2014年04月11日

イエスの仲間【マタイ10:32〜33】

聖句「誰でも人々の前で自分を私の仲間であると言い表わす者は、私も天の父の前で、その人を私の仲間であると言い表わす。」(10:32)

1.《人間の現実》 聖書の神は私たちに「あなたへの愛は真実。だから、私のことを愛しているかと聞かれたら、いつでもどこでも愛していると宣言してほしい。私もあなたのことを愛しているかと聞かれたら、いつでもどこでもあなたを心から愛していると宣言する。」と伝える。しかし、この愛に応えられず「イエスのことを知らない」と公言したのが、人間の現実であった。

2.《今日の食事》 人間の腹の底の底にあるもの、それはイエスへの愛ではない。自己愛。しかし、このことを最もよくご存じだったのもイエス。イエスは、その人間の弱さ、現実を知って今日の聖句を語られた。十字架の最後に明らかになるのは、イエスとの出会いを通して行き着くのは32節ではなく、33節。十字架を見るとき、ああ、結局は自分が一番かわいかったと分かるのだ。このような私たちに向けて、復活のイエスはあらためて語り掛ける。「一緒に食事をしよう」(ヨハネ21:12)、つまりもう一度、新しくやり直そうと誘うのだ。私たちはなぜ食事をするのか。それはもう一度生きるためなのだ。もう一度、新しい今日を生きるためには、昨日の食事では決定的に足りないのである。さらにそこには、今日一緒に生きる人が、愛する人が必要。誰が一日の始まりの朝食に、嫌いな人を招くだろう。イエスは、そのテーブルに私たちを招いた。それが聖餐式である。

3.《聞き取る姿》 聖餐式にふさわしい姿とは何か。それはイエスの「さあ、来て、朝の食事をしなさい。」との言葉を聞き取る姿。自己愛にまみれ、人々の前でイエスなんて知らないと大声で叫んだ自分に向けて、もう一度やり直そう、とのイエスの言葉が投げかけられる。その声を聞き取って、恥ずかしいような嬉しいような気持ちで、一緒に食事をして、もう一度イエスの仲間となる姿、それがふさわしい姿ではなかろうか。。

塩谷直也牧師(青山学院大学)

posted by 行人坂教会 at 13:20 | 毎週の講壇から

2014年03月31日

目と耳、そして、心【マタイ13:10〜17】

聖句「彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。私は彼らを癒さない。」(13:15)

1.《探し物は何》自分の眼鏡や入れ歯、小銭入れ等、いつも使っているのに、どこに置いたのか見付からなくなることがあります。それを家族がいとも簡単に見付けたりすると、すっかり自信喪失します。しかし、使っている本人にとっては自分の身に付けている物ですから、却って見付けにくいのです。私たちが目にしている光景は、自身の記憶や意識に頼って再構成された世界なのです。

2.《心が捉える》私たちの目は、カメラレンズのような「機械の目」ではなく、「心の目」なので、現実とはズレが生じるのです。つまり、その時々の健康状態や精神状態、疲れや気分などに影響を受けるのです。逆を言えば、私たちの目や耳は外の情報を何でも取り入れているのではなく、関心のある事柄に焦点を合わせているのです。現実の世界の中から、今の自分にとって必要と思われる情報だけを、無意識のうちに採り出しているのです。私たちの目や耳の働きは、私たちの心の働きと直結しているのです。

3.《心に入って》イエスさまは数多くの譬え話をなさいました。「罪の赦し」等と言っても分かりませんが、ストーリーならば、「迷子の羊さん」ならば、子どもにも分かります。また、イエスさまの譬え話には生活感があります。それは、主が、百姓や漁師、徴税人や娼婦、主婦といった目の前にいる人たちに向かって語り掛けていたからです。ここには聞き手の問題もあります。幾ら聖書のメッセージに触れても、それを他人に向けられたものとして受け止めている限り、自分のものにはなりません。イエスさまが問題にされているのは、視覚や聴覚ではなくて、何かを感じ取る私たちの「心の働き」なのです。弟子たちも特別な修行を要求されたことはありませんでした。色々な人に出会って、感じ取って、少しずつ成長して行く心を、私たちに求められているのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:36 | 毎週の講壇から

2014年03月24日

燻し銀の魅力【ヘブライ 12:4〜13】

聖句「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に…」(12:11)

1.《燻し銀》 若い頃、フランスのフィルム・ノワール(暗黒街映画)に魅了された時代がありました。特に、親分役やメグレ警部役のジャン・ギャバンの風格には参りました。そんなギャバンを「燻し銀の魅力」と、池波正太郎が書いているのを読んで、初めて、その言葉を知りました。スマートではないけれども、一度見たら忘れられないような独特の味わいがあるのです。

2.《燻製品》 友人に、燻製作りを趣味にする牧師がいます。今では、燻製器とスモークウッドを使えばお手軽に燻製が作れるのです。さすがにベーコン作りは下ごしらえが大変ですが、塩鯖や干物、プロセスチーズ、ゆで卵などのスモークは簡単に出来るのです。日本にも鰹節やいぶり漬けの伝統があります。燻すことで保存性が高くなり、独特の風味が付くのです。このことは、私たちの信仰にも適用できます。1つは「長続きする信仰」です。入信にも少し手間がかかるかも知れません。また、その教会生活も新鮮味が薄いかも知れません。けれども、ゆったりとした気持ちで、長く続けられるのが良いのです。

3.《味わい》 煙によって食品は燻製になりますが、銀は燻し銀に変わります。空気中の硫化水素や温泉の硫黄により、銀表面が硫化銀に覆われるのです。ピカピカ光る安っぽい銀ラメよりも、くすんだ銀の方が渋くて味わいがあるという美意識も存在するのです。周囲に見せびらかしたり、相手の都合を無視してアピールしたりしないのが「渋くて味わいのある信仰」です。ギリシア語の意味から「鍛錬」は「親子」関係、「精錬」は「吟味」と繋がります。いずれも錬り上げられて純化するのです。練り上げる炎は苦しみと悲しみです。苦しみに遭うのに、信仰者も不信者も変わりありません。従って「純化」「聖化」はキリスト者の特権ではありません。しかし、その時、苦しみ悲しみによって、余計な物が削ぎ落とされ、イエスさまの十字架が明らかに見えて来るはずです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:12 | 毎週の講壇から

2014年03月17日

病人を真ん中に【マルコ3:1〜6】

聖句「イエスは手の萎えた人に、『真ん中に立ちなさい』と言われた。」(3:3)

1.《誰が真ん中》 3人で写真を撮ったら、真ん中の人が早死にするという迷信がありました。上座のように真ん中に年配の人を招いた結果です。欧州の街には、真ん中に広場があり、市民の憩いの場であり、時にはデモ等の集会にも利用されます。広場に面して大聖堂や教会もあります。残念ながら、日本の都市には市民のための広場が存在しません。広場の存在は、誰が町の中心、主役であるかという事を示しているのです。

2.《体の灯し火》 女優の真中瞳が芸名を東風万智子に変えました。黒木瞳と並ぶ絶妙な芸名でしたのに残念です。実際、幼児の認識の始まりは「顔」であり、次が「目」です。顔の中心は目、まさしく「真ん中に瞳」なのです。中東では、古代からアイシャドーが用いられていました。美醜の基準も目の大小が決定したくらいです。それ故に、聖書では「目」が大切にされています。イエスさまも「体の灯し火は目である」と教えています。それが無くなってしまったら、光が失われるのです。体の器官としては最も傷付き易く弱い部分ですが、それが無くなったら真っ暗闇、それが「目」に託された意味です。

3.《皆が真ん中》 イエスさまが「体」と仰る時、それは「教会」や「社会」を意味します。それでは、誰が「目」の役割を果たしているでしょう。傷付き易くて弱々しいのですが、それが失われたら、この世は闇なのです。子どもや女性、病人や障碍者、異邦人、寡婦と孤児、差別されている人に光を当てられます。社会で脚光を浴びている人ではなく、どちらかと言えば、「日陰」にいる人を真ん中に連れ出されるのが、イエスさまのお考えのようです。しかし、特別扱いなさるのではなく、一人一人が誰もが皆、真ん中にされて「瞳のように守られる」世界を作ろうとなさっていたのです。愛された者が「真ん中」に立たせられるのです。キリストの愛を知る人は誰でも「真ん中」にいるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:25 | 毎週の講壇から

2014年03月10日

灰と塵の間に【ヨブ記 42:1〜6】

聖句「しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それ故、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」(42:5,6)

1.《三回忌》 東日本大震災から3周年を迎えます。「3.11」前後には、全国で記念行事が粛々と執り行なわれ、マスコミは真面目な報道をするでしょう。この震災は、私たちの在り方に対して色々な問題提起をしています。しかしながら、その課題に応えることないままに、「三回忌」を「弔い上げ」とするように、3周年を機に、蓋がされていくのではないかと、私は危惧します。

2.《不条理》 鹿野融完住職(横浜の徳恩寺)の被災地での活動を、作家の荻野アンナがエッセイに綴っていました。その中に「人がいつか死ぬのは条理、突然の災害による死は不条理。条理と不条理に、共に向き合う心構え」という言葉がありました。しかし、死因が何であるかによらず、愛する者の死こそが不条理なのです。人間にとって愛する者の死は受け入れ難いのです。それでも、そんな不条理極まりない愛する者の死もまた、条理として受け止めることが出来るように、私たちには信仰が与えられているのです。勿論、弱い人間ですから「なぜ?」という問いを発し、不条理に苦しまなくてはなりません。その条理と不条理、両方に「向き合う」ことこそが、私たちに相応しい生き方なのです。

3.《塵と灰》 条理と不条理との間にあって、苦しみ悩む人間の姿を描いているのが「ヨブ記」です。「結び」の大団円は「ヨブ記」の下敷きに成った民話「ヨブ物語」のハッピーエンドで、本文の結末ではありません。サタンは「人間の信仰など所詮、御利益信仰だ!」と言い、友人たちは「因果応報」「神の絶対義」の教条主義から、苦難のヨブに回心を迫ります。元通りの幸せが「ヨブ記」の答ではありません。むしろ、問い続けて行くことが信仰であり、人生であることを、この結末は教えているのです。勿論、人間からの一方的な問いに終始するものではありません。私たちは神さまからも問われるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:23 | 毎週の講壇から

2014年03月03日

主の道は平らかで広い【マタイ3:1〜12】

聖句「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋を真っ直ぐにせよ。』」(3:3)

1.《直線の欺瞞》 北海道時代、アイヌ民族出身の国会議員、萱野茂の勉強会に出ました。「美瑛の丘陵地帯の美しいパッチワークのような風景は、豊かな森を伐採した残骸だ」と教えられました。確かに自然の中に直線は存在しません。直線は人工的な開発の結果です。アフリカの国境線が直線なのは、欧州の植民者たちの搾取の跡、北米や豪州の州境の直線も、真っ直ぐなハイウェイも、先住民族からの簒奪の爪痕を物語っているのです。

2.《運命の逆転》 洗礼者ヨハネの登場は「イザヤ書」の預言成就として描かれています。引用の「道筋を真っ直ぐに」ですが、ヘブル語原典では「真っ直ぐ」と共に「平らかに」の意味もあります。それで「新共同訳」の「イザヤ書」は「広い道を通せ」と訳しています。洗礼者ヨハネ自身は「義の道を示した」「偉大な人」ですから「真っ直ぐ」がお似合いです。しかし、イエスさまは「天国では、より小さい人がヨハネよりも大きい」と謎めいたことを仰います。隣人が見捨てた者を敵が救ったり(サマリア人の譬え)、義人ではなく罪人が義とされたり(ファリサイ派の人と徴税人の譬え)、順列が逆転し、枠組みが外れ、境界線が破れる時、そこに、イエスさまは天国の訪れを示されるのです。

3.《平らで広い》 洗礼者ヨハネの説教は「脅迫」です。恐怖と罪悪感と脅しの3点セットを使っています。現代社会では、このような説教をすることは許されません。「火の洗礼」をもって罪人を焼き払われるメシア像は、飽く迄もヨハネの思い抱いたもので、私たちの信じる十字架のイエスではありません。やはり「真っ直ぐな人」には限界があります。危機感を煽るのは、人を操るのに即効性がありますが、真に世の中を変えることは出来ません。むしろ、私たちは「1人の百歩よりも百人の1歩」(平良修牧師)を目指して参りましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:15 | 毎週の講壇から

2014年02月24日

命のある限り【詩編 146:1〜10】

聖句「命のある限り、わたしを主を賛美し、長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。」(146:2)

1.《生き甲斐》 未だ「仕事が生き甲斐」「子育てに生き甲斐を感じる」と言う人も大勢いますが、最近では趣味やスポーツやペットに生き甲斐を感じる人も増えて来ました。「生き甲斐」は「生きている意義」、「甲斐」は「効き目」を意味します。ある行為に値するだけの効果です。「甲斐性がある」「頼り甲斐」「甲斐性なし」等という言い回しは、自分の働きが価値され意味付けされることが前提です。どこかで他者を必要としているのです。

2.《死に甲斐》 死生学では「死に甲斐」と言います。なぜなら、私たちが生きているのは、いずれ死ぬことが前提となっているからです。「そのためなら自分の命を差し出しても構わない」と思うのが「死に甲斐」です。「生き甲斐」と言えば、自分を生かすこと(自己目的)を強く感じさせます。しかし、自分の損失を承知で他の誰かを生かそうとするのが、究極の「生き甲斐」ではないでしょうか。私たちは何のために生まれたのでしょうか。聖書には、人間存在の意味が「主を賛美するために創造された」と端的に示されています。

3.《命の限り》 現在の「グリー」の定義は「自分を解放し、歓喜すること」、「合唱」は「チームワークによる芸術性の高いパフォーマンス」と成ります。歌うことの醍醐味は「歓喜と解放」なのです。聖書は「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」神を愛するように勧めています。「心を尽くし」は「胸の奥から」「腹の底から」です。声を上げることです。「魂を尽くし」は「自分自身で」です。人生を誰かに代わって生きて貰えないのと同様、人任せにせず、自分の声と思念が大切です。「力を尽くして」は「誠心誠意、一生懸命、全身全霊、精一杯」と訳すことも出来ます。力の出せない日も、神は私たちの気持ちを見てくださいます。古代ユダヤ教徒は来世を信じませんでしたが、私たちは、この世を、ただ1度の「予行演習」と考えます。「本番」に向けて進みましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:46 | 毎週の講壇から

2014年02月18日

小さい人が真ん中に【マタイ18:1〜5】

聖句「そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。」(18:2,3)

1.《供え物》 ユニセフの「子どもの権利条約」批准以来、日本でも「子供」ではなく「子ども」と表記することが多くなりました。「子供」という漢字表記は、かつて少年少女や幼児が「人身御供」として生贄に捧げられたことを連想させるようです。古今東西に、子供を生きながらに殺す残酷な宗教儀礼や風俗がありました。昔の人たちは、自分たちの一番大切な子供を犠牲にすることで、何とかして神々に願いを聞き届けさせようとしていたのです。

2.《犠牲者》 「人身御供」こそありませんが、戦争や動乱、災害の際に真っ先に犠牲になるのが幼い命です。児童虐待、ネグレクト、少年少女を標的にした犯罪も跡を絶ちません。「虐待110番」のような電話相談をしている団体の人が、自分たちは「子ども」を「小さい人」と呼んでいると講演されていました。大人、即ち「大きい人」に対して「小さい人」です。小さくても「人」なのです。未熟で無力でも、大人と同じように、尊重され守られるべき人権を持った人なのです。「小さい人」と呼ぶことで、そのことを訴えているのだそうです。

3.《幼な子》 弟子たちがイエスさまに「誰が天国では一番偉いのか」と尋ねました。この質問の背景には、モーセかエリヤか、アブラハムかエノクかという想定があります。「山上の変貌」を見たせいもあって、「イエスさまかも」という念が湧きました。途端に「自分はナンバー2かも」と思ったのでしょう。私たちもテレビのランキング形式によって情報操作されています。しかし、イエスさまはそんな弟子たちの質問に対して、通りすがりの幼な子を招いて「この子が一番」と言われました。それが「天国」なのです。天国にはランキングも偏差値も、優先順位も生活格差もありません。この世は不平等で弱肉強食で、強い人、大きい人を中心にして回っています。けれども、小さい人を真ん中にして生きる時、たとえ、この世であっても、そこに天国が生まれるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 07:54 | 毎週の講壇から

2014年02月10日

この世のアイコン【Tコリント6:12〜20】

聖句「知らないのですか。あなたがたの体は、神から頂いた聖霊が宿って下さる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」(6:19)

1.《アイコン》コンピュータ画面に出て来る絵柄、ロゴマークを「アイコン」と言います。アイコンは、東方正教会が信仰生活の中心に置く聖画「イコン」から来ています。正教徒にとってイコンは、単なる絵ではありません。文字の読み書きが出来る人の少なかった昔は聖書の代わりを果たしました。西洋の絵描きのように、イコン画家は独自性や作家性を出して自己主張はしません。絵を自己主張の道具にすることを徹底的に避けているのです。

2.《天国の窓》イコン画家に署名はありません。有名なアンドレイ・ルブリョーフのイコンでも、「ルブリョーフ派」「ルブリョーフ?」と表記される物が多いのです。イコンは模写されることを前提としています。真贋判定や著作権の問題などありません。イコンは飽く迄も窓であって、そこから生まれる祈りが大切にされているからです。ギリシア語の「エイコーン」は、神の「似姿」です。信者は家の各所にイコンを置きます。そこに「天国の窓」が開くと言います。

3.《一つの体》コンピュータのアイコンをクリックすると、そこからプログラムが広がって行きます。同じように、イコンを見た人がそれを入り口として神の国や天国を垣間見るのです。聖書主義によって発展したプロテスタントには、そのような装置はありません。言語と文字を切り口にして来た私たちは、視覚と感覚を疎かにして来ました。文書メディアの影響力低下著しい時代です。その中にあって、プロテスタント教会のアイコンに成り得るのは、やはり「キリストの体なる教会」、信仰共同体だと、私は思います。聖書の「体/ソーマ」は「肉/サルクス」ではありません。キリスト、教会、永遠の命に繋がって行くものです。行人坂教会に来ると、そこから神の世界が見えて来る、そのような場に成って参りますように、皆で力を合わせて行きたいと思うのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:31 | 毎週の講壇から

2014年02月03日

雪落ちてまた帰らず 【イザヤ 55:8〜13】

聖句「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。…私の口から出る私の言葉も、むなしくは、私のもとに戻らない。」(55:10,11)

1.《雪より清けし》 パレスチナ地方は温暖なため、真冬でも雪は降りませんが、数年に1回くらい、山岳地帯に降り積もることもあるそうです。王族たちは、ヘルモン山の雪を献上させて、飲食物を冷やしたそうです。聖書の民にとって、雪は神秘的な存在でした。「雪月花」のように雪の美を愛でるだけではなく、天から舞い降りる雪を見詰めながら、天の上の神に思いを仰ぎ見たのです。

2.《春雨のように》 パレスチナ地方には「雨季と乾季」しかありません。夏(乾季)には一滴の雨も降りませんが、冬(雨季)には雨が降ります。秋の雨が降って、土地が潤って、漸く耕作が可能になります。冬の長雨は井戸や水槽に貯えます。春の雨(祝福の雨)によって穀物は実ります。農民出身の預言者ホセアが「主は…降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れて下さる」と言ったのは、このことです。豊かな水に恵まれて暮らしている私たちには想像もつかぬくらい、パレスチナの人々は水に命を感じたはずです。

3.《砂漠の中の川》 石川啄木は「いのちなき砂のかなしさよ」と詠いましたが、荒れ野を彷徨った旧約の民こそは「いのちなき砂」を知っていたはずです。砂は死と孤独の象徴ですが、水は未来の希望です。預言者イザヤは、主が「砂漠に大河を流れさせる」と告げます。御言葉に背き、神を捨てた人間の罪と虚妄の結果である「砂漠」に、しかし、主は「川」を通すのです。神さまの悲痛な愛です。現代社会にあって、正しく福音を伝えようとすれば、「焼け石に水」「砂を噛むような」徒労感を抱くことは必定です。しかし、神さまの御言葉は「むなしく戻ることはない」のです。私たちは御心を知りませんが、「御心が成るように」祈り続けたいと思います。道は定かに分かりませんが、神さま御自身が道でありますから、示される道を進んで参りたいと思うのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 14:24 | 毎週の講壇から