2020年03月28日

旭日亭菜単(続き)その56

  • 「ゴールデンカムイ」第21巻(野田サトル作、集英社)
    かなり「作画チーム」が充実して来たと思われます。いや、作画だけではありません。物語の展開にも、徒に登場人物を増やしただけではなく、今後それを上手に結んで行く予感があります。205話の「シネマトグラフ」等、「こんな話、要らんだろ」と思っていたら、アシリパさんの両親やキロちゃんの映像が出て来たりして、ハッとさせられます。谷垣とチカパシの別離、アシリパと鶴見中尉の対峙など、凄い展開に息を飲みます。
  • 「ローマ法王」(竹下節子著、角川ソフィア文庫)
    この本のクライマックスは、第4章「ヨハネ=パウロ二世と歴史の激動」にあります。アンティオキア、アレキサンドリアと共に3大司教の1人でしかなかったローマが、どのようにして西欧キリスト教世界を束ねる「教皇」の地位と権勢を獲得して行くに至ったか。また、宗教改革と啓蒙主義の時代、どのようにして、その存在意義を保ったか。そんな歴史を概観した上で、未だ記憶に新しい「東欧革命」「ソ連の解体」を牽引したカロル・ヴォイテワの偉業を見せられるのです。この本は出版社を変える度に、ベネディクト16世、フランシスコの部分が「秘伝のタレ」のように注ぎ足されたのです。教皇に莫大な寄付金を納めている、米国支配階級の団体「コロンバス騎士会」の影響力についても採り上げられている所は、エゾテリスムの研究者である著者の面目躍如です。
  • 「昭和芸能界史/[昭和20年夏〜昭和31年]篇」(塩澤幸登著、河出書房新社)
    「平凡」「平凡パンチ」「Tarzan」等の編集を務めた著者による戦後芸能年代誌。これまでに「あるようで無かった本」です。芸能雑誌「平凡」の資料と統計が物を言う訳ですが、著者は、その年その年の政治や経済にも目配りをしながら、大衆文化の深層に切り込んで行きます。鶴見俊輔や色川大吉などの思想家の記録も引用されますが、大衆文化(その時代の大衆が何を求めているか)に寄り添う著者の視点と覚悟は潔く温かです。近江絹糸の労働争議では、経営者が従業員に対して前近代的な人権抑圧をしていたのですが、その中に「平凡」講読禁止の項目があったというのには驚きました。渡邊晋が「渡辺プロ」を設立する経緯も丁寧に書かれていますが、連れ合いの美佐夫人の一族(曲直瀬家、マナセプロ)は、我が行人坂教会とも多少の縁があります。
  • 「平成怪奇小説傑作選3」(東雅夫編、創元推理文庫)
    東日本大震災後の「破滅時代」に書かれた諸作は粒揃いです。私たちの生きている現実そのものが、今や「ホラー」としか言いようが無いのだと、改めて実感しました。震災を直接題材にしているのは、高橋克彦の「さるの湯」でしょう。しかし、木内昇の「蛼橋」も、有栖川有栖の「天神坂」も、小野不由美の「雨の鈴」も、小島水青の「江の島心中」も、大濱普美子の「盂蘭盆会」も、死者の世界から生者の世界を覗き見ているような物語である点で共通しています(高原英理の「グレー・グレー」なんてゾンビ物ですしね)。民俗学に言う「異種婚姻譚」(宇佐美まことの「みどりの吐息」)や「鬼子伝説」(京極夏彦の「成人」、澤村伊智の「鬼のうみたりければ」)にも、現代特有の閉塞感が表現されています。私の一番のお薦めは、恒川光太郎の「風天孔参り」です。遣る瀬無い孤立感が堪りません。
  • 「中国怪談集」(中野美代子、武田雅哉編、河出文庫)
    王秀楚(ワン・シウチュー)の「揚州十日記」こそは、ケン・リュウの「草を結びて環を銜えん」の素材だったのです。その一点からも推察されるように、『聊斎志異』のような「如何にも」な怪異譚は敢えて外して、現代中国系作家のSFやファンタジーのイメージの源泉を教えてくれるようなセレクトがしてあるのです。魯迅の「阿Q正伝」を入れてあるのにも舌を巻きました。私の一番のお気に入りは、葉蔚林(イェ・ウェイリン)の「五人の娘と一本の縄」です。何と、これはワン・チン監督の名作『五人少女天国行』(1991年)の原作ではありませんか。映画もブッ飛びましたが、原作も凄いです。嫁に出される直前の少女たち5人が集団自殺する話なのですが、その瑞々しさ儚さに胸が締め付けられます。許地山(シュー・ティシャン)の「鉄魚≠フ鰓」には、往年の海野十三の趣きがあります。
posted by 行人坂教会 at 17:45 | 牧師の書斎から

2020年01月26日

旭日亭菜単 (続き)その55

  • 「イギリス怪談集」(由良君美編、河出文庫)
    英国と言えば「幽霊物」と相場は決まっています。その中でも、ベンソンの「チャールズ・リンクワースの告白」は、電話が小道具に使われて、奇妙なリアリティを残す作品です。ティンバリーの「ハリー」は、幼い娘を持つ母親が語る神経症的恐怖譚。失ってはならない愛すべき者がいればこその怖ろしさです。ブラックウッドの「僥倖」は、ジュラ山中を旅行する牧師が主人公です。マンビーの「霧の中での遭遇」にも教区牧師が登場します。旅人に道を教える慈悲深い隠者も登場します。この2作品、「九死に一生」の結末は同じですが、霊の働きは正反対です。水夫や水兵の怪談、航海中の客室の怪談、所謂「海もの」が4篇も入っていたのも英国らしさでしょうか。
  • 「平成怪奇小説傑作選2」(東雅夫編、創元推理文庫)
    牧野修の「グノーシス心中」のスプラッターぶりはサイコー。浅田次郎の「お狐様の話」は、御岳山を歩き、宿坊に泊まった時の風景を思い出しながら読みました。「この世に邪悪なものは数知れずにあるが、それを調伏する力など実は人間にも神様にもないのではないかと疑った」。先のホワイトヘッドの「黒い恐怖」を神道の立場で再現しています。森見登美彦の「水神」は、京都市郊外の旧家を舞台に通夜の不寝の番が延々と続いて、やがて読者も同席しているような朦朧感、錯覚に陥ります。京都の送り火をモデルにしているのは、綾辻行人の「六山の夜」ですが、こちらは30分ホラードラマの趣き。山白朝子の「鳥とファフロッキーズ現象について」は『怪奇大作戦』かな。朱川湊人の「トカビの夜」、光原百合の「帰去来の井戸」は、ひたすら涙涙です。特に前者は円谷特撮ファン必読。
  • 「キリスト教でたどるアメリカ史」(森本あんり著、角川ソフィア文庫)
    「米国キリスト教史」ではありません。これこそが紛れも無い「米国の歴史」です。著者はICU(国際基督教大学)の教授、日本キリスト教団の牧師ですが、米国キリスト教を見詰める彼の眼差しには、異文化を分析する客観性が担保されています。その意味で、米国人や米国の政治・経済・文化・科学に関わる全ての人にお薦め出来る、安心の教科書(勿論、良い意味で)です。第10章「アメリカの膨張」では、米国の歴史が日本のプロテスタント諸派の成立に直結していることが分かります。それだけに私たちは、もっと米国の負の歴史、米国社会の脆弱さ、反主知主義の伝統をも見据える必要があります。
  • 「ゴールデンカムイ」第20巻(野田サトル作、集英社)
    前半の見せ場は、雪深い登別の山中で展開される菊田特務曹長+有古一等卒VS都丹庵士の死闘。後半の見せ場は、尾形百之助との激闘の最中、鯉登音之進の脳裏に蘇る鶴見中尉との邂逅(感傷的な物語に見えて、実は、これにも何か裏がありそうです)。菊田が二挺拳銃で使用している「ナガンM1895」は、ベルギーで開発されたリボルバーで、ロシアとソ連の制式拳銃でした(主に将校用)。対する都丹の愛銃「マウザー(モーゼル)C96」はドイツ軍の制式拳銃(オートマチック)です。雪山で繰り広げられる死闘を見ていて、異色マカロニ西部劇『殺しが静かにやってくる』の殺し屋サイレンス(声帯を切られた男)の愛用銃でもあったことを思い出しました。その名前と言い、銃器と言い、最期までマカロニでした。
  • 「アメリカ怪談集」(荒俣宏編、河出文庫)
    やはり、同業者として、ホーソーンの「牧師の黒いヴェール」とホワイトヘッドの「黒い恐怖」は外せません。その独特の不気味さを解して愉しむことが出来るのは、キリスト教徒の数少ない特権の1つです。カウンセルマンの「木の妻」にも、年老いた信徒伝道師が出て来ます。こちらは、ヒロインが福祉調査員の女友だちに同行して目撃する異様な世界です。明らかに戦後社会なのですが、米国僻地独特の底知れなさが醸し出されていて絶品です。ヘンリー・ジェームズの「古衣裳のロマンス」は、予想通りの展開でありながら、予想外の面白さでした。ケラーの「月を描く人」は精神病院が舞台に成っていて、患者の描いた絵が実体化する話。ベン・ヘクトの「死の半途に」の中にある「われわれの幻覚は本人のみならず他人をも支配するということだ」の警句が思い出されます。
  • 「ロシア怪談集」(沼野充義編、河出文庫)
    子どもの言葉遊びに「ロシヤの殺し屋怖ロシヤ」というのがありました。でも怪談は怖ろしくありません。プーシキンの「葬儀屋」、ドストエフスキーの「ボボーク」等、むしろ「諧謔小説」と言うべきでしょう。ゴーゴリの「ヴィイ」は、その筋では有名な映画『妖婆/死棺の呪い』(もしくは『魔女伝説/ヴィイ』)の原作です。ウクライナ正教会の神学校の「文法級生→修辞級生→哲学級生→神学級生」という学制、上級生に成れば成る程に不良化して行くのが面白い。最大の収穫は、アレクセイ・トルストイの「吸血鬼の家族」でした。ルーマニアとウクライナの間、モルダヴィア(モルドバ)に伝わる「ヴルダラーク」の物語。死者が墓から抜け出して、自分の村に戻って来るのです。そして迎え入れた家族や友人の血を吸うのです。それは伝染病のように拡がり、やがて村全体が滅んでしまうのです。現代の「ゾンビ」、いや、キングの『ペット・セマタリ』の味わいに近いです。
posted by 行人坂教会 at 22:58 | 牧師の書斎から

2019年11月18日

旭日亭菜単(続き)その54

  • 「ヤマトタケル」第1巻(安彦良和作、中公文庫)
    今年、NHKが放映した『機動戦士ガンダムTHE ORIGIN/前夜 赤い彗星』(OVAを再編集してテレビシリーズ化したもの)に心震わせ、『こころの時代』の「わかり合えないをわかりたい/安彦良和」を観てしまったせいで、改めて彼の作品に触れないではいられなくなりました。宮崎の教会にいた頃、『ナムジ』『神武』全巻を読んでいましたから、スゥーッと入って行けました。作者が参考にしている原田常治『古代日本正史』も、いずれ読んでみたいものです。
  • 「やがて満ちてくる光の」(梨木香歩著、新潮社)
    このエッセイ集の中盤に収められている、河田桟(その後、この人は与那国島で馬飼いに成られたとか)によるインタビュー(「生まれいずる、未知の物語」)には舌を巻きます。『沼地のある森を抜けて』の創作を中心に話題が展開するのですが、作家の聞き手の役割を演じるためには、ここまでの鋭いアンテナが必要なのかと感心してしまいました。同作については、恥ずかしながら、私などは「糠漬け」の話というくらいしか記憶がありません。「家の渡り」には、名前が伏せられていますが、戦前からのカール・バルトの研究者、宮本武之助教授のお宅の佇まいが紹介され、併せて、著者の学生時代の思い出として、新約聖書学者の橋本滋教授との交流も描かれています。いずれも帰天されて久しいので、もう名前を出しても良いでしょう。
  • 「ヒストリエ」第11巻(岩明均作、講談社)
    長男も楽しみにしている作品。長男は「また別の話に成っちゃって話が前に進まない」と漏らしていましたが、それは違います。アレクサンドロス王子に瓜二つのパウサニアスが新たに登場して、オリュンピアス王妃(アレクサンドロスの母親)による陰謀が描かれますが、これこそは、フィリポス王暗殺(いよいよか…)の伏線に成っているはずなのです。
  • 「教養としてのミイラ」(ミイラ学プロジェクト編著、KKベストセラーズ)
    二男が未だ小学校1年生だった頃、急にミイラに関心を持って、ミイラの本を買って上げたことを思い出しました。夏休みの自由研究のために、犬か猫を捕まえて来て、二人でミイラ作りをしようと考えたこともありましたが、ナトロン(ソーダ石)を使って水分を取り除くだけで70日もかかることが分かり、(妻にも猛反対され)泣く泣く断念したものです。この本はエジプト、中南米、ヨーロッパ、アジア、オセアニア、日本と世界のミイラが美しいカラー写真で紹介されています。最近の私は、木の実だけを食べて入定する湯殿山の即身仏に、とても心魅かれるものです。
  • 「ゴールデンカムイ」第19巻(野田サトル作、集英社)
    玉石混交のシリーズですが、さすがに今回はリキ入っていました。遂にアシリパ一行に追い付く杉元たち、その接近の過程に織り込まれる、ソフィアの回想(ウイルク、キロランケと過ごした過去)…。谷垣や鯉登とキロランケとの死闘、アシリパと尾形との対決、これこそが「ジャンプ」の真骨頂です(「ヤング」だけど…)。
  • 「アラマタヒロシの妖怪にされちゃったモノ事典」(荒俣宏著、秀和システム)
    水木しげる翁の御蔭で、幼い時から人間よりも妖怪変化に愛情を感じるように成ってしまった私は、キリスト教の牧師をしていながらも、未だに廃物に話し掛けたり(付喪神)、こちらを振り向いた野良猫に話し掛けたり(猫又)、おかしな事をしてしまいます。この本はティーン向けなのですが、編集の面白さに釣られて買ってしまいました。ところで、エボシガイに寄生されたセグロウミヘビは、その昔「宇賀(ウガ)」と呼ばれ、「瑞獣」とされていました。その「宇賀」の項を読みながら、大学時代、英文科に「宇我神魔子」という凄い名前の少女がいたことを思い出しました。「宇賀神(うがじん)」は、彼方から海の幸を携えて来るマレビトですから、きっと、彼女は外来神の末裔だったのでしょう。
  • 「実話怪談/でる場所」(川奈まり子著、河出文庫)
    2000年代初頭、著者は『女医・川奈まり子/タブーSEX』(別題『川奈まり子の愛の病棟日誌』)『川奈まり子/桜貝の甘い水』『川奈まり子/昼下がりは別の顔』他、多数のピンク映画、AVに主演していました(その名を冠した題名からも、当時、彼女には固定ファンが付いていたことが分かります)。それが、今では「実話怪談ライター」として有名に成ってしまいました。基本的にAVの撮影現場には、廃屋、廃業後の施設の類いが多く、霊感の強い彼女は、当時から心霊現象に出遭うことが多かったようです。私としては「蔵と白覆面」(目黒川近く上大崎の某旧家)と「瓶詰めの胎児」(六本木ヒルズ)が最も興味深かったです。前者は御近所の故。後者は、道教の邪法「養小鬼(ヤンシャオグイ)」(1980年の香港映画『養鬼/悪魔の胎児』で、その存在を知りました)との関連からです。
  • 「文豪たちの怪談ライブ」(東雅夫編著、ちくま文庫)
    明治末期から昭和初期に、文人や画人、新聞記者や出版関係者、果ては素人の変わり者、風流人まで集まって、繰り返し開催された「百物語」「怪談会」の様子をダイジェストに紹介し、尚且つ、その変遷を綴った好著。尾崎紅葉、徳田秋聲、三遊亭円朝、柳田國男、泉鏡花、喜多村緑郎、小山内薫、伊藤晴雨、伊東深水、芥川龍之介…等、名立たる面々による怪談が満喫できます。但し、創作の類いではなく、基本、実体験談とその再話です。ですから、ホラーを期待すると肩透かしを喰うでしょう。それはともかく、泉鏡花の存在感の大きさは際立っています。曰く「人と人とが相差し向いで話をしている僅三尺の空間(すきま)にさえ、人間界以外の別世界がある。その別世界がお化けの世界かも知れない」。
posted by 行人坂教会 at 09:33 | 牧師の書斎から

2019年08月24日

旭日亭菜単(続き)その53

  • 「平成怪奇小説傑作集1」(東雅夫編、創元推理文庫)
    いずれ劣らぬ傑作揃いです。毎度ながら、編者の怪奇小説に対する批評眼と愛着の深さには脱帽します。小池真理子の「命日」、板東眞砂子の「正月女」と「因縁物」の連発は凄いです。けれども、脊椎カリエスで死んだ女の子の霊障などという落ちは、実際に脊椎カリエスを患っていた友人(故人)を知る私には噴飯物。ヒロインの複雑怪奇な心の動きの描写が、遂には圧倒的なホラーを招き寄せる「正月女」に軍配を挙げざるを得ません。幻想的な雰囲気では、皆川博子の「文月の使者」が圧巻です。泉鏡花の『天守物語』ならぬ「煙草店主物語」です。宮部みゆきの「布団部屋」は読後感がジーンと長く後を引きます。篠田節子の「静かな黄昏の国」は、高齢化社会と核汚染とを絡めて描かれた直球デストピアSFです(福島原発事故の9年前に執筆された)。但し「核燃料サイクルが軌道に乗り…」という部分は苦笑せざるを得ません。1990年代の段階で「核燃サイクル」の虚構は見えていましたから。
  • 「キリスト教と日本人/宣教史から信仰の本質を問う」(石川明人著、ちくま新書)
    著者は「非キリスト者に読んで欲しい」というような事を仰っているが、読み終わった時に、むしろ「是非、キリスト者にこそ読んで貰いたい」と思いました。日本社会に暮らす圧倒的大多数の人たちは、カトリックとプロテスタントの違いも分かりません。そんな人たちにとっては、伝統的な(と、少なくとも思われている)神仏や習俗を敵対視し、上から目線で(自分も実行できない)聖書の教えを説くキリスト者など、真に鼻持ちならない存在なのです。プロテスタントが聖書に執着する事も、所詮は「活字信仰」に過ぎません。教派とか教義とか信条とか聖書解釈とか、そんな事柄に拘泥して(本当は、殆どの日本人キリスト者にとってさえ自分たちの歴史では無いのに)内輪揉めしているのも馬鹿げた事です。但し、著者が「村や町などのレベルでも、もう偏見や嫌がらせなどはなく、キリスト教徒であるがゆえに日常生活で不利益を被ることはありえないとほぼ断言できる世の中になった」(p.235)と仰っている、それは都市生活者の甘い現実認識です。
  • 「椿宿の辺りに」(梨木香歩著、朝日新聞出版社)
    「痛み」から始まる物語です。耐え難い痛みこそが冒険へのスタートと成ります。「冒険」と言っても、スピリチュアルな冒険、と言うか探索なのですが、いつもの事ながら、人道を踏み外しそうな「スピリチュアリズム」の手前で立ち止まる著者の器量たるや、大したものです。仮縫氏や亀シ等という霊感の強そうな人たちも登場しますが、彼らに向けられる眼差しも等身大で優しいものです。曰く因縁のありげなお稲荷さんも大黒さんも、川の氾濫も江戸時代の惨事も、決して呪いや祟りには向かっていないのです。大きな自然の循環に向かっているのです。何と言っても、この物語のクライマックスは、山幸彦が珠子と一緒に囲炉裏の上の越屋根の窓を開く場面です。二人の協同作業によって空気の循環が始まり、皆が解放されて行く契機と成るのです。「この痛みに愛着を感じる」「実は、痛みに耐えている時が、人生そのものだった」という山幸彦の最後の告白が、この物語の奥深さを示しています。もしかしたら、著者は現代日本における「Bildungsroman/教養小説、自己形成小説」の新しい形を模索しているのかも知れません。
  • 「草を結びて環を銜えん/ケン・リュウ短篇傑作集4」(ケン・リュウ著、古沢嘉通他訳、ハヤカワ文庫)
    吉村昭『羆嵐』のファンにとっては、冒頭の「烏蘇里(ウスリー)羆」は堪りません。スチームパンクの要素も、幻想文学(変身譚)の要素もあり、『ゴールデンカムイ』のようでもあります。しかし今回、特に胸に響いたのは、表題に成っている「草を…」と「訴訟師と猿の王」です。共通するのは、唐朝から清朝へ移行する時代、漢民族が満州族の外来王朝に支配される時代がテーマに成っている事、聖人君子とは程遠い主人公が、ふとした義侠心から何の見返りも望まず、人を助けて無残に殺されて行く事です。巻末の「万味調和」も凄い。かの『三国志』の英雄、関羽が中国人移民のリーダーとして開拓期のアイダホに再生して、白人たちとも食を通じて交流して行きます。以前「将軍のチキンを探して」(The Search for General Tso)という番組を観た事を思い出しました。米国生まれの中華料理「左宗棠鶏」の起源(つまり、中国移民が米国社会に根付く歴史)を探るドキュメンタリーでした。
  • 「悪魔のすむ音楽」(若林暢著、久野理恵子訳、音楽之友社)
    著者は2016年に亡くなったヴァイオリニスト。彼女がジュリアード音楽院留学中に書いた博士論文の翻訳です。表題に「悪魔」とあるものの、古代の「ダイモン」「サタン」、中世の「ルシフェル」ではなく、近代の悪魔「メフィストフェレス」が中心です。つまり、啓蒙主義的でトリッキーな悪魔です。バッハのカンタータ第19番に始まり、ストラヴィンスキーの「兵士の物語」までが採り上げられ、悪魔がどのように表現されて来たか、具体的に楽譜から分析されます。「ディエス・イレ」が大好きな私としては、第4章「死のライトモチーフ『ディエス・イレ』」に興奮しました。本来は「死者のためのミサ曲」の一部であったはずが、ベルリオーズの「幻想交響曲」では、悪霊どもの揶揄と成り、スクリャーピンのピアノソナタ第9番に至っては「黒ミサ」と化するのです。
posted by 行人坂教会 at 23:18 | 牧師の書斎から

2019年07月06日

旭日亭菜単(続き)その52

  • 「怪獣」(岡本綺堂著、中公文庫)
    時代劇作家の「怪獣物」と言うと、宮部みゆきの『荒神』のような式神が出て来るものと期待してしまいますが、飽く迄も「怪しげな獣」なのです。「恨の蠑螺」はサザエ、「岩井紫妻の恋」は狐、「深見夫人の死」は蛇、「夢のお七」は鶏です。「海亀」「鯉」「鼠」等、題名がそのものズバリの短篇もあります。明治時代に成ってから「実は、御一新の前の話ですが…」と語られるパターンが特徴的で、杉浦日向子の漫画を思い出したりします。不思議な話が、ただ不思議なまま終わってしまうことも多く、人を怖がらせるのが目的の「怪談」ではなく、「怪譚」という風情です。でも「海亀」が結構怖かったな。妖怪事典に出て来る「和尚魚」「海和尚」です。だから、アオウミガメは別名「正覚坊」と言うのですね。でも、ここに出て来るのはアカウミガメなのですが…。
  • 「死者の百科事典」(ダニロ・キシュ著、山崎佳代子訳、創元ライブラリ)
    表題作は、父を亡くしたばかりの女性が、旅先の図書館で、世界中の無名の死者の生涯を綿密に綴った書物に出会い、父親の項目を読み耽るという幻想的な話です。しかも、作者の後書きによると、生者死者を問わず全人類のデータをマイクロフィルムに記録しようとする保管庫がソルトレーク市に実在していると言うのです。モルモン教徒が系譜学に対する信仰の故に収集事業を続けているのだとか…。ダニロ・キシュはユーゴスラビアのユダヤ人です。クルアーン「洞窟の章」から採られた「眠れる者たちの伝説」、「シオン賢者の議定書」(ユダヤ人による世界支配の陰謀が記載された、所謂「プロトコル」)の成立を揶揄と皮肉で描き切った「王と愚者の書」、加えて「師匠と弟子の話」「未知を写す鏡」もユダヤ教の匂いが濃厚です。しかし、絶対のお薦めは「魔術師シモン」です。アポリネールにも同名の短篇がありますが、ダニロ・キシュは圧巻です。読者は暴力的に投げ跳ばされて、言いようのない悩ましい一夜を過ごすことに成るでしょう。
  • 「玉藻の前」(岡本綺堂著、中公文庫)
    題名からも分かるように金毛九尾の狐、言わずと知れた「殺生石伝説」なのですが、九尾の狐退治の物語それ自体は、単なるエピローグに過ぎません。千枝松と藻(みくず)の幼馴染みが交わす恋物語から始まります。ところが、狐に取り憑かれた少女藻は関白藤原忠通に取り入り、妖艶な「玉藻の前」と成り、天皇の采女(うねめ)に推挙され、朝廷の奥深くにまで喰い込もうという勢いです。対して、千枝松は陰陽師安倍泰親(安倍清明の子孫)の弟子と成ります。こうして妖魔と退魔師の立場に分かれた二人の悲恋こそが、この小説の主眼です。綺堂はゴーチェの「クラリモンド」の日本版をやりたかったみたいです(綺堂は自身で訳して『世界怪談名作集(上)』に編集していますもの)。
  • 「ゴールデンカムイ」第18巻(野田サトル作、集英社)
    自分の目の前で、可愛い我が子が死んでしまった時、大きな事故に遭ってしまった時、重病に倒れてしまった時、親は何もしてやれない自分を責め、こう思うのです。「私が代わりに成るから、この子を助けて欲しい」「どうして私ではなく、何の罪も無い幼い子がこんな目に遭うのか」。遂には、関谷輪一郎のように「本来なら神は自分を罰するべきだ」と、自己処罰(破滅)を目指すのかも知れません(関谷が幼い娘と共に礼拝に通った、木造の小さな教会堂がよく描けています)。それに対して、写真館の長谷川幸一は自分の巻き添えで妻子が死んで、勿論、悲しみますが、自分の属する組織(国家、軍隊)のために邁進します。両者共に人殺しに過ぎませんが、人生観の違いが殺人の動機の違いに表われています。
  • 「母の記憶に/ケン・リュウ短篇傑作集3」(ケン・リュウ著、古沢嘉通他訳、ハヤカワ文庫)
    ケン・リュウの短篇はどれも重い。軽々と他人から手渡された荷物が、自分の腕の中でガクンと重量を増したような、そんな錯覚を感じるのです。表題作は、不治の病を宣告された母親が宇宙旅行(時間停止)を繰り返し続けて、娘の成長を見届けようとする、痛々しい作品です。遠隔操作の兵器オペレーションシステムの開発者を描く「ループのなかで」、自分の魂をアイスキューブ化して冷蔵庫に入れている若い女性の「状況変化」、強い予知能力を持つ女性エスパーが(大量殺人事件を防ぐために)犯人(に成る予定の人物)を殺戮する「カサンドラ」、どの作品でも、余りに複雑な社会、高度な技術の中で、引き裂かれる人間たちの悲鳴が聞こえるのです。「われわれは今やサイボーグ民族なんだ。われわれはずっと前に精神をエレクトロニクスの領域に拡張しはじめた、そしてもはや自身のすべてを個人の脳髄に無理やりもどすのは不可能なんだ」(「パーフェクト・マッチ」)。私たち自身が今や「端末」なのかも知れません。連続殺人犯を追う女性私立探偵を描く「レギュラー」は、サイバーパンクとハードボイルドの融合で、エフィンジャーの『重力が衰えるとき』みたいです。
  • 「法水麟太郎全短篇」(小栗虫太郎著、河出文庫)
    衒学趣味の私立探偵「ノリリン」こと、法水麟太郎の登場する短篇8つが収録されています(矢作俊彦作、谷口ジロー画の『サムライ・ノングラータ』の主役コンビの片割れ、元傭兵「ノリミズ・リンタロー」の出典でしょう)。小栗を読むのは、大学時代に読んだ『黒死館殺人事件』以来です。「後光殺人事件」「聖アレキセイ寺院の惨劇」「夢殿殺人事件」「失楽園殺人事件」と、最初の4作はいずれも宗教絡みです。但し「聖アレキセイ…」はロシア正教会の寺院が舞台で、しかも、トリックは鐘(ロシア正教では「音のイコン」とすら言われる)、容疑者たちも亡命ロシア人たちなのに、ヒロインがカトリックの某女子修道会に属しているのは如何なものでしょう。「オフェリヤ殺し」「人魚謎お岩殺し」は、東西の芝居の薀蓄に溢れています。「人魚謎…」には、畿州公が離れ小島に体格の良い流刑囚の男女を集めて、巨人育成を行なっていたという怪しげな逸話が出て来ますが、江戸川乱歩の『パノラマ島奇譚』に触発されたのでしょうか。
posted by 行人坂教会 at 13:47 | 牧師の書斎から

2019年05月18日

旭日亭菜単(続き)その51

  • 「プリニウス」第8巻(ヤマザキマリ+とり・みき作、新潮社)
    本作を連載していた「新潮45」が休刊に成って心配していましたが、何とか続きを読むことが出来るようです。前回の大ピラミッドに続き、アレクサンドリアの灯台と図書館、クレタ島の迷宮(ミノタウロスも)、ロドス島の巨像が描かれていて、絵的には大きな見せ場に成っています。物語の見せ場の方は、専らネロ帝を巡るローマの陰謀譚が担当しています。大抵、ネロの悪行の原因とされている皇妃ポッパエアを、病的な夫に献身する女性として描き、ティゲッリヌスが大悪人として描かれています。そして、あの「サテュリコン」のペトロニウスも一場面、ティゲッリヌス関連で登場しています。
  • 「霊能者列伝」(田中貢太郎著、河出書房新社)
    最初に、丸山教の伊藤六郎兵衛、金光教の川手文治郎、大本教の出口直、黒住教の黒住宗忠と、江戸末期から明治初期に生きた4人の新興宗教の教祖が採り上げられています(どうして、天理教の中山みきが無いのでしょうか)。金光教は、金神(こんじん)の祟りによる不幸で始まりながら、後年、教祖川手は方位や呪(まじな)い、穢れ等を一切否定してしまう程の変わりよう、これには興味を持ちました。後半は、所謂「教祖」に分類できない人たち5人が採り上げられます。「日本のラスプーチン」飯野吉三郎の評伝には、ジョージ・ノックス(明治学院)、植村正久、本多庸一(青山学院)、巌本善治(明治女学校)、津田仙(津田塾)、押川方義(東北学院)、根本正(東京禁酒会)等、明治期の基督者たちの錚々たる顔ぶれも言及されていてビックリ。零落して、世間から見放された「メシヤ仏陀」宮崎虎之助の生前葬の招待を受けて、羽織袴姿で頭山満(玄洋社)が出席する辺り感動的です。頭山が金玉均(キム・オッキュン)への支援を最後まで続けた逸話なども思い出されます。生きながら神仙界に移された河野久の評伝は幻想小説さながらです。
  • 「夜は千の目を持つ」(ウィリアム・アイリッシュ著、村上博基訳、創元推理文庫)
    この作品、映画化されて日本でも公開されているのですが、評判は芳しくありません。主題歌(バディー・バーニア作曲、ジェリー・ブレイニン作詞、ボビー・ヴィー歌)だけが、ジョン・コルトレーンやソニー・ロリンズ、ホーレス・シルヴァーらに採り上げられて、ジャズの名曲として生き残っています。曲は知っていたのですが、原作を読むのは初めてです。身投げしようとする娘を、夜の川べり散歩を趣味にしている刑事が助けたことから事件が発覚するのですが、彼女の「告白」部分には圧倒されました。これだけで立派な短編小説です。そこから間髪を入れず「捜査活動のはじまり」に切り替わる大胆な構成。事件の鍵を握るのは、的中率百%の「予言者」、幻想小説の一歩手前で踏み止まる(推理作家としての)著者の矜持を思います。猛獣(ライオン)が「死の宣告」に絡んで来るのは、前回読んだ「黒いアリバイ」の黒豹と似ていますね。
  • 「聖遺物崇敬の心性史/西洋中世の聖性と造形」(秋山聰著、講談社学術文庫)
    「聖人ないし聖遺物は、いわば神がその力を地上で行使するためのメディア(媒体)だった」と定義されています。聖遺物の「ウィルトス/virtus/力」はウィールス(virus)のように感染力を持っていて、それに見たり触れたりした人々を癒したり、近接する物や場に霊力を与えたりするのです。フリードリヒ賢明公のヴィッテンベルク聖遺物コレクションの殆どが散逸する中、唯一、聖エリザベートのグラスだけが現存しているのですが、それは聖遺物を崇敬しないルターが自分のビールグラスにしていたからという皮肉。更には、そのルター当人もまた、デスマスクや手形を取られて、蝋人形のように展示されて、ルター教徒の崇敬の対象にされていたという皮肉。巻末の「注」まで楽しめる本でした。
  • 「夢の本」(ホルへ・ルイス・ボルヘス著、堀内研二訳、河出文庫)
    西は「ギルガメシュ叙事詩」から東は「荘子の夢」まで、古今東西の夢の話を集めてあります。それにしても「ヨセフの夢に現われた主の使」で「彼女の胎内にあるものは精霊による」と成っているのは如何なものでしょうか。たとえ原典が「Espíritu」とだけ書いてあったとしても(「Santo」が抜けていても)、ここは「聖霊」と訳すべきではあるまいか。訳者自身が「本書翻訳の過程で、原書からの直接訳を参照すべく、大学図書館の書庫の中の、ふだんはほとんど訪れることのない聖書関係の書架、…文学等の書架をしばしば訪れた」と「あとがき」に記しているだけに訝しく思われます。それはともかく、フランシスコ・デ・ケベードの「最後の審判の夢」が笑えます。何しろ、マホメットとルターとユダとが一緒に地獄をマヨマヨしているのですから。
  • 「ゴールデンカムイ」第17巻(野田サトル作、集英社)
    尾形百之助が樺太国境線を越えた時から、いずれ出て来ると思っていました、日露スナイパー対決が巻頭を飾ります。同時に爆弾屋キロランケの過去も開陳されて、構成と展開に破綻がありません。これだけのヒットマンガですから(テレビアニメ化も続いているし)、今や、かなり手堅いスタッフによるチームワークに成っていると見ました。「山猫」は「狙撃手」と「芸者の子」の二重の意味を持つ隠語です。そこに、さり気なく「メコオヤシ/オオヤマネコ」を登場させたりするのです。
posted by 行人坂教会 at 15:03 | 牧師の書斎から

2019年03月12日

旭日亭菜単(続き)その50

  • 「神と金と革命がつくった世界史/キリスト教と共産主義の危険な関係」(竹下節子著、中央公論社)
    如何にも出版社が販売促進を願って付けた書名です。フランス在住の著者自身による本当の題名は、表紙の脇にある「Genèse et Perversions du Pouvoir modern/近現代の国家権力の起源と腐敗」の方でしょう。前回に引き続き「エゾテリスム(秘教)史」研究者の本ですが、こちらは更に強烈な政治と経済と宗教の三竦みが描かれています。第1章−1だけは我慢しなければなりませんが、その後は余りにも面白くて、途中で置くことが出来ず、睡眠不足になること必至です。キリスト教と革命思想によって西欧に開花した「普遍主義」が如何にして成長し、権力交代を成して、その後に堕落して行くか…。ロシア革命、ラテンアメリカの「解放の神学」とバチカンとの関係に目を奪われます。社会革命と信仰との相克の中で格闘した人物として、シャルル・ペギー、エリック・サティ、岡本公三、ガイヨー司教の生涯が採り上げられます。そして第4章「近代日本の革命とキリスト教」では、大逆事件で逮捕された僧、内山愚童も登場します。第5章「東アジアの神と革命」では、中華文化圏の孔教、朝鮮半島の天道教が普遍主義を目指す試行錯誤が描かれています。
  • 「オカルティズム/非理性のヨーロッパ」(大野英士著、講談社選書メチエ)
    著者は(「アブジェクション」でお馴染み)ジュリア・クリステヴァの弟子筋の人です。ヨーロッパ思想史という立場からオカルティズムを俯瞰した力作です。欧米では進んでいるようですが、少なくとも国内では、この種の学術的なオカルティズム研究は稀少です。「ルネサンス魔術」の盛んなカトリック文化圏ではなく、プロテスタント文化圏から「神智学」が生まれたという指摘なども定説なのですね。フランス革命後の啓蒙主義的理神論者、ロベスピエールの背後には「神の母」なるカルト教団が存在していたこと、サン=シモンやフーリエ等のユートピア思想家の中にもオカルト思想が流れていたこと、後にカトリックに改宗した悪魔的秘密結社の女教祖ダイアナ・ヴォーンが架空の人物で、何も知らずに、リジューのテレーズが熱心に手紙のやり取りをしていたこと…面白すぎます。著者の結論は「キリスト教という、西欧にとって知的・「霊」的生活を律してきた啓示宗教が、唯物主義、進化論等、近代そのものともいえる「世俗化」によって、命脈を絶たれた後、なお、死後の生を信じ、霊魂の不滅を信じるために、唯物主義・進化論を作り出した主導思想である「実証科学」を逆手にとって、なおも、「宗教」を持続させたいと願う人々の意志が、近代オカルティズムを現代まで生き延びさせているとはいえまいか?」ということです。
  • 「ピクニック・アット・ハンギングロック」(ジョーン・リンジー著、井上里訳、創元推理文庫)
    あのカルト映画のファンとしては読まないで済ます訳には参りません。ハンギングロックにピクニックに行ったアップルヤード学院の生徒と教師が神隠しに遭います。物語は聖バレンタインの日に始まり、イースター直前の聖金曜日(キリストの受難日)で幕を閉じます。「不吉な綴織は、何の前触れもなく織られはじめたのだ」とあるように、1つの失踪事件が発端となって、多くの人たちの運命が描かれて行くのです。ゴブラン織りかジャカード織りか知りませんが、綴れ織り(タペストリー)のように、まるで事前に絵柄は決まっていたかのように展開して行きます。少女たちがハンギングロックを登り始めた時、昆虫や小動物たちが恐慌を来たしたのと同じように、登場人物が全て「バタフライ効果」(アマゾンの蝶1羽の飛翔がテキサスの竜巻を引き起こす)のように影響を受けるのです。マイケルとアルバートの同性愛的関係、救出されたアーマとマイケルとの擦れ違う思い、アルバートとセアラが同じ孤児院で育った兄妹だったのに接点が生まれないこと、そして、アップルヤード校長の末路…。あの映画のファンなら絶対に楽しめます。
  • 「黒魔術の娘」(アレイスター・クロウリー著、江口之隆訳、創元推理文庫)
    クロウリーの魔術書の翻訳者による、クロウリーの短編小説集です。魔術ネタが多いのは当然ですが、「キルケーの夢」には、真打ちエリファス・レヴィが登場します。クロウリーがE・レヴィの転生と自称していたことを思えば尤もか。個人的には、テレパシーの科学実験を続ける夫婦を描いた「マグダレン・ブライヤーの遺言」が一推しです。テレパスの妻(マグダレン)は悪魔(それとも死神?)の哄笑を耳にして、最愛の夫が死んだことを知ります。「セルヴェルトゥスの火刑をせせら笑ったカルヴァンの顔ですら、この笑いを聞けば慈愛に満ちたものに見えるでしょう。それほど完璧に地獄落ちの精髄を表している笑いだったのです」。改革派、長老派の信徒が読めば腰を抜かしそうな喩えです(笑)。「これではぼくは髪を刈られたサムソンよりも盲目だ。…同様に真実で、同様に虚偽、神の目にはすべてが虚偽にして真実、それらすべてを超えるものが神なのだ、子供、あの《子供》の頭脳だけがそれを把握できるのだ。幼子のようにならなければ、天の王国に入ることあたわじ!=v(「アイーダ・ペンドラゴンの試練」)。意外にクロウリーの言説、マトモに思われるでしょう。でも、これは魔術の最終段階「深淵の嬰児」なのだそうです。他には、硫酸で顔を焼かれた美女とか、斧で切断されて薪と共に積まれた美少女の四肢とか、小包から出て来る恋人の切り取られた唇と金髪とか、猟奇的でサディスティックな(女性に対する)描写も多々あります。
  • 「ゴールデンカムイ」第16巻(野田サトル作、集英社)
    土方歳三と土井新蔵(人斬り用一郎)との邂逅が泣かせる。幕末の京都で用一郎が「天誅」と叫んで斬り捲くる場面は、五社英雄監督の『人斬り』を参考にしていると思われます。彼が「先生」として従っていた男に切り捨てられるのも、『人斬り』の岡田以蔵と武市半平太の関係です。介錯を申し出る土方を留めて、「楽に死ぬのは申し訳ない」「天下国家のためと大勢殺した…」「「アイヌ」とは…「人間」という意味だそうだ」「俺はこの土地に流れ着いて…「人間」として生きた…自分だけ申し訳ない」と呟きながら果てて行きます。後半に登場する曲馬団の団長、山田と軽業師の長吉、キャラからして吉田光彦(劇団「天井桟敷」のポスターを描いてた漫画家)です。それに、丸尾末広の『少女椿』が少し入っています。キロランケが一宿一飯の恩義を受けたウィルタの女性に「チシポ」(アイヌの針入れ)をプレゼントする場面を見て、私も妻に「チシポ」を差し上げたのを思い出しました(全く使って貰っていませんが…)。
posted by 行人坂教会 at 20:13 | 牧師の書斎から

2019年01月07日

旭日亭菜単(続き)その49

  • 「黒いアリバイ」(ウィリアム・アイリッシュ著、稲葉明雄訳、創元推理文庫)
    この小説には、7人の魅力的な女性が登場します。流れて来た南米で一躍スター女優に成ったキキ、夜更けに母親から雑貨屋にお遣いに行かされる少女テレサ、霊園で恋人と逢引きしようとして果たせない令嬢コンチータ、酒場でコンパニオン紛いで稼いでいる「夜の姫君」クロクロ、米国の農機具販売会社の秘書で、久しぶりの休暇で羽根を伸ばしているサリイ、そして親友の仇を討つために捜査に協力するマージョリイ。どの女性も生き生きと描かれていて、その都度、読者は彼女たちに寄り添いながら読み進む(夜の道を歩き進む)ことになります。アイリッシュが老母と二人暮らしで、終生、女性と無縁だったとはビックリです。いや、生々しい女性関係が無かったからこそ、私たち(男性読者)の共感できるヒロインたちを産み出すことが出来たのかも知れません。
  • 「北欧神話物語」(キーヴン・クロスリイ=ホランド著、山室静・米原まり子訳、青土社)
    アニメ『進撃の巨人』が大好きな二男に「霧の巨人ユミル」による天地創造の場面を読んで聞かせたら興奮していました。オーディンら「アース神族」が「岩の巨人」に、アースガルドの城壁を建築させる物語も『進撃』を思い出させます。勿論、マーベルの『マイティ・ソー』でお馴染み、雷神トールや変身の神ロキも登場します。彼ら「アース神族」と相容れぬ関係にあるのが巨人族、小人族ですが、単なる敵対関係と言い切れる程に単純ではありません。巨人と知恵を競い合ったり、騙まし討ちにしたり、小人に宝飾品を作らせた挙句に奪い取ったりと、「アース神族」も思い付きや一時の欲望のままに行動し、自らの激情や憤怒を制御できません。無敵なはずのトールがウトガルドの巨人王から散々に侮辱される物語(ウトガルドへのトールの遠征)、ロキが小人のアンドヴァリから、黄金の山と指輪(「ニーベルングの指輪」の原点!)を奪い取り、呪いと共に巨人族に渡す物語(オッタルの賠償金)等、とても興味深い。それにしても、千年以上も昔に、どうしてロキのような屈折したキャラクターが生まれたのか不思議で成りません。
  • 「みんな彗星を見ていた/私的キリシタン探訪記」(星野博美著、文春文庫)
    国際都市香港で過ごした学生時代、自分の先祖のルーツを遡る紀行本など、著者の過去と生活の中にある「生の実感」みたいなものが、執筆の大きな動機に成っています。だから、彼女にとって「キリシタン」の時代に思いを向けることは、先ずリュートの演奏を学ぶことだったりします。島原半島を訪ねて、疲れ果ててしまう辺りの描写などは、こっちまで一緒に腹が減ったり体が冷え切ってしまいそうに成ったりします。周囲「巻き込み」型の執筆スタイルであることが想像されます。若松英輔が「解説」で「作者がキリスト者ではない」ことを評価して居られましたが、そのような評価の仕方自体がナンセンスだと思います。原城で「憑霊」したのと同じように、少なくとも本紀行文中においては、彼女の魂はカトリックに帰依すること著しく、その分、プロテスタントに対するアレルギー症状まで表われているのです。例えば、原城に大砲を打ち込んだオランダ船の出所、フランドルのリュート曲は演奏したくないとか、プロテスタント系の母校(国際基督教大学ですか)では、基本的なキリスト教の知識も教えてくれなかったとか…。秀吉、家康以上に敵対視している感じが読み取れるのです(笑)。それを差し引いても、気付きの発光に満ち溢れた本であることは認めなくてはなりません。当時の宣教師たちにとって、日本は数少ない「殉教」することの出来る地であったこと、宣教師たちの記録は「列福、列聖」の手続き上多く残されているものの、鎖国時代の日本人殉教者たちの記録は存在しない、それでも彼らの歴史は存在していること。胸打たれる考察です。
  • 「西部劇を極める事典」(芦原伸著、山と渓谷社/天夢人)
    前作『西部劇を読む事典』は、文字通り「事典」の体裁を採っていましたが、こちらは、クリント・イーストウッド、ジョン・フォード、カウボーイ御三家(ランドルフ・スコット、ジョエル・マクリー、オーディ・マーフィ)の作家論、役者論が大半を占めています。それでも6章の「ワイルド・ウェスト雑学事典」や「西部開拓史」年表などは、ありそうでいて、意外に無かったもので(少なくとも日本語では)、西部劇愛好家たる著者の面目躍如です。往年の名作『シェーン』が、チミノの『天国の門』と同じ「ジョンソン郡戦争」に関係する作品であること、「アメリカが新しい農業国として立ち上がる決意を表明した映画だった」こと等、目から鱗です。やはりと言うべきか、最も読み応えがあるのは、3章の「ジョン・フォードから学んだこと」です。どんなジャンルの、どんな作家に対する論評であれ、愛情と敬意に溢れた文章に接するのは気持ち良いものです。
  • 「時をとめた少女」(ロバート・F・ヤング著、小尾芙佐他訳、ハヤカワ文庫)
    幾分、揶揄を込めて「叙情SF」等と言われるヤングですが、思いの他、辛辣だったりします。ヤングには、確かに女性崇拝、少女趣味の性質があるのです。表題作などは、まさに直球ド真ん中「ボーイ・ミーツ・ガール」です。しかしながら「花崗岩の女神」等は、女性の形をした異星の山脈に挑む登山家の話で、旧約聖書の「雅歌」が繰り返し引用されるように、遣る瀬無い思いは募り、その挙句に女神崇拝、女性に裏切られた思い等が交じり合って、ここまで来ると、まさに「極北」です。「自分の女神に思いもよらなかった汚点があると知った者は、いったいどうするのだろう? 自分の真の恋人が淫婦だとわかった時、いったいどうするのだろう?」。巻末の「赤い小さな学校」も恐ろしい物語です。幸せな幼年時代の思い出を辿りながら、養父母の下を脱走して、「故郷」への旅を続けて来た少年が出会ったのは何だったでしょうか。憧れの女教師の本当の姿は…。
posted by 行人坂教会 at 17:42 | 牧師の書斎から

2018年10月13日

旭日亭菜単(続き)その48

  • 「真赤な子犬」(日影丈吉著、徳間文庫)
    冒頭から赤川次郎みたいな文体で、コケットなヒロイン登場と思いきや、すぐに予想は裏切られます。彼女は探偵役ではありません。先ず、探偵の務めを担わされるのは読者なのです。若社長の自殺未遂とそれに続く転落死の一部始終を示されているのは読者だけで、捜査に当たる警察よりも先に、その経緯を読んで知っている…と思い込まされるのです。ところが、この設定そのものがトリッキーであったことが、後から知られて来る訳です。それにしても、「サラド・ワルドルフ」に「ビフテック・オー・ポワヴル・ノワール」、食べてみたいものです(勿論、毒入りでないヤツを)。ジャクリーヌ・ササール主演の映画『芽ばえ』が引用されていることから時代は明らかですが(日本公開は1958年)、こんな時代に、田園調布に4階建てのお屋敷を構え、専任のコック、執事、メイドたちがいて、2階が会議室と食堂、3階が客室、遊技室、図書室、独身の若社長が書斎付きの4階で暮らしているなんて、夢のようです。『ちびまる子ちゃん』の花輪くんの家です。しかるに、後半に登場する工場の守衛の老人の自宅、これが私らには相応しいのです。
  • 「人みな眠りて」(カート・ヴォネガット著、大森望訳、河出文庫)
    初期作品のお蔵だしのような短編集ですからSFネタは少ないのです。冷蔵庫型の女性ロボットを連れて、セールス巡業する天才科学者が主人公の「ジェニー」、罹患者に自殺衝動を引き起こす感染症を描く「エピゾアティック」が辛うじてSFの味付けです。「ミスターZ」は、犯罪学の講座を履修する神学生(牧師の卵)と服役中の娼婦とのラブロマンスです。伝説で「聖なる娼婦」にされてしまったマグダラのマリア以来、よくあるパターンのカップルですが、思わずホロリとさせる予想外のオチを用意するのがヴォネガット流です。「金がものを言う」も、欲しくも無い巨万の遺産を相続した娘と借金に悩む男とのラブロマンス。両作に共通するのは、男が柔弱な態度では真心は伝わらないという教訓です。「ガール・プール」や「ルース」は女性同士の、「賢臓(kiddley)のない男」(「腎臓/kiddney」ではない)や「ペテン師たち」は男性同士の確執と共感を描いていて、後々じわぁ〜と胸に染みます。表題作は、ディケンズの「クリスマス・キャロル」と同じく、クリスマス嫌いで性悪な男が、本物のクリスマスを現出させます。
  • 「ゴールデンカムイ」第15巻(野田サトル作、集英社)
    「ヤングジャンプ」は週刊だけにコミックス新刊が出るのも速い。アシリパの行方を追って樺太に渡航した杉元たちの活躍が描かれます。クズリにスチェンカ、バーニャ、トド狩りと当地の自然や風俗がしっかり描かれていて、本作の美点が出揃っています。第149話「いご草」では、以前は背景人物の一人に過ぎなかった月島軍曹の過去、鶴見中尉との因縁も描かれます。恐らく、最初からキャラ設定があったのではなくて、舞台を樺太に移動させる段階で、月島にロシア語通訳の技能を振り、その結果「いご草」の物語が生まれたのでしょう。要するに、後からキャラ内容を膨らませたはずです。登場キャラが増えると、その分サブストーリーが派生して、作品そのものが重厚さを帯びる結果となるのです。第120話「奇襲の音」〜第121話「暗中」の屈斜路湖温泉の時と同じく、男性陣の集団入浴の場面が多く、往年の雑誌「SABU」のグラビアみたいです。これは、作者の性的指向なのか、読者へのファンサービスなのでしょうか。
  • 「牧野富太郎/なぜ花は匂うのか」(牧野富太郎著、平凡社)
    小学校の図書室には、牧野の植物図鑑が何冊か並んでいました。今思えば(子ども向けではない)結構な専門書だったと思います。しかし、私たち男子は動物図鑑や昆虫図鑑に夢中で、好んで頁を開いてみたいとは思いませんでした。それでも時折り、目当ての図鑑が他の子たちの手に渡ってしまっている時に、暇潰しに止む無く植物図鑑を開いてみて、その鮮やかな写生に目を奪われたことがあります。植物の美しさが余す所無く表現されていました。牧野自身が「私は植物の愛人として、この世に生まれてきたように感じます」と告白している通り、それは彼の激しい植物愛、愛情の為せる業だったのです。「人間は植物を神様だと尊崇し礼拝し、それに感謝の真心を捧ぐべきである」。植物教の信徒、いや使徒なのです。私たちが食べているバナナは「実」ではなく「皮」であること、イチゴも「茎の末端」、蜜柑もまた「毛」であること、これは子どもに教えてやらねば。私の生まれ故郷の町花は野路菊ですが、命名は牧野だったのですね。
  • 「完全犯罪/加田伶太郎全集」(福永武彦著、創元推理文庫)
    『草の花』『死の島』等で高名な「純文学」作家、福永が加田のペンネーム(しかも、アナグラム)で発表した正統派探偵小説の連作集です。古典文学の研究者、伊丹英典(これまた「名探偵」のアナグラム)が毎回舞い込んで来る謎の事件を解いていきます。これらの連作が書かれたのは「大学助教授」という肩書きが未だ確かな地位と、時間的余裕を保証してくれていた1950〜60年代初め。「ディレッタント」が気取れないと、探偵遊戯(趣味としての推理と事件解決)等は成立しませんからね。昨今の大学教員は勿論、最近では大学生ですらリアリティがありません。「解説」の法月綸太郎が「「温室殺人」の封建的な犯人像は、横溝作品を念頭に置いていたかも知れない」と指摘していますが、強い意志と高い知性を併せ持ったキャラクターにハッとさせられた私としては、目に見えぬ因果や因縁に操られる(が故の悲哀もある)横溝の犯人像とは異なると思います。むしろ「ディクスン・カーや横溝正史調のおどろおどろしい演出」が垣間見えるのは、大学院生が伊豆半島で消息を断つ「失踪事件」、催眠術や古い西洋屋敷に「落人池」等という舞台装置の「眠りの誘惑」でしょう。とにかく挑戦と実験精神に溢れる粒揃いの短編集。巻末に収録されている、福永が都築道夫、結城昌治と囲む鼎談も凄い内容です。
posted by 行人坂教会 at 16:54 | 牧師の書斎から

2018年08月14日

旭日亭菜単(続き)その47

  • 「真景累ヶ淵」(三遊亭円朝作、角川ソフィア文庫)
    「真景」は「強迫神経症」の「神経」です。文明開化の明治の世にと言うので、幽霊が出るのは「神経」のせいと嘯きつつ怪談が語られます。坪内逍遥が二葉亭四迷に「言文一致をやるんなら、三遊亭をお読みよ」と勧めたとか。親の因果が子に祟る「因果物」の代表作ですが、怪談の趣きは前半だけ。後半は仇討ち物語に変わってしまいます。けれども、意外に面白かったりします。仏教的因縁の色彩はあるものの、深見新吉とお賤のカップルはボニー&クライドのような凄惨なアウトローぶり、仇討ち物語の敵役、安田一角、山倉富五郎の卑怯者ぶりのキャラも際立っていて、これは立派なピカレスクロマンです。江戸時代の無残絵「英明二十八衆句」を思い出させます。勧善懲悪の説話類型の流れを汲んでいるものの、大長編の物語を動かして行くために、結果的に彼らの極悪非道ぶりが強調されることになったのでしょう。新吉と賤にとって唯一の救済は懺悔の果ての自死しかありません。一角や富五郎、土手の甚蔵などに至っては惨めに殺されるばかりで、凡そ仏の慈悲も及びそうにはありません。この辺りの無慈悲さ(仏の復讐か?)が悪人どもの悪行の凄惨さと通底しているようにも思われます。
  • 「絶対に出る 世界の幽霊屋敷」(ロバート・グレンビル著、片山美佳子訳、日経ナショナル・ジオグラフィック社)
    屋敷のみならず、幽霊の出るという城郭、墓地、ホテル、工場、病院、教会などの美しい写真集です。但し、欧米が圧倒的に多く、アジア、アフリカ、中南米はほんの申し訳程度です。キングの『シャイニング』のモデルになった米国コロラド州のスタンリーホテル、カリフォルニア州のウィンチェスター・ミステリー・ハウス、メキシコの人形島、ルーマニアのブラン城など、説明不要の名所も多々あります。私が個人的に気に入ったのが、米国コネチカット州のイーストン・バプテスト教会です。かつて私が赴任した教会と建物がそっくりで、懐かしかったです。カラー写真の幾つかは露光させたりして、不気味な雰囲気を出そうと演出していますが、やはり、モノクロ写真には、夢幻の世界に連れて行かれそうな、独特の迫力があります。
  • 「ミスト/短編傑作集」(スティーヴン・キング著、矢野浩三郎他訳、文春文庫)
    冒頭の「ほら、虎がいる」に続けて「ジョウント」を入れたことから、日本語版編集者の遊び心が分かります。「ジョウント」とは、アルフレッド・ベスターの古典的SF小説『虎よ、虎よ!』で描かれたテレポーテーション能力のことだからです。その「ジョウント」は、幕切れの数行のためにだけ存在するホラー小説です。そして、有名な「霧」です。怪談の語り手であるキングにとって、オチの付け方が重要です。「ジョウント」がその好例です。フランク・ダラボン監督の映画版のオチを、キング自らが絶賛したという事実からも分かります。しかし、これは映画ではなく小説ですから、どこまでも閉塞感が深まり、結局それは拡がり続けるばかりという、プロセスの恐怖に主軸が置かれています。ところで、人々を狂信へと誘うミセス・カーモディは「ヨハネの黙示録」風の聖句を叫びますが、デヴィッド自身も、嵐の夜に巨大な神が歩く夢を見て不安を感じています。その心象表現にもキリスト教が色濃く出ています。「カトリック教会の助祭のパーティーでポルノ映画を上映していると告白しているような口調」「ニューイングランドの清教主義の狂気の遺物」「キリストにすら、わずか12人しか後に従う者はいなかった!」「昔の信仰復興のための天幕集会の信者」等という言い回しです。弁護士ノートンに率いられる「不信者」、カーモディに操られる「信者」、この両者の間に立って闘うことこそが、恐怖の現実に向き合う唯一の道なのです。
  • 「プリニウス」第7巻(ヤマザキマリ+とり・みき作、新潮社)
    有名な紀元64年の「ローマ大火」です。本書では、皇帝ネロの仕業ではないということに成っています。悪女の汚名を着せられることの多いポッパエアも、必死に真犯人を追究していて、読者の同情を誘います。作者たちとしては、皇帝ネロは「出来の悪いハドリアヌス」(後書き)の悲劇みたいな纏め方をするのでしょうか。今のところ、近衛師団の司令官ティゲリウスとユダヤの豪商レヴィテあたりの陰謀のようですが、果たして作者たちの推理や如何に。そう言えば『サテュリコン』のペトロニウスが出て来ませんね。ともかく、ローマの描写が派手なので、主役のプリニウス一行のピラミッド調査は些か地味な印象になってしまいました。
  • 「神紋総覧」(丹羽基二著、講談社学術文庫)
    家紋は家の紋章、神紋は神社の紋章。即ち神の権威や天皇、幕府の権威などにあやかって神紋を家紋にしたり、人を神として祀り上げる場合には、そのまま家紋を神紋にする神社もあったりします。神紋にも流行があり、異教や異国文化からの影響もあるのだとか。仏具から来た輪宝紋とか、サンスクリットの「mani/摩尼」に由来する宝珠紋とか、そもそも「お稲荷さん」も外来神であった可能性もあります。それにしても魂消たのは、ユダヤ教やキリスト教との関連も示唆されていたことです。例えば「兵庫県赤穂市の大避(おおさけ)神社は矢車紋を用いている。この神社は秦氏の祖神、大避神を祭るが、外来神で、八本矢車紋は…一説にはユダヤの神ダビデのシンボルマークをアレンジしたものともいう(大避神はユダヤ神)」等と書いてあります。ダビデは「ユダヤの神」ではないよと思いつつも、愉快な気分です。そう言えば『変身忍者嵐』の敵は「血車党」と「西洋妖怪軍団」だったしな(笑)。八坂神社でお馴染みの祇園守紋のX印、これも「池田氏、立花氏等はキリスト教に改宗したため、十字にことよせたことは事実である」と書いてありました。私の故郷の養父(やぶ)神社も採り上げられていて、その神紋、四つ木瓜(もっこう)が、地方豪族の日下部氏に由来することも分かりました。高校時代の同級生に日下部クンいたな。私らは、あれの配下だったのね。
posted by 行人坂教会 at 22:56 | 牧師の書斎から