2018年04月09日

それでも、平和があるように【ヨハネ20:19〜23】

聖句「弟子たちはユダヤ人を恐れて、…家の戸に鍵をかけていた。そこへイエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」(20:19)

1.《ヤムニア会議》 第一次ユダヤ戦争から20年後、紀元90年代に、ファリサイ派がヤムニア(ヤブネ)で宗教会議を開きました。そこでヘブライ語聖書のみを正典とすること、クリスチャンをユダヤ会堂から追放することが決定されました。その影響を受けて「ヨハネによる福音書」は書かれたのです。私たちの信仰が「異端」の烙印を受けることから出発した事実を忘れてはなりません。

2.《恐怖を認める》 「ユダヤ人を恐れて」は「ヨハネ福音書」のキーワードです。「フォボス/恐怖」の語から「恐怖症/フォビア」の用語が生まれました。この場合なら「ユダヤ人恐怖症」です。イエスさまに敵対する者たちは十把一絡げに「ユダヤ人」と括る「ヨハネ」が、9〜10章でのみ「ファリサイ派」と言います。主に癒された盲人を会堂から追放する場面です。「ポボス」は敵前逃亡、臆病風を吹かせる神です。恐怖や不安や嫌悪を否定してはなりません。力で捻じ伏せようとすると、却って大きくなります。自分の中に棲む嫌悪に気付き、その恐怖と向き合うことなしには、それを乗り越えることは出来ないのです。

3.《罪を赦す権威》 マグダラのマリアが復活の知らせを告げても、弟子たちは恐怖の中に打ち沈んでいます。ゾンビ化したイエスさまが復讐に来ると思っていたのです。しかし、彼らの閉ざした戸の鍵も心の殻も何のその、主は真ん中に立って「あなたがたに平和を」と祝福されます。主が共に居られることが本当の平和なのです。「弟子たちは、主を見て喜んだ」のです。主を真ん中に喜ぶこと、これが真の福音です。イエスさまは、人を罪に定めたり、人を裁いて滅ぼしたりする権威ではなく、人の罪を赦す権威を、弟子たちにお授けになりました。「ヤムニア会議」を乗り越えて、福音が世界に伝えられるのです。

朝日研一朗牧師

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2018年04月02日

ハートに火をつけて【ルカ24:13〜35】

聖句「二人は、『道で話しておられる時、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」(24:32)

1.《女性たちの証言》 十字架の時も留まっていた弟子たちが、エルサレムを後にしてエマオを目指して歩いています。仲間の女性たちの証言(空っぽの墓、天使の御告げ)に愛想が尽きたのです。当時、女性の証言などは法的信頼性を認められてはいませんでした。女性の証言は虚言と見られたのです。しかし福音書では、主の復活の最初の証人は女性たちであることが強調されています。

2.《聖書が心を開く》 証言の正当性を示すために「エマオ途上」の弟子は男性2名なのです。女性たちの証言を認めなかった彼らに、復活の主が顕われて「この馬鹿」「心が鈍い」と叱り付けるのです。ヘブル語でもギリシア語でも「心」は思考の座です。そこで弟子たちは目覚めるのですが、その契機と成っているのがイエスさまと共に食事をする「愛餐/アガペー」です。主の愛によって彼らの目は開かれます。もう1つは「聖書を開いていた」時です。彼らの思い込みとは異なる、別のイエスさまの御姿、別の聖書の読み方、捉え方に気付いた時、新しい気付きが与えられ、彼らの「心は燃えていた」のです。

3.《心に小さな種火》 ロケット発射のカウントダウンで「イグニション/点火」という語が使われます。これは「点火の物語」なのです。「心が燃えている」と言うと、私たちは熱狂的なクリスチャンの姿を想像しますが、心は感情の宿る場所ではなく、思考の宿る場所です。「理性は、神が魂に点火した光なり」(アリストテレス)です。轟々と燃え盛る炎ではなく、ランプやキャンドルの灯火、炭火や熾き火、種火のイメージです。その炎は人や家、暮らしを焼いたりしません。闇の世界を一瞬にして明るくしたりしません。私たち自身の闇を照らし、足元を照らし、一隅を照らす奥床しい小さな光なのです。

朝日研一朗牧師

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2018年03月26日

麦粒が地に落ちる時【ヨハネ12:20〜26】

聖句「人の子が栄光を受ける時が来た。…一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(12:23,24)

1.《何かの合図》 イエスさまのエルサレム入城を、群衆がナツメヤシの葉を振って歓迎した日です。群衆は「ホサナ」と歓呼しました。「ホサナ」は「詩編」118編25節の「今、救い給え」に由来する祭りの掛け声です。「救い」を意味するイエスさまの名前ともリンクしています。初代教会では挨拶として使われました。単なる挨拶にも、自らが何者であるかを確認する徴、合図があるのです。

2.《訣別の宣言》 入城後、ギリシア人がイエスさまへの面会を問い合わせて来ました。ユダヤ人が異邦人と接することを避ける時代状況にしても、随分と遠回しな交渉をしています。しかも、その後、主が彼らと面会して話したのかどうかすら記されていなくて、とても奇異な印象を受けます。この件を耳にしたイエスさまは「時が来た」と宣言されます。これまで「私の時は未だ来ていません」と仰っていたのです。つまり、ベタニアで香油を注がれて「メシア」、「ホサナ」の歓呼によって十字架の贖い、この訪問によって異邦人の救いと、主の目的が明確にされるのです。これは、神さまからイエスさまへの合図だったのです。

3.《自分に死ぬ》 日本では「死んで花実が咲くものか」「命あっての物種」と言います。ところが、イエスさまは「麦は死んでこそ実る」と仰るのです。「死ぬ/アポトネースコー」は「枯死」を意味します。麦本体は枯死するのですが、蒔かれた種は生きているのです。麦粒が蒔かれて発芽し、育って行くためには、それ相応の時間が掛かるのです。私たちはインスタントに慣れ、信仰を舐め切っていて、レンジで1分温めればキリスト者が出来ると思い込んでいます。自分が収穫を味わうことを期待するのです。けれども、本当にイエスさまにお仕えするクリスチャンに成るのは、私たちの一生涯の課題なのです。

朝日研一朗牧師

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2018年03月19日

それは私のことだ【ヨハネ9:1〜12】

聖句「『その人だ』と言う者もいれば、『いや違う。似ているだけだ』と言う者もいた。本人は、『わたしがそうなのです』と言った。」(9:9)

1.《黒人のイエス》 私たちは、欧米の聖画や映画の影響で、金髪碧眼のキリストに違和感を抱きません。しかし、米国の黒人たちにとっては、イエスさまは黒人なのです。インマヌエルの主、苦難の時にも共に居られる主は、彼らの友であり兄弟だからです。他方、ナチスが、アーリア人種にして反ユダヤ主義者のイエスを喧伝したことも忘れてはなりません。キリスト信仰を、民族差別や他者への憎悪を煽る道具に利用してはならないのです。

2.《インマヌエル》 小友睦牧師が「イエス自身、体のどこかに障碍を持っていた。あるいは、障碍を持っていた家族がいた。そうでなければ『神の業がこの人に現われるためである』と言うことは出来なかった」と書いて居られました。どうして私たちの思い描くイエスさまは、いつも「健常者」の御姿なのでしょう。勿論、歴史上のイエスという男は黒人ではなくユダヤ人だし、特に目立った身体障碍を抱えてはいなかったでしょう。しかし、インマヌエルのキリストは障碍者であったかも知れません。十字架に磔にされたイエスさまは、もはや身体の自由を全て奪われました。それが故に、彼は紛れも無き神の子なのです。

3.《マニフェスト》 『七人の侍』の菊千代が、野武士に家族を皆殺しにされた乳飲み子を抱いて「これは…俺だ!」と叫ぶ場面があります。主に癒された盲人も「それは私のことです」と言います。近所の住民たちが本人を差し置いて、あれこれ言い合う中で宣言するのです。周囲の人たちは、イエスさまの奇跡を認めることが出来ないのです。患者、障碍者、犯罪被害者、被災者の自身が中心に置かれること、それが「当事者性」です。「神の業が現われるため」の「現われる」は「マニフェーストー/公に現わして行く」ことです。

朝日研一朗牧師

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2018年03月12日

空の鳥をみよ【マタイ6:25〜34】

聖句「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」(6:26)

1.《最後の警告》 福島第一原発の過酷事故が起きた時、私は、亡き高木仁三郎の声を聴きたいと思いました。彼は1986年に『チェルノブイリ:最後の警告』を出版し、1995年の阪神淡路大震災直後から原発の地震対策について警告を発していました。そうしてみると、福島原発の大事故は「想定外」ではなくて、十分に「想定内」だったと言わざるを得ないのです。

2.《危機と破局》 富坂キリスト教センター主催の研究会で、高木仁三郎は生態学的破局の預言として「創世記」の洪水物語を引用なさっていました。他にも旧約聖書には、原発の冷却水、放射能の雨、体内被曝などと関連させて読むことの出来る箇所があります。複雑な問題が山積する現代では、単純に「自然」をテーマに聖書箇所を選ぶことも、1箇所に特定することも困難です。しかし、私たちが聖書を読む前に、既に私たち自身の側が、聖書によって読み込まれていると思われる瞬間があるのです。「空の鳥、野の花」として知られる今日の箇所も、そんな箇所の1つではないでしょうか。

3.《認識の変革》 荒井献は「野の花」を「薊」、大貫隆は「空の鳥」を「カラス」と同定して「汚らわしいもの」「差別されたもの」と解釈しています。しかし、預言者エリヤを養ったカラスの例もあります。エリヤにとっては、空から糧を運んで来てくれるカラスは、あたかも天使のようだったと思います。リチャード・ニーバーは「動物、無機物、天使」を人間の隣人として挙げました。目に見えない天使を隣人と捉えるならば、私たちの世界観は大きく変わります。「御蔭様で」と言う時、自分独りで生きているのではないことを、私たちは確認しています。その象徴が「カラス」であり「天使」ではないでしょうか。

安田治夫牧師(文責:朝日研一朗)

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2018年03月05日

希望は生まれて来るもの【ローマ5:1〜11】

聖句「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」(5:3-5)

1.《希望の種》 若者が愛と平和と喜びを求めて巡礼の旅に出ますが、行く先々で彼が目にしたのは、悲しみと憎しみに満ちた世界でした。やがて何でも望むものがあるという店に辿り着き、彼は願いを語ります。しかし、彼が手にしたのは買い物リストだけでした。店の主人は「この店では果実は売っていないのです。ここでお売りできるのは種だけなのです」と言います。

2.《巡礼の旅》 寓話を紹介しているマーガレット・シルフは英国の作家で、エキュメニカルの黙想会を主宰する人です。店主は「人生のガイド」を思わせます。自分の中にある思いを、心を込めて柔らかく結んで行くことで言葉にすることで「希望の種」が生まれます。聖地「巡礼」は「贖罪」「功徳を積む」「願掛け」を目的としていたために、「信仰義認」の立場から、プロテスタント教会では廃棄されました。しかしながら「巡礼」の語源(ペレグリーノル)はラテン語の「故郷を離れて、旅回りの」で「よそ者」を意味します。「我が故郷は天にあり」を身上とする私たちにとって「巡礼」は自らの人生の隠喩なのです。

3.《種蒔く人》 パウロの時代の信徒にとっても、人生は「巡礼」のように「苦難」の連続でした。「苦難」は「圧迫」の意味です。極端な迫害でなくても、同調圧力の強い日本社会の中で、私たちも感じるものです。「忍耐」は「持ち堪える」です。一般に「練達」は「試練を経て本物と証明される」と解されますが、私は「信仰の受容」と考えます。オンボロな私たちの信仰ですが、その恥ずかしいような自分も教会も周りの人たちも丸ごと受け入れるのです。その時「苦難、忍耐、練達」の混じった土の中から「希望」が芽吹くのです。いずれ神にお奉げする実りです。私たちは人と人の間に種を蒔いて参りましょう。

朝日研一朗牧師

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2018年02月26日

実らない無花果(イチジク)【ルカ13:6〜9】

聖句「今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。」(13:8,9)

1.《照る山紅葉》 京都に暮らすご夫妻の話です。庭の山紅葉が紅葉しなくなったので、植木屋に植え替えさせようとしました。植木屋は「紅葉が可哀想です。もう少し待ってください。山の上では綺麗に照っていたのです」と言いました。その会話を、まるで紅葉の精が聞いていたかのように、翌年の秋には紅葉したと言います。まるで能楽の『六浦』のような話ではありませんか。

2.《色々な実り》 パレスチナ地方の無花果は、夏と秋、年に2回実を付けるそうです。神さまが実りを期待して居られる無花果は「神の民」、教会です。実を付けなかった「3年間」は「長い間」の意味です。但し、求められているのは「悔い改めの実」と限ったものではありません。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5章22節〜)。神さまは何もかもを要求されてはいません。どれか1つで良いのです。他の人と同じ実を付ける必要はありません。自分らしい実りで良いのです。むしろ、自分自身が実りであり、私の人生そのものが主に奉げるべき実りなのです。

3.《未来の実り》 葡萄園の園丁であるイエスさまは、自分を信仰者、義人、救われた者と自惚れている人たちに向かって「悔い改めよ」と言われました。しかしながら、主は罪人を招かれ、滅ぶべき者とされた徴税人や娼婦と共にあり、慰め励まされました。実りを期待されているのは事実ですが、翻訳の「来年は…」は不正確です。ギリシア語原典は「これから先、この後、将来」です。猶予1年では無かったのです。イエスさまは借金の取立人のように期限を切ったり、ノルマを課したりしているのでは無かったのです。人生も信仰もゆっくりと時間を掛けて、腰を据えて掛からないと実を結ぶことはありません。

朝日研一朗牧師

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2018年02月19日

みんな笑った【ヨハネ13:31〜35】

聖句「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(13:34)

1.《ユニバーサル》 高橋優の「福笑い」(2011年)は「きっとこの世界の共通言語は英語じゃなくて笑顔だと思う」と歌っています。彼はNYタイムズ誌に、このメッセージ公告を出して、NYで路上ライヴを敢行しました。「共通言語」を「common language」ではなくて「universal language」と訳していました。彼は「英語の通用性」ではなく「笑顔の普遍性」を言いたかったのです。

2.《エスペラント》 19世紀にユダヤ系ポーランド人のザメンホフ博士が「普遍的言語」を創案しました。4つの民族が暮らす街に育ち、争いが絶えないのを見て育ったザメンホフは、共通言語による対話と相互理解を願ったのです。母語に成り代わるのではなく、飽く迄も補助言語です。エスペラントが「野望の言語」ではなく「希望の言語」と言われる所以です。言語は暴力的な面があります。言語は私たちに新しい観念や価値観を与えて解放してくれる反面、力によって文化や感性を奪い、一方的に価値を押し付けて来るのです。その点、信仰とも似ています。「バベルの塔」が解放の物語でもあったことを忘れてはなりません。

3.《心に微笑みを》 聖書に「笑顔」を探してみましたが、余り良いものとして扱われていません。イサクの誕生を予告されたアブラハムとサラは、神の御告げを嘲笑います。福音書を見ても、イエスさまが「笑った」とは書いてありません。その結果、キリスト教会は笑いを抑圧する結果と成ったのです。でも、私たちの心に描くイエスさまは、いつも微笑んで居られます。「あなたがたを愛している」と仰る主は、暖かな笑顔に溢れています。笑顔が共通言語であるのと同じく、「互いに愛し合いなさい」の福音もまた、共通言語です。何かを押し付けなくても、誰かを支配して裁かなくても、喜びが私たちを包むのです。

朝日研一朗牧師

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2018年02月12日

始末の極意【マタイ27:3〜10】

聖句「…イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨30枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして…。」(27:3)

1.《節約の名人》 上方落語に「始末の極意」という噺があります。中でも「ケチと鰻屋」と呼ばれる話が傑作です。鰻屋の隣に暮らす節約名人が蒲焼きの匂いをオカズにして御飯を食べていました。それを知った鰻屋は「匂いも客寄せに使っている売り物」と名人に代金を催促します。名人は財布を取り出して、鰻屋の前で銭を落として「嗅ぎ賃やさかい、音だけでよろしかろ」と応じるのです。

2.《ユダの汚名》 イスカリオテのユダの汚名は「裏切り者」と「守銭奴」です。「ヨハネによる福音書」12章「ベタニアで香油を注がれる」の挿話と解説によって、ユダが「金入れ」を預かっていながら使い込みをしていたとされるのです。しかし、彼が会計を託されていたのは彼の有能さの証明であり、彼が横領していたと言われても、イエスさま一行に潤沢な資金が集約されていたとも思われません。「マルコによる福音書」6章「5千人に食べ物を与える」の挿話では、一行の資金では群集の食費を賄い切れない様子です。ユダの預かっていた「金入れ/グローソッコモン」も「貯金箱」「小箱」のような物だったのです。

3.《問題の共有》 ユダは「裏切りの報酬」銀貨30枚も突き返しています。彼が投げ捨てた銀貨を運用して、祭司長たちが「ヒノムの谷/ゲー・ヒンノム」に土地を買ったというのは「汚いユダは地獄(ゲヘナ)行き」という暗示です。ユダが自殺をした副作用で、教会では長い間、自死を罪悪とし、自死者とその遺族に対して冷酷な仕打ちを続けて来ました。日本社会でも自死はタブー視されています。しかし、ユダは悔い改めて罪の告白をしているのです。イエスさまがお救いにならないはずはありません。むしろ、悩み苦しむ者を「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と突き放す、私たちこそが問題です。

朝日研一朗牧師

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2018年02月05日

聖なる者となりなさい【レビ19:1〜18】

聖句「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(19:2)

1.《聖☆おにいさん》 10年以上も連載が続く中村光のギャグマンガです。ブッダとイエスがバカンスとして立川の安アパートでルームシェアをしているという設定です。二人は「聖人」を名字と勘違いした大家から「聖さん」と呼ばれています。淡々とした若者の日常生活が描かれ、そのリアルな生活感と宗教ネタのギャグとが、絶妙のバランスを生み出しているのが人気の秘密でしょう。

2.《聖とされたもの》 「聖」とは何でしょうか。私たちの身の周りにある「聖」と称されるものに思いを巡らしてみましょう。「聖書」「聖歌隊」「聖日」「聖餐式」「聖霊」…。そんなに多くはありません。プロテスタントでも、特に「聖潔」を重んじる教派、「聖会」をする福音派の教会もあります。しかし、圧倒的に「聖」が多いのは、やはりローマカトリック教会です。「聖人」「列聖」「守護聖人」「聖地」「聖家族」「聖母」「聖水」「聖職」「聖務日課」「聖省」「聖劇」「聖週」「聖婚」「聖十字架」「聖堂」…。さて、聖書は、教会の共同体を「聖徒、聖なる者」と呼んでいますが、それは本来どのような意味だったのでしょうか。

3.《日常生活の中に》 「使徒信条」の中にも「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」と告白されています。個々人が「聖なる人」ではありません。私たち自身は「聖人、義人」ではありません。その「交わり」、コミュニティが聖霊によって聖とされるのです。レビ記の「聖潔法典」を見ると、母父を敬うこと、礼拝や献金、社会的弱者への配慮、正しい司法、復讐の否定、愛の教えと続き、全て社会生活の中の教えであることは明らかです。毎日の暮らしがあり、暮らしを営む私たちがあり、そこに聖なる主が共に居られて、それで初めて「聖なる」が生きて来るのです。これこそが「聖なる共同体」の姿なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:53 | 毎週の講壇から