2013年09月09日

異邦人の祈り【マタイ6:5〜15】

聖句「あなたがたが祈る時は、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。」(6:7)

1.《何も要らない》 4世紀の主教、クリュソストモスは「神に祈るために/あなたに何も要らない」という言葉を残しています。「祈りは苦手」と呟く人の多くは何かの準備や用意が必要、何かが足りないと誤解しています。むしろ、イエスさまは「くどくど祈るな」と命じています。多神教のローマ世界では、八百萬の神の名前が抜けないように、神の名前の一覧表を作って読み上げたのです。

2.《祈る人は聴く》 天の父は「願う前から」あなたの祈りを御存知なのです。つまり、祈りの本質は私たちがお喋りをすることではなく、聴くことにこそあります。ある精神科医は「患者が他者の話に耳を傾け始めたら治っている」と言いました。祈りも同じです。祈りは神さまからの贈り物です。私たちが業績を作り、くどくど祈って、神さまに何かを要求するようなものではありません。イエスさまが「アッバ、父よ」と赤ちゃん語で呼び掛けられたように、信頼と愛情をもって呼ぶのです。むしろ、私たちが神を忘れることが問題です。

3.《心底から祈る》 プロテスタントの伝統は、言葉で祈ることに比重が偏り過ぎています。東方教会の「屈身礼拝」や「断食」のように体を使う祈りもあって良いでしょう。何にせよ、形式だけで中身の伴わないものに陥る危険はあります。またしても、私たちは祈りが神の賜物であることを忘れ、受け取らないまま、無理に捻り出そうとするのです。私たちの「心の祈り」の最初は「私を憐れんでください」です。「絶えず祈りなさい」と言われるのは、このことです。祈りは大切ですが、大切にする余りに偶像化してはいけません。食べるのに指や箸は大切ですが、まさか箸や指まで食べてしまう人はいないでしょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:31 | 毎週の講壇から

2013年09月02日

偽善者の田舎芝居【マタイ6:1〜4】

聖句「見て貰おうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたの天の父のもとで報いを頂けないことになる。」(6:1)

1.《村芝居》 杉浦日向子の『駆け抜ける』という作品の中で、彰義隊士だった御隠居が「新撰組」と聞いて、「あんな村芝居の忠臣蔵のような格好とは訳が違います」と反論する場面があります。江戸育ちの粋な旗本、目の肥えた江戸っ子から見れば、新撰組は「田舎者の猿芝居」なのです。落語の『村芝居』でも、秋祭りの出し物に「仮名手本忠臣蔵」が演じられるのですが、無理解と準備不足から、舞台は滅茶苦茶に成ってしまいます。

2.《偽善者》 イエスさまは「山上の説教」の中で、繰り返し「偽善者」と言われます。「偽善者」は「役者、俳優」という意味です。ギリシアの仮面劇から来ています。施しも祈りも断食も、人に見せるための演技で、神さまに向かっていないことを告発しています。「見て貰おうとして」も「劇場」の語源を同じくし、「既に報いを受けている」の「受ける」も商業用語です。神社や寺の石柵には寄進者の名前が彫ってありますが、ユイスマンスによると、欧州のカトリック教会も同じようでした。プロテスタント教会は匿名性を基本にしていますが、名誉欲や自慢、自己満足の罠は、私たちの中にも潜んでいます。

3.《委ねる》 「偽善者たちが人から褒められようと」等と非難されていますが、褒められること自体が悪い事ではありません。褒められて、人は成長を促されます。批判と反省、叱責ばかりでは気力が失われ、萎縮していまいます。そうではなくて、褒められることが目的に成っては本末転倒なのです。棟方志功は「上手な絵描きになるな。下手な絵描きになれ」と言いました。人の評判におもねるのではなく、芸術家は美に仕えるのです。信仰者の行ないは、自分にではなく主に仕えるのです。「敬虔は、判断することを自らに禁ずる」(アラン)のです。判断と評価とは、神さまにお委ねして参りましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 10:05 | 毎週の講壇から

2013年08月26日

愛敵と隣人愛【マタイ5:38〜48】

聖句「『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言って置く。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(5:43,44)

1.《共生》 行政でも使われる「共生」は、本来、生物学の用語です。2つの異なった種類の生物が密着して生活して、相互の利害を共有しているのです。詩人の石原吉郎は自身のシベリア抑留体験から、共生は便宜的に始まるのではなく、そうしなければ生きられない、切羽詰った形で始まったのではないかと言います。石原は「最も近い者に最初の敵を発見するという発想を身につけた」のでした。

2.《敵性》 ギリシア語の「近い者/プレーシオン」こそは、聖書の「隣人」に他なりません。イエスさまが引用なさった「レビ記」19章を見ても「敵を憎め」等とは書いてありません。兄弟愛、同胞愛、隣人愛を説いているだけです。それは自分の部族の者に限定され、「敵を憎め」へと収斂していきます。これが「隣人愛の正体」です。イエス御自身は「隣人を愛せ」と言わず「敵を愛せ」と仰っているのです。無理難題としか思われません。しかし、私たちもまた、神さまから見れば「悪人」「正しくない者」かも知れません。そのように考える時、私たちは、敵だとても同じこの世に生かされていることを知るのです。

3.《愛敵》 キリスト教会は「敵を愛する」との主の命令を「敵は、愛することによって敵ではなくなる」「敵を味方に付けることによって敵を滅ぼす」(リンカーン大統領)と教えて来ました。しかし、この方法論の根底にあるのは、ユダヤ教と同じ「隣人愛」の教えです。ただ、如何にして敵を隣人に変えてやろうかというのです。このような考え方から欠落しているのは、「天の父」から見れば、他ならぬ私たち自身が「敵」であるかも知れないという思慮深さです。十字架を置き去りにしたら、それはキリスト教信仰ではありません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:46 | 毎週の講壇から

2013年08月19日

舟【創世記6:14、22 ルカ5:1〜11】

聖書に出てくる「舟」とは、教会を暗示している。船内がそうであるように、教会の中も平等・協力を必要とする場所なのである。更に、湖上で揺れる舟のように、教会も常に不安定である。いつも、なんだかんだと問題が起きて揺れるのだ。揺れない船がないように、揺れない教会もない。いや揺れるからこそ、お互いの虚飾もはがれる。裸とはいかないが、下着一枚で恥ずかしながら集まっている。お互いの隠せない恥と罪を、許しあって生きるしかない場所なのだ。更に舟は、陸から離れている。これは教会が、この地上から常に距離を置いていることを暗示している。しかし完全に離れているわけではない。地上と天国の中間地点、ターミナルの場所。完全に天国でもない、完全に地上でもない、曖昧な距離感、漂流感が教会の特徴。イエスの招きを受けたペトロたちは舟を陸にあげて従った。この陸に上げられた舟、全く無意味な、力のない、間の抜けた姿。ここに教会の最後の姿がある。イエスと共にいる時、もはや教会が陸に上がった舟のように、教会は無用になる。神の名は、主の栄光は永遠であっても、教会は永遠ではない。あの教会も、この教会も、いずれは陸に上がった舟のようになる。大切なのは舟ではない。舟が運んだ人々こそが大切なのだ。ノアの箱舟が偉大だったのではない。箱舟が運んだ命一つ一つこそが、かけがえがなかったのだ。その船が運んだ人々が、イエスと共に生きるのであれば、教会は陸に打ち捨てられてよい。ただ振り返って、崩壊寸前の傷ついた教会に、心からの感謝をささげたい。涙をぬぐいつつ教会を慈しむ、そんな感謝の思いに満たされる日が来ると聖書は語る。

塩谷直也牧師師

posted by 行人坂教会 at 16:03 | 毎週の講壇から

2013年08月12日

不公平な人生【サムエル記上 26:6〜11 ルカ16:19〜31】

私だけがどうして不幸なのか、どうして人生は不公平なのか、そう嘆く私たちは、無意識のうちに不公平を是正するための復讐を計画している。しかしそれに対しダビデとラザロは、不公平の最終的是正が神の領域であることを示してくれる。復讐できるけれどあえてしない、強さと愛の世界があることを私たちに教えてくれる。

コルベ神父の身代わりによって生き残ったガヴィヨニチェック、彼も逆の意味で また人生の不公平に悩んだ一人。どうして自分だけが生き残ったのか。どうしてあんないい人が殺され、私のような人間が生き残るのか。このような人間もまた、人生の不公平を是正するための復讐をする。しかし復讐の相手は、自分自身。自らを殺して、人生の不公平を是正しようとするのだ。

もしもコルベ神父がこのガヴィヨニチェックの苦しみを聞いたら天国で何と言 うだろう?小崎登明氏はこの問いにこう答えた。「人間に・・・あの人は尊い、この人は貧しい、そう言う生き方はないのだよ。全ての人間は、同じように神が愛しておられる。神は普通の人を愛される。どの人も、あの人も、神の豊かな愛に生かされているのだから。」・・・ガヴィヨニチェック、あの人は生きる価値がある。この人にはない、と言うことはない。全ての人間は同じように神が愛している。神はあなたのような普通の人を愛される。偉い人も、立派な人も、若くして死んだ人も、生き残ったあなたも、神の愛に生かされている。私が死んで、あの人が生きた方がよっぽど良かった、と言うことはない。全ての人に生きる価値がある・・・。

不公平な人生を是正しようと私たちは復讐に走る。けれどダビデ、ラザロ、そしてイエスは、私たちに語る。本当の強者となり、神にゆだねなさい。与えられた人生を、生き残ったあなたのたった一つの命を大切にしなさい、と。

塩谷直也牧師師

posted by 行人坂教会 at 17:08 | 毎週の講壇から

2013年08月05日

力を捨てよ【詩編 46:1〜12】

聖句「力を捨てよ、知れ/わたしは神。/国々にあがめられ、この地であがめられる。」(46:11)

1.《呻き声》 2001年の「9.11テロ」で燃え上がり、崩壊する世界貿易センタービルのテレビ映像は、あたかも「スペクタクル」のように見えました。その映像から人間を想像することは難しいのです。しかし、生きながら焼かれるか、飛び降りて死ぬかを迫られて、幾人もの人たちが墜落していたのです。

2.《キリエ》 私にとって、やがて映像は映画と見分けがつかなくなりましたが、「ああ、神よ…」という呻き声が耳に残りました。あの時、後輩の山本有紀牧師はマンハッタンのユニオン神学校に在学中で、現場にいながら、やはり言葉を失ったと証言していました。彼女が古代教会史を学ぶルーマニア正教会の司祭が無言の「キリエ」を祈り始め、生徒たちもそれに倣いました。人の命と未来が粉々に打ち砕かれた時、「グランド・ゼロ/爆心地」で、砕かれた命の破片を拾い、無言で、その呻きに耳を傾けることが、キリスト者の祈りです。「キリエ」とは、主を裏切ったペトロの涙の祈り「主よ、憐れみたまえ」です。

3.《応える》 前の「口語訳」では「静まれ」と訳してありましたが、「新共同訳」では「力を捨てよ」と積極的な意訳がされています。人が行動することを止めるのは、神への信頼、御前での悔い改めと関係があります。「力を捨てる」ことは、私たち自身が武力を放棄することでもあります。当時、ブッシュ米大統領は「報復、神罰/リトリビューション」を訴えて、アフガンとイラクを戦場にしました。しかし、「リトリビューション」には「返答」の意味もあります。私たちが天の声に応えて行くとしたら、「力を捨てよ」ではないでしょうか。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 10:46 | 毎週の講壇から

2013年07月29日

まず、仲直りから【マタイ5:21〜26】

聖句「その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」(5:24)

1.《関西のアホ》 関西人にとって「アホ」は身近な語です。1日百回くらいは、会話の中で「アホ」を言って、関係の緊張緩和を促します。関東の「バカ」よりも深みがあり、人間性を表現する語です。しかし、関西人は「バカ」と言わないから良いのではありません。問題にされているのは、言葉ではなく心です。

2.《裁く人の心》 イエスさまは、兄弟に「バカ」と言う者は裁かれ、兄弟を不信者扱いして裁く者こそは「地獄行き」と仰っているのです。しかし、「バカ」と言わなくとも、心無い言葉で、人の心を切り裂いてしまうことが、私たちにもあります。そして、どんなに「言葉狩り」をしても、差別する心は無くなりません。むしろ「裁く心」、人を「切り捨てる心」が問題なのです。その点では、「義憤」等というものは、マスコミによって製作され、時の政治権力によって利用、操作され易いものです。私憤の方が未だしも危険がありません。

3.《和解を優先》 自分が正しいと思って他人を切り捨てる人が「地獄行き」なのです。特に信仰者は肝に銘じなくてはなりません。教会は「恵みにより召されたる者の集い」です。信仰心が篤いからでも愛が深いからでもなく、ただ、神の恵みにより集い、私たちは互いに出会ったのです。神の恵みが無ければ、生涯、出会うこともなく、勝手に短い一生を終えていたのです。キリスト者にとって最も大切な礼拝よりも、イエスさまは「仲直り」を優先されています。同じように、御もとへと向かう人生(25節「一緒に道を行く場合」)なのですから、今の内に「途中で早く和解しなさい」と言われるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 15:38 | 毎週の講壇から

2013年07月22日

正しさを押し付けない【マタイ5:17〜20】

聖句「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(5:17)

1.《押す文化》 この何十年かで日本社会は「押すこと」が支配的になりました。何から何まで「プッシュ式」です。ダイヤルも引き戸も譲り合いの心も消えました。経済成長時代が終わっても、相変わらずの「押せ押せ」です。押せば必ず人を圧迫してしまいます。押す文化は自分を押し付けることです。

2.《引く文化》 イエスさまは、律法学者やファリサイ派に「義がない」とは仰いません。但し、彼らの義は「押し付けの義」だったのです。「ルカ福音書」18章に「ファリサイ派の人と徴税人」が神殿で祈る譬話があります。自己犠牲と善行を誇るファリサイ派は、傍らで祈る罪人の徴税人を見下して蔑んだのです。しかし、神の前に義と認められたのは、徴税人の方だったのです。自らを引き、自分の非を認めて悔い改めることこそが、神の御前の義なのです。「押し付けの義」は必ずや他人を見下げて、成り立っているのです。「押す」ことではなく「引く」ことによって、神の赦し、即ち「神の義」は与えられていくのです。

3.《もう一歩》 「引く」と言っても「引きっ放し」では困ります。柔道の「引き技」は海辺の波のように「寄せば引く、引けば寄す」です。つまり、肩肘張って、肩怒らせて生きるのではなく、肩の力を抜くのです。自分の力を抜けば、それだけ、そこに神の御力が働きます。私たちは際限ない「自己主張の綱引き」を止めて、神さまを唯一義なる御方として仰いで参りましょう。「律法の中の律法」「律法と預言者」を極めると、その心は7章12節に書いてあります。いつも自分が出発点です。しかし、到達点は他の誰かなのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 14:54 | 毎週の講壇から

2013年07月15日

地の塩、世の光【マタイ5:13〜16】

聖句「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。」(5:13)

1.《ほんの少し》観念的にならないように「蝋燭と塩と石鹸」を思い浮かべて見たら如何でしょう。いずれも我が身を削って初めて役に立つのです。自分の身を擦り減らさないことには真価を発揮しなのです。そして、いずれも少量で良いのです。何事にも適量があるのです。出しゃばりや厚かましさは逆効果です。むしろ、慎ましやかさや目立たぬことに価値があります。

2.《地にあって》イエスさまは「地の塩、世の光」に、弟子たることの意義を説いておられます。「地の塩になれ」とは言われません。イエスさまを知って、共に生きようとする時、私たちは既に「地の塩」とされているのです。それは御大層な目標ではなく、「地にある」のです。但し、塩には「塩気、塩味」があるのですから、それをこの地域にあって発揮していかなくてはなりません。教会から一歩出た時から、私たちの「塩」としての真価が問われるのです。

3.《世にあって》イエスさまによって既に「世の光」とされているのに、私たちは、折角の灯火を計量カップで覆って消してしまうのです。臆病さや甘えや気兼ねや責任逃れです。放って置けば、自ずと輝いているのです。「隠そう」とするのは、却って自己顕示欲の裏返しなのです。16節の「立派な」は「魅力的な」と訳すべきでしょう。自分本位ではなく、人間味に溢れ、人情の機微を知っている人は、自身も周囲もワクワクさせるのです。神さまが「その独り子を賜った程に」   愛された「この世」を、私たちも愛して参りましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:46 | 毎週の講壇から

2013年07月08日

しあわせな人たち【マタイ5:1〜12】

聖句「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(5:9)

1.《信仰の真髄》「山上の説教」を「山上の垂訓」と呼び習わして、校長や社長の訓辞のように受け止めたところに、日本のキリスト教の不幸があります。忽ち実行できる事は道徳です。しかし、信仰は生涯をかけて目指して行くものです。一気飲み、鵜呑みは慎んで、時間をかけて味わって参りましょう。イエスさまの教えは全世界、全時代、全ての人に向けて語られた御言葉なのですから。

2.《求めること》イエスさまは命令や教えの前に「幸せ」を宣言なさって、私たちを招き、無条件に祝福して下さるのです。「八福」と言われますが、前半は受け身の状態を、後半は「共に生きようとする時の姿勢」を表わしています。前半4つの「人々」はカテゴリーや条件付けではありません。共通しているのは、ひたすらに神を求め、寄り頼むことです。「求める人は幸い」なのです。自分は神のもの、生きるも死ぬるも、健康でも病気でも、持っていても持っていなくても、求めることは許されているのです。そこに信仰の道が始まるのです。

3.《共に生きる》神の御名を求めることが許されている幸せな人は如何に生きるか。どのように生きるのがキリスト者の幸せか。それが後半です。モデルはキリストの十字架の生涯です。「憐れみ深い」は「友愛」、「心の清い」は偽りに満ちた私を神の真実の前に投げ出すこと、「平和を実現する」は「この世の平和」の偽りを暴くこと、「義のために迫害される」はその結果です。善いことを求めて迫害されたのでは堪ったものではありません。しかし、それも幸せなのです。幸せにあれこれと条件を付けているのは私たち自身なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:14 | 毎週の講壇から