2017年04月03日

蛇のように、鳩のように【マタイ10:16〜23】

聖句「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(10:16)

1.《レミゼ》 ユーゴーの『レ・ミゼラブル』には、グランテールという学生が登場して「如何に白百合が鳩の悪口を叩くか」「狂信者は蛇よりも有害だ」と演説する場面があります。白百合はフランス王室の国璽ですが、蛇や鳩と共に聖書に所縁の深い象徴です。要するに「目糞、鼻糞を笑う」なのです。思えば、丹羽文雄の『蛇と鳩』も宗教の二面性を言い表わす題名だったのです。

2.《蛇と鳩》 文語訳では「蛇のように慧く」と訳されています。「物事の本質を見抜く心の鋭さ」です。実際、熱線暗視装置「ピット器官」を持ち、闇世の中でも獲物の位置や形状を正確に捉えることの出来る蛇もいるのです。赤外線情報と視覚情報とを統合できるのです。あらゆる生物の中で、鳩は色検知能力が最も優れているそうで、人間の「三原色」に対して「20原色」を持っているとされています。バッハとストラビンスキーを聴き分け、ピカソとモネを見分けた実験結果もあります。蛇が邪悪で狡猾、鳩が柔和で素直と、善悪の区別は必要ありません。どちらが優れているのでもありません。等価値なのです。

3.《狼と羊》 「蛇のように賢く」とは、暗闇の中でも獲物を捉える蛇の認識能力の高さです。「鳩のように素直に」とは、ワインを水で割らないストレートの意味です。いずれも現実認識です。もう1つ「羊のように」と言われています。羊は旧約聖書以来「信仰者」の象徴です。4つの動物は全て複数形で表現されています。社会という「大きな群れ」の中で、教会のような「小さな群れ」は如何にあるべきかと教えられているのかも知れません。私たちを取り巻く社会も「狼の群れ」のように残酷で、油断なりません。「狼の群れ」のような世の中ですが、主が羊飼いとして私たちを守り、導いて下さるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 23:41 | 毎週の講壇から

2017年03月26日

裏切り者の名を受けて【マルコ3:13〜19】

聖句「…タダイ、熱心党のシモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。」(3:18,19)

1.《ジュード》 ビートルズの「ヘイ・ジュード」は、失意の友を励ます名曲ですが、クビショヴァにカバーされて「プラハの春」と「チェコ事件」を象徴する歌ともなりました。「ジュード」とは、英語の「ジューダス/ユダ」の愛称です。但し、英語圏では「裏切り者のユダ」を「ジューダス」、「ユダの手紙」の著者「主の兄弟ユダ」や十二使徒のユダを「ジュード」と使い分けています。

2.《他のユダ》 「ルカによる福音書」は十二使徒に別のユダ「ヤコブの子ユダ」を数えていますし、「ヨハネによる福音書」には「イスカリオテでない方のユダ」が出て来ます。彼は「タダイ」と同一視され「ユダ・タダイ」と呼ばれることもあります。余り印象のない弟子ですが、新約外典「アブガルスとイエスの往復書簡」によれば、主の復活後に、このユダがシリアのエデッサで最初の主教となるのです。同じユダでも「裏切り者のユダ」と「聖ユダ」とでは大違いです。聖書には、同じ名前の人物が数多く登場して、混乱を招く原因になっていますが、一緒にされて一番迷惑だったのは本人であったはずです。

3.《引き渡す》 同名の人が多かったので「このユダが…」と書いてあるのです。「イスカリオテのユダ」だけが、世の終わりまで「裏切り者の名を受けて」蔑まれる結果となってしまいました。他のユダたちと、何が違っていたのでしょう。「裏切る/パラディドーミ」の第一義は「引き渡す」です。「売り渡す、差し出す、放棄する」の意味もあります。私たちも自らの欲望に目が眩んだり、弱みを握られて脅されたり、誰かの歓心を買おうとして、大切な何かを引き渡してしまうことがあるのです。しかし、ユダは主の十字架しか知らず絶望しましたが、私たちは主の復活を知っているのです。そこに希望があります。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:50 | 毎週の講壇から

2017年03月20日

イエスから力は出て行った【ルカ6:17〜19】

聖句「群集は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。」(6:19)

1.《安産祈願》 難産に苦しむ妊婦に麻酔が初めて処方されたのは、1847年のスコットランドです。古代中世には、聖母マリアに祈るばかりでした。ローマ教会には「聖母マリアの無原罪の御宿り」という信仰があり、神の特別な恵みにより、マリアは原罪無く母の胎に宿ったとされているのです。それ故に、イエスさま出産の際にも痛みから解放されていたと言うのです。

2.《視点変換》 もし母マリアが「無痛分娩」だったとしたら、カトリック信者は、却って聖母に祈り甲斐がありません。私たちと同じ痛みを知っている御方だから執り成しを祈るのではないでしょうか。私たちが主イエスの御名を通して祈るのは、「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ」、私たちの痛みを知っていて下さるからです。ドイツロマン派の詩人、ノヴァーリスは「キリストも、その御母が限りなく悩み給うのを見なくてはならなかった。愛する者たちが悩んでいるのを見たら、どんな気持ちがするかを、キリストは知っていて下さる」と述べています。「聖母哀歌」とは異なる別の風景が立ち現われます。

3.《脱力感覚》 「平地の説教」の導入句に過ぎませんが、救いを求める民衆の余りに夥しい数に、イエスさまもお疲れになったろうと思うのです。勿論「イエスは全能の神の御子だからお疲れに等ならない」という意見もあるかも知れませんが、「力が出て行った」という句から、無感覚ではなかったと思うのです。私たちも脱力感や虚脱感に悩みます。主も同じように悩まれたはずです。十字架の責め苦が「痛くも痒くもない」はずはありません。同じく疲労困憊なさったはずです。私たちの疲れ果てた心と体と魂を、イエスさまは誰よりも御存知です。私たちを癒して下さるのも、主を措いて他にありません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:54 | 毎週の講壇から

2017年03月13日

去り行くのは良いこと【ヨハネ16:4b〜15】

聖句「あなたがたの心は悲しみで満たされている。しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。」(16:6,7)

1.《被災者統計》 警察庁が発表する「東日本大震災」の死者行方不明者数も変動があります。震災直後は2万7千人でしたが、最新の発表では1万8千人に減っているのです。しかし、被害が少なくなった訳ではありません。犠牲者の一人一人に家族があり、家庭があったことを思うべきです。私たちは具体的に、自分の家族に置き換えて、その悲しみと衝撃と絶望を想像するべきなのです。

2.《関心喪失点》 数量が大きくなり過ぎても小さくなり過ぎても、人間は無感動になって関心を失ってしまうのです。何か「大き過ぎる数字」が出て来たら、意識して自分の生活感に置き換えて「初期化」することをお勧めします。福島県浜通りの復興帰還事業を見ていると、震災と原発事故によって引き裂かれた人たちが、更に引き裂かれているように感じます。「福音書」にも、十字架によって引き裂かれた人たちの証言が綴られています。「ヨハネによる福音書」のクライマックスは、14〜16章の「訣別説教」、17章の「訣別の祈り」です。イエスさまが去り行き、代わりに「弁護者」なる聖霊が弟子たちに来ると言うのです。

3.《聖霊の働き》 別離に当たって「あなたがたのためになる」と言うのが、千昌夫の「星影のワルツ」を思わせます。「…のためになる、益になる、に好都合」と訳されている「シュムフェロー/持ち寄る」は、自動詞になると「助ける、役に立つ」の意味です。心が悲しみで一杯だと言うのに、どうして弟子たちの役に立つ良いことがあるでしょうか。しかし、この悲しみの別離を体験することで、「弁護者、聖霊/パラクレートス」が与えられるのです。喪失の苦しみ悩みを知る者に「慰めるもの」が降って来るのです。この分断され、引き裂かれた苦しみに呻く世界を、結び合わせるのが「聖霊の働き」なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:51 | 毎週の講壇から

2017年03月06日

イエスの死を身にまとって【Uコリント4:7〜15】

聖句「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」(4:10)

1.《聖書アプリ》 アプリケーション・ソフトウェア、所謂「アプリ」とは「応用ソフト」です。便利なアプリが様々流通していますが、「聖書アプリ」は41ヶ国113種類の言語の翻訳で聖書を閲覧することが出来ます。米国では、日曜礼拝の時間に「聖書アプリ」の使用頻度が高まるので、牧師の説教を聞きながら、会衆は手持ちのスマホやタブレット端末で見ているのでしょう。

2.《聖書讃美歌》 昔の信徒は皆、自分の聖書讃美歌を携えて、礼拝に集ったものです。1970年代の後半に成ると、教会が「置き聖書、置き讃美歌」を認めるようになりました。近年は「マイ聖書、マイ讃美歌」への思いも薄れ、専ら教会備え付けの聖書讃美歌を使用しています。教会に手ぶらで来る便利な時代に成ったのです。しかし、昔の信徒たちが「マイ聖書、マイ讃美歌」にお手製のブックカバーを被せて大切に使っていたこと、大切なカードを栞に使っていたこと、その折々の書き込みがあったことを思い出します。まさしく、その人自身の教会生活、人生そのものが染み付いた愛用の品物だったのです。

3.《肌身離さず》 「イエスの死を身に負う」と訳すと「苦役」の印象があり、「身に帯びて」と訳すと「名誉」の印象があります。それに比べると「身にまとって」は軽やかです。さすがは「バブル時代」の翻訳です。原典の「ペリフェロー」は「持って回る」です。「身に負う」は気負い過ぎ、「使命を帯びて」来られるとウザったい印象があります。そう考えると「身にまとう」も悪くはありません。但し、持って回るのは「イエスの死」です。観念としての「死/サナトス」ではなく、「死に行く様、殺害/ネクローシス」です。パウロは自身が死に直面する度に、イエスさまとの間に苦難の共同体を見出したのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:10 | 毎週の講壇から

2017年02月27日

風は思いのままに吹く【ヨハネ3:1〜15】

聖句「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もそのとおりである。」(3:8)

1.《風に吹かれて》 ボブ・ディランの「風に吹かれて/Blowin’ in the Wind」の歌詞は「どれだけ何々すれば、何々なのか?」という反語法で綴られています。最も単純な用法では「こんな事が許されて良いのか?」−「許されない!」という応答になりますから、結果的に60〜70年代には、プロテストソング(政治的抗議の歌)と受け止められていました。

2.《助けてくれる》 「その答えは風の中にある」とリフレイン、あるいは「折角、地上に降りて来ても、殆どの人は見ようとも知ろうともしない」との本人のコメントから、「聖霊」を暗示していると思います。「ヨハネによる福音書」では「聖霊」は「パラクレートス」と言われています。「新共同訳」では「弁護者」、「協会訳」や「新改訳」では「助け主」、正教会では「慰むる者」と言います。「弁護者」は「弁護士」みたい、「ヌシヌシ」と言うのも「牢名主」みたいです。「助けてくれる人、慰めてくれる人、励ましてくれる人」は、教会にも私たちの身の周りにも大勢います。それが「聖霊の働き」なのです。

3.《聖霊を信じる》 ニコデモはファリサイ派の教師であり、最高法院の議員でありながら、イエスさまを神の遣わした教師として慕い続けた人物です。夜に訪ねて来る場面設定は「奥義の伝授」のためです。弟子たちに先立って「聖霊の秘密」を教わるのです。聖霊は目に見えず、私たちの思いを超えた存在なので、ニコデモにも理解できません。しかし、理解する必要など無いのです。産まれた時に、私たちが「どこから来て、どこへ行くかを知らない」のと同じです。けれども、分からないなりに「霊から生まれた者」は、神さまを信じるのです。丁度   赤ん坊がお母さんを信じているのと同じです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:49 | 毎週の講壇から

2017年02月20日

知恵に満ちた言葉【マタイ15:21〜28】

聖句「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」(15:27)

1.《絵文字》 先日、上野の国立科学博物館で開催された「世界遺産ラスコー展」を見に行きました。約2万年前にクロマニヨン人が洞窟に描いた絵と絵文字が再現されて展示されていました。絵文字もまた文字だとすれば…。

2.《あなたの義務》 文字と言葉には、さまざまな意味が込められています。弟子たちは、追いすがるカナンの女性を追い払うために「願いを聞いてください」とイエスに願います。「イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とイエスの拒否の弁。それでも彼女は助けを求めます。この「助ける」は「助けを求める人の所に駆けつける」という意味があります。すると、「助けてください」には「主ならば家に来て娘を診てくださることは当然です」を意味することになります。「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」と、イエスは「パン」を分離のために用いますが、「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と彼女。ユダヤ人に居住地を奪われた子孫のカナン人の女性は、加害者の側に立つイエスに、娘のために「扉を開けて欲しい」と、彼の前に立ちふさがった。イエスは彼女の信仰をたたえ、娘は癒されます。

3.《人を生かすパン》 「イエスは全ての人の主である」という、この女性の信頼は、福音は全ての人に開かれ、人を生かすパンは全ての人をつなぐものであることを示しています。上野の京成電車の看板の下に、金色のアヒルが羽ばたこうとする像があります。台座に「羽のあるいいわけほどはあひる飛ぶ」と刻まれています。この女性の信仰に励まされ、「信仰ある身のいいわけほどは我イエスに向かい飛ばん」と願います。

外谷悦夫牧師(市川三本松教会)

posted by 行人坂教会 at 19:47 | 毎週の講壇から

2017年02月13日

世に遣わされている【ヨハネ17:6〜19】

聖句「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。」(17:18,19)

1.《遣わされた者》 ドラマ『べっぴんさん』に出演中の「林遣都」は本名で、両親が「都に出て大事を成し遂げるように」と命名したそうです。思えば「遣わす」という文字は、日本語訳と中国語訳だけの表現です。英訳その他、ラテン語やギリシア語原典に至るまで「送る」です。しかし、単に「品物を送り付ける」のと「人を遣わす」のとでは違うという信念が感じられる語です。

2.《差出人の確認》 ギリシア語の「アポステルロー/送る」は「アポスル/使徒」という聖書独特の用語を生みました。こういう特殊な語に立ち止まりながら読んで行くのが、聖書を学ぶ醍醐味です。何が何でも速く読了すれば良いというような「通読」至上主義には疑問を覚えます。「アポステルロー」の「アポ」は「分離、出発、起源」を表わす接頭辞です。「ステルロー」だけでも「送る」という意味はあるのに、更に「アポ」が付いているのです。要するに「誰からか」ということが大切なのです。家に届いた宅急便の送り主も見ないまま開ける人はいないでしょう。お遣わしになった御方が証されているのです。

3.《遺された者ら》 イエスさまの「訣別説教」です。「共観福音書」の「ゲツセマネの祈り」に比すべき場面です。主は御自身が不在になった後の弟子たちの行く末を心配して、神の御守りを何度も祈って居られるのです。ローマカトリックの信者の永井隆が、長崎で被爆して病床に臥しながら、自身の死後の娘の姿に思いを馳せる『この子を残して』の一節が心に浮かびました。誰かが「遣わされる」時、そこに「遺されて」しまう人も出て来るのです。「アポ」には「遠く離れて、遥か彼方」の含みもありました。「世に遺された者」は「世に遣わされる者」です。しかし、キリストの愛が彼らを守っているのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:51 | 毎週の講壇から

2017年02月06日

家を建てるなら【エフェソ2:11〜22】

聖句「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(2:22)

1.《マイホーム》 1975年に「家を作るなら」という建売住宅のCMソングが流行りました。都心に住む庶民の憧れが「団地」から「庭付き一戸建て」に変化した潮目だったのです。世に言う「マイホーム」です。しかし、どうして「アワ/私たちの」ではなく「マイ/私の」なのでしょうか。持ち家を手に入れた喜びの表現なのでしょうが、一抹の孤独と空虚さが感じられます。

2.《使途不明金》 教会形成も「家を建てる事」に喩えられます。イエスさまもペトロに「この岩の上に私の教会を建てる」と仰いました。その聖句を縁起として、バチカンの総本山「サン・ピエトロ大聖堂」はペトロの墓の上に建てられているようです。千三百年に渡って(324〜1626年)建て増しを続けました。遂には建立費用捻出のために「免償/免罪符」を乱発し、その結果、ルターが反対声明を出して、「宗教改革」が始まります。完成は、その更に110年後です。確かに稀有壮大ではありますが、イエスさまは何と言われるでしょう。ペトロなら使徒だけに「使途不明金!」と批判するに違いありません。

3.《建てられる》 イエスさまの仰る「教会」は建物のことではありません。「教会」と訳されている「エクレーシア」は「集会」と訳すべきです。「土台、要石、建物全体、神殿、住まい」と言われていますが、飽く迄も比喩なのです。「箱物」ではなく、主に呼び集められた人たちが「聖なる神殿」「神の住まい」に「成る」のです。私たちの力や業によってではなく、三位一体の神の力によって作り出される奇跡なのです。その基本は「食卓紐帯」にあります。血の繋がった家族ではありませんが、共に聖餐に与り、共に愛餐する「仲間」です。その時、私たちは「組み合わされて成長し」「共に建てられる」のです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:50 | 毎週の講壇から

2017年01月30日

身を起こし頭を上げよ【ルカ21:25〜28】

聖句「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」(21:28)

1.《世界終末時計》 先日、米国の科学雑誌「原子力科学者会報」の「世界終末時計/Doomsday clock」が「人類滅亡まで2分半」という残り時間を発表して、人類に危機を警告しました。しかし「ドゥームズデイ/運命の日」を予告することで不安を煽り、それに付け込むカルトも数多く存在します。また、世界の滅亡を願う「黒い心の人々」(大江健三郎『個人的な体験』)もいるのです。

2.《世を見下げる》 果たして「黒い心」を持っていない人など存在するでしょうか。「世の終わりが来て、人類は滅亡する」「救われるためには…しなければならない」という信仰はキリスト教会の中にもあります。「救われるためには?」の問いに、普通「悔い改めて福音を信じなさい」と勧めます。その心は「私たちには何も出来ない、救いは神の一方的な恩寵」なのです。しかし、教会生活をしていると、「救われた者として相応しく…しなさい」との要求が重なると、逆回転して、それが救われるための条件となります。そして遂には、条件を満たしていない周囲の人たちを裁き、見下し始めるようになるのです。

3.《天を見上げる》 もしもキリスト者が世を見下すならば、「神は世を愛された」「その独り子をお与えになったほどに」という神の御心、福音の本質に反することです。むしろ「黒い心」を宿した存在なればこそ、ひたすら天を仰ぎ、滅びの時には「共に滅ぼされても仕方がない」と覚悟する謙遜さを持ちたい。世の終わりが近付くと、天変地異が起こって、誰もがパニックに成ると言います。私たちも同じです。しかし、その時こそ「解放の時」、自由になる時だと、主は仰るのです。「体を起こす」「頭を上げる」とは「希望のしるし」です。溺れるのではなく、主を見上げましょう。そこに、私たちの希望があります。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:48 | 毎週の講壇から