2013年01月28日

私だけの十字架【ルカ 9:21〜27】

聖句「わたしに付いて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(9:23)

1.《特捜最前線》 昨年、病没した俳優の二谷英明と大滝秀治の出演していた『特捜最前線』という刑事ドラマがありました。エンディングに流れる「私だけの十字架」という主題歌が胸に染みました。歌詞を吟味すると「丘の白い十字架」「風と語る十字架」とも歌われていて、愛する人の不在を歌っているようです。

2.《心の十字架》 長年、水上隣保館の館長を務められた中村敏夫牧師が、昔こんな話をされました。神学校を卒業したばかりの若い牧師が、開拓伝道のために任地に赴きました。牧師の息子が「パパ、この教会、十字架が無いね」と尋ねたそうです。その話に中村牧師は胸を打たれたのです。「彼は十字架を建てるため、十字架の無い教会に、十字架を背負って行ったのです」。続けて、中村牧師は「十字架が屋根の上に建っていても、十字架の無い教会が多くなったのではないかと反省させられました」とも仰っています。

3.《キリスト印》 「十字架を背負う」とは「十字の印の烙印を押されること」と言った人がいます。パウロも「私は、イエスの焼き印を身に受けている」と言っています。ヤンキーや暴走族の世界では、昔から「命彫り」といって、胸や腕に好きな女の名前を入れたりしました。会堂の屋根に建っている十字架は隠すことが出来ません。問題は私たち自身なのです。主は「日々、十字架を背負って」と仰っています。私たちが一週間の殆どを過ごしているのは、十字架の無い世界です。十字架の無い所に行って、イエスさまを忘れてしまうのではいけません。十字架の無い所に行くからこそ、主に同伴して貰うのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 15:59 | 毎週の講壇から

2013年01月21日

取るに足りない僕 【ルカ 17:5〜10】

聖句「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」(17:10)

1.《的外れな祈り》 「信仰を増して下さい」という祈りは的外れです。信仰は有るか無いかの2つに1つで、少ないの多いのと分量を測るものではありません。イエスさまは「芥子種1粒ほどの信仰があれば」とまで言って下さっています。当時の人が考える最小の物体です。信仰は量の問題ではないのです。それなのに「増し加えろ」と呟くのは筋違いです。足りないのは私たちの側です。

2.《山をも動かす》 アニメ『ファンタジア』の「魔法使の弟子」は、労働を厭う余りに、箒に呪文を掛けて働かせ、失敗します。イスラムの預言者ムハンマドは、信仰によって山を動かしたという伝説がありますが、ピレンヌは「山が動かなければ、ムハンマドが歩いて行く」と言明しています。これこそが信仰なのです。魔法は、自分は何もせず、人を動かそうとしますが、信仰は自分から働いて行くのです。魔法は自らに仕えさせようとしますが、信仰は自ら仕えて行くのです。

3.《奉仕から奇跡》 信仰が「浅いの深いの」と言うのは「相対評価」です。本当の信仰の世界は「絶対評価」なのです。神さまは、あなたを「世界で1つだけの存在」と言われるのです。測定も比較も出来ません。関係概念なのです。自ら仕えよう、この心さえ取り違えなければ、信仰は奇跡を起こすのです。戦国時代の『どちりな・きりしたん』は「悪魔」を「天狗」と訳しています。世間では善行は美談になりますが、信仰の世界ではニュースになってはいけません。僕は「為すべき事をしたに過ぎない」からです。「取るに足りない」は「無益な」の意味です。主がいらっしゃらなければ、私たちは無に等しいのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 15:11 | 毎週の講壇から

2013年01月14日

新しい命に生きる 【ローマ6:1〜14】

聖句「私たちは洗礼によって、キリストと共に葬られ、その死に与る者となりました。それは…私たちも新しい命に生きるためなのです。」(6:4)

1.《罪の中に》 ダビデの名を冠した「詩編」51編は「私は罪の中に生まれた」と告白します。ダビデの如き大悪人に及びませんが、私たちも罪の中に生まれ、罪の世にあって汚辱にまみれながら生きなければなりません。その現実に挑むための律法でしたが、この世にもたらされるや否や律法は粉々に砕かれてしまいました。以来、不完全な律法の故に、却って罪が増す結果となったのです。

2.《死に与る》 パウロは「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるため」であったとしながら、続けて「罪が増したところには、恵みは尚一層満ち溢れ」たと言います。罪が増せば、悲しみや苦しみが深まるものです。そこに何の恵みが生まれるでしょうか。パウロは「罪に対して死になさい」と勧めるのです。それこそが「新しい命に生きる」ことになるのです。イエスさまは、十字架にあって「罪に対して死なれた」のです。「罪の内に死なれた」のではありません。

3.《命に与る》 人生を悲劇にすることは簡単です。実際、悲劇は有り触れたものです。何の努力もせず、性急に安逸を求めるだけでは、悲劇の繰り返しにしかなりません。「罪に生き罪に死ぬ」のも簡単です。「罪に死に新しい命に生きる」のには努力が要ります。泣いて生まれる赤ん坊が笑い始めるまでには、大変な努力と時間を要するのです。もし、赤ん坊が笑わないのなら、何とかして笑わせようと抱き締めるのが親心です。それが、イエスさまの御心なのです。私たちは恵みの下にあるのです。そのことに気付いて感謝と愛を表すのが「福音」です。私たち自身が「福音」となって生きることが出来るのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 10:35 | 毎週の講壇から

2013年01月07日

わたしにふさわしい時【詩編 31:15〜25】

聖句「わたしにふさわしいときに、御手をもって、追い迫る者、敵の手から助け出してください。」(31:16)

1.≪ボンドと芭蕉≫映画『007は二度死ぬ』は原題を「You Only Live Twice」と言います。『暗黒街の弾痕』(You Only Live Once)のもじりと思っていましたが、フレミングの原作の中で、松尾芭蕉の俳句「命二つ生きたる桜かな」に感服したボンド中佐が「人生を実感できるのは二度だけ/生まれた時と死ぬ時と」と短い英詩を詠む場面こそが、その由来と知りました。

2.≪知恵のはじめ≫知恵のはじめは「時を知る」ことです。農民は、蒔く時、植える時、収穫の時を知っていました。つまり、作物を通して、生と死を知っていました。 「時がある」とは神の摂理に関わることです。人間は理屈を付けて説明しますが、結局は分からないのです。時の中で生きる私たちは、時を超えて生きることは出来ません。病気や障碍、老衰と死があります。そこに、私たちの限界があります。しかし、その限界があるという現実こそが、信仰のスタートラインなのです。そこから信仰が始まるのです。

3.≪相応しいとき≫「詩編」31編の詩人も、限界状況にあって悩み苦しみ、祈る人です。病気を抱えているのか、衰えに悩んでいるのか、その上に、敵からの陰険な攻撃を受け、更には、友人も遠ざかって行きます。また、不幸の中で、自分を責めるようにまで至るのです。この八方塞の中で、「わが時は神の御手の中にあり」と悟るのです。人の手には負えぬ事態に、神の手の内に自らを引き渡す覚悟をしたのです。自分は神さまのものだったのです。楽しい時だけ、御手に守られているのではありません。 苦しみの時も御手に委ねられているのです。それ故に、安んじて歩んで参りましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 11:58 | 毎週の講壇から