2016年12月05日

暗いこの世の光として【ヨハネ12:44〜50】

聖句「わたしを信じる者が、誰も暗闇の中に留まることのないように、わたしは光として世に来た。」(12:46)

1.《ランタンの光》 ハロウィンには、カボチャを刳り貫いて作った「ジャック・オー・ランタン」という「鬼火」の提灯が付き物です。あの灯火を見ると、私は幼少時代の地蔵盆を思い出します。夏休みとは言え、辻の地蔵堂に子どもが夜遅くまで遊びつつ灯明を守るのです。提灯を持って地蔵堂への参拝を呼びかけますが、大人たちは賽銭を供えると共に、子どもにお菓子を振る舞うのです。

2.《一隅を照らす》 ハロウィンの原型は、聖マルティヌスの祭りです。紀元4世紀のトゥールの司教、マルティヌスは、ローマ軍騎兵としてアミアンに駐屯していた時、吹雪の中で震える半裸の物乞いに、自分のマントを切り裂いて差し出します。その物乞いがキリストだったのです。その祭りでも子どもたちがランタンを灯して、教会へ招きます。最澄の言葉に「一隅を照らす」があります。隅は光の届きにくい薄暗い所です。誰もが競い合って光の当たる中心に出ようとしますが、押し退けられる人や弾き出される人もいるはずです。クリスマスこそは「この世界の片隅に」生きる人たちを光で照らす物語だったはずです。

3.《光として来た》 イエスさまは「光として世に来た」はずの御方です。しかし、世界に冠たる大都市ではなく田舎町に、宮殿ではなく家畜小屋にお生まれになりました。「誰も暗闇の中に留まることのないように」と仰るのですから、それが必然だったのです。主は「光として」来られたのですから、他の人を押し退けて、光の当たる場所に出ようとは為さいません。むしろ、私たちが光の照らす場所を目指すのは、自らが「闇の人」であるからです。イエスさまは自分から片隅に生きて「一隅を照らす」のです。それは「誰も孤立してはいけない」「私たちは一緒にいる」「神さまはあなたと共にいる/インマヌエル」のメッセージです。それを身をもって示されたのがクリスマスなのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:50 | 毎週の講壇から

2016年11月28日

富める者、貧しき者【Uコリント8:8〜15】

聖句「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(8:9)

1.《貧富の差》 数年前『リッチマン、プアウーマン』というドラマがOLや女子学生の間で話題でしたが、その題名は、米国の劇作家アーウィン・ショーの大河小説『富めるもの貧しきもの/Rich Man,Poor Man』のモジリです。ドイツ移民の家庭に育った3人の子たちが各々、激動の時代を生きる中で、貧富の差に関係なく、人間としての苦悩と喜びを経験していくのです。

2.《出会い系》 「箴言」22章2節に「富める者と貧しい者とは共に世に居る/全てこれらを造られたのは主である」とあります。この聖句は、イエスさまの「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」にまで反響しています。しかし「経済格差も主の御心」とばかりに、現状追認主義的に受け止められ兼ねません。新共同訳は「金持ちと貧乏な人が出会う/主はそのどちらも造られた」と訳しました。両者の「出会い」の中に、神の創造の御業が顕われるのです。主の御心は「出会い系」なのです。富める者と貧しい者とが出会い、そこで人は「互いに生きる者」と成るのです。そのことを、神は望んで居られるのです。

3.《降誕の夜》 世間では、クリスマスは楽しく豊かなイベントと捉えられていますが、聖書の描くクリスマスは貧困状況です。イエスさまは泊まる場所も無く、寒々しい家畜小屋か洞窟にお生まれになったのです。幼稚園の聖劇なら、意地悪な宿屋の主人か女将さんの出番です。家畜小屋を提供する比較的優しい宿屋も描かれるでしょう。ところが、聖書には、そのようなコミュニケーションが一切欠落しています。全く「出会い」が存在しないのです。目に見えにくい現代の貧困問題との共通性を感じます。しかし、弁解は禁物です。私たち自身が見ようとしていないのです。クリスマスに出会うのに、貧富の差は関係ありません。豊かさは貧しさに、貧しさは豊かさへと変えられるのです。

朝日研一朗牧師

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2016年11月21日

悲しみの収穫【マタイ9:35〜38】

聖句「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(9:37,38)

1.《かき集める》 英語の「収穫/harvest」は「秋」の意味でもありますが、古英語の「かき集める」の意味から来ているそうです。荒木飛呂彦のマンガ『ジョジョの奇妙な冒険』には「ハーヴェスト」という「スタンド」が登場します。「スタンド使い」が命じると、虫のような姿の5百体ほどの分身(スタンド)が、一斉に町中から落し物の小銭やクーポン券を「かき集めて」来るのです。

2.《死神の収穫》 「収穫」はギリシア語で「テリスモス」と言います。麦の穂や牧草を「刈り取る」という意味です。モンゴメリーの『赤毛のアン』の最後から2番目の章は、マシュー小父さんが突然死する話です。その題名は「死という命の刈入れ人/The Reaper Whose Name Is Death」と言います。古来、西洋では、死神は大鎌(サイス)を手にした姿で描かれていて、「神に仕える農夫」という呼び名もあるのです。米英軍が使用している軍用無人航空機「MQ-9」は、オペレーターは国内の作戦室で珈琲を飲みながら、イラクやシリアを攻撃する恐るべき兵器ですが、これも「リーパー」と呼ばれています。

3.《働き手たち》 一口に「収穫」と言っても色々です。イエスさまは何を収穫して居られたのでしょうか。主は病気や患いを負う人たちを癒し続けられます。「飼い主のいない羊の群れのように弱り果て、打ち拉がれているのを見て」御自身も痛み苦しまれています。イエスさまは、この世の悲しみと苦しみ、痛みと悩みを取り除こうとして、そのために働く人を求めて居られたのです。「収穫」と言うと、自分の利益に成ること、自分が豊かに、偉く賢く成ること、自己目標が達成されることばかりを考えます(教会も例外ではありません)。主の仰る「働き手」は苦しんでいる人と共に生きる人です。無力でも構いません。人を愛して、その苦しみを思って、涙を流す心、それさえあれば良いのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:50 | 毎週の講壇から

2016年11月14日

ヘルパーさん募集中【創世記2:18〜25】

聖句「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』」(2:18)

1.《進化と展開》 2000年のモザンビーク大洪水の折、独力で樹上出産をした女性がいました。普通ではない出来事だから話題に成ったのです。類人猿は樹上や茂みで独りで出産しますが、人間は誰かの助けを必要とします。「進化」とは「独りで出来るようになる」ことではありません。ラテン語の本来の意味から言えば「展開」と訳すべき語かと思います。「意外な展開を見せる」ものなのです。

2.《無縁と有縁》 人間は脳が発達して、二足歩行を始め、骨盤の形状が変わり、産道が折れ曲がって、頭の大きい赤ん坊を産むために激痛を経験する結果と成ったのです。出産に苦労しているのは人間の女性だけです。人間は猿よりも確実に弱くなっているのです。しかし、弱くなった代わりに、私たちは家族や社会を手に入れることが出来たのです。「無縁社会」という語が流行しましたが、無縁であれば、もはや「社会」とは言えません。「関係ないね」と言うのは「社会性の欠如」です。「関係あるね」と言えるのが「社会」なのです。昔は「袖触れ合うも多少の縁」と言いましたが、今や「無い袖は触れもしない」のでしょうか。

3.《良しと悪し》 むしろ「助けて」と言い合えることが、人間であることの証です。神は「人」に「助ける者」を造られました。「ヘルパー/助け手」であり「パートナー/相棒、伴侶」「コンパニオン/仲間」です。神さまは、私たちが互いに助け合って生きるように、家族や社会を与えて下さったのです。人間をお造りになる以前の「天地創造」の過程では、繰り返し「これを見て、良し(トーブ)とされて」いた神が初めて、「人が独りでいる」のを見て「良くない/ロー・トーブ」「悪し」と仰ったのです。現在、日本社会に蔓延している「自己責任」という物言いは、本当に「良くない」のです。そんな時代であればこそ、私たちは互いに「助ける者」として生きることが求められているのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:16 | 毎週の講壇から

2016年11月07日

なおも望みつつ信じた【ローマ4:1〜25】

聖句「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、…多くの民の父となりました。」(4:18)

1.《志士仁人》 NHK大河ドラマ『花燃ゆ』は、伊勢谷友介の吉田松陰が塾生たちに「あなたの志は何ですか?」と問う場面が印象的でした。実際「松陰語録」にも「志」云々が数多く出て来ます。「論語」の「志士仁人」です。「愛ある人は自らの身を殺しても、愛を成し遂げることがある」と言うのです。それが「己が義と信じることのために命を投げ打つ」と拡大解釈されたのです。

2.《心の向き》 「志士/志ある人」が「仁人/愛ある人」とは、聖書の教えに通じるものです。「志」は有名な「四十にして惑わず」の前にも「吾十有五にして学を志す/私は15歳で学問を志した」とあります。世間では、とかく年齢ばかりに拘泥して読み違えていますが、@志を立てる、A独立する、B迷わない、C天命(使命や限界や天職)を理解する、D人の話を素直に聞く、E心の赴くままに振る舞っても道を踏み外さない、人間の成長段階を語っているのです。私たちには、その時々に向き合うべき課題があるのです。そして「志」とは「上に向かって心が伸びて行く」ことを表わす文字なのです。

3.《高い大志》 老人福祉施設のベテラン職員の人が、働き始めた当時、施設長から「3年経っても働いていたら、信念をもって働いているか、惰性で働いているか」と自問すべしと教わったそうです。信念、志は「上を向いて歩く」のです。札幌農学校のクラークの言葉「少年よ、大志を抱け」は有名ですが、その続きは金銭や我欲、名誉のためでなく「キリストのために大志を抱け」です。私たちは上にあるものを目指しているでしょうか。志を失い低きに流れてはいないでしょうか。「今は希望の無い時代」との愚痴は耳にしますが、「希望する術も無かった時に、尚も望みを抱いて、信じる」のが聖書の信仰です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:50 | 毎週の講壇から

2016年10月31日

天使をもてなす人【ヘブライ13:1〜6】

聖句「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。」(13:2)

1.《ホスピタリティ》 外国人観光客の増加と共に観光業界を中心に、この語が唱えられることが多くなりました。「厚遇、接待、お持て成し、接客サービス」と訳されています。しかし、「客」に対してのみならず、「訪問者」や「見知らぬ人」にも向けられるものです。更に「寛容さと善意をもって受け入れる」ものです。寛容は「偏見に縛られず自由であること」「惜しみなく与える気前良さ」です。

2.《フィロクセニア》 語源のラテン語「ホスペス」には、不思議なことに「主人」と「客」の両方の意味があります。つまり、何かの拍子に「主客」の立場が入れ代わり得るということです。立場の優位性を捨て去り、対等の立場であることです。旧約聖書の伝統の中では、自分の天幕に身を寄せた旅人を、主人は自らの命を投げ出しても守りました。古代ギリシアでは、「旅人/クセノス」を「神/ゼウス」の使いと信じて親切にしました(ゼウス・クセノス)。「兄弟愛/フィラデルフィア」も大切ですが、身内びいきばかりではダメで、「見知らぬ人への愛/フィロクセニア」も忘れるなと勧められているのです。

3.《隠されている》 旧約聖書には「気付かずに天使たちを持て成した」人たちの話があります。「気付かずに」は「隠されている」という語です。聖公会の宣教師、ヘンテ女史は昭和の初め、千葉に結核患者の療養施設を建てようとしましたが、地元住民の反対に計画は頓挫しかけていました。見ず知らずの病人のために私財を投じる宣教師が、住民には理解できなかったのです。その時、元船員だった老人が寄港した英国で、宣教団の女性に親切にして貰った体験を語りました。これを機に理解が広がったそうです。「天使」のメッセージを、最終的に受け取るのが誰であるか、私たちの目には「隠されている」のです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:51 | 毎週の講壇から

2016年10月24日

アナザー・カントリー【ヘブライ11:13〜16】

聖句「…はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表わしたのです。」(11:13)

1.《二十四の瞳》 1954年の木下惠介監督の『二十四の瞳』は、小豆島の「岬の分教場」に赴任して来た女教師、大石先生と12名の生徒たちとの心の交流を描いた名作です。12人の教え子だから「二十四の瞳」なのですが、フランスで上映された時には、その題名から、24も目玉のある気味の悪い怪獣が出て来ると誤解した人がいたそうです。同年に『ゴジラ』が公開されていたからです。

2.《慈しみ深き》 映画『二十四の瞳』は怪獣映画ではなく、尋常小学校を舞台にした映画ですから、子どもたちが懐かしい童謡や唱歌を歌う場面が数多くあります。案外、知られていませんが、讃美歌「慈しみ深き」が流れる場面があるのです。生徒の1人、松江の母親が急死して、彼女は高松に奉公に出されるのです。何とか学校が続けられるようにと、父親に直談判する大石先生ですが、他にも幼児を抱えていて、どうしようもありません。己の無力さに、皆が涙します。そこに、あのメロディーが流れるのです。お手軽に悲しみが癒されたりはしません。でも、神さまは、悲しんでいる者たちを見守っていて下さっているのです。

3.《別の国あり》 私自身は歌が好きでもなく、讃美歌に思い入れもありませんでした。しかし、礼拝に通い続けて、讃美歌を歌い続けていると、歌は魂に溜まって行くのです。貯金のように利息も付くのです。結構な高利です。歌の心、つまり、祈りがいつの間にか自分のものに成っているのです。ダイアナ元王妃の結婚式と葬儀に、ホルスト作曲の聖歌「我は汝に誓う、我が祖国よ」が歌われていました。「祖国」と訳されていますが、実際には「もう1つの国がある」と「天の国」を歌っているのです。「私たち一人一人の魂が積み重なる度に、その国には、静かな輝きが増し加わる」と…。

朝日研一朗牧師

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2016年10月17日

育つ不思議と恵み【ローマ8:26〜28】

聖句「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(8:28)

1.《育つ不思議》 私の子育て時代には「三歳児神話」や「母原病」等という言説が流行しましたが、子どもの成長の責任を全て母親に負わせる考え方に、私は反発を感じていました。育児上の失敗も多かったが、むしろ、無事に大人に成れたのは神さまの御陰と感謝しています。どの子にも、神さまから真っ直ぐに育つ力が与えられているのだと思います。

2.《育つ御恵み》 自らの幼児期を振り返っても、決して安定した家庭環境にはありませんでした。私を産んだ直後、母は肋膜炎から結核を病み、子どもたちは親戚の家に預けられました。私自身も10ヶ月間、病院の保育室に預けられていました。それが後の性格形成や人生に影響を与えているのかも知れません。信仰篤い両親に反発して、教会生活から離れてしまった時代もありました。しかし、両親が亡くなって初めて、彼らの信仰の確かさを知りました。出産したばかりの赤ん坊や幼い子どもたちから隔離された母の悲しみ、父の困窮は如何ばかりであったかと思います。両親は神の恵みを信じ抜いたのです。

《遺された愛》 大手術をするも母の結核は完治せず、背中に大きな傷痕を抱えたままでしたが、父は弱い母を思い遣りました。社会貢献活動を始めて、家庭の食卓には大勢の人が集うように成りました。父の死後、その遺志を継いだ母はパーキンソン病の患者の会に協力しました。両親はその生き方を通して、私たちに確かなものを遺してくれました。レバノンの詩人、カリール・ジブランは「子どもはあなたのものではない」と歌っています。子が生まれ育つのは神の恵みです。だからこそ、神に祈るのです。恐らく、母も安静にするしかない病床で「全てをお任せする者にこそ益がある」と知ったのではないでしょうか。

保立眞理子

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2016年10月10日

暗闇から光の子へ【エフェソ5:6〜20】

聖句「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」(5:16,17)

1.《今は悪い時代》 作家で尼僧の瀬戸内寂聴が、今から12年前の「青空説法」で「今の日本は最低。今ほどイヤな悪い時代は無かったような気がする」と述べて、命の軽視、政治行政の腐敗、教育の荒廃、人間の驕りを批判して居られました。今や各種業界とマスコミが結託して、更に「悪い時代」であることを覆い隠そうとしています。私たちも無自覚に加担しているのです。

2.《洒落より感謝》 「エフェソ書」も「今は悪い時代」と述べています。パウロ自身が書いたとすれば、紀元62年頃、オネシモが書いたとすれば、紀元54年頃とされています。ネロ帝によるキリスト教弾圧が始まる以前なので、「悪い」と言われているのは倫理的なことです。4節には「卑猥な言葉や愚かな話、下品な冗談」を糾弾しています。この3つは「悪口」「馬鹿話」「洒落」という意味です。ユーモアやウィットまで否定されると、反発を感じますが、「洒落よりも感謝を」と勧めているのです。しかも「エウトラプリア」よりも「エウスカリスティア」と、この箇所そのものが語呂合わせなのです。

3.《聖霊の結ぶ実》 自分の責任は棚上げして「時代が悪い」と言う人もあり、自分たちだけが正しくて、周りは全て間違っていると主張する宗教団体もあります(キリスト教会も含む)。分別を無くしているという意味では、酔っ払いと同じです。時代のせいにするのも、自分のせいにしてしまうのも安易です。自分なりに何等かの手掛かりを見付けて、この世と自身に立ち向かって行くのが「主の御心」です。「悪い/ポネーロス」は「骨を折る/ポネオー」が語源です。骨の折れる困難な時代ですが、感謝をもって生きる時、自ずと「聖霊が実を結ぶ」のです。そして、それを収穫なさるのは主御自身です。

朝日研一朗牧師

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2016年10月03日

天使のパン【詩編78:23〜29】

聖句「神は天からの穀物をお与えになり、人は力ある方のパンを食べた。神は食べ飽きるほどの糧を送られた。」(78:24,25)

1.《パン屋》 店名や製品に「天使のパン」と銘打ったパン屋があります。北鎌倉には、1日平均3個のパンを製造する、元競輪選手夫妻の営むパン屋があります。試合中の転落事故で脳と身体に麻痺を負う店主が焼くパンは「天使のパン」の味わいだそうです。宇治市には今時、調理パンが全品「百円」のパン屋が、熊本市では天然酵母のパン屋が「天使のパン」を謳っています。

2.《御聖体》 「天使のパン」という語は「詩編」78編25節「人は天使たちのパンを食べた」から来ています。出エジプトの際、イスラエルに主が与えられた天の糧「マナ」を言っているのですが、原文が複数形で「力ある者たち」だったので、古来より「天使たち」と訳されて来たのです。勿論、今では、唯一の神の力強さを表現するために複数形に成っているというのが定説です。しかし、中世の「天使博士」トマス・アクィナスは「聖体祝日」のために、聖歌「天使のパン」を作詞しました。フランクの名曲「天使の糧」も有名です。

3.《聖餐式》 中世の聖女、シエナのカタリナは聖体以外の物を口にせず、33歳の若さで世を去りました。天使の糧を味わうために、世俗の糧を拒んだ結果でした。プロテスタントの聖餐は違います。H牧師の実家はパン屋で、そのパンが聖餐式に使われていたそうです。しかし、自分の家で焼いたパンなのに、未受洗の自分は与ることが出来ず、不思議な気持ちがした…という思い出の記を読みました。受洗後に聖餐に与った彼女は「単に空腹を満たす物ではなく、味わって食べる者の魂を満たすキリストという名のパンでした」と言います。十字架の上で引き裂かれた主を仰ぎながら、聖餐に与ることによって、私たち自身も「引き裂かれたパン」として、この世に遣わされて行くのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:51 | 毎週の講壇から