2016年02月29日

体は痛みを共にする【Tコリント12:12〜26】

聖句「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言いません。」(12:21)

1.《致命傷を与える》 映画『男はつらいよ』シリーズでは、大喧嘩を始めた寅次郎に向かって、おいちゃんが「出て行ってくれ!」と叫ぶと、関係性が切れて、寅は旅に出ます。現実には「とらや」の面々のように簡単に関係修復は出来ません。「それを言っちゃあお仕舞いよ」なのです。「被虐待サバイバー」の声を聴いていると、残酷な虐待やネグレクトもさることながら、言葉の暴力によって受けた致命傷の大きさに慄然とさせられます。

2.《命を粗末にする》 数ある言葉による暴力の中でも、「お前なんか要らない!」は最強の呪詛です。親が子を不要品、ゴミ扱いするのです。現代日本はペットの遺棄と殺処分の多さも凄まじく、年間13万匹もの犬猫が「アウシュビッツ」送りになっています。命が使い捨てにされているのです。世の中は「消費社会」で、私たちも「消費者」と呼ばれています。政財界は「消費者物価指数を上げるように」PRします。消費が美徳とされ、経済を優先する社会の呪いが結晶化したのが「お前なんか要らない!」です。

3.《お前は要らない》 パウロの手紙の中にも「お前なんか要らない!」が出て来ます。紀元55年頃にも、こんな言葉があったのです。聖書では、人体の中でも「目」や「頭」が大切にされて来ました。しかし、だからと言って、目や頭が手や足を不要とするはずはないのです。それどころか「体の中で他よりも弱い部分」である目や頭を庇ってくれるのが「手」なのです。「幻肢痛」という症状があり、切断して存在しないはずの指先や爪先に疼痛を感じる人がいます。「身体図式」が備わっているのです。それこそ神の創造の御業です。愛する者の喪失にも同じような痛みを感じます。それが愛なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:05 | 毎週の講壇から

2016年02月22日

誘惑の荒れ野【マタイ4:1〜11】

聖句「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。』」(4:3)

1.《悪魔学入門》 私は悪魔学を修めんと志して神学部に入った結果、道を誤り牧師になって早や30年になります。神の御導き、大勢の人たちのお助けで、私は危うく冥府魔道から立ち帰ったのですが、私自身も「影との戦い」をして来たのです。改めて世間を見渡せば、立派そうに見える牧師や真面目そうに見える信徒でも、本人が気付かぬまま、実際には「影」に支配されている人が多いのです。それこそが、私から皆さんに贈る「悪魔学入門」です。

2.《悪魔の誘惑》 旧約聖書では、かつてサタンが「エデンの園」にあってはアダムを、「荒れ野」にあってはイスラエルを誘惑し、神から離反させたとされています。それを想起させるように「マタイによる福音書」は、「イエス・キリストの系図」で始まり、舞台を「荒れ野」へと繋げます。神の子としての従順の道を全うしようとするイエスさまに、三度サタンが現われて誘惑します。かつてアダムやイスラエルを屈服させたサタンの誘惑、主は打ち勝ち、世をサタンから解放して、神の支配を確立された…という物語展開なのです。

3.《誘惑と試練》 ブニュエルの映画『砂漠のシモン』では、柱頭行者シメオンを誘惑する悪魔は、あどけない幼女の姿で登場します。泥棒と名乗って泥棒する馬鹿はいません。「如何にも悪魔」の姿で誘惑する悪魔もいません。「この石をパンに」と要求する悪魔が、飢えた難民の子の姿をしていたら、「世の繁栄を手に入れたいと思いませんか」と語り掛けるのが、困窮した被災者や理想に燃える正義漢の姿をしていたら、どうでしょう。これで悪魔との戦いが終わったのではありません。むしろ、ここからイエスさまの本当の戦いが始まったのです。飢えている者と共に苦しみ、悩み苦しむ人たちと共に生きる戦いが。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:50 | 毎週の講壇から

2016年02月15日

真っ白な灰だけが残る【黙示録7:9〜17】

聖句「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」(7:14)

1.《白装束》 現在では「喪服」と言えば、誰でも黒を連想しますが、開国以前には白装束が多かったのです。棺桶の中の亡骸も、切腹する侍の死に装束も、神主や巫女もお遍路さんも白装束です。奈良時代には、天皇崩御に際して「素服」という染色されない素地の服を着ました。その源流は朝鮮半島にあり、韓国の葬儀では、現在でも白一色です。但し、慶事にも凶事にも、祝い事にも忌み事にも、白を着用しているのです。悲喜こもごも、私たちの人生そのものです。

2.《大苦難》 「衣」と訳される「ストラ」は、古代ギリシアやローマの普段着の総称です。9節を見ると、「白い衣を着た者たち」は身分、民族や国籍、言語を超えています。当然、それぞれ着ている衣装も異なっていたことでしょう。ただ共通するのは、キリストを信じて、その血に贖われ、「名誉、歓喜、勝利」の中に入れられたという点のみです。それが「白い衣」なのです。「黙示録」が執筆されたのは、ネロと並び称される暴君、ドミティアヌス帝の時代でした。大勢の人たちが故なく迫害を受け、不条理な苦難を味わったに違いありません。

3.《肌感覚》 日本画では白色を出すのに「胡粉」を使いますが、それこそが全ての色の基礎に成っているのです。日本の藍染では、原料の「すくも」と繊維との仲介をする材料として「真っ白に成るまでに燃やされた木の灰」が用いられます。「天国の青」に昇華されるためには、私たちの人生にも悲しみや痛みが必要なのかも知れません。但し、苦難が無意味ではないことを示す、キリストの十字架が信仰者には与えられているのです。パウロも「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている」と言います。「肌感覚」として、イエスさまの存在を深く感じることが出来るはずです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:49 | 毎週の講壇から

2016年02月08日

荒れ野の旅【申命記8:2〜10】

聖句「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主は…あなたの心にあること…を知ろうとされた。」(8:2)

1.《信仰の広場》 今年で創立から113年を数えますが、関東大震災による会堂焼失により原簿も失われ、目黒移転や東京大空襲の影響もあり、多くの会員の名前が失われています。しかし、私たちは覚えていなくても、神さまは覚えておられます。かつて在籍した人、少し通った人、一度しか来なかった人もまた、教会の歴史の一部なのです。それこそが「聖なる公同の教会」です。

2.《旅路の果て》 商店なら創業百年を経れば「老舗」と喧伝しますが、教会となると、百年くらいでは自慢できません。東京23区内には、19世紀に創立した教会が数多くあります。また、欧州や中近東、北アフリカには何百年前、千数百年前からの歴史を持つ古い教会が幾らでもあります。教会を教会たらしめるのは建物ではなく、歴史の古さでもありません。私たちの人生が他者の人生と取り替えられないのと同じく、教会の歴史も他教会の歴史と比べることの出来ない、固有の宝を持っているのです。実際、聖書で大切な数字は「百」ではなく「40」です。「40年間」は人生の大半(青壮年期)を意味するのです。

3.《勤続の年数》 挨拶状に「勤続40年で定年退職」の決まり文句があります。イスラエルの指導者、モーセは、民をエジプトから脱出させ、数々の苦難を乗り越えて、40年間、民を導いて来ました。そして漸く「約束の土地」が見えた時、後継者にバトンを渡して、天に召されるのです。キング牧師が暗殺される前日に行なった説教も、このモーセの心境を自らに重ねたものでした。私たちもまた、人生という荒れ野を歩く旅人です。遠くにオアシスが見えますが、そこには辿り着けないかも知れないのです。しかし、誰かが私たちの信仰を受け継いで、進んで行ってくれるのです。それが教会の歩みです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:48 | 毎週の講壇から

2016年02月01日

神は忘れさせてくださる【創世記41:45〜52】

聖句「ヨセフは長男をマナセ(忘れさせる)と名付けて言った。『神が、わたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださった。』」(41:51)

1.《我を忘れる》 加齢と共に頻繁に起こってい来るのが「物忘れ」です。約束の日程や時間を勘違いすることもあります。失敗の自己嫌悪に悩む時には、上方落語の『宿替え』(江戸落語では『粗忽の釘』)を思い出して、自分を励まします。引っ越しの際に、老父を連れて来るのを忘れて咎められた粗忽者が「親ぐらい、どうもおまへん。時々、我をも忘れます」と呟くのがサゲです。

2.《忘却と記憶》 外山滋比古の『思考の整理学』によると、人間の脳は知識を保管する「倉庫」と何かを着想する「工場」と、2つの役割を持っているそうです。残念ながら日本の教育界では、多くの知識と情報を詰め込むことが優秀とされて来ました。しかし、それでは「倉庫」だけがフル稼働していて、「工場」は操業停止状態なのです。想像力も思考力も働かず、創造性も失われているのです。眠ることは忘却作用で、記憶と忘却の仕分けをするのが「レム睡眠」です。忘却は神の恵みなのです。聖書の知識を大量に記憶する人ではなく、主の御心を刻み付けて、それを行なう人が真のキリスト者なのです。

3.《忘れさせる》 腹違いの兄たちから妬まれて、売り飛ばされたヨセフでしたが、苦難の末にエジプト王国の宰相にまで出世します。妻と2人の息子にも恵まれますが、これまでの苦労、生き別れの父と弟のこと、兄たちに対する恨み辛みを忘れてしまった訳ではありません。過去に受けた心の傷は簡単には癒されないのです。それを忘れさせて下さったのは神さまでした。やがて兄たちと再会し、これを許し、父や弟を迎えた時、漸く彼は忘れることが出来たのです。忘れる時、私たちは「天使」に成るのです。恨みも悲しみも「天使は覚えていない」からです。そして「天使は愛」に他ならないからです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:48 | 毎週の講壇から

2016年01月25日

七味に一味を加える【Uペトロ1:3〜11】

聖句「信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(1:5〜7)

1.《七味唐辛子》 江戸時代前期に漢方薬研究家の中島徳右衛門が開発したミックススパイス(混合調味料)です。生唐辛子、焼き唐辛子、芥子の実、麻の実、黒胡麻、粉山椒、陳皮が、中島が開発した当時の「七味」でした。世には「一味唐辛子」もありますが、これは乾燥唐辛子を粉末しただけの物です。「七味に一味を加え」ても唐辛子の分量が増えるだけです。

2.《七つの美徳》 聖書にも「七味/seven-flavor」が出て来ます。7つの徳が挙げられていますが、これを「徳目表/virtue list」と言います。冒頭の「信仰」は「入信」、信仰生活の始まりです。「徳」は「善行」へと一歩踏み出す勇気です。「知識」は神の御心を尋ねる「祈り」の心、「自制」は「貪欲」に対して、浪費を戒めます。「信心」は「敬虔」、神さまと共に歩む人生です。「兄弟愛」は「友愛」です。但し、これらは「ステージ/段階」ではありません。進級試験もありません。「七つの部屋」「七つの味わい」なのです。

3.《一手間の心》 この「七つの美徳」に終わりません。これらに「愛を加えなさい」と言われています。これらの徳目はいずれもイエスさまの十字架の愛に通じているのです。しかも「加える/エピコレーゴー」は「自分の費用で催す」という意味です。アマチュアの劇団や合唱団が自腹を切ってコンサートをするのと同じなのです。借り物ではなく、自前で、自分から積極的に関わって行くものなのです。料理などで「もう一手間を加える」「一手間掛ける」ことがあります。その時、別の味わいが生まれるのです。「手抜き」が罷り通る世の中ですが、その中にあって「手間を惜しまず」「手間暇を掛ける」行き方を目指しましょう。多少「手間取って」時代の波に乗り遅れても構いません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:49 | 毎週の講壇から

2016年01月18日

受けるより与える方が幸いか?【使徒言行録20:25〜38】

聖句「主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、私はいつも身をもって示してきました。」(20:35)

1.《ロックフェラー》 世界一の大金持ちになったロックフェラーが、医師から余命1年を宣告された時、「受くるより与ふるが幸いなり」の聖句に出会い、慈善事業を成して、自身の病も癒され長寿を全うしたという話があります。熱心な信徒であった母親が勧めた「3つの掟」を守った御蔭で、ビジネスで大成功を収めたという話もあります。成功を餌に福音を語るのは如何なものでしょうか。

2.《三途の川の船賃》 NHKスペシャル「新・映像の世紀」では、ロックフェラーがモルガンと共に「資本主義の悪魔」として描かれていました。大恐慌まで利用して自己資産を倍増させ、その遺産は20兆円にも達したそうです。彼の「友よ、天国で会おう」との挨拶に、臨終の床を見舞った盟友、フォードは「君が天国に行けたらね」と答えたそうです。「駱駝が針の穴を通る」よりも難しいことです。日本には「三途の川の渡し賃」として「六文銭」を棺桶に入れる習慣がありますが、あの世には一銭も持って行くことが出来ません。

3.《どんでん返し!》 ロックフェラーの心を動かした聖句ですが、福音書の中には出て来ません。パウロの訣別説教の中に引用されるばかりです。イエスさまが「幸いなり」と宣言される祝福と言えば、「マタイによる福音書」5章「八福の教え/真福八端」が有名です。しかし、「使徒言行録」の前編「ルカによる福音書」6章では「貧しい人々」「今飢えている人々」が幸いとされています。金持ちや現世の幸せを享受している人に対する呪いの言葉すらあります。要するに、全てが御破算になる「価値の転倒」を、イエスさまは訴えているのです。そこから改めて「人間にとって、本当の幸せとは何か?」と問い直し、尋ね続けていくのが、私たちに相応しい人生の歩みなのかも知れません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:48 | 毎週の講壇から

2016年01月11日

ヌーヴォー(新酒)大売出し【マルコ2:18〜22】

聖句「誰も、新しい葡萄酒を古い革袋に入れたりはしない。…新しい葡萄酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(2:22)

1.《技術革新》 「ツール・ド・フランス」でも知られる、米国の自転車メーカー「スペシャライズド」の社是は「Innovate or Die/革新を、さもなくば死を」です。日本のメーカーの社是に比べると過激ですが、モノ作りに関わる人が仰ぐ信条としては決して間違ってはいません。「社是」に近い英語は「経営信条/Company Creed」でしょうか。すると、私たちの「信条」にも通じます。そもそもカンパニーもプロテスタント教会の組織運営が起源です。

2.《耐える力》 経営学者ドラッカーの一族は、16世紀の聖書印刷業者にまで遡ることが出来るそうです。「宗教改革は、ルターではなくグーテンベルクの力」と言われるように、技術革新が世の中を変えたのです。しかし「イノベーション」の語源は「農地開墾」や「挿し木、苗、若木」「新しい葡萄を植える」に通じます。19世紀に欧州の葡萄が、北米から来た害虫によって壊滅した時、北米産の野葡萄を台木として接ぎ木したことで耐性が出来たことも思い出されます。

3.《伸縮自在》 「新しい葡萄酒」も「新しい革袋」も、同じ「新しい」ですが、原語では「ネオス」と「カイノス」と使い分けられています。ほぼ同じ意味なので、どの翻訳も頓着していませんが、「new」と「fresh」とに訳し分けた英訳聖書がありました。「おニューのワインは、フレッシュな入れ物に」です。フレッシュとは弾力性、柔軟性、伸縮性、融通が利くです。何が何でも「前向き」ではなく、時には「尻込み、退却する」こともあるのです。世の中と異なる鷹揚さ、見守り育てる涵養さこそ、現代社会では、むしろフレッシュです。キリスト教会の「強み」(ドラッカーの言う)は、テクノロジーではありません。キリストの愛を信じて生きる人たちの共同体であることなのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:49 | 毎週の講壇から

2016年01月04日

光あれ。【創世記1:1〜5】

聖句「神は言われた。『光あれ。』 こうして光があった。神は光を見て、良しとされた。」(1:3,4)

1.《きっかけ》 「初詣」も「初日の出」参りも「縁起担ぎ」の一種です。「縁起」とは、神道で「運命の吉凶を示す前触れ」、仏教で「物事の由来」を意味します。要するに「きっかけ」です。縁起が悪いと祝い事をして、不吉な前触れを福に転じようと「縁起直し」「験直し」をします。「初物」は「きっかけ作り」です。私たちが「週の初めの日」「復活日」毎に守る主日礼拝も、古い自分を十字架に掛けて、主によって新たにされて、再スタートする儀式なのです。

2.《最初の日》 「今日という日は、あなたの残りの人生の最初の1日」という米国で有名な言葉があります。1999年の映画『アメリカン・ビューティー』に引用されて、日本でも広く知られるようになりましたが、本来は、1958年に、チャールズ・ディーダリッチが設立した、薬物依存症患者の救済施設「シナノン」が掲げる標語です。「今日を最初」とする前向きさと共に、「残された時間は長くない」「人生には限りがある」という内省的な告知も含まれています。

3.《光ある道》 「創世記」を英語で「ジェネシス」と呼ぶのは、2章4節の結びの言葉「これが天地創造の由来である」から来ています。ギリシア語訳聖書が「由来」に「ビブロス・ゲネセオース/系図、誕生の記録」を当てたからです。創造の前は「混沌/形なく、空しく」でした。そこに神が「光」を投じられることで、姿形、秩序や枠組み、意味や価値が与えられたのです。「光」は単なる「闇」の対語ではないのです。同じように、人生に生きる意味を与えるのも、神の投げ掛けられる光なのです。私たちの人生には、楽しいことばかりではなく、辛く悲しいこともありますが、神さまが「光あれ」と言って下さるのです。真っ暗闇と思える時も、必ず光をもたらして下さるのです。

朝日研一朗牧師

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2015年12月28日

受け入れ合って生きる【ローマ15:7〜13】

聖句「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。」(15:7)

1.《動物たちの礼拝》 ボリビア出身の仏語作家、シュペルヴィエルの『まぶねの牡牛とロバ』では、御降誕の証人である牡牛とロバの仲介で、世界中から様々な動物や鳥や虫たちがお祝いに駈け付けます。さながら巡礼のようです。米国の詩人、ノーマ・ファーバーの絵本『どうぶつたちのクリスマス』では、北国の冬眠中だった動物たちが馬屋を訪れますし、『飼い葉桶の母親たち』では、家畜小屋に居合わせた牝牛や雌鳥たちがマリアの初産を手伝うのです。

2.《降誕日の求心力》 降誕を描く絵画でも人形セットでも、段々と出演者が増えて豪華に成って行きます。人間だけではなく、羊から駱駝や驢馬、山羊から牛馬へと広がり、もはや飼い葉桶の傍らに何がいても変ではない程です。「我も我も」と、人も動物たちも増えて行く。それが「クリスマスの魔力」です。

3.《共に生きる社会》 書家の金澤翔子は「共に生きる」を自らのテーマとしています。京都の建仁寺で「論語」の1節「恕乎」という彼女の屏風が展示されていました。「恕」とは、単なる「思い遣り」ではなく「自分と異なる者をあるがままに受け入れる」の意です。彼女は誰が教えたのでもないのに節分には「福は内、鬼も内」と言って豆撒きをするそうです。世間が無自覚なままに「排除の論理」で動くことに対する彼女なりの抵抗です。 

4.《異教徒の救い主》 イスラエルは自らを「選民」と考え、救いを特権的に捉えて、「異邦人」を見下していました。ところが、宗教改革期に各国語に翻訳された聖書では「異邦人」が「異教徒」と訳されるのです。これは意訳ですが、却ってクリスマスの精神、神さまの御心をよく伝えているのではないでしょうか。私たちが信仰を告白している神は、異教徒をも救う御方です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:48 | 毎週の講壇から