2016年06月27日

やもめたちの涙【使徒言行録9:36〜43】

聖句「やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいた時に作ってくれた数々の下着や上着を見せた。」(9:39)

1.《未亡人殉死》 「未亡人」の語には、諸侯の夫が死んだ時、妻も殉じて自刃するという古代中国の習慣の名残があります。インドには古来、夫を焼く荼毘の中に未亡人が飛び込んで自殺する「サティー」という習慣が、つい近年まで残っていました。未亡人になるのは、自身の前世の因業に原因があるとされ、夫亡き後に親族から悲惨な扱いを受けるため、名誉ある死を選ぶそうです。

2.《寡婦クラブ》 「後家」の用法も実に不愉快なものです。それに比べると、「寡婦」の「寡」は「頼り少ない、心細い」ですし、「やもめ」の「やも」は「悩んで夜も寝られない様子」です。ヘブル語「アルマーナー」も「痛みを感じる」、ギリシア語「ケーラ」も「見捨てられて孤独」の意味です。お目出度くはありませんが、悲しみに寄り添う語です。古代のキリスト教会では、登録制度を作って、本当に身寄りのない寡婦を皆で扶養していました。タビタ(ドルカス)を慕う婦人たちも、英米の「寡婦クラブ」のような互助団体、共同生活をしながら裁縫や手織りを習得する職業訓練所や工房だったのかも知れません。

3.《復活の希望》 「共観福音書」の、イエスさまが会堂長ヤイロの娘を生き返らせる話、更に遡れば、「列王記上」17章の、預言者エリヤが寡婦の息子を生き返らせる話に辿り着きます。福音書には、他にもイエスさまが葬列からナインの寡婦の息子を生き返らせる話、墓からラザロを生き返らせる話があり、「使徒言行録」には、パウロが青年エウティコを生き返らせる話があります。「神癒」を売りにしている教会でも、蘇生はありません。また、たとえ蘇生したとしても、また死ぬのであれば、単なる延命に過ぎません。イエスさまの復活と永遠の命を信じなければ、これらの蘇生に何の意味もありません。

朝日研一朗牧師

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2016年06月20日

寂しい道はご一緒に【使徒言行録8:26〜40】

聖句「すると、霊≠ェフィリポに、『追いかけて、あの馬車と一緒に行け』と言った。」(8:29)

1.《エチオピア》 エチオピアと言っても、私たちには縁遠い国です。神田小川町のカレー屋、珈琲豆アラビカ種の原産地、日本の演歌が人気、陸上競技選手を輩出くらいのイメージです。しかし、エチオピアはアフリカ唯一のキリスト教国で、古代のアクスム王国も、20世紀まで続いたソロモン朝という王家も「ソロモンとシェバの女王の血統」を主張していました。

2.《ぎこちなさ》 翻訳は「エチオピア人の高官」に成っていますが、実際にはメロエ王朝の「クシュ人」(現代のスーダン)と思われます。見知らぬ人という意味では、フィリポにとっても事情は変わりません。初対面の外国人(色の黒い人)です。しかも、一方はクシュ王国の財務担当官、他方はエルサレム教会の役員です。全く違う世界に生きて来た二人でした。初対面の相手と接する時、私たちもぎこちない挨拶しか出来ません。頓珍漢な対応に終始することもあります。しかし、声も掛けずにスルーするのは無礼ですし、御心に背くことです。失敗という犠牲を払うことで、私たちは自らの殻を破り成長するのです。

3.《旅は道連れ》 私の後輩のI牧師は教戒師をしている時、集団教誨の場で、「今、洗礼を受けたい」と申し出た受刑者に「また、個人教誨でご相談に乗ります」と応えてしまった失敗を自らの心に刻んでいます。フィリポから聖書の解き明かしを受けた高官は「洗礼を受けるのに何の妨げがありますか?」と尋ねました。理由を付けて妨げるのは私たち自身です。私たちは余りにも「伝道、宣教、布教」を目的化し、「受洗」を目標に掲げるために、却って求道を妨げているのです。聖霊が命じたのは、単にある期間「一緒に行く」ことだけだったのです。「人生は荒れ野」だから「道連れになる」、それが大切なのです。

朝日研一朗牧師

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2016年06月13日

カラスとお花【ルカ12:22〜34】

聖句「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。」(12:24)

1.《トリクソ》 札幌に住んでいた時代、雪融けの季節に、足元に注意を払いながら歩いていると、頭の上にカラスの糞の直撃を受けました。非常に屈辱的でしたが、占いの世界では、鳥は「霊界からの使者」、糞は「金」の象徴なので、鳥糞の直撃は金運の上昇を意味するそうです。宝くじで1億5千万円を当てた人もいるそうです。因みに、鳥糞の白いのはアンモニア、おしっこです。

2.《烏の養い》 カラスは生ゴミを散らかすので、街の嫌われ者ですが、本当は人間が悪いのです。むしろ、聖書では最初に登場する鳥です(ノアの箱舟)。アハブ王の迫害を逃れて、預言者エリヤはケリト川に身を潜めますが、そのエリヤのために、毎朝毎夕、パンと肉とを運んで来たのも数羽のカラスでした。後世の砂漠の隠修士の伝説や聖人伝説の中にも、カラスに養われる話が数々あります。生態学的な観点から、ハシブトガラスではなく、ニシコクマルガラスと推測されます。ニシコクマルガラスには、仲間のために食べ物を譲ったり、食べ物を分け合う習性があるのです。こうしてカラスに養われた人もいるのです。

3.《アネモネ》 古くは「野の百合は如何にして育つかを思へ」と訳されていました。ラテン語訳聖書や英訳聖書も「百合」に成っていますが、ギリシア語「カイノン」は「花」に過ぎません。ヘブル語に変換すれば「シューシャン」「ショーシャンナー」(スーザン、スザンナという名前の語源)です。現代では、この花は「アネモネ」と特定されています。その昔、パレスチナ地方には、白と青のアネモネしか無かったそうですが、キリストの十字架の血潮を受けて以来、赤いアネモネが自生するようになったと言われます。私たちの人生にも、自分の名前や色を変えてしまう程の大きな出会いがあるのです。

朝日研一朗牧師

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2016年06月06日

捨て石が親石になる【使徒言行録4:5〜22】

聖句「この方こそ『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。他の誰によっても、救いは得られません。」(4:11,12)

1.《捨て石発言》 NHK「週刊ニュース深読み」での小野文惠アナの「捨て石発言」が話題になりました。「不妊治療」に取材した番組で「保険の適用を希望する」当事者からの声に対して、「生まれない子どもに税金使うな」という心無い言葉が寄せられて、それに対するコメントでした。しかも、番組ディレクターが彼女に言った言葉「私たちは良い捨て石になろう」の引用で、自身も受け止め切れなくて、番組の出演者に投げ掛ける展開だったのです。

2.《愛の無い事》 テレビ番組ですから、互いに共感を寄せ合うよりも意見の対立を煽って喧嘩させた方が視聴率が上がるという、冷酷非情な計算が働いていたと思います。しかし、如何にも愛の無いことだと思いました。ゆとり、寛容さ、想像力の欠如がもたらす「辛さ」を感じるのです。市川森一脚本の『淋しいのはお前だけじゃない』というドラマがありましたが、それぞれの辛さや淋しさを抱えて生きているのです。その度合いを比べ合って誇るのも、自己絶対化するのも、他者の不幸を見て甘く感じるのも、破滅への道でしかありません。

3.《捨てられて》 日本語の「捨て石」は、庭に配置された石や囲碁の戦術上の布石のように、当面は無駄と思われても、後で役立つものです。しかし、聖書に言われる「捨てられた石」は本当に忌み嫌われ、拒絶され軽蔑され、打ち捨てられているのです。それが十字架のイエスさまなのです。しかも、彼を捨て去ったのは「家を建てる者」、徳を行ない信仰を擁護する立場の宗教者、世界を発展させる立場の為政者です。「親石」とは「礎石」ではなく、石造りのアーチの頂上に打ち込んで完成させる「楔石」です。この世界から捨てられた存在が、実は、世界を完成させる「要石」だったのです。そのことに気付いたのは、同じように捨てられる体験と思いを味わった人たちだったのです。

朝日研一朗牧師

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2016年05月30日

誰もが招かれている【使徒言行録2:36〜42】

聖句「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいる全ての人にも…誰にでも、与えられているものなのです。」(2:39)

1.《行列ぎらい》 最近の話題に、東京都美術館の「若沖展」入館に3〜4時間待ちの長蛇の行列がありました。テレビには「行列のできる法律相談所」という長寿番組があり、最近では、人気店のことが「行列店」「並ぶ店」等と表現されます。私たちは世間の話題に遅れまいと、過敏に成って、メディアに操作され易く成っているのではないでしょうか。付和雷同を自戒すべきです。

2.《ゆとり教会》 私は田舎者で、根っからの「行列ぎらい」ですから、いつも「混雑」ではなく「ゆとり」を探して生きて来ました。現代の日本社会からは急速に「ゆとり」が失われています。「ゆとり」は「ゆたけき」、その意味は「豊」ではなく「寛」にあると考えます。単に時間に余裕が無いのではなく、不寛容に成っているのです。教会の「ゆとり」は霊的な「ゆとり」、貪欲ではなく無欲を、競争ではなく共存を、自慢ではなく謙遜を求めるべきです。私たち自身は貪欲で競争に取り憑かれていて、自慢たらしいケチ臭い存在ですが、神さまの愛は大きく広く深いのです。イエスさまが「ゆとり」を保証するのです。

3.《プレゼント》 ペトロの福音告知を聞いた人たちは「心を突き刺され」て、「私たちは何をすべきか?」と問い掛けます。私たちにも「関係ある」と感じること、「何かしたい」という素直な気持ちが大切です。そこで「悔い改め」「キリストの名による洗礼」「罪の赦し」が挙げられるのですが、実は「使徒言行録」の中では、3つとも神の「賜物」なのです。「条件」ではなく「聖霊の賜物」として「誰にでも、与えられているもの」なのです。「多ければ多いだけ」与えられるのです。教会は、その3つを条件として読もうとします。「聖霊の賜物」も「主の招き」も条件として訳してあります。ケチ臭い話です。

朝日研一朗牧師

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2016年05月23日

聖なる 聖なる 聖なる主よ【イザヤ6:1〜5】

聖句「彼らは互いに呼び交わし、唱えた。『聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地を全て覆う。』」(6:3)

1.《ハリウッド》 東和商事の宣伝部長だった筈見恒夫は「神聖ガルボ帝国」というコピーを作り、女優グレタ・ガルボの近寄り難い美貌を表現しました。「ハリウッド」は「柊林」なのに、「聖林」と漢字を当てたのは明らかな誤訳です。中国人は「好莱塢」「荷里活」と音写します。しかし、戦前の日本人にとって近寄り難い世界という思い故に「聖林」が普及したのでしょう。

2.《聖なるは神》 「聖性」は「分離、聖別」を要求します。聖と俗の領域を区別するのです。神社の境内は聖域なので、本来の仕来たりでは、斎戒沐浴して参拝しなくてはなりません。神殿や寺院、聖堂が山の上にあったり、天に伸びる大伽藍を有していたり、階段を上ったり、お香が焚かれていたりするのも「自己聖化」のための装置なのです。しかし、イエスさまは、当時「汚れた者」とされていた人たちとも盛んに交流し食事を共にされました。聖性を表現しようとする気持ちは分かりますが、人の作ったものは、どこまで行っても聖ではありません。「自己聖化」は欺瞞です。真に聖なるは神さまだけです。

3.《救いたまえ》 「聖なる、聖なる、聖なるかな」は「三聖唱」「聖三祝文」と言われ、三位一体の啓示が完了したことを記念して歌われました。「イザヤ書」6章「セラフィムの唱和」から採られた賛美です。紀元5世紀初め、大地震と余震に悩む市民が十字架行進をすると、少年が天に上げられて、天上でその続きを聴きました。地上に戻った少年の証言から、主のエルサレム入城の際の賛美「ホサナ」を歌うように、主教は指示しました。すると余震が治まったそうです。人間の造った神殿などは「揺れ動き」ます。その時、私たちが神に向かって言うべきことは「ホサナ/救い給え!」の一言だけです。

朝日研一朗牧師

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2016年05月16日

酔っているのではない【使徒言行録2:1〜16】

聖句「今は朝の9時ですから、この人たちは、あなたがたの考えているように、酒に酔っているのではありません。」(2:15)

1.《ペンテコステ》 キリスト教の三大祝日でありながら、日本では、クリスマスやイースターに比べて、格段に認知度が低いです。世間はともかく、ペンテコステ派の教会を除けば、教会の信徒からも、この日が重視されていないことが問題です。しかしながら、ペンテコステは、クリスマスが祝われるように成る150年も前から、教会で大切に守られて来た祭りです。日本人最初の受洗者(1548年)の記録もペンテコステでした。

2.《聖書とワイン》 世間からは「クリスチャンは禁酒禁煙」のレッテルを貼られていますが、酒を嗜む信徒は珍しくありません。また、聖書からワインを取り除いてしまったら、主の生涯や譬話が成り立たなくなってしまいます。聖書の人たちはワインを水割りして常飲していましたし、ワイン以外にも、大麦ビール、シードル、蜂蜜入りワイン、棗椰子酒がありました。聖書は「禁酒」を勧めてもいません。「酒に酔い痴れてはなりません。それは身を持ち崩す元です」(エフェソの信徒への手紙5章18節)と書いてあるのです。

3.《満たされた人》 「聖霊降臨」の場面では、弟子たちが「他国語」「多言語」で証をしたとされる部分(4〜11節)と「異言」を語ったと思しき部分(12〜13節)とが混在しています。ペンテコステ派では「異言」を語る人を「聖霊に満たされた人」と言います。ペトロもまた「酔っているのではない」と主張しますが、それだけ「酒に酔っている」ように見えたのです。「エフェソ書」の勧めも、その類似を言います。つまり、主の霊に満たされて、弟子たちは「酔っている」かのように、喜びに満ち溢れたのです。酒に「酔っていた」のではなく、霊に「満たされていた」のです。似ているけど違うのです。

朝日研一朗牧師

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2016年05月09日

母鳥と雛鳥のために【申命記 22:6〜7】

聖句「母鳥をその母鳥が産んだものと共に取ってはならない。必ず母鳥を追い払い、母鳥が産んだものだけを取らねばならない。」(22:6,7)

1.《雀の姿焼き》 私は生まれついての下戸でありながら、学生時代には、酒に強く成ろうと無謀な修行を続けていました。神学生の集まる一杯飲み屋で、酒のアテに「スズメ」が出て来て驚きました。現在でも伏見稲荷神社の門前町では、雀と鶉が姿焼きで売られています。大阪の新世界では、狗の肉が売られていました。聖書を読む場合、私たちが最も想像力を向けなくてはならないのは「屠る、捌く、調理する、食べる」という生活実感なのです。

2.《食物タブー》 聖書に「羊」「パン」と言われても、すぐに食べ物と認識しない私たちには、聖書の信仰を受容できていないのです。キリスト教には食物タブーは何もありませんが、旧約時代のユダヤ教徒は「レビ記」や「申命記」に記載された食物タブーに神経を尖らせながら暮らしていたのです。私たちにとって「鰻」は高級食材ですが、旧約の民にとっては食べ物ではありません。どの生き物を「食べ物として認識」するかは、それぞれの宗教や文化、時代や状況によって大きく異なりますが、その実感が大切なのです。

3.《小鳥を守る》 「申命記」は律法、規則の本です。規則と言うと、誰も好印象は持ちませんが、時折り愛らしい戒めもあるのです。ユダヤで鶏の飼育が広まるのはマケドニア帝国時代からです。それ以前には、卵は野鳥の巣から取るしかありませんでした。貴重な蛋白源でした。春に成ると家族総出で「卵探し」に出掛けました。人間が卵や雛鳥を奪い取るのを見詰める母鳥を慮っているのです。規則には、それが生まれる経緯と背景があります。恐らく、旧約の民もまた、親子が引き裂かれるような別離の体験を知っていたのです。また、規則は、弱い立場にある者たちを救うためにこそあるのです。

朝日研一朗牧師

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2016年05月02日

いつだって天国【マタイ28:16〜20】

聖句「だから、あなたがたは行って、全ての民を私の弟子にしなさい。…わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(28:19,20)

1.《天国と地獄》 「文明堂のカステラ」のCMでは、子熊たちが「天国と地獄」のカンカンを踊ります。そもそも、オッフェンバックの背徳的なオペレッタ『地獄のオルフェ』のクライマックス、地獄の者ども天の者ども入り混じって乱痴気騒ぎをする場面に付けられた「地獄のギャロップ」です。それが健全な運動会に使用されているから愉快です。落語の『地獄八景亡者戯』にも通じますが、地獄をも天国に作り変えてしまうバイタリティは素晴らしいと思います。

2.《昇天しない》 イエスさまは弟子たちを山の上に集めて、「全世界に福音を宣べ伝えよ」と「派遣命令」を出され、その後に「昇天」というのが、私たちの固定観念です。ところが、「マタイ」には「昇天」が存在しないのです。「はじめてのおつかい」のように、弟子たちが心許無くて、イエスさまは陰ながら見守って居られたのでしょうか。しかし、それでは、わざわざ弟子たちを山の上にまで集められた舞台設定が生きて来ません。御膳立ては終わっているのに、どうしてイエスさまは弟子たちの目の前で昇天しないのでしょうか。

3.《パラダイス》 私たちの人生も日々の暮らしも、常に楽しく安楽という訳ではありません。むしろ、悲しみや苦しみ、痛みや悩みに満ちています。周りの人たちの協力や励ましを受けて乗り越えられることもありますが、解決できない問題も多々あります。「この世を地獄」のように感じて、自らの命を絶つ人や自暴自棄に成る人もあります。共に十字架に磔にされた犯罪人に、主は「今日あなたは私と共にパラダイスにいる」と宣言されました。イエスさまと共にいる時、たとえ「地獄」でも「天国」なのです。「地獄」を「天国」に作り変えることが出来るのが、信仰なのです。その逆ではありません。

朝日研一朗牧師

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2016年04月25日

自分を変えてもらおう【ローマ12:1〜8】

聖句「あなたがたはこの世に倣ってはいけません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか…を弁えるように…。」(12:2)

1.《お仕着せ》 黒澤明監督の映画『赤ひげ』には、感動的な「お仕着せ」の話があります(山本周五郎の原作にはありません)。「お仕着せ」と言うと、何かを上から無理に押し付けられるようなイメージを持ちますが、大店の主人が奉公人たちに用意して上げる着物で、「四季施」とも書いたそうです。実際には盆と暮れに支給されて、丁度、現在のボーナスのようなものでした。私たちは礼拝生活を押し付けと考えるでしょうか。恩典と考えるでしょうか。

2.《モールド》 本田哲郎神父は、釜ヶ崎の日雇い労働者たちの人生に学びながら聖書を翻訳し、「世間に合わせる必要は無い」という福音を発しています。「心を新たにして」は「判断の視座を新たに」、「何が善いことか」も「何が人に親身なことか」と訳します。大戦中、空襲下のロンドンで青年たちと聖書研究を続けたJ.B.フィリップス牧師は「世間の窮屈な鋳型に嵌め込まれないように」「神に精神を内側から改鋳して頂くように」と訳しました。「鋳型/mould」「改鋳/re-mould」という語から、軍隊や組織からの解放を表現しています。

《ボーナス》 「心を新たにして」は「心機一転」して一大決心のイメージですが、「心」と訳される「ノオス」は「意識の向かう方向性、考え方」です。向きを変えることが大切なのです。「変えて貰いなさい」も「メタモルフォーセ」という語が使われていて、具体的な「変身」「変形」です。とは言え、自分を変えることは難しいのですが、神さまが変えて下さるのです。ここに「お仕着せ」の意味があります。私たちは世の価値観に翻弄され、惰性に流されて、無感覚無関心に成っているのですが、当たり前の事など何も無いのです。礼拝は、神さまの働き掛け(ボーナス)に対する、私たちからの感謝の応答です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:50 | 毎週の講壇から