2013年05月27日

わたしにあるもの【使徒言行録3:1〜10】

聖句「私には金や銀はないが、持っているものを上げよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(3:6)

1.《大化け》 デビュー時に目立たなかったタレントが、何かを契機にして一躍大スターに成ることを、芸能界では「化ける」と言います。ペトロは思慮浅く、誘惑に負け、何度も失敗を重ねました。しかし、その冴えない男が使徒の代表、やがてローマ教会の指導者となり、殉教を遂げるのです。歴史に大きな活動の足跡を残したペトロを支えた、信仰の原点は何だったのでしょうか。

2.《奇跡力》 イエスさまを否認したペトロでしたが、危うい所を、主の復活と赦しによって生かされたのです。彼にあるのは、その確信と証言だけでした。神殿で「生まれながら足の不自由な男」と出会ったペトロは、その「持っているものを上げた」のです。物乞いは「歩き回ったり躍ったりして」神を賛美しました。「歩き回る」こと等、私たちには何でも無い事のようですが、それが奇跡です。当たり前の事として見過している事柄の中に、神さまの御力が働いているのです。

3.《お名前》 人を生かすものは金銀ではなく、十字架の赦しの力です。「イエス・キリストの名によって」と言われているように、奇跡の出来事はペトロの力によるものではありません。イエスさまの御名に、その御生涯と御業、御言葉が全て宿っているのです。しかしながら、魔術的な呪文でも霊験新たかな効力でもありません。ただ、私はここに立っている、赦され生かされているという証しです。そして、それこそが人間の恢復に是非とも必要なのです。更には、それが「無学な普通の人」に非凡な人生を歩ませて行ったのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 10:38 | 毎週の講壇から

2013年05月20日

弱虫ペトロの力強い証し【使徒言行録2:37〜42】

聖句「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとその他の使徒たちに、『私たちはどうしたらよいのですか』と言った。」(2:37)

1.《ペンテコステ》 見た目に囚われると物事の本質は見えてきません。「聖霊降臨」によって引き起こされた現象にばかり囚われると、却って出来事の意味を見落とします。繰り返される「ような」という語は日常に有り得ないが故の表現です。出来事の説明が僅かに4節なのも、聖書が現象よりも意味に重点を置いているからです。聖霊の働きは人間の理解を超えているのです。

2.《兄弟たちよ!》 ペトロが「知って頂きたい」と語るのは、イエス・キリストの十字架の死と復活です。その説教の中で「あなたがたが殺した」と糾弾をしているのです。それなのに人々は「大いに心を打たれ」、「兄弟たちよ」と言って、使徒たちに身の処し方の如何を尋ねるのです。普通、ミスを指摘されたり、糾弾されたら、生理的に反発するはずです。罪を指弾されながらも、互いに「兄弟よ」と呼び交わす関係が生まれるとしたら、それこそが聖霊の働きです。

3.《罪の仲間たち》 「私たちはどうしたらよいのですか」は、絶望と希望とが綯い交ぜになった言葉です。自分に自信があったら、そんなことは言いません。自分に絶望した者が、すっかり神さまに自分を明け渡しているのです。そして、罪の糾弾を受けた人たちが「仲間に加わった」と言われています。実は、使徒たちも全く同じ経験をしていたのです。ペトロたち自身が「主を十字架に付けたのは私だ」「どうしたらよいのか」と泣き叫んだはずなのです。それだからこその「仲間」なのです。絶望の告白の上に教会は立っているのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:27 | 毎週の講壇から

2013年05月13日

荒野のオアシス【創世記16:1〜16】

聖句「主の御使いが荒れ野の泉のほとり…で彼女と出会って、言った。『…ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。』」(16:7,8)

1.《まなざしの力》 戦前、ある少年の話です。母子家庭の暮らしは厳しく、母親が町の有力者の妾になりました。少年は有力者の援助を受けて隣町の高等中学に通いました。町の人たちの軽蔑と妬みの混じった眼差しに耐え切れず、思わず飛び込んだ教会で「姦通の女」の物語に接して、少年は入信し、やがて牧師に成りました。人を追い詰める眼差しも、人を温かく包む眼差しもあるのです。

2.《それでも人間》 以前、レイプ犯罪の被害者女性のレポートを読んだことがあります。勇気を奮い起こして裁判に訴えたものの、好奇の眼差しに晒され、過去を剥き出しにされて敗訴していました。弁護士が訪ねると「それでも、あたし、人間よね」と彼女は訴えたと言います。誰もが人格をもった大切な存在として尊重されるべきです。「母の日」も、所謂「母親」だけが賛美される日であってはなりません。誰にも母性は与えられており、誰もが「神の子供」なのです。

3.《顧みられる神》 子宝の与えられないアブラハムは、サラの女奴隷ハガルを側女に迎えます。しかし、女主人は妊娠したハガルをイジメて、彼女は行く当てもなく出奔します。神が現われて彼女に「女主人の下に帰り、従順に仕えよ」と言います。「従順に仕えよ」とは「彼女の手の下で苦しめられよ」です。何と、非情な御言葉でしょう。ところが、驚いたことに、ハガルは苦しみしか無い所に戻って行くのです。「私を顧みられる神」の確信を得たからです。勿論「顧みる」とは「見詰める、見守る、眼差しを注ぐ」という意味です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:25 | 毎週の講壇から

2013年05月06日

キリストは昇天す【使徒言行録1:6〜11】

聖句「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて、彼らの目から見えなくなった。」(1:9)

1.《期間限定》 イースターから数えて40日目がキリストの「昇天日」です。聖書では「40」はエポックの数字、銀行預金の「満期」です。しかも、復活から昇天までは、人間の体で言えば、骨と骨とを繋ぐ関節のような、「イエス・キリストの時代」から「教会の時代」へと移る節目だったのです。イエスさまが御自ら復活の生き証人として活動された「聖なる期間」でもあったのです。

2.《大喜びで》 イエスさまが「天に上げられ」てしまいました。別離は寂しい悲しい出来事かと思われますが、前編「ルカによる福音書」巻末には、弟子たちが「大喜びで」あったと書いてあるのです。ここに、人生を生きる「喜びの秘訣」が隠されています。昇天の主は私たちを「祝福」なさったのです。祝福は存在の肯定です。また「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続」します。そして、この昇天の出来事を通して、天と地とが、神と人間とが結ばれたのです。今や「御顔を向けて下さい」と祈りことが出来るのです。

3.《世に帰る》 昇天の出来事はベタニア近郊の丘の上だったらしく、古来、欧州では礼拝行進をしたり丘の上で野外礼拝をする伝統がありました。丘の上で、キリスト昇天を見つめている弟子たちに、天使が登場して「なぜ天を見上げて立っているのか」と言います。聖書の天使は、私たちを天の上ではなく、地上へと促すのです。天使の言葉は「聖霊降臨」の出来事を前提としていますが、それ以上に、昇天の祝福が「宣教への祝福」でもあることを思わされます。私たちが主の復活を証しする時、キリストは生きて働かれるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:28 | 毎週の講壇から

2013年04月29日

労苦は無駄にならない【Tコリント15:50〜58】

聖句「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(15:58)

1.《人生は徒労》 「苦労、労苦」のヘブル語は「アーマール」と言います。「詩編」90編に、人生70年、健康な者が80年生きても得るのは「労苦と災い」と言われているものです。「勤労」と言うより「徒労」、「骨折り損」なのです。「人生は徒労である」という苦々しい現実を前提に、そのアンチテーゼとして、パウロの「苦労は無駄にならない」があるのです。

2.《主に殉じる》 「徒労は無駄にならない」という言葉は矛盾しています。「無駄な骨折り」だからこそ「徒労」でしょう。私たちは誰でも、死の力に抗いながら生きていますが、最期には抵抗力が無くなって死んでしまいます。これまでの生一切が断絶され、「徒労」に終わるのです。しかし、十字架の死を越えて、イエスさまの復活があります。この主を信じる時、「徒労は徒労に終わらない」のです。但し、キリストに立たないならば、一切は無駄な骨折りなのです。

3.《生きる歓び》 生の終わりは死ではありません。神さまなのです。神のみが絶対なのです。それを示すためにこそ、イエスさまの復活があります。私たちも遅かれ早かれ死ぬでしょう。しかし、生の領域において主である御方は、死の領域においても主であられます。自己目的、自己追求の結果は、死でしかありませんが、神に目標を合わせる時、苦しみも意味を持ちます。教会形成も愛の業も、世間からは徒労と思われるものです。しかし、これに賭けて生きていくのです。主の業に励む時にこそ、労苦は無駄にならないのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:30 | 毎週の講壇から

2013年04月22日

最初のしるし【ヨハネ 2:1〜11】

聖句「誰でも初めに良い葡萄酒を出し、酔いが回った頃に劣ったものを出すものですが、あなたは良い葡萄酒を今まで取って置かれました。」(2:10)

1.《ベタニヤ出発》 弟子の召命はガリラヤ湖と思い込んでいますが、「ヨハネによる福音書」では「ヨルダン川の向こう側のベタニヤ」です。復活したラザロやマルタ・マリアの姉妹のベタニア村とも違います。むしろ、死海に近いのです。そこから3日後に、イエスさまはガリラヤのカナの婚礼で最初の奇跡を起こされるのです。「死にて葬られ、3日目に…」と繋がる印象です。

2.《予想外の事態》 呑ん兵衛のイエスさまが弟子たち数人と共に飛び入り参加をしたためでしょうか、婚宴の葡萄酒が足りなくなりました。丸1週間、時には2週間も続く婚宴のために準備は整っていたはずですが、思わぬ事が起こったのです。不測の事態に出遭うと、私たちは失望して諦めたり、動揺するばかりだったりしますが、そんな時には、正しい所に訴えることが大切なのです。勿論、古代ですから、酒屋が配達に来てはくれません。母はイエスさまに訴えたのです。

3.《御心に適う時》 イエスさまは「私の時は未だ来ていません」と答えます。困っている者にとっては冷淡な反応に思われます。しかし、主は十字架と復活の時を待って居られるのです。それなのに私たちは身勝手な願いを言ってばかりなのです。それでも御心の成るを信じて待望する時、しるしを見るのです。召し使いたちも徒労に賭けて働きました。謙虚な服従を示していく時、必ず憂い悲しみは取り去られるのです。人生には苦しみが付いて回ります。人間が苦しみに立ち向かうことが出来るのは、未来に希望があるからです。「時は未だ来ていない」のかも知れませんが、「良い葡萄酒の時」は必ず来るのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:24 | 毎週の講壇から

2013年04月15日

最初の弟子たち【ヨハネ1:36〜51】

聖句「彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、『私たちはメシアに出会った』と言った。そして、シモンをイエスの所に連れて行った。」(1:41,42)

1.《その翌日》 イエスさまの伝道の始めは、弟子たちを召し出されることでした。これを「召命」(呼び掛け)と言います。「ヨハネによる福音書」は「その翌日」の繰り返しでドラマが盛り上がりません。それもそのはず、出来事の記録や説明のために書かれたのではありません。「弟子に成るとは、どんなことか」をテーマにしているのです。「最初の神学書」と言われる所以です。

2.《名の変化》 ポイントは、イエスさまに対する弟子たちの呼び名の変化です。洗礼者ヨハネに紹介されたイエスを「ラビ/先生」と呼びました。共に宿に泊まった後には、時が満ちて「メシア」と言います。「ナザレのイエス」等と「どこの馬の骨か」と馬鹿にしていたナタナエルも、出会った後では「ラビ、神の子、イスラエルの王」と「信仰告白」をします。他の福音書が「3年間」として描いた物語を、「ヨハネによる福音書」は「3日間」に凝縮しているのです。

3.《来て見よ》 テーマは「キリスト者として生きるとは」です。先ず、キリストに「付いて行く」「従って行く」契機として「出会い」があります。私の道が主の歩みと交錯することで、進路変更を余儀なくされるのです。信仰生活は「絵に描いた餅」ではありません。「来て、見て」初めて醍醐味が知られるのです。アンデレはシモンを、フィリポはナタナエルを連れて行きました。伝道の難しさが言われますが、私たちは「その人に出会っている」でしょうか。イエスさまがして下さったように、心を開いて接しているでしょうか。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:01 | 毎週の講壇から

2013年04月08日

愛によって生きる【Tヨハネ 4:7〜12】

聖句「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」(4:7)

1.《愛する能力》 マザー・テレサは「愛は行ないです。思想や哲学ではありません」と言いました。人間にとって一番重要なもの、人格の中心を形造っているものは「愛する能力」です。1人の人間の進歩を計るのは、知能テストではなく、その人がどこまで愛されているか、愛することが出来るかです。「愛することを知っている」人こそが真に成熟した人間と言えるでしょう。

2.《神さまの愛》 誰しも「愛されたい」と願います。人間の追及する快楽は、それに尽きるのです。「人は皆、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない」と、パウロも言っています。しかし、「愛されたい」自分を変えて、「愛する者」として立って行くのです。愛することが出来るのは「神の愛を知っている」からです。その確信を「信仰」と呼ぶのです。健やかな時も病める時も、順境でも逆境でも、神さまは私を愛して下さっているのです。

3.《私の出発点》 神さまに「愛されている」喜びは結構ですが、そこで終わってしまってはいけません。そこから出発して、活きて働くのが信仰です。私たちは何度も何度も失敗しては、ヨハネの呼び掛け「互いに愛し合いましょう」に帰って行くのです。「放蕩息子の家出」は「自立の旅立ち」へ変えられるのです。神の愛が私たちを必ずや変えて下さいます。カトリックのミサの終わりに唱えられる「イテ・ミッサ・エスト」には二重の意味があります。「ミサは終わった」と「汝らは遣わされる」(ミッションの語源)です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:48 | 毎週の講壇から

2013年04月01日

心の目を開いて【ルカ 24:13〜32】

聖句「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」(24:31)

1.《見えない復活》 主の復活は目に見えるような出来事だったのでしょうか。福音書は「見た」という目撃証言ではなく、「見なかった」という証言ばかりです。世の中で「見た」が重視されるのは、誰もが同じように見えると前提しているからです。その前提が崩れると、途端に恐慌を起こすのです。改めて考えると、何と目の見える人本位の世界であることでしょうか。

2.《エマオの弟子》 婦人たちに見えたのは「空虚な墓」、ペトロに見えたのは「遺体に巻かれていた亜麻布」でした。エマオ途上の弟子たちにしても、「イエスだと分かった」瞬間に「その姿は見えなく」なるのです。見た人しか信じられないような信仰、目の見える人しか信じられない復活に価値はありません。福音書が一貫して主張しているのは、「見た」証言ではなくて「現われた」という顕現です。徹底して、個々人との出会い、再会として描かれているのです。

3.《心の目で見る》 エマオに向かう2人の弟子は、復活の第一報を耳にしながら「戯言のように思われて」、早々にエルサレムを跡にしました。しかし、この救いようもなく消極的な逃亡者に、彼らが「愚か」と断じた復活のイエスが、直々に近付いて、共に歩いて下さるのです。物分りが悪く、心の鈍い弟子たちのためには、愚か者を召すためには、自分から愚か者の仲間と成られるのです。漸く弟子たちが悟った時には、御姿が消えて行きます。復活というものは、心で確信するならば、もはや目で見る必要はないのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:25 | 毎週の講壇から

2013年03月25日

この人を見よ【ヨハネ 19:1〜22】

聖句「イエスは茨の冠を被り、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、『見よ、この男だ』と言った。」(19:5)

1.《真正面から》 美しく威厳のあるものには人が集まり、「勝利」という語は人を酔わせます。主のエルサレム入城の際、棕梠の枝を振って迎えた群集は消え去り、十字架に近付く者はありません。正面から見詰める者は無く、誰もが斜めから遠巻きに眺めていました。教会の扉を開けると、正面に十字架があります。その度に、私たちの信仰の真意如何を問い掛けられているようです。

2.《目を逸らす》 ある未信者が「生前のイエスを間近に見ることが出来たら信じられたのに」と呟きました。しかし、十字架を間近に見た人は大勢いましたが、信じたのは、同じ責め苦を味わった強盗と、実際に手を汚して磔にした百人隊長だけでした。見物人は決して信じることは出来ないのです。受難のキリストと真正面から向き合うことが信仰なのです。十字架のキリストから目を逸らして、他にどんなキリストがあると言うのでしょうか。

3.《沈黙の意味》 「イザヤ書」53章「苦難の僕」は、救い主の惨めな姿と共に、その沈黙を預言しています。四福音書の全てが「キリストの沈黙」を採り上げています。ドストエーフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」で、同じ沈黙を表現しています。私たちは沈黙が恐ろしいのです。どれだけ正当化して弁明しようと、自らの罪から逃れられないのです。十字架は何も言わず、いつも私たちを静かに見詰めています。されば、私たちは、せめて目を逸らさずに、素直に真正面から十字架に向かいましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:51 | 毎週の講壇から