2018年03月31日

旭日亭菜単(続き)その44

  • 「映画とキリスト」(岡田温司著、みすず書房)
    脱帽です。これだけ体系的に纏まった「キリスト教と映画」の本が書かれたのは本邦初ではありますまいか。著者は映画全般についても、キリスト教の教義、神学、美術と図像学についても幅広い知識と深い知識があり、分析は的確です。自身は「信者ではないが」と繰り返し述べつつも、異教であるキリスト教信仰と文化に対して、並々ならぬ愛着を抱いて居られることが感じられます。もしや家族や友人に信者がおありでしょうか。巻末に「権力の真の栄光は無為」、教会の真の務めは「ヘトイマシア/準備」であるという、ジョルジョ・アガンベンのテーゼを持って来たのには、未来に期待されるべき教会の在り方が提示されているように思われました。現在、私自身が牧会する教会にとっても「ほっこりする時間」「最後の居場所」「気球のように浮いている」が、今後の目標となることでしょう。ハリウッド式「キリスト物」やメジャーな娯楽作品から、作家主義のマイナー作品まで、よくぞ網羅なさっていますが、欲を言うなら、次は、是非アジア映画(日本も含めて)への視点を加えて頂きたいと思います。
  • 「ラテンアメリカ怪談集」(ホルヘ・ルイス・ボルヘス他著、鼓直編、河出文庫)
    ムヒカ=ライネスの「吸血鬼」は、英国のホラー映画会社が撮影のために城を借り、城主の男爵に吸血鬼役を依頼したら、本物だったという話。『ノスフェラトゥ』の吸血鬼役が本物だったという、そんな映画がありましたね。火山の噴火でもないのに、街中に燃えるタールが降り始める、ルゴネスの「火の雨」は、勿論「ソドムとゴモラ」です。一見、意味不明のアルファベットの羅列でありながら、読み始めるや否や、その瞬間に文章が生成され、ふっと目を離すと分解されて、また初めから読み直さねばならない。そんな「さまよえるユダヤ人」の手記が出て来るのが、アンデルソン=インベルの「魔法の書」。本を読む人間にとっては地獄そのものです。ラテン作家によるシノワズムが面白いレサマ=リマの「断頭遊戯」。モンテローソの「ミスター・テイラー」は、首狩族の干し首を販売したら大ヒット商品となって「製造」が追い付かないという黒い笑いに満ちています。そして『奥の細道』のスペイン語訳で高名なオクタビオ・パスの登場。「波と暮らして」の奇想。しかし、まさしく夫婦生活そのものです。幕切れを飾るのは、リベイロの「ジャカランダ」、1960年代の前衛映画を観ているような、眩惑される感覚を味わえます。
  • 「昼も夜も彷徨え/マイモニデス物語」(中村小夜著、中公文庫)
    12世紀の高名なラビ、マイモニデスを描いた小説ということで、取り敢えず買ってみました。表紙の絵もマンガ風ですし、難解な表現もなく、用語説明も単純且つ的確で、その余りに軽快な語り口に、ラノベかと思った程でした。いや、実際、中高生くらいでも十分に楽しめると思います。しかし、内容やテーマは驚く程に深遠で骨太です。信仰、信念をもって生きるとは如何なることか。異教徒、異文化の者たちと如何に向き合い、共生するか。弾圧や迫害の中で如何にして己の内面の自由を守るべきか。なさしく「目から鱗」の展開でした。これは、私たちのような社会的少数者(キリスト者)にとっての課題であるのみならず、同調圧力が強く、常に周りの空気を読むことや忖度が要求される日本社会の中で、息苦しい思いを強いられている全ての人が直面している問題です。平易な言葉で綴られていますが、イスラーム世界や地中海世界を旅して得たという、著者の体験知は確かで信頼が持てます。「あとがき」に触れられた、現代パレスチナ問題に対する認識も鋭く、再臨論の立場からメシアニック・ジュダイズム等を支援している、原理主義のクリスチャンにも少し耳を傾けて頂きたいものです。エジプトの書記官、カーディ・ファーディルがちゃきちゃきの下町言葉を喋る設定は、先日のカリーマ師岡の指摘を思い出しました。
  • 「内部の真実」(日影丈吉著、創元推理文庫)
    推理小説なのに名探偵不在のまま物語が展開します。最後に真犯人は突き止められるものの、事件は解決されぬまま終結を迎えます。太平洋戦争末期の台湾、敗色が濃厚となる時期です。予め事件それ自体が忘れ去られて行く運命にあったのです。このもどかしさは、済し崩し的な開戦から必然としての敗戦に向かうプロセスそのものです。トリックを楽しむ物語ではありません。事件が真っ暗闇の庭で勃発したのと同じく、読者も暗がりの中に置き去りにされてしまったような感触です。それに加えて、シンガポール陥落時の描写に戦慄します。「そこには四、五人のうら若い華僑の娘が、腰を抜かして、のたうちまわり、暗い地面に何かを吐いていた。一ヵ月余も持ちこたえた兵隊の欲望に、狩り出された彼女たちは、服装や顔だちから見て、深窓の娘たちらしかった」。全く本筋とは関係ない場面ですが、主人公、小高が恋慕する葦田恒子(本島人鉄工業者の娘)の容疑を晴らすべく奔走する動機の1つとなっています。そんな訳で、邪道とは思いつつも、私はこの推理小説を、日影の戦争論として読んでいたのでした。
  • 「アンチクリストの誕生」(レオ・ペッツ著、垂野創一郎訳、ちくま文庫)
    18世紀のパレルモを舞台にした表題作は文句なしに面白いです。「オチがガッカリ」という意見もあるようですが、これは飽く迄もプロットや展開の凄さを楽しむべき作品です。オチが『オーメン』のような思わせ振りなものなら、却って平凡な怪奇小説に堕してしまうでしょう。オカルト物や伝奇物などというジャンルに収まり切らない所が、この作家の魅力です。その意味で「霰弾亭」も、ジャンル小説の枠から外れていて、曰く言い難い異様な後味を抱えたまま突き放されることになります。主人公フワステク曹長の性格が余りに常軌を逸していて、私たちの心の分類に収まり切らないのです。酒場での縄張り争いで、工兵たち十数人を一瞬にしてボコボコにする豪傑かと思いきや、青年時代の想い人と再会したばかりに自死を選ぶ程の繊細さ、傷付き易さ、それでいて分裂を感じさせない人物として造形されているのです。チェカー(ソ連の秘密警察)のジェルジンスキーが登場する「主よ、われを憐れみたまえ」、天才数学者ガロアをモデルにした「夜のない日」、降霊術をテーマにした「ボタンを押すだけで」。いずれも、初めて口にするエスニック料理を味わった時のような気分です。
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2018年01月26日

旭日亭菜単(続き)その43

  • 「毒々生物の奇妙な進化」(クリスティー・ウィルコックス著、垂水雄二訳、文藝春秋)
    たった一撃で他の生物を害し、時には、その生命まで奪ってしまう有毒生物たち、その力に対する恐怖に、私たち人間は畏怖や信仰、憧憬や羨望さえ感じるのです。私自身も、小学生の頃、蠱毒を作ろうとして、蛇や蟇、毛虫や蛭、蜘蛛や百足、虻や蜂など、毒のありそうな生き物を捕らえては、同じ瓶の中で食い合いをさせていました。勿論、当時の私は「蠱毒」という語も知りませんでしたが、それでも混ぜ合わせれば、最強のポイズンカクテルが出来るものと無邪気に思い込んでいたのです。そう言えば、我が家には、祖先伝来の「百足の油」という医薬品が存在していました。家人は百足を見つけるや割り箸で摘まんで、ある油瓶の中に生きたまま投入するのが決まりでした。擦り傷や切り傷を作ると、その臭い油を傷口に塗られたものです。親戚の叔父さん(京都第二日赤の院長を長年務めた脳外科医)が、「わしも、これの治療効果を医学的に調べてみたいと思ったこともあったわ」と笑っていました。実際、現代医学では、有毒生物が進化させた神経毒や血液毒から、新しい薬物や治療法が開発されているのです。本書では採り上げられていませんが、有毒植物もある訳ですから、この分野には更に未だ可能性があります。「人を殺せずして活かすこと能はず」です。
  • 「私たちの星で」(梨木香歩×師岡カリーマ・エルサムニー著、岩波書店)
    異文化、多人種との共生(共存)をテーマにした往復書簡集。梨木は、EU離脱で混乱する英国で、アラブ人のタクシー運転手から受けたホスピタリティに感動し、「ムスリムの人は優しい」と称えますが、彼は「全部のムスリムがそうだというわけではないよ、ほら、五本の指は皆違う、と言いながら片手を上げ、そして裏表もある、と、手のひらをひらひらさせます」。その度量の大きさ、成熟度に感じ入ります。一方のカリーマは、英国映画『あなたを抱きしめる日まで』に登場する老修道女が、かつて彼女がヒロインに対して行なった残酷な仕打ちを自己弁護する台詞から、「修道女なら自我を捨てて万人を愛せ」と一方的に要求するのは残酷ではないかと問い掛けます。「その人の信仰故にあるべき姿を基準にその人の行いを裁くのは、必ずしもフェアではないということ」。私たちは、この社会や他人が貼り付けて来るレッテルからも、自分が自分や他人に貼り付けるレッテルからも自由でありたい。日本社会では、政治と宗教に話が及ぶや、ガラガラと相手の心のシャッターが閉まって行くのが見えます。欧米のサロンで、政治と宗教の話をしないのは、それを契機に論争が始まってしまうからです。日本では、深い考えも主義主張も無いままに、タブー化して蓋をしてしまいます。相手にレッテルを貼り付けて、交流そのものを拒絶してしまう場合が多いのです。まるで「鎖国外交」のようです。
  • 「真夜中の檻」(平井呈一著、創元推理文庫)
    「吸血鬼ドラキュラ」はじめ怪奇小説の翻訳家として高名な著者による、小説2作に、アンソロジー等のために書き下ろした解説文などを1冊に集めています。とにかく表題作には圧倒されます。終戦の年、新潟県の僻地にある庄屋の屋敷に、古文書を調べに行った青年が消息を絶ちます。徒歩で村への道を歩く場面、広大な屋敷の中の描写など、著者が新潟で教員をしていた時代の見聞が反映されています。細部のリアリティが確かでなければ、ホラーは成立しないという見本のような作品です。打って変わって「エイプリルフール」は、銀座や本郷、松濤が舞台になるモダニズムの世界。大映で市川崑が若尾文子主演で撮っていてもおかしくないでしょう。しかし、これは「生霊もの」の一種です。兄嫁に寄せる大学生の弟の慕情が伏線に成っていて中々のものです。
  • 「ゴールデンカムイ」第12巻(野田サトル作、集英社)
    正直、獣姦趣味の姉畑支遁(「シートン動物記」からの命名)の挿話は酷かった。それでも、壮絶な死に様には敬意を表します。一行が釧路に到着するや、アオウミガメやマンボウ、ラッコを次々に食べるグルメマンガに戻ります。ラッコの肉を食べると発情するとは知りませんでした。それにしても、蝗害とラッコと男色の盛り合わせ、作者の迷走ぶりは目に余ります。これでは「ヤオイ系」でしょう。更に盲目の盗賊ガンマン、都丹庵士(トニアンジ)って、マカロニウエスタン『盲目ガンマン』のトニー・アンソニーでしょう。アクション画は絶品なのですが、やたらと男たちの裸体を並べています。
  • 「怪奇礼讃」(E・F・ベンスン他著、中野善夫・吉村満美子編訳、創元推理文庫)
    W・H・ホジソンの「失われた子供たちの谷」が素晴らしい。事故で幼い子を亡くした親の深い悲しみがテーマになったことで、単なる幽霊譚に終わらない、忘れ難い味わいがあります。「詩編」23編の「死の陰の谷」と「子供たちの谷」とが隣り合わせになっているなんて思いも寄りませんでした。M・アームストロングの「メアリー・アンセル」は陰鬱な物語でありながら、幕切れの爽やかさにハッとさせられます。オチのある所が怪談の怪談たる所以です。A・ノースコートの「オリヴァー・カーマイクル氏」は、女の生霊に取り憑かれて苦闘する男の話ですが、これまた幕切れに不思議な感動が用意されています。M・コルモンダリーの「死は共に在り」は、建築家の青年が古い地下聖堂に封印されていた悪霊を解き放ってしまう話。怪奇小説の定石通りに怖いです。J・D・ベリスフォードの「のど斬り農場」は黒いユーモアに近いけれども、これが米国に行くと、ロバート・ブロックの「サイコ」に化けるのかも知れません。M・ラスキの「塔」は高所恐怖症の人にお薦め。E・F・ベンスンの「跫音」は小泉八雲の「むじな」そのものです。
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2017年11月29日

旭日亭菜単(続き)その42

  • 「大貧帳」(内田百闥、中公文庫)
    教授室の隣の喫煙室で、百鬼園先生が、文科系と思しき甲君、物理の乙君、化学の丙君ら教師仲間を相手に、火だの水だのと論争するも、数学の丁君から一言「水は物質で、火は現象です」とトドメを刺されます。そこから、百鬼園先生、自論を展開して曰く「金は物質ではなく、現象である」、遂には「Time is money」と言うが如く「金は時の現在の如きもの」「この世には存在しない」と喝破する辺り、感動的です(「百鬼園新装」)。これは、単なる思弁ではなく、とことん金にだらしなくて、年中金欠なのに贅沢が身に付いてしまっていて、それでいて身なりや見栄には何の頓着も無く、その癖、金貸し、借金取りの類いに無縁の暮らしが出来ない、複雑怪奇な百鬼園先生が、その人生の中から獲得した真理に他なりません。盲腸の手術をした田氏を見舞った序でに、「退院祝いに、新しいのを買いなさい」と説いて、病人の帽子(しかも、ボルサリーノ)を貰って帰る話は凄い。まるで「説教強盗」です。京都から岡山に帰る汽車賃が足りず悶々とする少年時代の「二銭紀」も、初めて独り旅をするドキドキ感に溢れています。要するに、百鬼園先生の借金癖は、アルコール等と同じく、一種の依存症だったのではないでしょうか。どうして、こうまで借金をしてしまうのか、周りの誰もが理解不能だったはずです。でも、借金の利子が膨らんで生活を圧迫して行くドキドキ感に、彼は初体験を重ねていたのではあるまいかと思うのです。
  • 「死の舞踏/恐怖についての10章」(スティーヴン・キング著、安野玲訳、ちくま文庫)
    先ず膨大なページ数に圧倒されますが、読み始めてみると、底抜け脱線の例話や雑談が続き、絞れば半分くらいに収まったのではないかと思いました。映画、ラジオ、テレビ、コミック、そして小説と、ホラーというジャンルによって、様々な表現領域を横断して行きますが、その知識量の豊かさ、分析の深さは帝王キングならではです。これに触発されて、誰かホラー音楽やホラー演劇(グラン・ギニョールかしら)について書けば良いのに…。さて、キング自身は作家ですから、彼の本領が遺憾無く発揮されるのは、第9章です。ピーター・ストラウブの『ゴースト・ストーリー』、シャーリィ・ジャクソンの『丘の屋敷』、アイラ・レヴィンの『ローズマリーの赤ちゃん』、ジャック・フィニィの『盗まれた街』、レイ・ブラッドベリの『何かが道をやってくる』、リチャード・マシスンの『縮みゆく男』、ハーラン・エリスンの『クロウトウン』等がホラー分析の教材にされています。私が中学時代に一気読みした、ジェームズ・ハーバートの『鼠』も高く評価されていて、自分事のように嬉しくなりました。「ジョナサン・エドワーズの説教」だの、「メソジストの信条」だの、「分析せんがために聖書を読むべからず」だの、「カルヴィニスト的道徳観の名残のようなものがある」だの、言葉の端々から、キングが信仰深いメソの家庭に育った片鱗が伺えます。信仰は彼のホラーにとって必要不可欠な要素なのです。町田智浩の「解説」によると、スタンリー・キューブリックがキングに直接電話をかけて「君は神を信じているのか?」と問うと、即座に「イエス」と答えたとの由。
  • 「プリニウス」第6巻(ヤマザキマリ+とり・みき作、新潮社)
    動物や鳥と交流する例の少年が、ティルス出身のフェニキア人という設定に成りました。ネロ帝がご執心の女奴隷プラウティナは、ブリタニア人のキリスト教徒。ネロの愛人、ポッパエアに取り入っている高級宝石商のレヴィテはユダヤ人。第一次ユダヤ戦争を平定することになる、司令官ヴェスパシアヌスも登場します。段々と新約聖書の世界に近付いて参ります。と言うか、ローマ大火とキリスト教徒迫害だから、シェンキェヴィッチの『クォ・ヴァディス』でしょうかね。そして、哲人セネカも登場します。新約外典に「パウロとセネカの往復書簡」というのがありました。作画も綺麗だし、ストーリー展開も上手だし、毎回、安心して読めて文句の付けようがありません。
  • 「宇宙船ビーグル号の冒険」(A・E・ヴァン・ヴォークト著、沼沢洽治訳、創元SF文庫)
    子ども時代に読んだ1冊です。懐かしくて再読しました。テレビの『宇宙大作戦』の何度目かの再放送を楽しみにしていた当時の私にとって、宇宙の猛獣ケアル、幻影鳥人リーム人、超生物イクストル、巨大無形生命体アナビスと、4大モンスターが登場する物語に興奮したものです。ケアルが生命体のイドを食べ、古代都市の遺跡が発端になるので、初めて『禁断の惑星』を観た時には「ビーグル号だ!」と叫んだくらいです。今読み直すと、イクストルがクルーの腹部に卵を産み付けるのも、船外に放出するのも『エイリアン』そのものです。著者が映画会社を訴えて、5万ドルを手にしたのも頷けます。ビーグル号が前代未聞の危機に直面する度に、主人公のエリオット・グローヴナーが手探りで解決法を導き出して行き、それが船内での彼の地位向上に繋がるという展開です。子どもの時には全く意識しませんでしたが、アメリカの企業を舞台にした出世物語と同じですね。因みに、考古学者の苅田は、パット・モリタの顔、しかも久米明の声で、私の脳内テレビが勝手にキャスティングして放映してしまうのでした。
  • 「アド・アストラ/スキピオとハンニバル」第12巻(カガノミハチ作、集英社)
    スキピオ・アフリカヌスの活躍が続きます。バグラデス川の戦いで、西ヌミディアとカルタゴの連合軍を殲滅するところがクライマックス。その後、ハンニバルがイタリア半島から呼び戻されて、ザマの戦いに至る訳ですが、スキピオとカルタゴとの間で進められていた和平工作が出て来ません。カルタゴの元老院も一枚岩ではなくて、カンナエ前後のローマ上層部と同じ状況にあったはずです。ハンニバルがアフリカに上陸して、カルタゴ側の事情は全て省略されています。結果、好戦派がカルタゴの主導権を握るのですが、その一連の展開が、スキピオとハンニバルとの頂上会談というドラマに集約されています。勿論、これは完全なフィクション。伝説によると、二人が直接対話したのは、ハンニバルがカルタゴを追われ、セレウコス朝シリアのアンティオコス3世の下で軍事顧問を務めていた時、場所はエフェソスとされています。因みに、アンティオコス3世は、ローマには小アジアの領土を奪われたものの、プトレマイオス朝エジプトからユダヤを奪い取り、ヘレニズム化を進めた王で、旧約聖書続編「マカバイ記」にも登場します。
  • 「もののあはれ/ケン・リュウ短篇傑作集2」(ケン・リュウ著、古沢嘉通編訳、ハヤカワ文庫)
    表題作は、小惑星の衝突前に地球を脱出した宇宙船の、唯一の日本人クルーの物語。著者は「もののあはれ」という美意識を少し深読みし過ぎているような気もします。しかし、最後の日本人の死と共に、固有の言語や文化、観念も消え去って行くというモチーフは、今や現実的に感じられるようになりました。「円弧」と「波」は姉妹編。いずれもヒロインが科学技術によってアンチエイジングを成し遂げる話で、女性読者は羨望をもって貪り読むこと請け合い。但し、両者の結末は似て非なるもの。「信仰への道を納得して進むために、必要なのは1ビットのエラーだ」というテーゼが出て来る「1ビットのエラー」は、シリウスから届く光の中に、愛する者の死の瞬間、キリストが十字架に掛けられた瞬間、今とは異なる時間を受け取ることで、永遠と繋がる幸せを説いています。巻末「良い狩りを」は、妖怪退治師(道教の退魔師)の息子と妖狐の娘との慕情がテーマ。しかるに、物語の舞台は清朝末期からパラレルワールドの香港に移ります(当然、スチームパンクだし…)。このコンビが活躍するエンタテインメントも出来たでしょうに、著者の関心はそちらに向かいません。でも、もしかしたらハリウッドが目を付けて、原作とは似ても似付かぬB級映画に仕上げるかも知れません。
posted by 行人坂教会 at 13:55 | 牧師の書斎から

2017年09月08日

旭日亭菜単(続き)その41

  • 「西の魔女が死んだ/梨木香歩作品集」(梨木香歩著、新潮社)
    表題作は楡出版以来23年ぶりに読みました。著者のデビュー作ですが、作中人物の他者に対する姿勢が一貫していることを、改めて確認しました。他者が人間であれ幽霊であれ、自然現象であれ動植物、あるいは鉱物であれ、語りかける相手(位格)として認識しているのです。心の中で呟く場合も含めて、語りかけることで、その相手も心を持った存在へと変わるのです。そして、これこそが、そもそもファンタジーの基本でしょう。前日譚「ブラッキーの話」「冬の午後」「かまどに小枝を」が収録されています。特に巻末の書き下ろし「かまど」は「西の魔女」に対する20年越しの返書に成っています。勿論、語り手は「おばあちゃん」自身です。秋の雨風と陽光が胸に深く染み透って来るような味わいです。今回この一連の作品を読んで、やはり、テーマは「おばあちゃん・ママ・まい」と受け継がれるWise Women(魔女、占い女、産婆)の感性であると思いました。残る作中人物は(既に世を去ったおじいちゃんは別格として)パパとゲンジさん。私の役回りはゲンジさんか(エロ本あるしなあ)。映画だと木村祐一だね。
  • 「文豪妖怪名作選」(東雅夫編、創元推理文庫)
    同じ編者による『日本怪奇小説傑作選』全3巻(紀田順一郎と共同)と被る作品が1つも無くて驚きました。私のベストは日影丈吉の「山姫」です。御岳山の宿坊に泊まったこともあるので雰囲気は実感できますし、何より急転直下のホラー描写が凄い。この衝撃をもたらすために、敢えてエッセイ風の文章を淡々と綴っていたのです。宮澤賢治の「ざしき童子のはなし」を読み、萩尾望都の『11人いる!』の原点はここにあったかと納得。椋鳩十の「一反木綿」は童話作家にしてこの残酷趣味。火野葦平の「邪恋」、内田百閧フ「件」、佐藤春夫の「山妖海異」には、作家としての力量を思い知らされます。特に「山妖海異」の女の水死体を妊婦と看破する辺り、おどろしさ倍増、参りました。泉鏡花の「天守物語」は芝居や映画で有名な作品ですが、初めて読みました。そもそも姫路城天守には、幼少時、何度も登っていますので、城化物の長壁姫にも親愛の情を抱くものです。巻末に寺田寅彦の小論「化物の進化」が置かれているのも粋な計らい。「化物がないと思うのはかえって本当の迷信である。宇宙は永久に変異に充ちている。あらゆる科学の書物は百鬼夜行絵巻である。それを繙いてその怪異に戦慄する心持がなくなれば、もう科学は死んでしまうのである」。
  • 「ゴールデンカムイ」第11巻(野田サトル作、集英社)
    帯に「テレビアニメ化決定!!!」とありますが、深夜枠にしても、原作そのままというのは無理でしょう。夥しい流血や人体破壊描写もさることながら、入れ墨脱獄囚24人は変質者ばかり。例えば、この巻に登場する姉畑支遁(『動物記』のシートンからの命名)は獣姦と動物虐殺を繰り返します。それはともかく「稲妻強盗と蝮のお銀」の展開から顛末までが圧倒的な迫力です。首を打ち落とされたお銀の首が転がって、茨木童子よろしく鶴見中尉の軍靴に咬み付く場面、痺れます。この夫婦強盗の遺した赤子を、アイヌのフチに預ける場面転換の妙(「子供は親を選べない」「あの夫婦は凶悪だったが…」「愛があった」)。このエピソードの合間に、尾形上等兵の父親殺しのエピソード(「あんこう鍋」)を、フラッシュバックのように挟んだのも素晴らしい。
  • 「女子高生の裏社会/『関係性の貧困』に生きる少女たち」(仁藤夢乃著、光文社新書)
    「社会保障も法律も、基本的に未成年は保護者に守られていることが前提とされている。行政は、学校は、大人は、10代の子どもたちの「秘密」を守ってくれない。仕事や住まいを与えてくれる裏社会のスカウトよりたちが悪い。子どもたちをほんとうの意味で守ってくれる大人はどこにいるのか」。著者の訴えに虚を突かれた。「前提」そのものが間違っているのです。未成年は保護者の帰属物としか見做していないのです。親も教師もカウンセラーも、大人たちは皆、子どもたちを一個の独立した人格として認めてはいないのです。それで守秘義務も存在しないのです。「高校生のときから、私はいつも疑問に思っていた。なぜ、裏社会の大人にできていることが、表社会ではできないのだろうかと」。JK産業では、わずか3人の役割、スカウト(少女たちに声をかける)、店長(仕事と生活目標を与える)、オーナー(全体を監督し、少女たちを激励する)の分業で、少女たちの居場所と関係性とを構築していく。何と彼らは就労支援、居住支援、貯蓄支援、学習支援まで行なうのです。少年少女に繋がらない、向き合わない、面倒を見ないという点で、社会福祉は風俗産業に遠く及ばないのです。だから、著者は「めげない援交おじさん」を見習って欲しいと訴えます。危ない裏社会を彷徨っている少年少女たちの姿を認め、声かけをして、彼らと向き合って欲しいと言うのです。そう言えば、著者の「女子高生サポートセンターColabo」のサポート会員が、うちの教会にもいました(!)。
  • 「最下層女子高生/無関心社会の罪」(橘ジュン著、小学館新書)
    私は渋谷センター街が好きで、時々行きます。原宿や秋葉原のように、そこに来る人たちの目的や傾向に、何等の方向性もないのです。その象徴があのスクランブル交差点なのでしょうね。この本の中にも、何となく渋谷に来てみたという女の子たちが登場します。この本に紹介されているのと似通った境遇の女の子たちも大勢いるはずなのです。貧困や性虐待、イジメや差別、自殺…。今こんなにも日本の家族は壊れてしまっているのですね。ネグレクトの一形態として「教育虐待」という語もあるのです。どの子も親子関係の中で苦悩しています。核家族の傾向なのか、親子の撞着が強過ぎるように思えます。子どもが親を捨てられなくなっているみたいです。97年の風営法改正(?)により、デリヘル乱立、供給過剰となり、「風俗嬢は女性の最後のセーフティーネットとして存在していたが、現在ではその役割を果たせてはいない。風俗嬢の中でも「勝ち組」と「負け組」が混在する格差社会≠ノなってしまっている」。この指摘に、二階堂卓也先生が、AV時代に突入した1980年代、ピンク女優たちが居場所を失ったと嘆いていたことを思い出しました。
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2017年08月12日

旭日亭菜単(続き)その40

  • 「ブラウン神父の不信」(ギルバート・キース・チェスタトン著、中村保男訳、創元推理文庫)
    「神父の不信(incredulity)」という逆説が、この短編集のモチーフです。合理主義、科学実証主義、唯物主義、無神論などを標榜する御仁が、いとも容易く呪いやオカルト、奇跡やお告げ、迷信や亡霊に引っ掛かって右往左往する中、独りブラウン神父が冷静な推理によって事件の真犯人と真相を暴いて行くのです。「天の矢」「翼のある剣」「ムーン・クレサントの奇跡」「ダーナウェイ家の呪い」と、密室殺人を扱ったものが多く、ディクスン・カーの先駆となっています。勿論、神父の説教も健在です。「本物の神秘家は神秘を隠さない。それをあまねく啓(ひら)くのです。真っ昼間の太陽のもとにそれを高くかかげる。みんながそれを見る。それでもなおそれは神秘なのです」。「人が神を信じなくなると、その第一の影響として、常識をなくし、物事をあるがままに見ることができなくなる」。「聖職者の仕事は、祝福と呪いだという事実をお忘れですな」。「わたしは奇跡を信じておる。…奇跡がほしければ、どこにさがしにいったらよいか、それをわたしは承知しておる」。「あらゆるものは神のお恵みです。とりわけ、理性や想像力など精神の偉大な能力ほど神のおかげなのです。こういったものはそれ自体としては善なるもので、たとえそれがゆがめられた場合にもその源を忘れてはならんのです」。「パドアの聖アントニオもユーモラスにこう言ってますよ―ノアの洪水に生きのこるのは魚だけ、とね」。
  • 「戦国の軍隊」(西股総生著、角川ソフィア文庫)
    著者はNHK大河『真田丸』の軍事考証を担当した城郭研究者。戦後日本の歴史学が論じようとして来なかった「軍事」の問題に取り組んでいます。そこから、旧来、戦国時代についての「常識」が覆され、結果として、私たちの先入観や固定観念が見事に氷解して行くのは快い程に見事です。戦国の軍隊は隊列を組まない。小田原合戦に秀吉は苦戦。戦国時代の戦は農繁期も農閑期も無関係。足軽は非正規雇用の傭兵部隊。雑兵はバイトの輜重隊(輸送部隊)。織豊勢力の強さは鉄炮にあるのではなく「業務拡張中により年中募集広告の出ている会社のようなもの」だったから…等々、目から鱗でした。この本の面白さは、事例の挙げ方の妙にあります。南雲中将と長尾景虎の反転の意味に始まり、西洋のマスケット銃一斉射撃発展史と長篠の鉄炮三段撃ち神話を語ります。スイスの長槍(パイク)部隊と足軽の長柄隊、三十年戦争の傭兵隊長ヴァレンシュタインと足軽大将、薙刀とハルベルトの共通性。アイゼンハワーの「戦争は兵站」という視点から戦国の軍隊を見直します。漸く「あとがき」で開陳されるのですが、その論考には、現代日本を取り巻く国際状況、社会問題に対する確かな視点も盛り込まれています。「北の脅威論」や「領土問題」等のデマゴーグに対して、説得力のある有効な反論を提出できないのは、「軍事を論じてこなかった戦後歴史学の無残な敗北」と厳しく指摘しています。
  • 「ぼくが死んだ日」(キャンデス・フレミング著、三辺律子訳、創元推理文庫)
    少女の幽霊に導かれ、「子ども専用墓地」に入り込んだ少年マイクは、そこで9人の幽霊から「私が死んだ日」の話を聴かされることになります。マイクを墓地に導いた少女の名はキャロルアン、映画『ポルターガイスト』の末娘の役名であり、実際の子役が幼くして事故死してしまいましたね。@サイコパスの転校生に濡れ衣を着せられ殺されたジーナ、A棺桶荒らしが災いして、古代シュメールの呪文で殺されたジョニー、B心霊スポット探検が災いして、ガーゴイルに殺されたスコット、C妹が通販で買ったモンスターに食い殺されたデイヴィッド、D美人の姉に嫉妬する余り「悪の鏡」に吸い込まれたエヴリン、E「猿の手」の呪いで恋人を失った悲嘆の中で死んだリリー、F悪霊憑きの暴走カーと共に地獄に落とされたリッチー、G「没入癖」から精神に異常を来たし無残に殺されるエドガー、H叔母の隠匿する金貨を失敬しようとしてゴミ屋敷で焼け死ぬトレイシー、それぞれに異常な死に方(殺され方)をします。小学校の推薦図書には、毒が強過ぎるかも知れませんが、これはこれで児童文学の一種かも知れません。
  • 「HUNTER×HUNTER」第34巻「死闘」(冨樫義博作、集英社)
    これが噂に聞いていたヒソカVSクロロ団長の「死闘」ですか。両雄に華を持たせて、半端に引き分け(痛み分け?)にするのではなく、一方が他者を殺すという勝敗の決着を与えたのは潔いと思います。前の33巻が推理サスペンスで、文字情報の夥しさに辟易しただけに、巻頭からアクションの連続で「やっとマンガらしくなった」と思いました。それでも、クロロの念能力の説明はクドイ。もっと簡潔にすることが出来るはずです。旅団員2名が大した見せ場もなく、呆気なく瞬殺されてしまうのも腑に落ちません。「幻影旅団編」での扱いに比べて、如何にもお粗末です。「暗黒大陸編」に移った段階で、作者が関心と愛着を失った結果、モブキャラ扱いされてしまった訳です。登場人物を矢鱈に増やした挙句、古いキャラを切り捨てる作者の薄情さに苛立ちを覚えます。もっと丁寧な殺し方は無かったのでしょうか。そもそも物語が入れ子型の四重構造になっていて、こんなに複雑にするから収拾できなくなるのでは無いでしょうか。「ジャンプ」らしく、少しシンプルにした方が良いです。
  • 「東京自叙伝」(奥泉光著、集英社文庫)
    東京の地霊(ゲニウス・ロキ)が憑依した6人の人物の人生を通して、幕末からフクシマ原発事故までの東京と日本の歴史を回顧する、一種の大河小説です。しかし、今の若い人たちが読み易いように、1項目が1〜3ページに細かく区分されて纏められています。御丁寧に各項目には表題まで付けられています。要するに「日本史」の教科書の体裁なのです。大雑把に数えてみると、幕末明治サムライ篇24、大正昭和陸軍篇51、焼け跡実録ヤクザ篇35、高度経済成長篇73、バブル経済風雲篇55、原発派遣労働者篇31でした(数え間違っていたら御免なさい)。但し、一貫して語り手は「あれは私だ」「あれを作ったのは私だ」「あの犯人は実は私だ」「あれを始めたのは私だ」と語り続けます。そう言えば、東京には、そういう語り口の人(騙り)が、実に大勢いるように思います。まさに東京人の特徴です。福島原発立地点は東京の「飛び地」なのであって、あそこは東京、従って東京が被曝しているのと同じという論法には感心しました。つまり。日本近現代史の到達点として、フクシマのメルトダウンがあるという展開です。東京の地霊が東京人、及び日本社会の滅亡を空想するのは、荒俣宏の『帝都物語』のパロディでしょう(平将門も出て来ますしね)。
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2017年07月10日

旭日亭菜単(続き)その39

  • 「紙の動物園/ケン・リュウ短篇傑作集1」(ケン・リュウ著、古沢嘉通編訳、ハヤカワ文庫)
    読み始めてすぐに、同じ中国系のテッド・チャン(『あなたの人生の物語』)を思い出しました。深い喪失感に裏打ちされたファンタジーなのです。案の定、著者自身が「チャン作品にこれまで大きな影響を与えられている」と付記していました。折紙の動物たちが命を吹き込まれて戯れる表題作、同じように漢字が魔法の力を顕わす巻末の「文字占い師」、「結縄」には、縄を編むことで記録される言語が出て来ます。「心智五行」では、体内にバクテリアを取り込むことで、ある惑星の環境への適応を果たした部族が登場します。一旦、北米白人の目に触れることで異化された「東洋のエキゾチシズム」、これがケン・リュウの方術です。彼の作品には、米国白人社会に憧れを抱きながらも、彼らによって手痛く裏切られる中国人が繰り返し描かれています。「太平洋横断海底トンネル小史」では、相手は日本帝国です。しかし、米国白人も日帝も、中国共産党も台湾国民党も、憎しみの対象としては描かれないのです。「文字占い師」の中で、甘さんは在台米軍の情報将校と国民党の軍属から、最愛の息子を眼前で殺され、自身も凄惨な拷問を受けた挙句に殺されるのですが、カート・ヴォネガットのように、怨みを超越してしまっているのです。痛みが憎しみに流れないのです。その点、優雅ですらあります。
  • 「世界ファンタスティック映画狂時代」(友成純一著、洋泉社)
    著者が「キネマ旬報」に連載していた「びっくり王国大作戦」は欠かさず読んでいました。フランスのアヴォリアッツ、カタルーニャのシチェス、ポルトガルのファンタスポルト等の「ファンタスティック映画祭」にプレスとして参加し続け、世界中のホラーやスプラッター、エログロ映画を観まくった著者が、そこで出会った映画人たちとの交流を含めて綴った貴重な記録です。ピーター・ジャクソン、タランティーノ、トビー・フーパー等、ビッグネームも出て来ますが、やはり、巻末の第5章「ファンタで出会った凄い人たち」が凄い!の一言。『ソサエティ』のブライアン・ユズナ、『リトルショップ・オブ・テラーズ』のイワン・カルドソ、『コフィン・ジョー』のホセ・モジカ・マリンズ、『ネクロマンティック』のユルグ・ブットゲライト、『ゾンパイア/死霊大戦』のオラフ・イッテンバッハ等の記述は、VHS乱発時代の狂奔を思い出して、ニヤニヤしました。「君の名字、ブットゲライトっていうのか? 日本ではそう呼ばれているが」、それに対して「俺の名前か、それは?」と、Buttgereit本人が応える珍問答は涙が出る程に微笑ましい。
  • 「興亡の世界史/ケルトの水脈」(原聖著、講談社学術文庫)
    妻が一時期、セシルさんというブルターニュ人からフランス語を習っていました。彼女は黒沢清監督の大ファンで、水木しげるの『墓場の鬼太郎』も読んでいました。それは、彼女の中に流れるケルトの血のせいかも知れません。我らが柳田國男も、ブルターニュの民族学者、ポール・セビヨから方法論を学んでいたのです。日本民俗学との接点も深いのです。民族移動に伴う文化や言語の連続性については、「言語が存続するか消滅するかの境目を移住者の視点から考えると、家族をともなうか単身なのかが大きな分岐点となる」との卓見。「自文化に対する自負心が、文化的権威を背景にした「文明開化」の思想、これこそキリスト教が本来持つ普遍性(カトリシテ)の思想にもつながる」。つまり、文化的優位性の自意識があって初めて、伝道者は異文化の地に乗り出す布教の覚悟を固めると、著者は指摘しています。欧米の宣教師のみならず、イスラムの布教、仏教の伝播、全てに言えることです。日本のキリスト教界について言えば、現在、韓国系の教会が日本の布教活動に熱心なのも、彼らの優越感が大きく作用しているはずです。それに対して、昔ながらの教会においては、伝道意欲が低いと非難されがちです。しかし、それは日本の土着文化、土着宗教に敬意を払い、同じ目線に立とうという所に到達したからなのです。例えば、ブルターニュでは「布教者のキリスト教化はまったく強引なところがなく、一歩前進一歩後退の状態にあった」「布教者が異教に寛容であった」と著者は言います。これがケルト的キリスト教を育んだのです。私がケルト十字架を特に愛しているのも、このスタンスを是とするからです。「土着的な独自のものと普遍的なものとが入り交じって一つの文化を構成」すること、日本文化と日本的感性を愛する牧師としての理想です。
  • 「シュトヘル/悪霊」第14巻(伊藤悠作、小学館)
    完結しちゃいました。主要登場人物が一堂に南宋国都江堰に集結。命のやり取りです。但し、急変する展開もアクションも、良い意味で物語に従属しています。その物語とは…。国は滅んでも民は生きる。民は滅んでも人は生きる。人は死んでも文字は生き残る。文字を使う人が消えれば文字も死ぬ。しかし、死んだ文字でも、それに人が触れることで息を吹き返す。今失われつつあるのは生物多様性だけではありません。グローバリズムという暴力の中で、人間の言語や文化、信仰の多様性も急激に失われているのです。些か駆け足ながらも、そういうことを深く思わされる幕切れでした。この日本でも、地方の町村の人口減少のために、人々の暮らし、風土が消滅しています。もはや止めようのないことだとは思います。その代わりに、私たちは未来に向けて、何かの種子を蒔く責任があるように思うのです。
  • 「ヒトラーの描いた薔薇」(ハーラン・エリスン著、伊藤典夫他訳、ハヤカワ文庫)
    エリスンはテレビドラマの台本を書いていただけあって、すぐに映画化できそうな作品があります。「血を流す石像」では、NYの聖パトリック大聖堂の尖塔に施されたガーゴイルの意匠が実体化して、枢機卿を串刺しに、尼僧を股裂きに、「ジーザス運動」の群集を虐殺します。『空の大怪獣Q』のラリー・コーエンに映画化して貰いたいです。このように、著者のキリスト教に対する嫌悪が、どの作品からも醸し出されていて、その反骨ぶりには脱帽です。日本で神社神道に対して、ここまで牙を剝いて愚弄できる作家が一人でもいるでしょうか。「睡眠時の夢の効用」では、ジェリー・ファウェル(80年代を代表するTV伝道師、「モラル・マジョリティ」でレーガン政権を支えた)を名指しで「糞野郎」呼ばわりしています(勿論、88年の作品)。表題作に至っては、エリスン自身はユダヤ人でありながら、地獄に堕とされたヒトラーの姿を詩情豊かに描いています。「クロウトウン」には絶句。主人公の青年弁護士は自宅で恋人を堕胎させますが、トイレに流した胎児を探して来るように、恋人に要求され、マンホールの蓋を開けて下水道に降りて行きます。この初期設定だけで、もう降参です。こちらは、コーエンの『悪魔の赤ちゃん』を思い出させます。
posted by 行人坂教会 at 09:11 | 牧師の書斎から

2017年06月05日

旭日亭菜単(続き)その38

このレヴュー、大高宏雄さんの『昭和の女優/官能・エロ映画の時代』を採り上げたことがキッカケで、アニメ演出家の西村大樹さんに発見して頂き、大高さん御本人にも覗いて頂けたとの由。感無量です。ありがとうございました。

  • 「居心地の悪い部屋」(ブライアン・エヴンソン、アンナ・カヴァン他著、岸本佐知子編訳、河出文庫)
    ジョイス・キャロル・オーツの短編が入っているから買いました。彼女の「やあ!やってるかい」は、脳味噌筋肉のマッチョ男のジョガーを撃ち殺す最高にイカした作品です。でも特に印象深かったのは、エヴンソンの「父、まばたきもせず」です。娘の遺体を黙々と埋葬する父親の、一切の感情を排した描写に動揺しました。ダニエル・オロズコの「オリエンテーション」は、新入社員に対する事務的説明のみで構成されています。ケン・カルファスの「喜びと哀愁の野球トリビア・クイズ」は、題名通り野球クイズと蘊蓄の繰り返しなのに、読み終えて言い知れぬ哀しみに沈められます。ルイス・アルベルト・ウレアの「チャメトラ」は、メキシコの戦場を舞台にした幻想小説ですが、グロテスクでありながら鮮血の美を湛える内容に圧倒されます。例えば、戦友の頭の銃創から血の代わりに、小さな汽車、実家の建物、家具、両親、彼が寝た女たち等、彼の記憶が次々と流れ出して来る描写などは、なぜか『進撃の巨人』を思い出しました。幽霊を見るより人間が怖いのが、カヴァンの「あざ」、ルイス・ロビンソンの「潜水夫」(ケッチャムの「食人族」シリーズと同じくメイン州が舞台)です。
  • 「FUNGI 菌類小説選集/第1コロニー」(オリン・グレイ&シルヴィア・モレーノ=ガルシア編、野村芳夫訳、Pヴァイン)
    東宝の映画『マタンゴ』がトラウマになった人が編集したキノコ短編集。世界中にいるのですね。収録作品は、キノコへの偏愛、もしくはキノコへの恐怖がテーマになっている以外は、ホラーからウエスタンまでジャンルも広範です。しかし、キノコを題材にしているという段階で既に、ファンタジーの領域に入らざるを得ないのです。ジョン・ケージはキノコたちのために音楽を作り続けたそうですが(キノコが喜んだかどうかは別として)、キノコを聴衆に選んだ段階で既に、人間の聴衆を拒絶しています。演奏者も、チケット買って聴きに来る客も、間違いなく人間だというのに…。いや、それは皆「キノコ人間/Mushroom People」だったのかも知れません。そうでなければ、誰が好んで、あんな音楽を…。もしかしたら、こんな小説を面白がって読んでいる私自身も、菌類に寄生されてしまっているのかも知れません(足は既に白癬菌にやられています)。収録作では、巻末の「野生のキノコ」(ジェーン・ヘルテンシュタイン)に最も心動かされました。チェルノブイリの婆ちゃんたちも同じですが、東欧やロシアの人たちは、どうして、こんなにもキノコ狩りに血道を上げるのでしょうか。斯く言う私も、小学生時代、松茸狩りにハマッていました。
  • 「失われた宗教を生きる人々/中東の秘教を求めて」(ジェラード・ラッセル著、臼井美子訳、亜紀書房)
    ユダヤ教グノーシス主義から派生したマンダ教、古代イラン系宗教のヤズィード教、ゾロアスター教、イスラーム分派のドゥルーズ派、「サマリア五書」を奉ずるサマリア人、エジプトのコプト教、パキスタンとアフガニスタン国境の山岳地帯に住むカラージャ族、以上、7つのマイノリティグループが採り上げられています。ドゥルーズ派は布教をせず、閉ざされたコミュニティの中で、文字通り秘教化しており、ヤズィード教徒も聖職者のみが「真理」を秘匿しているため、一般信徒には教義すら知らされていません。その2つは余りにも特異な例ですが、ゾロアスター教は一旦、ペルシア帝国の国教にまでなりました。ムスリム化以前のエジプトでは、コプト教が広く信仰されていました。しかし、いずれも現地では、コミュニティそのものが消滅の危機に瀕しています。絶滅危惧種は生物学だけでの話ではなく、人間の民族、言語、文化、宗教においても言えることです。そして多様性を失った世界は必ずや滅亡するのです。ムスリムがコプト教徒を迫害することで、彼らの多くが国外に脱出した結果、将来エジプトが被ることになるダメージの大きさは計り知れないのです。非常に明晰かつ丁寧な翻訳に感銘を受けますが、それだけに「失われた宗教」というデリカシーの欠如した題名が惜しまれます。せめて「失われゆく」「消えつつある宗教」にして欲しかった。
  • 「中国侠客列伝」(井波律子著、講談社学術文庫)
    子どもの頃、テレビで東映任侠映画(高倉健の『日本侠客伝』『昭和残侠伝』とか藤純子の『日本女侠伝』等)を観ていました。ですから、昔から「任侠」という生き方に興味がありました。随分、後になってからですが、キン・フーの『侠女』も観ました。中国が任侠の本場です。高倉健が中国で人気があったのも、チャン・イーモウが彼のために『単騎、千里を走る』を撮ったのも、彼が一貫して「侠の物語」を演じて来た役者だったからでしょう。因みに「美髯公 千里 単騎を走らせ」は『三国志演義』の一節です。「義理と人情の板挟み」に悩む話も時折りありますが、基本、中国の侠者たちは自らの自由意志で行動し、既成の権力や権威、この世の常識に反抗する者たちが圧倒的に多いのです。だから、著者も『水滸伝』の宋江が嫌いなのでしょう。宋江は梁山泊軍団のリーダーとして立ちながら、朝廷の招安(罪の赦免、官軍への編入)へ路線変更することで、結局、軍団壊滅をもたらすのです。でも実際、宋江のように生真面目な余りに、権力者に体よく利用されてしまうタイプの人間は珍しくありません。「愛国者は国家に裏切られる」のが世の習いです。
  • 「ドラゴン・ヴォランの部屋/レ・ファニュ傑作選」(ジョゼフ・シェリダン・レ・ファニュ著、千葉康樹訳、創元推理文庫)
    『吸血鬼カーミラ』のレ・ファニュは、フランスから英国に亡命したユグノーの子孫。しかも、牧師の家庭にありながらも、生まれ育ったのがカトリック信仰と妖精伝説に包まれたアイルランドだったのです。そんな屈折した情愛が作品の端々から偲ばれます。「ロバート・アーダ卿の運命」「ティローン州にある名家の物語」「ウルトー・ド・レイシー」の3作品は、所謂「呪われた城主」ものです。それにしても「ロバート」の死神や「ウルトー」の亡霊よりも、(『レベッカ』の設定を思い出させる)「ティローン」の狂女が恐ろしいです。少女が妖精の世界へ連れ去られる「ローラ・シルヴァー・ベル」には、彼女を守ろうとする善い魔女の呪術も詳細に描かれていて、素朴な民話風ながら読み応えがあります。「妖精とは、洗礼をまだ受けていない者に力を揮(ふる)う」という説には、成る程と思いました。少女ローラの家庭は、成人に達してから洗礼を授ける宗派(多分、改革派)なのです。表題作は、フランスを舞台にしたゴチック犯罪小説です。読んでいる内に、カルメニャック警部の台詞が『名探偵ポアロ』の熊倉一雄の声で聞こえて来ました。
posted by 行人坂教会 at 17:08 | 牧師の書斎から

2017年04月01日

旭日亭菜単(続き)その37

  • 「ヒストリエ」第10巻(岩明均作、講談社)
    対アテネ・テーベ同盟軍のカイロネイアの戦いです。ここまで引っ張った割りには、戦闘そのものは、あっさりと終わります。アレクサンドロス王子の「撫で斬り駆け」、敵陣背後から単騎で、数人ずつ敵の槍兵を斬殺しながら、馬で走り抜けるのですが、岩明らしく切断された首や顔半分が飛ぶ瞬間の「切り株」系描写が満載です。ダミアン・ハーストの美術作品とか好きなのでしょうね。それにしても、岩明はアレクサンドロスを「壊れた人間」として描くつもりなのでしょう。あの斜視のようになった両眼は『ヘウレーカ』のハンニバルの目と同じでしょう。マケドニアの長槍歩兵が反撃に転じる場面、突き出した槍の穂先がブニュッと歪んで見える構図は感動的ですらあります。
  • 「逆行の夏/ジョン・ヴァーリイ傑作選」(ジョン・ヴァーリイ著、浅倉久志他訳、ハヤカワ文庫)
    原子力災害後の世界、視聴覚障害者のコミューンでの生活と交歓を丁寧に描いた「残像」、月の周回軌道に浮かぶ娯楽施設「バブル」を舞台に、人体補綴装置「ボディーガイド」を装着した女性の愛と性、その恋人の共苦と別れを描き切った「ブルー・シャンペン」、この2作が圧巻でした。重度のハンディキャップを持つ人が体験する世界観、それを共有した時に生まれる認識の変化、それが、そのままSFとして昇華されているのです。巻末の「PRESS ENTER■」も、朝鮮戦争での捕虜体験の後遺症に苦しむ初老の男と、ポルポトの大虐殺を生き残って米国でPCプログラマー(ハッカー?)になったベトナム人の女性との恋愛ですが、一種の異文化間コミュニケーションとして読みました。表題作も含めて、異質な者たちと交流した時に生まれる意識変革が共通テーマです。表題作以外は、どの作品も、結末は苦々しい味わいです。しかし、それこそが人生の、この世界の現実なのです。それにしても、後を引き摺るなあ…。
  • 「アド・アストラ/スキピオとハンニバル」第11巻(カガノミハチ作、集英社)
    東ヌミディア王国のマシニッサが、カルタゴ(ハンニバル)側からローマ(スキピオ)側へと転向する重要な展開。そして遂にアフリカに渡ったスキピオ軍団が、西ヌミディアのシュファックス、カルタゴのジスコーネの連合軍を撃破します。少し気になったのは「ドドドドッ」と歩兵が進撃する会戦場面など、明らかな手抜き画が混じっていますね。緻密な画を描く作者だけに気になってしまいます。
  • 「ゴールデンカムイ」第10巻(野田サトル作、集英社)
    詐欺師の鈴川聖弘は『クヒオ大佐』で知られる実在の結婚詐欺師がモデルでしょう(北海道網走の出身だしね)。『リング』の貞子の母親のモデル、千里眼の御船千鶴子も(三船千鶴子として)、「三十年式小銃」の開発者として有坂成章も(有坂成蔵として)登場します。名前が微妙に改変されているのは、飽く迄もフィクションということでしょう。それにしても、このマンガのキャラ、新撰組の土方歳三、永倉新八は幕末、脱獄王の白鳥由栄(白石由竹)は戦後、「クヒオ大佐」は70〜90年代と、時代を無視していますので、既に伝奇物としては破綻しているのです。鶴見中尉の片腕、薩摩隼人の鯉登少尉が登場、「ちんちんぬきなっもしたなぁ」に始まる薩摩弁の応酬は面白かったです。
  • 「あまたの星、宝冠のごとく」(ジェイムズ・ティプドリー・ジュニア著、伊藤典夫・小野田和子訳、ハヤカワ文庫)
    ティプドリー・ジュニアの作品集だけに、どの作品も一捻り二捻りしてあります。「悪魔、天国へいく」は、神の訃報を受けて天国を弔問したルシフェルが、天国再建計画をペトロと話し合ったりします。勿論『聖☆おにいさん』のように、ほのぼの路線に流れたりはしません。異星生物とのコンタクトを描く「アングリ降臨」も「いっしょに生きよう」も「天使もの」の一種と見て良いでしょう。本の題名からして、聖母マリアを讃える表現です(イヤミのつもりでしょう)。祈りを聴いてくれないキリストへの苦言もあります。「雀はもうずいぶん長いこと、顧みられることもなく、地に落ちつづけている」「彼≠ヘかなり耳が遠くなっていて、とくに女性や子どもの高い、かぼそい声が聞こえにくい状態だ」…。但し、彼女にかかれば、エコロジストもフェミニストも、宗教者も理想主義者も木っ端微塵です。貧困女性たちが私生児の赤ん坊をセンターに引き渡す「肉」、ブルジョワ娘への嫌悪だけで書かれたと思しき「もどれ、過去へもどれ」、少女向けファンタジーの悪意に満ちた改変「すべてこの世も天国も」…。夢も希望も情け容赦なく打ち砕いてくれます。やはり、私としては、薬物依存症兵士の復讐物語「ヤンキー・ドゥードゥル」が最も重いボディブローでした。
  • 「洋ピン映画史/過剰なる「欲望」のむきだし」(二階堂卓也著、彩流社)
    半年前に同じ彩流社から出た『ピンク映画史』の姉妹編です。長澤均の『ポルノ・ムービーの映像美学』が綿密な分析による研究書であるとすれば、二階堂先生の本は同時代を伴走した人による証言集でしょう。「洋ピン」とは、外国のポルノ映画を映倫の検閲を通すために、輸入した配給会社が自ら削除、ベタ加工、ボカシ、トリミング、マスクがけ等の処理を施して、改変された代物のことです。結果的にハードであれソフトであれ、日本のピンク映画のような作品が出来上がるのです。かの『ディープ・スロート』に至っては、更にピンク映画の向井寛監督が追加撮影をして(2千万円もかかったとか)、1時間分のフィルムを継ぎ足して日本公開版を完成させたのです。レイモンド・バー主演の『怪獣王ゴジラ』の比ではありません。私も「別冊スクリーン」の愛読者でしたから、70〜80年代の作品紹介には、胸がときめきました。最近では、結構、ネット上でノーカット版が鑑賞できる作品もあったりして、すると、あの時代の「洋ピン」って何だったのよ!?と…。まるで鎖国時代の出島みたいです。
  • 「プリニウス」第5巻(とり・みき+ヤマザキマリ作、新潮社)
    無頭で胸に顔のあるブレミュアェ族、蛇人間ヒマントポデスも登場。と言っても、放浪の瘋癲老人の世迷言としてですが…。老人の語るパルミュラの風景は、星野宣之の『妖女伝説』で経験済みですが、一瞬でも出て来るのは嬉しいです。そして、シチリア島に上陸したプリニウス一行は、ストラボネ山の噴火に遭遇するのでした。昔、ロベルト・ロッセリーニ監督、イングリッド・バーグマン主演の『ストロンボリ/神の土地』という映画を観たことがあります。それにしても、ウミウシ、恐るべし。
posted by 行人坂教会 at 13:32 | 牧師の書斎から

2017年02月14日

タイトルを新しく変えました。

「牧師の書斎から」で掲載しておりました「一点一画 one jot or one title」ですが、再び、タイトルを新しく変更させて頂きました。

旭日亭菜単」と題してお届けします。
「菜単」とは「メニュー」のことです。

posted by 行人坂教会 at 22:47 | 牧師の書斎から

旭日亭菜単 (続き)その36

  • 「人形/デュ・モーリア傑作集」(ダフネ・デュ・モーリア著、務台夏子訳、創元推理文庫)
    やはり、自分の職業柄か、全14編中、最も記憶に残るのは「いざ、父なる神に」と「天使ら、大天使らとともに」の2編です。いずれも、権力志向の強い俗物牧師、ホラウェイの物語です。金持ちや上流階級に上手に取り入る一方、自分の利益にならぬと見るや、悩む人を見捨て、貧しい人を見捨てる最悪の人間です。しかも、自分の讃美歌の歌声に酔い痴れ、自分の説教に会衆が心動かされているのを見て悦に入っているのです。同業者として嫌悪感を抱かせる半面、どこからしら共感してしまう自分が恐ろしい。ホラウェイ牧師の陰画と言えるでしょう、「メイジー」には、娼婦が「こんなに讃美歌が好きなのに、どうして教会の中へ入れて貰えないのだろう」と嘆く場面が用意されています。巻末の「笠貝」は、ヒロインの独白を通して、その本性が少しずつ明らかにされていくのですが、それはさながら、関わった人たちの栄養を吸い上げる寄生虫なのです。独白スタイルだからこそ、読者は震撼させられるのです。彼氏から届く手紙だけで、男女関係の変質を描き切る「そして手紙は冷たくなった」も斬新です。人間の内奥に渦巻く悪意を描かせたら、デュ・モーリアはシャーリイ・ジャクソンと双璧です。
  • 「『雲』の楽しみ方」(ギャヴィン・プレイター・ピニー著、桃井緑美子訳、河出文庫)
    「もしもくる日もくる日も青一色の空ばかりだったら、人生は退屈でしょう。…雲は天気の顔です。雲はみずからの気持ちを表現し、目に見えない気流の状態を教えてくれるのです。そして…雲は大自然の紡ぎ出す詩だ」。そんな風に演説してしまう著者は、「雲を愛でる会」の設立者。空の雲に目を留めようともしない青空至上主義者たちに敢然と立ち向かいます。雲の分類は、私の興味外でしたが、雲に挑んだ人たちの物語には興奮させられました。米空軍パイロット、ウィリアム・ランキン中佐は、ジェット戦闘機の故障から、止む無く積乱雲の中をパラシュート降下して奇跡的に生還します。米国の化学者ラングミュアとシェファーは「雲の種まき」と称して、人工降雨をはじめとする気象コントロールを試みます。その他、コンスタンティヌス帝が天空に目撃した神のメッセージが何であったかという分析も必読です。飛行機雲が地球温暖化の大きな要因であることも初めて知りました。しかし、何と言っても圧巻は、豪州のモーニンググローリーでのグライディングに初めて挑戦したホワイトとトンプソンです。
  • 「処刑人」(シャーリイ・ジャクソン著、市田泉訳、創元推理文庫)
    読了後「また、まんまとやられた!」と思うはずです。終盤に展開される夜の道行は『ウルトラQ』第25話「悪魔っ子」を思い出しました。催眠術を多用した結果、幽体離脱を繰り返すようになってしまった奇術団の子役、リリーの物語です。「人工的な明りが消えたあとの人工的な暗闇とは違っていた。自然の光が去っていくと同時に訪れる自然の深い闇だ」。そのように語られるのは、モノクロ映像で描く夜の情景に近いと思います。人里離れた夜の世界でありながら、どこか白昼の悪夢のような感覚が付き纏っています。幻覚にも似たエスケープが始まるのが、ヒロイン、ナタリーが実家に帰省して、自分の居場所がどこにもないことを再確認してからの展開であったということが重要です。元より女子大にも学生寮にも、彼女の居場所はありませんでした。現実の社会や人間関係から遊離していることが、彼女の幻想の病因ですが、しかし、こちらの現実がそんなに確かなものかと言えば、そうではなくて、私たちが営む生活も、色々なフィクションの上に成り立っているに過ぎないのです。ただ、そのフィクションを大多数の人間が「現実」として合意することで、辛うじて成り立っているのです。
  • 「AV出演を強要された彼女たち」(宮本節子著、ちくま新書)
    「ポルノ被害と性暴力を考える会/People Against Pornography and Sexual Violence」、略して「PAPS」の世話人と成った著者。彼女はソーシャルワーカーとして、長年活動する中から、自らの務めを、問題に直面し、困難を抱えた様々な人たちの「伴走者」と位置付けています。ここでも、スカウトの罠にはまり、AV産業の暴力的システムの中に飲み込まれ、必死で助けを求める女性たちに寄り添いながら「伴走」しています。勧誘から契約に持ち込み、雑誌グラビアや着エロ動画の撮影、遂にはAV本番に至る訳ですが、女の子が勧誘に乗ったが最後、もう後戻り出来ない手法は凄い。単なる詐欺ではなく、カルトの方法論が使われていると確信します。助けを求めて来て彼女たちが、それでも尚、スカウトやプロダクションの人を「良い人」と信じ続けている辺りも、カルトと同じです。そう言えば、私が毎月聖書研究会を担当しているYMCAの某学舎には、中国や韓国から来た留学生もいるのですが、彼らは一様に「自分らの国には、日本に来れば、AVのような世界が待っていると思い込んでいる若者が多い」と言っていました。我が国は、ポルノ映像・画像のアジア最大の発信国なのです。
  • 「詩人と狂人たち」(ギルバート・キース・チェスタートン著、南條竹則訳、創元推理文庫)
    ローマカトリック信者のチェスタートンだけに、プロテスタント教会に対する悪口が随所にちりばめられています。「鱶の餌」の元宣教師のブーン氏や、「ガブリエル・ゲイルの犯罪」のソーンダース牧師の造形などは、プロテスタント信仰の戯画化と言えましょう。それはともかく、主人公の詩人探偵ゲイルは、詩人であるが故に、狂人たち(lunatics)に対して、魂の奥深くで共鳴することで、結果的に犯罪を暴くことに成るのです。「狂人」と言うより「取り憑かれた人」と言うべきかも知れません。今なら一種の「サイコダイバー」です。その意味で、本作が国書刊行会「世界幻想文学大系」に収められていたという事実は興味深いものです。凡そ論理的な展開とは思えないので、普通の推理を期待すると戸惑うことでしょう。斯く申す私も、第2話「黄色い鳥」の結末を見た所で漸く、詩人探偵の観察力と推理力(と言うか、その個性)に順応したくらいです。楽しみ始めたのは、第6話「孔雀の家」あたりでしょうか。変人の多い探偵の中でも、その変てこ度において、かなり上位に食い込むキャラクターです。しかも、この連作集、探偵自身の恋愛小説とも成っているのですからオドロキです。
posted by 行人坂教会 at 22:44 | 牧師の書斎から