2019年05月13日

すがりつく信仰【ルカ8:40〜56】

聖句「この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。」(8:44)

1.《タッチとタッグ》 キリスト教美術には「ノリ・メ・タンゲレ/私に触れるな」という主題があります。イエスさまがマグダラのマリアに復活のお姿を顕わされた場面を描いています。「タンゲレ」はラテン語の「タンゴー/触れる」という動詞で、英語の「タッチ」です。また「タグ/下げ札、値札」や「タッグ/鬼ごっこ、プロレスのタッグマッチ」の語源でもあります。

2.《主の心に触れる》 イエスさまがマリアの接触を拒否されたのは、復活して霊の体に成っているので、肉の体を持つ者が触って汚してはならないと、神秘主義的な説明をする人もいます(シュタイナー)。しかし、それでは、トマスの前に顕われた主が「触ってみなさい」と仰ったことと矛盾します。主が復活された以上、もはや私たちが身体的接触を求める必要は無いのです。イエスさまと繋がるのは心と心の絆によるのです(ズンデル)。「触ってはいけない」は、単なる禁止や制限、タブーではありません。「触れずに信じる人は幸い」なのです。

3.《ただ信じなさい》 「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」の記事は2つの事件が重なり合って構成されていてドラマチックです。しかし、物語作者の作為やドラマツルギーによるのではありません。同じ福音が述べられているのです。長血の女が癒されたのは、主の御衣ではなく、御心に触れたからです。それを「信仰」と言います。私たちは皆「信仰」によって救われるのです。「信仰」は私たち自身の「真実」であり、私たちが「主の真実なることに思いを致すこと」です。御心に触れる者を、イエスさまは救って下さいます。その時、イエスさまがタッグを組んで、人生という舞台を共に闘って下さるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:52 | 毎週の講壇から

2019年05月06日

信仰のパントマイム【マタイ6:1〜4】

聖句「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。」(6:3,4)

1.《マルセ太郎》 形態模写芸人、マルセ太郎が「スクリーンのない映画館」という独り芝居をしていました。映画を1本そのまま演じてしまうのです。粗筋や結末が分かれば、映画の楽しみは半減するものですが、マルセの芸は却って映画の味わいを深めるものでした。彼の芸によって、私たちの映画を観る意識が変化したのです。聖書と説教(聖書解釈)との関係にも似ているかも知れません。

2.《秘すれば花》 マルセ太郎の芸名はパントマイムのマルセル・マルソーにあやかったものです。パントマイムは能楽の影響も受けています。世阿弥が「秘すれば花、秘せずば花なるべからず」と教えたのにも通じます。イエスさまも「右手の為す事を左手に知らせるな」と仰います。これが「信仰のパントマイム」です。聖書の施しは心情的なものではなく、神との契約、律法の履行です。「貧しい者に手を開く」ことなのです。手を開くのは誰かに援助を提供するため、手を結ぶのは誰かと契約や信頼を繋ぐため、まさに「むすんでひらいて」です。

3.《主の見習い》 ルター研究で知られる石居正己牧師は「信徒の生活はパントマイム伝道、週日、キリスト者は言葉ではなく、生活を通して福音を伝える」と教えています。日常生活、社会生活で私たちに求められているのは、言葉によらぬ証、行為や立ち居振る舞いによる証です。「善行、施し」も福音伝道もチャーミング、粋であるべきです。「パントマイム」、ギリシア語「パントミームス」の語根「ミームス」は「芝居」、「ミーモス」は「見習う、手本にする」です。大工や左官、看護師、戦前の士官にも「見習い」がありました。私たちの見習うべきはイエスさま、私たちの人生は「見習い期間」なのです。

朝日研一朗牧師

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2019年04月29日

おびえる心の真ん中に【ヨハネ20:19〜23】

聖句「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち…。」(20:19)

1.《呼吸家》 加藤俊朗は独自の健康呼吸法を普及して「呼吸家」を自称なさっています。ある時、詩人の谷川俊太郎から、マザー・テレサの額入り生写真を貰って、事務所に掛けていると、マザーが現われて「キリストさん」を紹介してくれたと言います。「キリストさん」は彼に「呼吸に愛を入れなさい」と教えてくれ、以来、左の掌に愛の指文字を書いて呼吸するとのことです。

2.《不偏心》 東方正教会には「ヘシュカム」という祈りの身体技法があり、修道士は独自の呼吸法と座法によって祈ります。但し、ヨーガや座禅が技法だけ利用されて、中身の信仰が疎かにされているのと違い、大切なのは、そこで唱えられる「イエスの祈り」です。カトリックにも「サダナ」という呼吸瞑想法がありますが、その基本はロヨラの『霊操』です。「霊操」の「不偏心/indifferentia」とは「区別しない心」です。病気より健康を、貧困より裕福を、不名誉よりも名誉を求める私たちの価値判断は、被造物に偏っているのです。

3.《息吹き》 弟子たちは「恐怖/フォボス」に囚われています。「ユダヤ人恐怖症」として描かれています。自身もユダヤ人ですから、一種の自閉症です。エルサレム入城の時には得意満面だったのですが、今は自らの弱さ小ささ、ダメさ加減に打ちのめされています。しかし、そんな時に初めて、私たちは神の働きに気付かされるのです。復活の主は「真ん中に」立って、彼らに愛と赦しを宣言されます。復活のイエスさまにとっては、生と死、罪人と義人、信者と不信者、何の「区別」もありません。主が息を吹き込まれると、窒息寸前だった弟子たちは風船が膨らむように希望で満たされます。彼らは死からも、この世の生からも自由にされたのです。「主は生きて居られる」のですから。

朝日研一朗牧師

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2019年04月22日

墓守綺譚【ヨハネ20:11〜18】

聖句「マリアは園丁だと思って言った。『あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。…』」(20:15)

1.《七つの顔の男》 片岡千恵蔵演じる探偵「多羅尾伴内」は、色々な職業、面相の人物に変装して潜入捜査をします。そして毎回、クライマックスで犯罪組織のボスに「貴様は誰だ!?」と言われると、「ある時は競馬師、ある時は私立探偵、またある時は画家、ある時は片目の運転手」と列挙、「しかして、その実体は、正義と真実の使徒、藤村大造だ!」と名乗りを挙げ、銃撃戦に突入します。

2.《復活のイエス》 復活の主もまた一筋縄では行きません。ある時には、エマオの旅人の同行者、ある時には亡霊、ある時には岸辺の物乞い、またある時には墓守の園丁です。まるで他の人のようにして御姿を現わされるのです。生前とはすっかり外見が変わってしまっているのです。そうでなくては、こんなに弟子たちが戸惑うはずはありません。パウロは、復活によって「自然の命の体」が「霊の体」に変えられると論じていますが(コリントの信徒への手紙T15章)、何だか彼の言うようには、輝かしくも力強くも無いようです。

3.《最も小さい者》 「園丁、園の番人、園の管理人、庭師」等と訳されますが「墓守」のことです。穢れた場所とされた墓を管理する墓守は賤業とされていました。マグダラのマリアも声を掛けたのが墓守だと思って、キツイ物言いをしています。御生前、弱い立場に置かれた人たち、差別される人たちと共に生きられたイエスさまは、死んで後も、復活された後も、そのような人たちの姿に身をやつして、弟子たちの前に御姿を現わしておられるのです。「マタイによる福音書」25章の「この小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたこと」に通じるものがあります。サン・テグジュペリの「庭師は愛によって、地球のあらゆる土地と、あらゆる樹木に結ばれていた」との言葉も思い出されます。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:55 | 毎週の講壇から

2019年04月15日

子ろばに乗って【マタイ21:1〜11】

聖句「弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。」(21:6,7)

1.《ロバは珍獣》 昭和30年代には「ロバのパン屋」の移動販売が一世を風靡しましたが、馬車を牽いていたのはポニーでした。ロバの来日は飛鳥時代に遡りますが、日本で飼育が拡がることはなく、今も珍獣のままです。日本国内のロバは約2百頭です。馬7万頭、山羊2万頭、羊1万7千頭と比べて少な過ぎます。世界中で飼育されているロバが、どうして日本に定着しなかったのでしょう。

2.《ロバは聖獣》 美術の世界では、降誕場面にもエジプトへの逃避の場面にも、傍らにロバの姿が描かれています。聖書的な根拠は「イザヤ書」1章3節です。ロバは、降誕前から、降誕の時にも、降誕後も主と共にいたのです。そして飼い葉桶と十字架は繋がっていて、イエスさまのエルサレム入城に際して再びロバが登場するのです。イエスさまの一行は、エリコからエルサレムまで25キロの距離を歩いて来ましたが、残り1.5キロのベトファゲに来た時、イエスさまがロバを所望されます。入城に際してロバが必要だと思われたのです。

3.《母子のロバ》 メシアはロバに乗ってエルサレムに入るという預言を成就されるためでした。謂わば「メシアの自覚」です。但し、御自分を立派に輝かしく見せよう等という自己演出のためではありません。この時ハッキリと、イエスさまが十字架の死を覚悟されたのではないでしょうか。「マタイによる福音書」では、母ロバと子ロバの2頭が連れて来られるのですが、ギリシア語原文を細かく読むと、どうやら2頭に交互に乗って行かれたようです。「子ロバ」と言っても「4歳以下の雄」という意味です。母子のロバが仲良く奉仕したことに意味があるのかも知れません。この道がゴルゴタに続くことを、弟子たちも群集も知りませんでした。しかし、主の道をロバは知っていたのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:53 | 毎週の講壇から

2019年04月08日

その人たちの信仰を見る【マルコ2:1〜12】

聖句「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。」(2:5)

1.《パラリンピック》 英語の「下半身の麻痺した人/パラブリージア」とオリンピックの合成語です。「手術よりもスポーツ」を合言葉にして、英国の病院の競技会から始まりました。ランナーには伴走者、ボッチャには介助者が付くことで障碍や麻痺を持った人も競技をすることが出来るのです。障碍があっても、精神と魂と肉体の力によって、そこから出発して動くことが出来るのです。

2.《体の麻痺した人》 脳卒中の後遺症による麻痺を、昔の人は「中風、中気」と呼びました。「邪気、悪い風に中(あた)った」のが原因と考えたのです。ここで「中風の人」と訳されているのが「パラリュティコス/身体麻痺の、身体不随の人」です。一昔前は「脳卒中は老人の病気」という固定観念があり、聖書事典には「若年性脊髄炎、もしくは脊柱カリエスによる麻痺であろう」と解説されていました。しかし近年では、若年層の脳梗塞や脳出血も事例が多く、医学の常識も入れ替わりました。病因の追究よりも大切なのは「生きること」です。

3.《精神と魂を救う》 イエスさまは先ず「罪の赦し」を宣言されます。当時の人たちは、病因は本人や家族の罪にあると考えていたからです。肉体を癒される前に、精神と魂を癒されたのです。そんな主の御言葉に神学的思弁を費やす律法学者たちとは対照的に、家の屋根を剥がして天井から吊り下げてまで、患者をイエスの御もとに連れて行こうとする人たちがいます。指一本動かさず、座ったままの律法学者を尻目に、主は「彼らの信仰を見た」と書かれています。私たちは4人の奮闘に目を奪われて、患者本人のことを忘れがちです。しかし、御もとに行くことを望んだのは「体の麻痺した人」本人です。4人はサポーターでした。主が御覧になったのは、その中心にいる患者その人です。

朝日研一朗牧師

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2019年04月01日

息の長い生き方をしよう【出エジプト記6:2〜9】

聖句「モーセはそのとおりイスラエルの人々に語ったが、彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった。」(6:9)

1.《ブッチャー》 プロレスで悪名を馳せたブッチャーの現役引退セレモニーが行なわれました。「スーダン出身の黒い呪術師」の触れ込みで、アラビア風の衣装で入場、凶器攻撃や毒針エルボーでリングを鮮血に染めたものです。リング名の「アブドーラ」は「アブド/しもべ」+「アッラー」、イスラム教徒の名前の定番です。旧約聖書にも「主のしもべ/アブデー」が何回も出て来ます。

2.《奴隷の労働》 勿論「奴隷」という悪い意味もあります。「厳しい重労働」と訳されているのは「過酷な奴隷状態」です。労働そのものもエジプト人の厭う3K労働をさせられていたのですが、それ以上に、自らの意志や意欲を奪われた奴隷労働の方が残酷なのです。ピラミッド等の巨大建造物建設に駆り出されたという情景は、絵画や映画の作ったフィクションです。しかし、エジプト人の監督に打たれて労働をさせられていたのです。日本の植民者も旧満州国で満人の召使を「躾」と称して叩いたり打ったりして使っていたと聞いています。

3.《神の深呼吸》 モーセはファラオに民の出国を要請しますが、逆ギレしたファラオは更に重い労働を課して「この怠け者が!」と罵ります。モーセは解放の幻、約束の土地の幻も語りますが、民は耳を貸しません。奴隷労働は、働く者たちから魂を半分奪い取ること(シモーヌ・ヴェイユ)なのです。「意欲を失って」は「息が短くなる、魂が削られる」の意味です。モーセは同胞の「息を長く」する必要があったのです。それがエジプトに対する「十の災厄」だったのかも知れません。「しもべ」は「他の誰かのために働く人」のことです。奴隷になることは魂を半分奪われることです。私たちは奴隷にならず、神さまのために仕えて参りましょう。それが魂を取り返す唯一の道なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:54 | 毎週の講壇から

2019年03月25日

罪は戸口で待ち伏せる【創世記4:1〜16】

聖句「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」(4:7)

1.《町田樹選手》 2014年のフィギュアスケート世界選手権で、町田選手は「エデンの東」の演技で自己最高得点を弾き出しました。大会終了後の記者会見で、彼は「ティムシェル/汝、治むる事を能ふ」を「自分の運命は自分で切り拓く」と解釈したと言って話題になりました。「ティムシェル」はヘブライ語で、スタインベックの原作『エデンの東』のキーワードです。

2.《エデンの東》 前半はアダム・トラスクの「受難物語」です。出生直後に母を亡くし、暴君の父や気性の荒い異母弟に振り回され、キャシーとの結婚も破局を迎えます。彼女は美人で聡明ですが、その魂は歪んでいて、アダムの弟を誘惑して双子を出産、しかも、その子たちを捨てて出奔するのです。そんな中、アダムは親友サミュエル、中国人の使用人リーと共に聖書の学びを続け、「カインとアベル」の物語から人間の原罪について考えます。リーは、人間には罪を治めることが出来る、選びの可能性が与えられていると教えるのでした。

3.《戸口に罪が》 ジェームズ・ディーン主演の映画『エデンの東』は、その後日譚です。成長したアダムの息子たちの確執が「カインとアベル」の物語を下敷きにして描かれるのです。愛されない者が抱く怒りが復讐心を呼び、その復讐心が罪をもたらすのです。「創世記」4章には、神がカインの献げ物を選ばれなかった理由は明記されていません。私たちの人生も、そのような謎に満ちているのです。聖書は私たちに謎を提示するのであって、答えを与えてくれるのではありません。むしろ、謎に直面した時、そこに岐路が生まれるのです。神、人、世の中を恨んで生きるのか、それとも出来る限り前向きに生きようとするのか…。私たちを罪の呪縛から解き放つのが、イエスさまの十字架です。

朝日研一朗牧師

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2019年03月18日

苦悩の谷から希望の門へ【ホセア2:16〜17】

聖句「わたしはぶどう園を与え、アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。そこで、彼女はわたしにこたえる。」(2:17)

1.《トルストイ》 帝政ロシア時代の文豪、レフ・トルストイはキリスト教信仰篤い作家として知られていますが、ロシア正教会からは破門されています。ロシア正教会が皇帝や支配階級と癒着して、貧しい民衆を圧迫していることを批判したからです。更にトルストイは、ドゥホボール教徒(プロテスタントにも似た分離派)を支援するために『復活』の印税を全て使ってさえいるのです。

2.《イワンの死》 トルストイの中編小説『イワン・イリッチの死』は、中央裁判所の判事にまで昇進し、家族も円満、友人にも恵まれ、立派な新居も完成間近の45歳の男が、突然「死に至る病」に直面する物語です。迫り来る死の不安の中で、イワンは孤独と絶望感、自己嫌悪に責め苛まれます。彼の成功の人生が単なる虚飾に過ぎなかったこと、それがあるがために却って、彼自身を苦しめていることを、トルストイは見事に描き出しています。19世紀に書かれた小説なのですが、イワンの苦悩は21世紀に生きる私たちと変わりません。

3.《開かれた門》 ホセアは紀元前8世紀の北王国の預言者です。神の召命によって「淫行の女」ゴメルと結婚しますが、彼女は別の男たちの子どもを3人産むのでした。恐らく、ゴメルは異教の大地豊穣を司る巫女(神殿娼婦)だったのでしょう。姦通した女性は石打ちで殺される時代です。不妊や料理の不出来を理由に女性が離縁される時代です。にも拘わらず、ホセアはゴメルを心から愛していたので、売り飛ばされた彼女の身請けさえするのです。ここに主なる神の深い愛が表現されているのです。その愛の故に、神さまはアカン一族が石打ちで処刑された「アコルの谷」、死の谷を「希望の門」へと変えて下さるのです。私たちにとっては、それこそが御子イエスの十字架です。

朝日研一朗牧師

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2019年03月11日

怒りの葡萄【マルコ12:1〜12】

聖句「まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。」(12:6)

1.《離農者たち》 1930年代の米国中南部では、世界恐慌と機械化、乱開発と環境破壊が招いた砂嵐によって、何十万人もの離農者が出ました。スタインベックの『怒りの葡萄』は、カリフォルニアを目指すオクラホマ農民の一家の苦難を描いた物語です。過酷な旅の途中で老人たちは死に、若者は失踪します。漸く辿り着いた新天地でも、資本家の搾取や洪水が一家を襲うのです。

2.《人間圧搾機》 暗澹たる『怒りの葡萄』が発表当時、北米でベストセラーに成ったのは聖書の物語だからです。物語の骨格は「出エジプト記」ですし、題名も「ヨハネの黙示録」14章から来ています。大鎌を手にした「収穫の天使」サリエルが「神の怒り」によって発動し、罪人を刈り取って、搾り桶に入れて踏み付けると大量の血液が葡萄汁のように流れ出るというグロテスクな描写です。「ワインプレス」ならぬ「人間プレス」です。しかし、スタインベックの小説では、踏み付けにされた葡萄(農民たち)が怒り、社会を告発しているのです。

3.《十字架の血》 譬え話の葡萄園の主人は神さまですから、レンタル料も無く、葡萄園を農夫たちに貸し与えています。しかし「収穫」を受け取ろうと、僕たち(預言者)を遣わしますが、迫害されたり殺されたりします。最後に独り子を送りますが、農夫たちに殺害されて捨てられるのです。神の求める「収穫」は金銭でも財産でも、業績でもありません。「信仰の実り」です。だから、主人は僕たちが殺されても、農夫たちが悔い改めるのを辛抱強く待ち続けていたのです。無料で貸し与えられた「葡萄園」とは、私たちに与えられた人生です。イエスさまの犠牲の血による「収穫」は、神にとって怒りと悲しみに溢れていたはずです。聖餐の度に、私たちも「怒りの葡萄」を味わい知るべきです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:53 | 毎週の講壇から