2013年03月04日

あなたのために祈った 【ルカ 22:24〜34】

聖句「しかし、私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(22:32)

1.《権力争い》 「最後の晩餐」と言えば、レオナルドの横並びの構図を想像しますが、実際には、車座に地べたに座っていたはずです。イエスさまの十字架の前夜、「聖餐式」の原点とも成る「最後の晩餐」の最中ですが、弟子たちは「誰が一番偉いか」という不毛な議論をしていたのです。

2.《跡目争い》 「ルカによる福音書」9章にも同種の議論があります。つまり、これは弟子たちにとっての最大の関心事であり、主の受難を前にして、いよいよ熱を帯びて来ていたのです。「ポスト・イエス」の指導権争い、教団の跡目争いだったのです。単に愚かな話ではありません。そもそも「裏切り者探し」に端を発しています。駆け引き、下心、野心、打算、疑惑、恩の着せ合いと売り合い、力関係、血縁や縁故、しがらみ等が渦巻く生臭い世界だったのです。弟子たちが血道を上げている内に、一番大事なイエスさまは十字架に付けられたのです。

3.《祈り仕える》 そんな弟子たちに、イエスさまは「仕えること」をお勧めになります。自らパンを裂いて手渡し杯を差し出す給仕のような姿、足を洗う姿を示されたのです。これは単なる謙遜のポーズなのではなく、この世の権力に対する抵抗なのです。反権力闘争をして、権力を倒しても、次は自らが権力と成るのは間違いありません。自らの力に拠り頼まず、「仕える者のように」生きることは、自らの無力を投げ出して、祈っていくことです。イエスさまがペトロを指名されたのは、彼が挫折をすることを見通して居られたからです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 10:02 | 毎週の講壇から

2013年02月25日

まさか、わたしが…【マタイ 26:17〜25】

聖句「弟子たちは非常に心を痛めて、『主よ、まさか私のことでは』と代わる代わる言い始めた。」(26:22)

1.《アクシデント》 東日本大震災と原発事故の時に「想定外」が流行語になりました。私たちの身の周りにも「まさか」と思うような事件が起こりますが、この場合の「想定外」は、流行語として済ませるには余りにも過酷な現実です。とは言え、何重に安全装置を施そうが、飛んでいる物は落ちるし、走る物は衝突するし、エネルギーを起こす物は爆発するのです。それが道理です。

2.《不祥事の隠蔽》 イジメによる生徒の自殺事件が起こると、学校や教育委員会がこれを「不祥事」「あってはならない事」としてキャンペーンを展開します。しかし、事件の解明に向かわず、隠蔽による組織防衛に力学が働くようです。教会の牧師によるセクシュアル・ハラスメント事件の場合も同様です。結局、隠蔽は加害者を放置し、被害者に更なる迫害を加え、排除して行きます。むしろ、私たちには「あってしまう事」と向き合う勇気が求められています。

3.《裏切りと赦し》 裏切ったのはユダだけではありません。バッハは「マタイ受難曲」で「私の事か?」と12回合唱させています。底本のルター訳は、マンガ風に言えば「グサッ、図星!」です。全員に「心当たり」「思い当たる節」があったのです。しかし、その厳しい罪の宣告の直後に「主の晩餐」が備えられているのです。「まさか」の裏切りを行なってしまう、罪に汚れた私たちのために、しかし、イエスさまは罪の潔めと赦しの聖餐を備えられたのです。そして、その罪を御身に負って十字架に付かれたのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:06 | 毎週の講壇から

2013年02月18日

墓場のレギオン【マルコ 5:1〜20】

聖句「イエスが、『名は何というのか』とお尋ねになると、『名はレギオン。大勢だから』と言った。」(5:9)

1.《レギオン》 「レジオンドヌール勲章/名誉軍団国家勲章」も、「レジオネラ菌」の名前の由来「在郷軍人/レジョネーア」も「レギオン」から来ています。ローマ帝国の軍団単位から「大勢」を表わす意味で、当時のユダヤでも使われていたようです。ロラン・バルトは「悪霊は複数である」と定義し、人間関係の中に生成する感情(絶望、嫉妬、拒絶、欲望、自己喪失、高慢、虚栄心、不安)に、私たちが振り回される様を例えていました。

2.《病の分類》 近代以後、「汚れた霊に取り憑かれた人」の症状から「精神病」と分類されて来ました。確かに「病人」と「悪霊憑き」はセットに成っていて、体の病と心の病と考えられます。しかし、皮膚病も「癩病」も衣類や家屋の黴も同じ語で表わす時代です。原因の分からない病気は何もかも「悪霊憑き」としたはずです。北海道の「べてるの家」のメンバーは「自分の病気は自分で命名」しています。その病を背負って生きている者にしか本当のことは分かりません。それどころか、私たちが自分の病に気付かない場合もあります。

3.《家に帰る》 レギオンに取り憑かれた人は墓場にいました。生きながらにして死の世界に置かれていたのです。鎖や足枷で縛っても問題は解決しません。反対に信頼さえも失われてしまいました。直訳は「汚れた霊の中における人間」なのです。大勢の中にいても無感覚で無関心、愛も希望もありません。これは私たち自身の姿です。私たちの解放の根拠は神さまです。神に根拠を置いてこそ、愛は愛となります。イエスの悪霊祓いとは、閉鎖的な自己喪失状態から私たちを解放して、改めて社会と家族に送り返して下さることなのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 15:36 | 毎週の講壇から

2013年02月11日

日曜日は喜びの日【申命記 5:12〜15】

聖句「主の安息日であるから、如何なる仕事もしてはならない。…そうすれば、あなたの男女の奴隷も、あなたと同じように休むことが出来る。」(5:14)

1.《日曜日》 1872年の「明治改暦」により、太陰暦から太陽暦に改めた際に、日曜日を公休日と決めました。江戸時代には「一六日」がありましたが、穏やかに休むことは許されませんでした。日本社会もキリスト教の「主日」を受け入れたのですが、「週の初めの日」とは考えていません。多くの人が労働の余禄として手にした「週末の休み」と受け止めています。

2.《安息日》 旧約聖書の律法は「安息日」の意味付けとして、3点を挙げています。主がエジプトで奴隷であったイスラエルを救い出したのだから、全ての人が苦役労働から解放されるべきである(申命記5章)。天地創造の御業を覚えて安息すべきである(出エジプト記20章)。主と民との契約を確認し、更新すべきである(エゼキエル書20章)。3つの理由に共通して言えるのは、神さまが人を生かして下さる「御業に感謝しなさい」です。律法と言いながらも、元来、安息日は「喜びの日」「祝いの日」であったのです。

3.《主の日》 ところが、安息日厳守を求める余り、「違反者を死刑に処せ」とまで言われるようになるのです。キリスト者は主の復活日を「主日」として守るようになりました。人を「束縛する日」ではなく「解放する日」として教えたのです。しかし、カトリックの国教化の後も、宗教改革者が権力を握った後も、日曜日を法律によって強制しようとする愚かな試みが繰り返されました。まるで「鼬ごっこ」です。人の心は規則では縛れません。却って、離れて行ってしまいます。愛は私たちが自発的に生きる力なのですから。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 09:21 | 毎週の講壇から

2013年02月05日

弱小低遅狭(じゃくしょうていちきょう)!【マタイ7:13〜14】

聖句「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」(7:13)

1.《狭い門と広い門》 イエスの時代の町は城壁で囲まれた要塞都市でした。「大きく広い門」とは権力者が入城する凱旋門、「小さく狭い門」は「糞門/汚物門」でした。そこには、ゴミを漁る貧民、排除された病者、被差別の階層がいました。イエスの言葉は、その人たちと肩を並べて生きる「共生への志」に満ち溢れた言葉なのです。入試に言う「狭い門・広い門」とは訳が違うのです。

2.《三間=さんまを》 「今の子どもには『さんま』がない」と言われます。「時間」(余裕の欠如)と「空間」(場の喪失)と「仲間」(本当の友の不在)です。かつての日本家屋には色々な「間」がありました。しかし今は、競い合い、命を削り合い、「狭き門」に殺到する生き方の中で「間」が無くなっています。距離感を失っているのです。かつて若者たちの間では「仲間以外は皆風景」と言われ、今や「自分以外は皆風景」と言われています。「間」が抜けた時代です。これを「間抜け」と言うのでしょう。

3.《余地のある客間》 高度経済成長期に「強大高速広」を追求した結果です。今の若者たちも尚、履歴書の空欄の「間」を必死に埋めようとしています。しかし、私たちは所詮「致死率百%」の弱さと脆さを抱えた存在です。弱さを絆として、命を育み合うのが本分です。徴税のための人口調査(住民登録)に、ベツレヘムが溢れ返る中、「客間には彼らのいる余地がなかった」で、イエスの生涯が始まります。そのイエスが好んで徴税人の家に泊まった事実は興味深いことです。傷付いた人の心の隙間に、イエスは泊まろうとされるのです。教会が神の「居間」、神と出会う「広間」と成りますように、そこにこそ、教会の存在意義があるのではないでしょうか。

木村良己牧師(同志社高等学校・中学校校長)

posted by 行人坂教会 at 19:59 | 毎週の講壇から

2013年01月28日

私だけの十字架【ルカ 9:21〜27】

聖句「わたしに付いて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(9:23)

1.《特捜最前線》 昨年、病没した俳優の二谷英明と大滝秀治の出演していた『特捜最前線』という刑事ドラマがありました。エンディングに流れる「私だけの十字架」という主題歌が胸に染みました。歌詞を吟味すると「丘の白い十字架」「風と語る十字架」とも歌われていて、愛する人の不在を歌っているようです。

2.《心の十字架》 長年、水上隣保館の館長を務められた中村敏夫牧師が、昔こんな話をされました。神学校を卒業したばかりの若い牧師が、開拓伝道のために任地に赴きました。牧師の息子が「パパ、この教会、十字架が無いね」と尋ねたそうです。その話に中村牧師は胸を打たれたのです。「彼は十字架を建てるため、十字架の無い教会に、十字架を背負って行ったのです」。続けて、中村牧師は「十字架が屋根の上に建っていても、十字架の無い教会が多くなったのではないかと反省させられました」とも仰っています。

3.《キリスト印》 「十字架を背負う」とは「十字の印の烙印を押されること」と言った人がいます。パウロも「私は、イエスの焼き印を身に受けている」と言っています。ヤンキーや暴走族の世界では、昔から「命彫り」といって、胸や腕に好きな女の名前を入れたりしました。会堂の屋根に建っている十字架は隠すことが出来ません。問題は私たち自身なのです。主は「日々、十字架を背負って」と仰っています。私たちが一週間の殆どを過ごしているのは、十字架の無い世界です。十字架の無い所に行って、イエスさまを忘れてしまうのではいけません。十字架の無い所に行くからこそ、主に同伴して貰うのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 15:59 | 毎週の講壇から

2013年01月21日

取るに足りない僕 【ルカ 17:5〜10】

聖句「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」(17:10)

1.《的外れな祈り》 「信仰を増して下さい」という祈りは的外れです。信仰は有るか無いかの2つに1つで、少ないの多いのと分量を測るものではありません。イエスさまは「芥子種1粒ほどの信仰があれば」とまで言って下さっています。当時の人が考える最小の物体です。信仰は量の問題ではないのです。それなのに「増し加えろ」と呟くのは筋違いです。足りないのは私たちの側です。

2.《山をも動かす》 アニメ『ファンタジア』の「魔法使の弟子」は、労働を厭う余りに、箒に呪文を掛けて働かせ、失敗します。イスラムの預言者ムハンマドは、信仰によって山を動かしたという伝説がありますが、ピレンヌは「山が動かなければ、ムハンマドが歩いて行く」と言明しています。これこそが信仰なのです。魔法は、自分は何もせず、人を動かそうとしますが、信仰は自分から働いて行くのです。魔法は自らに仕えさせようとしますが、信仰は自ら仕えて行くのです。

3.《奉仕から奇跡》 信仰が「浅いの深いの」と言うのは「相対評価」です。本当の信仰の世界は「絶対評価」なのです。神さまは、あなたを「世界で1つだけの存在」と言われるのです。測定も比較も出来ません。関係概念なのです。自ら仕えよう、この心さえ取り違えなければ、信仰は奇跡を起こすのです。戦国時代の『どちりな・きりしたん』は「悪魔」を「天狗」と訳しています。世間では善行は美談になりますが、信仰の世界ではニュースになってはいけません。僕は「為すべき事をしたに過ぎない」からです。「取るに足りない」は「無益な」の意味です。主がいらっしゃらなければ、私たちは無に等しいのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 15:11 | 毎週の講壇から

2013年01月14日

新しい命に生きる 【ローマ6:1〜14】

聖句「私たちは洗礼によって、キリストと共に葬られ、その死に与る者となりました。それは…私たちも新しい命に生きるためなのです。」(6:4)

1.《罪の中に》 ダビデの名を冠した「詩編」51編は「私は罪の中に生まれた」と告白します。ダビデの如き大悪人に及びませんが、私たちも罪の中に生まれ、罪の世にあって汚辱にまみれながら生きなければなりません。その現実に挑むための律法でしたが、この世にもたらされるや否や律法は粉々に砕かれてしまいました。以来、不完全な律法の故に、却って罪が増す結果となったのです。

2.《死に与る》 パウロは「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるため」であったとしながら、続けて「罪が増したところには、恵みは尚一層満ち溢れ」たと言います。罪が増せば、悲しみや苦しみが深まるものです。そこに何の恵みが生まれるでしょうか。パウロは「罪に対して死になさい」と勧めるのです。それこそが「新しい命に生きる」ことになるのです。イエスさまは、十字架にあって「罪に対して死なれた」のです。「罪の内に死なれた」のではありません。

3.《命に与る》 人生を悲劇にすることは簡単です。実際、悲劇は有り触れたものです。何の努力もせず、性急に安逸を求めるだけでは、悲劇の繰り返しにしかなりません。「罪に生き罪に死ぬ」のも簡単です。「罪に死に新しい命に生きる」のには努力が要ります。泣いて生まれる赤ん坊が笑い始めるまでには、大変な努力と時間を要するのです。もし、赤ん坊が笑わないのなら、何とかして笑わせようと抱き締めるのが親心です。それが、イエスさまの御心なのです。私たちは恵みの下にあるのです。そのことに気付いて感謝と愛を表すのが「福音」です。私たち自身が「福音」となって生きることが出来るのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 10:35 | 毎週の講壇から

2013年01月07日

わたしにふさわしい時【詩編 31:15〜25】

聖句「わたしにふさわしいときに、御手をもって、追い迫る者、敵の手から助け出してください。」(31:16)

1.≪ボンドと芭蕉≫映画『007は二度死ぬ』は原題を「You Only Live Twice」と言います。『暗黒街の弾痕』(You Only Live Once)のもじりと思っていましたが、フレミングの原作の中で、松尾芭蕉の俳句「命二つ生きたる桜かな」に感服したボンド中佐が「人生を実感できるのは二度だけ/生まれた時と死ぬ時と」と短い英詩を詠む場面こそが、その由来と知りました。

2.≪知恵のはじめ≫知恵のはじめは「時を知る」ことです。農民は、蒔く時、植える時、収穫の時を知っていました。つまり、作物を通して、生と死を知っていました。 「時がある」とは神の摂理に関わることです。人間は理屈を付けて説明しますが、結局は分からないのです。時の中で生きる私たちは、時を超えて生きることは出来ません。病気や障碍、老衰と死があります。そこに、私たちの限界があります。しかし、その限界があるという現実こそが、信仰のスタートラインなのです。そこから信仰が始まるのです。

3.≪相応しいとき≫「詩編」31編の詩人も、限界状況にあって悩み苦しみ、祈る人です。病気を抱えているのか、衰えに悩んでいるのか、その上に、敵からの陰険な攻撃を受け、更には、友人も遠ざかって行きます。また、不幸の中で、自分を責めるようにまで至るのです。この八方塞の中で、「わが時は神の御手の中にあり」と悟るのです。人の手には負えぬ事態に、神の手の内に自らを引き渡す覚悟をしたのです。自分は神さまのものだったのです。楽しい時だけ、御手に守られているのではありません。 苦しみの時も御手に委ねられているのです。それ故に、安んじて歩んで参りましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 11:58 | 毎週の講壇から