2017年05月29日

憐れみは裁きに打ち勝つ【ヤコブ2:1〜13】

聖句「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(2:13)

1.《見栄が晴れる》 往年のバラエティ番組『欽ちゃんのどこまでやるの!』では、萩本欽一と真屋順子演ずる夫妻は長男に「見栄晴」と名付けます。あたかもバブル景気の到来を予言するような名前です。日本人はマモンに魂を売り渡し、大いに見栄を張って、ブランド物を買い漁りました。しかし、彼の名前は「見栄を張る」のではなく「見栄」という霧が「晴れる」の意味でした。

2.《盛装と普段着》 「見栄」は他人の目を意識して、自分を取り繕うことです。都市生活は「見栄」なくしては考えられません。都市化とは「見栄」が増大することです。しかし、お洒落や身嗜みも大切です。教会にも「盛装の礼拝」があります。主の御前に出るから一張羅を着て行くのです。「普段着の礼拝」を主張する人もいます。御前に出るのだから自然体でと考えるのです。大切なのは、私たちに「神の御前に出る」という意識があるかどうかです。聖フランシスコは「裸のキリストに裸で従え」と教えました。人目ではなく、主の御眼差しを意識しましょう。ドレスコードはありませんが、聖書が教会のコードです。

3.《ベンチシート》 最も大切なのは「隣人愛」の律法です。「人を分け隔てしない」ことです。しかし、「ヤコブの手紙」の時代には、既に身なりで人を偏り見る出来事が教会の中でも頻発していたのです。「サマリア人の譬え話」では、サマリア人が旅人に「憐れみをかけた」ことが、即ち「隣人に成った」ことだと、イエスさまが教えて居られます。漢字の通り「憐れみ」の心が、その人の傍らに押し出して「隣人」と成るのです。実際に悩み苦しむ人の横に座るのが「隣人」です。多くの教会の礼拝堂がベンチの座席を採用しているのも同じ理由です。見知らぬ他人、仲の悪い者とも同席することが出来るのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:33 | 毎週の講壇から

2017年05月22日

希望が生きる力だ【ローマ8:18〜25】

聖句「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(8:25)

1.《希望という名》 1970年、シャンソン歌手の岸洋子が「希望という名のあなたを訪ねて…」と歌って大ヒットしました。その頃から、親が子に「希望」を意味する名前を付けるようになりました。名付けは、新しく生まれた子に親が託す願い、親の祈りです。「信じる」「愛する」に比べると地味ですが、「望む」という価値観も、徐々に日本社会に浸透しつつあるのです。

2.《主を待ち望む》 親子の路線対立が表面化するのは、ズッと後の話で、誕生直後には、親も子を純粋な「希望」として抱き締めます。手塚治虫は90年代の講演で「子どもは未来人」というスローガンを広めました。しかし、ロシアの教育学者ソロベイチクは、80年代の著作で、子どもは我々の未来ではあるが、人としては成熟していないので、未来人にする責任、未来を用意する責任は我々にあると言っています。ヘブル語では「希望/ティクヴァー」は「待ち望む/カーヴァー」から来ています。希望とは待ち望むことです。ぼんやりした未来志向ではなく、主の救い、主の平和、御心の実現を待ち望むことなのです。

3.《産みの苦しみ》 新約聖書で「希望」を考える場合、「苦難」が前提になっています。希望は「現在の苦しみ」から生まれているのです。人間だけではなく全ての被造物が「虚無に服し」「呻き」「苦しんでいる」のです。但し、この苦しみは「産みの苦しみ」です。それ故に「希望」なのです。しかも、独りでは無く「共に呻き、共に産みの苦しみを味わっている」のです。「信・愛・望」は観念ではなく「信仰の働き、愛の労苦、希望の忍耐」です。現代は、誰にとっても生き辛い時代ですが、私たちが「目に見えないものを望むなら」、それは「産みの苦しみ」であると分かるはずです。主は贖って下さいます。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:52 | 毎週の講壇から

2017年05月15日

愛を加えなさい【Uペトロ1:3〜11】

聖句「だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を…信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(1:5-7)

1.《引き算の文化》 欧米の語や文化が「足し算」であるのに対して、日本語や日本文化は「引き算」だと言われます。日本料理や武道、礼儀作法など無駄なものを削ぎ落として行きます。しかし、単なる美意識だけではなく、そこには哲学や理念もあるのです。世阿弥の言うように、美は移ろい易いものですが、「まことの花」は咲き続けているのです。これを私たちは「信仰」と言います。

2.《サプリメント》 実は、日本は「足し算の文化」でもあるのです。それこそ「和」と言われる通りです。ピュタゴラス学派の「ハルモニア・ムンディ/世界の調和、天球の音楽」にも通じます。英訳聖書は「加えなさい」を「サプライ/不足を補う」としています。近代以降、私たちの聖書の読み方は個人主義的、自己完結的に成り過ぎてしまい、教えを独りで達成しよう等と思うから無理があるのです。「あなたがたは…」と書いてある通り、これはコミュニティに託された課題です。ここに挙げられた8つの徳目も、コミュニティ全体で担いながら、お互いに補い合うべきことなのです。

《教会はスープ》 スタートの「信仰」は教会生活、信徒生活です。「徳」は人柄の良さ、「知識」は神の御心を思い、受け取って行く心、「自制」は包容力、「忍耐」は苦難に遭っても耐える胆力、「信心」は悲しみに彩られた慈しみ、「兄弟愛/フィラデルフィア」と聞けば、ウィリアム・ペンの祈りや『ロッキー2』のロードワークを忘れる訳には参りません。「愛」は主の御声に応えて労苦することです。お互いがお互いを必要としているのです。そのために、主は私たちを「持ち込まれた」のです。その意味で、教会は「スープ」だと思います。いや、毎週注ぎ足しながら熟成させた「秘伝のタレ」でしょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:51 | 毎週の講壇から

2017年05月08日

教会に隠された宝が…?【マタイ13:44〜50】

聖句「畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠して置き、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」(13:44)

1.《聖ロレンツォの夜》 イタリアのトスカーナ地方では、聖ロレンツォの聖日(8月11日)夜の流れ星に、愛する人のことを思って願い事をすると叶うと言います。その流れ星は「聖ロレンツォの涙」と呼ばれています。その日は、ローマのラウレンティウス(聖ラウレンチオ助祭)の殉教日とされています。人々は彼の殉教の苦しみを偲びつつ、願い事も託したのです。

2.《聖ロレンツォの涙》 3世紀前半、ローマ教皇に使える筆頭執事に取り立てられたラウレンティスは教会の財務を担当していました。しかし、皇帝の迫害により教皇が斬首され、難を逃れたラウレンティウスも、教会財産を皇帝に差し出すように命じられます。ラウレンティウスは、体の不自由な人たち、病気の人たち、貧しい人たち、年老いた人たちを大勢伴って、皇帝の前に行き、「この人たちこそが教会の宝です」と訴えるのです。『黄金伝説』によると、「この人たちの手が、宝を天国に運んで行く」という言葉もあります。「宝/テサウロス」とは古代の「貯金箱」で、持ち主が地中に隠して置くのが常でした。

3.《宝物を受け継ぐ人》 「畑に宝が隠されている」のを発見した人は小作人の農夫です。その喜びは彼に「持ち物をすっかり売り払う」という人生の大転換をもたらします。「宝」は畑の収穫物(業績)とは無関係です。私たちは業績に価値があると勘違いしていますが、それは人間の価値付けに過ぎません。やがて朽ち果てるか燃える炉に投げ込まれるのです。折角、父親が畑に宝を隠していたのに、それに気付かぬまま、相続した畑を売ってしまった馬鹿息子の話として読むことも出来ます。私たちが生きて行くために大切なのは何でしょうか。業績や貨幣価値とは異なる人生の価値を、若い世代に伝えて参りましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:51 | 毎週の講壇から

2017年05月01日

わたしが働く理由【ヨハネ5:9b〜18】

聖句「イエスはお答えになった。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。』」(5:17)

1.《労働は自由にする》 北海教区の青少年ワークキャンプでは、若者たちが活動休止中の教会の建物修繕に取り組んでいました。門柱を立てて、そこに牧師が「労働は自由にする」と書きました。しかし、それはナチスの強制収容所の門に掲げられたスローガン「Arbeit macht frei」と同じでした。以来、何の考えもなしに「労働」を賛美することに危機感を抱くようになりました。

2.《呪いとしての労働》 現代日本社会の労働環境にも問題が山積しています。「過労死」「労働災害」「非正規雇用」「ブラック企業」「ワーキングプア」「外国人の不法就労」…。労働は自由をもたらすどころか、企業による奴隷化を生み出しているのです。「創世記」3章には、堕罪したアダムに「罰としての、呪いとしての労働」が言い渡されます。これが労働の起源であるかに思われますが、その前の2章を見ると、アダムが園を「耕し、守る」働きをしているのです。「守る」は「環境保全」、「耕す」は明らかな誤訳で「仕える、礼拝する」と訳すべきです。自然を守り、自然に仕えていた時、労働の苦しみはなかったのです。

3.《祈り、そして働け》 38年間も病に苦しみながらも、ベトサダの池の側でイエスさまに癒された人がいます。しかし、彼は悪人でした。安息日に床を運ぶ姿を見咎められるや、責任転嫁をした挙句に、イエスさまのことを密告するのです。ユダヤ教徒が命を投げ出して守り続けて来た「安息日」律法を、イエスさまは平気で破ります。イエスさまの働きこそが「労働」ではなく「安息」、「呪い」ではなく「祝福」だからです。ベネディクト修道会の標語に「祈り、そして働け/Ora et labora」があります。「勤労の中に祈りあり」「内に祈りを秘めていてこそ、真の勤労なり」と、その文字に表現されています。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:51 | 毎週の講壇から

2017年04月24日

あなたの塩加減【マルコ9:42〜50】

聖句「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。」(9:50)

1.《ソルトシェーカー》 1991年、大相撲が英国巡業をした時、派手な塩撒きから「ソルトシェーカー」と呼ばれたのが水戸泉です。勝ち星に恵まれない時、付き人から「せめて塩だけでも景気良く撒いたら?」と勧められたのが始まりです。青葉城、朝乃若、北桜、将司、高見盛…現役では旭日松の塩撒きが見事です。1興行で650キロ、軽乗用車1台分もの塩が用意されるそうです。

2.《塩味の付いた関係》 私たちの生活に塩は無くてはなりません。食べ物の味付けや保存にも必要ですが、塩の採り過ぎも体に良くありません。塩は私たちの生き死にに関わるのです。「エゼキエル書」を読むと、生まれたばかりの赤ん坊の体を塩で擦って殺菌する描写があります。塩は、生まれて初めて人間が触れる神の祝福と聖別の徴だったのです。「塩の契約」という語も、時を経ても塩味が変わらないことから「変わらぬ友情」の証でした。それ故に「自分自身の内に塩を持ちなさい」と「互いに平和に過ごしなさい」という勧めが繋がるのです。塩で結ばれた関係は裏切らない、心変わりしない、手の平を返さないのです。

3.《身を削って生きる》 イエスさまは弟子たちに「あなたがたは地の塩である」と宣言されました。当時、イエスさまの下に集まって来た人たちは、特別な人たち、社会的に影響力のある人ではありませんでした。そんな彼らに「地の塩」としてのアイデンティティを与えられたのです。しかし、折角の塩も「潮解」して塩気を無くしてしまうことがあります。私たちに与えられた塩味を自覚して、且つ発揮せねばなりません。塩の1匙がケーキの甘さを引き立て、ニガリが豆腐を豆腐たらしめるのです。岩塩はその身を削って(少量で良いのですが)、周りを生かして行くものです。それでこそ価値があるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:50 | 毎週の講壇から

2017年04月17日

大きな魚と小さな魚【ヨハネ 21:1〜19】

聖句「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。」(21:9)

1.《魚アンケート》 最近の子どもは魚料理を嫌う印象を受けますが、回転寿司は大好きです。但し、彼らの好むネタはエビ、マグロの赤身、イクラ、サーモン、トロ、ツナ等で、煮つけや焼き魚など論外なのです。食育アンケート調査によると、給食で嫌いなメニューは「魚全般」が断トツのトップ。その理由は「骨がある」「食べるのが面倒」「食べるのに時間がかかる」でした。

2.《漁師率の高さ》 12人の弟子のうち半数が漁師だった可能性があります。神殿に奉げる犠牲は肉と小麦が中心でした。つまり、聖書の民の食生活は肉とパンが中心だったのです。しかし、旧約聖書に比べると、新約聖書には「魚」が頻繁に登場します。イエスさまは「魚好き」だったのかも知れません。この箇所には「153匹もの大きな魚」と、妙にリアルな漁獲量が挙げられています。153は「三角数」で、各桁を三乗して足すと153です。3で割り切れる数字でも同じ計算を続けると153に成ります。153とは、当時の地中海で知られていた「全ての魚の種類」を表わしているという説もあるのです。

3.《オプサリオン》 イエスの名前も「ヌン(魚)の子ヨシュア」、ギリシア語の「魚」は「イクテュス」で「イエス・キリスト、神の子、救い主」の暗号として使われました。ここで「イクテュス」は「大きな魚」と訳されています。イエスさまが炭火焼きにしているのが「オプサリオン/小さな魚」です。干物か何かでしょう。「何か食べ物はあるか?」と尋ねる主に、弟子たちは「ねぇよ!」と無情な返答でした。それなのに、イエスさまは弟子たちのために食事を準備して下さるのです。「153匹もの大きな魚/大漁」の「大きな物語」に目を奪われがちですが、真の奇跡は「小さな魚」にあったのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 15:30 | 毎週の講壇から

2017年04月10日

わたしがあなたを選んだ【ヨハネ15:11〜17】

聖句「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。…わたしがあなたがたを任命したのである。」(15:16)

1.《チャンネル》 ふと気付くと、リモコンを手にチャンネルを回し続けていることがあります。商品展示の仕方でも、商品が多過ぎると、お客は選ぶのを諦めて、何も買わずに出て行ってしまうそうです。選択肢が多過ぎると、却って迷いや思い煩いが増えるのです。人生、何をどう選択したところで挫折や不調が待ち構えています。その意味では「置かれた場所で咲きなさい」です。

2.《選ばれた私》 私自身も「牧師をやめよう」「クリスチャンやめたい」と血迷うことが何度もありました。取り返しのつかない失敗をしたり、自分の不甲斐無さに直面すると、信仰もガタガタです。しかし、「私があなたを選んだ」の御言葉に支えられています。「なぜ私などが?」との疑問が消えて無くなる訳ではありません。むしろ、それを自身への問い掛けとして、引き受けて生きるのが信仰生活ではないでしょうか。「選ぶ/エクレゴー」とは、適当な選択ではなく、イエスさまの一押しの「大抜擢」「引き抜き」なのです。

3.《接ぎ木の枝》 何のために「選ばれた」のかと言えば、「実を結ぶため」です。葡萄の枝は根や幹から離れた所に「出て行って」実を結んでいます。「紐付き」ではなく、私たちの自由意志や自主性が大切なのです。求められているのは「祈りの業」と「愛の業」です。新約聖書の言う「実り」とは、人に精神的道徳的な変化をもたらし、陰ながら人を支えることです。ラテン語の「選ばれた葡萄」は「接木用の葡萄の木」を意味します。私たち自身は背伸びしなくても、無理に善人に成らなくても良いのです。弱さを抱え、挫折に塗れた私たちを、主は「そこがいいんじゃない!」と御身に接ぎ木してくださるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:51 | 毎週の講壇から

2017年04月03日

蛇のように、鳩のように【マタイ10:16〜23】

聖句「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(10:16)

1.《レミゼ》 ユーゴーの『レ・ミゼラブル』には、グランテールという学生が登場して「如何に白百合が鳩の悪口を叩くか」「狂信者は蛇よりも有害だ」と演説する場面があります。白百合はフランス王室の国璽ですが、蛇や鳩と共に聖書に所縁の深い象徴です。要するに「目糞、鼻糞を笑う」なのです。思えば、丹羽文雄の『蛇と鳩』も宗教の二面性を言い表わす題名だったのです。

2.《蛇と鳩》 文語訳では「蛇のように慧く」と訳されています。「物事の本質を見抜く心の鋭さ」です。実際、熱線暗視装置「ピット器官」を持ち、闇世の中でも獲物の位置や形状を正確に捉えることの出来る蛇もいるのです。赤外線情報と視覚情報とを統合できるのです。あらゆる生物の中で、鳩は色検知能力が最も優れているそうで、人間の「三原色」に対して「20原色」を持っているとされています。バッハとストラビンスキーを聴き分け、ピカソとモネを見分けた実験結果もあります。蛇が邪悪で狡猾、鳩が柔和で素直と、善悪の区別は必要ありません。どちらが優れているのでもありません。等価値なのです。

3.《狼と羊》 「蛇のように賢く」とは、暗闇の中でも獲物を捉える蛇の認識能力の高さです。「鳩のように素直に」とは、ワインを水で割らないストレートの意味です。いずれも現実認識です。もう1つ「羊のように」と言われています。羊は旧約聖書以来「信仰者」の象徴です。4つの動物は全て複数形で表現されています。社会という「大きな群れ」の中で、教会のような「小さな群れ」は如何にあるべきかと教えられているのかも知れません。私たちを取り巻く社会も「狼の群れ」のように残酷で、油断なりません。「狼の群れ」のような世の中ですが、主が羊飼いとして私たちを守り、導いて下さるのです。

朝日研一朗牧師

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2017年03月26日

裏切り者の名を受けて【マルコ3:13〜19】

聖句「…タダイ、熱心党のシモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。」(3:18,19)

1.《ジュード》 ビートルズの「ヘイ・ジュード」は、失意の友を励ます名曲ですが、クビショヴァにカバーされて「プラハの春」と「チェコ事件」を象徴する歌ともなりました。「ジュード」とは、英語の「ジューダス/ユダ」の愛称です。但し、英語圏では「裏切り者のユダ」を「ジューダス」、「ユダの手紙」の著者「主の兄弟ユダ」や十二使徒のユダを「ジュード」と使い分けています。

2.《他のユダ》 「ルカによる福音書」は十二使徒に別のユダ「ヤコブの子ユダ」を数えていますし、「ヨハネによる福音書」には「イスカリオテでない方のユダ」が出て来ます。彼は「タダイ」と同一視され「ユダ・タダイ」と呼ばれることもあります。余り印象のない弟子ですが、新約外典「アブガルスとイエスの往復書簡」によれば、主の復活後に、このユダがシリアのエデッサで最初の主教となるのです。同じユダでも「裏切り者のユダ」と「聖ユダ」とでは大違いです。聖書には、同じ名前の人物が数多く登場して、混乱を招く原因になっていますが、一緒にされて一番迷惑だったのは本人であったはずです。

3.《引き渡す》 同名の人が多かったので「このユダが…」と書いてあるのです。「イスカリオテのユダ」だけが、世の終わりまで「裏切り者の名を受けて」蔑まれる結果となってしまいました。他のユダたちと、何が違っていたのでしょう。「裏切る/パラディドーミ」の第一義は「引き渡す」です。「売り渡す、差し出す、放棄する」の意味もあります。私たちも自らの欲望に目が眩んだり、弱みを握られて脅されたり、誰かの歓心を買おうとして、大切な何かを引き渡してしまうことがあるのです。しかし、ユダは主の十字架しか知らず絶望しましたが、私たちは主の復活を知っているのです。そこに希望があります。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:50 | 毎週の講壇から