2013年10月28日

人生はジグザグ模様

聖句「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」(10:32)

1.《牧師の定義》 「牧師」は英語の「パスター」を翻訳した語です。その語源は「羊飼い」です。家畜に草を食べさせながら移動する「遊牧者」です。「牧師」と言うと、生真面目なイメージがありますが、一文字「遊ぶ」と付けるだけで、田園に遊び戯れる楽しげなイメージに成ります。また、牧師は、仏教で言えば「一所不在」、遍歴する者でなければいけません。

2.《遍歴する主》 イエスさまの生活も、町々村々を旅して歩き、そこに暮らす人たちと出会う遍歴でした。主の行く先には、苦しみ悩む人がいます。イエスさまは彼らを癒しますが、いずれまた別の病気に罹ったはずです。蘇えった人も、いずれ再び亡くなったことでしょう。悩みが1つ解決したと思っても、それは次の悩みへの小休止に過ぎません。生き難さは変わらないのです。けれども、イエスさまとの出会いは、私たちの希望と勇気を与えてくれます。イエスさまは悩む人たちと一緒に愛の宝を育み、生み出していかれたのです。

3.《先導する主》 「マルコによる福音書」を読むと、イエスさまの旅のルートがジグザグであることが分かります。合理的ではないのです。まるで、誰かを訪ね求めて彷徨い歩いているような有様です。そこに出会いがあるのでしょう。しかし、エルサレムを目指し始めるや、真っ直ぐに進みます。エルサレムには受難と十字架が待っていますから、弟子たちは恐れます。私たちも多かれ少なかれ不安を抱えて暮らしています。しかし、主が先導してくださるのです。「もう後がない」「もうお仕舞い」と思うこともありますが、「停車駅の1つ」「地上は仮住まい」「次は何が来るのか」と考えてみたらどうでしょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:11 | 毎週の講壇から

2013年10月21日

ウエル、ウエル、ウエル【Tコリント 10:13】

聖句「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます」(10:13)

1.《父の形見》 1964年、空前のエレキブームに、高校1年生だった私は、友人たちと共にバンドを結成して、聖公会三光教会のクリスマス会で演奏しました。やがてフォークの時代が来ました。私もピーター・ポール&マリーやボブ・ディランに影響を受けて、アコギを弾くようになりました。20歳のお祝いに父が買ってくれたギターが、父の唯一の形見になりました。

2.《長い道程》 ピーター・ヤローもディランもユダヤ系で、旧約聖書を主題にした歌詞が多くありました。私たちのバンドも、1960年代末、コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージックを三光教会の礼拝で演奏しました。しかし、司祭に受け入れられませんでした。持病があったため、プロを目指すこともなく、バンドは解散しました。けれども、ニッポン放送のフォーク番組に出演した際に、現在の妻と知り合えたことは幸いでした。仕事も家庭も順調でしたが、ある日、持病の悪化で大量吐血し、緊急手術をすることになりました。

3.《新しい命》 病気によって希望を失った時、主治医から信仰を持つように勧められました。行人坂教会に行く前には、浄土真宗の家なので躊躇もしました。しかし、礼拝では親身に受け入れて貰い、2006年の復活日に夫婦で洗礼を受けました。受洗翌日、自分が生まれ変わったような印象を受けました。だから、受洗志願者には、その感情を大切にと必ず言います。神さまは、遅れて来た人にも祝福を与えて下さいます。礼拝の中でギター伴奏をする機会も与えられ、神さまが新しい人生を用意していて下さったことを実感しました。いつもキリストは共にいて下さっていますが、御手を差し伸べて下さってもいるのです。

信徒奨励 星野文雄

posted by 行人坂教会 at 17:23 | 毎週の講壇から

2013年10月14日

いのちの土台【マタイ7:24〜29】

聖句「雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」(7:25)

1.《呼び掛け》 イエスさまの「山上の説教」は「幸いなるかな」という祝福への招きで始まりました。そして「あなたはどこに立って生きるか」という決断への招きで結ばれているのです。招いておられるのは主、決断するのは私たちです。「山上の説教」は、これまで通りの自分にして置いては聞くことの出来ぬ教えです。単なる人生論や修養論ではありません。

2.《岩の上に》 私たちが家を建てるとなれば、建築デザインやスタイル、素材に話が及びます。ラビの教えにも「石材の上に煉瓦を積む家」の話があり、童話の「三匹の子豚」も同系列です。しかし、取り敢えずは「家を建てる」こと、生活を営むことが言われています。試練が襲い掛かって来るのも、全ての人の人生に共通です。しかし、それでも倒れないのは「土台」が違うのです。問題は、どこに自分の生活の「居を定めるか」です。「ルカによる福音書」の並行記事では、「地面を深く掘り下げる」という別の解釈をしています。

3.《生きた石》 愚かな人生は「倒れ方が酷かった」とあり、致命的なことが分かります。「聞いて行なう」は21節の「天の父の御心を行なう」と繋がります。「文語訳」の「天に在す我が父の御旨を行のう」、即ち「御旨に生きる」のです。さすれば、もはや条件を満たす等という陳腐な事ではありません。「聞く」と「行なう」は1つです。私たちが真心で受け止めて、それが生き方に成るのです。イエスさまこそ私たちの「命の土台」です。石そのものに命はありませんが、命の土台に与る時、私たちも「生きた石」とされるのです。私たちの命の拠り所はどこにあるのか、何の甲斐あって生きるのか、吟味すべきです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:38 | 毎週の講壇から

2013年10月07日

狭い道を選ぼう【マタイ7:13〜23】

聖句「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」(7:13)

1.《掟の門》 カフカの短編小説に『掟の門』があります。「掟の門」の前には屈強な門番が立っています。入ろうとした男は門前で待機させられます。たとえ忍び込んでも、奥に行く程に恐ろしい門番が何人も立ち塞がっていると言います。やがて臨終を迎えた男は「なぜ、私独りしか掟の門に来ないのか」と尋ねると、門番は「この入り口は、お前のために作られたものだ」と答えるのでした。

2.《狭き門》 「掟」はユダヤ教の律法、旧約の信仰を意味します。掟も信仰も実際に生きられてこそのものです。イエスさまの譬にある門も、大勢の人が押し寄せて行列を作っているから「狭き門」なのではありません。門はイエスさま自身なのです(ヨハネによる福音書10章9節)。「信ぜよ」と招いて居られるのです。しかし、「狭い」と聞いて、私たちは「窮屈」「困難」と錯覚します。実際には、教会や信徒が「狭き門」になって、敷居を高くしているのです。信仰は「細い道」です。ただ単に、そこにに続いているから「狭き門」なのです。

3.《細い道》 無条件に招いて居られるのに「狭い」のは何故でしょうか。1つは独りでしか入れないからです。信仰は人生ですから、誰か他の人に代わって生きて貰う訳にはいかないのです。もう1つは荷物を持って入ることが出来ないからです。学歴や経歴、肩書き、地位や名誉、家財産、過去の罪、長年の垢を落として門に入るのです。左右には裾野が広がっています。一方には、自分も他人も戒めで縛り、息が詰まる律法主義の世界があり、他方、罪の奴隷に成り下がる自由放縦の世界があります。しかし、イエスさまを信じる道は自由の道です。尾根伝いの道です。山の道(人生)は自分の足で歩いてこそです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:46 | 毎週の講壇から

2013年09月23日

目ん玉から丸太ん棒 【マタイ7:1〜6】

聖句「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(7:5)

1.《目に入る物》 目から涙が出るのは当たり前。長い人生の途上には、目に色々な物が入り、目から色々なものが出て来ます。将棋には「目から火が出る王手飛車」、相撲には「目から汗が出る」猛練習、聖書には「目から鱗」があります。私も学生時代、京都の呉服問屋でバイト中に事故に遭い、目に入った蛍光管の破片を、病院の眼科で1つずつ取り出して貰った経験があります。

2.《木屑と丸太》 目に入った異物を自分で取り除くことは、自分独りで出来ません。小さいからと言って放置して良い物でもありません。イエスさまは大工の息子ですから、丸太を挽いたり削ったりして木屑の舞い散る木工所を、身をもって御存知だったはずです。「他人の目の木屑には気付くが、自分の目の丸太に気付かない」は「自分の事は棚に上げて、他人の失敗を指摘する」嫌味な奴のことですが、一方的に他人の世話ばかり焼いている人にも当て嵌まります。何が問題かと言えば、人間関係が一方向的に成っている点です。

3.《共同の作業》 コントの締めは「豚に真珠」です。「猫に小判」は単なる「宝の持ち腐れ」ですが、「豚に真珠」は「折角見付けたお宝を粗末にしてはいけない」という意味です。それは福音、十字架の愛、そして、イエスさまの愛が私たちの相互関係に受肉することなのです。目に木っ端が入れば、取って上げます。「困った時はお互い様」なのです。双方向的なのです。何の痛みも共感も無い所から出発するのは、根本的に間違っています。私たちが他の人を、どんな眼差しで見ているか、神さまは御存知です。自分の目の木っ端を取り除くのに、必ず他の人の手を借りなければなりません。それが福音の世界です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:09 | 毎週の講壇から

2013年09月16日

お積み立ては天国銀行へ【マタイ6:19〜21、24】

聖句「富は、天に積みなさい。…あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(6:20,21)

1.《銀行ありき》 イエスさまの時代には、既に「銀行」がありました。「タラントンの喩え話」や「ムナの喩え話」に「銀行」という語が出て来ますから、間違いありません。いずれも、損失を恐れる余りに資金運用を怠り、地面に隠して置いた僕が「役立たず」と言われて追い出される話です。教会では、神の賜物の話に読み替えようとしますが、正直、露骨なお金儲けの話です。

2.《商売と金融》 ユダヤ人は「お金儲けが上手」と言われています。実際、ロスチャイルド財閥やクーン=レーブ商会があり、シェイクスピアやディケンズの作品にも「強欲なユダヤ人」が登場します。しかし、それは飽く迄ステレオタイプ、日本人が皆「サムライとニンジャ」で無いのと同じです。律法に金貸しを禁じられていたユダヤ人ですが、バビロン捕囚期に止む無く業務を始めています。強い絆を利用して金融業と総合商社を立ち上げたのです。同時に商業倫理も発達して仕入れ値の1割6分以上は暴利であるとされました。

3.《宝を奉げる》 イエスさまは「銀行」まで自作のコントに仕込んで居られる程に台本作家でしたが、御自身は教会の組織化も、大聖堂建築も、信徒動員のリバイバル集会も為さいませんでした。むしろ、群集が集まると、移動して行きました。集まり過ぎた群衆のために、ご飯の心配を為さるような御方でした。終生「富」とは無縁でした。24節の「富/マモン」とは「拝金主義」です。19節以下の「富/セサウロス」は「宝」と訳すべきでしょう。「花咲爺」のように、ひょんなことから見つけるものです。「銀行」に積み立てるものではありません。積み立てるならば天の神に感謝して、その喜びをお奉げするのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:09 | 毎週の講壇から

2013年09月09日

異邦人の祈り【マタイ6:5〜15】

聖句「あなたがたが祈る時は、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。」(6:7)

1.《何も要らない》 4世紀の主教、クリュソストモスは「神に祈るために/あなたに何も要らない」という言葉を残しています。「祈りは苦手」と呟く人の多くは何かの準備や用意が必要、何かが足りないと誤解しています。むしろ、イエスさまは「くどくど祈るな」と命じています。多神教のローマ世界では、八百萬の神の名前が抜けないように、神の名前の一覧表を作って読み上げたのです。

2.《祈る人は聴く》 天の父は「願う前から」あなたの祈りを御存知なのです。つまり、祈りの本質は私たちがお喋りをすることではなく、聴くことにこそあります。ある精神科医は「患者が他者の話に耳を傾け始めたら治っている」と言いました。祈りも同じです。祈りは神さまからの贈り物です。私たちが業績を作り、くどくど祈って、神さまに何かを要求するようなものではありません。イエスさまが「アッバ、父よ」と赤ちゃん語で呼び掛けられたように、信頼と愛情をもって呼ぶのです。むしろ、私たちが神を忘れることが問題です。

3.《心底から祈る》 プロテスタントの伝統は、言葉で祈ることに比重が偏り過ぎています。東方教会の「屈身礼拝」や「断食」のように体を使う祈りもあって良いでしょう。何にせよ、形式だけで中身の伴わないものに陥る危険はあります。またしても、私たちは祈りが神の賜物であることを忘れ、受け取らないまま、無理に捻り出そうとするのです。私たちの「心の祈り」の最初は「私を憐れんでください」です。「絶えず祈りなさい」と言われるのは、このことです。祈りは大切ですが、大切にする余りに偶像化してはいけません。食べるのに指や箸は大切ですが、まさか箸や指まで食べてしまう人はいないでしょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:31 | 毎週の講壇から

2013年09月02日

偽善者の田舎芝居【マタイ6:1〜4】

聖句「見て貰おうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたの天の父のもとで報いを頂けないことになる。」(6:1)

1.《村芝居》 杉浦日向子の『駆け抜ける』という作品の中で、彰義隊士だった御隠居が「新撰組」と聞いて、「あんな村芝居の忠臣蔵のような格好とは訳が違います」と反論する場面があります。江戸育ちの粋な旗本、目の肥えた江戸っ子から見れば、新撰組は「田舎者の猿芝居」なのです。落語の『村芝居』でも、秋祭りの出し物に「仮名手本忠臣蔵」が演じられるのですが、無理解と準備不足から、舞台は滅茶苦茶に成ってしまいます。

2.《偽善者》 イエスさまは「山上の説教」の中で、繰り返し「偽善者」と言われます。「偽善者」は「役者、俳優」という意味です。ギリシアの仮面劇から来ています。施しも祈りも断食も、人に見せるための演技で、神さまに向かっていないことを告発しています。「見て貰おうとして」も「劇場」の語源を同じくし、「既に報いを受けている」の「受ける」も商業用語です。神社や寺の石柵には寄進者の名前が彫ってありますが、ユイスマンスによると、欧州のカトリック教会も同じようでした。プロテスタント教会は匿名性を基本にしていますが、名誉欲や自慢、自己満足の罠は、私たちの中にも潜んでいます。

3.《委ねる》 「偽善者たちが人から褒められようと」等と非難されていますが、褒められること自体が悪い事ではありません。褒められて、人は成長を促されます。批判と反省、叱責ばかりでは気力が失われ、萎縮していまいます。そうではなくて、褒められることが目的に成っては本末転倒なのです。棟方志功は「上手な絵描きになるな。下手な絵描きになれ」と言いました。人の評判におもねるのではなく、芸術家は美に仕えるのです。信仰者の行ないは、自分にではなく主に仕えるのです。「敬虔は、判断することを自らに禁ずる」(アラン)のです。判断と評価とは、神さまにお委ねして参りましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 10:05 | 毎週の講壇から

2013年08月26日

愛敵と隣人愛【マタイ5:38〜48】

聖句「『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言って置く。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(5:43,44)

1.《共生》 行政でも使われる「共生」は、本来、生物学の用語です。2つの異なった種類の生物が密着して生活して、相互の利害を共有しているのです。詩人の石原吉郎は自身のシベリア抑留体験から、共生は便宜的に始まるのではなく、そうしなければ生きられない、切羽詰った形で始まったのではないかと言います。石原は「最も近い者に最初の敵を発見するという発想を身につけた」のでした。

2.《敵性》 ギリシア語の「近い者/プレーシオン」こそは、聖書の「隣人」に他なりません。イエスさまが引用なさった「レビ記」19章を見ても「敵を憎め」等とは書いてありません。兄弟愛、同胞愛、隣人愛を説いているだけです。それは自分の部族の者に限定され、「敵を憎め」へと収斂していきます。これが「隣人愛の正体」です。イエス御自身は「隣人を愛せ」と言わず「敵を愛せ」と仰っているのです。無理難題としか思われません。しかし、私たちもまた、神さまから見れば「悪人」「正しくない者」かも知れません。そのように考える時、私たちは、敵だとても同じこの世に生かされていることを知るのです。

3.《愛敵》 キリスト教会は「敵を愛する」との主の命令を「敵は、愛することによって敵ではなくなる」「敵を味方に付けることによって敵を滅ぼす」(リンカーン大統領)と教えて来ました。しかし、この方法論の根底にあるのは、ユダヤ教と同じ「隣人愛」の教えです。ただ、如何にして敵を隣人に変えてやろうかというのです。このような考え方から欠落しているのは、「天の父」から見れば、他ならぬ私たち自身が「敵」であるかも知れないという思慮深さです。十字架を置き去りにしたら、それはキリスト教信仰ではありません。

朝日研一朗牧師

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2013年08月19日

舟【創世記6:14、22 ルカ5:1〜11】

聖書に出てくる「舟」とは、教会を暗示している。船内がそうであるように、教会の中も平等・協力を必要とする場所なのである。更に、湖上で揺れる舟のように、教会も常に不安定である。いつも、なんだかんだと問題が起きて揺れるのだ。揺れない船がないように、揺れない教会もない。いや揺れるからこそ、お互いの虚飾もはがれる。裸とはいかないが、下着一枚で恥ずかしながら集まっている。お互いの隠せない恥と罪を、許しあって生きるしかない場所なのだ。更に舟は、陸から離れている。これは教会が、この地上から常に距離を置いていることを暗示している。しかし完全に離れているわけではない。地上と天国の中間地点、ターミナルの場所。完全に天国でもない、完全に地上でもない、曖昧な距離感、漂流感が教会の特徴。イエスの招きを受けたペトロたちは舟を陸にあげて従った。この陸に上げられた舟、全く無意味な、力のない、間の抜けた姿。ここに教会の最後の姿がある。イエスと共にいる時、もはや教会が陸に上がった舟のように、教会は無用になる。神の名は、主の栄光は永遠であっても、教会は永遠ではない。あの教会も、この教会も、いずれは陸に上がった舟のようになる。大切なのは舟ではない。舟が運んだ人々こそが大切なのだ。ノアの箱舟が偉大だったのではない。箱舟が運んだ命一つ一つこそが、かけがえがなかったのだ。その船が運んだ人々が、イエスと共に生きるのであれば、教会は陸に打ち捨てられてよい。ただ振り返って、崩壊寸前の傷ついた教会に、心からの感謝をささげたい。涙をぬぐいつつ教会を慈しむ、そんな感謝の思いに満たされる日が来ると聖書は語る。

塩谷直也牧師師

posted by 行人坂教会 at 16:03 | 毎週の講壇から