2015年11月12日

一点一画 one jot or one title その28

  • 「時間と空間のかなた」(A・E・ヴァン・ヴォークト著、沼沢洽治訳、創元SF文庫)
    知的宇宙生物エズオルと人類の攻防を描いた「第二の解決法」、宇宙植物アイビスが人類を滅亡させるのが「平和樹」、いずれもヴァン・ヴォークトの定番メニューです。貸し出し上映される度に、フィルムの中身が変質する「フィルム・ライブラリー」には、16ミリ映写機の懐かしい匂いを感じました。意外な拾い物は「永遠の秘密」です。ナチスドイツの興亡を、「ケンルーベ装置」という架空の発明品を通して描いて見せます。しかも、この作品、物語を報告書だけで構成するという実験作です。国家権力によって戦争目的のために利用される科学者が、見事に意趣返しを遂げる展開も心地良いです。「避難所」は「宇宙ヴァンパイア」ドリーグ人との絶望的な戦いを描いていますが、いつもながらのドンデン返しは流石です。ただ、私としては、少年のような美少女クラッグ人、パトリシア・アンガーンに、もう少し活躍して欲しかったです。
  • 「日本残酷物語1/貧しき人々のむれ」(宮本常一、山本周五郎、楫西光速、山代巴監修、平凡社)
    五社英雄の映画『御用金』で、幕府の御用金を運ぶ船を座礁させるトリック、あれは全国津々浦々の漁村で、日常的に使われていたのです。山村では、僅かばかりの開墾地を巡って、『七人の侍』のような流血の抗争が繰り広げられています。三浦哲郎の『おろおろ草紙』のネタに成った、天明の大飢饉における人肉食も取り上げられています。後半の「弱き者の世界」では、乞食の生涯、子どもの間引きと堕胎、姥捨て、女性忌避、過酷な炭鉱労働、遊女、からゆきさんの証言が語られていきます。それは、現代日本を象徴する課題であるはずの、貧困家庭とホームレス、幼児虐待と育児放棄、老人施設での暴力、性暴力、売買春と風俗産業の原点を見るようです。貧しさ故に、乳児を放置して農作業や炭鉱労働に従事しなければならず、働けなくなった老人たちは自らを役立たずと蔑み、死に急ぎます、つい50年か百年ほど前には、この貧困が日本の現実であったことを覚えたい。しかも、精神性においては、今も大して変わっていません。巻末には、今村昌平の『女衒/ZEGEN』のモデル、村岡伊平治の波瀾万丈物語もあります。日本の女性たちは、鎖国時代から拉致られて、中国や香港で性奴隷にされていたのですね。
  • 「カフカの『城』他三篇」(森泉岳士作、河出書房新社)
    カフカの『城』、漱石の『こころ』から「先生と私」、ポーの『盗まれた手紙』、ドストエフスキーの『鰐』が短編マンガと成って収録されています。観念的、寓話的、幻想的などと言われて、皆が敬遠する作品ばかりです。物語をなぞるのではなく、その作品の持つ雰囲気を抽出しているのです。あの長大な『城』が僅か16ページのマンガに化けるのですから、凄いと言わざるを得ません。でも、丘の上に建つ城の周りを、いつ終わるともなく巡り歩いているような「悪夢の香り」、『こころ』の朦朧とした感じ等よく出ています。墨汁で描かれた世界ですから、描かれていない余白こそが、この連作の最大の魅力かも知れません。
  • 「風立ちぬ/宮崎駿の妄想カムバック」(宮崎駿作、大日本絵画)
    とにかく全ては、堀越次郎設計の九単(三菱KA−14九試単座戦闘機)の美しい機体に奉げられているのです。九単は、後の九六艦戦(九六式艦上戦闘機)や零戦(零式艦上戦闘機)の原型に成る試作品。しかし、「逆ガル」の主翼が大変に美しいのです。「逆ガル」とは、「ガル」(カモメ)のM字形に見える主翼と逆に、W字形に成っている主翼のことです。結局、映画『風立ちぬ』も、この「逆ガル」を見て、ビリッと戦慄が走るかどうかで、作品の評価が分かれてしまうでしょう。因みに、私の息子たちは「映画を観ても何も感じなかった」「意味不明だった」と言います。そりゃあそうです。プラモデルも作ったことがないのですから。
  • 「ミス・ブロウディの青春」(ミュリエル・スパーク著、岡照雄訳、白水社)
    1967年に映画化されています。残念ながら私が覚えているのは、サンディを演じたパメラ・フランクリンが美術教師のヌードモデルになる場面だけです。但し、ロッド・マッケンの主題歌「ジーン」は大好きで、数年前のクリスマス会で披露したことがあります。原作は、実に苦み走った味わい。女子学園中等部のブロウディ先生は6人の生徒を選んで、彼女が信じる「エリート教育」を施します。女生徒たちは高等部に進んでも尚「ブロウディ組」として個性を発揮します。しかし、そんな「最良の時/the prime」も、やがて終わりを告げます。物語は20年後の時点から回顧されているのです。それこそは、彼女たちが成長した証なのですが、それでも彼女たちの「最良の時」はあの時代だったと認めざるを得ないのです。単なる郷愁や懐古趣味ではありません。多感な少女期に強烈な個性と溢れる情熱を持った人物と出会い、その影響を受けてしまうということは、それ程に喜ばしく、また同時に(一種のトラウマのような)苦々しい体験なのです。
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2015年10月09日

一点一画 one jot or one title(続き)その27

  • 「灯台守の話」(ジャネット・ウィンターソン著、岸本佐和子訳、白水社)
    久しぶりに心が震えた読書体験でした。母親の死後、孤児となって、灯台守の見習いとして住み込むことになった少女シルバー、そして彼女に物語の力を与える盲目の灯台守ピュー、この二人の魂の交流が描かれます。更に、百年前に、その教区の牧師を務めたバベル・ダークの二重生活の謎が語られていきます(最終的には、三人の魂の交流か)。著者は、熱狂的なペンテコステ派の両親の下、女説教師となるべく育てられるも、同性を愛したがために教団を追放され、自活しながら独学でオックスフォードに入学したそうです。ですから、そのレトリックには、聖書を思わせる確信犯的なイメージの共鳴があり、生硬に見えて、実は思索と推敲を重ねた言葉が綴られているのです。初期設定こそ、ギャリコの『スノー・グース』やグラスの『ブリキの太鼓』を連想させますが、どうしてどうして、これまで全く読んだことのないような展開です。そう言えば、シルバーが灯台生活から追放された後の章が「新しい惑星」の表題でした。灯台での暮らしは、まるで宇宙ステーションのようでもあった訳です。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』にも通じる、闇の中に灯火が瞬く世界です。
  • 「大映セクシー女優の世界」(上妻祥浩著、河出書房新社)
    採り上げられているのは、1968〜71年の3年間、倒産寸前の大映が断末魔のようにして量産した「性春映画」です。八並映子、渥美マリ、八代順子、笠原玲子、関根恵子、松坂慶子などが出演した作品群です。私は著者より6歳年長ですが、ローカルテレビ局の深夜映画番組で、関根の『遊び』や渥美の『でんきくらげ』(いずれも増村保造監督作品)に出会って、衝撃を受けた経験は共通しています。特に『遊び』には深い愛着があり、放映される度に観たものです。少年と少女が河の中の浮島に向かって泳いで行くラストシーンの切なさは、生涯忘れることはありません(野坂昭如原作だけに、『火垂るの墓』と同じ感触がある)。熊本のローカル局(RKK)放映のデータを集積したり、1969年に渥美マリが熊本市の写真撮影会に来演していることを突き止めたり、著者の情熱には頭が下がります。
  • 「修験道/魔と呪いの系譜」(滝沢解著、KKロングセラーズ)
    数珠はバラモンの法具「Japa」に由来し、西欧で直訳されて「ロザリオ/薔薇の花」に成ったとか、そんな話が延々と披露される訳で、楽しい限り。ザビエルの案内を務めたアンジロー(鮫島彌次郎?)が「鮫島円成坊」なる山伏として活動していたというエピソードに心惹かれました。熊野の奥、玉置神社に行こうとして、岩場で進退窮まった体験談で、「荒御霊」をもって迎えられたと解釈し、「無理しなくて良かった」と安堵する辺り、修験者ならぬ我々も一緒にホッとしていました。但し、最終章「マンダラの気圧配置」に関しては、著者自身が手探り状態であるせいか、それまでのボルテージが一気に落ちて、門外漢の私などは投げてしまいました。その件を差し引いても、お釣りは来ます。現在78歳という年齢で、こんなポップな文章を書くのかと感動して買った1冊でした。やはり「難しいことを優しく」説明する人が一番偉いです。
  • 「アド・アストラ/スキピオとハンニバル」第8巻(カガノミハチ作、集英社)
    遂にシラクサの攻囲戦、「アルキメデスの器械」の登場です。しかし、これは既に、岩明均が『ヘウレーカ』でやってしまっているので、作者の苦心の跡が随所に見られます。「鉤爪」の攻撃なども、ローマの軍船側から描くので、意識して構図も変えてあります。「スパルタのダミッポス」も登場させるのですが(『ヘウレーカ』の愛読者としては複雑な気分)、まあ、面白ければ何でもありです。
  • 「プリニウス」第3巻(とり・みき+ヤマザキマリ作、新潮社)
    プリニウス一行は頽廃の都ローマを跡にして、ウェスウィウス火山の麓までやって来ます。やはり、皇帝ネロの自堕落な生活なんかよりも、大きな蛸が水揚げされたり、突然、温泉が湧き出したり、亜硫酸ガスで羊の群れが死んでいたり、天変地異の前兆に、プリニウスが遭遇していく、これこそが本題でしょう。こちらとしては、古代版の「SRI」(『怪奇大作戦』)みたいなことを期待している訳ですよ。こっそり、小プリニウスを登場させたりするのも、中々心憎い演出ではあります。
  • 「岸辺のヤービ」(梨木香歩著、小沢さかえ画、福音館)
    背の低い幼児の目線が捉える世界は、私が見ている世界とは絶対に違うはずだと思います。私自身のことを言えば、二男の車椅子を押して、一緒に街を歩いていると、彼が不思議な何かや面白い何かを発見することが多いのです。勿論、彼が指摘してくれなければ、こちらは目にも入らなかったものたちです。この物語の「ウタドリ先生」も、湖沼にボートを浮かべて、何気なく岸辺を眺めていた時、ヤービという小さな生きものに出会います。そもそも通常の目線とは全く異なる世界の見方をしていたのです。ですから、従来の人生や生活に行き詰ったり、これまでの価値観に限界を感じたり、仕事や作業が煮詰まったりした時には、実際に、そうしてみるだけで良いのです。妖精や妖怪、トロルやエルフに出会う一番簡単な方法です。それにしても、久々に素敵な本を手にすることが出来ました。
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2015年09月15日

一点一画 one jot or one title(続き)その26

  • 「ゾンビの科学/よみがえりとマインドコントロールの探求」(フランク・スウェイン著、西田美緒子訳、インターシフト)
    ロシアのブリュコネンコは切断した犬の頭部だけを生かし続けました。米国のコーニッシュは殺した犬の蘇生実験を繰り返し、犬には聖書に因んで「ラザルス3号」等と命名しました。フリーマンは(ナイフを米神に刺して脳を切断する)初期ロボトミー手術を「心の手術」と称して繰り返しました。デルガドは患者の脳に電極を埋め込み、彼が攻撃性を発揮する前に抑制しました。いずれもグロテスクな生体実験です。しかし、現在では、人体は(血液や臓器や細胞を提供する)資源として流通し売買されています。クローンの問題も含めて、人間存在の固有性とか人格の尊厳とか、これまで信じられて来た価値観が科学と経済によって瓦解しつつあります。ハイチのゾンビは、死者を労働によって搾取することでしたが、今や、自然のままなら死んでいるべき人が「脳死」状態に留め置かれ、肉体を搾取される時代がやって来たのです。
  • 「黒い破壊者/宇宙生命SF傑作選」(A・E・ヴァン・ヴォークト、ロバート・F・ヤング他著、中村融編、創元SF文庫)
    やはり「ビーグル号」第1話に当たる表題作が、今読み直しても一番面白い。『遊星よりの物体X』『禁断の惑星』『エイリアン』その他の名作映画に与えた影響も窺い知れます。この作品にも、カリタという日本人考古学者が登場しますが、R・マッケナの「狩人よ、故郷に帰れ」にも、学者のトヤマ夫妻、そして、ミドリという名の魅力的なヒロインが出て来ます。いずれも異世界を解き明かす役回りなので、当時の欧米人にとってミステリアスな存在だったということなのでしょう。P・アンダースンの「キリエ」は、宇宙で活動する修道女エロイーズと、「ルシファー」と名付けられたエネルギー生命体との魂の交流を描いています。中世の修道女たちの神秘主義、神との合一をモデルにしています。J・H・シュミッツの「おじいちゃん」の主人公コードは、どこかエリスンの「少年と犬」を思い出させます。ヤングの「妖精の棲む樹」の語り手、世界樹の伐採者、ストロングは言います。「もしも、愛するものが殺されねばならないのなら、自分の手でそうしてやるのが慈悲だ。なぜなら、慈悲というものが殺人の一部になりうるなら、愛人にこそ、それを与えてやる最高の資格があるというものではないか」。と言う訳で、人類と遭遇する生命体よりも、それと対峙する人間側に思いが傾くのですが、これも加齢のせいでしょうか。
  • 「モサド・ファイル/イスラエル最強スパイ列伝」(マイケル・バー=ゾウハー&ニシム・ミシャル著、上野元美訳、ハヤカワノンフィクション文庫)
    私はシオニズムに対して批判的な立場ですが、それでもイスラエル国家及びモサドが、ユダヤ人同胞の命を徹底して助けようとする執念には、頭が下がります。例えば、1984年の「モーセ作戦」、1991年の「ソロモン作戦」では、エチオピアとスーダンから何万人単位で同胞を脱出させ、イスラエルへ移住させようとします。その目的達成のために、莫大な国家予算を注ぎ込み、如何なる犠牲も厭いません。1940年代、イラク在住の同胞10万人を移送した立役者となったスパイ、ダカルはイラク当局に逮捕、死刑を宣告されます。しかし、イスラエル政府の地道な交渉により、9年後に本国送還されるのです。「ダカルを帰国させるまで、モサドの長官たちは、創設当初の方針の1つをかたくなに守った。国民を生きて取り戻すためなら、努力と手段と犠牲を惜しむなかれ」。勿論、シオニストの立場で書かれた本であり、多分に美化されてもいるはずです。それでも、私は溜め息が出ます。戦前(移民政策)も戦中(将兵の人命軽視)も戦後(中国残留)も、現代(原発難民)も、一貫して「棄民政策」を続けている我らが政府とは、思想の立脚点が余りにも違っているからです。
  • 「18の奇妙な物語/街角の書店」(フレドリック・ブラウン、シャーリィ・ジャクスン他著、中村融編、創元推理文庫)
    江戸川乱歩の造語「奇妙な味」をテーマに編纂されたアンソロジー。今回一番のお気に入りは、イーヴリン・ウォーの「ディケンズを愛した男」です。S・キングの『ミザリー』を思い出させる展開です。分かっていても怖いのです。ロナルド・ダンカンの「姉の夫」も予想通りの展開。大好きなS・ジャクスンの「お告げ」は可愛らしい小品。書名の通り街の店が舞台になるのが、ネルソン・ボンドの「街角の書店」、テリー・カーの「試金石」、ハーヴィー・ジェイコブズの「おもちゃ」。仰天したのが、文豪スタインベックの「M街七番地の出来事」です。風船ガムがもたらす恐怖なんて、誰も発想できません。8歳の息子から「おとうさん、ぼくがガムを噛んでるんじゃない。ガムがぼくを噛んでるんだ」と、泣きながら言われたらどうしますか。ロジャー・ゼラズニイ(懐かしい!)の「ボルジアの手」、キリスト教神学を修めた作家ならではの「さまよえるユダヤ人」ネタにワクワク、ところが展開が平板、オチが何の捻りもなし。
  • 「オフシーズン」(ジャック・ケッチャム著、金子浩訳、扶桑社海外文庫)
    長男が「父の日」にプレゼントしてくれました(どんな親子関係なのか!?)。秋の閑散とした避暑地の別荘に都会からやって来た6人の男女が、突如、食人族に襲撃され、嬲り殺しにされていきます。ヒロインは逆さ吊りにされて、陰部から喉元まで切り裂かれ、内臓を引き摺り出されて、焚き火でバーベキューにされます。襲われた人たちも逆襲に転じ、マグナムを撃って族の頭を吹き飛ばしたり、煮えたぎる油とバターを族の女子供の頭の上にぶちまけて、大火傷させたり、遂に侵入して来た子供たちの首を鎌で切断したりします。しかし、この『リオ・ブラボー』か『要塞警察』のような、凄まじく残酷な籠城戦は序の口です。誰一人として無傷で終わることのない物語です。『サランドラ』『悪魔のいけにえ』『食人族』『わらの犬』『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』、更に、ゴールディングの『蝿の王』等の記憶がこの作品に熱い血を沸き立たせているのです。絶対にお勧めできない一冊です。
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2015年08月03日

一点一画 one jot or one title(続き)その25

  • 「怪奇文学大山脈/西洋近代名作選」第1巻「19世紀再興篇」(荒俣宏編、東京創元社)
    クレメンス・ハウスマンの「人狼」の迫力が凄い。劇画的とさえ言えるでしょう。多分、映画『ハウリング』も影響を受けているのでしょうが、美女の人狼なのです。リチャード・マーシュの「仮面」は、美女が「わたくしたちの顔は、ある意味では、仮面にほかなりません」と語り始める場面から始まります。これは気持ちの悪い話でした。現代劇に手直ししても、十分に通用する作品です。この2作はファム・ファタル物です。やはり、女は怖い。ロバート・チェンバースの「使者」は、黒魔僧と戦う羽目になった若夫婦の物語ですが、ブルターニュという舞台設定に深い味わいがあります。「気むずかしいブルターニュ人に口を割らせるるのは、星辰の道筋を変えるよりもむずかしい」のだそうです。ドイツ・ロマン派の作品、ゲーテの「新メルジーネ」、ティークの「青い彼方への旅」も紹介されています。妖精や侏儒の出て来る世界、少し不気味なメルヒェンです。特に後者には「取り替え子/チェンジリング」の話も出て来ます。
  • 「シュトヘル/悪霊」第11巻(伊藤悠作、小学館)
    「すでにモンゴルは文字を得た。モンゴルは勝者の筆で語ることが出来る。」―「でも、テムジン。勝者の筆の記したものは、常に、敗者からすれば偽りに満ちている。いつ誰の筆を得ようと。ひとつに限られた勝者の筆を取り合うかぎり、記されていくのは常に、誰かにとっての偽りだ。だからこそ筆を、どこまでも増やすんだ。数も、種類も。」 遂に大ハーンと対峙したユルールの語りです。現代は、ITの普及によって米国英語が「国際語」のような顔をして幅をきかせ、日本でも為政者たちが母語を粗末に扱っています。また、かつて日本帝国が植民地や占領地で母語(方言も)の使用を禁じ、日本語(標準語)を押し付けた歴史、固有の文字を持たぬアイヌ語はじめ少数民族の言語伝承が困難に成っている現状も思わないではいられません。
  • 「決定版・20世紀戦争映画クロニクル」(大久保義信著、洋泉社)
    著者は雑誌「軍事研究」の副編集。阿片戦争から日露戦争までを「大戦前史」として、位置づけをしてあり、また、省かれがちな大戦後の中国の国共内戦に1章を割く誠実さに感銘を受けました。古今東西の戦争映画を、C級アクションからアート系作品まで幅広く採り上げてあります。米英作品一辺倒ではなく、日本映画は勿論、フィンランド、デンマーク、オランダ、ウクライナから、ベトナム、カンボジア作品に至る当事国の作品も忠実に紹介しています。各章末の年表も凄いです。この際、『地獄の決死隊』『ビーチレッド戦記』『フロッグメン』が出て来なかった等とは言うまい。ともかく、厳密さが魅力です。そして、本来は兵器オタであったのでしょうね。イデオロギーに関係なく、登場する戦闘機、戦車、艦船、銃火器類が史実通りに再現されているかどうか、戦闘や作戦、戦場の状況が描かれているかどうか、それこそが著者の視点なのです。徒にヒロイズムやセンチメンタリズムに流されず、それでいて、心動かされる点は、静かに胸に刻み付けて行きます。好感を持てるスタンスです。
  • 「教科書に載っていないUSA語録」(町山智浩著、文春文庫)
    歩いて行ける距離に生鮮食料品店がなく、ファストフード店ばかりが並んでいる「食べ物砂漠/Food Desert」、ファストフード店はもとより、スーパー販売の牛肉の7割に混入されている「クズ肉(食肉解体処理の際に出る脂肪をアンモニアで防腐処置した)/Pink Slime」。食べることが大好きな私としては、この2つが突出して気になりました。勿論、保守的キリスト教徒(福音派)を辛辣に論評した「キリストの戦士民兵団/Hutare Militia」や「携挙/Rapture」、カルトのサイエントロジー用語「ジヌー/Xenu」、モルモン教徒ロムニーのネタ、イスラムのネタもあります。しかし、著者が言うように、アメリカは日本の鏡でもあります。アメリカで行なわれた政治的失策を、日本の政治家たちは、何年か後に、そのまま真似しているからです(しかも、その失敗が明白に成ってから)。日本の支配階層もまた、ただ自己利益を優先して、国を滅ぼしつつあることが分かります。
  • 「エクスタシーの神学/キリスト教神秘主義の扉をひらく」(菊地章太著、ちくま新書)
    キリスト教神秘主義と言えば、西田・田辺学派の人たちが難解な用語を駆使して繰り広げる論文の数々が思い浮かびます。ところが、著者は、日本人にも馴染み深いザビエル像の図版から説き起こし、ロヨラの「霊操」を経て、エクスタシーを軸に、シエナの聖カテリーナ、アヴィラの聖テレサ等の女性神秘家たちを採り上げます。著者の専門領域からフランスとスペインに限定し、ドイツ神秘主義は最初から扱いません。ヒルデガルト・フォン・ビンゲンも扱いません。この境界設定のお陰で、神秘主義を扱った本の中では、具体的で理解し易い内容に成っています。反宗教改革の時代に成ってから、庶民は「無原罪の御宿り」を信仰し始め、教皇庁の正式な認可は2百年後だったという説明には、目から鱗でした。カトリックには、重病を患う人が、その苦しみによって、キリスト以後の贖罪を続けているという信仰があります。それも、神秘主義の奥義「ウニオ・ミスティカ/神人合一、神秘的合一」から解き明かすことが可能です。
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2015年06月26日

一点一画 one jot or one title(続き)その24

  • 「回顧七十年」(斎藤隆夫著、中公文庫)
    先日、父の二十五回忌の法事のため、久しぶりに但馬の実家に帰省。その際、仏間に飾られた斎藤隆夫の扁額を改めて確認して来ました。「雲氣靜/雲高くして気静か」に「天城隆」と署名されていました。平凡と言ってしまえばそれまで。むしろ、飾らぬ但馬人気質が出ていて安心しました。叔父によれば、拙宅に逗留した際に書かれたものらしいのですが、回顧録を読みながら、いつ頃に書かれたのか気になりました。併録されている演説2篇、二・二六事件直後の所謂「粛軍演説」、日中戦争処理についての質問演説は、今読んでも胸がすく思いです。保守政治家の立場から正面切って、ここまで厳しく内閣と軍部の責任を追及した人は誰もいません。斎藤は全く平和主義者、理想主義者などではなく、徹底した現実主義者、しかも熱烈な天皇崇拝者ですが、しかし、立憲政治を信奉し、それに殉ずる気概を持っていたのです。何の展望もないままに軍部が始めた日中戦争のために、どれだけの血税が浪費されて、どれだけ国民の生命財産が失われているか訴える件は、涙無くして読めません。昨今の国立競技場建設問題や「集団的自衛権」法案を見る限り、日本の官僚や代議士たちの行き当たりばったりの体質は何も変わっていません。
  • 「ノヴァーリスの引用/滝」(奥泉光著、創元推理文庫)
    著者の作品を読むのは『石の来歴』以来でした。ノヴァーリスが好きで買ってみたのですが、読み終えてみると、圧倒的に『滝』が面白かった。修験道系の宗教教団の「若者組」の少年たちが夏期修練の総仕上げとして回峰行に挑みますが、それを監督する「青年組」の男の屈折した愛情が原因となって壊滅していくのです。少年たちの肉体と精神が崩壊していく様は「少年十字軍」を思い出しました。誓約(うけい)の際の神籤が先輩たちによって恣意的に操作される慣例があったり、女人禁制の故に男色が黙認されていたり、実に興味深い。『ノヴァーリス』には、泥酔した「私」が1979年の春にタイムスリップする展開があります。ここが、十数年前に自死したとされる石塚の側からの、仲間たちへの異議申し立てに成っています。これまでの展開を全て引っ繰り返して、推理ごっこに興じる生者たちこそが、殺人の真犯人であったと主張します。黒澤の『羅生門』で、巫女に憑依して語る死せる夫の霊と同じです。
  • 「神話の力」(ジョーゼフ・キャンベル&ビル・モイヤーズ著、飛田茂雄訳、ハヤカワノンフィクション文庫)
    キャンベルによる神話や宗教儀礼の引用には、アメリカ先住民、古代インド、マヤやアステカの神話、それに仏教説話なども頻出するのですが、それに加えて、聖書やカトリック信仰(彼自身の出発点)も重視されています。少し彼のカトリック贔屓は鼻に付くかも知れません。プロテスタントはルターが採り上げられている以外、全く問題外で、東方教会については手付かずのようです。しかしながら、神話学の立場から読み直しているせいか、彼の聖書解釈は、「聖書の非神話化」以後の私たちから見ても的確です。対話者のモイヤーズが南部バプテストの神学校出身者だという点も重要で、旧来のキリスト教批判も含めて、全米の一般的読者が内容を受容するために、大きな役割を果たしていると思います。但し、日本の読者がこれを鵜呑みにして、自分たちの「宗教的寛容の風土」を誇る等というのは勘違いも甚だしい。日本宗教の中の権力構造については、私たち自身が批判していく課題として残されているのです。
  • 「ヒストリエ」第9巻(岩明均作、講談社)
    旧作『寄生獣』が実写映画化されてヒットしたり、テレビアニメ化されたりして何かと話題になっても、どこ吹く風と、相変わらず地味な歴史物をコツコツ描き続けている作者は凄い。買った日に2回読みました。「カイロネイアの戦い」開戦という所で終わってしまう訳で、戦闘も殺戮もない巻なのですが、それでも面白いのです。アテネのフォーキンとのやり取り、アンティパトロスとの腹の探り合いを、エウメネスがしているだけで嬉しいのです。昔懐かしい人も再登場していますし、新キャラのフォイニクスも頼もしい「相棒」に成りそうだし…。
  • 「妻を帽子とまちがえた男」(オリヴァー・サックス著、高見幸郎・金沢泰子訳、ハヤカワノンフィクション文庫)
    表題は比喩や寓意ではなく、その言葉通りに妻の頭を摑むや持ち上げて被ろうとする患者が登場するのです。彼は、一見しただけでは対象物が何であるか認識する直観力と総合力を失ってしまったのです。また、別の男性は19歳以降の記憶を失ってしまって、今現在の記憶も次の瞬間には、砂に書いた文字が波に浚われるように消えて行きます。ある女性は、身体の固有感覚を失ってしまい、視覚によって意識集中させなければ、自然に動けなくなってしまいます。神経と精神・身体の不思議を思わないではいられません。「われわれは『物語』をつくっては、それを生きているのだ。物語こそわれわれであり、そこからわれわれ自身のアイデンティティが生じると言ってもよいだろう」。「生物学的あるいは生理学的には、人間は誰しもたいして変わらない。しかし物語としてとらえると、一人一人は文字どおりユニークなのである」。「世界とはどういうものなのかを子供に教えるのは、『物語的な』あるいは『象徴的な』力なのである。具体的な現実が表現されるからである」。脳神経科医の著者にして、この言葉、唸らせます。
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2015年05月01日

一点一画 one jot or one title(続き)その23

  • 「あそぶ神仏/江戸の宗教美術とアニミズム」(辻惟雄著、ちくま学芸文庫)
    妻の親戚に「ギイ坊(ぼん)さん」と呼ばれる作仏聖(さくぶつひじり)がいたらしい。全国各地を遊行した後、京都の桂の山奥に庵を結んで、仏像を彫り続けたらしい。最期は四国で亡くなったとか。妻の実家に帰る度に、その「ギイ坊(ぼん)さん」の釈迦誕生像(多分「天上天下唯我独尊」の姿勢と思われる)と御一緒させて貰っている。この本に採り上げられる円空や木喰行道の仏像を見て、この無名の作仏聖の存在が重なったのでした。他に、風外慧薫、白隠、仙高フ禅画、天龍道人源道の仏画が解き明かされ、伊藤若沖、葛飾北斎の浮世絵の宗教性までが論じられています。日本の風土に深く根差したアニミズム(万物に神仏霊が宿っている)の復権が、この本のテーマです。私たち、日本のキリスト者としても、パンセイズム(汎神論、万有在神論)として受容、再解釈した上で、土着化を考えるべきです。遠く蝦夷地まで渡って木彫、石彫を続けた木喰(「奪衣婆」の素晴らしさ)、「法ノ本ハ無法ナリ」と、意識的に無技巧な禅画を志した仙香A彼らの求道の人生もさることながら、日本の仏教美術に見られるファンシー(奇想、可愛らしさ)、これが大切です。どう見たってマンガやアニメの源流でしょう。
  • 「マクロイ傑作選/歌うダイアモンド」(ヘレン・マクロイ著、好野理恵他訳、創元推理文庫)
    アラビアの格言「かなえられた願いには禍いがつきもの」、余程、著者お気に入りの言い回しだったのでしょう、「八月の黄昏に」と「人生はいつも残酷」に引用されています。やはり、巻頭の「東洋趣味(シノワズリ)」には舌を巻きます。幻想的、衒学的、厭世的な物語でありながら、義和団事件直前の清朝末期という歴史的背景が素晴らしい効果を上げているのです。ドッペルゲンガーを扱った「鏡もて見るごとく」、UFO目撃者が次々と怪死を遂げる「歌うダイアモンド」は、推理小説の体裁は採っているものの、探偵役が法廷精神科医ということもあり、また、著者の心理表現の技巧も相まって、心理小説(超心理小説?)と言っても良いでしょう。私が最も感銘を受けたのは、核戦争による終末を描いた「風のない場所」です。レイモンド・ブリッグスの『風が吹くとき』やグードルン・パウゼヴァングの『見えない雲』に比肩するアポカリプス・メルヘンです。巻末「人生はいつも残酷」は、その苦々しさが読了しばらく後を曳きます。「灰の味を見るようだった。彼女は出ていった。荒涼とした世界に一人残されたブライは、口の中に苦さを感じた。それは燃え尽きた青春の後味だった」。
  • 「おばけずき/鏡花怪異小品集」(泉鏡花著、東雅夫編、平凡社ライブラリー)
    「…夜と昼、光と暗との外に世界のないように思って居るのは、大きな間違いだと思います。夕暮れとか、朝とか云う両極に近い感じの外に、たしかに、一種微妙な中間の世界があるとは、私の信仰です。私はこのたそがれ趣味、東雲趣味を世の人に伝えたいものだと思って居ります」(「たそがれの味」)。そんな黄昏時の逢魔を描く「怪談女の輪」が怖い。やはり、男子にとって女の曲線ほど魔性に通じるものはありません。それも、集団で登場された日には…。「黒壁」は、丑の刻詣りに遭遇してしまった生々しい恐怖。武家屋敷の「血天井」「不開室」「庭の竹籔」と来て、在り来たりと思っていたら、映画『ホステル』か、月岡芳年の無残絵みたいに残酷趣味も加わってしまう「妖怪年代記」。今や古典の域の鏡花ですが、ストーリーテリングよりも、その独特な感性から生まれる表現にドキッとさせられます。「颱風の中心は魔の通るより気味が悪い」、「心づくと、人ごみに揉立てられたために、手を曳いた児は、身なしに腕一つだけ残った」、「ひとえに白い。乳くびの桃色をさえ、蔽いかくした美女にくらべられたものらしい」、「縁側の手拭掛が、ふわりと手拭を掛けたまま歩行んです」、「川の流は同じでも、今のは先刻の水ではない」、「黒髪に透く星あかりを魂棚の奥に映す」…。親戚が城崎の老舗旅館をやっているので、随筆「城崎を憶う」では、故郷を懐かしみました。
  • 「みうらじゅんのゆるゆる映画劇場」(みうらじゅん著、文春文庫)
    「(どんな映画でも)どこかしらグッとくるシーンはあるに違いない。それを見つける行為をオレは修行≠ニ呼んで映画館に通っているのである」(「文庫版あとがき」)。これって結局、淀川長治のモットー「私は未だかつて、嫌いな人に会ったことがない」と同じですね。意外にヨドチョーさんと繋がっているのです。「淀川長治先生のTV映画解説の最後が『ビースト/巨大イカの大逆襲』であったように、終焉は突然やってくる。人生は選ぶことができないという」の一節にシビレました。そう、何を隠そう、著者と同じく怪獣映画ファンの私も、日曜洋画劇場、ヨドチョーさんのラストカット、見ましたがな「『JAWS』と同じ、ピーター・ベンチリーの原作なんですね」と強調しておられました。最近は、ジャンル映画についてのウンチク本、それどころか、わざわざトラッシュ(クズ映画)を漁って、お笑いネタとしてリサイクルする類いの映画本が数多ありますが、著者は、大ヒット作も、苦手な恋愛映画も、ホラーも青春映画も、時代劇も分け隔てなく鑑賞しています。不真面目に見えて、かなりな「ヨドチョーさん」なのでした。いや、『シベ超』や『ペキフー』を持ち上げて、カルトに仕立て上げてしまった力量は侮れません。
  • 「時代劇は死なず!〈完全版〉/京都太秦の『職人』たち」(春日太一著、河出文庫)
    私の友人Kは、1970年代末、東映太秦映画村でバイトをしていました。ロボコンの着ぐるみに入って村の中を歩くだけ。観光客の女の子と抱き合って、記念写真に収まる仕事、しかも「ロボコンお散歩、随時」だったそうです。その話を聞いて羨ましいと思ったものです。その映画村が、稼働率の低下したオープンセットの活用、撮影所スタッフ、大部屋俳優の出向先であったことは、本書に詳しい経緯が記されています。観客人口の減少と映画産業斜陽化は、テレビの普及が原因として挙げられて来ました。しかし、その固定観念を覆したことが、本書の最大の功績です。実際には、撮影所からテレビ製作現場へと出向した人々が新たな表現の場を与えられたこと、そのお陰で撮影所と時代劇製作の人材が生き残ったことが証明されたのです。しかしながら、「新書版あとがき」「文庫版あとがき」を読むと、残念ながら現在では「死なず!」とは言えぬ、壊滅状態に至ってしまったとのことです。
  • 「アド・アストラ/スキピオとハンニバル」第7巻(カガノミハチ作、集英社)
    マケドニア王フィリポス5世が登場。ハンニバルに呼応し、アドリア海とイリュリアの覇権を巡って、ローマ艦隊と戦います。世に言う「第一次マケドニア戦争」の始まりです。フィリポスは、ハンニバルのカルタゴが敗北した後も、対ローマ戦争を続けることになります。まあ、そういう話は描かれていませんが、「第二次ポエニ戦争」の背景として押さえて置くとしましょう。それでも、第45話「忠臣の使命」には、マケドニアに向かうハンニバルの使節船が、ローマ艦隊の攻撃を受ける場面がしっかり描かれており、『ベン・ハー』でお馴染み、火槍(ファラリカ)投擲や衝角(ロストルム)による体当たり攻撃が出て来ます。重装歩兵を敵船に乗り込ませるための嘴(コルルウム)も見えられます。新キャラ、マゴーネ(ハンニバルの幼馴染)が中々いい味を出しています。
posted by 行人坂教会 at 13:22 | 牧師の書斎から

タイトルが新しく変わりました。

「牧師の書斎から」で掲載しておりました「幽径耽読」ですが、このたびタイトルを新しく変更させて頂きました。


一点一画 one jot or one title」です。


「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイによる福音書5章18節)と言われています。「一点」は「1つのイオータ」、ギリシア文字「イオータ」(英語のアルファベットの「i」に当たる)は、ヘブル語では「ヨッド、ヨード」、一番小さな文字なのです。「一画」は「1つの小さな角」、ヘブル文字の「ダレット、ダーレス」(英語の「d」に当たる)は、まさしく「一画」という形をしています。

この世が終わる、その日まで、本を読む楽しみを大切にしたいと思いました。


・・・というのがその由来です。


posted by 行人坂教会 at 10:16 | 牧師の書斎から

2015年03月20日

幽径耽読 Book Illuminationその22

  • 「映画の中の奇妙なニッポン」(皿井垂著、彩図社)
    「クール・ジャパンよりもフール・ジャパン」の面白さ。昔は「国辱映画」等と叫んで、真剣に憤慨したものですが、今では、ドン引きしつつも「こんなにイジってくれちゃって」と苦笑いしたり噴き出したりしている訳で、それこそ、私たちも些か国際化したということなのでしょう。それにしても、著者の採り上げた圧倒的な作品数、著者の守備範囲の広さには、驚かされました。早川雪洲の古典『チート』からアラン・レネやグリーナウェイまで、渡辺謙からフィリピン映画のニンジャ役者のケン・ワタナベまで、あるいはMr.BOOまで…。著者は「批評めいた視点からはできるだけ離れ、…闇鍋のようにぶちこんでみた」と書いていますが、これだけブチ込めば、自然と批評になってます(これ、賞賛です)。個人的には、ジャッキー・チェン主演(と言っても、出演は1カットのみ)の『ドラゴン特攻隊』が抜けていたのは惜しまれます。大戦中、中国軍の特殊部隊が日本軍の要塞に奇襲をかけますが、「日本軍の戦車だ!」と言われて、見れば、黄色いブルドーザーだったりします(KOMATSUと書いてある)。「ゼロ戦だ!」と言われて、見れば、セスナ機が出て来る『ロンゲスト・ブリッジ』というZ級カス映画もありました(盧溝橋事件を描いた作品ということになっています)。
  • 「エヴァンジェリカルズ/アメリカ外交を動かすキリスト教福音主義」(マーク・R・アムスタッツ著、加藤万里子訳、太田出版)
    読了して、私自身、幾つかの点で原理主義者と福音主義信者とを混同していたと反省しました。また、米国の福音派の社会貢献の大きさにも感心しました。この本に言う「福音主義」とは、20世紀初頭のリベラル派と原理主義者との対立の結果、その両方に組しない穏健な人々により形成された勢力なのです。「20世紀末にメインライン教派(ルター派、長老派、メソジスト、バプテスト)が会員と影響力を急激に失ったのは、彼らの関心が神のことばを説くことよりも、注目を浴びる課題についてうけのよい立場を示すことにある、と見なされたからにほかならない」。しかし、当の福音派も、政治、経済、環境、軍事、人権などについて発言と関与を重ねていく中で、多様化し影響力が低下しているとの由。歴史は繰り返すのです。日本では正当に評価されていないR・ニーバー、トクヴィル、ベラー、ミード等が著者の論拠になっています。「訳者あとがき」で、シビル・レリジョン(公共宗教、市民宗教)関連で、私の恩師、森孝一教授の分析も引用されています。
  • 「マーカイム・壜の小鬼/他五篇」(ロバート・ルイス・スティーヴンソン著、高松雄・高松禎子訳、岩波文庫)
    やはり、古典は読むべきですね。怪談からピカレスクロマンまで、ヴァラエティに富んだ短編の数々に発見があります。怪奇ファンとしては、あのヘンリー・ジェイムスも絶賛したという「ねじれ首のジャネット」を筆頭に挙げねばなりません。寒村の教会に赴任した、スコットランド長老教会の牧師が体験した恐怖。悪霊と対峙する時には、絶対に目を背けてはなりませんね。著者は敬虔なキリスト信者ですが、自らの出自である長老教会の偏狭な信仰には距離を置いていたようです。「壜の小鬼」は、所有者の欲望を叶えるが、持ち続けていれば、一緒に地獄に連れて行かれるという代物。しかも、自分が購入した金額よりも安く誰かに転売しなければならないという規則を伴います。文句なしに楽しめる展開です。「水車屋のウィル」と「マーカイム」には、死神(神御自身とも思われる)との対話が用意されていますが、2作は子どものような素直さと天邪鬼の見事な対比でした。ジャンル分け不能の「天の摂理とギター」は、夫婦者の旅芸人の物語ですが、この力強さ、逞しさ、大らかさや優しさが、果たして私たちにあるでしょうか。もっと楽天的に、自由に世の中を渡って参りたいものです。
  • 「丹生都比売(におつひめ)/梨木香歩作品集」(梨木香歩著、新潮社)
    まるで童話か絵本のような語りで綴られる「夏の朝」は、物語性ということについて深く考えさせられます。神や仏の如くして物語るものもあれば、作中人物の一人に憑依して(作中人物の口を借りて)証しするものもあります。まあ、後者も依代を立てるのですから、やはり神がかりではある訳です。「依童(よりわら)」という語があるように、子どもに語らせるのが、読者が入り易い仕立てです。しかし、敢えて語り手を意識させるという意味で、この作品は非常に異質なのです。さて、20年ぶりに読んだ表題作。私もいっぱしに人の親になって、命の切なさや哀しさについて、思いを至らすようになったようです。「…ああ、露よ。おまえも、その身を露と固めてこの世に出でくるまでは、ずいぶんと寄る辺ない切ない思いで、漂っていたことであろうなあ…」「…醜い欲も、たぎるような感情も、やがては哀しくなって、土が水銀に精錬されるように、このような美しい珠となるのだろうか…」。ラストを飾る「ハクガン異聞」、霧の出た森の小径で迷ってしまった結果、思いも寄らぬ風景や生き物に遭遇した経験です。そうそう、私たちは、学生時代、CAMELの「SNOW GOOSE」のファンでしたよね。
  • 「プリニウス」第2巻(とり・みき+ヤマザキマリ作、新潮社)
    古代ローマ物のマンガって楽しいな。第13話「インスラ」の冒頭のカット、豚の首切り、それこそ、フェリクスが家族のために焼いている肉だったのですね。2回目に捲ってみて漸く繋がりました。この豚の首のカットのリアリズムに比べると、第12話「プラウティナ」の終わり近く、ネロ皇帝の辻斬りの場面には、かなり粗雑な絵があります。巻末の合作者対談を読むと、2人共に殆どアシを使っていないらしいし、時々、手の回らないこともあるのだろうなと推察します。
  • 「たんぽぽ娘」(ロバート・F・ヤング著、伊藤典夫編、河出文庫)
    はい、やっと文庫化、晴れて購入、楽しく読了。表題作は、これぞヤング、やはり、タイムトラベル・ロマンティックSFの金字塔です。私としては「荒寥の地より」に最も感銘を受けました。ノスタルジーの中に寂寥感が漂っています。過去の愛しい思い出の中に、未来から来た男が入っているのです。例えて言えば、デジャヴのような、何とも知れぬ朦朧感が堪りません。そう言えば、表題作の中にも、タイムパラドックスを軽く一蹴する言葉がありました。「時の書物はすでに書かれているんですって。巨視的に見れば、将来起こるできごとは、もうすでに起こっているのだと父はいうの。もし未来人が過去の事象にかかわりあったら、その人は過去の一部になってしまう―つまり、もともとその人は過去の一部として存在していたから―この場合には、だから、矛盾は起こりえないということになるわね」。まさか、カルヴァンの予定説かよ。「神風」と「ジャンヌの月」は、共に「ボーイ・ミーツ・ガール」物ですが、ハッピーエンドの分、後者が嬉しいですね。「ジャンヌ」には、こんな一節もありました。「戦時法は、あらゆる法と同様に、状況や効果を鑑みて、施政者の意のままにいかようにも適用されるということを忘れていた」。主人公は慄然とします。私たちは間に合うでしょうか。
posted by 行人坂教会 at 10:21 | 牧師の書斎から

2015年02月10日

幽径耽読 Book Illuminationその21

  • 「ドミトリーともきんす」(高野文子作、中央公論社)
    ここは、朝永振一郎、牧野富太郎、中谷宇吉郎、湯川秀樹が寄宿する学生寮。寮母のとも子さんと赤ん坊のきん子さんは、学生さんたちの思考と発想に耳を傾けながら暮らしています。なぜか日本の公教育が少しも教えてくれない、科学者たちの人間味溢れる表情や物腰を、高野の漫画が垣間見せてくれます。敢えて「漫画」と書いたように、多分、4人のキャラは、彼らと同時代に活躍した4人の漫画家のキャラを被せてあります(朝永が50年代の手塚風だったり、牧野は「矢車剣之助」風だったりする)。そして、圧巻はフィナーレを飾る湯川の「詩と科学」です。高野の漫画を背景にして、湯川の言葉に接するとなぜか胸に染み、落涙を禁じえませんでした。
  • 「日本霊異記」(原田敏明、高橋貢訳、平凡社ライブラリー)
    行基の説法を拝聴していた女が連れていた子は、10歳を過ぎても歩かず、泣き続け、乳を飲み食べ続けています。まるで『千と千尋の神隠し』の「坊」のようです。行基は「その子を淵に捨てろ」と再三勧告し、遂に女が流すと、その子は「あと3年お前から貪ろうと思っていたのに」と捨て台詞を呟きます。その子は前世の敵対者だったという話(中巻第30話)。ホドロフスキーの『ホーリー・マウンテン』で、ヨガの行者の勧めで、キリスト似の男が肩に乗せている侏儒を舟から投げ捨てる場面を思い出しました。蛇に犯された娘に薬草を飲ませて堕胎させる話(中巻第41話)、鳥の卵のような肉の塊から生まれた女の子が長じて尼となり、「外道」と罵られながらも高い知恵で仏道を究めて行く話(下巻第17話)、娘が結婚した夫は実は悪鬼で、初夜に頭と指1本を残して食われた話(中巻第33話)、未婚の女が男と交わることなく懐妊、神の宿る石を産む話(下巻第31話)、女性が絡む怪異談が私には特に面白かったです。
  • 「鳥/デュ・モーリア傑作集」(ダフネ・デュ・モーリア著、務台夏子訳、創元推理文庫)
    デュ・モーリア中毒です。ヒチコックの映画化で有名な「鳥」の恐ろしさは、核戦争の始まってしまった世界の隠喩ではないでしょうか。何しろ、主人公ナットは自宅のロッジを補強して、シェルターを作るのですから。「戦時中、空襲があった時と同じだ。国のこちら側では誰も、プリマスの人々がどんな目に遭ったかを知らない。人は、自らその被害を受けないかぎり、何事にも関心を抱かないのだ」。ナットの独白も有り触れた言葉に見えて奥深い怖さがあります。冬の寒い日が設定されているのですが、鳥の襲撃から一夜明けてみると、友人の農場からも、近所の公団からも一筋の煙も上がっておらず、火の気が無くなっている、その風景描写に慄然とします。ヒロインの心が不思議な山岳宗教に捕らえられてしまう「モンテ・ヴェリタ」、映画館の案内嬢に導かれて、自動車修理工の青年が闇の領域へ足を踏み入れてしまう「恋人」、有閑マダムが避暑地でアヴァンチュールを愉しんでいる内に煉獄に陥る「写真家」、富豪の若妻の自殺原因を求めて、探偵が辿る道のりが、まるで巡礼のように描かれる「動機」…。圧巻です。
  • 「オオカミの護符」(小倉美惠子著、新潮文庫)
    神奈川市宮前区土橋、東急田園都市線の鷺沼とたまプラーザの間にある地域が、一瞬にして、橘樹郡宮前村大字土橋に戻ります。護符を通して、著者が私たちを1960年代初頭へと誘うのです。やがて御嶽講の宿坊(わが教会学校も御岳山荘に泊ったことがあります!)を経、山岳信仰の源流を遡り、秩父の深奥へと分け入って行きます。オオカミのお産の鳴き声を聞きつける「心直ぐなる者」との出会いは感動的ですらあります。明治の廃仏毀釈は教科書でも教えていますが、明治政府が修験道禁止令を出したことは知りませんでした。山の神に抱かれて初めて成り立つ暮らしと祈りは、「自然」「環境」「里山」「宗教」といった語を当て嵌めることすら躊躇われます。労働にも「稼ぎ」と「仕事」の2種類があるという山村の流儀(内山節の説)、勉強になりました。
  • 「宰相の二番目の娘」(ロバート・F・ヤング著、山田順子訳、創元SF文庫)
    ヤングは自作中短編の長編化をする作家です。これは以前に読んだ「真鍮の都」でした。展開もオチの付け方も『時が新しかったころ』と似ています。少女が成長して、迎えに来てくれる(待っていてくれる)というパターンは、ハインラインの『夏への扉』と言い、どうやら、タイムトラベル物を書く男性SF作家(と、その男性読者)の願望みたいです。そんなことは最初から分かっているのですが、読んでいる間は、それこそ愛妾に寝物語を聞かせて貰っているスルタンの気分になれます。
  • 「いま見てはいけない/デュ・モーリア傑作集」(ダフネ・デュ・モーリア著、務台夏子訳、創元推理文庫)
    中学生の時『レベッカ』を読んで以来です。エルサレムの聖地ツアーにやって来た一行の受難劇「十字架の道」が面白そうだったので買いました。インフルエンザに伏した老牧師の代役を務めさせられることになった若い牧師の憤懣よく分かります。その老牧師のために無償の奉仕を続けて来た老嬢が、当の牧師が「付き纏われて困っている」と漏らしたとの噂を耳にして恐慌を来たす辺りもリアルです。ニコラス・ローグの『赤い影』の原作たる表題作、クレタ島に来た美術教師が体験するパン神の呪い(「真夜中になる前に」)、怖いです。亡き父の旧友を訪ねた新進女優が垣間見た不思議な世界(「ボーダーライン」)は、きらきらと輝く少女の感受性がお見事。「第六の力」は『ウルトラQ』の一ノ谷博士みたいな研究者の話。とにかく粒揃いの作品集です。
posted by 行人坂教会 at 15:52 | 牧師の書斎から

2015年01月06日

幽径耽読 Book Illuminationその20

  • 「刻刻」第8巻(堀尾省太作、講談社)
    ヒロイン、樹里が「止界」から登場人物を一人ずつ退場させて行くことで、物語が終局へと向かいます。でも、「あたしがここに最後まで残る」という悲壮な自己犠牲に終わらせないのが、この作品の美点です。幕引きの仕方としては安心でした。全体としては、登場する女性たちの力強さと賢さを感じます。その辺りは、星野之宣の『ヤマタイカ』でしょうか。
  • 「不思議屋/ダイヤモンドのレンズ」(フィッツ=ジェームズ・オブライエン著、南條竹則訳、光文社古典新訳文庫)
    巻頭の「ダイヤモンドのレンズ」が圧倒的に強い印象を残します。顕微鏡を覗くのが唯一の趣味という理科少年が長じて、最高水準の顕微鏡セットを組み上げるのですが、ある日、レンズの向こう側に、妖精の少女を発見するのでした。そこで急カーブして幻想小説の趣きを呈して行きます。ダイヤモンドを手に入れるために、ユダヤ人商人を殺してしまう辺りは、『罪と罰』のようでもありました。つまり、オブライエンは多面的な作家なのです。そう言えば、昔、望遠鏡を題材にした窃視症の男の物語をマンガで読みました(吉田光彦の『ペダルに足がとどく日』に入っていた、多分「ズームバック」)。意外に楽しめたのが、中国物「手品師ピョウ・ルーが持っているドラゴンの牙」です。解説によると、「太平天国の乱」と関係があるらしいです。
  • 「シュトヘル/悪霊」第10巻(伊藤悠作、小学館)
    金国の居庸関攻略戦に新型弩(石火矢)が登場。それ以外に軍事的な進展はありません。民族の興亡を達観した上で、大ハンを討とうとするハラバル(「等価」)、真正面から大ハンに西夏文字の価値を説こうとするユルール(「愚者」)、純粋に大ハンの首を取ろうとするシュトヘル(「大首」)、大ハンを討たせてトルイへの代替わりを目論むナラン(「出来事と心」)。こうして主要登場人物のベクトルは全て、大ハンに向かいます。そして、ユルールの前に姿を現わした大ハン(「対峙」)…。次巻が山場です。
  • 「MASTERキートン/Reマスター」(浦沢直樹×長崎尚志作、小学館)
    昔の『MASTERキートン』では女子高生だった娘の百合子が、離婚したばかりという設定で、第7話「マルタ島の女神」に登場。キャラクターの成長ぶりを見るパターンは『20世紀少年』です。第1話「眠り男」と最終話「栄光の八人」が、いずれも病室で幕切れとなります。どちらも絶望的な現実の中に、小さな光を灯そうとする物語です。始まりと終わりが繋がっていて、円環になっています。第4話「ハバククの聖夜」は『リオ・ブラボー』『要塞警察』、籠城戦の典型。これがシンプルで、一番好きです。第5話「女神とサンダル」、第6話「オオカミ少年」は、忘れていた過去を思い出す話です。東欧の人身売買ビジネス、ユーゴ内戦、北アイルランド紛争、ワシントン条約違反の密輸ビジネス、東西冷戦時代のスパイ網、フォークランド紛争、またユーゴ内戦と現代史に、いつものドナウ川文明、トロイア戦争、マルタの地下神殿と考古学ネタのスパイスも効かせてあって、往年の読者も安心して読めますが、それにしてもキートン、全然老けていないじゃないですか。
  • 「ハリウッド美人帖」(逢坂剛+南伸坊談、七つ森書館)
    何と言っても、逢坂剛の凄まじいブロマイド・コレクションに脱帽しました。私にとって面白かったエピソードを挙げます。ボギーの『大いなる別れ』のファム・ファタル、リザベス・スコットは神学校出身(牧師を目指していたんだ)。私も彼女のCDは持っています。『拳銃の町』のオードリー・ロングは牧師の娘。ドロシー・マローンは南メソジスト大学出身。ビング・クロスビーは『我が道を往く』の「オマリー神父」だけに熱心なカトリック信者。不倫交際中のインガー・スティーヴンス(『刑事マディガン』)にプロテスタント(スウェーデン出身なので、多分、ルター派)からの改宗を迫るも、彼女が拒否したため破局。改宗を受け入れたキャスリン・グラント(『シンドバッド7回目の航海』)と結婚したとか。ドロレス・ハート(『ボーイハント』)は女優を引退して、ベネディクト会の修道女になっていたのですね(「オスカー投票メンバーである、史上唯一の修道女」)。胸元の大きく開いたドレスのロンダ・フレミング、ジューン・ナイト(初耳の女優)、胸が尖がっているドロシー・ラムーアにマリア・モンテス、脚線美のイロナ・マッセイ、リリー・パルマー、ヴァージニア・メイヨ、シド・チャリース、ジョーン・ドルー、ケイ・ランドール。レスリー・ブルックス、ヴェラ=エレン、エレイン・スチュワートの水着姿、ホットパンツのドリス・デイとホープ・ラング、肩の美しいニコール・モーレイ、ダナ・ウィンター、マーラ・パワーズ、ジア・スカラ、とにかくセクシーなティナ・ルイーズ、珍しく薄化粧のクラウディア・カルディナーレ、私の贔屓のリー・レミック、キャロル・リンレーまで、眺めているだけで幸せになります。
  • 「屍者の帝国」(伊藤計劃×円城塔著、河出文庫)
    謎の敵「ザ・ワン」を追跡する展開は、『メタルギアソリッド/ガンズ・オブ・パトリオット』を思い出させます。ホームズの盟友、ワトソンを中心にして、『ドラキュラ』『フランケンシュタイン』『カラマーゾフの兄弟』『007』『海底2万里』、果ては『風と共に去りぬ』も出て来ます。しかしながら、肝心の「ザ・ワン」が登場した辺りから物語の運動が失速した印象は拭えません。正直、私も乗り切れなくなってしまいました。時々、気の効いた台詞や奇想も出て来るだけに残念でなりません。失敗の原因の1つは、唯一のヒロインである「ハダリー」の造形が中途半端である点です。『エヴァ』の綾波レイみたいな存在なのですが、絵の無い分、私にはチンプンカンプンでした。本作の「屍者」「屍兵」もまた、数多のゾンビ物と同じく、組織集団や大衆の中で魂を剥奪された人間の暗喩です。しかし、そうであれば、尚の事、酷使され、遣い捨てられて行く彼らの無残な姿は、もっと描かれるべきだったのではないでしょうか。
posted by 行人坂教会 at 07:53 | 牧師の書斎から