2018年04月30日

あなたがたの手で食べ物を【マルコ6:30〜44】

聖句「これに対してイエスは、『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』とお答えになった。」(6:37)

1.《主の復活メシ》 『サラメシ』『地球メシ』『ダンジョン飯』『女くどき飯』と「何とか飯」が流行です。個人的には『侠飯』を推薦します。「食べることは生きることだ」と思わされます。イエスさまは復活の後、弟子たちと食卓を囲んだり、自ら食事の用意をしたり、時には「何か食べ物はないか」と所望されたりします。まさしく、これこそは「復活飯」と言うべきでしょう。

2.《天国の大宴会》 「飲食」と言うように食べるに飲むは付きものです。イエスさまも葡萄酒の水割り飲料を飲んだはずですが、「最後の晩餐」の際に「神の国で新たに飲む日まで、葡萄の実から作った物は飲まない」と宣言された手前、それ以後、何も飲まれません。「ワイン断ち宣言」の無い「ヨハネによる福音書」だけは、十字架上で「酸い葡萄酒」を飲むのです。主の「ワイン断ち宣言」は「共観福音書」が「イザヤ書」25章6節の預言「終末の祝宴」の預言を受け継いだからです。実際には復活の主は飲み食いされたはずです。宴会のような非日常もあるのでしょうが、復活の御姿は日常の食事にこそあるのです。

3.《日常の暮らし》 「五千人の養い」の記事を読むと、私たちは、5千人、1万人もの人に給食する、イエスさまの奇跡の大きさに目を奪われがちです。しかし、数の多さではなく、主の御心に目を向けるべきです。「荒れ野」まで付いて来る群衆の寄る辺無さに、主は胸を痛めて「何か食べ物を」と仰るのです。弟子たちは「2百デナリオンの経費」を計算してしまいます。それに対して「与えよ/彼らに/あなたがたが/食べることを」を告げられたのです。主の御心は単純です。目の前にお腹を空かしている人がいれば食べ物を分かち合う。その人と共にいる。それこそが愛の本質であり、愛の業だと思います。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:57 | 毎週の講壇から

2018年04月23日

箱舟の行方【創世記6:9〜22】

聖句「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。」(6:11,12)

1.《沈みゆく箱舟》 最近では動物園や水族館が「ノアの箱舟」としての使命を主張するようになりました。生物種の精子や卵子、DNAを保存する「冷凍動物園」もあります。現在、1年間に4万種もの生き物が絶滅しています。この40年で「種の絶滅速度」が急速化したのです。環境学者、ノーマン・マイヤーズはこの状況を予見して「沈みゆく箱舟」に私たちは乗っていると言いました。

2.《もののあはれ》 日本的な感受性なのでしょうか、私は「洪水物語」を読むと「平家物語」の「壇ノ浦」(安徳天皇入水)を思い出すのです。滅び行く者たちに思いが向かうのです。SF作家のケン・リュウは、小惑星の衝突で地球が消滅する直前に、宇宙船に乗り組んで「最後の日本人」となった青年を描いています。その彼も宇宙船の船外修理に自らの命を捧げて、彼の死と共に、日本文化も日本語も、日本的感性と悟性も失われます。しかし、彼は宇宙船を未来に送り出したのです。かつて日本人の両親が自分たちは乗船せずに、彼だけを宇宙船に乗せて送り出したように…。箱舟に乗らずに、箱舟を見送った人たち、送り出した人たち、動物や植物がいたのではないでしょうか。

3.《箱舟を去る日》 勧善懲悪のハリウッド映画では、箱舟に乗れなかった人たちは全て「極悪人」のように描かれますが、本当でしょうか。「堕落」と訳されているのは「壊す」、神の秩序の破壊です。「不法」は「暴力」です。破壊と暴力によって犠牲になっている人たち、動植物もいたのです。箱舟の生活も互いに譲り合わなければ生き延びられない窮屈さに、震災後の公民館や体育館が思い出されます。「箱舟」とは「箱/テーバー」です。私たちは限りある命、儚い存在なのです。だから互いを大切にしなければならないのです。「箱」から出る未来に、私たちが主の描く虹を見ることを展望しているでしょうか。

朝日研一朗牧師

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2018年04月16日

朝の食事をしなさい【ヨハネ 21:1〜14】

聖句「イエスは、『さあ、来て、朝の食事をしなさい』と言われた。弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。」(21:12)

1.《食文化の変容》 数年前、朝食を摂らない子どもたちの実態が明らかになり、官民挙げての「朝食キャンペーン」がなされました。しかし、1日3食は近代に生まれた文化です。元禄時代までは朝夕の2食が普通、農民は以後も1日2食でした。先進の欧米でも2百年前まで昼夕の2食が普通でした。1日3食の背景には、各国とも技術革新と産業界の思惑があったのです。

2.《招かれた食事》 復活のイエスさまが弟子たちを「朝の食事をしなさい」と招かれました。「アリスタオー/朝の食事をする」という動詞の存在に驚きます。健啖家の古代ローマ人は1日4食、その「遅い朝食」に当たるのが「アリストン」とされています。古代ギリシア人は1日3食、古代ユダヤ人は1日2食、彼らの「遅めの朝食」は殆どランチタイムでした。事実「ルカによる福音書」14章12節では「アリストン」が「昼食」と訳されています。朝か昼かの時間帯よりも、イエスさまが正式に招待され、その招きに応えて、弟子たちが共に会食した「正餐」であることが一番大切なことなのです。

3.《主に赦されて》 日本社会には「接待」文化があり、業務時間外に取引相手の社員を招待して会食をします。接待では、嫌いな人であっても、上辺だけ取り繕って飲食を共にします。しかし、ユダヤ人は、嫌いな人、許すことの出来ない人とは決して食事をしません。だからこそ、イエスさまが徴税人や罪人と食事をしているのを見て、ファリサイ派が不快感を表明するのです。共に食事をすることは、イエスさまが罪を赦されている何よりの証明です。しかも、主の赦しの恩寵に、弟子たちが気付いて、それを受け取って初めて、赦しは成立するのです。それが主の「ブレックファスト・クラブ」だったのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:54 | 毎週の講壇から

2018年04月09日

それでも、平和があるように【ヨハネ20:19〜23】

聖句「弟子たちはユダヤ人を恐れて、…家の戸に鍵をかけていた。そこへイエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」(20:19)

1.《ヤムニア会議》 第一次ユダヤ戦争から20年後、紀元90年代に、ファリサイ派がヤムニア(ヤブネ)で宗教会議を開きました。そこでヘブライ語聖書のみを正典とすること、クリスチャンをユダヤ会堂から追放することが決定されました。その影響を受けて「ヨハネによる福音書」は書かれたのです。私たちの信仰が「異端」の烙印を受けることから出発した事実を忘れてはなりません。

2.《恐怖を認める》 「ユダヤ人を恐れて」は「ヨハネ福音書」のキーワードです。「フォボス/恐怖」の語から「恐怖症/フォビア」の用語が生まれました。この場合なら「ユダヤ人恐怖症」です。イエスさまに敵対する者たちは十把一絡げに「ユダヤ人」と括る「ヨハネ」が、9〜10章でのみ「ファリサイ派」と言います。主に癒された盲人を会堂から追放する場面です。「ポボス」は敵前逃亡、臆病風を吹かせる神です。恐怖や不安や嫌悪を否定してはなりません。力で捻じ伏せようとすると、却って大きくなります。自分の中に棲む嫌悪に気付き、その恐怖と向き合うことなしには、それを乗り越えることは出来ないのです。

3.《罪を赦す権威》 マグダラのマリアが復活の知らせを告げても、弟子たちは恐怖の中に打ち沈んでいます。ゾンビ化したイエスさまが復讐に来ると思っていたのです。しかし、彼らの閉ざした戸の鍵も心の殻も何のその、主は真ん中に立って「あなたがたに平和を」と祝福されます。主が共に居られることが本当の平和なのです。「弟子たちは、主を見て喜んだ」のです。主を真ん中に喜ぶこと、これが真の福音です。イエスさまは、人を罪に定めたり、人を裁いて滅ぼしたりする権威ではなく、人の罪を赦す権威を、弟子たちにお授けになりました。「ヤムニア会議」を乗り越えて、福音が世界に伝えられるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:53 | 毎週の講壇から

2018年04月02日

ハートに火をつけて【ルカ24:13〜35】

聖句「二人は、『道で話しておられる時、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」(24:32)

1.《女性たちの証言》 十字架の時も留まっていた弟子たちが、エルサレムを後にしてエマオを目指して歩いています。仲間の女性たちの証言(空っぽの墓、天使の御告げ)に愛想が尽きたのです。当時、女性の証言などは法的信頼性を認められてはいませんでした。女性の証言は虚言と見られたのです。しかし福音書では、主の復活の最初の証人は女性たちであることが強調されています。

2.《聖書が心を開く》 証言の正当性を示すために「エマオ途上」の弟子は男性2名なのです。女性たちの証言を認めなかった彼らに、復活の主が顕われて「この馬鹿」「心が鈍い」と叱り付けるのです。ヘブル語でもギリシア語でも「心」は思考の座です。そこで弟子たちは目覚めるのですが、その契機と成っているのがイエスさまと共に食事をする「愛餐/アガペー」です。主の愛によって彼らの目は開かれます。もう1つは「聖書を開いていた」時です。彼らの思い込みとは異なる、別のイエスさまの御姿、別の聖書の読み方、捉え方に気付いた時、新しい気付きが与えられ、彼らの「心は燃えていた」のです。

3.《心に小さな種火》 ロケット発射のカウントダウンで「イグニション/点火」という語が使われます。これは「点火の物語」なのです。「心が燃えている」と言うと、私たちは熱狂的なクリスチャンの姿を想像しますが、心は感情の宿る場所ではなく、思考の宿る場所です。「理性は、神が魂に点火した光なり」(アリストテレス)です。轟々と燃え盛る炎ではなく、ランプやキャンドルの灯火、炭火や熾き火、種火のイメージです。その炎は人や家、暮らしを焼いたりしません。闇の世界を一瞬にして明るくしたりしません。私たち自身の闇を照らし、足元を照らし、一隅を照らす奥床しい小さな光なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:53 | 毎週の講壇から

2018年03月26日

麦粒が地に落ちる時【ヨハネ12:20〜26】

聖句「人の子が栄光を受ける時が来た。…一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(12:23,24)

1.《何かの合図》 イエスさまのエルサレム入城を、群衆がナツメヤシの葉を振って歓迎した日です。群衆は「ホサナ」と歓呼しました。「ホサナ」は「詩編」118編25節の「今、救い給え」に由来する祭りの掛け声です。「救い」を意味するイエスさまの名前ともリンクしています。初代教会では挨拶として使われました。単なる挨拶にも、自らが何者であるかを確認する徴、合図があるのです。

2.《訣別の宣言》 入城後、ギリシア人がイエスさまへの面会を問い合わせて来ました。ユダヤ人が異邦人と接することを避ける時代状況にしても、随分と遠回しな交渉をしています。しかも、その後、主が彼らと面会して話したのかどうかすら記されていなくて、とても奇異な印象を受けます。この件を耳にしたイエスさまは「時が来た」と宣言されます。これまで「私の時は未だ来ていません」と仰っていたのです。つまり、ベタニアで香油を注がれて「メシア」、「ホサナ」の歓呼によって十字架の贖い、この訪問によって異邦人の救いと、主の目的が明確にされるのです。これは、神さまからイエスさまへの合図だったのです。

3.《自分に死ぬ》 日本では「死んで花実が咲くものか」「命あっての物種」と言います。ところが、イエスさまは「麦は死んでこそ実る」と仰るのです。「死ぬ/アポトネースコー」は「枯死」を意味します。麦本体は枯死するのですが、蒔かれた種は生きているのです。麦粒が蒔かれて発芽し、育って行くためには、それ相応の時間が掛かるのです。私たちはインスタントに慣れ、信仰を舐め切っていて、レンジで1分温めればキリスト者が出来ると思い込んでいます。自分が収穫を味わうことを期待するのです。けれども、本当にイエスさまにお仕えするクリスチャンに成るのは、私たちの一生涯の課題なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:54 | 毎週の講壇から

2018年03月19日

それは私のことだ【ヨハネ9:1〜12】

聖句「『その人だ』と言う者もいれば、『いや違う。似ているだけだ』と言う者もいた。本人は、『わたしがそうなのです』と言った。」(9:9)

1.《黒人のイエス》 私たちは、欧米の聖画や映画の影響で、金髪碧眼のキリストに違和感を抱きません。しかし、米国の黒人たちにとっては、イエスさまは黒人なのです。インマヌエルの主、苦難の時にも共に居られる主は、彼らの友であり兄弟だからです。他方、ナチスが、アーリア人種にして反ユダヤ主義者のイエスを喧伝したことも忘れてはなりません。キリスト信仰を、民族差別や他者への憎悪を煽る道具に利用してはならないのです。

2.《インマヌエル》 小友睦牧師が「イエス自身、体のどこかに障碍を持っていた。あるいは、障碍を持っていた家族がいた。そうでなければ『神の業がこの人に現われるためである』と言うことは出来なかった」と書いて居られました。どうして私たちの思い描くイエスさまは、いつも「健常者」の御姿なのでしょう。勿論、歴史上のイエスという男は黒人ではなくユダヤ人だし、特に目立った身体障碍を抱えてはいなかったでしょう。しかし、インマヌエルのキリストは障碍者であったかも知れません。十字架に磔にされたイエスさまは、もはや身体の自由を全て奪われました。それが故に、彼は紛れも無き神の子なのです。

3.《マニフェスト》 『七人の侍』の菊千代が、野武士に家族を皆殺しにされた乳飲み子を抱いて「これは…俺だ!」と叫ぶ場面があります。主に癒された盲人も「それは私のことです」と言います。近所の住民たちが本人を差し置いて、あれこれ言い合う中で宣言するのです。周囲の人たちは、イエスさまの奇跡を認めることが出来ないのです。患者、障碍者、犯罪被害者、被災者の自身が中心に置かれること、それが「当事者性」です。「神の業が現われるため」の「現われる」は「マニフェーストー/公に現わして行く」ことです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:55 | 毎週の講壇から

2018年03月12日

空の鳥をみよ【マタイ6:25〜34】

聖句「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」(6:26)

1.《最後の警告》 福島第一原発の過酷事故が起きた時、私は、亡き高木仁三郎の声を聴きたいと思いました。彼は1986年に『チェルノブイリ:最後の警告』を出版し、1995年の阪神淡路大震災直後から原発の地震対策について警告を発していました。そうしてみると、福島原発の大事故は「想定外」ではなくて、十分に「想定内」だったと言わざるを得ないのです。

2.《危機と破局》 富坂キリスト教センター主催の研究会で、高木仁三郎は生態学的破局の預言として「創世記」の洪水物語を引用なさっていました。他にも旧約聖書には、原発の冷却水、放射能の雨、体内被曝などと関連させて読むことの出来る箇所があります。複雑な問題が山積する現代では、単純に「自然」をテーマに聖書箇所を選ぶことも、1箇所に特定することも困難です。しかし、私たちが聖書を読む前に、既に私たち自身の側が、聖書によって読み込まれていると思われる瞬間があるのです。「空の鳥、野の花」として知られる今日の箇所も、そんな箇所の1つではないでしょうか。

3.《認識の変革》 荒井献は「野の花」を「薊」、大貫隆は「空の鳥」を「カラス」と同定して「汚らわしいもの」「差別されたもの」と解釈しています。しかし、預言者エリヤを養ったカラスの例もあります。エリヤにとっては、空から糧を運んで来てくれるカラスは、あたかも天使のようだったと思います。リチャード・ニーバーは「動物、無機物、天使」を人間の隣人として挙げました。目に見えない天使を隣人と捉えるならば、私たちの世界観は大きく変わります。「御蔭様で」と言う時、自分独りで生きているのではないことを、私たちは確認しています。その象徴が「カラス」であり「天使」ではないでしょうか。

安田治夫牧師(文責:朝日研一朗)

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2018年03月05日

希望は生まれて来るもの【ローマ5:1〜11】

聖句「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」(5:3-5)

1.《希望の種》 若者が愛と平和と喜びを求めて巡礼の旅に出ますが、行く先々で彼が目にしたのは、悲しみと憎しみに満ちた世界でした。やがて何でも望むものがあるという店に辿り着き、彼は願いを語ります。しかし、彼が手にしたのは買い物リストだけでした。店の主人は「この店では果実は売っていないのです。ここでお売りできるのは種だけなのです」と言います。

2.《巡礼の旅》 寓話を紹介しているマーガレット・シルフは英国の作家で、エキュメニカルの黙想会を主宰する人です。店主は「人生のガイド」を思わせます。自分の中にある思いを、心を込めて柔らかく結んで行くことで言葉にすることで「希望の種」が生まれます。聖地「巡礼」は「贖罪」「功徳を積む」「願掛け」を目的としていたために、「信仰義認」の立場から、プロテスタント教会では廃棄されました。しかしながら「巡礼」の語源(ペレグリーノル)はラテン語の「故郷を離れて、旅回りの」で「よそ者」を意味します。「我が故郷は天にあり」を身上とする私たちにとって「巡礼」は自らの人生の隠喩なのです。

3.《種蒔く人》 パウロの時代の信徒にとっても、人生は「巡礼」のように「苦難」の連続でした。「苦難」は「圧迫」の意味です。極端な迫害でなくても、同調圧力の強い日本社会の中で、私たちも感じるものです。「忍耐」は「持ち堪える」です。一般に「練達」は「試練を経て本物と証明される」と解されますが、私は「信仰の受容」と考えます。オンボロな私たちの信仰ですが、その恥ずかしいような自分も教会も周りの人たちも丸ごと受け入れるのです。その時「苦難、忍耐、練達」の混じった土の中から「希望」が芽吹くのです。いずれ神にお奉げする実りです。私たちは人と人の間に種を蒔いて参りましょう。

朝日研一朗牧師

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2018年02月26日

実らない無花果(イチジク)【ルカ13:6〜9】

聖句「今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。」(13:8,9)

1.《照る山紅葉》 京都に暮らすご夫妻の話です。庭の山紅葉が紅葉しなくなったので、植木屋に植え替えさせようとしました。植木屋は「紅葉が可哀想です。もう少し待ってください。山の上では綺麗に照っていたのです」と言いました。その会話を、まるで紅葉の精が聞いていたかのように、翌年の秋には紅葉したと言います。まるで能楽の『六浦』のような話ではありませんか。

2.《色々な実り》 パレスチナ地方の無花果は、夏と秋、年に2回実を付けるそうです。神さまが実りを期待して居られる無花果は「神の民」、教会です。実を付けなかった「3年間」は「長い間」の意味です。但し、求められているのは「悔い改めの実」と限ったものではありません。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5章22節〜)。神さまは何もかもを要求されてはいません。どれか1つで良いのです。他の人と同じ実を付ける必要はありません。自分らしい実りで良いのです。むしろ、自分自身が実りであり、私の人生そのものが主に奉げるべき実りなのです。

3.《未来の実り》 葡萄園の園丁であるイエスさまは、自分を信仰者、義人、救われた者と自惚れている人たちに向かって「悔い改めよ」と言われました。しかしながら、主は罪人を招かれ、滅ぶべき者とされた徴税人や娼婦と共にあり、慰め励まされました。実りを期待されているのは事実ですが、翻訳の「来年は…」は不正確です。ギリシア語原典は「これから先、この後、将来」です。猶予1年では無かったのです。イエスさまは借金の取立人のように期限を切ったり、ノルマを課したりしているのでは無かったのです。人生も信仰もゆっくりと時間を掛けて、腰を据えて掛からないと実を結ぶことはありません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:53 | 毎週の講壇から