2017年09月11日

健康な人の病気【ルカ5:27〜32】

聖句「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、…罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(5:31,32)

1.《病気で長生き?》 私が糖尿病という診断を受けた後、旧友から「最近は『無病息災』ではなく『一病息災』と言うのだ」と慰められました。かつては「健康長寿」が祈願されました。健康が長寿の前提だったのですが、最近では、持病を患いながらも長命の人も大勢いらっしゃいます。健康と長寿とにズレが生じています。誰にとっても健康の維持が最大の関心事となっているのです。

2.《スピリチュアル》 「世界保健機構/WHO」の「健康の定義」は「病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも精神的にも、そして社会的にも、全てが満たされた状態にあること」です。フィジカル、メンタル、ソーシャルのバランスが取れていることが大切なのです。心身ともに健康でも社会の中で孤立していたら健康ではありません。1998年に、この定義に「スピリチュアル/霊的」を加えるように提案されました。ホスピスの現場では、終末期の患者の実存的な問い掛けを「スピリチュアル・ペイン/霊的な苦しみ」と言います。それが受け止められる環境を「スピリチュアリティ/霊性」と呼ぶのです。

3.《メタグノーシス》 病気と健康とが逆転するダイナミックな逆説を、イエスさまは語られています。イエスさまが盲人を癒したことに難癖を付ける人々に、主は「今あなたがたが『見える』と言い張るところに罪がある」と反論されました。病気や障碍を抱えているだけで、罪業の因果とされ、社会から排除されるような時代、やはり罪人として蔑まれていた徴税人、霊的、宗教的に差別され、病的な状態に捨て置かれた人を主は招かれました。「悔い改め/メタノイア」は「思考転換、発想の展開」です。「メタグノーシス」は、即ち、人間の知恵を超える神の知恵に触れることにあります。本当の健康とは何でしょう。

朝日研一朗牧師

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2017年09月04日

人を見る目、神を見る目【ヘブライ11:23〜31】

聖句「信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。」(11:27)

1.《面接官の躊躇》 日経新聞電子版に、面接官もビックリの最近の就活生という座談会がありました。当世学生気質に対する愚痴や文句が殆どでしたが、その中に「個性的過ぎて不採用にしてしまったけれども、大物を釣り落としたのではないか」と発言した面接官がいました。その躊躇いの中に、成功も失敗も積み重ねて経験した人にだけ生まれる謙虚さを感じました。

2.《目を向ける先》 誰も「人を見る目」等は持ち合わせてはいないのです。プロのスカウトの成功話も夥しい苦い失敗の上にあります。事業で成功続きのように見える人も、人生では失敗しているかも知れません。家庭が崩壊したり、人格が破綻している場合が多いのです。私たちには、自分が明日どう成るかも分からないのです。況して「人を見る目」等ありません。「箴言」は「目先の利益を追求した結果、欠乏する」「悪い目」(28:22)、「貧しい弱い人を助けて、神に祝福される」「善い目」(22:9)と説き、イエスさまも「体の灯は目」と仰います。何に目を向けているのか、それが問われているのです。

3.《神を見続ける》 モーセは王宮で育てられますが、同胞が虐待される現実を見てしまったことで大きく人生を変えられます。但し、現実を見るだけでは、そこに怨みと憎しみしか生まれません。モーセはエジプト人を殺しただけでした。社会の現実を見る時、私たちもまた、絶望と無力感に囚われます。だからこそ、私たちは神に目を向けなければなりません。「耐え忍ぶ」は「不撓不屈」。「弛まず見詰め続ける」ことです。忍耐とは持続力です。毎日の暮らし、栄養、扶養、そこから耐久力が生まれるのです。見ることの出来ない御方を、今現に見ているようにして耐え忍ぶ、それこそが神を礼拝する心です。

朝日研一朗牧師

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2017年08月28日

混沌から始まる物語【創世記1:1〜19】

聖句「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』 こうして、光があった。」(1:2,3)

1.《ワンタン》 ワンタンの起源は華北料理の「餛飩/フントゥン」です。遣唐使の上陸した蘇州では「ウンドン」、目的地の長安では「ホエトエ」と発音しました。「うどん」「ほうとう」です。「餛飩」は「渾沌、混沌/フンドゥン」に通じます。中国の創造神話では、元始天尊が原初の混沌から天地を創造したとされています。しかも、その記念日はクリスマスと同じく冬至なのです。

2.《空虚混沌》 かつては「地は形なく、むなしく」と訳されていました。「漢訳聖書」の「地乃虚曠/地は即ち虚ろで曠しく」から来ているのでしょう。本来は「形の有る無し」は示唆されていません。ギリシア語「七十人訳」の「目に見えず、形が整っていない」から「形なく」が定番になったのです。しかしながら「ヘブル語聖書」の「トーフー・ワボーフー」は「空虚、虚無」という語の繰り返しです。「曖昧模糊」のように同語反復の熟語なのです。意外にも漢訳「和合本」の言う「地是空虚混沌」の「空虚混沌」に近いのです。「エレミヤ書」4章でも、神の秩序の崩壊が「大地は混沌とし」と預言されています。

3.《命の在処》 メンセンディーク宣教師が仙台青年学生センターの主事として、津波の被災地で仕分けのボランティアをしていた時、学生の「なぜ、神の物語は『混沌』で始まるのか?」との問い掛けが思い出されたそうです。「天地創造」は「神の御言葉による御業」と言われますが、「命令」ではなく「呼び掛け、語り掛け」だったのでは無いでしょうか。「光あれ」は「光であれ」と訳すことも出来るのです。認知心理学者の下條信輔の『まなざしの誕生』には「心を持つ者として扱われることによって、心は発生し成長する」とありました。神さまが語り掛けられた時、そこに「命」が生まれたのでは無いでしょうか。

朝日研一朗牧師

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2017年08月21日

生きるにも死ぬにも【フィリピ1:15〜26】

聖句「…生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるように…」(1:20)

私をハンセン病療養所に追いやった3つの言葉

1.「わたしゃ、クリスチャンには随分いじめられたよ!
1980年夏、好善社のハンセン病療養所ワークキャンプに初めて私が参加した時に、あるおばあさんから私に投げつけられた言葉。奈良で開拓伝道に燃える私に、「クリスチャンがいじめた」とは!頭が真っ白になった。戦後間も無くのキリスト教ブームの頃、米国のララ物資の配給をめぐって、クリスチャンが優先されたことによるトラブルが背景にあったようだ。衝撃から覚めた私は、「ああ、こういう言葉を聞くために、神は私をここに追いやったのだ」と妙に納得。キリスト教会とて内と外を分け隔てする。私はその罪びとの頭!ハンセン病者を外へと追いやった日本政府の加担者だと。

2.「消え去ることをもってその使命とする教会があることを、君は忘れるな!
1985年、開拓伝道10年にして漸く会堂建設、献堂式の祝辞で、好善社の藤原理事長(故人)が言い放った。「君の教会はこれからも伸びてゆくだろう。でも消え去ってゆく教会がある。君はそれでいいのか」と。私は彼の命を受けて、毎月末に大島青松園キリスト教霊交会の講壇奉仕に14年間通うことになる。「消え去ることをもってその使命とする」の表現は誤解を生みかねない。ただ、それが現実。大島キリスト教霊交会は会員の減少により昨年その礼拝を閉じ、各療養所教会も同じ運命。

3.「ここも神の国です
1990年2月、藤原理事長に同伴して、タイ国ハンセン病療養所を訪れた。東北部の 貧しい農村ながら、孫の世話をして家族と共に暮らす元患者の姿に心が和む。旅の最終日、バンコク郊外のプラパデン・コロニーを訪れた。そこはチャオプラヤ河の岸辺、海抜ゼロメートル地帯に作られたスラム、満潮時には水があふれて下水が床下を覆う劣悪な環境にある教会。同行の若い女性が、もうお会いできないかもしれませんが、天国での再会を楽しみに、と挨拶したら、教会代表の方が、「ここも神の国です」と切り返した。彼女は泣きだし、私も衝撃を受けた。ハンセンを病み、人々に忌み嫌われ、人生に行き暮れ、漸く辿り着いたスラムの教会、「ここも神の国」とは!教会とは何と誇らしい所なのか!以来、タイに長く関わることになる。教会はキリストの体、決して消え去ることなく、キリストを証し続ける。

三吉信彦牧師

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2017年08月14日

神が私と共におられる【出エジプト3:1〜15】

出エジプト記3章の、モーセの召命です。モーセは神と直接対面し、対話した人です。神に直面して重要な任務を与えられ、さまざまな困難に耐えてイスラエル民族のエジプト脱出を成功させ、イスラエルの信仰の基礎を築いたモーセは、イスラエルの歴史の中でもっとも偉大な人といっていいでしょう。そのモーセが神に召しだされる物語です。モーセはエジプトの寄留者の子どもでした。ある日、エジプト人がヘブライ人を打っているのを見て、エジプト人を逆に打ち殺してしまいます。ミディアンに逃亡し、祭司の娘ツィポラと結婚して羊飼いとなります。その羊たちを連れて、神の山ホレブにきたところで、神との最初の出会いが起こりました。燃え尽きない不思議な柴の火を見たモーセが近づくと、神が声をかけられました。「モーセよ、ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」履物を脱ぐのは、しもべのしるしであり、聖所に入るときの習慣であり、謙遜を示すことでもあります。神は続けて「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と言われました。神は続けてご計画を述べられます。エジプト人のもとで働いているイスラエルの人々が重労働で苦しんでいるのを見、彼らが苦しみに叫んでいるのを聞いたので、エジプトへ降って行って救い出そうと決めたと言われます。そのためにあなたを遣わすというのが神の命令でした。しかしモーセは、神の命令に素直に従いません。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」彼は神の与えられる任務の重大性と、それに伴う数々の困難を思って、当惑したでしょう。使命の大きさに対して、現在の彼は、あまりにも小さな存在でした。モーセの訴えに神はどう応えられたでしょうか。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」「あなたは自分にどんな力があるかと心配する必要はない。わたしは必ずあなたと共にいる。わたしが共にいることこそ、あなたの力なのだ。」神が「わたしは必ずあなたと共にいる」と言われた一言で、モーセは納得しました。モーセは、重ねて問います。「・・・イスラエルの人々が『その名は一体何か』と問うとき、彼らに何と答えるべきでしょうか。」神は「わたしはある。『わたしはある』という方がわたしをあなたがたに遣わされたのだ」と言いなさい。」神が直接、「わたしは必ずあなたと共にいる」と言われたら、どんなに安心なことでしょうか。私たちはみな、神様に呼ばれてキリスト者になったのは確かなことですから、お呼びになった方は、必ずいつも傍らにいてくださることを信じて感謝して歩みたいと思います。

柳下 仁牧師

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2017年08月07日

負けるが勝ち【ヨハネ16:25〜33】

聖句「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(16:33)

1.《競争原理》 私たちは「競争社会」に生きています。英語の「コンペティション」を「競争」と訳したのは福澤諭吉だそうですが、スポーツやクラシック音楽の世界の熾烈な上位争いこそ「コンペ」の代表です。勝つために手段を選ばぬ姿勢はドーピングなど不正の温床です。実に「競争原理」は虚構でしかなく、世界に災厄をもたらし、社会を歪め、人間の魂を責め苛んでいるのです。

2.《淘汰圧力》 身の周りに「競争原理」の信奉者は大勢います。口を揃えて「弱肉強食こそが自然の摂理」と言いますが、強者が生き残るのではなく、環境に適応したものが生き残るのです。戦争指導者たちは「自存自衛の戦い」を主張し、最前線に立たされる兵士たちも、生き残りを賭けて敵兵を殺さねばなりません。企業や商店も生き残りを賭けて競争しています。教会ですらも「伝道」「宣教」を優先する余りに、信者に「淘汰圧力」を掛けて、意識的に「競争原理」を採り入れる場合があります。その方が効率よく組織は機能するのです。しかし、それが本当の教会でしょうか。イエスさまは疑義を呈されます。

3.《勝利宣言》 イエスさまは「私は既に世に勝っている」と仰いました。主は「この世の中で勝利」したのではなく、「競争原理」が支配する「この世に勝利」されたのです。だからこそ「イエスの名によって祈れ」と言われているのです。私たちも自身の成功や勝利を祈らないでは居られません。しかし、永遠に勝ち続ける人間も団体も、国家も民族も存在しません。敗北と挫折と死の中に打ち沈む日が必ず来るのです。しかし、イエスさまは勝者敗者の別なく、「この世に勝利」された主です。「勇気を出しなさい」は「タルソス/冒険心、確信」です。未だ見ぬ世界を目指すのが冒険、見ずして信ずるのが確信です。

朝日研一朗牧師

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2017年07月31日

網と舟と父親を残して【マタイ4:18〜22】

聖句「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」(4:19,20)

1.《付いて来るかい》 町内会の夏祭りでは露天商の夜店が立ち並びます。小学校の低学年の頃、日暮れ前から会場で遊んでいた私は、たこ焼きの屋台の準備を手伝ったことがあります。ご褒美に最初に焼けた物を貰ったのですが、おじさんから「一緒に来るかい?」と言われたのでした。以後しばらく、各地を移動しながら露天商を営む自分の姿を妄想するのがマイブームでした。

2.《袖の触れ合うも》 イエスさまが「4人の漁師を弟子にする」場面ですが、如何にも行き当たりばったりに思われます。投網漁をしているペトロとアンデレの兄弟に唐突に「私に付いて来なさい」では付いて行けません。普通に考えれば先ず「豊漁か?」「景気はどうか?」と世間話から始まり、彼らの抱える生活苦や将来の不安が開陳され、主が福音を説かれた後に、この招きの言葉があるべしです。幾ら何でも出会い頭に「私に付いて来なさい」では「ハーメルンの笛吹き男」に操られてる子どもたちと同じです。その点「ルカによる福音書」は挿話の順番を入れ替えることで、誰もが納得できるように再構成しています。

3.《有無を言わさず》 改めて「マタイによる福音書」に目を転じると、ドラマ展開のプロセスに何の関心も抱いていません。イエスさまが「さあ来い、俺の後ろに」と言い、弟子たちが付いて行ったという暴力的展開です。喧嘩上等のヤンキーのノリなのです。ヤコブとヨハネの兄弟は、網だけではなく、持ち舟も父親も船子も捨て去ります。非常識とも不人情とも思われますが、信仰の決断を迫られる時には、常識や人情を捨てても良いのです。仕事や生活(網と舟)、家族(父親)を何よりも大切にしていますが、それは永遠でも究極でも無いのです。いつか、主の召命に応えてお別れする時が来るのです。

朝日研一朗牧師

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2017年07月24日

天使と野獣【マルコ1:12〜13】

聖句「イエスは40日間そこに留まり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」(1:13)

1.《美女と野獣》 2017年上半期最大のヒット映画は、ディズニーの実写版『美女と野獣』です。この物語には、愛と信頼の人間関係があって初めて、人間性が回復されるというテーマがあります。さて、野獣の正体ですが、アニメ版で野獣のキャラクターをデザインしたグレン・キーンは「神がこの世に創造された生き物の中から、様々な動物を合成して作り出した」と発言しています。

2.《悪魔と動物》 イエスさまがサタンと対決する「荒れ野の誘惑」の場面ですが、悪魔との問答がありません。その代わりに、イエスさまと共に「野獣」がいるのです。詳しい描写が無いまま、唐突に「野獣」が登場するので、私も長い間この「野獣」を「悪魔」自身か「サタン」の使い魔のように錯覚していたくらいです。「野獣」と訳されている「テーリオン」は「テール」の指小語です。「テール」は「猛獣、凶暴」ですから、間違いなく獰猛な肉食獣です。しかし、イエスさまと一緒にいると、熊も小熊のように、狼も赤ちゃん狼のように、ライオンも赤ちゃんライオンのように成っているのです。

3.《天使の奉仕》 主がサタンから苦難を受けられた時、野獣たちが共にいたのです。その光景はキプリングの『ジャングル・ブック』、手塚治虫の『ジャングル大帝』、釈迦の「涅槃図」と同じです。「イザヤ書」11章のメシア預言の成就なのですが、私たちが悲嘆する時、ペットの動物が無言のまま見守っていたことも思い出されます。天使たちが「仕えていた」とは、主に食事を供えていたという意味です。私たちの奉仕は、結局、この2つに尽きるのです、即ち「荒れ野」に置かれた人に食事を運び続けるか、それとも共にいて見守るか。しかも、本当の奉仕は私たち自身の人間性を回復することでもあるのです。

朝日研一朗牧師

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2017年07月17日

主の言葉は響き渡る【Tテサロニケ1:2〜10】

聖句「主の言葉があなたがたの所から出て、マケドニア州とアカイア州に響き渡った…ので、何も付け加えて言う必要はないほどです。」(1:8)

1.《ノイズ》 礼拝説教が佳境に入った時に、折り悪く、教会の側をちり紙交換車がアナウンスをしながら通り、苦笑せざるを得ないことがありました。選挙カー、右翼街宣車、ちり紙交換、移動販売車など、英語では「sound trucks/音響トラック車」と言いますが、日本独自の文化です。「騒音」の対語は「清音、楽音」と言いますが、騒音か否かは、個々人の快不快に左右されます。

2.《コール》 美しい音楽も歌声も「聞きたくない」人にとっては騒音です。世間でも「子どもの声は騒音か、それとも希望の響きか」は大きなテーマと成っています。テサロニケの信徒たちの「信仰の働き、愛の労苦、希望の忍耐」はマケドニアとアカイアに「響き渡っている」とパウロは言います。「主の言葉は響き渡る」という言い回しは「詩編」19編2〜5節から採られています。「響き」はヘブル語で「コール」、ラッパの響きも雷鳴の轟きも、声や音色も「コール」です。サイモン&ガーファンクルのヒット曲「サウンド・オブ・サイレンス」も「その声も聞こえないのに/その響きは全地に普く」から来ているのです。

3.《神の声》 何万人もの人々が暮らしている都会生活では、言葉も歌も大量に消費されて行きます。話していても、互いの気持ちが通じ合うことは思いの他、少ないのです。喧騒と音響が溢れているのに、意味のある音が受け止められません。しかし、昔の人は空を仰ぐだけで神の御言葉を思ったのです。パウロの「あなたがたの信仰が至る所で伝えられている」は、メディアの無い時代、大袈裟かも知れません。しかし、教会の人たちは覚えて祈っていた。「知る人ぞ知る」のです。また、神さまさえ御存知ならば、誰からも知られなくても良いのです。何しろ、信仰とは「神のみぞ知るセカイ」なのですから。

朝日研一朗牧師

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2017年07月10日

神の国は、飲み食いではなく【ローマ14:13〜23】

聖句「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(14:17)

1.《ハラール》 イスラム圏から来日する観光客の増加と共に、イスラム法に照らして食べても良いと認定された食材の専門店、ハラール料理を提供する店が出て来ました。その認証を与える協会も含めて「ハラルビジネス」と言います。しかし、ハラールも実際には、国と民族と文化による温度差、意識の個人差もあり、食物タブーを厳密に守っていられない状況もあるのです。

2.《棲み分け》 「ローマの信徒」たちは「ヘレニスト」(ギリシア語を母語ととして外国で暮らすユダヤ人)に「異邦人」も加わる混成集団でした。文化的、宗教的背景も異なります。しかし、そのような人たちが共に集まって礼拝を守っていたところに活気が溢れていたのです。米国キリスト教史を学ぶと、移民は宗教集団であり、各民族、各宗派ごとに棲み分けがあることに気付きます。しかしながら、パウロの時代のキリスト者の集まりには、未だ棲み分けはなかったのです。当然そこに衝突も生まれます。にもかかわらず、それでも礼拝を共にして行ったところに、パウロの果たした役割があったのです。

3.《愛に従う》 当時の礼拝は、食事を共にしながら祈り、賛美し、キリストを記念したのです。食事が各自持ち寄りだったのか、給食だったのか、会場の主催者提供だったのか定かではありませんが、戒律を守る人の前に禁忌とされた食材を置くのは、如何にも愛がありません。一種のハラスメントです。それ故、パウロは「神の国は飲食にあらず」と叱っているのです。ところで、イエスさまは反対に「神の国は大宴会」と仰っています。主の慈悲に限りが無いことに気付く日が来ます。その日には、私たちが選んだものも拒んだものも、全て与えられることでしょう(映画『バベットの晩餐会』より)。

朝日研一朗牧師

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