2015年08月10日

熱情の神【申命記6:1〜15】

聖句「あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りが…燃え上がって、…滅ぼされないようにしなさい。」(6:15)

1.《愛の兜》 戦国時代、越後国の上杉景勝に家老として仕えた直江兼次は「愛の兜」が有名です。彼を主役にした大河ドラマの『天地人』を見ると「愛の武将」として描かれています。しかし、彼の「愛」の前立ては「愛宕権現」か「愛染明王」から来ているとされています。戦勝と立身出世、敵の調伏を祈願しているのです。事実、当時のイエズス会の宣教師たちは「ご大切」と翻訳しています。

2.《嫉妬神》 「新共同訳」が「ねたむ神」から「熱情の神」に切り替えたのも苦心の末です。英訳、仏訳、独訳、羅訳に至るまで「嫉妬深い神」「焼き餅焼きの神」なのです。但し、ギリシア語「七十人訳」の「ゼーローテス」は「熱心党」と同じ語です。ヘブル語「カンナー」にも「熱烈な」と「嫉妬深い」の2つの意味があります。但し、旧約聖書のヘブル語の本来の用法からすれば、「エール・カンナー」に「熱情の神」の訳語は当たりません。人間の妬みとは違う、神についてのみ使われる特別な用法の「妬む」なのです。主を否む者には天罰を与え、主のみを礼拝するように要求する、それが「妬む神」なのです。

3.《愛の神》 旧約の神は、荒れ野や砂漠の厳しい暮らしの中から培われた信仰です。「聞け、イスラエルよ」の呼び掛けで始まる「シェマー」は「ユダヤ教の魂」と言われています。唯一神に対する絶対的服従と依存が信仰の中心です。しかし、イエスさまは御子として、全く異なる神を証されました。「アッバ」と呼び掛け得る神、義人にも罪人にも、善人にも悪人にも等しく慈しむ母、「放蕩息子の帰還」を待ち侘びる父でした。北村透谷は、英語の「パッション」を「情熱」と訳しましたが、「受難」の意味の方が古いのです。「熱情の神」が、人間に向かって溢れる愛の余りに「受難のキリスト」を産み出して下さったのです。

朝日研一朗牧師

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2015年08月03日

破れを担って立つ【詩編106:6〜23】

聖句「主は彼らを滅ぼすと言われたが、主に選ばれた人モーセは、破れを担って御前に立ち、彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。」(106:23)

1.《責任回避》 新国立競技場の問題では、既に59億円もの公費を損失しています。このプロジェクトには責任者が全く存在しないかのように、引責辞任を表明する人はいません。本来「長」と名の付く役職は、不祥事の責任を取るためにあるはずですが、お互いに「自分は迷惑を掛けられた被害者だ」と主張しています。原因究明も検証も為されないままでは、今後も同じ過失が繰り返されるでしょう。

2.《変わり身》 政治学者の丸山眞男は、東京裁判で、戦時中の軍国主義者や政治指導者たちが異口同音に責任逃れをするのを見て「日本ファシズムの矮小性」「膨大なる無責任の体系」と名付けました。宗教界も積極的に戦争に協力したのですが、占領軍が不問にしたために、自らの組織としての責任を明確にすることがありませんでした。それどころか、キリスト教団は、自らを不幸な被害者のように捉えました。また時も時、東久邇内閣の令旨やマッカーサーの優遇政策に乗って、戦後の「キリスト教ブーム」を迎えてしまいました。結果として、戦時下における自らの責任を考えようとする機運が生まれなかったのです。

3.《破れ口に》 「詩編」106編は「贖罪の詩編」です。出エジプトの歴史の中で先祖たちが繰り返した過ちを唱えながら、自らの罪を御前に告白し、赦しを求める儀式です。信仰者の姿勢は「破れを担って御前に立つ」ことです。直訳は「破れ口で主の御前に立つ」です。「破れ口/ペレツ」とは、アッシリアの破城槌によって破壊された城門や城壁の破損箇所です。ここから敵兵が雪崩れ込んで来るのです。「破れ口」が出来たら終わりなのです。しかし、自らの無力を知りつつ、モーセは「この破れ口に身命を賭して立った」のです。神の「驚くべき御業」を信じて「破れ口に立つ」ことこそが、責任ある大人の生き方です。

朝日研一朗牧師

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2015年07月27日

さあ、向こう岸に渡ろう【マルコ4:35〜41】

聖句「その日の夕方になって、イエスは、『さあ、向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた。」(4:35)

1.《歩く神の子》 電車やバスや地下鉄などの公共交通機関、自家用車、自転車と私たちには色々な移動手段があります。東京には、明治時代から路面電車が整備されていました。しかし、ほんの何十年か前まで、田舎には徒歩しかありませんでした。イエスさまの一行も、主を訪ねて来た人たちも皆、徒歩で移動していたことを忘れてはいけません。聖書の神さまは「時速5キロ」(小山晃祐)なのです。

2.《ガリラヤ丸》 「マルコによる福音書」に「群集」という語が使われる時、必ずしも良い意味ではありません。病人が主の御もとに来るのを阻むばかりか、祭司長に扇動されて主を捕らえて、十字架刑を要求します。しかし、イエスさまは「群集」の中に1人1人の人生を見ようとします。それでいて、その中に留まる訳ではなく、群集から離れて移動します。「マルコ」では、ガリラヤ湖を行き来する「舟」がその移動を助けます。大正時代、近江兄弟社を立ち上げたヴォーリスも、大型モーターボートに「ガリラヤ丸」と名付け、その伝道船で琵琶湖畔を廻りました。「ここは日本のガリラヤ、主の訪れを待つ地」と考えたのです。

3.《同じ舟の上》 激しい突風が吹き荒れる湖の上、波を被って揺れ動く舟の上で弟子たちが慌てふためいています。教会もまた、この世にあり、集まる者も普通の庶民ですから、内憂外患を抱えています。古来、キリスト教では、教会は「舟」に譬えられて来ましたが、私たちの教会は豪華客船でもタンカーでも戦艦でもなく、帆掛け舟のようです。また、難局にあっても、神の御心に不従順であるかも知れません。試練の嵐の中で、自分の弱さ脆さに気付いて、漸く祈りを学ぶのです。そんな時、イエスさまは眠っているように見えても、必ず私たちを助けて下さいます。何しろ、私たちと同じ舟の上に乗っておられるのですから。

朝日研一朗牧師

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2015年07月20日

多く愛した者が多く赦される【ルカ7:36〜50】

聖句「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(7:47)

1.《マグダラ》 マグダラのマリアは聖書の人気キャラで、欧米では「マグダラ」という彼女の出身地も「マデリーン」や「マドレーヌ」といった女性の名前として定着しています。何しろ、イエスさまの十字架と復活の最大の証人です。8章「奉仕する婦人たち」の名簿には筆頭に挙げられています。このことから、彼女が家柄も良く、かなりの資産家であったことが推測できるのです。

2.《罪深い女》 ところが、マリア・マグダレーナと言えば、娼婦の代名詞にされてしまうのです。英語の「マグダリーン」は「売春婦の更生施設」です。ベタニアで主に香油を注いだマリアの記事と、ガリラヤで主に香油を注いだ「罪の女」の記事とが混同されてしまった結果です。その上、ローマ教皇グレゴリウス1世が「7つの悪霊を追い出して頂いたマグダラの女と呼ばれるマリア」という紹介文から、「7つの悪霊」を「7つの大罪」と解釈したため、7つの大罪の全てを犯した「罪深い女」とされるようになってしまったのです。このように、古代中世の人の聖書の読み方は、面白半分の思い込み、ウケ狙いが多いのです。

3.《献げる愛》 「携香女」と言って、香油の入った壷を抱えた女性がイコンに描かれていると、マグダラのマリアを意味します。確かに、主の復活の朝にも、彼女は香油を携えて墓に向かっています。しかし、ガリラヤの「罪の女」は、主の葬りの備えをしたベタニアの女とは異なる記事です。最大の違いは、彼女が泣きながら主に油を塗っているところです。その嘆きの深さは半端ではありません。彼女は悲しみを抱えたままの自分を主に献げたのです。立派な自分や価値のある自分を献げる必要はありません。星野富弘の詩にもあるように「しあわせが集ったよりも/ふしあわせが集った方が/愛に近いような気がする」のです。

朝日研一朗牧師

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2015年07月13日

てんたさん【ヤコブ1:12〜18】

聖句「誘惑に遭う時、誰も、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は…人を誘惑したりなさらないからです。」(1:13)

1.《言霊幸はふ國》 「てんたさん」とは誰かと、数人の人から尋ねられました。大和言葉の力は、現代に生きる私たちの五感も刺激するようです。山上憶良が「好去好来の歌」に「言霊の幸はふ國」と詠んだ通りです。私たちは、言葉に霊的な力(タマ)が宿り、その働きによって幸福がもたらされていると信じているのです。「てんたさん」は、『どちりな・きりしたん』(1600年)の「主の祈り」に「我らをてんたさんに放し給ふことなかれ」の「tentaçâo」のことです。

2.《試練か誘惑か》 何しろ、当時「悪魔」も「天狗」と訳していたくらいですから、「テンタサン」にも適切な訳語が見付からなかったのでしょう。ギリシア語の「ペイラスモス」には「試練」と「誘惑」の両方の意味があります。「神の与えられた試練」か「悪魔の誘惑」か明瞭ではないのです。この両義性が翻訳を難しくしたのかも知れません。イエスさまの「荒れ野の誘惑」でも、主を悪魔の誘惑へと導いているのは「御霊、聖霊」です。それは「共観福音書」が主張しているところです。果たして、神さまが私たちを悪魔の誘惑へ連れ行くのでしょうか。

3.《立ち尽くす愛》 「試練」は「耐え忍ぶ、持ち堪える、逃げ出さずに留まる」べきものとして教えられています。先輩の牧師からは、女性やお金の「誘惑」に遭う時には「三十六計逃げるが勝ち」と教えられました。試練とは外側から襲い掛かる苦難、誘惑は内側から忍び寄って来て、欲望を煽り、唆すものです。また、私たちには試練が誘惑の働く機会としてしまう場合があります。苦難に際して、責任転嫁したり、神と人とを呪い怨むようになるのです。私たちは弱いので、苦難に耐え切れるものではありません。しかし、そんな時こそ、立ち尽くしましょう。愛は、信仰は立ち尽くすのです。イエスさまの十字架のように。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:50 | 毎週の講壇から

2015年07月06日

平和の挨拶【ヨハネ14:25〜31】

聖句「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」(14:27)

1.《仁義を切る》 映画『男はつらいよ』第1作には、寅さんがテキ屋仲間に仁義を切る場面があります。また、東映任侠映画の『昭和残侠伝』や『緋牡丹博徒』のシリーズでは、今なら些か冗長と思われるような渡世人の仁義切りが、毎回のように丁寧に描かれています。本来は「辞宜」と言って「挨拶をすること」「礼をすること」だったのです。香具師や侠客だけではなく、炭鉱や鉱山の労働者、旅回りの職人の世界にも、仁義を切る習慣があったと言われています。

2.《安否を問う》 仁義切りの姿勢では、右の手の平を相手に見せるのが基本です。手の内を見せて、武器も敵意もないことを知らせるのです。西洋人や中国人の握手にも同じ意味があります。日本のサラリーマン社会に残る名刺交換の儀式も、その流れを汲んでいます。「平和の挨拶」はキリスト教会の専売特許ではありません。ユダヤ教徒の「平和の挨拶/シャローム」は、会衆がお互いの安否を問う習慣でした。それは「接吻」によって行なわれました。欧米では、誰もが日常的に「頬っぺにチュッ」を行なっていますが、私たちは苦手な分野です。

3.《本当の平安》 古代ユダヤ教では、相手の身分や立場、相手との関係によって接吻の部位が変わりましたが、キリスト教会は、階級や人種の違いを乗り越えようと努力して来ました。「平和の挨拶」は「聖餐」の前に行なわれました。和解をした上で初めて「聖餐」に臨むことが出来るのです。シリアやアルメニアの教会では 接吻でなく握手を交わし、コプト教会では礼を交し合います。自分らしい在り方で良いのです。南インド合同教会は、20世紀に諸教派が20年以上の対話を重ねて合同した教会ですから、「平和の挨拶」の時間を最も大切にしています。私たちも、魂を奪われている人の手を包んで、祝福を祈りたいものです。

朝日研一朗牧師

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2015年06月29日

幸福な目、幸福な耳【ルカ10:21〜24

聖句「イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。『あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。』」(10:23)

1.《福音》 「福音」を「フクオン」と発音した人がいて、私たちが何気なく使っている用語の特殊さに、改めて気付かされました。ギリシア語の「エウァンゲリオン」は「良い知らせ」です。漢訳聖書が「福音」と訳したのを「明治元訳聖書」が採用したのです。しかし、漢籍の教養のない日本人水夫が協力した「ギュツラフ聖書」では「タヨリヨロコビ」でした。英訳聖書には「福音/ゴスペル」という特殊用語を使わず、「良い知らせ/グッド・ニュース」と訳したものがあります。

2.《眼福》 辞書を引くと「珍奇なもの、貴重なもの、美しいもの等を見ることの出来た幸福」、もしくは「目の保養」と書いてあります。「目の保養」には「手に入らない」の含みもあります。際限のない欲望を自ら戒めているのかも知れません。他方、「福耳」はありますが「耳で聞く幸せ/耳福」という語はありません。しかし、音楽や小鳥の囀り、懐かしい人の声など、耳で感じる幸せも確かにあるのです。勿論、音色だけではなく、その内容も大切です。「福音」の場合には、むしろ、耳障りではなく、そのメッセージこそが「善きもの」なのです。

3.《御心》 「あなたがたの見ているものを見る目」等という言い回しが引っ掛かります。しかし、絡んで来るのは、そこにメッセージがあるからです。「あなたがたの見ているもの」とは「神の御子はどんな御方であったのか」ということです。これが「福音」の内容です。主は十字架に掛けられ、殺されたのですから、決して耳障りの良い話ではありません。むしろ、私たちが神について抱くイメージ(清浄さや厳かさや静粛さ強さ)は裏切られるのです。それは、主が「自分の意志ではなく、御心を行なう」ために生きられたからです。私たちが自らの思いを遂げようとするところに、本当の幸福は存在しないのではないでしょうか。

朝日研一朗牧師

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2015年06月22日

光を指さす人【ヨハネ1:6〜18】

聖句「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。」(1:7)

1.《ボルジア家の圧政》 往年の名画『第三の男』の中に、犯罪者のハリー・ライムが自らの悪の哲学を開陳する場面があります。「ボルジア家の圧政がイタリアではルネサンスを生んだ。だが、スイスの平和が何を生んだか。鳩時計だとよ」。その台詞を巻頭言にして、星野之宣の『ボルジア家の毒薬』は、ルネサンスの光と闇を描きます。そして、その引き裂かれた魂の祈りとして、レオナルド・ダ・ヴィンチの『洗礼者聖ヨハネ』を提示して終わるのです。

2.《洗礼者聖ヨハネ》 レオナルドの最晩年の作とされており、『モナリザ』と同じように、性を超越した人物が不思議な微笑みを湛えています。十字架の杖は「見よ、神の小羊」を、人差し指を天に向けるポーズは「天から来る救い主」を指し示しているのでしょう。東ローマ帝国時代の聖遺物には「洗礼者ヨハネの腕」もあります。その右手はキリストを指し示したが故に、聖なるものとされているのです。目に見える物を用いて、目に見えない昔の出来事を語らせようとしているのでしょう。私たちが「聖地旅行」をするのと同じです。

3.《光は万人の上に》 6月24日は夏至、即ち「洗礼者ヨハネの誕生祭」なのです。「証人/マルテュス」は法廷用語でしたが、紀元2世紀後半に迫害が激しくなると「殉教者」を意味するようになりました。未受洗者なのに、自分の家族や友人を助けようとして処刑された人たちが大勢いました。当時の教会は彼らを「自らの血によって洗礼せられた」と表現しています。行き掛かり上、連帯して自らの命を投げ出さざるを得なかった人たち、彼らもキリストの「証人」なのです。私たちは自らを光輝かせようとして磨きを掛けます。しかし、「証人」は、暗闇の中で傷付け合っている人々のために、光を指さすのです。

朝日研一朗牧師

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2015年06月15日

二人の家出【ルカ15:11〜32】

聖句「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。」(15:11,12)

1.《人間の成長》 人間は叱られるだけではやりきれない。その怒りが、裁きが、正しければ正しいほど人は救われない。そこには逃げ場がない。逃げ場のない場所で裁かれると、人は滅びる。そうではなく有罪を確定した上で、同時に償いの終了を宣言、そして自由と解放へ誘う言葉が語られて、初めて人は立ち上がり歩き始める。人は裁かれることで成長するのではない。裁きの中で弁護され、抱きしめられることで成長する。このような天の父の言葉が聖書に溢れている。

2.《問題の家庭》 このような父親がいる家庭は少々問題を起こす。この家庭は家出人だらけ。弟は物理的に家出するが、兄は精神的に家出している、片方が帰宅すると片方が家出。イエスさまの前では、みんな家出人。みんな間違っている。そしてみんな愛され、みんな今日も探されています。

3.《家出の教会》 礼拝に出ている皆さんは、放蕩息子のお兄さんです。放蕩息子はイースターやクリスマスに教会に来る人です。その後また家出する。もう来ていない。そんな弟を見送り、しかも主任牧師のいない時も礼拝を守るなんて、みなさんお家に残ったお兄さん以外の何者でもない。しっかりと父の家を守っている。えらい。しかし、お家に残った形の家出人かも知れない。天の父への思いは、実は何年も前から離れている…そのことは、あなたの心が知っている。それでいい。お兄さんだからといって、正しくなければいけない訳ではない。あなたも間違っていていいし、家出人でいい。探されるために。愛されるために。これは教会の姿。教会にどれだけの人が帰ってきたのでしょう。そして同時に、どけだけの人が再び家出したことでしょう。物理的に、精神的に。だから増えもせず、減りもせず。でも神様は、教会にそれをお許しになったのです。

塩谷直也牧師(青山学院大学)

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2015年06月08日

あなたの肉を食べ、あなたの血を飲む【ヨハネ6:52〜59】

聖句「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」(6:54)

1.《食生活の変化》 私の子ども時代には鯨肉がご馳走でした。しかし、外国の2百海里水域での操業規制が強まり、遠洋漁業は痛手を受け、海洋汚染と赤潮で沿岸の漁獲高も激減、天然物から養殖物への転換期でもありました。1970年代に、日本人の主食は魚から肉へとシフトしたと思われます。それに先立つ1950年代には、卵の大量生産流通ラインが生まれて、日常的に卵が食べられるようになっていたのです。数十年間で、日本人の食生活は大きく変わりました。

2.《カニバリズム》 ザビエルが来日した戦国時代、南蛮人は鉄砲と共に肉食文化ももたらしました。しかし、鎖国に向かう時代、肉食は切支丹禁教の理由の1つに挙げられました。南蛮人が肉食を好んだこと、信徒たちが「キリストの血と肉」に与る聖餐を受けていたこと、葡萄酒が血のように見えたこと等から、キリスト教禁教と人肉食のタブーとが融合してイメージされたのです。そのようなデマや中傷は古代からありました。トラヤヌス帝と小プリニウスとの往復書簡からも、当時そのような流言飛語があったことが読み取れます。

3.《血肉を喰らう》 それどころか、既にイエスさまが御言葉を語られた段階で、ユダヤ教徒は憤激し、弟子たちですら「聞くに耐えない」と吐き捨てて、主の御もとを離れ去っているのです。ここには「トローゲイン/喰らう」という語が4回も使用されています。「バリバリ噛む」「ガツガツ音を立てて喰う」「ムシャムシャ喰う」です。肉食動物が獲物を捕らえて食べる時の表現です。凡そ上品な表現ではありません。しかし、イエスさまは敢えて「喰らう」という言い方をすることで、私たちが「永遠の命」に与ろうとする際の必死さを尋ねておられるのではないでしょうか。周囲から誤解されても悪口を叩かれても、喰らい付いたら決して離さないような意気込みを持っているでしょうか。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 22:44 | 毎週の講壇から