2020年07月17日

旭日亭菜単(続き)その59

  • 「澁澤龍彦訳 暗黒怪奇短篇集」(澁澤龍彦訳、河出文庫)
    シュペルヴィエルの「ひとさらい」とマンディアルグの「死の劇場」は再読です。今回の収穫は、ドルヴィリの「罪のなかの幸福」でしょう。父親によって最高の剣士として育てられた女オートクレールと、サヴィニイ伯爵との不倫話ですが、二人がセックスのみならずフェンシングによっても結ばれているのが肝です。私も長男の付き添いで、フェンシング道場に通っていた時期がありますので、一瞬の肉体の躍動の中に性別や道徳の境界線をも易々と超えるような、エクススタシス(忘我、痙攣)のような感覚があると思います。レオノラ・カリントンの「最初の舞踏会」では、少女の身代わりにハイエナが舞踏会デヴューします。女中の顔の皮を剥いで被ったハイエナですが、身体に染み付いた腐肉の臭いだけは如何ともし難かったのです。揺れ動く思春期の少女の思念を物語化した名作です。
  • 「アイヌ童話集」(金田一京助・荒木田家寿著、角川ソフィア文庫)
    読んでいて、東映動画の『太陽の王子ホルスの大冒険』を思い出しましたが、それもそのはず、そもそも「ホルス」は北欧神話ではなくて、アイヌ神話の「オキクルミと悪魔の子」から生まれた作品です。本書の中にも「オキクルミの昔話」として纏められています。金田一の末弟、荒木田の経歴(中川裕の「解説」)を見ると、1937年の「キネマ旬報」誌の懸賞に、自作『彼女の出發』が入選し、成瀬巳喜男監督が映画化する予定…との資料があるとの由。成瀬のPCL時代の末期でもあり、恐らく、この企画は頓挫したのでしょう。しかしながら、成瀬が二十年後に、児童文学者、石森延男の『コタンの口笛』を映画化していることを思い出して、私は何か不思議な符号のようなものを感じるのでした。
  • 「ゴーストリイ・フォークロア/17世紀〜20世紀初頭の英国怪異譚」(南條竹則著、角川書店)
    やはり、同業者の誼か、独立教会(18世紀英国における会衆派の別名)の牧師、エドマンド・ジョーンズの著書からの紹介を最も興味深く読みました。著者によれば、この人、カルヴィン派(スコットランド改革教会)の影響を受けていたり、ハウエル・ハリス(ウェールズにおけるカルヴィン主義メソジスト派の創始者)とも友好関係にあったようです。本文には、浸礼派(バプティスト)やクエーカーの人物の体験した怪異譚も紹介されているので、18世紀当時、英国のプロテスタント諸派が緩やかな連帯を持っていたことが伺えます。それはともかく、日本の人魂に当たる「屍蝋燭」、バンシーの係累と思しき「キヒラース」、「魔犬/地獄の犬」、牧師でありながら魔法使いに成ったデイヴィッド・ルイド等、実に面白い話が出て来ます。近代の科学万能主義に対する反論として著されながらも、現代では、フォークロアとしての価値が高く認められた文書です。
  • 「旅に出る時ほほえみを」(ナターリヤ・ソコローワ著、草鹿外吉訳、白水社)
    地底を掘り進む巨大アンドロイド「怪獣17P」と、その開発者である「人間」との心の絆を描いた作品ですが、そんな大筋から想像されるようなセンチメンタリズムとは無縁です。この「怪獣」の描写は、東宝特撮作品『キングコングの逆襲』において、メカニコングが「エレメントX」を採掘する情景と音楽(あの伊福部昭の)を、どうしてもイメージしてしまいます。国家総統による独裁と統制がエスカレートして、港湾労働者のストを弾圧し、「人間」の属する科学アカデミーからも研究の自由が奪われ、遂には「怪獣」を軍事利用しようとします。「人間」は名誉剥奪されて国外追放と成ります。丁度、習近平の独裁下「香港国家安全維持法」が成立した時でしたので、胸が詰まるような気持ちに成りました。そんな中、この「怪獣」は「人間」のために歌うのです。「あんまり背嚢につめるなよ。/一日 二日 三日じゃない―/二度と帰らぬ旅だもの…/旅に出るとき ほほえみを、/一度や 二度や 三度じゃない/旅は哀しくなるものさ…」。
  • 「縮みゆく男」(リチャード・マシスン著、本間有訳、扶桑社ミステリー)
    これは凄い小説でした。実存主義文学(サルトルの『嘔吐』)に比して論じる向きもあるようですが、この不条理な恐怖こそはマシスンの到達点です。正体不明(放射能?)の霧を浴びた男の体が1日に1/7インチ(0.36センチ)ずつ縮んで行くのです。緩慢なスピードでありながら、確実に進行して行き、治療方法は見付かりません。妻の背より低くなり、やがて幼い娘よりも、飼い猫よりも小さく成って行きます。その底知れぬ恐怖、周囲の無理解に対する苛立ち…。社会生活からの排除と差別、日常生活の困難、巨大化する衣服や家具、遂には、飼い猫や鼠、女郎蜘蛛などが襲い掛かって来ます。心身の障碍、進行性の病気、加齢による衰弱などの隠喩として読んで行くことも出来ます。日常の全てが恐怖に変わるのです。
  • 「二壜の調味料」(ロード・ダンセイニ著、小林晋訳、ハヤカワ文庫)
    所謂「安楽椅子探偵」物です。名探偵リンリーが警察の依頼を受けて自室で推理して行きます。助手は調味料「ナムヌモ」の訪問販売をしているスメザーズです。この人がワトソンのような語り手に成っています。私には、その語りが熊倉一雄の声で聞こえて来ます(但し、「名探偵ポアロ」ではなくて「ヒッチコック劇場」風ですが…)。この「リンリー=スメザーズ」のシリーズは本書の前半だけでした。予想に反して、後半の短編が面白かった。悪ガキ3人組が公園の池で、自作のポンポン船(『崖の上のポニョ』を想起せよ)に魚雷を仕込んで、金持ちの子どもの船を撃沈する「ラウンド・ポンドの海賊」が愉快。大戦前夜、ラディカルな発言をする国会議員の議会演説を、戦争を回避するために阻止しようとする「演説」のドンデン返し(先日読んだ「霧の中」を思い出します)。落雷による殺人を計画する「稲妻の殺人」も珍妙な味わいです。
posted by 行人坂教会 at 15:19 | 牧師の書斎から

2020年06月12日

旭日亭菜単(続き)その58

  • 「短編ミステリの二百年vol.1」(モーム、フォークナー他著、小森収編、深町眞理子他訳、創元推理文庫)
    編者の小森収による論文が巻末にあります。でも未だ序章と1章だけなので、このシリーズの続刊に載るのでしょう。結構、読み応えがあります。さて、「ミステリ」と聞いて、単純に本格推理物などを期待して貰ったら困りますが、本書収録の諸作が面白くないはずはありません。ウールリッチの「さらばニューヨーク」は「暁の死線」に匹敵する名作です。スティーヴンスンの「クリームタルトを持った若者の話」には奇譚の面白さが、イーヴリン・ウォーの「アザニア島事件」には三面記事の面白さがあります。実は、冒頭のリチャード・ハーディング・デイヴィスの「霧の中」には見事に騙されました。「つまんねぇ話だな」と思って読み始めたら、語り手がリレー形式に成っていて、何回も引っ繰り返されてしまうのです。ラニアンの「ブッチの子守歌」、こういう語り口も好きだなあ。
  • 「ヤービの深い秋」(梨木香歩著、小沢さかえ画、福音館)
    「小さい人たち」ヤービの一行と「大きい人たち」ウタドリさんの一行とが、それぞれ別の理由で「ややこし森」(人間は「テーブル森林渓谷」と呼んでいる)の「テーブル・マッシュルーム」を探しに行くのです。「キノコのために作曲をしている」と言ったのは、現代音楽の巨匠、ジョン・ケージだったでしょうか。その昔、著者に薦められて『ジョン・ケージ/小鳥たちのために』(青土社)を読んだ事が思い出されます。その後、私もキノコ粘菌系のホラーに深い愛着を覚えるように成りました。「キノコホテル」のマリアンヌ東雲も大スキです。やはり、子どもと一緒に自然の中に踏み込んで行く事(大人は事前の経験と準備が必要ですが…)、これが子どもの成長に必要なのです。それが前提で、この決め台詞があります。「成長する子どもを、だまってかたわらで見守る。…だまって、というのはむずかしいことですがね。彼らが成長したい方向へ成長するのを手助けする、といった方がいいかもしれません」。
  • 「幽霊島/平井呈一怪談翻訳集成」(A・ブラックウッド他著、平井呈一訳、創元推理文庫)
    メアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」と同じく、レマン湖畔の「ディオダティ荘の怪奇談義」がキッカケに成って生まれたとして有名な、ポリドリの「吸血鬼」、初めて読みました。つまんねぇ。歴史的作品として読むべき課題に過ぎません。但し、こんな作品も平井翁に翻訳して頂いているから読めるのです(感謝)。吸血鬼物なら、ローリングの「サラの墓」やマリオン・クロフォードの「血こそ命なれば」「死骨の咲顔」でしょう。「塔のなかの部屋」のベンソンは、カンタベリー大主教E・W・ベンソン(キプリアヌス研究の著書があります)の息子、「のど斬り農場」のベレスフォードも牧師の息子、「ライデンの一室」のバーラムは王室礼拝堂付きの牧師、M・R・ジェームズは言わずと知れたケンブリッジ大学の聖書学者です。現代の牧師たちの中からも怪談作者が出ることを望みます。フレンド派のハーヴェイによる「サラー・ベネットの憑きもの」が収穫でした。殺戮の戦場であっても、青空には小鳥の囀る残酷を「ルカによる福音書」16章26節の聖句から説き起こす件が面白かった。ブラックウッドの表題作は勿論、底知れぬ怖さがあって絶品です。
  • 「鬼滅の刃」第1巻「残酷」〜第6巻「鬼殺隊柱合裁判」(吾峠呼世晴作、集英社)
    評判なので、二男のコミックスを借りて読んでみました。大正時代に日本刀を振り回す登場人物たちは『るろうに剣心』(「るろ剣」は明治時代だけど)ですね。家族を鬼に皆殺しにされた炭治郎が天狗の面を付けた老人の下で修行し(『ドラゴンボール』の孫悟飯じっちゃんが狐面を付けていたのを思い出す)、「鬼殺隊」入隊の最終選抜試験(『HUNTER×HUNTER』)をクリアして、更なる修行によって呼吸法を身に付けてレベルアップ(『ジョジョの奇妙な冒険』の波紋とか『H×H』の念能力とか)…。「ジャンプ」系マンガの王道です。善逸(『ソウルイーター』のクロナを思い出させるトリックスター)や伊之助(猪の被り物の下は美少年、『もののけ姫』か)といった同期の剣士たちと行動を共にするように成って来て、俄然エンジンが掛かります。でも、やはり、この作品の最大の魅力は、炭治郎が背負う笈(木製の箱)に入っている禰豆子の存在でしょう。妖怪の「折り畳み入道」や江戸川乱歩の『押絵と旅する男』を思い出します。手毬を操る童女の鬼、朱紗丸と禰豆子が戦う場面では、二人とも着物の裾捲くり、親爺世代はこれが一番楽しかったりして…。
  • 「夜鳥」(モーリス・ルヴェル著、田中早苗訳、創元推理文庫)
    先の「フランス怪談集」に「或る精神異常者」が入っていて、昨年夏に京都の一乗寺の恵文社で購入したまま未読だったのを思い出した次第です。リラダンの流れを汲む「残酷物語/Contes cruels」として紹介されますが、フランスのジャン・ローラン監督の短編映画と似た淫靡な感触があります。麻酔の効かないままの手術(「麻酔」)、猛犬、狂犬に噛み殺される間男(「犬舎」)や不義の子(「生きぬ児」)、稲穂刈りの大鎌(サイス)で首チョンパされる姦婦と間男(「麦畑」)…。ルヴェルの残酷は愛から生まれたものばかり。とりわけ、愛人に硫酸で顔を灼かれて失明した男が、彼女の罪を許して告訴を取り下げたものの…(オチの言えない)「暗中の接吻」、死刑を求刑した男の冤罪に苦しんだ検事の後半生を描く「自責」等は皮肉に満ちたドンデン返しです。乞食が盲目の乞食に施す「幻想」は、チャップリンの『街の日』を思い出しますし、1人の子どもを取り合った挙句の「二人の母親」は、「列王記上」3章、ソロモン王の「大岡裁き」の遠い谺を思わせて、独特なペーソスがあります。
posted by 行人坂教会 at 21:05 | 牧師の書斎から

2020年05月04日

旭日亭菜単(続き)その57

  • 「オレンジだけが果物じゃない」(ジャネット・ウィンターソン著、岸本佐和子訳、白水社Uブックス)
    裏書きの「狂信的なキリスト教徒の母」等という文句から想像するのは、S・キングの「キャリー」の母親マーガレット、「霧」のミセス・カーモディだったりするのですが、そんなのはステレオタイプです。もっと複雑で人間味のあるキャラなのです。ヒロインのジャネットが、母親と共に通っているのは、確かに、原理主義的なペンテコステ系の教会(しかも、時代は1950年代)なのですが、ここに描かれる牧師たちや信者たちには、私なども「昔、こういう人、いたよなあ」的な親近感を抱きます。ともかく強烈な母親なのですが、最終章の「ルツ記」では、そんな母親との間に通う情愛も木目細かく描かれていて、虚を衝かれました。「わたしは神をなつかしむ。けっして自分を裏切ることのない存在をなつかしむ。わたしは今でも、神に裏切られたとは思っていない。神の僕たち?―そう、でもそもそも裏切るのが僕というものだ。神はわたしの友だった」。「神の友」は、アブラハムやモーセに冠せられた称号です。そして、イエスが弟子たちを「私の友」と呼ばれたことを考え合わせれば、中々意味深長な告白でもあります。
  • 「山怪/山人が語る不思議な話」(田中康弘著、ヤマケイ文庫)
    単独ビバークした経験のある人たちが、必ずと言って良い程に経験するのが「深夜の樵」です。大木を伐る斧やチェーンソーの音、倒木の音、その倒木を引き摺る音…。タヌキの仕業とされますが、これが普遍的というのが不思議です。この本の中には、私の生まれ故郷、兵庫県朝来市の猟師の体験談(「道の向こうに」)も掲載されています。朝来は但馬國なのですが、狩猟の世界では「丹波猟師」の活動領域とされるみたいです。私も子どもの頃、裏の山から、イノシシの両足を縛り太い棒にぶら下げて、猟師が駕籠かきのように二人組で担いで下りて来る姿を何度も目にしたものです。その山は我が家の所有でしたが、そこを移動する野生動物にまでは所有権ありませんからね。ともかく、山が異界(社会制度や人間の常識の外)と繋がっていることは間違いありません。
  • 「フランス怪談集」(日影丈吉編、河出文庫)
    お国柄でしょうか、9割方が「女怪」です。ゴーティエの「死霊の恋」は、何度も読んだ作品ですが、(その翻案と言っても良い)岡本綺堂の「玉藻の前」を経て、改めて読み直してみると、かなり萌えます。メリメの「イールのヴィーナス」が怖い。劇画的と言えるでしょう。マンディアルグの「死の劇場」も諸星大二郎の短編を思わせる作品でした。ドールヴィイの「真紅のカーテン」は、今や年老いた将校によって語られる、ニンフォマニアの美少女を巡る性愛と死の物語ですが、恐怖と官能が綯い交ぜの読後感、半端ありません。そして、ジュリアン・グリーンの「死の鍵」、「キリスト教文学」の範疇で採り上げられることの多い作家ですが、こんな怪奇小説があったのですね。
  • 「ぼくらの近代建築デラックス!」(万城目学×門井慶喜談、文春文庫)
    万城目学(映画化された「プリンセス・トヨトミ」の作者)は京都大学、門井慶喜(ドラマ化された「家康、江戸を建てる」の作者)は同志社大学の卒業生で、京都編が中核だと思います。二人とも貧乏学生時代には「進々堂」(熊倉工務店、1930年)でなんか喫茶できなかったと証言している話に、大きく共感。アニメ映画「夜は短し歩けよ乙女」では、ラストで「先輩」と「乙女」の初デート待ち合わせ場所に設定されています(原作者の森見登美彦は万城目と同じ京大)。残念だったのは、大阪編に「綿業会館」(渡辺節、村野藤吾、1931年)を2度に渡って採り上げながら、同じ会員制の「大阪倶楽部」(安井武雄、1924年)が無視されていたことです。バブル期に2階の「常食堂」(「花外楼」の直営店)で、私が企画してゼミの同窓会を開いた思い出の場所です。東京編では、妖怪レリーフ満載の伊東忠太(「築地本願寺」と一橋大学「兼松講堂」)、職人から叩き上げの菅原栄蔵(「ライオン銀座七丁目店」)に心を動かされました。「学士会館」裏の「新島襄先生生誕之地」の石碑、長男の高校の保護者会に行く度に合掌していたものです。
  • 「ドイツ怪談集」(種村季弘編、河出文庫)
    所謂「文豪」(クライスト、ホフマン、ティーク、ホーフマンスタール)に加えて、怪奇小説の定番作家(マイリンク、エーヴェルス)まで網羅されています。J・ティークの「オルラッハの娘」は、ルター派の農家の娘に、尼僧(善霊)と黒坊主(悪霊)が取り憑くエクソシスト物です。プロテスタント信者の娘に憑依するのが大昔のカトリックの修道女と修道士。古今東西、古い聖所(宗教施設)の上に、新しい聖所を建てるのです。それが、ゲニウス・ロキ(地の霊)を有効活用する方法です。それにしても、ドイツだけに宗教関係者の多いこと。「庭男」のH・H・ヤーンはオルガン職人、「三位一体亭」のO・パニッツァはユグノー教徒の子、「奇妙な幽霊物語」のJ・P・ヘーベルに至っては、ドイツ福音教会の監督です。その中でもお薦めは「三位一体亭」。何事が起こる訳でも無いのに、読了後に(「置き去りにされた感」とでも言いましょうか)最も奇怪な印象を受ける作品です。
posted by 行人坂教会 at 17:24 | 牧師の書斎から

2020年03月28日

旭日亭菜単(続き)その56

  • 「ゴールデンカムイ」第21巻(野田サトル作、集英社)
    かなり「作画チーム」が充実して来たと思われます。いや、作画だけではありません。物語の展開にも、徒に登場人物を増やしただけではなく、今後それを上手に結んで行く予感があります。205話の「シネマトグラフ」等、「こんな話、要らんだろ」と思っていたら、アシリパさんの両親やキロちゃんの映像が出て来たりして、ハッとさせられます。谷垣とチカパシの別離、アシリパと鶴見中尉の対峙など、凄い展開に息を飲みます。
  • 「ローマ法王」(竹下節子著、角川ソフィア文庫)
    この本のクライマックスは、第4章「ヨハネ=パウロ二世と歴史の激動」にあります。アンティオキア、アレキサンドリアと共に3大司教の1人でしかなかったローマが、どのようにして西欧キリスト教世界を束ねる「教皇」の地位と権勢を獲得して行くに至ったか。また、宗教改革と啓蒙主義の時代、どのようにして、その存在意義を保ったか。そんな歴史を概観した上で、未だ記憶に新しい「東欧革命」「ソ連の解体」を牽引したカロル・ヴォイテワの偉業を見せられるのです。この本は出版社を変える度に、ベネディクト16世、フランシスコの部分が「秘伝のタレ」のように注ぎ足されたのです。教皇に莫大な寄付金を納めている、米国支配階級の団体「コロンバス騎士会」の影響力についても採り上げられている所は、エゾテリスムの研究者である著者の面目躍如です。
  • 「昭和芸能界史/[昭和20年夏〜昭和31年]篇」(塩澤幸登著、河出書房新社)
    「平凡」「平凡パンチ」「Tarzan」等の編集を務めた著者による戦後芸能年代誌。これまでに「あるようで無かった本」です。芸能雑誌「平凡」の資料と統計が物を言う訳ですが、著者は、その年その年の政治や経済にも目配りをしながら、大衆文化の深層に切り込んで行きます。鶴見俊輔や色川大吉などの思想家の記録も引用されますが、大衆文化(その時代の大衆が何を求めているか)に寄り添う著者の視点と覚悟は潔く温かです。近江絹糸の労働争議では、経営者が従業員に対して前近代的な人権抑圧をしていたのですが、その中に「平凡」講読禁止の項目があったというのには驚きました。渡邊晋が「渡辺プロ」を設立する経緯も丁寧に書かれていますが、連れ合いの美佐夫人の一族(曲直瀬家、マナセプロ)は、我が行人坂教会とも多少の縁があります。
  • 「平成怪奇小説傑作選3」(東雅夫編、創元推理文庫)
    東日本大震災後の「破滅時代」に書かれた諸作は粒揃いです。私たちの生きている現実そのものが、今や「ホラー」としか言いようが無いのだと、改めて実感しました。震災を直接題材にしているのは、高橋克彦の「さるの湯」でしょう。しかし、木内昇の「蛼橋」も、有栖川有栖の「天神坂」も、小野不由美の「雨の鈴」も、小島水青の「江の島心中」も、大濱普美子の「盂蘭盆会」も、死者の世界から生者の世界を覗き見ているような物語である点で共通しています(高原英理の「グレー・グレー」なんてゾンビ物ですしね)。民俗学に言う「異種婚姻譚」(宇佐美まことの「みどりの吐息」)や「鬼子伝説」(京極夏彦の「成人」、澤村伊智の「鬼のうみたりければ」)にも、現代特有の閉塞感が表現されています。私の一番のお薦めは、恒川光太郎の「風天孔参り」です。遣る瀬無い孤立感が堪りません。
  • 「中国怪談集」(中野美代子、武田雅哉編、河出文庫)
    王秀楚(ワン・シウチュー)の「揚州十日記」こそは、ケン・リュウの「草を結びて環を銜えん」の素材だったのです。その一点からも推察されるように、『聊斎志異』のような「如何にも」な怪異譚は敢えて外して、現代中国系作家のSFやファンタジーのイメージの源泉を教えてくれるようなセレクトがしてあるのです。魯迅の「阿Q正伝」を入れてあるのにも舌を巻きました。私の一番のお気に入りは、葉蔚林(イェ・ウェイリン)の「五人の娘と一本の縄」です。何と、これはワン・チン監督の名作『五人少女天国行』(1991年)の原作ではありませんか。映画もブッ飛びましたが、原作も凄いです。嫁に出される直前の少女たち5人が集団自殺する話なのですが、その瑞々しさ儚さに胸が締め付けられます。許地山(シュー・ティシャン)の「鉄魚≠フ鰓」には、往年の海野十三の趣きがあります。
posted by 行人坂教会 at 17:45 | 牧師の書斎から

2020年01月26日

旭日亭菜単 (続き)その55

  • 「イギリス怪談集」(由良君美編、河出文庫)
    英国と言えば「幽霊物」と相場は決まっています。その中でも、ベンソンの「チャールズ・リンクワースの告白」は、電話が小道具に使われて、奇妙なリアリティを残す作品です。ティンバリーの「ハリー」は、幼い娘を持つ母親が語る神経症的恐怖譚。失ってはならない愛すべき者がいればこその怖ろしさです。ブラックウッドの「僥倖」は、ジュラ山中を旅行する牧師が主人公です。マンビーの「霧の中での遭遇」にも教区牧師が登場します。旅人に道を教える慈悲深い隠者も登場します。この2作品、「九死に一生」の結末は同じですが、霊の働きは正反対です。水夫や水兵の怪談、航海中の客室の怪談、所謂「海もの」が4篇も入っていたのも英国らしさでしょうか。
  • 「平成怪奇小説傑作選2」(東雅夫編、創元推理文庫)
    牧野修の「グノーシス心中」のスプラッターぶりはサイコー。浅田次郎の「お狐様の話」は、御岳山を歩き、宿坊に泊まった時の風景を思い出しながら読みました。「この世に邪悪なものは数知れずにあるが、それを調伏する力など実は人間にも神様にもないのではないかと疑った」。先のホワイトヘッドの「黒い恐怖」を神道の立場で再現しています。森見登美彦の「水神」は、京都市郊外の旧家を舞台に通夜の不寝の番が延々と続いて、やがて読者も同席しているような朦朧感、錯覚に陥ります。京都の送り火をモデルにしているのは、綾辻行人の「六山の夜」ですが、こちらは30分ホラードラマの趣き。山白朝子の「鳥とファフロッキーズ現象について」は『怪奇大作戦』かな。朱川湊人の「トカビの夜」、光原百合の「帰去来の井戸」は、ひたすら涙涙です。特に前者は円谷特撮ファン必読。
  • 「キリスト教でたどるアメリカ史」(森本あんり著、角川ソフィア文庫)
    「米国キリスト教史」ではありません。これこそが紛れも無い「米国の歴史」です。著者はICU(国際基督教大学)の教授、日本キリスト教団の牧師ですが、米国キリスト教を見詰める彼の眼差しには、異文化を分析する客観性が担保されています。その意味で、米国人や米国の政治・経済・文化・科学に関わる全ての人にお薦め出来る、安心の教科書(勿論、良い意味で)です。第10章「アメリカの膨張」では、米国の歴史が日本のプロテスタント諸派の成立に直結していることが分かります。それだけに私たちは、もっと米国の負の歴史、米国社会の脆弱さ、反主知主義の伝統をも見据える必要があります。
  • 「ゴールデンカムイ」第20巻(野田サトル作、集英社)
    前半の見せ場は、雪深い登別の山中で展開される菊田特務曹長+有古一等卒VS都丹庵士の死闘。後半の見せ場は、尾形百之助との激闘の最中、鯉登音之進の脳裏に蘇る鶴見中尉との邂逅(感傷的な物語に見えて、実は、これにも何か裏がありそうです)。菊田が二挺拳銃で使用している「ナガンM1895」は、ベルギーで開発されたリボルバーで、ロシアとソ連の制式拳銃でした(主に将校用)。対する都丹の愛銃「マウザー(モーゼル)C96」はドイツ軍の制式拳銃(オートマチック)です。雪山で繰り広げられる死闘を見ていて、異色マカロニ西部劇『殺しが静かにやってくる』の殺し屋サイレンス(声帯を切られた男)の愛用銃でもあったことを思い出しました。その名前と言い、銃器と言い、最期までマカロニでした。
  • 「アメリカ怪談集」(荒俣宏編、河出文庫)
    やはり、同業者として、ホーソーンの「牧師の黒いヴェール」とホワイトヘッドの「黒い恐怖」は外せません。その独特の不気味さを解して愉しむことが出来るのは、キリスト教徒の数少ない特権の1つです。カウンセルマンの「木の妻」にも、年老いた信徒伝道師が出て来ます。こちらは、ヒロインが福祉調査員の女友だちに同行して目撃する異様な世界です。明らかに戦後社会なのですが、米国僻地独特の底知れなさが醸し出されていて絶品です。ヘンリー・ジェームズの「古衣裳のロマンス」は、予想通りの展開でありながら、予想外の面白さでした。ケラーの「月を描く人」は精神病院が舞台に成っていて、患者の描いた絵が実体化する話。ベン・ヘクトの「死の半途に」の中にある「われわれの幻覚は本人のみならず他人をも支配するということだ」の警句が思い出されます。
  • 「ロシア怪談集」(沼野充義編、河出文庫)
    子どもの言葉遊びに「ロシヤの殺し屋怖ロシヤ」というのがありました。でも怪談は怖ろしくありません。プーシキンの「葬儀屋」、ドストエフスキーの「ボボーク」等、むしろ「諧謔小説」と言うべきでしょう。ゴーゴリの「ヴィイ」は、その筋では有名な映画『妖婆/死棺の呪い』(もしくは『魔女伝説/ヴィイ』)の原作です。ウクライナ正教会の神学校の「文法級生→修辞級生→哲学級生→神学級生」という学制、上級生に成れば成る程に不良化して行くのが面白い。最大の収穫は、アレクセイ・トルストイの「吸血鬼の家族」でした。ルーマニアとウクライナの間、モルダヴィア(モルドバ)に伝わる「ヴルダラーク」の物語。死者が墓から抜け出して、自分の村に戻って来るのです。そして迎え入れた家族や友人の血を吸うのです。それは伝染病のように拡がり、やがて村全体が滅んでしまうのです。現代の「ゾンビ」、いや、キングの『ペット・セマタリ』の味わいに近いです。
posted by 行人坂教会 at 22:58 | 牧師の書斎から

2019年11月18日

旭日亭菜単(続き)その54

  • 「ヤマトタケル」第1巻(安彦良和作、中公文庫)
    今年、NHKが放映した『機動戦士ガンダムTHE ORIGIN/前夜 赤い彗星』(OVAを再編集してテレビシリーズ化したもの)に心震わせ、『こころの時代』の「わかり合えないをわかりたい/安彦良和」を観てしまったせいで、改めて彼の作品に触れないではいられなくなりました。宮崎の教会にいた頃、『ナムジ』『神武』全巻を読んでいましたから、スゥーッと入って行けました。作者が参考にしている原田常治『古代日本正史』も、いずれ読んでみたいものです。
  • 「やがて満ちてくる光の」(梨木香歩著、新潮社)
    このエッセイ集の中盤に収められている、河田桟(その後、この人は与那国島で馬飼いに成られたとか)によるインタビュー(「生まれいずる、未知の物語」)には舌を巻きます。『沼地のある森を抜けて』の創作を中心に話題が展開するのですが、作家の聞き手の役割を演じるためには、ここまでの鋭いアンテナが必要なのかと感心してしまいました。同作については、恥ずかしながら、私などは「糠漬け」の話というくらいしか記憶がありません。「家の渡り」には、名前が伏せられていますが、戦前からのカール・バルトの研究者、宮本武之助教授のお宅の佇まいが紹介され、併せて、著者の学生時代の思い出として、新約聖書学者の橋本滋教授との交流も描かれています。いずれも帰天されて久しいので、もう名前を出しても良いでしょう。
  • 「ヒストリエ」第11巻(岩明均作、講談社)
    長男も楽しみにしている作品。長男は「また別の話に成っちゃって話が前に進まない」と漏らしていましたが、それは違います。アレクサンドロス王子に瓜二つのパウサニアスが新たに登場して、オリュンピアス王妃(アレクサンドロスの母親)による陰謀が描かれますが、これこそは、フィリポス王暗殺(いよいよか…)の伏線に成っているはずなのです。
  • 「教養としてのミイラ」(ミイラ学プロジェクト編著、KKベストセラーズ)
    二男が未だ小学校1年生だった頃、急にミイラに関心を持って、ミイラの本を買って上げたことを思い出しました。夏休みの自由研究のために、犬か猫を捕まえて来て、二人でミイラ作りをしようと考えたこともありましたが、ナトロン(ソーダ石)を使って水分を取り除くだけで70日もかかることが分かり、(妻にも猛反対され)泣く泣く断念したものです。この本はエジプト、中南米、ヨーロッパ、アジア、オセアニア、日本と世界のミイラが美しいカラー写真で紹介されています。最近の私は、木の実だけを食べて入定する湯殿山の即身仏に、とても心魅かれるものです。
  • 「ゴールデンカムイ」第19巻(野田サトル作、集英社)
    玉石混交のシリーズですが、さすがに今回はリキ入っていました。遂にアシリパ一行に追い付く杉元たち、その接近の過程に織り込まれる、ソフィアの回想(ウイルク、キロランケと過ごした過去)…。谷垣や鯉登とキロランケとの死闘、アシリパと尾形との対決、これこそが「ジャンプ」の真骨頂です(「ヤング」だけど…)。
  • 「アラマタヒロシの妖怪にされちゃったモノ事典」(荒俣宏著、秀和システム)
    水木しげる翁の御蔭で、幼い時から人間よりも妖怪変化に愛情を感じるように成ってしまった私は、キリスト教の牧師をしていながらも、未だに廃物に話し掛けたり(付喪神)、こちらを振り向いた野良猫に話し掛けたり(猫又)、おかしな事をしてしまいます。この本はティーン向けなのですが、編集の面白さに釣られて買ってしまいました。ところで、エボシガイに寄生されたセグロウミヘビは、その昔「宇賀(ウガ)」と呼ばれ、「瑞獣」とされていました。その「宇賀」の項を読みながら、大学時代、英文科に「宇我神魔子」という凄い名前の少女がいたことを思い出しました。「宇賀神(うがじん)」は、彼方から海の幸を携えて来るマレビトですから、きっと、彼女は外来神の末裔だったのでしょう。
  • 「実話怪談/でる場所」(川奈まり子著、河出文庫)
    2000年代初頭、著者は『女医・川奈まり子/タブーSEX』(別題『川奈まり子の愛の病棟日誌』)『川奈まり子/桜貝の甘い水』『川奈まり子/昼下がりは別の顔』他、多数のピンク映画、AVに主演していました(その名を冠した題名からも、当時、彼女には固定ファンが付いていたことが分かります)。それが、今では「実話怪談ライター」として有名に成ってしまいました。基本的にAVの撮影現場には、廃屋、廃業後の施設の類いが多く、霊感の強い彼女は、当時から心霊現象に出遭うことが多かったようです。私としては「蔵と白覆面」(目黒川近く上大崎の某旧家)と「瓶詰めの胎児」(六本木ヒルズ)が最も興味深かったです。前者は御近所の故。後者は、道教の邪法「養小鬼(ヤンシャオグイ)」(1980年の香港映画『養鬼/悪魔の胎児』で、その存在を知りました)との関連からです。
  • 「文豪たちの怪談ライブ」(東雅夫編著、ちくま文庫)
    明治末期から昭和初期に、文人や画人、新聞記者や出版関係者、果ては素人の変わり者、風流人まで集まって、繰り返し開催された「百物語」「怪談会」の様子をダイジェストに紹介し、尚且つ、その変遷を綴った好著。尾崎紅葉、徳田秋聲、三遊亭円朝、柳田國男、泉鏡花、喜多村緑郎、小山内薫、伊藤晴雨、伊東深水、芥川龍之介…等、名立たる面々による怪談が満喫できます。但し、創作の類いではなく、基本、実体験談とその再話です。ですから、ホラーを期待すると肩透かしを喰うでしょう。それはともかく、泉鏡花の存在感の大きさは際立っています。曰く「人と人とが相差し向いで話をしている僅三尺の空間(すきま)にさえ、人間界以外の別世界がある。その別世界がお化けの世界かも知れない」。
posted by 行人坂教会 at 09:33 | 牧師の書斎から

2019年08月24日

旭日亭菜単(続き)その53

  • 「平成怪奇小説傑作集1」(東雅夫編、創元推理文庫)
    いずれ劣らぬ傑作揃いです。毎度ながら、編者の怪奇小説に対する批評眼と愛着の深さには脱帽します。小池真理子の「命日」、板東眞砂子の「正月女」と「因縁物」の連発は凄いです。けれども、脊椎カリエスで死んだ女の子の霊障などという落ちは、実際に脊椎カリエスを患っていた友人(故人)を知る私には噴飯物。ヒロインの複雑怪奇な心の動きの描写が、遂には圧倒的なホラーを招き寄せる「正月女」に軍配を挙げざるを得ません。幻想的な雰囲気では、皆川博子の「文月の使者」が圧巻です。泉鏡花の『天守物語』ならぬ「煙草店主物語」です。宮部みゆきの「布団部屋」は読後感がジーンと長く後を引きます。篠田節子の「静かな黄昏の国」は、高齢化社会と核汚染とを絡めて描かれた直球デストピアSFです(福島原発事故の9年前に執筆された)。但し「核燃料サイクルが軌道に乗り…」という部分は苦笑せざるを得ません。1990年代の段階で「核燃サイクル」の虚構は見えていましたから。
  • 「キリスト教と日本人/宣教史から信仰の本質を問う」(石川明人著、ちくま新書)
    著者は「非キリスト者に読んで欲しい」というような事を仰っているが、読み終わった時に、むしろ「是非、キリスト者にこそ読んで貰いたい」と思いました。日本社会に暮らす圧倒的大多数の人たちは、カトリックとプロテスタントの違いも分かりません。そんな人たちにとっては、伝統的な(と、少なくとも思われている)神仏や習俗を敵対視し、上から目線で(自分も実行できない)聖書の教えを説くキリスト者など、真に鼻持ちならない存在なのです。プロテスタントが聖書に執着する事も、所詮は「活字信仰」に過ぎません。教派とか教義とか信条とか聖書解釈とか、そんな事柄に拘泥して(本当は、殆どの日本人キリスト者にとってさえ自分たちの歴史では無いのに)内輪揉めしているのも馬鹿げた事です。但し、著者が「村や町などのレベルでも、もう偏見や嫌がらせなどはなく、キリスト教徒であるがゆえに日常生活で不利益を被ることはありえないとほぼ断言できる世の中になった」(p.235)と仰っている、それは都市生活者の甘い現実認識です。
  • 「椿宿の辺りに」(梨木香歩著、朝日新聞出版社)
    「痛み」から始まる物語です。耐え難い痛みこそが冒険へのスタートと成ります。「冒険」と言っても、スピリチュアルな冒険、と言うか探索なのですが、いつもの事ながら、人道を踏み外しそうな「スピリチュアリズム」の手前で立ち止まる著者の器量たるや、大したものです。仮縫氏や亀シ等という霊感の強そうな人たちも登場しますが、彼らに向けられる眼差しも等身大で優しいものです。曰く因縁のありげなお稲荷さんも大黒さんも、川の氾濫も江戸時代の惨事も、決して呪いや祟りには向かっていないのです。大きな自然の循環に向かっているのです。何と言っても、この物語のクライマックスは、山幸彦が珠子と一緒に囲炉裏の上の越屋根の窓を開く場面です。二人の協同作業によって空気の循環が始まり、皆が解放されて行く契機と成るのです。「この痛みに愛着を感じる」「実は、痛みに耐えている時が、人生そのものだった」という山幸彦の最後の告白が、この物語の奥深さを示しています。もしかしたら、著者は現代日本における「Bildungsroman/教養小説、自己形成小説」の新しい形を模索しているのかも知れません。
  • 「草を結びて環を銜えん/ケン・リュウ短篇傑作集4」(ケン・リュウ著、古沢嘉通他訳、ハヤカワ文庫)
    吉村昭『羆嵐』のファンにとっては、冒頭の「烏蘇里(ウスリー)羆」は堪りません。スチームパンクの要素も、幻想文学(変身譚)の要素もあり、『ゴールデンカムイ』のようでもあります。しかし今回、特に胸に響いたのは、表題に成っている「草を…」と「訴訟師と猿の王」です。共通するのは、唐朝から清朝へ移行する時代、漢民族が満州族の外来王朝に支配される時代がテーマに成っている事、聖人君子とは程遠い主人公が、ふとした義侠心から何の見返りも望まず、人を助けて無残に殺されて行く事です。巻末の「万味調和」も凄い。かの『三国志』の英雄、関羽が中国人移民のリーダーとして開拓期のアイダホに再生して、白人たちとも食を通じて交流して行きます。以前「将軍のチキンを探して」(The Search for General Tso)という番組を観た事を思い出しました。米国生まれの中華料理「左宗棠鶏」の起源(つまり、中国移民が米国社会に根付く歴史)を探るドキュメンタリーでした。
  • 「悪魔のすむ音楽」(若林暢著、久野理恵子訳、音楽之友社)
    著者は2016年に亡くなったヴァイオリニスト。彼女がジュリアード音楽院留学中に書いた博士論文の翻訳です。表題に「悪魔」とあるものの、古代の「ダイモン」「サタン」、中世の「ルシフェル」ではなく、近代の悪魔「メフィストフェレス」が中心です。つまり、啓蒙主義的でトリッキーな悪魔です。バッハのカンタータ第19番に始まり、ストラヴィンスキーの「兵士の物語」までが採り上げられ、悪魔がどのように表現されて来たか、具体的に楽譜から分析されます。「ディエス・イレ」が大好きな私としては、第4章「死のライトモチーフ『ディエス・イレ』」に興奮しました。本来は「死者のためのミサ曲」の一部であったはずが、ベルリオーズの「幻想交響曲」では、悪霊どもの揶揄と成り、スクリャーピンのピアノソナタ第9番に至っては「黒ミサ」と化するのです。
posted by 行人坂教会 at 23:18 | 牧師の書斎から

2019年07月06日

旭日亭菜単(続き)その52

  • 「怪獣」(岡本綺堂著、中公文庫)
    時代劇作家の「怪獣物」と言うと、宮部みゆきの『荒神』のような式神が出て来るものと期待してしまいますが、飽く迄も「怪しげな獣」なのです。「恨の蠑螺」はサザエ、「岩井紫妻の恋」は狐、「深見夫人の死」は蛇、「夢のお七」は鶏です。「海亀」「鯉」「鼠」等、題名がそのものズバリの短篇もあります。明治時代に成ってから「実は、御一新の前の話ですが…」と語られるパターンが特徴的で、杉浦日向子の漫画を思い出したりします。不思議な話が、ただ不思議なまま終わってしまうことも多く、人を怖がらせるのが目的の「怪談」ではなく、「怪譚」という風情です。でも「海亀」が結構怖かったな。妖怪事典に出て来る「和尚魚」「海和尚」です。だから、アオウミガメは別名「正覚坊」と言うのですね。でも、ここに出て来るのはアカウミガメなのですが…。
  • 「死者の百科事典」(ダニロ・キシュ著、山崎佳代子訳、創元ライブラリ)
    表題作は、父を亡くしたばかりの女性が、旅先の図書館で、世界中の無名の死者の生涯を綿密に綴った書物に出会い、父親の項目を読み耽るという幻想的な話です。しかも、作者の後書きによると、生者死者を問わず全人類のデータをマイクロフィルムに記録しようとする保管庫がソルトレーク市に実在していると言うのです。モルモン教徒が系譜学に対する信仰の故に収集事業を続けているのだとか…。ダニロ・キシュはユーゴスラビアのユダヤ人です。クルアーン「洞窟の章」から採られた「眠れる者たちの伝説」、「シオン賢者の議定書」(ユダヤ人による世界支配の陰謀が記載された、所謂「プロトコル」)の成立を揶揄と皮肉で描き切った「王と愚者の書」、加えて「師匠と弟子の話」「未知を写す鏡」もユダヤ教の匂いが濃厚です。しかし、絶対のお薦めは「魔術師シモン」です。アポリネールにも同名の短篇がありますが、ダニロ・キシュは圧巻です。読者は暴力的に投げ跳ばされて、言いようのない悩ましい一夜を過ごすことに成るでしょう。
  • 「玉藻の前」(岡本綺堂著、中公文庫)
    題名からも分かるように金毛九尾の狐、言わずと知れた「殺生石伝説」なのですが、九尾の狐退治の物語それ自体は、単なるエピローグに過ぎません。千枝松と藻(みくず)の幼馴染みが交わす恋物語から始まります。ところが、狐に取り憑かれた少女藻は関白藤原忠通に取り入り、妖艶な「玉藻の前」と成り、天皇の采女(うねめ)に推挙され、朝廷の奥深くにまで喰い込もうという勢いです。対して、千枝松は陰陽師安倍泰親(安倍清明の子孫)の弟子と成ります。こうして妖魔と退魔師の立場に分かれた二人の悲恋こそが、この小説の主眼です。綺堂はゴーチェの「クラリモンド」の日本版をやりたかったみたいです(綺堂は自身で訳して『世界怪談名作集(上)』に編集していますもの)。
  • 「ゴールデンカムイ」第18巻(野田サトル作、集英社)
    自分の目の前で、可愛い我が子が死んでしまった時、大きな事故に遭ってしまった時、重病に倒れてしまった時、親は何もしてやれない自分を責め、こう思うのです。「私が代わりに成るから、この子を助けて欲しい」「どうして私ではなく、何の罪も無い幼い子がこんな目に遭うのか」。遂には、関谷輪一郎のように「本来なら神は自分を罰するべきだ」と、自己処罰(破滅)を目指すのかも知れません(関谷が幼い娘と共に礼拝に通った、木造の小さな教会堂がよく描けています)。それに対して、写真館の長谷川幸一は自分の巻き添えで妻子が死んで、勿論、悲しみますが、自分の属する組織(国家、軍隊)のために邁進します。両者共に人殺しに過ぎませんが、人生観の違いが殺人の動機の違いに表われています。
  • 「母の記憶に/ケン・リュウ短篇傑作集3」(ケン・リュウ著、古沢嘉通他訳、ハヤカワ文庫)
    ケン・リュウの短篇はどれも重い。軽々と他人から手渡された荷物が、自分の腕の中でガクンと重量を増したような、そんな錯覚を感じるのです。表題作は、不治の病を宣告された母親が宇宙旅行(時間停止)を繰り返し続けて、娘の成長を見届けようとする、痛々しい作品です。遠隔操作の兵器オペレーションシステムの開発者を描く「ループのなかで」、自分の魂をアイスキューブ化して冷蔵庫に入れている若い女性の「状況変化」、強い予知能力を持つ女性エスパーが(大量殺人事件を防ぐために)犯人(に成る予定の人物)を殺戮する「カサンドラ」、どの作品でも、余りに複雑な社会、高度な技術の中で、引き裂かれる人間たちの悲鳴が聞こえるのです。「われわれは今やサイボーグ民族なんだ。われわれはずっと前に精神をエレクトロニクスの領域に拡張しはじめた、そしてもはや自身のすべてを個人の脳髄に無理やりもどすのは不可能なんだ」(「パーフェクト・マッチ」)。私たち自身が今や「端末」なのかも知れません。連続殺人犯を追う女性私立探偵を描く「レギュラー」は、サイバーパンクとハードボイルドの融合で、エフィンジャーの『重力が衰えるとき』みたいです。
  • 「法水麟太郎全短篇」(小栗虫太郎著、河出文庫)
    衒学趣味の私立探偵「ノリリン」こと、法水麟太郎の登場する短篇8つが収録されています(矢作俊彦作、谷口ジロー画の『サムライ・ノングラータ』の主役コンビの片割れ、元傭兵「ノリミズ・リンタロー」の出典でしょう)。小栗を読むのは、大学時代に読んだ『黒死館殺人事件』以来です。「後光殺人事件」「聖アレキセイ寺院の惨劇」「夢殿殺人事件」「失楽園殺人事件」と、最初の4作はいずれも宗教絡みです。但し「聖アレキセイ…」はロシア正教会の寺院が舞台で、しかも、トリックは鐘(ロシア正教では「音のイコン」とすら言われる)、容疑者たちも亡命ロシア人たちなのに、ヒロインがカトリックの某女子修道会に属しているのは如何なものでしょう。「オフェリヤ殺し」「人魚謎お岩殺し」は、東西の芝居の薀蓄に溢れています。「人魚謎…」には、畿州公が離れ小島に体格の良い流刑囚の男女を集めて、巨人育成を行なっていたという怪しげな逸話が出て来ますが、江戸川乱歩の『パノラマ島奇譚』に触発されたのでしょうか。
posted by 行人坂教会 at 13:47 | 牧師の書斎から

2019年05月18日

旭日亭菜単(続き)その51

  • 「プリニウス」第8巻(ヤマザキマリ+とり・みき作、新潮社)
    本作を連載していた「新潮45」が休刊に成って心配していましたが、何とか続きを読むことが出来るようです。前回の大ピラミッドに続き、アレクサンドリアの灯台と図書館、クレタ島の迷宮(ミノタウロスも)、ロドス島の巨像が描かれていて、絵的には大きな見せ場に成っています。物語の見せ場の方は、専らネロ帝を巡るローマの陰謀譚が担当しています。大抵、ネロの悪行の原因とされている皇妃ポッパエアを、病的な夫に献身する女性として描き、ティゲッリヌスが大悪人として描かれています。そして、あの「サテュリコン」のペトロニウスも一場面、ティゲッリヌス関連で登場しています。
  • 「霊能者列伝」(田中貢太郎著、河出書房新社)
    最初に、丸山教の伊藤六郎兵衛、金光教の川手文治郎、大本教の出口直、黒住教の黒住宗忠と、江戸末期から明治初期に生きた4人の新興宗教の教祖が採り上げられています(どうして、天理教の中山みきが無いのでしょうか)。金光教は、金神(こんじん)の祟りによる不幸で始まりながら、後年、教祖川手は方位や呪(まじな)い、穢れ等を一切否定してしまう程の変わりよう、これには興味を持ちました。後半は、所謂「教祖」に分類できない人たち5人が採り上げられます。「日本のラスプーチン」飯野吉三郎の評伝には、ジョージ・ノックス(明治学院)、植村正久、本多庸一(青山学院)、巌本善治(明治女学校)、津田仙(津田塾)、押川方義(東北学院)、根本正(東京禁酒会)等、明治期の基督者たちの錚々たる顔ぶれも言及されていてビックリ。零落して、世間から見放された「メシヤ仏陀」宮崎虎之助の生前葬の招待を受けて、羽織袴姿で頭山満(玄洋社)が出席する辺り感動的です。頭山が金玉均(キム・オッキュン)への支援を最後まで続けた逸話なども思い出されます。生きながら神仙界に移された河野久の評伝は幻想小説さながらです。
  • 「夜は千の目を持つ」(ウィリアム・アイリッシュ著、村上博基訳、創元推理文庫)
    この作品、映画化されて日本でも公開されているのですが、評判は芳しくありません。主題歌(バディー・バーニア作曲、ジェリー・ブレイニン作詞、ボビー・ヴィー歌)だけが、ジョン・コルトレーンやソニー・ロリンズ、ホーレス・シルヴァーらに採り上げられて、ジャズの名曲として生き残っています。曲は知っていたのですが、原作を読むのは初めてです。身投げしようとする娘を、夜の川べり散歩を趣味にしている刑事が助けたことから事件が発覚するのですが、彼女の「告白」部分には圧倒されました。これだけで立派な短編小説です。そこから間髪を入れず「捜査活動のはじまり」に切り替わる大胆な構成。事件の鍵を握るのは、的中率百%の「予言者」、幻想小説の一歩手前で踏み止まる(推理作家としての)著者の矜持を思います。猛獣(ライオン)が「死の宣告」に絡んで来るのは、前回読んだ「黒いアリバイ」の黒豹と似ていますね。
  • 「聖遺物崇敬の心性史/西洋中世の聖性と造形」(秋山聰著、講談社学術文庫)
    「聖人ないし聖遺物は、いわば神がその力を地上で行使するためのメディア(媒体)だった」と定義されています。聖遺物の「ウィルトス/virtus/力」はウィールス(virus)のように感染力を持っていて、それに見たり触れたりした人々を癒したり、近接する物や場に霊力を与えたりするのです。フリードリヒ賢明公のヴィッテンベルク聖遺物コレクションの殆どが散逸する中、唯一、聖エリザベートのグラスだけが現存しているのですが、それは聖遺物を崇敬しないルターが自分のビールグラスにしていたからという皮肉。更には、そのルター当人もまた、デスマスクや手形を取られて、蝋人形のように展示されて、ルター教徒の崇敬の対象にされていたという皮肉。巻末の「注」まで楽しめる本でした。
  • 「夢の本」(ホルへ・ルイス・ボルヘス著、堀内研二訳、河出文庫)
    西は「ギルガメシュ叙事詩」から東は「荘子の夢」まで、古今東西の夢の話を集めてあります。それにしても「ヨセフの夢に現われた主の使」で「彼女の胎内にあるものは精霊による」と成っているのは如何なものでしょうか。たとえ原典が「Espíritu」とだけ書いてあったとしても(「Santo」が抜けていても)、ここは「聖霊」と訳すべきではあるまいか。訳者自身が「本書翻訳の過程で、原書からの直接訳を参照すべく、大学図書館の書庫の中の、ふだんはほとんど訪れることのない聖書関係の書架、…文学等の書架をしばしば訪れた」と「あとがき」に記しているだけに訝しく思われます。それはともかく、フランシスコ・デ・ケベードの「最後の審判の夢」が笑えます。何しろ、マホメットとルターとユダとが一緒に地獄をマヨマヨしているのですから。
  • 「ゴールデンカムイ」第17巻(野田サトル作、集英社)
    尾形百之助が樺太国境線を越えた時から、いずれ出て来ると思っていました、日露スナイパー対決が巻頭を飾ります。同時に爆弾屋キロランケの過去も開陳されて、構成と展開に破綻がありません。これだけのヒットマンガですから(テレビアニメ化も続いているし)、今や、かなり手堅いスタッフによるチームワークに成っていると見ました。「山猫」は「狙撃手」と「芸者の子」の二重の意味を持つ隠語です。そこに、さり気なく「メコオヤシ/オオヤマネコ」を登場させたりするのです。
posted by 行人坂教会 at 15:03 | 牧師の書斎から

2019年03月12日

旭日亭菜単(続き)その50

  • 「神と金と革命がつくった世界史/キリスト教と共産主義の危険な関係」(竹下節子著、中央公論社)
    如何にも出版社が販売促進を願って付けた書名です。フランス在住の著者自身による本当の題名は、表紙の脇にある「Genèse et Perversions du Pouvoir modern/近現代の国家権力の起源と腐敗」の方でしょう。前回に引き続き「エゾテリスム(秘教)史」研究者の本ですが、こちらは更に強烈な政治と経済と宗教の三竦みが描かれています。第1章−1だけは我慢しなければなりませんが、その後は余りにも面白くて、途中で置くことが出来ず、睡眠不足になること必至です。キリスト教と革命思想によって西欧に開花した「普遍主義」が如何にして成長し、権力交代を成して、その後に堕落して行くか…。ロシア革命、ラテンアメリカの「解放の神学」とバチカンとの関係に目を奪われます。社会革命と信仰との相克の中で格闘した人物として、シャルル・ペギー、エリック・サティ、岡本公三、ガイヨー司教の生涯が採り上げられます。そして第4章「近代日本の革命とキリスト教」では、大逆事件で逮捕された僧、内山愚童も登場します。第5章「東アジアの神と革命」では、中華文化圏の孔教、朝鮮半島の天道教が普遍主義を目指す試行錯誤が描かれています。
  • 「オカルティズム/非理性のヨーロッパ」(大野英士著、講談社選書メチエ)
    著者は(「アブジェクション」でお馴染み)ジュリア・クリステヴァの弟子筋の人です。ヨーロッパ思想史という立場からオカルティズムを俯瞰した力作です。欧米では進んでいるようですが、少なくとも国内では、この種の学術的なオカルティズム研究は稀少です。「ルネサンス魔術」の盛んなカトリック文化圏ではなく、プロテスタント文化圏から「神智学」が生まれたという指摘なども定説なのですね。フランス革命後の啓蒙主義的理神論者、ロベスピエールの背後には「神の母」なるカルト教団が存在していたこと、サン=シモンやフーリエ等のユートピア思想家の中にもオカルト思想が流れていたこと、後にカトリックに改宗した悪魔的秘密結社の女教祖ダイアナ・ヴォーンが架空の人物で、何も知らずに、リジューのテレーズが熱心に手紙のやり取りをしていたこと…面白すぎます。著者の結論は「キリスト教という、西欧にとって知的・「霊」的生活を律してきた啓示宗教が、唯物主義、進化論等、近代そのものともいえる「世俗化」によって、命脈を絶たれた後、なお、死後の生を信じ、霊魂の不滅を信じるために、唯物主義・進化論を作り出した主導思想である「実証科学」を逆手にとって、なおも、「宗教」を持続させたいと願う人々の意志が、近代オカルティズムを現代まで生き延びさせているとはいえまいか?」ということです。
  • 「ピクニック・アット・ハンギングロック」(ジョーン・リンジー著、井上里訳、創元推理文庫)
    あのカルト映画のファンとしては読まないで済ます訳には参りません。ハンギングロックにピクニックに行ったアップルヤード学院の生徒と教師が神隠しに遭います。物語は聖バレンタインの日に始まり、イースター直前の聖金曜日(キリストの受難日)で幕を閉じます。「不吉な綴織は、何の前触れもなく織られはじめたのだ」とあるように、1つの失踪事件が発端となって、多くの人たちの運命が描かれて行くのです。ゴブラン織りかジャカード織りか知りませんが、綴れ織り(タペストリー)のように、まるで事前に絵柄は決まっていたかのように展開して行きます。少女たちがハンギングロックを登り始めた時、昆虫や小動物たちが恐慌を来たしたのと同じように、登場人物が全て「バタフライ効果」(アマゾンの蝶1羽の飛翔がテキサスの竜巻を引き起こす)のように影響を受けるのです。マイケルとアルバートの同性愛的関係、救出されたアーマとマイケルとの擦れ違う思い、アルバートとセアラが同じ孤児院で育った兄妹だったのに接点が生まれないこと、そして、アップルヤード校長の末路…。あの映画のファンなら絶対に楽しめます。
  • 「黒魔術の娘」(アレイスター・クロウリー著、江口之隆訳、創元推理文庫)
    クロウリーの魔術書の翻訳者による、クロウリーの短編小説集です。魔術ネタが多いのは当然ですが、「キルケーの夢」には、真打ちエリファス・レヴィが登場します。クロウリーがE・レヴィの転生と自称していたことを思えば尤もか。個人的には、テレパシーの科学実験を続ける夫婦を描いた「マグダレン・ブライヤーの遺言」が一推しです。テレパスの妻(マグダレン)は悪魔(それとも死神?)の哄笑を耳にして、最愛の夫が死んだことを知ります。「セルヴェルトゥスの火刑をせせら笑ったカルヴァンの顔ですら、この笑いを聞けば慈愛に満ちたものに見えるでしょう。それほど完璧に地獄落ちの精髄を表している笑いだったのです」。改革派、長老派の信徒が読めば腰を抜かしそうな喩えです(笑)。「これではぼくは髪を刈られたサムソンよりも盲目だ。…同様に真実で、同様に虚偽、神の目にはすべてが虚偽にして真実、それらすべてを超えるものが神なのだ、子供、あの《子供》の頭脳だけがそれを把握できるのだ。幼子のようにならなければ、天の王国に入ることあたわじ!=v(「アイーダ・ペンドラゴンの試練」)。意外にクロウリーの言説、マトモに思われるでしょう。でも、これは魔術の最終段階「深淵の嬰児」なのだそうです。他には、硫酸で顔を焼かれた美女とか、斧で切断されて薪と共に積まれた美少女の四肢とか、小包から出て来る恋人の切り取られた唇と金髪とか、猟奇的でサディスティックな(女性に対する)描写も多々あります。
  • 「ゴールデンカムイ」第16巻(野田サトル作、集英社)
    土方歳三と土井新蔵(人斬り用一郎)との邂逅が泣かせる。幕末の京都で用一郎が「天誅」と叫んで斬り捲くる場面は、五社英雄監督の『人斬り』を参考にしていると思われます。彼が「先生」として従っていた男に切り捨てられるのも、『人斬り』の岡田以蔵と武市半平太の関係です。介錯を申し出る土方を留めて、「楽に死ぬのは申し訳ない」「天下国家のためと大勢殺した…」「「アイヌ」とは…「人間」という意味だそうだ」「俺はこの土地に流れ着いて…「人間」として生きた…自分だけ申し訳ない」と呟きながら果てて行きます。後半に登場する曲馬団の団長、山田と軽業師の長吉、キャラからして吉田光彦(劇団「天井桟敷」のポスターを描いてた漫画家)です。それに、丸尾末広の『少女椿』が少し入っています。キロランケが一宿一飯の恩義を受けたウィルタの女性に「チシポ」(アイヌの針入れ)をプレゼントする場面を見て、私も妻に「チシポ」を差し上げたのを思い出しました(全く使って貰っていませんが…)。
posted by 行人坂教会 at 20:13 | 牧師の書斎から