2019年05月26日

黒いペンテコステ

1.告発歌曲

クラシック音楽ファンならば、エドワード・エルガー、マイケル・ティペット、ベンジャミン・ブリテン等の20世紀英国を代表する作曲家の名前は知っているはずです。

エルガーと言えば、行進曲「威風堂々」(Pomp and Circumstance)、アニメやドラマになった『のだめカンタービレ』に使用された「ヴァイオリン・ソナタ ホ短調」、ピアノの発表会で弾かれることも多い「愛の挨拶」(Salut d’amour)で知られています。また、ブリテンと言えば、「青少年のための管弦楽入門」(The Young Person’s Guide to the Orchestra)、能の「隅田川」を翻案した歌劇「カーリュー・リヴァー」(Curlew River)、圧倒的なスケールの「戦争レクイエム」(War Requiem)が有名です。ティペットは、前者2人には知名度で及びませんが、ナチスのユダヤ人迫害に抗議して作曲されたオラトリオ「われらの時代の子」(A Child of Our Time)があります。

このエルガー、ティペット、ブリテンの後継者がピーター・マックスウェル・デイヴィス(1934〜2016)です。彼の作品に「黒いペンテコステ」(Black Pentecost)という歌曲があるのです。メゾソプラノ+バリトンとオーケストラによる4部構成の作品です。マックスウェル・デイヴィスは音楽家として絶頂期にあった頃、ロンドンを離れて、スコットランドのオークニー諸島へ移住、終生そこに暮らしました。

マックスウェル・デイヴィスは、1979年、オークニー諸島出身の詩人にして作家、ジョージ・マッカイ・ブラウン(1921〜1996)と親交を結び、彼の『グリーンヴォー』(Greenvoe/「緑の入り江」とでも訳したら良いのでしょうか)という小説(1971年)をテクストにして、上記の歌曲を作曲しました。

2.環境汚染

この作品は、1960年代末から70年代の初め、英国の軍産複合体がオークニー諸島に「黒星作戦/Operation Black Star」というプロジェクト名で、巨大な石油コンビナートを建設した結果、深刻な環境汚染が引き起こされたことを告発したものです。私は「黒星作戦」のことは何も知らないのですが、想像するに、恐らく、北海油田の基地として建設されたのではないでしょうか。

マックスウェル・デイヴィスには、ウラン鉱山の採掘による環境汚染を、ミュージカル風に告発した「イエローケーキ」(Yellow Cake Revue)という作品もあります。英国の名女優、エレノア・ブロンが主役を演じたそうです。

「イエローケーキ」と言うと、「くまのプーさん」の「蜂蜜ケーキ」を思わせる美味しそうな名前ですが、実は、ウラン鉱石精製過程の濾過液から得られるウラン含有の高い粉末のことです。今年4月、東京都内の男子高校生が高性能爆薬「四硝酸エリスリトール/ETN」を製造、所持していたことで書類送検されました。「ETN」はプラスチック爆弾として知られる「ペンスリット」と似た爆薬です。しかも、彼はインターネットでウランを購入、精製した「イエローケーキ」をオークションサイトに出品していたのです。昨年8月、19歳の大学生が高性能爆薬「過酸化アセトン/APEX」を作って検挙されたのですが、その関連で、今年に入ってから「イエローケーキ」高校生も書類送検されたのです。驚くべきことに、高校生が放射性物質を製造販売していたのです。

因みに「過酸化アセトン」は「サタンの母/Mother of Satan」とも呼ばれ、各地のテロ事件(2015年パリ、16年ブリュッセル、17年マンチェスター:アリアナ・グランデのコンサート、19年復活日のスリランカ等)に使用されています。

さて、マッカイ・ブラウンの詩「黒い天使たち/Black Angels」の最後に「黒いペンテコステ/Black Pentecost」という語が出て来るのです。「今こそ、凍える天使たちよ/黒いペンテコステの狂騒と燃え殻から/谷間を守り給え」。原詩は「Now,cold angels,/keep the valley from the bedlam and cinders of a Black Pentecost」となっています。

ペンテコステのイメージカラーは「炎の舌」の赤です。もしくは、聖霊による洗礼の白です。米国では、ペンテコステを「Whitsunday/ホイットサンディ」と言います。「ホワイト・サンディ/白い日曜日」のことです。特に浸礼(全身ドブンッと洗礼槽に漬かる)の伝統を守る教会において、ペンテコステに受洗志願者たちが「白い衣」を着て、式に臨んだことから来ているのです。そうしてみると、「黒いペンテコステ」の黒は、重油による海洋汚染を示すことで、神の創造された自然を汚す人間たちの欲望を告発していることが分かります。

3.聖霊冒瀆

「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」(マルコによる福音書3章28〜29節)。「マタイによる福音書」の並行文では「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」と付け加えられています。また「ルカによる福音書」12章10節には「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されない」と言われています。

イエスさまの悪口を言う者ですら赦されるが、聖霊に対する冒瀆(悪口、呪い、誹謗中傷、侮辱、汚し)は赦されないと、主は仰るのです。勿論、聖霊を自己目的(商売、組織拡大)に利用しようとする輩などは一溜まりもありません。

どうして聖霊の冒瀆は赦されないのか、私たち人間には分かりません。ただ、何となく、ペンテコステを迎えるに当たり、「黒いペンテコステ」の楽曲を思い出したのです。そして、この世には、赦されない罪というものも確かにあるのでは無いかと思ったのでした。

牧師 朝日研一朗

【2019年6月の月報より】

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2019年04月28日

炎と怒りの時代に

1.神殿と商人

今年の4月15〜16日、パリのノートルダム大聖堂で大規模な火災が発生し、中央の木造部分から大きな炎が上がり、無残に尖塔が焼け落ちました。丁度「受難週」(カトリックでは「聖週間」)の始まった翌日の事件でもあり、符牒めいた何かが感じられました。

古来「受難週」には、それぞれの日に読むべき聖書記事というものが決められています。それによると、日曜日(棕梠の主日)には「エルサレム入城」、月曜日は「宮清め」、火曜日は「終末の預言」、水曜日は「ベタニアでの塗油、ユダの裏切り」、木曜日(洗足木曜日)は「最後の晩餐、ゲツセマネ、捕縛と審問」、金曜日(受難日)は「ピラトの審問、ユダの死、十字架、埋葬」と成っているのです。

大聖堂に火の手が上がった月曜日は、イエスさまが「神殿から商人を追い出す」場面です。「『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった」と、「イザヤ書」56章7節を引用しながら、神殿の境内に陣取った両替商や鳩売りの屋台を蹴り飛ばしての大暴れです。

ノートルダム大聖堂は、年間1300万人もの観光客が訪れる、パリ屈指の名所です。大聖堂再建のための寄付の呼び掛けが始まるや、1週間足らずで、8億5千万ユーロ(約1070億円)もの寄付金が集まりました(4月22日現在)。ルイ・ヴィトンやディオール等を傘下に置くLVMHグループ、グッチ等を有するケリング社、石油会社トタル、保険会社アクサ、BNPパリバ(銀行)のオーナー株主、大富豪が巨額の寄付をしたようです。更には、米国のIT大手アップル社、ディズニー等も協力を申し出ているそうです。

これに対して、国内から不協和音が響いています。貧困問題には何の関心も示さない大富豪たちが、僅か一晩で何億ユーロもの巨額の資金を拠出する事を見せ付けたと言うのです。富の不平等な分配に抗議し、低所得者層の困窮を訴える「黄色いベスト/ジレ・ジョーヌ」の運動の記憶も生々しい中、時を置かずに、こういう現実が露骨に表面化すると、確かに何とも言えない複雑な気持ちに成ります。

2.教会と爆弾

大聖堂は翌朝まで燃え続けました。「受難週」の火曜日は、イエスさまの語られた譬え話、律法学者やファリサイ派との論争、終末の預言を読む日です。

特に「マタイによる福音書」23〜24章には、「小黙示録」と呼ばれるような終末預言が纏められています。「エルサレムのために嘆く」(23章37節〜39節)、「神殿の崩壊を予告する」(24章1〜2節)、「終末の徴」(3〜14節)、「大きな苦難を予告する」(15〜28節)、「人の子が来る」(29〜31節)、「いちじくの木の教え」(32〜35節)、「目を覚ましていなさい」(36〜44節)と続き、「これでもか!」と言うくらいです。

「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」(24章7〜12節)。

すると、4月21日、イースターの朝、スリランカで連続爆破テロ事件が発生してしまいました。3百人以上の死者、4百人以上の負傷者を出しました。爆弾テロの標的と成ったのは、外国人の利用が多い高級ホテルと共に、3つの教会でした。首都コロンボの「聖アンソニー教会」、その北にあるニゴンボの「聖セバスティアン教会」、この西海岸の2つはローマ・カトリック教会でした。東海岸、バッティカロアの「ザイオン教会」は、プロテスタント福音派「ライトハウス」の流れを汲む教会のようです。

2016年12月、カイロの聖ペトロ教会(コプト教会の司教座の置かれた聖マルコ大聖堂に隣接する)では、自爆テロにより25人が死亡、49人が負傷しています。翌2017年4月9日には、タンタの聖ゲオルギウス教会、アレクサンドリアの聖マルコ教会において、45人が死亡、130人以上が負傷しています。イースター1週前の「棕梠の主日」(東方教会では「聖枝祭」)を狙ったテロでした。いずれも「ISIL/アイシル/イスラム国」系の組織による犯行だったようで、決行時期や方法を見ると、今回の事件の雛形のように思われます。

3.不安と覚悟

ノートルダム大聖堂の火災、スリランカの教会に対する自爆テロ、この2つの出来事には直接の関係はありません。けれども、敵対や憎しみや不法の連鎖、宗教施設を利用して商売をする者、宗教対立を利用して敵愾心を煽る偽預言者、愛と寛容の消滅などという、極めて現代的な要素が共通して両者に混在しているように思うのです。

「イザヤ書」66章15節に「見よ、主は火と共に来られる。/主の戦車はつむじ風のように来る。/怒りと共に憤りを/叱咤と共に火と炎を送られる」という預言があります。ドナルド・トランプ大統領の暴露本、『炎と怒り/トランプ政権の内幕』(Fire and Fury: Inside the Trump White House)の題名の出典です。書名の「炎と怒り」の「怒り」は、トランプの制御不能な情緒不安定ぶりを、「炎」は米国の強大な軍事力を表現しています。強大な軍事力(核兵器や細菌兵器を含む)を動かすことの出来る超大国のトップが、歴史上かつて無い程に、情緒不安定で独善的な人物であるという事実は、それ自体が一種のホラーです。

今日、経済や政治、軍事や宗教、テクノロジーや社会制度など、私たちの周りを見ても、不安定な要因が増しているように思います。しかし、こんな邪な時代であれば尚の事、私たちは、覚悟と諦念をもって、キリストの愛を表わして行かなくてはなりません。

牧師 朝日研一朗

【2019年5月の月報より】

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2019年04月21日

平和を食べる人は幸せか?

彼女(結城アンナ)と彼女の妹?(小学生)が無邪気に踊りながら、「わたし作る人」と言います。テーブルで待っているボーイフレンド(佐藤佑介)が笑顔で「ボク食べる人」と言います。最後に、三人並んで出来立てのラーメンを食べるのでした。一九七五年、ハウス食品の「シャンメン醤油味」(インスタントラーメン)のテレビ広告です。その当時、「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」から、性的役割分業を固定化する性差別的表現として叩かれたものです。

イエスさまの「山上の説教」の巻頭に置かれている「八福の教え」「真福八端」(ラテン語では「ベアーティテュードー/Beatitudo」と言います)、その七番目の祝福は「平和を実現する人々は、幸いである」です(「マタイによる福音書」五章九節)。むしろ、少し直訳的に「平和をつくり出す人たちは…」「平和をつくる者は…」と訳した方が良いと思います。ギリシア語の「エイレーノポイオス/仲介者、調停者」それ自体が「エイレーネー/平和」と「ポイエオー/つくる、生み出す、創造する」の合成語だからです。

どの翻訳聖書も「つくる」という動詞に力点を置いています。ラテン語訳「ウルガタ聖書」は、平和を「フィンゴー/造り上げる、創造する」人、ドイツ語訳「チューリヒ聖書」は、平和を「フェルティゲン/製造する」人です。フランス語訳「エルサレム聖書」に至っては平和の「アルチザン/職人、熟練工」としています。

多くの英訳聖書では「平和をつくる人」は「ピースメーカー」と訳されます。そこから拝借して、(西部劇でお馴染み)コルト社の45口径6連発回転式拳銃「SAA/シングル・アクション・アーミー」の通称、冷戦時代のコンヴェア社の戦略爆撃機(六発)「B-36」の愛称として使われているのは、何とも皮肉な話です。北米大陸への植民者が圧倒的な武力を用いて彼らの平和を作って来た歴史(卑怯な「飛び道具」から無差別攻撃を意味する「戦略爆撃」に至るまで)を思わされます。

そして改めて「平和をつくる」とは、一体どんなことなのだろうかと考えた時、自然と「わたし作る人、ボク食べる人」という往年のキャッチコピーが思い出されたのです。イエスさまは「平和をつくる人たち」を祝福されましたが、祝福の裏には、必ず呪詛があることを忘れてはなりません。「平和を食べる人たち」「平和を貪る人たち」もいるはずです。もしかしたら、私たちは、したり顔で「平和の尊さ」等を説きながら、その実、自分たちの平和と安逸を貪っているだけなのではないでしょうか。

今と成っては、笑顔で「ボク食べる人」と言って、テーブルで待っているだけの男の子など、如何にも幼稚で依存的にしか見えません。佐藤佑介は「脆弱な美少年」キャラ(『恋は緑の風の中』『スプーン一杯の幸せ』)だったのですが、まさか、私たちに、そんな態度が許されるはずはありません。況して、私たちがイエスさまから召し出されている使命は「ラーメンを作ること」ではなくて「平和をつくること」なのですから。私たちには、身近な所から、人と人とを和解させる務めが与えられているのです。


【会報「行人坂」No.258 2019年4月発行より】

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2019年02月24日

アキレスと亀

1.クドカンは韋駄天

私は毎週、NHKの大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』を楽しみに観ています。しかしながら、何でも、前作『西郷どん/SEGODON』を超えるワースト低視聴率を記録していると聞きます。「どうして!?」「クドカン(宮藤官九郎)の脚本は、こんなに面白いのに!?」「VFX(特撮による視覚効果)で再現された明治の東京の風景も、こんなに美しいのに!?」「これだけの豪華キャストなのに!?」「音楽(大友良英)も、タイトルデザイン(山口晃)も、題字(横尾忠則)も、こんなに凄いのに!?」と、私が独りで喚いているのを、家族は冷ややかな眼差しで見詰めています。

連ドラ『あまちゃん』とカブる楽屋落ちキャスト(杉本哲太、平泉成、橋本愛、小泉今日子、荒川良々、ピエール瀧)が要所に配してあるのも愉快です。古今亭志ん生(ビートたけし)の内儀、りんの役で(志ん生の実の孫)池波志乃が出ていたりするのも粋な計らいです。森山未來、パンクバンド「銀杏BOYS」の峯田和伸、劇団「大人計画」の松尾スズキ、岩松了、田口トモロヲというコアな脇役(何と姜尚中まで登場!)、誰も彼もキャラが立っています。若い女性視聴者への目配せもあるものの(生田斗真、松坂桃李、星野源、神木隆之介)、結果的には、玄人好みに走り過ぎているのでしょう。

妻が家事をしながら台詞だけを耳で聞いていて「お芝居を観ているみたいね」と漏らしていました。結局、低視聴率の原因はこれに尽きるのか…。恐らく、クドカンは突っ走り過ぎて、マニアではない普通の人を置き去りにしているのでしょう。その意味で、クドカンこそは文字通り、現代の日本エンタメ界の「韋駄天」であることは間違いありません。

2.大森兵蔵と安仁子

さて、東京高等師範校長(にして講道館館長)嘉納治五郎(役所広司)に協力して、「大日本体育協会」を運営しているのが、大森兵蔵(おおもりひょうぞう)(竹野内豊)と安仁子(シャーロット・ケイト・フォックス)の夫妻です。ドラマの中では、アメリカ帰りの兵蔵が思わず英語を口走り、安仁子が日本語に翻訳し直すという、まるでコントを見ているような、頓珍漢な場面が頻発します。

ドラマの主人公、金栗四三(かなくりしそう)(中村勘九郎)のストックホルム五輪出場が決まるや、安仁子が英会話とマナーの特訓をするのですが、四三を「フォーティスリー!/Forty-Three!」と呼び、東京高師助教授の可児徳(かにいさお)(古舘寛治)を「ミスター・クラブ!/Mr.Crab!」と呼ぶのです。古舘の顔が本当に「蟹」のように見え始めます。

大森兵蔵は日本初のオリンピック代表チームの監督となります。彼は同志社普通校(同志社大学)、東京商業学校(一橋大学)を中退して渡米、スタンフォード大学、国際YMCAトレーニングスクールを卒業して、東京YMCA初代体育主事となった人物です。バスケットボールとバレーボールを日本に導入したのも大森です(因みに、可児徳はドッヂボールを日本に導入した人物です)。

大森安仁子こと、アニー・シェプリーは兵蔵と結婚した時、既に50歳で、兵蔵は19歳も年下でした(Ch・K・フォックスは若くて綺麗過ぎです)。ドラマの中でも、永井道明(ながいどうめい)(杉本哲太)と可児徳の二人が、「あの出しゃばり女め!」「何でも兵蔵はあの女のハウスボーイだったらしいですよ」「ハウスボーイって何だ?」「小僧ですよ!」「道理で尻に敷かれているはずだよな!」と陰口を叩く場面があります。ところが何と、衝立(ついたて)の向こうには大森夫妻がいて、何もかも筒抜けだったのです。冷や汗を流す二人に、安仁子が憎々しげな表情で「何にも、聞こえませんでした!」と怒鳴る所は抱腹絶倒の名場面でした(この時、兵蔵が咳き込んでいるのは、後々の伏線です)。

大森夫妻は私財を投じて、貧困のため学ぶことの出来ない子どもたちのための教育と生活文化向上のための施設「有憐園」を、淀橋区柏木(現・西新宿8丁目)に開設します。日本のセツルメント事業の草分けです。

大森夫妻はクリスチャンでしたが、欧米の信仰や文化を一方的に押し付ける人たちでは無かったようです。ですから、兵蔵が英語を口走るとか、安仁子のマナー教室に四三が疲れ果てるとか、それは飽く迄、コントのネタです。何しろ、安仁子は日本文化にも造詣が深く、64歳の時には「紫式部日記」「和泉式部日記」「更級日記」を併せて英訳し(土居光知と共訳)、それは後に米国で出版されているのです(「Diaries of Court Ladies of Old Japan」)。

3.日本の走るコース

「韋駄天」はヒンドゥー教の軍神「スカンダ/Skanda」が仏教に入って来たものです。スカンダは常に雷神インドラをライバル視していて、決着をつけるため、二人はカイラス山の周りを走って競争するのです。恐らく、この話から「足の速い人」のことを「韋駄天」と呼ぶように成ったのでしょう。

西洋で「韋駄天」と言えば、ギリシア神話の「アキレウス/Achilleus」でしょうか。トロイア戦争の形勢を逆転させた英雄ですが、弱点の踵(かかと)を、敵将パリスの弓で射抜かれて(アキレス腱)、壮烈な戦死を遂げます。そこで思い出されるのが「アキレスと亀」というゼノンのパラドックスです。この世で最も歩みの遅い亀と、最も速いアキレスが徒競走をするのですが、ハンデを貰って先の地点から出発した亀を、アキレスは永遠に追い抜くことが出来ないという数学上のパラドックスです。

アキレスでは無いにせよ、猛ダッシュで西欧文明に追い付こうとした明治日本、戦後日本ですが、未だに追い付けないでいるように思います。何だか、私たちは当初から、自分の走るべきコース(走路)を間違えてしまっていたような気がしてならないのです。

牧師 朝日研一朗

【2019年3月の月報より】

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2019年01月27日

感じて、漢字の世界

1.珍妙な当て字

子どもの頃、新聞記事の見出しに「米軍」という文字があるのを(ベトナム戦争の戦況を伝えていたのでしょう)見て、父親に尋ねたことがあります。「アメリカ人はパン食で、米を食べないのに、どうして「米軍」なの?」。勿論、すぐに父は「アメリカ」の漢字音写「亜米利加」の「米」であることを教えてくれました。

ところが、私も子どもながら簡単には引き下がりません。「それじゃあ、どうして頭文字の「亜」では無いの?」。父が答えます。「他にも「亜弗利加/アフリカ」や「亜拉比亜/アラビア」や「亜爾然丁/アルゼンチン」があるからだ」。私は更に重ねて「フランス人は仏教徒ではなくて、大半はキリスト教徒なのに、どうして「仏」等という文字が当ててあるの?」と尋ねたのでした。父の答えは「音写は適当に近い音の漢字を当てているので、特に深い意味内容は無いのだ」ということでした。父は大学での専攻が人文地理学だったので、こういう話はお得意だったのです。

しかし、相変わらず、その後も、私の頭の中には「米飯給食のアメリカ(亜米利加)軍」「仏像のように螺髪になったフランス(仏蘭西)人」「ハミ子のドイツ(独逸)人」「チューリップならぬ胡蝶蘭を手にしたオランダ(阿蘭陀)人」「土まみれのトルコ(土耳古)人」「埃まみれのエジプト(埃及)人」「いつも素っ裸で歩くロシア(露西亜)人」「ワインに悪酔いしたポルトガル(葡萄牙)人」「インスタント縮れ麺を食べるビルマ(緬甸)人」等が徘徊することになったのでした。

そう言えば、何年か前、八王子在住のドイツ人の漢字研究家が祖国「ドイツ」に「独」の漢字を当てるのは「不愉快だから止めて欲しい」と訴えている新聞記事を読んだことがあります。「獣偏」を使っている所に差別意識が伺えるとのことでした。その関連で言うと「ユダヤ」も「猶太」と書きましたね。「猶」は、猿の一種で疑い深い性質なので「疑う、躊躇う」の意味があるそうです。こっちの方が余程、問題です。

2.映画と当て字

長じて映画ファンに成った私は、戦前の映画を好んで観るように成りました。そしたらあるわあるわ、読めない漢字の外国映画の題名…。まあ、『聖林(ハリウッド)ホテル』に『巴里(パリ)祭』くらいは、誰でも読めるでしょう。

リア・デ・プティのハリウッド進出第1作のヴァンプ物『神我に二十仙(セント)を給ふ』、英国のスパイ映画『空襲と毒瓦斯(ガス)』、ジャネット・マクドナルドの歌も有名な、災害スペクタクル映画『桑港(サンフランシスコ)』、社会諷刺劇『市俄古(シカゴ)』、怪人フー・マンチュウの『成吉斯汗(ジンギスカン)の仮面』、マルレーネ・ディートリッヒ主演の『西班牙(スペイン)狂想曲』、恋愛喜劇の『大紐育(ニューヨーク)』、青春の思い出を描く名作『たそがれの維納(ウィーン)』…。『桃源郷』に「テュランドット」、『胡椒娘』に「パプリカ」とルビを振るに至っては、もはや完全な遊び心です。

「ハリウッド」に「聖林」の漢字を当てたのは「Hollywood」の「holly/柊」を「holy/聖なる」と読み違えたことから来ているのですが、映画の都、即ち、映画ファンにとっての「聖地」という意味で、今でも日本では「ハリウッド」=「聖林」が通用してしまうのですから馬鹿に出来たものではありません。

『七年目の浮気』の香港版のポスターを見た時に、主演女優が「瑪麗蓮・梦露」と成っていたのにも感動しました。言うまでもありません、マリリン・モンローです。「瑪瑙(めのう)」や「睡蓮」のように「麗しく」、「梦(夢)」のような美女で、少し「露出」あります…みたいな…。面白すぎる。

他にも挙げて置きます。エリザベス・テイラーは「伊莉沙白・泰勒」、ソフィア・ローレンは「蘇菲亞・羅蘭」、ブリジット・バルドーは「碧姫・芭社」、グレイス・ケリーは「格蕾絲・凱利」、エヴァ・ガードナーは「愛娃・嘉コ納」、キャサリン・ヘップバーンは「凱瑟琳・赫本」、オードリー・ヘップバーンは「奥黛麗・赫本」です。漢字を見ると発情してしまいそうです。

3.聖書と当て字

礼拝のメッセージや聖書研究の準備などをしていて、疲れた時には、私は中国語訳聖書を開くようにしています。「和合本/Chinese Union Version」という、中国語圏で最も普及している翻訳聖書です。

中国語訳聖書の何が面白いかと言って、やはり、固有名詞の当て字です。「伊甸園/エデンの園」、「亞當/アダム」と「夏娃/エバ」、「該隠/カイン」と「亞伯/アベル」、洪水と来たら「挪亞/ノア」、族長は「亞伯拉罕/アブラハム」「以撤/イサク」「雅各/ヤコブ」。エジプトからカナンへ「約瑟/ヨセフ」「摩西/モーセ」「約書亞/ヨシュア」「參孫/サムソン」。王様は「大衛/ダビデ」「所羅門/ソロモン」。預言者は「以利亞/エリヤ」「以利沙/エリシャ」に「以賽亞/イザヤ」「耶利米亞/エレミヤ」「以西結/エゼキエル」…。

女性の名前を補充しましょう。「撤拉/サラ」「利百加/リベカ」「利亞/レア」「拉結/ラケル」「她瑪/タマル」「米利暗/ミリアム」「大利拉/デリラ」「路得/ルツ」「拔示巴/バトシェバ」「耶洗別/イゼベル」「以斯帖/エステル」…。

新約に移って、「耶穌基督/イエス・キリスト」は言うに及ばず、「馬利亞/マリア」「希律/ヘロデ」「約翰/ヨハネ」「撤但/サタン」「拿撤勒/ナザレ」「西門・彼得/シモン・ペトロ」「法利賽/ファリサイ」「耶路撤冷/エルサレム」「本丟・彼拉多/ポンティオ・ピラト」「巴拉巴/バラバ」「各各多/ゴルゴタ」「抹大拉的馬利亞/マグダラのマリア」「保羅/パウロ」。福音書記者は「馬太/マタイ」「馬可/マルコ」「路加/ルカ」です。

牧師 朝日研一朗

【2019年2月の月報より】

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2018年12月30日

新しい時をめざし

1.大アルカナ

荒木飛呂彦の人気マンガ『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズには、ディオ・ブランドーという強烈な悪役が登場します。彼は己の野望を遂げるために、自ら「石仮面」を被り、吸血鬼と成る道を選びます。更には、魔女エンヤ婆によって「スタンド/Stand/幽波紋」と呼ばれる超能力を手に入れるのでした。「スタンド」とは、能力者(術者)が自由に操ることの出来る守護霊のような存在です。

第3部では「DIO」という名前で、大勢の「スタンド使い」を手下に加えて、世界を支配しようとしています。このDIOが操るのが「世界(ザ・ワールド)」というスタンドです。時間を停止させた上で、敵を自由に攻撃する事が出来るのです。そして、DIOがスタンドを発動させる時、「『世界(ザ・ワールド)』ッ! 時よ止まれ!」と叫びます。そして、彼が「時は動き出す」と呟いた時には、既に敵は死んでいる訳です。

「世界/ザ・ワールド」とは、タロットカードの「大アルカナ」第22番目のカードです。カード番号は0から始まりますので、「]]T」と表示されていますが、実際には22番目なのです。「大アルカナ」はヘブライ語のアルファベット22文字に対応するとされています。最終カードですから「ターウ」に該当します。「成就、完成、総合、完璧」等の意味があります。ギリシア語なら「オメガ/Ω」(「わたしはアルファであり、オメガである」)、英語なら「ゼット/Z」(『ウルトラマン』の「ゼットン」、『マジンガーZ』、『ドラゴンボールZ』、『ワールド・ウォーZ』)です。

2.時よ止まれ

「時よ止まれ!」という宣言は、恐らく、ゲーテの戯曲『ファウスト』の禁句から来ているのでしょう。この世に絶望したファウストの前に、悪魔メフィストフェレスが現われて、契約を交わします。

(メフィストフェレス)「どうです、手を打ちませんか。/御契約をなさいませんか、あなたがこの世にある限りは/わたしの術でたんと面白い目を見せて差し上げます。/まだ人間が見たこともないような面白いものをね」。(ファウスト)「己がある刹那に向かって、『とまれ/お前は本当に美しい』といったら/己はお前に存分に料理されていい。/己はよろこんで滅んで行く。/そうしたら葬式の鐘が鳴るがいい/その時は君の奉公も終るのだ。/時計が停り、針も落ちるがいい。/己のすべては終るのだ」(高橋義孝訳)。

「とまれ、お前は本当に美しい/Verweile doch! Du bist so schön」。「この瞬間よ止まれ、汝は如何にも美しい」とか「時よ止まれ、君は美しい」等、訳し方は色々ですが、要するに「それを言っちゃあ、おしめぇよ」です。禁じ手だけに強烈な力のある呪文(ファウストにとっては自己呪詛)と成っているのです。

さて、マンガの世界と違って、私たちには「時を止める」ことは出来ません。旧約聖書の「列王記下」20章(もしくは「イザヤ書」38章の並行記事)には、神さまが「日時計に落ちた影を、十度後戻りさせ」て、つまり、時を巻き戻して、ヒゼキヤ王の病を癒して寿命を延ばす徴としたというエピソードがあります。しかし、神ならぬ人の身である私たちには、勿論、時間を巻き戻すことも出来ません。

しかし、一つだけ出来ることがあります。新しく出発することです。元日に新年の抱負を語り合ったり、その決意を書初めにしたりするのも、再出発のチャンスとするためです。初夢にその年の運勢が表われると言ってみたり、初詣に行った人たちが御神籤を引いてみたりするのも、仕切り直しでしょうか。日本で「正月三が日」を休んでいるのは、仕事を休むことで、象徴的に「時を止める」宗教的な儀礼なのかも知れません。

3.新しい時を

古今東西、新年は大きな節目とされて来ましたが、毎日を新しい日として受け止めることも出来ると思います。例えば、古代エジプトでは、1日は夜明けと共に始まるとされていました。日本と同じです。ところが、メソポタミアでは、1日は夕方から始まったのです。ギリシアでは、1日は日没から日没までとされていました。ローマでは、現在と同じく夜半から1日の時間経過を考えていました。このように国や文化、宗教によって「始まり」の感覚は違うのです。

旧約聖書でも幾つかの文脈では、1日が朝から始まったとする表現があります。しかしながら、比較的後期の文書では、1日は日没から日没までとしているのです。そして、ユダヤ教では1日を日没から考えるように成りました。旧約聖書の中ですら、異なる考え方があったということです。

ともかく、毎日毎日を新しく生きることが望ましいのですが、残念ながら「日日是好日」として「日々新たにされて」生きるのは、案外と難しいことなのです。

そこで1週間ごとに「新たにされて」出発しようというのが「主日礼拝」を守る習慣です。古代のクリスチャンたちは「週の初めの日」を「主の日/キュリアケー・ヘメラ、ヘーメラ・トゥ・キュリオゥ」として守りました。ラテン語で「Dies Domini/ディエース・ドミニ」と言いました。フランス語の「ディマーンシュ/dimanche」もイタリア語の「ドメニカ/doménica」もスペイン語の「ドミンゴ/domingo」も「ドミヌス/Dominus/主」という語が起源です。日曜日ごとに復活の主を礼拝し、日々の罪を赦され、思い煩いを取り払われ、イエスさまの慰めと励ましを頂いて、再出発することが出来るのです。

現代人は肉体の健康や美容にばかり目を奪われて、魂の健康と美容は疎かにしているように思います。新しい年、主日を守る生活をすることで、内面から輝こうではありませんか。

牧師 朝日研一朗

【2019年1月の月報より】

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2018年11月25日

いま来たりませ

1.安らぎと幸せ

2012年のNHK連ドラ『純と愛』は、宮古島で祖父が営んでいた「魔法の国」のようなホテルを再建しようと奮闘するヒロイン、純(夏菜)に、「人の心が見える」という不思議な能力を持つ青年、愛(いとし)(風間俊介)が絡んで来るドラマでした。

ヒロイン純が情緒不安定の上、相手役の愛も心の病気を抱えています。愛と母親(若村麻由美)との確執も見ていて辛くなる程です。更に、ヒロインの母親(森下愛子)は若年性アルツハイマーに成るわ、父親(武田鉄矢)は海で溺れて死んでしまうわ、純と愛は結婚するものの、愛は脳腫瘍で倒れて、昏睡状態のまま、ドラマが終了するわ、不幸の釣瓶落としのような、その展開は「朝ドラ」ではなく「深夜ドラ」でした。吉田羊や黒木華が一躍注目されたドラマですが、視聴率は振るわず、評判も芳しくありませんでした。今でも「トラウマ系連ドラ」の烙印を押されています。

このドラマは「オオサキプラザホテル」という大阪(北浜の辺りでしょうか)の格式あるホテルに、新入社員のヒロインが出社する所から始まりました。そのホテルのロビーには「PAX INTRATIBVS/SALVS EXEVNTIBVS」=「パクス・イントランティブス/サルース・エクセウンティブス」というモットーが掲げられていました。「訪れる者に安らぎを、去り行く者に幸せを」という意味です。社長役の舘ひろしが楽しそうに説明する場面があったように記憶します。それが唯一、心の和む場面でした。

2.誰もに祝福を

上記の碑文も、小文字なら「pax intrantibus,salus exeuntibus」と書きます。ラテン語の「U」と「V」、「I」と「J」は交換可能なのです。そもそも古代のラテン文字には小文字も無く、「J」「W」「U」の文字も無かったのです。だから、高級時計メーカー「ブルガリ」も気取って「BVLGARI」と銘打っているのでしょう。

1989年のスピルバーグ監督の『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』(Indiana Jones and the Last Crusade)のクライマックス、キリストの聖杯に至る第二の試練は「神の言葉を辿れ」という指示でした。石畳の床石には、アルファベットの文字が一文字ずつ彫ってあります。「『神の言葉』とは『神の名』だ!」と気付いたインディが、「ヤハウェ。いや、中世はエホバと呼んでいた!」と「JEHOVA」の文字石を踏もうとしますが、冒頭の「J」を踏んだ途端に石が崩れて危機一髪。インディは「IEHOVA」と踏み直して渡り切るのです。でも、よく考えてみたら、「古代から生き永らえている」という聖杯の騎士が守る神殿に「J」だの「W」だのの文字があるはずは無いでしょう。

さて、上記の碑文は、羽田空港第二ターミナルにもプレートとして掲げられていますが、本家本元は、南ドイツはバイエルン州ミッテルフランケン行政管区のローテンブルクの街の「シュピタール門/Spital Tor」に刻まれているそうです。「門」を意識して訳すなら「入るものには平安、出づる者に安泰」とでも言いましょうか。「シュピタール/Spi’tal」と言えば「ホスピタル/Hospital/病院、養老院、救貧院」の事です。とにかく、ローテンブルクの正式名称は「ローテンブルク・オプ・デル・タウバー/Rothenburg ob der Tauber/タウバー川を臨む丘の上のローテルブルク」で、「ブルク/Burg」と言うだけあって「城塞」都市だそうです。中世の街並みが綺麗に保存されていて、所謂「ロマンティック街道」の中でも一番人気、「中世の宝石箱」と呼ばれているとか…。

かの碑文との類似が指摘されているのは、旧約聖書「申命記」28章6節「あなたは入る時も祝福され、出て行く時も祝福される」です。また、ラテン語の成句には「住まう者(留まる者、滞在する者)に祝福を/Benedictio habitantibus/ベネディクティオー・ハビタンティブス」があります。訪れる者も去り行く者も、入る人も出る人も、そこに留まる人も祝福される。関わった人、誰もが全て祝福されるのです。それこそ「クリスマスの心」です。キリストの教会たる私たちも、このようにありたいものです。

3.救世主の到来

今年の10月24日、日本の「来訪神(らいほうじん)」の習俗が「ユネスコ無形文化遺産」に登録されました。秋田県牡鹿のナマハゲ、石川県能登のアマメハギ、鹿児島県甑島のトシドシ、沖縄県宮古島のパーントゥ他10件です。「来訪神」とは、年1回、決まった時期に、人間界を訪れる神で、豊穣と幸福をもたらす存在と考えられています。ですから、ナマハゲに脅された子どもが号泣しても、親は微笑んでいますし、パーントゥに異臭を放つ泥を塗られても、住民は楽しそうです。どの「来訪神」も仮面を付けています。仮面を付ける事で、演者は神の依り代に成っているのです。

実は、ヨーロッパにもオーストリアのペルヒタ、スイスのクロイセ、ドイツのベンデル等、真冬に仮面を付け、異形の妖精や悪魔の姿をした演者が、民を来訪する祭りがあるのです。そんな民俗がまた、見事にクリスマス、エピファニー、レント、イースター等の教会行事に織り込まれているのです。例えば、ペルヒタや黒いピート、クランプスやクネヒト・ルプレヒト等は、聖ニコラウスやシンタクラース(サンタクロースの原型)の従者として登場します。イタリアの魔女ベファーナはエピファニー(公現日)という語が訛って付けられた名前です。「来訪神」と言えば「三人の博士たち」も登場します。宗教改革をしたはずのルター教会が支配する地域ですら、クリストキント(幼子キリスト)という名前の妖精が深夜に訪れ、クリスマスツリーの下にプレゼントを置くと信じられています。

そして、イエス・キリストこそは、天から地上に送られた「来訪神」そのものです。何しろアドベント(待降節)とは「アドウェントゥス/adventus/到来」なのですから。

牧師 朝日研一朗

【2018年12月の月報より】

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2018年10月28日

喧嘩上等 Bring It On!

1.けんかえれじい

バザーの終わった翌日、NHK-BS「プレミアムシネマ」で、鈴木清順監督の『けんかえれじい』(1966年)が放映されていて、思わず見入ってしまいました。子どもの時に観た時には、何とも思わなかったことが、とても印象深く感じられるのです。

時代は昭和10年、南部麒六(高橋英樹)は、カトリック信者の家庭に下宿して、旧制第二岡山中学に通っていました。下宿の娘で岡山聖心の女学生の道子(浅野順子)に秘かに思いを寄せる優しい男の子です。日曜日には、道子と一緒にミサにも通っています。

ところが、麒六は「キリストと先輩の命令と、どちらが大切なんや」と、無理難題を押し付ける上級生を、思わず殴り飛ばしてしまいます。その場面を目撃したOBのスッポン(川津祐介)に喧嘩の才能を見出され、喧嘩の極意を教わるのです。実は、麒六の父親も、スッポンもまた、カトリック信者なのです。

喧嘩修行の後は、師匠の勧めで、第二中学の硬派団体「OSMS(オスムス)団」(「岡山セカンド・ミドル・スクール」の略称だそうな)に入団して、喧嘩の実践を積み、忽ち「喧嘩キロク」と仇名され、副団長にまで上り詰めます。ところが、軍事教練の教官に楯突いたことから、岡山を出奔する事に成るのでした。ここまでが前半です。

会津若松の親戚の家に転がり込んだ麒六は、喜多方中学に転校しますが、ここでも喧嘩に明け暮れることに成ります。何かと言えば「会津魂」を口にする癖に、余所者をからかい、強い教師には萎縮し、弱腰の教師は舐めて掛かる同級生の態度に立腹して「会津魂とか、勿体ぶったことを抜かし居るが、お前らケツの赤い山猿じゃ!」と叫びます。

この後、同級生の金田と、肥え溜めの中を転げ回る喧嘩をやり、会津中学の「昭和白虎隊」相手の大立ち回りへと続きます。

2.爆走する機関車

映画には、道子と麒六が通うカトリック教会が出て来ます。ミサの帰り道でしょうか、二人が桜並木を歩いていると、道子が嬉しそうに話します。「今年のイースターも素晴らしかった。去年のイースターはお父様と一緒だった。今年のイースターは麒六ちゃんと」。思わず、道子の手を握る麒六…。そんな二人を見咎めた「OSMS団」の団長、タクアンは麒六を「軟派」「軟弱」となじり、二人は取っ組み合いの一触即発。その場はスッポンの介入で事無きを得ましたが、別れ際、悔し紛れに、タクアンがステッキで満開の桜の枝を叩くと、麒六と道子に桜の花びらが舞い散ります。この辺りが清順美学なのです。

後半の会津篇でも、喜多方中学の同級生を怒鳴り付けて、そのまま下校する麒六の背景には、なぜか教会の尖がり屋根が映っています。特徴的な尖がり屋根が気になって、ロケ地を調べると、何と、『けんかえれじい』は全編、長野県上田市でロケされていたのです。岡山も喜多方も会津若松もありません。会津若松の鶴ヶ城公園とされている場面も、実は上田城跡公園。岡山のカトリック教会は上田カトリック教会。旧制岡山第二中学は上田高等学校。尖がり屋根は、日本基督教団上田新参町(しんざんちょう)教会なのでした。

因みに、上田新参町教会を設計したのは、古橋柳太郎(1882〜1961年)という建築家です。大谷石を使った安中教会「新島襄記念会堂」、旧後楽園球場、麻布中学・高等学校校舎などを手掛けた人物です。新参町教会は、1897年(明治30年)創立ですが、1935年(昭和10年)に現在地に移転新築しています。「昭和10年」を設定した本作にはピッタリです。

映画の幕切れで、麒六と同級生の杉田が「東京で青年将校が叛乱」の号外を駅で見ます。「喧嘩だ、大喧嘩だ!」「これを見なくちゃ男が廃る。行こう」と叫ぶ杉田。麒六は号外に見覚えのある男の顔を発見します。「叛乱の思想的指導者、北一輝」と記された写真は、会津若松のカフェーで見た眼光鋭い男だったのです。思わず叫ぶ麒六、「杉田、東京に行くぞ!」。吹雪の中を東京に向けて爆走する蒸気機関車。

アニメファンなら御承知かと思いますが、この場面はOVA版『機動警察パトレイバー』(1988年)第5話「二課の一番長い日/前編」で、そのまま使われているのです(監督は押井守、脚本は「平成ガメラシリーズ」の伊藤和典)。苫小牧の泉野明(のあ)(富永みーな)の実家に来ていた篠原遊馬(あすま)(古川登志夫)がテレビを見ていると、「自衛隊がクーデター」のニュースが流れます。「遊馬、行こう。ここでやらなきゃレイバー隊の名が廃る」と野明。画面に映し出された「反乱の思想的指導者」の写真に「蕎麦屋で見た男!」と気付き、「野明、東京に行くぞ!」と叫ぶ遊馬。吹雪の中を爆走する蒸気機関車。

3.踏まれる十字架

それに先立って、道子が遠路遙々、喜多方まで麒六に別れを告げに来る場面があります。「長崎の修道院に入る決心をした」と言うのです。麒六の下宿を出た彼女が、雪の降り積もった狭い道を歩いていると、唐突に、次々と兵士たちが走って来て、彼女は弾き飛ばされて倒れたまま、誰からも助け起こして貰えません。彼女の大切にしていたロザリオが軍靴に踏み付けられて、白い雪の下に沈んで行きます。

子どもの頃には、全く脈絡が摑めず、意味も分からず、ただただ、その異様な雰囲気に圧倒されたのですが、今見直してみると、「二・二六事件」勃発を受けて緊急出動した、会津若松の歩兵第29連隊(第2師団派遣部隊)だった訳です。また、これは、彼女が長崎の原爆によって亡くなるのでは無いかと予感させる場面でもありました。

第29連隊に蹂躙される十字架は何を意味しているのでしょうか。旧制中学の大らかなバンカラの気風も喧嘩三昧も、青春の悶々も純情も、否応なしに軍国主義と戦争の渦の中に巻き込まれて行くのです。「無垢の終わり/End of Innocence」とでも言いましょうか。

牧師 朝日研一朗

【2018年11月の月報より】

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2018年09月30日

バザールでござーる

1.教会バザー

「ミス・マープルが、オールド・ホール荘に出かけたのは、教会でひらくバザーに屋台を出してほしい、と頼むためだった」。アガサ・クリスティの「ミス・マープルもの」、1942年の短編『申し分のないメイド』(The Case of Perfect Maid)の一節です。クリスティの探偵ではエルキュール・ポアロと双璧を成す、ゴシップ好きの教会婦人(古い言い方をすれば「老嬢」の)ミス・マープルが事件を解決していく推理小説です。

「教会でひらくバザー」と訳されていますが、原文では「the vicarage fete/ザ・ヴィカリッジ・フェイト」と成っています。直訳は「牧師館の慈善バザー」と言ったところです。英国国教会では「牧師館」を「ヴィカリッジ」と言います。元々はラテン語の「ウィカーリウス/vicārius/代理人」です。「キリストの代理人」たるローマ教皇の、そのまた「代理人」として、その教区(町や村)を託された司祭のことです。

エリザベス1世の治世、1599年、「首長令/Act of Supremacy」と「統一令/Acts of Uniformity」によって、英国議会は国内の教会をローマ教会の支配から独立させます。つまり、ローマ教会の所有する土地建物その他の財産を没収して、エリザベスを首長とする国教会の支配下に置いた訳です。英国国教会の信仰内容はプロテスタント、特にカルヴァン主義の影響を強く受けていますが、制度上の用語はローマカトリック時代の語が、そのまま使われる場合が多いのです。

「牧師館/パーサニジ/parsonage」という語があるにも拘わらず、相も変わらず「司祭館/ヴィカリッジ」と呼び続けているのも、ローマカトリック時代の名残りです。従って、「ミス・マープルもの」で一番有名な『牧師館殺人事件』(あるいは『牧師館の殺人』)も、その原題は「The Murder at the Vicarage」なのです。

20世紀以後に建て直した教会ならいざ知らず、「ミス・マープル」の暮らすケント州の村にあるような教会は、建物もローマカトリック時代からの古式ゆかしき様式です。礼拝堂を礼拝以外の目的に使うことはありません。恐らく、教会の敷地(もう少しハッキリ申しあげると「牧師館の庭」)を会場に露店、屋台(stall-holders)を出していたのでしょう。

2.お祭りと市

「慈善バザー」と訳されている「フェイト/fete」は「フェア/fair」と同じ意味です。屋外で開催される娯楽イベントです。米国の「ステートフェア/state fair」が有名です。日本語では「農畜産物品評会」と訳されていて、面白くもありませんが、実際には、楽しいお祭りなのです。往年のミュージカルファンならば、ウォルター・ラング監督、ジーン・クレイン主演の『ステート・フェア』(State Fair)(1945年)を御存知でしょう。戦後、日本で初めて公開された総天然色(テクニカラー)のミュージカルです。それをリメイクしたのが、ホセ・フェラー監督、パット・ブーン主演による同名作品(1962年)。いずれも『サウンド・オブ・ミュージック』の名コンビ、オスカー・ハマースタインU世作詞&リチャード・ロジャース作曲の歌曲に彩られています。この『ステート・フェア』、戦前にも映画化されていて『あめりか祭』(1933年)という題名を付けて、日本で公開されています。こちらはヘンリー・キング監督、ジャネット・ゲイナー主演でした。

音楽ファンには、サイモン&ガーファンクルの歌で知られる英国のバラッド「スカボロー・フェア/Scarborough Fair」があります。「パセリ、セージ、ローズマリー&タイム」とハーブの名前が何度も繰り返される名曲です。1967年の映画『卒業』(The Graduate)の挿入歌としても知られています。「スカーブラ/Scarborough」は英国ノースヨークシャー州の港町、「フェア」はそこに立つ「市」のことですが、米国にもカナダにもオーストラリアにも南アフリカにも同名の町があり、その名は何かしら遍在性を伴っているのです。何しろ、フィリピンと中国と台湾、ベトナム等が領有権を主張し合って係争中の南シナ海にも「スカボロー礁」があるくらいです。

ビージーズの「メロディ・フェア」(Melody Fair)も忘れてはいけません。こちらも、1971年の映画『小さな恋のメロディ』(Melody)の主題歌として使われて有名に成りました。但し、こちらの「フェア」は『マイ・フェア・レディ』の「フェア」、「汚れなく美しい」の意味でしょう。「メロディ」はヒロインの名前でしたから…。

とにかく「フェア」と言えば「市」に「お祭り」の気分が加わっているようです。

3.慈善と定価

「バザー/Bazaar」は「バザール」、中東やインドの「市場」を指すペルシア語だそうです。原語は「バハ・シャール/物の値段を決める場所」、つまり、定価は存在しないのです。売り手と買い手とが個別に交渉して、値段を決定する「取り引き」が行なわれるべきなのです。バザーで売り子をしていると、しつこく値引きを要求するお客さんに辟易する時がありますが、「バザー」という語の本来の意味からすると、お客さんは間違ってはいないのです。あるいは、私たちが値付け作業をして、定価を書き込んでいくのは、本来的には「バザー」に相応しくないのです。

どうして、そして、いつの頃から、この「バザー」という語が日本で定着し、教会はもとより学校や幼稚園、施設や福祉作業所などで広く使われるように成ったのか、残念ながら寡聞して知りません。戦前には「チャリティ・バザール」の訳語として「慈善市」等と称した場合があったようです。しかし、やはり「教会バザー」という語も古くから使われていたようでもあります。ともかく、その昔は「バザー」と言えば「慈善市」でしたから、値引き要求をする不心得者などは、凡そ存在しなかったようですが…。

牧師 朝日研一朗

【2018年10月の月報より】

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2018年08月26日

たれか神のごとき

1.ミケルマス

ヨーロッパには、9月29日を「聖ミカエル祭」と称してお祝いする国や地域が多くあります。英国では「ミケルマス/Michaelmas」と言います。名前からして、如何にも「クリスマス/Christmas」を思い出させるではありませんか。小麦の収穫祭です。日本の歳時記では「秋のお彼岸」に当たります。

キリストの降誕を祝う「クリスマス」が冬至の祭り、その半年前の6月24日が夏至の祭り「ミッドサマー・デイ/Midsummer’s Day」、洗礼者ヨハネの誕生日です。日本の農村で言うと「虫送り」「虫追い」「実盛祭」に該当します。それこそ「夏のキャロリング」が行なわれるそうです。この3つに、キリストの復活を祝う春の「イースター/Easter」を加えると、春夏秋冬の祭りが出揃います。

ローマカトリック教会や東方正教会のみならず、プロテスタントの聖公会やルーテル教会でも「聖ミカエル祭」を祝日としています。英国では、全国各地で「鵞鳥市」が開かれ、夕食には鵞鳥の丸焼きを食べる習慣があるそうです。1588年の「ミケルマス」の日、エリザベス1世のもとに、英国艦隊がスペインの「無敵艦隊/Armada Invencible」を撃破したとの知らせが届いたそうです。その時、女王は鵞鳥の丸焼きを食べていたとか。それ以来、英国では「ミケルマス」には「鵞鳥の丸焼き」を食べる習慣が広まったのだそうです。「土用の丑の日に鰻の蒲焼き」「節分に恵方巻き」みたいなものでしょう。

「アルマダ戦争」に負けたスペインでは「聖ミカエル祭」に何を食べるのでしょうか。

2.闘争の天使

フランスの西海岸、ノルマンディー地方、サン・マロ湾上に浮かぶ小島に聳え立つ世界遺産「モン・サン=ミシェル/Mont Saint-Michel」の素晴らしい風景を、皆さんも写真やテレビ等で御覧になったことがあるでしょう。8世紀に天使ミカエルのお告げを受けて、修道院が建てられたとされています。文字通り「聖ミカエル山」ですが、14世紀の「百年戦争」の時代には、ここは英国軍の要塞だったのです。

そもそも、天使ミカエルは「闘争の天使」なのでした。図像で表わされる場合には、ミカエルは黄金の甲冑を身に纏い、サタン(もしくはドラゴン)を踏み付け、右手に持った剣や鑓を高々と翳しています。道教の「鍾馗(しょうき)/Zhong Kui」と同じイメージです。あるいは、仏教の護法神である「四天王」や「仁王/金剛力士」が悪鬼邪鬼を踏み付けている彫像を思い出させます。天来の強い力で邪悪を滅ぼして貰いたい。洋の東西を問わず、人間は同じような願いを抱くものなのです。

さて、ラビ伝承によれば、天使ミカエルは、モーセの埋葬に際して顕われたとされています。「申命記」巻末に「モーセの死」が描かれています。34章5〜6節「主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。主は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、誰も彼が葬られた場所を知らない」。

旧約偽典「モーセの昇天」(別名「モーセの遺訓」、紀元7〜30年)によると、この時、ミカエルはサタンと論戦を繰り広げるのです。ミカエルは神からモーセの遺体を葬ることを任されたのですが、サタンは「物質界の主」として、自分がその遺体の所有者であると主張します。ミカエルに拒否されると、サタンはエジプト人殺害の咎で、モーセを神に訴えることが出来ると威嚇します。

このことは、新約聖書「ユダの手紙」9節に触れられています。「大天使ミカエルは、モーセの遺体のことで悪魔と言い争った時、敢えて罵って相手を裁こうとはせず、『主がお前を懲らしめてくださるように』と言いました」。サタンの横柄な態度を非難せずに、裁きは主なる神にお委ねして、自らは主の命に従って黙々と埋葬をしたとのことです。

ミカエルが「闘争の天使」だとしても、この段階では、サタンに対して論争しているだけです。サタンもまた、人間の罪を告発する「告訴者」の役割を務めているだけです。そもそも「サタン」とは「敵する者」の意味で、神に対してではなく、人間に対して「敵する者」なのです(「ヨブ記」)。

3.力ある言葉

ところが、『黄金伝説』等、ルシファー(サタン)の「堕天」物語が流布して行くと、ミカエルは、サタンに率いられた反乱軍を制圧した、天の軍勢の指揮官の役割を付与されます。神はミカエルに聖なる「力ある言葉」を遣わして、その御蔭で反乱軍を鎮圧し、彼らを地獄に追い落としたと言うのです。

「力ある言葉」とは「exponentia/呪文、スペル」ですが、それが即ち、先の「ユダの手紙」の記すミカエルの台詞「主がお前を懲らしめてくださるように」と同一視されるように成りました。旧約聖書「ゼカリヤ書」3章2節にも、主の天使がサタンに「サタンよ、主はお前を責められる」と、同じ言葉を唱える場面があります。ヘブライ語もギリシア語も、強力な呪文と信じられていますので、その発音を記すことは控えますが、悪魔祓いでは必ず使われる決め台詞です。英語で言えば「The Lord rebuke you,Satan!」です。

最後に「ミカエル」の名前ですが、ヘブライ語で「ミーカーエール」と言います。分解すると「ミー/誰、どの人」+「カー/何々のような、誰某に似た」+「ハー・エール/神」と成ります。つまり「誰か神の如き」です。勿論「神のような御方は誰もいない」という意味ですが、同時に「ミカエル」に与えられた神通力を連想します。

ミッキーマウスもミック・ジャガーも、マイケル・ジャクソンも、この「ミカエル」のヴァリエーションです。因みに、我が家の長男にも、この流れを汲む名前が付けられています。

牧師 朝日研一朗

【2018年9月の月報より】

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