2014年11月30日

幽径耽読 Book Illuminationその19

  • 「新世紀エヴァンゲリオン」第14巻「旅立ち」(貞本義行画、カラー作、角川書店)
    やっと完結です。うちの長男が生まれる前から買い始めて、今、彼は高1です。「エヴァの最終巻、買って来た?」と、このところ毎日尋ねられていました。いつの間にか「作」も「GAINAX」から独立した「Khara」に変わっていました。テレビシリーズ、旧劇場版『Air/まごころを、君に』等の「終わらせ方」が改めて集約されて、洗練されているように思います。(新劇場版に繋ぐエピローグまで含めて)もう納得するしかない「終わらせ方」です。これなら、テレビ最終回時のように「自己啓発セミナー」等と陰口を叩かれることもありますまい。しかし、一種の夢オチですから、これまでの20年間がこの結末に向かっていたのかと思ったが最後、身も蓋もありません。でも、大切なのは、やっぱりプロセス。テレビ、新旧映画、マンガ、パロディ版と何種類も異なるヴァージョン(異伝)が存在してしまうところ、キャラが一人歩きを始めてしまうところ、完結したと思えないところ、「エヴァ」は現代日本の物語伝承みたいなものなのでしょう。
  • 「万国奇人博覧館」(ジャン=クロード・カリエール×ギイ・ベシュテル著、守能信次訳、ちくま文庫)
    カリエールは、ブルジョワ紳士淑女が便座に坐って用を足しながら晩餐をするブニュエルの映画、チンパンジーと不倫する人妻セレブを描いた大島渚の映画の脚本家です。とにかく、奇人というカテゴリーの幅広さに圧倒されます。7百ページを超えるのも宜なる哉。例えば、「文筆奇人」だけに限っても、「神学奇人、純文学奇人、哲学奇人、政治奇人、演説奇人」に分類できるそうです。私は牧師なので、やはり宗教的な奇人が気になります。寝取った人妻の夫に殴り殺された教皇ヨハネス12世(10世紀)、「使徒継承者」を名乗り、アントワープを占領したタンシュラン(11世紀)、私有財産を否定して、皆で女性も共有した再洗礼派ライデンのヤン(16世紀)、信徒を得る度に出産の陣痛に見舞われたブリニョン(17世紀)、フランス革命を支持した女性霊視家ラブルッス(18世紀)、小石を食べるル・モニエ神父(19世紀)、独力で自らを十字架に磔にしたロヴァト(19世紀)、聖体パンを食べる度、口の中から赤ん坊が生まれると主張するクエンカの福者(19世紀)、「神学/theologia」を「家でお茶/the au logis」と分解して、真剣に「お茶学問」を提唱したブリッセ(19〜20世紀)、愛人の胎児を殺す前に洗礼を授けたウルフェの司祭(1956年)、ブルターニュ海岸の岩礁に彫刻を施していったフエレ師…。百花繚乱です。
  • 「ゴジラと東京/怪獣映画でたどる昭和の都市風景」(野村宏平著、一退社)
    怪獣映画ファンであれば、誰でも一度くらいは、どの怪獣がどの都市や地域に出現し、どんな名所旧跡、建築物を破壊したか、どの経路を進んだか、リストアップしようと試みたことがあったはずです。勿論、私自身を含め、大抵の人が中途半端に投げ出してしまうのです。それくらい、実際にやろうとすると、気の遠くなるような作業なのです。著者は、映画撮影当時の街並み、建築状況を考証しつつ、綿密に再構成していったのです。それにしても、特撮映画のミニチュアセットの中にこそ、当時の風景が正確に記録されている等とは思いもしませんでした。実写以上の参考資料のようです。勿論、中には架空の建築物があったり、別の作品のミニチュアが流用されていることもあって、検証の必要があるようですが…。巻末の「主要建築物・ロケ地索引」が圧巻です。三浦町カトリック教会(『空の大怪獣ラドン』)、聖路加国際病院(『地球防衛軍』)、銀座教会(『宇宙大戦争』)、教文館(『宇宙大怪獣ドゴラ』)、横浜山手聖公会聖堂(『三大怪獣/地球最大の決戦』)と、キリスト教関係の建物も出て来ます。
  • 「怪奇文学大山脈/西洋近代名作選」第2巻「20世紀革新篇」(荒俣宏編、東京創元社)
    それにしても「大山脈」とは大仰な…。確かに、他に類を見ない巻末の作品解説(54ページもある!)を読めば「大山脈」とは思いました(因みに、前書きも25ページある)。G・マイリンクの「紫色の死」は短いけれども凄い。昨今の「パンデミック物」を先取りしています。ひたすらに墓碑銘を読み上げていくのは、デ・ラ・メアの「遅参の客」。碑銘に刻まれた「Rev./ヨハネの黙示録」が、実は「Lev./レビ記」の上書きという聖書の謎解きトリックがあって楽しめたのが、ハーヴィーの「アンカーダイン家の信徒席」。私の一番のお気に入りは、メトカーフの「ブレナー提督の息子」です。やんちゃな男の子を育てる親の哀しみと憤りと不安、そして罪悪感がよく描かれています。タウンゼント・ウォーナーの「不死鳥」は、そのまま幼稚園の子どもたちに聴かせて上げたくなるようなファンタジーです。特に急転直下の幕切れが素晴らしい。幼児をトラウマに突き落とすこと、請け合いです。
  • 「郵便局と蛇/E・コッパード短編集」(アルフレッド・エドガー・コッパード著、西崎憲編訳、ちくま文庫)
    コッパードがキリスト教を題材にする時に醸し出される奇妙にねじれた印象が好きです。荘園の森の番人が天国へ旅立つ「うすのろサイモン」は「天路歴程」のパロディのようです。同じ系列の「シオンへの行進」では、主人公の旅人ミカエルが、罪人と見れば平気で殺戮する剛力の修道士、不思議な女マリアと道連れになります。特に道徳や常識を超越した修道士の振る舞いは「タルムード」や「クルアーン」にある「天使とアブラハム」「天使とモーセ」の逸話を思い出させます。電柱が柳の木への恋情を切々と告げる「若く美しい柳」は凄絶なメルヘンです。幽霊譚「ポリー・モーガン」は「ジェントル・ゴースト物」でありつつ、意外に残酷です。三人の中年女の語らい「辛子の野原」は世知辛い中にも不思議な優しさが滲み出て来ます。この一筋縄では行かない、複雑な味わいを何と表現したら良いのでしょうか。
  • 「三文オペラ」(ベルトルト・ブレヒト作、谷川道子訳、光文社古典新訳文庫)
    数年前、クリスマスの愛餐会の余興で、この芝居のオープニング曲「モリタート/殺人物語大道歌」をドイツ語で披露したことがあります。それでショックを受けて躓いたのでしょうか、残念なことに、うちの礼拝に来なくなった人がいました。牧師がこんな歌うたっちゃいかんのです。でも、戯曲として読み直してみると、台詞は2回だけですが、「キンボール(金タマ?!)牧師」も登場します。それから、キリスト受難週に重ねるように、水曜日、洗足木曜日、聖金曜日(受難日)の3幕仕立てになっています。その上、メッキースとポリーが結婚するのは馬小屋、テーブルは飼い葉桶。「乞食の友商会」(乞食を組織して街角に派遣、その上前を撥ねる)の経営者、ピーチャムは聖書を引用します。そして、彼の名前はジョナサン・ジェルマイヤー(ヨナタン+エレミヤ)だったりします。ピーチャムの「人間の努力のいたらなさの歌」が私のお気に入り。「幸福を求め追っかけろ/夢中になって追っかけすぎるな/みんな幸福追っかけるから/幸福追い越されて置いてけぼり」。大悪党メッキースの処刑前の演説もイケてます。「銀行の株式に比べれば、こそ泥の合鍵など何ほどのものでありましょう。銀行設立に比べれば、銀行強盗などいかほどの罪でありましょうか」。
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2014年09月24日

幽径耽読 Book Illuminationその18

  • 「兵器と戦術の日本史」(金子常軌著、ちくま文庫)
    紀元0年頃の倭奴国成立から倭王の朝鮮半島進出、白村江の大敗を経て、壬申の乱までを「海北四百年戦争」(!)と著者は命名します。記紀が「日本史」として確立したのも、朝廷内の実権を握った「新羅派」による「歴史の書き変え」であると主張します。その後の「蝦夷百年戦争」というエピックの命名も凄いです。「皇国史観」等というものには鼻もかけていません。そう、戦争史家(著者は自衛隊幹部学校戦術教官)はリアリストの仕事なのです。その点で、昨今、勢力を増している国粋主義者たちと、著者は同列に扱われるべきではありません。また、「平和憲法護持」を楯にして、国際紛争の可能性さえも最初から除外してしまう平和主義者でもありません。軍隊の存在理由と正当性は、その軍が主権擁護の立場で働く時だけ認められるのです。しかし、現在の日本は、真に国民主権と言えるのか。この問いかけは甚だ厳しい。読み進む中で、勝ち戦にせよ負け戦にせよ、そこから問題点を正しく抽出、評価分析し、学習しようとしない日本の国民性が見えて来て、暗澹たる気分になります。
  • 「増補・エロマンガ・スタディーズ/『快楽装置』としての漫画入門」(永山薫著、ちくま文庫)
    文化というものは、誤読と「誤配」(本来、想定されていなかった人の受容)によって豊かに乱れ咲くのです。聖書を勉強していると、つくづく思わされることです。従って、「正しい読み方」や「正統的な理解」等というものは、大いなる虚構に過ぎないのです。さて、私自身のことを告白すれば、70年代中期の劇画家たち、ダーティ・松本、中島史雄、宮西計三、あがた有為、羽虫ルイ、福原秀美、村祖俊一、間宮聖児、土屋慎吾、(これに本書で無視されている三条友美を加えて)この人たちのお世話になりました。その後、ブランクがあって、80〜90年代は、森山塔(山本直樹)の熱心な読者でした。以後、この世界から遠ざかりましたが、紹介図版を見ていて、田中圭一、村田蓮爾、陽気婢あたりのタッチが、私の好みかなと思いました。ミーム理論の援用が、著者のマンガ分析に広がりと深みを与えています。補章「21世紀のエロマンガ」は、近年の表現の自由を巡る闘いがコンパクトに説明されていて、大変に勉強になりました。
  • 「教会の怪物たち/ロマネスクの図像学」(尾形希和子著、講談社選書メチエ)
    中世ロマネスク様式の聖堂に刻まれた怪物、怪人たち。キマイラ、グリフォン、ユニコーン、ヒュドラ、ケンタウロス、ミノタウロス、ドラゴン、セラフィム、レヴィアタン、ヤヌス、ブレミアエ、メリュジーヌ、スキュラ、グリーンマン、ワイルドマン…。さながら「怪人怪獣大図鑑」です。それは、教会側の主張するアレゴリーとしては受容されず、却って、農民たちの異教的イマジネーションを喚起し、刺激するものとして作用しているのです。例えば、二股に分かれた魚の尾鰭を持ち、その股間に女性性器を露出するセイレーン(人魚)は、本来「淫蕩」の戒めとして描かれたのです。けれども、人々は彼女に大地豊穣の願いを託したという展開です。この読み解きの構図は、やがて、ローマ教会が先住民を教化した南米においても適用されています。そして今、ローマ教会と言えば、南米とアフリカが中心です。何と言う歴史のパラドックスでしょうか。私自身、幼い日から怪物に魅入られていたのは、グロテスクへの愛着があったからです。キリスト教信仰に入ったのも、恐らく、日本の体制的文化からの逸脱を目論んでのことだったのでしょう。「毒には毒を」です。
  • 「アド・アストラ/スキピオとハンニバル」第6巻(カガノミハチ作、集英社)
    カンナエの大敗を描いています。ハンニバルにとっては頂上、ローマにとってはドン底を見ることになった一戦です。敗戦後、スキピオの口から題名になっている「ペル・アスペラ・アド・アストラ/per aspera ad astra/困難を通じて天へ」の決意が語られます。このラテン語の成句「per ardua/ペル・アルドゥア」に変えると、そのまま英国空軍の銘になります。後半で、ローマ共和国の猛将(シチリア方面軍総司令官)マルケルスが登場します。岩明均の『ヘウレーカ』にも出て来て、シラクサ攻めをしていました。あのマンガでは、マルケルス、「アルキメデスの装備」に苦労していますが、それは、しばらく後の話ですね。それで気づいたのですが、岩明と違って、カガノの絵には「切り株」系のカタルシスが全く感じられません。いや、むしろ、流血よりも切断面に執着する岩明の方が特殊なのでしょう。
  • 「聖なる酔っぱらいの伝説/他四篇」(ヨーゼフ・ロート著、池内紀訳、岩波文庫)
    何とかして2百フランの借金をリジューの聖テレーズに返そうとしながら、果たせない酔いどれ男の物語。いつも、朝10時のミサの終了後に着いてしまい、正午のミサを待つために、向かいの居酒屋で時を過ごそうとするのです。この辺りの繰り返しが際限なく思われるのは、多分、私が下戸である上に、(礼拝を執り行う側の)牧師であるからなのでしょう。そこで、アル中の友人、鹿児島のN君のことを思い起こしながら読みました。ヒトラー出現を予見したと思しき「蜘蛛の巣」は凄みがあります。意外に気に入ったのは、「ファルメライヤー駅長」です。オーストリアの小さな町の駅長が、列車事故の際に世話をしたロシアの貴婦人の匂いが忘れられず、第一次世界大戦の東部戦線に出征します。勿論、ただ彼女に再会したい一心です。このひたむきな宿命と奇跡への信従は、他の作品にも共通しています。殉教と言っても良いでしょう。それが、幸福な完結を迎えるのが「聖なる酔っぱらい」なのでしょう。
posted by 行人坂教会 at 09:48 | 牧師の書斎から

2014年08月30日

幽径耽読 Book Illuminationその17

  • 「昆虫はすごい」(丸山宗利著、光文社新書)
    宮崎県の海辺の町に住んでいた頃、冬の浜辺で、よくアメンボの屍骸を見たものです。積年の疑問が氷解しました。海面を漂う「ウミアメンボ」という虫だったのですね。毒でゴキブリの神経を麻痺させて、ゾンビにして操るセナガアナバチ。自らの上半身を餌として提供しながら下半身で雌と交尾するカマキリの雄。頭部を自爆させて、粘着性の液体で敵を絡め取るバクダンオオアリ。クロヤマアリの巣に入り込んで女王を暗殺し、新女王として君臨するサムライアリ。トビイロケアリを殺して、その匂いを体に塗り付け、屍骸を加えて巣の中に侵入を試みるアメイロケアリ(しかし、発覚して磔の刑に処せられたりもする)。アリの幼虫室の壁に成り切って、こっそり幼虫や蛹を食べるアリスアブの幼虫。どれを取ってもホラーです。寄主と寄生種とは、共通の祖先から分かれたという説(エメリーの法則)を聞くと、人間社会に寄生する亜人間みたいな種の出現を妄想してしまいます。
  • 「負けんとき/ヴォーリズ満喜子の種まく日々」上下巻(玉岡かおる著、新潮文庫)
    播州小野藩(兵庫県小野市)の藩主の娘、満喜子が、津田梅子、矢島楫子、廣岡浅子などとの出会いの中で成長していき、ウィリアム・メレル・ヴォーリズと結ばれます。典型的な「ビルドゥングス・ロマン」です。「負けんとき」とは、廣岡が満喜子を励ました大阪弁です(「負けないで!」)。キリスト教の宣教のために来日したと言うのに、八百万の神々や先来の仏を敬う、ヴォーリズの独特な信仰が優しくユーモラスに描かれています。ヴォーリズや満喜子の実際はともかく、(小説ですから)ここには自ずと玉岡の信仰観が反映されている訳です。「大衆作家」としての彼女の捉え方は、私たちも大いに参考にすべきでしょう。しかしながら、巻末近い、敗戦直後の部分になると、私は急速にロマンを感じなくなりました。元号の使用とか、天皇制と戦後処理(戦争責任)とか、著者はそれなりの配慮を重ねたものと思いますが、些か甘いと言わざるを得ません。神戸女学院教授として、実際にヴォーリズ建築の中で生活していたという内田樹の「解説」を興味深く読みました。
  • 「イタリア語通訳狂想曲/シモネッタのアマルコルド」(田丸公美子著、文春文庫)
    小学生の時からマカロニ・ウエスタンのファンであった私にとって、イタリア語は憧れの言語の1つでした。今でも『拳銃のバラード』(Ballata per un Pistolero)は歌えます。先日は『ガラスの部屋』の主題歌(Che Vuole Questa Musica Stasera)もカラオケで歌いました。どちらも、ペピーノ・ガリアルディの歌でした。それにしても、通訳の仕事は大変なのですね。「高い通訳料にはスケープゴートになる料金も含まれている」。「通訳の基本は、普通の人より豊富な語彙を持ち、美しい日本語が話せること。そのあとに外国語や広い知識と教養が加わって、初めてプロの仕事ができる」。「(同時通訳は)翻訳時の30倍のスピードで脳を作動させないと話者が話すスピードに追いつけない。私たち通訳者は、脳のエネルギー源であるブドウ糖の血中濃度を上げようと、ブース内でチョコレートを食べたり飴をなめたりする」。まるで『DEATH NOTE』のLですね。過酷な同時通訳の最中に、脳がショートして、イタリア語も日本語も聴き取れなくなった経験談などは余りに痛ましいです。
  • 「モロー博士の島/他九篇」(H・G・ウエルズ著、橋本槇矩・鈴木万里訳、岩波文庫)
    余りにも古典という先入観のため、ウエルズを読むのは、小学生時代の『透明人間』ダイジェスト版以来です。冒頭の「エピオルニス島」が意外に面白い。無人島に漂着した主人公が雛から育てて、懐いていたはずの巨鳥が攻撃して来るようになり、やがて全面対決の時を迎えます。これは「モロー博士」と同じモチーフですね。巻末を飾る「アリの帝国」は『巨大アリの帝国』という直接の映画化作品(愚作)よりも、ソウル・バスの『フェイズW』の不気味な印象に近い作品でした。そう言えば、「モロー博士」も、読んでいる間、私の脳裏に浮かんで来たのは、バート・ランカスターでもマーロン・ブランドでもなく、『獣人島』のチャールズ・ロートンでもなく、『緯度0大作戦』のシーザー・ロメロでした。人間社会に戻った主人公の目に、街行く人々の姿が獣人に重なって見えてしまうエピローグが抜群です。人間に従順な獣人たちが辿る末路にも悲哀を感じます。本能に目覚めて、次第に獣に退行して行くプロセスは「アルジャーノン」に共通するテーマで、切ないです。
  • 「パリ、娼婦の館/メゾン・クローズ」(鹿島茂著、角川ソフィア文庫)
    メゾン・クローズ(maison close)とは、18世紀から20世紀初頭まで存在したフランスの公娼館です。梅毒予防を主たる目的として娼婦たちを登録し、鑑札を与えていたのです。女将になるのも「現役の女」をリタイアした女性という条件があったそうです。メゾン・クローズの理想は何と女子修道院、女将のモデルは修道院長だったのです。アナール学派のアラン・コルバンの言葉が傑作です。「理想は、修道女のような売春婦を作ること、よく『働く女』ではあるが、操り人形のような従順な女、しかもとりわけ、快楽を求めない女を作りだすことである」。「赤いランタン」、番地で呼ばれる店名、鉢合わせ回避のための待合室…。映画や小説で気になっていたことの意味が分かりました。1920年代、シャバネ楼に日本女性がいたことも驚きでした。但し、著者は「日本では、どんな破廉恥な風俗が普及しても、…この、ズラリと整列した複数の娼婦の中から一人だけ自分の好みの敵娼を選び出すという『公開方式』が採用されない」と書いていますが、吉原など、格子の向こうに女たちが並んでいたと思うのですが…。
posted by 行人坂教会 at 15:05 | 牧師の書斎から

2014年07月23日

幽径耽読 Book Illuminationその16

  • 「ジョナサンと宇宙クジラ」(ロバート・F・ヤング著、伊藤典夫編・訳、ハヤカワ文庫)
    二男が小学生の時、アンドロイド教師と子どもたちとの交流を描いた『ケンジ先生』というお芝居をしました(演劇集団キャラメルボックスの成井豊の台本)。その元ネタは、ヤングの「九月は三十日あった」だったのです。ヤング作品の重要なテーマの1つに、異種族間の恋愛があることに気付きました。アンドロイド教師、異世界から来た絵描き、宇宙クジラ、テレポートする宇宙犬、異星人のドクター、どれも主人公に絡む女性です。最も哀切な物語「いかなる海の洞に」等は「異種婚姻譚」の典型です。旧約聖書が盛んに引用され、ギリシアや北欧の神話表象も多数出て来ますが、現代社会が舞台であるだけに、読者に奇妙な歪み(不安と恐怖)を感じさせるのです。その意味では、楳図かずおの「半魚人」に似ています。但し、仄かに茜さす朝まだきのような余韻の残る終わり方が切ないのです。
  • 「プリニウス」第1巻(ヤマザキマリ×とり・みき作、新潮社)
    マンガの作画コラボは珍しいですね。しかも、主人公が博物学者のプリニウスです。リアリズムを基調とした画の中に、存在しないはずの半魚人やマンドラゴラが出て来たりします。食べる場面、入浴する場面、旅する場面、自然現象や動植物についての薀蓄を垂れる場面の連続で、作者たちの関心事、つまり「生きるとはコレ!」がよく伝わります。今の日本のテレビがつまらないのは、芸能人や有名人に、その類いをさせての番組作りに終始しているのに、それに反比例するように、私たちは、そこから遠ざけられているのです。芸人が食ったり風呂入ったりするのを見せられて、何が楽しいのか。正直、視聴者はコケにされています。
  • 「混沌ホテル」(コニー・ウィリス著、大森望訳、ハヤカワ文庫)
    降参です。白旗を掲げます。表題作は、国際量子物理学会がハリウッドのホテルで開催されて、文字通り「カオス理論」の様相を呈する話。「女王様でも」は、生理をテーマにしたSF。「インサイダー疑惑」は、自称「霊能者」のマインド・コントロール・セミナーをテーマにしています。「魂はみずからの社会を選ぶ#1」に至っては、エミリー・ディキンスンが彼女の難解な詩によって、(H・G・ウェルズ『宇宙戦争』の)火星人を撃退するまでが、文芸批評誌のパスティーシュで綴られています。特に、脚注の「わたしにとってのアマーストは、赤毛のアンがいないアヴォンリー」「レイチェル・リンド夫人で構成されている」退屈な街と喝破しているのを読んで、大爆笑でした(新島譲が聞いたら泣くよね)。「まれびとこぞりて」は、異星人とのコミュニケーションがテーマですが、その鍵と成るのが聖歌隊とは…。「賛美歌は、三番の歌詞、五番の歌詞が一番ひどい」という著者の意見に、また爆笑。教会の聖歌隊メンバーとして30年以上奉仕した著者ならではの味わい深い指摘です。
  • 「無伴奏ソナタ〔新訳版〕」(オースン・スコット・カード著、金子浩訳、ハヤカワ文庫)
    「死すべき神々」は、永遠の命を持つエイリアンが地球にやって来て、定住し、地球の各種宗教施設を真似た建造物を各地につくり、死すべきものである(mortal)が故に人間を礼拝するという、不思議な発想の物語です。モルモン教の大聖堂が出て来たのは、単に舞台がユタ州だからかと思っていました。「解放の時」は、自宅に帰ったら書斎に見知らぬ遺体の入った棺が(モノリスのように)置かれているという不条理な物語。ここにもモルモン教のビショップが登場したり、信徒の生活や思考が描かれていて、漸く著者がモルモン教徒であると分かりました。それが分かると、不妊症のマークとメリージョー夫妻の苦悩が理解できます。それにしても、こんなにリベラルで、異文化や他宗教を尊重して多様な価値観を受容するモルモン教徒がいるのですね。自らの偏見と先入観を恥じます。文句なしに素晴らしいのは表題作、有名な「エンダーのゲーム」、四肢麻痺の少女がヒロインの「磁器のサラマンダー」、ビアフラの生き残りの少女の成長を描いた「アグネスとヘクトルたちの物語」も全て、他者優先の思想が背骨として通っていて、感心しました。
  • 「二つ、三ついいわすれたこと」(ジョイス・キャロル・オーツ著、神戸万智訳、岩波書店)
    多分、私にとっては一番縁遠い世界が舞台です。アメリカの金持ちの子女が入る名門私立学校、女の子たち数人のグループを中心にした物語です。ティンクという少女が中心にいて、ドラマ展開の原動力なのです。ところが、彼女が死んでしまった後から物語り始められているのです。その癒し難い喪失が、やがて少しずつ女の子たちを繋ぎ直して行くのです。そもそも「religion」とは「繋ぎ直す技」であったと、改めて思い出しました。何しろ、既に死んでしまった少女がヒロインで、しかも、彼女が生き続けている他の子たちの魂に働きかけ、人生に介入して来るのです。これがreligionでなくて何でしょう。癒し得ない深い傷、重いダメージであればこそ、そこから生まれる何かがあるのかも知れません。
  • 「胸の火は消えず」(メイ・シンクレア著、南條竹則訳、創元推理文庫)
    ゴーストストーリーは、必然的に、人間の生と死の問題を扱うことになるのです。つまり、作者の死生観が隠しようもなく露呈される訳で、大抵は、浅墓な故の幽霊登場となります。思わず「もっと深く埋めろよ!」と怒鳴りたくなります。しかし、勿論、メイ・シンクレアは違います。やはり、評判通り「仲介者」と「被害者」が傑出しています。「仲介者」には、両親のネグレクトの結果、死んだ幼児の幽霊が出て来ます。幼児虐待や育児放棄をテーマに、今から百年以上も前に書かれた物語があったのですね。同じく「被害者」も、犠牲者が加害者を許す物語なのです。因果応報と怨念と呪縛が主流の日本の幽霊ものでは、ちょっと考えられない設定です。霊的な力を与えられたがために苦労するヒロインの「水晶の瑕」は、ケイト・ブランシェット主演の『ギフト』を思い出させます。
posted by 行人坂教会 at 10:17 | 牧師の書斎から

2014年05月29日

幽径耽読 Book Illuminationその15

  • 「キス・キス〔新訳版〕」(ロアルド・ダール著、田口俊樹訳、ハヤカワ・ミステリ文庫)
    その昔、開高健が訳していたのですね。未熟児の赤ん坊に「ロイヤルゼリー」を与えて成長促進させる話がありますが、『ウルトラQ』第8話「甘い蜜の恐怖」(大モグラの話)は、案外これが元ネタかも知れません。夕食の際、このホラー噺を二男に聞かせてやったら、曰く「それって、『チョコレート工場』の人の本でしょ」と。思わず脱帽。骨董家具のバイヤーが牧師に偽装する「牧師の愉しみ」、教区内の「オールドミス」集団から総攻撃を受けて撃沈される(こちらは本職の)牧師が主人公の「ジョージー・ポージー」、同業者としては、この2編が興味津々でした。ベジタリアンの大叔母に育てられた無垢な青年が、生まれて初めて食べたローストポークの旨さに狂わされる「豚」の展開の凄いこと。身も蓋もない強引な幕引きの仕方とか、こんなのダールが書いていたのだと仰天しました。
  • 「旅をする木」(星野道夫著、文春文庫)
    星野道夫の書いたものは、私にとっては、読むのに長い時間を要するのです。いいえ、文章は簡潔で、難しい語もありません。でも、少し読んだだけで、色々なイメージが膨らんでしまって、立ち止まってしまうのです。まるで夢を見ているような状態になって、そのまま本を閉じてしまうこともしばしばでした。氷海に運ばれる「ゴーストシップ」の話、表題にもなっている「旅をする木」トウヒの話、トーテムポールが朽ち果てるままに聖地を封印するハイダ族の話、死の危険を支えに飛び続ける飛行士、ブッシュパイロットの話、どれもこれも深みにハマります。「結果が、最初の思惑通りにならなくても、そこで過ごした時間は確実に存在する。そして最後に意味をもつのは、結果ではなく、過ごしてしまった、かけがえのないその時間である」。…そうそう、池澤夏樹による文庫版解説「幸福論としての星野道夫」が、また凄い。
  • 「文豪ストレイドッグス」第1巻(朝霧カフカ作、春河45画、KADOKAWA)
    とても評判になっているので、試しに1巻だけ買ってみました。要するに『X-MEN』なのです。異能者間の闘争を、文豪の名前を借りたイケメンに演らせてみたら…というのがミソです。中島敦の「月下獣」、芥川龍之介の「羅生門」、太宰治の「人間失格」、谷崎潤一郎の「細雪」等という必殺技(!!)が繰り出されて、かなり笑えます。例えば、「人間失格」は、どのような相手の能力も無効化(無能化と言うべきか)する、凄い技なのです。その線で言うと、坂口安吾の「白痴」(皆バカになる)とか、遠藤周作の「おバカさん」(皆バカになる)とかあると面白いでしょう。小松左京の「日本沈没」とか、筒井康隆の「日本以外全部沈没」とか…。
  • 「バート・バカラック自伝/ザ・ルック・オブ・ラヴ」(バート・バカラック、ロバート・グリーンフィールド著、奥田祐士訳、シンコーミュージック・エンタテイメント)
    小学校の掃除の時間に、いつも放送でバカラックが流れていました。単なるムードミュージックとして、レコードをかけていたのでしょうね。でも、それが私のインプリントでした。どうして彼の曲は、こんなに明るいのに悲哀を感じさせるのか、不思議に思ったものです。自分では大失敗と言っている『失われた地平線』も(映画の出来はともかく)私は大好きです。殆どのナンバーを暗唱できるくらいです。ジュリア・ロバーツ主演の『ベストフレンズ・ウェディング』、映画の中身は忘れ去ってしまいましたが、参列者が皆で「小さな願い」を合唱する場面だけは、今も心に焼き付いています。バカラックに対面するや感激の余り泣いてしまった日本人女性の逸話が紹介されますが、日本語版注釈で、それが椎名林檎であることが明かされます。それにしても、ハリウッドセレブの例に洩れず、次から次へと結婚と離婚を繰り返した人ですね。それに比べて、アスペルガーの長女、ニッキーはクリスマスイヴ礼拝に行って、キャロルを歌って、年が明けたら自死してしまう、この姿は余りにも対照的で痛々しいです。
  • 「アド・アストラ/スキピオとハンニバル」第5巻(カガノミハチ作、集英社)
    「カンナエの戦い」を簡単に言えば、大包囲撃滅戦なのです。複数の民族による連合軍であるハンニバル陣営は3〜4万、中央にガリアとイベリアの歩兵を、左側にリビアとイベリアの歩兵を、更に左右両翼に強力なヌミディア騎兵、ガリアとイベリアの騎兵を配置。対するローマ軍は8万、強みの歩兵による正面中央突破で敵軍を分断しようとします。予め三日月型陣形を取っていたハンニバル軍の陽動作戦に引っ掛かり、気付いた時には、ローマ歩兵は側面からリビア歩兵の、背後からヌミディア騎兵の攻撃を受けることになったのです。結果、ローマ兵の5万が戦死、2万が捕虜になったと言われています。いつも私が気になるのは、勝利のためとは言え、中央に配置され、犠牲を強いられたガリア歩兵のことです。ハンニバルはどうやって異民族のガリア人を説得したのでしょうか。
  • 「海うそ」(梨木香歩著、岩波書店)
    私が南九州で暮らしたのは、僅か5年に過ぎません。けれども、時折、あの5年間が人生の全てであったかに思われる瞬間があります。この物語の舞台となる「遅島」のような離島でもありませんが、かつては「陸の孤島」呼ばわりされた町でした。照葉樹林の細い小径を抜け、浜辺に出て貝殻探しに興じ、離合するのも難しい、曲がりくねった断崖絶壁の細道に自動車を走らせ、岬の灯台から水平線を見て、球体の上に生きていることを実感したものです。さて、私自身の物語は、この物語のエピローグに当たる「五十年の後」のような、解決には程遠く、蟠りを抱えながら、私の脳裏には、真夏の光と影とが交互に反転するような気分です。亡き父は人文地理学科だったのですが、主人公の秋山の姿を見て、父が大学時代に何をしていたのか、少し得心が行きました。
  • 「歴史を考えるヒント」(網野善彦著、新潮文庫)
    病院の検診の日、余りの待ち時間の長さに、院内書店で買って読み始めました。連続講座を纏めた本ですから、待合で読むのにピッタリです。中世においては、異界である土の中に銭を埋めて後、人の手から切り離されて無主物にします。このようにして一旦、神仏の物と成った銭を人に貸して利息を取るための資本と化するのです。主人から預かったタラントンを土の中に埋めたまま、活用しなかった男の話(マタイによる福音書25章14〜30節)と、どこかで通じているような気がします。日本列島は、決して孤立した「島国」ではない。むしろ、南北逆転させて日本地図を見ると、大陸から飛び石状に続く形から、人や文物の流れが実感できる。「環日本海諸国図」が紹介されていました。それが今や、二男の中学の地図帳には採用されていました。この本を読むと、自分が「百姓」の出であることに自信が湧いて来ます。
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2014年04月10日

幽径耽読 Book Illuminationその14

  • 「レンタルチャイルド/神に弄ばれる貧しき子供たち」(石井光太著、新潮文庫)  真の「ルポルタージュ文学」というのは、こういうものなのでしょう。以前、著者の『神の棄てた裸体』を読んだ時には、その凄まじい内容にもかかわらず、自分の中では「ルポ」と言って済ませていたのです。しかし、ここに登場するラジャ、マノージ、ナズマ、スマン、ムニ、ソニーといった人間たちの圧倒的な存在感、肉体性はどうでしょう。特に、ラジャとマノージについては、第1部(2002年)、第2部(2004年)、第3部(2008年)と、出会いから6年に及ぶ積み重ねがある訳で、読者にとっても感無量です。丁度、先日、インドの代理母出産ビジネスの実態告発ドキュメントを見たばかりでした。インドの女性たちが置かれている差別的な境遇に、夫婦して仰天したものです。あれは中産階級。「レンタルチャイルド」は、施しを受けさせるために、幼児の肢体切断や身体損傷を行なう最下層の世界です。それでも、同じ社会、私たちと同じ世界なのです。
  • 「アンのゆりかご/村岡花子の生涯」(村岡恵理著、新潮文庫)  以前、マガジンハウス版は、妻から借りて拾い読みし、説教ネタに使ったことがあったのです。6歳の愛児、道雄が疫痢で死ぬ場面です。大森めぐみ教会での葬儀では、「主は与え主は取り給ふ。主の御名はほむべきかな」(ヨブ記1章21節)の式文祈祷に対して、花子は「奪うなら、なぜ与えた」と呻いたとも伝えられています。しかし、その司式者、岩村清四郎牧師自身もまた、その数ヶ月前に愛息、恵を疫痢のために奪われていたことが知られています。花子の初恋の人が澤田廉三で、その後の夫人が澤田美喜として、エリザベス・サンダース・ホームを設立する訳ですが、花子と美喜との親交とか。あるいは、女流文学者グループに主義思想を超えて、多士多才な女性たちが結集している辺りとか、現代には見られないネットワークです。
  • 「半藤一利と宮崎駿の腰ぬけ愛国談義」(半藤一利・宮崎駿談、文春ジブリ文庫)
    海岸線が長すぎる日本に「国防」は無理、資源のない日本に「海外派兵」は無理、海岸線に原発が林立している日本に「紛争」は無理。この端的で、冷徹な論理性にシビレます。司馬遼太郎の言葉らしいですが、「日本はお座敷の隅の、ちょっとトイレが臭うようなところで、でも風通しのいいところに座っていたらいんだよ」という辺りの発想、分かりますかね。縁側と渡り廊下の近くですから、いつでも抜けられるのです。ワシントン軍縮会議調印(1922年)の御蔭で、隅田川の鉄橋インフラが整備されたとか、三国同盟に批判的だった海軍士官を寝返らせたのは、ナチスの「ハニー・トラップ」だったとか(これって、まさに「サロン・キティ」じゃん)、『風立ちぬ』の堀越二郎の夢に出るのは「ノモンハンのホロンバイル草原」だとか(泣けました!)、日中戦争開始当時(1937年)は日本のGNPが過去最高になった年だったとか…。
  • 「ゴーレム」(グスタフ・マイリンク著、今村孝訳、白水社Uブックス)
    典型的な「カバラ小説」。手術後3日目の病床で読み始めたせいもあって(3冊目)、読書そのものが白日夢の如き体験でした。所謂、私たちが思い描く「巨人ゴーレム」は全く登場せず、どちらかと言えば「分身もの」なのです。ゴーレムは「幽鬼」という程度の意味に成っています。カバリストのラビ、人形遣い、悪徳医、闇商人、売女、犯罪者集団…。プラハのゲットーに蠢く奇怪な人間群像の描写にも舌を巻きます。「ヘブライ語のアーレフの文字は、片手で天上をさし、片手で下方をさした人間の姿をかたどったもので、それはつまり『天上に行なわれているとおりのことが地上にも行なわれ、地上に行なわれるとおりのことが天上にも行なわれている』ということを意味している」。けども、そのポーズって、釈尊の「天上天下唯我独尊」でもありますよね(因みに、作者はプロテスタントから大乗仏教への改宗者でした)。巻末の訳者解説(1990年記)に「ヘブライ語などについては森田雄三郎氏に…懇切なご教示をいただいた」と、今は亡き恩師のお名前に出会い、森田先生がヒレルのように、今、病床にある私を、どこかで見守って下さっているように感じられ、不覚にも嗚咽した次第です。「ユダヤの言葉が子音だけで書かれているのを偶然だとお思いですか?―自分ひとりに定められている意味を開示してくれる秘密の母音を各人が見いだすためなんですよ」。
  • 「時が新しかったころ」(ロバート・F・ヤング著、中村融訳、創元SF文庫)
    ハインラインの『夏への扉』と同趣向のロマンティック時間SF。それにしても、この小説、以前、確かに読んだよなあと思いながら読了。何のことはない。同じ内容の中編を作者自身が長編化したものなのです。時間調査員が人類の存在しないはずの白亜紀で2人の姉弟を救助。2人は火星の「グレーター・マーズ」国の王女と王子で、凶悪テロリストに誘拐されて来ていたのです。自称「トラックの運ちゃん」が行き掛かりから、この幼い姉弟を体を張って守ることになるという筋立てが泣かせるのです。主人公が姉弟に「正式のアメリカン・インディアン方式」のキャンプ(要するに野宿)を体験させて上げる場面が秀逸です。食後に枝先にマシュマロを刺して焼いて食べさせるのですが、北海道時代、カナダ合同教会のウイットマー宣教師(先住民の文化にも造詣が深い)とご一緒したキャンプファイアを思い出しました。
  • 「亜米利加ニモ負ケズ」(アーサー・ビナード著、新潮文庫)
    彼の『ベン・シャーンの第五福竜丸』(集英社)の絵本を、以前、小学校の読み聞かせで演ったことがあります。その時、私は生徒たちの関心を引くために、白眼ゴジラのラジコンを持って行って、そこからビキニ環礁水爆実験を説き起こしたのでした。「一文にもならないのに、そこまでするか」というサービス精神に溢れているのは、この作者の思索も同じ。この人の文に接すると、アメリカを否定して日本人に成るのでもなく、日本を見下してアメリカ人に成ろうとするのでもなく、両者を慈しむことが出来るのではないでしょうか。山村暮鳥の「病床の詩」、堀口大學の「お七の火」に寄せる彼の愛着を見ていると、本当にこの人は詩人なのだなあと思われます。しかも、彼の魂は、北米の自然を通してアメリカ先住民の霊とも繋がっているのに違いないと思うのです。
posted by 行人坂教会 at 20:29 | 牧師の書斎から

幽径耽読 Book Illuminationその13

  • 「日本幻想文学大全/幻視の系譜」(東雅夫編、ちくま文庫)
    室生犀星の『蜜のあわれ』には降参しました。初老の小説家と彼が愛玩する金魚、その他、幽霊女も登場しますが、会話(鉤括弧)だけで構成された実験的な小説です。しかも、面白い。金魚は自分を「あたい」と称し、作家を「おじさま」と呼んで、媚態を振り撒くのです。その筋を我が家の二男にしてやったら、曰く「それって、『ポニョ』じゃん」。一刀両断でした。宮沢賢治の『ひかりの素足』は弟を、夢野久作の『木魂』は妻子を亡くす話です。幻想文学にとって喪失の悲しみが大きなモチベーションだということです。私の最高のお気に入りは、中島敦の『文字禍』です。「中国もの」ではなく「アッシリアもの」です。歴史を文字で記録するのではなく、文字が歴史を作るという倒錯した感覚、これぞ幻視です。老博士は言い放ちます。「書かれぬ事は無かった事じゃ。芽の出ぬ種子は、結局初めから無かったのじゃわい」「わしらこそ彼等文字の精霊にこき使われる下僕じゃ」。
  • 「ハカイジュウ」第12巻(本田信吾作、秋田書店)
    武重先生がトール型特殊生物と融合した「フューズ03」が目覚しい戦闘能力を発揮しますが、造形的にもアクション的にも、永井豪の『デビルマン』を思い出します。さて、いよいよ封印されていた帝王≠フお目覚めですが、スケール(尺)が巨大過ぎると、リアリティを喪失して、つまらなくなります(私の持論です)。巨大化した武重を描く傍ら、早乙女博士と陽、瑛士たち、人間サイズのフューズを描くことで、何とかバランスを保って来たのですが、どうなりますやら。
  • 「もっと厭な物語」(夏目漱石他、文藝春秋編、文春文庫)
    今回は日本の作家が4名入っていますが、悪趣味さで草野唯雄の『皮を剥ぐ』が群を抜いています。クライヴ・バーカーの『恐怖の探求』は、映画『ホステル』を連想しましたが、少し捻って予想通りの結末でした。「恐怖にまさる愉しみはない。それが他人の身にふりかかっているものであるかぎり」。奇妙な味わいのルイス・パジェット『著者謹呈』が楽しかったです。恐喝を副業にする悪徳新聞屋トレイシーと、彼が殺した魔術師の使い魔メグ(黒猫)との間に繰り広げられる、殺すか殺されるかの駆け引きの面白いこと。最後にメグが使った魔法、彼女が最初に予告した通りの内容だったことに読了後、しばらくして気付きました。後味悪くないです。かなり愉快でした。
  • 「シュトヘル/悪霊」第9巻(伊藤悠作、小学館)
    途中、シュトヘルに家族を殺されたモンゴル脱走兵集団の話が入ります。憎しみが憎しみを生み、悪霊が新たな悪霊を作る呪いの連鎖が描かれます。ゼスは暑苦しいキャラですが、中々どうして凄絶な殺人技を仕掛けて来ます。主要登場人物が、金国の道府・中都を守る要害、居庸関に集結しつつあります。そろそろ物語は佳境ということでしょうか。
  • 「ひとさらい」(ジュール・シュペルヴィエル著、永田千奈訳、光文社古典新訳文庫)
    学生時代、シュペルヴィエルの短編集『沖の少女』(教養文庫)を読みました。繊細すぎる感性に、読んでいて胸の痛みすら覚えるのです。実際、シュペルヴィエル、心臓の持病を抱えていたそうです。本作の主人公、フィレモン・ビグア大佐は、不幸せな家庭の子どもたちを見つけては、次々に誘拐して養育するのです。犯罪なのに、犯罪ではない。大佐は勿論、登場する人たちは悪人でも善人でもありません。大佐を幻惑する養女マルセルも、そのマルセルを乱暴するジョセフも、マルセルのアル中の父親エルバンも、弱さを抱える人間です。ただ、心の動きの複雑さが擬似家族を混乱させて、悲劇的な結末をもたらします。
  • 「真珠湾収容所の捕虜たち/情報将校の見た日本軍と敗戦日本」(オーテス・ケーリ著、ちくま学芸文庫)
    学生時代、ケーリ先生のお孫さんのベビーシッターをしたことがあります。お宅に伺って、先生のお仕事の邪魔にならないように、孫のAちゃんを京都御所に散歩に連れて行ったりしていました。Aちゃんがお昼寝をしたので、居間のテレビで、勅使河原宏監督の『砂の女』を観ていました。そしたら、ケーリ先生が登場して、しばらく一緒に見ていたのですが、(観念的で抽象的な映画は余りお好きでなかったのでしょう)「コーボー・アベ!君は何が言いたいのだ!」と、テレビに向かって言っていました。今ならば「そんなことは、お友だちのドナルド・キーンさんに聞いてくださいよ」と苦笑いしたことでしょう。でも、あの言葉は、きっと「君はこういう映画に何を見ているのかね?」という問い掛けだったのですね。「裸でぶつかって来ない」日本の学生に対する苦言を読みながら、彼から見たら、当時の私も「マウシー」で「ナイーヴ」な「若い者」だったのだろうなと思いました。
  • 「神国日本のトンデモ決戦生活」(早川タダノリ著、ちくま文庫)
    戦前戦中を全く経験していない世代の人たち(田母神俊雄のような)が、敗戦以前の日本人は「誇りをもっていた」と断言するのは、虚妄なのです。著者は、戦時下の出版物やポスター等を収集、観察、分析しながら、「決戦下」の庶民生活を丹念に再構成していきます。雑誌『主婦之友』に「アメリカ人をぶち殺せ!」「米鬼を一匹も生かすな!」「一人十殺米鬼を屠れ!」等というスローガンが1ページ捲るごとに躍っているのは、やはりクラクラします。もはやプロパガンダと呼べるものではなく、国全体が集団ヒステリー状態だったことが分かります。結局、カルト国家、カルト宗教が一番近いのです。そして今また、日本主義的な発言が持て囃され、日本社会のカルト化が深く静かに進行しつつあるように思います。雰囲気や気分で戦前回帰を目指すべきではありません。決して賛美できるような国ではなかったのです。
  • 「世界神話事典/世界の神々の誕生」(大林太良編、角川ソフィア文庫)
    中国苗(ミャオ)族の洪水神話は瓠(ふくべ)の船。独竜(トールン)族では、人間の男女が土から造られるが、蛇の助言のために、死んで土に返るようになった。朝鮮でも、鴨緑山の黄土から男女が造られる。メソポタミアのアダパ神話には「命のパンと命の水」が出て来ますが、「死のパンと死の水」も出て来ます。アルタイ族の神話では、人間の耳から魂が、鼻から知恵が吹き込まれ、男の肋骨2本で女が造られる。オセアニアのタンナ神話でも、蛇が重要。女は蛇によって妊娠し男児を産みます。アマゾンのアピナイエ族には、「星の女」によって農業を学んだ人々が「生命の木」を切り倒してしまう。作物を手に入れることで、労働と死を経験するのです。西スーダンのバンバラ族によれば、沈黙の世界に生じた「声」によって自己分裂して世界が創造されます。ザンビアのロジ族には、最初の人、カヌムが高い塔を作って天に登ろうとするが、失敗します。このように、メソポタミアやエジプト以外にも、聖書と繋がる話が一杯ありました。
posted by 行人坂教会 at 20:24 | 牧師の書斎から

2014年02月06日

幽径耽読 Book Illuminationその12

  • 「新トラック野郎風雲録」(鈴木則文著、ちくま文庫)
    鈴木監督が桜美林大学の映画専修コースの『トラック野郎/御意見無用』上映会に参加した後、「夕闇迫るキャンパスを小川君(大学の助手)と歩いていると、白く浮かぶ建物の尖塔に十字架が光っているのが、目に入った。礼拝堂である。…『聖獣学園』の作者であったことを思い出させ、立ちすくみ、十字を切って祈りを捧げるうちに急速に夜のとばりは降りていった」。私は大爆笑でした。エッセイの所々に「無から有をつくる」とか「新しい酒は新しい皮袋に」とか、何気なく聖句が使われています。やがて、「わたしの映画のバックボーンは、難しい思想や哲学ではなく、こういう通俗歌曲の詩や俳句、短歌、聖書の中の一節など庶民の血肉となっている言葉であった」という告白に出会いました。さすがは鈴木監督、聖書の活用法よく御存知です。修道女が薔薇の蔦で乳房をグルグル巻きにされるの図は、『ロザリオの悲しみ』のアン・ヘイウッドより『聖獣学園』の多岐川裕美がゼッタイいいって。同じように『コンボイ』や『ダーティファイター』より『トラック野郎』の方が百倍いいって!
  • 「聖夜」(佐藤多佳子著、文春文庫)
    クリスマスに、オリヴィエ・メシアンのオルガン曲「神はわれらのうちに」を演奏することになった高3の男子の話です。単純だけど普遍性のある物語です。舞台は青山学院、時代設定は1970年代後半です。主人公の一哉がプログレを聴いているのが、同世代の私としては嬉しいです。ELPのキース・エマーソンがハモンドオルガンにナイフを突き立てたり、仰向けになったりしながら演奏するのは、NHKで放送した「ヤング・ミュージック・ショー」(1974年)でした。オランダのFOCUSの名前も出て来ます。「笹本さん」は深町純をイメージして読みました。そう言えば、私の友人の塚本潤一くん(今、頌栄短期大学准教授)も、神学部のオルガン実習の時に、パイプオルガンで『インフェルノ』の「図書館」を弾いて叱られていました。土肥いつき(今は、セクシャルマイノリティ教職員ネットワーク副代表)が、メシアンのサインを自慢そうに見せてくれたことも思い出します。私自身は、高校時代、ラジオで『トゥーランガリラ交響曲』を聴いてショックを受けたのが、メシアンとのファーストコンタクトでした。
  • 「バートン版アラビアンナイト/千夜一夜物語拾遺」(大場正史訳、角川ソフィア文庫)
    「拾遺」ですから「拾い読み」です。解説によると、大場全訳版が12巻(角川文庫)もあったそうです。『アラジンと不思議なランプ』の中に「『角の大君』イスカンダルのような大王」という表現がありました。「イスカンダル」は「アレクサンドロス大王」のことだったのですね。アラブ世界でも尊敬されていたのです。『アラジン』の舞台が支那の都「アル・カラス」、もしくは「京師」となっているのにビックリ。まるで『トゥーランドット』です。何しろ王女の名前がバドル・アル・ブドゥル姫ですから。見た目の美しさから「白人奴隷」が珍重されていたり、シャーベット水や珈琲を飲んだり、16世紀当時の(多分、エジプトの)風俗が描かれていて面白いです。『三人の男と主イサの話』で狂言回しとなる「マリアの子イサ」はイエスのことです。悪者が互いに騙し合って、全員が身を滅ぼしてしまう説話。仏教説話集『ジャータカ』にもあって、仏教、キリスト教、イスラム教の3つの円の「集合」部分みたいです。
  • 「映画の殿堂」の映画題名について
    前記短編には、膨大な数の悪趣味映画のタイトルが羅列されています。訳者(夏来健次)は涙ぐましい努力をして、邦題のある作品は邦題を記していますが、それでも不足がありますので、補いたいと思います。「Insatiable」は『プラチナ・パラダイスPART2』、「(The) Mutations」は『悪魔の植物人間』、「Wanabe Wicked Warden」は「Greta- Haus ohne Manner」、つまり『女体拷問人グレタ』、「Talk Dirty to Me」は『私に汚い言葉を云って』、「Avenging Angel」は『ストリート・エンジェル/復讐の街角』、「Cafe Flesh」は『愛の終焉/カフェ・フレッシュ』です。因みに「Fists of Vengeance」は、倉田保昭主演の台湾映画『除暴』(別題『狂龍出海』、日本未公開)ですね。
  • 「シルヴァー・スクリーム」下巻(デイヴィッド・J・スカウ編、田中一江他訳、創元推理文庫)
    とにかく、マーク・アーノルドの『映画の殿堂』がサイコー!! 映像の垂れ流しよろしく、映画の題名の垂れ流し箇所が多数あり、これを巡るだけで、カルト映画マニアは自然と涙腺が緩んでいるのに気付くでしょう。原題の「Pilgrims to the Cathedral/巡礼者は大聖堂へ」にも匂わしてあるのですが、山奥のドライブインシアターを悪趣味映画の殿堂として再創造、自由のユートピアとした3人のクリエーターの成功物語が描かれます。次いで、同じくヒッピーやニューエイジから出発しながらも、テレビ伝道師となった男の人生が描かれます。やがて彼は「殿堂」付近の(バイブルベルト)の町の指導者として迎えられます。そして遂に、「殿堂」ユートピアはバイブル町の侵略を受け、攻め滅ぼされてしまうのですが…。明らかに、ルター派がミュンツァー派を弾圧したドイツ農民戦争が下敷きですね。クライマックスは『妖怪大戦争』や『妖怪百物語』です(実際、河童も登場します)。
  • 「シルヴァー・スクリーム」上巻(デイヴィッド・J・スカウ編、田中一江他訳、創元推理文庫)
    映画ネタを使ったホラーのアンソロジー。映画好きの私は即買でした。勿論、タイトルは「銀幕/シルヴァー・スクリーン」のもじり。ヴードゥーの呪いを題材にした短編が2つ入っています。F・ポール・ウィルソンの『カット』とカール・エドワード・ワグナーの『裏切り』です。ウィルソンの『カット』の凄まじさは圧倒的です。解説にもあるように、自作『城塞』がマイケル・マン監督によって映画化された(『ザ・キープ』)時の怨みを込めた作品です。映画館を舞台にした2作品も心に残りました。ロバート・ブロックの『女優魂』は、サイレント映画のフィルムの中で生き続けている脇役女優と年老いたエキストラ男優との結び付きを描いて哀切です。クライヴ・バーカーの『セルロイドの息子』は、観客の眼差しが実体化した怪物が登場します。でも、最高の発見は、レイ・ガートンの『罪深きは映画』でしょう。セブンスデー・アドベンチストの村に住む祖父母の家に預けられ、戒律に縛られて暮らす少年が、映画の世界と猟奇殺人の世界に同時に足を踏み入れてしまうのです。『前口上』の「Seconds」は『セコンド』の邦題で公開されています。
  • 「夜歩く」(ジョン・ディクスン・カー著、和爾桃子訳、創元推理文庫)
    主人公の探偵役は、パリの予審判事バンコラン。バンコランと言えば、魔夜峰央の『パタリロ!』ですね。巻頭、「人狼/ルー・ガルー」とも仇名される、異常性格の凶悪犯、アレクサンドル・ローランが余りにも魅力的に紹介されるものですから、期待し過ぎて些か肩透かしを喰いました。1930年代の正統派作品ですから、猟奇小説ではないのです。それでも、バンコランの名台詞は沢山ありました。「真の恐怖というのはまんざら滑稽味と無縁ではない」。「こういう事件では、あるべき品の有無に思いを致すよう、つねにお勧めします」。「女性が服を脱いだら、わきまえも一緒に脱ぎ捨ててしまう」。「一足飛びに結論へ飛びつかないように。なにも明白なことを信じるなとお願いしているのではありません。ただ、何が明白であるかを見極めてからにしてください」。
  • 「昭和怪優伝/帰ってきた昭和脇役名画座」(鹿島茂著、中公文庫)
    岸田森(和製ドラキュラ)、天知茂(色悪)、渡瀬恒彦(鉄砲玉の美学)、成田三樹夫(悪のエロス)…。彼らが活躍した時代の日本映画界は(今から思えば)何と豊饒だったことでしょうか。つまり、この類いの豊かさは、その時には感知できないのでしょう。個人的には、徹底的に再現された芹明香の『㊙色情めす市場』の章が一番感動的でした。私がこの作品に出会ったのは、製作から10年を経た後のことですが、忘れ難い傷跡のような印象を私の魂に残したのでした。日本映画界から完全にプログラム・ピクチャーが消滅して何十年が過ぎたことでしょうか。私の映画三昧は70〜80年代でしたが、既に、その時ですら昔語りになっていました。東宝怪獣映画、にっかつロマンポルノと東映実録路線で、私は尻尾を少し齧ったのかな。
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2013年12月21日

幽径耽読 Book Illuminationその11

  • 「氷川清話/付勝海舟伝」(勝海舟談、勝部真長編、角川ソフィア文庫)
    「行政改革ということは、よく気をつけないと弱いものいじめになるよ。…全体、改革ということは、公平でなくてはいけない。そして大きいものから始めて、小さいものを後にするがよいよ。言いかえれば、改革者が一番に自分を改革するのさ」。日本の政治家と官僚たちは真逆のことをやっているのですね。これが明治時代の談話だから凄い。この人、どこまで遠く見えてたんだろ。「功名をなそうという者には、とても功名はできない。きっと戦いに勝とうという者には、なかなか勝ち戦はできない。…せんじつめれば余裕がないからのことよ」。勝部による小伝も抜群に面白いです。江戸城明け渡しの際、西郷との談判決裂時の策として、慶喜の英国亡命、江戸の焦土戦術、住民の避難誘導まで準備した上で、臨んでいたとは…。
  • 「ファビュラス・バーカー・ボーイズの地獄のアメリカ観光」(町田智浩+柳下毅一郎著、ちくま文庫)
    私がジョン・ウォーターズの『ピンク・フラミンゴ』を見たのは80年代前半、京大西部講堂でした。確か同時上映はトッド・ブラウニングの『フリークス』だったと思います。その頃、ケネス・アンガーの諸作品も一気に観たのでした。ところで、この本のコンセプトは、アンガーの『ハリウッド・バビロン』ですよね。ウォーターズのインタビュー記事を読むと、「変態だったりバカだったりして(笑)、生きづらい連中と出会って、彼らと映画を作ることで救われたんだと思うよ」という感想(ウェイン町山)が出て来て、大いに納得。それから映画以外でも、1999年の段階で、アウトサイダー・アートについて、繰り返し採り上げていてビックリ。犯罪者、パンクロック、ポルノ、スキャンダル…異端の文化史なのですが、見世物としての映画(エクスプロテーション)の復興を強く念じないではいられません。
  • 「日本人とキリスト教」(井上章一著、角川ソフィア文庫)
    解説の末木文美士が、今の日本人は「お寺と神社と教会とをきちんと使い分けているのだ」という「神仏キ習合」論を展開してくれます。実際、うちの教会のイヴ礼拝の出席者は大半がご近所さん(未信者)です。如何にしてキリスト教信仰を日本文化の中に接ぎ木するかについて、互いにとってより善きシンクレティズムの在り方を、日夜、模索している私にとって、大変に参考になりました。特に禁教下の江戸時代における、切支丹についての言説の分析は瞠目しました。私自身、魔法使いのような帽子とマントの装束で歩き、「邪教」のイメージを意識的に振り撒いています。プロテスタント教会には、もう少しロマンチシズムとエキゾチシズムのスパイスが必要です。
  • 「冬虫夏草」(梨木香歩著、新潮社)
    山奥に生まれる鉱山町の話が出て来ます。その社会の活気は「未来永劫続くようなものではない。儚いものだ。あれも、鉱床が尽きるまでの話だ。…幻の町だ」。私の生まれ故郷にも、神子畑、明延、生野という鉱山町がありました。鉱夫とその家族のために、スーパーマーケット、共同浴場、映画館までもあって、私たちから見ると都会のようでした。今は跡形もありません。「衰えていくものは無理なく衰えていかせねばならぬ」という高堂の言葉もありました。この国だけではない、世界中、衰退のペースが加速し過ぎています。衰退は悪いことではありません。必要で自然なプロセスなのです。でも、その一事を拒絶し、更なる「成長」を目指そうと無理をするので、却って急激な崩壊を招いて、被造物の何もかもが悲鳴を上げているように思います。
  • 「刻刻」第7巻(堀尾省太作、講談社)
    「神ノ離忍(カヌリニ)」化した佐河と飛野の戦闘は、予告画通りの怪獣映画的描写でした。それ以上に、過去を告白する佐河と樹里が対峙する緊迫した描写と台詞、圧巻でした。「ありもしない信頼にすり変えて隠そうとしていたのは、お互い1ミリも妥協できないという現実」。この樹里の台詞、どうしたら、こういう言葉を思い付くのでしょうか。
  • 「怪奇小説日和/黄金時代傑作選」(西崎憲編訳、ちくま文庫)
    ノルウェーのヨナス・リーの『岩のひきだし』は、魔女に魅入られて以来、クリスマスの前々日に姿を消す男の話。M・ボウエンの前世の因縁もの『フローレンス・フラナリー』も、H・ウォルポールの魔術ネタ『ターンヘルム』も、なぜかクライマックスはクリスマスです。E・ボウエンの『陽気なる幽霊』もクリスマスの話。季節柄ピッタリでした。M・P・シールの『花嫁』は、教会の日曜学校の校長をしている男が、下宿先の姉妹二人から同時に愛される話です。しかも、この男、結構ズルイのです。「創世記」のヤコブとレア、ラケル姉妹の話が下敷きに成っています。R・F・エイクマンの『列車』を読んで、昔のホラー映画『女子大生危険なサイクリング』を思い出しました。W・W・ジェイコブズの『失われた船』は短いけれど圧巻です。申し分のない文学です。
  • 「ハカイジュウ」第11巻(本田真吾作、秋田書店)
    トール型(巨大特殊生物)の群れと戦うフューズ・シリーズ…。大変なスペクタクルが展開されると思いきや、意外に面白くない。多分、一体一体のモンスターに思い入れを感じる暇もないからでしょう。それは、各フューズについても言えることです。もはや戦闘はドラマの背景でしかなく、グロテスクも凡庸化するのだなと思いました。物語は佳境なのに面白くない、切り株描写が少ないからでしょうか。
  • 「エンニオ・モリコーネ、自身を語る」(エンニオ・モリコーネ+アントニオ・モンダ著、中山エツコ訳、河出書房新社)
    ファンにとっては堪えられない本。例えば、『天地創造』のために書いた曲を、23年後の『サハラの秘宝』に使ったとか、『続・夕陽のガンマン』のエレキギターの音は、磁石を側に置いて弾いたとか、『シシリアン』のテーマはJ.S.バッハの「フーガ/イ短調」前奏曲から生まれたとか、『ガンマン大連合』と『新・夕陽のガンマン/復讐の旅』に、グレゴリオ聖歌の旋律要素が入っているとか、パゾリーニが『テオレマ』に「モツレク」を入れたのは、芸術的な理由ではなく、厄除けのためだったとか(共産党員のくせに!?)…。訳者、よく頑張っていますが、『ピオヴラ』シリーズ(p.187)は『対決』という邦題でビデオ化されていたことを指摘して置きます。因みに、ウェルトミューラーの『バジリスク』の主題歌を歌ったファウスト・チリアーノ(p.48)こそは、『特捜最前線』の「私だけの十字架」を熱唱した人なのです。
  • 「西洋中世奇譚集成/皇帝の閑暇」(ティルベリのゲルファシウス著、池上俊一訳、講談社学術文庫)
    名古屋の「ひつまぶし」を、いつも「ひまつぶし」と読んでしまう私にピッタリの本。12世紀のヨーロッパ各国を遍歴した知識人が、当時、耳にした「驚異」(mirabilia)の数々を蒐集編纂したのです。「馬頭人類」はスウィフトやコクトーを思い出させます。「ドラクス」は日本の河童か中国の水虎に似た妖怪ですが、子孫の乳母として働かせるために、人間の女を水底に引き摺り込んで誘拐します。動物に育てられた子ならぬ、悪霊に養育された娘も登場します(やはり、言葉は忘れています)。この話、オチが怖いです。ダマスカスの教会にある聖母像は、生身の乳房から癒しの油を分泌します。「エペルヴィエ城の貴婦人」は、必ずミサの途中で退席してしまいますが、正体は悪霊の化身で、強引に引き止めると、礼拝堂を破壊して、奈落へ消え行きます。
  • 「日本怪談集/幽霊篇」下巻(今野圓輔著、中公文庫)
    巻頭の「防空頭巾の集団亡霊」(三重県津市、1963年「女性自身」)が圧巻です。その他、アジア・太平洋戦争の戦死者の亡霊について多くのページが割かれています。日本人が「幽霊」について考察する場合に避けて通れない事柄ではあるのでしょう。それにしても、朝鮮人、中国人、アジア諸国の外国人は幽霊に成りません。多くの惨禍をもたらした張本人である日本人の前に化けて出ないのは、どうしてなのでしょうか。やはり、幽霊とは、日本人の自己言及に過ぎないのでしょうか。著者の指摘するように、交通機関の発達と共に、幽霊も電車、タクシー、飛行機に出現します。いずれ宇宙船にも同乗して来るはずです(『ゴースト・オブ・マーズ』か)。
  • 「日本怪談集/幽霊篇」上巻(今野圓輔著、中公文庫)
    著者が福島県生まれの人のため、相馬地方の山中郷、現在の飯館村の話、双葉郡や相馬郡の話が多く採録されています。原発の出来る前は、この地方、本当に辺鄙な所だったのでしょうね。臨終時に現われて、知人を訪ねたりする幽霊を、秋田県鹿角地方では「オモカゲ」と言うのだそうです。『HUNTER×HUNTER』の映画版に、そんなキャラがいましたね。神奈川県立博物館は横浜正金銀行(東京銀行)の建物だったそうですが、関東大震災の大火災で避難した人々は地下室に…。僅かに開いて空気取りをした窓からは、焼死していく外の人々の断末魔が延々と聞えて来たそうです。これはコワイ。
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2013年10月16日

幽径耽読 Book Illuminationその10

  • 「クロニクルFUKUSHIMA」(大友良英著、青土社)
    『あまちゃん』の劇伴で、すっかり有名になった大友良英が、少年時代を過ごしたのが福島県の渡利。3.11の震災と原発事故を契機に、地元の人たちと色々なイベントを催しながら、汚染の現実と向き合い、引き裂かれた故郷を見つめ、福島人の複雑な心情に寄り添って行きます。坂本龍一、遠藤ミチロウといった同じミュージシャンとの対談は運動論として勉強になります。放射線学者の木村真三との対談では、厳しい現実を改めて思わないではいられません。野外公演のために、皆から寄せられた風呂敷を縫い合わせて「大風呂敷」を作り、それを会場全体に広げて、放射性物質を付着拡散させないという発想。「福島が加害者になってはいけない」というテーゼ、感動しました。詩人の和合亮一との対談でも言われている「ふたをされる」という、問題放棄の仕方、東京オリンピック招致決定で、いよいよ現実と成っている今日この頃です。
  • 「岡本綺堂読物集二/青蛙堂鬼談」(岡本綺堂著、千葉俊二編、中公文庫)
    近年、昔読んだ本をそれとは気づかず再読することが多い。表紙の山本タカトの艶かしいボブカット少女の絵(『一本足の女』)に魅かれて、衝動買いしたものの、読めば八割方記憶が甦って来ました。『一本足の女』は『笛塚』と同じく、所謂「妖刀もの」のヴァリエーションですが、庄兵衛と不具の少女お冬との目合(まぐわい)を、もう少し掘り下げて描写していたら、クローネンバーグ好みの異端文学として突出していたことでしょう。それは『笛塚』の2人の若侍、彌次右衛門と喜兵衛との同性愛的な関係にも言えることです。勿論、そこまで深入りしたら、それは綺堂ではなくなってしまうのです。
  • 「前キリスト教的直観/甦るギリシア」(シモーヌ・ヴェイユ著、今村純子訳、法政大学出版局)
    日本には「本地垂迹説」というのがあります。インド発祥の仏教やヒンドゥー教を日本の風土に接ぎ木する方便として、「大日如来は天照大御神のことなり」と宛がって行きます。ヴェイユも古代ギリシアの文学や思想の中に、キリストの十字架と受難の痕跡を探して行きます。しかも、その独自の理念を通して、当時の政治状況や社会環境を解読することさえしています。例えば、自己放棄による善と幸福への到達について語る時、彼女は聖フランチェスコを思い、「見えなくなりたければ、貧しくなるにしくはない」とのスペイン俗謡を引用します。スペイン市民戦争に参加した時代に覚えたのでしょう。「十字架上の苦悶は、復活よりもはるかに神的なものである。それは、キリストの神性が極まる一点である。今日、栄光なるキリストは、わたしたちの目から呪われたキリストを覆い隠してしまっている」。まさしくヴェイユの「十字架の神学」です。
  • 「百鬼園百物語/百濶異小品集」(内田百闥、東雅夫編、平凡社ライブラリー)
    「子供に神秘的な恐怖を教えたい。その為に子供が臆病になっても構わない。臆病と云う事は不徳ではない。のみならず場合によれば野人の勇敢よりも遥かに尊い道徳である。」―この巻頭言を目にして即買ってしまいました。『豹』では、牧師と法華の太鼓たたきが喰われます。多分、百關謳カ、五月蝿い奴が嫌いなのですね。それにしても、豹の皮の下に別の得体の知れぬ何かが入っているという発想の怖いこと。『キャットピープル』の先駆です。巨大鰻が日比谷のお堀から這い上がって来る『ウルトラQ』もどき、漱石の『夢十夜』を髣髴とさせる『柳藻』も良い。裏切った女の幼い弟を山奥に捨てて来る『残照』の後ろめたさと言ったら、これ以上ないくらい気持ち悪い。百關謳カ、愛猫家かと思っていたら、猫の腹を蹴ったり包丁で刺し殺そうとしたりする話もあります。
  • 「大伽藍/神秘と崇厳の聖堂讃歌」(ジュリス=カール・ユイスマンス著、出口裕弘訳、平凡社ライブラリー)
    大学時代に田辺貞之助訳の『彼方』を読みました。『彼方』では、悪魔学と黒ミサの世界にいた主人公、ディルタルが、この作品では、敬虔なカトリック信者になっていて、遂にはベネディクト派の修道院に入ろうと言うのですからオドロキです。シャルトル大聖堂の彫刻とステンドグラスについての象徴学的・美術的・信仰論的な論述が延々と続くのです。それにしても、こんな本、聖書と聖人伝と聖画と教会史を知らない人が読んでも、全く理解できませんでしょう。プロテスタント側から見れば、偶像崇拝以外の何ものでもありません。非カトリック教徒としては、グリューネヴァルトとレンブラントを褒めてくれているのが、せめてもの慰めか。
  • 「ヒストリエ」第8巻(岩明均作、講談社)
    ビザンティオン・ペリントス攻略戦は、堅固な城塞とアテネ海軍の奇襲によって、マケドニア惨敗。スキタイ遠征も帰途上のトリバロイ奇襲によって大損害を蒙る。そんな負け戦の続く中、エウメネスの慧眼と活躍が際立って来る訳です。特に、トリバロイ戦では、人事不省のアッタロスさんの名前を騙って、敵軍を退却させるのに成功します。ところで、これって「名探偵コナン」と毛利小五郎の関係ですよね。
  • 「シュトヘル」第8巻(伊藤悠作、小学館)
    天水の城門を攻撃するモンゴル(西夏人を先兵にしている)が、金国人を楯にして守備隊の弓兵に対抗する場面は、『ブラックホーク・ダウン』のソマリア民兵、『最愛の大地』のセルビア兵を思い出しました。ナランとトルイがシャーマン(巫者)の村に夜襲をかけて住民虐殺の数を競うのですが、殺した者の耳を削ぎ落として集めます。これも、豊臣秀吉の「朝鮮征伐」(文禄・慶長の役)を思い出します。
  • 「あなたに似た人〔新訳版〕U」(ロアルド・ダール著、田口俊樹訳、ハヤカワ文庫)
    『満たされた人生に最後の別れを』の原題は「Nunc Dimittis」、「ルカによる福音書」3章の、幼児キリストに相見えた老シメオンが「主よ、今こそあなたは、お言葉通り、この僕を安らかに去らせて下さいます」と歌う讃美の詩です。勿論、ダールが使うからには、大変な皮肉と成っています。年老いた独身男性がおバカな復讐心に血道を上げたばかりに、長年属していた社交界から排除されるトホホな話です。私は田舎者なので、連作『クロードの犬』がお気に入りです。特に、ドッグレースで一儲けを企む話『ミスター・フィージー』は(高校時代、夢中で読んだ)アラン・シリトーのような味わいもあって、無惨な幕切れながら、不思議な人生の哀歓を湛えています。
  • 「昭和史/1926―1945」(半藤一利著、平凡社ライブラリー)
    辻正信と田中新一は、関東軍が壊滅的に敗北したノモンハン事件の作戦参謀でありながら、その責任を問われることなく、そのまま太平洋戦争、ガダルカナルやインパールの作戦参謀となり、再び数十万の将兵を死地に追いやることになります。どうして日本国の権力組織は、こうも性懲りもなく同じ失敗を繰り返すのでしょうか。因みに「反軍演説」で知られる斎藤隆夫は、曽祖父が支持者だったらしく、私の実家にもよく出入りしていたようです。親米派の外務官僚として名前が挙げられている堀内謙介は、蒋介石の中国政府との休戦工作「トラウトマン工作」で知られる人物ですが、わが行人坂教会の有力会員でした(1979年召天)。
  • 「時を生きる種族/ファンタスティック時間SF傑作選」(ロバート・F・ヤング、フリッツ・ライバー他著、中村融編、創元SF文庫)
    やはり、T・L・シャーレッドの『努力』が傑出しています。それにしても何と地味な邦題でしょうか(原題はE for Effort)。解説によると、これ1作だけの一発屋らしいのですが、歴史的傑作であることは疑いの余地がありません。タイムマシン・カメラで歴史のエポックをフィルムに収めることが出来たらどうなるかというネタです。映画ファンとしては、とても楽しい筋立てです。結局、映画の愉しみは「のぞき趣味」なのですが、それを政治や軍事の世界でやったら、永遠の反権力闘争になる訳です。ヤングの『真鍮の都』、クリンガーマンの『緑のベルベットの外套を買った日』は少女マンガそのものでした(ほめ言葉です)。
  • 「オタク・イン・USA/愛と誤解のAnime輸入史」(パトリック・マシアス著、町山智浩編訳、ちくま文庫)
    雑誌「映画秘宝」を定期購読していた時代に、彼の連載コラムは読んでいました。深作欣二の『宇宙からのメッセージ』について綴ったくだりで転げ回って笑ったのを覚えています。「…子供の目から見ても、狂っていた。宇宙を飛ぶ帆船、ダボシャツにステテコの宇宙チンピラ、顔を銀色に塗った東洋人が演じるガバナス星人…。それはSFというより麻薬のバッド・トリップのようだった。」―この文章も入っていますが、比較文化論として優れた本です。異文化に対して基本的に排他的であるアメリカ社会が、日本文化の中で醸成されたファンタジーを、どのようにして受容して行ったかという、愛とエロスに満ちた文集です。
posted by 行人坂教会 at 16:22 | 牧師の書斎から