2018年11月05日

来る年も来る年も【士師記11:34〜40】

聖句「来る年も来る年も、年に4日間、イスラエルの娘たちは、ギレアドの人エフタの娘の死を悼んで家を出るのである。」(11:40)

1.《死の無残さ》 人生の歩みが十人十色であるように、最期の迎え方も同じではありません。同じ病気で亡くなろうと、同じ日に亡くなろうと、全く異なるのです。死は自然の理と言いつつも、愛する者と引き裂かれる人にとっては大きなダメージです。医療の発達により長寿が可能になっても、死の実態は変わっていません。ある日、私たちの絆は無残に断ち切られてしまうのです。

2.《士師エフタ》 勇者エフタはギレアドの長老たちに乞われて、軍の司令官と成り、アンモン人との戦いに勝利します。しかし、決戦の前に「勝利の暁には自宅から私を迎えに出た者を生贄に捧げる」と神に誓いを立てるのです。人間の体と命を捧げる「人身御供」が最も強い影響力を持つとされていたのです。結局、父の凱旋を喜び飛び出した一人娘を生贄に差し出すことになります。エフタは勇者と言っても、実の娘に優しい言葉も掛けず逆ギレするダメ男の典型です。その無責任、無慈悲、無節操は、彼が「ならず者」の親分だった出自を思わせます。男の「冒険」の尻拭いを女性がさせられているのです。

3.《エフタの娘》 娘は12〜13歳の女の子のはずですが、父の誓いの責任を自ら果たそうとするのです。古代社会では、妻となり母となり、子をもうけることが女性の唯一の義務とされていました。さもなければ、神からも民からも「記憶されない者」として打ち捨てられるのです。父のため、その運命を受け入れた娘は、結婚式の付添い人を思わせる女友だちと最期の日々を過ごします。娘は生贄にされますが、少女たちは彼女のことを忘れず、その記念の儀式は伝統に成ったのです。作家の高橋たか子は「死者に対する礼儀は2つある。1つは沈黙すること、もう1つは、彼らのことを決して忘れないこと」と言います。

朝日研一朗牧師

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2018年10月29日

悲しみが喜びに変わる時【ヨハネ16:15〜24】

聖句「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」(16:20)

1.《年末の第九》 年末に「第九」の演奏会が恒例になったのには、2つの契機があったと言われています。1943年の学徒動員で兵隊に取られる音大生たちが、入隊直前に「第九」を演奏、その多くが戦死し、戦後、彼らへのレクイエムとして演奏された説。また、戦後の食糧難の折り、NHK交響楽団が楽団員の年越し費用を稼ぐためにk恒例化したとも言われています。

2.《契約の更新》 ベートーヴェンは弱冠25歳にして音楽家として成功を治め、ウィーン社交界の花形と成りますが、やがて難聴に苦しめられ、数年後には自死を思う程に追い詰められます。何しろ、聴覚は音楽家にとって最も大切な感覚です。それを失ってしまったのです。そして、他の人に聞こえる音が、自分には聞こえない不幸は、彼を二重に苦しめたのです。その心中を、弟たちに宛てた「ハイリゲンシュタットの遺言」の中で吐露しています。しかし、芸術への愛の故に踏み止まるのです。ですから「テスタメント」には「遺書」ではなく、むしろ「覚悟表明」「神との再契約」の意味があります。

3.《生まれる時》 私たちの人生にも不幸や苦難の時が訪れます。聖書で「杯」「器」と言うのは、自分の分を表わします。キリスト教信仰は、不幸に対する優れた解釈であり、不幸と向き合う姿勢です。それ故、主は「悲しみは悲しみのままに終わらない」と仰るのです。女性が出産に際して味わう苦しみを例に挙げていますが、「変わる」も「ゲンナオー/子を産む」です。いつか、その悲しみが深い喜びを生み出すのです。「自分の時が来たからである」は、イエスさまの「わたしの時」、十字架の時に通じます。それこそ「人生のクライマックス」、私たちは皆、この時を受け取るために生まれて来たのです。

朝日研一朗牧師

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2018年10月15日

光あるうちに光を信ぜよ【ヨハネ12:27〜36】

聖句「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。…光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(12:35,36)

1.《リプレイ》 誰でも「人生、もう1回やり直せたら」と考えることがあります。ケン・グリムウッドのSF小説『リプレイ』(1988年)では、心臓発作で死亡した主人公の意識が戻ると、18歳に戻っています。その後「強制終了」と「強制再生」が繰り返されるループと成るのですが、何度、過去をやり直しても死は避けられません。過去を変えることに大きな意味は無いのかも知れません。

2.《時がある》 何も「タイム・トラベル・ファンタジー」は小説や映画の中だけの話ではありません。私たちの肉体は時間と空間に縛られていますが、精神は自由なのです。だからこそ、私たちは、亡き人を想起したり過去を懐かしむことが出来るのです。そのジャンルの先駆けとされる、英国の児童文学者、アリソン・アトリーの小説『時の旅人』(1939年)巻頭の題辞に「時あり、時ありき、時はなし」と記されていました。人間には時の移ろい、時の流れを止めることは出来ませんが、その時を知って、決断したり行動したりすることは出来るのです。残念ながら、その時を逃してしまうこともあるのですが…。

3.《光の歩み》 イエスさまの仰る「光と闇」は「昼と夜」です。その意味で日時計を思い出させます。「日時計」は何の仕掛けも無い「ダイヤル/目盛り」に過ぎません。多くの日時計には碑銘が刻まれています。例えば「私は晴れの日だけ時を刻む」「暗い時は刻まず、日の当たる時のみを刻む」とかです。人生には明るい日も暗い日もあります。しかし、復活の光、命の光を投げ掛けられるイエスさまは、闇を抱える私たちを照らし「光の子」へと変えて下さるのです。日時計と同じく、私たちの闇の業をカウントせず、光の業だけをカウントして下さるのです。その約束の徴こそ、この日曜日の朝の礼拝なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:54 | 毎週の講壇から

2018年10月08日

すべての人と和らげ【ローマ 12:9〜21】

聖句「すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」(12:17,18)

1.《フィラデルフィア》 映画『ロッキー』の舞台は、ペンシルヴェニア州フィラデルフィアです。ここに合衆国建国の理念の原点「信教の自由」があるからです。クエーカー教徒のウィリアム・ペンが、欧州の宗教迫害や不寛容から逃れて来た、全ての教派の人に開かれた町として設立したのです。人が自らの信念によって自由に生きることが保証されているのです。

2.《結び合わされた者》 フィラデルフィアとは「兄弟愛」を意味します。新約聖書に174回も使用される語です。「兄弟愛」と言っても肉親のことではありません。地縁血縁の紐帯ではなく、信仰による繋がりなのです。残念ながら、仲間意識には排他性と現実逃避が付きものです。誰かと誰かが盛り上がれば、疎外感に悩む人が出て来ます。仲間意識を保ちながらも、内輪で固まらず、常に外の人に目を向ける姿勢が大切です。日本では「ブレザレン」を「兄弟」ではなく「同胞」と訳しました。日本語の「兄弟/姉妹」に比べて、ギリシア語の「アデルフォス/アデルフェー」が、性差を強調していないことも忘れてはなりません。

3.《真の幸福とは何か》 キリストに結ばれた者は、年齢の序列や性差、性別も超えて行くべきです。仲間意識も超えて行くのです。勿論、核に成るのは「兄弟愛」ですが、旅する同信の友、喜ぶ者と悲しむ者、身分の低い人へと順々に、その愛は広がって行き、敵や迫害する者にまで向けられるのです。一足飛びに出来ることではありません。「せめて」と訳されている語句は「あなたがた自身に応じて、あなたがた次第、あなたがたに掛かっている」です。自分の愛が偽りであることが露わになるかも知れません。しかし、失敗と挫折を繰り返しながら、神の下さる祝福を信じて、真の幸福を求めて参りましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:56 | 毎週の講壇から

2018年10月01日

裸の大将の失楽園【創世記3:8〜19】

聖句「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」(3:10)

1.《いちじくの葉》 米国のドラマ『デスパレートな妻たち』のタイトルは、クラナッハの「アダムとエバ」から始まり、女優陣が真っ赤な毒リンゴを手にして登場します。「禁断の果実」がリンゴになったのはラテン語の語呂合わせからです。他方、アダムとエバが腰に巻いたイチジクは実名です。英語で「いちじくの葉」と言えば「都合の悪いこと、恥ずかしいことを覆い隠す」の意味です。

2.《顔向けできぬ》 しかし原典は「彼ら自身のために帯を作った」とあるだけで「隠した、覆った」の含みはありません。性的な深読みを始めたのは、後代の人たちの妄想に過ぎません。「腰に帯する」のは自我、自意識の表われです。彼らが逃げ隠れするのは、神さまが園の中をやって来る「足音」(もしくは歌声、話し声)を聞いた瞬間です。約束を破って「顔向けできない」気分だったのです。「今更どの面下げて会いに行けるかよ」と言うのは社会的な立場のない人です。アダムとエバは「どこにいるのか?」という神の呼びかけに、素直に出て来るのです。それでは、なぜ「恐ろしくなり、隠れた」のでしょうか。

3.《裸であること》 エデンの園の中では裸が当たり前でした。岩波版「創世記」では「彼ら二人は裸であった。彼らは互いに恥じることはなかった」と訳されています。「裸であったが…」ではなく「裸であるが故に」と読むことも出来ます。衣服は階級や貧富の差を示します。園を追放された人間たちは、もはや愛と信頼で結ばれた「隣人」ではいられなくなります。支配/被支配の関係(16節)が生まれたのです。御前にあって、私たちは上下、主従、優劣の関係を前提に生きるべきではないとのメッセージが込められているのです。神に対しても人に対しても「裸の生き方」を示されたのが、十字架のイエスさまです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:51 | 毎週の講壇から

2018年09月24日

人生の採点表【マタイ25:31〜46】

聖句「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。」(25:37)

1.《ぼくの採点表》 映画雑誌「SCREEN」に48年間も連載された、双葉十三郎の新作映画の評点記事です。「五つ星採点システム」による辛口の評論でした。それでいてBC級の作品にも愛情をもって論評なさっていました。近年は、どの分野でも価値基準が曖昧になり、目利きの批評家が消え、無教養、且つ無責任な「いいね!」「ヤダネ!」の単純な二者択一が幅を利かせています。

2.《点数稼ぎか?》 星をつける採点システムを始めたのは、タイヤメーカーのミシュランかも知れません。イエスさまも「五つ星採点」です(日本語訳では「見て」が5回、原典では3回)。飢える人、渇く人、旅する人(異邦人)、裸の人、病人や囚人へのケアが採点基準になっています。但し「御国を受け継ぎ」「永遠の命に与る」ために、せっせと善行を積んでいるとしたら、独善的な点取り虫、いけ好かないゴマすり野郎に過ぎません。実際「正しい人たち」は、御国の王から招き入れられた時にも、自分たちが善行をした等と露ほどにも思っていなかったではありませんか。数えても覚えてもいなかったのです。

3.《最小でも同胞》 反対に「呪われた者ども」は「自己採点」に余念がありません。「正しい人たち」は困っている人を見て助けただけで、キリスト等は見ていませんでした。しかし、自分が高得点を取ることを目指す人は、キリストを探して人などは見ないのです。彼らの反論に対して、主は「私の兄弟である、この最も小さい者の一人」と仰います。「最も小さい者」は「ミクロス」の最上級「取るに足りない」、「兄弟」には「母胎」の含みがあります。主は「私と同じ人の子」「私の同胞なのだ」と、小さくされた人への愛を訴えます。もし人生に採点表があるとしたら、如何に多く深く愛したかを映し出すでしょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:52 | 毎週の講壇から

2018年09月17日

いのちの深呼吸【創世記2:6〜9】

聖句「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(2:7)

1.《夕べの風》 連続テレビ小説『半分、青い。』では、鈴愛と律が「そよ風の扇風機」の開発に取り組んでいます。聖書に登場する最初の風は、夕方のそよ風です。「日の涼しい風」(創世記3章8節、協会訳)とありますが、ユダヤ教では1日の区切りは夕べにあるからでしょう。顧みて、異常な酷暑で夕涼みの習慣も無くなった私たちは、自然の風を感じることが少なくなりました。

2.《風が必要》 以前、板橋区の園芸センターで鉢植えを物色して、温室のような店内で、観葉植物や大輪の花を観ていた時、店員に聞くと「植物には、陽の光や水や肥料だけではダメで、風が必要なのだ」と教えてくれました。植物が生きて行くために、成長するために風が必要なのだということは、植物学界で理論化されているのかどうか知りませんが、少なくとも園芸店の経験則として受け継がれているようです。目から鱗でした。「天地創造」の記事に「風の創造」は出て来ませんが、その代わりに、主なる神が吹き込んだ「命の息」があります。植物のみならず、動物や人間にとっても「風」が必要なのです。

3.《生ける魂》 関連があるのは「土」と「人」だけではありません。「生きる者」は「生ける魂」ですが、「命の息」の「命」にも「魂」の意味があります。ラテン語訳の「息/スピーラークルム」は「風窓、空気孔」です。「スピリチュアル」と言うと、胡散臭い霊媒師や自己啓発が出て来て如何にも風通しが悪い印象がありますが、真の霊性はそよ風が入って来るような爽やかさなのです。植物が花を咲かせ、実を付けるのは年に1度です。コンビニ化された社会で、私たちも成果主義に取り憑かれて「死んだ魂」と成っています。ありのままに雨風を身に受けて生きましょう。神さまは必ず良い風を送って下さいます。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:53 | 毎週の講壇から

2018年09月10日

聖書は食べられません【エゼキエル2:8〜3:3】

聖句「『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』 わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。」(3:3)

1.《聖書の始末》 私の師、深田未来生はUMCの宣教師を隠退した後、米国の高齢者村で暮らして居られます。彼が手伝っている古本市に持ち込まれる聖書の処分に悩んでいるそうです。手垢が付いて汚れていれば、他の書籍は紙ゴミですが、誰かと人生を同伴して来た聖書だけに、捨てるに捨てられず、売れないことは明らかなのに、市の片隅に置いてしまうとか。米国ならではの悩みです。

2.《聖書と対話》 「バイブル」は「紙草/パピルス」から「書籍/ビブリア」と変化した語で、単に「本」という意味です。それが「聖書」として神聖視されるに至るまでには紆余曲折の歴史があります。世界中で1年間に7億冊も出版され、ホテルにも備え付けられていて、有り触れているが故に、実際には読んで貰えないという逆転現象もあります。聖書は大昔の歴史を綴った本ではなく、歴史を通して働く神を、現代の私たちに証しするものです。それによって私たちの命や人生の意味を問い直すのです。従って、その問い掛けの姿勢さえあれば、信者/非信者に関わり無く、聖書は対話の相手に成ってくれるのです。

3.《甘みと苦み》 私の知人に、実際に聖書を暗記しては1ページずつ食べた人がいます。何とか聖書の御言葉を自分のものにしたいと願われたのです。聖書には「御言葉を食べる、巻物を食べる」行為が描かれています。エゼキエルの場合には、預言者活動の通過儀礼だったのでしょう。その巻物には、神の「哀歌、呻き、嘆き」が記されていました。悲しみは「苦み」です。罪の世にありながら、人間如何に生くべきかと問うことは甘くはありません。聖書の苦みを知り、御言葉の魅力を感じるようになるためには、それ相応に、人生の苦しみ悲しみを体験しなければなりません。精神的、霊的な成長が必要なのです。

朝日研一朗牧師

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2018年09月03日

植わった場所で実りなさい【ルカ 13:6〜9】

聖句「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。」(13:6)

1.《しんなり生きる》 リストラや介護離職を契機に孤立した中高年、専業主婦の「ひきこもり」の存在も明らかになり、今や日本の「ひきこもり」人口は百万人を突破していると言われています。お笑い芸人「髭男爵」の「山田ルイ53世」は自身も「ひきこもり」体験者ですが、「皆がキラキラ輝かなくても良い。もっとしんなり生きても良いんじゃないですか」とコメントしていました。

2.《サポートする人》 「しんなり」は「主役」ではなく「脇役」の生き方と言っても良いでしょう。米国では「助演」がプロフェッショナルの仕事として認められています。聖書の主役は「葡萄の木」であるイエスさま、私たちはその枝、主にお仕えする者です。その意味では、いちじくは脇役ですが、決して不要な存在ではありません。葡萄園では、葡萄を移植する時には、いちじくの木に葡萄の蔓を這わせたそうです。いちじくの木は葡萄の実りを支える「葡萄棚」として利用されていたのです。しかも、葡萄園の主人は「主役」の前を素通りして、「脇」にあるいちじくの実りを熱烈に求めているのです。

3.《実を求めて待つ》 「探す−見つける」のモチーフは「ルカ」の定番です。「3年もの間」は「何年も何年も」です。主人の愛着の程が窺い知れます。彼の激しい怒りは悲しみの裏返しです。「土地を塞いで置くのか!」は「仕事をしない者、役立たず」という語ですが、彼の求める「実」は「生産性、利益還元」ではなく「創造の業、神の義に対する応答」です。「園丁」は単なる「番人、庭師」ではなく「葡萄を作る人」ですが、いちじくの木のために尽力を惜しみません。それは、彼が主人の真意を心得ているからです。葡萄園の主人こそは、手ずからいちじくを植えて、これを愛して止まないからです。

朝日研一朗牧師

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2018年08月27日

ルックスではなくハートを【Tサムエル16:5b〜13】

聖句「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(16:7)

1.《石の中の剣》 ディズニーアニメ『王さまの剣』は、領主の下働きをする孤児の少年が魔術師から本当の強さと優しさを学び、石に刺さった剣を抜いて「未来の王」と成って行く物語です。アーサー王物語を下敷きに、英国のT・H・ホワイトが大戦中に書いた小説が原作です。少年の名前は「Wart/イボ」です。今は「味噌っカス」のあなたも「未来の王」だというメッセージです。

2.《胸の中の剣》 アーサー王の剣と言えば「聖剣エクスカリバー」です。石から抜いたのは「カリブルヌス」と言われます。しかし、大切なのは剣の銘ではなく「心に剣を持つこと」です。細田守監督の『バケモノの子』では、熊徹が「あるだろ!胸ん中に剣が!」と孤児に語り掛けます(剣を握ることをしない私たちは「霊的な孤児」なのです)。キリスト教会は、この世を生き抜くための「剣」を求める者たちの集いです。「信仰」「愛」「希望」等、その信念の名前は何でも構いません。それを握り締めて歩んで行くのです。正解を言葉で言うのは簡単です(ルカによる福音書10:28)。それを実行するのは一生ものです。

3.《選びの基準》 神さまは「人間が見るようには見ない」のです。預言者サムエルがエッサイの家を訪れて、次代の王を探します。家の息子たちが順に紹介されます。いずれも美丈夫な青年ですが、神はお選びになりません。「人間は両の眼で見る。しかし主は心で見る」と書いてあります。「心を見る」のではなく「心で見る」のです。「外面ではなく内面を」と解釈されて来ましたが、「未来の王」ダビデも多くの罪を犯します。むしろ、主の心の琴線に触れる何かがあったのでは無いでしょうか。私たち自身の心が本当に豊かでなければ、神さまがその御心をもって、私たちに触れて来て下さることは決してありません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:53 | 毎週の講壇から