2016年01月25日

七味に一味を加える【Uペトロ1:3〜11】

聖句「信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(1:5〜7)

1.《七味唐辛子》 江戸時代前期に漢方薬研究家の中島徳右衛門が開発したミックススパイス(混合調味料)です。生唐辛子、焼き唐辛子、芥子の実、麻の実、黒胡麻、粉山椒、陳皮が、中島が開発した当時の「七味」でした。世には「一味唐辛子」もありますが、これは乾燥唐辛子を粉末しただけの物です。「七味に一味を加え」ても唐辛子の分量が増えるだけです。

2.《七つの美徳》 聖書にも「七味/seven-flavor」が出て来ます。7つの徳が挙げられていますが、これを「徳目表/virtue list」と言います。冒頭の「信仰」は「入信」、信仰生活の始まりです。「徳」は「善行」へと一歩踏み出す勇気です。「知識」は神の御心を尋ねる「祈り」の心、「自制」は「貪欲」に対して、浪費を戒めます。「信心」は「敬虔」、神さまと共に歩む人生です。「兄弟愛」は「友愛」です。但し、これらは「ステージ/段階」ではありません。進級試験もありません。「七つの部屋」「七つの味わい」なのです。

3.《一手間の心》 この「七つの美徳」に終わりません。これらに「愛を加えなさい」と言われています。これらの徳目はいずれもイエスさまの十字架の愛に通じているのです。しかも「加える/エピコレーゴー」は「自分の費用で催す」という意味です。アマチュアの劇団や合唱団が自腹を切ってコンサートをするのと同じなのです。借り物ではなく、自前で、自分から積極的に関わって行くものなのです。料理などで「もう一手間を加える」「一手間掛ける」ことがあります。その時、別の味わいが生まれるのです。「手抜き」が罷り通る世の中ですが、その中にあって「手間を惜しまず」「手間暇を掛ける」行き方を目指しましょう。多少「手間取って」時代の波に乗り遅れても構いません。

朝日研一朗牧師

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2016年01月18日

受けるより与える方が幸いか?【使徒言行録20:25〜38】

聖句「主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、私はいつも身をもって示してきました。」(20:35)

1.《ロックフェラー》 世界一の大金持ちになったロックフェラーが、医師から余命1年を宣告された時、「受くるより与ふるが幸いなり」の聖句に出会い、慈善事業を成して、自身の病も癒され長寿を全うしたという話があります。熱心な信徒であった母親が勧めた「3つの掟」を守った御蔭で、ビジネスで大成功を収めたという話もあります。成功を餌に福音を語るのは如何なものでしょうか。

2.《三途の川の船賃》 NHKスペシャル「新・映像の世紀」では、ロックフェラーがモルガンと共に「資本主義の悪魔」として描かれていました。大恐慌まで利用して自己資産を倍増させ、その遺産は20兆円にも達したそうです。彼の「友よ、天国で会おう」との挨拶に、臨終の床を見舞った盟友、フォードは「君が天国に行けたらね」と答えたそうです。「駱駝が針の穴を通る」よりも難しいことです。日本には「三途の川の渡し賃」として「六文銭」を棺桶に入れる習慣がありますが、あの世には一銭も持って行くことが出来ません。

3.《どんでん返し!》 ロックフェラーの心を動かした聖句ですが、福音書の中には出て来ません。パウロの訣別説教の中に引用されるばかりです。イエスさまが「幸いなり」と宣言される祝福と言えば、「マタイによる福音書」5章「八福の教え/真福八端」が有名です。しかし、「使徒言行録」の前編「ルカによる福音書」6章では「貧しい人々」「今飢えている人々」が幸いとされています。金持ちや現世の幸せを享受している人に対する呪いの言葉すらあります。要するに、全てが御破算になる「価値の転倒」を、イエスさまは訴えているのです。そこから改めて「人間にとって、本当の幸せとは何か?」と問い直し、尋ね続けていくのが、私たちに相応しい人生の歩みなのかも知れません。

朝日研一朗牧師

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2016年01月11日

ヌーヴォー(新酒)大売出し【マルコ2:18〜22】

聖句「誰も、新しい葡萄酒を古い革袋に入れたりはしない。…新しい葡萄酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(2:22)

1.《技術革新》 「ツール・ド・フランス」でも知られる、米国の自転車メーカー「スペシャライズド」の社是は「Innovate or Die/革新を、さもなくば死を」です。日本のメーカーの社是に比べると過激ですが、モノ作りに関わる人が仰ぐ信条としては決して間違ってはいません。「社是」に近い英語は「経営信条/Company Creed」でしょうか。すると、私たちの「信条」にも通じます。そもそもカンパニーもプロテスタント教会の組織運営が起源です。

2.《耐える力》 経営学者ドラッカーの一族は、16世紀の聖書印刷業者にまで遡ることが出来るそうです。「宗教改革は、ルターではなくグーテンベルクの力」と言われるように、技術革新が世の中を変えたのです。しかし「イノベーション」の語源は「農地開墾」や「挿し木、苗、若木」「新しい葡萄を植える」に通じます。19世紀に欧州の葡萄が、北米から来た害虫によって壊滅した時、北米産の野葡萄を台木として接ぎ木したことで耐性が出来たことも思い出されます。

3.《伸縮自在》 「新しい葡萄酒」も「新しい革袋」も、同じ「新しい」ですが、原語では「ネオス」と「カイノス」と使い分けられています。ほぼ同じ意味なので、どの翻訳も頓着していませんが、「new」と「fresh」とに訳し分けた英訳聖書がありました。「おニューのワインは、フレッシュな入れ物に」です。フレッシュとは弾力性、柔軟性、伸縮性、融通が利くです。何が何でも「前向き」ではなく、時には「尻込み、退却する」こともあるのです。世の中と異なる鷹揚さ、見守り育てる涵養さこそ、現代社会では、むしろフレッシュです。キリスト教会の「強み」(ドラッカーの言う)は、テクノロジーではありません。キリストの愛を信じて生きる人たちの共同体であることなのです。

朝日研一朗牧師

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2016年01月04日

光あれ。【創世記1:1〜5】

聖句「神は言われた。『光あれ。』 こうして光があった。神は光を見て、良しとされた。」(1:3,4)

1.《きっかけ》 「初詣」も「初日の出」参りも「縁起担ぎ」の一種です。「縁起」とは、神道で「運命の吉凶を示す前触れ」、仏教で「物事の由来」を意味します。要するに「きっかけ」です。縁起が悪いと祝い事をして、不吉な前触れを福に転じようと「縁起直し」「験直し」をします。「初物」は「きっかけ作り」です。私たちが「週の初めの日」「復活日」毎に守る主日礼拝も、古い自分を十字架に掛けて、主によって新たにされて、再スタートする儀式なのです。

2.《最初の日》 「今日という日は、あなたの残りの人生の最初の1日」という米国で有名な言葉があります。1999年の映画『アメリカン・ビューティー』に引用されて、日本でも広く知られるようになりましたが、本来は、1958年に、チャールズ・ディーダリッチが設立した、薬物依存症患者の救済施設「シナノン」が掲げる標語です。「今日を最初」とする前向きさと共に、「残された時間は長くない」「人生には限りがある」という内省的な告知も含まれています。

3.《光ある道》 「創世記」を英語で「ジェネシス」と呼ぶのは、2章4節の結びの言葉「これが天地創造の由来である」から来ています。ギリシア語訳聖書が「由来」に「ビブロス・ゲネセオース/系図、誕生の記録」を当てたからです。創造の前は「混沌/形なく、空しく」でした。そこに神が「光」を投じられることで、姿形、秩序や枠組み、意味や価値が与えられたのです。「光」は単なる「闇」の対語ではないのです。同じように、人生に生きる意味を与えるのも、神の投げ掛けられる光なのです。私たちの人生には、楽しいことばかりではなく、辛く悲しいこともありますが、神さまが「光あれ」と言って下さるのです。真っ暗闇と思える時も、必ず光をもたらして下さるのです。

朝日研一朗牧師

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2015年12月28日

受け入れ合って生きる【ローマ15:7〜13】

聖句「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。」(15:7)

1.《動物たちの礼拝》 ボリビア出身の仏語作家、シュペルヴィエルの『まぶねの牡牛とロバ』では、御降誕の証人である牡牛とロバの仲介で、世界中から様々な動物や鳥や虫たちがお祝いに駈け付けます。さながら巡礼のようです。米国の詩人、ノーマ・ファーバーの絵本『どうぶつたちのクリスマス』では、北国の冬眠中だった動物たちが馬屋を訪れますし、『飼い葉桶の母親たち』では、家畜小屋に居合わせた牝牛や雌鳥たちがマリアの初産を手伝うのです。

2.《降誕日の求心力》 降誕を描く絵画でも人形セットでも、段々と出演者が増えて豪華に成って行きます。人間だけではなく、羊から駱駝や驢馬、山羊から牛馬へと広がり、もはや飼い葉桶の傍らに何がいても変ではない程です。「我も我も」と、人も動物たちも増えて行く。それが「クリスマスの魔力」です。

3.《共に生きる社会》 書家の金澤翔子は「共に生きる」を自らのテーマとしています。京都の建仁寺で「論語」の1節「恕乎」という彼女の屏風が展示されていました。「恕」とは、単なる「思い遣り」ではなく「自分と異なる者をあるがままに受け入れる」の意です。彼女は誰が教えたのでもないのに節分には「福は内、鬼も内」と言って豆撒きをするそうです。世間が無自覚なままに「排除の論理」で動くことに対する彼女なりの抵抗です。 

4.《異教徒の救い主》 イスラエルは自らを「選民」と考え、救いを特権的に捉えて、「異邦人」を見下していました。ところが、宗教改革期に各国語に翻訳された聖書では「異邦人」が「異教徒」と訳されるのです。これは意訳ですが、却ってクリスマスの精神、神さまの御心をよく伝えているのではないでしょうか。私たちが信仰を告白している神は、異教徒をも救う御方です。

朝日研一朗牧師

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2015年12月21日

馬小屋で生まれて【ルカ2:1〜7】

聖句「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。」(2:6,7)

1.《厩戸皇子》 『日本書紀』によると、聖徳太子もまた、馬小屋の戸口(厩戸)で母親が産気付いて産み落とされたとされています。9世紀初頭の『上宮聖徳太子伝補闕記』には「受胎告知」まで披露されます。これは、7世紀から3百年に渡って行なわれた遣唐使の余波ではないか。同時期に唐の都、長安で流行した景教(ネストリウス派)のトピックスを、空海をはじめとする留学生が持ち帰ったのではないかと想像したのが、歴史家の久米邦武です。

2.《家畜小屋》 ところが、残念ながらイエスさまは「馬小屋」で生まれていません。「家畜小屋」ですらありません。讃美歌にも「馬槽」と歌われていますが、「飼い葉桶」は馬用ではありませんでした。ユダヤには家畜として馬を飼う習慣はなく、「飼い葉桶」という語の原義からすると、牛を肥やすのが目的でした。家畜は小屋で飼育されていたのではなく、洞窟を利用して家畜を収容していたらしいのです。「飼い葉桶」は木製ではなく、長方形の石灰岩に飼い葉を入れる穴を穿った代物でした。異文化へ移植する中で生じた変質なのです。

3.《洞窟の宿》 イエスさまは「洞窟おじさん」ならぬ「洞窟赤ちゃん」だったのです。思い返せば、その生涯の終わりも、アリマタヤのヨセフによって遺体を引き取られて洞窟に納められるのです。同じヨセフの名を持つ人物が、その生涯の初めと終わりに、迷い悩みながらも勇敢な行動をして、彼を守る点も共通しています。プレゼピオ(降誕人形セット)の創始者とされるアッシジのフランチェスコも、当初は、洞窟の岩棚に藁を敷いて、等身大の蝋人形の幼子を置いて、街の人たちが羊飼いや博士を追体験できるようにしたそうです。私たちが心掛けたいのは「最初のクリスマス」のように迎えることです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:48 | 毎週の講壇から

2015年12月14日

赤ちゃんを殺すな【マタイ2:13〜23】

聖句「エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこに留まっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」(2:13)

1.《ターミネーター》 1984年のSF映画『ターミネーター』では、救世主出現を阻止するため、未来から送り込まれた殺人アンドロイドが、その母親を殺そうと付け狙います。「LAに住むサラ・コナー」という情報しか無いため、アンドロイドは片っ端から同姓同名の女性を殺害していきます。この設定はクリスマス物語です。未来の救世主、ジョン・コナーのイニシャルは「JC」、母親サラの名前は「受胎告知」の元祖、アンドロイドはヘロデの兵士です。

2.《大いなる叫びが》 当時のベツレヘムの人口は1〜2千人、乳幼児の数は百人弱でしょう。人数の多い少ないではありませんが、百人近くの赤ん坊が一斉に殺害されたことを想像すると戦慄を感じないではいられません。ヘロデは「片っ端から殺させた」のです。「ヘロデの嬰児虐殺」のモデルは「出エジプト記」1章のファラオだと言われます。しかし、私が共通性を感じるのは、同じ「出エジプト記」でも、むしろ12章「初子の死」です。「死人の出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった」のでした。

3.《暴力に囲まれて》 私たちは誰でも、赤ちゃんや乳幼児を見ると、自然に心が和みます。自分の子や孫でなくても、微笑んでいたりします。赤ん坊を真ん中に置く所から、平和が生まれるのです。2千年前のベツレヘムで、イエスさまの降誕は暴力に囲まれていました。ローマ帝国の支配、臨月の身での長旅、宿無し、ヘロデの殺害命令、夜逃げ…。しかし、両親は、イエスさまを命懸けで守ろうとしました。羊飼いたちは羊毛を贈り、「家」に招き入れてくれた人もあり、学者たちの贈り物は難民生活の支援になったことでしょう。赤ん坊を中心にした時、小さな輪が出来て、平和が世界に拡がって行ったのです。

朝日研一朗牧師

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2015年12月07日

これこそ、メシアのしるし【ルカ2:8〜21】

聖句「あなたがたは、布に包まって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(2:12)

1.《違いが分かる?》 その昔「違いが分かる男の…」というインスタントコーヒーのテレビCMが人気を博しました。幼心に私も「違いが分かる男」に成りたいと思って鋭意努力して参りましたが、中々違いが分かりません。世の中には、茶の味を飲み分けるを競う「闘茶」、ワインや日本酒の「試飲会」もあり、鮮魚の「目利き」もいます。大したものだと思います。私には「人を見る目」さえもありませんから、詐欺紛いの金の無心に騙される事しばしばです。

2.《似て非なるもの》 「いずれがアヤメかカキツバタ」と言うように「似て非なるもの」が数多くあります。単なる種類の違いではなく、真偽、真贋の違いもあります。本物があれば、当然それを真似る偽物が出て来ます。新約聖書に「偽メシア」「偽預言者」「偽使徒」「偽兄弟」「偽教師」等の語が頻出している所を見ると、騙された人も多かったのでしょう。「偽使徒」に注意を促すパウロ自身も、「偽兄弟」の被害に遭っていますから、笑うに笑えません。「私は騙されない」等と高を括るのではなく、少しは被害を受けて免疫を付ける必要があります。

3.《おむつのメシア》 イエスさま降誕の時代、ユダヤの民は救い主の到来を心待ちにしていました。当然それに呼応して、自称メシア、他称メシアが数多く現われました。熱心党の創始者、ガリラヤのユダ、テウダ、ユダヤ戦争の指導者、メナヘム、バル・コクバ等です。彼らは民衆のメシアニズムを鼓舞して反乱を指導しましたが、ローマ軍に鎮圧され滅ぼされてしまいました。どうして福音書にクリスマスの物語が加えられたのでしょうか。どうして、私たちのキリストは「おむつの赤ん坊」として登場するのか。それは、私たちが抱く軍事的指導者としてのメシアに対する反論では無かったでしょうか。

朝日研一朗牧師

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2015年11月30日

エッサイの根より【ローマ15:7〜13】

聖句「また、イザヤはこう言っています。『エッサイの根から芽が現われ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。』」(15:12)

1.《サンタ事始》 日本社会に広く深くクリスマスを普及させたのは、宣教師でも牧師でも熱心な信徒でもなく、サンタクロースとクリスマスツリーでしょう。日本初お目見えは、両方とも1874年(明治7年)です。米国長老派教会の宣教師、キャロザース(カロゾルス)から受洗したばかりの、元南町奉行所与力の原胤昭が築地の学校のクリスマス会で、裃姿に大小の刀を差して鬘を被ったサンタを演じているのです。サンタの姿や衣装も国や地域により異なる時代でした。

2.《聖木と聖書》 クリスマスツリーには、聖書に因んだ飾りもあります。でも、所詮はお飾り程度です。ツリーの起源は、8世紀のボニファティウスの逸話にあるとか、定番の樅の木を横から見ると、三角形をしていて「三位一体」等と解釈する人もあります。しかし、如何に後付けをしても、所詮はゲルマン人の冬至祭「ユール」の聖木の焼き直しと思われます。ツリーは聖書とは無関係に思われます。ところが、シャルトル大聖堂の「エッサイの木」のステンドグラスを見た時、これこそ、クリスマスツリーの原点ではないかと思わされたのです。

3.《異邦人の木》 「エッサイの木」の図像は、画面の下で眠っている老エッサイの腹から太い幹が伸び、ダビデ、ソロモンを経て、24人の王たちに枝分かれし、中央の梢にはキリストがあります。13世紀には、頂点のキリストは聖母子像に 変わります。母マリアは「ダビデの血筋」ではありませんから「家系図/ファミリーツリー」の否定です。しかも、エッサイ自身は眠っていますから、人間の業や力によるものではありません。それどころか、エッサイはモアブ人ルツの孫に当たります。異邦人の血筋なのです。イエス・キリストは、単なるユダヤ人のメシアに終わらず、全ての「異邦人の救い主」なのです。

朝日研一朗牧師

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2015年11月23日

命のパンをください【ヨハネ6:34〜40】

聖句「彼らが、『主よ、そのパンをいつもわたしたちにください』と言うと、イエスは言われた。『わたしが命のパンである。』」(6:34,35)

1.《パンの顔》 パンに顔の付いたキャラクターと言えば、やなせたかしの「アンパンマン」です。最初は「PHP」に掲載された大人向けの童話でした。人間の顔からパンの顔に、8頭身から3頭身へと、子ども向けにキャラ変更して行きますが、貧困と飢えに苦しむ人を助けるために、自分を差し出すというモチーフだけは変わりません。ここには「本当の正義は飢えさせないこと」という、戦中戦後を生きた作者ならではの一貫した信念があります。

2.《パンの耳》 「パンの耳」は、英語では「crust/外皮」「heel/踵」と言います。パンには「耳」だけではなく「生地目」もあります。焼き立てパンから人間の「鼻」が出て来るのは、ゴーゴリの短編小説です。家庭の主婦は「パンの耳」活用レシピを色々と発表していますし、製パン工場でも再利用を宣伝しています。しかし、今も昔も「パンの耳」は、貧困家庭の最後の食糧です。埼玉県在住の母子家庭の母親は、貧困家庭と見られるのを恐れて、ペット店で金魚の餌用の「耳」を買い、100円スープに浸して食べて、給料前を凌ぐと言います。

3.《命のパン》 70〜80年代、読売新聞大阪社会部には、黒田清という硬派ジャーナリストがいて、社会問題に鋭く切り込みました。大阪社会部が発掘した事件の1つが「パンの耳事件」です。1977年、寝屋川市に住む29歳の主婦が、5人の子どもを残して餓死しました。出稼ぎ中の夫の留守に、子どもを飢えさせぬために、自分は水道水とパンの耳で凌いでいたのです。ヘンリ・ナウエンは「キリストの体なるパンは裂かれて食べられるもの」と言いました。食卓を囲み、1つのパンを裂いて分け合う時、その中に命は宿るのです。私たちには、そんな家庭を、教会を、社会を形作って行く使命があるのです。

朝日研一朗牧師

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