2015年03月16日

十字架を運んだ人【マルコ15:21〜32】

聖句「そこへ、…シモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。」(15:21)

1.《最も重い荷物》 クンデラの小説『存在の耐えられない軽さ』は、「プラハの春」の終焉を時代背景にした恋愛小説です。冒頭、ニーチェの「永劫回帰」を引き合いにして「軽さと重さ」について語ります。確かに重荷は私たちを打ち砕き、下敷きにするけれども、重さは恐ろしいことなのか。重荷を負う時、私たちの人生は地面に近付き、現実的になり、真実味を帯びて来るのではないでしょうか。

2.《十字架の重さ》 十字架を背負って「ヴィア・ドロローサ/悲しみの道」を歩むイエスさまの御姿を想像します。お祭りの行列でもイエス役が十字架を担ぎます。しかし、実際には、十字架は横木だけだったのです。縦の親柱は刑場に立てられたままで、死刑囚は横木を担がされました。ラテン語の「横木」は「通行可能」という意味です。重さは50キロ前後でしょう。総督ピラトの官邸からゴルゴタの丘までは、1キロ足らずですが、現地には、巡礼者や聖地旅行客のために14留のポイントが用意されています。そこここで、重みに耐えかねて、主が倒れたことになっています。シモンが登場するのは第5留です。

3.《肩の上に御手》 主の十字架を背負わされたシモンは「キレネ人」です。現在のリビア東部ですが、過越祭に巡礼に来たユダヤ人だったのでしょう。「無理に担がせた」との記述から、巻き添えを食ったシモンの心中を慮って、「強いられた恵み」等と説教する牧師もいます。しかし、当時、ローマの兵隊による強制徴発は、日常茶飯事でした(マタイ5:41)。強制徴発に抵抗して「一人一殺」で戦えと煽る熱心党とは異なり、イエスさまは、自分から進んで与えることで、主体性と責任を奪還するように勧められたのです。レバノンの詩人、ハリール・ジブラーンの「十字架を運んだ方」を読んだ時、そのことに気付かされました。その中で、シモンは「私はそれを道の終わる墓場まで運ぼう」と告白するのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 00:00 | 毎週の講壇から

2015年03月09日

弱さを抱きしめて【Uコリント12:1〜10】

聖句「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。」(12:9)

1.《二者択一》 子どもの質問は単純です。問い掛けが単純であるということは、単純な答が求められているということです。「これは良い者、それとも悪者?」「これは強い、それとも弱い?」と二択の問い掛けが多いのです。子どもは、人生を歩み始めたばかりなので、これから社会や人間の複雑さを学んで行くのです。むしろ世の中の複雑さに頭を抱えるのは、大人の仕事、使命なのかも知れません。

2.《命の弱さ》 幼少時に怪獣映画が好きだった私も、成長して思春期に差し掛かる頃には、英米の怪奇映画やホラー映画を盛んに観るようになりました。今、ドラキュラの退治のされ方を思い出してみると、何と弱点の多いことか、何と数多くの弱みを人間に握られていることかと驚きます。実際、怖ろしげに描かれるモンスターやエイリアンにも、人間の弱さが投影されているのです。弱さにこそリアリティがあり、人間味があるのです。そもそも、命は脆く儚いものなのです。頑丈壮健を誇った人が、突然、事故か何かで命を失うこともあるのです。だから、神さまも、そんな人間の弱さをこそ、大切に思ってくださるのです。

3.《御力の種》 イエスさまが弱さを抱えて生きていかれました。人間として、生き物として生きるということは、即ち弱々しいことなのです。大谷大学の佐賀枝夏文教授は、大きな石を抱えるようにして根を張った銀杏の樹を見て、気の毒に思いました。ところが、嵐の翌朝、銀杏が「石を抱えていたので倒れませんでした」と語るのを心に聞いたと仰います。「弱さを取り去って下さい」と念じるのも祈りですが、弱さを抱きしめて生きていくことこそが、真の祈りなのでしょう。ギリシア語の「力」には「デュナミス」と「エネルゲイア」があり、アリストテレスは前者を「種」、後者を「花」に例えています。神さまの御力の種は、既に私たちの中に蒔かれていて、いつか「永遠の命」として花開くのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:52 | 毎週の講壇から

2015年03月02日

この人を世の光に【マタイ5:13〜16】

聖句「あなたがたは世の光である。」(5:14)

1.《ルミナリエ》 昨年末、毎日新聞が行なった「2014年、あなたが元気をもらったニュースは?」ベスト10を見ると、その内7つがスポーツ選手の活躍、2つが芸能ネタでした。残る1つがLED開発者のノーベル賞受賞でした。単に名誉と言うのみならず、発明品が照明なので人心を明るくしたのでしょう。震災後の神戸で、「ルミナリエ」という光の祭典が続けられていることも同じです。光には、人間を励まし勇気づけたり、心を動かし前向きにする効果があるのです。

2.《光は主観的》 動物学者の日高敏隆が英国の生物学者ハクスリーの「光はこの地球上に動物が出現し、目を持った時に初めて現われた。それ以前には、電磁波の特定の領域に過ぎなかった」という説を紹介していました。生物学的には、この説明が正しいのです。モンシロチョウは翅の麟紛の色で、同種の雌雄を見分けるそうです。それは紫外線の領域に当たります。モンシロチョウにとっては光である紫外線は、人間にとっては可視光線ではありません。このように種によって何が光であるかは微妙に異なるのです。もしかしたら、私たちが闇が光で、光が闇であるかも知れないのです(詩編139編11〜12節)。

3.《汝ら世の光》 イエスさまが「世の光」と言われる時、それはキリスト者のこと、教会の使命だとして受け止めます。間違いではありませんが、イエスさまの前には、教会もキリスト者も、キリスト教すらも存在していませんでした。「あなたがたは」というギリシア語の強調文から、凡そ世間では考えられていないという前提があると思います。「社会福祉の父」と呼ばれ、知的障碍児、重度心身障碍児の施設を創設した、糸賀一雄が「この子らを世の光に」と宣言したことが思い出されました。「汝ら世の光なり」との御言葉を受けた時、糸賀はそれを自分のこととは思わず、「この子たちのことだ」と思ったのです。この人たちが「世の光」として認められる時、私たちも本当の光へと変えられるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:47 | 毎週の講壇から

2015年02月23日

ありのままの姿見せるのよ【ルカ18:9〜14】

聖句「言って置くが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。」(18:14)

1.《アナ雪》 昨年大ヒットしたアニメ映画『アナと雪の女王』の「レット・イット・ゴー」のオリジナル英語版のサビの歌詞には「ここに私は立つ」というエルサの決意表明があります。マルティン・ルターがヴォルムス国会に召喚されて異端宣告を受けながらも表明した「我ここに立つ」との信仰の言葉から来ているのです。ルターも審問の1日目には、居並ぶ権力者に気圧され、精彩を欠いていたのですが、2日目に決然と「我ここに立つ」と宣言します。夜の間、ルターは必死で祈り、主が「私はあなたと共にある」と言って応えられたとしか思えません。

2.《パンセ》 百数十年後、ヤンセン主義者のパスカルも堕落したイエズス会を批判しますが、彼には「パスカルの賭け」と呼ばれる信仰の問い掛けがあります。もしも、神の実在について賭けをするなら、実在に賭けた方が得だというのです。実在を否定して、それが誤っていた時には、その代償が大き過ぎるのです。「神の存在を信じるか」の問いは、私たちを再び信仰の原点に立ち戻らせてくれます。神の御前に立たされていることを、今更ながらに気付かせてくれるのです。

3.《真の姿》 ファリサイ派の人と徴税人の、2人の祈る姿を通して、イエスさまは「神に向き合うとは如何なることか」を教えられます。ファリサイ派は自分の行為の報告に終始して居り、徴税人を見下して、自分の幸せを感謝します。徴税人は自分の犯した罪に向き合い、それを通して神に憐れみを乞います。ファリサイ派は神を見ていないのです。ベトナム戦争の報道写真で知られる岡村昭彦は、当時「ベトナムの子供は可哀想」と感想を寄せた母親や子供に対して、怒りを露わにしています。日本社会は「他人の不幸で幸福感を味わう」「可哀想」の病気に冒されているのです。「自惚れて、他人を見下して」いるファリサイ派の方が、その傲慢さや愚かさが分かり易い分、救われる可能性があります。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:48 | 毎週の講壇から

2015年02月16日

人生の旅人【ヘブライ11:13〜16】

聖句「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。…自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表わしたのです。」(11:13)

1.《ゴーギャン》 ゴーギャンの絵画に「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか」と題された作品があります。タヒチ移住後、貧困と病苦の中、愛する娘の死を契機に描かれました。カトリック教会に反抗し続けたゴーギャンですが、神学校時代に学んだ教理問答「創造論」から引用したのです。

2.《ハイネの詩》 ハイネの「問い」という詩の中にも同じフレーズが出て来ます。荒涼とした夜の海辺に立つ若者が「人生の謎」を問い掛けます。ハイネはユダヤ教徒からプロテスタントに改宗しながらも、終生、後悔して自分を責め続けた人です。しかし、これは宗旨に関係なく、いつの時代のどんな人間にとっても迫ってくる問いなのです。残念ながら、近年「人生いかに生くべきか」の問いを発する若者がいません。周囲から「お前自身の問題だろ」と叩かれるのです。単に「共感の喪失」のみならず「普遍性の喪失」が進んでいるのです。産業社会のもたらした呪いの1つだと思いますが、私たちの抱える課題はお互いに共有されなくなり、各人が孤立して窒息状態に陥っているのです。

3.《カトリコス》 普遍的な問い掛けをさせない社会に成っているのです。本当は若者の青臭い問い等ではなく、「人生の秋」から「人生の冬」に避けようもなく迫る喫緊の問いなのです。長い年月、私たちが疑問を発することを止めていたにしても、いずれ向き合う現実です。幾ら長逗留をしても「仮住まい」の身に変わりはありません。私たちは「旅人」なのです。「旅は道連れ世は情け」「旅は情け人は心」とも言います。人との出会いと別れに対しても、この世に対しても、愛惜の念をもって接しましょう。今の時代、皆が個別化し、公を無視して、個人の見解だけを主張し合っています。私たちは皆「旅人」であるとの事実認識に立ってこそ、「カトリコス/普遍的な、公の」が保証されていくのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:45 | 毎週の講壇から

2015年02月09日

誇る者は主を誇れ【Tコリント1:26〜31】

聖句「『誇る者は主を誇れ』と書いてある通りになるためです。」(1:31)

1.《土地への礼儀》 「創立112年」と言っていますが、前身である京橋教会設立から数えてのことで、行人坂教会としては設立90年に当たります。「百年越え」は成りませんが落胆不要です。古いというだけなら、室町時代創建とされる大鳥神社や目黒不動尊に敵いません。むしろ、この地域の目まぐるしい変化を思えば、ここに今も場を与えられていることへの感謝を覚えずにはいられません。

2.《主による地縁》 ラテン語の「ゲニウス・ロキ」は「土地の守護霊」のことですが、現代の景観設計の分野では「土地柄」「場の雰囲気」です。これに、私は「地縁」の意味を加えたい。「地縁血縁」等と言うと鬱陶しいシガラミを思わされますが、「その土地がもたらしてくれた縁」「その場所で生まれた出会い」と考えてみましょう。京橋教会は関東大震災の「被災教会」でした。4年しか使用しなかった新会堂を焼失し、「エクソダス」を経て、この地に辿り着いたのです。この教会は被災者や生き残ってしまった人たちの「遣り切れなさ」を知っている教会なのです。しかも、私たちが主によって結ばれ、愛着を抱いている教会は、もはや銀座京橋ではなく、この目黒行人坂にあるのです。

3.《エクササイズ》 移転先次第で「恵比寿教会」「祐天寺教会」「目黒不動教会」「戸越銀座教会」に化けていたかも知れません。そうならないで、私たちは今ここに共にいるのです。人間の知恵と力は震災で灰燼に帰しました。だから「誇る者は主を誇れ」なのです。出典のエレミヤ書9章では、主を「目覚めて知る」こと、即ち「認識し体得せよ」と命じられています。それは、この地にあって、主の慈しみと正義と公平とを証しすることなのです。それを実践(エクササイズ)することが求められているのです。「キリストの体」もエクササイズしなくてはなりません。毎週の礼拝と祈り会を確実に守ることです。私たちが「当たり前」と思っても、当たり前のものは何一つありません。全て感謝すべきことです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:45 | 毎週の講壇から

2015年02月02日

イヤな奴らもご大切?【マタイ5:43〜48】

聖句「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。」(5:44,45)

1.《七人の敵》 イエスさまの教えには、実行困難と思われるものが数々ありますが、その中でも、皆が投げ出したくなるのが「愛敵」の教えです。特に「敷居を跨けば七人の敵あり」の男性諸氏からは評判の悪い。多くの信徒も「敵を作らない」努力、「敵対関係にならない」努力をしているのに過ぎません。

2.《愛の課題》 この「愛敵」の教えを掲げていながら、キリスト教会の歴史もまた抗争に次ぐ抗争でした。迫害を受けていた時代はともかく、政治権力に承認され、制度と教義を確立させ、教会が財産や領土、既得権益を持つようになってからは戦争の仕掛け人にもなりました。宗教改革も戦争をもたらしました。海外伝道も列強の植民地獲得競争とリンクしていました。近代になって漸く「住み分け」を学び、抹殺し合うことを止めたのです。教会もまた、愛の教えを実践して来なかったのです。ならば「看板に偽りあり」として、潔く愛の一枚看板を降ろすべきでしょうか。否、これが無ければ本当の地獄になります。むしろ、偽善者と罵られても、この看板を担って歩むところに愛敵は始まるのです。

3.《御大切に》 これは私たちが一生を賭して担うべき課題なのです。実行が困難であればこそ祈り続けなければならないのです。祈りとは、水を打った静けさの中に神と向かい合うことばかりではありません。悩み苦しみに拉がれても、苛々した気持ちを責められても、神に向き合うのです。この課題は、私たちの死後にまでも 及ぶのです。キング牧師は「愛敵」の根拠として、憎しみの連鎖が憎しみを増すこと、憎しみは自身をも歪めること、悪循環を断つのは愛しかないことを主張しています。『どちりな・きりしたん』は「アガパオー」を「御大切」と訳しました。私の敵であっても、誰かにとっては、大切な人かも知れません。況して、神さまは大切になさることでしょう。課題として担い合いましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:47 | 毎週の講壇から

2015年01月26日

羊の群れには山羊が要る【マタイ25:31〜40】

聖句「すべての国民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」(25:32,33)

1.《羊の比喩》 旧約聖書では「羊飼い」と「羊の群れ」は「ヤハウェ」と「イスラエルの民」に、新約聖書では「キリスト」と「教会の信徒」に例えられます。英語の「牧師/パスター」も「羊飼い」のことです。しかし、イメージだけが独り歩きした結果、余りにも理想化され、現実から遊離しているのです。

2.《羊と山羊》 実際、私たちは羊を飼ったこともありません。羊のこと等、何も知らないのです。私たちは勝手に右に置かれる「羊」は「良い信徒」で、左に置かれる「山羊」は「不信者」と、余りにも図式的に読んでしまいがちです。しかし、飽く迄も、主の裁きの的確さを羊飼いが分類する手際良さに例えているのです。むしろ、古くは、山羊は羊よりも大切にされていました。律法でも「食べてもよい清い動物、神に奉げられる供え物」とされています。「羊」には「迷える羊の群れ」という悪いイメージ(エレミヤ書50章6節)もあるのです。よく羊は迷うのです。反対に「迷子の山羊」「迷える山羊の群れ」等と聞いたことがあるでしょうか。山羊は羊の群れを導くことさえも出来るのです。

3.《山羊の価》 それなのに、中世以降「山羊」は「悪魔」の図像として使われるようになりました。作家の森達也は、モンゴルの羊の群れの中に、必ず山羊がいることを発見しました。羊は集団同調性が高すぎて、草葉を食い尽くしても移動しないのです。山羊は行動的なので、草葉を移動し、結果的に羊の群れを導くのです。震災以後、森達也は「不謹慎」という語に危険を感じて、日本人は「羊度」の高いので、私たちの中の「山羊度」を高めようと提案して居られました。教会も「従順な羊の群れ」を強調する余りダイナミズムを失っています。しかし、ここに描かれた(最も小さい者にする)良い行ないは「集団行動」ではなく「単独行動」です。世に迎合せず自己充足もせず、「山羊度」をアップしましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:44 | 毎週の講壇から

2015年01月19日

憐れみ受けて招かれて 【ローマ11:25〜36】

聖句「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」(11:29)

1.《私の初心》 よく「初心忘るべからず」と申します。世間では「初めての時の感動や意気込み、初志を忘れずに物事に当たらねばならない」の意味合いで使われています。成る程、慣れて来ると何事もルーチンに陥ります。教会生活も、いつも自分から「お迎えする側」に立つことを意識しないと、いつの間にか「お客様状態」どころか、横柄な「牢名主状態」に成ってしまうのです。

2.《人の初心》 世阿弥の『花鏡』が「初心忘るべからず」の出典です。「初心」と言うと、とかく若い時代に限定して考えがちです。しかし、世阿弥は「若い時の初心」に加えて「時々の初心」「老後の初心」を言います。青年時の挫折や失敗だけが大切なのではなく、壮年老年期の風体を身に付けること、更には、老後にも未経験の出来事や試練が訪れるのですから、自らの未熟さを受け入れつつ、それに向き合って行かねばなりません。それが本来の「初心」なのです。失敗しないこと、要領よく立ち回ることが大切なのではなく、自らの人生を引き受けていくことが大切なのです。信仰を生きることも全く同じです。喜寿米寿傘寿を迎えても尚、未経験の出来事、初体験が待っているのです。

3.《神の初心》 世阿弥を読むと、芸事においても「謙虚さ」が求められていることが分かりました。信仰で言えば「自分が空しい者であるとの自覚」です。神さまの恵みを前にしては、私たちの信仰や業績、知恵や悟りの大小などは取るに足りないのです。神の恵みは絶対的で、全てを包み込んでいます。神の「賜物と招き」は「憐れみ」(神の愛)によるものです。十字架上の主の「父よ、彼らをお赦しください」の祈りです。あの執り成しの祈りに表わされた愛によって支えられているのです。この「初心」を忘れ、傲慢に陥った時、教会は基礎を失うのです。崩壊して廃墟と化します。私たちの信仰は「神の初心」によって与えられ、導かれます。私たちも「キリスト者の初心」を忘れてはなりません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:50 | 毎週の講壇から

2015年01月12日

とりなしの祈り【ローマ8:31〜39】

聖句「復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(8:34)

1.《暴言者》 昔の牧師は、今の牧師よりも権威があったので、信徒の崇敬を集める反面、時に暴言を吐くことも多かったように思います。N教会の信徒、Sさんは尊敬するT牧師から「お前は音痴だから讃美歌を歌うな」と言われて以来、数十年間、「口パク」で礼拝の讃美歌に参加していました。

2.《偽善者》 C教会で長く役員を務めたAさんは、B牧師から「あんたの祈りは『執り成しの祈り』ではなくて『取り柄なしの祈り』」と笑われて、自ら役員を退かれました。このような出来事は、私にも他人事とは思われません。振り返れば、私の発言や振る舞いによって不愉快な思いを為さった信徒が大勢おられたであろうことが思われます。教会生活に限らず、一般の社会生活においても同じです。私たちは、このようにして、お互いに数多くの恨みを作りながら生きているのです。生き物から命を奪わないでは生きられないのと同様、争わず温和に暮らしているつもりであっても、誰かを傷付けながら、「私」という者は存在しているのです。せめて、その自己認識だけは忘れないようにしたいと思うのです。

3.《仲保者》 自らの偽善性、欺瞞、独善に気付くことで、私たちは、そこから解放され、脱出することが出来るのです。むしろ、それを見据えなければ、永遠に壁の中です。必ず乗り越えられるのです。そのように、確信を持つことが出来るのは私たちには「神の愛」と「キリストの執り成し」が与えられていると信じるからです。十字架は人と人、神と人とを繋ぎます。その中心には、神の子でありながら人として生きられたイエスさまが居られます。イエスさまは「中の人」でした。無責任な立場から正論を語る人、無関係、部外者を標榜しつつ批判する者たちと違い、主は自ら関係者となって、私たちの罪に連帯して行かれるのです。そのイエスさまの執り成しを原点として、私たちも祈って参りましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:00 | 毎週の講壇から