2015年10月19日

「神の御言葉」から望みをもらう【イザヤ46:3〜4】

聖句「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(46:4)

1.《長寿の源》 信徒奨励の奉仕に立たされた本日は、奇しくも89歳の誕生日です。長寿の源は兵隊に行かなかったことかも知れません。徴兵検査は甲種合格でしたが、入隊前に終戦になりました。しかし、名古屋大空襲で実家は一夜にして灰になり、辛うじて命だけは助かるという経験をしました。戦後70年の今「剣を取る者は皆、剣で滅びる」の聖句を改めて胸に刻みたいものです。

2.《真の福音》 日本紙業という会社に入り、定年退職まで勤めました。しかし、工場勤務で製造部門の責任を任されたものの、機械の調子が悪く生産性が上がりません。従業員の労災も多発し、業績不振が続きました。そんな時、亀有教会に導かれ、「キリストは神の身分でありながら…自分を無にして僕の身分になり、人間と同じ者になられました」の御言葉に触れたのです。自分の不徳を思い、完全な人格者イエスに近付きたいと受洗しました。福音の信仰は、人間的な希望を超えた、神の愛、十字架の救い、復活と再臨にあることを後に知りました。

3.《われ信ず》 私が信仰に入った時代は高度経済成長期、休日返上で増産に次ぐ増産に励む時代でした。それでも、私が信仰生活を続けることが出来たのは、聖書の御言葉(私が選んだのではなく、神が私を選んだ)、牧師の説教(神の一方的な恵みによる救い)、先輩たちの真摯な信仰生活の御蔭でした。亀有教会の会堂建築と墓地建設では、委員長として使命を全うすることが出来ました。思い返せば、私自身が受けた恵みは測り知ることの出来ぬ程に大きなものでした。天に宝を積むことが出来たとの思いです。中世の神学者、アンセルムスは「理解せんがために信ずる」と述べました。理解してから信じるのではなく、信じることで初めて分かる世界が確かにあるのです。それが聖書の世界なのです。

野原滋三

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2015年10月12日

望めばかなえられる【ヨハネ 15:1〜10】

聖句「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(15:7)

1.《願い事》 「望めば叶えられる」「望めば与えられる」と仰っていますが、何か空約束のように思われます。ヘロデ王がサロメに言うように「この私が与えてやろう」と言って保証してくれていません。与えて下さるのは父なる神、しかも未来形なのです。「叶えられる」と訳されているのは「成就する、実現する」です。しかも「あなたがたに」ですから、個人的な願い事には不向きです。

2.《貧乏神》 有名な「求めよ、さらば与えられん」の「与える」は「手渡す」ですから、具体性がありますが、所詮、カピカピのパンに魚の干物です。何となく貧乏臭いのです。物欲的な願いに関しては、イエスさまに頼みにくい雰囲気が漂っています。但し、イエスさまは「貧乏神」ではありません。確かに豊かではなく、地位も権力もなく、大教団を組織することもありませんでした。「石をパンに変えて」貧しい人を養うのではなく、貧しい献げ物を皆で分け合って、満腹させる奇跡でした。御自らは貧しくなられて、周りの人を富ませられたのです。

3.《十字架》 キリスト教の「清貧」とは、世捨て人の暮らしや修道生活のことではなく、他の人のために自分が貧しくされることを厭わない生き方です。ラテン語の「清貧/paupertas」は「奪い取る/paupero」から来ています。上着を奪おうとする者に、下着をも与えるのです。実際、十字架の際に、主はローマの兵士たちから衣を剥ぎ取られました。私たちが思わぬ災難や苦難に遭うことは、この十字架と繋がっている、そのように認識した時が「清貧」なのです。人生は喪失の連続です。生きることは、奪い取られていくことですが、十字架に繋がる時、清くされるのです。私たちの願いは失われたもの、奪われたものを取り戻すことです。そして、それを成就できるのは神さまだけです。

朝日研一朗牧師

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2015年10月05日

神が招かれた人【ルカ14:15〜24】

聖句「主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家を一杯にしてくれ。』」(14:23)

1.《受け入れ》 外交の世界には「ペルソナ・ノン・グラータ/好ましからざる人物」という用語があります。派遣されて来る外交官を当事国が「受け入れ拒否」する権利です。反対に「ペルソナ・グラータ」と言えば「受け入れ承認」の意味です。私たちお互いの間にも「受け入れの可否」があります。思えば、自身も含めて「受け入れる」ことは、私たちの人生最大のテーマかも知れません。

2.《経済活動》 譬え話の主旨は「神の国は大宴会」です。事前に招待をしていた人たちに、家の主人が下僕を遣わして「準備が整いました。お越し下さい」と伝えます。しかし、それぞれに「畑を買ったから」「牛を買ったから」「嫁を買ったから」と理由を付けて、出席を断ります。この当時も格差社会で、貧民は「嗣業の土地」を手離し、それを買い取った地主は、小麦をローマに輸出して財を成していました。「畑」「牛」「嫁」は財産、断りの理由は全て経済活動です。神のお招きよりも、自分たちの経済活動を優先しているのです。

3.《本領発揮》 彼らの断りに怒った主人は下僕に命じて、貧しい人たちや体の不自由な人たちを宴会に招きます。最初の「グラートゥス/好ましい」は「グラーティース/無料で」に通じます。「誰かの好意に」与る故に「無料で」です。彼らは「お返しが出来ない」人たち(14節)なのです。また、次には、出会った人は誰彼構わず、宴会に連れて来るよう下僕に命じられます。好きも嫌いも、善人も悪人も、信者も不信者も関係ありません。これを愚直に実践した神の下僕がイエスさまです。そして誰であろうと、お招きに応えた時、天国の扉は開かれるのです。神のお招きを最優先にするのがキリスト者の本領です。その本領を発揮できるように、毎週の礼拝を守り、訓練を積んでいるのです。

朝日研一朗牧師

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2015年09月28日

手を伸ばしなさい【マタイ 12:9〜14】

聖句「イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。すると、片手の萎えた人がいた。」(12:9,10)

1.《人羨し》 世の中には、両手両足の萎えた人も、もっと重い障碍を負っている人もいるのだから、「片手が萎えて」いるだけだから大した事ではないと思われますが、本人にとっては重い現実です。歌人の梅田達雄は「街行けば逢ふ人羨し人羨し手萎え足萎えわが妻は臥す」と歌いました。「人羨(とも)し」、これこそ、病人や障碍者を抱える家族の嘘偽らざる心境でしょう。

2.《ナエシ》 福音書には、もっと重い病気や障碍を抱えている人が次から次へと登場します。「中風の人」「長血の女」「会堂長ヤイロの娘」「癲癇の子」「重い皮膚病を患っている人」…。「病草紙」の如くですが、「病草紙」と違うのは、ここにイエスさまが居られるということです。但し、「片手の萎えた人」の場合は、ファリサイ派との安息日論争に契機に成るだけで、本人の必死の訴えもありません。「萎える」は「植物が萎れる」から手足の麻痺を言うように成りました。岡っ引きの十手も、敵を打ち据えて無力化するので「ナエシ」と言います。

3.《想像力》 一説によると、この「手萎え」は「筋萎縮性側索硬化症/ALS」だと言います。最後には、呼吸する筋力も奪われて死に至る難病です。私たちは見た目だけで軽症と思い込んでいます。会堂の人々も、ファリサイ派も、当人さえも知らなかったのです。一見して他人を羨んだり妬んだりしますが、私たちには、相手の病気や障碍の重さも、人生や生活の実際も何も分かってはいなかったのです。「何も安息日に禁止されている治療行為をせずとも良い」と、皆は考えたのです。しかし、これは愛の欠如です。愛の欠如は想像力の欠如から来ます。イエスさまと違って、私たちには、他人の悩み苦しみは分かりません。しかし、その人の喜び悲しみに思いを致し、想像することは大切です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:45 | 毎週の講壇から

2015年09月21日

輝かしい日が来る前に【使徒言行録2:14〜21】

聖句「主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の御名を呼び求める者は皆、救われる。」(2:20,21)

1.《幻と夢》 ヨエルの預言「若者は幻を見、老人は夢を見る」は有名ですが、日本語の「夢幻」は世の儚さの譬えです。しかし、英語の「dreams」「visions」は「将来の夢、展望、理想像」を意味します。肯定的、前向き、未来志向の語なのです。それに対して、私たちは堅実さを主張する余り、自分と他人の夢や幻を頭ごなしに否定して、希望の芽を摘み取って来たのかも知れません。

2.《夢解き》 旧約聖書の注釈書「ミドラーシュ」には、ある夢を見た女がラビに良い解き明かしを受けて幸せな生活を送るのですが、ラビの不在時、弟子たちの悪い解釈によって不幸がもたらされる物語があります。夢は「解き明かした通りになる」(創世記41章31節)、即ち「如何なる夢も、人がそれに与える解釈によって価値が決まる」というのがユダヤの考え方です。「タルムード」は「解釈されていない夢は、未だ読まれていない手紙のようなものだ」と言います。夢は解釈された時、私たちが受け止めた時、その力を発揮するのです。

3.《神の愛》 私たちは前向きに生きているでしょうか。未来を志向しているでしょうか。そのために与えられているのが聖霊、聖霊を生きて働くものとするのが、イエスさまの福音なのです。大正時代の歌人、野口精子は「あるものの胸に宿りしその日より輝き渡る天地の色」と詠みました。私たちの生きる現実は灰色で、見通しも明るくありませんが、世界を色鮮やかに変える何かがあるのです。それは神の愛です。現代の教会は高齢化に不安を感じていますが、老若に関係なく、明日に向かって今日を生きることは大切です。夢と幻、希望がなければ、世界は闇です。パウロの言うように、たとえ、私たちの「外なる人」は衰えて行くとしても、「内なる人」は日々新たにされて行くのです。

朝日研一朗牧師

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2015年09月14日

言が肉となって宿られた【ヨハネ1:1〜18】

聖句「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」(1:14)

1.《命と光》 「世界は言葉でできている」と言われるのは本当です。但し、人間の言葉ではなく、神の言葉によって造られています。「初めに言があった」と語り始まる「ヨハネによる福音書」の巻頭言は「言」−「神」−「万物」−「命」−「光」と、イメージの連想を広げて行きます。目に見えない何かを可視化し、誰も知らないものを誰もが知っているもので表現するのです。

2.《ロゴス》 「新共同訳」「協会訳」「文語訳」は「言」、「新改訳」は「ことば」、「明治元訳」は「道」と書いて「ことば」のルビを振ります。幕末の「ギュツラフ聖書」や「ベッテルハイム訳」は「カシコイモノ」としています。因みに「カシコイモノ」は単に「賢い」ではなく、「畏れ多い」ことを表現しています。ヘボンは「言霊」と訳しました。英訳は「the Word」なのに、日本語訳は七転八倒の苦労をして、単なる言葉ではないことを言おうとしています。何しろ「命」であり「光」でもあります。私は「生体エネルギー」のように思います。

3.《身体性》 この「言」が「肉」となったと言うのは「キリストの受肉」です。これは「ヨハネ福音書」の「降誕物語」なのです。当箇所が「受肉/incarnatio」という用語の論拠です。よく誤解されるのですが、聖書は「肉体」「身体」を大切にしているのです。他の命を犠牲にしなければ、自らの命を維持できないことを常に意識していたはずです。何しろ、復活の後にも「霊の体」があるとされているくらいです。「宿る」は貧しい仮小屋の暮らしを言っていますが、それ以上に重要なのが「私たちの間に、私たちの只中に」です。最近では、他の人の痛みを感じない人、庶民の悩みを知らない人も増えて来ました。しかし、イエスさまは、私たちの喜びも悲しみも、身をもって知って居られるのです。

朝日研一朗牧師

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2015年09月07日

天国の鍵【マタイ16:13〜20】

聖句「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で繋ぐことは、天上でも繋がれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(16:19)

1.《密室トリック》 「鍵のかかった部屋/Locked Room」を「密室」と訳したのは江戸川乱歩だそうです。ポーの『モルグ街の殺人』が密室殺人トリックの最初とされています。日本では、戦後の横溝正史『本陣殺人事件』を待たなければなりませんでした。因みに、密室のトリックを推理力で破る話は、旧約聖書続編「ダニエル書補遺:ベルと竜」(紀元前2世紀末)にあります。何と、世界最古の密室アリバイ崩しの推理は、聖書にあり、探偵役は預言者ダニエルだったのです。 

2.《鍵のない生活》 私たちは外出の際、ドアロックが習慣になっています。しかし、子どもの頃には家に鍵など掛けたことはありませんでした。部屋の鍵、玄関の鍵、自動車の鍵、PCの鍵、机の鍵、鞄の鍵、私たちは実に沢山の鍵に囲まれて暮らしています。一体、誰のための、何のための物だったのでしょう。私の知人はケベック州の古い宿屋に泊った時、鍵のない生活に触れて驚くと共に、自分自身も大らかな、ゆったりした気分になったと言います。

3.《繋ぎ合う教会》 現代は「個の時代」と言われます。確かに各人は固有の人生を授けられた尊い命です。しかし同時に、個の尊重が極端な孤立を招いているのも事実です。互いに閉め出し合うようになり、世界と他者への信頼を喪失しているのです。家に鍵をかけて潜伏していた弟子たちの所に、復活の主が入って来て、聖霊を授けます。主に「赦された者」として生きる時、他の人を赦すことも出来るのです。ペトロに授けられた「天国の鍵」も、「罪を赦す権威」「教会の外に救いなし」という、罪人を締め出す鍵ではありません。私たちがお互いに心を開き、繋ぎ直すための契機なのです。イエスさまの御言葉(聖霊)が、私たちに不安と恐れを超えて、他者と生きる者へと促しているのです。

朝日研一朗牧師

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2015年08月31日

夢がかなう【ヨハネ15:1〜8】

聖句「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(15:7)

1.《アイアム》 「ヨハネによる福音書」では「最後の晩餐」の場面は4章にわたりますが、パン裂きと葡萄酒について触れる代わりに、イエスの「私は…」宣言が7回もあります。「命のパン」「世の光」「羊の門」「良い羊飼い」「復活」であり、「命」「道」「真理」「まことの葡萄の木」であると宣言されます。実は、ギリシャ語やヘブライ語は日本語と似ており、主語の「私は…」を使うのは自分のアイデンティティを強調する時だけです。主イエスは弟子たちに必死に自分のアイデンティティを伝えようとなさっているのです。 

2.《相互関係》 これらは旧約聖書のイメージを用いています。命のパンの「マナ」や「世の光」は「出エジプト記」、「良い羊飼い」は「詩編」23編や「イザヤ書」40章、「葡萄の木」は「イザヤ書」5章です。「出エジプト記」3章のヤハウェの自己紹介は曖昧で抽象的ですが、イエスの「私は…」宣言は分かりやすい。しかも、ご自身のアイデンティティを説明するだけではなく、私たちのアイデンティティをも説明しているのです。

3.《聖霊の実》 イエスは、神が与えた「命のパン」として私たちを養い、神が約束した地へ導く「光」です。神と出会える唯一の「道」です。今日の箇所では、主イエスは「葡萄の木」、私たちは「枝」、神は農夫として私たちを手入れします。罪深い私たちは、自分で実を結ぶことは出来ませんが、イエスに繋がると、必ず霊の実を結びます(ガラテヤ5:22〜23)。クリスチャンになると、私たちの心が変わります。私たちの霊的なDNAはイエスと同じようになり、主イエスの夢(御国が来ますように)が、私たちの夢になります。そして、その夢は必ずかなうのです。

キスト岡崎エイブラハム宣教師(南支区、久が原教会)

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2015年08月25日

覚悟【コリントT15:1〜6】

聖句「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは(中略)キリストが聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、〜」(15:3-6)

1.最古の主イエスの復活の記録は、使徒パウロがコリントの信徒に宛てた手紙の中にあります。優れた貿易港をもつコリントは商業都市として栄えた町でした。繁栄の中で、貧富の差があり、互いに正義を主張する分派争いがあり、弱者への軽蔑と不倫が日常化していました。それが教会の中にも起っていることに心いたみます。執筆者パウロはその原因が復活信仰の欠如にあることを示すべく書かれたのがこの手紙です。

2.主イエスの復活は讃美歌327番にあるように「主イエス死に勝ちたまえば、人の命かぎりなし」という約束のしるしであると共に、主イエスの十字架の死を創造主である父なる神が肯定した(良しとした)しるしでもあるのです。主イエスは人々のあざけりと裏切りの中で「父よ彼らをお赦しください」と祈り「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで死なれました。人の裏切りと軽蔑、神の怒りと無視を全身で受け止め、「神のみこころにかなう者も、みこころにかなわない者をも神は愛している」(福音)事を啓示するために馬小屋に身を横たえた第2人格としての子なるキリストは十字架の死を遂げられました。「愛に生きる」という事はそのような最後を覚悟して生きることです。

3.愛にはそのような覚悟が必要です。覚悟のない愛の本質は欲望(リビドー)です。人はそのような「覚悟ある愛」を生きることはできません。しかし、代々のキリスト者は、主イエス・キリストを通して示された覚悟ある愛を信じて絆をつないできました。「文明崩壊」の著者ジャレド・ダイアモンドは「個人も国家も、危機に遭った時に捨てるものと残す物を選ぶ。選択の成否がその後の運命を左右する」と述べています。主の復活と、私たちの永遠の命を信じる私たちは主イエスの「覚悟」をもって愛と平和を追い求めましょう。

長津栄牧師

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2015年08月17日

神さまの応援歌【ヨシュア記1:5〜9】

聖句「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。」(1:5,6)

1.《応援団》 夏の風物詩と言えば高校野球ですが、近年、チアリーダーに押され気味ですが、応援団の存在も忘れてはなりません。1890年代後半、旧制高校の対抗試合が盛んになる中、弊衣破帽のバンカラ応援隊から生まれたようです。学ランの「ラン」はオランダ人宣教師の衣装から、「フレー!」の声援も英語の「万歳」に由来します。古色蒼然に見えて意外にハイカラだったのです。

2.《非主役》 後輩に大学応援団出身のN牧師がいますが、彼によると、実に地味な集団です。対校試合となれば、いの一番に駆け付け、横断幕の準備、観客席の清掃、試合後にも人知れずゴミ拾いをして帰ります。勿論、主役は選手たちですから、応援団がエールを受けることは稀です。自己満足と批判されることすらありますが、どこまでも「非主役」に徹しつつ、選手たちのお役に立ちたいと願っているのです。そんな応援団の姿勢は、聖書の神さまにも通じるのではないでしょうか。「聖書の主役は神」と主張する牧師もいますが、神さまは裏方に徹していて、信仰と不信仰の人間のドラマが繰り広げられるのが聖書です。

3.《檜舞台》 古代中世の西洋の演劇には「デウス・エクス・マキナ/機械仕掛けの神」がありました。万事休すの場面に神役が現われて、大団円に至らせるのです。「夢落ち」「ご都合主義」とも言います。しかし、これこそ、神を主役にしているように見えて、人間の都合に仕えさせているのです。むしろ、神さまは、私たちを主役として舞台の上に送り出した後は、舞台の袖から祈るような気持ちで見守っておられるのではないでしょうか。私たちを自らの「人生の主役」に立てて下さっているのです。それが「強く、雄々しくあれ」のエールです。私たちも互いに励まし合いながら生きて参りましょう。毎日が「檜舞台」なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 15:41 | 毎週の講壇から