2015年05月01日

タイトルが新しく変わりました。

「牧師の書斎から」で掲載しておりました「幽径耽読」ですが、このたびタイトルを新しく変更させて頂きました。


一点一画 one jot or one title」です。


「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイによる福音書5章18節)と言われています。「一点」は「1つのイオータ」、ギリシア文字「イオータ」(英語のアルファベットの「i」に当たる)は、ヘブル語では「ヨッド、ヨード」、一番小さな文字なのです。「一画」は「1つの小さな角」、ヘブル文字の「ダレット、ダーレス」(英語の「d」に当たる)は、まさしく「一画」という形をしています。

この世が終わる、その日まで、本を読む楽しみを大切にしたいと思いました。


・・・というのがその由来です。


posted by 行人坂教会 at 10:16 | 牧師の書斎から

2015年03月20日

幽径耽読 Book Illuminationその22

  • 「映画の中の奇妙なニッポン」(皿井垂著、彩図社)
    「クール・ジャパンよりもフール・ジャパン」の面白さ。昔は「国辱映画」等と叫んで、真剣に憤慨したものですが、今では、ドン引きしつつも「こんなにイジってくれちゃって」と苦笑いしたり噴き出したりしている訳で、それこそ、私たちも些か国際化したということなのでしょう。それにしても、著者の採り上げた圧倒的な作品数、著者の守備範囲の広さには、驚かされました。早川雪洲の古典『チート』からアラン・レネやグリーナウェイまで、渡辺謙からフィリピン映画のニンジャ役者のケン・ワタナベまで、あるいはMr.BOOまで…。著者は「批評めいた視点からはできるだけ離れ、…闇鍋のようにぶちこんでみた」と書いていますが、これだけブチ込めば、自然と批評になってます(これ、賞賛です)。個人的には、ジャッキー・チェン主演(と言っても、出演は1カットのみ)の『ドラゴン特攻隊』が抜けていたのは惜しまれます。大戦中、中国軍の特殊部隊が日本軍の要塞に奇襲をかけますが、「日本軍の戦車だ!」と言われて、見れば、黄色いブルドーザーだったりします(KOMATSUと書いてある)。「ゼロ戦だ!」と言われて、見れば、セスナ機が出て来る『ロンゲスト・ブリッジ』というZ級カス映画もありました(盧溝橋事件を描いた作品ということになっています)。
  • 「エヴァンジェリカルズ/アメリカ外交を動かすキリスト教福音主義」(マーク・R・アムスタッツ著、加藤万里子訳、太田出版)
    読了して、私自身、幾つかの点で原理主義者と福音主義信者とを混同していたと反省しました。また、米国の福音派の社会貢献の大きさにも感心しました。この本に言う「福音主義」とは、20世紀初頭のリベラル派と原理主義者との対立の結果、その両方に組しない穏健な人々により形成された勢力なのです。「20世紀末にメインライン教派(ルター派、長老派、メソジスト、バプテスト)が会員と影響力を急激に失ったのは、彼らの関心が神のことばを説くことよりも、注目を浴びる課題についてうけのよい立場を示すことにある、と見なされたからにほかならない」。しかし、当の福音派も、政治、経済、環境、軍事、人権などについて発言と関与を重ねていく中で、多様化し影響力が低下しているとの由。歴史は繰り返すのです。日本では正当に評価されていないR・ニーバー、トクヴィル、ベラー、ミード等が著者の論拠になっています。「訳者あとがき」で、シビル・レリジョン(公共宗教、市民宗教)関連で、私の恩師、森孝一教授の分析も引用されています。
  • 「マーカイム・壜の小鬼/他五篇」(ロバート・ルイス・スティーヴンソン著、高松雄・高松禎子訳、岩波文庫)
    やはり、古典は読むべきですね。怪談からピカレスクロマンまで、ヴァラエティに富んだ短編の数々に発見があります。怪奇ファンとしては、あのヘンリー・ジェイムスも絶賛したという「ねじれ首のジャネット」を筆頭に挙げねばなりません。寒村の教会に赴任した、スコットランド長老教会の牧師が体験した恐怖。悪霊と対峙する時には、絶対に目を背けてはなりませんね。著者は敬虔なキリスト信者ですが、自らの出自である長老教会の偏狭な信仰には距離を置いていたようです。「壜の小鬼」は、所有者の欲望を叶えるが、持ち続けていれば、一緒に地獄に連れて行かれるという代物。しかも、自分が購入した金額よりも安く誰かに転売しなければならないという規則を伴います。文句なしに楽しめる展開です。「水車屋のウィル」と「マーカイム」には、死神(神御自身とも思われる)との対話が用意されていますが、2作は子どものような素直さと天邪鬼の見事な対比でした。ジャンル分け不能の「天の摂理とギター」は、夫婦者の旅芸人の物語ですが、この力強さ、逞しさ、大らかさや優しさが、果たして私たちにあるでしょうか。もっと楽天的に、自由に世の中を渡って参りたいものです。
  • 「丹生都比売(におつひめ)/梨木香歩作品集」(梨木香歩著、新潮社)
    まるで童話か絵本のような語りで綴られる「夏の朝」は、物語性ということについて深く考えさせられます。神や仏の如くして物語るものもあれば、作中人物の一人に憑依して(作中人物の口を借りて)証しするものもあります。まあ、後者も依代を立てるのですから、やはり神がかりではある訳です。「依童(よりわら)」という語があるように、子どもに語らせるのが、読者が入り易い仕立てです。しかし、敢えて語り手を意識させるという意味で、この作品は非常に異質なのです。さて、20年ぶりに読んだ表題作。私もいっぱしに人の親になって、命の切なさや哀しさについて、思いを至らすようになったようです。「…ああ、露よ。おまえも、その身を露と固めてこの世に出でくるまでは、ずいぶんと寄る辺ない切ない思いで、漂っていたことであろうなあ…」「…醜い欲も、たぎるような感情も、やがては哀しくなって、土が水銀に精錬されるように、このような美しい珠となるのだろうか…」。ラストを飾る「ハクガン異聞」、霧の出た森の小径で迷ってしまった結果、思いも寄らぬ風景や生き物に遭遇した経験です。そうそう、私たちは、学生時代、CAMELの「SNOW GOOSE」のファンでしたよね。
  • 「プリニウス」第2巻(とり・みき+ヤマザキマリ作、新潮社)
    古代ローマ物のマンガって楽しいな。第13話「インスラ」の冒頭のカット、豚の首切り、それこそ、フェリクスが家族のために焼いている肉だったのですね。2回目に捲ってみて漸く繋がりました。この豚の首のカットのリアリズムに比べると、第12話「プラウティナ」の終わり近く、ネロ皇帝の辻斬りの場面には、かなり粗雑な絵があります。巻末の合作者対談を読むと、2人共に殆どアシを使っていないらしいし、時々、手の回らないこともあるのだろうなと推察します。
  • 「たんぽぽ娘」(ロバート・F・ヤング著、伊藤典夫編、河出文庫)
    はい、やっと文庫化、晴れて購入、楽しく読了。表題作は、これぞヤング、やはり、タイムトラベル・ロマンティックSFの金字塔です。私としては「荒寥の地より」に最も感銘を受けました。ノスタルジーの中に寂寥感が漂っています。過去の愛しい思い出の中に、未来から来た男が入っているのです。例えて言えば、デジャヴのような、何とも知れぬ朦朧感が堪りません。そう言えば、表題作の中にも、タイムパラドックスを軽く一蹴する言葉がありました。「時の書物はすでに書かれているんですって。巨視的に見れば、将来起こるできごとは、もうすでに起こっているのだと父はいうの。もし未来人が過去の事象にかかわりあったら、その人は過去の一部になってしまう―つまり、もともとその人は過去の一部として存在していたから―この場合には、だから、矛盾は起こりえないということになるわね」。まさか、カルヴァンの予定説かよ。「神風」と「ジャンヌの月」は、共に「ボーイ・ミーツ・ガール」物ですが、ハッピーエンドの分、後者が嬉しいですね。「ジャンヌ」には、こんな一節もありました。「戦時法は、あらゆる法と同様に、状況や効果を鑑みて、施政者の意のままにいかようにも適用されるということを忘れていた」。主人公は慄然とします。私たちは間に合うでしょうか。
posted by 行人坂教会 at 10:21 | 牧師の書斎から

2015年02月10日

幽径耽読 Book Illuminationその21

  • 「ドミトリーともきんす」(高野文子作、中央公論社)
    ここは、朝永振一郎、牧野富太郎、中谷宇吉郎、湯川秀樹が寄宿する学生寮。寮母のとも子さんと赤ん坊のきん子さんは、学生さんたちの思考と発想に耳を傾けながら暮らしています。なぜか日本の公教育が少しも教えてくれない、科学者たちの人間味溢れる表情や物腰を、高野の漫画が垣間見せてくれます。敢えて「漫画」と書いたように、多分、4人のキャラは、彼らと同時代に活躍した4人の漫画家のキャラを被せてあります(朝永が50年代の手塚風だったり、牧野は「矢車剣之助」風だったりする)。そして、圧巻はフィナーレを飾る湯川の「詩と科学」です。高野の漫画を背景にして、湯川の言葉に接するとなぜか胸に染み、落涙を禁じえませんでした。
  • 「日本霊異記」(原田敏明、高橋貢訳、平凡社ライブラリー)
    行基の説法を拝聴していた女が連れていた子は、10歳を過ぎても歩かず、泣き続け、乳を飲み食べ続けています。まるで『千と千尋の神隠し』の「坊」のようです。行基は「その子を淵に捨てろ」と再三勧告し、遂に女が流すと、その子は「あと3年お前から貪ろうと思っていたのに」と捨て台詞を呟きます。その子は前世の敵対者だったという話(中巻第30話)。ホドロフスキーの『ホーリー・マウンテン』で、ヨガの行者の勧めで、キリスト似の男が肩に乗せている侏儒を舟から投げ捨てる場面を思い出しました。蛇に犯された娘に薬草を飲ませて堕胎させる話(中巻第41話)、鳥の卵のような肉の塊から生まれた女の子が長じて尼となり、「外道」と罵られながらも高い知恵で仏道を究めて行く話(下巻第17話)、娘が結婚した夫は実は悪鬼で、初夜に頭と指1本を残して食われた話(中巻第33話)、未婚の女が男と交わることなく懐妊、神の宿る石を産む話(下巻第31話)、女性が絡む怪異談が私には特に面白かったです。
  • 「鳥/デュ・モーリア傑作集」(ダフネ・デュ・モーリア著、務台夏子訳、創元推理文庫)
    デュ・モーリア中毒です。ヒチコックの映画化で有名な「鳥」の恐ろしさは、核戦争の始まってしまった世界の隠喩ではないでしょうか。何しろ、主人公ナットは自宅のロッジを補強して、シェルターを作るのですから。「戦時中、空襲があった時と同じだ。国のこちら側では誰も、プリマスの人々がどんな目に遭ったかを知らない。人は、自らその被害を受けないかぎり、何事にも関心を抱かないのだ」。ナットの独白も有り触れた言葉に見えて奥深い怖さがあります。冬の寒い日が設定されているのですが、鳥の襲撃から一夜明けてみると、友人の農場からも、近所の公団からも一筋の煙も上がっておらず、火の気が無くなっている、その風景描写に慄然とします。ヒロインの心が不思議な山岳宗教に捕らえられてしまう「モンテ・ヴェリタ」、映画館の案内嬢に導かれて、自動車修理工の青年が闇の領域へ足を踏み入れてしまう「恋人」、有閑マダムが避暑地でアヴァンチュールを愉しんでいる内に煉獄に陥る「写真家」、富豪の若妻の自殺原因を求めて、探偵が辿る道のりが、まるで巡礼のように描かれる「動機」…。圧巻です。
  • 「オオカミの護符」(小倉美惠子著、新潮文庫)
    神奈川市宮前区土橋、東急田園都市線の鷺沼とたまプラーザの間にある地域が、一瞬にして、橘樹郡宮前村大字土橋に戻ります。護符を通して、著者が私たちを1960年代初頭へと誘うのです。やがて御嶽講の宿坊(わが教会学校も御岳山荘に泊ったことがあります!)を経、山岳信仰の源流を遡り、秩父の深奥へと分け入って行きます。オオカミのお産の鳴き声を聞きつける「心直ぐなる者」との出会いは感動的ですらあります。明治の廃仏毀釈は教科書でも教えていますが、明治政府が修験道禁止令を出したことは知りませんでした。山の神に抱かれて初めて成り立つ暮らしと祈りは、「自然」「環境」「里山」「宗教」といった語を当て嵌めることすら躊躇われます。労働にも「稼ぎ」と「仕事」の2種類があるという山村の流儀(内山節の説)、勉強になりました。
  • 「宰相の二番目の娘」(ロバート・F・ヤング著、山田順子訳、創元SF文庫)
    ヤングは自作中短編の長編化をする作家です。これは以前に読んだ「真鍮の都」でした。展開もオチの付け方も『時が新しかったころ』と似ています。少女が成長して、迎えに来てくれる(待っていてくれる)というパターンは、ハインラインの『夏への扉』と言い、どうやら、タイムトラベル物を書く男性SF作家(と、その男性読者)の願望みたいです。そんなことは最初から分かっているのですが、読んでいる間は、それこそ愛妾に寝物語を聞かせて貰っているスルタンの気分になれます。
  • 「いま見てはいけない/デュ・モーリア傑作集」(ダフネ・デュ・モーリア著、務台夏子訳、創元推理文庫)
    中学生の時『レベッカ』を読んで以来です。エルサレムの聖地ツアーにやって来た一行の受難劇「十字架の道」が面白そうだったので買いました。インフルエンザに伏した老牧師の代役を務めさせられることになった若い牧師の憤懣よく分かります。その老牧師のために無償の奉仕を続けて来た老嬢が、当の牧師が「付き纏われて困っている」と漏らしたとの噂を耳にして恐慌を来たす辺りもリアルです。ニコラス・ローグの『赤い影』の原作たる表題作、クレタ島に来た美術教師が体験するパン神の呪い(「真夜中になる前に」)、怖いです。亡き父の旧友を訪ねた新進女優が垣間見た不思議な世界(「ボーダーライン」)は、きらきらと輝く少女の感受性がお見事。「第六の力」は『ウルトラQ』の一ノ谷博士みたいな研究者の話。とにかく粒揃いの作品集です。
posted by 行人坂教会 at 15:52 | 牧師の書斎から

2015年01月06日

幽径耽読 Book Illuminationその20

  • 「刻刻」第8巻(堀尾省太作、講談社)
    ヒロイン、樹里が「止界」から登場人物を一人ずつ退場させて行くことで、物語が終局へと向かいます。でも、「あたしがここに最後まで残る」という悲壮な自己犠牲に終わらせないのが、この作品の美点です。幕引きの仕方としては安心でした。全体としては、登場する女性たちの力強さと賢さを感じます。その辺りは、星野之宣の『ヤマタイカ』でしょうか。
  • 「不思議屋/ダイヤモンドのレンズ」(フィッツ=ジェームズ・オブライエン著、南條竹則訳、光文社古典新訳文庫)
    巻頭の「ダイヤモンドのレンズ」が圧倒的に強い印象を残します。顕微鏡を覗くのが唯一の趣味という理科少年が長じて、最高水準の顕微鏡セットを組み上げるのですが、ある日、レンズの向こう側に、妖精の少女を発見するのでした。そこで急カーブして幻想小説の趣きを呈して行きます。ダイヤモンドを手に入れるために、ユダヤ人商人を殺してしまう辺りは、『罪と罰』のようでもありました。つまり、オブライエンは多面的な作家なのです。そう言えば、昔、望遠鏡を題材にした窃視症の男の物語をマンガで読みました(吉田光彦の『ペダルに足がとどく日』に入っていた、多分「ズームバック」)。意外に楽しめたのが、中国物「手品師ピョウ・ルーが持っているドラゴンの牙」です。解説によると、「太平天国の乱」と関係があるらしいです。
  • 「シュトヘル/悪霊」第10巻(伊藤悠作、小学館)
    金国の居庸関攻略戦に新型弩(石火矢)が登場。それ以外に軍事的な進展はありません。民族の興亡を達観した上で、大ハンを討とうとするハラバル(「等価」)、真正面から大ハンに西夏文字の価値を説こうとするユルール(「愚者」)、純粋に大ハンの首を取ろうとするシュトヘル(「大首」)、大ハンを討たせてトルイへの代替わりを目論むナラン(「出来事と心」)。こうして主要登場人物のベクトルは全て、大ハンに向かいます。そして、ユルールの前に姿を現わした大ハン(「対峙」)…。次巻が山場です。
  • 「MASTERキートン/Reマスター」(浦沢直樹×長崎尚志作、小学館)
    昔の『MASTERキートン』では女子高生だった娘の百合子が、離婚したばかりという設定で、第7話「マルタ島の女神」に登場。キャラクターの成長ぶりを見るパターンは『20世紀少年』です。第1話「眠り男」と最終話「栄光の八人」が、いずれも病室で幕切れとなります。どちらも絶望的な現実の中に、小さな光を灯そうとする物語です。始まりと終わりが繋がっていて、円環になっています。第4話「ハバククの聖夜」は『リオ・ブラボー』『要塞警察』、籠城戦の典型。これがシンプルで、一番好きです。第5話「女神とサンダル」、第6話「オオカミ少年」は、忘れていた過去を思い出す話です。東欧の人身売買ビジネス、ユーゴ内戦、北アイルランド紛争、ワシントン条約違反の密輸ビジネス、東西冷戦時代のスパイ網、フォークランド紛争、またユーゴ内戦と現代史に、いつものドナウ川文明、トロイア戦争、マルタの地下神殿と考古学ネタのスパイスも効かせてあって、往年の読者も安心して読めますが、それにしてもキートン、全然老けていないじゃないですか。
  • 「ハリウッド美人帖」(逢坂剛+南伸坊談、七つ森書館)
    何と言っても、逢坂剛の凄まじいブロマイド・コレクションに脱帽しました。私にとって面白かったエピソードを挙げます。ボギーの『大いなる別れ』のファム・ファタル、リザベス・スコットは神学校出身(牧師を目指していたんだ)。私も彼女のCDは持っています。『拳銃の町』のオードリー・ロングは牧師の娘。ドロシー・マローンは南メソジスト大学出身。ビング・クロスビーは『我が道を往く』の「オマリー神父」だけに熱心なカトリック信者。不倫交際中のインガー・スティーヴンス(『刑事マディガン』)にプロテスタント(スウェーデン出身なので、多分、ルター派)からの改宗を迫るも、彼女が拒否したため破局。改宗を受け入れたキャスリン・グラント(『シンドバッド7回目の航海』)と結婚したとか。ドロレス・ハート(『ボーイハント』)は女優を引退して、ベネディクト会の修道女になっていたのですね(「オスカー投票メンバーである、史上唯一の修道女」)。胸元の大きく開いたドレスのロンダ・フレミング、ジューン・ナイト(初耳の女優)、胸が尖がっているドロシー・ラムーアにマリア・モンテス、脚線美のイロナ・マッセイ、リリー・パルマー、ヴァージニア・メイヨ、シド・チャリース、ジョーン・ドルー、ケイ・ランドール。レスリー・ブルックス、ヴェラ=エレン、エレイン・スチュワートの水着姿、ホットパンツのドリス・デイとホープ・ラング、肩の美しいニコール・モーレイ、ダナ・ウィンター、マーラ・パワーズ、ジア・スカラ、とにかくセクシーなティナ・ルイーズ、珍しく薄化粧のクラウディア・カルディナーレ、私の贔屓のリー・レミック、キャロル・リンレーまで、眺めているだけで幸せになります。
  • 「屍者の帝国」(伊藤計劃×円城塔著、河出文庫)
    謎の敵「ザ・ワン」を追跡する展開は、『メタルギアソリッド/ガンズ・オブ・パトリオット』を思い出させます。ホームズの盟友、ワトソンを中心にして、『ドラキュラ』『フランケンシュタイン』『カラマーゾフの兄弟』『007』『海底2万里』、果ては『風と共に去りぬ』も出て来ます。しかしながら、肝心の「ザ・ワン」が登場した辺りから物語の運動が失速した印象は拭えません。正直、私も乗り切れなくなってしまいました。時々、気の効いた台詞や奇想も出て来るだけに残念でなりません。失敗の原因の1つは、唯一のヒロインである「ハダリー」の造形が中途半端である点です。『エヴァ』の綾波レイみたいな存在なのですが、絵の無い分、私にはチンプンカンプンでした。本作の「屍者」「屍兵」もまた、数多のゾンビ物と同じく、組織集団や大衆の中で魂を剥奪された人間の暗喩です。しかし、そうであれば、尚の事、酷使され、遣い捨てられて行く彼らの無残な姿は、もっと描かれるべきだったのではないでしょうか。
posted by 行人坂教会 at 07:53 | 牧師の書斎から

2014年11月30日

幽径耽読 Book Illuminationその19

  • 「新世紀エヴァンゲリオン」第14巻「旅立ち」(貞本義行画、カラー作、角川書店)
    やっと完結です。うちの長男が生まれる前から買い始めて、今、彼は高1です。「エヴァの最終巻、買って来た?」と、このところ毎日尋ねられていました。いつの間にか「作」も「GAINAX」から独立した「Khara」に変わっていました。テレビシリーズ、旧劇場版『Air/まごころを、君に』等の「終わらせ方」が改めて集約されて、洗練されているように思います。(新劇場版に繋ぐエピローグまで含めて)もう納得するしかない「終わらせ方」です。これなら、テレビ最終回時のように「自己啓発セミナー」等と陰口を叩かれることもありますまい。しかし、一種の夢オチですから、これまでの20年間がこの結末に向かっていたのかと思ったが最後、身も蓋もありません。でも、大切なのは、やっぱりプロセス。テレビ、新旧映画、マンガ、パロディ版と何種類も異なるヴァージョン(異伝)が存在してしまうところ、キャラが一人歩きを始めてしまうところ、完結したと思えないところ、「エヴァ」は現代日本の物語伝承みたいなものなのでしょう。
  • 「万国奇人博覧館」(ジャン=クロード・カリエール×ギイ・ベシュテル著、守能信次訳、ちくま文庫)
    カリエールは、ブルジョワ紳士淑女が便座に坐って用を足しながら晩餐をするブニュエルの映画、チンパンジーと不倫する人妻セレブを描いた大島渚の映画の脚本家です。とにかく、奇人というカテゴリーの幅広さに圧倒されます。7百ページを超えるのも宜なる哉。例えば、「文筆奇人」だけに限っても、「神学奇人、純文学奇人、哲学奇人、政治奇人、演説奇人」に分類できるそうです。私は牧師なので、やはり宗教的な奇人が気になります。寝取った人妻の夫に殴り殺された教皇ヨハネス12世(10世紀)、「使徒継承者」を名乗り、アントワープを占領したタンシュラン(11世紀)、私有財産を否定して、皆で女性も共有した再洗礼派ライデンのヤン(16世紀)、信徒を得る度に出産の陣痛に見舞われたブリニョン(17世紀)、フランス革命を支持した女性霊視家ラブルッス(18世紀)、小石を食べるル・モニエ神父(19世紀)、独力で自らを十字架に磔にしたロヴァト(19世紀)、聖体パンを食べる度、口の中から赤ん坊が生まれると主張するクエンカの福者(19世紀)、「神学/theologia」を「家でお茶/the au logis」と分解して、真剣に「お茶学問」を提唱したブリッセ(19〜20世紀)、愛人の胎児を殺す前に洗礼を授けたウルフェの司祭(1956年)、ブルターニュ海岸の岩礁に彫刻を施していったフエレ師…。百花繚乱です。
  • 「ゴジラと東京/怪獣映画でたどる昭和の都市風景」(野村宏平著、一退社)
    怪獣映画ファンであれば、誰でも一度くらいは、どの怪獣がどの都市や地域に出現し、どんな名所旧跡、建築物を破壊したか、どの経路を進んだか、リストアップしようと試みたことがあったはずです。勿論、私自身を含め、大抵の人が中途半端に投げ出してしまうのです。それくらい、実際にやろうとすると、気の遠くなるような作業なのです。著者は、映画撮影当時の街並み、建築状況を考証しつつ、綿密に再構成していったのです。それにしても、特撮映画のミニチュアセットの中にこそ、当時の風景が正確に記録されている等とは思いもしませんでした。実写以上の参考資料のようです。勿論、中には架空の建築物があったり、別の作品のミニチュアが流用されていることもあって、検証の必要があるようですが…。巻末の「主要建築物・ロケ地索引」が圧巻です。三浦町カトリック教会(『空の大怪獣ラドン』)、聖路加国際病院(『地球防衛軍』)、銀座教会(『宇宙大戦争』)、教文館(『宇宙大怪獣ドゴラ』)、横浜山手聖公会聖堂(『三大怪獣/地球最大の決戦』)と、キリスト教関係の建物も出て来ます。
  • 「怪奇文学大山脈/西洋近代名作選」第2巻「20世紀革新篇」(荒俣宏編、東京創元社)
    それにしても「大山脈」とは大仰な…。確かに、他に類を見ない巻末の作品解説(54ページもある!)を読めば「大山脈」とは思いました(因みに、前書きも25ページある)。G・マイリンクの「紫色の死」は短いけれども凄い。昨今の「パンデミック物」を先取りしています。ひたすらに墓碑銘を読み上げていくのは、デ・ラ・メアの「遅参の客」。碑銘に刻まれた「Rev./ヨハネの黙示録」が、実は「Lev./レビ記」の上書きという聖書の謎解きトリックがあって楽しめたのが、ハーヴィーの「アンカーダイン家の信徒席」。私の一番のお気に入りは、メトカーフの「ブレナー提督の息子」です。やんちゃな男の子を育てる親の哀しみと憤りと不安、そして罪悪感がよく描かれています。タウンゼント・ウォーナーの「不死鳥」は、そのまま幼稚園の子どもたちに聴かせて上げたくなるようなファンタジーです。特に急転直下の幕切れが素晴らしい。幼児をトラウマに突き落とすこと、請け合いです。
  • 「郵便局と蛇/E・コッパード短編集」(アルフレッド・エドガー・コッパード著、西崎憲編訳、ちくま文庫)
    コッパードがキリスト教を題材にする時に醸し出される奇妙にねじれた印象が好きです。荘園の森の番人が天国へ旅立つ「うすのろサイモン」は「天路歴程」のパロディのようです。同じ系列の「シオンへの行進」では、主人公の旅人ミカエルが、罪人と見れば平気で殺戮する剛力の修道士、不思議な女マリアと道連れになります。特に道徳や常識を超越した修道士の振る舞いは「タルムード」や「クルアーン」にある「天使とアブラハム」「天使とモーセ」の逸話を思い出させます。電柱が柳の木への恋情を切々と告げる「若く美しい柳」は凄絶なメルヘンです。幽霊譚「ポリー・モーガン」は「ジェントル・ゴースト物」でありつつ、意外に残酷です。三人の中年女の語らい「辛子の野原」は世知辛い中にも不思議な優しさが滲み出て来ます。この一筋縄では行かない、複雑な味わいを何と表現したら良いのでしょうか。
  • 「三文オペラ」(ベルトルト・ブレヒト作、谷川道子訳、光文社古典新訳文庫)
    数年前、クリスマスの愛餐会の余興で、この芝居のオープニング曲「モリタート/殺人物語大道歌」をドイツ語で披露したことがあります。それでショックを受けて躓いたのでしょうか、残念なことに、うちの礼拝に来なくなった人がいました。牧師がこんな歌うたっちゃいかんのです。でも、戯曲として読み直してみると、台詞は2回だけですが、「キンボール(金タマ?!)牧師」も登場します。それから、キリスト受難週に重ねるように、水曜日、洗足木曜日、聖金曜日(受難日)の3幕仕立てになっています。その上、メッキースとポリーが結婚するのは馬小屋、テーブルは飼い葉桶。「乞食の友商会」(乞食を組織して街角に派遣、その上前を撥ねる)の経営者、ピーチャムは聖書を引用します。そして、彼の名前はジョナサン・ジェルマイヤー(ヨナタン+エレミヤ)だったりします。ピーチャムの「人間の努力のいたらなさの歌」が私のお気に入り。「幸福を求め追っかけろ/夢中になって追っかけすぎるな/みんな幸福追っかけるから/幸福追い越されて置いてけぼり」。大悪党メッキースの処刑前の演説もイケてます。「銀行の株式に比べれば、こそ泥の合鍵など何ほどのものでありましょう。銀行設立に比べれば、銀行強盗などいかほどの罪でありましょうか」。
posted by 行人坂教会 at 05:22 | 牧師の書斎から

2014年09月24日

幽径耽読 Book Illuminationその18

  • 「兵器と戦術の日本史」(金子常軌著、ちくま文庫)
    紀元0年頃の倭奴国成立から倭王の朝鮮半島進出、白村江の大敗を経て、壬申の乱までを「海北四百年戦争」(!)と著者は命名します。記紀が「日本史」として確立したのも、朝廷内の実権を握った「新羅派」による「歴史の書き変え」であると主張します。その後の「蝦夷百年戦争」というエピックの命名も凄いです。「皇国史観」等というものには鼻もかけていません。そう、戦争史家(著者は自衛隊幹部学校戦術教官)はリアリストの仕事なのです。その点で、昨今、勢力を増している国粋主義者たちと、著者は同列に扱われるべきではありません。また、「平和憲法護持」を楯にして、国際紛争の可能性さえも最初から除外してしまう平和主義者でもありません。軍隊の存在理由と正当性は、その軍が主権擁護の立場で働く時だけ認められるのです。しかし、現在の日本は、真に国民主権と言えるのか。この問いかけは甚だ厳しい。読み進む中で、勝ち戦にせよ負け戦にせよ、そこから問題点を正しく抽出、評価分析し、学習しようとしない日本の国民性が見えて来て、暗澹たる気分になります。
  • 「増補・エロマンガ・スタディーズ/『快楽装置』としての漫画入門」(永山薫著、ちくま文庫)
    文化というものは、誤読と「誤配」(本来、想定されていなかった人の受容)によって豊かに乱れ咲くのです。聖書を勉強していると、つくづく思わされることです。従って、「正しい読み方」や「正統的な理解」等というものは、大いなる虚構に過ぎないのです。さて、私自身のことを告白すれば、70年代中期の劇画家たち、ダーティ・松本、中島史雄、宮西計三、あがた有為、羽虫ルイ、福原秀美、村祖俊一、間宮聖児、土屋慎吾、(これに本書で無視されている三条友美を加えて)この人たちのお世話になりました。その後、ブランクがあって、80〜90年代は、森山塔(山本直樹)の熱心な読者でした。以後、この世界から遠ざかりましたが、紹介図版を見ていて、田中圭一、村田蓮爾、陽気婢あたりのタッチが、私の好みかなと思いました。ミーム理論の援用が、著者のマンガ分析に広がりと深みを与えています。補章「21世紀のエロマンガ」は、近年の表現の自由を巡る闘いがコンパクトに説明されていて、大変に勉強になりました。
  • 「教会の怪物たち/ロマネスクの図像学」(尾形希和子著、講談社選書メチエ)
    中世ロマネスク様式の聖堂に刻まれた怪物、怪人たち。キマイラ、グリフォン、ユニコーン、ヒュドラ、ケンタウロス、ミノタウロス、ドラゴン、セラフィム、レヴィアタン、ヤヌス、ブレミアエ、メリュジーヌ、スキュラ、グリーンマン、ワイルドマン…。さながら「怪人怪獣大図鑑」です。それは、教会側の主張するアレゴリーとしては受容されず、却って、農民たちの異教的イマジネーションを喚起し、刺激するものとして作用しているのです。例えば、二股に分かれた魚の尾鰭を持ち、その股間に女性性器を露出するセイレーン(人魚)は、本来「淫蕩」の戒めとして描かれたのです。けれども、人々は彼女に大地豊穣の願いを託したという展開です。この読み解きの構図は、やがて、ローマ教会が先住民を教化した南米においても適用されています。そして今、ローマ教会と言えば、南米とアフリカが中心です。何と言う歴史のパラドックスでしょうか。私自身、幼い日から怪物に魅入られていたのは、グロテスクへの愛着があったからです。キリスト教信仰に入ったのも、恐らく、日本の体制的文化からの逸脱を目論んでのことだったのでしょう。「毒には毒を」です。
  • 「アド・アストラ/スキピオとハンニバル」第6巻(カガノミハチ作、集英社)
    カンナエの大敗を描いています。ハンニバルにとっては頂上、ローマにとってはドン底を見ることになった一戦です。敗戦後、スキピオの口から題名になっている「ペル・アスペラ・アド・アストラ/per aspera ad astra/困難を通じて天へ」の決意が語られます。このラテン語の成句「per ardua/ペル・アルドゥア」に変えると、そのまま英国空軍の銘になります。後半で、ローマ共和国の猛将(シチリア方面軍総司令官)マルケルスが登場します。岩明均の『ヘウレーカ』にも出て来て、シラクサ攻めをしていました。あのマンガでは、マルケルス、「アルキメデスの装備」に苦労していますが、それは、しばらく後の話ですね。それで気づいたのですが、岩明と違って、カガノの絵には「切り株」系のカタルシスが全く感じられません。いや、むしろ、流血よりも切断面に執着する岩明の方が特殊なのでしょう。
  • 「聖なる酔っぱらいの伝説/他四篇」(ヨーゼフ・ロート著、池内紀訳、岩波文庫)
    何とかして2百フランの借金をリジューの聖テレーズに返そうとしながら、果たせない酔いどれ男の物語。いつも、朝10時のミサの終了後に着いてしまい、正午のミサを待つために、向かいの居酒屋で時を過ごそうとするのです。この辺りの繰り返しが際限なく思われるのは、多分、私が下戸である上に、(礼拝を執り行う側の)牧師であるからなのでしょう。そこで、アル中の友人、鹿児島のN君のことを思い起こしながら読みました。ヒトラー出現を予見したと思しき「蜘蛛の巣」は凄みがあります。意外に気に入ったのは、「ファルメライヤー駅長」です。オーストリアの小さな町の駅長が、列車事故の際に世話をしたロシアの貴婦人の匂いが忘れられず、第一次世界大戦の東部戦線に出征します。勿論、ただ彼女に再会したい一心です。このひたむきな宿命と奇跡への信従は、他の作品にも共通しています。殉教と言っても良いでしょう。それが、幸福な完結を迎えるのが「聖なる酔っぱらい」なのでしょう。
posted by 行人坂教会 at 09:48 | 牧師の書斎から

2014年08月30日

幽径耽読 Book Illuminationその17

  • 「昆虫はすごい」(丸山宗利著、光文社新書)
    宮崎県の海辺の町に住んでいた頃、冬の浜辺で、よくアメンボの屍骸を見たものです。積年の疑問が氷解しました。海面を漂う「ウミアメンボ」という虫だったのですね。毒でゴキブリの神経を麻痺させて、ゾンビにして操るセナガアナバチ。自らの上半身を餌として提供しながら下半身で雌と交尾するカマキリの雄。頭部を自爆させて、粘着性の液体で敵を絡め取るバクダンオオアリ。クロヤマアリの巣に入り込んで女王を暗殺し、新女王として君臨するサムライアリ。トビイロケアリを殺して、その匂いを体に塗り付け、屍骸を加えて巣の中に侵入を試みるアメイロケアリ(しかし、発覚して磔の刑に処せられたりもする)。アリの幼虫室の壁に成り切って、こっそり幼虫や蛹を食べるアリスアブの幼虫。どれを取ってもホラーです。寄主と寄生種とは、共通の祖先から分かれたという説(エメリーの法則)を聞くと、人間社会に寄生する亜人間みたいな種の出現を妄想してしまいます。
  • 「負けんとき/ヴォーリズ満喜子の種まく日々」上下巻(玉岡かおる著、新潮文庫)
    播州小野藩(兵庫県小野市)の藩主の娘、満喜子が、津田梅子、矢島楫子、廣岡浅子などとの出会いの中で成長していき、ウィリアム・メレル・ヴォーリズと結ばれます。典型的な「ビルドゥングス・ロマン」です。「負けんとき」とは、廣岡が満喜子を励ました大阪弁です(「負けないで!」)。キリスト教の宣教のために来日したと言うのに、八百万の神々や先来の仏を敬う、ヴォーリズの独特な信仰が優しくユーモラスに描かれています。ヴォーリズや満喜子の実際はともかく、(小説ですから)ここには自ずと玉岡の信仰観が反映されている訳です。「大衆作家」としての彼女の捉え方は、私たちも大いに参考にすべきでしょう。しかしながら、巻末近い、敗戦直後の部分になると、私は急速にロマンを感じなくなりました。元号の使用とか、天皇制と戦後処理(戦争責任)とか、著者はそれなりの配慮を重ねたものと思いますが、些か甘いと言わざるを得ません。神戸女学院教授として、実際にヴォーリズ建築の中で生活していたという内田樹の「解説」を興味深く読みました。
  • 「イタリア語通訳狂想曲/シモネッタのアマルコルド」(田丸公美子著、文春文庫)
    小学生の時からマカロニ・ウエスタンのファンであった私にとって、イタリア語は憧れの言語の1つでした。今でも『拳銃のバラード』(Ballata per un Pistolero)は歌えます。先日は『ガラスの部屋』の主題歌(Che Vuole Questa Musica Stasera)もカラオケで歌いました。どちらも、ペピーノ・ガリアルディの歌でした。それにしても、通訳の仕事は大変なのですね。「高い通訳料にはスケープゴートになる料金も含まれている」。「通訳の基本は、普通の人より豊富な語彙を持ち、美しい日本語が話せること。そのあとに外国語や広い知識と教養が加わって、初めてプロの仕事ができる」。「(同時通訳は)翻訳時の30倍のスピードで脳を作動させないと話者が話すスピードに追いつけない。私たち通訳者は、脳のエネルギー源であるブドウ糖の血中濃度を上げようと、ブース内でチョコレートを食べたり飴をなめたりする」。まるで『DEATH NOTE』のLですね。過酷な同時通訳の最中に、脳がショートして、イタリア語も日本語も聴き取れなくなった経験談などは余りに痛ましいです。
  • 「モロー博士の島/他九篇」(H・G・ウエルズ著、橋本槇矩・鈴木万里訳、岩波文庫)
    余りにも古典という先入観のため、ウエルズを読むのは、小学生時代の『透明人間』ダイジェスト版以来です。冒頭の「エピオルニス島」が意外に面白い。無人島に漂着した主人公が雛から育てて、懐いていたはずの巨鳥が攻撃して来るようになり、やがて全面対決の時を迎えます。これは「モロー博士」と同じモチーフですね。巻末を飾る「アリの帝国」は『巨大アリの帝国』という直接の映画化作品(愚作)よりも、ソウル・バスの『フェイズW』の不気味な印象に近い作品でした。そう言えば、「モロー博士」も、読んでいる間、私の脳裏に浮かんで来たのは、バート・ランカスターでもマーロン・ブランドでもなく、『獣人島』のチャールズ・ロートンでもなく、『緯度0大作戦』のシーザー・ロメロでした。人間社会に戻った主人公の目に、街行く人々の姿が獣人に重なって見えてしまうエピローグが抜群です。人間に従順な獣人たちが辿る末路にも悲哀を感じます。本能に目覚めて、次第に獣に退行して行くプロセスは「アルジャーノン」に共通するテーマで、切ないです。
  • 「パリ、娼婦の館/メゾン・クローズ」(鹿島茂著、角川ソフィア文庫)
    メゾン・クローズ(maison close)とは、18世紀から20世紀初頭まで存在したフランスの公娼館です。梅毒予防を主たる目的として娼婦たちを登録し、鑑札を与えていたのです。女将になるのも「現役の女」をリタイアした女性という条件があったそうです。メゾン・クローズの理想は何と女子修道院、女将のモデルは修道院長だったのです。アナール学派のアラン・コルバンの言葉が傑作です。「理想は、修道女のような売春婦を作ること、よく『働く女』ではあるが、操り人形のような従順な女、しかもとりわけ、快楽を求めない女を作りだすことである」。「赤いランタン」、番地で呼ばれる店名、鉢合わせ回避のための待合室…。映画や小説で気になっていたことの意味が分かりました。1920年代、シャバネ楼に日本女性がいたことも驚きでした。但し、著者は「日本では、どんな破廉恥な風俗が普及しても、…この、ズラリと整列した複数の娼婦の中から一人だけ自分の好みの敵娼を選び出すという『公開方式』が採用されない」と書いていますが、吉原など、格子の向こうに女たちが並んでいたと思うのですが…。
posted by 行人坂教会 at 15:05 | 牧師の書斎から

2014年07月23日

幽径耽読 Book Illuminationその16

  • 「ジョナサンと宇宙クジラ」(ロバート・F・ヤング著、伊藤典夫編・訳、ハヤカワ文庫)
    二男が小学生の時、アンドロイド教師と子どもたちとの交流を描いた『ケンジ先生』というお芝居をしました(演劇集団キャラメルボックスの成井豊の台本)。その元ネタは、ヤングの「九月は三十日あった」だったのです。ヤング作品の重要なテーマの1つに、異種族間の恋愛があることに気付きました。アンドロイド教師、異世界から来た絵描き、宇宙クジラ、テレポートする宇宙犬、異星人のドクター、どれも主人公に絡む女性です。最も哀切な物語「いかなる海の洞に」等は「異種婚姻譚」の典型です。旧約聖書が盛んに引用され、ギリシアや北欧の神話表象も多数出て来ますが、現代社会が舞台であるだけに、読者に奇妙な歪み(不安と恐怖)を感じさせるのです。その意味では、楳図かずおの「半魚人」に似ています。但し、仄かに茜さす朝まだきのような余韻の残る終わり方が切ないのです。
  • 「プリニウス」第1巻(ヤマザキマリ×とり・みき作、新潮社)
    マンガの作画コラボは珍しいですね。しかも、主人公が博物学者のプリニウスです。リアリズムを基調とした画の中に、存在しないはずの半魚人やマンドラゴラが出て来たりします。食べる場面、入浴する場面、旅する場面、自然現象や動植物についての薀蓄を垂れる場面の連続で、作者たちの関心事、つまり「生きるとはコレ!」がよく伝わります。今の日本のテレビがつまらないのは、芸能人や有名人に、その類いをさせての番組作りに終始しているのに、それに反比例するように、私たちは、そこから遠ざけられているのです。芸人が食ったり風呂入ったりするのを見せられて、何が楽しいのか。正直、視聴者はコケにされています。
  • 「混沌ホテル」(コニー・ウィリス著、大森望訳、ハヤカワ文庫)
    降参です。白旗を掲げます。表題作は、国際量子物理学会がハリウッドのホテルで開催されて、文字通り「カオス理論」の様相を呈する話。「女王様でも」は、生理をテーマにしたSF。「インサイダー疑惑」は、自称「霊能者」のマインド・コントロール・セミナーをテーマにしています。「魂はみずからの社会を選ぶ#1」に至っては、エミリー・ディキンスンが彼女の難解な詩によって、(H・G・ウェルズ『宇宙戦争』の)火星人を撃退するまでが、文芸批評誌のパスティーシュで綴られています。特に、脚注の「わたしにとってのアマーストは、赤毛のアンがいないアヴォンリー」「レイチェル・リンド夫人で構成されている」退屈な街と喝破しているのを読んで、大爆笑でした(新島譲が聞いたら泣くよね)。「まれびとこぞりて」は、異星人とのコミュニケーションがテーマですが、その鍵と成るのが聖歌隊とは…。「賛美歌は、三番の歌詞、五番の歌詞が一番ひどい」という著者の意見に、また爆笑。教会の聖歌隊メンバーとして30年以上奉仕した著者ならではの味わい深い指摘です。
  • 「無伴奏ソナタ〔新訳版〕」(オースン・スコット・カード著、金子浩訳、ハヤカワ文庫)
    「死すべき神々」は、永遠の命を持つエイリアンが地球にやって来て、定住し、地球の各種宗教施設を真似た建造物を各地につくり、死すべきものである(mortal)が故に人間を礼拝するという、不思議な発想の物語です。モルモン教の大聖堂が出て来たのは、単に舞台がユタ州だからかと思っていました。「解放の時」は、自宅に帰ったら書斎に見知らぬ遺体の入った棺が(モノリスのように)置かれているという不条理な物語。ここにもモルモン教のビショップが登場したり、信徒の生活や思考が描かれていて、漸く著者がモルモン教徒であると分かりました。それが分かると、不妊症のマークとメリージョー夫妻の苦悩が理解できます。それにしても、こんなにリベラルで、異文化や他宗教を尊重して多様な価値観を受容するモルモン教徒がいるのですね。自らの偏見と先入観を恥じます。文句なしに素晴らしいのは表題作、有名な「エンダーのゲーム」、四肢麻痺の少女がヒロインの「磁器のサラマンダー」、ビアフラの生き残りの少女の成長を描いた「アグネスとヘクトルたちの物語」も全て、他者優先の思想が背骨として通っていて、感心しました。
  • 「二つ、三ついいわすれたこと」(ジョイス・キャロル・オーツ著、神戸万智訳、岩波書店)
    多分、私にとっては一番縁遠い世界が舞台です。アメリカの金持ちの子女が入る名門私立学校、女の子たち数人のグループを中心にした物語です。ティンクという少女が中心にいて、ドラマ展開の原動力なのです。ところが、彼女が死んでしまった後から物語り始められているのです。その癒し難い喪失が、やがて少しずつ女の子たちを繋ぎ直して行くのです。そもそも「religion」とは「繋ぎ直す技」であったと、改めて思い出しました。何しろ、既に死んでしまった少女がヒロインで、しかも、彼女が生き続けている他の子たちの魂に働きかけ、人生に介入して来るのです。これがreligionでなくて何でしょう。癒し得ない深い傷、重いダメージであればこそ、そこから生まれる何かがあるのかも知れません。
  • 「胸の火は消えず」(メイ・シンクレア著、南條竹則訳、創元推理文庫)
    ゴーストストーリーは、必然的に、人間の生と死の問題を扱うことになるのです。つまり、作者の死生観が隠しようもなく露呈される訳で、大抵は、浅墓な故の幽霊登場となります。思わず「もっと深く埋めろよ!」と怒鳴りたくなります。しかし、勿論、メイ・シンクレアは違います。やはり、評判通り「仲介者」と「被害者」が傑出しています。「仲介者」には、両親のネグレクトの結果、死んだ幼児の幽霊が出て来ます。幼児虐待や育児放棄をテーマに、今から百年以上も前に書かれた物語があったのですね。同じく「被害者」も、犠牲者が加害者を許す物語なのです。因果応報と怨念と呪縛が主流の日本の幽霊ものでは、ちょっと考えられない設定です。霊的な力を与えられたがために苦労するヒロインの「水晶の瑕」は、ケイト・ブランシェット主演の『ギフト』を思い出させます。
posted by 行人坂教会 at 10:17 | 牧師の書斎から

2014年05月29日

幽径耽読 Book Illuminationその15

  • 「キス・キス〔新訳版〕」(ロアルド・ダール著、田口俊樹訳、ハヤカワ・ミステリ文庫)
    その昔、開高健が訳していたのですね。未熟児の赤ん坊に「ロイヤルゼリー」を与えて成長促進させる話がありますが、『ウルトラQ』第8話「甘い蜜の恐怖」(大モグラの話)は、案外これが元ネタかも知れません。夕食の際、このホラー噺を二男に聞かせてやったら、曰く「それって、『チョコレート工場』の人の本でしょ」と。思わず脱帽。骨董家具のバイヤーが牧師に偽装する「牧師の愉しみ」、教区内の「オールドミス」集団から総攻撃を受けて撃沈される(こちらは本職の)牧師が主人公の「ジョージー・ポージー」、同業者としては、この2編が興味津々でした。ベジタリアンの大叔母に育てられた無垢な青年が、生まれて初めて食べたローストポークの旨さに狂わされる「豚」の展開の凄いこと。身も蓋もない強引な幕引きの仕方とか、こんなのダールが書いていたのだと仰天しました。
  • 「旅をする木」(星野道夫著、文春文庫)
    星野道夫の書いたものは、私にとっては、読むのに長い時間を要するのです。いいえ、文章は簡潔で、難しい語もありません。でも、少し読んだだけで、色々なイメージが膨らんでしまって、立ち止まってしまうのです。まるで夢を見ているような状態になって、そのまま本を閉じてしまうこともしばしばでした。氷海に運ばれる「ゴーストシップ」の話、表題にもなっている「旅をする木」トウヒの話、トーテムポールが朽ち果てるままに聖地を封印するハイダ族の話、死の危険を支えに飛び続ける飛行士、ブッシュパイロットの話、どれもこれも深みにハマります。「結果が、最初の思惑通りにならなくても、そこで過ごした時間は確実に存在する。そして最後に意味をもつのは、結果ではなく、過ごしてしまった、かけがえのないその時間である」。…そうそう、池澤夏樹による文庫版解説「幸福論としての星野道夫」が、また凄い。
  • 「文豪ストレイドッグス」第1巻(朝霧カフカ作、春河45画、KADOKAWA)
    とても評判になっているので、試しに1巻だけ買ってみました。要するに『X-MEN』なのです。異能者間の闘争を、文豪の名前を借りたイケメンに演らせてみたら…というのがミソです。中島敦の「月下獣」、芥川龍之介の「羅生門」、太宰治の「人間失格」、谷崎潤一郎の「細雪」等という必殺技(!!)が繰り出されて、かなり笑えます。例えば、「人間失格」は、どのような相手の能力も無効化(無能化と言うべきか)する、凄い技なのです。その線で言うと、坂口安吾の「白痴」(皆バカになる)とか、遠藤周作の「おバカさん」(皆バカになる)とかあると面白いでしょう。小松左京の「日本沈没」とか、筒井康隆の「日本以外全部沈没」とか…。
  • 「バート・バカラック自伝/ザ・ルック・オブ・ラヴ」(バート・バカラック、ロバート・グリーンフィールド著、奥田祐士訳、シンコーミュージック・エンタテイメント)
    小学校の掃除の時間に、いつも放送でバカラックが流れていました。単なるムードミュージックとして、レコードをかけていたのでしょうね。でも、それが私のインプリントでした。どうして彼の曲は、こんなに明るいのに悲哀を感じさせるのか、不思議に思ったものです。自分では大失敗と言っている『失われた地平線』も(映画の出来はともかく)私は大好きです。殆どのナンバーを暗唱できるくらいです。ジュリア・ロバーツ主演の『ベストフレンズ・ウェディング』、映画の中身は忘れ去ってしまいましたが、参列者が皆で「小さな願い」を合唱する場面だけは、今も心に焼き付いています。バカラックに対面するや感激の余り泣いてしまった日本人女性の逸話が紹介されますが、日本語版注釈で、それが椎名林檎であることが明かされます。それにしても、ハリウッドセレブの例に洩れず、次から次へと結婚と離婚を繰り返した人ですね。それに比べて、アスペルガーの長女、ニッキーはクリスマスイヴ礼拝に行って、キャロルを歌って、年が明けたら自死してしまう、この姿は余りにも対照的で痛々しいです。
  • 「アド・アストラ/スキピオとハンニバル」第5巻(カガノミハチ作、集英社)
    「カンナエの戦い」を簡単に言えば、大包囲撃滅戦なのです。複数の民族による連合軍であるハンニバル陣営は3〜4万、中央にガリアとイベリアの歩兵を、左側にリビアとイベリアの歩兵を、更に左右両翼に強力なヌミディア騎兵、ガリアとイベリアの騎兵を配置。対するローマ軍は8万、強みの歩兵による正面中央突破で敵軍を分断しようとします。予め三日月型陣形を取っていたハンニバル軍の陽動作戦に引っ掛かり、気付いた時には、ローマ歩兵は側面からリビア歩兵の、背後からヌミディア騎兵の攻撃を受けることになったのです。結果、ローマ兵の5万が戦死、2万が捕虜になったと言われています。いつも私が気になるのは、勝利のためとは言え、中央に配置され、犠牲を強いられたガリア歩兵のことです。ハンニバルはどうやって異民族のガリア人を説得したのでしょうか。
  • 「海うそ」(梨木香歩著、岩波書店)
    私が南九州で暮らしたのは、僅か5年に過ぎません。けれども、時折、あの5年間が人生の全てであったかに思われる瞬間があります。この物語の舞台となる「遅島」のような離島でもありませんが、かつては「陸の孤島」呼ばわりされた町でした。照葉樹林の細い小径を抜け、浜辺に出て貝殻探しに興じ、離合するのも難しい、曲がりくねった断崖絶壁の細道に自動車を走らせ、岬の灯台から水平線を見て、球体の上に生きていることを実感したものです。さて、私自身の物語は、この物語のエピローグに当たる「五十年の後」のような、解決には程遠く、蟠りを抱えながら、私の脳裏には、真夏の光と影とが交互に反転するような気分です。亡き父は人文地理学科だったのですが、主人公の秋山の姿を見て、父が大学時代に何をしていたのか、少し得心が行きました。
  • 「歴史を考えるヒント」(網野善彦著、新潮文庫)
    病院の検診の日、余りの待ち時間の長さに、院内書店で買って読み始めました。連続講座を纏めた本ですから、待合で読むのにピッタリです。中世においては、異界である土の中に銭を埋めて後、人の手から切り離されて無主物にします。このようにして一旦、神仏の物と成った銭を人に貸して利息を取るための資本と化するのです。主人から預かったタラントンを土の中に埋めたまま、活用しなかった男の話(マタイによる福音書25章14〜30節)と、どこかで通じているような気がします。日本列島は、決して孤立した「島国」ではない。むしろ、南北逆転させて日本地図を見ると、大陸から飛び石状に続く形から、人や文物の流れが実感できる。「環日本海諸国図」が紹介されていました。それが今や、二男の中学の地図帳には採用されていました。この本を読むと、自分が「百姓」の出であることに自信が湧いて来ます。
posted by 行人坂教会 at 09:32 | 牧師の書斎から

2014年04月10日

幽径耽読 Book Illuminationその14

  • 「レンタルチャイルド/神に弄ばれる貧しき子供たち」(石井光太著、新潮文庫)  真の「ルポルタージュ文学」というのは、こういうものなのでしょう。以前、著者の『神の棄てた裸体』を読んだ時には、その凄まじい内容にもかかわらず、自分の中では「ルポ」と言って済ませていたのです。しかし、ここに登場するラジャ、マノージ、ナズマ、スマン、ムニ、ソニーといった人間たちの圧倒的な存在感、肉体性はどうでしょう。特に、ラジャとマノージについては、第1部(2002年)、第2部(2004年)、第3部(2008年)と、出会いから6年に及ぶ積み重ねがある訳で、読者にとっても感無量です。丁度、先日、インドの代理母出産ビジネスの実態告発ドキュメントを見たばかりでした。インドの女性たちが置かれている差別的な境遇に、夫婦して仰天したものです。あれは中産階級。「レンタルチャイルド」は、施しを受けさせるために、幼児の肢体切断や身体損傷を行なう最下層の世界です。それでも、同じ社会、私たちと同じ世界なのです。
  • 「アンのゆりかご/村岡花子の生涯」(村岡恵理著、新潮文庫)  以前、マガジンハウス版は、妻から借りて拾い読みし、説教ネタに使ったことがあったのです。6歳の愛児、道雄が疫痢で死ぬ場面です。大森めぐみ教会での葬儀では、「主は与え主は取り給ふ。主の御名はほむべきかな」(ヨブ記1章21節)の式文祈祷に対して、花子は「奪うなら、なぜ与えた」と呻いたとも伝えられています。しかし、その司式者、岩村清四郎牧師自身もまた、その数ヶ月前に愛息、恵を疫痢のために奪われていたことが知られています。花子の初恋の人が澤田廉三で、その後の夫人が澤田美喜として、エリザベス・サンダース・ホームを設立する訳ですが、花子と美喜との親交とか。あるいは、女流文学者グループに主義思想を超えて、多士多才な女性たちが結集している辺りとか、現代には見られないネットワークです。
  • 「半藤一利と宮崎駿の腰ぬけ愛国談義」(半藤一利・宮崎駿談、文春ジブリ文庫)
    海岸線が長すぎる日本に「国防」は無理、資源のない日本に「海外派兵」は無理、海岸線に原発が林立している日本に「紛争」は無理。この端的で、冷徹な論理性にシビレます。司馬遼太郎の言葉らしいですが、「日本はお座敷の隅の、ちょっとトイレが臭うようなところで、でも風通しのいいところに座っていたらいんだよ」という辺りの発想、分かりますかね。縁側と渡り廊下の近くですから、いつでも抜けられるのです。ワシントン軍縮会議調印(1922年)の御蔭で、隅田川の鉄橋インフラが整備されたとか、三国同盟に批判的だった海軍士官を寝返らせたのは、ナチスの「ハニー・トラップ」だったとか(これって、まさに「サロン・キティ」じゃん)、『風立ちぬ』の堀越二郎の夢に出るのは「ノモンハンのホロンバイル草原」だとか(泣けました!)、日中戦争開始当時(1937年)は日本のGNPが過去最高になった年だったとか…。
  • 「ゴーレム」(グスタフ・マイリンク著、今村孝訳、白水社Uブックス)
    典型的な「カバラ小説」。手術後3日目の病床で読み始めたせいもあって(3冊目)、読書そのものが白日夢の如き体験でした。所謂、私たちが思い描く「巨人ゴーレム」は全く登場せず、どちらかと言えば「分身もの」なのです。ゴーレムは「幽鬼」という程度の意味に成っています。カバリストのラビ、人形遣い、悪徳医、闇商人、売女、犯罪者集団…。プラハのゲットーに蠢く奇怪な人間群像の描写にも舌を巻きます。「ヘブライ語のアーレフの文字は、片手で天上をさし、片手で下方をさした人間の姿をかたどったもので、それはつまり『天上に行なわれているとおりのことが地上にも行なわれ、地上に行なわれるとおりのことが天上にも行なわれている』ということを意味している」。けども、そのポーズって、釈尊の「天上天下唯我独尊」でもありますよね(因みに、作者はプロテスタントから大乗仏教への改宗者でした)。巻末の訳者解説(1990年記)に「ヘブライ語などについては森田雄三郎氏に…懇切なご教示をいただいた」と、今は亡き恩師のお名前に出会い、森田先生がヒレルのように、今、病床にある私を、どこかで見守って下さっているように感じられ、不覚にも嗚咽した次第です。「ユダヤの言葉が子音だけで書かれているのを偶然だとお思いですか?―自分ひとりに定められている意味を開示してくれる秘密の母音を各人が見いだすためなんですよ」。
  • 「時が新しかったころ」(ロバート・F・ヤング著、中村融訳、創元SF文庫)
    ハインラインの『夏への扉』と同趣向のロマンティック時間SF。それにしても、この小説、以前、確かに読んだよなあと思いながら読了。何のことはない。同じ内容の中編を作者自身が長編化したものなのです。時間調査員が人類の存在しないはずの白亜紀で2人の姉弟を救助。2人は火星の「グレーター・マーズ」国の王女と王子で、凶悪テロリストに誘拐されて来ていたのです。自称「トラックの運ちゃん」が行き掛かりから、この幼い姉弟を体を張って守ることになるという筋立てが泣かせるのです。主人公が姉弟に「正式のアメリカン・インディアン方式」のキャンプ(要するに野宿)を体験させて上げる場面が秀逸です。食後に枝先にマシュマロを刺して焼いて食べさせるのですが、北海道時代、カナダ合同教会のウイットマー宣教師(先住民の文化にも造詣が深い)とご一緒したキャンプファイアを思い出しました。
  • 「亜米利加ニモ負ケズ」(アーサー・ビナード著、新潮文庫)
    彼の『ベン・シャーンの第五福竜丸』(集英社)の絵本を、以前、小学校の読み聞かせで演ったことがあります。その時、私は生徒たちの関心を引くために、白眼ゴジラのラジコンを持って行って、そこからビキニ環礁水爆実験を説き起こしたのでした。「一文にもならないのに、そこまでするか」というサービス精神に溢れているのは、この作者の思索も同じ。この人の文に接すると、アメリカを否定して日本人に成るのでもなく、日本を見下してアメリカ人に成ろうとするのでもなく、両者を慈しむことが出来るのではないでしょうか。山村暮鳥の「病床の詩」、堀口大學の「お七の火」に寄せる彼の愛着を見ていると、本当にこの人は詩人なのだなあと思われます。しかも、彼の魂は、北米の自然を通してアメリカ先住民の霊とも繋がっているのに違いないと思うのです。
posted by 行人坂教会 at 20:29 | 牧師の書斎から