2014年03月17日

病人を真ん中に【マルコ3:1〜6】

聖句「イエスは手の萎えた人に、『真ん中に立ちなさい』と言われた。」(3:3)

1.《誰が真ん中》 3人で写真を撮ったら、真ん中の人が早死にするという迷信がありました。上座のように真ん中に年配の人を招いた結果です。欧州の街には、真ん中に広場があり、市民の憩いの場であり、時にはデモ等の集会にも利用されます。広場に面して大聖堂や教会もあります。残念ながら、日本の都市には市民のための広場が存在しません。広場の存在は、誰が町の中心、主役であるかという事を示しているのです。

2.《体の灯し火》 女優の真中瞳が芸名を東風万智子に変えました。黒木瞳と並ぶ絶妙な芸名でしたのに残念です。実際、幼児の認識の始まりは「顔」であり、次が「目」です。顔の中心は目、まさしく「真ん中に瞳」なのです。中東では、古代からアイシャドーが用いられていました。美醜の基準も目の大小が決定したくらいです。それ故に、聖書では「目」が大切にされています。イエスさまも「体の灯し火は目である」と教えています。それが無くなってしまったら、光が失われるのです。体の器官としては最も傷付き易く弱い部分ですが、それが無くなったら真っ暗闇、それが「目」に託された意味です。

3.《皆が真ん中》 イエスさまが「体」と仰る時、それは「教会」や「社会」を意味します。それでは、誰が「目」の役割を果たしているでしょう。傷付き易くて弱々しいのですが、それが失われたら、この世は闇なのです。子どもや女性、病人や障碍者、異邦人、寡婦と孤児、差別されている人に光を当てられます。社会で脚光を浴びている人ではなく、どちらかと言えば、「日陰」にいる人を真ん中に連れ出されるのが、イエスさまのお考えのようです。しかし、特別扱いなさるのではなく、一人一人が誰もが皆、真ん中にされて「瞳のように守られる」世界を作ろうとなさっていたのです。愛された者が「真ん中」に立たせられるのです。キリストの愛を知る人は誰でも「真ん中」にいるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:25 | 毎週の講壇から

2014年03月10日

灰と塵の間に【ヨブ記 42:1〜6】

聖句「しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それ故、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」(42:5,6)

1.《三回忌》 東日本大震災から3周年を迎えます。「3.11」前後には、全国で記念行事が粛々と執り行なわれ、マスコミは真面目な報道をするでしょう。この震災は、私たちの在り方に対して色々な問題提起をしています。しかしながら、その課題に応えることないままに、「三回忌」を「弔い上げ」とするように、3周年を機に、蓋がされていくのではないかと、私は危惧します。

2.《不条理》 鹿野融完住職(横浜の徳恩寺)の被災地での活動を、作家の荻野アンナがエッセイに綴っていました。その中に「人がいつか死ぬのは条理、突然の災害による死は不条理。条理と不条理に、共に向き合う心構え」という言葉がありました。しかし、死因が何であるかによらず、愛する者の死こそが不条理なのです。人間にとって愛する者の死は受け入れ難いのです。それでも、そんな不条理極まりない愛する者の死もまた、条理として受け止めることが出来るように、私たちには信仰が与えられているのです。勿論、弱い人間ですから「なぜ?」という問いを発し、不条理に苦しまなくてはなりません。その条理と不条理、両方に「向き合う」ことこそが、私たちに相応しい生き方なのです。

3.《塵と灰》 条理と不条理との間にあって、苦しみ悩む人間の姿を描いているのが「ヨブ記」です。「結び」の大団円は「ヨブ記」の下敷きに成った民話「ヨブ物語」のハッピーエンドで、本文の結末ではありません。サタンは「人間の信仰など所詮、御利益信仰だ!」と言い、友人たちは「因果応報」「神の絶対義」の教条主義から、苦難のヨブに回心を迫ります。元通りの幸せが「ヨブ記」の答ではありません。むしろ、問い続けて行くことが信仰であり、人生であることを、この結末は教えているのです。勿論、人間からの一方的な問いに終始するものではありません。私たちは神さまからも問われるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:23 | 毎週の講壇から

2014年03月03日

主の道は平らかで広い【マタイ3:1〜12】

聖句「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋を真っ直ぐにせよ。』」(3:3)

1.《直線の欺瞞》 北海道時代、アイヌ民族出身の国会議員、萱野茂の勉強会に出ました。「美瑛の丘陵地帯の美しいパッチワークのような風景は、豊かな森を伐採した残骸だ」と教えられました。確かに自然の中に直線は存在しません。直線は人工的な開発の結果です。アフリカの国境線が直線なのは、欧州の植民者たちの搾取の跡、北米や豪州の州境の直線も、真っ直ぐなハイウェイも、先住民族からの簒奪の爪痕を物語っているのです。

2.《運命の逆転》 洗礼者ヨハネの登場は「イザヤ書」の預言成就として描かれています。引用の「道筋を真っ直ぐに」ですが、ヘブル語原典では「真っ直ぐ」と共に「平らかに」の意味もあります。それで「新共同訳」の「イザヤ書」は「広い道を通せ」と訳しています。洗礼者ヨハネ自身は「義の道を示した」「偉大な人」ですから「真っ直ぐ」がお似合いです。しかし、イエスさまは「天国では、より小さい人がヨハネよりも大きい」と謎めいたことを仰います。隣人が見捨てた者を敵が救ったり(サマリア人の譬え)、義人ではなく罪人が義とされたり(ファリサイ派の人と徴税人の譬え)、順列が逆転し、枠組みが外れ、境界線が破れる時、そこに、イエスさまは天国の訪れを示されるのです。

3.《平らで広い》 洗礼者ヨハネの説教は「脅迫」です。恐怖と罪悪感と脅しの3点セットを使っています。現代社会では、このような説教をすることは許されません。「火の洗礼」をもって罪人を焼き払われるメシア像は、飽く迄もヨハネの思い抱いたもので、私たちの信じる十字架のイエスではありません。やはり「真っ直ぐな人」には限界があります。危機感を煽るのは、人を操るのに即効性がありますが、真に世の中を変えることは出来ません。むしろ、私たちは「1人の百歩よりも百人の1歩」(平良修牧師)を目指して参りましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:15 | 毎週の講壇から

2014年02月24日

命のある限り【詩編 146:1〜10】

聖句「命のある限り、わたしを主を賛美し、長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。」(146:2)

1.《生き甲斐》 未だ「仕事が生き甲斐」「子育てに生き甲斐を感じる」と言う人も大勢いますが、最近では趣味やスポーツやペットに生き甲斐を感じる人も増えて来ました。「生き甲斐」は「生きている意義」、「甲斐」は「効き目」を意味します。ある行為に値するだけの効果です。「甲斐性がある」「頼り甲斐」「甲斐性なし」等という言い回しは、自分の働きが価値され意味付けされることが前提です。どこかで他者を必要としているのです。

2.《死に甲斐》 死生学では「死に甲斐」と言います。なぜなら、私たちが生きているのは、いずれ死ぬことが前提となっているからです。「そのためなら自分の命を差し出しても構わない」と思うのが「死に甲斐」です。「生き甲斐」と言えば、自分を生かすこと(自己目的)を強く感じさせます。しかし、自分の損失を承知で他の誰かを生かそうとするのが、究極の「生き甲斐」ではないでしょうか。私たちは何のために生まれたのでしょうか。聖書には、人間存在の意味が「主を賛美するために創造された」と端的に示されています。

3.《命の限り》 現在の「グリー」の定義は「自分を解放し、歓喜すること」、「合唱」は「チームワークによる芸術性の高いパフォーマンス」と成ります。歌うことの醍醐味は「歓喜と解放」なのです。聖書は「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」神を愛するように勧めています。「心を尽くし」は「胸の奥から」「腹の底から」です。声を上げることです。「魂を尽くし」は「自分自身で」です。人生を誰かに代わって生きて貰えないのと同様、人任せにせず、自分の声と思念が大切です。「力を尽くして」は「誠心誠意、一生懸命、全身全霊、精一杯」と訳すことも出来ます。力の出せない日も、神は私たちの気持ちを見てくださいます。古代ユダヤ教徒は来世を信じませんでしたが、私たちは、この世を、ただ1度の「予行演習」と考えます。「本番」に向けて進みましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:46 | 毎週の講壇から

2014年02月18日

小さい人が真ん中に【マタイ18:1〜5】

聖句「そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。」(18:2,3)

1.《供え物》 ユニセフの「子どもの権利条約」批准以来、日本でも「子供」ではなく「子ども」と表記することが多くなりました。「子供」という漢字表記は、かつて少年少女や幼児が「人身御供」として生贄に捧げられたことを連想させるようです。古今東西に、子供を生きながらに殺す残酷な宗教儀礼や風俗がありました。昔の人たちは、自分たちの一番大切な子供を犠牲にすることで、何とかして神々に願いを聞き届けさせようとしていたのです。

2.《犠牲者》 「人身御供」こそありませんが、戦争や動乱、災害の際に真っ先に犠牲になるのが幼い命です。児童虐待、ネグレクト、少年少女を標的にした犯罪も跡を絶ちません。「虐待110番」のような電話相談をしている団体の人が、自分たちは「子ども」を「小さい人」と呼んでいると講演されていました。大人、即ち「大きい人」に対して「小さい人」です。小さくても「人」なのです。未熟で無力でも、大人と同じように、尊重され守られるべき人権を持った人なのです。「小さい人」と呼ぶことで、そのことを訴えているのだそうです。

3.《幼な子》 弟子たちがイエスさまに「誰が天国では一番偉いのか」と尋ねました。この質問の背景には、モーセかエリヤか、アブラハムかエノクかという想定があります。「山上の変貌」を見たせいもあって、「イエスさまかも」という念が湧きました。途端に「自分はナンバー2かも」と思ったのでしょう。私たちもテレビのランキング形式によって情報操作されています。しかし、イエスさまはそんな弟子たちの質問に対して、通りすがりの幼な子を招いて「この子が一番」と言われました。それが「天国」なのです。天国にはランキングも偏差値も、優先順位も生活格差もありません。この世は不平等で弱肉強食で、強い人、大きい人を中心にして回っています。けれども、小さい人を真ん中にして生きる時、たとえ、この世であっても、そこに天国が生まれるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 07:54 | 毎週の講壇から

2014年02月10日

この世のアイコン【Tコリント6:12〜20】

聖句「知らないのですか。あなたがたの体は、神から頂いた聖霊が宿って下さる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」(6:19)

1.《アイコン》コンピュータ画面に出て来る絵柄、ロゴマークを「アイコン」と言います。アイコンは、東方正教会が信仰生活の中心に置く聖画「イコン」から来ています。正教徒にとってイコンは、単なる絵ではありません。文字の読み書きが出来る人の少なかった昔は聖書の代わりを果たしました。西洋の絵描きのように、イコン画家は独自性や作家性を出して自己主張はしません。絵を自己主張の道具にすることを徹底的に避けているのです。

2.《天国の窓》イコン画家に署名はありません。有名なアンドレイ・ルブリョーフのイコンでも、「ルブリョーフ派」「ルブリョーフ?」と表記される物が多いのです。イコンは模写されることを前提としています。真贋判定や著作権の問題などありません。イコンは飽く迄も窓であって、そこから生まれる祈りが大切にされているからです。ギリシア語の「エイコーン」は、神の「似姿」です。信者は家の各所にイコンを置きます。そこに「天国の窓」が開くと言います。

3.《一つの体》コンピュータのアイコンをクリックすると、そこからプログラムが広がって行きます。同じように、イコンを見た人がそれを入り口として神の国や天国を垣間見るのです。聖書主義によって発展したプロテスタントには、そのような装置はありません。言語と文字を切り口にして来た私たちは、視覚と感覚を疎かにして来ました。文書メディアの影響力低下著しい時代です。その中にあって、プロテスタント教会のアイコンに成り得るのは、やはり「キリストの体なる教会」、信仰共同体だと、私は思います。聖書の「体/ソーマ」は「肉/サルクス」ではありません。キリスト、教会、永遠の命に繋がって行くものです。行人坂教会に来ると、そこから神の世界が見えて来る、そのような場に成って参りますように、皆で力を合わせて行きたいと思うのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:31 | 毎週の講壇から

2014年02月03日

雪落ちてまた帰らず 【イザヤ 55:8〜13】

聖句「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。…私の口から出る私の言葉も、むなしくは、私のもとに戻らない。」(55:10,11)

1.《雪より清けし》 パレスチナ地方は温暖なため、真冬でも雪は降りませんが、数年に1回くらい、山岳地帯に降り積もることもあるそうです。王族たちは、ヘルモン山の雪を献上させて、飲食物を冷やしたそうです。聖書の民にとって、雪は神秘的な存在でした。「雪月花」のように雪の美を愛でるだけではなく、天から舞い降りる雪を見詰めながら、天の上の神に思いを仰ぎ見たのです。

2.《春雨のように》 パレスチナ地方には「雨季と乾季」しかありません。夏(乾季)には一滴の雨も降りませんが、冬(雨季)には雨が降ります。秋の雨が降って、土地が潤って、漸く耕作が可能になります。冬の長雨は井戸や水槽に貯えます。春の雨(祝福の雨)によって穀物は実ります。農民出身の預言者ホセアが「主は…降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れて下さる」と言ったのは、このことです。豊かな水に恵まれて暮らしている私たちには想像もつかぬくらい、パレスチナの人々は水に命を感じたはずです。

3.《砂漠の中の川》 石川啄木は「いのちなき砂のかなしさよ」と詠いましたが、荒れ野を彷徨った旧約の民こそは「いのちなき砂」を知っていたはずです。砂は死と孤独の象徴ですが、水は未来の希望です。預言者イザヤは、主が「砂漠に大河を流れさせる」と告げます。御言葉に背き、神を捨てた人間の罪と虚妄の結果である「砂漠」に、しかし、主は「川」を通すのです。神さまの悲痛な愛です。現代社会にあって、正しく福音を伝えようとすれば、「焼け石に水」「砂を噛むような」徒労感を抱くことは必定です。しかし、神さまの御言葉は「むなしく戻ることはない」のです。私たちは御心を知りませんが、「御心が成るように」祈り続けたいと思います。道は定かに分かりませんが、神さま御自身が道でありますから、示される道を進んで参りたいと思うのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 14:24 | 毎週の講壇から

2014年01月27日

安らかに過ごしなさい【Uペトロ3:14〜18】

聖句「だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、疵や汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。」(3:14)

1.《パドック》 競馬場にはパドックと言われる馬場があります。出走する馬が厩務員に手綱を引かれて数周回するのです。観客は出走馬の品評をしますが、馬たちは筋肉を温め気合を入れたり、落ち着いたりした上で、騎手を乗せてコースへの移動します。教会もパドックのような場です。自らの心を落ち着け、神や人との関係を繋ぎ直して、イエスさまをお乗せして生活へと遣わされるのです。

2.《平和の中》 14節は「平和の内に見出される」が直訳です。前の口語訳は「安らかな心で」、新改訳は「平安をもって」と訳していますが、単に「心安らか」とか「みんな仲良く」という意味ではありません。この語の背景には、ヘブル語の「シャローム/平和」があります。旧約聖書の「シャローム」は、何よりも先ず「私たちと神との正しい関係」を言います。ですから、極端な言い方をすれば、心穏やかでなくても、心がザワザワしていても良いのです。それでも、私たちは神さまによって救われているのです。自分で努力して獲得する「心安らかさ」ではありません。人の目にどう映るかではないのです。真実を見て居られる神に対して、嘘偽りなく生きているかどうかということなのです。

3.《私の足場》 17節の「堅固な足場を失わないように注意しなさい」も大切です。以前は「確信」や「堅実さ」と観念的に訳されていましたが、「堅く据える」という建築用語なのです。16節の「心の定まらない」は、むしろ「足場がグラついている」です。大切なのは「心」ではなく「足場」なのです。信仰者の「足場」とは「キリストを知ること」です。それも単なる知識や教義の丸暗記ではなく、イエスさまと出会うことです。イエスさまとの出会いは、聖書を読んで勉強することだけにあるのではありません。讃美歌や祈りの中にもあります。他の人たちとの出会いや対話の中にも、礼拝の中にもあるはずです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 12:59 | 毎週の講壇から

2014年01月20日

成熟を目指して【ヘブライ5:11〜6:12】

聖句「…基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。」(6:1-2)

1.《成熟社会》 英国の物理学者、未来学者のデニス・ガボールが、1972年に『成熟社会』という本を出しました。物質万能主義を否定し精神性を、経済成長と大量消費ではなく生活の質の向上を求めるのです。持続可能なこと、身の丈に合うこと、多様性に個性、生活者の視点…。素晴らしい価値観が提案されています。しかし、残念ながら、現在の日本の政治は逆行を始めています。

2.《美容整形》 為政者たちが連呼する「成長」はアンチエージングと同じです。美容整形と厚化粧で見た目の美を維持しようとするのに似ています。その意味では「中身は空っぽ」と自白しているようなものです。大切なのは内面の美です。むしろ「全ての事には季節があり、全ての業には時がある」のであり、「神の成されることは皆その時に適って美しい」のです。以前のように働くことが出来ずとも、神は祈りの業を与えられます。神さまは目に見えることではなく、私たちの内実を見守って居られるのです。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」のです。「時宜に適っていること」が、即ち「美しい」のです。

3.《人生全う》 悔い改め、信仰、洗礼、按手、復活、終末と審判。どれも教会が大切にしている要素ですが、それを「打ち捨てて」成熟を目指せと言われています。言葉や教え、教理や儀式ではなく、実際に「生きよ」と言うのです。11節「熱心さ」も「勤勉さ、律儀さ」の意味です。信仰は生きられるべきもの、持続可能性、身の丈に合った、多様性と個性という鍵語の通りです。「成熟」とは「完成、完了」です。十字架上の「全てが終わった」の御言葉とも繋がります。私たちがキリスト者としての人生を「全うする」という意味です。無理して誰かに合わせる必要もなく、多様性と個性が保証されているのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:20 | 毎週の講壇から

2014年01月13日

ルールは人のためにある【マルコ2:23〜28】

聖句「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(2:27,28)

1.《ディズニー》 ディズニーランドのレストランで若夫婦がお子様ランチを注文しました。スタッフは一旦断ったのですが、只ならぬ様子を察して尋ねると、幼くして死んだ娘の命日に来たと言います。スタッフは2人を家族席に誘導、幼児椅子を用意し、お子様ランチを運んだそうです。ルールに厳しい遊園地ですが、時には、ルールを破っても良いという別ルールが存在しているのです。

2.《麦穂を摘む》 「マタイによる福音書」「ルカによる福音書」の平行記事では、弟子たちが空腹の余り、麦穂を摘んで手で揉んで食べたことになっています。しかし、「マルコによる福音書」の当該箇所には、その場で食べたとは書いてありません。実は、「申命記」23章「人の畑の物」という律法で、旅人や寄留者、寡婦や孤児は他人の畑の実りを食べてもよいということが、緊急避難的処置として認められているのです。「思う存分満足するまで」食べて構わないと言うのです。弟子たちは摘み取った麦を晩御飯にしたのでしょう。イエスさまもお相伴に与ったはずです。イエスさまの貧しい暮らしぶりが偲ばれます。

3.《安息日の主》 ファリサイ派の人々が警告したのは、安息日に禁じられた収穫労働をしていると見做したからです。警告を無視して再犯すると、石打ちの刑だったとされています。当時のファリサイ派はユダヤに2万5千人いました。山口組の構成員数、教団の東京・西東京教区の現住陪餐会員数とほぼ同数です。理論武装しているだけでなく、組織力もあります。敵に回したら厄介なのです。しかし、イエスさまは怯まず宣言なさいました。「ルールは人のためにある」と。私たちも決断に迷い、判断に窮した時、イエスさまなら何とされるかを考え、ルールよりも大切なことがあることに思いを致したいものです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:41 | 毎週の講壇から