2015年06月26日

一点一画 one jot or one title(続き)その24

  • 「回顧七十年」(斎藤隆夫著、中公文庫)
    先日、父の二十五回忌の法事のため、久しぶりに但馬の実家に帰省。その際、仏間に飾られた斎藤隆夫の扁額を改めて確認して来ました。「雲氣靜/雲高くして気静か」に「天城隆」と署名されていました。平凡と言ってしまえばそれまで。むしろ、飾らぬ但馬人気質が出ていて安心しました。叔父によれば、拙宅に逗留した際に書かれたものらしいのですが、回顧録を読みながら、いつ頃に書かれたのか気になりました。併録されている演説2篇、二・二六事件直後の所謂「粛軍演説」、日中戦争処理についての質問演説は、今読んでも胸がすく思いです。保守政治家の立場から正面切って、ここまで厳しく内閣と軍部の責任を追及した人は誰もいません。斎藤は全く平和主義者、理想主義者などではなく、徹底した現実主義者、しかも熱烈な天皇崇拝者ですが、しかし、立憲政治を信奉し、それに殉ずる気概を持っていたのです。何の展望もないままに軍部が始めた日中戦争のために、どれだけの血税が浪費されて、どれだけ国民の生命財産が失われているか訴える件は、涙無くして読めません。昨今の国立競技場建設問題や「集団的自衛権」法案を見る限り、日本の官僚や代議士たちの行き当たりばったりの体質は何も変わっていません。
  • 「ノヴァーリスの引用/滝」(奥泉光著、創元推理文庫)
    著者の作品を読むのは『石の来歴』以来でした。ノヴァーリスが好きで買ってみたのですが、読み終えてみると、圧倒的に『滝』が面白かった。修験道系の宗教教団の「若者組」の少年たちが夏期修練の総仕上げとして回峰行に挑みますが、それを監督する「青年組」の男の屈折した愛情が原因となって壊滅していくのです。少年たちの肉体と精神が崩壊していく様は「少年十字軍」を思い出しました。誓約(うけい)の際の神籤が先輩たちによって恣意的に操作される慣例があったり、女人禁制の故に男色が黙認されていたり、実に興味深い。『ノヴァーリス』には、泥酔した「私」が1979年の春にタイムスリップする展開があります。ここが、十数年前に自死したとされる石塚の側からの、仲間たちへの異議申し立てに成っています。これまでの展開を全て引っ繰り返して、推理ごっこに興じる生者たちこそが、殺人の真犯人であったと主張します。黒澤の『羅生門』で、巫女に憑依して語る死せる夫の霊と同じです。
  • 「神話の力」(ジョーゼフ・キャンベル&ビル・モイヤーズ著、飛田茂雄訳、ハヤカワノンフィクション文庫)
    キャンベルによる神話や宗教儀礼の引用には、アメリカ先住民、古代インド、マヤやアステカの神話、それに仏教説話なども頻出するのですが、それに加えて、聖書やカトリック信仰(彼自身の出発点)も重視されています。少し彼のカトリック贔屓は鼻に付くかも知れません。プロテスタントはルターが採り上げられている以外、全く問題外で、東方教会については手付かずのようです。しかしながら、神話学の立場から読み直しているせいか、彼の聖書解釈は、「聖書の非神話化」以後の私たちから見ても的確です。対話者のモイヤーズが南部バプテストの神学校出身者だという点も重要で、旧来のキリスト教批判も含めて、全米の一般的読者が内容を受容するために、大きな役割を果たしていると思います。但し、日本の読者がこれを鵜呑みにして、自分たちの「宗教的寛容の風土」を誇る等というのは勘違いも甚だしい。日本宗教の中の権力構造については、私たち自身が批判していく課題として残されているのです。
  • 「ヒストリエ」第9巻(岩明均作、講談社)
    旧作『寄生獣』が実写映画化されてヒットしたり、テレビアニメ化されたりして何かと話題になっても、どこ吹く風と、相変わらず地味な歴史物をコツコツ描き続けている作者は凄い。買った日に2回読みました。「カイロネイアの戦い」開戦という所で終わってしまう訳で、戦闘も殺戮もない巻なのですが、それでも面白いのです。アテネのフォーキンとのやり取り、アンティパトロスとの腹の探り合いを、エウメネスがしているだけで嬉しいのです。昔懐かしい人も再登場していますし、新キャラのフォイニクスも頼もしい「相棒」に成りそうだし…。
  • 「妻を帽子とまちがえた男」(オリヴァー・サックス著、高見幸郎・金沢泰子訳、ハヤカワノンフィクション文庫)
    表題は比喩や寓意ではなく、その言葉通りに妻の頭を摑むや持ち上げて被ろうとする患者が登場するのです。彼は、一見しただけでは対象物が何であるか認識する直観力と総合力を失ってしまったのです。また、別の男性は19歳以降の記憶を失ってしまって、今現在の記憶も次の瞬間には、砂に書いた文字が波に浚われるように消えて行きます。ある女性は、身体の固有感覚を失ってしまい、視覚によって意識集中させなければ、自然に動けなくなってしまいます。神経と精神・身体の不思議を思わないではいられません。「われわれは『物語』をつくっては、それを生きているのだ。物語こそわれわれであり、そこからわれわれ自身のアイデンティティが生じると言ってもよいだろう」。「生物学的あるいは生理学的には、人間は誰しもたいして変わらない。しかし物語としてとらえると、一人一人は文字どおりユニークなのである」。「世界とはどういうものなのかを子供に教えるのは、『物語的な』あるいは『象徴的な』力なのである。具体的な現実が表現されるからである」。脳神経科医の著者にして、この言葉、唸らせます。
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2015年05月01日

一点一画 one jot or one title(続き)その23

  • 「あそぶ神仏/江戸の宗教美術とアニミズム」(辻惟雄著、ちくま学芸文庫)
    妻の親戚に「ギイ坊(ぼん)さん」と呼ばれる作仏聖(さくぶつひじり)がいたらしい。全国各地を遊行した後、京都の桂の山奥に庵を結んで、仏像を彫り続けたらしい。最期は四国で亡くなったとか。妻の実家に帰る度に、その「ギイ坊(ぼん)さん」の釈迦誕生像(多分「天上天下唯我独尊」の姿勢と思われる)と御一緒させて貰っている。この本に採り上げられる円空や木喰行道の仏像を見て、この無名の作仏聖の存在が重なったのでした。他に、風外慧薫、白隠、仙高フ禅画、天龍道人源道の仏画が解き明かされ、伊藤若沖、葛飾北斎の浮世絵の宗教性までが論じられています。日本の風土に深く根差したアニミズム(万物に神仏霊が宿っている)の復権が、この本のテーマです。私たち、日本のキリスト者としても、パンセイズム(汎神論、万有在神論)として受容、再解釈した上で、土着化を考えるべきです。遠く蝦夷地まで渡って木彫、石彫を続けた木喰(「奪衣婆」の素晴らしさ)、「法ノ本ハ無法ナリ」と、意識的に無技巧な禅画を志した仙香A彼らの求道の人生もさることながら、日本の仏教美術に見られるファンシー(奇想、可愛らしさ)、これが大切です。どう見たってマンガやアニメの源流でしょう。
  • 「マクロイ傑作選/歌うダイアモンド」(ヘレン・マクロイ著、好野理恵他訳、創元推理文庫)
    アラビアの格言「かなえられた願いには禍いがつきもの」、余程、著者お気に入りの言い回しだったのでしょう、「八月の黄昏に」と「人生はいつも残酷」に引用されています。やはり、巻頭の「東洋趣味(シノワズリ)」には舌を巻きます。幻想的、衒学的、厭世的な物語でありながら、義和団事件直前の清朝末期という歴史的背景が素晴らしい効果を上げているのです。ドッペルゲンガーを扱った「鏡もて見るごとく」、UFO目撃者が次々と怪死を遂げる「歌うダイアモンド」は、推理小説の体裁は採っているものの、探偵役が法廷精神科医ということもあり、また、著者の心理表現の技巧も相まって、心理小説(超心理小説?)と言っても良いでしょう。私が最も感銘を受けたのは、核戦争による終末を描いた「風のない場所」です。レイモンド・ブリッグスの『風が吹くとき』やグードルン・パウゼヴァングの『見えない雲』に比肩するアポカリプス・メルヘンです。巻末「人生はいつも残酷」は、その苦々しさが読了しばらく後を曳きます。「灰の味を見るようだった。彼女は出ていった。荒涼とした世界に一人残されたブライは、口の中に苦さを感じた。それは燃え尽きた青春の後味だった」。
  • 「おばけずき/鏡花怪異小品集」(泉鏡花著、東雅夫編、平凡社ライブラリー)
    「…夜と昼、光と暗との外に世界のないように思って居るのは、大きな間違いだと思います。夕暮れとか、朝とか云う両極に近い感じの外に、たしかに、一種微妙な中間の世界があるとは、私の信仰です。私はこのたそがれ趣味、東雲趣味を世の人に伝えたいものだと思って居ります」(「たそがれの味」)。そんな黄昏時の逢魔を描く「怪談女の輪」が怖い。やはり、男子にとって女の曲線ほど魔性に通じるものはありません。それも、集団で登場された日には…。「黒壁」は、丑の刻詣りに遭遇してしまった生々しい恐怖。武家屋敷の「血天井」「不開室」「庭の竹籔」と来て、在り来たりと思っていたら、映画『ホステル』か、月岡芳年の無残絵みたいに残酷趣味も加わってしまう「妖怪年代記」。今や古典の域の鏡花ですが、ストーリーテリングよりも、その独特な感性から生まれる表現にドキッとさせられます。「颱風の中心は魔の通るより気味が悪い」、「心づくと、人ごみに揉立てられたために、手を曳いた児は、身なしに腕一つだけ残った」、「ひとえに白い。乳くびの桃色をさえ、蔽いかくした美女にくらべられたものらしい」、「縁側の手拭掛が、ふわりと手拭を掛けたまま歩行んです」、「川の流は同じでも、今のは先刻の水ではない」、「黒髪に透く星あかりを魂棚の奥に映す」…。親戚が城崎の老舗旅館をやっているので、随筆「城崎を憶う」では、故郷を懐かしみました。
  • 「みうらじゅんのゆるゆる映画劇場」(みうらじゅん著、文春文庫)
    「(どんな映画でも)どこかしらグッとくるシーンはあるに違いない。それを見つける行為をオレは修行≠ニ呼んで映画館に通っているのである」(「文庫版あとがき」)。これって結局、淀川長治のモットー「私は未だかつて、嫌いな人に会ったことがない」と同じですね。意外にヨドチョーさんと繋がっているのです。「淀川長治先生のTV映画解説の最後が『ビースト/巨大イカの大逆襲』であったように、終焉は突然やってくる。人生は選ぶことができないという」の一節にシビレました。そう、何を隠そう、著者と同じく怪獣映画ファンの私も、日曜洋画劇場、ヨドチョーさんのラストカット、見ましたがな「『JAWS』と同じ、ピーター・ベンチリーの原作なんですね」と強調しておられました。最近は、ジャンル映画についてのウンチク本、それどころか、わざわざトラッシュ(クズ映画)を漁って、お笑いネタとしてリサイクルする類いの映画本が数多ありますが、著者は、大ヒット作も、苦手な恋愛映画も、ホラーも青春映画も、時代劇も分け隔てなく鑑賞しています。不真面目に見えて、かなりな「ヨドチョーさん」なのでした。いや、『シベ超』や『ペキフー』を持ち上げて、カルトに仕立て上げてしまった力量は侮れません。
  • 「時代劇は死なず!〈完全版〉/京都太秦の『職人』たち」(春日太一著、河出文庫)
    私の友人Kは、1970年代末、東映太秦映画村でバイトをしていました。ロボコンの着ぐるみに入って村の中を歩くだけ。観光客の女の子と抱き合って、記念写真に収まる仕事、しかも「ロボコンお散歩、随時」だったそうです。その話を聞いて羨ましいと思ったものです。その映画村が、稼働率の低下したオープンセットの活用、撮影所スタッフ、大部屋俳優の出向先であったことは、本書に詳しい経緯が記されています。観客人口の減少と映画産業斜陽化は、テレビの普及が原因として挙げられて来ました。しかし、その固定観念を覆したことが、本書の最大の功績です。実際には、撮影所からテレビ製作現場へと出向した人々が新たな表現の場を与えられたこと、そのお陰で撮影所と時代劇製作の人材が生き残ったことが証明されたのです。しかしながら、「新書版あとがき」「文庫版あとがき」を読むと、残念ながら現在では「死なず!」とは言えぬ、壊滅状態に至ってしまったとのことです。
  • 「アド・アストラ/スキピオとハンニバル」第7巻(カガノミハチ作、集英社)
    マケドニア王フィリポス5世が登場。ハンニバルに呼応し、アドリア海とイリュリアの覇権を巡って、ローマ艦隊と戦います。世に言う「第一次マケドニア戦争」の始まりです。フィリポスは、ハンニバルのカルタゴが敗北した後も、対ローマ戦争を続けることになります。まあ、そういう話は描かれていませんが、「第二次ポエニ戦争」の背景として押さえて置くとしましょう。それでも、第45話「忠臣の使命」には、マケドニアに向かうハンニバルの使節船が、ローマ艦隊の攻撃を受ける場面がしっかり描かれており、『ベン・ハー』でお馴染み、火槍(ファラリカ)投擲や衝角(ロストルム)による体当たり攻撃が出て来ます。重装歩兵を敵船に乗り込ませるための嘴(コルルウム)も見えられます。新キャラ、マゴーネ(ハンニバルの幼馴染)が中々いい味を出しています。
posted by 行人坂教会 at 13:22 | 牧師の書斎から

タイトルが新しく変わりました。

「牧師の書斎から」で掲載しておりました「幽径耽読」ですが、このたびタイトルを新しく変更させて頂きました。


一点一画 one jot or one title」です。


「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイによる福音書5章18節)と言われています。「一点」は「1つのイオータ」、ギリシア文字「イオータ」(英語のアルファベットの「i」に当たる)は、ヘブル語では「ヨッド、ヨード」、一番小さな文字なのです。「一画」は「1つの小さな角」、ヘブル文字の「ダレット、ダーレス」(英語の「d」に当たる)は、まさしく「一画」という形をしています。

この世が終わる、その日まで、本を読む楽しみを大切にしたいと思いました。


・・・というのがその由来です。


posted by 行人坂教会 at 10:16 | 牧師の書斎から

2015年03月20日

幽径耽読 Book Illuminationその22

  • 「映画の中の奇妙なニッポン」(皿井垂著、彩図社)
    「クール・ジャパンよりもフール・ジャパン」の面白さ。昔は「国辱映画」等と叫んで、真剣に憤慨したものですが、今では、ドン引きしつつも「こんなにイジってくれちゃって」と苦笑いしたり噴き出したりしている訳で、それこそ、私たちも些か国際化したということなのでしょう。それにしても、著者の採り上げた圧倒的な作品数、著者の守備範囲の広さには、驚かされました。早川雪洲の古典『チート』からアラン・レネやグリーナウェイまで、渡辺謙からフィリピン映画のニンジャ役者のケン・ワタナベまで、あるいはMr.BOOまで…。著者は「批評めいた視点からはできるだけ離れ、…闇鍋のようにぶちこんでみた」と書いていますが、これだけブチ込めば、自然と批評になってます(これ、賞賛です)。個人的には、ジャッキー・チェン主演(と言っても、出演は1カットのみ)の『ドラゴン特攻隊』が抜けていたのは惜しまれます。大戦中、中国軍の特殊部隊が日本軍の要塞に奇襲をかけますが、「日本軍の戦車だ!」と言われて、見れば、黄色いブルドーザーだったりします(KOMATSUと書いてある)。「ゼロ戦だ!」と言われて、見れば、セスナ機が出て来る『ロンゲスト・ブリッジ』というZ級カス映画もありました(盧溝橋事件を描いた作品ということになっています)。
  • 「エヴァンジェリカルズ/アメリカ外交を動かすキリスト教福音主義」(マーク・R・アムスタッツ著、加藤万里子訳、太田出版)
    読了して、私自身、幾つかの点で原理主義者と福音主義信者とを混同していたと反省しました。また、米国の福音派の社会貢献の大きさにも感心しました。この本に言う「福音主義」とは、20世紀初頭のリベラル派と原理主義者との対立の結果、その両方に組しない穏健な人々により形成された勢力なのです。「20世紀末にメインライン教派(ルター派、長老派、メソジスト、バプテスト)が会員と影響力を急激に失ったのは、彼らの関心が神のことばを説くことよりも、注目を浴びる課題についてうけのよい立場を示すことにある、と見なされたからにほかならない」。しかし、当の福音派も、政治、経済、環境、軍事、人権などについて発言と関与を重ねていく中で、多様化し影響力が低下しているとの由。歴史は繰り返すのです。日本では正当に評価されていないR・ニーバー、トクヴィル、ベラー、ミード等が著者の論拠になっています。「訳者あとがき」で、シビル・レリジョン(公共宗教、市民宗教)関連で、私の恩師、森孝一教授の分析も引用されています。
  • 「マーカイム・壜の小鬼/他五篇」(ロバート・ルイス・スティーヴンソン著、高松雄・高松禎子訳、岩波文庫)
    やはり、古典は読むべきですね。怪談からピカレスクロマンまで、ヴァラエティに富んだ短編の数々に発見があります。怪奇ファンとしては、あのヘンリー・ジェイムスも絶賛したという「ねじれ首のジャネット」を筆頭に挙げねばなりません。寒村の教会に赴任した、スコットランド長老教会の牧師が体験した恐怖。悪霊と対峙する時には、絶対に目を背けてはなりませんね。著者は敬虔なキリスト信者ですが、自らの出自である長老教会の偏狭な信仰には距離を置いていたようです。「壜の小鬼」は、所有者の欲望を叶えるが、持ち続けていれば、一緒に地獄に連れて行かれるという代物。しかも、自分が購入した金額よりも安く誰かに転売しなければならないという規則を伴います。文句なしに楽しめる展開です。「水車屋のウィル」と「マーカイム」には、死神(神御自身とも思われる)との対話が用意されていますが、2作は子どものような素直さと天邪鬼の見事な対比でした。ジャンル分け不能の「天の摂理とギター」は、夫婦者の旅芸人の物語ですが、この力強さ、逞しさ、大らかさや優しさが、果たして私たちにあるでしょうか。もっと楽天的に、自由に世の中を渡って参りたいものです。
  • 「丹生都比売(におつひめ)/梨木香歩作品集」(梨木香歩著、新潮社)
    まるで童話か絵本のような語りで綴られる「夏の朝」は、物語性ということについて深く考えさせられます。神や仏の如くして物語るものもあれば、作中人物の一人に憑依して(作中人物の口を借りて)証しするものもあります。まあ、後者も依代を立てるのですから、やはり神がかりではある訳です。「依童(よりわら)」という語があるように、子どもに語らせるのが、読者が入り易い仕立てです。しかし、敢えて語り手を意識させるという意味で、この作品は非常に異質なのです。さて、20年ぶりに読んだ表題作。私もいっぱしに人の親になって、命の切なさや哀しさについて、思いを至らすようになったようです。「…ああ、露よ。おまえも、その身を露と固めてこの世に出でくるまでは、ずいぶんと寄る辺ない切ない思いで、漂っていたことであろうなあ…」「…醜い欲も、たぎるような感情も、やがては哀しくなって、土が水銀に精錬されるように、このような美しい珠となるのだろうか…」。ラストを飾る「ハクガン異聞」、霧の出た森の小径で迷ってしまった結果、思いも寄らぬ風景や生き物に遭遇した経験です。そうそう、私たちは、学生時代、CAMELの「SNOW GOOSE」のファンでしたよね。
  • 「プリニウス」第2巻(とり・みき+ヤマザキマリ作、新潮社)
    古代ローマ物のマンガって楽しいな。第13話「インスラ」の冒頭のカット、豚の首切り、それこそ、フェリクスが家族のために焼いている肉だったのですね。2回目に捲ってみて漸く繋がりました。この豚の首のカットのリアリズムに比べると、第12話「プラウティナ」の終わり近く、ネロ皇帝の辻斬りの場面には、かなり粗雑な絵があります。巻末の合作者対談を読むと、2人共に殆どアシを使っていないらしいし、時々、手の回らないこともあるのだろうなと推察します。
  • 「たんぽぽ娘」(ロバート・F・ヤング著、伊藤典夫編、河出文庫)
    はい、やっと文庫化、晴れて購入、楽しく読了。表題作は、これぞヤング、やはり、タイムトラベル・ロマンティックSFの金字塔です。私としては「荒寥の地より」に最も感銘を受けました。ノスタルジーの中に寂寥感が漂っています。過去の愛しい思い出の中に、未来から来た男が入っているのです。例えて言えば、デジャヴのような、何とも知れぬ朦朧感が堪りません。そう言えば、表題作の中にも、タイムパラドックスを軽く一蹴する言葉がありました。「時の書物はすでに書かれているんですって。巨視的に見れば、将来起こるできごとは、もうすでに起こっているのだと父はいうの。もし未来人が過去の事象にかかわりあったら、その人は過去の一部になってしまう―つまり、もともとその人は過去の一部として存在していたから―この場合には、だから、矛盾は起こりえないということになるわね」。まさか、カルヴァンの予定説かよ。「神風」と「ジャンヌの月」は、共に「ボーイ・ミーツ・ガール」物ですが、ハッピーエンドの分、後者が嬉しいですね。「ジャンヌ」には、こんな一節もありました。「戦時法は、あらゆる法と同様に、状況や効果を鑑みて、施政者の意のままにいかようにも適用されるということを忘れていた」。主人公は慄然とします。私たちは間に合うでしょうか。
posted by 行人坂教会 at 10:21 | 牧師の書斎から

2015年02月10日

幽径耽読 Book Illuminationその21

  • 「ドミトリーともきんす」(高野文子作、中央公論社)
    ここは、朝永振一郎、牧野富太郎、中谷宇吉郎、湯川秀樹が寄宿する学生寮。寮母のとも子さんと赤ん坊のきん子さんは、学生さんたちの思考と発想に耳を傾けながら暮らしています。なぜか日本の公教育が少しも教えてくれない、科学者たちの人間味溢れる表情や物腰を、高野の漫画が垣間見せてくれます。敢えて「漫画」と書いたように、多分、4人のキャラは、彼らと同時代に活躍した4人の漫画家のキャラを被せてあります(朝永が50年代の手塚風だったり、牧野は「矢車剣之助」風だったりする)。そして、圧巻はフィナーレを飾る湯川の「詩と科学」です。高野の漫画を背景にして、湯川の言葉に接するとなぜか胸に染み、落涙を禁じえませんでした。
  • 「日本霊異記」(原田敏明、高橋貢訳、平凡社ライブラリー)
    行基の説法を拝聴していた女が連れていた子は、10歳を過ぎても歩かず、泣き続け、乳を飲み食べ続けています。まるで『千と千尋の神隠し』の「坊」のようです。行基は「その子を淵に捨てろ」と再三勧告し、遂に女が流すと、その子は「あと3年お前から貪ろうと思っていたのに」と捨て台詞を呟きます。その子は前世の敵対者だったという話(中巻第30話)。ホドロフスキーの『ホーリー・マウンテン』で、ヨガの行者の勧めで、キリスト似の男が肩に乗せている侏儒を舟から投げ捨てる場面を思い出しました。蛇に犯された娘に薬草を飲ませて堕胎させる話(中巻第41話)、鳥の卵のような肉の塊から生まれた女の子が長じて尼となり、「外道」と罵られながらも高い知恵で仏道を究めて行く話(下巻第17話)、娘が結婚した夫は実は悪鬼で、初夜に頭と指1本を残して食われた話(中巻第33話)、未婚の女が男と交わることなく懐妊、神の宿る石を産む話(下巻第31話)、女性が絡む怪異談が私には特に面白かったです。
  • 「鳥/デュ・モーリア傑作集」(ダフネ・デュ・モーリア著、務台夏子訳、創元推理文庫)
    デュ・モーリア中毒です。ヒチコックの映画化で有名な「鳥」の恐ろしさは、核戦争の始まってしまった世界の隠喩ではないでしょうか。何しろ、主人公ナットは自宅のロッジを補強して、シェルターを作るのですから。「戦時中、空襲があった時と同じだ。国のこちら側では誰も、プリマスの人々がどんな目に遭ったかを知らない。人は、自らその被害を受けないかぎり、何事にも関心を抱かないのだ」。ナットの独白も有り触れた言葉に見えて奥深い怖さがあります。冬の寒い日が設定されているのですが、鳥の襲撃から一夜明けてみると、友人の農場からも、近所の公団からも一筋の煙も上がっておらず、火の気が無くなっている、その風景描写に慄然とします。ヒロインの心が不思議な山岳宗教に捕らえられてしまう「モンテ・ヴェリタ」、映画館の案内嬢に導かれて、自動車修理工の青年が闇の領域へ足を踏み入れてしまう「恋人」、有閑マダムが避暑地でアヴァンチュールを愉しんでいる内に煉獄に陥る「写真家」、富豪の若妻の自殺原因を求めて、探偵が辿る道のりが、まるで巡礼のように描かれる「動機」…。圧巻です。
  • 「オオカミの護符」(小倉美惠子著、新潮文庫)
    神奈川市宮前区土橋、東急田園都市線の鷺沼とたまプラーザの間にある地域が、一瞬にして、橘樹郡宮前村大字土橋に戻ります。護符を通して、著者が私たちを1960年代初頭へと誘うのです。やがて御嶽講の宿坊(わが教会学校も御岳山荘に泊ったことがあります!)を経、山岳信仰の源流を遡り、秩父の深奥へと分け入って行きます。オオカミのお産の鳴き声を聞きつける「心直ぐなる者」との出会いは感動的ですらあります。明治の廃仏毀釈は教科書でも教えていますが、明治政府が修験道禁止令を出したことは知りませんでした。山の神に抱かれて初めて成り立つ暮らしと祈りは、「自然」「環境」「里山」「宗教」といった語を当て嵌めることすら躊躇われます。労働にも「稼ぎ」と「仕事」の2種類があるという山村の流儀(内山節の説)、勉強になりました。
  • 「宰相の二番目の娘」(ロバート・F・ヤング著、山田順子訳、創元SF文庫)
    ヤングは自作中短編の長編化をする作家です。これは以前に読んだ「真鍮の都」でした。展開もオチの付け方も『時が新しかったころ』と似ています。少女が成長して、迎えに来てくれる(待っていてくれる)というパターンは、ハインラインの『夏への扉』と言い、どうやら、タイムトラベル物を書く男性SF作家(と、その男性読者)の願望みたいです。そんなことは最初から分かっているのですが、読んでいる間は、それこそ愛妾に寝物語を聞かせて貰っているスルタンの気分になれます。
  • 「いま見てはいけない/デュ・モーリア傑作集」(ダフネ・デュ・モーリア著、務台夏子訳、創元推理文庫)
    中学生の時『レベッカ』を読んで以来です。エルサレムの聖地ツアーにやって来た一行の受難劇「十字架の道」が面白そうだったので買いました。インフルエンザに伏した老牧師の代役を務めさせられることになった若い牧師の憤懣よく分かります。その老牧師のために無償の奉仕を続けて来た老嬢が、当の牧師が「付き纏われて困っている」と漏らしたとの噂を耳にして恐慌を来たす辺りもリアルです。ニコラス・ローグの『赤い影』の原作たる表題作、クレタ島に来た美術教師が体験するパン神の呪い(「真夜中になる前に」)、怖いです。亡き父の旧友を訪ねた新進女優が垣間見た不思議な世界(「ボーダーライン」)は、きらきらと輝く少女の感受性がお見事。「第六の力」は『ウルトラQ』の一ノ谷博士みたいな研究者の話。とにかく粒揃いの作品集です。
posted by 行人坂教会 at 15:52 | 牧師の書斎から

2015年01月06日

幽径耽読 Book Illuminationその20

  • 「刻刻」第8巻(堀尾省太作、講談社)
    ヒロイン、樹里が「止界」から登場人物を一人ずつ退場させて行くことで、物語が終局へと向かいます。でも、「あたしがここに最後まで残る」という悲壮な自己犠牲に終わらせないのが、この作品の美点です。幕引きの仕方としては安心でした。全体としては、登場する女性たちの力強さと賢さを感じます。その辺りは、星野之宣の『ヤマタイカ』でしょうか。
  • 「不思議屋/ダイヤモンドのレンズ」(フィッツ=ジェームズ・オブライエン著、南條竹則訳、光文社古典新訳文庫)
    巻頭の「ダイヤモンドのレンズ」が圧倒的に強い印象を残します。顕微鏡を覗くのが唯一の趣味という理科少年が長じて、最高水準の顕微鏡セットを組み上げるのですが、ある日、レンズの向こう側に、妖精の少女を発見するのでした。そこで急カーブして幻想小説の趣きを呈して行きます。ダイヤモンドを手に入れるために、ユダヤ人商人を殺してしまう辺りは、『罪と罰』のようでもありました。つまり、オブライエンは多面的な作家なのです。そう言えば、昔、望遠鏡を題材にした窃視症の男の物語をマンガで読みました(吉田光彦の『ペダルに足がとどく日』に入っていた、多分「ズームバック」)。意外に楽しめたのが、中国物「手品師ピョウ・ルーが持っているドラゴンの牙」です。解説によると、「太平天国の乱」と関係があるらしいです。
  • 「シュトヘル/悪霊」第10巻(伊藤悠作、小学館)
    金国の居庸関攻略戦に新型弩(石火矢)が登場。それ以外に軍事的な進展はありません。民族の興亡を達観した上で、大ハンを討とうとするハラバル(「等価」)、真正面から大ハンに西夏文字の価値を説こうとするユルール(「愚者」)、純粋に大ハンの首を取ろうとするシュトヘル(「大首」)、大ハンを討たせてトルイへの代替わりを目論むナラン(「出来事と心」)。こうして主要登場人物のベクトルは全て、大ハンに向かいます。そして、ユルールの前に姿を現わした大ハン(「対峙」)…。次巻が山場です。
  • 「MASTERキートン/Reマスター」(浦沢直樹×長崎尚志作、小学館)
    昔の『MASTERキートン』では女子高生だった娘の百合子が、離婚したばかりという設定で、第7話「マルタ島の女神」に登場。キャラクターの成長ぶりを見るパターンは『20世紀少年』です。第1話「眠り男」と最終話「栄光の八人」が、いずれも病室で幕切れとなります。どちらも絶望的な現実の中に、小さな光を灯そうとする物語です。始まりと終わりが繋がっていて、円環になっています。第4話「ハバククの聖夜」は『リオ・ブラボー』『要塞警察』、籠城戦の典型。これがシンプルで、一番好きです。第5話「女神とサンダル」、第6話「オオカミ少年」は、忘れていた過去を思い出す話です。東欧の人身売買ビジネス、ユーゴ内戦、北アイルランド紛争、ワシントン条約違反の密輸ビジネス、東西冷戦時代のスパイ網、フォークランド紛争、またユーゴ内戦と現代史に、いつものドナウ川文明、トロイア戦争、マルタの地下神殿と考古学ネタのスパイスも効かせてあって、往年の読者も安心して読めますが、それにしてもキートン、全然老けていないじゃないですか。
  • 「ハリウッド美人帖」(逢坂剛+南伸坊談、七つ森書館)
    何と言っても、逢坂剛の凄まじいブロマイド・コレクションに脱帽しました。私にとって面白かったエピソードを挙げます。ボギーの『大いなる別れ』のファム・ファタル、リザベス・スコットは神学校出身(牧師を目指していたんだ)。私も彼女のCDは持っています。『拳銃の町』のオードリー・ロングは牧師の娘。ドロシー・マローンは南メソジスト大学出身。ビング・クロスビーは『我が道を往く』の「オマリー神父」だけに熱心なカトリック信者。不倫交際中のインガー・スティーヴンス(『刑事マディガン』)にプロテスタント(スウェーデン出身なので、多分、ルター派)からの改宗を迫るも、彼女が拒否したため破局。改宗を受け入れたキャスリン・グラント(『シンドバッド7回目の航海』)と結婚したとか。ドロレス・ハート(『ボーイハント』)は女優を引退して、ベネディクト会の修道女になっていたのですね(「オスカー投票メンバーである、史上唯一の修道女」)。胸元の大きく開いたドレスのロンダ・フレミング、ジューン・ナイト(初耳の女優)、胸が尖がっているドロシー・ラムーアにマリア・モンテス、脚線美のイロナ・マッセイ、リリー・パルマー、ヴァージニア・メイヨ、シド・チャリース、ジョーン・ドルー、ケイ・ランドール。レスリー・ブルックス、ヴェラ=エレン、エレイン・スチュワートの水着姿、ホットパンツのドリス・デイとホープ・ラング、肩の美しいニコール・モーレイ、ダナ・ウィンター、マーラ・パワーズ、ジア・スカラ、とにかくセクシーなティナ・ルイーズ、珍しく薄化粧のクラウディア・カルディナーレ、私の贔屓のリー・レミック、キャロル・リンレーまで、眺めているだけで幸せになります。
  • 「屍者の帝国」(伊藤計劃×円城塔著、河出文庫)
    謎の敵「ザ・ワン」を追跡する展開は、『メタルギアソリッド/ガンズ・オブ・パトリオット』を思い出させます。ホームズの盟友、ワトソンを中心にして、『ドラキュラ』『フランケンシュタイン』『カラマーゾフの兄弟』『007』『海底2万里』、果ては『風と共に去りぬ』も出て来ます。しかしながら、肝心の「ザ・ワン」が登場した辺りから物語の運動が失速した印象は拭えません。正直、私も乗り切れなくなってしまいました。時々、気の効いた台詞や奇想も出て来るだけに残念でなりません。失敗の原因の1つは、唯一のヒロインである「ハダリー」の造形が中途半端である点です。『エヴァ』の綾波レイみたいな存在なのですが、絵の無い分、私にはチンプンカンプンでした。本作の「屍者」「屍兵」もまた、数多のゾンビ物と同じく、組織集団や大衆の中で魂を剥奪された人間の暗喩です。しかし、そうであれば、尚の事、酷使され、遣い捨てられて行く彼らの無残な姿は、もっと描かれるべきだったのではないでしょうか。
posted by 行人坂教会 at 07:53 | 牧師の書斎から

2014年11月30日

幽径耽読 Book Illuminationその19

  • 「新世紀エヴァンゲリオン」第14巻「旅立ち」(貞本義行画、カラー作、角川書店)
    やっと完結です。うちの長男が生まれる前から買い始めて、今、彼は高1です。「エヴァの最終巻、買って来た?」と、このところ毎日尋ねられていました。いつの間にか「作」も「GAINAX」から独立した「Khara」に変わっていました。テレビシリーズ、旧劇場版『Air/まごころを、君に』等の「終わらせ方」が改めて集約されて、洗練されているように思います。(新劇場版に繋ぐエピローグまで含めて)もう納得するしかない「終わらせ方」です。これなら、テレビ最終回時のように「自己啓発セミナー」等と陰口を叩かれることもありますまい。しかし、一種の夢オチですから、これまでの20年間がこの結末に向かっていたのかと思ったが最後、身も蓋もありません。でも、大切なのは、やっぱりプロセス。テレビ、新旧映画、マンガ、パロディ版と何種類も異なるヴァージョン(異伝)が存在してしまうところ、キャラが一人歩きを始めてしまうところ、完結したと思えないところ、「エヴァ」は現代日本の物語伝承みたいなものなのでしょう。
  • 「万国奇人博覧館」(ジャン=クロード・カリエール×ギイ・ベシュテル著、守能信次訳、ちくま文庫)
    カリエールは、ブルジョワ紳士淑女が便座に坐って用を足しながら晩餐をするブニュエルの映画、チンパンジーと不倫する人妻セレブを描いた大島渚の映画の脚本家です。とにかく、奇人というカテゴリーの幅広さに圧倒されます。7百ページを超えるのも宜なる哉。例えば、「文筆奇人」だけに限っても、「神学奇人、純文学奇人、哲学奇人、政治奇人、演説奇人」に分類できるそうです。私は牧師なので、やはり宗教的な奇人が気になります。寝取った人妻の夫に殴り殺された教皇ヨハネス12世(10世紀)、「使徒継承者」を名乗り、アントワープを占領したタンシュラン(11世紀)、私有財産を否定して、皆で女性も共有した再洗礼派ライデンのヤン(16世紀)、信徒を得る度に出産の陣痛に見舞われたブリニョン(17世紀)、フランス革命を支持した女性霊視家ラブルッス(18世紀)、小石を食べるル・モニエ神父(19世紀)、独力で自らを十字架に磔にしたロヴァト(19世紀)、聖体パンを食べる度、口の中から赤ん坊が生まれると主張するクエンカの福者(19世紀)、「神学/theologia」を「家でお茶/the au logis」と分解して、真剣に「お茶学問」を提唱したブリッセ(19〜20世紀)、愛人の胎児を殺す前に洗礼を授けたウルフェの司祭(1956年)、ブルターニュ海岸の岩礁に彫刻を施していったフエレ師…。百花繚乱です。
  • 「ゴジラと東京/怪獣映画でたどる昭和の都市風景」(野村宏平著、一退社)
    怪獣映画ファンであれば、誰でも一度くらいは、どの怪獣がどの都市や地域に出現し、どんな名所旧跡、建築物を破壊したか、どの経路を進んだか、リストアップしようと試みたことがあったはずです。勿論、私自身を含め、大抵の人が中途半端に投げ出してしまうのです。それくらい、実際にやろうとすると、気の遠くなるような作業なのです。著者は、映画撮影当時の街並み、建築状況を考証しつつ、綿密に再構成していったのです。それにしても、特撮映画のミニチュアセットの中にこそ、当時の風景が正確に記録されている等とは思いもしませんでした。実写以上の参考資料のようです。勿論、中には架空の建築物があったり、別の作品のミニチュアが流用されていることもあって、検証の必要があるようですが…。巻末の「主要建築物・ロケ地索引」が圧巻です。三浦町カトリック教会(『空の大怪獣ラドン』)、聖路加国際病院(『地球防衛軍』)、銀座教会(『宇宙大戦争』)、教文館(『宇宙大怪獣ドゴラ』)、横浜山手聖公会聖堂(『三大怪獣/地球最大の決戦』)と、キリスト教関係の建物も出て来ます。
  • 「怪奇文学大山脈/西洋近代名作選」第2巻「20世紀革新篇」(荒俣宏編、東京創元社)
    それにしても「大山脈」とは大仰な…。確かに、他に類を見ない巻末の作品解説(54ページもある!)を読めば「大山脈」とは思いました(因みに、前書きも25ページある)。G・マイリンクの「紫色の死」は短いけれども凄い。昨今の「パンデミック物」を先取りしています。ひたすらに墓碑銘を読み上げていくのは、デ・ラ・メアの「遅参の客」。碑銘に刻まれた「Rev./ヨハネの黙示録」が、実は「Lev./レビ記」の上書きという聖書の謎解きトリックがあって楽しめたのが、ハーヴィーの「アンカーダイン家の信徒席」。私の一番のお気に入りは、メトカーフの「ブレナー提督の息子」です。やんちゃな男の子を育てる親の哀しみと憤りと不安、そして罪悪感がよく描かれています。タウンゼント・ウォーナーの「不死鳥」は、そのまま幼稚園の子どもたちに聴かせて上げたくなるようなファンタジーです。特に急転直下の幕切れが素晴らしい。幼児をトラウマに突き落とすこと、請け合いです。
  • 「郵便局と蛇/E・コッパード短編集」(アルフレッド・エドガー・コッパード著、西崎憲編訳、ちくま文庫)
    コッパードがキリスト教を題材にする時に醸し出される奇妙にねじれた印象が好きです。荘園の森の番人が天国へ旅立つ「うすのろサイモン」は「天路歴程」のパロディのようです。同じ系列の「シオンへの行進」では、主人公の旅人ミカエルが、罪人と見れば平気で殺戮する剛力の修道士、不思議な女マリアと道連れになります。特に道徳や常識を超越した修道士の振る舞いは「タルムード」や「クルアーン」にある「天使とアブラハム」「天使とモーセ」の逸話を思い出させます。電柱が柳の木への恋情を切々と告げる「若く美しい柳」は凄絶なメルヘンです。幽霊譚「ポリー・モーガン」は「ジェントル・ゴースト物」でありつつ、意外に残酷です。三人の中年女の語らい「辛子の野原」は世知辛い中にも不思議な優しさが滲み出て来ます。この一筋縄では行かない、複雑な味わいを何と表現したら良いのでしょうか。
  • 「三文オペラ」(ベルトルト・ブレヒト作、谷川道子訳、光文社古典新訳文庫)
    数年前、クリスマスの愛餐会の余興で、この芝居のオープニング曲「モリタート/殺人物語大道歌」をドイツ語で披露したことがあります。それでショックを受けて躓いたのでしょうか、残念なことに、うちの礼拝に来なくなった人がいました。牧師がこんな歌うたっちゃいかんのです。でも、戯曲として読み直してみると、台詞は2回だけですが、「キンボール(金タマ?!)牧師」も登場します。それから、キリスト受難週に重ねるように、水曜日、洗足木曜日、聖金曜日(受難日)の3幕仕立てになっています。その上、メッキースとポリーが結婚するのは馬小屋、テーブルは飼い葉桶。「乞食の友商会」(乞食を組織して街角に派遣、その上前を撥ねる)の経営者、ピーチャムは聖書を引用します。そして、彼の名前はジョナサン・ジェルマイヤー(ヨナタン+エレミヤ)だったりします。ピーチャムの「人間の努力のいたらなさの歌」が私のお気に入り。「幸福を求め追っかけろ/夢中になって追っかけすぎるな/みんな幸福追っかけるから/幸福追い越されて置いてけぼり」。大悪党メッキースの処刑前の演説もイケてます。「銀行の株式に比べれば、こそ泥の合鍵など何ほどのものでありましょう。銀行設立に比べれば、銀行強盗などいかほどの罪でありましょうか」。
posted by 行人坂教会 at 05:22 | 牧師の書斎から

2014年09月24日

幽径耽読 Book Illuminationその18

  • 「兵器と戦術の日本史」(金子常軌著、ちくま文庫)
    紀元0年頃の倭奴国成立から倭王の朝鮮半島進出、白村江の大敗を経て、壬申の乱までを「海北四百年戦争」(!)と著者は命名します。記紀が「日本史」として確立したのも、朝廷内の実権を握った「新羅派」による「歴史の書き変え」であると主張します。その後の「蝦夷百年戦争」というエピックの命名も凄いです。「皇国史観」等というものには鼻もかけていません。そう、戦争史家(著者は自衛隊幹部学校戦術教官)はリアリストの仕事なのです。その点で、昨今、勢力を増している国粋主義者たちと、著者は同列に扱われるべきではありません。また、「平和憲法護持」を楯にして、国際紛争の可能性さえも最初から除外してしまう平和主義者でもありません。軍隊の存在理由と正当性は、その軍が主権擁護の立場で働く時だけ認められるのです。しかし、現在の日本は、真に国民主権と言えるのか。この問いかけは甚だ厳しい。読み進む中で、勝ち戦にせよ負け戦にせよ、そこから問題点を正しく抽出、評価分析し、学習しようとしない日本の国民性が見えて来て、暗澹たる気分になります。
  • 「増補・エロマンガ・スタディーズ/『快楽装置』としての漫画入門」(永山薫著、ちくま文庫)
    文化というものは、誤読と「誤配」(本来、想定されていなかった人の受容)によって豊かに乱れ咲くのです。聖書を勉強していると、つくづく思わされることです。従って、「正しい読み方」や「正統的な理解」等というものは、大いなる虚構に過ぎないのです。さて、私自身のことを告白すれば、70年代中期の劇画家たち、ダーティ・松本、中島史雄、宮西計三、あがた有為、羽虫ルイ、福原秀美、村祖俊一、間宮聖児、土屋慎吾、(これに本書で無視されている三条友美を加えて)この人たちのお世話になりました。その後、ブランクがあって、80〜90年代は、森山塔(山本直樹)の熱心な読者でした。以後、この世界から遠ざかりましたが、紹介図版を見ていて、田中圭一、村田蓮爾、陽気婢あたりのタッチが、私の好みかなと思いました。ミーム理論の援用が、著者のマンガ分析に広がりと深みを与えています。補章「21世紀のエロマンガ」は、近年の表現の自由を巡る闘いがコンパクトに説明されていて、大変に勉強になりました。
  • 「教会の怪物たち/ロマネスクの図像学」(尾形希和子著、講談社選書メチエ)
    中世ロマネスク様式の聖堂に刻まれた怪物、怪人たち。キマイラ、グリフォン、ユニコーン、ヒュドラ、ケンタウロス、ミノタウロス、ドラゴン、セラフィム、レヴィアタン、ヤヌス、ブレミアエ、メリュジーヌ、スキュラ、グリーンマン、ワイルドマン…。さながら「怪人怪獣大図鑑」です。それは、教会側の主張するアレゴリーとしては受容されず、却って、農民たちの異教的イマジネーションを喚起し、刺激するものとして作用しているのです。例えば、二股に分かれた魚の尾鰭を持ち、その股間に女性性器を露出するセイレーン(人魚)は、本来「淫蕩」の戒めとして描かれたのです。けれども、人々は彼女に大地豊穣の願いを託したという展開です。この読み解きの構図は、やがて、ローマ教会が先住民を教化した南米においても適用されています。そして今、ローマ教会と言えば、南米とアフリカが中心です。何と言う歴史のパラドックスでしょうか。私自身、幼い日から怪物に魅入られていたのは、グロテスクへの愛着があったからです。キリスト教信仰に入ったのも、恐らく、日本の体制的文化からの逸脱を目論んでのことだったのでしょう。「毒には毒を」です。
  • 「アド・アストラ/スキピオとハンニバル」第6巻(カガノミハチ作、集英社)
    カンナエの大敗を描いています。ハンニバルにとっては頂上、ローマにとってはドン底を見ることになった一戦です。敗戦後、スキピオの口から題名になっている「ペル・アスペラ・アド・アストラ/per aspera ad astra/困難を通じて天へ」の決意が語られます。このラテン語の成句「per ardua/ペル・アルドゥア」に変えると、そのまま英国空軍の銘になります。後半で、ローマ共和国の猛将(シチリア方面軍総司令官)マルケルスが登場します。岩明均の『ヘウレーカ』にも出て来て、シラクサ攻めをしていました。あのマンガでは、マルケルス、「アルキメデスの装備」に苦労していますが、それは、しばらく後の話ですね。それで気づいたのですが、岩明と違って、カガノの絵には「切り株」系のカタルシスが全く感じられません。いや、むしろ、流血よりも切断面に執着する岩明の方が特殊なのでしょう。
  • 「聖なる酔っぱらいの伝説/他四篇」(ヨーゼフ・ロート著、池内紀訳、岩波文庫)
    何とかして2百フランの借金をリジューの聖テレーズに返そうとしながら、果たせない酔いどれ男の物語。いつも、朝10時のミサの終了後に着いてしまい、正午のミサを待つために、向かいの居酒屋で時を過ごそうとするのです。この辺りの繰り返しが際限なく思われるのは、多分、私が下戸である上に、(礼拝を執り行う側の)牧師であるからなのでしょう。そこで、アル中の友人、鹿児島のN君のことを思い起こしながら読みました。ヒトラー出現を予見したと思しき「蜘蛛の巣」は凄みがあります。意外に気に入ったのは、「ファルメライヤー駅長」です。オーストリアの小さな町の駅長が、列車事故の際に世話をしたロシアの貴婦人の匂いが忘れられず、第一次世界大戦の東部戦線に出征します。勿論、ただ彼女に再会したい一心です。このひたむきな宿命と奇跡への信従は、他の作品にも共通しています。殉教と言っても良いでしょう。それが、幸福な完結を迎えるのが「聖なる酔っぱらい」なのでしょう。
posted by 行人坂教会 at 09:48 | 牧師の書斎から

2014年08月30日

幽径耽読 Book Illuminationその17

  • 「昆虫はすごい」(丸山宗利著、光文社新書)
    宮崎県の海辺の町に住んでいた頃、冬の浜辺で、よくアメンボの屍骸を見たものです。積年の疑問が氷解しました。海面を漂う「ウミアメンボ」という虫だったのですね。毒でゴキブリの神経を麻痺させて、ゾンビにして操るセナガアナバチ。自らの上半身を餌として提供しながら下半身で雌と交尾するカマキリの雄。頭部を自爆させて、粘着性の液体で敵を絡め取るバクダンオオアリ。クロヤマアリの巣に入り込んで女王を暗殺し、新女王として君臨するサムライアリ。トビイロケアリを殺して、その匂いを体に塗り付け、屍骸を加えて巣の中に侵入を試みるアメイロケアリ(しかし、発覚して磔の刑に処せられたりもする)。アリの幼虫室の壁に成り切って、こっそり幼虫や蛹を食べるアリスアブの幼虫。どれを取ってもホラーです。寄主と寄生種とは、共通の祖先から分かれたという説(エメリーの法則)を聞くと、人間社会に寄生する亜人間みたいな種の出現を妄想してしまいます。
  • 「負けんとき/ヴォーリズ満喜子の種まく日々」上下巻(玉岡かおる著、新潮文庫)
    播州小野藩(兵庫県小野市)の藩主の娘、満喜子が、津田梅子、矢島楫子、廣岡浅子などとの出会いの中で成長していき、ウィリアム・メレル・ヴォーリズと結ばれます。典型的な「ビルドゥングス・ロマン」です。「負けんとき」とは、廣岡が満喜子を励ました大阪弁です(「負けないで!」)。キリスト教の宣教のために来日したと言うのに、八百万の神々や先来の仏を敬う、ヴォーリズの独特な信仰が優しくユーモラスに描かれています。ヴォーリズや満喜子の実際はともかく、(小説ですから)ここには自ずと玉岡の信仰観が反映されている訳です。「大衆作家」としての彼女の捉え方は、私たちも大いに参考にすべきでしょう。しかしながら、巻末近い、敗戦直後の部分になると、私は急速にロマンを感じなくなりました。元号の使用とか、天皇制と戦後処理(戦争責任)とか、著者はそれなりの配慮を重ねたものと思いますが、些か甘いと言わざるを得ません。神戸女学院教授として、実際にヴォーリズ建築の中で生活していたという内田樹の「解説」を興味深く読みました。
  • 「イタリア語通訳狂想曲/シモネッタのアマルコルド」(田丸公美子著、文春文庫)
    小学生の時からマカロニ・ウエスタンのファンであった私にとって、イタリア語は憧れの言語の1つでした。今でも『拳銃のバラード』(Ballata per un Pistolero)は歌えます。先日は『ガラスの部屋』の主題歌(Che Vuole Questa Musica Stasera)もカラオケで歌いました。どちらも、ペピーノ・ガリアルディの歌でした。それにしても、通訳の仕事は大変なのですね。「高い通訳料にはスケープゴートになる料金も含まれている」。「通訳の基本は、普通の人より豊富な語彙を持ち、美しい日本語が話せること。そのあとに外国語や広い知識と教養が加わって、初めてプロの仕事ができる」。「(同時通訳は)翻訳時の30倍のスピードで脳を作動させないと話者が話すスピードに追いつけない。私たち通訳者は、脳のエネルギー源であるブドウ糖の血中濃度を上げようと、ブース内でチョコレートを食べたり飴をなめたりする」。まるで『DEATH NOTE』のLですね。過酷な同時通訳の最中に、脳がショートして、イタリア語も日本語も聴き取れなくなった経験談などは余りに痛ましいです。
  • 「モロー博士の島/他九篇」(H・G・ウエルズ著、橋本槇矩・鈴木万里訳、岩波文庫)
    余りにも古典という先入観のため、ウエルズを読むのは、小学生時代の『透明人間』ダイジェスト版以来です。冒頭の「エピオルニス島」が意外に面白い。無人島に漂着した主人公が雛から育てて、懐いていたはずの巨鳥が攻撃して来るようになり、やがて全面対決の時を迎えます。これは「モロー博士」と同じモチーフですね。巻末を飾る「アリの帝国」は『巨大アリの帝国』という直接の映画化作品(愚作)よりも、ソウル・バスの『フェイズW』の不気味な印象に近い作品でした。そう言えば、「モロー博士」も、読んでいる間、私の脳裏に浮かんで来たのは、バート・ランカスターでもマーロン・ブランドでもなく、『獣人島』のチャールズ・ロートンでもなく、『緯度0大作戦』のシーザー・ロメロでした。人間社会に戻った主人公の目に、街行く人々の姿が獣人に重なって見えてしまうエピローグが抜群です。人間に従順な獣人たちが辿る末路にも悲哀を感じます。本能に目覚めて、次第に獣に退行して行くプロセスは「アルジャーノン」に共通するテーマで、切ないです。
  • 「パリ、娼婦の館/メゾン・クローズ」(鹿島茂著、角川ソフィア文庫)
    メゾン・クローズ(maison close)とは、18世紀から20世紀初頭まで存在したフランスの公娼館です。梅毒予防を主たる目的として娼婦たちを登録し、鑑札を与えていたのです。女将になるのも「現役の女」をリタイアした女性という条件があったそうです。メゾン・クローズの理想は何と女子修道院、女将のモデルは修道院長だったのです。アナール学派のアラン・コルバンの言葉が傑作です。「理想は、修道女のような売春婦を作ること、よく『働く女』ではあるが、操り人形のような従順な女、しかもとりわけ、快楽を求めない女を作りだすことである」。「赤いランタン」、番地で呼ばれる店名、鉢合わせ回避のための待合室…。映画や小説で気になっていたことの意味が分かりました。1920年代、シャバネ楼に日本女性がいたことも驚きでした。但し、著者は「日本では、どんな破廉恥な風俗が普及しても、…この、ズラリと整列した複数の娼婦の中から一人だけ自分の好みの敵娼を選び出すという『公開方式』が採用されない」と書いていますが、吉原など、格子の向こうに女たちが並んでいたと思うのですが…。
posted by 行人坂教会 at 15:05 | 牧師の書斎から

2014年07月23日

幽径耽読 Book Illuminationその16

  • 「ジョナサンと宇宙クジラ」(ロバート・F・ヤング著、伊藤典夫編・訳、ハヤカワ文庫)
    二男が小学生の時、アンドロイド教師と子どもたちとの交流を描いた『ケンジ先生』というお芝居をしました(演劇集団キャラメルボックスの成井豊の台本)。その元ネタは、ヤングの「九月は三十日あった」だったのです。ヤング作品の重要なテーマの1つに、異種族間の恋愛があることに気付きました。アンドロイド教師、異世界から来た絵描き、宇宙クジラ、テレポートする宇宙犬、異星人のドクター、どれも主人公に絡む女性です。最も哀切な物語「いかなる海の洞に」等は「異種婚姻譚」の典型です。旧約聖書が盛んに引用され、ギリシアや北欧の神話表象も多数出て来ますが、現代社会が舞台であるだけに、読者に奇妙な歪み(不安と恐怖)を感じさせるのです。その意味では、楳図かずおの「半魚人」に似ています。但し、仄かに茜さす朝まだきのような余韻の残る終わり方が切ないのです。
  • 「プリニウス」第1巻(ヤマザキマリ×とり・みき作、新潮社)
    マンガの作画コラボは珍しいですね。しかも、主人公が博物学者のプリニウスです。リアリズムを基調とした画の中に、存在しないはずの半魚人やマンドラゴラが出て来たりします。食べる場面、入浴する場面、旅する場面、自然現象や動植物についての薀蓄を垂れる場面の連続で、作者たちの関心事、つまり「生きるとはコレ!」がよく伝わります。今の日本のテレビがつまらないのは、芸能人や有名人に、その類いをさせての番組作りに終始しているのに、それに反比例するように、私たちは、そこから遠ざけられているのです。芸人が食ったり風呂入ったりするのを見せられて、何が楽しいのか。正直、視聴者はコケにされています。
  • 「混沌ホテル」(コニー・ウィリス著、大森望訳、ハヤカワ文庫)
    降参です。白旗を掲げます。表題作は、国際量子物理学会がハリウッドのホテルで開催されて、文字通り「カオス理論」の様相を呈する話。「女王様でも」は、生理をテーマにしたSF。「インサイダー疑惑」は、自称「霊能者」のマインド・コントロール・セミナーをテーマにしています。「魂はみずからの社会を選ぶ#1」に至っては、エミリー・ディキンスンが彼女の難解な詩によって、(H・G・ウェルズ『宇宙戦争』の)火星人を撃退するまでが、文芸批評誌のパスティーシュで綴られています。特に、脚注の「わたしにとってのアマーストは、赤毛のアンがいないアヴォンリー」「レイチェル・リンド夫人で構成されている」退屈な街と喝破しているのを読んで、大爆笑でした(新島譲が聞いたら泣くよね)。「まれびとこぞりて」は、異星人とのコミュニケーションがテーマですが、その鍵と成るのが聖歌隊とは…。「賛美歌は、三番の歌詞、五番の歌詞が一番ひどい」という著者の意見に、また爆笑。教会の聖歌隊メンバーとして30年以上奉仕した著者ならではの味わい深い指摘です。
  • 「無伴奏ソナタ〔新訳版〕」(オースン・スコット・カード著、金子浩訳、ハヤカワ文庫)
    「死すべき神々」は、永遠の命を持つエイリアンが地球にやって来て、定住し、地球の各種宗教施設を真似た建造物を各地につくり、死すべきものである(mortal)が故に人間を礼拝するという、不思議な発想の物語です。モルモン教の大聖堂が出て来たのは、単に舞台がユタ州だからかと思っていました。「解放の時」は、自宅に帰ったら書斎に見知らぬ遺体の入った棺が(モノリスのように)置かれているという不条理な物語。ここにもモルモン教のビショップが登場したり、信徒の生活や思考が描かれていて、漸く著者がモルモン教徒であると分かりました。それが分かると、不妊症のマークとメリージョー夫妻の苦悩が理解できます。それにしても、こんなにリベラルで、異文化や他宗教を尊重して多様な価値観を受容するモルモン教徒がいるのですね。自らの偏見と先入観を恥じます。文句なしに素晴らしいのは表題作、有名な「エンダーのゲーム」、四肢麻痺の少女がヒロインの「磁器のサラマンダー」、ビアフラの生き残りの少女の成長を描いた「アグネスとヘクトルたちの物語」も全て、他者優先の思想が背骨として通っていて、感心しました。
  • 「二つ、三ついいわすれたこと」(ジョイス・キャロル・オーツ著、神戸万智訳、岩波書店)
    多分、私にとっては一番縁遠い世界が舞台です。アメリカの金持ちの子女が入る名門私立学校、女の子たち数人のグループを中心にした物語です。ティンクという少女が中心にいて、ドラマ展開の原動力なのです。ところが、彼女が死んでしまった後から物語り始められているのです。その癒し難い喪失が、やがて少しずつ女の子たちを繋ぎ直して行くのです。そもそも「religion」とは「繋ぎ直す技」であったと、改めて思い出しました。何しろ、既に死んでしまった少女がヒロインで、しかも、彼女が生き続けている他の子たちの魂に働きかけ、人生に介入して来るのです。これがreligionでなくて何でしょう。癒し得ない深い傷、重いダメージであればこそ、そこから生まれる何かがあるのかも知れません。
  • 「胸の火は消えず」(メイ・シンクレア著、南條竹則訳、創元推理文庫)
    ゴーストストーリーは、必然的に、人間の生と死の問題を扱うことになるのです。つまり、作者の死生観が隠しようもなく露呈される訳で、大抵は、浅墓な故の幽霊登場となります。思わず「もっと深く埋めろよ!」と怒鳴りたくなります。しかし、勿論、メイ・シンクレアは違います。やはり、評判通り「仲介者」と「被害者」が傑出しています。「仲介者」には、両親のネグレクトの結果、死んだ幼児の幽霊が出て来ます。幼児虐待や育児放棄をテーマに、今から百年以上も前に書かれた物語があったのですね。同じく「被害者」も、犠牲者が加害者を許す物語なのです。因果応報と怨念と呪縛が主流の日本の幽霊ものでは、ちょっと考えられない設定です。霊的な力を与えられたがために苦労するヒロインの「水晶の瑕」は、ケイト・ブランシェット主演の『ギフト』を思い出させます。
posted by 行人坂教会 at 10:17 | 牧師の書斎から