2017年08月12日

旭日亭菜単(続き)その40

  • 「ブラウン神父の不信」(ギルバート・キース・チェスタトン著、中村保男訳、創元推理文庫)
    「神父の不信(incredulity)」という逆説が、この短編集のモチーフです。合理主義、科学実証主義、唯物主義、無神論などを標榜する御仁が、いとも容易く呪いやオカルト、奇跡やお告げ、迷信や亡霊に引っ掛かって右往左往する中、独りブラウン神父が冷静な推理によって事件の真犯人と真相を暴いて行くのです。「天の矢」「翼のある剣」「ムーン・クレサントの奇跡」「ダーナウェイ家の呪い」と、密室殺人を扱ったものが多く、ディクスン・カーの先駆となっています。勿論、神父の説教も健在です。「本物の神秘家は神秘を隠さない。それをあまねく啓(ひら)くのです。真っ昼間の太陽のもとにそれを高くかかげる。みんながそれを見る。それでもなおそれは神秘なのです」。「人が神を信じなくなると、その第一の影響として、常識をなくし、物事をあるがままに見ることができなくなる」。「聖職者の仕事は、祝福と呪いだという事実をお忘れですな」。「わたしは奇跡を信じておる。…奇跡がほしければ、どこにさがしにいったらよいか、それをわたしは承知しておる」。「あらゆるものは神のお恵みです。とりわけ、理性や想像力など精神の偉大な能力ほど神のおかげなのです。こういったものはそれ自体としては善なるもので、たとえそれがゆがめられた場合にもその源を忘れてはならんのです」。「パドアの聖アントニオもユーモラスにこう言ってますよ―ノアの洪水に生きのこるのは魚だけ、とね」。
  • 「戦国の軍隊」(西股総生著、角川ソフィア文庫)
    著者はNHK大河『真田丸』の軍事考証を担当した城郭研究者。戦後日本の歴史学が論じようとして来なかった「軍事」の問題に取り組んでいます。そこから、旧来、戦国時代についての「常識」が覆され、結果として、私たちの先入観や固定観念が見事に氷解して行くのは快い程に見事です。戦国の軍隊は隊列を組まない。小田原合戦に秀吉は苦戦。戦国時代の戦は農繁期も農閑期も無関係。足軽は非正規雇用の傭兵部隊。雑兵はバイトの輜重隊(輸送部隊)。織豊勢力の強さは鉄炮にあるのではなく「業務拡張中により年中募集広告の出ている会社のようなもの」だったから…等々、目から鱗でした。この本の面白さは、事例の挙げ方の妙にあります。南雲中将と長尾景虎の反転の意味に始まり、西洋のマスケット銃一斉射撃発展史と長篠の鉄炮三段撃ち神話を語ります。スイスの長槍(パイク)部隊と足軽の長柄隊、三十年戦争の傭兵隊長ヴァレンシュタインと足軽大将、薙刀とハルベルトの共通性。アイゼンハワーの「戦争は兵站」という視点から戦国の軍隊を見直します。漸く「あとがき」で開陳されるのですが、その論考には、現代日本を取り巻く国際状況、社会問題に対する確かな視点も盛り込まれています。「北の脅威論」や「領土問題」等のデマゴーグに対して、説得力のある有効な反論を提出できないのは、「軍事を論じてこなかった戦後歴史学の無残な敗北」と厳しく指摘しています。
  • 「ぼくが死んだ日」(キャンデス・フレミング著、三辺律子訳、創元推理文庫)
    少女の幽霊に導かれ、「子ども専用墓地」に入り込んだ少年マイクは、そこで9人の幽霊から「私が死んだ日」の話を聴かされることになります。マイクを墓地に導いた少女の名はキャロルアン、映画『ポルターガイスト』の末娘の役名であり、実際の子役が幼くして事故死してしまいましたね。@サイコパスの転校生に濡れ衣を着せられ殺されたジーナ、A棺桶荒らしが災いして、古代シュメールの呪文で殺されたジョニー、B心霊スポット探検が災いして、ガーゴイルに殺されたスコット、C妹が通販で買ったモンスターに食い殺されたデイヴィッド、D美人の姉に嫉妬する余り「悪の鏡」に吸い込まれたエヴリン、E「猿の手」の呪いで恋人を失った悲嘆の中で死んだリリー、F悪霊憑きの暴走カーと共に地獄に落とされたリッチー、G「没入癖」から精神に異常を来たし無残に殺されるエドガー、H叔母の隠匿する金貨を失敬しようとしてゴミ屋敷で焼け死ぬトレイシー、それぞれに異常な死に方(殺され方)をします。小学校の推薦図書には、毒が強過ぎるかも知れませんが、これはこれで児童文学の一種かも知れません。
  • 「HUNTER×HUNTER」第34巻「死闘」(冨樫義博作、集英社)
    これが噂に聞いていたヒソカVSクロロ団長の「死闘」ですか。両雄に華を持たせて、半端に引き分け(痛み分け?)にするのではなく、一方が他者を殺すという勝敗の決着を与えたのは潔いと思います。前の33巻が推理サスペンスで、文字情報の夥しさに辟易しただけに、巻頭からアクションの連続で「やっとマンガらしくなった」と思いました。それでも、クロロの念能力の説明はクドイ。もっと簡潔にすることが出来るはずです。旅団員2名が大した見せ場もなく、呆気なく瞬殺されてしまうのも腑に落ちません。「幻影旅団編」での扱いに比べて、如何にもお粗末です。「暗黒大陸編」に移った段階で、作者が関心と愛着を失った結果、モブキャラ扱いされてしまった訳です。登場人物を矢鱈に増やした挙句、古いキャラを切り捨てる作者の薄情さに苛立ちを覚えます。もっと丁寧な殺し方は無かったのでしょうか。そもそも物語が入れ子型の四重構造になっていて、こんなに複雑にするから収拾できなくなるのでは無いでしょうか。「ジャンプ」らしく、少しシンプルにした方が良いです。
  • 「東京自叙伝」(奥泉光著、集英社文庫)
    東京の地霊(ゲニウス・ロキ)が憑依した6人の人物の人生を通して、幕末からフクシマ原発事故までの東京と日本の歴史を回顧する、一種の大河小説です。しかし、今の若い人たちが読み易いように、1項目が1〜3ページに細かく区分されて纏められています。御丁寧に各項目には表題まで付けられています。要するに「日本史」の教科書の体裁なのです。大雑把に数えてみると、幕末明治サムライ篇24、大正昭和陸軍篇51、焼け跡実録ヤクザ篇35、高度経済成長篇73、バブル経済風雲篇55、原発派遣労働者篇31でした(数え間違っていたら御免なさい)。但し、一貫して語り手は「あれは私だ」「あれを作ったのは私だ」「あの犯人は実は私だ」「あれを始めたのは私だ」と語り続けます。そう言えば、東京には、そういう語り口の人(騙り)が、実に大勢いるように思います。まさに東京人の特徴です。福島原発立地点は東京の「飛び地」なのであって、あそこは東京、従って東京が被曝しているのと同じという論法には感心しました。つまり。日本近現代史の到達点として、フクシマのメルトダウンがあるという展開です。東京の地霊が東京人、及び日本社会の滅亡を空想するのは、荒俣宏の『帝都物語』のパロディでしょう(平将門も出て来ますしね)。
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2017年07月10日

旭日亭菜単(続き)その39

  • 「紙の動物園/ケン・リュウ短篇傑作集1」(ケン・リュウ著、古沢嘉通編訳、ハヤカワ文庫)
    読み始めてすぐに、同じ中国系のテッド・チャン(『あなたの人生の物語』)を思い出しました。深い喪失感に裏打ちされたファンタジーなのです。案の定、著者自身が「チャン作品にこれまで大きな影響を与えられている」と付記していました。折紙の動物たちが命を吹き込まれて戯れる表題作、同じように漢字が魔法の力を顕わす巻末の「文字占い師」、「結縄」には、縄を編むことで記録される言語が出て来ます。「心智五行」では、体内にバクテリアを取り込むことで、ある惑星の環境への適応を果たした部族が登場します。一旦、北米白人の目に触れることで異化された「東洋のエキゾチシズム」、これがケン・リュウの方術です。彼の作品には、米国白人社会に憧れを抱きながらも、彼らによって手痛く裏切られる中国人が繰り返し描かれています。「太平洋横断海底トンネル小史」では、相手は日本帝国です。しかし、米国白人も日帝も、中国共産党も台湾国民党も、憎しみの対象としては描かれないのです。「文字占い師」の中で、甘さんは在台米軍の情報将校と国民党の軍属から、最愛の息子を眼前で殺され、自身も凄惨な拷問を受けた挙句に殺されるのですが、カート・ヴォネガットのように、怨みを超越してしまっているのです。痛みが憎しみに流れないのです。その点、優雅ですらあります。
  • 「世界ファンタスティック映画狂時代」(友成純一著、洋泉社)
    著者が「キネマ旬報」に連載していた「びっくり王国大作戦」は欠かさず読んでいました。フランスのアヴォリアッツ、カタルーニャのシチェス、ポルトガルのファンタスポルト等の「ファンタスティック映画祭」にプレスとして参加し続け、世界中のホラーやスプラッター、エログロ映画を観まくった著者が、そこで出会った映画人たちとの交流を含めて綴った貴重な記録です。ピーター・ジャクソン、タランティーノ、トビー・フーパー等、ビッグネームも出て来ますが、やはり、巻末の第5章「ファンタで出会った凄い人たち」が凄い!の一言。『ソサエティ』のブライアン・ユズナ、『リトルショップ・オブ・テラーズ』のイワン・カルドソ、『コフィン・ジョー』のホセ・モジカ・マリンズ、『ネクロマンティック』のユルグ・ブットゲライト、『ゾンパイア/死霊大戦』のオラフ・イッテンバッハ等の記述は、VHS乱発時代の狂奔を思い出して、ニヤニヤしました。「君の名字、ブットゲライトっていうのか? 日本ではそう呼ばれているが」、それに対して「俺の名前か、それは?」と、Buttgereit本人が応える珍問答は涙が出る程に微笑ましい。
  • 「興亡の世界史/ケルトの水脈」(原聖著、講談社学術文庫)
    妻が一時期、セシルさんというブルターニュ人からフランス語を習っていました。彼女は黒沢清監督の大ファンで、水木しげるの『墓場の鬼太郎』も読んでいました。それは、彼女の中に流れるケルトの血のせいかも知れません。我らが柳田國男も、ブルターニュの民族学者、ポール・セビヨから方法論を学んでいたのです。日本民俗学との接点も深いのです。民族移動に伴う文化や言語の連続性については、「言語が存続するか消滅するかの境目を移住者の視点から考えると、家族をともなうか単身なのかが大きな分岐点となる」との卓見。「自文化に対する自負心が、文化的権威を背景にした「文明開化」の思想、これこそキリスト教が本来持つ普遍性(カトリシテ)の思想にもつながる」。つまり、文化的優位性の自意識があって初めて、伝道者は異文化の地に乗り出す布教の覚悟を固めると、著者は指摘しています。欧米の宣教師のみならず、イスラムの布教、仏教の伝播、全てに言えることです。日本のキリスト教界について言えば、現在、韓国系の教会が日本の布教活動に熱心なのも、彼らの優越感が大きく作用しているはずです。それに対して、昔ながらの教会においては、伝道意欲が低いと非難されがちです。しかし、それは日本の土着文化、土着宗教に敬意を払い、同じ目線に立とうという所に到達したからなのです。例えば、ブルターニュでは「布教者のキリスト教化はまったく強引なところがなく、一歩前進一歩後退の状態にあった」「布教者が異教に寛容であった」と著者は言います。これがケルト的キリスト教を育んだのです。私がケルト十字架を特に愛しているのも、このスタンスを是とするからです。「土着的な独自のものと普遍的なものとが入り交じって一つの文化を構成」すること、日本文化と日本的感性を愛する牧師としての理想です。
  • 「シュトヘル/悪霊」第14巻(伊藤悠作、小学館)
    完結しちゃいました。主要登場人物が一堂に南宋国都江堰に集結。命のやり取りです。但し、急変する展開もアクションも、良い意味で物語に従属しています。その物語とは…。国は滅んでも民は生きる。民は滅んでも人は生きる。人は死んでも文字は生き残る。文字を使う人が消えれば文字も死ぬ。しかし、死んだ文字でも、それに人が触れることで息を吹き返す。今失われつつあるのは生物多様性だけではありません。グローバリズムという暴力の中で、人間の言語や文化、信仰の多様性も急激に失われているのです。些か駆け足ながらも、そういうことを深く思わされる幕切れでした。この日本でも、地方の町村の人口減少のために、人々の暮らし、風土が消滅しています。もはや止めようのないことだとは思います。その代わりに、私たちは未来に向けて、何かの種子を蒔く責任があるように思うのです。
  • 「ヒトラーの描いた薔薇」(ハーラン・エリスン著、伊藤典夫他訳、ハヤカワ文庫)
    エリスンはテレビドラマの台本を書いていただけあって、すぐに映画化できそうな作品があります。「血を流す石像」では、NYの聖パトリック大聖堂の尖塔に施されたガーゴイルの意匠が実体化して、枢機卿を串刺しに、尼僧を股裂きに、「ジーザス運動」の群集を虐殺します。『空の大怪獣Q』のラリー・コーエンに映画化して貰いたいです。このように、著者のキリスト教に対する嫌悪が、どの作品からも醸し出されていて、その反骨ぶりには脱帽です。日本で神社神道に対して、ここまで牙を剝いて愚弄できる作家が一人でもいるでしょうか。「睡眠時の夢の効用」では、ジェリー・ファウェル(80年代を代表するTV伝道師、「モラル・マジョリティ」でレーガン政権を支えた)を名指しで「糞野郎」呼ばわりしています(勿論、88年の作品)。表題作に至っては、エリスン自身はユダヤ人でありながら、地獄に堕とされたヒトラーの姿を詩情豊かに描いています。「クロウトウン」には絶句。主人公の青年弁護士は自宅で恋人を堕胎させますが、トイレに流した胎児を探して来るように、恋人に要求され、マンホールの蓋を開けて下水道に降りて行きます。この初期設定だけで、もう降参です。こちらは、コーエンの『悪魔の赤ちゃん』を思い出させます。
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2017年06月05日

旭日亭菜単(続き)その38

このレヴュー、大高宏雄さんの『昭和の女優/官能・エロ映画の時代』を採り上げたことがキッカケで、アニメ演出家の西村大樹さんに発見して頂き、大高さん御本人にも覗いて頂けたとの由。感無量です。ありがとうございました。

  • 「居心地の悪い部屋」(ブライアン・エヴンソン、アンナ・カヴァン他著、岸本佐知子編訳、河出文庫)
    ジョイス・キャロル・オーツの短編が入っているから買いました。彼女の「やあ!やってるかい」は、脳味噌筋肉のマッチョ男のジョガーを撃ち殺す最高にイカした作品です。でも特に印象深かったのは、エヴンソンの「父、まばたきもせず」です。娘の遺体を黙々と埋葬する父親の、一切の感情を排した描写に動揺しました。ダニエル・オロズコの「オリエンテーション」は、新入社員に対する事務的説明のみで構成されています。ケン・カルファスの「喜びと哀愁の野球トリビア・クイズ」は、題名通り野球クイズと蘊蓄の繰り返しなのに、読み終えて言い知れぬ哀しみに沈められます。ルイス・アルベルト・ウレアの「チャメトラ」は、メキシコの戦場を舞台にした幻想小説ですが、グロテスクでありながら鮮血の美を湛える内容に圧倒されます。例えば、戦友の頭の銃創から血の代わりに、小さな汽車、実家の建物、家具、両親、彼が寝た女たち等、彼の記憶が次々と流れ出して来る描写などは、なぜか『進撃の巨人』を思い出しました。幽霊を見るより人間が怖いのが、カヴァンの「あざ」、ルイス・ロビンソンの「潜水夫」(ケッチャムの「食人族」シリーズと同じくメイン州が舞台)です。
  • 「FUNGI 菌類小説選集/第1コロニー」(オリン・グレイ&シルヴィア・モレーノ=ガルシア編、野村芳夫訳、Pヴァイン)
    東宝の映画『マタンゴ』がトラウマになった人が編集したキノコ短編集。世界中にいるのですね。収録作品は、キノコへの偏愛、もしくはキノコへの恐怖がテーマになっている以外は、ホラーからウエスタンまでジャンルも広範です。しかし、キノコを題材にしているという段階で既に、ファンタジーの領域に入らざるを得ないのです。ジョン・ケージはキノコたちのために音楽を作り続けたそうですが(キノコが喜んだかどうかは別として)、キノコを聴衆に選んだ段階で既に、人間の聴衆を拒絶しています。演奏者も、チケット買って聴きに来る客も、間違いなく人間だというのに…。いや、それは皆「キノコ人間/Mushroom People」だったのかも知れません。そうでなければ、誰が好んで、あんな音楽を…。もしかしたら、こんな小説を面白がって読んでいる私自身も、菌類に寄生されてしまっているのかも知れません(足は既に白癬菌にやられています)。収録作では、巻末の「野生のキノコ」(ジェーン・ヘルテンシュタイン)に最も心動かされました。チェルノブイリの婆ちゃんたちも同じですが、東欧やロシアの人たちは、どうして、こんなにもキノコ狩りに血道を上げるのでしょうか。斯く言う私も、小学生時代、松茸狩りにハマッていました。
  • 「失われた宗教を生きる人々/中東の秘教を求めて」(ジェラード・ラッセル著、臼井美子訳、亜紀書房)
    ユダヤ教グノーシス主義から派生したマンダ教、古代イラン系宗教のヤズィード教、ゾロアスター教、イスラーム分派のドゥルーズ派、「サマリア五書」を奉ずるサマリア人、エジプトのコプト教、パキスタンとアフガニスタン国境の山岳地帯に住むカラージャ族、以上、7つのマイノリティグループが採り上げられています。ドゥルーズ派は布教をせず、閉ざされたコミュニティの中で、文字通り秘教化しており、ヤズィード教徒も聖職者のみが「真理」を秘匿しているため、一般信徒には教義すら知らされていません。その2つは余りにも特異な例ですが、ゾロアスター教は一旦、ペルシア帝国の国教にまでなりました。ムスリム化以前のエジプトでは、コプト教が広く信仰されていました。しかし、いずれも現地では、コミュニティそのものが消滅の危機に瀕しています。絶滅危惧種は生物学だけでの話ではなく、人間の民族、言語、文化、宗教においても言えることです。そして多様性を失った世界は必ずや滅亡するのです。ムスリムがコプト教徒を迫害することで、彼らの多くが国外に脱出した結果、将来エジプトが被ることになるダメージの大きさは計り知れないのです。非常に明晰かつ丁寧な翻訳に感銘を受けますが、それだけに「失われた宗教」というデリカシーの欠如した題名が惜しまれます。せめて「失われゆく」「消えつつある宗教」にして欲しかった。
  • 「中国侠客列伝」(井波律子著、講談社学術文庫)
    子どもの頃、テレビで東映任侠映画(高倉健の『日本侠客伝』『昭和残侠伝』とか藤純子の『日本女侠伝』等)を観ていました。ですから、昔から「任侠」という生き方に興味がありました。随分、後になってからですが、キン・フーの『侠女』も観ました。中国が任侠の本場です。高倉健が中国で人気があったのも、チャン・イーモウが彼のために『単騎、千里を走る』を撮ったのも、彼が一貫して「侠の物語」を演じて来た役者だったからでしょう。因みに「美髯公 千里 単騎を走らせ」は『三国志演義』の一節です。「義理と人情の板挟み」に悩む話も時折りありますが、基本、中国の侠者たちは自らの自由意志で行動し、既成の権力や権威、この世の常識に反抗する者たちが圧倒的に多いのです。だから、著者も『水滸伝』の宋江が嫌いなのでしょう。宋江は梁山泊軍団のリーダーとして立ちながら、朝廷の招安(罪の赦免、官軍への編入)へ路線変更することで、結局、軍団壊滅をもたらすのです。でも実際、宋江のように生真面目な余りに、権力者に体よく利用されてしまうタイプの人間は珍しくありません。「愛国者は国家に裏切られる」のが世の習いです。
  • 「ドラゴン・ヴォランの部屋/レ・ファニュ傑作選」(ジョゼフ・シェリダン・レ・ファニュ著、千葉康樹訳、創元推理文庫)
    『吸血鬼カーミラ』のレ・ファニュは、フランスから英国に亡命したユグノーの子孫。しかも、牧師の家庭にありながらも、生まれ育ったのがカトリック信仰と妖精伝説に包まれたアイルランドだったのです。そんな屈折した情愛が作品の端々から偲ばれます。「ロバート・アーダ卿の運命」「ティローン州にある名家の物語」「ウルトー・ド・レイシー」の3作品は、所謂「呪われた城主」ものです。それにしても「ロバート」の死神や「ウルトー」の亡霊よりも、(『レベッカ』の設定を思い出させる)「ティローン」の狂女が恐ろしいです。少女が妖精の世界へ連れ去られる「ローラ・シルヴァー・ベル」には、彼女を守ろうとする善い魔女の呪術も詳細に描かれていて、素朴な民話風ながら読み応えがあります。「妖精とは、洗礼をまだ受けていない者に力を揮(ふる)う」という説には、成る程と思いました。少女ローラの家庭は、成人に達してから洗礼を授ける宗派(多分、改革派)なのです。表題作は、フランスを舞台にしたゴチック犯罪小説です。読んでいる内に、カルメニャック警部の台詞が『名探偵ポアロ』の熊倉一雄の声で聞こえて来ました。
posted by 行人坂教会 at 17:08 | 牧師の書斎から

2017年04月01日

旭日亭菜単(続き)その37

  • 「ヒストリエ」第10巻(岩明均作、講談社)
    対アテネ・テーベ同盟軍のカイロネイアの戦いです。ここまで引っ張った割りには、戦闘そのものは、あっさりと終わります。アレクサンドロス王子の「撫で斬り駆け」、敵陣背後から単騎で、数人ずつ敵の槍兵を斬殺しながら、馬で走り抜けるのですが、岩明らしく切断された首や顔半分が飛ぶ瞬間の「切り株」系描写が満載です。ダミアン・ハーストの美術作品とか好きなのでしょうね。それにしても、岩明はアレクサンドロスを「壊れた人間」として描くつもりなのでしょう。あの斜視のようになった両眼は『ヘウレーカ』のハンニバルの目と同じでしょう。マケドニアの長槍歩兵が反撃に転じる場面、突き出した槍の穂先がブニュッと歪んで見える構図は感動的ですらあります。
  • 「逆行の夏/ジョン・ヴァーリイ傑作選」(ジョン・ヴァーリイ著、浅倉久志他訳、ハヤカワ文庫)
    原子力災害後の世界、視聴覚障害者のコミューンでの生活と交歓を丁寧に描いた「残像」、月の周回軌道に浮かぶ娯楽施設「バブル」を舞台に、人体補綴装置「ボディーガイド」を装着した女性の愛と性、その恋人の共苦と別れを描き切った「ブルー・シャンペン」、この2作が圧巻でした。重度のハンディキャップを持つ人が体験する世界観、それを共有した時に生まれる認識の変化、それが、そのままSFとして昇華されているのです。巻末の「PRESS ENTER■」も、朝鮮戦争での捕虜体験の後遺症に苦しむ初老の男と、ポルポトの大虐殺を生き残って米国でPCプログラマー(ハッカー?)になったベトナム人の女性との恋愛ですが、一種の異文化間コミュニケーションとして読みました。表題作も含めて、異質な者たちと交流した時に生まれる意識変革が共通テーマです。表題作以外は、どの作品も、結末は苦々しい味わいです。しかし、それこそが人生の、この世界の現実なのです。それにしても、後を引き摺るなあ…。
  • 「アド・アストラ/スキピオとハンニバル」第11巻(カガノミハチ作、集英社)
    東ヌミディア王国のマシニッサが、カルタゴ(ハンニバル)側からローマ(スキピオ)側へと転向する重要な展開。そして遂にアフリカに渡ったスキピオ軍団が、西ヌミディアのシュファックス、カルタゴのジスコーネの連合軍を撃破します。少し気になったのは「ドドドドッ」と歩兵が進撃する会戦場面など、明らかな手抜き画が混じっていますね。緻密な画を描く作者だけに気になってしまいます。
  • 「ゴールデンカムイ」第10巻(野田サトル作、集英社)
    詐欺師の鈴川聖弘は『クヒオ大佐』で知られる実在の結婚詐欺師がモデルでしょう(北海道網走の出身だしね)。『リング』の貞子の母親のモデル、千里眼の御船千鶴子も(三船千鶴子として)、「三十年式小銃」の開発者として有坂成章も(有坂成蔵として)登場します。名前が微妙に改変されているのは、飽く迄もフィクションということでしょう。それにしても、このマンガのキャラ、新撰組の土方歳三、永倉新八は幕末、脱獄王の白鳥由栄(白石由竹)は戦後、「クヒオ大佐」は70〜90年代と、時代を無視していますので、既に伝奇物としては破綻しているのです。鶴見中尉の片腕、薩摩隼人の鯉登少尉が登場、「ちんちんぬきなっもしたなぁ」に始まる薩摩弁の応酬は面白かったです。
  • 「あまたの星、宝冠のごとく」(ジェイムズ・ティプドリー・ジュニア著、伊藤典夫・小野田和子訳、ハヤカワ文庫)
    ティプドリー・ジュニアの作品集だけに、どの作品も一捻り二捻りしてあります。「悪魔、天国へいく」は、神の訃報を受けて天国を弔問したルシフェルが、天国再建計画をペトロと話し合ったりします。勿論『聖☆おにいさん』のように、ほのぼの路線に流れたりはしません。異星生物とのコンタクトを描く「アングリ降臨」も「いっしょに生きよう」も「天使もの」の一種と見て良いでしょう。本の題名からして、聖母マリアを讃える表現です(イヤミのつもりでしょう)。祈りを聴いてくれないキリストへの苦言もあります。「雀はもうずいぶん長いこと、顧みられることもなく、地に落ちつづけている」「彼≠ヘかなり耳が遠くなっていて、とくに女性や子どもの高い、かぼそい声が聞こえにくい状態だ」…。但し、彼女にかかれば、エコロジストもフェミニストも、宗教者も理想主義者も木っ端微塵です。貧困女性たちが私生児の赤ん坊をセンターに引き渡す「肉」、ブルジョワ娘への嫌悪だけで書かれたと思しき「もどれ、過去へもどれ」、少女向けファンタジーの悪意に満ちた改変「すべてこの世も天国も」…。夢も希望も情け容赦なく打ち砕いてくれます。やはり、私としては、薬物依存症兵士の復讐物語「ヤンキー・ドゥードゥル」が最も重いボディブローでした。
  • 「洋ピン映画史/過剰なる「欲望」のむきだし」(二階堂卓也著、彩流社)
    半年前に同じ彩流社から出た『ピンク映画史』の姉妹編です。長澤均の『ポルノ・ムービーの映像美学』が綿密な分析による研究書であるとすれば、二階堂先生の本は同時代を伴走した人による証言集でしょう。「洋ピン」とは、外国のポルノ映画を映倫の検閲を通すために、輸入した配給会社が自ら削除、ベタ加工、ボカシ、トリミング、マスクがけ等の処理を施して、改変された代物のことです。結果的にハードであれソフトであれ、日本のピンク映画のような作品が出来上がるのです。かの『ディープ・スロート』に至っては、更にピンク映画の向井寛監督が追加撮影をして(2千万円もかかったとか)、1時間分のフィルムを継ぎ足して日本公開版を完成させたのです。レイモンド・バー主演の『怪獣王ゴジラ』の比ではありません。私も「別冊スクリーン」の愛読者でしたから、70〜80年代の作品紹介には、胸がときめきました。最近では、結構、ネット上でノーカット版が鑑賞できる作品もあったりして、すると、あの時代の「洋ピン」って何だったのよ!?と…。まるで鎖国時代の出島みたいです。
  • 「プリニウス」第5巻(とり・みき+ヤマザキマリ作、新潮社)
    無頭で胸に顔のあるブレミュアェ族、蛇人間ヒマントポデスも登場。と言っても、放浪の瘋癲老人の世迷言としてですが…。老人の語るパルミュラの風景は、星野宣之の『妖女伝説』で経験済みですが、一瞬でも出て来るのは嬉しいです。そして、シチリア島に上陸したプリニウス一行は、ストラボネ山の噴火に遭遇するのでした。昔、ロベルト・ロッセリーニ監督、イングリッド・バーグマン主演の『ストロンボリ/神の土地』という映画を観たことがあります。それにしても、ウミウシ、恐るべし。
posted by 行人坂教会 at 13:32 | 牧師の書斎から

2017年02月14日

タイトルを新しく変えました。

「牧師の書斎から」で掲載しておりました「一点一画 one jot or one title」ですが、再び、タイトルを新しく変更させて頂きました。

旭日亭菜単」と題してお届けします。
「菜単」とは「メニュー」のことです。

posted by 行人坂教会 at 22:47 | 牧師の書斎から

旭日亭菜単 (続き)その36

  • 「人形/デュ・モーリア傑作集」(ダフネ・デュ・モーリア著、務台夏子訳、創元推理文庫)
    やはり、自分の職業柄か、全14編中、最も記憶に残るのは「いざ、父なる神に」と「天使ら、大天使らとともに」の2編です。いずれも、権力志向の強い俗物牧師、ホラウェイの物語です。金持ちや上流階級に上手に取り入る一方、自分の利益にならぬと見るや、悩む人を見捨て、貧しい人を見捨てる最悪の人間です。しかも、自分の讃美歌の歌声に酔い痴れ、自分の説教に会衆が心動かされているのを見て悦に入っているのです。同業者として嫌悪感を抱かせる半面、どこからしら共感してしまう自分が恐ろしい。ホラウェイ牧師の陰画と言えるでしょう、「メイジー」には、娼婦が「こんなに讃美歌が好きなのに、どうして教会の中へ入れて貰えないのだろう」と嘆く場面が用意されています。巻末の「笠貝」は、ヒロインの独白を通して、その本性が少しずつ明らかにされていくのですが、それはさながら、関わった人たちの栄養を吸い上げる寄生虫なのです。独白スタイルだからこそ、読者は震撼させられるのです。彼氏から届く手紙だけで、男女関係の変質を描き切る「そして手紙は冷たくなった」も斬新です。人間の内奥に渦巻く悪意を描かせたら、デュ・モーリアはシャーリイ・ジャクソンと双璧です。
  • 「『雲』の楽しみ方」(ギャヴィン・プレイター・ピニー著、桃井緑美子訳、河出文庫)
    「もしもくる日もくる日も青一色の空ばかりだったら、人生は退屈でしょう。…雲は天気の顔です。雲はみずからの気持ちを表現し、目に見えない気流の状態を教えてくれるのです。そして…雲は大自然の紡ぎ出す詩だ」。そんな風に演説してしまう著者は、「雲を愛でる会」の設立者。空の雲に目を留めようともしない青空至上主義者たちに敢然と立ち向かいます。雲の分類は、私の興味外でしたが、雲に挑んだ人たちの物語には興奮させられました。米空軍パイロット、ウィリアム・ランキン中佐は、ジェット戦闘機の故障から、止む無く積乱雲の中をパラシュート降下して奇跡的に生還します。米国の化学者ラングミュアとシェファーは「雲の種まき」と称して、人工降雨をはじめとする気象コントロールを試みます。その他、コンスタンティヌス帝が天空に目撃した神のメッセージが何であったかという分析も必読です。飛行機雲が地球温暖化の大きな要因であることも初めて知りました。しかし、何と言っても圧巻は、豪州のモーニンググローリーでのグライディングに初めて挑戦したホワイトとトンプソンです。
  • 「処刑人」(シャーリイ・ジャクソン著、市田泉訳、創元推理文庫)
    読了後「また、まんまとやられた!」と思うはずです。終盤に展開される夜の道行は『ウルトラQ』第25話「悪魔っ子」を思い出しました。催眠術を多用した結果、幽体離脱を繰り返すようになってしまった奇術団の子役、リリーの物語です。「人工的な明りが消えたあとの人工的な暗闇とは違っていた。自然の光が去っていくと同時に訪れる自然の深い闇だ」。そのように語られるのは、モノクロ映像で描く夜の情景に近いと思います。人里離れた夜の世界でありながら、どこか白昼の悪夢のような感覚が付き纏っています。幻覚にも似たエスケープが始まるのが、ヒロイン、ナタリーが実家に帰省して、自分の居場所がどこにもないことを再確認してからの展開であったということが重要です。元より女子大にも学生寮にも、彼女の居場所はありませんでした。現実の社会や人間関係から遊離していることが、彼女の幻想の病因ですが、しかし、こちらの現実がそんなに確かなものかと言えば、そうではなくて、私たちが営む生活も、色々なフィクションの上に成り立っているに過ぎないのです。ただ、そのフィクションを大多数の人間が「現実」として合意することで、辛うじて成り立っているのです。
  • 「AV出演を強要された彼女たち」(宮本節子著、ちくま新書)
    「ポルノ被害と性暴力を考える会/People Against Pornography and Sexual Violence」、略して「PAPS」の世話人と成った著者。彼女はソーシャルワーカーとして、長年活動する中から、自らの務めを、問題に直面し、困難を抱えた様々な人たちの「伴走者」と位置付けています。ここでも、スカウトの罠にはまり、AV産業の暴力的システムの中に飲み込まれ、必死で助けを求める女性たちに寄り添いながら「伴走」しています。勧誘から契約に持ち込み、雑誌グラビアや着エロ動画の撮影、遂にはAV本番に至る訳ですが、女の子が勧誘に乗ったが最後、もう後戻り出来ない手法は凄い。単なる詐欺ではなく、カルトの方法論が使われていると確信します。助けを求めて来て彼女たちが、それでも尚、スカウトやプロダクションの人を「良い人」と信じ続けている辺りも、カルトと同じです。そう言えば、私が毎月聖書研究会を担当しているYMCAの某学舎には、中国や韓国から来た留学生もいるのですが、彼らは一様に「自分らの国には、日本に来れば、AVのような世界が待っていると思い込んでいる若者が多い」と言っていました。我が国は、ポルノ映像・画像のアジア最大の発信国なのです。
  • 「詩人と狂人たち」(ギルバート・キース・チェスタートン著、南條竹則訳、創元推理文庫)
    ローマカトリック信者のチェスタートンだけに、プロテスタント教会に対する悪口が随所にちりばめられています。「鱶の餌」の元宣教師のブーン氏や、「ガブリエル・ゲイルの犯罪」のソーンダース牧師の造形などは、プロテスタント信仰の戯画化と言えましょう。それはともかく、主人公の詩人探偵ゲイルは、詩人であるが故に、狂人たち(lunatics)に対して、魂の奥深くで共鳴することで、結果的に犯罪を暴くことに成るのです。「狂人」と言うより「取り憑かれた人」と言うべきかも知れません。今なら一種の「サイコダイバー」です。その意味で、本作が国書刊行会「世界幻想文学大系」に収められていたという事実は興味深いものです。凡そ論理的な展開とは思えないので、普通の推理を期待すると戸惑うことでしょう。斯く申す私も、第2話「黄色い鳥」の結末を見た所で漸く、詩人探偵の観察力と推理力(と言うか、その個性)に順応したくらいです。楽しみ始めたのは、第6話「孔雀の家」あたりでしょうか。変人の多い探偵の中でも、その変てこ度において、かなり上位に食い込むキャラクターです。しかも、この連作集、探偵自身の恋愛小説とも成っているのですからオドロキです。
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2016年12月20日

一点一画 one jot or one title その35

  • 「世にも奇妙な人体実験の歴史」(トレヴァー・ノートン著、赤根洋子訳、文春文庫)
    18世紀英国の医師、ジョン・ハンターは墓場の死体を使って解剖実験を繰り返したこと で有名ですが、自分のペニスに淋病や梅毒患者の膿みを塗り付けて、伝染の実験をして いたそうです。死体の解剖などは序の口、死刑囚、受刑者、売春婦、孤児、障害者、黒 人奴隷、貧民などが人体実験(生体実験)の材料にされて来た長い歴史がありましたが、 読み進むにつれて、医師自身、あるいは助手、研究員を巻き込んでの、自分の体を張っ た壮絶な実証実験が中心に成ります。ところで、私の大学時代の友人は京都府福知山市 の出身でしたが、「高校時代に日当3万円のバイトをした」と自慢していました。731 部隊の医師が創立に関わった製薬会社「ミドリ十字」で、研究被験者として試薬を服用 するバイトでした。また、私たちの受ける「治療」の施術、投薬もまた人体実験の延長 線上にあるのです。
  • 「くじ」(シャーリイ・ジャクスン著、深町眞理子訳、ハヤカワ文庫)
    有名な表題作は、あちこちのアンソロジーで紹介されていますが、改めて読み直しても 恐ろしい。くじ引きの行なわれる6月27日は、アメリカの学校では夏休みの開始日に 因むのでしょうか、それとも夏至に当たる「洗礼者ヨハネの誕生日」6月24日のモジ リでしょうか。私のお気に入りは、鶏を噛み殺してしまった飼い犬の処分法について、 村中の人たちが話題にする「背教者」です。死んだ鶏を犬の首に括り付けて取れないよ うにして、腐るに任せるとか、牝鶏に犬の目玉を突かせるとか、腐敗して異臭を放つゆ で卵を食わせるとか、愛犬家が失神しそうな話がこれでもかと出て来ます。愛書家とし ては「曖昧な七つの型」が印象的です。予想通りの平板な展開のはずなのに、なぜか忘 れられないのです。古書店主のハリス氏の感情が欠落しているからでしょう。ブルジョ ワ婦人たちの偽善的な親切を嘲る「アイルランドにきて踊れ」、若いミセスがNYの雑踏 の中で身動き取れなくなる「塩の柱」(ソドム滅亡の瞬間を振り返り見てしまったロトの 妻のこと!)も大好きです。
  • 「ゴールデンカムイ」第8巻(野田サトル作、集英社)
    本作において、専らコメディリリーフを担当している脱獄王、白石由竹(モデルは「昭 和の脱獄王」白鳥由栄)の過去が描かれています。お笑い半分に描かれてはいますが、 その一途な生き方は、固いパンの欠片を懐に隠し持つことで、希望を繋いで生き延びる 短編小説(フランチスク・ムンテヤーヌの「一切れのパン」)を思い出させます。土方歳 三と永倉新八が昔話をしながら、若き日の姿に戻る場面は、マンガならではの味わいが あります。しかし、何と言っても、今回の見ものは第89話「沈黙のコタン」〜第90話 「芸術家」でしょう。「ジャンプ」らしい凶暴な大立ち回りが描かれています。やはり、 これこそ、このマンガの真骨頂と言いたいところですが、何やら編集者から「そろそろ お願いします」と頼まれて描いたファンサービスのような気がします。
  • 「兵器と戦術の世界史」(金子常規著、中公文庫)
    扱われているのは陸戦のみ。海戦空戦は、艦砲射撃と航空機爆撃以外は扱われていませ ん。歩兵と騎兵、重騎兵と軽騎兵、大砲と小銃、砲兵と戦車、白兵と火力などの対立軸 で、兵器運用と戦術の歴史が描かれています。日本陸軍には、曲りなりにも勝利してし まうと、旧式な兵器と稚拙な戦術を見直そうとはせず、ひたすら精神主義と白兵銃剣主 義に走る悪い癖(貧乏性)が最後まで付いて回りました。しかし、過去の勝利の喜びや 敗北の苦みが原因で、1つの戦術に固着してしまう傾向は、フランス陸軍にもドイツ陸 軍にもあるみたいで、少し安心しました。1人の人間に人柄があるのと同じように、軍 隊にもお国柄が出てしまうようです。失敗の本質を見極めず、放置すると道を誤って、 同じ失敗を繰り返し続けても、中々改まらず、体質改善に相当の時間(50年、百年)を 必要とするようです。裏を返せば、自身の成功例に囚われ過ぎてしまうという事でもあ ります。
  • 「誕生日の子どもたち」(トルーマン・カポーティ著、村上春樹訳、文春文庫)
    礼拝のメッセージの中で『ティファニーで朝食を』を採り上げたので、何となく読みた くなったのでした。「感謝祭の夜」「クリスマスの思い出」「あるクリスマス」「おじいさ んの思い出」は、著者の幼少年時代の思い入れがたっぷりと詰まったミンツパイやミー トパイのような連作です。やはり、少年の親友、スックの存在感や言葉は圧倒的です。 表題作に登場するミス・ホビットも魅力的です。それは、彼女の命が不慮の事故によって 突然に断たれてしまい、「失われた」という悲しみのせいかも知れません。勿論、その他 の諸作も、「失われた」少年時代であるが故に愛惜に満ちているのです。
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2016年10月24日

一点一画 one jot or one title その34

  • 「ロルドの恐怖劇場」(アンドレ・ド・ロルド著、平岡敦編訳、ちくま文庫)
    著者は、19世紀末から20世紀初頭、パリのグラン・ギニョル座の台本作家として名を成 した人物です。医者であった父親が何とか家業を継がせようと施した英才教育が裏目に 出て、死体と殺人と狂気の愛好家と成ったそうです。この短編集の殆ど全てに医者が登 場するのは、その署名のようなものです。『怪奇文学大山脈V』で読んだ「最後の拷問」 が別バージョンで入っています。「大山脈」版は義和団事件の北京が舞台でしたが、こち らは革命直前のロシア帝国に設定されています。サイコ犯罪が中心であること、必ず肉 体損壊描写があること、この辺りは現代小説の傾向を先取りしています。埋葬地の樫の 木を夫の生まれ変わりと、未亡人が妄想する「生きている木」は、偶然か、先日の日影 丈吉「歩く木」と同趣向でした。不貞の妻に対して、夫が自らの命を賭して復讐を遂げ る「恐ろしき復讐」と「告白」、何と暗く恨み深い情念であることか。その他、愛する妻 子や親友を助けてやることが出来ず、むざむざ死なせてしまう、後味の悪い展開が多数 収録されています。この異常なまでのバッドエンドの反復は何でしょうか。ショッキン グな挫折感、残酷な絶望感、それを嗜好品とする時代(現代)が到来していたのです。
  • 「日影丈吉/幻影の城館」(日影丈吉著、河出文庫)
    解説によると、日影はローマカトリックの洗礼を受けていたのだそうです。「変身」はク リスマスイヴに働く者の鬱屈した心情が、聖夜を口実に浮かれ騒ぐ異教徒に対する沸沸 と湧き上がる侮蔑を絡めて描写されていて、私などは大いに共感するのです。但し、私 の好みは、ファム・ファタルの登場する作品です。特に「ふかい穴」には『天城越え』の 趣きがあります。全身入れ墨の女「天人おきぬ」が少年の心に終生忘れ得ぬ女性性のイ コンを刻み付けるのです。しかも、彼女を庇おうとした少年の純情と努力が却って仇と 成るのが切ないです。「匂う女」と「異邦の人」では、もう少し成長した少年が登場して、 彼の推理が事件の背景にある女の哀れを照らします。台湾もの「蟻の道」の娼婦ペーを 見詰めるのは、中年に近い男です。ただ、彼女の辿る末路に注がれる眼差しは、「ふかい 穴」「匂う女」の少年たちと同質のように思われます。何とかして女を苦界から救いたい と願いながらも、結局その思いが果たされることはありません。植物との対決を描く「歩 く木」は、ウィンダムの『トリフィド時代』を、山頂の測候所を舞台にした「崩壊」も、 ハマーフィルムの『クォーターマス』シリーズを思い出させます。
  • 「日本武術神妙記」(中里介山著、角川ソフィア文庫)
    『大菩薩峠』の作者、介山は意外や、キリスト教信仰に感化を受け、そのペンネームも 牧師の松村介石から採っているのです。巻頭すぐに、黒澤映画『七人の侍』の勘兵衛の モデルと成った上泉伊勢守の有名なエピソードがあり、巻末近く『雨あがる』の伊兵衛 のモデルと成った山本南竜軒のエピソードが置かれています。千葉周作に勝ち方ではな く死に方を問うた土方某の話もまた、そのヴァリエーションでしょう。藤沢周平の『隠 し剣/鬼の爪』の元ネタも発見しました。岩明均のマンガ『剣の舞』に登場する疋田文 五郎の「それではあしいぞ」、柳生但馬守のみならず山本勘介も打たれていたのですね。 猫の屋根から落ちるのを見て、柔術を極めた関口弥六左衛門の話も、『姿三四郎』から『柔 道一直線』『いなかっぺ大将』までネタにされ続けています。「我が心の剣は活人剣であ るけれども、相手をする人が悪人である時にはそのまま殺人剣となるものでござる」(塚 原卜伝)、「始は易く、中は危くそれを過ぎてはまた危し、始中終の本心が確と備わると きは何の危き所はない」(宮本武蔵)、「仕合をする時は真剣勝負の心ですべきものじゃ」 (高田三之丞)、「礼儀の場に於ても、刀を振うことが無いということはない」(戸田清玄)、 「斬られながらと書かないで、斬らせながらと書かなくてはいけない」(上杉鷹山)、「武 術を修めようとする者は宜敷まず文事からはじめるがよろしい、然る後如何なる難問題 にぶつかっても刃を迎えて自ら説くことが出来、武器の使用もはじめて神妙に至るので ある」(根本武夷)…。けだし名言の宝庫でもあります。
  • 「シュトヘル/悪霊」第13巻(伊藤悠作、小学館)
    モンゴルの捕虜となり、人間の矢楯として使われていた西夏兵たちとの出会いが泣かせ ます。スドーは彼らに文字を教えます。伝えられた文字と言葉は彼らの中に宿り、生き 始めるのです。他方、ユルールはトルイ皇子の配下となり、モンゴル帝国の中で西夏文 字を残そうとします。宿敵であったはずのシュトヘルとハラバルが、行き掛かりから共 闘して、モンゴルの重装騎兵の陣営を強行突破する場面、僅かに13ページ程度ですが、 久々に燃えます。舞台は、いよいよ南宋の成都へと近付きます。シュトヘルの体が弱り 始めていることに気付いたスドーは、自分がシュトヘルの「延命の点滴で、それがなく なれば、結局は長くは保たない」と悟ります。いよいよ終結が迫っているようです。
  • 「アド・アストラ/スキピオとハンニバル」第10巻(カガノミハチ作、集英社)
    「ローマの剣」と称えられた名将、マルケルスの最期から始まります。ハンニバルの弟 ハッシュ(ハスドルバル)がイベリア半島のバクエラでスキピオ軍に敗北(紀元前208 年)、ハンニバルと合流するためアルプス越えをしますが、イタリア半島北部メタウルス 川の戦いで戦死します(紀元前207年)。それにしても、当のハッシュが(平気でヌミ ディアのマシニッサを使い捨てにしたりして)全く感情移入できぬキャラとして描かれ ているため、弟の復讐を誓うハンニバルにも共感が持てません。ともかく、いよいよ物 語はクライマックスです。この4年後、スキピオがアフリカに軍を進めたことで(スキ ピオ・アフリカヌス!)、ハンニバルも本国に召還され、遂に両雄が相見ゆることと成る 訳です。
posted by 行人坂教会 at 23:20 | 牧師の書斎から

2016年09月08日

一点一画 one jot or one title(続き)その33

  • 「ゴールデンカムイ」第4〜8巻(野田サトル作、集英社)
    やはり、昔のアメリカ西部劇『悪の花園』『マッケンナの黄金』辺りが発想の原点かも知 れません。殺伐とした画調と陰惨な物語ながら、アシリパさんとの交流、厳しくも豊か な北海道の自然に身を置く中で、日露戦争の帰還兵が人間性を回復して行くプロセスこ そが、この作品の真骨頂と思っていました。ところが、売れた作品の常とは言え、物語 に絡むキャラが急増、その上、サブキャラをメインに据えたスピンオフ的挿話も加えて、 破綻ギリギリです。笑顔の快楽殺人犯、女装趣味の拷問人、同性愛のヤクザ、人皮を扱 うサイコ剥製屋など、脇のキャラをビザール仕立てにしたのもヤリ過ぎの感あり。6巻 の茨戸(札幌に10年住んでいた私には懐かしい!)における土方歳三・永倉新八コン ビの大立ち回り(黒澤の『用心棒』、ハメットの『血の収穫』)では、画が極端に乱雑に 成っていて、思わず「もう読むの止めようかな」という気分でした。しかし、8巻に、 元マタギ谷垣の「カネ餅」のエピソードがあり、文字通り「モチ直し」ました。
  • 「襲撃者の夜」(ジャック・ケッチャム著、金子浩訳、扶桑社ミステリー文庫)
    何年か前、父の日に長男がプレゼントしてくれたケッチャムの「食人族シリーズ」。前作 『オフシーズン』に辟易して放置してあったのですが、狩猟と料理法が描かれた『ゴー ルデンカムイ』を読んだせいでしょう、つい手に取って、一気に読んでしまいました。 さすがに前作ほどの衝撃はありません。但し、食人一家が缶詰の蓋で作ったらしい金属 の「入れ歯」を装着して、カチカチやりながら、ヒロインのクレアに迫って来る辺り、 彼女の内腿の肉を食いちぎる辺りの描写は堪らないものがあります。『バーバレラ』の噛 み付き機械人形のハード版みたい。クレアは父親の影響で、60〜70年代のニューシネマ のファンなのです。しかも、黒澤明の言葉「芸術家であるということは、目をそむけな いことなんだ」(恐らく、自伝『蝦蟇の油』に出て来る黒澤のドストエフスキー評でしょ う)を思い出して、そこから反撃に打って出るのです。ケッチャム自身の映画の趣味が 反映されているのでしょうが、私たちには、ニューシネマと黒澤は結び付きませんから、 アメリカの映画ファンならではの現象でしょう。
  • 「ゴールデンカムイ」第1〜3巻(野田サトル作、集英社)
    ある日、長男が第1巻をポンッと渡して、「お父さん、続き買ってよ」と言うのです。映 画『二百三高地』、和月伸宏の『るろうに剣心』、安彦良和の『王道の狗』等も思い出し ましたが、何と言っても、このマンガの魅力は、主人公の「不死身の杉元」とコンビを 組むアイヌの少女アシリパさんでしょう。彼女の口と技を通して、アイヌの狩猟、サバ イバル術、食生活、暮らしと信仰、自然観と人間観が語られると、少しもイヤミではな いのです。作者は萱野茂や更科源蔵その他、アイヌ関係の資料をよく咀嚼しています。 「手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞」の帯を見て、手塚がアイヌとシサム(和人)の戦い を描いた『シュマリ』を思い出さない訳には参りません。随分叩かれましたからね。そ れを思うと今昔の感があります。
  • 「死の鳥」(ハーラン・エリスン著、伊藤典夫訳、ハヤカワ文庫)
    『世界の中心で愛を叫んだけもの』で有名なエリスンのアンソロジーというので、期待 して読みました。ただ、残念ながら、表題作と「ランゲルハンス島沖を漂流中」は長っ たらしいばかりで、少しも面白くありませんでした。反抗的ユダヤ作家らしく、ユダヤ・ キリスト教的物語に敢えて背を向けて、オルタナ、カウンターカルチャーを決め込んで いるのですが、力み過ぎて、読者(特に異教世界に暮らす私たち)にとっては退屈なだ けです。それに比べると、「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」は「世界の中心」 を思い出させる暴力的筆致が痛快です。ラスヴェガスが舞台の「プリティ・マギー・マネ ーアイズ」、ニューヨークが舞台の「鞭打たれた犬たちのうめき」「ソフト・モンキー」は 切れ味鋭いナイフの閃光です。残忍で酷薄でありながらも、作中何度か挙げられる40 年代のアメリカ犯罪映画の残り香みたいな品の良さもあります。私としては「ジェフテ ィは五つ」をお薦めします。5歳で成長が止まっている坊やの話と言えば、ギュンター・ グラスの『ブリキの太鼓』みたいな寓話かと思われるでしょう。でも、ここにあるのは 「歴史」についての考察ではなく、「時間」についての批評です。現在というものは、過 去の存在に対して凶暴に襲い掛かって来るのです。とても哀切な短編です。
  • 「ピンク映画史/欲望のむきだし」(二階堂卓也著、彩流社)
    著者は『マカロニアクション大全』『剣とサンダルの挽歌』等において、イタリアB級C 級映画の勃興と凋落を年代記風に綴っていました。それは彼自身の青春と重ね合わされ て、見事な挽歌、鎮魂歌となっていました。本書においても同じです。映画作品を論ず るに、「品格」だの「作家性」「芸術性」だのといった、立派そうに見えて、その実は怪 しげな観念は一切持ち出さず、徹底して「楽しめたかどうか」で語っていく姿勢に、改 めて感服しました。従って、ここでは向井寛、小森白、関孝二、小川欽也、木俣堯喬、 渡辺護などについて多くが語られています。私が青年時代に観ていた若松孝二、中村幻 児、高橋伴明、和泉聖治などの作家性の強い人たちの諸作は「ピンク」の本流として扱 われてはいません。それにしても、信じ難い低予算と短い製作日数で多作を強いられた スタッフとキャストの映画愛には頭が下がります。しかも、どんなに頑張ってみても、 真っ当に評価されることのない、まさに「名誉と栄光のためでなく」「殉教」とも言うべ き世界です。
  • 「バイエルの謎/日本文化になったピアノ教則本」(安田寛著、新潮文庫)
    もう20年以上前だと思いますが、牧師仲間が興奮した口調で一読を勧めてくれたのが、 この著者の『唱歌と十字架/明治音楽事始め』でした。うちの教会のKさんは音楽CD 制作会社に勤めていて、昨年、安田氏の講演会を開いておられました。日本人の音楽教 育の基礎となった「バイエル」とは何者かと、探索と思索の旅を続けるプロセス、そし て辿り着く結論は『唱歌と十字架』に似ています。著者はグーグル検索エンジンの凄さ を前にして「研究者の旅は終わった」と溜め息をつきつつも、以下のように叫ばざるを 得ないのです。「大切なのはこの長い時間に満たされた『遠方』である。クリックではす べてが近すぎる。時間による成熟が期待できない。空間を超える異郷感が得られない。 人間は時間的にも空間的にも遠くにあるものに惹かれる。そこに想いが生まれる」。星野 道夫の『旅する木』に出て来るシェルパの言葉を思い出します。
posted by 行人坂教会 at 11:56 | 牧師の書斎から

2016年07月08日

一点一画 one jot or one title その32

  • 「昭和の女優/官能・エロ映画の時代」(大高宏雄著、鹿砦社)
    以前に観て衝撃を受け、改めて観直してみると、記憶した映像や展開と食い違っている ことがあります。著者も『非行少年/陽の出の叫び』における三条泰子の映像(の記憶) に、その種の錯覚を見出しています。「その微妙な勘違い、否、差異こそ、映画の面白さ であり、映画の秘密を解く鍵であるとさえ言える。とともに、その勘違いのなかに、そ の人なりの映画を観る根源的な意味が含まれていると感じるのである」。「勘違いを飲み 込む見方もまた、映画には許されるであろう。末梢的な細部の描写をDVDで何回も見 て、正確をきす風潮があるが、それだと、同時代に観た映画の大切な魂≠ェ失われて いくこともあるのである」。京マチ子、前田通子、三原葉子、若尾文子、左幸子、加賀ま りこ、春川ますみ、団令子、安田(大楠)道代、渥美マリ、関根恵子(高橋惠子)…。映 画は女優で観るものだと、つくづく再確認します。増村保造監督作品が数多く採り上げ られているのも、私の趣味と一致しています。『赤い天使』『セックス・チェック/第二の 性』『でんきくらげ』『遊び』の論評は、自然、力の入り具合が違って来ているようです。
  • 「HUNTER×HUNTER」第33巻「厄災」(冨樫義博作、集英社)
    長男が「連載では今、クラピカとクロロ(幻影旅団の団長)が戦っているよ」と教えて くれました。しばらくして、続巻コミックスも出たと知り、早速購入しました。それに しても、この文字の多さは何でしょうか、士郎正宗の『攻殻機動隊』に匹敵するでしょ う。その上、この登場人物の多さは何でしょうか。まさか作者は、丸ごと「暗黒大陸」 に連れて行って、全員を虐殺するつもりではないでしょうか。そういう清算の仕方を企 てているのかと邪推したく成ります。本来、主人公であるはずのゴンとキルアを外して いるのも、「キメラアント編」の時のように、後から送り込むつもりなのでしょうか。読 み終えた数日後、長男から情報が入りました。「また、冨樫、休載だってよ」。丁度、テ レビでは、アニメ『美少女戦士セーラームーン』の再放送「ムーンライト伝説」が流れ ていました。「ごめんね 素直じゃなくて…」。
  • 「阿呆の鳥飼」(内田百闥、中公文庫)
    うちの教会の会員の娘さんが表紙カバーの木版画を担当しています。百閧フ小説は随想 のようであり、その随想は小説のようです。「私は小さい時分から小鳥が好きで、色色な 鳥を飼ったり、殺したりしました」という巻頭のさり気ない告白から、胸が疼きます。 人間が生き物を飼うことは、即ち、殺すことに通じるのです。「飼い殺し」と言うくらい です。衰弱する目白や仏法僧を夜通し手の中で温めて介護し、眼を患った柄長の世話を 甲斐甲斐しく焼き、家から飛び立ってしまった河原鶸の行く末を思ってオロオロする、 その愛惜の深さに切なく成ります。しかし、他方、捕らえた鼠に石油を掛けて焼き殺す 話、蛸の頭に刻み煙草のお灸を据えて息絶えさせる話、飼い猫の股を掴んでギュッと泣 かせる話、栗鼠を衝動買いした挙句にボール函に入れたままで死なせてしまう話、酷薄 な懺悔のようなエピソードも満載です。その振幅の激しさは、飼うという営みの本質を よくよく言い表わしているように思います。
  • 「日時計」(シャーリィ・ジャクソン著、渡辺庸子訳、文遊社)
    訳者は「あとがき」で「この物語には友達になりたいと思える人物がひとりも出てきま せん」と断言していますが、私にとっては、主要登場人物全員がごく身近な人たちに思 われたのでした。教会の牧師などという稼業のせいかも知れません。全く違和感がない のです。私にとっては、皆、興味深い、愛すべき人物と思われたのでした。終末を迎え るに当たって、ハロラン家の「お屋敷」が「ノアの箱舟」に成る、そんなお告げを受け て、各々一癖も二癖もある訳ありな人たちが擬似家族を形成しながら、その日に備えて 準備をして行くのです。それは、クリスマスやイースターの準備をしている時(アドベ ントやレント)の教会生活そのものです。加えて、小学生の頃、土曜日の午後、雨戸を 閉めて居間を暗くして、「えび満月」(煎餅)片手に、妹と一緒にテレビの『ウルトラゾ ーン』(『アウター・リミッツ』第2シーズン)を見ていた時の情景が脳裏に蘇えって来ま した。
  • 「プリニウス」第4巻(ヤマザキマリ+とり・みき作、新潮社)
    紀元62年に起こったポンペイ大地震を描いています。ウェスウィウス噴火の可能性を 語るプリニウスに、護衛のフェリクスは「縁起でもない!」と諫めます。「自然が己の力 で動く事の何が縁起が悪いのだ。なぜそうやって自分の命のつごう優先で物事を考えよ うとするのだ?!」と反論するプリニウス。自然の力の前に、人間の作り上げた文明?、 いや、インフラは一瞬にして脆くも潰え去るのです。善でも悪でもなく、これこそが世 の現実です。東日本大震災の時にも「神はいるのか!」と、これ見よがしに無神論的キ ャンペーンがありました。けれども、カタストロフを採り上げて、殊更に神や仏を呪う のは筋違いというものです。ただ、私たちの存在も、私たちの文明も、余りにも卑小で あるという事に尽きるのです。そう言えば、ポッパエアによるブッルスとオクタヴィア の暗殺、謎のユダヤ人の暗躍、呪詛板やキリスト教も登場します。盛り沢山のローマ史 です。
  • 「見た人の怪談集」(岡本綺堂他著、河出文庫)
    鏡花「海異記」、鷗外「蛇」、芥川「妙な話」、佐藤春夫「化物屋敷」の4篇は『日本怪奇 小説傑作集T』(創元推理文庫)で、小泉八雲「日本海に沿うて」、岡本綺堂「停車場の 少女」もどこかで読んでいます。15篇中6篇ですから、3分の1以上が再読だった訳で す。この手のダブリはアンソロジーに付きものですが、それでも、この本の「見た人の…」 という編集意図に脆弱さを感じないではいられません。展開そのものよりも、シニカル な文章が光っていたのが、正宗白鳥「幽霊」です。「大本教でもモルモン宗でも、何でも いいが…肉体を離れて魂魄が無いものなら、基督も釈迦も、お直婆さんやおみき婆さん と同じように痴愚の教えを説いて、幾億万の人間をたぶらかしたのだ」。猟奇的なオチが 控える橘外男「蒲団」、どこか陰惨な印象を残す角田喜久雄「沼垂の女」が私の好みです。 田中貢太郎「竃の中の顔」、大佛次郎「手首」は、古典の味わいの中にも、江戸時代の無 残絵を思わす、独特の残酷趣味が漂っています。
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