2014年05月26日

栄光のうちに上げられ【Tテモテ 3:14〜16】

聖句「キリストは…、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」(3:16)

1.《昇天と高挙》 「キリスト昇天」は新約聖書に記されています。「使徒信条」の土台である「ローマ信条」「ニケア信条」にも「信ずべきこと」と証されています。それ故に、クリスチャンは熱烈に信じないまでも、敢えて否定はしません。ただ、受け身で「上げられ」と表現される場合が多いので、自力で飛翔する「昇天」よりも、神に引き上げられる「高挙」が近いのかも知れません。

2.《聖母被昇天》 カトリック信者は8月15日を「聖母被昇天日」として祝います。母マリアの命日です。天使ガブリエルのお告げによって母マリアに最期の時が知らされ、各地から12使徒も呼び寄せられます。使徒たちの見守る中、キリストが母を迎えて昇天させるのです。背後に「無原罪の聖母の御宿り」の信仰が読み取れます。ラテン語では、イエスの昇天は「アーセーンシオー/上昇」、マリアの被昇天は「アスーンプティオー/取り上げ、採用」と言います。それでは、単に「上昇」の意味しかなかった「キリスト昇天」に、いつの頃から受け身か自力かという問いかけが生じたのでしょうか。

3.《天地を結ぶ》 古い「昇天図」では、雲の中から神の御手が現われ、オリーブ山上のキリストを取り去る絵柄が主流でした。その後、6世紀の教皇、グレゴリウス1世が「キリストの全能性」に疑念を抱かれないように、御自ら天に昇る絵柄に変えさせたのです。しかし、そんな人間的な思惑など取るに足りません。パウロの引用した原始教会の讃美歌を鑑賞してみると、イエスさまの御心が見えて参ります。肉と霊、天使と異邦人(縦と横)、世界と栄光(被造物と創造主)が対に成っています。ここには、分裂して苦しむ世界を繋ぎたい、離れ離れになった人たちを再会させたいという、愛と慈しみがあるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 11:53 | 毎週の講壇から

2014年05月19日

人生は出会い【ヨハネ1:43〜51】

聖句「するとナタナエルは『ナザレから何か良いものが出るだろうか』と言ったので、フィリポは、『来て、見なさい』と言った。」(1:46)

1.《数奇な運命》 幕末には、海難漂流の結果、鎖国日本を離れてアメリカ人に救助されたケースが、50年間で23件もあったそうです。その中でも、「宝順丸」の生き残りの3名の若者の運命は数奇としか言いようがありません。彼らは、ロンドン宣教協会の宣教師、ギュツラフに協力して、現存する最古の聖書日本語翻訳作業に携わったのです。まさしく「人生は出会い」です。

2.《来て、見る》 「ナザレのイエス」と聞いて失笑するナタナエルに、友人のフィリポは「来て、見なさい」と言います。西洋では、短いけれども大切な聖句として「veni et vide」とラテン語で言われます。私たちも各々、キリスト教会や信仰生活に導かれた契機があったはずです。そこに誰か他の人が関わってくれて、その結果、イエスさまに繋がったのです。近年は、テクノロジーとツールの普及で、行かなくても簡単に情報だけ手に入れられる時代になりました。しかし、所詮、情報は虚構に過ぎません。「取り敢えず足を運ぶ」「とにかく行って見る」ということが、リアルな出会いのためには必要なのです。

3.《繋がる思い》 ナタナエルとフィリポ、いずれも私たち自身の姿です。誰かが誰かを連れて来て、イエスさまに引き合わせる、教会は2千年間も、そんな営みを続けて来たのです。人生は思いも寄らぬ出会いの連続で、危険と困難もありますが、そこに醍醐味があります。ナタナエルはイエスさまの「千里眼」に降参しますが、主は「その程度のことは信仰ではない」と言われます。この問答は、20章のトマスとの遣り取りと同じです。巻頭と巻末に似た話が置かれているのは、「ヨハネによる福音書」のメッセージです。最大の奇跡、真の信仰とは、イエスさまを通して、神さまの御思いと繋がることなのです。

朝日研一朗牧師

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2014年05月12日

あなたの広い心を【フィリピ4:2〜9】

聖句「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」(4:5)

1.《ルツ記》 隣国のモアブに移住したものの、ナオミは夫に先立たれてしまいます。その上、2人の息子たちも相次いで亡くなります。これを機に、故国へ帰ろうと決心したナオミでしたが、モアブ人の嫁、ルツは姑と離れず、ベツレヘムに付いて行くのでした。これが「ルツ記」の導入です。「ノヴェッレ/小作品」と呼ばれる文学様式で、現在のラノベやハーレクインの始まりなのです。

2.《慈しみ》 「同じ旧約聖書」と言っても、大きく分けて2つの考え方、2つの流れがあります。寛容と不寛容、受容と排除、広い心と偏狭な心です。例えば、「ヨナ書」では、自分の祖国を滅ぼしたアッシリア帝国を憎む預言者に対して、神さまが慈しみの心を教えます。しかし、次の「ミカ書」では、周辺諸国に対する呪詛が溢れています。1ページ捲ると違う世界なのです。当然、「同じクリスチャン」と言っても2つの流れがあるのです。パウロは「寛容、柔和、優しさ、譲る心、負ける心」を表わすように勧めています。その時、キリストが共に居られるのです。これが真のキリスト信仰であり、これが真の幸せなのです。

3.《母の日》 ルツにとって、ナオミは血縁ではありません。それでも、ルツはナオミと離れません。最終的に、この2人を救済するボアズは、ナオミの親戚に当たります。イスラエルは部族社会ですから、血縁は社会的責任を意味します。しかし、彼もまた、顔も知らない程の遠戚でした。ここにヒントがあります。家族、血族ではない人の愛がナオミを幸せにするのです。物語は、絶望のドン底にあった年老いた女性が、もう一度「魂を生き返らせる」程の喜びに満たされることで終わります。小説だからこそのハッピーエンドなのですが、それを願う権利は誰にでもあり、実際に願わなくては幸せは訪れないのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:33 | 毎週の講壇から

2014年05月05日

案内人の道知らず【ルカ6:37〜42】

聖句「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。」(6:39)

1.《分かって貰う》 私たちは皆、誰かに自分のことを分かって貰いたい、理解して貰いたいと思っているものです。時には、愚痴や文句になってしまって、格好悪いのです。それでも、誰かに聞いて貰わないと窒息してしまうのです。しかしながら、「聞いた貰えた」と「分かって貰えた」とは、まるで違います。相手も自分の問題を抱えていますから、聞くだけで精一杯なのです。

2.《言葉を届ける》 分かって貰うことは難しいことです。言葉を投げ掛けても、言葉が相手に届いていないことが殆どです。現実には、以心伝心もテレパシーもありません。「どうせ分かるはずない」と諦めると、言葉にすることも感情を表現することもしなくなります。「分かろうと分かるまいと関係ない」と自己完結してしまう人もいます。現代の私たちから見ると、聖書も何が書いてあるのか分からない不親切さに満ちています。だからこそ、聖書の内容をもう一度、生きた言葉に直して届けるために、礼拝の中には、牧師の説教があります。しかし、分かって貰えるように伝えることは至難の業です。

3.《目の中の丸太》 言葉を届ける作業には、常に摩擦や葛藤が込められていることも予想するべきです。言葉は暴力にもなり、言葉によって傷付け合うこともあります。面倒を避けると、当たり障りのない言葉だけに終始してしまいます。私たちが分かって貰えない時に意気消沈するのは、責任の半分はこちらにあるからです。反対に、分からない場合にも責任を負うのです。ここに、分かって貰いたい人と分かって上げたい人との出会いが必要です。教会もまた、ただ一方的に「福音伝道」をして、分かって貰おうとするだけではいけません。出会いと気付き、分かりたいという他者への愛、そして我慢が必要です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 14:35 | 毎週の講壇から

2014年04月28日

種蒔く労苦、刈り入れの喜び【ヨハネ4:31〜38】

聖句「他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りに与っている。」(4:38)

1.《パンと人生》 大正時代のベストセラー『貧乏物語』の中で、河上肇は「人はパンのみにて生きるに非ず。されど又パン無くして生くるに非ず」と喝破し、これは当時の流行語となりました。内村鑑三に私淑していた河上がマルクス主義に転向したのは、イエスさまの御言葉に「武士は食わねど高楊枝」、辛抱と忍耐としてしか対応できなかった、当時のキリスト教界に限界を感じたからかも知れません。しかし、いずれも一面的な受け止め方です。

2.《種蒔く労苦》 聖書も、イエスさまの言葉も誤解されることが多いのです。敢えて誤解と混乱を引き起こして、私たちを悩ませようとしているかのようです。特に「ヨハネによる福音書」の主の御言葉を見ると、周りの人たちは何も理解できず、弟子たちは困惑するばかり、頓珍漢な会話が続きます。食事を持って来てくれた弟子に、「私にはあなたがたの知らない食べ物がある」等と仰います。神の御心を「成し遂げること」が「食べ物」だと説明されていて、それは十字架上の最期の御言葉「成し遂げたり」に通じます。御自らの命を差し出そうとされているらしいのですが、余りの飛躍に付いて行けません。

3.《収穫の喜び》 パレスチナでは、雨季の11月中旬に大麦、12月中旬に小麦とスペルタ麦を蒔きました。4月中旬から大麦の刈り入れ、5月初めに小麦とスペルタ麦の刈り入れでした。種蒔きと刈り入れとの間には5ヶ月間の、成長を待つ期間があります。しかし、この譬え話では、蒔く人と刈る人とが別人です。イエスさま自身が一粒の麦となって死ぬことで、私たちに命を与えてくださったのです。更には、宣教者フィリポが開拓したサマリア教会を、「ヨハネ」の教会が受け継いだという背景もあるらしい。私たちも、大勢の先輩たちの信仰に励まされ慰められて今あります。今度は、私たちが種を蒔く番です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:00 | 毎週の講壇から

2014年04月21日

信じない者が信じる者に【ヨハネ20:24〜31】

聖句「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない。」(20:25)

1.《脇腹の傷》 十字架に磔にされたイエスさまが亡くなった後、ローマ兵が死亡確認のために脇腹を槍で刺したことは「ヨハネによる福音書」にしか書いてありません。意外にも「共観福音書」では槍の刺し傷どころか、両手足を釘で打ち抜かれたことすら言いよどんでいるのです。「十字架のキリストを宣べ伝える」と断言したパウロですら「焼き印」等という婉曲表現です。

2.《磔刑の図》 キリスト教美術には、キリストの十字架を描いた「磔刑図」というジャンルがあります。脇腹の傷もお愛想程度のものから、スプラッター映画のように血が噴出しているものまで様々です。中世には「聖杯」や「聖槍」の「聖遺物崇拝」が流行しました。キリストの御血に触れた杯や槍には、病気治癒や永遠の命や世界の支配といった物凄いパワーが秘められていると言うのです。近世プロテスタントは、脇腹から流れ出た「血と水」を「聖餐と洗礼」と教え、近代の聖書解釈は「生きた水が川となって流れ出る」聖霊の譬えとしました。現代においては、主の示された「傷」の方が重要かと思います。

3.《聖なる傷》 復活の姿には、傷も汚れもしみも皺もないというイメージが、私たちにも与えられています。「ルカによる福音書」24章の復活のイエスさまは「私の手や足を見なさい。触ってみなさい」と仰っていますが、そこには傷の描写がありません。しかし、ここでは、復活の主が敢えて御傷を示されるのです。不信仰者の代表のように言われる「疑いのトマス」ですが、彼は「十字架のイエス」を信じていたのではないでしょうか。けれども、信仰は多面的なのです。私たちの未だ知らない信仰の世界もあるのです。本当は、私たちの見たこともない世界が一杯あるのです。それこそが信仰なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:02 | 毎週の講壇から

2014年04月14日

墓穴に向かって叫ぶ【ヨハネ11:38〜44】

聖句「こう言ってから、『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた。」(11:43)

1.《暗闇に叫ぶ》 黒澤明監督の『赤ひげ』の中に「長次の話」があります。服毒して一家心中を図った両親は死んでしまいますが、幼い長次が死に瀕した時、診療所の女たちが庭の井戸の奥底に向かって、彼の霊を呼び戻そうと一斉に叫ぶのです。父親がカトリック信者で、自身も日曜学校出身の山本周五郎は、恐らく「ラザロ」の場面を念頭に置いて、この場面を書いたのではないでしょうか。

2.《憤りと涙と》 普通に考えれば、ラザロが息を吹き返す訳はありません。マルタの「4日も経っていますから、もう臭います」という台詞が、死体のリアリティを私たちに突き付けます。現在の私たちは、葬儀社の人に拭き清められ、ドライアイスや香料や化粧で装われた遺体しか目にすることはありません。しかし、死後4日も経てば、体中の穴から汁も出て来ています。そんな中、イエスさまは「心に憤りを覚え」たと書かれています。人間を捕らえて離さない死の力に対して怒って居られるのです。陰府の力は死んだ者を支配するだけではありません。生きている者の心の中まで、絶望で真っ黒に塗り潰していくのです。そして、イエスさまの流された涙は、憐れみの涙です。死の力に支配され、打ち拉がれ、信仰と希望を失っている人たちを何とかして救いたいという涙です。

3.《復活の生命》 私の後輩Yは3歳の時、17歳の姉の自死に出遭いました。焼却炉の穴に棺が呑み込まれる光景に、幼心ながら戦慄を覚えたと告白していました。小説家を目指していた彼は、その後、牧師となり、自殺未遂や自傷行為を繰り返す少女たちと向き合っています。自分を愛すること、人を信じること、神に望みを置くことが難しい時代です。陰府の支配は着実に人間を蝕んでいるかに思われます。しかし、イエスさまは墓さえも開かれます。暗闇の中に留まっている私たちに向かって「出て来なさい」と叫んで下さるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 23:16 | 毎週の講壇から

2014年04月11日

イエスの仲間【マタイ10:32〜33】

聖句「誰でも人々の前で自分を私の仲間であると言い表わす者は、私も天の父の前で、その人を私の仲間であると言い表わす。」(10:32)

1.《人間の現実》 聖書の神は私たちに「あなたへの愛は真実。だから、私のことを愛しているかと聞かれたら、いつでもどこでも愛していると宣言してほしい。私もあなたのことを愛しているかと聞かれたら、いつでもどこでもあなたを心から愛していると宣言する。」と伝える。しかし、この愛に応えられず「イエスのことを知らない」と公言したのが、人間の現実であった。

2.《今日の食事》 人間の腹の底の底にあるもの、それはイエスへの愛ではない。自己愛。しかし、このことを最もよくご存じだったのもイエス。イエスは、その人間の弱さ、現実を知って今日の聖句を語られた。十字架の最後に明らかになるのは、イエスとの出会いを通して行き着くのは32節ではなく、33節。十字架を見るとき、ああ、結局は自分が一番かわいかったと分かるのだ。このような私たちに向けて、復活のイエスはあらためて語り掛ける。「一緒に食事をしよう」(ヨハネ21:12)、つまりもう一度、新しくやり直そうと誘うのだ。私たちはなぜ食事をするのか。それはもう一度生きるためなのだ。もう一度、新しい今日を生きるためには、昨日の食事では決定的に足りないのである。さらにそこには、今日一緒に生きる人が、愛する人が必要。誰が一日の始まりの朝食に、嫌いな人を招くだろう。イエスは、そのテーブルに私たちを招いた。それが聖餐式である。

3.《聞き取る姿》 聖餐式にふさわしい姿とは何か。それはイエスの「さあ、来て、朝の食事をしなさい。」との言葉を聞き取る姿。自己愛にまみれ、人々の前でイエスなんて知らないと大声で叫んだ自分に向けて、もう一度やり直そう、とのイエスの言葉が投げかけられる。その声を聞き取って、恥ずかしいような嬉しいような気持ちで、一緒に食事をして、もう一度イエスの仲間となる姿、それがふさわしい姿ではなかろうか。。

塩谷直也牧師(青山学院大学)

posted by 行人坂教会 at 13:20 | 毎週の講壇から

2014年03月31日

目と耳、そして、心【マタイ13:10〜17】

聖句「彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。私は彼らを癒さない。」(13:15)

1.《探し物は何》自分の眼鏡や入れ歯、小銭入れ等、いつも使っているのに、どこに置いたのか見付からなくなることがあります。それを家族がいとも簡単に見付けたりすると、すっかり自信喪失します。しかし、使っている本人にとっては自分の身に付けている物ですから、却って見付けにくいのです。私たちが目にしている光景は、自身の記憶や意識に頼って再構成された世界なのです。

2.《心が捉える》私たちの目は、カメラレンズのような「機械の目」ではなく、「心の目」なので、現実とはズレが生じるのです。つまり、その時々の健康状態や精神状態、疲れや気分などに影響を受けるのです。逆を言えば、私たちの目や耳は外の情報を何でも取り入れているのではなく、関心のある事柄に焦点を合わせているのです。現実の世界の中から、今の自分にとって必要と思われる情報だけを、無意識のうちに採り出しているのです。私たちの目や耳の働きは、私たちの心の働きと直結しているのです。

3.《心に入って》イエスさまは数多くの譬え話をなさいました。「罪の赦し」等と言っても分かりませんが、ストーリーならば、「迷子の羊さん」ならば、子どもにも分かります。また、イエスさまの譬え話には生活感があります。それは、主が、百姓や漁師、徴税人や娼婦、主婦といった目の前にいる人たちに向かって語り掛けていたからです。ここには聞き手の問題もあります。幾ら聖書のメッセージに触れても、それを他人に向けられたものとして受け止めている限り、自分のものにはなりません。イエスさまが問題にされているのは、視覚や聴覚ではなくて、何かを感じ取る私たちの「心の働き」なのです。弟子たちも特別な修行を要求されたことはありませんでした。色々な人に出会って、感じ取って、少しずつ成長して行く心を、私たちに求められているのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:36 | 毎週の講壇から

2014年03月24日

燻し銀の魅力【ヘブライ 12:4〜13】

聖句「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に…」(12:11)

1.《燻し銀》 若い頃、フランスのフィルム・ノワール(暗黒街映画)に魅了された時代がありました。特に、親分役やメグレ警部役のジャン・ギャバンの風格には参りました。そんなギャバンを「燻し銀の魅力」と、池波正太郎が書いているのを読んで、初めて、その言葉を知りました。スマートではないけれども、一度見たら忘れられないような独特の味わいがあるのです。

2.《燻製品》 友人に、燻製作りを趣味にする牧師がいます。今では、燻製器とスモークウッドを使えばお手軽に燻製が作れるのです。さすがにベーコン作りは下ごしらえが大変ですが、塩鯖や干物、プロセスチーズ、ゆで卵などのスモークは簡単に出来るのです。日本にも鰹節やいぶり漬けの伝統があります。燻すことで保存性が高くなり、独特の風味が付くのです。このことは、私たちの信仰にも適用できます。1つは「長続きする信仰」です。入信にも少し手間がかかるかも知れません。また、その教会生活も新鮮味が薄いかも知れません。けれども、ゆったりとした気持ちで、長く続けられるのが良いのです。

3.《味わい》 煙によって食品は燻製になりますが、銀は燻し銀に変わります。空気中の硫化水素や温泉の硫黄により、銀表面が硫化銀に覆われるのです。ピカピカ光る安っぽい銀ラメよりも、くすんだ銀の方が渋くて味わいがあるという美意識も存在するのです。周囲に見せびらかしたり、相手の都合を無視してアピールしたりしないのが「渋くて味わいのある信仰」です。ギリシア語の意味から「鍛錬」は「親子」関係、「精錬」は「吟味」と繋がります。いずれも錬り上げられて純化するのです。練り上げる炎は苦しみと悲しみです。苦しみに遭うのに、信仰者も不信者も変わりありません。従って「純化」「聖化」はキリスト者の特権ではありません。しかし、その時、苦しみ悲しみによって、余計な物が削ぎ落とされ、イエスさまの十字架が明らかに見えて来るはずです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:12 | 毎週の講壇から