2016年11月14日

ヘルパーさん募集中【創世記2:18〜25】

聖句「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』」(2:18)

1.《進化と展開》 2000年のモザンビーク大洪水の折、独力で樹上出産をした女性がいました。普通ではない出来事だから話題に成ったのです。類人猿は樹上や茂みで独りで出産しますが、人間は誰かの助けを必要とします。「進化」とは「独りで出来るようになる」ことではありません。ラテン語の本来の意味から言えば「展開」と訳すべき語かと思います。「意外な展開を見せる」ものなのです。

2.《無縁と有縁》 人間は脳が発達して、二足歩行を始め、骨盤の形状が変わり、産道が折れ曲がって、頭の大きい赤ん坊を産むために激痛を経験する結果と成ったのです。出産に苦労しているのは人間の女性だけです。人間は猿よりも確実に弱くなっているのです。しかし、弱くなった代わりに、私たちは家族や社会を手に入れることが出来たのです。「無縁社会」という語が流行しましたが、無縁であれば、もはや「社会」とは言えません。「関係ないね」と言うのは「社会性の欠如」です。「関係あるね」と言えるのが「社会」なのです。昔は「袖触れ合うも多少の縁」と言いましたが、今や「無い袖は触れもしない」のでしょうか。

3.《良しと悪し》 むしろ「助けて」と言い合えることが、人間であることの証です。神は「人」に「助ける者」を造られました。「ヘルパー/助け手」であり「パートナー/相棒、伴侶」「コンパニオン/仲間」です。神さまは、私たちが互いに助け合って生きるように、家族や社会を与えて下さったのです。人間をお造りになる以前の「天地創造」の過程では、繰り返し「これを見て、良し(トーブ)とされて」いた神が初めて、「人が独りでいる」のを見て「良くない/ロー・トーブ」「悪し」と仰ったのです。現在、日本社会に蔓延している「自己責任」という物言いは、本当に「良くない」のです。そんな時代であればこそ、私たちは互いに「助ける者」として生きることが求められているのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:16 | 毎週の講壇から

2016年11月07日

なおも望みつつ信じた【ローマ4:1〜25】

聖句「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、…多くの民の父となりました。」(4:18)

1.《志士仁人》 NHK大河ドラマ『花燃ゆ』は、伊勢谷友介の吉田松陰が塾生たちに「あなたの志は何ですか?」と問う場面が印象的でした。実際「松陰語録」にも「志」云々が数多く出て来ます。「論語」の「志士仁人」です。「愛ある人は自らの身を殺しても、愛を成し遂げることがある」と言うのです。それが「己が義と信じることのために命を投げ打つ」と拡大解釈されたのです。

2.《心の向き》 「志士/志ある人」が「仁人/愛ある人」とは、聖書の教えに通じるものです。「志」は有名な「四十にして惑わず」の前にも「吾十有五にして学を志す/私は15歳で学問を志した」とあります。世間では、とかく年齢ばかりに拘泥して読み違えていますが、@志を立てる、A独立する、B迷わない、C天命(使命や限界や天職)を理解する、D人の話を素直に聞く、E心の赴くままに振る舞っても道を踏み外さない、人間の成長段階を語っているのです。私たちには、その時々に向き合うべき課題があるのです。そして「志」とは「上に向かって心が伸びて行く」ことを表わす文字なのです。

3.《高い大志》 老人福祉施設のベテラン職員の人が、働き始めた当時、施設長から「3年経っても働いていたら、信念をもって働いているか、惰性で働いているか」と自問すべしと教わったそうです。信念、志は「上を向いて歩く」のです。札幌農学校のクラークの言葉「少年よ、大志を抱け」は有名ですが、その続きは金銭や我欲、名誉のためでなく「キリストのために大志を抱け」です。私たちは上にあるものを目指しているでしょうか。志を失い低きに流れてはいないでしょうか。「今は希望の無い時代」との愚痴は耳にしますが、「希望する術も無かった時に、尚も望みを抱いて、信じる」のが聖書の信仰です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:50 | 毎週の講壇から

2016年10月31日

天使をもてなす人【ヘブライ13:1〜6】

聖句「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。」(13:2)

1.《ホスピタリティ》 外国人観光客の増加と共に観光業界を中心に、この語が唱えられることが多くなりました。「厚遇、接待、お持て成し、接客サービス」と訳されています。しかし、「客」に対してのみならず、「訪問者」や「見知らぬ人」にも向けられるものです。更に「寛容さと善意をもって受け入れる」ものです。寛容は「偏見に縛られず自由であること」「惜しみなく与える気前良さ」です。

2.《フィロクセニア》 語源のラテン語「ホスペス」には、不思議なことに「主人」と「客」の両方の意味があります。つまり、何かの拍子に「主客」の立場が入れ代わり得るということです。立場の優位性を捨て去り、対等の立場であることです。旧約聖書の伝統の中では、自分の天幕に身を寄せた旅人を、主人は自らの命を投げ出しても守りました。古代ギリシアでは、「旅人/クセノス」を「神/ゼウス」の使いと信じて親切にしました(ゼウス・クセノス)。「兄弟愛/フィラデルフィア」も大切ですが、身内びいきばかりではダメで、「見知らぬ人への愛/フィロクセニア」も忘れるなと勧められているのです。

3.《隠されている》 旧約聖書には「気付かずに天使たちを持て成した」人たちの話があります。「気付かずに」は「隠されている」という語です。聖公会の宣教師、ヘンテ女史は昭和の初め、千葉に結核患者の療養施設を建てようとしましたが、地元住民の反対に計画は頓挫しかけていました。見ず知らずの病人のために私財を投じる宣教師が、住民には理解できなかったのです。その時、元船員だった老人が寄港した英国で、宣教団の女性に親切にして貰った体験を語りました。これを機に理解が広がったそうです。「天使」のメッセージを、最終的に受け取るのが誰であるか、私たちの目には「隠されている」のです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:51 | 毎週の講壇から

2016年10月24日

アナザー・カントリー【ヘブライ11:13〜16】

聖句「…はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表わしたのです。」(11:13)

1.《二十四の瞳》 1954年の木下惠介監督の『二十四の瞳』は、小豆島の「岬の分教場」に赴任して来た女教師、大石先生と12名の生徒たちとの心の交流を描いた名作です。12人の教え子だから「二十四の瞳」なのですが、フランスで上映された時には、その題名から、24も目玉のある気味の悪い怪獣が出て来ると誤解した人がいたそうです。同年に『ゴジラ』が公開されていたからです。

2.《慈しみ深き》 映画『二十四の瞳』は怪獣映画ではなく、尋常小学校を舞台にした映画ですから、子どもたちが懐かしい童謡や唱歌を歌う場面が数多くあります。案外、知られていませんが、讃美歌「慈しみ深き」が流れる場面があるのです。生徒の1人、松江の母親が急死して、彼女は高松に奉公に出されるのです。何とか学校が続けられるようにと、父親に直談判する大石先生ですが、他にも幼児を抱えていて、どうしようもありません。己の無力さに、皆が涙します。そこに、あのメロディーが流れるのです。お手軽に悲しみが癒されたりはしません。でも、神さまは、悲しんでいる者たちを見守っていて下さっているのです。

3.《別の国あり》 私自身は歌が好きでもなく、讃美歌に思い入れもありませんでした。しかし、礼拝に通い続けて、讃美歌を歌い続けていると、歌は魂に溜まって行くのです。貯金のように利息も付くのです。結構な高利です。歌の心、つまり、祈りがいつの間にか自分のものに成っているのです。ダイアナ元王妃の結婚式と葬儀に、ホルスト作曲の聖歌「我は汝に誓う、我が祖国よ」が歌われていました。「祖国」と訳されていますが、実際には「もう1つの国がある」と「天の国」を歌っているのです。「私たち一人一人の魂が積み重なる度に、その国には、静かな輝きが増し加わる」と…。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:00 | 毎週の講壇から

2016年10月17日

育つ不思議と恵み【ローマ8:26〜28】

聖句「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(8:28)

1.《育つ不思議》 私の子育て時代には「三歳児神話」や「母原病」等という言説が流行しましたが、子どもの成長の責任を全て母親に負わせる考え方に、私は反発を感じていました。育児上の失敗も多かったが、むしろ、無事に大人に成れたのは神さまの御陰と感謝しています。どの子にも、神さまから真っ直ぐに育つ力が与えられているのだと思います。

2.《育つ御恵み》 自らの幼児期を振り返っても、決して安定した家庭環境にはありませんでした。私を産んだ直後、母は肋膜炎から結核を病み、子どもたちは親戚の家に預けられました。私自身も10ヶ月間、病院の保育室に預けられていました。それが後の性格形成や人生に影響を与えているのかも知れません。信仰篤い両親に反発して、教会生活から離れてしまった時代もありました。しかし、両親が亡くなって初めて、彼らの信仰の確かさを知りました。出産したばかりの赤ん坊や幼い子どもたちから隔離された母の悲しみ、父の困窮は如何ばかりであったかと思います。両親は神の恵みを信じ抜いたのです。

《遺された愛》 大手術をするも母の結核は完治せず、背中に大きな傷痕を抱えたままでしたが、父は弱い母を思い遣りました。社会貢献活動を始めて、家庭の食卓には大勢の人が集うように成りました。父の死後、その遺志を継いだ母はパーキンソン病の患者の会に協力しました。両親はその生き方を通して、私たちに確かなものを遺してくれました。レバノンの詩人、カリール・ジブランは「子どもはあなたのものではない」と歌っています。子が生まれ育つのは神の恵みです。だからこそ、神に祈るのです。恐らく、母も安静にするしかない病床で「全てをお任せする者にこそ益がある」と知ったのではないでしょうか。

保立眞理子

posted by 行人坂教会 at 18:52 | 毎週の講壇から

2016年10月10日

暗闇から光の子へ【エフェソ5:6〜20】

聖句「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」(5:16,17)

1.《今は悪い時代》 作家で尼僧の瀬戸内寂聴が、今から12年前の「青空説法」で「今の日本は最低。今ほどイヤな悪い時代は無かったような気がする」と述べて、命の軽視、政治行政の腐敗、教育の荒廃、人間の驕りを批判して居られました。今や各種業界とマスコミが結託して、更に「悪い時代」であることを覆い隠そうとしています。私たちも無自覚に加担しているのです。

2.《洒落より感謝》 「エフェソ書」も「今は悪い時代」と述べています。パウロ自身が書いたとすれば、紀元62年頃、オネシモが書いたとすれば、紀元54年頃とされています。ネロ帝によるキリスト教弾圧が始まる以前なので、「悪い」と言われているのは倫理的なことです。4節には「卑猥な言葉や愚かな話、下品な冗談」を糾弾しています。この3つは「悪口」「馬鹿話」「洒落」という意味です。ユーモアやウィットまで否定されると、反発を感じますが、「洒落よりも感謝を」と勧めているのです。しかも「エウトラプリア」よりも「エウスカリスティア」と、この箇所そのものが語呂合わせなのです。

3.《聖霊の結ぶ実》 自分の責任は棚上げして「時代が悪い」と言う人もあり、自分たちだけが正しくて、周りは全て間違っていると主張する宗教団体もあります(キリスト教会も含む)。分別を無くしているという意味では、酔っ払いと同じです。時代のせいにするのも、自分のせいにしてしまうのも安易です。自分なりに何等かの手掛かりを見付けて、この世と自身に立ち向かって行くのが「主の御心」です。「悪い/ポネーロス」は「骨を折る/ポネオー」が語源です。骨の折れる困難な時代ですが、感謝をもって生きる時、自ずと「聖霊が実を結ぶ」のです。そして、それを収穫なさるのは主御自身です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:50 | 毎週の講壇から

2016年10月03日

天使のパン【詩編78:23〜29】

聖句「神は天からの穀物をお与えになり、人は力ある方のパンを食べた。神は食べ飽きるほどの糧を送られた。」(78:24,25)

1.《パン屋》 店名や製品に「天使のパン」と銘打ったパン屋があります。北鎌倉には、1日平均3個のパンを製造する、元競輪選手夫妻の営むパン屋があります。試合中の転落事故で脳と身体に麻痺を負う店主が焼くパンは「天使のパン」の味わいだそうです。宇治市には今時、調理パンが全品「百円」のパン屋が、熊本市では天然酵母のパン屋が「天使のパン」を謳っています。

2.《御聖体》 「天使のパン」という語は「詩編」78編25節「人は天使たちのパンを食べた」から来ています。出エジプトの際、イスラエルに主が与えられた天の糧「マナ」を言っているのですが、原文が複数形で「力ある者たち」だったので、古来より「天使たち」と訳されて来たのです。勿論、今では、唯一の神の力強さを表現するために複数形に成っているというのが定説です。しかし、中世の「天使博士」トマス・アクィナスは「聖体祝日」のために、聖歌「天使のパン」を作詞しました。フランクの名曲「天使の糧」も有名です。

3.《聖餐式》 中世の聖女、シエナのカタリナは聖体以外の物を口にせず、33歳の若さで世を去りました。天使の糧を味わうために、世俗の糧を拒んだ結果でした。プロテスタントの聖餐は違います。H牧師の実家はパン屋で、そのパンが聖餐式に使われていたそうです。しかし、自分の家で焼いたパンなのに、未受洗の自分は与ることが出来ず、不思議な気持ちがした…という思い出の記を読みました。受洗後に聖餐に与った彼女は「単に空腹を満たす物ではなく、味わって食べる者の魂を満たすキリストという名のパンでした」と言います。十字架の上で引き裂かれた主を仰ぎながら、聖餐に与ることによって、私たち自身も「引き裂かれたパン」として、この世に遣わされて行くのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:51 | 毎週の講壇から

2016年09月26日

アドリア海で朝食を【使徒言行録 27:27〜38】

聖句「…パウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。そこで、一同も元気づいて食事をした。」(27:35,36)

1.《最後の航海》 パウロは十二使徒以外で唯一「使徒」と呼ばれる人物ですが、それは彼が「異邦人の使徒」と成ったからです。国外の異邦人にキリストの教えを伝え、3回の伝道旅行で移動した距離は8千数百キロに及びます。その後、ユダヤ教徒からの告訴を受けたパウロは、皇帝に上訴してローマに移送されることになりました。その行程表が詳しく記述してあります。

2.《アドリア海》 9月末の地中海は荒れるので、古代人は航海を中止したものです。しかし、パウロの乗せられた船は、船主や船長、ローマ軍との利害が絡んでいたのか、無理な出航をした挙句に漂流してしまいます。クレタ島を出た後、暴風に遭い、リビア沖に流され、更に14日目にはアドリア海に流されていたということです。アドリア海は『紅の豚』の舞台ですが、その直後にマルタ島に漂着するところを見ると、どうやら当時はイオニア海も含めて「アドリア海」と言っていたようです。乗客の安全を無視した危険な航海、乗客を置き去りにして逃げ出す船員の描写など、現代の海難事故を髣髴とさせます。

3.《元気を出す》 不安と船酔いのため2週間も何も食べていなかった乗客乗員に向かって、パウロは「朝の食事をしましょう」と促します。カポーティの『ティファニーで朝食を』のホリーは「たとえティファニーで朝御飯を食べる金持ちに成ったとしても、私は私のままでいたい」と自らの生活信条を語りました。朝食には、私たちの生活信条、自身の生き方、家庭の在り方(崩れ方)がどうしようもなく表われてしまいます。遭難者たちが共に朝食を食べる場面は「聖餐」と重ねられています。彼らは「元気づく」のです。今日も神さまから頂いた1日、賜った命です。神の御守りを信じて祈りましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:48 | 毎週の講壇から

2016年09月19日

異教徒の間に生きる【Tペトロ2:11〜17】

聖句「異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、…訪れの日に神をあがめるようになります。」(2:12)

1.《カルトの子》 村上春樹の小説『1Q84』には、カルト教団の中で成長したヒロインたちが登場します。「エホバの証人」や「ヤマギシ会」がモデルに成っています。親が入信することで、その子たちも否応無くカルトの世界に引き込まれ、少なからぬ影響を受けてしまうのです。長じてからも、そのトラウマに苦しめられている人たちが大勢いるのです。

2.《コミューン》 元来「カルト」とは「祭儀」で、悪い意味はありませんが、現在では、当人の人格や家庭、社会生活を破壊する団体の意味で使われています。同じく「コミューン」も「共同」の意味で、カトリックの「教区」を基にした地方自治の最小単位だったのです。やがて、社会主義者たちの集団農場を指して用いられ、現在では、カルト信者が社会から隔絶して、自分たちだけの「楽園」を形成する場合に使われます。プロテスタント教会の中にも、多少「コミューン」的要素は残っていますが、むしろ、聖書は信者の社会生活を優先して「異邦人の間で立派に生活しなさい」と勧めています。

3.《異教徒の間》 これまで「異邦人」という訳語を「異教徒」と変えたことは、日本社会に暮らす私たちにとって大きな意味があります。家族の中ですら「異教徒の間」にあるのです。当時の信徒は「悪者呼ばわり」されて、偏見や中傷を受けていましたが、だからこそ「立派な(美しく魅力的な)行ない」を見て貰いなさいと言うのです。しかも「周囲の見る目が変わる」等と安請け合いはしません。たとえ異教徒であっても、全ての人を敬っているので、他者を変えることは、神さまにお委ねしているのです。私たちは、社会や家庭を投げ出したりしないで、「異教徒と共に生きる」信仰の闘いを続けて参りましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:49 | 毎週の講壇から

2016年09月12日

この世に打ち勝つ【Tヨハネ5:1〜5】

聖句「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。」(5:4)

1.《運動靴会社》 オリンピックやワールドカップは、スポーツシューズのブランドにとっても、絶好のPRチャンスです。映画『炎のランナー』で知られるエイブラハムズとリデルが、パリ五輪で使用したのはリーボックでした。近年、著しく知名度を上げたのがナイキです。元々はオニツカタイガーの米国販売代理店だったのですが、今や世界的なブランドを確立しました。

2.《勝利の女神》 ナイキはギリシア神話のニーケーです。スポーツ中継などで「勝利の女神が微笑んだ」と言われるのはニーケーのことです。ゼウスやアテナの命に従って、一方に肩入れして、勝利をもたらすのですが、神々が決め兼ねる時には、中空を飛びながら様子を伺っていると言います。ローマ神話ではウィクトーリア、ラテン語の「勝利」です。同じくニーケーもギリシア語の「勝利」です。「初めに言葉があった」のです。「勝利」の語が擬人化されて、美女の姿で描かれるようになったのです。4〜5節には、ニーケーが4回も登場します。「世に打ち勝つ勝利」等は同語反復の典型です。

《打ち勝つ愛》 私たちが生きている社会は競争原理が支配しています。競争が向上を促す場合もありますが、凡そ道を外れた競争も多いのです。国威発揚合戦や軍拡競争など愚の骨頂です。省みれば、私たち自身も下らないことを自慢し合っています。教会までが競い合っているのです。「世に打ち勝つ」のではなくて「世に順応して成功する」ことを求めているのです。「神の掟」、聖書の「言い付け」は「あなたがたは競い合うのではなく、愛し合いなさい」です。「イエスこそ我が救い」と告白した者は、辱め合ったり貶め合ったりするのではなく、神を愛し、人を愛するのです。それが「世に打ち勝つ勝利」です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:48 | 毎週の講壇から