2019年05月18日

旭日亭菜単(続き)その51

  • 「プリニウス」第8巻(ヤマザキマリ+とり・みき作、新潮社)
    本作を連載していた「新潮45」が休刊に成って心配していましたが、何とか続きを読むことが出来るようです。前回の大ピラミッドに続き、アレクサンドリアの灯台と図書館、クレタ島の迷宮(ミノタウロスも)、ロドス島の巨像が描かれていて、絵的には大きな見せ場に成っています。物語の見せ場の方は、専らネロ帝を巡るローマの陰謀譚が担当しています。大抵、ネロの悪行の原因とされている皇妃ポッパエアを、病的な夫に献身する女性として描き、ティゲッリヌスが大悪人として描かれています。そして、あの「サテュリコン」のペトロニウスも一場面、ティゲッリヌス関連で登場しています。
  • 「霊能者列伝」(田中貢太郎著、河出書房新社)
    最初に、丸山教の伊藤六郎兵衛、金光教の川手文治郎、大本教の出口直、黒住教の黒住宗忠と、江戸末期から明治初期に生きた4人の新興宗教の教祖が採り上げられています(どうして、天理教の中山みきが無いのでしょうか)。金光教は、金神(こんじん)の祟りによる不幸で始まりながら、後年、教祖川手は方位や呪(まじな)い、穢れ等を一切否定してしまう程の変わりよう、これには興味を持ちました。後半は、所謂「教祖」に分類できない人たち5人が採り上げられます。「日本のラスプーチン」飯野吉三郎の評伝には、ジョージ・ノックス(明治学院)、植村正久、本多庸一(青山学院)、巌本善治(明治女学校)、津田仙(津田塾)、押川方義(東北学院)、根本正(東京禁酒会)等、明治期の基督者たちの錚々たる顔ぶれも言及されていてビックリ。零落して、世間から見放された「メシヤ仏陀」宮崎虎之助の生前葬の招待を受けて、羽織袴姿で頭山満(玄洋社)が出席する辺り感動的です。頭山が金玉均(キム・オッキュン)への支援を最後まで続けた逸話なども思い出されます。生きながら神仙界に移された河野久の評伝は幻想小説さながらです。
  • 「夜は千の目を持つ」(ウィリアム・アイリッシュ著、村上博基訳、創元推理文庫)
    この作品、映画化されて日本でも公開されているのですが、評判は芳しくありません。主題歌(バディー・バーニア作曲、ジェリー・ブレイニン作詞、ボビー・ヴィー歌)だけが、ジョン・コルトレーンやソニー・ロリンズ、ホーレス・シルヴァーらに採り上げられて、ジャズの名曲として生き残っています。曲は知っていたのですが、原作を読むのは初めてです。身投げしようとする娘を、夜の川べり散歩を趣味にしている刑事が助けたことから事件が発覚するのですが、彼女の「告白」部分には圧倒されました。これだけで立派な短編小説です。そこから間髪を入れず「捜査活動のはじまり」に切り替わる大胆な構成。事件の鍵を握るのは、的中率百%の「予言者」、幻想小説の一歩手前で踏み止まる(推理作家としての)著者の矜持を思います。猛獣(ライオン)が「死の宣告」に絡んで来るのは、前回読んだ「黒いアリバイ」の黒豹と似ていますね。
  • 「聖遺物崇敬の心性史/西洋中世の聖性と造形」(秋山聰著、講談社学術文庫)
    「聖人ないし聖遺物は、いわば神がその力を地上で行使するためのメディア(媒体)だった」と定義されています。聖遺物の「ウィルトス/virtus/力」はウィールス(virus)のように感染力を持っていて、それに見たり触れたりした人々を癒したり、近接する物や場に霊力を与えたりするのです。フリードリヒ賢明公のヴィッテンベルク聖遺物コレクションの殆どが散逸する中、唯一、聖エリザベートのグラスだけが現存しているのですが、それは聖遺物を崇敬しないルターが自分のビールグラスにしていたからという皮肉。更には、そのルター当人もまた、デスマスクや手形を取られて、蝋人形のように展示されて、ルター教徒の崇敬の対象にされていたという皮肉。巻末の「注」まで楽しめる本でした。
  • 「夢の本」(ホルへ・ルイス・ボルヘス著、堀内研二訳、河出文庫)
    西は「ギルガメシュ叙事詩」から東は「荘子の夢」まで、古今東西の夢の話を集めてあります。それにしても「ヨセフの夢に現われた主の使」で「彼女の胎内にあるものは精霊による」と成っているのは如何なものでしょうか。たとえ原典が「Espíritu」とだけ書いてあったとしても(「Santo」が抜けていても)、ここは「聖霊」と訳すべきではあるまいか。訳者自身が「本書翻訳の過程で、原書からの直接訳を参照すべく、大学図書館の書庫の中の、ふだんはほとんど訪れることのない聖書関係の書架、…文学等の書架をしばしば訪れた」と「あとがき」に記しているだけに訝しく思われます。それはともかく、フランシスコ・デ・ケベードの「最後の審判の夢」が笑えます。何しろ、マホメットとルターとユダとが一緒に地獄をマヨマヨしているのですから。
  • 「ゴールデンカムイ」第17巻(野田サトル作、集英社)
    尾形百之助が樺太国境線を越えた時から、いずれ出て来ると思っていました、日露スナイパー対決が巻頭を飾ります。同時に爆弾屋キロランケの過去も開陳されて、構成と展開に破綻がありません。これだけのヒットマンガですから(テレビアニメ化も続いているし)、今や、かなり手堅いスタッフによるチームワークに成っていると見ました。「山猫」は「狙撃手」と「芸者の子」の二重の意味を持つ隠語です。そこに、さり気なく「メコオヤシ/オオヤマネコ」を登場させたりするのです。
posted by 行人坂教会 at 15:03 | 牧師の書斎から

2019年03月12日

旭日亭菜単(続き)その50

  • 「神と金と革命がつくった世界史/キリスト教と共産主義の危険な関係」(竹下節子著、中央公論社)
    如何にも出版社が販売促進を願って付けた書名です。フランス在住の著者自身による本当の題名は、表紙の脇にある「Genèse et Perversions du Pouvoir modern/近現代の国家権力の起源と腐敗」の方でしょう。前回に引き続き「エゾテリスム(秘教)史」研究者の本ですが、こちらは更に強烈な政治と経済と宗教の三竦みが描かれています。第1章−1だけは我慢しなければなりませんが、その後は余りにも面白くて、途中で置くことが出来ず、睡眠不足になること必至です。キリスト教と革命思想によって西欧に開花した「普遍主義」が如何にして成長し、権力交代を成して、その後に堕落して行くか…。ロシア革命、ラテンアメリカの「解放の神学」とバチカンとの関係に目を奪われます。社会革命と信仰との相克の中で格闘した人物として、シャルル・ペギー、エリック・サティ、岡本公三、ガイヨー司教の生涯が採り上げられます。そして第4章「近代日本の革命とキリスト教」では、大逆事件で逮捕された僧、内山愚童も登場します。第5章「東アジアの神と革命」では、中華文化圏の孔教、朝鮮半島の天道教が普遍主義を目指す試行錯誤が描かれています。
  • 「オカルティズム/非理性のヨーロッパ」(大野英士著、講談社選書メチエ)
    著者は(「アブジェクション」でお馴染み)ジュリア・クリステヴァの弟子筋の人です。ヨーロッパ思想史という立場からオカルティズムを俯瞰した力作です。欧米では進んでいるようですが、少なくとも国内では、この種の学術的なオカルティズム研究は稀少です。「ルネサンス魔術」の盛んなカトリック文化圏ではなく、プロテスタント文化圏から「神智学」が生まれたという指摘なども定説なのですね。フランス革命後の啓蒙主義的理神論者、ロベスピエールの背後には「神の母」なるカルト教団が存在していたこと、サン=シモンやフーリエ等のユートピア思想家の中にもオカルト思想が流れていたこと、後にカトリックに改宗した悪魔的秘密結社の女教祖ダイアナ・ヴォーンが架空の人物で、何も知らずに、リジューのテレーズが熱心に手紙のやり取りをしていたこと…面白すぎます。著者の結論は「キリスト教という、西欧にとって知的・「霊」的生活を律してきた啓示宗教が、唯物主義、進化論等、近代そのものともいえる「世俗化」によって、命脈を絶たれた後、なお、死後の生を信じ、霊魂の不滅を信じるために、唯物主義・進化論を作り出した主導思想である「実証科学」を逆手にとって、なおも、「宗教」を持続させたいと願う人々の意志が、近代オカルティズムを現代まで生き延びさせているとはいえまいか?」ということです。
  • 「ピクニック・アット・ハンギングロック」(ジョーン・リンジー著、井上里訳、創元推理文庫)
    あのカルト映画のファンとしては読まないで済ます訳には参りません。ハンギングロックにピクニックに行ったアップルヤード学院の生徒と教師が神隠しに遭います。物語は聖バレンタインの日に始まり、イースター直前の聖金曜日(キリストの受難日)で幕を閉じます。「不吉な綴織は、何の前触れもなく織られはじめたのだ」とあるように、1つの失踪事件が発端となって、多くの人たちの運命が描かれて行くのです。ゴブラン織りかジャカード織りか知りませんが、綴れ織り(タペストリー)のように、まるで事前に絵柄は決まっていたかのように展開して行きます。少女たちがハンギングロックを登り始めた時、昆虫や小動物たちが恐慌を来たしたのと同じように、登場人物が全て「バタフライ効果」(アマゾンの蝶1羽の飛翔がテキサスの竜巻を引き起こす)のように影響を受けるのです。マイケルとアルバートの同性愛的関係、救出されたアーマとマイケルとの擦れ違う思い、アルバートとセアラが同じ孤児院で育った兄妹だったのに接点が生まれないこと、そして、アップルヤード校長の末路…。あの映画のファンなら絶対に楽しめます。
  • 「黒魔術の娘」(アレイスター・クロウリー著、江口之隆訳、創元推理文庫)
    クロウリーの魔術書の翻訳者による、クロウリーの短編小説集です。魔術ネタが多いのは当然ですが、「キルケーの夢」には、真打ちエリファス・レヴィが登場します。クロウリーがE・レヴィの転生と自称していたことを思えば尤もか。個人的には、テレパシーの科学実験を続ける夫婦を描いた「マグダレン・ブライヤーの遺言」が一推しです。テレパスの妻(マグダレン)は悪魔(それとも死神?)の哄笑を耳にして、最愛の夫が死んだことを知ります。「セルヴェルトゥスの火刑をせせら笑ったカルヴァンの顔ですら、この笑いを聞けば慈愛に満ちたものに見えるでしょう。それほど完璧に地獄落ちの精髄を表している笑いだったのです」。改革派、長老派の信徒が読めば腰を抜かしそうな喩えです(笑)。「これではぼくは髪を刈られたサムソンよりも盲目だ。…同様に真実で、同様に虚偽、神の目にはすべてが虚偽にして真実、それらすべてを超えるものが神なのだ、子供、あの《子供》の頭脳だけがそれを把握できるのだ。幼子のようにならなければ、天の王国に入ることあたわじ!=v(「アイーダ・ペンドラゴンの試練」)。意外にクロウリーの言説、マトモに思われるでしょう。でも、これは魔術の最終段階「深淵の嬰児」なのだそうです。他には、硫酸で顔を焼かれた美女とか、斧で切断されて薪と共に積まれた美少女の四肢とか、小包から出て来る恋人の切り取られた唇と金髪とか、猟奇的でサディスティックな(女性に対する)描写も多々あります。
  • 「ゴールデンカムイ」第16巻(野田サトル作、集英社)
    土方歳三と土井新蔵(人斬り用一郎)との邂逅が泣かせる。幕末の京都で用一郎が「天誅」と叫んで斬り捲くる場面は、五社英雄監督の『人斬り』を参考にしていると思われます。彼が「先生」として従っていた男に切り捨てられるのも、『人斬り』の岡田以蔵と武市半平太の関係です。介錯を申し出る土方を留めて、「楽に死ぬのは申し訳ない」「天下国家のためと大勢殺した…」「「アイヌ」とは…「人間」という意味だそうだ」「俺はこの土地に流れ着いて…「人間」として生きた…自分だけ申し訳ない」と呟きながら果てて行きます。後半に登場する曲馬団の団長、山田と軽業師の長吉、キャラからして吉田光彦(劇団「天井桟敷」のポスターを描いてた漫画家)です。それに、丸尾末広の『少女椿』が少し入っています。キロランケが一宿一飯の恩義を受けたウィルタの女性に「チシポ」(アイヌの針入れ)をプレゼントする場面を見て、私も妻に「チシポ」を差し上げたのを思い出しました(全く使って貰っていませんが…)。
posted by 行人坂教会 at 20:13 | 牧師の書斎から

2019年01月07日

旭日亭菜単(続き)その49

  • 「黒いアリバイ」(ウィリアム・アイリッシュ著、稲葉明雄訳、創元推理文庫)
    この小説には、7人の魅力的な女性が登場します。流れて来た南米で一躍スター女優に成ったキキ、夜更けに母親から雑貨屋にお遣いに行かされる少女テレサ、霊園で恋人と逢引きしようとして果たせない令嬢コンチータ、酒場でコンパニオン紛いで稼いでいる「夜の姫君」クロクロ、米国の農機具販売会社の秘書で、久しぶりの休暇で羽根を伸ばしているサリイ、そして親友の仇を討つために捜査に協力するマージョリイ。どの女性も生き生きと描かれていて、その都度、読者は彼女たちに寄り添いながら読み進む(夜の道を歩き進む)ことになります。アイリッシュが老母と二人暮らしで、終生、女性と無縁だったとはビックリです。いや、生々しい女性関係が無かったからこそ、私たち(男性読者)の共感できるヒロインたちを産み出すことが出来たのかも知れません。
  • 「北欧神話物語」(キーヴン・クロスリイ=ホランド著、山室静・米原まり子訳、青土社)
    アニメ『進撃の巨人』が大好きな二男に「霧の巨人ユミル」による天地創造の場面を読んで聞かせたら興奮していました。オーディンら「アース神族」が「岩の巨人」に、アースガルドの城壁を建築させる物語も『進撃』を思い出させます。勿論、マーベルの『マイティ・ソー』でお馴染み、雷神トールや変身の神ロキも登場します。彼ら「アース神族」と相容れぬ関係にあるのが巨人族、小人族ですが、単なる敵対関係と言い切れる程に単純ではありません。巨人と知恵を競い合ったり、騙まし討ちにしたり、小人に宝飾品を作らせた挙句に奪い取ったりと、「アース神族」も思い付きや一時の欲望のままに行動し、自らの激情や憤怒を制御できません。無敵なはずのトールがウトガルドの巨人王から散々に侮辱される物語(ウトガルドへのトールの遠征)、ロキが小人のアンドヴァリから、黄金の山と指輪(「ニーベルングの指輪」の原点!)を奪い取り、呪いと共に巨人族に渡す物語(オッタルの賠償金)等、とても興味深い。それにしても、千年以上も昔に、どうしてロキのような屈折したキャラクターが生まれたのか不思議で成りません。
  • 「みんな彗星を見ていた/私的キリシタン探訪記」(星野博美著、文春文庫)
    国際都市香港で過ごした学生時代、自分の先祖のルーツを遡る紀行本など、著者の過去と生活の中にある「生の実感」みたいなものが、執筆の大きな動機に成っています。だから、彼女にとって「キリシタン」の時代に思いを向けることは、先ずリュートの演奏を学ぶことだったりします。島原半島を訪ねて、疲れ果ててしまう辺りの描写などは、こっちまで一緒に腹が減ったり体が冷え切ってしまいそうに成ったりします。周囲「巻き込み」型の執筆スタイルであることが想像されます。若松英輔が「解説」で「作者がキリスト者ではない」ことを評価して居られましたが、そのような評価の仕方自体がナンセンスだと思います。原城で「憑霊」したのと同じように、少なくとも本紀行文中においては、彼女の魂はカトリックに帰依すること著しく、その分、プロテスタントに対するアレルギー症状まで表われているのです。例えば、原城に大砲を打ち込んだオランダ船の出所、フランドルのリュート曲は演奏したくないとか、プロテスタント系の母校(国際基督教大学ですか)では、基本的なキリスト教の知識も教えてくれなかったとか…。秀吉、家康以上に敵対視している感じが読み取れるのです(笑)。それを差し引いても、気付きの発光に満ち溢れた本であることは認めなくてはなりません。当時の宣教師たちにとって、日本は数少ない「殉教」することの出来る地であったこと、宣教師たちの記録は「列福、列聖」の手続き上多く残されているものの、鎖国時代の日本人殉教者たちの記録は存在しない、それでも彼らの歴史は存在していること。胸打たれる考察です。
  • 「西部劇を極める事典」(芦原伸著、山と渓谷社/天夢人)
    前作『西部劇を読む事典』は、文字通り「事典」の体裁を採っていましたが、こちらは、クリント・イーストウッド、ジョン・フォード、カウボーイ御三家(ランドルフ・スコット、ジョエル・マクリー、オーディ・マーフィ)の作家論、役者論が大半を占めています。それでも6章の「ワイルド・ウェスト雑学事典」や「西部開拓史」年表などは、ありそうでいて、意外に無かったもので(少なくとも日本語では)、西部劇愛好家たる著者の面目躍如です。往年の名作『シェーン』が、チミノの『天国の門』と同じ「ジョンソン郡戦争」に関係する作品であること、「アメリカが新しい農業国として立ち上がる決意を表明した映画だった」こと等、目から鱗です。やはりと言うべきか、最も読み応えがあるのは、3章の「ジョン・フォードから学んだこと」です。どんなジャンルの、どんな作家に対する論評であれ、愛情と敬意に溢れた文章に接するのは気持ち良いものです。
  • 「時をとめた少女」(ロバート・F・ヤング著、小尾芙佐他訳、ハヤカワ文庫)
    幾分、揶揄を込めて「叙情SF」等と言われるヤングですが、思いの他、辛辣だったりします。ヤングには、確かに女性崇拝、少女趣味の性質があるのです。表題作などは、まさに直球ド真ん中「ボーイ・ミーツ・ガール」です。しかしながら「花崗岩の女神」等は、女性の形をした異星の山脈に挑む登山家の話で、旧約聖書の「雅歌」が繰り返し引用されるように、遣る瀬無い思いは募り、その挙句に女神崇拝、女性に裏切られた思い等が交じり合って、ここまで来ると、まさに「極北」です。「自分の女神に思いもよらなかった汚点があると知った者は、いったいどうするのだろう? 自分の真の恋人が淫婦だとわかった時、いったいどうするのだろう?」。巻末の「赤い小さな学校」も恐ろしい物語です。幸せな幼年時代の思い出を辿りながら、養父母の下を脱走して、「故郷」への旅を続けて来た少年が出会ったのは何だったでしょうか。憧れの女教師の本当の姿は…。
posted by 行人坂教会 at 17:42 | 牧師の書斎から

2018年10月13日

旭日亭菜単(続き)その48

  • 「真赤な子犬」(日影丈吉著、徳間文庫)
    冒頭から赤川次郎みたいな文体で、コケットなヒロイン登場と思いきや、すぐに予想は裏切られます。彼女は探偵役ではありません。先ず、探偵の務めを担わされるのは読者なのです。若社長の自殺未遂とそれに続く転落死の一部始終を示されているのは読者だけで、捜査に当たる警察よりも先に、その経緯を読んで知っている…と思い込まされるのです。ところが、この設定そのものがトリッキーであったことが、後から知られて来る訳です。それにしても、「サラド・ワルドルフ」に「ビフテック・オー・ポワヴル・ノワール」、食べてみたいものです(勿論、毒入りでないヤツを)。ジャクリーヌ・ササール主演の映画『芽ばえ』が引用されていることから時代は明らかですが(日本公開は1958年)、こんな時代に、田園調布に4階建てのお屋敷を構え、専任のコック、執事、メイドたちがいて、2階が会議室と食堂、3階が客室、遊技室、図書室、独身の若社長が書斎付きの4階で暮らしているなんて、夢のようです。『ちびまる子ちゃん』の花輪くんの家です。しかるに、後半に登場する工場の守衛の老人の自宅、これが私らには相応しいのです。
  • 「人みな眠りて」(カート・ヴォネガット著、大森望訳、河出文庫)
    初期作品のお蔵だしのような短編集ですからSFネタは少ないのです。冷蔵庫型の女性ロボットを連れて、セールス巡業する天才科学者が主人公の「ジェニー」、罹患者に自殺衝動を引き起こす感染症を描く「エピゾアティック」が辛うじてSFの味付けです。「ミスターZ」は、犯罪学の講座を履修する神学生(牧師の卵)と服役中の娼婦とのラブロマンスです。伝説で「聖なる娼婦」にされてしまったマグダラのマリア以来、よくあるパターンのカップルですが、思わずホロリとさせる予想外のオチを用意するのがヴォネガット流です。「金がものを言う」も、欲しくも無い巨万の遺産を相続した娘と借金に悩む男とのラブロマンス。両作に共通するのは、男が柔弱な態度では真心は伝わらないという教訓です。「ガール・プール」や「ルース」は女性同士の、「賢臓(kiddley)のない男」(「腎臓/kiddney」ではない)や「ペテン師たち」は男性同士の確執と共感を描いていて、後々じわぁ〜と胸に染みます。表題作は、ディケンズの「クリスマス・キャロル」と同じく、クリスマス嫌いで性悪な男が、本物のクリスマスを現出させます。
  • 「ゴールデンカムイ」第15巻(野田サトル作、集英社)
    「ヤングジャンプ」は週刊だけにコミックス新刊が出るのも速い。アシリパの行方を追って樺太に渡航した杉元たちの活躍が描かれます。クズリにスチェンカ、バーニャ、トド狩りと当地の自然や風俗がしっかり描かれていて、本作の美点が出揃っています。第149話「いご草」では、以前は背景人物の一人に過ぎなかった月島軍曹の過去、鶴見中尉との因縁も描かれます。恐らく、最初からキャラ設定があったのではなくて、舞台を樺太に移動させる段階で、月島にロシア語通訳の技能を振り、その結果「いご草」の物語が生まれたのでしょう。要するに、後からキャラ内容を膨らませたはずです。登場キャラが増えると、その分サブストーリーが派生して、作品そのものが重厚さを帯びる結果となるのです。第120話「奇襲の音」〜第121話「暗中」の屈斜路湖温泉の時と同じく、男性陣の集団入浴の場面が多く、往年の雑誌「SABU」のグラビアみたいです。これは、作者の性的指向なのか、読者へのファンサービスなのでしょうか。
  • 「牧野富太郎/なぜ花は匂うのか」(牧野富太郎著、平凡社)
    小学校の図書室には、牧野の植物図鑑が何冊か並んでいました。今思えば(子ども向けではない)結構な専門書だったと思います。しかし、私たち男子は動物図鑑や昆虫図鑑に夢中で、好んで頁を開いてみたいとは思いませんでした。それでも時折り、目当ての図鑑が他の子たちの手に渡ってしまっている時に、暇潰しに止む無く植物図鑑を開いてみて、その鮮やかな写生に目を奪われたことがあります。植物の美しさが余す所無く表現されていました。牧野自身が「私は植物の愛人として、この世に生まれてきたように感じます」と告白している通り、それは彼の激しい植物愛、愛情の為せる業だったのです。「人間は植物を神様だと尊崇し礼拝し、それに感謝の真心を捧ぐべきである」。植物教の信徒、いや使徒なのです。私たちが食べているバナナは「実」ではなく「皮」であること、イチゴも「茎の末端」、蜜柑もまた「毛」であること、これは子どもに教えてやらねば。私の生まれ故郷の町花は野路菊ですが、命名は牧野だったのですね。
  • 「完全犯罪/加田伶太郎全集」(福永武彦著、創元推理文庫)
    『草の花』『死の島』等で高名な「純文学」作家、福永が加田のペンネーム(しかも、アナグラム)で発表した正統派探偵小説の連作集です。古典文学の研究者、伊丹英典(これまた「名探偵」のアナグラム)が毎回舞い込んで来る謎の事件を解いていきます。これらの連作が書かれたのは「大学助教授」という肩書きが未だ確かな地位と、時間的余裕を保証してくれていた1950〜60年代初め。「ディレッタント」が気取れないと、探偵遊戯(趣味としての推理と事件解決)等は成立しませんからね。昨今の大学教員は勿論、最近では大学生ですらリアリティがありません。「解説」の法月綸太郎が「「温室殺人」の封建的な犯人像は、横溝作品を念頭に置いていたかも知れない」と指摘していますが、強い意志と高い知性を併せ持ったキャラクターにハッとさせられた私としては、目に見えぬ因果や因縁に操られる(が故の悲哀もある)横溝の犯人像とは異なると思います。むしろ「ディクスン・カーや横溝正史調のおどろおどろしい演出」が垣間見えるのは、大学院生が伊豆半島で消息を断つ「失踪事件」、催眠術や古い西洋屋敷に「落人池」等という舞台装置の「眠りの誘惑」でしょう。とにかく挑戦と実験精神に溢れる粒揃いの短編集。巻末に収録されている、福永が都築道夫、結城昌治と囲む鼎談も凄い内容です。
posted by 行人坂教会 at 16:54 | 牧師の書斎から

2018年08月14日

旭日亭菜単(続き)その47

  • 「真景累ヶ淵」(三遊亭円朝作、角川ソフィア文庫)
    「真景」は「強迫神経症」の「神経」です。文明開化の明治の世にと言うので、幽霊が出るのは「神経」のせいと嘯きつつ怪談が語られます。坪内逍遥が二葉亭四迷に「言文一致をやるんなら、三遊亭をお読みよ」と勧めたとか。親の因果が子に祟る「因果物」の代表作ですが、怪談の趣きは前半だけ。後半は仇討ち物語に変わってしまいます。けれども、意外に面白かったりします。仏教的因縁の色彩はあるものの、深見新吉とお賤のカップルはボニー&クライドのような凄惨なアウトローぶり、仇討ち物語の敵役、安田一角、山倉富五郎の卑怯者ぶりのキャラも際立っていて、これは立派なピカレスクロマンです。江戸時代の無残絵「英明二十八衆句」を思い出させます。勧善懲悪の説話類型の流れを汲んでいるものの、大長編の物語を動かして行くために、結果的に彼らの極悪非道ぶりが強調されることになったのでしょう。新吉と賤にとって唯一の救済は懺悔の果ての自死しかありません。一角や富五郎、土手の甚蔵などに至っては惨めに殺されるばかりで、凡そ仏の慈悲も及びそうにはありません。この辺りの無慈悲さ(仏の復讐か?)が悪人どもの悪行の凄惨さと通底しているようにも思われます。
  • 「絶対に出る 世界の幽霊屋敷」(ロバート・グレンビル著、片山美佳子訳、日経ナショナル・ジオグラフィック社)
    屋敷のみならず、幽霊の出るという城郭、墓地、ホテル、工場、病院、教会などの美しい写真集です。但し、欧米が圧倒的に多く、アジア、アフリカ、中南米はほんの申し訳程度です。キングの『シャイニング』のモデルになった米国コロラド州のスタンリーホテル、カリフォルニア州のウィンチェスター・ミステリー・ハウス、メキシコの人形島、ルーマニアのブラン城など、説明不要の名所も多々あります。私が個人的に気に入ったのが、米国コネチカット州のイーストン・バプテスト教会です。かつて私が赴任した教会と建物がそっくりで、懐かしかったです。カラー写真の幾つかは露光させたりして、不気味な雰囲気を出そうと演出していますが、やはり、モノクロ写真には、夢幻の世界に連れて行かれそうな、独特の迫力があります。
  • 「ミスト/短編傑作集」(スティーヴン・キング著、矢野浩三郎他訳、文春文庫)
    冒頭の「ほら、虎がいる」に続けて「ジョウント」を入れたことから、日本語版編集者の遊び心が分かります。「ジョウント」とは、アルフレッド・ベスターの古典的SF小説『虎よ、虎よ!』で描かれたテレポーテーション能力のことだからです。その「ジョウント」は、幕切れの数行のためにだけ存在するホラー小説です。そして、有名な「霧」です。怪談の語り手であるキングにとって、オチの付け方が重要です。「ジョウント」がその好例です。フランク・ダラボン監督の映画版のオチを、キング自らが絶賛したという事実からも分かります。しかし、これは映画ではなく小説ですから、どこまでも閉塞感が深まり、結局それは拡がり続けるばかりという、プロセスの恐怖に主軸が置かれています。ところで、人々を狂信へと誘うミセス・カーモディは「ヨハネの黙示録」風の聖句を叫びますが、デヴィッド自身も、嵐の夜に巨大な神が歩く夢を見て不安を感じています。その心象表現にもキリスト教が色濃く出ています。「カトリック教会の助祭のパーティーでポルノ映画を上映していると告白しているような口調」「ニューイングランドの清教主義の狂気の遺物」「キリストにすら、わずか12人しか後に従う者はいなかった!」「昔の信仰復興のための天幕集会の信者」等という言い回しです。弁護士ノートンに率いられる「不信者」、カーモディに操られる「信者」、この両者の間に立って闘うことこそが、恐怖の現実に向き合う唯一の道なのです。
  • 「プリニウス」第7巻(ヤマザキマリ+とり・みき作、新潮社)
    有名な紀元64年の「ローマ大火」です。本書では、皇帝ネロの仕業ではないということに成っています。悪女の汚名を着せられることの多いポッパエアも、必死に真犯人を追究していて、読者の同情を誘います。作者たちとしては、皇帝ネロは「出来の悪いハドリアヌス」(後書き)の悲劇みたいな纏め方をするのでしょうか。今のところ、近衛師団の司令官ティゲリウスとユダヤの豪商レヴィテあたりの陰謀のようですが、果たして作者たちの推理や如何に。そう言えば『サテュリコン』のペトロニウスが出て来ませんね。ともかく、ローマの描写が派手なので、主役のプリニウス一行のピラミッド調査は些か地味な印象になってしまいました。
  • 「神紋総覧」(丹羽基二著、講談社学術文庫)
    家紋は家の紋章、神紋は神社の紋章。即ち神の権威や天皇、幕府の権威などにあやかって神紋を家紋にしたり、人を神として祀り上げる場合には、そのまま家紋を神紋にする神社もあったりします。神紋にも流行があり、異教や異国文化からの影響もあるのだとか。仏具から来た輪宝紋とか、サンスクリットの「mani/摩尼」に由来する宝珠紋とか、そもそも「お稲荷さん」も外来神であった可能性もあります。それにしても魂消たのは、ユダヤ教やキリスト教との関連も示唆されていたことです。例えば「兵庫県赤穂市の大避(おおさけ)神社は矢車紋を用いている。この神社は秦氏の祖神、大避神を祭るが、外来神で、八本矢車紋は…一説にはユダヤの神ダビデのシンボルマークをアレンジしたものともいう(大避神はユダヤ神)」等と書いてあります。ダビデは「ユダヤの神」ではないよと思いつつも、愉快な気分です。そう言えば『変身忍者嵐』の敵は「血車党」と「西洋妖怪軍団」だったしな(笑)。八坂神社でお馴染みの祇園守紋のX印、これも「池田氏、立花氏等はキリスト教に改宗したため、十字にことよせたことは事実である」と書いてありました。私の故郷の養父(やぶ)神社も採り上げられていて、その神紋、四つ木瓜(もっこう)が、地方豪族の日下部氏に由来することも分かりました。高校時代の同級生に日下部クンいたな。私らは、あれの配下だったのね。
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2018年07月11日

旭日亭菜単(続き)その46

  • 「ボルヘス怪奇譚集」(ホルヘ・ルイス・ボルヘス、アドルフォ・ビオイ=カサーレス編、柳瀬尚紀訳、河出文庫)
    このような本が寝床に無ければ、私の安眠はありません。例えば、死刑囚の最期を淡々と描いたO・ヘンリーの「夢」は、一切の叙情を排していながら幻想的で(アンブローズ・ビアスみたい)、これが、あの「最後の一葉」や「賢者の贈り物」の作家の手に成るものなのかと仰天します。しかも、作者の死によって、小説は死刑直前で中絶するのです。もしや、これはO・ヘンリーの名を騙ったボルヘスの創作では無いかと妄想してしまう程です。他にも、ポオやカフカと未完の小説断片を次々と見せられるにつけ、この脈絡の無さと不完全さこそが夢や幻の何よりの証左では無いのか…と煩悶すること必定。この不条理感こそは、枕頭に置くに相応しい本です。ロラン・バルトの『恋愛のディスクール・断章』を読んだ時に受けた印象と大変によく似ています。中国やインド、アラビアの物語に混じって、タルムードやミシュナ、ブーバーの例話などユダヤのネタも多く、勉強になりました。但し「夢幻」だけに、朝起きた時に何も覚えていないのが悔やまれます。
  • 「ゴールデンカムイ」第14巻(野田サトル作、集英社)
    土方歳三と犬童四郎助との血闘、杉元と二階堂との死闘、網走監獄の凶悪犯7百人と第七師団との乱戦が並行して描かれて、怒涛のアクションが展開されています。それにしても、土方は御老体であれだけの刀傷を受けて出血してりゃあ、普通、死んでいるだろう。杉元も狙撃手に前頭部を撃ち抜かれて、それでも復活する不死身ぶりは呆れます。しかし、アクション画に説得力があれば、どんなに滅茶苦茶でも納得してしまうのがマンガのマンガたる所以です。登場人物たちのチームが再びシャッフルされて、新たな3チームが編成され、舞台は樺太へと移ります。どこまで「北帰行」は続くのでしょうか。杉元が「アシリパさんを取り戻す」「オレを樺太へ連れて行け」と唸る場面では、病室の窓の外から伺うチカパシとリュウ(アイヌ犬)が描かれていたり、鯉登少将の駆逐艦の甲板に立つ杉元の左足に、麻痺患者のリハビリ用「短下肢装具」が描き込まれていたり、実に芸が細かいのです。
  • 「お静かに、父が昼寝しております/ユダヤの民話」(母袋夏生編訳、岩波少年文庫)
    イラクの「ベドウィンの羊」、ブルガリアの「死神の使い」は、グリム童話、延いては古典落語の「死神」の元ネタでしょう。クルディスタン・イラクの「ヒツジとヤギとライオン」では、グリム童話「狼と七匹の子山羊」と同じく、親山羊がライオンの腹を裂いて、2匹の子山羊を救出します。「塔に閉じ込められたソロモン王の姫君」も「ラプンツェル」です。イラクの「父への愛は塩の味」は、シェイクスピアの『リア王』と同じく、三人姉妹の末の姫君の直言が父王の誤解を招きます。モロッコの「泣いて笑って」「犬ですらうなり声をたてない」、スペインの「真珠の首飾り」、ハンガリーの「皇帝とラビ」、アフガニスタンの「笛と羊飼いの杖」等、いずれもユダヤ人故に受ける差別と迫害を、信仰に裏付けられた知恵と絶妙のユーモアとでもって切り抜けて行く物語です。ラバン・ガマリエル(使徒パウロの師匠でもあった)がローマ人と宗教論争を展開して、やさしい言葉で唯一神信仰の正しさを証明する「思考の剣」には舌を巻きました。
  • 「ヨーロッパ史における戦争」(マイケル・ハワード著、奥村房夫・奥村大作共訳、中公文庫)
    この5百年間、世界中の戦争をリードして来たのは、ヨーロッパの軍事技術と兵器、経済と政治と思想であったという事実は否定できません。更に5百年を溯って、中世の封建騎士の時代から、ヨーロッパの戦争が如何に発展(?)拡大して来たかを検証しているのが、この本です。世界全体から見れば、ヨーロッパは小国が分立する局地でしかなく、そこで行なわれる戦争も、ごく限定的なものであったはずです。イスラーム帝国やモンゴル帝国のような世界的な拡がりは持ち得なかったのです。そんなヨーロッパの戦争がグローバル・スタンダードに変化したのは、15〜17世紀の「大航海時代」以降ですが、そこには、戦争の継続のために海外からの富の蓄積が必要に成ったからという、倒錯した動機があったことに気付かされます。要するに、欧州内の小国の内輪もめの影響を、全世界が被ることになったのです。更に、フランス革命とナポレオン戦争とによって「民族(国民)の戦争」へと意識変革が起こり、20世紀の総力戦へと大きく舵を切ることになるのです。第二次大戦の終結と植民地からの撤退によって、逸早くヨーロッパは戦争の歴史から離脱した訳ですが、私たちは、あと5百年はその後遺症を引き摺ることになるでしょう。
  • 「世界イディッシュ短篇選」(西成彦編訳、岩波文庫)
    『牛乳屋テヴィエ』以来のイディッシュ文学です。いずれの作品も、ユダヤ教信仰や民族性に裏打ちされてはいますが、皮肉や懐疑、不安や揺らぎを抱えています。20世紀文学の特徴でしょう。『テヴィエ』のS・アレイヘムの「つがい」は、過越祭に殺されることを運命づけられた鵞鳥の話。I・ベレツの「みっつの贈り物」では、地上の殉教者たちの遺物を、天上の聖人たちが嬉々としてコレクションしています。D・ベルゲルソンの「逃亡者」は、『罪と罰』のラスコリニコフを思わせる青年がポグロム(ロシアのユダヤ人迫害)の首謀者を殺害しようと狙います。N・ミジエリツキの「マルドナードの岸辺」も、ガルシア=マルケス風ユダヤ人迫害年代記ですが、背教者、裏切り者の内面を描きます。I・B・ジンゲルの「シーダとクジーバ」には「隷属を強いられるよりはディアスポラを生きる方がましだ」という、マイモニデスを思わせる警句が出て来ます。D・ニステルの「塀のそばで」は、ユダヤの学僧がサーカスに入団する奇想天外な悪夢のような展開(さながらデイヴィッド・リンチ)。特に、突然現われた乳吞み子に父親が乳首を吸われる描写はお手上げでした。
  • 「ふらんす伝説大観」(田辺貞之助著、青蛙房)
    ユイスマンスの『彼方』の翻訳で知られる碩学による伝説民話の集積。熊の怪獣トゥルス・ポワール(逆毛)、旅人の背中に跳び乗るガリポート、ヌエのような怪物ダール(投槍)、人狼ガルー、鬼女グレグ、妖精ファルファデ等が登場します。ケルト色の強いブルターニュまで行かずとも、これだけ数多くの妖怪変化譚がフランス各地にあるのです。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ベルモンドが映画で演じた「大盗賊カルトゥシュ」、フロベールの短編で有名な聖ジュリアン、マラーを暗殺したシャルロット・コルデ、ジル・ド・レ男爵、オペラの台本作家ボーマルシェ、フン族のアッチラ、宰相リシリュー…。さながら伝奇譚の百花繚乱です。私が気に入った与太話は、ルイ14世によってバスチーユに監禁されて「鉄仮面」を付けられていた男は、ルイ13世の実子であり、彼は看守の娘と懇ろになり、生まれた息子がコルシカ島の家に預けられて、ナポレオンの父になったというもの。「あるお偉方から/ド・ボヌ・パール」がイタリア語で「ブオナ・パルテ」、再びフランス語化して「ボナパルト」に成ったというのです。
posted by 行人坂教会 at 21:53 | 牧師の書斎から

2018年05月25日

旭日亭菜単(続き)その45

  • 「西部劇を読む事典」(芦原伸著、天夢人/山と溪谷社)
    著者は少年時代、劇場でB級西部劇を観ていた最後の世代に当たると思われます。『悪の花園』『アルバレス・ケリー』『折れた矢』『砂塵』『裸の拍車』『平原児』『アラスカ魂』『誇り高き男』『ワーロック』…。私にとっては、ローカル局の「テレビ映画劇場」で観た作品ばかりです(蛇足ながら『駅馬車』『荒野の決闘』『リオ・ブラボー』『荒野の七人』等は、辛うじてリバイバル上映で観ています)。特に第2章の「西部の民俗学」が充実していて「事典」の名に恥じぬ内容です。「銃撃戦が行なわれていた時代は1860年代から1890年代のほぼ30年間で、日本でいえば幕末から明治に当たる時である。長いようで実際には短い。その30年間に西部劇のほとんどの物語がある」と語られています。つまり「西部劇」とは、限定された一時代のある領域を指していて、つまり、1つの世界観なのです。A級B級の別なく、米国製のオーソドックスな作品を愛する著者の志向が滲み出ています。「マカロニは西部劇の土の香りがない」と一蹴しつつも、第8章「西部のスターたち」を読むと、一通り観て居られるようですし、先住民虐殺や黒人差別、生態系破壊の視点も今日的で、単なるノスタルジーには終わっていません。
  • 「イスラーム世界史」(後藤明著、角川ソフィア文庫)
    本書では「シリアのエルサレム」という名称が繰り返されます。確かに、7世紀以後のイスラーム史を解説する本書において、「ユダヤ」は既に数百年前に滅亡しています。「パレスチナ」の地域名も、第一次大戦後に英仏が分断統治するに当たって作られたものです。更には、アケメネス朝ペルシア時代(紀元前6世紀)から20世紀に至るまで、エルサレムの住民たちがシリアの言語である、アラム語を公用語として来たことを併せて考えるならば、「シリアのエルサレム」という言い回しは歴史的に極めて妥当なものです。卑しくも歴史を学ぶ者が「エルサレムはユダヤ」等というヘブライ的固定観念から脱却しなければ、シオニズムの妄想に簡単に巻き込まれてしまうことでしょう。他にも、ローマ帝国の中心はローマではなくコンスタンティノポリスであったとの主張にも納得。西ローマ帝国滅亡後の東ローマ帝国を、あたかも別物であるかのように「ビザンチン帝国」等と呼称する、西欧中心主義の歴史の「上書き」にも気付かせて貰いました。日本史との関係で言えば、ポルトガル人が種子島にもたらしたのは、オスマン帝国製の鉄砲、ルーム銃ではなかったという説にも「目から鱗」でした。イスラームの歴史を学ぶことで、私たちが(日本の公教育も含めて)西欧の歴史観を鵜呑みにさせられていることが分かるのです。
  • 「黒いカーテン」(ウィリアム・アイリッシュ著、宇野利泰訳、創元推理文庫)
    崩れた建物の漆喰で頭を打った男が、その事故によって記憶を取り戻し、自分が何者であるかを探し求める訳です。しかし、記憶を失っていた時期に何等かの犯罪に巻き込まれていたらしく、彼の身辺に危機が迫って来ます。「巻き込まれ」型サスペンスの絶妙なアレンジです。アイデンティティを取り戻すために闘う男の物語として深読み出来ます。但し、アイリッシュ自身は娯楽に徹しているので、そこには拘泥しません。案外にサラッと進行します。その分、主人公の内面の掘り下げが浅く、軽い読み物に成ってしまいました。でも、とにかく古典中の古典、何も考えずに安心して、先へ先へと展開を楽しめ、すぐに読了します。
  • 「ゴールデンカムイ」第13巻(野田サトル作、集英社)
    漸く面白く成って来ました。こういうのが読みたかったのです。アクションです。ドンデン返しです。遂に、のっぺら坊を脱獄させるため網走監獄に潜入する一行。そこに張り巡らされた罠、旭川第七師団の急襲。鶴見中尉の台詞の通り、「よおし」「これを待っていた!!」です。都丹庵士の登場で気付いたのですが、これってマカロニ。重要人物を脱獄させるのは『ガンマン大連合』ですよね。
  • 「アド・アストラ/スキピオとハンニバル」第13巻(カガノミハチ作、集英社)
    大抵の人が戦いの展開を知っている「ザマの戦い」です。「関ヶ原」と同じく、実際には、一方的な戦いなのですが、それでは盛り上がらないので、敗軍の将を自覚しながらも最後まで戦いを続ける、ハンニバルの心境を描いています。それ故、本書のクライマックスはザマではなくチュニスです。スキピオとハンニバルとの間で執り行なわれた和平協定の場面と成っています。対峙する二人の軍略家、ここは渾身の筆致です。勿論、フィクションなのですが、フィクション故に痺れる場面展開です。因みに、敗戦後に直ちに自害する日本の将とは異なり、ハンニバルはザマの後、19年間も反ローマ諸国の軍師として活躍し続けるのです。
posted by 行人坂教会 at 13:55 | 牧師の書斎から

2018年03月31日

旭日亭菜単(続き)その44

  • 「映画とキリスト」(岡田温司著、みすず書房)
    脱帽です。これだけ体系的に纏まった「キリスト教と映画」の本が書かれたのは本邦初ではありますまいか。著者は映画全般についても、キリスト教の教義、神学、美術と図像学についても幅広い知識と深い知識があり、分析は的確です。自身は「信者ではないが」と繰り返し述べつつも、異教であるキリスト教信仰と文化に対して、並々ならぬ愛着を抱いて居られることが感じられます。もしや家族や友人に信者がおありでしょうか。巻末に「権力の真の栄光は無為」、教会の真の務めは「ヘトイマシア/準備」であるという、ジョルジョ・アガンベンのテーゼを持って来たのには、未来に期待されるべき教会の在り方が提示されているように思われました。現在、私自身が牧会する教会にとっても「ほっこりする時間」「最後の居場所」「気球のように浮いている」が、今後の目標となることでしょう。ハリウッド式「キリスト物」やメジャーな娯楽作品から、作家主義のマイナー作品まで、よくぞ網羅なさっていますが、欲を言うなら、次は、是非アジア映画(日本も含めて)への視点を加えて頂きたいと思います。
  • 「ラテンアメリカ怪談集」(ホルヘ・ルイス・ボルヘス他著、鼓直編、河出文庫)
    ムヒカ=ライネスの「吸血鬼」は、英国のホラー映画会社が撮影のために城を借り、城主の男爵に吸血鬼役を依頼したら、本物だったという話。『ノスフェラトゥ』の吸血鬼役が本物だったという、そんな映画がありましたね。火山の噴火でもないのに、街中に燃えるタールが降り始める、ルゴネスの「火の雨」は、勿論「ソドムとゴモラ」です。一見、意味不明のアルファベットの羅列でありながら、読み始めるや否や、その瞬間に文章が生成され、ふっと目を離すと分解されて、また初めから読み直さねばならない。そんな「さまよえるユダヤ人」の手記が出て来るのが、アンデルソン=インベルの「魔法の書」。本を読む人間にとっては地獄そのものです。ラテン作家によるシノワズムが面白いレサマ=リマの「断頭遊戯」。モンテローソの「ミスター・テイラー」は、首狩族の干し首を販売したら大ヒット商品となって「製造」が追い付かないという黒い笑いに満ちています。そして『奥の細道』のスペイン語訳で高名なオクタビオ・パスの登場。「波と暮らして」の奇想。しかし、まさしく夫婦生活そのものです。幕切れを飾るのは、リベイロの「ジャカランダ」、1960年代の前衛映画を観ているような、眩惑される感覚を味わえます。
  • 「昼も夜も彷徨え/マイモニデス物語」(中村小夜著、中公文庫)
    12世紀の高名なラビ、マイモニデスを描いた小説ということで、取り敢えず買ってみました。表紙の絵もマンガ風ですし、難解な表現もなく、用語説明も単純且つ的確で、その余りに軽快な語り口に、ラノベかと思った程でした。いや、実際、中高生くらいでも十分に楽しめると思います。しかし、内容やテーマは驚く程に深遠で骨太です。信仰、信念をもって生きるとは如何なることか。異教徒、異文化の者たちと如何に向き合い、共生するか。弾圧や迫害の中で如何にして己の内面の自由を守るべきか。なさしく「目から鱗」の展開でした。これは、私たちのような社会的少数者(キリスト者)にとっての課題であるのみならず、同調圧力が強く、常に周りの空気を読むことや忖度が要求される日本社会の中で、息苦しい思いを強いられている全ての人が直面している問題です。平易な言葉で綴られていますが、イスラーム世界や地中海世界を旅して得たという、著者の体験知は確かで信頼が持てます。「あとがき」に触れられた、現代パレスチナ問題に対する認識も鋭く、再臨論の立場からメシアニック・ジュダイズム等を支援している、原理主義のクリスチャンにも少し耳を傾けて頂きたいものです。エジプトの書記官、カーディ・ファーディルがちゃきちゃきの下町言葉を喋る設定は、先日のカリーマ師岡の指摘を思い出しました。
  • 「内部の真実」(日影丈吉著、創元推理文庫)
    推理小説なのに名探偵不在のまま物語が展開します。最後に真犯人は突き止められるものの、事件は解決されぬまま終結を迎えます。太平洋戦争末期の台湾、敗色が濃厚となる時期です。予め事件それ自体が忘れ去られて行く運命にあったのです。このもどかしさは、済し崩し的な開戦から必然としての敗戦に向かうプロセスそのものです。トリックを楽しむ物語ではありません。事件が真っ暗闇の庭で勃発したのと同じく、読者も暗がりの中に置き去りにされてしまったような感触です。それに加えて、シンガポール陥落時の描写に戦慄します。「そこには四、五人のうら若い華僑の娘が、腰を抜かして、のたうちまわり、暗い地面に何かを吐いていた。一ヵ月余も持ちこたえた兵隊の欲望に、狩り出された彼女たちは、服装や顔だちから見て、深窓の娘たちらしかった」。全く本筋とは関係ない場面ですが、主人公、小高が恋慕する葦田恒子(本島人鉄工業者の娘)の容疑を晴らすべく奔走する動機の1つとなっています。そんな訳で、邪道とは思いつつも、私はこの推理小説を、日影の戦争論として読んでいたのでした。
  • 「アンチクリストの誕生」(レオ・ペッツ著、垂野創一郎訳、ちくま文庫)
    18世紀のパレルモを舞台にした表題作は文句なしに面白いです。「オチがガッカリ」という意見もあるようですが、これは飽く迄もプロットや展開の凄さを楽しむべき作品です。オチが『オーメン』のような思わせ振りなものなら、却って平凡な怪奇小説に堕してしまうでしょう。オカルト物や伝奇物などというジャンルに収まり切らない所が、この作家の魅力です。その意味で「霰弾亭」も、ジャンル小説の枠から外れていて、曰く言い難い異様な後味を抱えたまま突き放されることになります。主人公フワステク曹長の性格が余りに常軌を逸していて、私たちの心の分類に収まり切らないのです。酒場での縄張り争いで、工兵たち十数人を一瞬にしてボコボコにする豪傑かと思いきや、青年時代の想い人と再会したばかりに自死を選ぶ程の繊細さ、傷付き易さ、それでいて分裂を感じさせない人物として造形されているのです。チェカー(ソ連の秘密警察)のジェルジンスキーが登場する「主よ、われを憐れみたまえ」、天才数学者ガロアをモデルにした「夜のない日」、降霊術をテーマにした「ボタンを押すだけで」。いずれも、初めて口にするエスニック料理を味わった時のような気分です。
posted by 行人坂教会 at 14:22 | 牧師の書斎から

2018年01月26日

旭日亭菜単(続き)その43

  • 「毒々生物の奇妙な進化」(クリスティー・ウィルコックス著、垂水雄二訳、文藝春秋)
    たった一撃で他の生物を害し、時には、その生命まで奪ってしまう有毒生物たち、その力に対する恐怖に、私たち人間は畏怖や信仰、憧憬や羨望さえ感じるのです。私自身も、小学生の頃、蠱毒を作ろうとして、蛇や蟇、毛虫や蛭、蜘蛛や百足、虻や蜂など、毒のありそうな生き物を捕らえては、同じ瓶の中で食い合いをさせていました。勿論、当時の私は「蠱毒」という語も知りませんでしたが、それでも混ぜ合わせれば、最強のポイズンカクテルが出来るものと無邪気に思い込んでいたのです。そう言えば、我が家には、祖先伝来の「百足の油」という医薬品が存在していました。家人は百足を見つけるや割り箸で摘まんで、ある油瓶の中に生きたまま投入するのが決まりでした。擦り傷や切り傷を作ると、その臭い油を傷口に塗られたものです。親戚の叔父さん(京都第二日赤の院長を長年務めた脳外科医)が、「わしも、これの治療効果を医学的に調べてみたいと思ったこともあったわ」と笑っていました。実際、現代医学では、有毒生物が進化させた神経毒や血液毒から、新しい薬物や治療法が開発されているのです。本書では採り上げられていませんが、有毒植物もある訳ですから、この分野には更に未だ可能性があります。「人を殺せずして活かすこと能はず」です。
  • 「私たちの星で」(梨木香歩×師岡カリーマ・エルサムニー著、岩波書店)
    異文化、多人種との共生(共存)をテーマにした往復書簡集。梨木は、EU離脱で混乱する英国で、アラブ人のタクシー運転手から受けたホスピタリティに感動し、「ムスリムの人は優しい」と称えますが、彼は「全部のムスリムがそうだというわけではないよ、ほら、五本の指は皆違う、と言いながら片手を上げ、そして裏表もある、と、手のひらをひらひらさせます」。その度量の大きさ、成熟度に感じ入ります。一方のカリーマは、英国映画『あなたを抱きしめる日まで』に登場する老修道女が、かつて彼女がヒロインに対して行なった残酷な仕打ちを自己弁護する台詞から、「修道女なら自我を捨てて万人を愛せ」と一方的に要求するのは残酷ではないかと問い掛けます。「その人の信仰故にあるべき姿を基準にその人の行いを裁くのは、必ずしもフェアではないということ」。私たちは、この社会や他人が貼り付けて来るレッテルからも、自分が自分や他人に貼り付けるレッテルからも自由でありたい。日本社会では、政治と宗教に話が及ぶや、ガラガラと相手の心のシャッターが閉まって行くのが見えます。欧米のサロンで、政治と宗教の話をしないのは、それを契機に論争が始まってしまうからです。日本では、深い考えも主義主張も無いままに、タブー化して蓋をしてしまいます。相手にレッテルを貼り付けて、交流そのものを拒絶してしまう場合が多いのです。まるで「鎖国外交」のようです。
  • 「真夜中の檻」(平井呈一著、創元推理文庫)
    「吸血鬼ドラキュラ」はじめ怪奇小説の翻訳家として高名な著者による、小説2作に、アンソロジー等のために書き下ろした解説文などを1冊に集めています。とにかく表題作には圧倒されます。終戦の年、新潟県の僻地にある庄屋の屋敷に、古文書を調べに行った青年が消息を絶ちます。徒歩で村への道を歩く場面、広大な屋敷の中の描写など、著者が新潟で教員をしていた時代の見聞が反映されています。細部のリアリティが確かでなければ、ホラーは成立しないという見本のような作品です。打って変わって「エイプリルフール」は、銀座や本郷、松濤が舞台になるモダニズムの世界。大映で市川崑が若尾文子主演で撮っていてもおかしくないでしょう。しかし、これは「生霊もの」の一種です。兄嫁に寄せる大学生の弟の慕情が伏線に成っていて中々のものです。
  • 「ゴールデンカムイ」第12巻(野田サトル作、集英社)
    正直、獣姦趣味の姉畑支遁(「シートン動物記」からの命名)の挿話は酷かった。それでも、壮絶な死に様には敬意を表します。一行が釧路に到着するや、アオウミガメやマンボウ、ラッコを次々に食べるグルメマンガに戻ります。ラッコの肉を食べると発情するとは知りませんでした。それにしても、蝗害とラッコと男色の盛り合わせ、作者の迷走ぶりは目に余ります。これでは「ヤオイ系」でしょう。更に盲目の盗賊ガンマン、都丹庵士(トニアンジ)って、マカロニウエスタン『盲目ガンマン』のトニー・アンソニーでしょう。アクション画は絶品なのですが、やたらと男たちの裸体を並べています。
  • 「怪奇礼讃」(E・F・ベンスン他著、中野善夫・吉村満美子編訳、創元推理文庫)
    W・H・ホジソンの「失われた子供たちの谷」が素晴らしい。事故で幼い子を亡くした親の深い悲しみがテーマになったことで、単なる幽霊譚に終わらない、忘れ難い味わいがあります。「詩編」23編の「死の陰の谷」と「子供たちの谷」とが隣り合わせになっているなんて思いも寄りませんでした。M・アームストロングの「メアリー・アンセル」は陰鬱な物語でありながら、幕切れの爽やかさにハッとさせられます。オチのある所が怪談の怪談たる所以です。A・ノースコートの「オリヴァー・カーマイクル氏」は、女の生霊に取り憑かれて苦闘する男の話ですが、これまた幕切れに不思議な感動が用意されています。M・コルモンダリーの「死は共に在り」は、建築家の青年が古い地下聖堂に封印されていた悪霊を解き放ってしまう話。怪奇小説の定石通りに怖いです。J・D・ベリスフォードの「のど斬り農場」は黒いユーモアに近いけれども、これが米国に行くと、ロバート・ブロックの「サイコ」に化けるのかも知れません。M・ラスキの「塔」は高所恐怖症の人にお薦め。E・F・ベンスンの「跫音」は小泉八雲の「むじな」そのものです。
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2017年11月29日

旭日亭菜単(続き)その42

  • 「大貧帳」(内田百闥、中公文庫)
    教授室の隣の喫煙室で、百鬼園先生が、文科系と思しき甲君、物理の乙君、化学の丙君ら教師仲間を相手に、火だの水だのと論争するも、数学の丁君から一言「水は物質で、火は現象です」とトドメを刺されます。そこから、百鬼園先生、自論を展開して曰く「金は物質ではなく、現象である」、遂には「Time is money」と言うが如く「金は時の現在の如きもの」「この世には存在しない」と喝破する辺り、感動的です(「百鬼園新装」)。これは、単なる思弁ではなく、とことん金にだらしなくて、年中金欠なのに贅沢が身に付いてしまっていて、それでいて身なりや見栄には何の頓着も無く、その癖、金貸し、借金取りの類いに無縁の暮らしが出来ない、複雑怪奇な百鬼園先生が、その人生の中から獲得した真理に他なりません。盲腸の手術をした田氏を見舞った序でに、「退院祝いに、新しいのを買いなさい」と説いて、病人の帽子(しかも、ボルサリーノ)を貰って帰る話は凄い。まるで「説教強盗」です。京都から岡山に帰る汽車賃が足りず悶々とする少年時代の「二銭紀」も、初めて独り旅をするドキドキ感に溢れています。要するに、百鬼園先生の借金癖は、アルコール等と同じく、一種の依存症だったのではないでしょうか。どうして、こうまで借金をしてしまうのか、周りの誰もが理解不能だったはずです。でも、借金の利子が膨らんで生活を圧迫して行くドキドキ感に、彼は初体験を重ねていたのではあるまいかと思うのです。
  • 「死の舞踏/恐怖についての10章」(スティーヴン・キング著、安野玲訳、ちくま文庫)
    先ず膨大なページ数に圧倒されますが、読み始めてみると、底抜け脱線の例話や雑談が続き、絞れば半分くらいに収まったのではないかと思いました。映画、ラジオ、テレビ、コミック、そして小説と、ホラーというジャンルによって、様々な表現領域を横断して行きますが、その知識量の豊かさ、分析の深さは帝王キングならではです。これに触発されて、誰かホラー音楽やホラー演劇(グラン・ギニョールかしら)について書けば良いのに…。さて、キング自身は作家ですから、彼の本領が遺憾無く発揮されるのは、第9章です。ピーター・ストラウブの『ゴースト・ストーリー』、シャーリィ・ジャクソンの『丘の屋敷』、アイラ・レヴィンの『ローズマリーの赤ちゃん』、ジャック・フィニィの『盗まれた街』、レイ・ブラッドベリの『何かが道をやってくる』、リチャード・マシスンの『縮みゆく男』、ハーラン・エリスンの『クロウトウン』等がホラー分析の教材にされています。私が中学時代に一気読みした、ジェームズ・ハーバートの『鼠』も高く評価されていて、自分事のように嬉しくなりました。「ジョナサン・エドワーズの説教」だの、「メソジストの信条」だの、「分析せんがために聖書を読むべからず」だの、「カルヴィニスト的道徳観の名残のようなものがある」だの、言葉の端々から、キングが信仰深いメソの家庭に育った片鱗が伺えます。信仰は彼のホラーにとって必要不可欠な要素なのです。町田智浩の「解説」によると、スタンリー・キューブリックがキングに直接電話をかけて「君は神を信じているのか?」と問うと、即座に「イエス」と答えたとの由。
  • 「プリニウス」第6巻(ヤマザキマリ+とり・みき作、新潮社)
    動物や鳥と交流する例の少年が、ティルス出身のフェニキア人という設定に成りました。ネロ帝がご執心の女奴隷プラウティナは、ブリタニア人のキリスト教徒。ネロの愛人、ポッパエアに取り入っている高級宝石商のレヴィテはユダヤ人。第一次ユダヤ戦争を平定することになる、司令官ヴェスパシアヌスも登場します。段々と新約聖書の世界に近付いて参ります。と言うか、ローマ大火とキリスト教徒迫害だから、シェンキェヴィッチの『クォ・ヴァディス』でしょうかね。そして、哲人セネカも登場します。新約外典に「パウロとセネカの往復書簡」というのがありました。作画も綺麗だし、ストーリー展開も上手だし、毎回、安心して読めて文句の付けようがありません。
  • 「宇宙船ビーグル号の冒険」(A・E・ヴァン・ヴォークト著、沼沢洽治訳、創元SF文庫)
    子ども時代に読んだ1冊です。懐かしくて再読しました。テレビの『宇宙大作戦』の何度目かの再放送を楽しみにしていた当時の私にとって、宇宙の猛獣ケアル、幻影鳥人リーム人、超生物イクストル、巨大無形生命体アナビスと、4大モンスターが登場する物語に興奮したものです。ケアルが生命体のイドを食べ、古代都市の遺跡が発端になるので、初めて『禁断の惑星』を観た時には「ビーグル号だ!」と叫んだくらいです。今読み直すと、イクストルがクルーの腹部に卵を産み付けるのも、船外に放出するのも『エイリアン』そのものです。著者が映画会社を訴えて、5万ドルを手にしたのも頷けます。ビーグル号が前代未聞の危機に直面する度に、主人公のエリオット・グローヴナーが手探りで解決法を導き出して行き、それが船内での彼の地位向上に繋がるという展開です。子どもの時には全く意識しませんでしたが、アメリカの企業を舞台にした出世物語と同じですね。因みに、考古学者の苅田は、パット・モリタの顔、しかも久米明の声で、私の脳内テレビが勝手にキャスティングして放映してしまうのでした。
  • 「アド・アストラ/スキピオとハンニバル」第12巻(カガノミハチ作、集英社)
    スキピオ・アフリカヌスの活躍が続きます。バグラデス川の戦いで、西ヌミディアとカルタゴの連合軍を殲滅するところがクライマックス。その後、ハンニバルがイタリア半島から呼び戻されて、ザマの戦いに至る訳ですが、スキピオとカルタゴとの間で進められていた和平工作が出て来ません。カルタゴの元老院も一枚岩ではなくて、カンナエ前後のローマ上層部と同じ状況にあったはずです。ハンニバルがアフリカに上陸して、カルタゴ側の事情は全て省略されています。結果、好戦派がカルタゴの主導権を握るのですが、その一連の展開が、スキピオとハンニバルとの頂上会談というドラマに集約されています。勿論、これは完全なフィクション。伝説によると、二人が直接対話したのは、ハンニバルがカルタゴを追われ、セレウコス朝シリアのアンティオコス3世の下で軍事顧問を務めていた時、場所はエフェソスとされています。因みに、アンティオコス3世は、ローマには小アジアの領土を奪われたものの、プトレマイオス朝エジプトからユダヤを奪い取り、ヘレニズム化を進めた王で、旧約聖書続編「マカバイ記」にも登場します。
  • 「もののあはれ/ケン・リュウ短篇傑作集2」(ケン・リュウ著、古沢嘉通編訳、ハヤカワ文庫)
    表題作は、小惑星の衝突前に地球を脱出した宇宙船の、唯一の日本人クルーの物語。著者は「もののあはれ」という美意識を少し深読みし過ぎているような気もします。しかし、最後の日本人の死と共に、固有の言語や文化、観念も消え去って行くというモチーフは、今や現実的に感じられるようになりました。「円弧」と「波」は姉妹編。いずれもヒロインが科学技術によってアンチエイジングを成し遂げる話で、女性読者は羨望をもって貪り読むこと請け合い。但し、両者の結末は似て非なるもの。「信仰への道を納得して進むために、必要なのは1ビットのエラーだ」というテーゼが出て来る「1ビットのエラー」は、シリウスから届く光の中に、愛する者の死の瞬間、キリストが十字架に掛けられた瞬間、今とは異なる時間を受け取ることで、永遠と繋がる幸せを説いています。巻末「良い狩りを」は、妖怪退治師(道教の退魔師)の息子と妖狐の娘との慕情がテーマ。しかるに、物語の舞台は清朝末期からパラレルワールドの香港に移ります(当然、スチームパンクだし…)。このコンビが活躍するエンタテインメントも出来たでしょうに、著者の関心はそちらに向かいません。でも、もしかしたらハリウッドが目を付けて、原作とは似ても似付かぬB級映画に仕上げるかも知れません。
posted by 行人坂教会 at 13:55 | 牧師の書斎から