2013年07月01日

キリスト教会の心【使徒言行録2:36〜47】

聖句「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、それを分け合った。」(2:44,45)

1.《悔い改めよ》 キリスト教会の史上初の勧めは「悔い改めなさい」でした。それは、神の御前に罪ある自分に向き合うことです。一見、弱々しい印象を受けます。しかし、御前に謙虚であればこそ、日々の生活の中から、社会の中から聞こえて来る声があり、挙げなければならない声もあります。謙虚さから生まれる大胆さがあるのです。自らの罪を知り、他者への愛を知る者とされるのです。

2.《弱さも恵み》 ペトロの例からも解るように、信仰における失敗、裏切り、躓きは、罪意識を生み、悔い改めを生み、悔い改めは信仰の背骨になったのです。私たちの望まないことも、怖いことも、避けたいことも、すべて豊かさを生むのです。この世的な貧しさも、死すらも、聖書的、信仰的、教会的には、豊かさを生む。新しい命へと繋がっている。「罪」すらも、恵みに変える信仰。私たちのこの教会は、そんな希望の中を生きている教会なのです。こうして、罪や弱さすら恵みとなり得る教会が、2000年前に誕生したのです。

3.《分かち合う》 持っている人だけが物質的な何かを分かち合うのではなく、何も持たなくとも、その痛みや苦しみを教会で分かち合う。それが祈りとなり、それぞれの信仰と教会が強くされる。教会は、痛みも弱さも、全てを分かち合うのです。良いものだけを持ち寄るなら、自慢大会です。他者の痛みも悩みも不自由さも、皆で共有する。他者の歩みと痛みを共有することを通して、その中に豊かさを見いだしてゆく。共に分かち合い、主に委ね、絶望の中に希望を見して行くのが、信仰者の群れ。教会なのです。

野田沢牧師(学生キリスト教友愛会)

posted by 行人坂教会 at 18:22 | 毎週の講壇から

2013年06月24日

欠けを補う【コロサイ1:24〜29】

聖句「今や私は…キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」(1:24)

1.《キリストの欠け》 キリストの十字架の苦難に「尚足りない所」があったかのように思われる言葉です。キリストの救いは、後から人間が補ったり満たしたりするような安普請なのでしょうか。救済史においては、十字架の一回性が強調されるのですが、ここに言う「苦しみ」は複数形です。どうやら、私たちが生きていて出遭う悲しみや苦しみであるようなのです。

2.《欠けは私たちに》 むしろ、欠けたるは私たち自身なのです。キリスト者たる者、キリストの復活の命に与ることを願うならば、十字架の死にも与るべきなのです。そのことを自覚した時、どこまでも足りない自身に気付かざるを得ないのです。到底、満たし切れない不足です。救いの御業を不完全なものにしているのは私たちなのです。だからこそ、繰り返し、愛の業によって、身をもって満たしていこうとするのです。これが「悩む力」「苦しむ力」です。苦しみの中で尚、生きていく生き方があるのです。それを信仰と言います。

3.《小さなキリスト》 今イエスさまは目に見える御姿では居られません。今度は私たちの出番なのです。キリストの使者として、苦しみを担う時、私たちも「小さなキリスト」に成ります。何も「大きなキリスト」に成ろうとする必要はありません。むしろ、誰か一人でも良いのです。私たちの小さな奉仕の背後に、真の主が居られることに気付いてくれさえすれば、使命を達成できるのです。この世の中に、十字架と関わりの無い苦しみは、ただの1つもありません。それ故、あらゆる苦しみが輝きを帯び、光を放つのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:35 | 毎週の講壇から

2013年06月17日

共に喜び、共に泣く【ローマ 12:9〜21】

聖句「祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(12:14,15)

1.《神からの信号》 人間に痛みと苦しみが無ければ、どんなに幸せでしょうか。ところが、実際に、アメリカに痛みを感じない子供がいたそうです。「穏やかな良い子」と可愛がられていましたが、釘を踏み抜いていても、何も気付かなかったと言います。むしろ、痛みも苦しみも神さまからの信号として受け止めて行くべきではないでしょうか。きっと、何か意味があるのです。

2.《不幸は驚き!》 大きな不幸に遭った時、私たちは「なぜ?」という叫びを上げます。答えは見つかりません。驚きとして、謎のままに残されるのです。私たちが求めているのは、苦しみの「原因」説明ではなく、苦しみの「目的や意味」でからです。不幸に驚く者は、神の創造それ自体に驚いているのです。今更ながらに生まれたこと、生かされていることに驚いているのです。何一つ自明のことはありません。問い掛けを発することで被造物としての自覚が生じるのです。キリスト教で「苦難」が語られるのは、諦念や悟りのためではありません。

3.《共に苦しむ》 聖書は「ハウツー物」ではありませんから、幸せに成るコツは書いてありません。むしろ「苦難は必ずある」と言います。避けて通りたいのが本音ですが、避けられないのならば、どうすれば良いでしょうか。ここに「コンパッション/共苦」があります。苦しみは孤独と疎外を生み出すばかりか、排斥される場合もあります。しかし、「キリストの体」は「共に悩む」のです。これは人間には奇跡に近いことです。これこそが十字架を仰ぐ教会に与えられた信仰の指標です。イエスさまの十字架の道に連なるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:52 | 毎週の講壇から

2013年06月10日

人はどこへ行くのか【ヨブ記14:1〜10】

聖句「だが、人間は死んで横たわる。息絶えれば、人はどこに行ってしまうのか。」(14:10)

1.《豚はどこへ》 九州教区総会の会場である福岡までは、隣町の教会の牧師と交替で、自動車を運転して、7時間もかかります。追い越し禁止車線の続く山道、豚を乗せたトラックが前を塞いでします。それを笑っていると、トラックが右折しました。その刹那、断末魔のように、豚が一斉にいななきました。そこは「なんちく」というハム工場への曲がり角だったのです。

2.《牛はどこへ》 宗教学者の中沢新一は29歳の時、チベットに行き、ラマ僧のもとで修行をしました。ラマ僧は彼を屠殺場に連れて行き、1日中マントラ(お経)を唱えるように命じます。牛がロープで引っ張って来られ、屠殺人がハンマーを振り下ろします。すぐさま腹を裂いて内臓を取り出します。一面が血の海です。やがて、牛と一緒に悲鳴を上げている自分に気付きました。ラマ僧は「牛はお前だ。お前は牛に成った。自身の心に近付けたら良いのだ」と言いました。

3.《猿はどこへ》 中国南北朝時代(宋)に編纂された『世説新語』にある物語です。都で貴族のペットにでもするのでしょう。子猿が捕らえられて、商人に売り飛ばされ、黄河を下る舟で運ばれて行きます。母猿は子猿の泣き声だけを頼りに、川沿いの断崖を追いかけます。やがて港に着いた時、母猿は子猿の入れられた籠に手を掛けて息絶えました。即ち、その腸は裂けていました。これを「断腸の愛」と人々は呼びました。動物にも植物にも魚貝にも命があります。命があるものには心があります。私たちは命と心を失ってはなりません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:29 | 毎週の講壇から

2013年05月27日

わたしにあるもの【使徒言行録3:1〜10】

聖句「私には金や銀はないが、持っているものを上げよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(3:6)

1.《大化け》 デビュー時に目立たなかったタレントが、何かを契機にして一躍大スターに成ることを、芸能界では「化ける」と言います。ペトロは思慮浅く、誘惑に負け、何度も失敗を重ねました。しかし、その冴えない男が使徒の代表、やがてローマ教会の指導者となり、殉教を遂げるのです。歴史に大きな活動の足跡を残したペトロを支えた、信仰の原点は何だったのでしょうか。

2.《奇跡力》 イエスさまを否認したペトロでしたが、危うい所を、主の復活と赦しによって生かされたのです。彼にあるのは、その確信と証言だけでした。神殿で「生まれながら足の不自由な男」と出会ったペトロは、その「持っているものを上げた」のです。物乞いは「歩き回ったり躍ったりして」神を賛美しました。「歩き回る」こと等、私たちには何でも無い事のようですが、それが奇跡です。当たり前の事として見過している事柄の中に、神さまの御力が働いているのです。

3.《お名前》 人を生かすものは金銀ではなく、十字架の赦しの力です。「イエス・キリストの名によって」と言われているように、奇跡の出来事はペトロの力によるものではありません。イエスさまの御名に、その御生涯と御業、御言葉が全て宿っているのです。しかしながら、魔術的な呪文でも霊験新たかな効力でもありません。ただ、私はここに立っている、赦され生かされているという証しです。そして、それこそが人間の恢復に是非とも必要なのです。更には、それが「無学な普通の人」に非凡な人生を歩ませて行ったのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 10:38 | 毎週の講壇から

2013年05月20日

弱虫ペトロの力強い証し【使徒言行録2:37〜42】

聖句「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとその他の使徒たちに、『私たちはどうしたらよいのですか』と言った。」(2:37)

1.《ペンテコステ》 見た目に囚われると物事の本質は見えてきません。「聖霊降臨」によって引き起こされた現象にばかり囚われると、却って出来事の意味を見落とします。繰り返される「ような」という語は日常に有り得ないが故の表現です。出来事の説明が僅かに4節なのも、聖書が現象よりも意味に重点を置いているからです。聖霊の働きは人間の理解を超えているのです。

2.《兄弟たちよ!》 ペトロが「知って頂きたい」と語るのは、イエス・キリストの十字架の死と復活です。その説教の中で「あなたがたが殺した」と糾弾をしているのです。それなのに人々は「大いに心を打たれ」、「兄弟たちよ」と言って、使徒たちに身の処し方の如何を尋ねるのです。普通、ミスを指摘されたり、糾弾されたら、生理的に反発するはずです。罪を指弾されながらも、互いに「兄弟よ」と呼び交わす関係が生まれるとしたら、それこそが聖霊の働きです。

3.《罪の仲間たち》 「私たちはどうしたらよいのですか」は、絶望と希望とが綯い交ぜになった言葉です。自分に自信があったら、そんなことは言いません。自分に絶望した者が、すっかり神さまに自分を明け渡しているのです。そして、罪の糾弾を受けた人たちが「仲間に加わった」と言われています。実は、使徒たちも全く同じ経験をしていたのです。ペトロたち自身が「主を十字架に付けたのは私だ」「どうしたらよいのか」と泣き叫んだはずなのです。それだからこその「仲間」なのです。絶望の告白の上に教会は立っているのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:27 | 毎週の講壇から

2013年05月13日

荒野のオアシス【創世記16:1〜16】

聖句「主の御使いが荒れ野の泉のほとり…で彼女と出会って、言った。『…ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。』」(16:7,8)

1.《まなざしの力》 戦前、ある少年の話です。母子家庭の暮らしは厳しく、母親が町の有力者の妾になりました。少年は有力者の援助を受けて隣町の高等中学に通いました。町の人たちの軽蔑と妬みの混じった眼差しに耐え切れず、思わず飛び込んだ教会で「姦通の女」の物語に接して、少年は入信し、やがて牧師に成りました。人を追い詰める眼差しも、人を温かく包む眼差しもあるのです。

2.《それでも人間》 以前、レイプ犯罪の被害者女性のレポートを読んだことがあります。勇気を奮い起こして裁判に訴えたものの、好奇の眼差しに晒され、過去を剥き出しにされて敗訴していました。弁護士が訪ねると「それでも、あたし、人間よね」と彼女は訴えたと言います。誰もが人格をもった大切な存在として尊重されるべきです。「母の日」も、所謂「母親」だけが賛美される日であってはなりません。誰にも母性は与えられており、誰もが「神の子供」なのです。

3.《顧みられる神》 子宝の与えられないアブラハムは、サラの女奴隷ハガルを側女に迎えます。しかし、女主人は妊娠したハガルをイジメて、彼女は行く当てもなく出奔します。神が現われて彼女に「女主人の下に帰り、従順に仕えよ」と言います。「従順に仕えよ」とは「彼女の手の下で苦しめられよ」です。何と、非情な御言葉でしょう。ところが、驚いたことに、ハガルは苦しみしか無い所に戻って行くのです。「私を顧みられる神」の確信を得たからです。勿論「顧みる」とは「見詰める、見守る、眼差しを注ぐ」という意味です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:25 | 毎週の講壇から

2013年05月06日

キリストは昇天す【使徒言行録1:6〜11】

聖句「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて、彼らの目から見えなくなった。」(1:9)

1.《期間限定》 イースターから数えて40日目がキリストの「昇天日」です。聖書では「40」はエポックの数字、銀行預金の「満期」です。しかも、復活から昇天までは、人間の体で言えば、骨と骨とを繋ぐ関節のような、「イエス・キリストの時代」から「教会の時代」へと移る節目だったのです。イエスさまが御自ら復活の生き証人として活動された「聖なる期間」でもあったのです。

2.《大喜びで》 イエスさまが「天に上げられ」てしまいました。別離は寂しい悲しい出来事かと思われますが、前編「ルカによる福音書」巻末には、弟子たちが「大喜びで」あったと書いてあるのです。ここに、人生を生きる「喜びの秘訣」が隠されています。昇天の主は私たちを「祝福」なさったのです。祝福は存在の肯定です。また「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続」します。そして、この昇天の出来事を通して、天と地とが、神と人間とが結ばれたのです。今や「御顔を向けて下さい」と祈りことが出来るのです。

3.《世に帰る》 昇天の出来事はベタニア近郊の丘の上だったらしく、古来、欧州では礼拝行進をしたり丘の上で野外礼拝をする伝統がありました。丘の上で、キリスト昇天を見つめている弟子たちに、天使が登場して「なぜ天を見上げて立っているのか」と言います。聖書の天使は、私たちを天の上ではなく、地上へと促すのです。天使の言葉は「聖霊降臨」の出来事を前提としていますが、それ以上に、昇天の祝福が「宣教への祝福」でもあることを思わされます。私たちが主の復活を証しする時、キリストは生きて働かれるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:28 | 毎週の講壇から

2013年04月29日

労苦は無駄にならない【Tコリント15:50〜58】

聖句「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(15:58)

1.《人生は徒労》 「苦労、労苦」のヘブル語は「アーマール」と言います。「詩編」90編に、人生70年、健康な者が80年生きても得るのは「労苦と災い」と言われているものです。「勤労」と言うより「徒労」、「骨折り損」なのです。「人生は徒労である」という苦々しい現実を前提に、そのアンチテーゼとして、パウロの「苦労は無駄にならない」があるのです。

2.《主に殉じる》 「徒労は無駄にならない」という言葉は矛盾しています。「無駄な骨折り」だからこそ「徒労」でしょう。私たちは誰でも、死の力に抗いながら生きていますが、最期には抵抗力が無くなって死んでしまいます。これまでの生一切が断絶され、「徒労」に終わるのです。しかし、十字架の死を越えて、イエスさまの復活があります。この主を信じる時、「徒労は徒労に終わらない」のです。但し、キリストに立たないならば、一切は無駄な骨折りなのです。

3.《生きる歓び》 生の終わりは死ではありません。神さまなのです。神のみが絶対なのです。それを示すためにこそ、イエスさまの復活があります。私たちも遅かれ早かれ死ぬでしょう。しかし、生の領域において主である御方は、死の領域においても主であられます。自己目的、自己追求の結果は、死でしかありませんが、神に目標を合わせる時、苦しみも意味を持ちます。教会形成も愛の業も、世間からは徒労と思われるものです。しかし、これに賭けて生きていくのです。主の業に励む時にこそ、労苦は無駄にならないのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:30 | 毎週の講壇から

2013年04月22日

最初のしるし【ヨハネ 2:1〜11】

聖句「誰でも初めに良い葡萄酒を出し、酔いが回った頃に劣ったものを出すものですが、あなたは良い葡萄酒を今まで取って置かれました。」(2:10)

1.《ベタニヤ出発》 弟子の召命はガリラヤ湖と思い込んでいますが、「ヨハネによる福音書」では「ヨルダン川の向こう側のベタニヤ」です。復活したラザロやマルタ・マリアの姉妹のベタニア村とも違います。むしろ、死海に近いのです。そこから3日後に、イエスさまはガリラヤのカナの婚礼で最初の奇跡を起こされるのです。「死にて葬られ、3日目に…」と繋がる印象です。

2.《予想外の事態》 呑ん兵衛のイエスさまが弟子たち数人と共に飛び入り参加をしたためでしょうか、婚宴の葡萄酒が足りなくなりました。丸1週間、時には2週間も続く婚宴のために準備は整っていたはずですが、思わぬ事が起こったのです。不測の事態に出遭うと、私たちは失望して諦めたり、動揺するばかりだったりしますが、そんな時には、正しい所に訴えることが大切なのです。勿論、古代ですから、酒屋が配達に来てはくれません。母はイエスさまに訴えたのです。

3.《御心に適う時》 イエスさまは「私の時は未だ来ていません」と答えます。困っている者にとっては冷淡な反応に思われます。しかし、主は十字架と復活の時を待って居られるのです。それなのに私たちは身勝手な願いを言ってばかりなのです。それでも御心の成るを信じて待望する時、しるしを見るのです。召し使いたちも徒労に賭けて働きました。謙虚な服従を示していく時、必ず憂い悲しみは取り去られるのです。人生には苦しみが付いて回ります。人間が苦しみに立ち向かうことが出来るのは、未来に希望があるからです。「時は未だ来ていない」のかも知れませんが、「良い葡萄酒の時」は必ず来るのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:24 | 毎週の講壇から