2014年10月06日

良い物を食べよう【イザヤ55:1〜5】

聖句「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。私に聞き従えば、良いものを食べることができる。」(55:2)

1.《パンとおまんま》 関口パン、中村屋、進々堂、山崎パン、スワンベーカリーと、パン屋の創設者はキリスト教信仰と深く繋がっていました。そもそもパンはキリスト教信仰や聖書、礼拝儀式の中心的なシンボルでした。「主の祈り」の「日用の糧」には「今日のための」「存在のための」「生活のための」「必要なだけの」という含みもあります。その切実さを思えば、日本語の「まんま」でしょうか。まさに「きょうのまんまもかせでくなはりゃんせ」(山浦玄嗣訳)です。

2.《憐れみのパン》 「主の祈り」の「我らの祈り」の第一に挙げられているのは「我らの日用の糧」です。どんなにイエスさまが食べることを大切になさっていたか分かります。「パン」はヘブル語で「レヘム」と言いますが、「胎」という意味もあり、そこから「憐れみ」という語が派生しています。単なる「同情」ではなく「腸が痛む」程の「共苦」です。「五千人の養い」の記事で、イエスさまが「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれた」とはその意味です。「まんま」は「うまうま」ですが、ここでも「糧/パン」を「良い物」と言います。

3.《同じ食卓に着く》 神が招いておられるのは、イスラエルだけではなく、世界中の全ての人々です。食糧も水も価なくあげよう。お金の無い人も来るが良いと言われています。これは無銭飲食を奨励しているのではありません。私たちは労働の対価として賃金を得、それで糧を食べていると信じています。しかし、資本主義経済や消費社会は最近、人間がデッチ上げたシステムに過ぎません。そのシステムから外れて生活することは難しいのですが、絶対と信じ込む必要はありません。一旦括弧に入れてみてはどうでしょう。そこから、「私たち」の真の豊かさを考えましょう。どんなに豊かな食卓も「孤食」では命を得ません。「地球上の誰もが同じ食卓に着くことが出来ますように」という祈りなのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:24 | 毎週の講壇から

2014年09月29日

グッド・ウィル・ハンティング【ヨハネ6:34〜40】

聖句「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行なうためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行なうためである。」(6:38)

1.《善き意志》 映画『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』(1997年)は、天才的な頭脳を持ちながら無目的な生活を送っていた青年が、セラピストや友たち、恋人に支えられながら、幼児期の虐待のトラウマを乗り越えて、脱皮成長して行く物語です。題名の「ウィル・ハンティング」は主人公の名前ですが、「グッド・ウィル」には「好意」、「ハンティング」には「探求」の含みがあります。そして、神の「御心」以上の「グッド・ウィル/善き意志」はありません。

2.《中心の柱》 英訳「主の祈り」で「御心を成させ給え/Your will be done」と唱えると、断固たる口調に成ります。ギリシア語の「御心」も「テレーマ/意志」です。しかし、日本語の「心」には、どこまでも曖昧さが伴います。むしろ、私たちは躊躇いや迷いや揺らぎを大切にして来たのです。それは丁度、法隆寺五重塔の「心柱」が塔の小屋組みとは繋がっていないがために、揺らいでも倒れない構造に成っていることに通じます。動詞「テロー/するつもり」の新約聖書の最多の用例は「御心ならば」です。これこそが、信仰の「心柱」なのです。

3.《命のパン》 共観福音書の「ゲツセマネの祈り」に当たる箇所ですが、3章の「神はその独り子を賜う程に…」の説明でもあります。神の御心は何よりも愛、全ての人の救いであることが明記されています。更に、ここでは、イエスさまが御自らを「命のパン」を言い表わします。特に、35節は『アンパンマン』そのものです。神の御心は「あなたたちを飢えさせない」「あなたたちを養う」という強い意志だったのです。「永遠の命」と言えば、私たちは「この世のことならず」と来世を思い浮かべますが、実は「命のパン」による養いと繋がっているのです。「五千人の養い」の記事、「日用の糧を与え給え」との連続性もあるのです。「天から来たパン」の後に「地のパン」が言われているのです。

朝日研一朗牧師

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2014年09月22日

神の国は近づくか!?【マルコ1:14〜20】

聖句「イエスはガリラヤへ行き、神の国の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」(1:14,15)

1.《天国の駅》 豊中教会に派遣神学生で行っていた頃、子どもたちが唱える「主の祈り」で「御国を来たらせ給え」だけが異常に力が入っていました。尋ねてみると、彼らは「阪急宝塚線三国駅」のことだと思い込んでいたのです。このように聖書と信仰には勘違いが付きものです。キリスト教の歴史も聖書の誤読の上に積み上げられています。しかし、人生にも聖書にも「正解」はなく、「問いかけ」を生きることが求められているのではないでしょうか。

2.《漁師たち》 イエスさまの宣教の第一声は「神の国は近づいた」です。かなり唐突です。ここには「神の国」とは何かという定義も説明もありません。その意味でも、聖書は「教科書的」ではありません。普通ならば、このような人に付いては行けません。ところが、4人の漁師たちが網を捨て、父親と船子と船を捨てて付いて行ったのです。催眠術か魔法に掛けられたようです。しかも、付いて行ったのは、世間知らずの学生ではなく、ガテン系の労働者です。

3.《間にある》 「御国を来たらせ給え」は「来たらせよ、近づかせよ」という願いです。イエスさまの第一声も「神の国が近づいた」「神の国が来た」です。4人の漁師たちは、社会変革の時が来るのを、祈りながら、今や遅しと待ち望んでいた人たちだったのです。但し、彼らの思い巡らす「神の国」はこの世の王国の延長でしかありませんでした。彼らは誤解していたのです。しかし、イエスさまは読み間違えている人を敢えて選んで、弟子とされたのです。ここに、キリスト教信仰のダイナミズムがあります。気付きや悔い改めに価値があるのです。「御国はこの世のものではない」のですが、イエスさまは「あなたがたの間にある」とも言われています。「間に、只中に」は「手の届く範囲に」という意味です。「見えるものは見えないものに触っている」(ノヴァーリス)のです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 14:55 | 毎週の講壇から

2014年09月15日

神さまのコードネーム【ヨハネ3:16〜21】

聖句「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(3:18)

1.《暗号と愛称》 コードネームとは諜報機関などが使用する暗号名です。スパイ組織や秘密結社だけではなく、戦時下ともなれば、敵に知られないように、普段から暗号を使って連絡します。交戦中の敵国の兵器情報も不明ですから、味方間でも敵機に愛称を付けて呼び合ったりもするのです。太平洋戦争中、米軍が日本機に付けた愛称は女の子の名前、日本軍が米国機に付けた愛称は食べ物の名前が多いのは、とても興味深い現象です。

2.《名前の秘匿》 「名は体を表わす」はインド仏教唯識論の「名詮自性」から来ているそうです。聖書も同じ考え方をしています。登場人物には命名の物語があり、時には、名前が人生を反映します。人の名前が人格を表わすように、神の名前も神格を顕わすのです。従って、古代ユダヤ教では「みだりに唱えてはならない」として、神名は秘匿されていました。ヘブル語聖書には母音記号が付されていなかったので、何と発話するのか今も定かではありません。

3.《本当の名前》 ル=グウィンの『ゲド戦記』の中に、失意のドン底にある主人公ハイタカに、同期生のカラスノエンドウが自分の本当の名前を告げて励ます名場面があります。真の名を告げることは、自分の全てを差し出すことでもあり、告げられた者は、丸ごと相手を受け入れることなのです。聖書の神の名が秘匿されているのは、神が私たちを信用していないからではなく、自ら神の御名を求めていくことこそが、人生の意味だからです。「神の国と神の義とを求めよ」と言われる、その「御国を来たらせ給え」の前に「御名をあがめさせ給え」が置かれているのです。「あがめさせ給え」は「聖なるものとして取り扱われよ」です。神の御名は隠されていますが、私たちは「イエスの名によって」祈ることが出来ます。それは、どの部屋でも開けられるフロントのマスターキーなのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:41 | 毎週の講壇から

2014年09月08日

それじゃ、アバよ【ガラテヤ4:1〜7】

聖句「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、神よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」(4:6)

1.《我らの祈り》 「主の祈り」は、イエスさま直伝の唯一の祈りです。大変に有り難い祈りなのです。御子の祈りですから、父なる神に届かないはずはありません。しかし、ルターが「史上最大の殉教者」と言っているように、「主の祈り」程に頻繁に唱えられることで軽んじられた者はありません。古代エルサレム教会では会衆が共に唱和する祈りだったのですが、司祭の唱えるお経のようにされていたのを、再びプロテスタントが「我らの祈り」として取り戻したのです。

2.《天の下の子》 「天に在します我らの父よ」の「天」は複数形、旧約聖書に言う「諸々の天」です。どんなに遠い異国にあろうとも、どんな状況の下にあろうとも、仰ぐ天から神は見守って居られるのです。「天」は、私たちには見えない世界、私たちの手の届かない所という意味です。まさに「お手上げ」なのですが、それだからこそ祈るのです。そして、たとえ私たちには届かなくても、神さまは私たちに御手を伸ばして下さるのです。主の御手は届くのです。

3.《幼な子の心》 私たちは、イエスさまの受肉と受難、十字架の死によって罪から解放され「神の子」とされたのです。「神の子」と呼ばれるに相応しくない者でありながらも、主もまた「私の兄弟姉妹」と呼んで下さるのです。立派な人、義人が「神の子」ではありません。それは「律法」の論理です。そうではなく「天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、雨を降らせて下さる」と胸に刻みつけた人こそが「神の子」です。故に「福音」なのです。イエス御自身は神さまに「アッバ」と呼びかけられました。「父よ」等という格式張った呼びかけではなく、「アブアブ」と同じ幼児語です。御子イエスの霊を受けて、イエスさまと同じ心で、私たちが神に呼びかける時、聞いて下さるのです。まさしく「心を入れ替えて、幼な子のようになる」ことです。それは難しいことではありません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:05 | 毎週の講壇から

2014年09月01日

心の包皮を取り去れ【エレミヤ4:1〜4】

聖句「ユダの人、エルサレムに住む人々よ、割礼を受けて主のものとなり、心の包皮を取り去れ。」(4:4)

1.《一皮剝ける》 周防正行監督の映画『Shall we ダンス?』に登場するサブキャラ、青木富夫(竹中直人)は会社では、髪の毛の薄いのを気にしている冴えない中年男ですが、ダンスの時には鬘を付けて、情熱的なラテンを踊るのです。ところが、競技会の時、ライバルペアの心無い妨害に遭い、鬘が落ちそうになります。その時、ペアの叱責に吹っ切れて、彼は自ら鬘を投げ捨て、華麗なダンスを披露します。たま子先生が「一皮剝けたのね」と呟く名場面です。

2.《受け入れる》 私たちは皆、コンプレックスを抱えて生きています。そして、世の中には、それに付け込んで攻撃を仕掛けて来る人もいます。経済開発協力機構の調査結果によると、34ヶ国中、日本の教員が最も長時間労働を強いられていながら、最も自己評価が低いことが分かりました。本当は「自己受容」の可能性を奪われているのではないでしょうか。生きるために一番大切なのは、自分自身を受け入れることにより、他者をも受容する心です(マタイ22:39)。

3.《心で踊ろう》 中国の古典の一節に「何事も一皮ばかりで分別し…」とあり、上辺ばかりを取り繕う愚かさを批判しています。「一皮」によって「本当の姿」が覆い隠されてしまうのです。他人ばかりか自らをも欺くことになるのです。現代では、鎧兜に身を固める人はいませんが、誰もが「理論武装」しています。自己正当化のための装いです。正しさや強さ、賢さや立派さ、健康や有能さをアピールするのです。ところが、必死に自己正当化しているつもりが、ありのままの自分を受容し肯定することが出来ないでいるのです。「茨の中に種を蒔くな」と教えられています。自らを茨で覆うべきではありません。武装を解かなければ、折角の神の恵みも神の怒りと化してしまいます。『Shall we ダンス?』には「ダンスはステップではなく、心で踊るのよ」という台詞もありました。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:58 | 毎週の講壇から

2014年08月25日

生まれ変わる、その時【ルカ7:36〜50】

聖句「イエスは女に、『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』と言われた。」(7:50)

1.《神学生に教えられ》 代務をしている教会で葬儀がありました。準備の慌しさの中で未亡人が取り残され、実習の神学生が所在無げに座っていました。ご夫人は他に語るべき相手もなく、傍らの神学生に召された夫との人生を語ります。術を知らぬ神学生は、頷きつつ聞くばかりでした。後日、彼女が「神学生にどれだけ癒されたか分からない」と感謝を語りました。聞くことしか出来ぬ神学生が図らずも彼女の思いの全てを受け止めたのです。

2.《試練の中での経験》 私は「網膜色素変性症」という疾病のために視力を失いました。その頃、偶然出会った牧師に愚痴を聞いて頂く機会を得ました。神さまの話も聖書の話もせずに、週に一度ただひたすらに愚痴を聞く牧師。いつしか私は知らず知らずに生きる力を取り戻し、自分から聖書を開いていました。それまで殆ど涙を見せることのなかった私が、思わず号泣してしまったのが、本日の聖書の箇所です。ここは、私にとって、とても大切な箇所の1つです。

3.《生まれ変わる》 3人の人物が登場します。主イエス・キリスト、ファリサイ人のシモン、そして「罪深い」とされる女性です。この3人の間に出会いがありました。しかし、シモンはその出会いに深い関心も意識も抱きませんでした。しかし、「罪深い」とされる女性は、主イエスを聖なる方と信じ、主のすべてを受け入れました。また、主イエスも、当時受け入れ難いとされていた「罪深さ」を持つ女性を罪もろともにすべて受け入れたのです。その出会いの中で、女性は罪を赦され生まれ変わります。人が生まれ変わり、新しい人生へと押し出されて行く、その時そこに愛の業、即ち「すべてを受け入れる」神の業があり、神の業の器としての人がいます。私たちキリスト者は常に神の業の器として、出会いの中で隣人の「すべてを受け入れる」ことに努めていきたいものです。

筒井昌司牧師(下松教会)

posted by 行人坂教会 at 21:48 | 毎週の講壇から

2014年08月18日

身体を張って受け入れる【使徒言行録9:10〜20】

聖句「すると、主は言われた。『行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。』」(使徒言行録9:15〜16)

1、《なさけなさという助け》 初めて「統一協会」に出会ったのは、大学1年の夏。駅前で話しかけてきた女性信者の熱心さにひかれて、「教会」への招きに応じてしまった。夕食の時に、会を仕切る青年が熱心に話しかけてきた。「今のキリスト教は行き詰まっている。だが本物の救いに出会える世界がここにはある。一緒に来ないか。」二度と足を踏み入れなかった。何故?メシが貧弱だったから。夕食があれでは、健康を損なうぜ。でもその後三日間は自己嫌悪で外に出られなかった。理想に燃え、福音のために(実は福音ではない!)自分を投げ打っている人たちを見限ろうとしている。「おれは何と自分に甘い、ダメな奴であることか。」そのなさけなさが自分を守ったと知ったのは、何年も経ってからだった。

2、《回心のB面》 回心とは「こんなにダメな奴だった私が、イエスに出会い、人生やり直しました」?けれども今日の聖書を読むと、回心が時間的な幅のある出来事だとわかる。大事なことは「どれほど立派になったか」ではなく「その人の人生に、神がいかに深く関わっておられたか」である。大事なもう一点は、他者との出会い・交わりである。真の回心は必ず、隣人との出会いとなって現れる。サウロの回心がなければ、私たちがイエスを信じることもなかったかも知れない。回心によって、サウロの人生も変えられた。同胞からは目の敵にされ、異邦人からも憎まれた。苦しみを避けるために信仰を棄てることを、パウロはいつでも選べたはずだ。それでも棄てなかったのは「神様がわたしを選んだ」ことを受け入れていたからだ。その芯にある「受け入れられる」姿勢を、体を張ってパウロに教えたのはアナニアだった。

3、《大きな愛より小さな親切》 「マインド・コントロールの恐怖」の著者でもと統一協会の活動家、スティーヴ・ハッサンはある日、カルトの素人からミニ介入を受けた。そこで転換が起こったのではない。しかし「親切」という形の介入は、彼が脱洗脳するときの助けとなった。神が語りかけた言葉は、体温のある、人間同士の関係に戻し入れられることで、豊かに肉付けされる。小さな親切の背後に、確かな愛を感じ取れるようでありたい。

秋南教会牧師 安藤昭良

posted by 行人坂教会 at 10:17 | 毎週の講壇から

2014年08月11日

自己を中心に愛を叫ぶ【マルコ11:12〜14、20〜25】

聖句「イエスはその木に向かって『今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように』と言われた」(マルコ 11:14)

1、《自己中・逆切れ》 イエスは実がなる季節ではなかったいちじくの木に実を期待します。しかも、実がなっていないことを知ると、怒って木を枯らしてしまいます。「季節ではなかった」のですからいちじくの木に全く罪はありません。まさにここでのイエスは自己中であり、逆切れしてしまっています。なぜ、この不可解なイエスの行動を福音書は記録しているのでしょうか。

2、《聖書に聞け》 「わからない聖書箇所は聖書に聞け」とは、私が行人坂教会CS生徒時代に安田校長先生から教わり今でも大切にしている言葉です。同じ11章にヒントがたくさんあります。11章1節「棕梠の主日」の箇所で、民衆はイエスをローマ帝国をやっつけてくれる凱旋将軍のようにヒーローとして迎えますが、イエスはロバに乗ってやってきます。イエスに季節ではない期待をしていたのです。11章15節「宮清め」の箇所で、民衆はイエスを政治改革をしてくれるヒーローとして期待します。11章27節「権威についての問答」で、民衆はイエスを先代の悲劇のヒーロー、バプテスマのヨハネの再来ではないかと期待します。しかし、イエスはそのようなこの世的なヒーローではありませんでした。そのことがわかると、民衆はイエスを十字架につけて殺します。わずか数日後に、です。

3、《小さい十字架》 そう、枯らされたいちじくの木は十字架でありイエス自身を指し示しています。この不思議な記事は、受難の物語を煮詰めて凝縮したものであると思います。もちろん私たちは、いちじくの木を枯らしたことも、人を十字架につけて殺したこともありません。しかし、小さい意味での十字架…「自己中・逆切れ」を起こしてしまっているのではないでしょうか。

蒲生教会牧師 伊藤義経

posted by 行人坂教会 at 22:57 | 毎週の講壇から

2014年08月03日

塵に口をつけよ【哀歌3:22〜36】

聖句「塵に口をつけよ。望みが見出せるかも知れない。打つ者に頬を向けよ。十分に懲らしめを味わえ。」(3:29,30)

1.《大きな災厄》 聖書において「イスラエル」の名前は重要な語ですが、現代存在する「イスラエル国家」と単純に重ね合わすことは許されません。1948年の第一次中東戦争によって、先住のパレスチナ人を追い出して建国したのです。この時生まれた、数十万人規模の難民が「パレスチナ難民」です。彼らは、この出来事を「ナクバ/大破滅、大いなる災厄」と呼びます。現在、イスラエル軍が攻撃しているガザ地区の人口の3分の2は「パレスチナ難民」とその子孫です。

2.《どうして?》 「哀歌」の原題は「エーカー/どうして」です。母親の腕の中で息絶えて行く幼な子の姿、飢餓の余りに我が子を煮炊きして食べる女が描かれています。バビロン捕囚後の荒廃を描いた詩ですから、母親はエルサレム、子どもは残された住民の比喩でしょう。しかし、そのような凄惨な状況を「哀歌」の作者は実際に見たのかも知れません。ユダヤ教では、例年この季節に「哀歌」を読んで、バビロンやローマによる神殿破壊と虐殺、亡国の歴史を記念します。その悲惨な歴史を体験しているユダヤ人が、パレスチナ人を同じ目に遭わせていることに、私は人間の世界の闇の深さを思わないではいられません。

3.《軛を負う主》 原理主義は原理主義を呼びます。パレスチナの実権をハマースが掌握すると、自爆テロやロケット弾攻撃による報復が頻発しました。報復の連鎖です。テロリストは女子供を楯にするのも兵器です。それを撃つ側も病院や学校に砲撃をしても何も感じなくなります。「打つ者に頬を向けよ」は、イエスさまの非暴力抵抗の信仰と同じです。「哀歌」の他章がバビロン捕囚を歌っている中で、3章だけはセレウコス朝の宗教的迫害を念頭に置いた内省的な詩です。つまり、信仰者は如何に生きるべきかと、新約の信仰に近いのです。人間については、絶望するより他はありません。その告白が「塵を口につけよ」です。けれども、そこに、暴力の応酬、呪いの連鎖を破壊される主の十字架があるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 14:14 | 毎週の講壇から