2015年09月21日

輝かしい日が来る前に【使徒言行録2:14〜21】

聖句「主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の御名を呼び求める者は皆、救われる。」(2:20,21)

1.《幻と夢》 ヨエルの預言「若者は幻を見、老人は夢を見る」は有名ですが、日本語の「夢幻」は世の儚さの譬えです。しかし、英語の「dreams」「visions」は「将来の夢、展望、理想像」を意味します。肯定的、前向き、未来志向の語なのです。それに対して、私たちは堅実さを主張する余り、自分と他人の夢や幻を頭ごなしに否定して、希望の芽を摘み取って来たのかも知れません。

2.《夢解き》 旧約聖書の注釈書「ミドラーシュ」には、ある夢を見た女がラビに良い解き明かしを受けて幸せな生活を送るのですが、ラビの不在時、弟子たちの悪い解釈によって不幸がもたらされる物語があります。夢は「解き明かした通りになる」(創世記41章31節)、即ち「如何なる夢も、人がそれに与える解釈によって価値が決まる」というのがユダヤの考え方です。「タルムード」は「解釈されていない夢は、未だ読まれていない手紙のようなものだ」と言います。夢は解釈された時、私たちが受け止めた時、その力を発揮するのです。

3.《神の愛》 私たちは前向きに生きているでしょうか。未来を志向しているでしょうか。そのために与えられているのが聖霊、聖霊を生きて働くものとするのが、イエスさまの福音なのです。大正時代の歌人、野口精子は「あるものの胸に宿りしその日より輝き渡る天地の色」と詠みました。私たちの生きる現実は灰色で、見通しも明るくありませんが、世界を色鮮やかに変える何かがあるのです。それは神の愛です。現代の教会は高齢化に不安を感じていますが、老若に関係なく、明日に向かって今日を生きることは大切です。夢と幻、希望がなければ、世界は闇です。パウロの言うように、たとえ、私たちの「外なる人」は衰えて行くとしても、「内なる人」は日々新たにされて行くのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:44 | 毎週の講壇から

2015年09月14日

言が肉となって宿られた【ヨハネ1:1〜18】

聖句「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」(1:14)

1.《命と光》 「世界は言葉でできている」と言われるのは本当です。但し、人間の言葉ではなく、神の言葉によって造られています。「初めに言があった」と語り始まる「ヨハネによる福音書」の巻頭言は「言」−「神」−「万物」−「命」−「光」と、イメージの連想を広げて行きます。目に見えない何かを可視化し、誰も知らないものを誰もが知っているもので表現するのです。

2.《ロゴス》 「新共同訳」「協会訳」「文語訳」は「言」、「新改訳」は「ことば」、「明治元訳」は「道」と書いて「ことば」のルビを振ります。幕末の「ギュツラフ聖書」や「ベッテルハイム訳」は「カシコイモノ」としています。因みに「カシコイモノ」は単に「賢い」ではなく、「畏れ多い」ことを表現しています。ヘボンは「言霊」と訳しました。英訳は「the Word」なのに、日本語訳は七転八倒の苦労をして、単なる言葉ではないことを言おうとしています。何しろ「命」であり「光」でもあります。私は「生体エネルギー」のように思います。

3.《身体性》 この「言」が「肉」となったと言うのは「キリストの受肉」です。これは「ヨハネ福音書」の「降誕物語」なのです。当箇所が「受肉/incarnatio」という用語の論拠です。よく誤解されるのですが、聖書は「肉体」「身体」を大切にしているのです。他の命を犠牲にしなければ、自らの命を維持できないことを常に意識していたはずです。何しろ、復活の後にも「霊の体」があるとされているくらいです。「宿る」は貧しい仮小屋の暮らしを言っていますが、それ以上に重要なのが「私たちの間に、私たちの只中に」です。最近では、他の人の痛みを感じない人、庶民の悩みを知らない人も増えて来ました。しかし、イエスさまは、私たちの喜びも悲しみも、身をもって知って居られるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:45 | 毎週の講壇から

2015年09月07日

天国の鍵【マタイ16:13〜20】

聖句「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で繋ぐことは、天上でも繋がれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(16:19)

1.《密室トリック》 「鍵のかかった部屋/Locked Room」を「密室」と訳したのは江戸川乱歩だそうです。ポーの『モルグ街の殺人』が密室殺人トリックの最初とされています。日本では、戦後の横溝正史『本陣殺人事件』を待たなければなりませんでした。因みに、密室のトリックを推理力で破る話は、旧約聖書続編「ダニエル書補遺:ベルと竜」(紀元前2世紀末)にあります。何と、世界最古の密室アリバイ崩しの推理は、聖書にあり、探偵役は預言者ダニエルだったのです。 

2.《鍵のない生活》 私たちは外出の際、ドアロックが習慣になっています。しかし、子どもの頃には家に鍵など掛けたことはありませんでした。部屋の鍵、玄関の鍵、自動車の鍵、PCの鍵、机の鍵、鞄の鍵、私たちは実に沢山の鍵に囲まれて暮らしています。一体、誰のための、何のための物だったのでしょう。私の知人はケベック州の古い宿屋に泊った時、鍵のない生活に触れて驚くと共に、自分自身も大らかな、ゆったりした気分になったと言います。

3.《繋ぎ合う教会》 現代は「個の時代」と言われます。確かに各人は固有の人生を授けられた尊い命です。しかし同時に、個の尊重が極端な孤立を招いているのも事実です。互いに閉め出し合うようになり、世界と他者への信頼を喪失しているのです。家に鍵をかけて潜伏していた弟子たちの所に、復活の主が入って来て、聖霊を授けます。主に「赦された者」として生きる時、他の人を赦すことも出来るのです。ペトロに授けられた「天国の鍵」も、「罪を赦す権威」「教会の外に救いなし」という、罪人を締め出す鍵ではありません。私たちがお互いに心を開き、繋ぎ直すための契機なのです。イエスさまの御言葉(聖霊)が、私たちに不安と恐れを超えて、他者と生きる者へと促しているのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:49 | 毎週の講壇から

2015年08月31日

夢がかなう【ヨハネ15:1〜8】

聖句「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(15:7)

1.《アイアム》 「ヨハネによる福音書」では「最後の晩餐」の場面は4章にわたりますが、パン裂きと葡萄酒について触れる代わりに、イエスの「私は…」宣言が7回もあります。「命のパン」「世の光」「羊の門」「良い羊飼い」「復活」であり、「命」「道」「真理」「まことの葡萄の木」であると宣言されます。実は、ギリシャ語やヘブライ語は日本語と似ており、主語の「私は…」を使うのは自分のアイデンティティを強調する時だけです。主イエスは弟子たちに必死に自分のアイデンティティを伝えようとなさっているのです。 

2.《相互関係》 これらは旧約聖書のイメージを用いています。命のパンの「マナ」や「世の光」は「出エジプト記」、「良い羊飼い」は「詩編」23編や「イザヤ書」40章、「葡萄の木」は「イザヤ書」5章です。「出エジプト記」3章のヤハウェの自己紹介は曖昧で抽象的ですが、イエスの「私は…」宣言は分かりやすい。しかも、ご自身のアイデンティティを説明するだけではなく、私たちのアイデンティティをも説明しているのです。

3.《聖霊の実》 イエスは、神が与えた「命のパン」として私たちを養い、神が約束した地へ導く「光」です。神と出会える唯一の「道」です。今日の箇所では、主イエスは「葡萄の木」、私たちは「枝」、神は農夫として私たちを手入れします。罪深い私たちは、自分で実を結ぶことは出来ませんが、イエスに繋がると、必ず霊の実を結びます(ガラテヤ5:22〜23)。クリスチャンになると、私たちの心が変わります。私たちの霊的なDNAはイエスと同じようになり、主イエスの夢(御国が来ますように)が、私たちの夢になります。そして、その夢は必ずかなうのです。

キスト岡崎エイブラハム宣教師(南支区、久が原教会)

posted by 行人坂教会 at 17:50 | 毎週の講壇から

2015年08月25日

覚悟【コリントT15:1〜6】

聖句「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは(中略)キリストが聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、〜」(15:3-6)

1.最古の主イエスの復活の記録は、使徒パウロがコリントの信徒に宛てた手紙の中にあります。優れた貿易港をもつコリントは商業都市として栄えた町でした。繁栄の中で、貧富の差があり、互いに正義を主張する分派争いがあり、弱者への軽蔑と不倫が日常化していました。それが教会の中にも起っていることに心いたみます。執筆者パウロはその原因が復活信仰の欠如にあることを示すべく書かれたのがこの手紙です。

2.主イエスの復活は讃美歌327番にあるように「主イエス死に勝ちたまえば、人の命かぎりなし」という約束のしるしであると共に、主イエスの十字架の死を創造主である父なる神が肯定した(良しとした)しるしでもあるのです。主イエスは人々のあざけりと裏切りの中で「父よ彼らをお赦しください」と祈り「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで死なれました。人の裏切りと軽蔑、神の怒りと無視を全身で受け止め、「神のみこころにかなう者も、みこころにかなわない者をも神は愛している」(福音)事を啓示するために馬小屋に身を横たえた第2人格としての子なるキリストは十字架の死を遂げられました。「愛に生きる」という事はそのような最後を覚悟して生きることです。

3.愛にはそのような覚悟が必要です。覚悟のない愛の本質は欲望(リビドー)です。人はそのような「覚悟ある愛」を生きることはできません。しかし、代々のキリスト者は、主イエス・キリストを通して示された覚悟ある愛を信じて絆をつないできました。「文明崩壊」の著者ジャレド・ダイアモンドは「個人も国家も、危機に遭った時に捨てるものと残す物を選ぶ。選択の成否がその後の運命を左右する」と述べています。主の復活と、私たちの永遠の命を信じる私たちは主イエスの「覚悟」をもって愛と平和を追い求めましょう。

長津栄牧師

posted by 行人坂教会 at 17:51 | 毎週の講壇から

2015年08月17日

神さまの応援歌【ヨシュア記1:5〜9】

聖句「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。」(1:5,6)

1.《応援団》 夏の風物詩と言えば高校野球ですが、近年、チアリーダーに押され気味ですが、応援団の存在も忘れてはなりません。1890年代後半、旧制高校の対抗試合が盛んになる中、弊衣破帽のバンカラ応援隊から生まれたようです。学ランの「ラン」はオランダ人宣教師の衣装から、「フレー!」の声援も英語の「万歳」に由来します。古色蒼然に見えて意外にハイカラだったのです。

2.《非主役》 後輩に大学応援団出身のN牧師がいますが、彼によると、実に地味な集団です。対校試合となれば、いの一番に駆け付け、横断幕の準備、観客席の清掃、試合後にも人知れずゴミ拾いをして帰ります。勿論、主役は選手たちですから、応援団がエールを受けることは稀です。自己満足と批判されることすらありますが、どこまでも「非主役」に徹しつつ、選手たちのお役に立ちたいと願っているのです。そんな応援団の姿勢は、聖書の神さまにも通じるのではないでしょうか。「聖書の主役は神」と主張する牧師もいますが、神さまは裏方に徹していて、信仰と不信仰の人間のドラマが繰り広げられるのが聖書です。

3.《檜舞台》 古代中世の西洋の演劇には「デウス・エクス・マキナ/機械仕掛けの神」がありました。万事休すの場面に神役が現われて、大団円に至らせるのです。「夢落ち」「ご都合主義」とも言います。しかし、これこそ、神を主役にしているように見えて、人間の都合に仕えさせているのです。むしろ、神さまは、私たちを主役として舞台の上に送り出した後は、舞台の袖から祈るような気持ちで見守っておられるのではないでしょうか。私たちを自らの「人生の主役」に立てて下さっているのです。それが「強く、雄々しくあれ」のエールです。私たちも互いに励まし合いながら生きて参りましょう。毎日が「檜舞台」なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 15:41 | 毎週の講壇から

2015年08月10日

熱情の神【申命記6:1〜15】

聖句「あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りが…燃え上がって、…滅ぼされないようにしなさい。」(6:15)

1.《愛の兜》 戦国時代、越後国の上杉景勝に家老として仕えた直江兼次は「愛の兜」が有名です。彼を主役にした大河ドラマの『天地人』を見ると「愛の武将」として描かれています。しかし、彼の「愛」の前立ては「愛宕権現」か「愛染明王」から来ているとされています。戦勝と立身出世、敵の調伏を祈願しているのです。事実、当時のイエズス会の宣教師たちは「ご大切」と翻訳しています。

2.《嫉妬神》 「新共同訳」が「ねたむ神」から「熱情の神」に切り替えたのも苦心の末です。英訳、仏訳、独訳、羅訳に至るまで「嫉妬深い神」「焼き餅焼きの神」なのです。但し、ギリシア語「七十人訳」の「ゼーローテス」は「熱心党」と同じ語です。ヘブル語「カンナー」にも「熱烈な」と「嫉妬深い」の2つの意味があります。但し、旧約聖書のヘブル語の本来の用法からすれば、「エール・カンナー」に「熱情の神」の訳語は当たりません。人間の妬みとは違う、神についてのみ使われる特別な用法の「妬む」なのです。主を否む者には天罰を与え、主のみを礼拝するように要求する、それが「妬む神」なのです。

3.《愛の神》 旧約の神は、荒れ野や砂漠の厳しい暮らしの中から培われた信仰です。「聞け、イスラエルよ」の呼び掛けで始まる「シェマー」は「ユダヤ教の魂」と言われています。唯一神に対する絶対的服従と依存が信仰の中心です。しかし、イエスさまは御子として、全く異なる神を証されました。「アッバ」と呼び掛け得る神、義人にも罪人にも、善人にも悪人にも等しく慈しむ母、「放蕩息子の帰還」を待ち侘びる父でした。北村透谷は、英語の「パッション」を「情熱」と訳しましたが、「受難」の意味の方が古いのです。「熱情の神」が、人間に向かって溢れる愛の余りに「受難のキリスト」を産み出して下さったのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:43 | 毎週の講壇から

2015年08月03日

破れを担って立つ【詩編106:6〜23】

聖句「主は彼らを滅ぼすと言われたが、主に選ばれた人モーセは、破れを担って御前に立ち、彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。」(106:23)

1.《責任回避》 新国立競技場の問題では、既に59億円もの公費を損失しています。このプロジェクトには責任者が全く存在しないかのように、引責辞任を表明する人はいません。本来「長」と名の付く役職は、不祥事の責任を取るためにあるはずですが、お互いに「自分は迷惑を掛けられた被害者だ」と主張しています。原因究明も検証も為されないままでは、今後も同じ過失が繰り返されるでしょう。

2.《変わり身》 政治学者の丸山眞男は、東京裁判で、戦時中の軍国主義者や政治指導者たちが異口同音に責任逃れをするのを見て「日本ファシズムの矮小性」「膨大なる無責任の体系」と名付けました。宗教界も積極的に戦争に協力したのですが、占領軍が不問にしたために、自らの組織としての責任を明確にすることがありませんでした。それどころか、キリスト教団は、自らを不幸な被害者のように捉えました。また時も時、東久邇内閣の令旨やマッカーサーの優遇政策に乗って、戦後の「キリスト教ブーム」を迎えてしまいました。結果として、戦時下における自らの責任を考えようとする機運が生まれなかったのです。

3.《破れ口に》 「詩編」106編は「贖罪の詩編」です。出エジプトの歴史の中で先祖たちが繰り返した過ちを唱えながら、自らの罪を御前に告白し、赦しを求める儀式です。信仰者の姿勢は「破れを担って御前に立つ」ことです。直訳は「破れ口で主の御前に立つ」です。「破れ口/ペレツ」とは、アッシリアの破城槌によって破壊された城門や城壁の破損箇所です。ここから敵兵が雪崩れ込んで来るのです。「破れ口」が出来たら終わりなのです。しかし、自らの無力を知りつつ、モーセは「この破れ口に身命を賭して立った」のです。神の「驚くべき御業」を信じて「破れ口に立つ」ことこそが、責任ある大人の生き方です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:49 | 毎週の講壇から

2015年07月27日

さあ、向こう岸に渡ろう【マルコ4:35〜41】

聖句「その日の夕方になって、イエスは、『さあ、向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた。」(4:35)

1.《歩く神の子》 電車やバスや地下鉄などの公共交通機関、自家用車、自転車と私たちには色々な移動手段があります。東京には、明治時代から路面電車が整備されていました。しかし、ほんの何十年か前まで、田舎には徒歩しかありませんでした。イエスさまの一行も、主を訪ねて来た人たちも皆、徒歩で移動していたことを忘れてはいけません。聖書の神さまは「時速5キロ」(小山晃祐)なのです。

2.《ガリラヤ丸》 「マルコによる福音書」に「群集」という語が使われる時、必ずしも良い意味ではありません。病人が主の御もとに来るのを阻むばかりか、祭司長に扇動されて主を捕らえて、十字架刑を要求します。しかし、イエスさまは「群集」の中に1人1人の人生を見ようとします。それでいて、その中に留まる訳ではなく、群集から離れて移動します。「マルコ」では、ガリラヤ湖を行き来する「舟」がその移動を助けます。大正時代、近江兄弟社を立ち上げたヴォーリスも、大型モーターボートに「ガリラヤ丸」と名付け、その伝道船で琵琶湖畔を廻りました。「ここは日本のガリラヤ、主の訪れを待つ地」と考えたのです。

3.《同じ舟の上》 激しい突風が吹き荒れる湖の上、波を被って揺れ動く舟の上で弟子たちが慌てふためいています。教会もまた、この世にあり、集まる者も普通の庶民ですから、内憂外患を抱えています。古来、キリスト教では、教会は「舟」に譬えられて来ましたが、私たちの教会は豪華客船でもタンカーでも戦艦でもなく、帆掛け舟のようです。また、難局にあっても、神の御心に不従順であるかも知れません。試練の嵐の中で、自分の弱さ脆さに気付いて、漸く祈りを学ぶのです。そんな時、イエスさまは眠っているように見えても、必ず私たちを助けて下さいます。何しろ、私たちと同じ舟の上に乗っておられるのですから。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:48 | 毎週の講壇から

2015年07月20日

多く愛した者が多く赦される【ルカ7:36〜50】

聖句「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(7:47)

1.《マグダラ》 マグダラのマリアは聖書の人気キャラで、欧米では「マグダラ」という彼女の出身地も「マデリーン」や「マドレーヌ」といった女性の名前として定着しています。何しろ、イエスさまの十字架と復活の最大の証人です。8章「奉仕する婦人たち」の名簿には筆頭に挙げられています。このことから、彼女が家柄も良く、かなりの資産家であったことが推測できるのです。

2.《罪深い女》 ところが、マリア・マグダレーナと言えば、娼婦の代名詞にされてしまうのです。英語の「マグダリーン」は「売春婦の更生施設」です。ベタニアで主に香油を注いだマリアの記事と、ガリラヤで主に香油を注いだ「罪の女」の記事とが混同されてしまった結果です。その上、ローマ教皇グレゴリウス1世が「7つの悪霊を追い出して頂いたマグダラの女と呼ばれるマリア」という紹介文から、「7つの悪霊」を「7つの大罪」と解釈したため、7つの大罪の全てを犯した「罪深い女」とされるようになってしまったのです。このように、古代中世の人の聖書の読み方は、面白半分の思い込み、ウケ狙いが多いのです。

3.《献げる愛》 「携香女」と言って、香油の入った壷を抱えた女性がイコンに描かれていると、マグダラのマリアを意味します。確かに、主の復活の朝にも、彼女は香油を携えて墓に向かっています。しかし、ガリラヤの「罪の女」は、主の葬りの備えをしたベタニアの女とは異なる記事です。最大の違いは、彼女が泣きながら主に油を塗っているところです。その嘆きの深さは半端ではありません。彼女は悲しみを抱えたままの自分を主に献げたのです。立派な自分や価値のある自分を献げる必要はありません。星野富弘の詩にもあるように「しあわせが集ったよりも/ふしあわせが集った方が/愛に近いような気がする」のです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:50 | 毎週の講壇から