2017年02月13日

世に遣わされている【ヨハネ17:6〜19】

聖句「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。」(17:18,19)

1.《遣わされた者》 ドラマ『べっぴんさん』に出演中の「林遣都」は本名で、両親が「都に出て大事を成し遂げるように」と命名したそうです。思えば「遣わす」という文字は、日本語訳と中国語訳だけの表現です。英訳その他、ラテン語やギリシア語原典に至るまで「送る」です。しかし、単に「品物を送り付ける」のと「人を遣わす」のとでは違うという信念が感じられる語です。

2.《差出人の確認》 ギリシア語の「アポステルロー/送る」は「アポスル/使徒」という聖書独特の用語を生みました。こういう特殊な語に立ち止まりながら読んで行くのが、聖書を学ぶ醍醐味です。何が何でも速く読了すれば良いというような「通読」至上主義には疑問を覚えます。「アポステルロー」の「アポ」は「分離、出発、起源」を表わす接頭辞です。「ステルロー」だけでも「送る」という意味はあるのに、更に「アポ」が付いているのです。要するに「誰からか」ということが大切なのです。家に届いた宅急便の送り主も見ないまま開ける人はいないでしょう。お遣わしになった御方が証されているのです。

3.《遺された者ら》 イエスさまの「訣別説教」です。「共観福音書」の「ゲツセマネの祈り」に比すべき場面です。主は御自身が不在になった後の弟子たちの行く末を心配して、神の御守りを何度も祈って居られるのです。ローマカトリックの信者の永井隆が、長崎で被爆して病床に臥しながら、自身の死後の娘の姿に思いを馳せる『この子を残して』の一節が心に浮かびました。誰かが「遣わされる」時、そこに「遺されて」しまう人も出て来るのです。「アポ」には「遠く離れて、遥か彼方」の含みもありました。「世に遺された者」は「世に遣わされる者」です。しかし、キリストの愛が彼らを守っているのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:51 | 毎週の講壇から

2017年02月06日

家を建てるなら【エフェソ2:11〜22】

聖句「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(2:22)

1.《マイホーム》 1975年に「家を作るなら」という建売住宅のCMソングが流行りました。都心に住む庶民の憧れが「団地」から「庭付き一戸建て」に変化した潮目だったのです。世に言う「マイホーム」です。しかし、どうして「アワ/私たちの」ではなく「マイ/私の」なのでしょうか。持ち家を手に入れた喜びの表現なのでしょうが、一抹の孤独と空虚さが感じられます。

2.《使途不明金》 教会形成も「家を建てる事」に喩えられます。イエスさまもペトロに「この岩の上に私の教会を建てる」と仰いました。その聖句を縁起として、バチカンの総本山「サン・ピエトロ大聖堂」はペトロの墓の上に建てられているようです。千三百年に渡って(324〜1626年)建て増しを続けました。遂には建立費用捻出のために「免償/免罪符」を乱発し、その結果、ルターが反対声明を出して、「宗教改革」が始まります。完成は、その更に110年後です。確かに稀有壮大ではありますが、イエスさまは何と言われるでしょう。ペトロなら使徒だけに「使途不明金!」と批判するに違いありません。

3.《建てられる》 イエスさまの仰る「教会」は建物のことではありません。「教会」と訳されている「エクレーシア」は「集会」と訳すべきです。「土台、要石、建物全体、神殿、住まい」と言われていますが、飽く迄も比喩なのです。「箱物」ではなく、主に呼び集められた人たちが「聖なる神殿」「神の住まい」に「成る」のです。私たちの力や業によってではなく、三位一体の神の力によって作り出される奇跡なのです。その基本は「食卓紐帯」にあります。血の繋がった家族ではありませんが、共に聖餐に与り、共に愛餐する「仲間」です。その時、私たちは「組み合わされて成長し」「共に建てられる」のです。

朝日研一朗牧師

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2017年01月30日

身を起こし頭を上げよ【ルカ21:25〜28】

聖句「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」(21:28)

1.《世界終末時計》 先日、米国の科学雑誌「原子力科学者会報」の「世界終末時計/Doomsday clock」が「人類滅亡まで2分半」という残り時間を発表して、人類に危機を警告しました。しかし「ドゥームズデイ/運命の日」を予告することで不安を煽り、それに付け込むカルトも数多く存在します。また、世界の滅亡を願う「黒い心の人々」(大江健三郎『個人的な体験』)もいるのです。

2.《世を見下げる》 果たして「黒い心」を持っていない人など存在するでしょうか。「世の終わりが来て、人類は滅亡する」「救われるためには…しなければならない」という信仰はキリスト教会の中にもあります。「救われるためには?」の問いに、普通「悔い改めて福音を信じなさい」と勧めます。その心は「私たちには何も出来ない、救いは神の一方的な恩寵」なのです。しかし、教会生活をしていると、「救われた者として相応しく…しなさい」との要求が重なると、逆回転して、それが救われるための条件となります。そして遂には、条件を満たしていない周囲の人たちを裁き、見下し始めるようになるのです。

3.《天を見上げる》 もしもキリスト者が世を見下すならば、「神は世を愛された」「その独り子をお与えになったほどに」という神の御心、福音の本質に反することです。むしろ「黒い心」を宿した存在なればこそ、ひたすら天を仰ぎ、滅びの時には「共に滅ぼされても仕方がない」と覚悟する謙遜さを持ちたい。世の終わりが近付くと、天変地異が起こって、誰もがパニックに成ると言います。私たちも同じです。しかし、その時こそ「解放の時」、自由になる時だと、主は仰るのです。「体を起こす」「頭を上げる」とは「希望のしるし」です。溺れるのではなく、主を見上げましょう。そこに、私たちの希望があります。

朝日研一朗牧師

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2017年01月23日

復讐するは我にあり【ヘブライ10:19〜39】

聖句「『復讐はわたしのすること、わたしが復讐する』と言い、また、『主はその民を裁かれる』と言われた方を、わたしたちは知っています。」(10:30)

1.《アヴェンジャー》 米国を代表するコミック雑誌「マーヴェル」には「アヴェンジャーズ」というチームが登場します。個別のマンガのヒーローとヒロインが一同に結集して巨悪と戦うのです。「リヴェンジ」が私怨による復讐を意味するのに対して、「アヴェンジ」は正義の立場から悪を罰するのです。米英軍には「アヴェンジャー」と銘打った艦船や航空機、兵器が多々あります。

2.《復讐は私の仕事》 神の御言葉「復讐は私のすること」云々は「申命記」32章35節から引用されています。「モーセの歌」ですから、復讐すべき敵はアマレク人でしょうか。カナンの農耕生活が描かれているので、3百年後のペリシテ人とも言えます。編集されたのが「捕囚期」と考えれば、更に5百年後のバビロニア人かも知れません。新バビロニア帝国とすれば、勝ち目がないどころか、既に祖国は滅ぼされて、自分たちは抑留されて奴隷生活を強いられているのですから、復讐など出来ません。自分で復讐したくても出来ない悔しい状況の中で、神に報復を託して行くしか無かったのでしょう。

3.《復讐を超えた先》 本来「復讐は私の仕事」の表現は、神ではなく人間が近親者としての義務を語る言葉だったのです。借金のために「嗣業の土地」を取られ、債務奴隷に成った身内を贖うことを意味しました。また、身内が殺された時には「血の復讐」を遂げることが親族の義務だったのです。しかし、イエスさまの言葉と聖霊を受け、その十字架と復活を知ったキリスト者たちは、復讐の思いを超えた先に「もっと素晴らしい、いつまでも残るもの」があることに気付いたのです。だから、数多くの迫害を受けながらも、怨みや辛み、呪いや悔しさから解き放たれて「永遠の命」を希望することが出来たのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:53 | 毎週の講壇から

2017年01月16日

平和があるように【マタイ10:5〜15】

聖句「相応しい人は誰かをよく調べ、旅立つ時まで、その人のもとに留まりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。」(10:11,12)

1.《挨拶禁止規約》 昨年、神戸のマンションの住民総会で「互いに挨拶は止めよう」との提案が出て、規約として明文化されたことが話題になりました。何とも寂しい時代に成ったものです。挨拶禁止を提案したり、反対に挨拶運動を強引に推進したりするのは、私たち自身が「顔見知り」への信頼感、延いては、他者を吟味して見極める判断能力を失ってしまっているからです。

2.《判断停止状態》 人間関係に限らず、聖書でも教会でも、信仰でも宗教でも鵜呑みにするのは正しい歩み方ではありません。疑い、吟味した上で、勇気をもって踏み出すのです。「信ずべきものは信ずる」のです。勿論、誤りもありますが、失敗は次に進むステップです。現代人は、そのプロセスを避けて、マスコミ報道やネット情報、世論調査などに判断を委ねています。しかし、判断停止状態に陥っている方が、操作誘導され易いのです。「振り込め詐欺」が流行する世相と軌を一にしています。子どもたちも「顔見知り」に挨拶せず、血の通わない怪しげな「ネット住人」だけを相手にして成長しているのです。

3.《平和の挨拶を》 イエスさまは12人の使徒に「権能」を与えて「医療伝道」に派遣しています。無一物での旅でしたが、町や村に入ったら、衣食住を与えてくれる「相応しい人/相応の値打ちのある人」の厄介になるように勧めているのです。しかし「相応しい人」「相応しい家」かを見極めるのは大変だったと思います。時には、無礼な応対を受けることもあったはずです。パウロの手紙には「使徒」「兄弟」と偽って詐欺紛いを繰り返す者もいたようです。そんな旅人を受け入れる側でも、各々に相応しい対応が求められます。誰に対しても「平和があるように」という祝福の挨拶を交わし、祈る者でありましょう。

朝日研一朗牧師

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2017年01月09日

借り暮らしもあり得るって【ローマ13:8〜10】

聖句「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。」(13:8)

1.《借り暮らし》 2010年のアニメ映画『借りぐらしのアリエッティ』は、英国の児童文学者、メアリー・ノートンの『床下の小人たち』が原作です。所謂「小人の冒険シリーズ」の1編ですが、原作者は「拝借人/Borrowers」という表現を大切にしています。何でもお金で買って所有し、声高に所有権を主張するのではなく、借り物を工夫して再利用していくのです。

2.《所有と排除》 私たちも「自分の家」「自分の土地」「自分の家族」「自分の人生」と言っていますが、神さまから「与えられたもの」、つまり「授かりもの」「預かりもの」なのです。しばらく借りていて、やがてお返しするものなのです。「借りがある」と訳されている「オフェイロー」には、借金のみならず「負い目、罪」の含みがあります。現代ギリシア語の「借りる/エノイキオ」は「エンオイケオー/その中に住む」と関係があるかも知れません。何十年か昔は、隣近所でお醤油やお砂糖の貸し借りをしていました。お裾分けもしました。私たちは、今や互いに「外に住んでいる」のかも知れません。

3.《愛し合って》 どうしても「借り」と言うと「借金」のイメージが先行してしまいます。米国の結婚式で、新郎新婦への勧告として読まれることが多かったそうですが、新婚家庭に借金の危険を警告していたのかも知れません。しかし、パウロが言いたいのは「誰にも借りや負い目を作るな」ではなくて、愛し合うことの大切さです。愛には「借りがあっても良い」のです。借りがあれば、期間内に返済するのが、私たちの社会の約束事であり秩序です。しかし、愛には負債があってもよいし、返済期限もありません。貸すばかりで損する人がいても、借りるばかりで、返さない人がいても良いのです。

朝日研一朗牧師

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2017年01月02日

幸せな生き方をしよう【マタイ13:10〜17】

聖句「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがの耳は聞いているから幸いだ。」(13:16)

1.《メタファー》 今年は酉年ですが、本来「酉」は「鳥」ではなく「酒熟して気の漏れる」様を言います。従って「水鳥」と言ったら「酒」の隠語ですが、十二支に動物を当てたのは、庶民に分かり易く説明しようとした先人の知恵です。イエスさまの譬え話も、目に見えないものを、目に見える物や経験で表現することで、誰もが得心できるようにしているのです。

2.《譬えの意味》 神の愛など私たちには想像できませんが、「放蕩息子」の帰りを待ち侘びる父親の心情は想像に難くありません。赦しの御心など分かりませんが、迷子の小羊を発見した飼い主の喜びは分かります。それこそ、イエスさまが「譬えを用いて話す理由」に他なりません。劇作家の井上ひさしの「むずかしいことをやさしく、やさしいことを深く、深いことを面白く」のモットーにも通じます。キリスト教の教義(ドグマ)を理解したり、教理問答(カテキズム)を勉強するよりも大切なことがあるのです。お百姓さんは「神の国」のことは分からないのですが、「種蒔き」なら体験として誰よりも知っているのです。

3.《幸いなる哉》 この聖書箇所では、群集には「天の国の秘密を悟ることが許されていないから」、彼らが理解できないように「譬えを用いて話すのだ」とイエスさまが言われます。むしろ、これは「マタイ」のメッセージです。「天の国の秘密」と言われている内容も驚く程のことではありません。イエスさまの福音に今出会った人たちに「幸いなるかな」と祝福しているのです。アインシュタインは「人生には2つの生き方しかない。奇跡など何一つないとして生きる生き方か、全てが奇跡であるとして生きる生き方か」と言いました。全てに奇跡を見聞きすることが出来れば、感謝と賛美に満たされるはずです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:53 | 毎週の講壇から

2016年12月26日

真夜中のメシア【ルカ2:8〜20】

聖句「その地方で羊飼いたちが野宿しながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」(2:8)

1.《深夜食堂》 安倍夜郎のマンガ『深夜食堂』は、新宿花園界隈が舞台です。深夜0時に開店すると、客の注文に応えて「できるもんなら何でも作るよ」とマスターが言うお店です。暖簾には「めしや」と書いてあります。マスターは顔に傷痕のある男、やって来るお客も深夜だけに何か「ワケアリ」の人たち。でも、私たちも皆「ワケアリ」です。それぞれの事情を抱えて生きているのですから。

2.《聖なる夜》 「深夜食堂」は「真夜中のめしや」、イエスさまも「真夜中のメシヤ」でした。「マタイによる福音書」でも「ルカによる福音書」でも、クリスマスは「夜の出来事」として描かれています。ヨセフは夜の夢に天使の告知を聴きますし、占星術の学者たちも星に導かれてメシアを訪ねます。昼間に見えていたものが夜には見えなくなりますが、昼間に見えていなかったものが夜に見えるようになることもあるのです。月や星がそうです。街や家々の灯かりも夜に際立ちます。家があり、家族がいて、各人の暮らしがあり、喜びと悲しみがあります。家々の灯かりという形を取って、私たちにも見えるようになるのです。

3.《離れた所》 真夜中に働いている人たちの姿も見えて来ます。この羊飼いたちは雇い人で、羊の群れを預かっていたのかも知れません。少なくとも「その地方で」(「離れた所」を表わします)という語句から、自分の所有地を持たぬ者たちであることだけは確かです。2千年昔にも、王宮や神殿には夜勤をしていた衛兵や夜警がいたようです。羊飼いたちがクリスマスの御告げを受けたのは、むしろ彼らが都市の雑踏から離れた所にいたからです。多くの人々から離れて、外にあるからこそ見えて来るもの、聴こえて来る音もあるのです。私たちも少しだけ他の人たちと同じではない、離れた所に立ってみましょう。

朝日研一朗牧師

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2016年12月19日

皆殺しの歌【マタイ2:13〜23】

聖句「ヘロデは…ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。」(2:16)

1.《デグエジョ》 メキシコには「皆殺しの歌/Degüello」と呼ばれる挽歌の伝統があります。総攻撃の前夜に、トランペットを奏でて、敵軍に殲滅を予告するのです。映画『アラモ』や『リオ・ブラボー』にも流れますし、『荒野の用心棒』や『夕陽のガンマン』の決闘に際して流れるのも、そのヴァリエーションです。その哀愁に満ちた曲調は、敵軍への弔いの歌であると共に、自軍兵士に対しても「死を思え」と訴えているのかも知れません。

2.《小羊の屠殺》 「デグエジョ」は「首切り」の意味です。その関連語に「聖なる幼子の虐殺/degollación de los santos inocentes」があります。ヘロデ王の虐殺の犠牲になった幼子たちを記念する祝日で、ローマカトリック諸国では12月28日に守られています。「創世記」22章の「イサクの燔祭」や「出エジプト記」12章の「過越祭の規定」を改めて読み直すと、ベツレヘムの子どもたちが犠牲の小羊として奉げられたのだと思われます。この虐殺事件は史実ではありませんが、福音書の終わりに、イエス御自身が「神の小羊」として十字架に付けられて、私たちの罪の贖いとされることと繋がっているのです。

3.《残酷な世界》 クリスマスは祝いの時、祭りの日です。却って教会が最も地味に見えるくらい、街も施設も商店も華やかに飾り立てられています。勿論、教会としても、主の来臨を心から喜びたいと思いますが、聖書に描かれたクリスマスには、暗闇や貧困、不幸や災難、苦悩や不安、圧政に苦しむ庶民の姿などがちりばめられています。そして「私たちの暮らすこの世界は、子どもを貪り食っている」のです(クレール・ブリセ著『子どもを貪り食う世界』)。この世界は残酷なのです。誰かが犠牲を強いられているのです。クリスマスは全ての人の祭りであるべきです。不幸せな人のためにも、孤独な人、愛する我が子を失った人のためにも、殺された子たちのためにもあるべきです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:46 | 毎週の講壇から

2016年12月12日

我らが人生の客【黙示録3:14〜22】

聖句「見よ、わたしは戸口に立って叩いている。誰かわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし…」(3:20)

1.《お客様》 三波春夫の決め文句は「お客様は神様です」でした。お笑いのネタに使われて、今ではクレーマーの常套句にすら成ってしまいましたが、本来は三波の芸人としての矜持を語る言葉だったのです。芸人たる者、歌う時には、観客を神と見立てて、神前で祈る時のように、澄み切った敬虔な心に成って、最高の芸を披露するべし、それが三波春夫の信条だったのです。

2.《訪問者》 「お客様は神様です」は比喩に過ぎませんが、本当に「お客様が神様」だったら、どうしましょうか。キリスト教の歴史には、そんな物語や伝承が数多くあります。トルストイの『靴屋のマルチン』(正しくは『愛あるところに神あり』)の創作は有名です。芥川龍之介の『きりしとほろ上人伝』は「聖クリストフォロス」の、フローベールの『聖ジュリアン伝』は「聖ユリアヌス」の伝承の翻案で、いずれも「黄金伝説」から採られたものです。見ず知らずの旅人を迎え入れ、背負って川を渡したら、あるいは、その冷え切った体を必死に温めたら、それがキリスト御自身であったという展開です。

3.《戸口に》 人生も「客を迎える」ことに似ています。大勢の人たちが私たちの人生を訪ねて来ます。客は人間だけではありません。私たちの人生には、苦難と死という訪問者がいます。しかし、苦難と死を経て初めて、私たちは神に近付くことが出来るのです。苦難と死を乗り越えられるようにと、キリストが私たちの客と成って下さるのです。W・ホフマン・ハントの絵画「世の光」には、カンテラを手にして、閉ざされた扉を叩くキリストが描かれています。扉には取っ手が無く、内側からしか開けられません。時刻は信仰と希望と愛も眠ってしまった真夜中、扉には蔦が絡んでいます。主を迎え入れ、愛する者、信じて希望を抱く者として、主と共に生きていこうではありませんか。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:51 | 毎週の講壇から