2015年01月12日

とりなしの祈り【ローマ8:31〜39】

聖句「復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(8:34)

1.《暴言者》 昔の牧師は、今の牧師よりも権威があったので、信徒の崇敬を集める反面、時に暴言を吐くことも多かったように思います。N教会の信徒、Sさんは尊敬するT牧師から「お前は音痴だから讃美歌を歌うな」と言われて以来、数十年間、「口パク」で礼拝の讃美歌に参加していました。

2.《偽善者》 C教会で長く役員を務めたAさんは、B牧師から「あんたの祈りは『執り成しの祈り』ではなくて『取り柄なしの祈り』」と笑われて、自ら役員を退かれました。このような出来事は、私にも他人事とは思われません。振り返れば、私の発言や振る舞いによって不愉快な思いを為さった信徒が大勢おられたであろうことが思われます。教会生活に限らず、一般の社会生活においても同じです。私たちは、このようにして、お互いに数多くの恨みを作りながら生きているのです。生き物から命を奪わないでは生きられないのと同様、争わず温和に暮らしているつもりであっても、誰かを傷付けながら、「私」という者は存在しているのです。せめて、その自己認識だけは忘れないようにしたいと思うのです。

3.《仲保者》 自らの偽善性、欺瞞、独善に気付くことで、私たちは、そこから解放され、脱出することが出来るのです。むしろ、それを見据えなければ、永遠に壁の中です。必ず乗り越えられるのです。そのように、確信を持つことが出来るのは私たちには「神の愛」と「キリストの執り成し」が与えられていると信じるからです。十字架は人と人、神と人とを繋ぎます。その中心には、神の子でありながら人として生きられたイエスさまが居られます。イエスさまは「中の人」でした。無責任な立場から正論を語る人、無関係、部外者を標榜しつつ批判する者たちと違い、主は自ら関係者となって、私たちの罪に連帯して行かれるのです。そのイエスさまの執り成しを原点として、私たちも祈って参りましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:00 | 毎週の講壇から

2015年01月06日

恵みの年とするために【ルカ4:16〜30】

聖句「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、…圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(4:18,19)

1.《テゼ共同体》 第二次大戦の最中、ロジェ・シュッツという人がブルゴーニュ地方の寒村で祈りと労働の生活を始めました。ロジェは、ナチスの迫害を逃れて来た人たちをスイスへと逃亡させる支援を始めました。戦後、超教派による修道会を発足、各国の青年たちと共に祈る「テゼ共同体」が生まれたのです。

2.《ヨベルの年》 「讃美歌21」には「テゼ」の歌が11曲も入っています。ラテン語の歌詞が添えられているのは「テゼ」の中立性を表わしています。49番「全地よ主をほめうたえ」の「ユービロー/喜ぶ」は「ユービラェウス/記念の年」から来ています。英語の「ジュビリー」ですが、ヘブル語の「ヨベル」を語源としています。50年に1度「ヨベル/雄羊の角笛」を吹いて、その到来を告知したのです。その「ヨベルの年」には、一切の農業生産の停止、先祖の土地への帰還、奴隷解放、土地財産の無償返却が行なわれたのです。今なら、不動産業者と貸し金業者は軒並み倒産です。しかし、土地も人間の命も神さまからお預かりしているものなのです。「誰のものでもない」のです。

3.《パーソナル》 単なる昔話ではなく、近年、アフリカ・キリスト教協議会の呼びかけで「ジュビリー2000」運動が展開されました。イエスさまも、ローマ帝国の一極支配(グローバリズム)の中で、「ヨベルの年」の価値観をもって、ローマの押し付けて来るワールドスタンダードに対抗しようとされたのです。現代世界は、人口の1%の富裕層が全世界の富の半分を独占しています。その一方で、貧困と飢餓、虐待や搾取に苦しめられている人たちが大勢います。格差の拡大は他人事ではありません。大きな潮流の中で、無力感に襲われますが、どんなに巨大に見えても、この世は消え去るのです。「マス」に対抗するのは「パーソナル」です。神さまの為さる御業は全て、私たちの「人格」に関わることなのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 07:16 | 毎週の講壇から

2014年12月29日

あなたに平和があるように【ルカ2:8〜20】

聖句「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。…』」(2:10)

1.《クリスマス》 世の中では、クリスマスの季節が終わってしまったかのようですが、教会暦では、1月6日の「公現日」までの12日間、クリスマスの祝いが続きます。2月2日の「主の奉献の日」(神殿で献げられた日)に初めて、常緑樹の飾りを外して、代わりに?燭を立てる(キャンドルマス)教会もあります。

2.《天国と地獄》 そもそもサンタクロースも12月6日に来て、良い子にはお菓子を、悪い子には鞭を与えていたのです。文字通り「飴と鞭」です。ヘンリ・ナウエンは20世紀の霊性を代表する信仰者ですが、「私たちは、神を警察官かサンタクロースのように誤解しているのではないか」と問いかけます。罪を犯すと捕縛する警察官、良い事をすると御褒美をくれるサンタ…。でも、神は私たちの営業成績を診て、天国か地獄かを決めたりなさらない。神には憎しみも復讐心もなく、人間が罰せられる姿を見て喜ぶこともありません。ただ神は愛なのです。神は回復を望んで居られるのです。しかし、放蕩息子の父親のように、私たちにも愛を拒絶する自由意志を与えられたのです。地獄は私たちの選択です。

3.《大きな喜び》 年末に大掃除して穢れを祓い、年神様を迎える神道行事も、「除夜の鐘」が煩悩を払う仏教行事も、陰陽道の「厄除け」から来ています。「厄」は人生の季節の変化、変化には不調があり、災難もあります。キリスト教で「厄除け」に該当するのが「天には栄光、地に平和」です。何しろ「民全体に与えられる大きな喜び」なのです。自分たちだけの家内安全を願うのはエゴでしかありません。自己中心の価値観が世界全体を破滅させるのです。「大きな」は「長く高く広く豊かで驚くべき」の意味です。「御心に適う人にあれ」と言われる「平和」も、単なるスローガンや「絵に描いた餅」ではありません。「御心に適う人」は「主の喜び給う人」、神さまが「いいね」と微笑んで下さる生き方なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 22:26 | 毎週の講壇から

2014年12月22日

主はあなたと共に…【ルカ1:26〜38】

聖句「天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』」(1:28)

1.《リタさん》 NHK連続テレビ小説『マッサン』のモデルは、ニッカウヰスキーの創業者、竹鶴政孝とリタ夫人です。リタ夫人は余市教会付属幼稚園にも名前を残しています。ドラマの中では、赤ん坊を流産し、今後の出産は命取りと医師から告知されるのです。クリスマスは、とかく赤ん坊に注目が集まりがちですが、不妊症に悩むカップル、子供を亡くした人、望まぬ妊娠に悩む人もいるのです。

2.《辛い告知》 クリスマスとは「受胎告知」「誕生告知」の物語です。ヨセフもマリアも天使から告知を受けて悩みます。族長アブラハムならどんなに喜んだでしょう。しかし、2人は身に覚えのない、責任のない子を引き受けさせられるのです。皆から祝福されてお目出度い話ではありません。犬養道子の『一億の地雷、ひとりの私』の中に、ボスニア紛争の際に、数十名のセルビア兵に、何ヶ月にも渡ってレイプされ続け、妊娠して森の中に捨てられた、見習い修道女の手紙が紹介されています。彼女は、暴力と憎悪によって生を受けた自分の子が、愛と赦しの生きた証人、平和の建設者となるように育てたいと言うのです。

3.《神の道具》 マリアは天使の告知に促され、自分には何の責任もない子どもを産み、育てていくのです。そこにクリスマスがやって来るのです。その時、天使はマリアとヨセフに「主があなたと共におられる」と預言しているのです。マリアにとっては、ただ、恐ろしく不安なだけの告知なのです。それなのに、天使は「おめでとう」等と言っています。「万歳」「今日は」「喜べや」とも訳せます。所謂「アヴェ・マリア」です。少しも喜べませんが、マリアは「私は主の端女です。お言葉通り、この身になりますように」と応じて、引き受ける決心をするのです。「神の器」「神の道具」として我が身を差し出して行ったのです。その時、「主は共におられる」のです。これこそがクリスマスの奥義なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:00 | 毎週の講壇から

2014年12月15日

目覚めても夢を信じて【マタイ1:18〜25】

聖句「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じた通り、妻を迎え入れ、…そして、その子をイエスと名付けた。」(1:24,25)

1.《非常識と嘘》 皆さんはサンタクロースの存在を信じていますか。我が家の二男は中学生ですが、今年もサンタへのお便りを書いて玄関の壁に貼っています。「サンタさんを信じている人の所に、サンタは来るのだ」と教えた親もあります。全くその通りなのです。信じなければ、来る者も来ないのです。

2.《奇跡と偶然》 所謂「処女懐胎」も常識では理解できないことです。「嘘だ」と言う人が普通です。また、科学的に実証できると主張する根本主義者も本末転倒です。キリスト降誕そのものが常識外れな出来事だったのです。有り得ないような神の愛の奇跡を物語ろうとしているのです。「奇跡など信じない」という態度は珍しくありません。何か善い事があっても「偶然」と受け止めるのでしょう。その意味では、奇跡を信じない人には、奇跡は決して起こらないのです。信じなければ、起こるものも起こらないのです。普通に考えれば、奇跡などは「有り得ない」のです。しかし、それだからこそ「有り難い」のです。それ故にこそ、嬉しいし、感謝の心も自然と湧き上がって来るのです。

3.《決断と応答》 ヨセフにとっても、マリアの妊娠はショックでした。積み立てていた10シェケルもの「花嫁購入金」を支払って、漸く婚約が成立し、1年間の婚約期間が始まったばかりでした。不義密通を訴えれば、婚約解消は可能でしたが、マリアの命はありません。そんな時、夢に天使が顕われて御言葉を告げたのです。私たちならば、目が覚めて「何だ、夢か」と落胆する場面ですが、ヨセフは命じられた通りに、マリアを妻として迎え入れたのです。「神の声を聞く」のは「聞いて決断する」ことです。人が聞く場合だけではなく、神が人の祈りを聞き届けて下さる場合にも使われます。対話的な語なのです。人間が呼び掛けに応えて生きる人格をもった存在であるから、神は語り掛けて下さるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:00 | 毎週の講壇から

2014年12月08日

わたしたちは平和の道を【イザヤ2:1〜5】

聖句「多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私たちに道を示される。私たちはその道を歩もう』と。」(2:3)

1.《クリスマスの停戦》 英国の短編アニメ『戦場のキックオフ』は、第一次大戦時、塹壕戦をしていた英独軍の兵たちがクリスマスを迎えて、無人地帯でサッカーを始めてしまう物語です。これは実話ですが、「クリスマス停戦」は奇跡のように末端の兵たちから生まれた出来事なので、公式記録には存在しなかったのです。

2.《戦国のクリスマス》 1566年(永禄9年)には、日本でも「クリスマス停戦」が行なわれていたのです。大和国の松永弾正と摂津国の三好三人衆とが、和泉国の堺で戦火を交え、膠着状態になりました。宣教師から降誕節のことを伝え聞いた弾正は、両陣営にキリシタン武士が多数いたことから停戦を提案したのです。フロイスによれば、堺の町衆の会合所で盛大なミサが行なわれ、午後には、武士たちが宴会を催し、敵味方の区別無く招き合ったそうです。停戦それ自体は素晴らしいのですが、彼らの本当の目的は喜びや和解にはありませんでした。弾正は戦況不利と見て利用したのですし、キリシタン武士たちにしても、未信者や宣教師に向けて信仰の鑑を演じて見せただけだったのです。

3.《打ち砕かれた武器》 年頭所感で安倍晋三首相は「強い日本を取り戻す」と述べましたが、我が自衛隊を米軍の捨て駒とする「集団的自衛権」発動の要件も「特定秘密保護法」の下に置かれてしまいました。武力を正義とし、戦争抑止もまた軍事力とする考えから、未だに私たちは脱却できません。「剣を鋤、鑓を鎌」はNY国連本部ビル正面「イザヤの壁」に刻まれています。「剣」は軍備と武器、「鑓」は統帥権と覇権主義です。それに対して、ヘブル語の「打ち直す/キテト」は「粉々にする」です。冶金技術によって加工を施す程度ではありません。「再利用」「平和利用」「リサイクル」等という語さえも欺瞞と看做して突き放す激烈な語です。神が先ず御自らの御子を打ち砕かれたことを忘れてはなりません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:00 | 毎週の講壇から

2014年12月01日

星を数えて砂漠に立つ【創世記15:1〜6】

聖句「主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』」(15:5)

1.《夜空の明るさ》 環境省の「星空日本一」に選ばれた地域を調べていて、「夜空の明るさ」とは、即ち「夜空の暗さ」のことであると、改めて気付かされました。大都会では「光害」と大気汚染、高層ビルの多さで星空を見ることが出来ません。私たちは星空の失われた、とても暗い街に暮らしているのです。

2.《星の導く世界》 御降誕の時、東から来た占星術の学者たちを幼子のもとに「ベツレヘムの星」が導いたと書いてあります。星が動いたのではなくて、この地球が動いていたのでしょう。現代なら、そのように合理的に説明できます。しかし、聖書の世界の人たちは、天体を生き物と考えていたのです。「占星術/アストロロギア」とは「星/アストロン」の「言/ロゴス」を読み取る技術です。「天文学/アストロノミア」が「星/アストロン」の「法則/ノモス」を説明するのとは対照的です。天文学が物理を探求するのと違い、占星術は魂を扱うのです。アブラハムは、古代文明と占星術の発祥の地、カルデアのウルの出身です。彼もまた、「星の言」に耳を傾けようとする気持ちは強かったはずです。

3.《星を数える心》 アブラハムとサラの夫婦には子がありませんでした。跡を継ぐ者がいないことは、大変な悲劇なのです。受け継ぐものは、土地財産や血筋だけではありません。文化や言語、家業や技術、伝統や経験、信仰や信条、生き方や志も、人間は継いで行くのです。途絶えれば、もう再生は出来ないのです。今や日本国中に、更地になった家屋敷、荒れ果てた田畑や山林が溢れています。里山は消滅し、多くの集落が限界を迎えています。継ぐ者がいないということは、個人的な問題ではないのです。「私には跡継ぎがいません」と呻くアブラハムを神は外に連れ出して、広大無辺の星空をお見せになります。「これがあなたの子孫だ」と言われるのです。星空に過去ではなく、未来を見るように仰るのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:00 | 毎週の講壇から

2014年11月24日

豚に真珠!【マタイ7:6】

聖句「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏み躙り、向き直ってあなたがたに噛み付いて来るだろう。」(7:6)

1.《猫に小判》 エジプトのファラオ、ネコ2世の他に、聖書に猫は出て来ないと思っていました。ところが、カトリックが正典にしている旧約聖書続編「エレミヤの手紙」には、蝙蝠や燕と並び、猫が登場して、神殿の偶像の上を歩き回ります。猫を飼う習慣はエジプトから世界中に広がりました。『不思議の国のアリス』のチェシャ猫から『妖怪ウォッチ』のジバニャンまで、キャラ化が多いのは、それだけ擬人化し易いのでしょう。私たちは猫に人間の姿を投影しているのです。

2.《犬に小判》 「猫に小判」は「たとえ金の小判のような値打ち物でも、猫が持っていたのでは何の役にも立たない」という意味です。「犬に小判」という諺もあったそうです。福音書が「犬に与えてはならない」と言う「神聖なもの」とは、神殿に奉げられた供え物の肉です。神殿に仕える祭司だけが食べることを許されていました。要するに「聖別された物」を「犬畜生」に与えるなという教えです。ペットを我が子のように愛する人の数多い現代と異なり、聖書の時代には、犬も猫も「汚れた動物」と見なされていたのです。

3.《豚に真珠》 当教会では、収穫感謝日の愛餐会は豚汁が恒例ですが、聖書の世界では、豚は犬猫以上に汚れた動物と考えました。食べるどころか、触れることすらタブーでした。豚の家畜化は中国から広がりましたが、中近東では受容されませんでした。「豚に投げるな」と言われる「真珠」は「天国」の象徴です。十字架の尊さ、有難さ、「天国」の価値の分からない私たちもまた、犬猫豚に過ぎないのかも知れません。しかし、イエスさまは、そんな私たちを愛して命を捨てて下さいました。「詩編」36編は「主よ、あなたは人をも獣をも救われる」と歌っています。そこに「ノアの箱舟」の物語の意味もあります。神さまは全ての被造物を救われるのです。御自分が産み出したが故に、愛して居られるのです。

朝日研一朗牧師

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2014年11月17日

見たこともないのに【Tペトロ1:3〜9】

聖句「あなたがたは、キリストを見たこともないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れています。」(1:8)

1.《目視と確認》 19世紀米国の詩人エミリ・ディキンソンは、生家を出ることなく生涯を終えた人でした。しかし「荒野をみたことがないがヒースを知っている/神と直接話したことはないが天国を知っている」という詩を書いています。私たちは国内外を問わず、遠方に旅行し「見て来た」と言います。何でも目で見て確認しなければならない、視覚偏重の社会なのです。それは、工場労働者が「目視と確認」を義務づけられる産業社会特有の現象なのではないでしょうか。

2.《見ると知る》 本当は「見る」と「知る」とは余り繋がっていないのではないでしょうか。旧約聖書の「知る」という語は、単に「理解する、悟る」程度ではなく、「まぐわう、愛する」という意味さえあるのです。本当に「知る」とは、体験として「知っている」ことなのです。マルグリット・デュラスの『ヒロシマ私の恋人』は、戦後の広島に映画ロケに訪れたフランス人女優と日本人建築家との対話で構成されていますが、「私はヒロシマを見た」と語る彼女に、彼は「君はヒロシマで何も見なかった。何も」と応えるのでした。

3.《不合理故に》 この手紙が書かれたのは、ドミティアヌス帝の迫害時(1世紀末)かトラヤヌス帝の迫害時(2世紀初め)と推測されています。もはや、イエスさまに直接お会いした人たちではないのです。その意味では、私たちと同じ立ち位置にあります。私たちはキリストを見たことがありませんが、キリストを信じていているのです。「見たこともないのに信じるのか?」と不信者から嘲笑されても、信じて行こうとしています。テルトゥリアヌスは「不合理なるが故に我信ず」と言いました。知性を犠牲にして、無理に信じ込むのではありません。むしろ、私たちの知性の限界を自覚した上で、それを超える御心を思う時、「言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れる」のです。

朝日研一朗牧師

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2014年11月10日

アーメン【ヨハネ3:1〜15】

聖句「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』」(3:3)

1.《20世紀少年》 浦沢直樹の長編マンガ『20世紀少年』は、60年代末から70年代初めに小学生だった世代の成長を描いた群像劇です。その物語の核と成るのが、「サダキヨ」と呼ばれるイジメられっ子で、いつも「ナショナルキッド」のお面を被っていて、校舎の屋上で宇宙人と交信しようとしています。宇宙人を召喚する呪文が「アーメンソーメン、ヒヤソーメン」なのです。キリスト教を揶揄した言葉遊びには違いありませんが、何か「アーメン」には魅力があるのです。

2.《真理の証し》 ハリストス正教会では「アミン」と唱和します。映画『野のユリ』にも描かれたように、米国南部の人は「エイメン」と発音します。「アミン」はギリシア語の、「アーメン」はヘブル語の発音に忠実です。教会では、祈りも讃美歌も「アーメン」と終わります。聖書の中にも多くの「アーメン」が出て来ますが、「ヨハネによる福音書」では、イエスさまが真理を証しする際に、必ず「アーメン、アーメン/はっきり言って置く」と宣言されます。「アーメン」は「真理」に関わる語なのです。私たちには一片の真もありません。しかし、そうであればこそ、神さまの真理(救いの約束)に信頼して行くのです。

3.《栄光を頌む》 「主の祈り」の頌栄「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり」は、福音書にはありません。しかし、「ルター訳」や「欽定訳」、日本語でも「明治元訳」にはあったのです。これらは「中世ビザンチン写本」を底本にしていたのです。古い写本に無かった頌栄が加えられたのは、古代教会の信徒入門書「十二使徒の教え/ディダケー」の影響とされています。「なればなり」は「だからです」、「主の祈り」の全体の6つの祈りに掛かっています。しかし、ルターは前段の「悪の誘惑」に特に掛けて、自らのために「国と力と栄光」を得ようとすることは、悪魔の誘惑の典型であると喝破しています。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 23:38 | 毎週の講壇から