2017年01月23日

復讐するは我にあり【ヘブライ10:19〜39】

聖句「『復讐はわたしのすること、わたしが復讐する』と言い、また、『主はその民を裁かれる』と言われた方を、わたしたちは知っています。」(10:30)

1.《アヴェンジャー》 米国を代表するコミック雑誌「マーヴェル」には「アヴェンジャーズ」というチームが登場します。個別のマンガのヒーローとヒロインが一同に結集して巨悪と戦うのです。「リヴェンジ」が私怨による復讐を意味するのに対して、「アヴェンジ」は正義の立場から悪を罰するのです。米英軍には「アヴェンジャー」と銘打った艦船や航空機、兵器が多々あります。

2.《復讐は私の仕事》 神の御言葉「復讐は私のすること」云々は「申命記」32章35節から引用されています。「モーセの歌」ですから、復讐すべき敵はアマレク人でしょうか。カナンの農耕生活が描かれているので、3百年後のペリシテ人とも言えます。編集されたのが「捕囚期」と考えれば、更に5百年後のバビロニア人かも知れません。新バビロニア帝国とすれば、勝ち目がないどころか、既に祖国は滅ぼされて、自分たちは抑留されて奴隷生活を強いられているのですから、復讐など出来ません。自分で復讐したくても出来ない悔しい状況の中で、神に報復を託して行くしか無かったのでしょう。

3.《復讐を超えた先》 本来「復讐は私の仕事」の表現は、神ではなく人間が近親者としての義務を語る言葉だったのです。借金のために「嗣業の土地」を取られ、債務奴隷に成った身内を贖うことを意味しました。また、身内が殺された時には「血の復讐」を遂げることが親族の義務だったのです。しかし、イエスさまの言葉と聖霊を受け、その十字架と復活を知ったキリスト者たちは、復讐の思いを超えた先に「もっと素晴らしい、いつまでも残るもの」があることに気付いたのです。だから、数多くの迫害を受けながらも、怨みや辛み、呪いや悔しさから解き放たれて「永遠の命」を希望することが出来たのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:53 | 毎週の講壇から

2017年01月16日

平和があるように【マタイ10:5〜15】

聖句「相応しい人は誰かをよく調べ、旅立つ時まで、その人のもとに留まりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。」(10:11,12)

1.《挨拶禁止規約》 昨年、神戸のマンションの住民総会で「互いに挨拶は止めよう」との提案が出て、規約として明文化されたことが話題になりました。何とも寂しい時代に成ったものです。挨拶禁止を提案したり、反対に挨拶運動を強引に推進したりするのは、私たち自身が「顔見知り」への信頼感、延いては、他者を吟味して見極める判断能力を失ってしまっているからです。

2.《判断停止状態》 人間関係に限らず、聖書でも教会でも、信仰でも宗教でも鵜呑みにするのは正しい歩み方ではありません。疑い、吟味した上で、勇気をもって踏み出すのです。「信ずべきものは信ずる」のです。勿論、誤りもありますが、失敗は次に進むステップです。現代人は、そのプロセスを避けて、マスコミ報道やネット情報、世論調査などに判断を委ねています。しかし、判断停止状態に陥っている方が、操作誘導され易いのです。「振り込め詐欺」が流行する世相と軌を一にしています。子どもたちも「顔見知り」に挨拶せず、血の通わない怪しげな「ネット住人」だけを相手にして成長しているのです。

3.《平和の挨拶を》 イエスさまは12人の使徒に「権能」を与えて「医療伝道」に派遣しています。無一物での旅でしたが、町や村に入ったら、衣食住を与えてくれる「相応しい人/相応の値打ちのある人」の厄介になるように勧めているのです。しかし「相応しい人」「相応しい家」かを見極めるのは大変だったと思います。時には、無礼な応対を受けることもあったはずです。パウロの手紙には「使徒」「兄弟」と偽って詐欺紛いを繰り返す者もいたようです。そんな旅人を受け入れる側でも、各々に相応しい対応が求められます。誰に対しても「平和があるように」という祝福の挨拶を交わし、祈る者でありましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:51 | 毎週の講壇から

2017年01月09日

借り暮らしもあり得るって【ローマ13:8〜10】

聖句「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。」(13:8)

1.《借り暮らし》 2010年のアニメ映画『借りぐらしのアリエッティ』は、英国の児童文学者、メアリー・ノートンの『床下の小人たち』が原作です。所謂「小人の冒険シリーズ」の1編ですが、原作者は「拝借人/Borrowers」という表現を大切にしています。何でもお金で買って所有し、声高に所有権を主張するのではなく、借り物を工夫して再利用していくのです。

2.《所有と排除》 私たちも「自分の家」「自分の土地」「自分の家族」「自分の人生」と言っていますが、神さまから「与えられたもの」、つまり「授かりもの」「預かりもの」なのです。しばらく借りていて、やがてお返しするものなのです。「借りがある」と訳されている「オフェイロー」には、借金のみならず「負い目、罪」の含みがあります。現代ギリシア語の「借りる/エノイキオ」は「エンオイケオー/その中に住む」と関係があるかも知れません。何十年か昔は、隣近所でお醤油やお砂糖の貸し借りをしていました。お裾分けもしました。私たちは、今や互いに「外に住んでいる」のかも知れません。

3.《愛し合って》 どうしても「借り」と言うと「借金」のイメージが先行してしまいます。米国の結婚式で、新郎新婦への勧告として読まれることが多かったそうですが、新婚家庭に借金の危険を警告していたのかも知れません。しかし、パウロが言いたいのは「誰にも借りや負い目を作るな」ではなくて、愛し合うことの大切さです。愛には「借りがあっても良い」のです。借りがあれば、期間内に返済するのが、私たちの社会の約束事であり秩序です。しかし、愛には負債があってもよいし、返済期限もありません。貸すばかりで損する人がいても、借りるばかりで、返さない人がいても良いのです。

朝日研一朗牧師

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2017年01月02日

幸せな生き方をしよう【マタイ13:10〜17】

聖句「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがの耳は聞いているから幸いだ。」(13:16)

1.《メタファー》 今年は酉年ですが、本来「酉」は「鳥」ではなく「酒熟して気の漏れる」様を言います。従って「水鳥」と言ったら「酒」の隠語ですが、十二支に動物を当てたのは、庶民に分かり易く説明しようとした先人の知恵です。イエスさまの譬え話も、目に見えないものを、目に見える物や経験で表現することで、誰もが得心できるようにしているのです。

2.《譬えの意味》 神の愛など私たちには想像できませんが、「放蕩息子」の帰りを待ち侘びる父親の心情は想像に難くありません。赦しの御心など分かりませんが、迷子の小羊を発見した飼い主の喜びは分かります。それこそ、イエスさまが「譬えを用いて話す理由」に他なりません。劇作家の井上ひさしの「むずかしいことをやさしく、やさしいことを深く、深いことを面白く」のモットーにも通じます。キリスト教の教義(ドグマ)を理解したり、教理問答(カテキズム)を勉強するよりも大切なことがあるのです。お百姓さんは「神の国」のことは分からないのですが、「種蒔き」なら体験として誰よりも知っているのです。

3.《幸いなる哉》 この聖書箇所では、群集には「天の国の秘密を悟ることが許されていないから」、彼らが理解できないように「譬えを用いて話すのだ」とイエスさまが言われます。むしろ、これは「マタイ」のメッセージです。「天の国の秘密」と言われている内容も驚く程のことではありません。イエスさまの福音に今出会った人たちに「幸いなるかな」と祝福しているのです。アインシュタインは「人生には2つの生き方しかない。奇跡など何一つないとして生きる生き方か、全てが奇跡であるとして生きる生き方か」と言いました。全てに奇跡を見聞きすることが出来れば、感謝と賛美に満たされるはずです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:53 | 毎週の講壇から

2016年12月26日

真夜中のメシア【ルカ2:8〜20】

聖句「その地方で羊飼いたちが野宿しながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」(2:8)

1.《深夜食堂》 安倍夜郎のマンガ『深夜食堂』は、新宿花園界隈が舞台です。深夜0時に開店すると、客の注文に応えて「できるもんなら何でも作るよ」とマスターが言うお店です。暖簾には「めしや」と書いてあります。マスターは顔に傷痕のある男、やって来るお客も深夜だけに何か「ワケアリ」の人たち。でも、私たちも皆「ワケアリ」です。それぞれの事情を抱えて生きているのですから。

2.《聖なる夜》 「深夜食堂」は「真夜中のめしや」、イエスさまも「真夜中のメシヤ」でした。「マタイによる福音書」でも「ルカによる福音書」でも、クリスマスは「夜の出来事」として描かれています。ヨセフは夜の夢に天使の告知を聴きますし、占星術の学者たちも星に導かれてメシアを訪ねます。昼間に見えていたものが夜には見えなくなりますが、昼間に見えていなかったものが夜に見えるようになることもあるのです。月や星がそうです。街や家々の灯かりも夜に際立ちます。家があり、家族がいて、各人の暮らしがあり、喜びと悲しみがあります。家々の灯かりという形を取って、私たちにも見えるようになるのです。

3.《離れた所》 真夜中に働いている人たちの姿も見えて来ます。この羊飼いたちは雇い人で、羊の群れを預かっていたのかも知れません。少なくとも「その地方で」(「離れた所」を表わします)という語句から、自分の所有地を持たぬ者たちであることだけは確かです。2千年昔にも、王宮や神殿には夜勤をしていた衛兵や夜警がいたようです。羊飼いたちがクリスマスの御告げを受けたのは、むしろ彼らが都市の雑踏から離れた所にいたからです。多くの人々から離れて、外にあるからこそ見えて来るもの、聴こえて来る音もあるのです。私たちも少しだけ他の人たちと同じではない、離れた所に立ってみましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:43 | 毎週の講壇から

2016年12月19日

皆殺しの歌【マタイ2:13〜23】

聖句「ヘロデは…ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。」(2:16)

1.《デグエジョ》 メキシコには「皆殺しの歌/Degüello」と呼ばれる挽歌の伝統があります。総攻撃の前夜に、トランペットを奏でて、敵軍に殲滅を予告するのです。映画『アラモ』や『リオ・ブラボー』にも流れますし、『荒野の用心棒』や『夕陽のガンマン』の決闘に際して流れるのも、そのヴァリエーションです。その哀愁に満ちた曲調は、敵軍への弔いの歌であると共に、自軍兵士に対しても「死を思え」と訴えているのかも知れません。

2.《小羊の屠殺》 「デグエジョ」は「首切り」の意味です。その関連語に「聖なる幼子の虐殺/degollación de los santos inocentes」があります。ヘロデ王の虐殺の犠牲になった幼子たちを記念する祝日で、ローマカトリック諸国では12月28日に守られています。「創世記」22章の「イサクの燔祭」や「出エジプト記」12章の「過越祭の規定」を改めて読み直すと、ベツレヘムの子どもたちが犠牲の小羊として奉げられたのだと思われます。この虐殺事件は史実ではありませんが、福音書の終わりに、イエス御自身が「神の小羊」として十字架に付けられて、私たちの罪の贖いとされることと繋がっているのです。

3.《残酷な世界》 クリスマスは祝いの時、祭りの日です。却って教会が最も地味に見えるくらい、街も施設も商店も華やかに飾り立てられています。勿論、教会としても、主の来臨を心から喜びたいと思いますが、聖書に描かれたクリスマスには、暗闇や貧困、不幸や災難、苦悩や不安、圧政に苦しむ庶民の姿などがちりばめられています。そして「私たちの暮らすこの世界は、子どもを貪り食っている」のです(クレール・ブリセ著『子どもを貪り食う世界』)。この世界は残酷なのです。誰かが犠牲を強いられているのです。クリスマスは全ての人の祭りであるべきです。不幸せな人のためにも、孤独な人、愛する我が子を失った人のためにも、殺された子たちのためにもあるべきです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:46 | 毎週の講壇から

2016年12月12日

我らが人生の客【黙示録3:14〜22】

聖句「見よ、わたしは戸口に立って叩いている。誰かわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし…」(3:20)

1.《お客様》 三波春夫の決め文句は「お客様は神様です」でした。お笑いのネタに使われて、今ではクレーマーの常套句にすら成ってしまいましたが、本来は三波の芸人としての矜持を語る言葉だったのです。芸人たる者、歌う時には、観客を神と見立てて、神前で祈る時のように、澄み切った敬虔な心に成って、最高の芸を披露するべし、それが三波春夫の信条だったのです。

2.《訪問者》 「お客様は神様です」は比喩に過ぎませんが、本当に「お客様が神様」だったら、どうしましょうか。キリスト教の歴史には、そんな物語や伝承が数多くあります。トルストイの『靴屋のマルチン』(正しくは『愛あるところに神あり』)の創作は有名です。芥川龍之介の『きりしとほろ上人伝』は「聖クリストフォロス」の、フローベールの『聖ジュリアン伝』は「聖ユリアヌス」の伝承の翻案で、いずれも「黄金伝説」から採られたものです。見ず知らずの旅人を迎え入れ、背負って川を渡したら、あるいは、その冷え切った体を必死に温めたら、それがキリスト御自身であったという展開です。

3.《戸口に》 人生も「客を迎える」ことに似ています。大勢の人たちが私たちの人生を訪ねて来ます。客は人間だけではありません。私たちの人生には、苦難と死という訪問者がいます。しかし、苦難と死を経て初めて、私たちは神に近付くことが出来るのです。苦難と死を乗り越えられるようにと、キリストが私たちの客と成って下さるのです。W・ホフマン・ハントの絵画「世の光」には、カンテラを手にして、閉ざされた扉を叩くキリストが描かれています。扉には取っ手が無く、内側からしか開けられません。時刻は信仰と希望と愛も眠ってしまった真夜中、扉には蔦が絡んでいます。主を迎え入れ、愛する者、信じて希望を抱く者として、主と共に生きていこうではありませんか。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:51 | 毎週の講壇から

2016年12月05日

暗いこの世の光として【ヨハネ12:44〜50】

聖句「わたしを信じる者が、誰も暗闇の中に留まることのないように、わたしは光として世に来た。」(12:46)

1.《ランタンの光》 ハロウィンには、カボチャを刳り貫いて作った「ジャック・オー・ランタン」という「鬼火」の提灯が付き物です。あの灯火を見ると、私は幼少時代の地蔵盆を思い出します。夏休みとは言え、辻の地蔵堂に子どもが夜遅くまで遊びつつ灯明を守るのです。提灯を持って地蔵堂への参拝を呼びかけますが、大人たちは賽銭を供えると共に、子どもにお菓子を振る舞うのです。

2.《一隅を照らす》 ハロウィンの原型は、聖マルティヌスの祭りです。紀元4世紀のトゥールの司教、マルティヌスは、ローマ軍騎兵としてアミアンに駐屯していた時、吹雪の中で震える半裸の物乞いに、自分のマントを切り裂いて差し出します。その物乞いがキリストだったのです。その祭りでも子どもたちがランタンを灯して、教会へ招きます。最澄の言葉に「一隅を照らす」があります。隅は光の届きにくい薄暗い所です。誰もが競い合って光の当たる中心に出ようとしますが、押し退けられる人や弾き出される人もいるはずです。クリスマスこそは「この世界の片隅に」生きる人たちを光で照らす物語だったはずです。

3.《光として来た》 イエスさまは「光として世に来た」はずの御方です。しかし、世界に冠たる大都市ではなく田舎町に、宮殿ではなく家畜小屋にお生まれになりました。「誰も暗闇の中に留まることのないように」と仰るのですから、それが必然だったのです。主は「光として」来られたのですから、他の人を押し退けて、光の当たる場所に出ようとは為さいません。むしろ、私たちが光の照らす場所を目指すのは、自らが「闇の人」であるからです。イエスさまは自分から片隅に生きて「一隅を照らす」のです。それは「誰も孤立してはいけない」「私たちは一緒にいる」「神さまはあなたと共にいる/インマヌエル」のメッセージです。それを身をもって示されたのがクリスマスなのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:50 | 毎週の講壇から

2016年11月28日

富める者、貧しき者【Uコリント8:8〜15】

聖句「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(8:9)

1.《貧富の差》 数年前『リッチマン、プアウーマン』というドラマがOLや女子学生の間で話題でしたが、その題名は、米国の劇作家アーウィン・ショーの大河小説『富めるもの貧しきもの/Rich Man,Poor Man』のモジリです。ドイツ移民の家庭に育った3人の子たちが各々、激動の時代を生きる中で、貧富の差に関係なく、人間としての苦悩と喜びを経験していくのです。

2.《出会い系》 「箴言」22章2節に「富める者と貧しい者とは共に世に居る/全てこれらを造られたのは主である」とあります。この聖句は、イエスさまの「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」にまで反響しています。しかし「経済格差も主の御心」とばかりに、現状追認主義的に受け止められ兼ねません。新共同訳は「金持ちと貧乏な人が出会う/主はそのどちらも造られた」と訳しました。両者の「出会い」の中に、神の創造の御業が顕われるのです。主の御心は「出会い系」なのです。富める者と貧しい者とが出会い、そこで人は「互いに生きる者」と成るのです。そのことを、神は望んで居られるのです。

3.《降誕の夜》 世間では、クリスマスは楽しく豊かなイベントと捉えられていますが、聖書の描くクリスマスは貧困状況です。イエスさまは泊まる場所も無く、寒々しい家畜小屋か洞窟にお生まれになったのです。幼稚園の聖劇なら、意地悪な宿屋の主人か女将さんの出番です。家畜小屋を提供する比較的優しい宿屋も描かれるでしょう。ところが、聖書には、そのようなコミュニケーションが一切欠落しています。全く「出会い」が存在しないのです。目に見えにくい現代の貧困問題との共通性を感じます。しかし、弁解は禁物です。私たち自身が見ようとしていないのです。クリスマスに出会うのに、貧富の差は関係ありません。豊かさは貧しさに、貧しさは豊かさへと変えられるのです。

朝日研一朗牧師

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2016年11月21日

悲しみの収穫【マタイ9:35〜38】

聖句「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(9:37,38)

1.《かき集める》 英語の「収穫/harvest」は「秋」の意味でもありますが、古英語の「かき集める」の意味から来ているそうです。荒木飛呂彦のマンガ『ジョジョの奇妙な冒険』には「ハーヴェスト」という「スタンド」が登場します。「スタンド使い」が命じると、虫のような姿の5百体ほどの分身(スタンド)が、一斉に町中から落し物の小銭やクーポン券を「かき集めて」来るのです。

2.《死神の収穫》 「収穫」はギリシア語で「テリスモス」と言います。麦の穂や牧草を「刈り取る」という意味です。モンゴメリーの『赤毛のアン』の最後から2番目の章は、マシュー小父さんが突然死する話です。その題名は「死という命の刈入れ人/The Reaper Whose Name Is Death」と言います。古来、西洋では、死神は大鎌(サイス)を手にした姿で描かれていて、「神に仕える農夫」という呼び名もあるのです。米英軍が使用している軍用無人航空機「MQ-9」は、オペレーターは国内の作戦室で珈琲を飲みながら、イラクやシリアを攻撃する恐るべき兵器ですが、これも「リーパー」と呼ばれています。

3.《働き手たち》 一口に「収穫」と言っても色々です。イエスさまは何を収穫して居られたのでしょうか。主は病気や患いを負う人たちを癒し続けられます。「飼い主のいない羊の群れのように弱り果て、打ち拉がれているのを見て」御自身も痛み苦しまれています。イエスさまは、この世の悲しみと苦しみ、痛みと悩みを取り除こうとして、そのために働く人を求めて居られたのです。「収穫」と言うと、自分の利益に成ること、自分が豊かに、偉く賢く成ること、自己目標が達成されることばかりを考えます(教会も例外ではありません)。主の仰る「働き手」は苦しんでいる人と共に生きる人です。無力でも構いません。人を愛して、その苦しみを思って、涙を流す心、それさえあれば良いのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:50 | 毎週の講壇から