2022年07月04日

いつの日にか帰らん〜天のふるさと〜【ヘブライ11:13〜16】

「人生は旅である」と言われます。『おくのほそ道』は「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり」で始まります。松尾芭蕉は、私たちの毎日の生活そのものが旅であると言いました。

ヘブライ人への手紙11章は、信仰がテーマです。信仰を抱いて死んだ、アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラ…。 彼らは約束されたものを手に入れられませんでしたが、自分たちがこの地上では「旅人であり寄留者(よそ者であり、仮住まいの者)」と告白し「天のふるさと」を熱望した、と書かれています。

あなたは、旅行の時に何を持っていきますか?

旅慣れている人は必要なものを最小限だけ携えていて持ち物が少ないようです。私たちの人生という旅でも、余計な荷物を捨てられなかったり、大切なものを忘れ物したりします。たとえば、過去にひきずられたり、未来を心配したり、妬みや悲しみ、怒りの感情を拭いきれないことがあります。しかし、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ・・・。聖書に出てくる信仰の先輩たちが私たちを囲んで応援してくれています。大切なもの(信仰・希望・愛)を携えて、軽やかに人生の旅を続けられたらと願っています。

私たちの旅の目的地は「天のふるさと」です。唱歌ふるさとは、日本の美しいふるさとへの郷愁の念を歌った歌と一般的にされていますが、実は聖書的な要素が入っています(唱歌「ふるさと」の作曲者・岡野貞一は敬虔なクリスチャンであり、「ふるさと」のメロディーは讃美歌の影響を受けていると言われています)。 私の命の恩人の100歳現役クリスチャン医師・駿河敬次郎先生は、唱歌「ふるさと」を好んで歌います。駿河先生が唱歌ふるさとを「志を果たして、いつの日にか帰らん」と歌っている時、ご自分の故郷・金沢だけでなく「天のふるさ」との情景を思い浮かべているようです。

人生は旅です。この旅において、外なる人は衰えていきます。しかし内なる人は新しくなっていきます。「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言ってくださるイエス・キリストが私たちの内におられ、一緒に旅をしてくださります。 そして、私たちの旅の終着点は「天のふるさと」です。そこは、地上よりさらにまさった場であり、死も悲しみも嘆きも労苦もないところです。その「天のふるさと」に、いつの日にか帰らん。その希望を胸に抱きながら、私達も「地上の旅路」を心軽やかに前に進もうではありませんか。

関智征牧師

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2022年06月28日

7月第1主日礼拝

       7月 3日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”いつの日にか帰らん ―天の故郷―”    関智征牧師
聖  書  ヘブライ人への手紙11:13〜16(新約p.451)
讃 美 歌  27、126、490、401(@C)、旧312、89
交読詩篇  詩篇33:4〜11(p.38)

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2022年06月27日

吐く息、吸う息、神の息【第二コリント13:11〜12】

パウロは教会にあてた手紙の終わりにしばしば「聖なる口づけを交わしなさい」と勧めます。この「聖なる口づけ」とは何でしょうか。カトリック教会では、それを「コン・スピラティオ」と呼んできたそうです。「コン」は「一緒に」、「スピラティオ」はスピリットです。直訳すれば、『霊を一緒に』という意味です。このスピリットは一般には霊と訳されますが、旧約聖書のヘブル語では「霊」という言葉は「息」とも、「風」とも訳せる言葉ですから「一緒に息をする」「共に息を吸い合う」という意味にもなります。

私たちが口から吐く息は清らかなものでも、すがすがしいものでもありません。今、コロナ禍でマスクの中で感じる自分の息は生臭く、それを吸いたいとは思いません。まして他人の吐く息を吸いたいなどとは思いません。 しかし、わたしたちが悩みや苦しみや罪と共に吐き出すその息を吸ってくれる人がいること、そして私たちも他人の吐く息を吸うこと、それがコン・スピラティオ、「聖なる口づけ」なのです。キリストが聖霊(聖なる息)の姿で私たちの息を共に吸ってくださっているからです。

瀬戸内海にあるハンセン病療養所での長年伝道に生涯を捧げた河野進牧師の詩に「天のおとうさま、どんな不幸を吸っても、吐く息は感謝でありますように。 すべては恵みの呼吸ですから」というのがあります。ハンセン病で人生を苦しみの中で生きてきた人々の吐く息を隣にいて吸い続けてきた人です。しかし、そのすった息を感謝として吐き出す方でした。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(テサロニケの信徒への手紙二、5:16〜18) 吸う息も、吐く息も、神の与えてくださる神の息です。教会はこの神の霊(息)を吸うことによって生かされ、神の霊(息)を感謝として吐くことによって教会となって行くのです。

上林順一郎牧師

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2022年06月21日

6月第4主日礼拝

       6月 26日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”吐く息、吸う息、神の息”    上林順一郎牧師
聖  書  コリント信徒への手紙二(新約p.341)
讃 美 歌  27、92、490、539、348、88
交読詩篇  詩篇122:1〜9(p.146)

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2022年06月14日

6月第3主日礼拝

       6月 19日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”壺を壊して”    秋葉正二牧師
聖  書  マルコによる福音書14:3〜9(新約p.90)
讃 美 歌  27、92、490、406(@D)、419、88
交読詩篇  詩篇122:1〜4(p.146)

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2022年06月13日

そのタンポポのままで【マタイ6:25〜34】

今、多くの人たちが人間関係で悩んでいます。人間関係のもつれが私たちの首を絞めているといってよいと思います。主イエスは「思い悩むな」と仰せになりましたが、そう言われたらますます悩むのが私たちの性分ではないでしょうか。そんな思いをふっ切りたい、断ち切りたいと思っても、次々と心配事が出てきてしまう私たちです。

主イエスはこのように言われました。 「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(27節)。私たちは厳しく、過酷な世界に生きています。私たちの人生は自分一人で歩んでいくことはできず、人と関わり合って歩む他ないのです。神は私たちを守り、その人生に絶えず働き続けてくださっています。小鳥たちよりも野の花よりも、神はご自分に似せてお造りになった皆さんを大切に思っておられるのです。

あるカトリック司祭の著作にこういうエピソードが紹介されてありました。

自分の家ほどの立派な庭はどこにもないと自負している人がいました。けれども芝生の間からタンポポがたくさん生えてきます。タンポポに栄養を取られてしまうと芝生がうまく育ちません。その人は懸命にタンポポを抜こうとしましたが途中で根が切れてしまいます。またタンポポは次々に生えてきます。今度は除草剤を撒きましたが、タンポポだけを除くことができません。そこでこの男は植物の専門家に手紙を書き、「どうしたらタンポポを絶滅させることが出来るでしょうか」と訊きました。返事にはこうありました。

「そのタンポポを愛してみてはどうですか」。

この世界の多くの人は、考えの違う者を排除し、自分のカラーと違う者を受け容れようとはしません。それによって多くの人が傷ついています。神がお造りになったこの世界を暗く、悲しいものにしてしまってよいのでしょうか。今日、私たちは神から愛されている者たちであることを心に刻みたいのです。

中村吉基牧師

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2022年06月07日

6月第2主日礼拝(子どもの日・花の日)

       6月 12日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”そのタンポポのままで”    中村吉基牧師
聖  書  マタイによる福音書6:25〜34(新約p.10)
讃 美 歌  27、92、62、こ93、こ140、88
交読文  こどもの日・花の日に

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2022年05月31日

6月第1主日礼拝(ペンテコステ)

       6月 5日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”預言者と祭司”    塩谷直也牧師
聖  書  列王記上22:1〜9(旧約p.572)、使徒言行録1:8(新約p.213)
讃 美 歌  27、92、490、346、342(BC)、72、88
交読詩篇  詩編 122編1〜9節(p.146)

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2022年05月24日

5月第5主日礼拝

       5月 29日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”自己を中心に愛を叫ぶ”    伊藤義経牧師
聖  書  マルコによる福音書11:12〜14、19〜25(新約p.84)
讃 美 歌  27、340、490、336、484、29
交読詩篇  詩編 23編1〜6節(p.29)

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2022年05月23日

わたしたちの理解【ヨハネ16:12-24】

過越祭の前、弟子たちが集められ、イエスが語られた場面であります。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」これは新しい掟として話されました。他にも多くの言葉を遺されますが、それは全て、イエスご自身がおられなくなった時の弟子たちへの備えとして語られたのでした。しかし弟子たちは、経験もない出来事を言われ、何がどうなるのかさっぱりわからない様子であったため、イエスは「言いたいことはまだたくさんあるが、今あなたがたには理解できない」と述べるに至ります。

本日の聖書箇所である16章では、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」と言われます。弟子たちは、「見ないようになるが、またしばらくすると見るようになる」とはいったいどういうことか?と議論をはじめます。目の前でイエスを体験し、長く共に過ごした弟子でさえ、迷い悩むのです。むしろ現実に見ていたからこそ、目の前のこの姿が全てであったのかもしれません。私たちはその後の展開も聖書を読み知っています。しかし何度礼拝説教を聞き、聖書研究会で学んでも、主観的な受け止めであったり、覚えているのは一部分であったりします。やはり人間は、繰り返し神の言葉に出会う瞬間が必要なのだと思います。なぜなら、人間は忘れる存在だからです。そして理解の中心が自分になってしまいがちです。「あなたがたがわたしを選んだのではない、わたしがあなたがたを選んだ。互いに愛し合いなさい。」というイエスの言葉を知っています。それでも「神よ」と祈りながら、人と人との間で、神による愛を分かち合えず、どこかで人を裁いている自分がいるのではないかと、わたしたちは自分自身をよく見極める必要があります。

神が、苦しみを味わうことを知っていながらもイエスを送り、私たちを愛し、今も聖霊というかたちで無条件につながってくださることを心に刻みながら、互いに助け合い、祈りつつ、神に何度でも問い続け、喜びで満たされる日を求めて生きたいと願っています。

岡崎菜佳子牧師

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