2013年08月12日

不公平な人生【サムエル記上 26:6〜11 ルカ16:19〜31】

私だけがどうして不幸なのか、どうして人生は不公平なのか、そう嘆く私たちは、無意識のうちに不公平を是正するための復讐を計画している。しかしそれに対しダビデとラザロは、不公平の最終的是正が神の領域であることを示してくれる。復讐できるけれどあえてしない、強さと愛の世界があることを私たちに教えてくれる。

コルベ神父の身代わりによって生き残ったガヴィヨニチェック、彼も逆の意味で また人生の不公平に悩んだ一人。どうして自分だけが生き残ったのか。どうしてあんないい人が殺され、私のような人間が生き残るのか。このような人間もまた、人生の不公平を是正するための復讐をする。しかし復讐の相手は、自分自身。自らを殺して、人生の不公平を是正しようとするのだ。

もしもコルベ神父がこのガヴィヨニチェックの苦しみを聞いたら天国で何と言 うだろう?小崎登明氏はこの問いにこう答えた。「人間に・・・あの人は尊い、この人は貧しい、そう言う生き方はないのだよ。全ての人間は、同じように神が愛しておられる。神は普通の人を愛される。どの人も、あの人も、神の豊かな愛に生かされているのだから。」・・・ガヴィヨニチェック、あの人は生きる価値がある。この人にはない、と言うことはない。全ての人間は同じように神が愛している。神はあなたのような普通の人を愛される。偉い人も、立派な人も、若くして死んだ人も、生き残ったあなたも、神の愛に生かされている。私が死んで、あの人が生きた方がよっぽど良かった、と言うことはない。全ての人に生きる価値がある・・・。

不公平な人生を是正しようと私たちは復讐に走る。けれどダビデ、ラザロ、そしてイエスは、私たちに語る。本当の強者となり、神にゆだねなさい。与えられた人生を、生き残ったあなたのたった一つの命を大切にしなさい、と。

塩谷直也牧師師

posted by 行人坂教会 at 17:08 | 毎週の講壇から

2013年08月05日

力を捨てよ【詩編 46:1〜12】

聖句「力を捨てよ、知れ/わたしは神。/国々にあがめられ、この地であがめられる。」(46:11)

1.《呻き声》 2001年の「9.11テロ」で燃え上がり、崩壊する世界貿易センタービルのテレビ映像は、あたかも「スペクタクル」のように見えました。その映像から人間を想像することは難しいのです。しかし、生きながら焼かれるか、飛び降りて死ぬかを迫られて、幾人もの人たちが墜落していたのです。

2.《キリエ》 私にとって、やがて映像は映画と見分けがつかなくなりましたが、「ああ、神よ…」という呻き声が耳に残りました。あの時、後輩の山本有紀牧師はマンハッタンのユニオン神学校に在学中で、現場にいながら、やはり言葉を失ったと証言していました。彼女が古代教会史を学ぶルーマニア正教会の司祭が無言の「キリエ」を祈り始め、生徒たちもそれに倣いました。人の命と未来が粉々に打ち砕かれた時、「グランド・ゼロ/爆心地」で、砕かれた命の破片を拾い、無言で、その呻きに耳を傾けることが、キリスト者の祈りです。「キリエ」とは、主を裏切ったペトロの涙の祈り「主よ、憐れみたまえ」です。

3.《応える》 前の「口語訳」では「静まれ」と訳してありましたが、「新共同訳」では「力を捨てよ」と積極的な意訳がされています。人が行動することを止めるのは、神への信頼、御前での悔い改めと関係があります。「力を捨てる」ことは、私たち自身が武力を放棄することでもあります。当時、ブッシュ米大統領は「報復、神罰/リトリビューション」を訴えて、アフガンとイラクを戦場にしました。しかし、「リトリビューション」には「返答」の意味もあります。私たちが天の声に応えて行くとしたら、「力を捨てよ」ではないでしょうか。

朝日研一朗牧師

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2013年07月29日

まず、仲直りから【マタイ5:21〜26】

聖句「その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」(5:24)

1.《関西のアホ》 関西人にとって「アホ」は身近な語です。1日百回くらいは、会話の中で「アホ」を言って、関係の緊張緩和を促します。関東の「バカ」よりも深みがあり、人間性を表現する語です。しかし、関西人は「バカ」と言わないから良いのではありません。問題にされているのは、言葉ではなく心です。

2.《裁く人の心》 イエスさまは、兄弟に「バカ」と言う者は裁かれ、兄弟を不信者扱いして裁く者こそは「地獄行き」と仰っているのです。しかし、「バカ」と言わなくとも、心無い言葉で、人の心を切り裂いてしまうことが、私たちにもあります。そして、どんなに「言葉狩り」をしても、差別する心は無くなりません。むしろ「裁く心」、人を「切り捨てる心」が問題なのです。その点では、「義憤」等というものは、マスコミによって製作され、時の政治権力によって利用、操作され易いものです。私憤の方が未だしも危険がありません。

3.《和解を優先》 自分が正しいと思って他人を切り捨てる人が「地獄行き」なのです。特に信仰者は肝に銘じなくてはなりません。教会は「恵みにより召されたる者の集い」です。信仰心が篤いからでも愛が深いからでもなく、ただ、神の恵みにより集い、私たちは互いに出会ったのです。神の恵みが無ければ、生涯、出会うこともなく、勝手に短い一生を終えていたのです。キリスト者にとって最も大切な礼拝よりも、イエスさまは「仲直り」を優先されています。同じように、御もとへと向かう人生(25節「一緒に道を行く場合」)なのですから、今の内に「途中で早く和解しなさい」と言われるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 15:38 | 毎週の講壇から

2013年07月22日

正しさを押し付けない【マタイ5:17〜20】

聖句「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(5:17)

1.《押す文化》 この何十年かで日本社会は「押すこと」が支配的になりました。何から何まで「プッシュ式」です。ダイヤルも引き戸も譲り合いの心も消えました。経済成長時代が終わっても、相変わらずの「押せ押せ」です。押せば必ず人を圧迫してしまいます。押す文化は自分を押し付けることです。

2.《引く文化》 イエスさまは、律法学者やファリサイ派に「義がない」とは仰いません。但し、彼らの義は「押し付けの義」だったのです。「ルカ福音書」18章に「ファリサイ派の人と徴税人」が神殿で祈る譬話があります。自己犠牲と善行を誇るファリサイ派は、傍らで祈る罪人の徴税人を見下して蔑んだのです。しかし、神の前に義と認められたのは、徴税人の方だったのです。自らを引き、自分の非を認めて悔い改めることこそが、神の御前の義なのです。「押し付けの義」は必ずや他人を見下げて、成り立っているのです。「押す」ことではなく「引く」ことによって、神の赦し、即ち「神の義」は与えられていくのです。

3.《もう一歩》 「引く」と言っても「引きっ放し」では困ります。柔道の「引き技」は海辺の波のように「寄せば引く、引けば寄す」です。つまり、肩肘張って、肩怒らせて生きるのではなく、肩の力を抜くのです。自分の力を抜けば、それだけ、そこに神の御力が働きます。私たちは際限ない「自己主張の綱引き」を止めて、神さまを唯一義なる御方として仰いで参りましょう。「律法の中の律法」「律法と預言者」を極めると、その心は7章12節に書いてあります。いつも自分が出発点です。しかし、到達点は他の誰かなのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 14:54 | 毎週の講壇から

2013年07月15日

地の塩、世の光【マタイ5:13〜16】

聖句「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。」(5:13)

1.《ほんの少し》観念的にならないように「蝋燭と塩と石鹸」を思い浮かべて見たら如何でしょう。いずれも我が身を削って初めて役に立つのです。自分の身を擦り減らさないことには真価を発揮しなのです。そして、いずれも少量で良いのです。何事にも適量があるのです。出しゃばりや厚かましさは逆効果です。むしろ、慎ましやかさや目立たぬことに価値があります。

2.《地にあって》イエスさまは「地の塩、世の光」に、弟子たることの意義を説いておられます。「地の塩になれ」とは言われません。イエスさまを知って、共に生きようとする時、私たちは既に「地の塩」とされているのです。それは御大層な目標ではなく、「地にある」のです。但し、塩には「塩気、塩味」があるのですから、それをこの地域にあって発揮していかなくてはなりません。教会から一歩出た時から、私たちの「塩」としての真価が問われるのです。

3.《世にあって》イエスさまによって既に「世の光」とされているのに、私たちは、折角の灯火を計量カップで覆って消してしまうのです。臆病さや甘えや気兼ねや責任逃れです。放って置けば、自ずと輝いているのです。「隠そう」とするのは、却って自己顕示欲の裏返しなのです。16節の「立派な」は「魅力的な」と訳すべきでしょう。自分本位ではなく、人間味に溢れ、人情の機微を知っている人は、自身も周囲もワクワクさせるのです。神さまが「その独り子を賜った程に」   愛された「この世」を、私たちも愛して参りましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:46 | 毎週の講壇から

2013年07月08日

しあわせな人たち【マタイ5:1〜12】

聖句「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(5:9)

1.《信仰の真髄》「山上の説教」を「山上の垂訓」と呼び習わして、校長や社長の訓辞のように受け止めたところに、日本のキリスト教の不幸があります。忽ち実行できる事は道徳です。しかし、信仰は生涯をかけて目指して行くものです。一気飲み、鵜呑みは慎んで、時間をかけて味わって参りましょう。イエスさまの教えは全世界、全時代、全ての人に向けて語られた御言葉なのですから。

2.《求めること》イエスさまは命令や教えの前に「幸せ」を宣言なさって、私たちを招き、無条件に祝福して下さるのです。「八福」と言われますが、前半は受け身の状態を、後半は「共に生きようとする時の姿勢」を表わしています。前半4つの「人々」はカテゴリーや条件付けではありません。共通しているのは、ひたすらに神を求め、寄り頼むことです。「求める人は幸い」なのです。自分は神のもの、生きるも死ぬるも、健康でも病気でも、持っていても持っていなくても、求めることは許されているのです。そこに信仰の道が始まるのです。

3.《共に生きる》神の御名を求めることが許されている幸せな人は如何に生きるか。どのように生きるのがキリスト者の幸せか。それが後半です。モデルはキリストの十字架の生涯です。「憐れみ深い」は「友愛」、「心の清い」は偽りに満ちた私を神の真実の前に投げ出すこと、「平和を実現する」は「この世の平和」の偽りを暴くこと、「義のために迫害される」はその結果です。善いことを求めて迫害されたのでは堪ったものではありません。しかし、それも幸せなのです。幸せにあれこれと条件を付けているのは私たち自身なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:14 | 毎週の講壇から

2013年07月01日

キリスト教会の心【使徒言行録2:36〜47】

聖句「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、それを分け合った。」(2:44,45)

1.《悔い改めよ》 キリスト教会の史上初の勧めは「悔い改めなさい」でした。それは、神の御前に罪ある自分に向き合うことです。一見、弱々しい印象を受けます。しかし、御前に謙虚であればこそ、日々の生活の中から、社会の中から聞こえて来る声があり、挙げなければならない声もあります。謙虚さから生まれる大胆さがあるのです。自らの罪を知り、他者への愛を知る者とされるのです。

2.《弱さも恵み》 ペトロの例からも解るように、信仰における失敗、裏切り、躓きは、罪意識を生み、悔い改めを生み、悔い改めは信仰の背骨になったのです。私たちの望まないことも、怖いことも、避けたいことも、すべて豊かさを生むのです。この世的な貧しさも、死すらも、聖書的、信仰的、教会的には、豊かさを生む。新しい命へと繋がっている。「罪」すらも、恵みに変える信仰。私たちのこの教会は、そんな希望の中を生きている教会なのです。こうして、罪や弱さすら恵みとなり得る教会が、2000年前に誕生したのです。

3.《分かち合う》 持っている人だけが物質的な何かを分かち合うのではなく、何も持たなくとも、その痛みや苦しみを教会で分かち合う。それが祈りとなり、それぞれの信仰と教会が強くされる。教会は、痛みも弱さも、全てを分かち合うのです。良いものだけを持ち寄るなら、自慢大会です。他者の痛みも悩みも不自由さも、皆で共有する。他者の歩みと痛みを共有することを通して、その中に豊かさを見いだしてゆく。共に分かち合い、主に委ね、絶望の中に希望を見して行くのが、信仰者の群れ。教会なのです。

野田沢牧師(学生キリスト教友愛会)

posted by 行人坂教会 at 18:22 | 毎週の講壇から

2013年06月24日

欠けを補う【コロサイ1:24〜29】

聖句「今や私は…キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」(1:24)

1.《キリストの欠け》 キリストの十字架の苦難に「尚足りない所」があったかのように思われる言葉です。キリストの救いは、後から人間が補ったり満たしたりするような安普請なのでしょうか。救済史においては、十字架の一回性が強調されるのですが、ここに言う「苦しみ」は複数形です。どうやら、私たちが生きていて出遭う悲しみや苦しみであるようなのです。

2.《欠けは私たちに》 むしろ、欠けたるは私たち自身なのです。キリスト者たる者、キリストの復活の命に与ることを願うならば、十字架の死にも与るべきなのです。そのことを自覚した時、どこまでも足りない自身に気付かざるを得ないのです。到底、満たし切れない不足です。救いの御業を不完全なものにしているのは私たちなのです。だからこそ、繰り返し、愛の業によって、身をもって満たしていこうとするのです。これが「悩む力」「苦しむ力」です。苦しみの中で尚、生きていく生き方があるのです。それを信仰と言います。

3.《小さなキリスト》 今イエスさまは目に見える御姿では居られません。今度は私たちの出番なのです。キリストの使者として、苦しみを担う時、私たちも「小さなキリスト」に成ります。何も「大きなキリスト」に成ろうとする必要はありません。むしろ、誰か一人でも良いのです。私たちの小さな奉仕の背後に、真の主が居られることに気付いてくれさえすれば、使命を達成できるのです。この世の中に、十字架と関わりの無い苦しみは、ただの1つもありません。それ故、あらゆる苦しみが輝きを帯び、光を放つのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:35 | 毎週の講壇から

2013年06月17日

共に喜び、共に泣く【ローマ 12:9〜21】

聖句「祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(12:14,15)

1.《神からの信号》 人間に痛みと苦しみが無ければ、どんなに幸せでしょうか。ところが、実際に、アメリカに痛みを感じない子供がいたそうです。「穏やかな良い子」と可愛がられていましたが、釘を踏み抜いていても、何も気付かなかったと言います。むしろ、痛みも苦しみも神さまからの信号として受け止めて行くべきではないでしょうか。きっと、何か意味があるのです。

2.《不幸は驚き!》 大きな不幸に遭った時、私たちは「なぜ?」という叫びを上げます。答えは見つかりません。驚きとして、謎のままに残されるのです。私たちが求めているのは、苦しみの「原因」説明ではなく、苦しみの「目的や意味」でからです。不幸に驚く者は、神の創造それ自体に驚いているのです。今更ながらに生まれたこと、生かされていることに驚いているのです。何一つ自明のことはありません。問い掛けを発することで被造物としての自覚が生じるのです。キリスト教で「苦難」が語られるのは、諦念や悟りのためではありません。

3.《共に苦しむ》 聖書は「ハウツー物」ではありませんから、幸せに成るコツは書いてありません。むしろ「苦難は必ずある」と言います。避けて通りたいのが本音ですが、避けられないのならば、どうすれば良いでしょうか。ここに「コンパッション/共苦」があります。苦しみは孤独と疎外を生み出すばかりか、排斥される場合もあります。しかし、「キリストの体」は「共に悩む」のです。これは人間には奇跡に近いことです。これこそが十字架を仰ぐ教会に与えられた信仰の指標です。イエスさまの十字架の道に連なるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:52 | 毎週の講壇から

2013年06月10日

人はどこへ行くのか【ヨブ記14:1〜10】

聖句「だが、人間は死んで横たわる。息絶えれば、人はどこに行ってしまうのか。」(14:10)

1.《豚はどこへ》 九州教区総会の会場である福岡までは、隣町の教会の牧師と交替で、自動車を運転して、7時間もかかります。追い越し禁止車線の続く山道、豚を乗せたトラックが前を塞いでします。それを笑っていると、トラックが右折しました。その刹那、断末魔のように、豚が一斉にいななきました。そこは「なんちく」というハム工場への曲がり角だったのです。

2.《牛はどこへ》 宗教学者の中沢新一は29歳の時、チベットに行き、ラマ僧のもとで修行をしました。ラマ僧は彼を屠殺場に連れて行き、1日中マントラ(お経)を唱えるように命じます。牛がロープで引っ張って来られ、屠殺人がハンマーを振り下ろします。すぐさま腹を裂いて内臓を取り出します。一面が血の海です。やがて、牛と一緒に悲鳴を上げている自分に気付きました。ラマ僧は「牛はお前だ。お前は牛に成った。自身の心に近付けたら良いのだ」と言いました。

3.《猿はどこへ》 中国南北朝時代(宋)に編纂された『世説新語』にある物語です。都で貴族のペットにでもするのでしょう。子猿が捕らえられて、商人に売り飛ばされ、黄河を下る舟で運ばれて行きます。母猿は子猿の泣き声だけを頼りに、川沿いの断崖を追いかけます。やがて港に着いた時、母猿は子猿の入れられた籠に手を掛けて息絶えました。即ち、その腸は裂けていました。これを「断腸の愛」と人々は呼びました。動物にも植物にも魚貝にも命があります。命があるものには心があります。私たちは命と心を失ってはなりません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:29 | 毎週の講壇から