2019年01月14日

終末のドレスコード【マタイ22:1〜14】

聖句「婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。」(22:11,12)

1.《晴れ着の礼拝》 英米には「サンデーベスト」という語があります。日曜日に自分なりの最上の装いをして礼拝に行くのです。毎日が「晴れ着状態」の貴族や金持ちは論外。週日は労働に汗を流している人たちならではの習慣です。宗教改革後の教会が「市民の教会」へと大きく舵を切った結果です。米国移民にとっては、民族や教派のアイデンティティを表現することでもあったのです。

2.《普段着の礼拝》 現代の教会は、むしろ週日と同じ「カジュアル派」です。牧師も特別な儀式にしかガウンを着用しません。ジュネーヴ・ガウンは、その名の通り、カトリックの神父の黒服キャソックに対抗して、長老派が作ったものです。聖公会やメソジスト、ルーテル等はキャソックの詰襟の部分だけを使うことで、牧師であることを示しています。私の友人は、牧師も信徒の1人でありたい、礼拝も日常生活と地続きでありたいと考えて「普段着の礼拝」を続けています。彼自身が鬱病を発症して、指導者のポーズに疲れ果てたというのが発端でした。

3.《婚礼服の着用》 婚宴に招かれていながら出席を拒否して、王を王とも思わぬ乱暴狼藉の故に滅ぼされる客は、旧約の民を表わします。次に、王は家来に命じて大通りから「悪人でも善人でも」婚宴に連れて来させるのです。これは新約の民である教会を意味します。人間的な価値基準や判断材料ではないのです。教会もまた、終末に裁かれなくてはなりません。「礼服/婚礼の服」は、招待客の全員に入り口で手渡される法被のような上着です。無条件の恵みです。イエスさまの御蔭で、私も神の子とされているとの信仰です。これを自分から脱いだり、軽んじたりしない限り、神は私たちを見捨てられません。

朝日研一朗牧師

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2019年01月07日

神さまの宝物【申命記7:6〜8】

聖句「あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。…ただ、あなたに対する主の愛のゆえに…」(7:6,8)

1.《七福神と宝船》 新年の寺も「七福神」詣でに参る人で賑わいます。しかし本来は、除夜に際して、船の絵を床に敷いて眠り、翌朝、川に流して穢れを祓う儀式でした。「宝船」に乗った「七福神」は、私たちの願う「幸福」が「宝」(個人的な富の集約、経済的成功)であるという告白です。誰でも自らの幸福を追求する権利がありますが、もう少し社会全体の幸せを願うべきです。

2.《主なる神の宝》 他の翻訳聖書が「選ばれた民」と訳している中、日本語訳聖書は、伝統的に「宝の民」という直訳的表現を大切にして来ました。何を「宝」とするか、聖書の「価値観」の表明として重視しているのです。神さまが「所有」なさったことによる「付加価値」なのです。パウロの「コリントの信徒への手紙T」1章の召命観(選びの不思議)にも通じますが、「申命記」には「主の愛の故に」と強調されています。「宝」とは「愛」のことなのです。イエスさまも「あなたの宝のある所に、あなたの心もある」と仰っています。

3.《宝を守る闘い》 ドイツの中西部にビーレフェルトという町があり、その中心に、障碍の有無に関わりなく、何の隔てもなく、人々が共生する「ベーテル」という共同体があります。19世紀後半に、ボーデルシュヴィンクという牧師が呼び掛けて始まり、百年以上を掛けて街創りをしています。ナチスの障碍者抹殺部隊が来た時にも、街の人たちが「ここにいる人たちは、私たちの宝です。神の宝です」と、身を挺して守り切ったのです。神と格闘して障碍者に成ったヤコブは「イスラエル/神と闘う」の名前を授かりました。「宝」を守るために、真の宝が何であるか証しするために、神は闘い給うのです。

朝日研一朗牧師

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2018年12月31日

主の恵みの年と告白しよう【イザヤ 61:1〜4】

聖句「主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め…」(61:2)

1.《改元の年》 天皇の代替わりに伴い、2019年4月末日をもって元号が変えられます。明治天皇崩御の際に乃木希典夫妻が殉死したのは有名ですが、昭和天皇崩御の際にも全国で約10人が殉死しています。私たちが使っている年号は、私たちの時を支配するのは誰なのかという表明、謂わば信仰告白なのです。従って天皇崩御に際して殉死するのは、ごく真っ当なことなのです。

2.《紀元と暦》 イスラームはマディーナ遷都を紀元とする「ヒジュラ」、ユダヤ教徒は天地創造を紀元とする「ハルアハーイブリ」、仏教徒は「仏滅紀元」という暦を使っています。北朝鮮では全日成の誕生日を紀元とする「主体暦」を使っていて、私たちから見ると如何にも滑稽ですが、日本の皇国史観も神武天皇の即位を紀元とする「皇紀」を使っています。キリスト者は公式には元号を使いません。「西暦」と言われるのは「キリスト暦」です。実際の御降誕とは数年の誤差が生じているようですが、クリスマスを12月24〜25日にお祝いするのと同様に、教会暦として用いる分には、何の問題もありません。

3.《恵みの年》 「ルカによる福音書」4章のイエスさまの「公生涯」の始まりとして「イザヤ書」の預言が引用されています。この「主の恵みの年」という語から「紀元後」を意味する「AD/Anno Domini」が生まれました。「恵み」という語は「七十人訳」において付け加えられました。敵に対する「復讐」を思わす語も「七十人訳」の段階で「悲しむ者たちに主が報いられる」と読み替えられています。キリスト者は旧約聖書を、そのまま鵜呑みにするべきではありません。主の御言葉である聖書は生きていて、イエス・キリストの出現と宣教によって、全ての人への福音へと作り変えられているのです。

朝日研一朗牧師

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2018年12月24日

わたしのこころのほし【フィリピ2:12〜18】

聖句「よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き…」(2:15)

1.《ページェント》 教会附属の幼稚園保育園では、園児たちが「降誕劇」を開催する季節です。しかし本来、ページェントとは聖人祝祭日の山車や神輿の意味でした。街中を練り歩いて、礼拝堂に導くのです。「野外劇」の含みもあります。教会の降誕劇でも、役の取り合いや押し付け合いもあって社会の縮図を思わせます。必ず一人一役を担うのも、裏方が必要なのも社会の隠喩です。

2.《星の光は心に》 ジョセフ・スレート作、フェリシア・ボンド画の絵本『やまあらしぼうやのクリスマス』は、降誕劇の悲喜こもごもを描いた名作です。動物の子どもたちの降誕劇に、ヤマアラシ坊やも出ようとしますが、その棘の故に他の出演者から嫌がられて、役も付かず、裏方と掃除役に甘んじます。しかし当日、幕が上がってみると、樅の木の天辺にベツレヘムの星がありません。観客も出演者も動揺する中、ヤマアラシ坊やが樅の木に登って、自らの体を使って星を演じたのでした。それを見たお母さんヤマアラシは「私の心の星」と、そっと呟いたのでした。皆から嫌われたトゲトゲが美しく光り輝いたのです。

3.《星を動かす心》 ヤマアラシ坊やにお母さんは「あなたは私の心の光」と繰り返し呼び掛けます。この慰めと励ましとが子どもたちに生きる力を与え、その人生を支えるのです。「星のように輝き」は有名な聖句ですが、ギリシア語原典では「星々/アステロス」とは言わず「フォーステロス/光るもの」と言います。しかも、イエスさまが「私は世の光」と仰った「フォース/光」そのものではありません。松田明三郎牧師の詩に、星を動かす裏方の役を務める少女が描かれています。ただ、お母さんだけが誰が星を動かしているのか知って、そこに少女の喜びがあったと言います。あなたの事は神が御存知です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:52 | 毎週の講壇から

2018年12月17日

摩訶不思議アドベンチャー【マタイ2:1〜12】

聖句「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(2:2)

1.《西方への旅》 『西遊記』は唐代の僧侶、玄奘三蔵が6万キロに及ぶ旅をして仏教の経典を持ち帰った史実が基に成っています。「西域への旅」と言ったら「占星術の学者たち」も同じです。東方(メディア、ペルシア、パルティア、バクトリアまでを含む)からユダヤまで往復4千キロです。玄奘三蔵には及びませんが、大変な苦難の旅であったろうことは想像に難くありません。

2.《時間の経過》 16世紀の天文学者ケプラーは、惑星運動の立場からキリスト降誕を紀元前7年と特定しました。キリスト降誕日については、最近では、英国のデイヴィッド・ヒューズ説(紀元前7年9月15日)、米国のマイケル・モルナー説(紀元前6年4月17日)等もあります。モルナー説で感心したのは、その距離と時間感覚です。博士たちが東方で星を見たのが4月、ペルシアから旅に出発したのが9月、御子のもとに辿り着いたのが12月だと言います。イエスさまは既に生後8ヶ月、離乳食を食べてハイハイをしています。博士たちは3ヶ月も掛けて旅をした末に、漸くキリストに相見えたのです。

3.《冒険が準備》 降誕日が何日に成ろうと、私たちが教会暦に従ってクリスマスをお祝いすることに変わりありません。大切なのは「キリストを礼拝すること=クリスマス」だからです。「アドベント」はラテン語の「アドウェントゥス/到来」です。「待つ」ことは副次的なことです。むしろ、私たちに求められているのは「冒険/アドベンチャー」かも知れません。欧米には「make a difference/違いをもたらす、世の中を変える」ために、この季節に何か1つ新しい試みをする習慣があります。神さまは、愛する独り子を世に送るという大変な冒険を為さったのです。私たちも小さな愛の冒険をしましょう。

朝日研一朗牧師

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2018年12月10日

賢い女子たちのともし火【マタイ 25:1〜13】

聖句「賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。」(25:4)

1.《ある夜の物語》 SF作家、星新一のショートショートです。クリスマスイヴに「何でも願いを叶えて上げよう」と、サンタクロースが現われますが、孤独な青年も病気の女の子も、貪欲な金貸しも社会転覆を企むテロリストも、誰かが自分のことを思ってくれていたと気付いて、権利を譲って行くのです。そして何も貰わないのに、満足や喜びや幸せに溢れて行くという寓話です。

2.《賢者の贈り物》 O・ヘンリーの有名な短編では、若夫婦が自分の宝物を売ってプレゼントを購入しますが、無益な品物となります。その結果だけを見れば、愚かしく思われますが、この愛情の交換こそが、本当の「賢さ」なのだと作者は言います。「賢者」とは「マギ」、キリスト降誕を知って、東方から訪ねて来た占星術の学者たちのことです。メディア(現在のイラン北西部)の部族の中で、天文と魔術に通じた階級と言われています。つまり、本当の「賢さ」とは何なのかという、作者の問い掛けは、聖書のメッセージから来ているのです。

3.《ともし火の油》 迎えに来る「花婿」は再臨のキリスト、「十人の乙女」は信者、「婚宴」は天国です。だから「目を覚まして」「怠り無く準備して励めよ」と教えられて来ましたが、一番大切なのは「壺の中の油」を切らさないことです。「油/エライオン」は「憐れみ/エレオス」に通じますから、「愛の油、愛のともし火」なのです。「賢い」は頭の回転の速さや要領の良さ、利口さではなく「思慮深い」こと、他者のことを慮る愛の心なのです。「目覚めている」人とは、自分は愛されていて、自分もまた、誰かのために何事か出来ると感じている人のことです。「愚かな乙女」も「賢い乙女」も私たち自身の姿です。

朝日研一朗牧師

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2018年12月03日

君はひとりじゃない【マタイ1:18〜25】

聖句「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(1:23)

1.《トラブル続き》 世の中のクリスマスのお祝いモードと間逆で、聖書の中のクリスマスは、悩み苦しむ人たちの姿を描いています。受胎告知を受けたマリアも、許婚の妊娠を知ったヨセフも悩みますし、受け入れた後もトラブル続き。身重でベツレヘムまで旅をして、泊まる宿無く、漸く出産したら「避難しろ」と言われる始末です。「選りにも選って、こんな時に!」という事件の連続です。

2.《二人の修羅場》 新約外典「ヤコブ原福音書」によると、マリアは老人の男寡ヨセフに引き取られた時には12歳、受胎告知の時には16歳だったとされています。妊娠6ヶ月でお腹の膨らんだマリアに、ヨセフはショックを受けて悶え苦しみます。ヨセフは詰問し、マリアは「私にも分からない!」と泣きながら反論します。正典では、マリアもヨセフに独りで苦悩する姿が、それぞれに描かれています。しかるに「ヤコブ原福音書」では、当事者である二人が真正面から衝突する、ドロドロした修羅場が描かれているのです。

3.《インマヌエル》 修羅場を描けばドラマチックですが、繰り返し読み返すと陳腐に感じられるようになります。毎年読み直していても、正典の描く二人の苦悩が陳腐に感じられないのはドラマ性を追求しないで、苦悩の本質である孤独を浮き彫りにしているからに違いありません。ヨセフには「正しい」「憐れみ深い」人だからこその苦悩があります。罪を犯した人ですら苦しみます。しかし、何の罪も犯していないのに苦しむ、不条理に耐えているのです。しかも自己憐憫ではなく、マリアを思って苦しんでいるのです。そんなヨセフに、神さまは「インマヌエル/君はひとりじゃない」と告げられたのです。

朝日研一朗牧師

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2018年11月26日

どんな果実にも種がある【マルコ4:26〜29】

聖句「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」(4:26,27)

1.《食物リレー》 私たちの食べている物は自然からの恵みです。それを収穫するために働いている農業者、漁業者、生産者があり、それを運ぶ人、売る人、料理する人の手を経て、初めて私たちの口に入るのです。後片付けをする人もいます。丁度、人から人へとバトンや襷を繋ぐリレーのようです。自然界に食物連鎖があるように、人間の社会にもリレーがあるのです。

2.《バナナの皮》 バナナを皮ごと食べる人はいません。しかし、中の白い部分も「実」ではありません。「外果皮」に対して「内果皮」と言います。私たちはバナナの皮を食べているのです。イチゴの赤い部分も「実」ではありません。茎の先端に果肉が付いているのです。ミカンも中身に至っては毛なのです。房から細胞の毛が生えて来て、袋の中で成長し、甘い汁が溜まったのです。その名残が白い筋のような繊維質「アルベド」です。食用に品種改良され退化していますが、これらの果物の中にも、かつては種があったのです。

3.《見えない種》 マジシャンが「種も仕掛けもありません」と口上を述べますが、本当は仕掛け(トリック)があるのです。但し、それは種のように小さくて観客が気づくことが出来ないのです。イエスさまの譬え話の農夫も自分で種を蒔いて置きながら、どうして成長して行くのか分からないのです。奈良県の社会福祉施設「たんぽぽの家」で入所者が思い思いのアートを作っています。「エイブル・アート/可能性の芸術」と言うのだそうです。障碍者は「出来ない人」ではなく、何事か「出来る人」なのであり、彼らの創造にこそ、むしろ社会の在り方や仕組みを変えて行く「種」が隠されているのです。

朝日研一朗牧師

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2018年11月19日

この子を受け入れる人が…【マルコ10:13〜16】

聖句「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(10:15)

1.《目的と手段》 最近「ユニセフ・マンスリー・サポート・プログラム」の広告がメディアを使って大々的に行なわれています。テレビやDMは勿論、山手線の車両を使った宣伝もありました。広報の必要性は理解できますが、現場での活動と広告との乖離を感じさせられます。目的と手段の一致は、私が福音から教えられた真理です。目的が愛であるなら、手段もまた愛でなくてはなりません。

2.《子の立会人》 一行が町に入ると、人々がイエスさまに「触れて」頂くために、子どもたちを「連れて来」ました。主は子どもを「抱き」「手を置き」「祝福」されました。まるで保育学の教科書のようです。子どもが成長するのに必要なことばかりです。触れること、抱くこと、「連れて来る」は「外に出す」(外遊び!)、「祝福する」は「誉める」(誉めて伸ばす!)です。「手を置く」は聖別の祈りですが、任務の委託の意味があります。親の願いではなく、神さまが与えられた使命を全う出来るように祈るのです。大人は子どもの人生の立会人なのです。

3.《子供と貧困》 貧困と言っても、衣食住に窮する「絶対的貧困」と、経済的な理由で人生の可能性が損なわれる「相対的貧困」があります。紀元1世紀のパレスチナでは、ヘロデ王家の失政による財政破綻、領土の分割、ローマの支配に加えて、自然災害と飢饉もあり、絶対的な貧困層(プトーコス)に溢れていました。「縮こまる、蹲る」という語源が極貧の状態を表わしています。町の人たちは「養いの奇跡」で評判のイエスさまの来訪に、子どもたちを押し付けようとしたのです。だから弟子たちは叱ったのです。シュテーゲマンは「1人の子どもを受け入れる人が神の国に入る」という解釈を提案しています。

朝日研一朗牧師

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2018年11月12日

神に知られている私【ガラテヤ4:8〜11】

聖句「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに…」(4:9)

1.《自分を知る》 自分を知るということは、そんなに簡単なものではありません。私たちは、自分の性格をある程度知ることも出来ますが、多くの場合、自己理解に基づいており、自己理解を形成してきた過去に溯るもので、絶対的なものではないと言えます。そもそも自分は何者か、ということを知ることが問題です。

2.《自己と他者》 宗教改革者のカルヴァンは『キリスト教綱要』の冒頭に、人生で最も大切なことは、神を知ることと、自分を知ることであって、この二つは結び合っている、と言いました。でも、私たちは普通、自己について無自覚に生きて、自分の業績や生き方に満足している、とも言っています。キルケゴールは、自己とは関係であって、それ自身が関係に関係する関係である、と言っていました。自己は、相矛盾する二つの要素から成っていて、この二つの関係に関係するのが自己ですが、そのように定めた他者が更にいて、この他者との関係が壊れているために、二つの要素も調和せず、自己に成ろうと絶望的な病に陥っている、と言いました。しかも、多くの場合、それを忘れて生きているのです。

3.《十字架の姿》 聖書は、神を知ることは「十字架につけられたイエス・キリスト」をはっきりと見る、その福音を聞くことである、と述べています。十字架のキリストは、私たちの姿をはっきりと目の前に描いて見せてくれます。これは神に呪われた人間の姿である、とも言っています。それだけではなく、これは神に受け入れられ、愛されている人間の姿でもあります。私たちは、この姿のうちに、私たちの惨めな姿を見ると同時に、それが神に知られ、受け入れられ、愛されていることをも見るのです。ここで私たちは、神を知ることと、自分を知ることの、二つのことを、しっかりと見出すのです。

渡部 満(銀座教文館代表取締役社長)

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