2021年08月05日

旭日亭菜単(続き)その66

  • 「文豪怪奇コレクション/猟奇と妖美の江戸川乱歩」(東雅夫編、双葉文庫)
    ドラキュラ映画ばかり観ていた小学生の私を心配して、「少しは読書も…」との親心から、母がプレゼントしてくれたのが、江戸川乱歩の「吸血鬼」でした(笑)。母は児童小説と誤解したのでしょう(明智探偵も小林少年も登場するのですが、ドロドロの三角関係です)。「陰獣」や「孤島の鬼」ではなかったのが、せめてもの救いです。さて、本書は「鏡地獄」「押絵と旅する男」「白昼夢」「人間椅子」「人でなしの恋」「芋虫」…と、言わずと知れた名編をセレクト。夏休みの読書感想文に最適です。東京大空襲の惨禍の中に滅びの美を見てしまう青年(かなりの近眼)が登場する「防空壕」、『姦婦の生き埋葬』ならぬ「寝取られ夫の生き埋葬」を描いた「お勢登場」が今回最大の収穫でした。「芋虫」と同じくマゾヒズムの極致です。
  • 「プリニウス」第11巻(ヤマザキマリ+とり・みき作、新潮社)
    ヤマザキの趣味なのでしょうか、少年時代のプリニウスが可愛い。コモ湖の近くの町(コムム)で、大自然に触れ合って成長したんですね。子ども時代に、どれだけ自然物に触れたかで、人間が決まると、私は今も固く信じています。青年時代のプリは騎兵隊長として、ゲルマニアで戦役に就きますが、この戦闘場面は『グラディエーター』を参考にしています。でも、マンガとして精密に描くのは大変だったと思います。
  • 「異形のものたち/絵画のなかの「怪」を読む」(中野京子著、NHK出版新書)
    「怖い絵」シリーズ(角川文庫)で知られる著者の本です。疲れた時の気分転換用にピッタリです。表紙にも成っているジョヴァンニ・セガンティーニの「悪しき母たち」が魅力的です。見渡す限りの雪原から、ポツンと生えた枯れ木に、蓑虫のように捕らえられ、赤子に乳を吸われて悶絶する裸婦の絵です。何でも「堕胎の罪」を犯した女たちが送られる一種の煉獄なのだそうですが、黄昏の空も美しく、応接間に飾りたい一枚です。オディロン・ルドンの「キュクロプス」は、山の向こうから一つ目巨人ポリュペモスがニュッと頭を覗かせている構図、これこそは『ゴジラ』の最初の登場シーンに間違いありません。つまり、河内桃子はガラテア、平田昭彦(芹沢博士)はアキスなのですね。
  • 「消えた心臓/マグヌス伯爵」(モンタギュー・ローズ・ジェイムズ著、南條竹則訳、光文社古典新訳文庫)
    マッケンに続いてM・R・ジェイムズ。どちらも牧師の息子です。日常と異次元とが交差する一瞬を描くマッケンの難解な作風に比べると、こちらは、クリスマスの夜更けに同僚や学生に披露する怪談として書き溜めたものですから、とても読み易いです(訳文も半世紀近い隔世があります)。巻末の「トマス修道院長の宝」が面白いです。昔の修道院長は呪術の使い手でもあったのです。「秦皮(とねりこ)の木」には蜘蛛、「マグヌス伯爵」には蛸の魔物が出て来ます。これまた、後のラブクラフトやギーガーに連なる系譜です。著者の後書きが傑作です。「多くの平凡なものが報復の手段となり得るし、報復が必要でない場合は、悪意をかなえる手段となり得る。家までの私道で拾った包みは、注意して扱いなさい」。
  • 「恐怖/アーサー・マッケン傑作選」(アーサー・マッケン著、平井呈一訳、創元推理文庫)
    やはり「パンの大神」は名作です。圧倒されました。古典発掘フェアなのか、最近、ペンギンから安いPBが出ているので買おうかと迷いましたが、平井翁の名訳を読むと、諦めて良かったと納得せざるを得ません。脳にメスを入れて神経中枢を刺激することで、異次元の世界が見えてしまう、そんな生体実験を、傲慢な医師が無垢な少女に施すのですが、これって、ラブクラフトの先駆ですよね。「内奥の光」「輝く金字塔」「赤い手」と連作に成っています。「生活の欠片」と「恐怖」は初めて読みました。後者は第一次大戦下の各地で、原因不明な怪異事件が次々と起こるのです。それ程の「恐怖」では無いのですが、読後、一瞬「地獄の釜の蓋が開いた」ような独特の錯乱を覚えます。これが本作品の醍醐味です。
  • 「ゴールデンカムイ」第26巻(野田サトル作、集英社)
    再び手を結んだ杉元と土方のチームが「入れ墨人皮」を確保しようという矢先に、鶴見中尉の第7師団が乱入、札幌麦酒工場が崩壊って、まさに網走監獄の再現です(勿論、実際には、どちらの建物も破壊されたことはありません)。キリストの「十字架の言」を嘯(うそぶ)く「切り裂きジャック」ですが、杉本が内臓を引き摺り出し、牛山が頭を踏み潰して殺します(良し!)。三つ巴の激闘の中、再びアシリパさんと杉元は引き離されます。でも、これって既視感あります。些かマンネリ気味では…。
  • 「時代劇聖地巡礼」(春日太一著、ミシマ社)
    著者は『時代劇は死なず!』(河出文庫)で知られる時代劇研究者です。映画やドラマのロケ地を撮影した、情感溢れる美しいカラー写真を見て、思わず買ってしまいました。単なるロケ地探訪のガイドブックではありません。何しろ、写真の構図一つ取っても、作品を忠実に再現しているのです。ドラマで江戸として描かれた風景が京都や滋賀であったということも、例えば『鬼平犯科帳』エンディング(♪ジプシーキングス)は仁和寺とか、初めて気付かされました。京都で学生時代を過ごした私にとっても、丑三つ時に魔法陣を描いた下賀茂神社「糺の森」、友人(住職の孫)宅のお堂に泊まって遊んだ「くろ谷金戒光明寺」は思い出深い場所です。八幡市の「流れ橋」は、早川光監督の『アギ/鬼神の怒り』の舞台として愛着があります。
posted by 行人坂教会 at 19:04 | 牧師の書斎から

2021年06月08日

旭日亭菜単(続き)その65

  • 「文豪怪奇コレクション/恐怖と哀愁の内田百閨v(内田百闥、東雅夫編、双葉文庫)
    日本画の世界には「朦朧体」という技法があります。横山大観などが刷毛を使うことで線描を明示しない没線描法のことです。初期の頃には「幽霊画」等と悪口を言う評論家もいたそうです。文学に「朦朧体」というものがあるとしたら、欧米ならヘンリー・ジェームズ、我が国なら(泉鏡花は別格として)内田百閧謔濶Eに出る者は居らんでしょう。「遊就館」「由比駅」等は、他のアンソロジーで読んだと思いますが、何しろ「朦朧体」なので、私の記憶も定かではありません。鈴木清順監督の『ツィゴイネルワイゼン』の原作に成った「サラサーテの盤」は、やはり怖いです。日常の暮らしの中に、何やら妙なもの(怪)が紛れ込んでいるのです。『昇天』では、クリスチャンの院長が入院患者たちに向かって、礼拝説教をしている場面がありますが、その中で語られているのは、岡山孤児院を設立した石井十次のエピソードです。
  • 「原野(ムーア)の館」(ダフネ・デュ・モーリア著、務台夏子訳、創元推理文庫)
    ヒッチコック監督の『岩窟の野獣』の原作ということで買いました。読み始めは長編だし「ダルイなあ」と思うのですが、ヒロインが叔母の住む「ジャマイカ・イン」(これが原題)に身を寄せた辺りから、奇怪な雰囲気が漂い始めて、グワッと引き込まれます。「イン」とは英国の宿屋と酒場を兼ねた建物のことですが、開かずの間があったり、旅人も泊まらず村人も立ち寄らず、周辺住民から嫌悪される場所でありながら、突然にある真夜中に、大勢の男どもの饗宴が行われたり…。幽霊屋敷物に近い感覚です。ヒロインにとって、誰が味方なのか敵なのか、読者を迷わす、如何にも奇怪な登場人物たち。気丈なメアリーを心配しながら読み進むことが出来ます。
  • 「ウマ娘/シンデレラグレイ」第1〜2巻(久住太陽作画、杉浦理史脚本、伊藤隼之介企画、集英社)
    小学生の時「イカ娘」のファンだった長男が、今は「ウマ娘」にハマっているらしい。急に競馬に興味を持ったようで、メジロマックイーン、トウカイテイオー、シンボリルドルフ、ナリタブライアン等、往年の名馬の名前を連呼。どうやら、育成シュミレーションゲームらしい。と思ったら、「これ読んで!」とテーブルに置いたコミックでした。ヒロインはオグリキャップ。「どうして馬が美少女キャラなんだよ」と思いながらも、読んでいくと結構、入ってしまいました。これが「萌え」というものか。『艦これ』『あくしず』とか「萌え擬人化」多いな。そう言や『けものフレンズ』もそうだった。
  • 「ほんとうのリーダーのみつけかた」(梨木香歩著、岩波書店)
    吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』の問い掛けを、現代日本に生きる者として、改めて受け止め直した作品が『僕は、そして僕たちはどう生きるか』だった訳ですが、そこから生まれたトークセッションが「「どう生きるか」をどう生きるか」です。それがこの本の大半を占めています。著者が現代日本に対して抱く危機感は半端無いと思います。ただ、戦前回帰とか全体主義復活の兆しとか、そういう平板な語彙では到底、表現することの出来ない危うさを、著者は感じ取って警鐘を鳴らしているのです。その摑みが「ヘレン・ケラーのナプキン」だったり「ジョコビッチと錦織のテニス試合」の報道だったりします。ご安心ください。我が家の二男も『君たちは…』を自分のお小遣いで買って読んでいましたから(但し、マンガ版だったけど)。
  • 「ケン・リュウ短篇傑作集6/神々は繋がれてはいない」(ケン・リュウ著、古沢嘉通他訳、ハヤカワ文庫)
    表題作は「神々は殺されはしない」「神々は犬死はしない」と併せて三部の連作と成っています。その上、ヒロインのマディの父親は、恐らく「短篇集5」の「数えられるもの」のデイヴィッドの成長した姿なのでしょう。勿論、巻頭の「カルタゴの薔薇」とも繋がっています(「ロゴリズム社」とか)。意識だけの存在と成って、ネットワークの中で生きている人々が登場します。押井守の『攻殻機動隊/GHOST IN THE SHELL』や『イノセンス』がどれだけ時代に先んじていたか分かります。連作では、そんな「神々」の戦いも描かれていて、世界を滅ぼそうとするチャンダという悪役も登場します(私は、どうしてもインド人演歌歌手のチャダを思い浮かべてしまいました)。これは「マーヴェル」っぽい。もう1つの著者の得意分野「中国幻想譚」の「隠娘」が武侠劇として抜群に面白かったです。同じ素材を使って、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督が、スーチー(舒淇)や妻夫木聡の出てる『黒衣の刺客』を作っているのですね。
  • 「ケン・リュウ短篇傑作集5/生まれ変わり」(ケン・リュウ著、古沢嘉通他訳、ハヤカワ文庫)
    アンチエイジング(抗老化医学)、脳のデジタル化や意識のアップロード等、ケン・リュウのテーマは「不死」「永遠の生命」です。彼は中国人だから徐福(スーフー)以来の伝統と言えないこともありません。但し、以前の作品群に比べると、徐々にではありますが、物語を下支えして来た、特有の瑞々しさを失いつつあるように思います。具体的に言うと、失われ行くものに寄せる悲しみ(彼の著作のタイトル通り「もののあはれ」)、愛する人を失う痛みが感じられなく成っているのです。感情主義からの脱却を図っていることを伺わせます。中国系ユダヤ人がヒロインの「化学調味料ゴーレム」、靴製造工場で働くヴェトナム人がヒロインの「ランニング・シューズ」(葉山嘉樹の「セメント樽の中の手紙」を髣髴とさせる)等、彼が女性たちの感性に未来を託そうとしているのが伝わって来ます。
posted by 行人坂教会 at 16:39 | 牧師の書斎から

2021年04月17日

旭日亭菜単(続き)その64

  • 「シオンズ・フィクション/イスラエルSF傑作選」(中村融他訳、竹書房文庫)
    こんな奇特な企画が通ったのも、中国SFのアンソロジー『折りたたみ北京』(その内に読みます)が売れたせいでしょう。『第四惑星の反乱』や『生きていた火星人』のシルヴァーバーグが「まえがき」を書いていますが、ヘブライ聖書(旧約)がSFイメージの宝庫であり「語り(騙り)/ナラティヴ」の最高峰であることを改めて証してくれています。この本、女性作家の作品が数多く採り上げられていることにも共感が持てます。エレナ・ゴメルの「エルサレムの死神」が私の推しです。リーブレヒトの「夜の似合う場所」も「アポカリプス物」に新しい地平を拓いています。ガイ・ハソンの「完璧な娘」には、シャーリー・ジャクソンとマーベルの「X-メン」をブレンドした匂いがあります。ヤエル・フルマンの「男の夢」は、主人公が自分の意志とは無関係に、夢に見た女性を自分の隣に有無を言わさず転送させてしまう特殊能力(病気)を持っていて、遣る瀬無い悲劇としか言いようがありません。
  • 「ゴールデンカムイ」第25巻(野田サトル作、集英社)
    北海道時代、新千歳空港に友人を迎えに行くと、道道16号線を通って支笏湖に出たものです。「支笏湖公園線」とか「支笏湖スカイロード」と言われます。冬季には『アナ雪』の世界「霧氷ロード」と化すことがあります。第241話「消えたカムイ」〜第242話「交互に」に北海道式の凄まじい森林伐採が出て来ますが、ある日、16号線を走っていて、片側の森林が丸裸に成っているのを見て驚愕したことを思い出しました。切り裂きジャックと顔面刺青男(元ネタはイーライ・ロス監督の『ホーンテッド』か)、二人の犯罪者の刺青人皮を求めて「札幌に終結する全勢力」って、「網走監獄クライマックス」の再現でしょうか。
  • 「世界最終戦争の夢」(H・G・ウェルズ著、阿部知二訳、創元SF文庫)
    往年のパニック映画『巨大蟻の帝国』(バート・I・ゴードン監督)では、核廃棄物の影響でアフリカゾウくらいに巨大化した蟻の軍団が人間を襲います。まあ、ゴミ映画の1本ですが、その原作とされているのが、巻頭の「アリの帝国」です。勿論、上記の映画とは似ても似つかぬ深い内容です。むしろ、小説で言えばコンラッドの「闇の奥」、映画ならソール・バス監督の『フェイズW/戦慄!昆虫パニック』に近い。外来種による生態系の崩壊、ウイルス感染のパンデミックを予感させる作風です。同趣向の巻末「クモの谷」も絶品です。「盲人村」はアンデス山脈の奥地に、風土病と遺伝により全住民が盲人の村があるという、昨今の『犬鳴村』『樹海村』等の「実録!恐怖の村シリーズ」元祖とも言うべき作品でした。
  • 「龍の起源」(荒川紘著、角川ソフィア文庫)
    著者は東洋の龍と西洋のドラゴンの起源を遡り、そこに古代から現代まで人間の魂に宿る宇宙観(コスモロジー)を再構築して行きます。日本の民俗学者が陥りがちな狭隘さ、海外の神話に対する知識不足などは全くありません。「創世記」や「ヨハネの黙示録」等も文献として取り上げていますが、神話学や古典文献学のみならず、聖書学にも目配せが行き届いています。それ故、メソポタミア神話やインド神話、仏教説話や日本の記紀神話などの解説も、心安らかに受け容れる事が出来ました。世界各地の土器や壺に残る「渦巻文」は、以前から気に成っていたのですが、漸く腑に落ちた心地です。素人にも読み易い文章で、胸を躍らせながら読み進むことが出来ます。そして結論部分では、農業や科学技術の抱える根源的な問題にまで踏み込み、文明批判が展開されます。
  • 「19世紀イタリア怪奇幻想短篇集」(橋本勝雄編訳、光文社古典新訳文庫)
    恐らく、幻想小説の見直しと再評価は世界的な潮流なのでしょう。タルケッティの「木苺の中の魂」は、怪奇短篇としての美点を全て兼ね備えた作品です。カミッロ・ボイトの「クリスマスの夜」は、若くして病死した美しい姉の面影に取り憑かれた青年の物語です。読んでいる間、シチリア島のカプチン修道会納骨堂に安置されているロザリア(世界一美しい少女のミイラ)を思い出していました。因みに、前者はエットーレ・スコーラ監督の映画『パッション・ダモーレ』の原作者、後者はルキノ・ヴィスコンティ監督の映画『夏の嵐』の原作者です。そう言えば、アッリーゴ・ボイトの「黒のビショップ」の場合も、ジッロ・ポンテコルヴォ監督の『ケマダの戦い』を連想しました。カトリックの司祭が体験した怪異譚、レミージョ・ゼーナの「死者の告解」、神聖冒瀆語満載の艶笑譚、インブリアーニの「三匹のカタツムリ」は対極に位置しながら、いずれもイタリアのお国柄を感じさせるものでした。
posted by 行人坂教会 at 21:41 | 牧師の書斎から

2021年02月13日

旭日亭菜単(続き)その63

  • 「文豪怪奇コレクション/幻想と怪奇の夏目漱石」(夏目漱石著、東雅夫編、双葉文庫)
    編者の名前に惹かれて買いました。それでも「夢十夜」が入ってしまうのは致し方がありませんね。初めて読んだ物の中では「趣味の遺伝」が抜群でした。日露戦争で戦死した友人の墓参りをした折に、彼の墓前に見知らぬ美女を認めて、その謎と色香に取り憑かれてしまう話ですが、漱石が日露戦争に対して抱いていた単純ならざる心境も吐露されていて、明治の知識人の呻きが感じられます。石川啄木の歌「地図の上朝鮮國にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く」が思い出されました。ロンドン留学時代、霧深きロンドン搭で体験する幻覚の数々(「倫敦搭」)、西洋騎士物語を装いつつ、どこか「聊斎志異」を思わせる幻想譚(「幻影の盾」や「薤露行」)、楽しみました。巻頭に新体詩、巻末に俳句を置いた編者のセンスにも脱帽します。「あんかうや孕み女の釣るし斬り」を読むと、いつも月岡芳年の無惨絵「稲田九蔵新助」(「英名二十八衆句」)が脳裏に浮かんで参ります。
  • 「図書室の怪/四編の奇怪な物語」(マイケル・ドズワース・クック著、山田順子訳、創元推理文庫)
    表題作はゴシックホラーの粉を塗した推理小説ですが、とても楽しめた読書でした。宗教学の世界では常識ですが、古い聖地の上に新しい聖所が建てられるのです。それはキリスト教会の場合も日本の寺社仏閣の場合も同じです。集落や町の成り立ちも同じです。何層にも折り重なっているのです。同じようなことが古い屋敷にも言えるかも知れません。この小説に描かれるアシュコーム・アビーの屋敷(abbeyの名の通り、元々は修道院の建物)に限りません。私たちもまた「堆積した過去」(メルロー=ポンティなら、そう言うかも)の上に暮らしているのです。併録の「グリーンマン」「ゴルゴタの丘」も、英国ホラーの好きな人なら、絶対に気に入るはずです。
  • 「炉辺の風おと」(梨木香歩著、毎日新聞出版)
    八ヶ岳の別荘(著者は「山小屋」と表現したがる)での暮らしを中心に綴られるエッセイですが、植物と鳥と菌類についての薀蓄は元より、著者のこれまで行った土地土地、出会った人たちの記憶が縦横無尽に飛び出して来ます。斯くして、遂に辿り着いた、著者の居場所が「八ヶ岳の山小屋の炉辺」だったのですね。「ただ、願うことしか。まるで無力のようでいて、しかしそれも大切な仕事のように思う。願わなければとんでもない方向に行くような気もする。祈りの時間に似ている」。著者だけではなく、もっと多くの人たちが、このような言葉を紡ぐことの出来る場所を、あちらこちらに作る必要があると思います。
  • 「風と双眼鏡、膝掛け毛布」(梨木香歩著、筑摩書房)
    最近、NHKの「日本人のおなまえっ!」も地名由来の方向に舵を切っています。明治以前に名字帯刀が許されていた家なんて、人口の数%もいなかった訳でしょう。今更、人様の家柄自慢なんか聞かされても誰も楽しくありませんしね。作者は鹿児島県の出身で、京都、大津、芦屋、東京などを転居していますが、大津以外は、都市を採り上げていません。どうやら、地方の小さな地名(字名)に物語の入口を探しているようです。採り上げられている中では、札幌近郊の「銭函」と「星置」の地名には、私にも強い愛着があります。夫婦喧嘩をして家出した時に、当ても無く彷徨った場所なのです。地名への愛着は、その土地を歩いた時間の長さと関係があるのかも知れません。
  • 「ゴールデン・カムイ」第24巻(野田サトル作、集英社)
    歌志内で子どもに聞き込みをする白石が、側溝から顔だけ覗かしているのは、『イット』のペニー・ワイズのパロディですね。杉本一行が乗る石狩川蒸気船に、クリント・イーストウッド顔の郵便配達人(これって『運び屋』でしょ)が同乗していたり、札幌のヤクザの親分が若山富三郎まんまだったり、面白くもない小ネタが連発される時があります。玉石混淆に我慢して読み進むしかありません。それにしても「切り裂きジャック」の背景には、札幌教会の建物が執拗に出て来るのですが、教会の人、複雑な気分でしょうね。
posted by 行人坂教会 at 19:53 | 牧師の書斎から

2020年12月10日

旭日亭菜単 (続き)その62

  • 「悲しみの秘儀」(若松英輔著、文春文庫)
    私にとって、この詩人の書く文章は魂に直接響いて来るので、東日本大震災の頃から読むようにしています。でも、この本を買ったのは、その日たまたま「世界秘儀秘教事典」を買ったからです。手に取ってみたら、付録のように家まで付いて来たのでした。「誰かを愛しむことは、いつも悲しみを育むことになる。なぜなら、そう思う相手を喪うことが、たえがたいほどの悲痛の経験になるからだ」。「愛する気持ちを胸に宿したとき、私たちが手にしているのは悲しみの種子である。その種には日々、情愛という水が注がれ、ついに美しい花が咲く」。著者が井上洋治神父を「師」と思っているとの告白に、色々な符号を感じたのでした。
  • 「世界怪奇実話集/屍衣の花嫁」(平井呈一編訳、創元推理文庫)
    どうも私は正編と続編を逆順に読む癖があります。無意識ながら「反魂法憑霊呪術」みたいで良くありませんね。幽霊屋敷の本場、英国の実話集から始まります。やはり、記録者として司教とか牧師などの関係者が目に付きます。「エプワースの牧師館」に至っては、メソディスト派の開祖ジョン・ウェスレーの父サムエルの居宅です。シェイクスピアが「マクベス」を書いたスコットランドの古城なんて、そりゃあ何か出ないはずが無い。後半の「石切場の怪物」「呪われたルドルフ」「屍衣の花嫁」「夜汽車の女」「浮標(ブイ)」等に至っては、もう小説並みの展開に成っています。巻末には、有名な「ベル・ウィッチ事件」(19世紀米国を代表するポルターガイスト騒動)の報告と分析が掲載されています。
  • 「日本怪奇実話集/亡者会」(東雅夫編、創元推理文庫)
    所謂「実話」は第一部だけで、第二部は平井呈一翁ゆかりの人たちの作品が収録されています。小泉八雲の紀行文(「日本海に沿うて」)に続けて、息子の小泉一雄(「海へ」)、孫の小泉時(「荏原中延のころ」)、曾孫の民俗学者・小泉凡(「如意輪観音の呪い」)と掲載している辺りが、このアンソロジーの真骨頂です。特に時と凡の文に出て来る身近な地名には興奮しました。身近さも実話怪談の大切な要素です。佐藤春夫が「化物屋敷」で描いた渋谷道玄坂上の事件を、共に体験をした弟子の稲垣足穂が書いた「黒猫と女の子」、同じ詩に別人が異なる曲を付けたみたいで、大いに楽しめました。そして第三部、長田幹彦のルポルタージュ小説「心霊術」には、私の故郷、但馬は豊岡出身の霊媒、益田小妙が登場します。モデルがあるのでしょうか。
  • 「オルラ/オリーヴ園」(ギイ・ド・モーパッサン著、太田浩一訳、光文社古典新訳文庫)
    モーパッサンの幻想文学「オルラ」を読みたくて買いました。確かに凄まじい作品です。恐らく昔は、日記文学形式で語り手が少しずつ常軌を逸して行くプロセスが評価されたと思いますが、現代なら十分にSFサスペンスとして読むことが出来ます。宇宙生命体「オルラ」が、最初は悪夢を通して入り込み、徐々に語り手の生活を侵食して行くのです。もう1つの表題作「オリーヴ園」も素晴らしい。「ゲツセマネの祈り」を背景に、今や老境に至った神父に過去が意趣返しをします。船乗りと売春婦の一夜の出会いを描いた「港」、父の死後に息子が父の愛人と交流する「オトー父子」、黒人娘と結婚しようとする「ポワテル」、いずれも人肌の温かさを感じさせる名編です。
  • 「東欧怪談集」(沼野充義編、河出文庫)
    東欧文学には、怪談というジャンルにおいて未知の領域が広がっています。それでも、フランス怪談に近いのは、グランビンスキの「シャモタ氏の恋人」です。要するに「死霊の恋」なのですが、甘美さと苦さの塩梅が絶妙です。母親が尼僧の産んだ私生児だったという凄い出自のミハエスクの「夢」もまた、ロシア革命の動乱で生き別れになった妻を思慕し続ける男の幻想譚です。少し、ディートリッヒの「嘆きの天使」みたいな雰囲気も漂っていて、実に遣る瀬無い幕切れです。私の一番推しは、不思議な画家が登場する、ヤン・ネルダの「吸血鬼」です。ルヴォヴィツの「不吉なマドンナ」も同じく画家ネタです。自らが産んだ幼子を殺した女をモデルにして描いた聖母像を飾った教会が荒廃して行きます。ペレツの「ゴーレム伝説」やバシヴィス(「ルブリンの魔術師」の作者)の「バビロンの男」等は、東欧ユダヤ幻想文学の代表作と言って良いでしょう。
posted by 行人坂教会 at 23:36 | 牧師の書斎から

2020年10月16日

旭日亭菜単(続き)その61

  • 「生きるよすがとしての神話」(ジョーゼフ・キャンベル著、飛田茂雄・古川奈々子・武舎るみ訳、角川ソフィア文庫)
    カウンターカルチャー華やかなりし1970年代の講演を集めたものです。これは米国というお国柄故かと思われますが、頑迷な聖書主義や形骸化した既成のキリスト教会に対する批判が垣間見られます。ごく真っ当な意見です。他方、近代的な聖書学の成果を踏まえつつ、神話学の立場からユニークな援用をすることも怠りません(新約外典「トマスによる福音書」を重視しています)。もしも著者ならば、数多のカルトが跳梁跋扈し、世界中で宗教者が異教徒排斥と不寛容の元凶と成っている、21世紀現在の宗教を取り巻く状況を如何に分析するでしょうか。1つ気に成るのは、ユダヤ教に対する彼自身が抱く嫌悪感みたいなものが行間から滲み出ている点です(ユングにも共通する匂いがあります)。それでも、第8章の「愛の神話」は大変に勉強に成りました。トルヴァドール(吟遊詩人)から説き起こして「天国から閉め出されても地獄で是認される」「たとえ地獄に堕ちても、愛する者たちにとっては幸せ」と論ずる辺り、とても感動的です。
  • 「拝む女」(高橋葉介作、角川書店)
    怪談文芸専門誌「幽」に連載されていた作品を集めたものです。忘れもしません、1980年に「マンガ少年」(朝日ソノラマ)の「ヨウスケの奇妙な世界」と出会った私にとって、ここに登場する妖怪や死霊たち(主として女性)は、恥ずかしながら、初恋の女性との再会みたいなもんです。連載誌が成人読者を対象としているため、エロとグロの合体したラブクラフト的世界が展開されます。葉介と言えば「面相筆」(写経に使う)なのですが、「蛇女の絵」「森を駆ける」等はクロッキー画のようで、実に新鮮でした。
  • 「ゴールデンカムイ」第22〜23巻(野田サトル作、集英社)
    鶴見中尉以下第七師団からの杉元・アシリパ一行の逃走劇です。椅子取りゲームのように各グループのメンバーが入れ替わります。第225話「貧民窟」の扉絵は「札幌美以(メソジスト)教会」、現在の日本基督教団札幌教会の会堂(札幌軟石を使った石造り、有形文化財)です。よく北海教区や札幌地区の集会に会場提供をして頂いたもんです。大東流合気柔術の武田惣角(合気道の創始者、植芝盛平の師匠)が鶴見中尉の武術の師匠として登場します。明治後半、武田は北海道を中心に活動していたので、今後も登場する予感がします。その武田相手に「兵士の攻撃性を真に発揮させるのは愛だ」と主張する鶴見のカルトぶり、それに対して、谷垣とインカラマッを救うために自らの命を投げ出す家永、更には、追っ手の鯉登少尉と月島軍曹がお産を手伝う展開(ジョン・フォードの「三人の名付親」でしょう)を対峙させる作話術、スタッフの並々ならぬ力量を感じます。
  • 「プリニウス」第10〜11巻(ヤマザキマリ+とり・みき作、新潮社)
    「コロナ禍」でマンガ業界は止まっていると思い込んでいて、続刊されているのに気づきませんでした。ネロの変態性欲の犠牲になって孕まされた、女奴隷プラウティナが引き取られて、プリニウスの留守宅で働くことになったのは良かった(「因果は巡る」の温情的処置です)。従来「クォ・ワディス」等で、ネロの従順な腰巾着の役割しか与えられていなかったティゲリヌスを、ネロ失脚のキーパーソンに仕立てたのは大したものです。パルミュラに到達した一行が、後漢の商人やガンダーラの出家と異文化交流する場面が楽しい(もう既に星野宣之が「砂漠の女王」でやってるけど)。
  • 「映画と黙示録」(岡田温司著、みすず書房)
    私たちは「世界の終わり」のヴィジョンに何を求めているのでしょうか。映画に材を取ることで、その点を著者は探求しています。「黙示録」に象徴される終末観は、ユダヤ・キリスト教のオリジナルではなく、むしろゾロアスター教やミトラ教、マニ教の影響が大きいのですが、宗旨を超えて受け継がれ、今も世俗の娯楽(小説、映画、ゲーム)として命脈を保っています。こうして見ると、人間の精神にとって無くてはならぬ慰安なのでしょう。「核戦争もの」「地球滅亡もの」のサイファイのみならず、パゾリーニやベルイマン、タルコフスキー等のアート系作品、フィルム・ノワール(私も「キッスで殺せ!」は大スキ)まで目配りする著者の薀蓄に圧倒されます。是非とも補遺、続編として日本映画編を書いて頂きたい。「世界大戦争」「日本沈没」「ノストラダムスの大予言」等のカタストロフ映画、「吸血鬼ゴケミドロ」、押井守や黒沢清の諸作、「平成ガメラ」「エヴァンゲリオン」シリーズ等を、どのように著者が料理されるか、大いに期待しています。
posted by 行人坂教会 at 23:13 | 牧師の書斎から

2020年08月31日

旭日亭菜単(続き)その60

  • 「短編ミステリの二百年vol.2」(レイモンド・チャンドラー、マージェリー・アリンガム他著、小森収編、猪俣美江子他訳、創元推理文庫)
    とにかく、このシリーズ、収録作品そのものはアッと言う間に読み終えられるのですが、巻末の小森収の連載(?)評論が非常に時間を食います。但し、これを読まずに済ませられるかと問われれば、否と言う他はありません。本編の方は…と言うと、やはり、ハメットの「クッフィニャル島の略奪」がベストでしょうか。私立探偵が自らのプロ意識を吐露する場面には、宗教的召命観(Calling)すら感じさせます。それに比べると、ホイットフィールドの「ミストラル」、チャンドラーの「待っている」は、いずれも「標的」に感情移入してしまいます(そこが魅力なのですが)。グルーバーの「死のストライキ」に登場する「人間百科事典」オリヴァー・クエイド、スタウトの「探偵が多すぎる」の美食探偵ネロ・ウルフ、アリンガムの「真紅の文字」のアルバート・キャンピオン等、今回は、さながら「探偵物語」特集と言ったところです。
  • 「日本怪談集/取り憑く霊」(種村季弘編、河出文庫)
    三浦哲郎の「お菊」は、タクシー運転手が幽霊を乗せるという定番の話でありながら、どうして、こんなにも胸を打つのでしょうか。「ユタと不思議な仲間たち」と同じく現代の民話として、何等かの真実が核に成っているのでしょう。「あれが生きた人間以外のなにかだったら、自分も含めて世の中の人はみんな同類だと思いました」の言葉に震えます。藤本義一の「足」、舟橋克彦の「手」、江戸川乱歩の「人間椅子」、田中貢太郎の「籠の中の顔」と並べる辺りがアンソロジストの妙味でしょう。藤本の「足」が絶品です。幾ら変事でも死体が見付からないと「事件」が成立しないという導入からしてワクワクさせます。そして因縁譚のようなオチの付け方で「怪談」が完成するのです。森銃三の「碁盤」、柴田錬三郎の「赤い鼻緒の下駄」、吉田健一の「幽霊」等、所謂「ジェントル・ゴースト物」も忘れ難い読後感です。
  • 「日本怪談集/奇妙な場所」(種村季弘編、河出文庫)
    東雅夫のアンソロジー、作家の短編集で既読という作品も少なくないのですが、それでも夏に「怪談」は外せません。森鷗外の「鼠坂」と大岡昇平の「車坂」は、日露戦争と日中戦争、従軍記者と兵隊の違いはあれど、余りにも同工の作なので驚きました。戦時下に姑娘(クーニャン)をレイプして殺害した男の物語が宴席で語られ、翌日には、その呪いが発現します。中学の国語の教科書には「高瀬舟」等は止めて「鼠坂」を載せるべきです。笹沢左保の「老人の予言」の既視感の怖さ、吉行淳之介の「出口」の姿を現わさない存在の戦慄、半村良の「終の岩屋」には、高橋克彦の「さるの湯」、恒川光太郎の「風天孔参り」の原点だったと確信しました。
  • 「久生十蘭短篇選」(久生十蘭著、川崎賢子編、岩波文庫)
    ヨーロッパの怪奇短編の世界から、日本の作家に軸足を移そうと思ったら、丁度よい本がありました。諸作の多くが敗戦後を舞台としながら、とても貴族趣味的な十蘭です。フランス人の家庭教師とか、パリ留学とかが自然に出て来ます。「ルウレットを征服するのは…絶対の無関心」と主張する「黒い手帳」は、ドストエフスキーの短編「賭博師」の妄執(「ゼロに賭けるんだ!」)を連想しますが、実際には賭博場は出て来ません。脅迫観念の作り出した代物なのです。催眠術犯罪を描いた「予言」には、見事に読者も幻惑されてしまいます。「白雪姫」は、氷河のクレヴァスに滑落した性悪妻の遺体発見を待ち続ける夫の話。反対に「復活祭」は、米国滞在時代の母の愛人に思いを寄せ続けた女性の話で、横浜港を舞台に一夜限りの逢瀬を描いています。これもまた妄執の果て…。でも、いずれも愛すべき妄執です。
  • 「銀の仮面」(ヒュー・ウォルポール著、倉阪鬼一郎編訳、創元推理文庫)
    その特異な人間観には、ルヴェルの短編集「夜鳥」と似た、残酷で皮肉な味わいがあります。但し、ウォルポールは紳士です。ルヴェル程に露悪的描写はしません。巻頭の表題作は(千街晶之の解説は、ヴィスコンティの『家族の肖像』との類似性を言っていますが)、むしろ、安部公房の戯曲「友達」の元ネタでは無いかと思われます。善意の老婦人が困窮の美青年に情けを施したばかりに、彼の俗悪な一族によって家財も生命も奪われる話です。嫌悪して遠ざけた男の死後に、我知らず「唯一の親友だった」と嘯いてしまう「敵」、理解者である唯一の友人を、人生の邪魔者として殺してしまう「みずうみ」等、憎しみと愛情とが歪に複合して、自分でも分からなくなってしまうのが彼の真骨頂です。愛着を抱くことは、何かに取り憑かれ支配されてしまうことに等しいのです。そんな中、巻末のクリスマス物語「奇術師」が一服の清涼剤と成っています。
posted by 行人坂教会 at 23:21 | 牧師の書斎から

2020年07月17日

旭日亭菜単(続き)その59

  • 「澁澤龍彦訳 暗黒怪奇短篇集」(澁澤龍彦訳、河出文庫)
    シュペルヴィエルの「ひとさらい」とマンディアルグの「死の劇場」は再読です。今回の収穫は、ドルヴィリの「罪のなかの幸福」でしょう。父親によって最高の剣士として育てられた女オートクレールと、サヴィニイ伯爵との不倫話ですが、二人がセックスのみならずフェンシングによっても結ばれているのが肝です。私も長男の付き添いで、フェンシング道場に通っていた時期がありますので、一瞬の肉体の躍動の中に性別や道徳の境界線をも易々と超えるような、エクススタシス(忘我、痙攣)のような感覚があると思います。レオノラ・カリントンの「最初の舞踏会」では、少女の身代わりにハイエナが舞踏会デヴューします。女中の顔の皮を剥いで被ったハイエナですが、身体に染み付いた腐肉の臭いだけは如何ともし難かったのです。揺れ動く思春期の少女の思念を物語化した名作です。
  • 「アイヌ童話集」(金田一京助・荒木田家寿著、角川ソフィア文庫)
    読んでいて、東映動画の『太陽の王子ホルスの大冒険』を思い出しましたが、それもそのはず、そもそも「ホルス」は北欧神話ではなくて、アイヌ神話の「オキクルミと悪魔の子」から生まれた作品です。本書の中にも「オキクルミの昔話」として纏められています。金田一の末弟、荒木田の経歴(中川裕の「解説」)を見ると、1937年の「キネマ旬報」誌の懸賞に、自作『彼女の出發』が入選し、成瀬巳喜男監督が映画化する予定…との資料があるとの由。成瀬のPCL時代の末期でもあり、恐らく、この企画は頓挫したのでしょう。しかしながら、成瀬が二十年後に、児童文学者、石森延男の『コタンの口笛』を映画化していることを思い出して、私は何か不思議な符号のようなものを感じるのでした。
  • 「ゴーストリイ・フォークロア/17世紀〜20世紀初頭の英国怪異譚」(南條竹則著、角川書店)
    やはり、同業者の誼か、独立教会(18世紀英国における会衆派の別名)の牧師、エドマンド・ジョーンズの著書からの紹介を最も興味深く読みました。著者によれば、この人、カルヴィン派(スコットランド改革教会)の影響を受けていたり、ハウエル・ハリス(ウェールズにおけるカルヴィン主義メソジスト派の創始者)とも友好関係にあったようです。本文には、浸礼派(バプティスト)やクエーカーの人物の体験した怪異譚も紹介されているので、18世紀当時、英国のプロテスタント諸派が緩やかな連帯を持っていたことが伺えます。それはともかく、日本の人魂に当たる「屍蝋燭」、バンシーの係累と思しき「キヒラース」、「魔犬/地獄の犬」、牧師でありながら魔法使いに成ったデイヴィッド・ルイド等、実に面白い話が出て来ます。近代の科学万能主義に対する反論として著されながらも、現代では、フォークロアとしての価値が高く認められた文書です。
  • 「旅に出る時ほほえみを」(ナターリヤ・ソコローワ著、草鹿外吉訳、白水社)
    地底を掘り進む巨大アンドロイド「怪獣17P」と、その開発者である「人間」との心の絆を描いた作品ですが、そんな大筋から想像されるようなセンチメンタリズムとは無縁です。この「怪獣」の描写は、東宝特撮作品『キングコングの逆襲』において、メカニコングが「エレメントX」を採掘する情景と音楽(あの伊福部昭の)を、どうしてもイメージしてしまいます。国家総統による独裁と統制がエスカレートして、港湾労働者のストを弾圧し、「人間」の属する科学アカデミーからも研究の自由が奪われ、遂には「怪獣」を軍事利用しようとします。「人間」は名誉剥奪されて国外追放と成ります。丁度、習近平の独裁下「香港国家安全維持法」が成立した時でしたので、胸が詰まるような気持ちに成りました。そんな中、この「怪獣」は「人間」のために歌うのです。「あんまり背嚢につめるなよ。/一日 二日 三日じゃない―/二度と帰らぬ旅だもの…/旅に出るとき ほほえみを、/一度や 二度や 三度じゃない/旅は哀しくなるものさ…」。
  • 「縮みゆく男」(リチャード・マシスン著、本間有訳、扶桑社ミステリー)
    これは凄い小説でした。実存主義文学(サルトルの『嘔吐』)に比して論じる向きもあるようですが、この不条理な恐怖こそはマシスンの到達点です。正体不明(放射能?)の霧を浴びた男の体が1日に1/7インチ(0.36センチ)ずつ縮んで行くのです。緩慢なスピードでありながら、確実に進行して行き、治療方法は見付かりません。妻の背より低くなり、やがて幼い娘よりも、飼い猫よりも小さく成って行きます。その底知れぬ恐怖、周囲の無理解に対する苛立ち…。社会生活からの排除と差別、日常生活の困難、巨大化する衣服や家具、遂には、飼い猫や鼠、女郎蜘蛛などが襲い掛かって来ます。心身の障碍、進行性の病気、加齢による衰弱などの隠喩として読んで行くことも出来ます。日常の全てが恐怖に変わるのです。
  • 「二壜の調味料」(ロード・ダンセイニ著、小林晋訳、ハヤカワ文庫)
    所謂「安楽椅子探偵」物です。名探偵リンリーが警察の依頼を受けて自室で推理して行きます。助手は調味料「ナムヌモ」の訪問販売をしているスメザーズです。この人がワトソンのような語り手に成っています。私には、その語りが熊倉一雄の声で聞こえて来ます(但し、「名探偵ポアロ」ではなくて「ヒッチコック劇場」風ですが…)。この「リンリー=スメザーズ」のシリーズは本書の前半だけでした。予想に反して、後半の短編が面白かった。悪ガキ3人組が公園の池で、自作のポンポン船(『崖の上のポニョ』を想起せよ)に魚雷を仕込んで、金持ちの子どもの船を撃沈する「ラウンド・ポンドの海賊」が愉快。大戦前夜、ラディカルな発言をする国会議員の議会演説を、戦争を回避するために阻止しようとする「演説」のドンデン返し(先日読んだ「霧の中」を思い出します)。落雷による殺人を計画する「稲妻の殺人」も珍妙な味わいです。
posted by 行人坂教会 at 15:19 | 牧師の書斎から

2020年06月12日

旭日亭菜単(続き)その58

  • 「短編ミステリの二百年vol.1」(モーム、フォークナー他著、小森収編、深町眞理子他訳、創元推理文庫)
    編者の小森収による論文が巻末にあります。でも未だ序章と1章だけなので、このシリーズの続刊に載るのでしょう。結構、読み応えがあります。さて、「ミステリ」と聞いて、単純に本格推理物などを期待して貰ったら困りますが、本書収録の諸作が面白くないはずはありません。ウールリッチの「さらばニューヨーク」は「暁の死線」に匹敵する名作です。スティーヴンスンの「クリームタルトを持った若者の話」には奇譚の面白さが、イーヴリン・ウォーの「アザニア島事件」には三面記事の面白さがあります。実は、冒頭のリチャード・ハーディング・デイヴィスの「霧の中」には見事に騙されました。「つまんねぇ話だな」と思って読み始めたら、語り手がリレー形式に成っていて、何回も引っ繰り返されてしまうのです。ラニアンの「ブッチの子守歌」、こういう語り口も好きだなあ。
  • 「ヤービの深い秋」(梨木香歩著、小沢さかえ画、福音館)
    「小さい人たち」ヤービの一行と「大きい人たち」ウタドリさんの一行とが、それぞれ別の理由で「ややこし森」(人間は「テーブル森林渓谷」と呼んでいる)の「テーブル・マッシュルーム」を探しに行くのです。「キノコのために作曲をしている」と言ったのは、現代音楽の巨匠、ジョン・ケージだったでしょうか。その昔、著者に薦められて『ジョン・ケージ/小鳥たちのために』(青土社)を読んだ事が思い出されます。その後、私もキノコ粘菌系のホラーに深い愛着を覚えるように成りました。「キノコホテル」のマリアンヌ東雲も大スキです。やはり、子どもと一緒に自然の中に踏み込んで行く事(大人は事前の経験と準備が必要ですが…)、これが子どもの成長に必要なのです。それが前提で、この決め台詞があります。「成長する子どもを、だまってかたわらで見守る。…だまって、というのはむずかしいことですがね。彼らが成長したい方向へ成長するのを手助けする、といった方がいいかもしれません」。
  • 「幽霊島/平井呈一怪談翻訳集成」(A・ブラックウッド他著、平井呈一訳、創元推理文庫)
    メアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」と同じく、レマン湖畔の「ディオダティ荘の怪奇談義」がキッカケに成って生まれたとして有名な、ポリドリの「吸血鬼」、初めて読みました。つまんねぇ。歴史的作品として読むべき課題に過ぎません。但し、こんな作品も平井翁に翻訳して頂いているから読めるのです(感謝)。吸血鬼物なら、ローリングの「サラの墓」やマリオン・クロフォードの「血こそ命なれば」「死骨の咲顔」でしょう。「塔のなかの部屋」のベンソンは、カンタベリー大主教E・W・ベンソン(キプリアヌス研究の著書があります)の息子、「のど斬り農場」のベレスフォードも牧師の息子、「ライデンの一室」のバーラムは王室礼拝堂付きの牧師、M・R・ジェームズは言わずと知れたケンブリッジ大学の聖書学者です。現代の牧師たちの中からも怪談作者が出ることを望みます。フレンド派のハーヴェイによる「サラー・ベネットの憑きもの」が収穫でした。殺戮の戦場であっても、青空には小鳥の囀る残酷を「ルカによる福音書」16章26節の聖句から説き起こす件が面白かった。ブラックウッドの表題作は勿論、底知れぬ怖さがあって絶品です。
  • 「鬼滅の刃」第1巻「残酷」〜第6巻「鬼殺隊柱合裁判」(吾峠呼世晴作、集英社)
    評判なので、二男のコミックスを借りて読んでみました。大正時代に日本刀を振り回す登場人物たちは『るろうに剣心』(「るろ剣」は明治時代だけど)ですね。家族を鬼に皆殺しにされた炭治郎が天狗の面を付けた老人の下で修行し(『ドラゴンボール』の孫悟飯じっちゃんが狐面を付けていたのを思い出す)、「鬼殺隊」入隊の最終選抜試験(『HUNTER×HUNTER』)をクリアして、更なる修行によって呼吸法を身に付けてレベルアップ(『ジョジョの奇妙な冒険』の波紋とか『H×H』の念能力とか)…。「ジャンプ」系マンガの王道です。善逸(『ソウルイーター』のクロナを思い出させるトリックスター)や伊之助(猪の被り物の下は美少年、『もののけ姫』か)といった同期の剣士たちと行動を共にするように成って来て、俄然エンジンが掛かります。でも、やはり、この作品の最大の魅力は、炭治郎が背負う笈(木製の箱)に入っている禰豆子の存在でしょう。妖怪の「折り畳み入道」や江戸川乱歩の『押絵と旅する男』を思い出します。手毬を操る童女の鬼、朱紗丸と禰豆子が戦う場面では、二人とも着物の裾捲くり、親爺世代はこれが一番楽しかったりして…。
  • 「夜鳥」(モーリス・ルヴェル著、田中早苗訳、創元推理文庫)
    先の「フランス怪談集」に「或る精神異常者」が入っていて、昨年夏に京都の一乗寺の恵文社で購入したまま未読だったのを思い出した次第です。リラダンの流れを汲む「残酷物語/Contes cruels」として紹介されますが、フランスのジャン・ローラン監督の短編映画と似た淫靡な感触があります。麻酔の効かないままの手術(「麻酔」)、猛犬、狂犬に噛み殺される間男(「犬舎」)や不義の子(「生きぬ児」)、稲穂刈りの大鎌(サイス)で首チョンパされる姦婦と間男(「麦畑」)…。ルヴェルの残酷は愛から生まれたものばかり。とりわけ、愛人に硫酸で顔を灼かれて失明した男が、彼女の罪を許して告訴を取り下げたものの…(オチの言えない)「暗中の接吻」、死刑を求刑した男の冤罪に苦しんだ検事の後半生を描く「自責」等は皮肉に満ちたドンデン返しです。乞食が盲目の乞食に施す「幻想」は、チャップリンの『街の日』を思い出しますし、1人の子どもを取り合った挙句の「二人の母親」は、「列王記上」3章、ソロモン王の「大岡裁き」の遠い谺を思わせて、独特なペーソスがあります。
posted by 行人坂教会 at 21:05 | 牧師の書斎から

2020年05月04日

旭日亭菜単(続き)その57

  • 「オレンジだけが果物じゃない」(ジャネット・ウィンターソン著、岸本佐和子訳、白水社Uブックス)
    裏書きの「狂信的なキリスト教徒の母」等という文句から想像するのは、S・キングの「キャリー」の母親マーガレット、「霧」のミセス・カーモディだったりするのですが、そんなのはステレオタイプです。もっと複雑で人間味のあるキャラなのです。ヒロインのジャネットが、母親と共に通っているのは、確かに、原理主義的なペンテコステ系の教会(しかも、時代は1950年代)なのですが、ここに描かれる牧師たちや信者たちには、私なども「昔、こういう人、いたよなあ」的な親近感を抱きます。ともかく強烈な母親なのですが、最終章の「ルツ記」では、そんな母親との間に通う情愛も木目細かく描かれていて、虚を衝かれました。「わたしは神をなつかしむ。けっして自分を裏切ることのない存在をなつかしむ。わたしは今でも、神に裏切られたとは思っていない。神の僕たち?―そう、でもそもそも裏切るのが僕というものだ。神はわたしの友だった」。「神の友」は、アブラハムやモーセに冠せられた称号です。そして、イエスが弟子たちを「私の友」と呼ばれたことを考え合わせれば、中々意味深長な告白でもあります。
  • 「山怪/山人が語る不思議な話」(田中康弘著、ヤマケイ文庫)
    単独ビバークした経験のある人たちが、必ずと言って良い程に経験するのが「深夜の樵」です。大木を伐る斧やチェーンソーの音、倒木の音、その倒木を引き摺る音…。タヌキの仕業とされますが、これが普遍的というのが不思議です。この本の中には、私の生まれ故郷、兵庫県朝来市の猟師の体験談(「道の向こうに」)も掲載されています。朝来は但馬國なのですが、狩猟の世界では「丹波猟師」の活動領域とされるみたいです。私も子どもの頃、裏の山から、イノシシの両足を縛り太い棒にぶら下げて、猟師が駕籠かきのように二人組で担いで下りて来る姿を何度も目にしたものです。その山は我が家の所有でしたが、そこを移動する野生動物にまでは所有権ありませんからね。ともかく、山が異界(社会制度や人間の常識の外)と繋がっていることは間違いありません。
  • 「フランス怪談集」(日影丈吉編、河出文庫)
    お国柄でしょうか、9割方が「女怪」です。ゴーティエの「死霊の恋」は、何度も読んだ作品ですが、(その翻案と言っても良い)岡本綺堂の「玉藻の前」を経て、改めて読み直してみると、かなり萌えます。メリメの「イールのヴィーナス」が怖い。劇画的と言えるでしょう。マンディアルグの「死の劇場」も諸星大二郎の短編を思わせる作品でした。ドールヴィイの「真紅のカーテン」は、今や年老いた将校によって語られる、ニンフォマニアの美少女を巡る性愛と死の物語ですが、恐怖と官能が綯い交ぜの読後感、半端ありません。そして、ジュリアン・グリーンの「死の鍵」、「キリスト教文学」の範疇で採り上げられることの多い作家ですが、こんな怪奇小説があったのですね。
  • 「ぼくらの近代建築デラックス!」(万城目学×門井慶喜談、文春文庫)
    万城目学(映画化された「プリンセス・トヨトミ」の作者)は京都大学、門井慶喜(ドラマ化された「家康、江戸を建てる」の作者)は同志社大学の卒業生で、京都編が中核だと思います。二人とも貧乏学生時代には「進々堂」(熊倉工務店、1930年)でなんか喫茶できなかったと証言している話に、大きく共感。アニメ映画「夜は短し歩けよ乙女」では、ラストで「先輩」と「乙女」の初デート待ち合わせ場所に設定されています(原作者の森見登美彦は万城目と同じ京大)。残念だったのは、大阪編に「綿業会館」(渡辺節、村野藤吾、1931年)を2度に渡って採り上げながら、同じ会員制の「大阪倶楽部」(安井武雄、1924年)が無視されていたことです。バブル期に2階の「常食堂」(「花外楼」の直営店)で、私が企画してゼミの同窓会を開いた思い出の場所です。東京編では、妖怪レリーフ満載の伊東忠太(「築地本願寺」と一橋大学「兼松講堂」)、職人から叩き上げの菅原栄蔵(「ライオン銀座七丁目店」)に心を動かされました。「学士会館」裏の「新島襄先生生誕之地」の石碑、長男の高校の保護者会に行く度に合掌していたものです。
  • 「ドイツ怪談集」(種村季弘編、河出文庫)
    所謂「文豪」(クライスト、ホフマン、ティーク、ホーフマンスタール)に加えて、怪奇小説の定番作家(マイリンク、エーヴェルス)まで網羅されています。J・ティークの「オルラッハの娘」は、ルター派の農家の娘に、尼僧(善霊)と黒坊主(悪霊)が取り憑くエクソシスト物です。プロテスタント信者の娘に憑依するのが大昔のカトリックの修道女と修道士。古今東西、古い聖所(宗教施設)の上に、新しい聖所を建てるのです。それが、ゲニウス・ロキ(地の霊)を有効活用する方法です。それにしても、ドイツだけに宗教関係者の多いこと。「庭男」のH・H・ヤーンはオルガン職人、「三位一体亭」のO・パニッツァはユグノー教徒の子、「奇妙な幽霊物語」のJ・P・ヘーベルに至っては、ドイツ福音教会の監督です。その中でもお薦めは「三位一体亭」。何事が起こる訳でも無いのに、読了後に(「置き去りにされた感」とでも言いましょうか)最も奇怪な印象を受ける作品です。
posted by 行人坂教会 at 17:24 | 牧師の書斎から