2018年01月22日

豊かに暮らす道【フィリピ4:10〜14】

聖句「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。」(4:11,12)

1.《オツベルと象》 宮沢賢治が大正から昭和に元号が変わる年の1月に発表した童話です。農場に入って来た白象を、大農場経営者のオツベルが言葉巧みに鎖で繋ぎ止め、過酷な労働を強いるのです。時計や靴を「いいもんだ」と勧めるのですが、その正体は白象を縛る重い鎖や足枷なのです。私たちも、要らない物を押し付けられて、「いいね」と喜んでいるのかも知れません。

2.《白い象の伝説》 白象は平和と繫栄の象徴とされますが、その飼育には莫大な費用が掛かるために、王から家臣が白象を授与されるのは祝福であると同時に呪いでもありました。その説話は欧米に伝えられて、経費ばかり嵩む「無用の長物」を「ホワイトエレファント」と呼ぶように成りました。賢治の童話では、菩薩の象徴である白象が聖母マリアに祈りを奉げます。タイのプミポン国王は「足るを知る哲学」を説いて、自然と共生する農業共同体の理念を説きましたが、宮殿に7頭もの白象を飼っていました。割り切れなさが残ります。しかし、割り切れないのは、私たち自身の在り方とて同じです。

3.《良き道を行く》 如何にも貧相に思われるパウロですが、彼がローマ帝国の市民権を持っていたことを思えば、ユダヤの有力者の家庭に育ったことが推察されます。キリストの使徒と成ってからの窮乏ぶりは説明不要です。一旦、物質的な豊かさを手に入れると、それを捨てることは出来ません。イエスさまやパウロのように生きることは難しいのです。しかし、エルサレム教会を援助したコリントの信徒のように、パウロを支援したフィリピの信徒のように成ることは出来ます。それが「広い心/エピエイケイア」なのです。ここに、本当の「繫栄/エウオドー/良き道」、豊かに暮らす道があります。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:52 | 毎週の講壇から

2018年01月15日

祈りがあなたを解き放つ【マタイ6:5〜15】

聖句「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。」(6:5)

1.《ギリシア劇》 古代ギリシア演劇と言われても、私たちにとって馴染み深いものではありません。しかし、オーケストラ、シアター、シーン、コーラス、コメディ、トラジディ、パントマイム、ソックス等、ギリシア演劇に由来する用語は今も生きています。イエスさまの仰る「偽善者/ヒュポクリテース」もギリシア演劇の「役者」を意味する語です。仮面を被って所作をするのです。

2.《偽善者仮面》 古代ギリシア演劇では、舞台に立つ役者は二、三人に限定されていましたから、交替で仮面を取り替えながら演じました。役柄の性別や年齢や地位に合わせて仮面(プロソーポン)を被ったのです。この仮面をラテン語では「ペルソナ」と言います。『シン・ゴジラ』のゴジラの動きを演じたのは、狂言師の野村萬斎です。樋口真嗣監督によると、野村がお面を被った瞬間に「もう人では無くなっていた」そうです。同じく、仮面を被ることで、その役柄が役者に憑依するのです。聖書の「偽善者/役者」は、この社会の役割や立場、人の評価や自意識によって、素面の自分を見失ってしまった人たちのことです。

3.《解放の祈り》 現代においては、このイエスさまの御言葉は浅薄な「偽善者批判」の道具としてではなく、自己吟味のために読むべきです。私たちは、神さまの望まれる生き方をしているでしょうか。マザー・テレサが「解放」という祈りを残してくれました。愛され、評価され、認められたいという思い、見下されたり忘れられたり非難中傷されたりする恐れからの解放を祈ると共に、人間的な弱さを正直に告白しています。イエスさまは「役者じゃないんだから、仮面を被ったまま、お祈りしちゃダメだよ」と教えて下さっているのです。祈る時、人に向かって祈るのではなく、心を神さまに向けているでしょうか。

朝日研一朗牧師

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2018年01月08日

折が良くても悪くても【Uテモテ4:1〜5】

聖句「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。」(4:2)

1.《牧師館殺人事件》 アガサ・クリスティの「ミス・マープル物」第1作ですが、この推理小説の御蔭で、牧師は中世ヨーロッパの荘園領主のような屋敷に住んでいるかのような印象を与えてしまいました。日本の牧師の住まいの現実は「牧師宿舎」と呼ぶのが相応しいと思います。因みに『牧師館殺人事件』の翻訳者の1人には、牧師の子として生まれ育った中村妙子も居られます。

2.《都合の良し悪し》 所謂「牧師館」に訪ねて来られる人の中には、所用の会員や教友のみならず、飛び込みの相談者もあります。牧師も生活者ですから、都合の悪い時もあります。その時、脳裏を掠めるのは「どんな場合にも」「良き音ずれをもたらす者」として「自分の務めを果たしなさい」と勧める、この聖書の段落です。これまでは専ら、私の側の「都合の良し悪し」や「便不便」に関係なく「福音を宣べ伝えなさい」という内省的な勧めとして語られて来ましたが、それは余りに限定的ではないでしょうか。「折」と訳された「カイロス/時」は、量的な時間(クロノス)ではなく、神が与えられるチャンスです。

3.《時代と共にある》 時計の針が文字盤に刻む時ではなく、私たちの魂に刻まれた時なのです。故に永遠と繋がる「霊的な時間」でもあるのです。但し、聖書の神は、人間の歴史に生きて働かれます。この時代と無関係ではありません。私たちが生きる時代も、神からチャレンジとして与えられたものです。「御言葉」はキリスト・イエス、「励みなさい」は「傍らに立つ、先頭に立つ、歩み寄る」です。悩む人の側に立つ主の御姿、時代の先頭に立ち、時代状況に歩み寄るのです。勿論、時流に上手く乗るとか、時代に迎合するとかの意味ではありません。時に誤りを指摘したり、時に慰め励ます。これが私たちの役割です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:54 | 毎週の講壇から

2018年01月01日

向こう岸に渡ろう【マルコ4:35〜41】

聖句「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた。」(4:35)

1.《降誕節の主日》 本日が正真正銘の「クリスマスの主日礼拝」です。プロテスタント教会では何よりも「主日礼拝」を重んじるので、ローマカトリック教会が12月24日から25日にかけて、徹夜のミサをするような習慣がありません。「特定の日」を重んじるのではなく、毎日を神さまからのプレゼントとして感謝して受け、その上で、週に一度、日曜日を主に奉げているのです。

2.《冬至は年越し》 3世紀初め、アレキサンドリアのクレメンスが、キリスト降誕日を5月20日と推測した記録が最古の記録です。4世紀初めには、キリスト教が公認されたローマを中心にして、12月25日のクリスマスが祝われるようになりました。ミトラ教の太陽神の誕生日、農耕神サトゥルナリア祭、豊穣の女神フレイアに犠牲を奉げる北欧のユール等の信仰や風習が流れ込んでいます。クリスマスは文字通りクリスチャンだけのものではないのです。中国の二十四節気では、冬至は陰気から陽気に転ずる変わり目です。季節の変化、年の変わり目に、皆で集まり、姿勢を正して、神に感謝を奉げるのです。

3.《私の向こう岸》 イエスさまは事も無げに「向こう岸に渡ろう」と仰いますが、弟子たちにとっては「向こう岸/ペラーン」は「限界、境界、果て/ペラス」を意味しました。荒れ狂う湖は、弟子たちの不安な心中そのものです。実際、向こう岸は、豚を食べるギリシア人の植民都市、ゲラサ人の地方で、墓から悪霊に取り憑かれた人も出て来ます。住井すゑの『橋のない川』の「川向こう」です。差別する者とされる者との間に広く深い川が横たわっているのです。イエスさまは、そこに橋を架けよう、そこと舟で行き来しようとされるのです。決して楽なことではありません。でも、古い自分を脱ぎ捨てて、自分が引いた境界線を乗り越えるのです。私たちの舟には、主が共に居られるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:00 | 毎週の講壇から

2017年12月25日

見上げてごらん夜の星を【ルカ2:8〜20】

聖句「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(2:20)

1.《バイスタンダー》 救命医療と看護の用語です。誰かが急病になったり、事故や災難に見舞われた時「偶然、その場に居合わせた人」のことです。発見から通報、応急の救命処置など、その役割の重要さが改めて注目されています。北米には「善きサマリア人法」の制定された自治体も多く、その場に居合わせた誰でもが「バイスタンダー」として行動できるように促されています。

2.《クリスマス招待》 羊飼いたちは、クリスマスのバイスタンダーでした。マリアとヨセフは、キリストが人として生まれるために必要条件として選ばれた存在でした。また、占星術の学者たちも事前にキリスト降誕を予測して、遙々何千キロも旅して来た人たちです。明確な目的意識や旅行計画があって初めて、御子のいる場所へと辿り着くことが出来たのです。そんな中にあって、羊飼いたちこそが「偶然、その場に居合わせた」存在なのです。それまでイエスの家族とは何の接点も無かった人たちが、野宿して寝ずの番をしていたために、主の栄光を仰ぎ、天使に招待されて、降誕の場面へと導かれて行ったのです。

3.《召し出された人》 占星術の学者たちは「拝みに来た」のですから、一種の巡礼です。羊飼いたちが招かれたのはどうしてでしょうか。羊飼いたちは都市や貴族に憧れることも羨むこともなく、与えられた務めに満足していたからだと、ルターは説明しています。素朴な彼らは礼拝に行ったのではなく、とにかく行って見て、人々に知らせたのです。人との出会いも、出来事との出会いも、先ず自分が行って見ることから始まります。その結果として、彼らはクリスマスの証人と成り、神を「あがめ、賛美しながら帰って行った」のです。こうして賛美は私たちの生活に入り込み、終わることなく続くのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:50 | 毎週の講壇から

2017年12月18日

飼い葉桶に一本の藁を【ルカ2:1〜7】

聖句「…マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(2:6,7)

1.《洞窟と石灰岩の桶》 「飼い葉桶」と言うと、私たちは木製の桶を想像してしまいますが、イエスさまが寝かされたのは石灰岩に掘られた代物だったようです。同じように「飼い葉桶」と言われるので、誰もが「家畜小屋」を想像してしまいますが、家畜は洞窟に入れたようです。新約外典「ヤコブ原福音書」にも、ヨセフとマリアが「洞窟」に泊まり、出産する描写があります。

2.《発酵させた飼い葉》 新約聖書には「飼い葉桶」はありますが「飼い葉」は出て来ません。旧約聖書「イザヤ書」30章には「発酵させた飼い葉/ベリール・ハーミーツ」が出て来ます。農業には無駄がありません。打穀後、麦粒を選り分けた後に残る茎や籾殻に、圧搾後の葡萄の皮を混ぜて酢酸発酵させたのです。家畜に与える最上級の飼料なのです。佐々木倫子のマンガ『動物のお医者さん』にも、刈り取った牧草を乳酸発酵させる「サイレージ」が出て来ます。このようなことを考えて、改めて降誕場面を思い浮かべると、仄かに甘酸っぱいワインビネガーの香りのする飼い葉がイメージされませんか。

3.《藁屑を飼い葉桶に》 片柳弘史神父がマザー・テレサの下でボランティアをした体験を語って居られます。マザーはボランティアたちに、空っぽの飼い葉桶を指し示して、何かを犠牲にする度に、藁を1本ずつ入れて、クリスマスに備えよと言います。クリスマスのミサの時には、飼い葉桶に藁が満たされ、参加者の心にも広い空間が生まれていたそうです。「藁」は「空しさ/ウァーニタース」の象徴です。私たちは自分の心と頭とを「虚栄」という「空しい」「藁屑」で一杯にしているのです。けれども、そんな藁屑も1本ずつでも奉げていけば、イエスさまをお迎えするための「飼い葉」に変わっているのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:52 | 毎週の講壇から

2017年12月04日

光が闇の底まで降りる【ルカ1:67〜80】

聖句「この憐れみによって、高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」(1:78,79)

1.《ベネディクトゥス》 キリスト者は、クリスマスに先立ってアドベントを守ります。聖書においても、イエスさまの御降誕に先立って洗礼者ヨハネの誕生物語があるのです。その父親ザカリヤの賛美は、歌い出しのラテン語を採って「ベネディクトゥス/ほめたたえよ」の名で知られ、古くは、埋葬式の灌水と燻香の直前に歌われていました。お目出度い誕生の歌なのに、なぜでしょうか。

2.《死の陰の谷を歩む》 79節「暗黒と死の陰に座している者たち」を陰府に置かれた「死者」と捉えたからです。「スキア/陰」には影法師のような輪郭がありますが、所詮「スコティア/暗黒」の中に置かれているのですから、真っ暗闇なのです。有名な「詩編」23編にも「たとひ我、死の陰の谷を行くとも災ひを恐れじ」と詠まれている「死の影の谷」です。英国の怪奇作家、W・H・ホジソンの短編『失われた子供たちの谷』には、幼い娘を亡くした男が、子どもたちの暮らす楽園「光の谷」を求めて彷徨う挿話があります。それによると、驚くべきことに「光の谷」は「死の陰の谷」と隣り合わせに成っているのです。

3.《クリスマスの極意》 洗礼者ヨハネは、イエスさまに先立って道を備えた人物とされています。洗礼という儀式も、ヨルダン川でヨハネの始めたものです。洗礼/バプテスマは「水に浸す」事ですから「滴礼」を認めず「浸礼」を絶対視する教派もありますが、本来を目指すならば「流水」でなければなりません。レオナルド・ダ・ヴィンチは大地を1匹の魚に、水を空気に、河川や海を血管に譬えました。私たちの身の周りには、数え切れない程の暗闇と陰があります。けれども、「憐れみの光」である主は、どこまでも深く下降して下さいます。谷底で倒れ伏している私たちを照らし、導いて下さるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:07 | 毎週の講壇から

2017年11月27日

向こう側を通る【ルカ10:25〜37】

聖句「ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。」(10:31)

1.《この三人》 追い剥ぎに遭った旅人が重傷を負って倒れていますが、通り掛った祭司もレビ人も、なぜか彼を助けません。サマリア人だけが助けます。「誰が旅人の隣人に成ったか?」と、イエスさまは尋ねます。答は簡単です。この譬え話が物事の善悪の判断を問うだけのものなら、登場人物は3人要りません。この3人は、私たち自身の心の動きを象徴的に描いているのです。

2.《向こう側》 河瀬直美監督の『あん』という映画があります。ヒロイン徳江(樹木希林)はハンセン氏病の元患者ですが、社会の人たちと繋がりたいと願い、どら焼き屋で餡を捏ねる仕事をします。彼女の作る餡は美味しいと評判を呼びますが、やがて彼女の手が変形していることから元患者であることが噂となり、客は絶え、店も潰れてしまいます。彼女は社会的な死を体験することになるのです。義憤を感じますが、しかし、どら焼きを買わなくなった人たちに、私たちは石を投げることは出来ません。倒れている旅人を見て見ぬ振りをして「向こう側」を歩く、祭司やレビ人と同じことを、私たちもしているのです。

3.《心のドア》 私たちの心の中には「祭司とレビ人」が宿っていますが、善を求める心、即ち「サマリア人」もいるのです。物理的、心的距離が無関心を生み出します。ヴィーゼルは無関心を鈍感と捉えて「人を助ける時には、ただドアを開けるだけで良い」と言いました。何もかも出来ませんし、誰でもが出来る訳でもありません。しかし、実際に出来た人もいます。また、私たちには祈ることが出来るのです。そして、フランクルが言うように「人は死ぬまで成長できる」のです。心を開き、祈り続ければ、それは必ず行動に結び付き、道の反対側を通り過ぎる回数が少しずつ減って行くはずです。

大西秀樹医師

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2017年11月20日

神さまの大きな背中【イザヤ 46:1〜4】

聖句「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(46:4)

1.《抱っこ》 最近では、街中で赤ちゃんを「おんぶ」している人を見掛けなくなりました。若いパパママはベビーキャリアを装着して抱っこしています。世界でも「おんぶ」する民族は少数派ですが、背中であやしながら、開いた両手で料理や洗濯が出来る凄い文化です。但し、周囲の共同体に対する信頼があることが前提です。「周りは他人」の都市文化では「おんぶ」は難しいのです。

2.《おんぶ》 欧州人に「おんぶ」の習慣はありませんから、聖母子像や降誕の聖画を見ても「抱っこ」です。唯一の例外が、幼いイエスさまを「おんぶ」して川を渡った、聖クリストフォロスの伝説です。それでも絵画を見ると、肩車か立ち乗りに成っています。欧州人に「おんぶ」は分からないのです。キリスト教が欧州に伝えられる以前、つまり、聖書を見ても「背負う」の表現はありますが、それは「赤ん坊を負ぶる」ことではありません。芝居の『屋根の上のヴァイオリン弾き』の「サンライズ・サンセット」の歌詞を見ると、寝た子を抱いてベッドに運ぶ「carryed」を「いつもおんぶしてた」と訳しています。

3.《踏み台》 聖書には「おんぶ」こそありませんが、子どもを抱きかかえて運ぶ「抱っこ」はあります。バビロンの神々の偶像は神輿として人間が担ぎ、家畜に背負わせる物だが、創造主である私は、あなたがたが胎にある時から年老いるまで「抱っこ」すると、主は仰るのです。「私が/アニー」の語が繰り返されて「おんぶに抱っこ」です。但し「甘えっ放し」には為さいません。その時々に「受容の背中」「拒絶の背中」「模範の背中」を示して、私たちの成長を促されるのです。子が「偶像」ではなく、真実を求めて生きるように導くのが大人の責任です。そのためには、自ら踏み台と成ることも厭わないのです。

朝日研一朗牧師

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2017年11月13日

水のこころ【イザヤ 55:9〜11】

聖句「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ…」(55:10)

1.《奇跡の人》 岡田惠和が脚本を担当し、「銀杏BOYZ」の峯田和伸と麻生久美子が出演したドラマが昨年放映されました。流されるまま生きて来た万年青年が、盲聾の7歳の娘を抱えて、毎日サバイバルのような生活を送る元ヤンのシングルマザーに恋をして、自分はその娘の「サリヴァン先生になろう」と決意するところから、泣き笑いの奮闘が始まるのでした。

2.《家庭教師》 アン・サリヴァンは「盲聾唖の三重苦」を負ったヘレン・ケラーを教育した家庭教師です。ヘレンは1歳9ヶ月の時、猩紅熱の後遺症で視覚と聴覚を失い、言葉も話せなくなりました。両親は電話の発明者、ベル博士を通じて、パーキンス盲学校を紹介されます。自身もトラコーマによる失明状態の中から立ち上がり、盲学校を首席で卒業したサリヴァンが家庭教師として、ヘレンの家に来ることになったのです。その時、彼女は弱冠20歳でした。こうして赤ちゃん状態に等しかったヘレンに、指文字で言葉を教える懸命の教育が始まりました。芝居や映画では、この二人の格闘が最大の見せ場です。

3.《流れる水》 漸く人間らしさを回復しつつあったヘレンでしたが、両親の下に戻るや、再び動物のように振る舞い始めます。水差しを零したヘレンをサリヴァンが連れ出し、ポンプから流れ出る水に、ヘレンが「水」と叫ぶ場面は感動的です。しかし、これは劇作家ウィリアム・ギブスンの創作です。ヘレンの自叙伝によると、散歩の途中、忍冬の香りに誘われて泉に行った時の出来事だそうです。いずれにせよ、生きた水の流れがヘレンに言葉と魂の目覚めを与えたのは事実です。『奇跡の人』の原題「The Miracle Worker」はサリヴァンのことですが、奇跡を起こした働き手は、天から与えられた水だったのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:45 | 毎週の講壇から