずに我慢する習慣が身に着いてしまいます。

2.《摩擦と圧迫》 日本社会でキリスト者に成ることは、ある意味、波風を立てることです。周囲の無自覚な同調圧力と、その都度、対決を余儀なくされます。この社会では、他の人と同じことをしないで、自分で自分なりの生き方や行動を探そうとすると、何かと苦しいのです。しかし、この苦しさこそが大切です。「苦難」と訳されているのは「圧迫、摩擦」です。「忍耐」は「敢えて、その下に留まる」ことです。「練達」は「実証実験、本物であることの証明」です。信仰者と成るために、摩擦や圧迫を受けて悩むことが求められているのです。

3.《和解の務め》 確かに「苦難、忍耐、練達、希望」は連鎖(チェーン)ですが、人間の努力や業績によって希望に至る階段ではありません。先に希望が与えられているのです(2節)。自転車やバイクのローラーチェーンと同じく、十字架の主から頂いた希望が原動力と成り、信仰者の人生を回しているのです。神と和解させて頂いた(10節)私たちには、イエスさまに倣って、敵対の壁を取り払う「和解の務め」が与えられています。多数が少数を呑み込んで同化するのは暴力です。互いに異なる者たちを、同じ神の子として和解させ、本当の平和を目指して行くのが、真の回復であり復興なのです。

朝日研一朗牧師

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2020年01月27日

羊の門【ヨハネ10:7〜18】

聖句「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は門を出入りして牧草を見つける。」(10:9)

1.《ジンギスカン》 北海道では、花見でも運動会でも、海水浴でも紅葉狩りでも、大学の新入生歓迎会でも、時と所を問わず、仲間が集まれば、ジンギスカンが始まります。東京にも「羊門」「喜羊門」等、ジンギスカン専門店があります。思えば、聖書はイエスさまを食べ物(パン、ワイン、魚、羊)に喩えています。命を繋ぐために無くてはならない食材(贖罪)なのかも知れません。

2.《聞き分けぬ羊》 「羊が命を受けるため」の「受ける」は「捉える」です。「囲いに入っていない他の羊もいる」の「いる」も「捉える」、「その羊をも導かなければならない」は「連れて行くために繋ぐ」です。聞き分けの悪い羊を捕まえて、囲いに誘導する羊飼いの重労働が偲ばれます。囲いの中の羊と「囲いに入っていない他の羊」を対比して、「ユダヤ人と異邦人」「従順な信者と未信者」等と単純に仕分けして読んでしまいがちです。しかし、両者は同じ羊の群れかも知れません。むしろ信者を「囲い込もう」とする教会が怖ろしいです。

3.《命も魂も捨て》 「囲い」は狼の群れや盗人(夜間に来る者)から守るための場に過ぎません。羊の群れは毎日そこから放牧地や水場に出て行き、羊飼いは群れを率いて、外に連れ出すのが務めです。「羊の門」もまた、閉じ込めるためではなく、出入りするために存在します。「教会の外に救い無し」等という方便に利用すべきではありません。羊が受ける「命/ゾーエー」は一般的な語ですが、イエスさまが「羊のために命を捨てる」と仰る時には「魂/プシュケー」という語を使って居られます。主は私たちのために、命も魂さえも投げ出すことを厭われなかったのです。神さまの愛を信頼して居られたが故に…。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:54 | 毎週の講壇から

2020年01月20日

神さまのかくれんぼ【ルカ10:21〜24】

聖句「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(10:21)

1.《かくれんぼ》 大抵の人は、子ども時代に「かくれんぼ」をして遊んだ経験があると思います。また、物陰に隠れて待ち伏せし、家族や友だちを驚かしたこともあるでしょう。今思えば、遊びの形を借りた愛情表現かも知れません。驚きとその直後の安心、何等かの感情を引き出そうとするのです。その意味では「いないいないばあっ!」の進化形かも知れません。

2.《隠された神》 ラテン語の「隠す/abscondo」には「誰某から保護する」の含みがあります。隠し事や隠し立て等、意地悪をされているような印象を受けますが、隠すことは守られていることでもあります。時に、神さまが御顔を隠されてしまったように感じられることがありますが、私たちを何かから守ろうと為さっているのかも知れません。「隠された神/Deus abscondius」は「愛の神」であるはずの神が、どうして「怒りの神」として災いをもたらすのかという問い掛けです。現代に生きる私たちは、むしろ「神の不在」の課題と捉えます。

3.《神を知る心》 イエスさまは聖霊に満たされて、喜びの叫びを上げて居られます。「神を知ること」が、知者や賢者、聡明な人や学問のある人には隠されたままで、「幼子のような者」に示されたからです。それは、神秘的な奥義を悟ること(グノーシス)ではなく、御心に触れる心(グノーメー)だったのです。「幼子」は「赤ん坊」です。神さまは私たちの成長を願って、人間相手に「いないいないばあっ!」を続けて居られるのです。少し成長した者は「hide-and-seek/かくれんぼ」に参加するべきです。隠れた神を探し、御心を尋ね求めるのです。イエスさまを直に見た弟子たちも、探し求める信仰を続けたのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:54 | 毎週の講壇から

2020年01月13日

子どもがおとなを支えてる【マタイ18:1〜5】

聖句「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(18:3)

1.《自然の子》 江戸時代中期の漢方医、香月牛山の『小児必用養草』には、乳幼児を大切に育てるために必用な心得が記してあります。例えば、離乳に関しても「断乳」を強いることをしません。これは21世紀の母乳育児を先取りしています。強制よりも自然を大切にしているのです。しかし明治以後、子どもは国家目的のために人材育成(教育)の対象とされて行くのです。

2.《小さい人》 弟子たちは、地上での業績が反映されることを前提に、天国での順列を競い合っていました。しかし、主は「パイディオン/幼児」を彼らの真ん中に立たせて、方向転換をして「小さい子として生まれ変わる」ことをしないと、そもそも天国に入れないと仰るのです。4節の「自分を低くして」は「マリアの賛歌」に「身分の低い、取るに足りない」と言われていた語です。大物を目指すべきではないのです。古来、日本には「小さ子」信仰があります。神が幼児の姿を借りて現われ、人に幸せをもたらすのです。まさにクリスマスです。

3.《天国の門》 イエスさまが最後に仰ったのは「私の名のために、このような一人の子どもを受け入れる」ことです。「受け入れる」は「客として迎え入れる」の意味があり、クリスマスの飼い葉桶を思い起こさせます。「認知する、甘受する」もあります。親たち(特に母親たち)は子どもと一緒に生きるために、自分の人生を犠牲にせざるを得ません。しかし実は、その時、私たちが主の支配と加護(御名、御国)に迎え入れられていたのです。石井桃子は「おとなになってからあなたを支えているのは、子ども時代のあなたです」と言いました。あなたの中にある子どもを受け入れる時、天の門が開かれているのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:51 | 毎週の講壇から

2020年01月06日

新しい歌のたぐい?【黙示録 14:1〜5】

聖句「彼らは玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌のたぐいをうたった。」(14:3)

1.《お目出度さ》 小学唱歌「一月一日」は、♪「年の始めの例とて/終りなき世のめでたさを…」と歌っています。子ども心にも「終りなき世などあるものか」と思っていましたが、改めて歌詞の意味を確認すると「天皇の御世が永遠に続きますように」という祝詞だったのです(作詞の千家尊福は出雲大社の宮司)。穢れた古い年を祓うことで、天皇制の存続をお祈りする歌だったのです。

2.《怪文書誕生》 キリスト者にとってのお目出度さは、世の終わりに救われることです。「ヨハネの黙示録」の内容はそれに尽きます。しかし、意味不明の象徴や数字に溢れていて、決して分かり易い文書ではありません。ドミティアヌス帝の「皇帝礼拝」強制によって流刑に処せられた人物が、迫害時代の只中にあって、ローマ帝国の滅亡の幻を語っているのですから、当時は「怪文書」だったのです。しかし、ローマ帝国が滅亡して久しい現代においては「怪文書」ではありません。オカルトの「怪文書」のようにして読むべきではありません。

3.《新しく歌う》 現代に生きる私たちにとって、「黙示録」の価値は、物事を「終わりから見る」視点です。終わりから現在を見詰め直して、今を如何に生きるべきか考えるのです。今しか見ようとしない人たちは、現権力に迎合するだけで、現状維持と永遠の成長という虚構に執着します。救われた人たちが、神の御前にあって「新しい歌のたぐい」を歌います。直訳すると「あたかも新しい歌であるかのように歌う」のです。新曲ではありません。主の血に贖われて、新しく生まれた人たちが歌っているから「新しい」のです。世の仕組みに追従したままでは「新しい歌として」歌うことは出来ません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:54 | 毎週の講壇から

2019年12月30日

宿無しと野宿者のバラード【ルカ2:1〜20】

聖句「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」(2:8)

1.《降誕節》 教会暦に厳密であれば、先週の日曜日は未だ「降誕節」に入って居らず「待降節第4主日」でした。本日こそが「降誕節第1主日」、本当のクリスマス礼拝です。しかし、東方正教会では1月6日の「公現日」こそがクリスマスです。但し、これらは飽く迄も教会暦上のクリスマスです。キリスト者が降誕、復活、聖霊降臨(再臨)の救いの御業を軸にして過ごすための行事暦です。

2.《野宿者》 12月25日にせよ1月6日にせよ、聖地において、真冬に野宿しながら羊の放牧をしていることはあり得ないと言われます。乾季と雨季の二季しかなく、冬は雨季の真っ只中だと言うのです。3世紀末に、アレクサンドリアのクレメンスが降誕を「5月20日」としたのは尤もです。冬のクリスマスはローマ帝国の冬至に設定した後付けとされています。しかし、この「羊飼い」がユダの荒れ野にいるベドウィンならば、冬でも放牧をしているかも知れません。「雨蔭」のために、冬にも降雨量が殆ど無かったからです。

3.《宿無し》 ベドウィンは誇り高い民族ですが、「野宿をしている/アグラウロス」という語の中には「野原(アグロス)が住まい(アウレー)なんだって」という、定住者の側から見下すような、一種の蔑みが感じられます。「野宿者」と言えば、現代の私たちは「ホームレス」を連想します。様々な事情で安心して宿る場所を失った人たちです。それは「泊まる場所がなく」宿無し状態で生まれたイエスさまと、どこかで繋がっていると思うのです。降誕の知らせは寛ぎの「客間」にではなく、(これが雇い人の羊飼いならば)「夜通し」働く非正規雇用労働者の所に先ず届けられたのです。年の瀬に寒風に晒され、心細い思い、憂いや悲しみに心塞がれた人の隣人となるために、主は来られたのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:54 | 毎週の講壇から

2019年12月23日

救い主のまなざしは…?【ルカ1:46〜56】

聖句「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。/身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。」(1:47,48)

1.《神の母として》 カトリック教会では「聖母マリア」と称えますが、プロテスタント教会では「母マリア」と素っ気無く呼んでいます。素っ気無さには理由があります。古代から現代に至るまで、「神の母」「生神女」「パナギア」「天の元后」等と称号を付与され、「永久処女説」「無原罪の御宿り」「聖母の被昇天」と、あたかも女神ででもあるかのように祭り上げられてしまったのです。

2.《ありのままの》 宗教改革者たちは、聖書の証する信仰に忠実であろうとして、マリアを「栄光化」することを拒んだのです。高貴な人が存在する限り、卑賤な人も存在します。「マリア崇敬」のように特定の女性を崇拝することは、女性差別や女性軽侮と表裏一体です。マリアは特別な存在ではなかったと考える方が彼女自身の信仰告白「マグニフィカート」にも適っています。「身分の低い」は身分制や階級を言っているのではなく、「見すぼらしい境遇」「取るに足りない状態」の意味です。年端も行かない小娘であること、信仰や人生経験の不足を言っているのかも知れません。しかし「神の力は弱さの中に働く」のです。

3.《神の偉大な業》 「マリアの賛歌」の中心メッセージは「偉大なこと」です。ペンテコステの記事(使徒言行録2章11節)にもあります。キリストの誕生と教会の誕生に共通する語です。聖霊降臨の祝祭的な様子に比べると、如何にも地味です。実際、マリアは身寄りも宿も無く、祝福する人もいない中で、キリストを出産するのです。けれども、そんな貧しく、何の権力も持たない庶民の一人一人に「主は目を留められる」のです。世間の脚光が照らすのとは全く異なる所に「救い主の眼差し」が注がれているのです。挫折や後悔に満ちた私たちの人生ですが、思い通りに成った人生だけが祝福ではありません。私たちの人生が、他の誰かの人生よりも劣っている等ということはありません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:53 | 毎週の講壇から

2019年12月16日

信じた人は何と幸いでしょう【ルカ1:26〜45】

聖句「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(1:45)

1.《命の瀬戸際》 イングマル・ベルイマン監督の映画『女はそれを待っている』は、産婦人科病院を舞台に同じ病室の3人の女性が描かれます。流産直後に再び妊娠して結婚生活を呪っているセシリア、男に騙されて捨てられ、望まぬ妊娠をしたヨルディス、子どもの誕生を心待ちにしているスティナです。しかし、皮肉なことにスティナの子は死産でした。原題は「命の近く」「命の瀬戸際」です。

2.《喜び仕える》 マリアが天使から受胎告知を授かった時、エリサベトは妊娠6ヶ月でした。聖人伝は、訪問の際、マリアは3ヶ月、エリサベトは7ヶ月と言います。「ロザリオの祈り」の「御訪問」には「自分のことよりも、いつも喜んで他人に奉仕する愛する心を深めることが出来るように」との課題が掲げられています。つまり、マリアは自身が心に大きな不安と苦悩を抱えていながらも、咄嗟に他人に手を差し伸べるために動いたのです。「自分よりも他者を優先するのが愛だ」と言われますが、喜びが宿っていることが大切なのです。

3.《喜びの訪れ》 マリアは喜びの余り「急いで行った」のです。「挨拶した」との表現もギリシア人の挨拶「カイレー/喜べ」と繋がります。受胎告知の場面では「おめでとう」と訳されています。その声を聞いて、エリサベトの胎の子は「歓喜に飛び跳ねる」のです。聖霊に満たされたエリサベトはマリア母子を賛美/祝福します。これら全てに喜びが宿っているのです。マリアは自身の懐妊は誰からも喜ばれない、理解されない、祝福されないと思っていました。しかし、この時初めて、自身も胎の子も祝福された存在であることを実感したのです。そして「マリアの賛歌/マグニフィカート」を歌うのです。他の人と喜びを分かち合う時、私たちの悩みや憂いが喜びへと変えられるのです。

朝日研一朗牧師

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2019年12月09日

信じなかった人にも喜びを【ルカ1:5〜25】

聖句「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」(1:20)

1.《競走馬の名前》 私は賭け事はやりませんから、競馬場に足を運ぶことはありませんが、競走馬のネーミングセンスの面白さには、以前から深い関心を持っています。20年程前に中央競馬会に「ザカリヤ」というサラブレッドがいたのです。「クルアーン」の「ザカリーヤー」からの命名ですが、勿論、新約聖書の洗礼者ヨハネの父親、祭司ザカリアのことに他なりません。

2.《人生の同伴者》 クルアーンの記述には、妻のエリサベトの名前がありません。そもそもマルヤム(母マリア)以外に女性の名前はないのです。「ルカ」には「二人とも」なる語が2度も繰り返されていて、この老夫婦が人生を一緒に歩んで来た道程を想像させます。妻が不妊であれば離縁される時代、何等かの罪を犯した故の不妊と誹謗中傷される時代です。非の打ち所の無い信仰が強調される点からも、二人の闘いが読み取れます。また、エリサベトは大祭司「アロン家の娘」ですから、ザカリアは婿養子、立場の弱い恐妻家だったのかも知れません。

3.《二百日の沈黙》 クルアーンでは、ザカリアの口が利けなくなるのは3日間ですが、「ルカ」では「十月十日」です。余りにも長過ぎるので、御言葉を信じなかった天罰や懲らしめのように思われます。しかし神の御力を示す奇跡の「徴」なのです。これまで何度も流産の経験があったのでは無いでしょうか、妊娠安定期の5ヶ月目に入ったエリサベトが、声高らかに宣言するのを見ると、「信じる」も「信じない」もなく、御言葉を「感じる」、そんな感性も求められているように思います。ザカリアの二百日も、主の御言葉を全身全霊で「感じる」ための期間だったのでは無いでしょうか。たとえ不自由を負わされても、神の恵みを体全体で感じる「喜び」が、ザカリアにも臨んだのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:56 | 毎週の講壇から