2017年06月19日

愛は朝ごとに新しく【哀歌3:22〜33】

聖句「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。」(3:22,23)

1.《ラメント》 「哀歌」を「ラメント」と呼ぶのはラテン語の題名から来ています。クラシックにもポップスにも「ラメント/哀歌、悲歌」と題された曲があります。「エレジー」とは何が違うのでしょうか。マンガ家の田亀源五郎は「主体における悲しみを歌うのがエレジー、それに対して、客体への悲しみの情感を歌ったのがラメントではないか」と分析しています。

2.《死屍累々》 「哀歌」は5章、5つの詩から構成されていますが、第3章以外は「バビロン捕囚」時代の作品です。その内容もバビロニアに攻め滅ぼされて廃墟と化したエルサレムの情景、それに先立つエルサレム攻囲(籠城)の期間に、餓死した子どもたち、その肉を食べる母親の凄まじい姿、死屍累々たる情景が描かれています。「何故?」という疑問詞で始まりますが、「ああ」「あゝ哀しいかな」とも訳される語です。大きなショックやダメージを受けた時、私たちも「どうして!?」と漏らしますが、納得できる答えが得られると思ってのことではありません。思わず知らずに口を突いて出る呻きなのです。

3.《エレジー》 大石芳野の写真集『戦争は終わっても終わらない』を思い出しました。直接被害を受けなかった人は忘れてしまうのです。しかし、戦争や犯罪や災害を現在も続く出来事として生きている人もいるのです。どうして「哀歌」第3章だけに「個人の嘆きの歌/エレジー」が挿入されているのか、不思議でした。個人的な苦難の体験を民族的な苦難と結び付け、歴史上の苦難から自分の人生の苦難を見詰め直す作業をしているのです。更には、神の慈しみと憐れみの大きさが、その苦難を包み込んでくれるのです。私たちが「真実」に程遠い人間だとしても、神は「来る朝毎に」愛を「更新」されるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:53 | 毎週の講壇から

2017年06月12日

土に仕えるのが人【創世記2:4b〜15】

聖句「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」(2:15)

1.《大魔神!》 往年の大映の特撮映画に『大魔神』があります。時は下克上の戦国時代、所は丹波国、家老の大館左馬之助は主君に謀反を起こして、国主となりました。左馬之助は砦建設のために領民に過酷な労働を強い、山の武人像を破壊しますが、それが憤怒の形相の大魔神となって暴れます。最後には、娘の自己犠牲的な祈りによって魔神は怒りを鎮め、元の土塊に戻るのです。

2.《ゴーレム》 『大魔神』の元ネタは、戦前の独仏で何度も映画化された『巨人ゴーレム』です。時は17世紀の初め、所はプラハ、神聖ローマ帝国皇帝となったルドルフ2世は、ユダヤ人を迫害しゲットーに閉じ込めます。ユダヤの民は教会の隅にあるゴーレム像に救いを託しますが、像は警察長官によって略奪されて鎖で縛られます。獅子の咆哮を耳にしたラビの妻は、秘密の文字によってゴーレムを起動させます。ゴーレムは牢獄を破壊し、ユダヤ人を解放して、国家権力と戦うのです。虐げられた民のために暴君と戦うのも、ヒロインが鍵を握っているのも、使命を終えると土塊に戻るのも『大魔神』と同じです。

3.《土と人間》 墓から掘り出される『フランケンシュタイン』も含めて、これらの「人造人間」のモチーフは「創世記」の人間創造からの類推なのです。人間は神によって土から造られ、死んで土に返るのだと教えられているのです。宮崎駿監督の『天空の城ラピュタ』の中で、ヒロインのシータは「土から離れては生きられないのよ!」と叫びます。私たちは「天空の城」に住んでいる訳ではありませんが、土に触れずに生活しています。「土を耕す」は「土に仕える」と訳すべき語です。土を守り、土の世話をし、土から離れないで、いつか土に戻って行くことが、神から私たちに与えられた使命なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:51 | 毎週の講壇から

2017年06月05日

酔ってなんかいません【使徒言行録2:1〜16】

聖句「今は朝の9時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。」(2:15)

1.《霊は神の息吹》 神さまとイエスさまが使徒たちに「約束されたもの」、それが「聖霊」でした。「霊」と言うと、私たちは怪しげなものを連想してしまいがちですが、ギリシア語の「プネウマ」もラテン語の「スピーリトゥス」も第一義は「風」です。聖霊とは神の息吹だったのです。風と同じく目に見えませんが、その響きや存在を魂で感じることが出来るものなのです。

2.《ガリラヤの人》 使徒たちが各地の多言語で福音を証するのを聴いて、人々は「なぜガリラヤの人たちが…」と言って驚きます。外国語なのに変な話です。14の言語が挙げられて、少数言語も大切にされています。お国言葉で直接に伝えたいというのが、神さまの何よりの願いでした。それ故、東北弁(ガリラヤ訛り)を感じ取ったのでしょう。外国語で喋っているのに方言を感じるということは、使徒たちが彼ら自身の言葉、取り繕わない人柄が聴いた人々の心に響いたからです。「聖霊に満たされ、霊≠ェ語らせるままに」と言っても、「憑霊」されて意識を乗っ取られているのでは無かったということです。

3.《聖霊を満たす》 「新しい葡萄酒に酔っているのだ」と片付けようとする人たちもいました。「新しい葡萄酒/グレウコス」とは「ムスト」、発酵途中の葡萄液です。発酵が進めば、アルコール分が11%の「どぶろく」にも成ります。ペトロは「酔ってなんかいません」と反論しますが、酔っている人に限って「酔っていない」と抗弁するものです。教会が生まれた日から、教会は世間から「酔っているんじゃないか」との謗りを受けていたのです。私たちも、折に触れて自己吟味するべきです。自己陶酔したり、思い込みに取り憑かれたり、自己主張や我欲の虜になってはいないでしょうか。14世紀の神秘主義者、タウラーは「空になった分だけ、私たちを満たす、それが聖霊の働き」と言います。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:51 | 毎週の講壇から

2017年05月29日

憐れみは裁きに打ち勝つ【ヤコブ2:1〜13】

聖句「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(2:13)

1.《見栄が晴れる》 往年のバラエティ番組『欽ちゃんのどこまでやるの!』では、萩本欽一と真屋順子演ずる夫妻は長男に「見栄晴」と名付けます。あたかもバブル景気の到来を予言するような名前です。日本人はマモンに魂を売り渡し、大いに見栄を張って、ブランド物を買い漁りました。しかし、彼の名前は「見栄を張る」のではなく「見栄」という霧が「晴れる」の意味でした。

2.《盛装と普段着》 「見栄」は他人の目を意識して、自分を取り繕うことです。都市生活は「見栄」なくしては考えられません。都市化とは「見栄」が増大することです。しかし、お洒落や身嗜みも大切です。教会にも「盛装の礼拝」があります。主の御前に出るから一張羅を着て行くのです。「普段着の礼拝」を主張する人もいます。御前に出るのだから自然体でと考えるのです。大切なのは、私たちに「神の御前に出る」という意識があるかどうかです。聖フランシスコは「裸のキリストに裸で従え」と教えました。人目ではなく、主の御眼差しを意識しましょう。ドレスコードはありませんが、聖書が教会のコードです。

3.《ベンチシート》 最も大切なのは「隣人愛」の律法です。「人を分け隔てしない」ことです。しかし、「ヤコブの手紙」の時代には、既に身なりで人を偏り見る出来事が教会の中でも頻発していたのです。「サマリア人の譬え話」では、サマリア人が旅人に「憐れみをかけた」ことが、即ち「隣人に成った」ことだと、イエスさまが教えて居られます。漢字の通り「憐れみ」の心が、その人の傍らに押し出して「隣人」と成るのです。実際に悩み苦しむ人の横に座るのが「隣人」です。多くの教会の礼拝堂がベンチの座席を採用しているのも同じ理由です。見知らぬ他人、仲の悪い者とも同席することが出来るのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:33 | 毎週の講壇から

2017年05月22日

希望が生きる力だ【ローマ8:18〜25】

聖句「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(8:25)

1.《希望という名》 1970年、シャンソン歌手の岸洋子が「希望という名のあなたを訪ねて…」と歌って大ヒットしました。その頃から、親が子に「希望」を意味する名前を付けるようになりました。名付けは、新しく生まれた子に親が託す願い、親の祈りです。「信じる」「愛する」に比べると地味ですが、「望む」という価値観も、徐々に日本社会に浸透しつつあるのです。

2.《主を待ち望む》 親子の路線対立が表面化するのは、ズッと後の話で、誕生直後には、親も子を純粋な「希望」として抱き締めます。手塚治虫は90年代の講演で「子どもは未来人」というスローガンを広めました。しかし、ロシアの教育学者ソロベイチクは、80年代の著作で、子どもは我々の未来ではあるが、人としては成熟していないので、未来人にする責任、未来を用意する責任は我々にあると言っています。ヘブル語では「希望/ティクヴァー」は「待ち望む/カーヴァー」から来ています。希望とは待ち望むことです。ぼんやりした未来志向ではなく、主の救い、主の平和、御心の実現を待ち望むことなのです。

3.《産みの苦しみ》 新約聖書で「希望」を考える場合、「苦難」が前提になっています。希望は「現在の苦しみ」から生まれているのです。人間だけではなく全ての被造物が「虚無に服し」「呻き」「苦しんでいる」のです。但し、この苦しみは「産みの苦しみ」です。それ故に「希望」なのです。しかも、独りでは無く「共に呻き、共に産みの苦しみを味わっている」のです。「信・愛・望」は観念ではなく「信仰の働き、愛の労苦、希望の忍耐」です。現代は、誰にとっても生き辛い時代ですが、私たちが「目に見えないものを望むなら」、それは「産みの苦しみ」であると分かるはずです。主は贖って下さいます。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:52 | 毎週の講壇から

2017年05月15日

愛を加えなさい【Uペトロ1:3〜11】

聖句「だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を…信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(1:5-7)

1.《引き算の文化》 欧米の語や文化が「足し算」であるのに対して、日本語や日本文化は「引き算」だと言われます。日本料理や武道、礼儀作法など無駄なものを削ぎ落として行きます。しかし、単なる美意識だけではなく、そこには哲学や理念もあるのです。世阿弥の言うように、美は移ろい易いものですが、「まことの花」は咲き続けているのです。これを私たちは「信仰」と言います。

2.《サプリメント》 実は、日本は「足し算の文化」でもあるのです。それこそ「和」と言われる通りです。ピュタゴラス学派の「ハルモニア・ムンディ/世界の調和、天球の音楽」にも通じます。英訳聖書は「加えなさい」を「サプライ/不足を補う」としています。近代以降、私たちの聖書の読み方は個人主義的、自己完結的に成り過ぎてしまい、教えを独りで達成しよう等と思うから無理があるのです。「あなたがたは…」と書いてある通り、これはコミュニティに託された課題です。ここに挙げられた8つの徳目も、コミュニティ全体で担いながら、お互いに補い合うべきことなのです。

《教会はスープ》 スタートの「信仰」は教会生活、信徒生活です。「徳」は人柄の良さ、「知識」は神の御心を思い、受け取って行く心、「自制」は包容力、「忍耐」は苦難に遭っても耐える胆力、「信心」は悲しみに彩られた慈しみ、「兄弟愛/フィラデルフィア」と聞けば、ウィリアム・ペンの祈りや『ロッキー2』のロードワークを忘れる訳には参りません。「愛」は主の御声に応えて労苦することです。お互いがお互いを必要としているのです。そのために、主は私たちを「持ち込まれた」のです。その意味で、教会は「スープ」だと思います。いや、毎週注ぎ足しながら熟成させた「秘伝のタレ」でしょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:51 | 毎週の講壇から

2017年05月08日

教会に隠された宝が…?【マタイ13:44〜50】

聖句「畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠して置き、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」(13:44)

1.《聖ロレンツォの夜》 イタリアのトスカーナ地方では、聖ロレンツォの聖日(8月11日)夜の流れ星に、愛する人のことを思って願い事をすると叶うと言います。その流れ星は「聖ロレンツォの涙」と呼ばれています。その日は、ローマのラウレンティウス(聖ラウレンチオ助祭)の殉教日とされています。人々は彼の殉教の苦しみを偲びつつ、願い事も託したのです。

2.《聖ロレンツォの涙》 3世紀前半、ローマ教皇に使える筆頭執事に取り立てられたラウレンティスは教会の財務を担当していました。しかし、皇帝の迫害により教皇が斬首され、難を逃れたラウレンティウスも、教会財産を皇帝に差し出すように命じられます。ラウレンティウスは、体の不自由な人たち、病気の人たち、貧しい人たち、年老いた人たちを大勢伴って、皇帝の前に行き、「この人たちこそが教会の宝です」と訴えるのです。『黄金伝説』によると、「この人たちの手が、宝を天国に運んで行く」という言葉もあります。「宝/テサウロス」とは古代の「貯金箱」で、持ち主が地中に隠して置くのが常でした。

3.《宝物を受け継ぐ人》 「畑に宝が隠されている」のを発見した人は小作人の農夫です。その喜びは彼に「持ち物をすっかり売り払う」という人生の大転換をもたらします。「宝」は畑の収穫物(業績)とは無関係です。私たちは業績に価値があると勘違いしていますが、それは人間の価値付けに過ぎません。やがて朽ち果てるか燃える炉に投げ込まれるのです。折角、父親が畑に宝を隠していたのに、それに気付かぬまま、相続した畑を売ってしまった馬鹿息子の話として読むことも出来ます。私たちが生きて行くために大切なのは何でしょうか。業績や貨幣価値とは異なる人生の価値を、若い世代に伝えて参りましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:51 | 毎週の講壇から

2017年04月24日

あなたの塩加減【マルコ9:42〜50】

聖句「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。」(9:50)

1.《ソルトシェーカー》 1991年、大相撲が英国巡業をした時、派手な塩撒きから「ソルトシェーカー」と呼ばれたのが水戸泉です。勝ち星に恵まれない時、付き人から「せめて塩だけでも景気良く撒いたら?」と勧められたのが始まりです。青葉城、朝乃若、北桜、将司、高見盛…現役では旭日松の塩撒きが見事です。1興行で650キロ、軽乗用車1台分もの塩が用意されるそうです。

2.《塩味の付いた関係》 私たちの生活に塩は無くてはなりません。食べ物の味付けや保存にも必要ですが、塩の採り過ぎも体に良くありません。塩は私たちの生き死にに関わるのです。「エゼキエル書」を読むと、生まれたばかりの赤ん坊の体を塩で擦って殺菌する描写があります。塩は、生まれて初めて人間が触れる神の祝福と聖別の徴だったのです。「塩の契約」という語も、時を経ても塩味が変わらないことから「変わらぬ友情」の証でした。それ故に「自分自身の内に塩を持ちなさい」と「互いに平和に過ごしなさい」という勧めが繋がるのです。塩で結ばれた関係は裏切らない、心変わりしない、手の平を返さないのです。

3.《身を削って生きる》 イエスさまは弟子たちに「あなたがたは地の塩である」と宣言されました。当時、イエスさまの下に集まって来た人たちは、特別な人たち、社会的に影響力のある人ではありませんでした。そんな彼らに「地の塩」としてのアイデンティティを与えられたのです。しかし、折角の塩も「潮解」して塩気を無くしてしまうことがあります。私たちに与えられた塩味を自覚して、且つ発揮せねばなりません。塩の1匙がケーキの甘さを引き立て、ニガリが豆腐を豆腐たらしめるのです。岩塩はその身を削って(少量で良いのですが)、周りを生かして行くものです。それでこそ価値があるのです。

朝日研一朗牧師

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2017年04月17日

大きな魚と小さな魚【ヨハネ 21:1〜19】

聖句「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。」(21:9)

1.《魚アンケート》 最近の子どもは魚料理を嫌う印象を受けますが、回転寿司は大好きです。但し、彼らの好むネタはエビ、マグロの赤身、イクラ、サーモン、トロ、ツナ等で、煮つけや焼き魚など論外なのです。食育アンケート調査によると、給食で嫌いなメニューは「魚全般」が断トツのトップ。その理由は「骨がある」「食べるのが面倒」「食べるのに時間がかかる」でした。

2.《漁師率の高さ》 12人の弟子のうち半数が漁師だった可能性があります。神殿に奉げる犠牲は肉と小麦が中心でした。つまり、聖書の民の食生活は肉とパンが中心だったのです。しかし、旧約聖書に比べると、新約聖書には「魚」が頻繁に登場します。イエスさまは「魚好き」だったのかも知れません。この箇所には「153匹もの大きな魚」と、妙にリアルな漁獲量が挙げられています。153は「三角数」で、各桁を三乗して足すと153です。3で割り切れる数字でも同じ計算を続けると153に成ります。153とは、当時の地中海で知られていた「全ての魚の種類」を表わしているという説もあるのです。

3.《オプサリオン》 イエスの名前も「ヌン(魚)の子ヨシュア」、ギリシア語の「魚」は「イクテュス」で「イエス・キリスト、神の子、救い主」の暗号として使われました。ここで「イクテュス」は「大きな魚」と訳されています。イエスさまが炭火焼きにしているのが「オプサリオン/小さな魚」です。干物か何かでしょう。「何か食べ物はあるか?」と尋ねる主に、弟子たちは「ねぇよ!」と無情な返答でした。それなのに、イエスさまは弟子たちのために食事を準備して下さるのです。「153匹もの大きな魚/大漁」の「大きな物語」に目を奪われがちですが、真の奇跡は「小さな魚」にあったのです。

朝日研一朗牧師

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2017年04月10日

わたしがあなたを選んだ【ヨハネ15:11〜17】

聖句「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。…わたしがあなたがたを任命したのである。」(15:16)

1.《チャンネル》 ふと気付くと、リモコンを手にチャンネルを回し続けていることがあります。商品展示の仕方でも、商品が多過ぎると、お客は選ぶのを諦めて、何も買わずに出て行ってしまうそうです。選択肢が多過ぎると、却って迷いや思い煩いが増えるのです。人生、何をどう選択したところで挫折や不調が待ち構えています。その意味では「置かれた場所で咲きなさい」です。

2.《選ばれた私》 私自身も「牧師をやめよう」「クリスチャンやめたい」と血迷うことが何度もありました。取り返しのつかない失敗をしたり、自分の不甲斐無さに直面すると、信仰もガタガタです。しかし、「私があなたを選んだ」の御言葉に支えられています。「なぜ私などが?」との疑問が消えて無くなる訳ではありません。むしろ、それを自身への問い掛けとして、引き受けて生きるのが信仰生活ではないでしょうか。「選ぶ/エクレゴー」とは、適当な選択ではなく、イエスさまの一押しの「大抜擢」「引き抜き」なのです。

3.《接ぎ木の枝》 何のために「選ばれた」のかと言えば、「実を結ぶため」です。葡萄の枝は根や幹から離れた所に「出て行って」実を結んでいます。「紐付き」ではなく、私たちの自由意志や自主性が大切なのです。求められているのは「祈りの業」と「愛の業」です。新約聖書の言う「実り」とは、人に精神的道徳的な変化をもたらし、陰ながら人を支えることです。ラテン語の「選ばれた葡萄」は「接木用の葡萄の木」を意味します。私たち自身は背伸びしなくても、無理に善人に成らなくても良いのです。弱さを抱え、挫折に塗れた私たちを、主は「そこがいいんじゃない!」と御身に接ぎ木してくださるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:51 | 毎週の講壇から