2014年09月01日

心の包皮を取り去れ【エレミヤ4:1〜4】

聖句「ユダの人、エルサレムに住む人々よ、割礼を受けて主のものとなり、心の包皮を取り去れ。」(4:4)

1.《一皮剝ける》 周防正行監督の映画『Shall we ダンス?』に登場するサブキャラ、青木富夫(竹中直人)は会社では、髪の毛の薄いのを気にしている冴えない中年男ですが、ダンスの時には鬘を付けて、情熱的なラテンを踊るのです。ところが、競技会の時、ライバルペアの心無い妨害に遭い、鬘が落ちそうになります。その時、ペアの叱責に吹っ切れて、彼は自ら鬘を投げ捨て、華麗なダンスを披露します。たま子先生が「一皮剝けたのね」と呟く名場面です。

2.《受け入れる》 私たちは皆、コンプレックスを抱えて生きています。そして、世の中には、それに付け込んで攻撃を仕掛けて来る人もいます。経済開発協力機構の調査結果によると、34ヶ国中、日本の教員が最も長時間労働を強いられていながら、最も自己評価が低いことが分かりました。本当は「自己受容」の可能性を奪われているのではないでしょうか。生きるために一番大切なのは、自分自身を受け入れることにより、他者をも受容する心です(マタイ22:39)。

3.《心で踊ろう》 中国の古典の一節に「何事も一皮ばかりで分別し…」とあり、上辺ばかりを取り繕う愚かさを批判しています。「一皮」によって「本当の姿」が覆い隠されてしまうのです。他人ばかりか自らをも欺くことになるのです。現代では、鎧兜に身を固める人はいませんが、誰もが「理論武装」しています。自己正当化のための装いです。正しさや強さ、賢さや立派さ、健康や有能さをアピールするのです。ところが、必死に自己正当化しているつもりが、ありのままの自分を受容し肯定することが出来ないでいるのです。「茨の中に種を蒔くな」と教えられています。自らを茨で覆うべきではありません。武装を解かなければ、折角の神の恵みも神の怒りと化してしまいます。『Shall we ダンス?』には「ダンスはステップではなく、心で踊るのよ」という台詞もありました。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:58 | 毎週の講壇から

2014年08月25日

生まれ変わる、その時【ルカ7:36〜50】

聖句「イエスは女に、『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』と言われた。」(7:50)

1.《神学生に教えられ》 代務をしている教会で葬儀がありました。準備の慌しさの中で未亡人が取り残され、実習の神学生が所在無げに座っていました。ご夫人は他に語るべき相手もなく、傍らの神学生に召された夫との人生を語ります。術を知らぬ神学生は、頷きつつ聞くばかりでした。後日、彼女が「神学生にどれだけ癒されたか分からない」と感謝を語りました。聞くことしか出来ぬ神学生が図らずも彼女の思いの全てを受け止めたのです。

2.《試練の中での経験》 私は「網膜色素変性症」という疾病のために視力を失いました。その頃、偶然出会った牧師に愚痴を聞いて頂く機会を得ました。神さまの話も聖書の話もせずに、週に一度ただひたすらに愚痴を聞く牧師。いつしか私は知らず知らずに生きる力を取り戻し、自分から聖書を開いていました。それまで殆ど涙を見せることのなかった私が、思わず号泣してしまったのが、本日の聖書の箇所です。ここは、私にとって、とても大切な箇所の1つです。

3.《生まれ変わる》 3人の人物が登場します。主イエス・キリスト、ファリサイ人のシモン、そして「罪深い」とされる女性です。この3人の間に出会いがありました。しかし、シモンはその出会いに深い関心も意識も抱きませんでした。しかし、「罪深い」とされる女性は、主イエスを聖なる方と信じ、主のすべてを受け入れました。また、主イエスも、当時受け入れ難いとされていた「罪深さ」を持つ女性を罪もろともにすべて受け入れたのです。その出会いの中で、女性は罪を赦され生まれ変わります。人が生まれ変わり、新しい人生へと押し出されて行く、その時そこに愛の業、即ち「すべてを受け入れる」神の業があり、神の業の器としての人がいます。私たちキリスト者は常に神の業の器として、出会いの中で隣人の「すべてを受け入れる」ことに努めていきたいものです。

筒井昌司牧師(下松教会)

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2014年08月18日

身体を張って受け入れる【使徒言行録9:10〜20】

聖句「すると、主は言われた。『行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。』」(使徒言行録9:15〜16)

1、《なさけなさという助け》 初めて「統一協会」に出会ったのは、大学1年の夏。駅前で話しかけてきた女性信者の熱心さにひかれて、「教会」への招きに応じてしまった。夕食の時に、会を仕切る青年が熱心に話しかけてきた。「今のキリスト教は行き詰まっている。だが本物の救いに出会える世界がここにはある。一緒に来ないか。」二度と足を踏み入れなかった。何故?メシが貧弱だったから。夕食があれでは、健康を損なうぜ。でもその後三日間は自己嫌悪で外に出られなかった。理想に燃え、福音のために(実は福音ではない!)自分を投げ打っている人たちを見限ろうとしている。「おれは何と自分に甘い、ダメな奴であることか。」そのなさけなさが自分を守ったと知ったのは、何年も経ってからだった。

2、《回心のB面》 回心とは「こんなにダメな奴だった私が、イエスに出会い、人生やり直しました」?けれども今日の聖書を読むと、回心が時間的な幅のある出来事だとわかる。大事なことは「どれほど立派になったか」ではなく「その人の人生に、神がいかに深く関わっておられたか」である。大事なもう一点は、他者との出会い・交わりである。真の回心は必ず、隣人との出会いとなって現れる。サウロの回心がなければ、私たちがイエスを信じることもなかったかも知れない。回心によって、サウロの人生も変えられた。同胞からは目の敵にされ、異邦人からも憎まれた。苦しみを避けるために信仰を棄てることを、パウロはいつでも選べたはずだ。それでも棄てなかったのは「神様がわたしを選んだ」ことを受け入れていたからだ。その芯にある「受け入れられる」姿勢を、体を張ってパウロに教えたのはアナニアだった。

3、《大きな愛より小さな親切》 「マインド・コントロールの恐怖」の著者でもと統一協会の活動家、スティーヴ・ハッサンはある日、カルトの素人からミニ介入を受けた。そこで転換が起こったのではない。しかし「親切」という形の介入は、彼が脱洗脳するときの助けとなった。神が語りかけた言葉は、体温のある、人間同士の関係に戻し入れられることで、豊かに肉付けされる。小さな親切の背後に、確かな愛を感じ取れるようでありたい。

秋南教会牧師 安藤昭良

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2014年08月11日

自己を中心に愛を叫ぶ【マルコ11:12〜14、20〜25】

聖句「イエスはその木に向かって『今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように』と言われた」(マルコ 11:14)

1、《自己中・逆切れ》 イエスは実がなる季節ではなかったいちじくの木に実を期待します。しかも、実がなっていないことを知ると、怒って木を枯らしてしまいます。「季節ではなかった」のですからいちじくの木に全く罪はありません。まさにここでのイエスは自己中であり、逆切れしてしまっています。なぜ、この不可解なイエスの行動を福音書は記録しているのでしょうか。

2、《聖書に聞け》 「わからない聖書箇所は聖書に聞け」とは、私が行人坂教会CS生徒時代に安田校長先生から教わり今でも大切にしている言葉です。同じ11章にヒントがたくさんあります。11章1節「棕梠の主日」の箇所で、民衆はイエスをローマ帝国をやっつけてくれる凱旋将軍のようにヒーローとして迎えますが、イエスはロバに乗ってやってきます。イエスに季節ではない期待をしていたのです。11章15節「宮清め」の箇所で、民衆はイエスを政治改革をしてくれるヒーローとして期待します。11章27節「権威についての問答」で、民衆はイエスを先代の悲劇のヒーロー、バプテスマのヨハネの再来ではないかと期待します。しかし、イエスはそのようなこの世的なヒーローではありませんでした。そのことがわかると、民衆はイエスを十字架につけて殺します。わずか数日後に、です。

3、《小さい十字架》 そう、枯らされたいちじくの木は十字架でありイエス自身を指し示しています。この不思議な記事は、受難の物語を煮詰めて凝縮したものであると思います。もちろん私たちは、いちじくの木を枯らしたことも、人を十字架につけて殺したこともありません。しかし、小さい意味での十字架…「自己中・逆切れ」を起こしてしまっているのではないでしょうか。

蒲生教会牧師 伊藤義経

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2014年08月03日

塵に口をつけよ【哀歌3:22〜36】

聖句「塵に口をつけよ。望みが見出せるかも知れない。打つ者に頬を向けよ。十分に懲らしめを味わえ。」(3:29,30)

1.《大きな災厄》 聖書において「イスラエル」の名前は重要な語ですが、現代存在する「イスラエル国家」と単純に重ね合わすことは許されません。1948年の第一次中東戦争によって、先住のパレスチナ人を追い出して建国したのです。この時生まれた、数十万人規模の難民が「パレスチナ難民」です。彼らは、この出来事を「ナクバ/大破滅、大いなる災厄」と呼びます。現在、イスラエル軍が攻撃しているガザ地区の人口の3分の2は「パレスチナ難民」とその子孫です。

2.《どうして?》 「哀歌」の原題は「エーカー/どうして」です。母親の腕の中で息絶えて行く幼な子の姿、飢餓の余りに我が子を煮炊きして食べる女が描かれています。バビロン捕囚後の荒廃を描いた詩ですから、母親はエルサレム、子どもは残された住民の比喩でしょう。しかし、そのような凄惨な状況を「哀歌」の作者は実際に見たのかも知れません。ユダヤ教では、例年この季節に「哀歌」を読んで、バビロンやローマによる神殿破壊と虐殺、亡国の歴史を記念します。その悲惨な歴史を体験しているユダヤ人が、パレスチナ人を同じ目に遭わせていることに、私は人間の世界の闇の深さを思わないではいられません。

3.《軛を負う主》 原理主義は原理主義を呼びます。パレスチナの実権をハマースが掌握すると、自爆テロやロケット弾攻撃による報復が頻発しました。報復の連鎖です。テロリストは女子供を楯にするのも兵器です。それを撃つ側も病院や学校に砲撃をしても何も感じなくなります。「打つ者に頬を向けよ」は、イエスさまの非暴力抵抗の信仰と同じです。「哀歌」の他章がバビロン捕囚を歌っている中で、3章だけはセレウコス朝の宗教的迫害を念頭に置いた内省的な詩です。つまり、信仰者は如何に生きるべきかと、新約の信仰に近いのです。人間については、絶望するより他はありません。その告白が「塵を口につけよ」です。けれども、そこに、暴力の応酬、呪いの連鎖を破壊される主の十字架があるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 14:14 | 毎週の講壇から

2014年07月28日

イエスさまのしつけ【エフェソ6:1〜4】

聖句「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」(6:4)

1.《しつけ糸》子育中の親たちは「躾がなっていない」と責められているように感じて、子どもに暴力を振るってしまうことがあります。小児科医の内藤寿七郎によれば、本当の「しつけ」は和裁の「しつけ糸」から来ているのだそうです。襟などの癖付けのために、弱くて切れ易い糸を使うのです。「仕付け」は「馴染ませる」ことに過ぎず、切れても構わないのです。何も縛り付ける必要はなく、優しく、緩やかに、根気強く働き掛けるのです。

2.《父なる神》聖書の神は伝統的に「父なる神」と唱えられて来ました。どうして聖書の神は「父」の表象を帯びるように成ったのでしょうか。紀元前586年の「バビロン捕囚」以後にシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)が生まれ、やがて、少年たちが律法を学ぶ寺子屋のような私塾も併設されるようになります。しかし、それ以前には、父親こそが子の祭司であり、教師だったのです。「父/アーブ」とは「導く者、教師」の意味であり、ヤハウェこそはイスラエルを導く唯一の「父」と呼ばれたのです。その流れで、人々は預言者や祭司にも「父よ」と呼び掛けたのです。今でもカトリックの司祭を「神父」と言っています。

3.《霊肉の糧》新約聖書では、再び教育の中心は家庭に戻って来ます。「父と母を敬いなさい」はモーセの十戒です。幸福の約束も「申命記」律法をそのままに受け継いでいます。「子供を怒らせる」は「興奮、激昂させる、刺激する」ことです。赤ちゃんをビックリさせてはいけないのと同じです。父親が怒鳴ったり、暴力を振るって、子どもを臆病にしてはいけない(コロサイ3:21)のです。「育てなさい」は「養う、滋養を与える、大きくする」です。まさに「食育」です。但し、聖書ですから「肉の糧」だけで足れりとはしません。「霊の糧」も必要です。私たちの体は、私たちがこれまで食べて来た物で出来ています。私たちの霊も、これまで私たちが信じ、望み、愛したもので出来ているのです。

朝日研一朗牧師

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2014年07月21日

何のために走るのか【フィリピ3:12〜4:1】

聖句「神がキリスト・イエスによって上へと召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(3:14)

1.《一人の道》 女性デュオ、ピンク・ピクルスの「一人の道」(1972年)は、東京オリンピックで銅メダルを受賞しながらも、4年後に自らの命を絶った円谷幸吉選手の遺書を参考にして作られた歌です。アスリートたちが負わされる深い孤独と痛みを思います。パウロの時代にも、ギリシアでは4年に1度のオリンピア祭(古代オリンピック)は開催されていました。彼が譬に使っているのは、マラソンではなく「ドリコス走」(4608メートル走)のことです。

2.《求める道》 キリスト教は「悟りの宗教」ではなく「求める宗教」です。「悟り」が徹頭徹尾、自分を対象化する作業であるのに対して、「求め」は常に相手を必要とします。しかし、求める相手が誰であるかによって、私たちの求める「求め」の質や内容が自ずと変わって来るのです。誰も貧乏人の家に金の無心に行かないのと同じです。「御利益宗教」を見れば分かるように、商売繁盛、家内安全、学業成就、厄除けと、行き先の寺社仏閣によって御利益が明瞭です。けれども、これでは、もはや「神の世界」ではなく「人の世界」です。

3.《私の利益》 それでは、私たちの利益とは何でしょうか。何が自分に幸いするのか、本当は、私たち自身にも分からないのです。目先の欲得だけ追いかけて、本当に幸せに成れるでしょうか。私たちの真の利益を知っているのは、神さまなのですから、神さまに尋ねなくてはなりません。「御利益信仰」では「鏡の前に立つ」だけで、人間の欲望を映し出すばかりですが、私たちの信仰は、自らの「心の窓を開ける」ことなのです。パウロも、自分の肉を頼りにするのは止めて、神の霊を頼る生き方に転換した経緯を開陳しています。信仰においては、自分のペースで走れば良いのです。但し、目標と方向だけは間違ってはいけません。自らが神仏に成ることではなく、キリスト・イエスを求めるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:26 | 毎週の講壇から

2014年07月14日

低き所に臨みたまえ【ルカ19:1〜10】

聖句「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、是非あなたの家に泊まりたい。』」(19:5)

1.《ザアカイ》 子どもたちには「ザアカイは背が低かったので…」と話します。子どもの立場から、素直に共感できるのです。しかし、本当に貶められていたのは、むしろ、彼の「徴税人」という仕事なのです。物物交換の暮らしから貨幣経済への転換期でした。福音書を読むと、ギリシアやローマの通貨単位が多く出て来て「グローバル化」の時代だったことが分かります。徴税人は請負制で、不当に多くの税を取り立てて、私腹を肥やす悪人もいたようです。

2.《見くだす》 エリコは青果の集積地、交通の要衝でした。そのエリコの徴税権をローマ帝国から買い取って、部下の徴税人を使役する「徴税人の頭」ザアカイは、恐らく裕福だったことでしょう。しかし、異邦人との接触や貨幣そのものに対する「穢れ」の意識から、彼は信仰共同体からも地域社会からも「罪人」として排除され、差別されていたはずです。目の前には、彼に背を向ける町の人たちの「人垣」がありました。彼は金の力を武器として、反対に見下してやろうと高みを目指したはずです。彼が群集に阻まれて、木に登る姿は象徴的です。

3.《見上げる》 そんなザアカイに向かって、イエスさまは「上を見上げて」呼び掛けます。この地上で最も低い所に置かれている者よりも、主は更に低い所から声を掛けられるのです。「いちじく桑の木」は、貧しい人が小さな実を採って飢えを凌いだとされる木です。豊かなオアシスの町、エリコでは、普通の人たちは見向きもしなかった木でした。イエスさまは「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言なさいます。ザアカイが長年、差別と疎外の中で奪われていた、低くもなく高くもない自分自身を回復したからです。イエスさまを迎え入れることは、私たちが自身を、あるがままに受け入れることです。私たちがドン底にある時も、驕る時も、死の床にある時も、主は更に低い所から呼び掛けておられます。

朝日研一朗牧師

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2014年07月07日

聖なる生活の実【ローマ6:15〜23】

聖句「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」(6:22)

1.《人は馬の如し》 ルターは「人間は馬の如きである」と言います。神を騎手にしているか、悪魔を騎手にしているか、そのどちらかなのです。どんな名馬、駿馬も乗り手次第です。走るものも走りません。また、駄馬でも騎手が良ければ、意外に走るのです。神に騎手になって頂ければ間違いはありませんが、悪魔が騎手になっていると、どこに連れて行かれるか分かったものではありません。パウロの「義の奴隷」と「罪の奴隷」の譬えも全く同じことです。

2.《人生は灰色か》 イエスさまも「2人の主人に兼ね仕えることは出来ない」と仰っています。「あれかこれか」の二者択一なのです。どっち付かずの中立もなければ、「あれもこれも」の両方もありません。「義の奴隷」は「仕える生き方」です。自分の存在が誰かのお役に立つ時、生き甲斐があるのです。私たちの人生を「神なし」として生きるか、「神あり」として生きるかの選択なのです。そうは言っても、「人間の実相は白黒つけられず灰色ではないか」という反論があります。しかし、人の目にはどうあれ、神の御目から見れば明らかなのです。

3.《雪よりも白く》 「聖なる生活の実」は「きよさに至る実」と訳されていました。「きよさ」と言っても「清潔」ではありません。むしろ「聖潔」なのです。「ハギアスモス」は「潔い状態」、その形容詞「ハギオス」は「聖なる」です。「聖霊」や「聖徒」も、この語を使います。神さまの聖に倣うという意味です。とは言え、これはキリスト者の生活目標として掲げられているのではありません。看板やスローガンでもありません。今現在の状態なのです。およそ信じられないことですが、キリスト者とされた結果、私たちのような汚れ果てた者でも、神さまによって創り変えられて、主の「聖なる」ことを告白するように促されているのです。その告白と証の人生こそが「聖なる生活の実」なのです。

朝日研一朗牧師

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2014年06月30日

床を担いで歩こう【ヨハネ5:1〜9】

聖句「イエスは言われた。『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。』すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出した。」(5:8,9)

1.《待ち疲れた人》 中国の昔話に、歌姫に恋した役人が、彼女から「窓辺で百夜お待ちになれば、あなたのものになりましょう」と言われて、通い詰めながら、最後の夜に立ち去る物語があります。日本にも観阿弥、世阿弥の謡曲で知られる「百夜通い」があります。小野小町への求愛を続ける深草少将が、最後の夜に大雪に見舞われて凍死してしまうのです。行方不明の家族を待つ人、家族の手術が終わるのを待つ人、「待つ」ことは時に大変な苦痛となります。

2.《ベトザタの池》 「ベトザタ」は「オリーブの家」の意味でしたが、この癒し物語が伝わると「ベテスダ/憐れみの家」と読み換えらてしまいました。恐らく間歇泉だったのでしょう。鉱泉が噴き出すのが、天使が沐浴しに舞い降りる瞬間と思われ、最初に飛び込んだ人がその霊験の故に癒されると信じられていたのです。その時を大勢の人たちが待っているのです。自分が癒されたいのは誰しもですが、病人や障碍者が「先着お一人様限り」の奇跡のために、我先に池を目指して競争する様子は、凄惨としか言いようがありません。

3.《課題を担って》 38年もの長患いの人がいます。どのようにして池の回廊に辿り着いたのかは知りませんが、今では自力で池を目指すことも出来ず、捨て置かれた状態です。本当に絶望してしまえば苦痛すらありません。私たちが悩み苦しむのは、希望を捨てていないからなのです。しかし、この人は希望を失いかけていました。その人に向かって、主は「治りたいか」と言われます。実に、本人の希望こそが一番大切なのです。キリスト教が他の宗教と最も違うのは「希望」です。自分の願掛けではなく、神の御心の成ることを信頼する心です。人生には悩みが尽きません。しかし、他人のせい、社会や時代のせいにしないで、今まで寄り掛かっていた「床」を、私の課題、使命として担って歩んで参りましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:26 | 毎週の講壇から