2018年07月30日

かいざる納税、返礼なし【マタイ22:15〜22】

聖句「すると、イエスは言われた。『では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』」(22:21)

1.《消費税》 今や私たちは毎日のように税金を支払い続けながら暮らすようになりました。通称「消費税」、厳密には「付加価値税」です。日本政府は1989年に導入、3%、5%、8%と税率は段階的に引き上げられています。何に対して課税するか、税率は幾らか、時々の政治権力が恣意的に決定しています。正しく税金が使われているか、私たちは監視する責任があります。

2.《変な税》 ローマのヴェスパシアヌス帝は「おしっこ税」で財政健全化に努力しました。英国のジョン王は「臆病税」を諸侯に課したことが災いして「マグナ・カルタ」を押し付けられました。英国は「髭税」「窓税」「帽子税」等、変な税の宝庫ですが、財源確保のための試行錯誤の軌跡を見る思いです。日本でも江戸時代の「間口税」対策が「町屋造り」(鰻の寝床)の起源です。現代でも、肥満防止、健康対策のための「ポテトチップス税」「脂肪税」、少子化対策の「独身税」、「日曜税」「犬税」、温室効果ガス削減の「おなら税・ゲップ税」等、各国で奇妙な税金が制度化されたり、提案されたりしています。

3.《税負担》 「税金/ケーンソス」はラテン語起源です。「住民登録/ケーンスス」によって、ローマ帝国からユダヤの民は人頭税を徴収されていたのです。イエスさまを罠に掛けようと企んだ者たちが「税金を皇帝に払うべきか?」と尋ねました。彼らが持って来たデナリオン銀貨には皇帝の像と銘とが刻まれていました。そこで主は「皇帝のものは皇帝に」と仰ったのです。更に「神のものは神に」と言い添えられました。私たち人間の身心と魂には、神の像と御名、御言葉が刻まれているのです。献身は見返りを期待せずに行なうものです。全て神からお預かりしているものですから、感謝して献げるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:53 | 毎週の講壇から

2018年07月23日

一人の子を受け入れるなら【マルコ9:33〜37】

聖句「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(9:37)

1.《岡山四聖》 「岡山四聖人」と言って、岡山県にゆかりの深い4名のキリスト者が今でも顕彰されています。「全ての人を愛する」をモットーに診療所や学校を設立したアリス・アダムス宣教師、児童の自立支援施設「家庭学校」を設立した留岡幸助、救世軍の山室軍平、そして孤児の救済に生涯を奉げた石井十次です。特に石井十次は「日本の社会福祉の父」と呼ばれています。

2.《石井十次》 石井十次は宮崎警察署に勤務していた時代に、遊郭に売られていた友人の妹と性交渉を重ねて、性病に罹患します。その治療を受けた病院の医師から聖書と医学への道を示されて岡山の医学校に進むのです。診療所で代診をしている時に、お遍路の女性から前原定一という8歳の少年を預けられたのが、孤児救済事業の始まりでした。将来、病気の子を救う医師を目指すのではなく、今目の前にいる孤児を救うという召命を受けたのです。医学校を退学した彼は、その後、濃尾地震の被災児童、日露戦争の孤児、東北冷害の離散農家の孤児などを引き取って保護するようになるのでした。

3.《一人の子》 イエスさまは「受け入れる/デコマイ」という動詞を4回も使っています。それは「受容のプロセス」を言っているように思われます。石井十次が前原定一と出会い、孤児救済の道を進んだのも、迷いや逡巡を経てのことです。私たちが他者、自らの人生、病気や障碍、老いや死など、思うようにならないものを受け入れる過程と重なります。イエスさまが引き取って抱き上げた子は「一人」ですが、その背後には大勢の「子供/パイディア」の存在があります。「一人の子供の手を取る」(引き取る/ラムバノー)ことから、何か新しいことが始まるのです。出会いこそが突破口なのです。

朝日研一朗牧師

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2018年07月16日

どっこい生きてる【Uコリント6:1〜10】

聖句「人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず…」(6:9)

1.《半分半分》 解剖学者の養老孟司は見ず知らずの学生から「もう死んだと思っていました」と言われて面食らったそうです。昔から「棺桶に片足を突っ込んでいる」と言いますが、自分から宣言すると超越的な響きがあります。ソチ五輪の後、記者会見で浅田真央が自身の進退を「ハーフハーフ」と答えました。「中途半端」と違い、「宙ぶらりん」は大変な緊張を強いられるのです。

2.《テレーマ》 タロットに「逆さ吊りの男」というカードがありますが、ウェイト版では、T字型十字架に吊るされた男に後光が差しています。罪人ではなく聖人なのです。その意味は「テレーマ/汝の意志するところを行なえ」と言われています。スランプに喘ぐアスリートや芸術家を励ます言葉にも思われますが、本来は、聖書のギリシア語「御心」です。「御心の天に成る如く」の「御心」、「私の願いではなく、御心が行なわれますように」の「御心」です。ゲツセマネでは、神の独り子ですら「御心」が分からずに苦しみ祈られたのです。御心は自明ではなく「心を新たにして自分を変えて頂く」ことが前提なのです。

3.《どすこい》 パウロは自分たちが出遭った幾多のトラブルを挙げると共に、それに対して、如何なる態度で向き合って来たかを語ります。そのトラブルには「抑圧」や「行き詰まり」など、現代社会と教会が直面する問題が含まれています。私たちも「宙ぶらりん」の状態で引き裂かれているのです。しかし、こんな時代であれば尚更、世間の評価ではなく、神さまとの関係を大切にしましょう。「見よ、私たちは生きている」「見よ、今や恵みの日」と言われています。世の人が誰も見ようとしない「御心/テレーマ」にこそ、私たちは目を向けましょう。それこそが「どっこい」「どすこい!」なのです。

朝日研一朗牧師

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2018年07月09日

神の家か、火事の家か【Tテモテ3:14〜16】

聖句「神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。」(3:15)

1.《占い師》 占いは御神籤や運勢判断など、私たちの暮らしの隅々に生き残っています。天皇代替わりに際しては亀卜が行なわれます。時に重大な決断を迫られる政治指導者も専属の占い師を雇っていたことが知られています。「三国誌」の諸葛孔明は奇門遁甲の使い手、関ヶ原の合戦の日取りを決めた閑室元佶も臨済宗の僧でした。軍師は占い師でもあり、戦争は占いに左右されていたのです。

2.《火の家》 タロットカードの絵札に「塔」があります。落雷によって王冠が開き、塔は炎に包まれ、人が転落しているのです。マルセイユ版では「神の家」と言います。「火事の家/La Maison de Feu」が「神の家/La Maison Dieu」と誤記されたとも言われます。壇一雄の『火宅の人』、その題名の由来である法華経の「三車火宅」も思い出されます。しかし、その絵柄は「キリストの陰府降り」と類似しています。地獄の門を壊して、主が亡者たちを解放されるのです。バベルの塔が単なる「混乱」を嘆く話ではなく、統制や隷属からの「解放」の物語、多様性の主張でもあったことを忘れてはなりません。

3.《神の家》 教会が「神の家」だとしても完全無欠と言いたいのではありません。むしろ、世にある教会は問題続出の「火事の家」でもあるのです。それこそが「信心の秘められた真理」「信心の奥義」なのです。「信心/エウセベイア」とは「よく礼拝する、深く敬う」の意味です。「信仰」に比べて具体的な生活態度を言う語です。暮らしに根差した信仰が「信心」なのです。「火事の家」さえも「神の家」に変えて下さる神の奥義、「災い転じて福と成す」神秘の奇跡を愚直に信じることです。時に落雷や火事に見舞われ、問題山積の教会ですが、それこそ、この地上に立てられ、生きていることの証なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:52 | 毎週の講壇から

2018年07月02日

自由への招待【ガラテヤ5:2〜15】

聖句「あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(5:13)

1.《本当の自由主義》 社会学者の日高六郎は単なる学者ではなく、反戦運動や公害訴訟の先頭に立った人物でした。経済優先の「新自由主義」や「利己主義」ではなく、真の意味での「自由主義者」だったと思います。自由主義の原点は、個人の内面の自由を求めて、カトリックの教権と闘った宗教改革にあります。信徒は神に生かされ、信仰共同体によって健全な人生を保証されるのです。

2.《自由からの逃走》 社会心理学者のエーリヒ・フロムは、宗教改革発祥の地であるドイツが何故にナチズムに侵食されたかという問いから、亡命先の米国で『自由からの逃走』を執筆します。一個人として生きる孤独に耐え得ない者たちは、全体主義や権威主義、機械的画一性に逃れようとします。ルターやカルヴァン、宗教改革者たちですら、口では「愛」を唱えながら、その心は「罪意識による服従」を要求し、敵愾心に凝り固まっているのです。「本音と建前」に引き裂かれているのは、私たち自身の姿でもあります。怒りや憎しみ、独善や固定観念、差別や偏見から解き放たれて、本当に愛を目指して行きましょう。

3.《愛が息づく信仰》 憎しみは否定と破壊、愛は肯定です。愛する人は、相手の幸福、成長、自由を求めます。ガラテヤの諸教会に伝道した「割礼派」は「律法を守り割礼を受けねば救われない」と説いたのです。しかし、キリストの愛と救いに条件などありません。パウロは割礼の有無ではなく「愛の実践を伴う信仰こそ大切」と言います。愛が無ければ信仰も空しく、働きの無い愛は愛では無いのです。その上で尚、働きの有無すら条件ではありません。私たちを救うのは神の愛と憐れみだけです。その「愛の奴隷」として「自由へと召し出された」のが教会なのです。しかも、独りでは目指せないのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:53 | 毎週の講壇から

2018年06月18日

種を蒔き続けよう【マルコ4:1〜9】

聖句「ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」(4:8)

1.《岩波書店》 岩波書店の商標は「種まく人」です。創業者の岩波茂雄は長野県諏訪郡の農家の生まれで、苦学の末に書店を開いた人です。戦時下にも公然と軍部批判をする硬骨漢でした。青年時代に内村鑑三の影響も受けています。労働と質素と深い思索を重んじるが故に、ミレーの「種まく人」をモチーフにしたのです。勿論、ミレーの絵は「種を蒔く人」の譬えに由来しています。

2.《種は色々》 実は「マルコ福音書」の「種を蒔く人」の譬え話には「種/スペルマ」という語は出て来ません。「マタイ」「ルカ」の並行記事では「種は御言葉」との解説が添えられていますが、「マルコ」にはありません。あなたが蒔くものが、世に善を、人に幸せをもたらすなら、御言葉に囚われなくて良いのです。但し「種を蒔く人/スペイローン」という主体、「種を蒔く/スペイロー」という行為は明記されています。「種を蒔く」ことは「労働、業、働き」であり、そのために労苦するのは私たちです。1粒の「種」のように、小さく目立たないことでも、その思いは天高くに向けられているのです。

3.《種まく人》 イエスさまの譬え話は、芽を出さず、根を張れず、成長できずに枯れて行く種から始まります。農作業に付き纏う徒労感を、主は知って居られるのです。当時の農業技術では、1粒の麦の種から収穫される麦は多くて25粒でした。「30倍、60倍、百倍」は現実の農業ではあり得ないのです。しかし、成長させて下さるのは主なのです。オランダの画家、ゴッホも「種まく人」を描いています。「神の言葉を蒔く人になりたい」と、牧師を志しながら挫折した彼ですが、その絵は今も人の魂を打ちます。「我々の足が続く限り歩き続けよう。足が疲れても、苦難が大きくても、人生を進み続けよう」。

朝日研一朗牧師

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2018年06月11日

うんこ聖書ドリル【エゼキエル4:9〜12】

聖句「大麦のパン菓子のようにそれを食べなければならない。それを人々の目の前で人糞で焼きなさい。」(4:12)

1.《うんこドリル》 昨年「うんこ学習ドリル」という学習教材が出版されて、以来、爆発的に販売を伸ばしています。表紙や挿絵に「うんこ先生」というキャラクターが配されているだけではなく、その例文にも必ず「うんこ」が用いられているのです。子どもたちにとって「うんこ」は非常に愉快な存在なので、学習意欲の向上に繋がっているようです。

2.《巻き糞の誘惑》 しかし、どうして私たちは「うんこ」と言うと、とぐろを巻いたマーク、即ち「巻き糞」を連想するのでしょうか。誰も、あんな物は出したことがないはずです。実際、私の少年時代に『トイレット博士』というマンガが大人気で、小学校の男子は競い合って巻き糞を出そうと研鑽を重ねましたが、2巻き目を達成した者は誰一人いませんでした。私たち人間の腸の長さは7メートルしかありません。それに対して牛の腸は50メートルです。『Dr.スランプ』のアラレちゃんが手にする「うんちくん」は牛糞という設定なのです。

3.《うんこケーキ》 西アジアからアフリカに及ぶ地域では、牛糞に刻んだ麦藁を混ぜて、天日干し乾燥で「うんこケーキ/dung cakes」を作り、竃の燃料に利用します。紀元前589年、バビロンの軍勢によるエルサレム包囲を、エゼキエルは預言します。この未来を言葉によらず、奇妙なデモンストレーションによって預言するのです(象徴預言)。飲食物の欠乏、燃料の欠乏を「牛糞ではなく、人糞を焚き付けにして料理せよ」と主は命じられます。実演によるドリル(反復練習)です。私たちが毎週、礼拝を守っているのも、真の幸せを目指すため、人と神を愛するため、御もとに行くための「ドリル」なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:55 | 毎週の講壇から

2018年06月04日

祈りはシンフォニー【マタイ18:18〜20】

聖句「どんな願い事であれ、あなたがたのうちの二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」(18:19)

1.《素晴らしき日曜日》 敗戦から2年後の黒澤明監督作品です。ある日曜日に若い男女がデートをしますが、貧しさ故に悔しい悲しい思いを次々に味わうことに成ります。しかし、木枯らしの吹く夕暮れ、日比谷の野音で、二人は自らの想像力の翼を拡げて、シューベルトの「未完成交響曲」を体験するのでした。指揮棒を振る彼、客席で見守る彼女、第1楽章が演奏されるのです。

2.《まだ終わってない》 この野音の場面で「励ましの拍手を!」と、彼女が叫ぶや、フランスの映画祭では実際に観客が大きな拍手を贈ったそうです。音楽の演奏会も演劇も観客の存在があって初めて完成するものです。その意味では、上演が終了する時まで「未完成」なのです。実は、聖書もまた、礼拝の中で声に出して読まれ、解き明かされ、それを受け止めた会衆が1週間の暮らしを始めることで活き始めるのです。「未完成」と言うと「不完全」であるかのように思いますが、「未だ終わっていない」「これからも続くのだ」という意味なのです。

3.《響き合う音のため》 「心を一つにする/シュムフォーネオー」は「共に声を出す、共に呼びかける」から「一致する、調和する、心を同じくする」の意味に成った語で、英語の「シンフォニー」の語源です。ラテン語の「シュムフォーニア」も「協和音」ですから、オーケストラのような大所帯ばかりが教会ではありません。カルテットもトリオもデュオもあります。異なる楽器が、聖書という楽譜に則り、イエスさまという指揮者を仰ぎながら「合奏」する時、地上の私たちも天上の神さまと回線が繋がるのです。自分の願いだけが聞かれることを願うのではなく、隣人の思いを知り、共に祈りましょう。

朝日研一朗牧師

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2018年05月28日

訪れを待ちながら【ヤコブ5:7〜20】

聖句「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。」(5:13)

1.《現場を大切に》 バラエティ番組で「料理が出て来るのが速い店」ランキングをしていました。その背景に政府や企業が推進する「働き方改革」「時間短縮」があると知ってゲンナリしました。「上」から命じられることは、実際には待遇改善に結び付きません。却って「改悪」「害悪」に成る場合が多いのです。どの業種にせよ、真の改革は「現場」から始まるのです。

2.《コンテキスト》 聖書の諸文書にも各々の「現場」があるのです。イエスさまの御言葉の受け止め方が、福音書によって異なるのも、パウロの手紙の内容が宛て先によって異なるのも、現場である教会が異なり、抱えている課題が違うからです。それを「コンテキスト/文脈」と言います。単なる文章の前後関係のことではなく、文書が書かれた時代背景や状況、そこに生きた人たちの信仰を丁寧に解きほぐして吟味するのです。そのためには、私たちもまた、常に自らの「現場」から考え、発言して行くことが求められているのです。

3.《教会に留まる》 「忍耐」は「マクロス/大きい」と「テュミア/心」で「寛大な心」です。「気長に、根気強く待つ」ことです。苦難の時の「忍耐」には「ヒュポメノー/生き永らえる、持ちこたえる」が使われています。恙無く過ごす平穏な日々も、苦難に見舞われ悩む日々も、大切なのは祈りと賛美です。苦しい時に神に祈るのは当たり前ですが、上手く行っている時にも、その喜びを神への賛美に向けるのです。共に賛美する時、そこには悩み苦しむ人もいて、それは1つに溶け合って、嘘偽りのない真の賛美へと昇華されるのです。教会生活こそは私たちの「現場」、人生の「場面」、私の「所在地」なのです。

朝日研一朗牧師

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2018年05月21日

祈りが勇気を呼び覚ます【使徒言行録4:23〜31】

聖句「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」(4:29)

1.《出る杭は》 アンドレ・レノレ神父は「労働司祭」として、川崎の建設現場で働き、仲間と共に「貸工」の労組を結成しました。彼の『出る杭はうたれる』は25年前の著書ですが、日本社会が個々人を大切にせず、個性や主体性を圧殺する全体主義的傾向(権力構造)が余り変わっていないことを思わされます。しかし、その中にあっても、声を上げる人たちは確実に増えているのです。

2.《仲間の所》 聖霊降臨と言うと、2章ばかりが採り上げられ、「激しい風」や「炎の舌」等の表面的な描写に囚われがちです。「多言語」か「異言」かの解釈の対立もあります。けれども、大切なのは使信(メッセージ内容)です。4章にも「新しい聖霊降臨」と呼ばれる場面があるのです。神殿の境内で、キリストの死と復活を宣べ伝えた廉で、ペトロとヨハネは逮捕され、最高法院の議員たちの前で証を立てるのです。九死に一生を得て釈放された二人は「仲間のところ」へ戻って来ます。仲間と言っても数人、10人弱に過ぎません。

《大胆不敵》 その仲間たちが「心を一つにし、神に向かって声を上げて」祈った時、聖霊降臨の出来事が起こったのです。「心を一つに」は「命を合わせる」ことです。しかも、彼らは神の助けではなく、大胆に御言葉を語るための勇気を祈り求めたのです。我が身可愛さに主を裏切り見捨てた弟子たちが、自らの弱さと罪、主の赦しの力の大きなことを体験したればこその祈りです。「大胆に」とは「言論・行動の自由、確信をもって」の意味です。自由意志の奪われた「迷信・妄信」ではありません。「大胆不敵」と言いますが、私たちも少数者ながら、誰をも敵とせず、勇気と確信をもって「声を上げ」たいものです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:27 | 毎週の講壇から