2013年11月18日

囚われない心【マルコ7:14〜23】

聖句「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。」(7:20,21)

1.《福と鬼》節分の豆撒きの口上は「福は内、鬼は外」です。「鬼」とは「災厄」の意味です。「家内安全」は誰しも願いしますが、だからと言って「自分の家庭さえ幸せなら良い」と考える剥き出しのエゴイズムには躊躇を感じます。そのせいでしょうか、寺社ですら「鬼も内」と唱える所があります。

2.《内と外》問題は「内と外」の区別です。聖書の世界、古代ユダヤ社会では、異民族、異教徒、それらと接する徴税人は汚れた者とされていました。婦人病に悩む女性が「群集に紛れ込み、後ろから」イエスさまの服に触れるのも、彼女に接しただけで「夕方まで汚れる」とされていたからです。死人や死体も、それに触れた者までも汚れが伝染すると考えられていました。しかし、イエスさまは「忌み穢れ」のタブーを打ち破って、御自ら外に出て行かれました。

3.《罪と幸》イエスさまは「鬼は外から来るのではなく、鬼は内にいる」と仰っているのです。罪や悪は人間の心の中から生まれるもので、病気や不幸とは何の関係もないのです。イエスさまは社会の外側に置かれた人に近寄り、寄り添って生きられました。寄り添うことはくっ付いて「共依存」に成ることではありません。相手の人格を認め、相手の人生を尊重すればこそ、距離を保つ必要があります。その他者に心を与える時、幸せが生まれるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:47 | 毎週の講壇から

2013年11月11日

すべてが素晴らしい【マルコ7:31〜37】

聖句「このかたのなさったことはすべて、素晴らしい。」(7:37)

1.《多様性》 皆さんは、その教会の礼拝に初出席した時、その教会を、どんな点で評価なさるでしょうか。美しく壮麗な礼拝堂、厳粛な雰囲気、立派なパイプオルガン、聖歌隊のハーモニー、牧師の説教の良し悪し、受付の対応、交わりの豊かさ、町の名士がいること、うどん食堂のお出汁…?。私が教会を評価する基準は多様性です。色々な人たちが礼拝に集っていることです。

2.《豊かさ》 世間では「健常者」と「障碍者」と区別します。福祉制度の上では必要な区別ですが、人間としての価値、尊厳に何等の違いもありません。安積遊歩さんは、講演の際に「誰もでが障碍者になることの出来る可能性を持っている」と言っていました。考えてみれば、神を知る完全な知識を持っていないという意味では、私たちも「知恵遅れ」です。障碍の有無は価値の差ではなく、個性の差なのです。教会に行って笑顔で迎えてくれたとしても、マクドナルドのように没個性な対応なら気持ち悪いです。個性が違えば違う程に、交わりは豊かになるのです。ここにこそ、神さまの創造の豊かさがあるのです。

3.《出会い》 差別と偏見は、私たちの無知から来ています。知らないことが他人の心を傷つけ、何も知らないくせに勝手な思い込みを喋ります。しかも、それは親から子へと伝染していくのです。在日外国人、アイヌ民族、ハンセン病患者への差別など、無知が引き起こした罪悪は枚挙に暇がありません。しかし、知識が積み重ねられても十分ではありません。そこに出会いが必要なのです。「サマリア人の譬え話」は、出会いこそが「善き」ものだったのです。イエスさまも常に出会いを求めて行きました。あのように「人のかたち」をとって、この世に来られたのは、私たちと出会って、共に生きるためだったのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:46 | 毎週の講壇から

2013年11月04日

草の花【Tペトロ1:22〜25】

聖句「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」(1:24,25)

1.《死者の葬り》 人間だけが死者を葬るということをします。動物は葬ることをしません。何万年も昔の墓からも、懇ろに埋葬された遺骨が出土して、原始の人たちの死者への思いが察せられます。葬る理由は、死者の霊的作用への恐れ、穢れへの忌みかも知れません。しかし、迷信に支配された時代でも、お墓は生活圏の近くに作られたのです。生と死とは地続きなのです。死者たちは、尚、生者たちの中に生きているのです。

2.《過ぎ去る者》 『草の花』は福永武彦の小説です。敗戦後の結核療養所を舞台に、死を見つめて生きる人たちの孤独と絶望を綴った作品です。福永もまた、死者が生者に依然として働き掛けることを言います。その人を憶える人が徐々に死に絶えて後、二度目の決定的な死を迎える。だから、死者を憶えて生きることこそが生者の義務なのだと言います。しかし、その記憶も失われます。メルロ=ポンティは身体を「過去という時間の堆積物」と言いました。私たちが愛する者を失った時、身をもぎ取られるように感じるのは、そのためです。

3.《帰って行く》 地上の命も記憶すらも過ぎ去って行きます。「草は枯れ、花は散る」のです。けれども、聖書は「永遠に変わることがない主の言葉」「朽ちない種」と言います。「草の花」の引用は「イザヤ書」40章「帰還の約束」から採られています。バビロン捕囚からの帰還の預言、しかも、3つの福音書が「神の子イエス・キリストの福音の初め」として巻頭に掲げている御言葉です。草の如くに枯れ、花の如くに散る私たちですが、戻るべき道が用意されているのです。人の目から見れば、以前と何も変わって見えません。相変わらず山あり谷ありです。しかし、確実に行き着く先が変わっているのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:49 | 毎週の講壇から

2013年10月28日

人生はジグザグ模様

聖句「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」(10:32)

1.《牧師の定義》 「牧師」は英語の「パスター」を翻訳した語です。その語源は「羊飼い」です。家畜に草を食べさせながら移動する「遊牧者」です。「牧師」と言うと、生真面目なイメージがありますが、一文字「遊ぶ」と付けるだけで、田園に遊び戯れる楽しげなイメージに成ります。また、牧師は、仏教で言えば「一所不在」、遍歴する者でなければいけません。

2.《遍歴する主》 イエスさまの生活も、町々村々を旅して歩き、そこに暮らす人たちと出会う遍歴でした。主の行く先には、苦しみ悩む人がいます。イエスさまは彼らを癒しますが、いずれまた別の病気に罹ったはずです。蘇えった人も、いずれ再び亡くなったことでしょう。悩みが1つ解決したと思っても、それは次の悩みへの小休止に過ぎません。生き難さは変わらないのです。けれども、イエスさまとの出会いは、私たちの希望と勇気を与えてくれます。イエスさまは悩む人たちと一緒に愛の宝を育み、生み出していかれたのです。

3.《先導する主》 「マルコによる福音書」を読むと、イエスさまの旅のルートがジグザグであることが分かります。合理的ではないのです。まるで、誰かを訪ね求めて彷徨い歩いているような有様です。そこに出会いがあるのでしょう。しかし、エルサレムを目指し始めるや、真っ直ぐに進みます。エルサレムには受難と十字架が待っていますから、弟子たちは恐れます。私たちも多かれ少なかれ不安を抱えて暮らしています。しかし、主が先導してくださるのです。「もう後がない」「もうお仕舞い」と思うこともありますが、「停車駅の1つ」「地上は仮住まい」「次は何が来るのか」と考えてみたらどうでしょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:11 | 毎週の講壇から

2013年10月21日

ウエル、ウエル、ウエル【Tコリント 10:13】

聖句「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます」(10:13)

1.《父の形見》 1964年、空前のエレキブームに、高校1年生だった私は、友人たちと共にバンドを結成して、聖公会三光教会のクリスマス会で演奏しました。やがてフォークの時代が来ました。私もピーター・ポール&マリーやボブ・ディランに影響を受けて、アコギを弾くようになりました。20歳のお祝いに父が買ってくれたギターが、父の唯一の形見になりました。

2.《長い道程》 ピーター・ヤローもディランもユダヤ系で、旧約聖書を主題にした歌詞が多くありました。私たちのバンドも、1960年代末、コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージックを三光教会の礼拝で演奏しました。しかし、司祭に受け入れられませんでした。持病があったため、プロを目指すこともなく、バンドは解散しました。けれども、ニッポン放送のフォーク番組に出演した際に、現在の妻と知り合えたことは幸いでした。仕事も家庭も順調でしたが、ある日、持病の悪化で大量吐血し、緊急手術をすることになりました。

3.《新しい命》 病気によって希望を失った時、主治医から信仰を持つように勧められました。行人坂教会に行く前には、浄土真宗の家なので躊躇もしました。しかし、礼拝では親身に受け入れて貰い、2006年の復活日に夫婦で洗礼を受けました。受洗翌日、自分が生まれ変わったような印象を受けました。だから、受洗志願者には、その感情を大切にと必ず言います。神さまは、遅れて来た人にも祝福を与えて下さいます。礼拝の中でギター伴奏をする機会も与えられ、神さまが新しい人生を用意していて下さったことを実感しました。いつもキリストは共にいて下さっていますが、御手を差し伸べて下さってもいるのです。

信徒奨励 星野文雄

posted by 行人坂教会 at 17:23 | 毎週の講壇から

2013年10月14日

いのちの土台【マタイ7:24〜29】

聖句「雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」(7:25)

1.《呼び掛け》 イエスさまの「山上の説教」は「幸いなるかな」という祝福への招きで始まりました。そして「あなたはどこに立って生きるか」という決断への招きで結ばれているのです。招いておられるのは主、決断するのは私たちです。「山上の説教」は、これまで通りの自分にして置いては聞くことの出来ぬ教えです。単なる人生論や修養論ではありません。

2.《岩の上に》 私たちが家を建てるとなれば、建築デザインやスタイル、素材に話が及びます。ラビの教えにも「石材の上に煉瓦を積む家」の話があり、童話の「三匹の子豚」も同系列です。しかし、取り敢えずは「家を建てる」こと、生活を営むことが言われています。試練が襲い掛かって来るのも、全ての人の人生に共通です。しかし、それでも倒れないのは「土台」が違うのです。問題は、どこに自分の生活の「居を定めるか」です。「ルカによる福音書」の並行記事では、「地面を深く掘り下げる」という別の解釈をしています。

3.《生きた石》 愚かな人生は「倒れ方が酷かった」とあり、致命的なことが分かります。「聞いて行なう」は21節の「天の父の御心を行なう」と繋がります。「文語訳」の「天に在す我が父の御旨を行のう」、即ち「御旨に生きる」のです。さすれば、もはや条件を満たす等という陳腐な事ではありません。「聞く」と「行なう」は1つです。私たちが真心で受け止めて、それが生き方に成るのです。イエスさまこそ私たちの「命の土台」です。石そのものに命はありませんが、命の土台に与る時、私たちも「生きた石」とされるのです。私たちの命の拠り所はどこにあるのか、何の甲斐あって生きるのか、吟味すべきです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:38 | 毎週の講壇から

2013年10月07日

狭い道を選ぼう【マタイ7:13〜23】

聖句「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」(7:13)

1.《掟の門》 カフカの短編小説に『掟の門』があります。「掟の門」の前には屈強な門番が立っています。入ろうとした男は門前で待機させられます。たとえ忍び込んでも、奥に行く程に恐ろしい門番が何人も立ち塞がっていると言います。やがて臨終を迎えた男は「なぜ、私独りしか掟の門に来ないのか」と尋ねると、門番は「この入り口は、お前のために作られたものだ」と答えるのでした。

2.《狭き門》 「掟」はユダヤ教の律法、旧約の信仰を意味します。掟も信仰も実際に生きられてこそのものです。イエスさまの譬にある門も、大勢の人が押し寄せて行列を作っているから「狭き門」なのではありません。門はイエスさま自身なのです(ヨハネによる福音書10章9節)。「信ぜよ」と招いて居られるのです。しかし、「狭い」と聞いて、私たちは「窮屈」「困難」と錯覚します。実際には、教会や信徒が「狭き門」になって、敷居を高くしているのです。信仰は「細い道」です。ただ単に、そこにに続いているから「狭き門」なのです。

3.《細い道》 無条件に招いて居られるのに「狭い」のは何故でしょうか。1つは独りでしか入れないからです。信仰は人生ですから、誰か他の人に代わって生きて貰う訳にはいかないのです。もう1つは荷物を持って入ることが出来ないからです。学歴や経歴、肩書き、地位や名誉、家財産、過去の罪、長年の垢を落として門に入るのです。左右には裾野が広がっています。一方には、自分も他人も戒めで縛り、息が詰まる律法主義の世界があり、他方、罪の奴隷に成り下がる自由放縦の世界があります。しかし、イエスさまを信じる道は自由の道です。尾根伝いの道です。山の道(人生)は自分の足で歩いてこそです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:46 | 毎週の講壇から

2013年09月23日

目ん玉から丸太ん棒 【マタイ7:1〜6】

聖句「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(7:5)

1.《目に入る物》 目から涙が出るのは当たり前。長い人生の途上には、目に色々な物が入り、目から色々なものが出て来ます。将棋には「目から火が出る王手飛車」、相撲には「目から汗が出る」猛練習、聖書には「目から鱗」があります。私も学生時代、京都の呉服問屋でバイト中に事故に遭い、目に入った蛍光管の破片を、病院の眼科で1つずつ取り出して貰った経験があります。

2.《木屑と丸太》 目に入った異物を自分で取り除くことは、自分独りで出来ません。小さいからと言って放置して良い物でもありません。イエスさまは大工の息子ですから、丸太を挽いたり削ったりして木屑の舞い散る木工所を、身をもって御存知だったはずです。「他人の目の木屑には気付くが、自分の目の丸太に気付かない」は「自分の事は棚に上げて、他人の失敗を指摘する」嫌味な奴のことですが、一方的に他人の世話ばかり焼いている人にも当て嵌まります。何が問題かと言えば、人間関係が一方向的に成っている点です。

3.《共同の作業》 コントの締めは「豚に真珠」です。「猫に小判」は単なる「宝の持ち腐れ」ですが、「豚に真珠」は「折角見付けたお宝を粗末にしてはいけない」という意味です。それは福音、十字架の愛、そして、イエスさまの愛が私たちの相互関係に受肉することなのです。目に木っ端が入れば、取って上げます。「困った時はお互い様」なのです。双方向的なのです。何の痛みも共感も無い所から出発するのは、根本的に間違っています。私たちが他の人を、どんな眼差しで見ているか、神さまは御存知です。自分の目の木っ端を取り除くのに、必ず他の人の手を借りなければなりません。それが福音の世界です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:09 | 毎週の講壇から

2013年09月16日

お積み立ては天国銀行へ【マタイ6:19〜21、24】

聖句「富は、天に積みなさい。…あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(6:20,21)

1.《銀行ありき》 イエスさまの時代には、既に「銀行」がありました。「タラントンの喩え話」や「ムナの喩え話」に「銀行」という語が出て来ますから、間違いありません。いずれも、損失を恐れる余りに資金運用を怠り、地面に隠して置いた僕が「役立たず」と言われて追い出される話です。教会では、神の賜物の話に読み替えようとしますが、正直、露骨なお金儲けの話です。

2.《商売と金融》 ユダヤ人は「お金儲けが上手」と言われています。実際、ロスチャイルド財閥やクーン=レーブ商会があり、シェイクスピアやディケンズの作品にも「強欲なユダヤ人」が登場します。しかし、それは飽く迄ステレオタイプ、日本人が皆「サムライとニンジャ」で無いのと同じです。律法に金貸しを禁じられていたユダヤ人ですが、バビロン捕囚期に止む無く業務を始めています。強い絆を利用して金融業と総合商社を立ち上げたのです。同時に商業倫理も発達して仕入れ値の1割6分以上は暴利であるとされました。

3.《宝を奉げる》 イエスさまは「銀行」まで自作のコントに仕込んで居られる程に台本作家でしたが、御自身は教会の組織化も、大聖堂建築も、信徒動員のリバイバル集会も為さいませんでした。むしろ、群集が集まると、移動して行きました。集まり過ぎた群衆のために、ご飯の心配を為さるような御方でした。終生「富」とは無縁でした。24節の「富/マモン」とは「拝金主義」です。19節以下の「富/セサウロス」は「宝」と訳すべきでしょう。「花咲爺」のように、ひょんなことから見つけるものです。「銀行」に積み立てるものではありません。積み立てるならば天の神に感謝して、その喜びをお奉げするのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:09 | 毎週の講壇から

2013年09月09日

異邦人の祈り【マタイ6:5〜15】

聖句「あなたがたが祈る時は、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。」(6:7)

1.《何も要らない》 4世紀の主教、クリュソストモスは「神に祈るために/あなたに何も要らない」という言葉を残しています。「祈りは苦手」と呟く人の多くは何かの準備や用意が必要、何かが足りないと誤解しています。むしろ、イエスさまは「くどくど祈るな」と命じています。多神教のローマ世界では、八百萬の神の名前が抜けないように、神の名前の一覧表を作って読み上げたのです。

2.《祈る人は聴く》 天の父は「願う前から」あなたの祈りを御存知なのです。つまり、祈りの本質は私たちがお喋りをすることではなく、聴くことにこそあります。ある精神科医は「患者が他者の話に耳を傾け始めたら治っている」と言いました。祈りも同じです。祈りは神さまからの贈り物です。私たちが業績を作り、くどくど祈って、神さまに何かを要求するようなものではありません。イエスさまが「アッバ、父よ」と赤ちゃん語で呼び掛けられたように、信頼と愛情をもって呼ぶのです。むしろ、私たちが神を忘れることが問題です。

3.《心底から祈る》 プロテスタントの伝統は、言葉で祈ることに比重が偏り過ぎています。東方教会の「屈身礼拝」や「断食」のように体を使う祈りもあって良いでしょう。何にせよ、形式だけで中身の伴わないものに陥る危険はあります。またしても、私たちは祈りが神の賜物であることを忘れ、受け取らないまま、無理に捻り出そうとするのです。私たちの「心の祈り」の最初は「私を憐れんでください」です。「絶えず祈りなさい」と言われるのは、このことです。祈りは大切ですが、大切にする余りに偶像化してはいけません。食べるのに指や箸は大切ですが、まさか箸や指まで食べてしまう人はいないでしょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:31 | 毎週の講壇から