2014年10月28日

試練の逃げ道 【Tコリント10:12〜13】

聖句「神は真実な方です。…試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(10:13)

1.《試練の道》 アニメ『巨人の星』の主題歌「行け行け飛雄馬」は「思いこんだら試練の道を行くが男のド根性」という歌い出しでした。「試練の道」を歩む理由は「思い込み」なのです。しかし、「経済優先」も「人命尊重」も単なる思い込みであるという点で、何ら変わるところはありません。問題は、その信念や信仰、価値観や理念が自らと社会を改善するものであるかどうかです。「右に倣え」をせずに、自分の信念に従うことは、この世では「試練の道」なのです。

2.《出口あり》 他の人の真似をするのではなく、自分が自分らしく生きようとすることは、その段階で既に「試練の道」なのです。「試験」や「試合」を目標に日夜努力するのが「試練」です。ギリシア語の「試みる」にも「やってみて御覧」という励ましが含まれています。「逃れる道」が用意されていると言っても、ズルする「抜け道」ではありません。「出口、終わり」という意味です。道行は辛くても必ず出口があるのです。「雌伏」の時があり「雄飛」の時があるのです。

3.《コンダラ》 「主の祈り」の最後は「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え」です。「ペイラスモス」には「試練」と「誘惑」の意味があります。「悪しき者」とは「サタン」ですから、本当は「誘いに遭わせず」と訳すべきです。この世には「耐え難い苦しみ」があります。その渦中にある当事者に対して「耐えられない試練はない」等と説教するのは持っての他です。当事者が乗り越えられた時、初めて「試練」と言えるかも知れませんが、部外者が不条理な苦難を「試練」と呼ぶのは間違いです。野球グラウンドの整地ローラーを「コンダラ」と言います。『巨人の星』の主題歌を「重いコンダラ」と聞き違えたところから、その俗称が広まったそうです。私たちの人生は「重いコンダラ」を押して進む「試練の道」かも知れません。しかし、イエスさまが一緒に押して下さいます。

朝日研一朗牧師

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2014年10月20日

わたしはかとりせんこう【コヘレト1:18】

聖句「知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す。」(1:18)

1.《「可」取り》 疎開した1年を除けば、下目黒の生家で少女時代を過ごしました。小さい頃は、二卵性双生児と言われるくらい弟と似ていました。しかし、私は運動が上手く出来ず、通信簿で体操に「可」(当時の落第ギリギリ)を点けられてしまいました。兄姉たちから「可取りせんこう」とあだ名を付けられ、その時、いつか見返してやろうと心に決めました。その思いが私を、苦手な運動や英語の勉強に向かわせたのでしょう。

2.《教会に行く》 信州の疎開から戻ると、東京は一面焼け野原で、生家の焼け跡にコスモスが咲いていました。闇市で買った「クリスマスの表紙の本」は、実は聖書でした。弟に導かれ、行人坂教会で私も受洗しました。「聖書のことが分からない」と受洗を渋る私に、木村知己牧師は「宗教学者になりたいの?」、「自分は未熟だし」と言えば「道徳家になりたいの?」、「大切なことは、イエス・キリストを信じることだけ」と諭されて入信しました。しかし、洗礼を受けても世界が変わった訳もなく、次第に教会と距離が出来てしましました。

3.《40歳の出発》 夫から、G・オニールの『40歳の出発』という本をプレゼントされて、一念発起しました。夫や子のために生きて来た自分の人生をギアチェンジすることを勧められていたのです。「可取りせんこう」汚名返上のために、日夜祈り、運動と英語の勉強をし、米国のボール州立大学で日本語を教える傍ら、米国経済史を勉強するチャンスが与えられました。お世話になったホストファミリーの2家族からも、第一長老教会、ユニテリアンと、それぞれに豊かな信仰を垣間見ることが出来ました。今は「聖書と祈りの集い」を生活の中心にしています。聖書を読んで語り合う中で、聖書は奥が深く、簡単な答などなく、むしろ、何が神の御心なのか問い続けることの大切さを学んでいます。老いと筋力の衰えを実感する昨今ですが、最後のステージにあっても前向きに生きたいと思います。

阿部弘子

posted by 行人坂教会 at 12:17 | 毎週の講壇から

2014年10月13日

491回目のゆるし【マタイ18:21〜35】

聖句「イエスは言われた。『あなたに言っておく。7回どころか7の70倍までもゆるしなさい。』」(18:22)

1.《七の七十倍》 その昔『491』というスウェーデン映画がありました。非行 

 少年と共同生活を営むことで、彼らの自主的な更生意欲を高めようという社会実験が行なわれるのですが、却って、少年たちは増長して、その試みは無残な失敗に終わるのです。その題名は「7の70倍までゆるしなさい」という聖書のもじりです。計算すると「7×70=490」ですから、少年たちの悪行がゆるしの限度を超えているということを表現していたのでしょう。

2.《倍返しだ!!》 昨年の流行語大賞はドラマ『半沢直樹』の「倍返しだ!!」でした。支店長には「10倍返し」、常務には「百倍返し」とエスカレートしましたが、「倍返し」と同じ発想が「創世記」にあります。「カインのためには7倍の復讐」、その末裔「レメクのためには77倍」と歌われるのです。ペトロの「7回ゆるし」、イエスさまの「70倍ゆるし」(77倍とも)はその裏返しです。当時は「仏の顔も三度」でした。それを「7回」と完全なゆるしを言うペトロに対して、主は「際限のない復讐に対抗するには、際限のないゆるしを」と仰るのです。

3.《踏み出す力》 「主の祈り」の「我らに罪を犯す者を我らが許す如く、我らの罪をも赦し給え」は、私たちの喉に刺さった小骨のようです。カルヴァンは「神でない我々は赦せはしない。忘れるのみだ」と言いました。確かに、ゆるしは神の御業です。にも拘わらず、この祈りが加えられているのは、私たちに神を信じて一歩前に進むことが促されているのです。終戦直後の韓国の教会では「日本憎し」の思いが強く、礼拝の中で泣きながら唱えたと聞きました。そのような真剣さが私たちにあるでしょうか。人が許せなくても神は赦して下さるのです。もしも、この祈りを唱える時、私たちが居心地の悪さで感じるとすれば、それは、私たちが十字架のイエスさまの御前に立たされているからに他なりません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:49 | 毎週の講壇から

2014年10月06日

良い物を食べよう【イザヤ55:1〜5】

聖句「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。私に聞き従えば、良いものを食べることができる。」(55:2)

1.《パンとおまんま》 関口パン、中村屋、進々堂、山崎パン、スワンベーカリーと、パン屋の創設者はキリスト教信仰と深く繋がっていました。そもそもパンはキリスト教信仰や聖書、礼拝儀式の中心的なシンボルでした。「主の祈り」の「日用の糧」には「今日のための」「存在のための」「生活のための」「必要なだけの」という含みもあります。その切実さを思えば、日本語の「まんま」でしょうか。まさに「きょうのまんまもかせでくなはりゃんせ」(山浦玄嗣訳)です。

2.《憐れみのパン》 「主の祈り」の「我らの祈り」の第一に挙げられているのは「我らの日用の糧」です。どんなにイエスさまが食べることを大切になさっていたか分かります。「パン」はヘブル語で「レヘム」と言いますが、「胎」という意味もあり、そこから「憐れみ」という語が派生しています。単なる「同情」ではなく「腸が痛む」程の「共苦」です。「五千人の養い」の記事で、イエスさまが「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれた」とはその意味です。「まんま」は「うまうま」ですが、ここでも「糧/パン」を「良い物」と言います。

3.《同じ食卓に着く》 神が招いておられるのは、イスラエルだけではなく、世界中の全ての人々です。食糧も水も価なくあげよう。お金の無い人も来るが良いと言われています。これは無銭飲食を奨励しているのではありません。私たちは労働の対価として賃金を得、それで糧を食べていると信じています。しかし、資本主義経済や消費社会は最近、人間がデッチ上げたシステムに過ぎません。そのシステムから外れて生活することは難しいのですが、絶対と信じ込む必要はありません。一旦括弧に入れてみてはどうでしょう。そこから、「私たち」の真の豊かさを考えましょう。どんなに豊かな食卓も「孤食」では命を得ません。「地球上の誰もが同じ食卓に着くことが出来ますように」という祈りなのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:24 | 毎週の講壇から

2014年09月29日

グッド・ウィル・ハンティング【ヨハネ6:34〜40】

聖句「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行なうためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行なうためである。」(6:38)

1.《善き意志》 映画『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』(1997年)は、天才的な頭脳を持ちながら無目的な生活を送っていた青年が、セラピストや友たち、恋人に支えられながら、幼児期の虐待のトラウマを乗り越えて、脱皮成長して行く物語です。題名の「ウィル・ハンティング」は主人公の名前ですが、「グッド・ウィル」には「好意」、「ハンティング」には「探求」の含みがあります。そして、神の「御心」以上の「グッド・ウィル/善き意志」はありません。

2.《中心の柱》 英訳「主の祈り」で「御心を成させ給え/Your will be done」と唱えると、断固たる口調に成ります。ギリシア語の「御心」も「テレーマ/意志」です。しかし、日本語の「心」には、どこまでも曖昧さが伴います。むしろ、私たちは躊躇いや迷いや揺らぎを大切にして来たのです。それは丁度、法隆寺五重塔の「心柱」が塔の小屋組みとは繋がっていないがために、揺らいでも倒れない構造に成っていることに通じます。動詞「テロー/するつもり」の新約聖書の最多の用例は「御心ならば」です。これこそが、信仰の「心柱」なのです。

3.《命のパン》 共観福音書の「ゲツセマネの祈り」に当たる箇所ですが、3章の「神はその独り子を賜う程に…」の説明でもあります。神の御心は何よりも愛、全ての人の救いであることが明記されています。更に、ここでは、イエスさまが御自らを「命のパン」を言い表わします。特に、35節は『アンパンマン』そのものです。神の御心は「あなたたちを飢えさせない」「あなたたちを養う」という強い意志だったのです。「永遠の命」と言えば、私たちは「この世のことならず」と来世を思い浮かべますが、実は「命のパン」による養いと繋がっているのです。「五千人の養い」の記事、「日用の糧を与え給え」との連続性もあるのです。「天から来たパン」の後に「地のパン」が言われているのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 22:27 | 毎週の講壇から

2014年09月22日

神の国は近づくか!?【マルコ1:14〜20】

聖句「イエスはガリラヤへ行き、神の国の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」(1:14,15)

1.《天国の駅》 豊中教会に派遣神学生で行っていた頃、子どもたちが唱える「主の祈り」で「御国を来たらせ給え」だけが異常に力が入っていました。尋ねてみると、彼らは「阪急宝塚線三国駅」のことだと思い込んでいたのです。このように聖書と信仰には勘違いが付きものです。キリスト教の歴史も聖書の誤読の上に積み上げられています。しかし、人生にも聖書にも「正解」はなく、「問いかけ」を生きることが求められているのではないでしょうか。

2.《漁師たち》 イエスさまの宣教の第一声は「神の国は近づいた」です。かなり唐突です。ここには「神の国」とは何かという定義も説明もありません。その意味でも、聖書は「教科書的」ではありません。普通ならば、このような人に付いては行けません。ところが、4人の漁師たちが網を捨て、父親と船子と船を捨てて付いて行ったのです。催眠術か魔法に掛けられたようです。しかも、付いて行ったのは、世間知らずの学生ではなく、ガテン系の労働者です。

3.《間にある》 「御国を来たらせ給え」は「来たらせよ、近づかせよ」という願いです。イエスさまの第一声も「神の国が近づいた」「神の国が来た」です。4人の漁師たちは、社会変革の時が来るのを、祈りながら、今や遅しと待ち望んでいた人たちだったのです。但し、彼らの思い巡らす「神の国」はこの世の王国の延長でしかありませんでした。彼らは誤解していたのです。しかし、イエスさまは読み間違えている人を敢えて選んで、弟子とされたのです。ここに、キリスト教信仰のダイナミズムがあります。気付きや悔い改めに価値があるのです。「御国はこの世のものではない」のですが、イエスさまは「あなたがたの間にある」とも言われています。「間に、只中に」は「手の届く範囲に」という意味です。「見えるものは見えないものに触っている」(ノヴァーリス)のです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 14:55 | 毎週の講壇から

2014年09月15日

神さまのコードネーム【ヨハネ3:16〜21】

聖句「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(3:18)

1.《暗号と愛称》 コードネームとは諜報機関などが使用する暗号名です。スパイ組織や秘密結社だけではなく、戦時下ともなれば、敵に知られないように、普段から暗号を使って連絡します。交戦中の敵国の兵器情報も不明ですから、味方間でも敵機に愛称を付けて呼び合ったりもするのです。太平洋戦争中、米軍が日本機に付けた愛称は女の子の名前、日本軍が米国機に付けた愛称は食べ物の名前が多いのは、とても興味深い現象です。

2.《名前の秘匿》 「名は体を表わす」はインド仏教唯識論の「名詮自性」から来ているそうです。聖書も同じ考え方をしています。登場人物には命名の物語があり、時には、名前が人生を反映します。人の名前が人格を表わすように、神の名前も神格を顕わすのです。従って、古代ユダヤ教では「みだりに唱えてはならない」として、神名は秘匿されていました。ヘブル語聖書には母音記号が付されていなかったので、何と発話するのか今も定かではありません。

3.《本当の名前》 ル=グウィンの『ゲド戦記』の中に、失意のドン底にある主人公ハイタカに、同期生のカラスノエンドウが自分の本当の名前を告げて励ます名場面があります。真の名を告げることは、自分の全てを差し出すことでもあり、告げられた者は、丸ごと相手を受け入れることなのです。聖書の神の名が秘匿されているのは、神が私たちを信用していないからではなく、自ら神の御名を求めていくことこそが、人生の意味だからです。「神の国と神の義とを求めよ」と言われる、その「御国を来たらせ給え」の前に「御名をあがめさせ給え」が置かれているのです。「あがめさせ給え」は「聖なるものとして取り扱われよ」です。神の御名は隠されていますが、私たちは「イエスの名によって」祈ることが出来ます。それは、どの部屋でも開けられるフロントのマスターキーなのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:41 | 毎週の講壇から

2014年09月08日

それじゃ、アバよ【ガラテヤ4:1〜7】

聖句「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、神よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」(4:6)

1.《我らの祈り》 「主の祈り」は、イエスさま直伝の唯一の祈りです。大変に有り難い祈りなのです。御子の祈りですから、父なる神に届かないはずはありません。しかし、ルターが「史上最大の殉教者」と言っているように、「主の祈り」程に頻繁に唱えられることで軽んじられた者はありません。古代エルサレム教会では会衆が共に唱和する祈りだったのですが、司祭の唱えるお経のようにされていたのを、再びプロテスタントが「我らの祈り」として取り戻したのです。

2.《天の下の子》 「天に在します我らの父よ」の「天」は複数形、旧約聖書に言う「諸々の天」です。どんなに遠い異国にあろうとも、どんな状況の下にあろうとも、仰ぐ天から神は見守って居られるのです。「天」は、私たちには見えない世界、私たちの手の届かない所という意味です。まさに「お手上げ」なのですが、それだからこそ祈るのです。そして、たとえ私たちには届かなくても、神さまは私たちに御手を伸ばして下さるのです。主の御手は届くのです。

3.《幼な子の心》 私たちは、イエスさまの受肉と受難、十字架の死によって罪から解放され「神の子」とされたのです。「神の子」と呼ばれるに相応しくない者でありながらも、主もまた「私の兄弟姉妹」と呼んで下さるのです。立派な人、義人が「神の子」ではありません。それは「律法」の論理です。そうではなく「天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、雨を降らせて下さる」と胸に刻みつけた人こそが「神の子」です。故に「福音」なのです。イエス御自身は神さまに「アッバ」と呼びかけられました。「父よ」等という格式張った呼びかけではなく、「アブアブ」と同じ幼児語です。御子イエスの霊を受けて、イエスさまと同じ心で、私たちが神に呼びかける時、聞いて下さるのです。まさしく「心を入れ替えて、幼な子のようになる」ことです。それは難しいことではありません。

朝日研一朗牧師

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2014年09月01日

心の包皮を取り去れ【エレミヤ4:1〜4】

聖句「ユダの人、エルサレムに住む人々よ、割礼を受けて主のものとなり、心の包皮を取り去れ。」(4:4)

1.《一皮剝ける》 周防正行監督の映画『Shall we ダンス?』に登場するサブキャラ、青木富夫(竹中直人)は会社では、髪の毛の薄いのを気にしている冴えない中年男ですが、ダンスの時には鬘を付けて、情熱的なラテンを踊るのです。ところが、競技会の時、ライバルペアの心無い妨害に遭い、鬘が落ちそうになります。その時、ペアの叱責に吹っ切れて、彼は自ら鬘を投げ捨て、華麗なダンスを披露します。たま子先生が「一皮剝けたのね」と呟く名場面です。

2.《受け入れる》 私たちは皆、コンプレックスを抱えて生きています。そして、世の中には、それに付け込んで攻撃を仕掛けて来る人もいます。経済開発協力機構の調査結果によると、34ヶ国中、日本の教員が最も長時間労働を強いられていながら、最も自己評価が低いことが分かりました。本当は「自己受容」の可能性を奪われているのではないでしょうか。生きるために一番大切なのは、自分自身を受け入れることにより、他者をも受容する心です(マタイ22:39)。

3.《心で踊ろう》 中国の古典の一節に「何事も一皮ばかりで分別し…」とあり、上辺ばかりを取り繕う愚かさを批判しています。「一皮」によって「本当の姿」が覆い隠されてしまうのです。他人ばかりか自らをも欺くことになるのです。現代では、鎧兜に身を固める人はいませんが、誰もが「理論武装」しています。自己正当化のための装いです。正しさや強さ、賢さや立派さ、健康や有能さをアピールするのです。ところが、必死に自己正当化しているつもりが、ありのままの自分を受容し肯定することが出来ないでいるのです。「茨の中に種を蒔くな」と教えられています。自らを茨で覆うべきではありません。武装を解かなければ、折角の神の恵みも神の怒りと化してしまいます。『Shall we ダンス?』には「ダンスはステップではなく、心で踊るのよ」という台詞もありました。

朝日研一朗牧師

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2014年08月25日

生まれ変わる、その時【ルカ7:36〜50】

聖句「イエスは女に、『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』と言われた。」(7:50)

1.《神学生に教えられ》 代務をしている教会で葬儀がありました。準備の慌しさの中で未亡人が取り残され、実習の神学生が所在無げに座っていました。ご夫人は他に語るべき相手もなく、傍らの神学生に召された夫との人生を語ります。術を知らぬ神学生は、頷きつつ聞くばかりでした。後日、彼女が「神学生にどれだけ癒されたか分からない」と感謝を語りました。聞くことしか出来ぬ神学生が図らずも彼女の思いの全てを受け止めたのです。

2.《試練の中での経験》 私は「網膜色素変性症」という疾病のために視力を失いました。その頃、偶然出会った牧師に愚痴を聞いて頂く機会を得ました。神さまの話も聖書の話もせずに、週に一度ただひたすらに愚痴を聞く牧師。いつしか私は知らず知らずに生きる力を取り戻し、自分から聖書を開いていました。それまで殆ど涙を見せることのなかった私が、思わず号泣してしまったのが、本日の聖書の箇所です。ここは、私にとって、とても大切な箇所の1つです。

3.《生まれ変わる》 3人の人物が登場します。主イエス・キリスト、ファリサイ人のシモン、そして「罪深い」とされる女性です。この3人の間に出会いがありました。しかし、シモンはその出会いに深い関心も意識も抱きませんでした。しかし、「罪深い」とされる女性は、主イエスを聖なる方と信じ、主のすべてを受け入れました。また、主イエスも、当時受け入れ難いとされていた「罪深さ」を持つ女性を罪もろともにすべて受け入れたのです。その出会いの中で、女性は罪を赦され生まれ変わります。人が生まれ変わり、新しい人生へと押し出されて行く、その時そこに愛の業、即ち「すべてを受け入れる」神の業があり、神の業の器としての人がいます。私たちキリスト者は常に神の業の器として、出会いの中で隣人の「すべてを受け入れる」ことに努めていきたいものです。

筒井昌司牧師(下松教会)

posted by 行人坂教会 at 21:48 | 毎週の講壇から