2018年01月01日

向こう岸に渡ろう【マルコ4:35〜41】

聖句「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた。」(4:35)

1.《降誕節の主日》 本日が正真正銘の「クリスマスの主日礼拝」です。プロテスタント教会では何よりも「主日礼拝」を重んじるので、ローマカトリック教会が12月24日から25日にかけて、徹夜のミサをするような習慣がありません。「特定の日」を重んじるのではなく、毎日を神さまからのプレゼントとして感謝して受け、その上で、週に一度、日曜日を主に奉げているのです。

2.《冬至は年越し》 3世紀初め、アレキサンドリアのクレメンスが、キリスト降誕日を5月20日と推測した記録が最古の記録です。4世紀初めには、キリスト教が公認されたローマを中心にして、12月25日のクリスマスが祝われるようになりました。ミトラ教の太陽神の誕生日、農耕神サトゥルナリア祭、豊穣の女神フレイアに犠牲を奉げる北欧のユール等の信仰や風習が流れ込んでいます。クリスマスは文字通りクリスチャンだけのものではないのです。中国の二十四節気では、冬至は陰気から陽気に転ずる変わり目です。季節の変化、年の変わり目に、皆で集まり、姿勢を正して、神に感謝を奉げるのです。

3.《私の向こう岸》 イエスさまは事も無げに「向こう岸に渡ろう」と仰いますが、弟子たちにとっては「向こう岸/ペラーン」は「限界、境界、果て/ペラス」を意味しました。荒れ狂う湖は、弟子たちの不安な心中そのものです。実際、向こう岸は、豚を食べるギリシア人の植民都市、ゲラサ人の地方で、墓から悪霊に取り憑かれた人も出て来ます。住井すゑの『橋のない川』の「川向こう」です。差別する者とされる者との間に広く深い川が横たわっているのです。イエスさまは、そこに橋を架けよう、そこと舟で行き来しようとされるのです。決して楽なことではありません。でも、古い自分を脱ぎ捨てて、自分が引いた境界線を乗り越えるのです。私たちの舟には、主が共に居られるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:00 | 毎週の講壇から

2017年12月25日

見上げてごらん夜の星を【ルカ2:8〜20】

聖句「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(2:20)

1.《バイスタンダー》 救命医療と看護の用語です。誰かが急病になったり、事故や災難に見舞われた時「偶然、その場に居合わせた人」のことです。発見から通報、応急の救命処置など、その役割の重要さが改めて注目されています。北米には「善きサマリア人法」の制定された自治体も多く、その場に居合わせた誰でもが「バイスタンダー」として行動できるように促されています。

2.《クリスマス招待》 羊飼いたちは、クリスマスのバイスタンダーでした。マリアとヨセフは、キリストが人として生まれるために必要条件として選ばれた存在でした。また、占星術の学者たちも事前にキリスト降誕を予測して、遙々何千キロも旅して来た人たちです。明確な目的意識や旅行計画があって初めて、御子のいる場所へと辿り着くことが出来たのです。そんな中にあって、羊飼いたちこそが「偶然、その場に居合わせた」存在なのです。それまでイエスの家族とは何の接点も無かった人たちが、野宿して寝ずの番をしていたために、主の栄光を仰ぎ、天使に招待されて、降誕の場面へと導かれて行ったのです。

3.《召し出された人》 占星術の学者たちは「拝みに来た」のですから、一種の巡礼です。羊飼いたちが招かれたのはどうしてでしょうか。羊飼いたちは都市や貴族に憧れることも羨むこともなく、与えられた務めに満足していたからだと、ルターは説明しています。素朴な彼らは礼拝に行ったのではなく、とにかく行って見て、人々に知らせたのです。人との出会いも、出来事との出会いも、先ず自分が行って見ることから始まります。その結果として、彼らはクリスマスの証人と成り、神を「あがめ、賛美しながら帰って行った」のです。こうして賛美は私たちの生活に入り込み、終わることなく続くのです。

朝日研一朗牧師

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2017年12月18日

飼い葉桶に一本の藁を【ルカ2:1〜7】

聖句「…マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(2:6,7)

1.《洞窟と石灰岩の桶》 「飼い葉桶」と言うと、私たちは木製の桶を想像してしまいますが、イエスさまが寝かされたのは石灰岩に掘られた代物だったようです。同じように「飼い葉桶」と言われるので、誰もが「家畜小屋」を想像してしまいますが、家畜は洞窟に入れたようです。新約外典「ヤコブ原福音書」にも、ヨセフとマリアが「洞窟」に泊まり、出産する描写があります。

2.《発酵させた飼い葉》 新約聖書には「飼い葉桶」はありますが「飼い葉」は出て来ません。旧約聖書「イザヤ書」30章には「発酵させた飼い葉/ベリール・ハーミーツ」が出て来ます。農業には無駄がありません。打穀後、麦粒を選り分けた後に残る茎や籾殻に、圧搾後の葡萄の皮を混ぜて酢酸発酵させたのです。家畜に与える最上級の飼料なのです。佐々木倫子のマンガ『動物のお医者さん』にも、刈り取った牧草を乳酸発酵させる「サイレージ」が出て来ます。このようなことを考えて、改めて降誕場面を思い浮かべると、仄かに甘酸っぱいワインビネガーの香りのする飼い葉がイメージされませんか。

3.《藁屑を飼い葉桶に》 片柳弘史神父がマザー・テレサの下でボランティアをした体験を語って居られます。マザーはボランティアたちに、空っぽの飼い葉桶を指し示して、何かを犠牲にする度に、藁を1本ずつ入れて、クリスマスに備えよと言います。クリスマスのミサの時には、飼い葉桶に藁が満たされ、参加者の心にも広い空間が生まれていたそうです。「藁」は「空しさ/ウァーニタース」の象徴です。私たちは自分の心と頭とを「虚栄」という「空しい」「藁屑」で一杯にしているのです。けれども、そんな藁屑も1本ずつでも奉げていけば、イエスさまをお迎えするための「飼い葉」に変わっているのです。

朝日研一朗牧師

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2017年12月04日

光が闇の底まで降りる【ルカ1:67〜80】

聖句「この憐れみによって、高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」(1:78,79)

1.《ベネディクトゥス》 キリスト者は、クリスマスに先立ってアドベントを守ります。聖書においても、イエスさまの御降誕に先立って洗礼者ヨハネの誕生物語があるのです。その父親ザカリヤの賛美は、歌い出しのラテン語を採って「ベネディクトゥス/ほめたたえよ」の名で知られ、古くは、埋葬式の灌水と燻香の直前に歌われていました。お目出度い誕生の歌なのに、なぜでしょうか。

2.《死の陰の谷を歩む》 79節「暗黒と死の陰に座している者たち」を陰府に置かれた「死者」と捉えたからです。「スキア/陰」には影法師のような輪郭がありますが、所詮「スコティア/暗黒」の中に置かれているのですから、真っ暗闇なのです。有名な「詩編」23編にも「たとひ我、死の陰の谷を行くとも災ひを恐れじ」と詠まれている「死の影の谷」です。英国の怪奇作家、W・H・ホジソンの短編『失われた子供たちの谷』には、幼い娘を亡くした男が、子どもたちの暮らす楽園「光の谷」を求めて彷徨う挿話があります。それによると、驚くべきことに「光の谷」は「死の陰の谷」と隣り合わせに成っているのです。

3.《クリスマスの極意》 洗礼者ヨハネは、イエスさまに先立って道を備えた人物とされています。洗礼という儀式も、ヨルダン川でヨハネの始めたものです。洗礼/バプテスマは「水に浸す」事ですから「滴礼」を認めず「浸礼」を絶対視する教派もありますが、本来を目指すならば「流水」でなければなりません。レオナルド・ダ・ヴィンチは大地を1匹の魚に、水を空気に、河川や海を血管に譬えました。私たちの身の周りには、数え切れない程の暗闇と陰があります。けれども、「憐れみの光」である主は、どこまでも深く下降して下さいます。谷底で倒れ伏している私たちを照らし、導いて下さるのです。

朝日研一朗牧師

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2017年11月27日

向こう側を通る【ルカ10:25〜37】

聖句「ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。」(10:31)

1.《この三人》 追い剥ぎに遭った旅人が重傷を負って倒れていますが、通り掛った祭司もレビ人も、なぜか彼を助けません。サマリア人だけが助けます。「誰が旅人の隣人に成ったか?」と、イエスさまは尋ねます。答は簡単です。この譬え話が物事の善悪の判断を問うだけのものなら、登場人物は3人要りません。この3人は、私たち自身の心の動きを象徴的に描いているのです。

2.《向こう側》 河瀬直美監督の『あん』という映画があります。ヒロイン徳江(樹木希林)はハンセン氏病の元患者ですが、社会の人たちと繋がりたいと願い、どら焼き屋で餡を捏ねる仕事をします。彼女の作る餡は美味しいと評判を呼びますが、やがて彼女の手が変形していることから元患者であることが噂となり、客は絶え、店も潰れてしまいます。彼女は社会的な死を体験することになるのです。義憤を感じますが、しかし、どら焼きを買わなくなった人たちに、私たちは石を投げることは出来ません。倒れている旅人を見て見ぬ振りをして「向こう側」を歩く、祭司やレビ人と同じことを、私たちもしているのです。

3.《心のドア》 私たちの心の中には「祭司とレビ人」が宿っていますが、善を求める心、即ち「サマリア人」もいるのです。物理的、心的距離が無関心を生み出します。ヴィーゼルは無関心を鈍感と捉えて「人を助ける時には、ただドアを開けるだけで良い」と言いました。何もかも出来ませんし、誰でもが出来る訳でもありません。しかし、実際に出来た人もいます。また、私たちには祈ることが出来るのです。そして、フランクルが言うように「人は死ぬまで成長できる」のです。心を開き、祈り続ければ、それは必ず行動に結び付き、道の反対側を通り過ぎる回数が少しずつ減って行くはずです。

大西秀樹医師

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2017年11月20日

神さまの大きな背中【イザヤ 46:1〜4】

聖句「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(46:4)

1.《抱っこ》 最近では、街中で赤ちゃんを「おんぶ」している人を見掛けなくなりました。若いパパママはベビーキャリアを装着して抱っこしています。世界でも「おんぶ」する民族は少数派ですが、背中であやしながら、開いた両手で料理や洗濯が出来る凄い文化です。但し、周囲の共同体に対する信頼があることが前提です。「周りは他人」の都市文化では「おんぶ」は難しいのです。

2.《おんぶ》 欧州人に「おんぶ」の習慣はありませんから、聖母子像や降誕の聖画を見ても「抱っこ」です。唯一の例外が、幼いイエスさまを「おんぶ」して川を渡った、聖クリストフォロスの伝説です。それでも絵画を見ると、肩車か立ち乗りに成っています。欧州人に「おんぶ」は分からないのです。キリスト教が欧州に伝えられる以前、つまり、聖書を見ても「背負う」の表現はありますが、それは「赤ん坊を負ぶる」ことではありません。芝居の『屋根の上のヴァイオリン弾き』の「サンライズ・サンセット」の歌詞を見ると、寝た子を抱いてベッドに運ぶ「carryed」を「いつもおんぶしてた」と訳しています。

3.《踏み台》 聖書には「おんぶ」こそありませんが、子どもを抱きかかえて運ぶ「抱っこ」はあります。バビロンの神々の偶像は神輿として人間が担ぎ、家畜に背負わせる物だが、創造主である私は、あなたがたが胎にある時から年老いるまで「抱っこ」すると、主は仰るのです。「私が/アニー」の語が繰り返されて「おんぶに抱っこ」です。但し「甘えっ放し」には為さいません。その時々に「受容の背中」「拒絶の背中」「模範の背中」を示して、私たちの成長を促されるのです。子が「偶像」ではなく、真実を求めて生きるように導くのが大人の責任です。そのためには、自ら踏み台と成ることも厭わないのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:51 | 毎週の講壇から

2017年11月13日

水のこころ【イザヤ 55:9〜11】

聖句「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ…」(55:10)

1.《奇跡の人》 岡田惠和が脚本を担当し、「銀杏BOYZ」の峯田和伸と麻生久美子が出演したドラマが昨年放映されました。流されるまま生きて来た万年青年が、盲聾の7歳の娘を抱えて、毎日サバイバルのような生活を送る元ヤンのシングルマザーに恋をして、自分はその娘の「サリヴァン先生になろう」と決意するところから、泣き笑いの奮闘が始まるのでした。

2.《家庭教師》 アン・サリヴァンは「盲聾唖の三重苦」を負ったヘレン・ケラーを教育した家庭教師です。ヘレンは1歳9ヶ月の時、猩紅熱の後遺症で視覚と聴覚を失い、言葉も話せなくなりました。両親は電話の発明者、ベル博士を通じて、パーキンス盲学校を紹介されます。自身もトラコーマによる失明状態の中から立ち上がり、盲学校を首席で卒業したサリヴァンが家庭教師として、ヘレンの家に来ることになったのです。その時、彼女は弱冠20歳でした。こうして赤ちゃん状態に等しかったヘレンに、指文字で言葉を教える懸命の教育が始まりました。芝居や映画では、この二人の格闘が最大の見せ場です。

3.《流れる水》 漸く人間らしさを回復しつつあったヘレンでしたが、両親の下に戻るや、再び動物のように振る舞い始めます。水差しを零したヘレンをサリヴァンが連れ出し、ポンプから流れ出る水に、ヘレンが「水」と叫ぶ場面は感動的です。しかし、これは劇作家ウィリアム・ギブスンの創作です。ヘレンの自叙伝によると、散歩の途中、忍冬の香りに誘われて泉に行った時の出来事だそうです。いずれにせよ、生きた水の流れがヘレンに言葉と魂の目覚めを与えたのは事実です。『奇跡の人』の原題「The Miracle Worker」はサリヴァンのことですが、奇跡を起こした働き手は、天から与えられた水だったのです。

朝日研一朗牧師

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2017年11月06日

死と陰府の鍵を持っている【黙示録1:9〜20】

聖句「わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。」(1:17,18)

1.《玄関の鍵》 とある婦人から問い合わせがありました。「バザー会場に鍵を落としたかも知れない」と仰るのです。外出から戻って、玄関の扉を開けようとした時に、鍵が見付からなくて慌てた経験は、誰にでもあるでしょう。昔は外から閉める自宅の鍵は存在せず、夜間に内側から閂をするだけでした。自宅には必ず誰かしら家人が居り、帰宅すれば「お帰りなさい」と迎えてくれたのでした。

2.《聖書の鍵》 宝物庫や蔵のために鍵はあり、それを持っているのは王と祭司、豪商でした。つまり、特別な力と権威の象徴だったのです。魔道書『ソロモンの鍵』は、ソロモン王が72匹の悪魔を使役したという伝説から生まれた魔法の解説書です。「ダビデの鍵」(3章7節)と言ったら、「ダビデの子」「ダビデの孫生」「ダビデの若枝」と同じく、メシアの力と全権を意味しました。ディオクレティアヌス帝の迫害時、エーゲ海のパトモス島に流刑され抑留されたヨハネに、キリストの幻が顕われ、「死と陰府の鍵を持っている」と仰るのです。

3.《人生の鍵》 「最初の者/プロートス」「最後の者/エスカトス」に加えて「生きている者」でもあります。人間の原型と最終形態、そして刻々と変化する全ての「命/ゾーエー」でもあるのです。生も死も超越した御方である故に「死んだが、生きている」ではなく「死んで、尚生きている」と読みたいのです。「陰府」は「冥界の王ハデス」、「死」は「死神タナトス」です。今や命の主であるキリストが「冥王」や「死神」に取って代わられたのです。いずれ私たちも臨終の時を迎えます。その時、決して独りぼっちではないのです。イエスさまが傍らに居られ、永遠の命へと導いて示して下さるのです。

朝日研一朗牧師

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2017年10月30日

門前の小僧も血迷う【マタイ7:13〜14】

聖句「狭い門から入りなさい。…命に通じる門は何と狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。」(7:13,14)

1.《10月31日》 ハロウィンの起源はケルト文化圏の収穫感謝祭です。この日が大晦日、1年の暮れで、死霊が自宅に戻り、妖精や魔物が活動する夜でした。それで魔除けの仮面を被り篝火を焚いたのです。紀元8世紀、この風習に目を付けた、ローマ教会は「諸聖人の日」の前夜祭として聖遺物を展示しました。この御開帳に、人々は群れを成して聖人の霊験に与ろうとしたのです。

2.《教会の扉》 サンピエトロ大聖堂の再建資金を集めるため、ローマ教会は免罪符を乱発しました。1517年、ハロウィンの聖遺物御開帳に発売日に、ルターは教会の扉に「九十五箇条提題」を貼り付け、「天国は金で売り買いするのは間違っている。信仰によって初めて天国に行けるのだ」と主張したのです。当時、公開討論を呼び掛ける場合に、教会の扉に公示する慣例でしたが、教会の扉が「天国の門」の象徴であったことも忘れてはなりません。「これさえあれば天国に行ける」と喧伝して憚らない、免罪符に対する反論なのですから「教会の門」なのです。因みに「門/ピュレー」には「扉、戸口」の意味もあります。

3.《恵み発見》 三浦綾子の小説『千利休とその妻たち』では、利休が新しい茶室を考案する際に、後添えのおりき(宗恩)が「狭き門より入れ」の聖句を伝えて、狭くて低い「にじり口」が出来たという設定です。宗教改革によって奪われた失地回復のために、イエズス会が東洋に宣教師を派遣し、キリシタンの教えが侘び茶を完成させる、全て「狭き門」で繋がっていたら愉快です。「門」が「狭く細い」理由は「見出す者が少ない」からです。命も何かも賜物であることを発見する人は少ないのです。もしも門の狭さに気付いたならば、誰でも身を屈めて入っておいでと、イエスさまは仰っているのです。

朝日研一朗牧師

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2017年10月23日

何か善いことを【ルカ16:1〜13】

聖句「不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金が無くなった時、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」(16:9)

1.《福音書の悪人》 イエスさまの譬え話に登場するのは、善人ばかりではありません。押し込み強盗、追い剥ぎ、毒麦を蒔く敵、葡萄園の主人の息子を殺す農夫、大酒を飲んで仲間を殴る下僕、だめんずの代表、放蕩息子などが次々と出て来て、さながら「悪党列伝」です。これは当時の世相の反映であり、私たち自身の中にいる悪意や悪念でもあるのです。それ故、説得力があるのです。

2.《不正な管理人》 「管理人」は「家令/家の世話をする人」です。主人の財産管理を任されているのを良いことに、それを高利で貸し付けて、利子を懐に入れていたようです。内部告発で管理人の職を解かれそうになった彼は一計を案じます。債務者の所に証文を持って回り、借金の利息をチャラにして恩を売るのです。こうして自分が解雇された時、迎え入れてくれる新しい会社回りを兼ねたのでした。如何にも生臭い話ですが、この先は、あり得ない展開に変わります。それを知った主人が管理人の「抜け目ないやり方」を褒めたというのです。ここがイエスさまのワープです。ここからは信仰の話なのです。

3.《富も使いよう》 この世の終わり、人生の終わりには、金など何の役にも立ちません。その時のために今から「不義の富」で「友達を作れ」と仰るのです。「不義の富」は「マモン/この世の富」、「友達/フィロス」は「愛される、愛すべき、親しい」という意味です。この世の富はこの世でしか価値がありません。しかし、この世では未だ使い道があるのです。それを活用して「愛のある関係を作れ」「愛すべき者たちを守れ」と言うのです。ディケンズの『クリスマス・キャロル』は守銭奴スクルージが「過去は変えられぬが、未来は変えられる」と回心して、富を用いて多くの人の「善き友人」と成る物語でした。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:48 | 毎週の講壇から