2014年12月15日

目覚めても夢を信じて【マタイ1:18〜25】

聖句「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じた通り、妻を迎え入れ、…そして、その子をイエスと名付けた。」(1:24,25)

1.《非常識と嘘》 皆さんはサンタクロースの存在を信じていますか。我が家の二男は中学生ですが、今年もサンタへのお便りを書いて玄関の壁に貼っています。「サンタさんを信じている人の所に、サンタは来るのだ」と教えた親もあります。全くその通りなのです。信じなければ、来る者も来ないのです。

2.《奇跡と偶然》 所謂「処女懐胎」も常識では理解できないことです。「嘘だ」と言う人が普通です。また、科学的に実証できると主張する根本主義者も本末転倒です。キリスト降誕そのものが常識外れな出来事だったのです。有り得ないような神の愛の奇跡を物語ろうとしているのです。「奇跡など信じない」という態度は珍しくありません。何か善い事があっても「偶然」と受け止めるのでしょう。その意味では、奇跡を信じない人には、奇跡は決して起こらないのです。信じなければ、起こるものも起こらないのです。普通に考えれば、奇跡などは「有り得ない」のです。しかし、それだからこそ「有り難い」のです。それ故にこそ、嬉しいし、感謝の心も自然と湧き上がって来るのです。

3.《決断と応答》 ヨセフにとっても、マリアの妊娠はショックでした。積み立てていた10シェケルもの「花嫁購入金」を支払って、漸く婚約が成立し、1年間の婚約期間が始まったばかりでした。不義密通を訴えれば、婚約解消は可能でしたが、マリアの命はありません。そんな時、夢に天使が顕われて御言葉を告げたのです。私たちならば、目が覚めて「何だ、夢か」と落胆する場面ですが、ヨセフは命じられた通りに、マリアを妻として迎え入れたのです。「神の声を聞く」のは「聞いて決断する」ことです。人が聞く場合だけではなく、神が人の祈りを聞き届けて下さる場合にも使われます。対話的な語なのです。人間が呼び掛けに応えて生きる人格をもった存在であるから、神は語り掛けて下さるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:00 | 毎週の講壇から

2014年12月08日

わたしたちは平和の道を【イザヤ2:1〜5】

聖句「多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私たちに道を示される。私たちはその道を歩もう』と。」(2:3)

1.《クリスマスの停戦》 英国の短編アニメ『戦場のキックオフ』は、第一次大戦時、塹壕戦をしていた英独軍の兵たちがクリスマスを迎えて、無人地帯でサッカーを始めてしまう物語です。これは実話ですが、「クリスマス停戦」は奇跡のように末端の兵たちから生まれた出来事なので、公式記録には存在しなかったのです。

2.《戦国のクリスマス》 1566年(永禄9年)には、日本でも「クリスマス停戦」が行なわれていたのです。大和国の松永弾正と摂津国の三好三人衆とが、和泉国の堺で戦火を交え、膠着状態になりました。宣教師から降誕節のことを伝え聞いた弾正は、両陣営にキリシタン武士が多数いたことから停戦を提案したのです。フロイスによれば、堺の町衆の会合所で盛大なミサが行なわれ、午後には、武士たちが宴会を催し、敵味方の区別無く招き合ったそうです。停戦それ自体は素晴らしいのですが、彼らの本当の目的は喜びや和解にはありませんでした。弾正は戦況不利と見て利用したのですし、キリシタン武士たちにしても、未信者や宣教師に向けて信仰の鑑を演じて見せただけだったのです。

3.《打ち砕かれた武器》 年頭所感で安倍晋三首相は「強い日本を取り戻す」と述べましたが、我が自衛隊を米軍の捨て駒とする「集団的自衛権」発動の要件も「特定秘密保護法」の下に置かれてしまいました。武力を正義とし、戦争抑止もまた軍事力とする考えから、未だに私たちは脱却できません。「剣を鋤、鑓を鎌」はNY国連本部ビル正面「イザヤの壁」に刻まれています。「剣」は軍備と武器、「鑓」は統帥権と覇権主義です。それに対して、ヘブル語の「打ち直す/キテト」は「粉々にする」です。冶金技術によって加工を施す程度ではありません。「再利用」「平和利用」「リサイクル」等という語さえも欺瞞と看做して突き放す激烈な語です。神が先ず御自らの御子を打ち砕かれたことを忘れてはなりません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:00 | 毎週の講壇から

2014年12月01日

星を数えて砂漠に立つ【創世記15:1〜6】

聖句「主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』」(15:5)

1.《夜空の明るさ》 環境省の「星空日本一」に選ばれた地域を調べていて、「夜空の明るさ」とは、即ち「夜空の暗さ」のことであると、改めて気付かされました。大都会では「光害」と大気汚染、高層ビルの多さで星空を見ることが出来ません。私たちは星空の失われた、とても暗い街に暮らしているのです。

2.《星の導く世界》 御降誕の時、東から来た占星術の学者たちを幼子のもとに「ベツレヘムの星」が導いたと書いてあります。星が動いたのではなくて、この地球が動いていたのでしょう。現代なら、そのように合理的に説明できます。しかし、聖書の世界の人たちは、天体を生き物と考えていたのです。「占星術/アストロロギア」とは「星/アストロン」の「言/ロゴス」を読み取る技術です。「天文学/アストロノミア」が「星/アストロン」の「法則/ノモス」を説明するのとは対照的です。天文学が物理を探求するのと違い、占星術は魂を扱うのです。アブラハムは、古代文明と占星術の発祥の地、カルデアのウルの出身です。彼もまた、「星の言」に耳を傾けようとする気持ちは強かったはずです。

3.《星を数える心》 アブラハムとサラの夫婦には子がありませんでした。跡を継ぐ者がいないことは、大変な悲劇なのです。受け継ぐものは、土地財産や血筋だけではありません。文化や言語、家業や技術、伝統や経験、信仰や信条、生き方や志も、人間は継いで行くのです。途絶えれば、もう再生は出来ないのです。今や日本国中に、更地になった家屋敷、荒れ果てた田畑や山林が溢れています。里山は消滅し、多くの集落が限界を迎えています。継ぐ者がいないということは、個人的な問題ではないのです。「私には跡継ぎがいません」と呻くアブラハムを神は外に連れ出して、広大無辺の星空をお見せになります。「これがあなたの子孫だ」と言われるのです。星空に過去ではなく、未来を見るように仰るのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:00 | 毎週の講壇から

2014年11月24日

豚に真珠!【マタイ7:6】

聖句「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏み躙り、向き直ってあなたがたに噛み付いて来るだろう。」(7:6)

1.《猫に小判》 エジプトのファラオ、ネコ2世の他に、聖書に猫は出て来ないと思っていました。ところが、カトリックが正典にしている旧約聖書続編「エレミヤの手紙」には、蝙蝠や燕と並び、猫が登場して、神殿の偶像の上を歩き回ります。猫を飼う習慣はエジプトから世界中に広がりました。『不思議の国のアリス』のチェシャ猫から『妖怪ウォッチ』のジバニャンまで、キャラ化が多いのは、それだけ擬人化し易いのでしょう。私たちは猫に人間の姿を投影しているのです。

2.《犬に小判》 「猫に小判」は「たとえ金の小判のような値打ち物でも、猫が持っていたのでは何の役にも立たない」という意味です。「犬に小判」という諺もあったそうです。福音書が「犬に与えてはならない」と言う「神聖なもの」とは、神殿に奉げられた供え物の肉です。神殿に仕える祭司だけが食べることを許されていました。要するに「聖別された物」を「犬畜生」に与えるなという教えです。ペットを我が子のように愛する人の数多い現代と異なり、聖書の時代には、犬も猫も「汚れた動物」と見なされていたのです。

3.《豚に真珠》 当教会では、収穫感謝日の愛餐会は豚汁が恒例ですが、聖書の世界では、豚は犬猫以上に汚れた動物と考えました。食べるどころか、触れることすらタブーでした。豚の家畜化は中国から広がりましたが、中近東では受容されませんでした。「豚に投げるな」と言われる「真珠」は「天国」の象徴です。十字架の尊さ、有難さ、「天国」の価値の分からない私たちもまた、犬猫豚に過ぎないのかも知れません。しかし、イエスさまは、そんな私たちを愛して命を捨てて下さいました。「詩編」36編は「主よ、あなたは人をも獣をも救われる」と歌っています。そこに「ノアの箱舟」の物語の意味もあります。神さまは全ての被造物を救われるのです。御自分が産み出したが故に、愛して居られるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:21 | 毎週の講壇から

2014年11月17日

見たこともないのに【Tペトロ1:3〜9】

聖句「あなたがたは、キリストを見たこともないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れています。」(1:8)

1.《目視と確認》 19世紀米国の詩人エミリ・ディキンソンは、生家を出ることなく生涯を終えた人でした。しかし「荒野をみたことがないがヒースを知っている/神と直接話したことはないが天国を知っている」という詩を書いています。私たちは国内外を問わず、遠方に旅行し「見て来た」と言います。何でも目で見て確認しなければならない、視覚偏重の社会なのです。それは、工場労働者が「目視と確認」を義務づけられる産業社会特有の現象なのではないでしょうか。

2.《見ると知る》 本当は「見る」と「知る」とは余り繋がっていないのではないでしょうか。旧約聖書の「知る」という語は、単に「理解する、悟る」程度ではなく、「まぐわう、愛する」という意味さえあるのです。本当に「知る」とは、体験として「知っている」ことなのです。マルグリット・デュラスの『ヒロシマ私の恋人』は、戦後の広島に映画ロケに訪れたフランス人女優と日本人建築家との対話で構成されていますが、「私はヒロシマを見た」と語る彼女に、彼は「君はヒロシマで何も見なかった。何も」と応えるのでした。

3.《不合理故に》 この手紙が書かれたのは、ドミティアヌス帝の迫害時(1世紀末)かトラヤヌス帝の迫害時(2世紀初め)と推測されています。もはや、イエスさまに直接お会いした人たちではないのです。その意味では、私たちと同じ立ち位置にあります。私たちはキリストを見たことがありませんが、キリストを信じていているのです。「見たこともないのに信じるのか?」と不信者から嘲笑されても、信じて行こうとしています。テルトゥリアヌスは「不合理なるが故に我信ず」と言いました。知性を犠牲にして、無理に信じ込むのではありません。むしろ、私たちの知性の限界を自覚した上で、それを超える御心を思う時、「言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れる」のです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:42 | 毎週の講壇から

2014年11月10日

アーメン【ヨハネ3:1〜15】

聖句「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』」(3:3)

1.《20世紀少年》 浦沢直樹の長編マンガ『20世紀少年』は、60年代末から70年代初めに小学生だった世代の成長を描いた群像劇です。その物語の核と成るのが、「サダキヨ」と呼ばれるイジメられっ子で、いつも「ナショナルキッド」のお面を被っていて、校舎の屋上で宇宙人と交信しようとしています。宇宙人を召喚する呪文が「アーメンソーメン、ヒヤソーメン」なのです。キリスト教を揶揄した言葉遊びには違いありませんが、何か「アーメン」には魅力があるのです。

2.《真理の証し》 ハリストス正教会では「アミン」と唱和します。映画『野のユリ』にも描かれたように、米国南部の人は「エイメン」と発音します。「アミン」はギリシア語の、「アーメン」はヘブル語の発音に忠実です。教会では、祈りも讃美歌も「アーメン」と終わります。聖書の中にも多くの「アーメン」が出て来ますが、「ヨハネによる福音書」では、イエスさまが真理を証しする際に、必ず「アーメン、アーメン/はっきり言って置く」と宣言されます。「アーメン」は「真理」に関わる語なのです。私たちには一片の真もありません。しかし、そうであればこそ、神さまの真理(救いの約束)に信頼して行くのです。

3.《栄光を頌む》 「主の祈り」の頌栄「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり」は、福音書にはありません。しかし、「ルター訳」や「欽定訳」、日本語でも「明治元訳」にはあったのです。これらは「中世ビザンチン写本」を底本にしていたのです。古い写本に無かった頌栄が加えられたのは、古代教会の信徒入門書「十二使徒の教え/ディダケー」の影響とされています。「なればなり」は「だからです」、「主の祈り」の全体の6つの祈りに掛かっています。しかし、ルターは前段の「悪の誘惑」に特に掛けて、自らのために「国と力と栄光」を得ようとすることは、悪魔の誘惑の典型であると喝破しています。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 23:38 | 毎週の講壇から

2014年11月04日

もう泣かなくてもよい【ルカ7:11〜17】

聖句「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると…」(7:13,14)

1.《死は愛である》 知的障碍のある子どもたちの施設「止揚学園」を創設した福井達雨先生は、牛小屋や物置、屋根裏など家の片隅に追いやられていた子たちと出会って、誰もが胸を張って生きる社会を創らねばと決意したそうです。学園創立から52年を経た今では、学園の冊子にも追悼文が多く掲載されるようになっています。「死は愛である」と書いて居られました。「葬儀の時に、私たちが優しい心にさせられるのは、死が優しい心を秘めているからではないか?」と仰るのです。

2.《ナインの寡婦》 イエスさま一行がナインの町に入ろうとした時、町の門から弔い行列が出て来ました。ユダヤ教では、死体に触れた者は日没まで汚れるとされていました。だから、弔いの参列者は最初から夕暮れまで町に戻らぬ所存でした。葬列は女性が先導する仕来りでした。「この世に死を導きいれた者」は女性である(「創世記」のエバ)が故に、葬列を導くのは女性の役目とされていたのです。それにしても、一人息子を亡くした寡婦が先導する等、悲嘆の極みです。

3.《手当てする主》 聖書で「孤児と寡婦」と言えば、社会的弱者の象徴です。しかし、お金が無くても葬儀は出さざるを得ません。そして、葬儀には金が掛かるのです。悲しみの中で、その手配もしなくてはなりません。当時は「棺」と言っても「戸板」のような物でした。遺体に触れたら汚れるので、無関係な人が触れぬように、警告のために「泣き女」「笛吹き」が雇われていたのです。しかし、イエスさまは近づいて、御手を置かれたのです。誰もが触れたがらない所にこそ、一番大きな悲しみと孤独があるからです。それ故の「手当て」です。「憐れみ」はギリシア語でも「内臓」を意味し、そこに「心」が宿っていると、古代の人たちは考えていました。一番、痛みを感じている所に心を向け、手を置かれたのです。「寡婦」もアラビア語の「痛みを感じる」の語と繋がっているそうです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 06:56 | 毎週の講壇から

2014年10月28日

試練の逃げ道 【Tコリント10:12〜13】

聖句「神は真実な方です。…試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(10:13)

1.《試練の道》 アニメ『巨人の星』の主題歌「行け行け飛雄馬」は「思いこんだら試練の道を行くが男のド根性」という歌い出しでした。「試練の道」を歩む理由は「思い込み」なのです。しかし、「経済優先」も「人命尊重」も単なる思い込みであるという点で、何ら変わるところはありません。問題は、その信念や信仰、価値観や理念が自らと社会を改善するものであるかどうかです。「右に倣え」をせずに、自分の信念に従うことは、この世では「試練の道」なのです。

2.《出口あり》 他の人の真似をするのではなく、自分が自分らしく生きようとすることは、その段階で既に「試練の道」なのです。「試験」や「試合」を目標に日夜努力するのが「試練」です。ギリシア語の「試みる」にも「やってみて御覧」という励ましが含まれています。「逃れる道」が用意されていると言っても、ズルする「抜け道」ではありません。「出口、終わり」という意味です。道行は辛くても必ず出口があるのです。「雌伏」の時があり「雄飛」の時があるのです。

3.《コンダラ》 「主の祈り」の最後は「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え」です。「ペイラスモス」には「試練」と「誘惑」の意味があります。「悪しき者」とは「サタン」ですから、本当は「誘いに遭わせず」と訳すべきです。この世には「耐え難い苦しみ」があります。その渦中にある当事者に対して「耐えられない試練はない」等と説教するのは持っての他です。当事者が乗り越えられた時、初めて「試練」と言えるかも知れませんが、部外者が不条理な苦難を「試練」と呼ぶのは間違いです。野球グラウンドの整地ローラーを「コンダラ」と言います。『巨人の星』の主題歌を「重いコンダラ」と聞き違えたところから、その俗称が広まったそうです。私たちの人生は「重いコンダラ」を押して進む「試練の道」かも知れません。しかし、イエスさまが一緒に押して下さいます。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 06:28 | 毎週の講壇から

2014年10月20日

わたしはかとりせんこう【コヘレト1:18】

聖句「知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す。」(1:18)

1.《「可」取り》 疎開した1年を除けば、下目黒の生家で少女時代を過ごしました。小さい頃は、二卵性双生児と言われるくらい弟と似ていました。しかし、私は運動が上手く出来ず、通信簿で体操に「可」(当時の落第ギリギリ)を点けられてしまいました。兄姉たちから「可取りせんこう」とあだ名を付けられ、その時、いつか見返してやろうと心に決めました。その思いが私を、苦手な運動や英語の勉強に向かわせたのでしょう。

2.《教会に行く》 信州の疎開から戻ると、東京は一面焼け野原で、生家の焼け跡にコスモスが咲いていました。闇市で買った「クリスマスの表紙の本」は、実は聖書でした。弟に導かれ、行人坂教会で私も受洗しました。「聖書のことが分からない」と受洗を渋る私に、木村知己牧師は「宗教学者になりたいの?」、「自分は未熟だし」と言えば「道徳家になりたいの?」、「大切なことは、イエス・キリストを信じることだけ」と諭されて入信しました。しかし、洗礼を受けても世界が変わった訳もなく、次第に教会と距離が出来てしましました。

3.《40歳の出発》 夫から、G・オニールの『40歳の出発』という本をプレゼントされて、一念発起しました。夫や子のために生きて来た自分の人生をギアチェンジすることを勧められていたのです。「可取りせんこう」汚名返上のために、日夜祈り、運動と英語の勉強をし、米国のボール州立大学で日本語を教える傍ら、米国経済史を勉強するチャンスが与えられました。お世話になったホストファミリーの2家族からも、第一長老教会、ユニテリアンと、それぞれに豊かな信仰を垣間見ることが出来ました。今は「聖書と祈りの集い」を生活の中心にしています。聖書を読んで語り合う中で、聖書は奥が深く、簡単な答などなく、むしろ、何が神の御心なのか問い続けることの大切さを学んでいます。老いと筋力の衰えを実感する昨今ですが、最後のステージにあっても前向きに生きたいと思います。

阿部弘子

posted by 行人坂教会 at 12:17 | 毎週の講壇から

2014年10月13日

491回目のゆるし【マタイ18:21〜35】

聖句「イエスは言われた。『あなたに言っておく。7回どころか7の70倍までもゆるしなさい。』」(18:22)

1.《七の七十倍》 その昔『491』というスウェーデン映画がありました。非行 

 少年と共同生活を営むことで、彼らの自主的な更生意欲を高めようという社会実験が行なわれるのですが、却って、少年たちは増長して、その試みは無残な失敗に終わるのです。その題名は「7の70倍までゆるしなさい」という聖書のもじりです。計算すると「7×70=490」ですから、少年たちの悪行がゆるしの限度を超えているということを表現していたのでしょう。

2.《倍返しだ!!》 昨年の流行語大賞はドラマ『半沢直樹』の「倍返しだ!!」でした。支店長には「10倍返し」、常務には「百倍返し」とエスカレートしましたが、「倍返し」と同じ発想が「創世記」にあります。「カインのためには7倍の復讐」、その末裔「レメクのためには77倍」と歌われるのです。ペトロの「7回ゆるし」、イエスさまの「70倍ゆるし」(77倍とも)はその裏返しです。当時は「仏の顔も三度」でした。それを「7回」と完全なゆるしを言うペトロに対して、主は「際限のない復讐に対抗するには、際限のないゆるしを」と仰るのです。

3.《踏み出す力》 「主の祈り」の「我らに罪を犯す者を我らが許す如く、我らの罪をも赦し給え」は、私たちの喉に刺さった小骨のようです。カルヴァンは「神でない我々は赦せはしない。忘れるのみだ」と言いました。確かに、ゆるしは神の御業です。にも拘わらず、この祈りが加えられているのは、私たちに神を信じて一歩前に進むことが促されているのです。終戦直後の韓国の教会では「日本憎し」の思いが強く、礼拝の中で泣きながら唱えたと聞きました。そのような真剣さが私たちにあるでしょうか。人が許せなくても神は赦して下さるのです。もしも、この祈りを唱える時、私たちが居心地の悪さで感じるとすれば、それは、私たちが十字架のイエスさまの御前に立たされているからに他なりません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:49 | 毎週の講壇から