2019年04月01日

息の長い生き方をしよう【出エジプト記6:2〜9】

聖句「モーセはそのとおりイスラエルの人々に語ったが、彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった。」(6:9)

1.《ブッチャー》 プロレスで悪名を馳せたブッチャーの現役引退セレモニーが行なわれました。「スーダン出身の黒い呪術師」の触れ込みで、アラビア風の衣装で入場、凶器攻撃や毒針エルボーでリングを鮮血に染めたものです。リング名の「アブドーラ」は「アブド/しもべ」+「アッラー」、イスラム教徒の名前の定番です。旧約聖書にも「主のしもべ/アブデー」が何回も出て来ます。

2.《奴隷の労働》 勿論「奴隷」という悪い意味もあります。「厳しい重労働」と訳されているのは「過酷な奴隷状態」です。労働そのものもエジプト人の厭う3K労働をさせられていたのですが、それ以上に、自らの意志や意欲を奪われた奴隷労働の方が残酷なのです。ピラミッド等の巨大建造物建設に駆り出されたという情景は、絵画や映画の作ったフィクションです。しかし、エジプト人の監督に打たれて労働をさせられていたのです。日本の植民者も旧満州国で満人の召使を「躾」と称して叩いたり打ったりして使っていたと聞いています。

3.《神の深呼吸》 モーセはファラオに民の出国を要請しますが、逆ギレしたファラオは更に重い労働を課して「この怠け者が!」と罵ります。モーセは解放の幻、約束の土地の幻も語りますが、民は耳を貸しません。奴隷労働は、働く者たちから魂を半分奪い取ること(シモーヌ・ヴェイユ)なのです。「意欲を失って」は「息が短くなる、魂が削られる」の意味です。モーセは同胞の「息を長く」する必要があったのです。それがエジプトに対する「十の災厄」だったのかも知れません。「しもべ」は「他の誰かのために働く人」のことです。奴隷になることは魂を半分奪われることです。私たちは奴隷にならず、神さまのために仕えて参りましょう。それが魂を取り返す唯一の道なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:54 | 毎週の講壇から

2019年03月25日

罪は戸口で待ち伏せる【創世記4:1〜16】

聖句「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」(4:7)

1.《町田樹選手》 2014年のフィギュアスケート世界選手権で、町田選手は「エデンの東」の演技で自己最高得点を弾き出しました。大会終了後の記者会見で、彼は「ティムシェル/汝、治むる事を能ふ」を「自分の運命は自分で切り拓く」と解釈したと言って話題になりました。「ティムシェル」はヘブライ語で、スタインベックの原作『エデンの東』のキーワードです。

2.《エデンの東》 前半はアダム・トラスクの「受難物語」です。出生直後に母を亡くし、暴君の父や気性の荒い異母弟に振り回され、キャシーとの結婚も破局を迎えます。彼女は美人で聡明ですが、その魂は歪んでいて、アダムの弟を誘惑して双子を出産、しかも、その子たちを捨てて出奔するのです。そんな中、アダムは親友サミュエル、中国人の使用人リーと共に聖書の学びを続け、「カインとアベル」の物語から人間の原罪について考えます。リーは、人間には罪を治めることが出来る、選びの可能性が与えられていると教えるのでした。

3.《戸口に罪が》 ジェームズ・ディーン主演の映画『エデンの東』は、その後日譚です。成長したアダムの息子たちの確執が「カインとアベル」の物語を下敷きにして描かれるのです。愛されない者が抱く怒りが復讐心を呼び、その復讐心が罪をもたらすのです。「創世記」4章には、神がカインの献げ物を選ばれなかった理由は明記されていません。私たちの人生も、そのような謎に満ちているのです。聖書は私たちに謎を提示するのであって、答えを与えてくれるのではありません。むしろ、謎に直面した時、そこに岐路が生まれるのです。神、人、世の中を恨んで生きるのか、それとも出来る限り前向きに生きようとするのか…。私たちを罪の呪縛から解き放つのが、イエスさまの十字架です。

朝日研一朗牧師

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2019年03月18日

苦悩の谷から希望の門へ【ホセア2:16〜17】

聖句「わたしはぶどう園を与え、アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。そこで、彼女はわたしにこたえる。」(2:17)

1.《トルストイ》 帝政ロシア時代の文豪、レフ・トルストイはキリスト教信仰篤い作家として知られていますが、ロシア正教会からは破門されています。ロシア正教会が皇帝や支配階級と癒着して、貧しい民衆を圧迫していることを批判したからです。更にトルストイは、ドゥホボール教徒(プロテスタントにも似た分離派)を支援するために『復活』の印税を全て使ってさえいるのです。

2.《イワンの死》 トルストイの中編小説『イワン・イリッチの死』は、中央裁判所の判事にまで昇進し、家族も円満、友人にも恵まれ、立派な新居も完成間近の45歳の男が、突然「死に至る病」に直面する物語です。迫り来る死の不安の中で、イワンは孤独と絶望感、自己嫌悪に責め苛まれます。彼の成功の人生が単なる虚飾に過ぎなかったこと、それがあるがために却って、彼自身を苦しめていることを、トルストイは見事に描き出しています。19世紀に書かれた小説なのですが、イワンの苦悩は21世紀に生きる私たちと変わりません。

3.《開かれた門》 ホセアは紀元前8世紀の北王国の預言者です。神の召命によって「淫行の女」ゴメルと結婚しますが、彼女は別の男たちの子どもを3人産むのでした。恐らく、ゴメルは異教の大地豊穣を司る巫女(神殿娼婦)だったのでしょう。姦通した女性は石打ちで殺される時代です。不妊や料理の不出来を理由に女性が離縁される時代です。にも拘わらず、ホセアはゴメルを心から愛していたので、売り飛ばされた彼女の身請けさえするのです。ここに主なる神の深い愛が表現されているのです。その愛の故に、神さまはアカン一族が石打ちで処刑された「アコルの谷」、死の谷を「希望の門」へと変えて下さるのです。私たちにとっては、それこそが御子イエスの十字架です。

朝日研一朗牧師

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2019年03月11日

怒りの葡萄【マルコ12:1〜12】

聖句「まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。」(12:6)

1.《離農者たち》 1930年代の米国中南部では、世界恐慌と機械化、乱開発と環境破壊が招いた砂嵐によって、何十万人もの離農者が出ました。スタインベックの『怒りの葡萄』は、カリフォルニアを目指すオクラホマ農民の一家の苦難を描いた物語です。過酷な旅の途中で老人たちは死に、若者は失踪します。漸く辿り着いた新天地でも、資本家の搾取や洪水が一家を襲うのです。

2.《人間圧搾機》 暗澹たる『怒りの葡萄』が発表当時、北米でベストセラーに成ったのは聖書の物語だからです。物語の骨格は「出エジプト記」ですし、題名も「ヨハネの黙示録」14章から来ています。大鎌を手にした「収穫の天使」サリエルが「神の怒り」によって発動し、罪人を刈り取って、搾り桶に入れて踏み付けると大量の血液が葡萄汁のように流れ出るというグロテスクな描写です。「ワインプレス」ならぬ「人間プレス」です。しかし、スタインベックの小説では、踏み付けにされた葡萄(農民たち)が怒り、社会を告発しているのです。

3.《十字架の血》 譬え話の葡萄園の主人は神さまですから、レンタル料も無く、葡萄園を農夫たちに貸し与えています。しかし「収穫」を受け取ろうと、僕たち(預言者)を遣わしますが、迫害されたり殺されたりします。最後に独り子を送りますが、農夫たちに殺害されて捨てられるのです。神の求める「収穫」は金銭でも財産でも、業績でもありません。「信仰の実り」です。だから、主人は僕たちが殺されても、農夫たちが悔い改めるのを辛抱強く待ち続けていたのです。無料で貸し与えられた「葡萄園」とは、私たちに与えられた人生です。イエスさまの犠牲の血による「収穫」は、神にとって怒りと悲しみに溢れていたはずです。聖餐の度に、私たちも「怒りの葡萄」を味わい知るべきです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:53 | 毎週の講壇から

2019年03月04日

心のドアは内開き【黙示録3:14〜22】

聖句「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と食事をし…。」(3:20)

1.《レオレオニ》 絵本作家レオ・レオニの作品(『スイミー』『フレデリック』『じぶんだけのいろ』)は、どれも聖書の福音を思わせる逆説、逆転の発想に満ちています。『せかいいちおおきなうち』では、自分の殻(家)の小さいことに悩むカタツムリの子に父親が、殻(家)を大きくしたために動けなくなり、飢え死にしたカタツムリの話を聞かせます。家は小さい方が自由なのです。

2.《かたつむり》 人もカタツムリのように自分の「心の家」を持っています。形も大きさも十人十色です。どの家にも窓がありますが、大きく開け放っている人もいれば、小さな隙間から覗いている人もいます。無理やり他人の家の窓を開けるのも、自分の家に強引に引き込もうとするのもアウトです。一般社会から見ると「宗教」「キリスト教」は、そんな厚かましい存在と見られています。私たちは、十分に相手の心を尊重して、本当の友(本当の支えや助け、励ましや慰め)と成るために、熟慮して行動しなくてはいけません。

3.《内開きの扉》 イエスさまは扉を叩いて呼び掛けているのに、家人は誰も気付いてくれません。復活のイエスさまは鍵の掛かった家の中にも自由に入り込むことが出来ます(ヨハネによる福音書20章19節)が、無理に入ったりは為さらないのです。なぜなら、人の心の扉は内開きだからです。無理に開けたら心が壊れたり歪んだりするのです。中の人が気付いて、自分から開けるまで辛抱強く待って居られます。主のノックに気付かないのは未信者ではなく、クリスチャンなのです。心を入れ替えて自分を低くしなければなりません。イエスさまを迎え入れて「主の晩餐」(愛餐、感謝の祈り)をしましょう。主と共に生きていること、主にあって皆が共に生きることを証しましょう。

朝日研一朗牧師

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2019年02月25日

幸せを探す人の幸せ【ルカ 11:1〜13】

聖句「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(11:13)

1.《幸福追求権》 2016年、東京地裁にて、ある訴訟事件の判決が下されました。アイドルグループのメンバーが恋愛禁止規定を破ったとして、所属事務所から990万円の損害賠償請求をされていたのです。しかし「日本国憲法」第13条の「幸福追求権」に照らし、恋愛は「人生を自分らしく豊かに生きる自己決定権」であるとして、この損害賠償請求は棄却されたのです。

2.《自己決定権》 憲法の条文に「幸福」の定義はありません。各人の心が決めるべきことであり、定義すべきものではありません。しかし、戦前までは子の幸せを親が決めていました。今も幼少時から「これがあなたの幸せ」と刷り込まれています。幸せを金、地位や名誉、美しい容姿と考えるのも、経済優先の社会やマスコミが植え付けているのです。それらは自己満足や優越感に過ぎません。幸せへの思いは各人により異なりますが、価値観を押し付けることなく、何が本当の幸せかを問い掛けながら、共に歩む道が大切です。

3.《善い在り方》 イエスさまの譬話では、友が友にパンを求めたり、子が親に干し魚や卵を求めています。昔の信徒たちが「肉の糧」「霊の糧」とお祈りされていたのを思い出します。イエスさまも最後に「天の父が聖霊を与える」という約束で締め括って居られます。友にしろ父親にしろ、愛する人たちの手が介在しています。人と人との関係性の中に生まれる「良い贈り物」なのです。「聖霊の結ぶ実」(ガラテヤの信徒への手紙5:22)も同様です。「日本国憲法」を遡ると、米国の人権宣言(1776年)を経て、17世紀英国のリチャード・カンバーランド牧師の「幸福追求権」の定義に辿り着きます。曰く、互いの「Well-being」無くして、個人の「Happiness」等はあり得ないのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:53 | 毎週の講壇から

2019年02月18日

頂き物のお裾分け【Tコリント4:6〜13】

聖句「…いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなったような顔をして高ぶるのですか。」(4:7)

1.《屑と滓》 パウロはキリストの使徒たる自らの有様を「見世物」に譬えています。これは彼の「自虐ネタ」です。コリントの信徒たちに対しては、痛烈な皮肉と成っています。何しろ使徒は侮辱され迫害され、罵られた上に、汚い「ゴミ屑」や「汚物」のように蔑まれているのです。これは、パウロ自身が体験した恥辱の数々、悲しみと悔しさから滲み出た言葉です。

2.《別れ道》 公衆の面前で受ける耐え難い屈辱も「キリストのために」生きることなのだと言うのです。普通なら、怨念に囚われてしまうでしょう。しかし、それを契機として、十字架(謙遜と従順の世界)を目指すのが、本当の信仰です。自分を侮辱した者を「見返してやろう」と現世的成功を追求する伝道者、「終末の日には見てろよ」と復讐心から来る価値の摩り替えに溺れてしまうキリスト者の、何と多いことでしょう。怨念と復讐心では人は救われません。自らの救いに酔い痴れる優越感は、その傲慢さ故「地獄行き超特急」です。

3.《死刑囚》 パウロは使徒を「死刑囚」にも譬えています。ローマの闘技場の試合に赴く剣闘士「死に行く者たち/モリツリ」かも知れません。あるいは、お昼休みの座興に公開処刑される重罪人かも知れません。パウロが繰り返し「高ぶるな」と命じているように、死ぬべく運命づけられているのは使徒たちだけではありません。コリントの信徒たちは、自分たちが何か特別な存在にでもなったと思い込んで、すっかり「金持ち」「王様」気分なのです。しかし、本当に救われている人は「救われている」ことを自慢したりしません。他の人を見下して「未だ救われていない」等と言ったりしないのです。私たちは値無く、無条件に頂いた神の愛を、共に生きる人たちにお裾分けすれば良いのです。

朝日研一朗牧師

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2019年02月11日

人に従うよりも、神に従う【使徒言行録5:27〜32】

聖句「ペトロとほかの使徒たちは答えた。『人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。』」(5:29)

1.《建国記念日》 戦前の「紀元節」です。初代天皇とされる神武天皇が即位したのが紀元前660年2月11日だと言うのです。縄文時代末期とも弥生時代前期とも言われる(日本では)先史時代です。勤労感謝の日が「新嘗祭」(宮中の収穫祭)であるように、日本の祝日は皇室祭祀の大祭をベースにしている「祭日」が多く、戦前は各家庭で日の丸を掲げるよう指導された「旗日」でした。

2.《信教の自由》 キリスト教会が2月11日を「信教の自由を守る日」として守っているのは、戦前、神社参拝を強制され、礼拝においても「宮城遥拝」を強要された苦い歴史があるからです。それどころか、自ら進んで教団統理が伊勢神宮(天皇家の氏神)に参拝しました。朝鮮の朱基徹牧師が「神社参拝は偶像礼拝」と主張した時には、教団から「神社は宗教ではない」と説得に出向いたりしています。自らの命を賭して抵抗した牧師や教派を切り捨てて、宗教団体としての生き残りを図ったのです。その罪の歴史を忘れてはなりません。

3.《神への従順》 後にスコットランド改革派教会の牧師となるグッドマンは、メアリー1世の迫害を逃れて大陸に亡命します。暴君の支配する祖国に思いを馳せながら、信仰者は政治権力と如何に対峙すべきかを考えました。古来、教会では、君主は神が立てたという教説の故に、君主に対する「受動的服従」を教えて来ましたが、彼は「人に従うよりも神に従う」の聖句から「積極的抵抗」を主張しました。君主と言えども、不敬虔、不信仰であるならば抵抗すべきなのです。私たちは弱い存在ですから、強大な政治権力に負けてしまうかも知れません。しかし、負けてしまっても何も気付かないよりマシです。その苦い挫折が、いつか私たちを、使徒ペトロのようにしてくれることでしょう。

朝日研一朗牧師

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2019年02月04日

希望はどこから来るのだろう【ローマ15:7〜13】

聖句「希望の源である神が、信仰によって…喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」(15:13)

1.《それでも》 ナチスの強制収容所で4年間を過ごした精神科医、フランクルが、そこでの体験を綴ったのが『夜と霧』です。原題は「それでも人生に然りと言う」です。絶望的な状況にありながら、それでも敢えて人生を肯定するのです。祈りと音楽(感動)とユーモア、この3つが耐え難い苦しみの中にあって、生きる希望を人に与えるのです。この3要素は教会にも与えられています。

2.《希望の源》 収容所では「クリスマスに解放される」という噂が流れて、それが空しく潰えた翌日に大勢の人が死んだそうです。「在り来たりな希望」ではダメなのです。パウロは「教会の希望は神にある」と宣言します。当時の教会では、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との対立が問題に成っていました。背景には根深い差別と偏見があります。対立の現実を何とかして乗り越えようとする根拠は、信仰にあります。だから、パウロは「互いに相手を受け入れなさい」と説きます。主が私たち罪人を「仲間として迎え入れて」下さったように…。

3.《聖霊の力》 「信じること」は「聖霊の力」、「希望」とは「喜びと平和」です。「満たす」は「プレローマ/充満」です。ストア哲学の用語で、対立する世界を包み込み「一なる世界」を形成するものです。何より聖霊の働きを表わす語です。ユダヤ人の救いのためには、異邦人も救われなければならないのです。救いというものは、自分だけが救われることではありません。それは、むしろ地獄です。私たちが神に期待するのではなく、神が私たちに何を期待して居られるか、それが問題です。私たちが人生に絶望しても、主は私たちに絶望なさっていません。私たちが神に問うのではなく、神が私たちに問うて居られることを覚えましょう。私たちには「受け入れる」という使命があるのです。

朝日研一朗牧師

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2019年01月28日

新しく創造されること【ガラテヤ6:11〜16】

聖句「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」(6:15)

1.《作者と楽器》 演奏者もいなくなり、古びて壊れたハープが物置小屋に仕舞われていました。ある時、旅人が一夜の宿を所望して、物置小屋に泊まりました。翌朝、家の主人が目覚めると、美しいハープの音色が聴こえます。旅人に尋ねると、彼は「私はハープ職人で、私の製作した物だと分かりました。一晩の宿のお礼にと修理しました」と言うのでした。私たちの人生や生活も、奏者を失ったり壊れたりします。その時、神さまに新しく創造して貰う他ありません。

2.《祈りは便り》 実は、旅人が製作者その人であったという展開が重要です。工房で丁寧に作られた楽器は、演奏者と共に成長して、共に生きて行きます。同じく、楽器と製作者とが呼び合うこともあります。城山三郎の『そうか、もう君はいないのか』のように、亡き伴侶に呼び掛けるのも一種の祈りです。但し、私たちが一番に呼び掛けなくてはならないのは、私たちを創られた神さまです。日常的に祈り、礼拝を守り、心から賛美し、聖書を読むことを倦まず弛まず続けないと、私たちは見えないものを見ようとはしなくなります。すると、音信が途絶えて、私たちの魂は物置小屋で埃を被ってしまうことになるのです。

3.《新しい創造》 ユダヤ教徒は「割礼」を神との契約の徴として重んじて来ました。キリスト教がユダヤ教から脱皮する時、パウロがこれを廃棄したのです。食物規定の律法はペトロが廃棄してくれました。女性のベール着用義務や女性の発言禁止は宗教改革者が廃棄しました。信仰の本質を生きるためには、聖書とは言え、乗り越えなくてはならぬ言葉もあるのです。パウロは「価値があるのは新しい創造だ」と言います。私たちは何より、イエス・キリストの立てられた「原理/カノーン」に従って歩いて行くのです。それこそが「新しい創造」です。神に創られ愛された者としての自覚をもって生きるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:55 | 毎週の講壇から