2016年05月09日

母鳥と雛鳥のために【申命記 22:6〜7】

聖句「母鳥をその母鳥が産んだものと共に取ってはならない。必ず母鳥を追い払い、母鳥が産んだものだけを取らねばならない。」(22:6,7)

1.《雀の姿焼き》 私は生まれついての下戸でありながら、学生時代には、酒に強く成ろうと無謀な修行を続けていました。神学生の集まる一杯飲み屋で、酒のアテに「スズメ」が出て来て驚きました。現在でも伏見稲荷神社の門前町では、雀と鶉が姿焼きで売られています。大阪の新世界では、狗の肉が売られていました。聖書を読む場合、私たちが最も想像力を向けなくてはならないのは「屠る、捌く、調理する、食べる」という生活実感なのです。

2.《食物タブー》 聖書に「羊」「パン」と言われても、すぐに食べ物と認識しない私たちには、聖書の信仰を受容できていないのです。キリスト教には食物タブーは何もありませんが、旧約時代のユダヤ教徒は「レビ記」や「申命記」に記載された食物タブーに神経を尖らせながら暮らしていたのです。私たちにとって「鰻」は高級食材ですが、旧約の民にとっては食べ物ではありません。どの生き物を「食べ物として認識」するかは、それぞれの宗教や文化、時代や状況によって大きく異なりますが、その実感が大切なのです。

3.《小鳥を守る》 「申命記」は律法、規則の本です。規則と言うと、誰も好印象は持ちませんが、時折り愛らしい戒めもあるのです。ユダヤで鶏の飼育が広まるのはマケドニア帝国時代からです。それ以前には、卵は野鳥の巣から取るしかありませんでした。貴重な蛋白源でした。春に成ると家族総出で「卵探し」に出掛けました。人間が卵や雛鳥を奪い取るのを見詰める母鳥を慮っているのです。規則には、それが生まれる経緯と背景があります。恐らく、旧約の民もまた、親子が引き裂かれるような別離の体験を知っていたのです。また、規則は、弱い立場にある者たちを救うためにこそあるのです。

朝日研一朗牧師

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2016年05月02日

いつだって天国【マタイ28:16〜20】

聖句「だから、あなたがたは行って、全ての民を私の弟子にしなさい。…わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(28:19,20)

1.《天国と地獄》 「文明堂のカステラ」のCMでは、子熊たちが「天国と地獄」のカンカンを踊ります。そもそも、オッフェンバックの背徳的なオペレッタ『地獄のオルフェ』のクライマックス、地獄の者ども天の者ども入り混じって乱痴気騒ぎをする場面に付けられた「地獄のギャロップ」です。それが健全な運動会に使用されているから愉快です。落語の『地獄八景亡者戯』にも通じますが、地獄をも天国に作り変えてしまうバイタリティは素晴らしいと思います。

2.《昇天しない》 イエスさまは弟子たちを山の上に集めて、「全世界に福音を宣べ伝えよ」と「派遣命令」を出され、その後に「昇天」というのが、私たちの固定観念です。ところが、「マタイ」には「昇天」が存在しないのです。「はじめてのおつかい」のように、弟子たちが心許無くて、イエスさまは陰ながら見守って居られたのでしょうか。しかし、それでは、わざわざ弟子たちを山の上にまで集められた舞台設定が生きて来ません。御膳立ては終わっているのに、どうしてイエスさまは弟子たちの目の前で昇天しないのでしょうか。

3.《パラダイス》 私たちの人生も日々の暮らしも、常に楽しく安楽という訳ではありません。むしろ、悲しみや苦しみ、痛みや悩みに満ちています。周りの人たちの協力や励ましを受けて乗り越えられることもありますが、解決できない問題も多々あります。「この世を地獄」のように感じて、自らの命を絶つ人や自暴自棄に成る人もあります。共に十字架に磔にされた犯罪人に、主は「今日あなたは私と共にパラダイスにいる」と宣言されました。イエスさまと共にいる時、たとえ「地獄」でも「天国」なのです。「地獄」を「天国」に作り変えることが出来るのが、信仰なのです。その逆ではありません。

朝日研一朗牧師

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2016年04月25日

自分を変えてもらおう【ローマ12:1〜8】

聖句「あなたがたはこの世に倣ってはいけません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか…を弁えるように…。」(12:2)

1.《お仕着せ》 黒澤明監督の映画『赤ひげ』には、感動的な「お仕着せ」の話があります(山本周五郎の原作にはありません)。「お仕着せ」と言うと、何かを上から無理に押し付けられるようなイメージを持ちますが、大店の主人が奉公人たちに用意して上げる着物で、「四季施」とも書いたそうです。実際には盆と暮れに支給されて、丁度、現在のボーナスのようなものでした。私たちは礼拝生活を押し付けと考えるでしょうか。恩典と考えるでしょうか。

2.《モールド》 本田哲郎神父は、釜ヶ崎の日雇い労働者たちの人生に学びながら聖書を翻訳し、「世間に合わせる必要は無い」という福音を発しています。「心を新たにして」は「判断の視座を新たに」、「何が善いことか」も「何が人に親身なことか」と訳します。大戦中、空襲下のロンドンで青年たちと聖書研究を続けたJ.B.フィリップス牧師は「世間の窮屈な鋳型に嵌め込まれないように」「神に精神を内側から改鋳して頂くように」と訳しました。「鋳型/mould」「改鋳/re-mould」という語から、軍隊や組織からの解放を表現しています。

《ボーナス》 「心を新たにして」は「心機一転」して一大決心のイメージですが、「心」と訳される「ノオス」は「意識の向かう方向性、考え方」です。向きを変えることが大切なのです。「変えて貰いなさい」も「メタモルフォーセ」という語が使われていて、具体的な「変身」「変形」です。とは言え、自分を変えることは難しいのですが、神さまが変えて下さるのです。ここに「お仕着せ」の意味があります。私たちは世の価値観に翻弄され、惰性に流されて、無感覚無関心に成っているのですが、当たり前の事など何も無いのです。礼拝は、神さまの働き掛け(ボーナス)に対する、私たちからの感謝の応答です。

朝日研一朗牧師

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2016年04月18日

心はふしぎな所【申命記6:4〜9】

聖句「我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(6:4,5)

1.《三つの心》 戦国時代に来日し、イエズス会の通訳として、秀吉や家康とも深い親交のあったロドリゲスは、「日本人は3つの心を持っている」と書き残しています。口にある偽りの心(建前)、胸に秘めて友人だけに見せる心(本音)、更に終生、誰にも明かさない深く秘めた心です。下克上の戦国乱世だけに、本音と建前との乖離は凄まじかったと思います。しかし、「3つの心」を持って使い分けているのは古今東西、同じではないのでしょうか。

2.《三つの座》 旧約聖書も人間の「3つの心」を言います。「内臓、腸/ケラーバイーム」は感情や性格の座です。「詩編」103編1節の「私の内にあるもの」と訳されているのは「私の内臓」です。お母さんが自分のお腹を痛めて、我が子を産むように「思いの丈」が宿っているのです。「胸/レーブ」は理知や意志の宿る座で、まさに、日本語の「旨」に通じます。「魂」と訳されることの多い「ネフェシュ」は活力と命ですが、「喉」という意味です。面白いことに、旧約聖書の身体イメージでは、心は腹と胸と喉とにあるのです。

3.《唯一の主》 「心/レーブ」と「魂/ネフェシュ」と「力/メオード」を尽くして…と言われています。「力」は「腹」に宿るのです。私見ですが、胸と喉と腹で主を愛するのです。そもそも、愛するとは、自分の身体をフル活用することなのです。そう考えると「主は唯一」という教えも、「唯一神教の押し付け」ではなくて、「あなたは、私のたった一人の大切な人」という愛情告白なのです。あなたの子や孫は一人っ子でなくても、一人一人が掛け替えが無い大切な存在でしょう。水野源三が「心はふしぎな所」という詩を書いています。主の御手に触れて、信仰と愛と希望と喜びが与えられるのです。

朝日研一朗牧師

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2016年04月11日

羊の門【ヨハネ10:7〜18】

聖句「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」(10:9)

1.《新年度4月》 新入園児や新入学生、新入社員の初々しい姿を見かける季節です。新入ではなくても、転校や転勤、配置転換によって新しい人間関係が生まれます。不安と緊張もありますが、新しい出会いもあるのです。4月を年度初めとする習慣は日本固有の文化で、稲作と関係があります。江戸時代には、年貢は米で換算され、米価が物価の基準とされていたので、作付け準備が始まる4月をもって年度初めとしたようです。

2.《九つの城門》 「入門の季節」、門に思いを巡らせると、小説や映画、彫刻から世界の観光名所まで、数多くの門があります。因みに、江戸城や京都御所、横浜中華街の門は9つあります。北京城の内城も、イシュタル門で有名なバビロンも、城門は9つあったそうです。どうやら人間の肉体に譬えられているようです(目、耳、鼻、口、尿道、肛門)。残念ながら、エルサレムの城門は8つしかありません。「ネヘミヤ記」3章の記事では7つです。しかし、エルサレム神殿の内庭への門は9つあったそうです。

3.《出入り自由》 イエスさまが「私は羊の門」と言われた時、エルサレムの住民は北東の城門「羊の門」をイメージしたはずです。それは「悲しみの道」の出発点でもあります。また、夜間に羊飼いが群れを収容する洞窟や囲いの入り口を想像したはずです。いずれも、夕方には閉じられ、門には兵士や羊飼いが見張りに立って、略奪者や猛獣から守ってくれるのです。朝になれば、農夫や商人は城門を出入りし、羊の群れは牧草を食べに出て行きます。門は「出入り」するための物、閉じ込めたり監禁するためではありません。イエスさまを「通って入る者が救われる」のです。「出たらアウト!」ではありません。

朝日研一朗牧師

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2016年04月04日

天下御免の向こう傷【ヨハネ20:24〜29】

聖句「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(20:25)

1.《傷自慢大会》 スピルバーグ監督の映画『JAWS』の一番の見せ場は、海洋学者のフーパーと鮫漁師のクイントが、お互いの体に残る鮫にやられた傷跡を見せ合った末に、打ち解けてしまう場面です。警察署長のブロディだけは盲腸の手術跡しかなく、盛り上がりに加わることが出来ずに、寂しい思いをするのです。「傷自慢」は、学歴や職歴、役職や肩書き、家屋敷やブランド品を自慢し合うよりも遥かに健全です。「キズバナ」は「コイバナ」よりも罪がありません。

2.《キズキャラ》 有名な「傷キャラ」としては、隻眼隻腕の『丹下左膳』、ボリス・カーロフの「フランケンシュタインの怪物」、『旗本退屈男』が思い浮かびます。いずれも昨今のマンガやアニメにまで受け継がれています。早乙女主水介の額の三日月傷は、歌舞伎の『弁天娘女男白浪』が出典でしょう。しかし、史上最強の「傷キャラ」は、やはりイエス・キリストでしょう。マグダラのマリア、弟子たちが「私は主を見た」と証言する中で、復活の主に相見ゆる機会を逸したトマスが「手の釘跡、脇腹の創傷」を見るまでは信じないと主張するのです。そんな彼の前に、主が現われて傷痕を見せるという展開です。

3.《見知らぬ人》 トマスだけが特に疑い深かったのではありません。弟子たちの前に現われた時にも、主は傷痕を示されるのです。まるで身元不明遺体の確認作業のようです。つまり、復活のお姿は、生前のお姿とは違う「別の姿」だったのです。それだからこそ、復活の主が現われているのに、マグダラのマリアもペトロたちも、エマオ途上の2人も気付かないのです。復活の主は、私たちの前に「見知らぬ誰か」として登場されるのです。「見知らぬ誰か」の抱える傷に気付く時、私たちは復活の主と相見ゆることが出来るのです。

朝日研一朗牧師

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2016年03月28日

友として生きる【ヨハネ15:11〜17】

聖句「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行なうならば、あなたがたはわたしの友である。」(15:13,14)

1.《真の友だち》 世の中には「○○の友」と称する雑誌が数多くあります。各百貨店には「友の会」があり、同好の士が集まるサークル「友の会」も各分野にあります。浦沢直樹の『二十世紀少年』では、「ともだち」と名乗る教祖に率いられたカルト教団が登場し、目的のために手段を選ばぬ権謀術数で、日本の政財界を支配下に置きます。阻止しようとする人たちは資金も組織もなく、自らの弱さに悔し涙を流します。しかし、そこに本当の友情のドラマがあるのです。

2.《友だち宣言》 「論語」に「益者三友、損者三友」と言いますが、「自らに益する友を選べ」との処世訓です。ヘブル語にも3つの「友」があります。「馴染む」という動詞から「人生の伴侶」、「付き合う」という動詞から「隣人、社会的な仲間」を表わす語があります。そして最後に「愛する」という動詞から派生した語があります。これがギリシア語の新約聖書では「フィロス」と成ります。イエスさまは弟子たちに、愛の掟を実践するならば、自分たちは「主従関係」ではなく「友だち」であると宣言されました。自分の立場を捨てて、何かの働き掛けをして行くことで、相手との関係性が大きく変化するのです。

3.《友だち甲斐》 ポーズやジェスチュア、社交辞令や美辞麗句ではありません。問題は、私自身が「自分の殻を破る」かどうかに掛かっています。誰でも自分を最優先にしています。つまり、自らを「主」として生きているのです。いつも自分のことばかり考えています。しかし、人は自分のために生きるようには作られていないのです。誰か他の人のために生きるのです。「仕えること」が「愛すること」です。「自分の命を捨てる」とは「自分の命を置く、預ける、脱ぐ」という意味です。それでこそ「友だち甲斐がある」というものです。

朝日研一朗牧師

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2016年03月21日

亜麻布に包まれて【ヨハネ19:38〜42】

聖句「彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。」(19:40)

1.《お雛巻き》 米国の産婦人科では、新生児をグルグル巻き(Swaddling)にします。私の後輩は、それを見て「エジプトの猫のミイラ」を、連れ合いは「クリスマスのイエスさま」を連想したそうです。最近、赤ちゃんを安眠させる方法として、日本でも若い母親たちの間で流行しています。子宮にいて守られている状態を作り、赤ん坊を安心させて上げるのです。考えてみれば、昔から日本でも「おくるみ」「お雛巻き」として存在していた習慣です。

2.《おくるみ》 クリスマスの記事には「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布に包んで飼い葉桶に寝かせた」とあります。ギリシア語は「産着で包む」という動詞が使われているだけで、布の素材まで言及していませんが、亜麻布であることは間違いありません。インド、メソポタミア、エジプトでは亜麻布の歴史は古く、肌着として普及していました。木綿や羊毛などは、むしろ上着として羽織ったのです。イエスさまの埋葬の場面にも、再び亜麻布の「グルグル巻き」が登場します。「隠れ切支丹」のヨセフと未信者のニコデモが、イエスさまの遺体を懇ろに埋葬して、最大限の愛情を奉げるのは感動的です。

3.《復活の命》 ユダヤにはミイラの習慣は伝わりませんでしたが、亜麻布の包帯で遺体を巻き、香料で腐臭を防ぎました。「顔覆い」も亜麻布の包帯だったようです。「布に包まれて」飼い葉桶に始まった御生涯は、十字架によって断ち切られて、遺体は「亜麻布に包まれて」墓に納められました。しかし、それで終わることはなく、主は復活されたのです。亜麻布は蝉の抜け殻のように墓に残されていたのです。私たちは、死や遺体を穢れとは思いませんし、聖骸布を崇敬の対象ともしません。大切なのは、今も生きて働き給う主御自身です。

朝日研一朗牧師

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2016年03月14日

暗い夜がふけるのは【マルコ15:33〜41】

聖句「そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」(15:39)

1.《十字架の七言》 ローマカトリック教会では「十字架上の七つの言葉」を採り上げて「聖週間」の瞑想の歩みとすることがあります。7つの御言葉を通して、1日ずつ、主の十字架を偲ぶのですが、一度に読んでみると、困ったことに、イエスさまが何度も息絶えて、息を吹き返しているかのような印象を受けてしまいます。「ヨハネによる福音書」から3言、「ルカによる福音書」から3言、「マタイによる福音書」から1言が採られています。

2.《エロイとエリ》 十字架の言葉の中でも、最も胸に迫るのが「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という絶叫です。「マルコによる福音書」では「エロイ、エロイ」とアラム語ですが、「マタイによる福音書」では「エリ、エリ」とヘブル語の呼びかけにされています。イエスさまが日常的に喋っていたのはアラム語ですが、直後の「預言者エリヤに助けを求めているのだ」という見物人の反応からすると、「エリ」でなくては筋が通りません。こんなこともあって「七言」には「マタイ」が採用されています。「マルコ」は「マタイ」の抜粋みたいな半端な福音書という不当な扱いを受け続けて来たのです。

3.《山麓の菜の花》 近代になって「マルコ」の再評価が始まりました。「マタイ」も「ルカ」も「マルコ」を下敷きに書かれたのです。問題は、百人隊長の信仰告白です。「マタイ」では地震とゾンビを恐れたのですし、「ルカ」ではイエスさまを「礼儀正しい人」と評価しています。しかし「マルコ」では、彼は真っ直ぐに死に行く人を見詰めているだけです。ユダヤ人作家、エリ・ヴィーゼルは、アウシュヴィッツ強制収容所で絞首刑に処せられた人を前にして、神の御声を聴きました。河野進牧師は「暗い夜がふけるのは/明るい朝が近づくため」という詩を書いています。そういうことなのかも知れません。

朝日研一朗牧師

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2016年03月07日

それ、無駄使いですか?【マルコ14:3〜9】

聖句「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は3百デナリオン以上に売って、貧しい人に施すことが出来たのに。」(14:4)

1.《ナルドの壺》 「ナルドの香油」はヒマラヤ原産のスパイクナルドとも言われます。その容器「石膏の壺」も雪花石膏(アラバスター)でした。「3百デナリオン」は、当時のローマ軍の兵卒の日当が1デナリオン、現代の米軍兵士の給料から算出すると、1デナリオンは5〜7千円でしょう。150〜210万円もする高級品だったことが分かります。ラベンダー説を採って、プリニウスの記録を参考に算出しても、やはり百万円近くすることでしょう。

2.《何が浪費か》 古代ユダヤの女性たちは、事の他、香料を大切にしていました。若い女性は香油の壺を携えて結婚式に臨みました。婦人たちは愛する夫の弔いに没薬(ミルラやバルサム)を使いました。年若い女性だったとすると、彼女の大切な嫁入り道具だったのかも知れません。裕福でも一生に一度しか使うことのない香油です。それを惜しみなくイエスさまに注いだのです。どんな悲しい事があったのでしょうか。それは誰にも分かりませんが、イエスさまは御存知でした。しかし、「そうは問屋が卸さない」のが世間の人たちです。

3.《意味と価値》 居合わせた男性たちが彼女を「厳しく咎めた」は「馬の嘶きのように鼻息荒く怒鳴り付ける」です。「無駄使い」は「絶滅、破滅、滅亡、浪費」です。女性独りに殴り掛からんばかりの剣幕です。しかし、イエスさまは彼らを制止して「予め私の埋葬の準備をしてくれた」と言って弁護されます。私たちの行ないや人生に意味と価値を与えて下さるのは、そもそも神さまなのです。人間の意味付けは所詮、貨幣価値です。貨幣価値に換算しなければ、意味が見出されません。しかし、お金に換算できない素晴らしいものがあるのです。私たちの命や人生は、本来そういうものであったはずです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:12 | 毎週の講壇から