2017年11月06日

死と陰府の鍵を持っている【黙示録1:9〜20】

聖句「わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。」(1:17,18)

1.《玄関の鍵》 とある婦人から問い合わせがありました。「バザー会場に鍵を落としたかも知れない」と仰るのです。外出から戻って、玄関の扉を開けようとした時に、鍵が見付からなくて慌てた経験は、誰にでもあるでしょう。昔は外から閉める自宅の鍵は存在せず、夜間に内側から閂をするだけでした。自宅には必ず誰かしら家人が居り、帰宅すれば「お帰りなさい」と迎えてくれたのでした。

2.《聖書の鍵》 宝物庫や蔵のために鍵はあり、それを持っているのは王と祭司、豪商でした。つまり、特別な力と権威の象徴だったのです。魔道書『ソロモンの鍵』は、ソロモン王が72匹の悪魔を使役したという伝説から生まれた魔法の解説書です。「ダビデの鍵」(3章7節)と言ったら、「ダビデの子」「ダビデの孫生」「ダビデの若枝」と同じく、メシアの力と全権を意味しました。ディオクレティアヌス帝の迫害時、エーゲ海のパトモス島に流刑され抑留されたヨハネに、キリストの幻が顕われ、「死と陰府の鍵を持っている」と仰るのです。

3.《人生の鍵》 「最初の者/プロートス」「最後の者/エスカトス」に加えて「生きている者」でもあります。人間の原型と最終形態、そして刻々と変化する全ての「命/ゾーエー」でもあるのです。生も死も超越した御方である故に「死んだが、生きている」ではなく「死んで、尚生きている」と読みたいのです。「陰府」は「冥界の王ハデス」、「死」は「死神タナトス」です。今や命の主であるキリストが「冥王」や「死神」に取って代わられたのです。いずれ私たちも臨終の時を迎えます。その時、決して独りぼっちではないのです。イエスさまが傍らに居られ、永遠の命へと導いて示して下さるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:52 | 毎週の講壇から

2017年10月30日

門前の小僧も血迷う【マタイ7:13〜14】

聖句「狭い門から入りなさい。…命に通じる門は何と狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。」(7:13,14)

1.《10月31日》 ハロウィンの起源はケルト文化圏の収穫感謝祭です。この日が大晦日、1年の暮れで、死霊が自宅に戻り、妖精や魔物が活動する夜でした。それで魔除けの仮面を被り篝火を焚いたのです。紀元8世紀、この風習に目を付けた、ローマ教会は「諸聖人の日」の前夜祭として聖遺物を展示しました。この御開帳に、人々は群れを成して聖人の霊験に与ろうとしたのです。

2.《教会の扉》 サンピエトロ大聖堂の再建資金を集めるため、ローマ教会は免罪符を乱発しました。1517年、ハロウィンの聖遺物御開帳に発売日に、ルターは教会の扉に「九十五箇条提題」を貼り付け、「天国は金で売り買いするのは間違っている。信仰によって初めて天国に行けるのだ」と主張したのです。当時、公開討論を呼び掛ける場合に、教会の扉に公示する慣例でしたが、教会の扉が「天国の門」の象徴であったことも忘れてはなりません。「これさえあれば天国に行ける」と喧伝して憚らない、免罪符に対する反論なのですから「教会の門」なのです。因みに「門/ピュレー」には「扉、戸口」の意味もあります。

3.《恵み発見》 三浦綾子の小説『千利休とその妻たち』では、利休が新しい茶室を考案する際に、後添えのおりき(宗恩)が「狭き門より入れ」の聖句を伝えて、狭くて低い「にじり口」が出来たという設定です。宗教改革によって奪われた失地回復のために、イエズス会が東洋に宣教師を派遣し、キリシタンの教えが侘び茶を完成させる、全て「狭き門」で繋がっていたら愉快です。「門」が「狭く細い」理由は「見出す者が少ない」からです。命も何かも賜物であることを発見する人は少ないのです。もしも門の狭さに気付いたならば、誰でも身を屈めて入っておいでと、イエスさまは仰っているのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:54 | 毎週の講壇から

2017年10月23日

何か善いことを【ルカ16:1〜13】

聖句「不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金が無くなった時、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」(16:9)

1.《福音書の悪人》 イエスさまの譬え話に登場するのは、善人ばかりではありません。押し込み強盗、追い剥ぎ、毒麦を蒔く敵、葡萄園の主人の息子を殺す農夫、大酒を飲んで仲間を殴る下僕、だめんずの代表、放蕩息子などが次々と出て来て、さながら「悪党列伝」です。これは当時の世相の反映であり、私たち自身の中にいる悪意や悪念でもあるのです。それ故、説得力があるのです。

2.《不正な管理人》 「管理人」は「家令/家の世話をする人」です。主人の財産管理を任されているのを良いことに、それを高利で貸し付けて、利子を懐に入れていたようです。内部告発で管理人の職を解かれそうになった彼は一計を案じます。債務者の所に証文を持って回り、借金の利息をチャラにして恩を売るのです。こうして自分が解雇された時、迎え入れてくれる新しい会社回りを兼ねたのでした。如何にも生臭い話ですが、この先は、あり得ない展開に変わります。それを知った主人が管理人の「抜け目ないやり方」を褒めたというのです。ここがイエスさまのワープです。ここからは信仰の話なのです。

3.《富も使いよう》 この世の終わり、人生の終わりには、金など何の役にも立ちません。その時のために今から「不義の富」で「友達を作れ」と仰るのです。「不義の富」は「マモン/この世の富」、「友達/フィロス」は「愛される、愛すべき、親しい」という意味です。この世の富はこの世でしか価値がありません。しかし、この世では未だ使い道があるのです。それを活用して「愛のある関係を作れ」「愛すべき者たちを守れ」と言うのです。ディケンズの『クリスマス・キャロル』は守銭奴スクルージが「過去は変えられぬが、未来は変えられる」と回心して、富を用いて多くの人の「善き友人」と成る物語でした。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:48 | 毎週の講壇から

2017年10月16日

イエスの御旨に従う【マタイ6:1〜4】

聖句「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。」(6:3,4)

1.《懸案事項》 約3年前から会計事務のお手伝いをしていますが、人間のすることですから、週報の「献金報告」欄に稀にミスが生じ、これを如何に防ぐか悩んでいました。改善策の検討に際し「信仰的には、どうあるべきなのか」考えてみました。

2.《主の御旨》 イエスは我々にどうしなさいと仰っているでしょうか。献金を考える時に、イエスの教えの中では「マタイ」6章2〜4節が参考になると思います。「施し」についての戒めですが、内容は明確なように思います。「施しを人目につかせないようにしなさい」という命令です。「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」とも戒められています。

3.《私の提案》 私は、この御旨に従う1つの方法として、会計担当役員に「将来的には、週報の「献金報告」欄の献金者名記載は止めるべきではないか。但し、余りに急激な変更は教会員に不安や戸惑いを与えかねないので、当面の間、1ヶ月分を纏めて月1回報告する」という案をお話しました。会計担当役員は、私の思いを心に留めて下さり、役員会の議題にして下さいました。その結果、2016年度第6回役員会において「金額記載を止め、月定献金は氏名のみ、特別献金は氏名と用件のみを記載する」ことが決定され、11月から実施されました。現在、会計事務に携わっているため、「献金報告」変更の件をお話しましたが、これに限らず、教会の全てのことにおいて、イエスの御旨に少しでも従って行けるよう努力したいと思います。そして、必要な物は「みな加えて与えられる」と仰るイエスの御言葉を信じ、皆様と共に歩んで参りたいと思います。

小池耕一

posted by 行人坂教会 at 18:52 | 毎週の講壇から

2017年10月09日

あなたは光になってます【エフェソ5:6〜14】

聖句「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(5:8)

1.《光の子》 教会附属幼稚園・保育園には「光」を園名にしている所が数多くあります。「光の子」というメッセージは、「恵み」「小羊」に比べると、教会側と家族側の間の乖離はありません。どの親御さんにとっても、我が子は光のような輝かしい存在です。しかし、成長と共に、その光が翳って行くように感じるのです。本当は、私たちが光を見ようとしていないからではないでしょうか。

2.《照らす》 幼い我が子は光そのものです。しかし、どの子も光輝いているのです。私たちが自分の子の輝く瞬間だけを追い求めている限り、その輝きに気付きません。誰もが互いに照らし合っているのです。教会では古来、キリストを恒星に、私たちを惑星に譬えて来ました。私たちは自ら輝くものではなく、御光を反射するのです。照らされた者それ自身もまた、光となるのです。13節の「明らかにする/ファネロオー」も、14節の「照らす/エピファウスコー」(「エピファネア」の類語)も「顕現、顕われ」を意味する語です。その単語の中には「ファノス/松明」があります。闇を明るく照らす灯火です。

3.《光の業》 私たちはキリストの光に照らされて輝いています。自分を輝かせるために空しく光っているのではありません。光ることで誰かを照らすことが出来るのです。私たちは「以前には暗闇でした」が、今も深い闇を抱えているはずです。いつも隅々まで御光に照らされることは出来ません。御光に照らされぬ半面(ダークサイド)が常に生じてしまうのです。しかし、そんな陽光の当たらない暗黒面にも、無数の星が輝いているのです。私たちも、その星の1つです。私たちは独りでは「光の子」には成れません。闇を抱える一人であるとしても、私たちは互いに照らし合う時「光の子ら」に成るのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:52 | 毎週の講壇から

2017年10月02日

ほんとうに生きている道【ヨハネ14:1〜14】

聖句「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」(14:6)

1.《道を尋ねる》 私は方向音痴なので、知らない所に行く時には、前日に入念な準備をします。その癖、迷った時に素直に道を尋ねることをしませんでした。道に迷う男性が他人に道を尋ねないのは、自分が無能だと思われることを恐れているからだという研究結果があります。英国の保険会社の調査によると、迷った男性が誰にも道を訊かずに、当ても無く自動車を走らせる距離は、年平均444キロに達するそうです。それこそ「迷走」ですね。

2.《脱システム》 英国の探検家、トリスタン・グーリーによると、女性に比べて男性が道を尋ねない理由は、自分たちが作ったシステム(方位、地図)に固執していて、機能しなくなっても拘泥しているからだそうです。その点、女性の方がシステムから自由で、目的のためには、利用可能な手段を全て駆使することが出来るのです。勿論、性差による分類は相対的なものです。性差に関係なく、今や私たちはシステムに雁字搦めにされて、身動きが取れなくなっているのです。システムそのものが悪いとは言いません。しかし、システムが機能しなくなった時に、その拘りを離れて、謙虚に道を尋ねる必要があると思います。

3.《踏まれる命》 教会は道を尋ねる場所、また問われる場所でもあります。ペトロもトマスも、イエスさまに「主よ、どこへ行かれるのですか」と尋ねています。それに対して、主は「私は道である」と答えられます。福岡のバプテスト教会の牧師(幼稚園長)が、園児から「じゃあ、イエスさま踏まれちゃうんだね」と反応された衝撃を書いて居られました。遠藤周作の小説『沈黙』のクライマックスで、踏絵に足を掛けたロドリゴに「踏むがいい」と囁く主の御声を思い出します。それは「棄教」ではありません。私の足がキリストを踏み付けにしている、その認識から始まる信仰もあるのではないでしょうか。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:51 | 毎週の講壇から

2017年09月25日

願えば与えられるのか【ヤコブ1:2〜8】

聖句「…知恵の欠けている人がいれば、誰にでも惜しみなく咎め立てしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。」(1:5)

1.《女心と秋の空?》 日本列島が移動性高気圧に覆われる秋は、空気が澄み渡り、上空の雲まで見える反面、お天気が変わり易くもあります。それを女性の移り気に掛けて「女心と秋の空」と言いますが、この表現が生まれたのは大正デモクラシー以後です。封建時代には、女性の意思表示、人格や権利は認められていなかったので、むしろ「男心と秋の空」と言われていたのです。色恋沙汰における男の身勝手ぶりを揶揄する表現だったのです。

2.《引き裂かれた魂》 6節に「疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています」とあります。迫害、病気、貧困などの試練に遭う時、私たちの心も揺れ動きます。そこで信仰が試され、「忍耐/逃げ出さずに留まること」が生ずるとされています。試練に遭えば「海の波」のように揺れ動くのは、信者も未信者も同じ。洗礼を受けた信徒も動揺し疑うのです。この疑う者が信ずる者へと変えられて行く、そのプロセスを信仰と言います。祈り続ける中で、神に向き合い、「我が心定まれり」と成るのです。8節の「心が定まらず」は「二心の者」と訳されますが、私なら「魂が引き裂かれて」と訳します。

3.《神のプレゼント》 降り掛かる試練に対して「逃げ出さずに留まる」力を、「知恵/ソフィア」と言います。頭の良いことではなく、人生や歴史を神の御計画の中で見通すことの出来る聖霊の賜物です。つまり、私たちの思いが及ばぬ程の、高くて大きな神の御思い(イザヤ書55章8〜13節)に思いを馳せて、触れること、永遠を思う心(コヘレトの言葉3章11節)です。それは、私たちが誰かのことを思い遣るのに似ています。その人の本当の心は窺い知れませんが、その人に心を向け続けていれば、その心に達する時が来るのです。願うならば、神は、私たちの想像も出来ないプレゼントを与えて下さいます。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:54 | 毎週の講壇から

2017年09月18日

大切なあなたに【イザヤ 43:1〜7】

聖句「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。」(43:4)

1.《何度も同じ話》 さだまさし作詞作曲の「秋桜(コスモス)」の一節に「何度も同じ話くりかえす/ひとり言みたいに小さな声で」とあります。同じ話を繰り返すのは高齢者の特徴です。私たちは「また同じ話!」と叱ったり、認知症の記銘力障害と混同したりします。しかし、人生の秋から冬へと向かう老年期の人間は過去を顧みることで、自らの人生の意味と価値とを再確認して、そこに安堵と励ましとを見出しているのです。これを吟味と言います。

2.《尊厳と栄光と》 「協会訳」や「新改訳」は「尊い」と漢字を当てています。「貴族の貴さ」ではなくて「尊厳の尊さ」です。この文字は手に酒樽を抱えて、神仏に奉げる姿勢を意味します。本来、神仏に対して用いるべき文字なのです。しかし、聖書では、人間は「神の似姿」に造られ、「神は、その独り子をお与えになった程に」世の人を愛されたと言います。それが人間の尊厳なのです。「尊い/ニケバド」は「重んじられる」というヘブル語で、「カーボード/神の栄光」と同根です。「栄光」は神の臨在を示します。神にも等しい尊厳と、臨在の栄光を、あなたに与えられたのです。それが神の愛なのです。

3.《ケースワーク》 お題目のように「人間の尊厳」が唱えられますが、それは自明でも普遍でもないのです。障碍者や高齢者に対する虐待や虐殺事件が起こる背景には、恐らく「尊厳」の形骸化があります。心が入っていないのです。米国の社会福祉学者、バイステックが「ケースワーク」という語を造りました。相談者に決してレッテル貼りをせず、その人固有の尊厳に、どこまでも向き合って行くのです。彼はイエズス会の司祭でした。「人間の尊厳」という価値観は、造り主が我らに与えたという聖書の信仰が原点です。自分の存在意義を見失った人にも「あなたは大切」と言って下さるのが、私たちの神さまです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:52 | 毎週の講壇から

2017年09月11日

健康な人の病気【ルカ5:27〜32】

聖句「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、…罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(5:31,32)

1.《病気で長生き?》 私が糖尿病という診断を受けた後、旧友から「最近は『無病息災』ではなく『一病息災』と言うのだ」と慰められました。かつては「健康長寿」が祈願されました。健康が長寿の前提だったのですが、最近では、持病を患いながらも長命の人も大勢いらっしゃいます。健康と長寿とにズレが生じています。誰にとっても健康の維持が最大の関心事となっているのです。

2.《スピリチュアル》 「世界保健機構/WHO」の「健康の定義」は「病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも精神的にも、そして社会的にも、全てが満たされた状態にあること」です。フィジカル、メンタル、ソーシャルのバランスが取れていることが大切なのです。心身ともに健康でも社会の中で孤立していたら健康ではありません。1998年に、この定義に「スピリチュアル/霊的」を加えるように提案されました。ホスピスの現場では、終末期の患者の実存的な問い掛けを「スピリチュアル・ペイン/霊的な苦しみ」と言います。それが受け止められる環境を「スピリチュアリティ/霊性」と呼ぶのです。

3.《メタグノーシス》 病気と健康とが逆転するダイナミックな逆説を、イエスさまは語られています。イエスさまが盲人を癒したことに難癖を付ける人々に、主は「今あなたがたが『見える』と言い張るところに罪がある」と反論されました。病気や障碍を抱えているだけで、罪業の因果とされ、社会から排除されるような時代、やはり罪人として蔑まれていた徴税人、霊的、宗教的に差別され、病的な状態に捨て置かれた人を主は招かれました。「悔い改め/メタノイア」は「思考転換、発想の展開」です。「メタグノーシス」は、即ち、人間の知恵を超える神の知恵に触れることにあります。本当の健康とは何でしょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:52 | 毎週の講壇から

2017年09月04日

人を見る目、神を見る目【ヘブライ11:23〜31】

聖句「信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。」(11:27)

1.《面接官の躊躇》 日経新聞電子版に、面接官もビックリの最近の就活生という座談会がありました。当世学生気質に対する愚痴や文句が殆どでしたが、その中に「個性的過ぎて不採用にしてしまったけれども、大物を釣り落としたのではないか」と発言した面接官がいました。その躊躇いの中に、成功も失敗も積み重ねて経験した人にだけ生まれる謙虚さを感じました。

2.《目を向ける先》 誰も「人を見る目」等は持ち合わせてはいないのです。プロのスカウトの成功話も夥しい苦い失敗の上にあります。事業で成功続きのように見える人も、人生では失敗しているかも知れません。家庭が崩壊したり、人格が破綻している場合が多いのです。私たちには、自分が明日どう成るかも分からないのです。況して「人を見る目」等ありません。「箴言」は「目先の利益を追求した結果、欠乏する」「悪い目」(28:22)、「貧しい弱い人を助けて、神に祝福される」「善い目」(22:9)と説き、イエスさまも「体の灯は目」と仰います。何に目を向けているのか、それが問われているのです。

3.《神を見続ける》 モーセは王宮で育てられますが、同胞が虐待される現実を見てしまったことで大きく人生を変えられます。但し、現実を見るだけでは、そこに怨みと憎しみしか生まれません。モーセはエジプト人を殺しただけでした。社会の現実を見る時、私たちもまた、絶望と無力感に囚われます。だからこそ、私たちは神に目を向けなければなりません。「耐え忍ぶ」は「不撓不屈」。「弛まず見詰め続ける」ことです。忍耐とは持続力です。毎日の暮らし、栄養、扶養、そこから耐久力が生まれるのです。見ることの出来ない御方を、今現に見ているようにして耐え忍ぶ、それこそが神を礼拝する心です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:51 | 毎週の講壇から