2016年07月25日

キリスト編み物教室【Tコリント1:10〜17】

聖句「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」(1:10)

1.《編み物》 編み物が趣味の人、習慣的に編む人、片手間に編む人、認知症予防に編む人、誰かのために徹夜で編む人もいるでしょう。吉田聡の『湘南爆走族』の主人公は暴走族の総長でありながら、高校の手芸部の部長でもあるミスマッチな個性が味わいでした。学校に手芸部があるように、英米には「Knitting Club/編み物会」があり、同好の人たちが集まって編み物をします。

2.《クラブ》 米国の『金曜日の編み物クラブ』という小説は「編み物会」の人間模様が描かれています。雑多で我儘な人たちが時と場を同じくすることで、やがて固い絆で結ばれて行くのです。日本は「編み物教室」です。「クラス」と「クラブ」では大違いです。プロテスタント教会も近世に生まれ、近代に日本に入って来たために専ら「教室モデル」に成っていますが、「クラブ」要素も大切にしなくてはいけません。「クラブ」は「塊、棍棒」という語です。しかし、一塊に成ってクラブ、グループが出来ると、一致団結して見えますが、互いに「勝手なことを言い、仲たがいする」ように成るのが世の常です。

3.《クラス》 パウロの勧告は校長先生の朝礼の訓話みたいに鬱陶しく感じられます。そうでなくても日本社会は「同調圧力」の強い風土です。「一致の勧め」も多様性の切り捨て、少数意見の排除、全体主義に成り兼ねません。しかし「一つの、同じ」と訳された「アウトス」は「オートマチック」の「オート/自動的」の語源です。「自発的、自分から」なのです。「固く結び合いなさい」を「一緒に編み物しなさい」と訳した英訳がありました。確かに「ニット」には「強い絆で結ぶ」の意味もあります。私たち自身の綻びや破れを、神の御前に晒け出し、縫い繕い、皆で編み上げて行くのが教会形成なのです。

朝日研一朗牧師

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2016年07月18日

希望を抱いて生き抜くために【使徒言行録24:10〜23】

聖句「更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。」(24:15)

1.《フェリクス》 ディズニーの「ミッキーマウス」(1928年)と田河水泡の「のらくろ」(1931年)は、墺系米人のメスマーとサリヴァンが作った「黒猫フィリックス」(1919年)が源流です。ここには、同じ「フェリクス」という名前の総督が登場します。ピラトから数えて7人目、他の総督たちが腰掛け任期なのに比べると、ピラトの10年、フェリクスの8年は立派です。

2.《分派と異端》 パウロが、エルサレム滞在中にキリストを証したために騒動が起こりました。ローマの市民権を持つパウロは、総督フェリクスの所に護送されて来たのです。キリスト教信仰は「この道」と呼ばれています。未だ名前が無かったとは言え、まるで口に出すのも憚られる「忌み名」のようです。「分派」とも言われています。「協会訳」「新改訳」では「異端」とも訳されていますが、「分派/ハイレシス」に「異端」の含みが加わるのは紀元2世紀以降です。ともかく、他の人から何と言われようと、何と思われようと構いません。一番大切なのは、自分が何を信じているか、信仰と信条です。

3.《復活の希望》 パウロは総督の前で自らの信仰を弁明しますが、自分たちの信仰は「旧約聖書に基づく」と主張すると共に、「復活の希望を抱く信仰」だと表明しています。キリスト教の核は復活信仰なのです。但し、パウロは「正しい者も正しくない者も」と付け加えています。ファリサイ派も復活信仰を持っていましたが、善行と徳を積んだ信仰者のみが復活すると考えていました。しかし、パウロは自分の敵である彼らも、自分を暗殺しようと狙っている者たちも、御心ならば救われると言います。それ故に、ここでの「希望/エルピス」は「絶対用法」なのです。普遍的な、究極の希望とされているのです。

朝日研一朗牧師

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2016年07月11日

キリスト者と呼ばれて【使徒言行録11:19〜26】

聖句「このアンティオキアで、弟子たちは初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」(11:26)

1.《不良少女》 1984年に『不良少女とよばれて』という大映ドラマがありました。母親の一言に傷付いた少女が非行に非行を重ね、少年院送りとなるのですが、指導に来た青年との出会いから民間舞楽の第一人者に成る物語です。これは原笙子の自叙伝のドラマ化です。本人が「不良少女とよばれて」いたのは1950年前後です。いつの時代にも不良少年少女は存在しているのです。

2.《ツッパリ》 「不良少年」と「非行少年」は違います。不良は自らを「不良」と称しますが「非行」とは言いません。「非行」とは飽く迄も大人目線の語です。これは「自らを何者とするか」というアイデンティティの問題として重要です。大学時代にクエーカー教徒の女性から「本当は、自分たちはフレンドと言う」と教えられて目から鱗でした。元々「クエーカー/震える人」の名称は、迫害した側が投げ付けた蔑称だったのです。「メソジスト」もまた「方法を重んじる几帳面な奴」という蔑称です。嘲笑われても「然り」と認めて、そのように呼ばれることを恥としなかったのです。これぞ信仰者のツッパリです。

3.《喧嘩上等》 そもそも「プロテスタント/抗議する人」の名称も、彼らの信仰の自由と良心の権利を踏み躙ったローマ教会側が名付けたものです。ローマ教会が自らを「カトリコス/普遍的な教会」と僭称し続けているのと比べると、興味深いことです。弾圧する側、権力者側や体制側からレッテルを貼り付けられても、売られた喧嘩を買うのです。「キリスト者、クリスチャン」も同様です。当初、信者たち自身は、そう呼ばれることを良しとしなかったのです。しかし、紀元2世紀初めには、その名前の故に苦難を受けても惨めとは思わなくなったのです。まさに「喧嘩上等!」、キリスト者のツッパリです。

朝日研一朗牧師

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2016年07月04日

天使の立っている家【使徒言行録11:1〜18】

聖句「彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。」(11:13)

1.《庭の天使》 自宅の庭や玄関に飾り物を置いている人は珍しくありません。信楽焼きの狸、シーサー、白象、花壇に七人の小人やピーター・ラビット等です。ホームセンターに行くと「エンジェル」「アンジェロ」と称して、クピド風の天使像も販売されています。宗教像専門ショップに行けば、キリスト像や聖母像、聖母子像も手に入ります。しかし、信徒は飾ったりはしません。

2.《使者たち》 サラリーマンやOLが教会の軒下で雨宿りや日除けをしていることがあり、出会い頭に私も驚き、相手も驚かせてしまいます。別に「天使」でなくとも、見知らぬ人が立っていたら驚くのです。ところが、聖書では、天使が出て来ても特別に驚く人はありません。むしろ、百人隊長がペトロに使者を遣わしたことが驚きです。それに即応したペトロも周囲に驚きを与えました。しかし、彼は事前に「神が清めた物を、清くない等と言ってはならない」という主の啓示を受けていたのです。これは異邦人伝道のテーゼです。この一言が無ければ、イエスさまの福音は私たちの所には届かなかったことでしょう。

3.《パシリ道》 「清い」は「聖」です。聖なる神の御前にあって「義」とされること、救われる者です。旧来のユダヤ教徒は、割礼を受けて律法を守る者こそが「清い」と考えました。しかし、割礼も律法遵守も人間の手の業に過ぎません。新約聖書では、聖霊によって清められると主張するのです。昔から「使徒行伝」は「聖霊行伝」と言われます。使徒の言行は、聖霊の働きだからです。そもそも「使徒」も「天使」も「使い」の意味です。若い子たちは「使い走り」を「パシリ」と呼んで蔑みますが、キリスト教信仰は「パシリ道」です。但し、人間ではなく、神さまの「パシリ」に徹するのが私たちです。

朝日研一朗牧師

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2016年06月27日

やもめたちの涙【使徒言行録9:36〜43】

聖句「やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいた時に作ってくれた数々の下着や上着を見せた。」(9:39)

1.《未亡人殉死》 「未亡人」の語には、諸侯の夫が死んだ時、妻も殉じて自刃するという古代中国の習慣の名残があります。インドには古来、夫を焼く荼毘の中に未亡人が飛び込んで自殺する「サティー」という習慣が、つい近年まで残っていました。未亡人になるのは、自身の前世の因業に原因があるとされ、夫亡き後に親族から悲惨な扱いを受けるため、名誉ある死を選ぶそうです。

2.《寡婦クラブ》 「後家」の用法も実に不愉快なものです。それに比べると、「寡婦」の「寡」は「頼り少ない、心細い」ですし、「やもめ」の「やも」は「悩んで夜も寝られない様子」です。ヘブル語「アルマーナー」も「痛みを感じる」、ギリシア語「ケーラ」も「見捨てられて孤独」の意味です。お目出度くはありませんが、悲しみに寄り添う語です。古代のキリスト教会では、登録制度を作って、本当に身寄りのない寡婦を皆で扶養していました。タビタ(ドルカス)を慕う婦人たちも、英米の「寡婦クラブ」のような互助団体、共同生活をしながら裁縫や手織りを習得する職業訓練所や工房だったのかも知れません。

3.《復活の希望》 「共観福音書」の、イエスさまが会堂長ヤイロの娘を生き返らせる話、更に遡れば、「列王記上」17章の、預言者エリヤが寡婦の息子を生き返らせる話に辿り着きます。福音書には、他にもイエスさまが葬列からナインの寡婦の息子を生き返らせる話、墓からラザロを生き返らせる話があり、「使徒言行録」には、パウロが青年エウティコを生き返らせる話があります。「神癒」を売りにしている教会でも、蘇生はありません。また、たとえ蘇生したとしても、また死ぬのであれば、単なる延命に過ぎません。イエスさまの復活と永遠の命を信じなければ、これらの蘇生に何の意味もありません。

朝日研一朗牧師

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2016年06月20日

寂しい道はご一緒に【使徒言行録8:26〜40】

聖句「すると、霊≠ェフィリポに、『追いかけて、あの馬車と一緒に行け』と言った。」(8:29)

1.《エチオピア》 エチオピアと言っても、私たちには縁遠い国です。神田小川町のカレー屋、珈琲豆アラビカ種の原産地、日本の演歌が人気、陸上競技選手を輩出くらいのイメージです。しかし、エチオピアはアフリカ唯一のキリスト教国で、古代のアクスム王国も、20世紀まで続いたソロモン朝という王家も「ソロモンとシェバの女王の血統」を主張していました。

2.《ぎこちなさ》 翻訳は「エチオピア人の高官」に成っていますが、実際にはメロエ王朝の「クシュ人」(現代のスーダン)と思われます。見知らぬ人という意味では、フィリポにとっても事情は変わりません。初対面の外国人(色の黒い人)です。しかも、一方はクシュ王国の財務担当官、他方はエルサレム教会の役員です。全く違う世界に生きて来た二人でした。初対面の相手と接する時、私たちもぎこちない挨拶しか出来ません。頓珍漢な対応に終始することもあります。しかし、声も掛けずにスルーするのは無礼ですし、御心に背くことです。失敗という犠牲を払うことで、私たちは自らの殻を破り成長するのです。

3.《旅は道連れ》 私の後輩のI牧師は教戒師をしている時、集団教誨の場で、「今、洗礼を受けたい」と申し出た受刑者に「また、個人教誨でご相談に乗ります」と応えてしまった失敗を自らの心に刻んでいます。フィリポから聖書の解き明かしを受けた高官は「洗礼を受けるのに何の妨げがありますか?」と尋ねました。理由を付けて妨げるのは私たち自身です。私たちは余りにも「伝道、宣教、布教」を目的化し、「受洗」を目標に掲げるために、却って求道を妨げているのです。聖霊が命じたのは、単にある期間「一緒に行く」ことだけだったのです。「人生は荒れ野」だから「道連れになる」、それが大切なのです。

朝日研一朗牧師

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2016年06月13日

カラスとお花【ルカ12:22〜34】

聖句「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。」(12:24)

1.《トリクソ》 札幌に住んでいた時代、雪融けの季節に、足元に注意を払いながら歩いていると、頭の上にカラスの糞の直撃を受けました。非常に屈辱的でしたが、占いの世界では、鳥は「霊界からの使者」、糞は「金」の象徴なので、鳥糞の直撃は金運の上昇を意味するそうです。宝くじで1億5千万円を当てた人もいるそうです。因みに、鳥糞の白いのはアンモニア、おしっこです。

2.《烏の養い》 カラスは生ゴミを散らかすので、街の嫌われ者ですが、本当は人間が悪いのです。むしろ、聖書では最初に登場する鳥です(ノアの箱舟)。アハブ王の迫害を逃れて、預言者エリヤはケリト川に身を潜めますが、そのエリヤのために、毎朝毎夕、パンと肉とを運んで来たのも数羽のカラスでした。後世の砂漠の隠修士の伝説や聖人伝説の中にも、カラスに養われる話が数々あります。生態学的な観点から、ハシブトガラスではなく、ニシコクマルガラスと推測されます。ニシコクマルガラスには、仲間のために食べ物を譲ったり、食べ物を分け合う習性があるのです。こうしてカラスに養われた人もいるのです。

3.《アネモネ》 古くは「野の百合は如何にして育つかを思へ」と訳されていました。ラテン語訳聖書や英訳聖書も「百合」に成っていますが、ギリシア語「カイノン」は「花」に過ぎません。ヘブル語に変換すれば「シューシャン」「ショーシャンナー」(スーザン、スザンナという名前の語源)です。現代では、この花は「アネモネ」と特定されています。その昔、パレスチナ地方には、白と青のアネモネしか無かったそうですが、キリストの十字架の血潮を受けて以来、赤いアネモネが自生するようになったと言われます。私たちの人生にも、自分の名前や色を変えてしまう程の大きな出会いがあるのです。

朝日研一朗牧師

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2016年06月06日

捨て石が親石になる【使徒言行録4:5〜22】

聖句「この方こそ『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。他の誰によっても、救いは得られません。」(4:11,12)

1.《捨て石発言》 NHK「週刊ニュース深読み」での小野文惠アナの「捨て石発言」が話題になりました。「不妊治療」に取材した番組で「保険の適用を希望する」当事者からの声に対して、「生まれない子どもに税金使うな」という心無い言葉が寄せられて、それに対するコメントでした。しかも、番組ディレクターが彼女に言った言葉「私たちは良い捨て石になろう」の引用で、自身も受け止め切れなくて、番組の出演者に投げ掛ける展開だったのです。

2.《愛の無い事》 テレビ番組ですから、互いに共感を寄せ合うよりも意見の対立を煽って喧嘩させた方が視聴率が上がるという、冷酷非情な計算が働いていたと思います。しかし、如何にも愛の無いことだと思いました。ゆとり、寛容さ、想像力の欠如がもたらす「辛さ」を感じるのです。市川森一脚本の『淋しいのはお前だけじゃない』というドラマがありましたが、それぞれの辛さや淋しさを抱えて生きているのです。その度合いを比べ合って誇るのも、自己絶対化するのも、他者の不幸を見て甘く感じるのも、破滅への道でしかありません。

3.《捨てられて》 日本語の「捨て石」は、庭に配置された石や囲碁の戦術上の布石のように、当面は無駄と思われても、後で役立つものです。しかし、聖書に言われる「捨てられた石」は本当に忌み嫌われ、拒絶され軽蔑され、打ち捨てられているのです。それが十字架のイエスさまなのです。しかも、彼を捨て去ったのは「家を建てる者」、徳を行ない信仰を擁護する立場の宗教者、世界を発展させる立場の為政者です。「親石」とは「礎石」ではなく、石造りのアーチの頂上に打ち込んで完成させる「楔石」です。この世界から捨てられた存在が、実は、世界を完成させる「要石」だったのです。そのことに気付いたのは、同じように捨てられる体験と思いを味わった人たちだったのです。

朝日研一朗牧師

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2016年05月30日

誰もが招かれている【使徒言行録2:36〜42】

聖句「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいる全ての人にも…誰にでも、与えられているものなのです。」(2:39)

1.《行列ぎらい》 最近の話題に、東京都美術館の「若沖展」入館に3〜4時間待ちの長蛇の行列がありました。テレビには「行列のできる法律相談所」という長寿番組があり、最近では、人気店のことが「行列店」「並ぶ店」等と表現されます。私たちは世間の話題に遅れまいと、過敏に成って、メディアに操作され易く成っているのではないでしょうか。付和雷同を自戒すべきです。

2.《ゆとり教会》 私は田舎者で、根っからの「行列ぎらい」ですから、いつも「混雑」ではなく「ゆとり」を探して生きて来ました。現代の日本社会からは急速に「ゆとり」が失われています。「ゆとり」は「ゆたけき」、その意味は「豊」ではなく「寛」にあると考えます。単に時間に余裕が無いのではなく、不寛容に成っているのです。教会の「ゆとり」は霊的な「ゆとり」、貪欲ではなく無欲を、競争ではなく共存を、自慢ではなく謙遜を求めるべきです。私たち自身は貪欲で競争に取り憑かれていて、自慢たらしいケチ臭い存在ですが、神さまの愛は大きく広く深いのです。イエスさまが「ゆとり」を保証するのです。

3.《プレゼント》 ペトロの福音告知を聞いた人たちは「心を突き刺され」て、「私たちは何をすべきか?」と問い掛けます。私たちにも「関係ある」と感じること、「何かしたい」という素直な気持ちが大切です。そこで「悔い改め」「キリストの名による洗礼」「罪の赦し」が挙げられるのですが、実は「使徒言行録」の中では、3つとも神の「賜物」なのです。「条件」ではなく「聖霊の賜物」として「誰にでも、与えられているもの」なのです。「多ければ多いだけ」与えられるのです。教会は、その3つを条件として読もうとします。「聖霊の賜物」も「主の招き」も条件として訳してあります。ケチ臭い話です。

朝日研一朗牧師

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2016年05月23日

聖なる 聖なる 聖なる主よ【イザヤ6:1〜5】

聖句「彼らは互いに呼び交わし、唱えた。『聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地を全て覆う。』」(6:3)

1.《ハリウッド》 東和商事の宣伝部長だった筈見恒夫は「神聖ガルボ帝国」というコピーを作り、女優グレタ・ガルボの近寄り難い美貌を表現しました。「ハリウッド」は「柊林」なのに、「聖林」と漢字を当てたのは明らかな誤訳です。中国人は「好莱塢」「荷里活」と音写します。しかし、戦前の日本人にとって近寄り難い世界という思い故に「聖林」が普及したのでしょう。

2.《聖なるは神》 「聖性」は「分離、聖別」を要求します。聖と俗の領域を区別するのです。神社の境内は聖域なので、本来の仕来たりでは、斎戒沐浴して参拝しなくてはなりません。神殿や寺院、聖堂が山の上にあったり、天に伸びる大伽藍を有していたり、階段を上ったり、お香が焚かれていたりするのも「自己聖化」のための装置なのです。しかし、イエスさまは、当時「汚れた者」とされていた人たちとも盛んに交流し食事を共にされました。聖性を表現しようとする気持ちは分かりますが、人の作ったものは、どこまで行っても聖ではありません。「自己聖化」は欺瞞です。真に聖なるは神さまだけです。

3.《救いたまえ》 「聖なる、聖なる、聖なるかな」は「三聖唱」「聖三祝文」と言われ、三位一体の啓示が完了したことを記念して歌われました。「イザヤ書」6章「セラフィムの唱和」から採られた賛美です。紀元5世紀初め、大地震と余震に悩む市民が十字架行進をすると、少年が天に上げられて、天上でその続きを聴きました。地上に戻った少年の証言から、主のエルサレム入城の際の賛美「ホサナ」を歌うように、主教は指示しました。すると余震が治まったそうです。人間の造った神殿などは「揺れ動き」ます。その時、私たちが神に向かって言うべきことは「ホサナ/救い給え!」の一言だけです。

朝日研一朗牧師

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