2014年01月06日

新しい人間【マルコ10:46〜52】

聖句「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」(10:52)

1.《変わり得る》 たとえ世界一高い山に登って下りて来ても、世界一周の大旅行をして来ても、その旅の中に出会いがなければ、人間は何も変わりません。名所巡りの絵葉書を捲るのと同じです。つまり、私は自分独りでは変われない。関係性の中でしか何かが生まれる可能性はないのです。それは「変わり身の速さ」とは違います。変化の速度が遅くても、表面ではなく内実が変わっていくことなのです。聖書は「人間は変わり得る」と訴えています。主なる神がそれに賭けて下さった、それがイエス・キリストの十字架なのです。

2.《座っている》 イエスさまが盲人を癒されて「目出度し」という話ではありません。御利益を説くだけなら、2千年も前の古臭い話に価値はありません。これもまた、出会いによって人生が変わる話なのです。この盲人は物乞いをするために「道端に座って」いました。物乞いは人に頼って生きることです。立ち上がって自分の足で歩もうとしないのです。そして「道」には「人生」が暗示されています。私たちもまた、悲しみや不幸を引き受けようとはしないで、自分の人生を棚上げしてしまって、道端に座り込んでしまうことがあるのです。

3.《叫び続ける》 バルティマイは目が不自由だったのですが、イエスさまが近くに来られたと聞いて「ダビデの子よ、私を憐れんで下さい」と一生懸命に叫びました。座っているだけの人生から脱却したいと思ったのです。「ダビデの子」というメシアの称号は「マルコによる福音書」中ここだけです。そんなバルティマイに、イエスさまは「何をして欲しいか」と問います。実は「自分が何を願っているか、分かっていない」(10:38)人が大勢いるのです。バルティマイは、イエスさまの十字架の道行きに従って行くのでした。強いられてでもありません。低きに流れるのでもありません。自立と連帯とは1つなのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:17 | 毎週の講壇から

2013年12月30日

しあわせをたずねて【ルカ6:20〜26】

聖句「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。」(6:20,21)

1.《繁栄を求めて》 パナソニックの創始者、松下幸之助は、終戦後、各宗教の代表者を招いて、各宗旨の勘所を求めたそうです。しかし、いずれも彼を満足させるものはなく、自らの考えを纏めたのが「PHP」でした。その意味は「繁栄によって平和と幸福を」です。「平和と幸福」は「繁栄」によってもたらされるということです。焼け野原と化した日本を、何とかして復興させようとの意気込みで、何よりも「繁栄」を優先させたのです。

2.《衰退する時間》 「繁栄」とは「商売繁盛」です。商売人がそれを第一目標にするのは仕方ないとしても、他の分野まで倣ってしまったのは問題です。精神のみならず産業それ自体まで空洞化している日本社会の現状を見るにつけ、余りにも人間中心の価値観だったのでは無いでしょうか。「生病老死」「四苦八苦」の現実と向き合うのが宗教です。苦しみは人生に付きものですし、衰退も誕生の時から命の中に組み込まれているのです。成長するだけが能ではなく、次の新しい命の芽生えのために、ゆっくりと衰退して行くことも大切なのです。

3.《幸せの求道者》 「繁栄を前提とした幸福」は、お金が無ければ不幸せという意味です。実際には、お金があっても不幸な人は大勢います。それに比べると、イエスさまの「幸いなるかな」はショッキングです。どうして、貧困や飢えや悲嘆が幸いでしょうか。主は「これが幸い」と形にしようとはなさいません。本当の幸いとは何だろうと、私たちに問い掛けて居られるのです。現世的な幸い、物質的な幸いは永続するものではありません。むしろ、呆気なく簡単に引っ繰り返ってしまうのです。幸せは手に入れられるものではなく、幸せを尋ね求めて生きて行くところに、本当の幸せがあるのでは無いでしょうか。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 07:15 | 毎週の講壇から

2013年12月23日

別の道がある【マタイ2:1〜12】

聖句「ところが、『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」(2:12)

1.《博士と王》 米国の戦争映画『スリー・キングス』も、ビセーの劇伴『アルルの女』に引用される民謡「三人の王の行進」も、クリスマスの博士たちが変形したものです。6世紀頃に「博士」は「王」と言われ始め、18世紀の植民地獲得競争の時代には、ヨーロッパ、アジア、アフリカの3大陸を代表する王として描かれるようになります。単なる異国趣味だったものが、やがて西欧列強諸国の権力欲と結び付いて、「博士」より「王」が好まれるようになったのです。

2.《ヘロデ王》 「ヨハネの黙示録」にも「王の王」という表現があります。「救い主」と訳される「メシア」も本来は「王」を意味する語です。占星術の学者たちは、エルサレムの王宮にヘロデ王を訪ねます。「ユダヤ人の王」は王宮に生まれると考えたのです。ヘロデ王には5人のお妃と7人の息子がいました。しかし、その時々のローマの権力者に取り入って、ユダヤを支配するのがお家芸でした。「ローマあってのヘロデ王家」だったのです。まさか自分の家族の中から、帝国に叛旗を翻す者が出るはずないことは明らかでした。

3.《別の道を》 占星術の学者たちは何のために、東の方から「地の果て」ユダヤまで旅して来たのでしょうか。かつて権勢を誇った東方の諸国も消滅し、辛うじてローマに拮抗するパルティアも王権の交代が続く、不安定な状態でした。彼らもまた、ローマ帝国の圧倒的な影響力から、衰退著しいオリエント世界を開放してくれる「王の王」を求めて辿り着いたのです。しかし、彼らが目にしたのは、この世の権力ではなく、無力な赤ん坊に受肉した神の慈しみの深さでした。行き詰まりを覚え、希望を抱きにくい時代です。破滅に向かっているとさえ思われます。しかし、私たちにも必ず「別の道」が与えられるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:42 | 毎週の講壇から

2013年12月16日

受ける喜び、与える幸せ【使徒言行録20:31〜38】

聖句「主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、私はいつも身をもって示してきました。」(20:35)

1.《誕生日》 今でこそ降誕日は12月25日になっていますが、アレクサンドリアのクレメンスは5月20日と推測しました。聖書の記述からすれば、雨季の最中に羊飼いが野宿するはずはありません。春の雨と大麦刈りの終わった5月末が相応しいのです。ミトラ教の冬至祭や農業祭サトゥルナリアに対抗するため、教会が日程を振り替えたのです。御自分の与り知らないところで、誕生日を決められて、さぞやイエスさまも驚きになったことでしょう。

2.《人の心》 だからと言って、クリスマスを否定するのでは人情がありません。つまり、12月25日の意味は人情にあるのです。巡り巡って、寒い冬の最中にお祝いされるようになったことにも、神の御心があるのです。私の師匠、深田未来生牧師は自由学園を退学になった後、16歳で渡米して、皿洗いと掃除夫をしながら苦学しました。けれども、高校から大学までの間、一度も寂しいクリスマスを過ごしたことはなかったと言います。ある時は、級友たちがプレゼントを山積みしてくれました。毎年、招いて迎え入れてくれる家庭もあったのです。

3.《温かみ》 現代日本の子供たちにとって、クリスマスは「プレゼントを貰う」だけの季節に成っています。しかし、本当は「受ける喜び」と「与える幸せ」とは切り離すことが出来ないのです。お返しの出来ない人に与えて、見返りを求めることをしないで済む所に「与える幸せ」があります。「受くるより与えるが幸いなり」と言いますが、「受ける喜び」まで否定する必要はありません。また、受け入れることも大切です。O・ヘンリーの『賢者の贈り物』は、貧しい夫婦が行き違いの贈り物をする話です。お互い無益なので「バカな贈り物」なのですが、相手のことを自分より大切に思った結果なのです。これが宝です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:44 | 毎週の講壇から

2013年12月09日

恵みは恵みから生まれる【ルカ2:1〜7】

聖句「初めての子を産み、布に包んで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(2:7)

1.《ピエタ》 十字架から降ろされたキリストの死体を、母マリアが抱きかかえて見つめる図像を「ピエタ」と言います。「憐れみ、同情、慈悲」という意味です。しかし、ラテン語の「ピエタス」には「悲しみ」や「嘆き」を感じさせるような意味内容は全くありません。「ピエタ」は14世紀ドイツで「祈り念じるための図像」として生まれ、専ら個人の魂の救いを願って祈られるようになりました。我が子を失う究極の悲しみを知る聖母の憐れみに縋ったのです。

2.《死の影》 クリスマスはキリストの降誕を祝う季節ですが、それだけには終わらないのです。クリスマスには「死の影」が漂っています。ヘロデ王によるベツレヘムの嬰児虐殺の物語があり、生後間もないメシアはエジプトに逃れます。イエスさまは「難民」として生まれたのです。難民の物語は族長アブラハムやヤコブにまで遡ります。「出エジプト記」には、ヘブライ人の赤ん坊虐殺命令、エジプト人の初子の死という、これまた血生臭い話があります。クリスマスは否応も無く、虐殺と報復、難民の歴史へと繋がって行くのです。

3.《御恵み》 お目出度い季節に、こんな血生臭い事柄を採り上げなくてもよいではないかと思われるかも知れません。しかし、神さまは繰り返し「クリスマスの意味を忘れるな」と仰るのです。「お祝いをするな」と言うのではありません。「何故に祝うのか、省みよ」との仰せです。苦難を乗り越えたからでも、解放されて自由に成ったからでも、満腹になったからでもありません。未だ解放されぬ者にとっても、苦難と飢えの中にある者にとっても、クリスマスなのです。この血生臭い世界に、イエスさまが難民としてお生まれになったからです。本当のクリスマスは誰も「置き去り」にはしないのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:34 | 毎週の講壇から

2013年12月02日

ぼく、インマヌエル【マタイ1:18〜25あ】

聖句「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(1:21)

1.《エマニュエル》1970年代に『エマニエル夫人』という映画が一世を風靡しました。シリーズ化され、凡百の亜流作品が生まれました。ある年のアドベントに、説教ネタに頭を悩ましていた私は、聖書の「インマヌエル」が「エマニュエル」と同じ名前であることに気付いて仰天しました。エロ映画のヒロインの名前にしたのは、一種の挑発だったのでしょう。

2.《インマヌエル》キリスト教文化圏では、エマニュエルという名前は珍しい名前ではありません。姓名の両方にあり、男女の両方にあります。各界に「エマニュエル」の名前を持つ人がいます。英語圏では「エマ」、西語圏では「マヌエル、マヌエラ、マヌー」という略称も普及しています。日本で言えば「友夫、友子」です。ホーリネス系の教会が「インマヌエル」を冠に付ける理由は「神は我らと共に在す」の権威を前面に押し出しているのでしょう。ところが、実際には、これは、ごくごく有り触れた名前であったのです。

3.《イエスの名前》聖書の時代には、反対に「イエス」という名前こそ有り触れた名前でした。珍しい名前では無かったので、ヨセフもマリアも抵抗を感じなかったことでしょう。パウロの協力者にも同名の人がおり、旧約続編「シラ書」の著者も同名、磔刑を許されたバラバもイエスなのです。特別に神聖な名前ではありませんでした。また、誰にでも言い易い名前、発音し易い名前でもあったのです。実は、ここにこそ「インマヌエル」の奥義が隠されているのです。古代人は神の名前を長くしたり、発音しににくしたりしました。けれども、神さまは幼い子どもにも老人にも唱えられる名前を与えられたのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:30 | 毎週の講壇から

2013年11月25日

石のパン【マタイ7:9〜10】

聖句「あなたがたの誰が、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。」(7:9,10)

1.《チェルノブイリ》 1986年4月26日、ウクライナ共和国のチェルノブイリ原発4号炉が核暴走の末、爆発し、放射性核分裂生成物、所謂「死の灰」が外に噴き出しました。広島の原爆5百発分に当たると言われています。原発から30キロ範囲の住民に避難命令が出され、そこは「立入禁止地区」、人の住まないゴーストタウンになってしまったのでした。

2.《南瓜のお婆さん》 原発の建屋はコンクリートで固められ、「石棺」と呼ばれています。事故から数年後には、大勢の子供が甲状腺癌や急性白血病を発症するようになりました。慶応大学の藤田祐幸さんは現地の汚染調査に入った時、住民たちが「立入禁止地区」に戻って生活をしているのを見て愕然としました。あるお婆さんは大きなカボチャを見せて、「放射能なんて心配ない」と笑いました。藤田さんは「何て無知な、愚かな婆さんか」と呆れたそうです。

3.《親が毒を与える》 村での調査を終えた時、藤田さんはお婆さんに再会しました。今度は浮かない顔をしています。聞けば「キューバに疎開している孫娘が夏休みで帰って来る」と言います。「良かったじゃないか」と答えた藤田さんに、お婆さんは掴み掛かりました。「あんた、科学者なんだろ。この土地がどんなに汚染されているか知っているだろう!」。藤田さんは「人間の心」が分かっていなかったと思い知らされたと言います。事故直後、日本の母親の母乳からも放射能が検出されました。甘蔗珠恵子さんは「かつて三度の食事に毒を混ぜて食べさせる母親がいただろうか。今の世の母親は殆ど知らずに、知っていてもどうすることも出来ずに」していると悲鳴のような言葉を綴っています。「毒を食らわば皿まで」と言いますが、子や孫にも同じことが言えるでしょうか。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:11 | 毎週の講壇から

2013年11月18日

囚われない心【マルコ7:14〜23】

聖句「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。」(7:20,21)

1.《福と鬼》節分の豆撒きの口上は「福は内、鬼は外」です。「鬼」とは「災厄」の意味です。「家内安全」は誰しも願いしますが、だからと言って「自分の家庭さえ幸せなら良い」と考える剥き出しのエゴイズムには躊躇を感じます。そのせいでしょうか、寺社ですら「鬼も内」と唱える所があります。

2.《内と外》問題は「内と外」の区別です。聖書の世界、古代ユダヤ社会では、異民族、異教徒、それらと接する徴税人は汚れた者とされていました。婦人病に悩む女性が「群集に紛れ込み、後ろから」イエスさまの服に触れるのも、彼女に接しただけで「夕方まで汚れる」とされていたからです。死人や死体も、それに触れた者までも汚れが伝染すると考えられていました。しかし、イエスさまは「忌み穢れ」のタブーを打ち破って、御自ら外に出て行かれました。

3.《罪と幸》イエスさまは「鬼は外から来るのではなく、鬼は内にいる」と仰っているのです。罪や悪は人間の心の中から生まれるもので、病気や不幸とは何の関係もないのです。イエスさまは社会の外側に置かれた人に近寄り、寄り添って生きられました。寄り添うことはくっ付いて「共依存」に成ることではありません。相手の人格を認め、相手の人生を尊重すればこそ、距離を保つ必要があります。その他者に心を与える時、幸せが生まれるのです。

朝日研一朗牧師

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2013年11月11日

すべてが素晴らしい【マルコ7:31〜37】

聖句「このかたのなさったことはすべて、素晴らしい。」(7:37)

1.《多様性》 皆さんは、その教会の礼拝に初出席した時、その教会を、どんな点で評価なさるでしょうか。美しく壮麗な礼拝堂、厳粛な雰囲気、立派なパイプオルガン、聖歌隊のハーモニー、牧師の説教の良し悪し、受付の対応、交わりの豊かさ、町の名士がいること、うどん食堂のお出汁…?。私が教会を評価する基準は多様性です。色々な人たちが礼拝に集っていることです。

2.《豊かさ》 世間では「健常者」と「障碍者」と区別します。福祉制度の上では必要な区別ですが、人間としての価値、尊厳に何等の違いもありません。安積遊歩さんは、講演の際に「誰もでが障碍者になることの出来る可能性を持っている」と言っていました。考えてみれば、神を知る完全な知識を持っていないという意味では、私たちも「知恵遅れ」です。障碍の有無は価値の差ではなく、個性の差なのです。教会に行って笑顔で迎えてくれたとしても、マクドナルドのように没個性な対応なら気持ち悪いです。個性が違えば違う程に、交わりは豊かになるのです。ここにこそ、神さまの創造の豊かさがあるのです。

3.《出会い》 差別と偏見は、私たちの無知から来ています。知らないことが他人の心を傷つけ、何も知らないくせに勝手な思い込みを喋ります。しかも、それは親から子へと伝染していくのです。在日外国人、アイヌ民族、ハンセン病患者への差別など、無知が引き起こした罪悪は枚挙に暇がありません。しかし、知識が積み重ねられても十分ではありません。そこに出会いが必要なのです。「サマリア人の譬え話」は、出会いこそが「善き」ものだったのです。イエスさまも常に出会いを求めて行きました。あのように「人のかたち」をとって、この世に来られたのは、私たちと出会って、共に生きるためだったのです。

朝日研一朗牧師

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2013年11月04日

草の花【Tペトロ1:22〜25】

聖句「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」(1:24,25)

1.《死者の葬り》 人間だけが死者を葬るということをします。動物は葬ることをしません。何万年も昔の墓からも、懇ろに埋葬された遺骨が出土して、原始の人たちの死者への思いが察せられます。葬る理由は、死者の霊的作用への恐れ、穢れへの忌みかも知れません。しかし、迷信に支配された時代でも、お墓は生活圏の近くに作られたのです。生と死とは地続きなのです。死者たちは、尚、生者たちの中に生きているのです。

2.《過ぎ去る者》 『草の花』は福永武彦の小説です。敗戦後の結核療養所を舞台に、死を見つめて生きる人たちの孤独と絶望を綴った作品です。福永もまた、死者が生者に依然として働き掛けることを言います。その人を憶える人が徐々に死に絶えて後、二度目の決定的な死を迎える。だから、死者を憶えて生きることこそが生者の義務なのだと言います。しかし、その記憶も失われます。メルロ=ポンティは身体を「過去という時間の堆積物」と言いました。私たちが愛する者を失った時、身をもぎ取られるように感じるのは、そのためです。

3.《帰って行く》 地上の命も記憶すらも過ぎ去って行きます。「草は枯れ、花は散る」のです。けれども、聖書は「永遠に変わることがない主の言葉」「朽ちない種」と言います。「草の花」の引用は「イザヤ書」40章「帰還の約束」から採られています。バビロン捕囚からの帰還の預言、しかも、3つの福音書が「神の子イエス・キリストの福音の初め」として巻頭に掲げている御言葉です。草の如くに枯れ、花の如くに散る私たちですが、戻るべき道が用意されているのです。人の目から見れば、以前と何も変わって見えません。相変わらず山あり谷ありです。しかし、確実に行き着く先が変わっているのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:49 | 毎週の講壇から