2017年04月24日

あなたの塩加減【マルコ9:42〜50】

聖句「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。」(9:50)

1.《ソルトシェーカー》 1991年、大相撲が英国巡業をした時、派手な塩撒きから「ソルトシェーカー」と呼ばれたのが水戸泉です。勝ち星に恵まれない時、付き人から「せめて塩だけでも景気良く撒いたら?」と勧められたのが始まりです。青葉城、朝乃若、北桜、将司、高見盛…現役では旭日松の塩撒きが見事です。1興行で650キロ、軽乗用車1台分もの塩が用意されるそうです。

2.《塩味の付いた関係》 私たちの生活に塩は無くてはなりません。食べ物の味付けや保存にも必要ですが、塩の採り過ぎも体に良くありません。塩は私たちの生き死にに関わるのです。「エゼキエル書」を読むと、生まれたばかりの赤ん坊の体を塩で擦って殺菌する描写があります。塩は、生まれて初めて人間が触れる神の祝福と聖別の徴だったのです。「塩の契約」という語も、時を経ても塩味が変わらないことから「変わらぬ友情」の証でした。それ故に「自分自身の内に塩を持ちなさい」と「互いに平和に過ごしなさい」という勧めが繋がるのです。塩で結ばれた関係は裏切らない、心変わりしない、手の平を返さないのです。

3.《身を削って生きる》 イエスさまは弟子たちに「あなたがたは地の塩である」と宣言されました。当時、イエスさまの下に集まって来た人たちは、特別な人たち、社会的に影響力のある人ではありませんでした。そんな彼らに「地の塩」としてのアイデンティティを与えられたのです。しかし、折角の塩も「潮解」して塩気を無くしてしまうことがあります。私たちに与えられた塩味を自覚して、且つ発揮せねばなりません。塩の1匙がケーキの甘さを引き立て、ニガリが豆腐を豆腐たらしめるのです。岩塩はその身を削って(少量で良いのですが)、周りを生かして行くものです。それでこそ価値があるのです。

朝日研一朗牧師

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2017年04月17日

大きな魚と小さな魚【ヨハネ 21:1〜19】

聖句「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。」(21:9)

1.《魚アンケート》 最近の子どもは魚料理を嫌う印象を受けますが、回転寿司は大好きです。但し、彼らの好むネタはエビ、マグロの赤身、イクラ、サーモン、トロ、ツナ等で、煮つけや焼き魚など論外なのです。食育アンケート調査によると、給食で嫌いなメニューは「魚全般」が断トツのトップ。その理由は「骨がある」「食べるのが面倒」「食べるのに時間がかかる」でした。

2.《漁師率の高さ》 12人の弟子のうち半数が漁師だった可能性があります。神殿に奉げる犠牲は肉と小麦が中心でした。つまり、聖書の民の食生活は肉とパンが中心だったのです。しかし、旧約聖書に比べると、新約聖書には「魚」が頻繁に登場します。イエスさまは「魚好き」だったのかも知れません。この箇所には「153匹もの大きな魚」と、妙にリアルな漁獲量が挙げられています。153は「三角数」で、各桁を三乗して足すと153です。3で割り切れる数字でも同じ計算を続けると153に成ります。153とは、当時の地中海で知られていた「全ての魚の種類」を表わしているという説もあるのです。

3.《オプサリオン》 イエスの名前も「ヌン(魚)の子ヨシュア」、ギリシア語の「魚」は「イクテュス」で「イエス・キリスト、神の子、救い主」の暗号として使われました。ここで「イクテュス」は「大きな魚」と訳されています。イエスさまが炭火焼きにしているのが「オプサリオン/小さな魚」です。干物か何かでしょう。「何か食べ物はあるか?」と尋ねる主に、弟子たちは「ねぇよ!」と無情な返答でした。それなのに、イエスさまは弟子たちのために食事を準備して下さるのです。「153匹もの大きな魚/大漁」の「大きな物語」に目を奪われがちですが、真の奇跡は「小さな魚」にあったのです。

朝日研一朗牧師

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2017年04月10日

わたしがあなたを選んだ【ヨハネ15:11〜17】

聖句「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。…わたしがあなたがたを任命したのである。」(15:16)

1.《チャンネル》 ふと気付くと、リモコンを手にチャンネルを回し続けていることがあります。商品展示の仕方でも、商品が多過ぎると、お客は選ぶのを諦めて、何も買わずに出て行ってしまうそうです。選択肢が多過ぎると、却って迷いや思い煩いが増えるのです。人生、何をどう選択したところで挫折や不調が待ち構えています。その意味では「置かれた場所で咲きなさい」です。

2.《選ばれた私》 私自身も「牧師をやめよう」「クリスチャンやめたい」と血迷うことが何度もありました。取り返しのつかない失敗をしたり、自分の不甲斐無さに直面すると、信仰もガタガタです。しかし、「私があなたを選んだ」の御言葉に支えられています。「なぜ私などが?」との疑問が消えて無くなる訳ではありません。むしろ、それを自身への問い掛けとして、引き受けて生きるのが信仰生活ではないでしょうか。「選ぶ/エクレゴー」とは、適当な選択ではなく、イエスさまの一押しの「大抜擢」「引き抜き」なのです。

3.《接ぎ木の枝》 何のために「選ばれた」のかと言えば、「実を結ぶため」です。葡萄の枝は根や幹から離れた所に「出て行って」実を結んでいます。「紐付き」ではなく、私たちの自由意志や自主性が大切なのです。求められているのは「祈りの業」と「愛の業」です。新約聖書の言う「実り」とは、人に精神的道徳的な変化をもたらし、陰ながら人を支えることです。ラテン語の「選ばれた葡萄」は「接木用の葡萄の木」を意味します。私たち自身は背伸びしなくても、無理に善人に成らなくても良いのです。弱さを抱え、挫折に塗れた私たちを、主は「そこがいいんじゃない!」と御身に接ぎ木してくださるのです。

朝日研一朗牧師

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2017年04月03日

蛇のように、鳩のように【マタイ10:16〜23】

聖句「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(10:16)

1.《レミゼ》 ユーゴーの『レ・ミゼラブル』には、グランテールという学生が登場して「如何に白百合が鳩の悪口を叩くか」「狂信者は蛇よりも有害だ」と演説する場面があります。白百合はフランス王室の国璽ですが、蛇や鳩と共に聖書に所縁の深い象徴です。要するに「目糞、鼻糞を笑う」なのです。思えば、丹羽文雄の『蛇と鳩』も宗教の二面性を言い表わす題名だったのです。

2.《蛇と鳩》 文語訳では「蛇のように慧く」と訳されています。「物事の本質を見抜く心の鋭さ」です。実際、熱線暗視装置「ピット器官」を持ち、闇世の中でも獲物の位置や形状を正確に捉えることの出来る蛇もいるのです。赤外線情報と視覚情報とを統合できるのです。あらゆる生物の中で、鳩は色検知能力が最も優れているそうで、人間の「三原色」に対して「20原色」を持っているとされています。バッハとストラビンスキーを聴き分け、ピカソとモネを見分けた実験結果もあります。蛇が邪悪で狡猾、鳩が柔和で素直と、善悪の区別は必要ありません。どちらが優れているのでもありません。等価値なのです。

3.《狼と羊》 「蛇のように賢く」とは、暗闇の中でも獲物を捉える蛇の認識能力の高さです。「鳩のように素直に」とは、ワインを水で割らないストレートの意味です。いずれも現実認識です。もう1つ「羊のように」と言われています。羊は旧約聖書以来「信仰者」の象徴です。4つの動物は全て複数形で表現されています。社会という「大きな群れ」の中で、教会のような「小さな群れ」は如何にあるべきかと教えられているのかも知れません。私たちを取り巻く社会も「狼の群れ」のように残酷で、油断なりません。「狼の群れ」のような世の中ですが、主が羊飼いとして私たちを守り、導いて下さるのです。

朝日研一朗牧師

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2017年03月26日

裏切り者の名を受けて【マルコ3:13〜19】

聖句「…タダイ、熱心党のシモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。」(3:18,19)

1.《ジュード》 ビートルズの「ヘイ・ジュード」は、失意の友を励ます名曲ですが、クビショヴァにカバーされて「プラハの春」と「チェコ事件」を象徴する歌ともなりました。「ジュード」とは、英語の「ジューダス/ユダ」の愛称です。但し、英語圏では「裏切り者のユダ」を「ジューダス」、「ユダの手紙」の著者「主の兄弟ユダ」や十二使徒のユダを「ジュード」と使い分けています。

2.《他のユダ》 「ルカによる福音書」は十二使徒に別のユダ「ヤコブの子ユダ」を数えていますし、「ヨハネによる福音書」には「イスカリオテでない方のユダ」が出て来ます。彼は「タダイ」と同一視され「ユダ・タダイ」と呼ばれることもあります。余り印象のない弟子ですが、新約外典「アブガルスとイエスの往復書簡」によれば、主の復活後に、このユダがシリアのエデッサで最初の主教となるのです。同じユダでも「裏切り者のユダ」と「聖ユダ」とでは大違いです。聖書には、同じ名前の人物が数多く登場して、混乱を招く原因になっていますが、一緒にされて一番迷惑だったのは本人であったはずです。

3.《引き渡す》 同名の人が多かったので「このユダが…」と書いてあるのです。「イスカリオテのユダ」だけが、世の終わりまで「裏切り者の名を受けて」蔑まれる結果となってしまいました。他のユダたちと、何が違っていたのでしょう。「裏切る/パラディドーミ」の第一義は「引き渡す」です。「売り渡す、差し出す、放棄する」の意味もあります。私たちも自らの欲望に目が眩んだり、弱みを握られて脅されたり、誰かの歓心を買おうとして、大切な何かを引き渡してしまうことがあるのです。しかし、ユダは主の十字架しか知らず絶望しましたが、私たちは主の復活を知っているのです。そこに希望があります。

朝日研一朗牧師

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2017年03月20日

イエスから力は出て行った【ルカ6:17〜19】

聖句「群集は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。」(6:19)

1.《安産祈願》 難産に苦しむ妊婦に麻酔が初めて処方されたのは、1847年のスコットランドです。古代中世には、聖母マリアに祈るばかりでした。ローマ教会には「聖母マリアの無原罪の御宿り」という信仰があり、神の特別な恵みにより、マリアは原罪無く母の胎に宿ったとされているのです。それ故に、イエスさま出産の際にも痛みから解放されていたと言うのです。

2.《視点変換》 もし母マリアが「無痛分娩」だったとしたら、カトリック信者は、却って聖母に祈り甲斐がありません。私たちと同じ痛みを知っている御方だから執り成しを祈るのではないでしょうか。私たちが主イエスの御名を通して祈るのは、「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ」、私たちの痛みを知っていて下さるからです。ドイツロマン派の詩人、ノヴァーリスは「キリストも、その御母が限りなく悩み給うのを見なくてはならなかった。愛する者たちが悩んでいるのを見たら、どんな気持ちがするかを、キリストは知っていて下さる」と述べています。「聖母哀歌」とは異なる別の風景が立ち現われます。

3.《脱力感覚》 「平地の説教」の導入句に過ぎませんが、救いを求める民衆の余りに夥しい数に、イエスさまもお疲れになったろうと思うのです。勿論「イエスは全能の神の御子だからお疲れに等ならない」という意見もあるかも知れませんが、「力が出て行った」という句から、無感覚ではなかったと思うのです。私たちも脱力感や虚脱感に悩みます。主も同じように悩まれたはずです。十字架の責め苦が「痛くも痒くもない」はずはありません。同じく疲労困憊なさったはずです。私たちの疲れ果てた心と体と魂を、イエスさまは誰よりも御存知です。私たちを癒して下さるのも、主を措いて他にありません。

朝日研一朗牧師

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2017年03月13日

去り行くのは良いこと【ヨハネ16:4b〜15】

聖句「あなたがたの心は悲しみで満たされている。しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。」(16:6,7)

1.《被災者統計》 警察庁が発表する「東日本大震災」の死者行方不明者数も変動があります。震災直後は2万7千人でしたが、最新の発表では1万8千人に減っているのです。しかし、被害が少なくなった訳ではありません。犠牲者の一人一人に家族があり、家庭があったことを思うべきです。私たちは具体的に、自分の家族に置き換えて、その悲しみと衝撃と絶望を想像するべきなのです。

2.《関心喪失点》 数量が大きくなり過ぎても小さくなり過ぎても、人間は無感動になって関心を失ってしまうのです。何か「大き過ぎる数字」が出て来たら、意識して自分の生活感に置き換えて「初期化」することをお勧めします。福島県浜通りの復興帰還事業を見ていると、震災と原発事故によって引き裂かれた人たちが、更に引き裂かれているように感じます。「福音書」にも、十字架によって引き裂かれた人たちの証言が綴られています。「ヨハネによる福音書」のクライマックスは、14〜16章の「訣別説教」、17章の「訣別の祈り」です。イエスさまが去り行き、代わりに「弁護者」なる聖霊が弟子たちに来ると言うのです。

3.《聖霊の働き》 別離に当たって「あなたがたのためになる」と言うのが、千昌夫の「星影のワルツ」を思わせます。「…のためになる、益になる、に好都合」と訳されている「シュムフェロー/持ち寄る」は、自動詞になると「助ける、役に立つ」の意味です。心が悲しみで一杯だと言うのに、どうして弟子たちの役に立つ良いことがあるでしょうか。しかし、この悲しみの別離を体験することで、「弁護者、聖霊/パラクレートス」が与えられるのです。喪失の苦しみ悩みを知る者に「慰めるもの」が降って来るのです。この分断され、引き裂かれた苦しみに呻く世界を、結び合わせるのが「聖霊の働き」なのです。

朝日研一朗牧師

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2017年03月06日

イエスの死を身にまとって【Uコリント4:7〜15】

聖句「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」(4:10)

1.《聖書アプリ》 アプリケーション・ソフトウェア、所謂「アプリ」とは「応用ソフト」です。便利なアプリが様々流通していますが、「聖書アプリ」は41ヶ国113種類の言語の翻訳で聖書を閲覧することが出来ます。米国では、日曜礼拝の時間に「聖書アプリ」の使用頻度が高まるので、牧師の説教を聞きながら、会衆は手持ちのスマホやタブレット端末で見ているのでしょう。

2.《聖書讃美歌》 昔の信徒は皆、自分の聖書讃美歌を携えて、礼拝に集ったものです。1970年代の後半に成ると、教会が「置き聖書、置き讃美歌」を認めるようになりました。近年は「マイ聖書、マイ讃美歌」への思いも薄れ、専ら教会備え付けの聖書讃美歌を使用しています。教会に手ぶらで来る便利な時代に成ったのです。しかし、昔の信徒たちが「マイ聖書、マイ讃美歌」にお手製のブックカバーを被せて大切に使っていたこと、大切なカードを栞に使っていたこと、その折々の書き込みがあったことを思い出します。まさしく、その人自身の教会生活、人生そのものが染み付いた愛用の品物だったのです。

3.《肌身離さず》 「イエスの死を身に負う」と訳すと「苦役」の印象があり、「身に帯びて」と訳すと「名誉」の印象があります。それに比べると「身にまとって」は軽やかです。さすがは「バブル時代」の翻訳です。原典の「ペリフェロー」は「持って回る」です。「身に負う」は気負い過ぎ、「使命を帯びて」来られるとウザったい印象があります。そう考えると「身にまとう」も悪くはありません。但し、持って回るのは「イエスの死」です。観念としての「死/サナトス」ではなく、「死に行く様、殺害/ネクローシス」です。パウロは自身が死に直面する度に、イエスさまとの間に苦難の共同体を見出したのです。

朝日研一朗牧師

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2017年02月27日

風は思いのままに吹く【ヨハネ3:1〜15】

聖句「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もそのとおりである。」(3:8)

1.《風に吹かれて》 ボブ・ディランの「風に吹かれて/Blowin’ in the Wind」の歌詞は「どれだけ何々すれば、何々なのか?」という反語法で綴られています。最も単純な用法では「こんな事が許されて良いのか?」−「許されない!」という応答になりますから、結果的に60〜70年代には、プロテストソング(政治的抗議の歌)と受け止められていました。

2.《助けてくれる》 「その答えは風の中にある」とリフレイン、あるいは「折角、地上に降りて来ても、殆どの人は見ようとも知ろうともしない」との本人のコメントから、「聖霊」を暗示していると思います。「ヨハネによる福音書」では「聖霊」は「パラクレートス」と言われています。「新共同訳」では「弁護者」、「協会訳」や「新改訳」では「助け主」、正教会では「慰むる者」と言います。「弁護者」は「弁護士」みたい、「ヌシヌシ」と言うのも「牢名主」みたいです。「助けてくれる人、慰めてくれる人、励ましてくれる人」は、教会にも私たちの身の周りにも大勢います。それが「聖霊の働き」なのです。

3.《聖霊を信じる》 ニコデモはファリサイ派の教師であり、最高法院の議員でありながら、イエスさまを神の遣わした教師として慕い続けた人物です。夜に訪ねて来る場面設定は「奥義の伝授」のためです。弟子たちに先立って「聖霊の秘密」を教わるのです。聖霊は目に見えず、私たちの思いを超えた存在なので、ニコデモにも理解できません。しかし、理解する必要など無いのです。産まれた時に、私たちが「どこから来て、どこへ行くかを知らない」のと同じです。けれども、分からないなりに「霊から生まれた者」は、神さまを信じるのです。丁度   赤ん坊がお母さんを信じているのと同じです。

朝日研一朗牧師

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2017年02月20日

知恵に満ちた言葉【マタイ15:21〜28】

聖句「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」(15:27)

1.《絵文字》 先日、上野の国立科学博物館で開催された「世界遺産ラスコー展」を見に行きました。約2万年前にクロマニヨン人が洞窟に描いた絵と絵文字が再現されて展示されていました。絵文字もまた文字だとすれば…。

2.《あなたの義務》 文字と言葉には、さまざまな意味が込められています。弟子たちは、追いすがるカナンの女性を追い払うために「願いを聞いてください」とイエスに願います。「イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とイエスの拒否の弁。それでも彼女は助けを求めます。この「助ける」は「助けを求める人の所に駆けつける」という意味があります。すると、「助けてください」には「主ならば家に来て娘を診てくださることは当然です」を意味することになります。「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」と、イエスは「パン」を分離のために用いますが、「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と彼女。ユダヤ人に居住地を奪われた子孫のカナン人の女性は、加害者の側に立つイエスに、娘のために「扉を開けて欲しい」と、彼の前に立ちふさがった。イエスは彼女の信仰をたたえ、娘は癒されます。

3.《人を生かすパン》 「イエスは全ての人の主である」という、この女性の信頼は、福音は全ての人に開かれ、人を生かすパンは全ての人をつなぐものであることを示しています。上野の京成電車の看板の下に、金色のアヒルが羽ばたこうとする像があります。台座に「羽のあるいいわけほどはあひる飛ぶ」と刻まれています。この女性の信仰に励まされ、「信仰ある身のいいわけほどは我イエスに向かい飛ばん」と願います。

外谷悦夫牧師(市川三本松教会)

posted by 行人坂教会 at 19:47 | 毎週の講壇から