2019年08月25日

夜の効果 Effet de nuit

1.世界三大夜景

一昔前には「百万ドルの夜景」という謳い文句がありました。調べてみると、1953年に、神戸の夜景を眺めた某電力会社の幹部が「六甲山から見た神戸の電灯の電気代」から捻出したキャッチフレーズだそうです。確かに、66年後の今なら「百万ドル」ではなく「1千万ドル」くらいには成るでしょう。

いつ誰が言い始めたのかは知りませんが、「世界三大夜景」は「香港、函館、ナポリ」だそうです。共通するのは海に面した港町であることです。先程の神戸もそうですが、やはり、夜景は暗い海とのコントラストによって映えるようです。「暗い海」と言いましたが、少し違いますね。その暗い海面に夜景が反射するから美しいのです。更には、灯台の光、停泊する船舶の光も寄与しているかも知れません。

数年前に「夜景コンベンションビューロー」と称する日本の一般社団法人が、「夜景サミット2012 in長崎」というイベントを長崎市内で開催したそうです。そこで「世界新三大夜景」に「香港、長崎、モナコ」を選んだらしい。函館はどこに行ったのでしょうか。北海道に住んでいた者としては、函館の凋落ぶりが気になります。「夜景鑑定士3500人のアンケートの結果」だと言いますが、「夜景鑑定士」等という肩書きに驚かされます。

私は九州にも暮らしていたことがあり、それなりに愛着を持っています。しかし、長崎で開催されたイベントで「長崎」が選ばれている等、当初から織り込み済みの企画だったとしか思われません。横浜や神戸の人たちからしたら噴飯物です。かつては「ナポリを見てから死ね/Vedi Napoli,e poi muori」とまで言われたのに、同じ地中海沿岸でも「モナコ」に変わっているのは何故でしょう。今も昔も「香港」がその地位を譲らないことも興味深いことではあります。

2.宵闇の前髪奴

休暇を利用して京都に二泊三日したのですが、夜に成ると真っ暗なのに驚かされました。私は田舎(但馬地方)の生まれ育ちなので、夜の暗さには慣れているつもりでした。しかし、東京都内の暮らしが長くなったせいでしょうか、久しぶりに見た京都の夜の暗さに感動してしまったのです。「夜景」等という華やかなものではありません。ただ暗いのです。街が闇の中に沈んでいるのです。

宿泊先のホテルは五条でした。童謡「牛若丸」に♪「京の五条の橋の上/大のおとこの弁慶は/長い薙刀ふり上げて/牛若めがけて斬りかかる」と歌われている東西の大路です。平安の昔からあるのです。でも、歩いている私たちも闇に包まれているのです。夜に営業しているお店も数少なく、街灯も疎(まば)らです。

薄暗い大路に1軒、煌々と照明の輝くお店があります。24時間スーパー「FRESCO」でした。地元住民から、私たちのような観光客、外国人旅行者までもが、あたかも誘蛾灯に誘(おび)き寄せられたように押し合い圧し合いしています。

そこに幼児を抱いた若夫婦がいたのですが、その幼児の髪形が凄かった。私も実物を見たのは初めてです。その子は江戸時代の「前髪奴(まえがみやっこ)」だったのです。いや、それは正確ではありません。普通「前髪奴」と言えば、額上の前髪だけを残して、他の部分を剃り上げた髪形ですが、もっと凝った髪形でした。前髪のみならず、頭頂部を残す「芥子(けし)」、耳の上を残す「奴(やっこ)」、後頭部を残す「盆の窪」、この4つの組み合わせだったのです。さすがに「金太郎」のような腹掛け(腹当て)までは着けていませんでしたが(浴衣を着ていました)、その存在感に圧倒されました。

大路の暗闇に浮かぶ小さな子どもの髪形で、一瞬にして、江戸時代に吹き飛ばされたような気分に成りました。小さな丁髷(ちょんまげ)を結った子を「とんぼ」と言うのは知っていますが、他にも「あぶ」とか「はち」とかあったようで、一体どんな髪形だったのでしょうか。御存知の方は教えて頂けませんでしょうか。

3.夜の効果は光

京都の24時間スーパーの情景は深夜の話ではありません。午後8時か9時かの話です。東京なら宵の口です。東京に戻ると、夜もまた昼のように明るく照らされている現実を、改めて感じさせられました。何と大量の光を浴びていることでしょう。通りを1本入った住宅街の路地でも、京都の大路より明るいのです。

「ベルギー象徴派/Symbolisme en Belgique」に分類される画家に、ウィリアム・ドゥグーヴ・ド・ヌンク(William Degouve de Nuncques,1867−1935)という人がいます。「夜の天使たち」「運河」「ヴェネチアの中庭」「夜のブリュージュ」等、人足絶えた夜の風景ばかりを描く画家です。私が特に好きなのは「夜の効果」という作品です。薄い青を基調に描かれた夜の田園風景なのですが、所々の民家の窓から明かりが漏れています。窓の光が夜の深さを表わしているのです。

私たちは、過剰なまでの人工の光に照らされる暮らしに慣れて、光の意味や価値を見失ってしまっているのかも知れません。新約聖書では「神は光であり」(「ヨハネの手紙T」1章5節)、神は「光の源である御父」(「ヤコブの手紙」1章17節)と言われています。受肉によって「言/ロゴス」は「世の光」と成られました(「ヨハネによる福音書」8章12節)。キリストは「まことの光」(1章9節)と証されています。パウロの回心が「天からの光」によるものだったこと(「使徒言行録」9章3節)も忘れてはいけません。

「光/フォース」の感覚を取り戻すために、私たちは今一度、「闇/スコトス」を認識する感覚をも研ぎ澄ます必要があるのかも知れません。

牧師 朝日研一朗

【2019年9月の月報より】

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2019年07月28日

灰をおろそかにするなかれ

1.安否不明者

私は先月、アニメの「聖地巡礼」について書いたばかりでした。「聖地巡礼」ブームのキッカケに成った作品として『涼宮ハルヒの憂鬱』と『らき☆すた』を挙げていたのですが、まさか、それらの作品を製作した「京都アニメーション」第1スタジオが放火されて、こんなに悲惨な大事件が起きる等とは…夢にも思いませんでした。

事件発生から数日を経て、今日現在(7月23日)においても、未だに死者の身元特定が出来ないという中で、「安否不明者」として、武本康弘監督の名前が挙げられるように成りました。「京アニ」の製作作品で言えば、前述の2作の他に、『けいおん!』(2009年)、『けいおん!!』(2010年)、『日常』(2011年)、『境界の彼方』(2013年)、『響け!ユーフォニアム』(2015年)等の作品で、監督、演出、原画、絵コンテなどを手掛けた作家で、アニメ業界では有名な人物でした。

この「安否不明」という状況は、2016年の「相模原障害者施設殺傷事件」を思い出さずにはいられません。あの事件の時には、全く別の事情で被害者の名前が伏せられたままだったのですが、事件の重大さ悲惨さが明らかに成って行く過程で、容易に連想されました。そう言えば、あの事件も7月の事件でした。

2008年の「秋葉原通り魔事件」の事も思い出されました。その1年前の2007年には、秋葉原で『涼宮ハルヒの憂鬱』のエンディング・タイトルに流れる「ハレ晴れユカイ」のダンスを、全国から「ハルヒ」ファンが集まって踊っていた事が思い出されます。私は東京に来たばかりだったので、その不思議な光景をよく覚えています。

2.虐殺と攻撃

そう言えば、英語版の「ウィキペディア」によると「秋葉原通り魔事件」は「Akihabara Massacre/秋葉原虐殺」、「相模原障害者施設殺傷事件」は「Sagamihara Massacre/相模原虐殺」と呼ばれています。今回の「京都アニメーション放火事件」は「Kyoto Animation Arson Attack/京都アニメーション放火襲撃」の呼称に成っていますが、私は今回もまた、「マサカー/虐殺」だったと思います。しかし、オウム真理教による「東京地下鉄サリン事件」が「Tokyo Subway Sarin Attack/東京地下鉄サリン攻撃」であった事を考え合わせると、あれは「アタック/襲撃、攻撃」であったという事も間違いありません。

何を下らない事を言っているのかと思われるかも知れませんが、とにかく、私は「事件/アクシデント」という表記が許せないのです。「事件/アクシデント」では、突発的、偶発的に起こった出来事であるかのような意味にされてしまうのです。しかしながら、ここに挙げた4つの犯罪は、いずれも計画的な犯行です。断じて「犬も歩けば棒に当たる」的な事柄ではありません。ですから、どうしても「事件」等という日本語的な言い回し、犯罪者の責任を曖昧にするような表現が許せないのです。それらは、確かに「虐殺」であり「攻撃」だったと思うのです。

そして特に「攻撃」と言う場合に含まれるのは、その「攻撃」は、ただ単に「東京の地下鉄」や「京都アニメーション」に対する「攻撃」に終わるものでは無く、私たちの社会全体に対する、私たちの魂に対する「攻撃」なのだという実感です。それは「虐殺、大量殺人」と言う場合にも、意識されて然るべき感覚です。「事件」等と呼んでいたのでは、どこまで行っても「他人事」の域を出ないのでは無いでしょうか。

被害者は「虐殺者」による「攻撃」によって殺されたのです。辛うじて命を奪われなかった人たちも(そして、遺族、被害者家族も)、この「攻撃」によって、心身に大きな障碍や傷を負わされて、これから長い年月、苦しみに耐えなければならないのです。そのような現実を、どこかで曖昧にして、すぐさま「追悼」して行く感覚に違和感を抱かざるを得ません。日本語は、そんなにも想像力の欠落する言語に成ってしまったのでしょうか。

3.心に王冠を

「京アニ」の事を考えながら悶々としていたら、ハードディスク・レコーダーの録画の中に「京アニ」製作の『映画 聲(こえ)の形』(2016年)が録ってあるのを思い出しました。我が家の二男が録画してくれていたのです。しっかり「誤削除防止ガード」までしてありました。『聲の形』は、大今良時原作のコミックス(「週刊少年マガジン」に連載されていた)のアニメ映画化です。思わず観てしまいました。

先天性の聴覚障碍を持つ西宮硝子(早見沙織)が小学校6年生のクラスに転校して来た事から始まる、クラスの関係性の変化、イジメ、不登校、対人恐怖症などが描かれます。それから6年後、硝子イジメ先鋒だった石田将也(入野自由)は、高校3年生に成った春、硝子に再会して、そこから新たな物語が始まるのです。

岐阜県大垣市や養老町を舞台にしているのですが、街の風景(鯉の泳ぐ疏水、養老鉄道、養老天命反転地など)が細部まで丁寧に描き込まれています(それこそが「京アニ」です)。そのような風景のディティールの積み重ねが、登場人物たちの言葉や仕草や佇まいにリアリティ(アニメなのに!)を与え、その心の動き(コミュニケーションの成立、不成立の度毎の)に何度も泣かされてしまうのです。

こんな映画を作っていたアニメ製作会社のスタッフが虐殺され、スタジオが焼かれてしまったのです。窓の奥に見える煤の暗黒に(私自身も含めて)多くの人たちが、言いようの無い虚無感を抱いています。それ故、せめて私はパラケルススの言葉を献げましょう。「灰をおろそかにするなかれ。それは、汝の心の王冠、永遠なる物質の質料なのだから/Cinerem ne vilipendas, nam ipse est diadema cordis tui, et permanentium cinis」(「哲学者の薔薇園」)。

牧師 朝日研一朗

【2019年8月の月報より】

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2019年06月30日

聖なる時間を求めて

1.ロケ現場

行人坂教会に赴任したばかりの頃、目黒駅周辺を散歩していて、不思議な既視感を抱いて「まさか、前世の記憶か?!」と、しばらく悩んだことがあります。最初に気付いたのは、白金教会の裏手、JR線を跨ぐ「白金桟道橋」を、夕方に子どもを連れて散歩していた時のことでした。…何のことはありません、鈴木保奈美と織田裕二主演のテレビドラマ、『東京ラブストーリー』(1991年)の有名な場面の舞台だったのです。

このドラマには、他にも「西郷山公園」「上大崎2丁目のJR沿いの坂道」「上大崎3丁目の某マンション」「東山1丁目の天竺屋台」等が出て来ます。将来、東京に住む等と夢にも思わず見ていたのですが、白金桟道橋の風景が印象に残っていたようなのです。因みに、教団「安藤記念教会」附属「安藤記念幼稚園」(有森也実の勤め先)も登場しました。

イラストレーターの宮崎祐治著『東京映画地図』(2016年、キネマ旬報社)を開くと、東京中の映画のロケ地が詳しく解説されています。目黒区で言えば、蒼井優の『洋菓子コアンドル』(2011年)、新垣結衣の『恋するマドリ』(2007年)が青葉台、深津絵里の『ステキな金縛り』(2011年)が西郷山公園、鈴木杏と蒼井優の『花とアリス』(2004年)が碑文谷八幡宮と小牧バレエ学園、柴咲コウと真木よう子の『すーちゃん まいちゃん さわ子さん』(2013年)が学芸大学駅前…と、2000年代以降の作品だけでも、何本も出て来ます。ドラマの『最高の離婚』(2013年)で「目黒川人気」が一気に盛り上がって、ファンがロケ地巡りに訪れたことも思い出されます。

2.聖地巡礼

ファンによるロケ地巡りを「聖地巡礼」と言います。ドラマ『北の国から』(1981〜2002年)の影響で、北海道富良野は観光地と化しました。韓国ドラマ『冬のソナタ』(2002年)のファンは海を越えて、北漢江の南怡島(ナミソム)に押し寄せました。私が北海道にいた頃、韓国や台湾からの観光客が急激に増えたのですが、それは、岩井俊二監督、中山美穂主演の映画『Love Letter』(1995年)の効果だったのです。

最近は映画やドラマなんかよりも、アニメの舞台が「聖地巡礼」の対象に成っています。映画の場合は「フィルムツーリズム」、それと区別するために「アニメツーリズム」と言うらしいです。アニメの聖地巡礼が顕著になったのは『涼宮ハルヒの憂鬱』(2006年)の西宮市からでしょう。『らき☆すた』(2007年)の埼玉県鷺宮町、『かんなぎ』(2008年)の宮城県七ヶ浜町、『ガールズ&パンツァー』(2012年)の茨城県大洗町、『ラブライブ!』(2013年)の神田明神、『君の名は。』(2016年)の飛騨市、新宿区須賀神社の石段…。かつて、テレビアニメ『スラムダンク』(1993〜96年)を見た台湾のファンが江ノ電「鎌倉高校前1号踏切」に押し寄せて、現地は大変な騒動に成っているという報道もありました。

ラテン語では「巡礼」を「peregrinatio/ペレグリーナーティオー」と言います。英語の「ピルグリミッジ/pilgrimage」です。1620年、メイフラワー号で北米大陸に渡った最初のピューリタン(清教徒)たちを「ピルグリム・ファーザーズ/Pilgrim Fathers」と言います。単に「ピルグリム/巡礼者」と呼ばれることもあります。

語源を遡ると、ラテン語の「ペル/越えて、向こうへ」とギリシア語の「アグロス/農地」の合成語のようです。「農地を越えて行く、農地の向こうへ行く」ことだったのです。古代から中世に掛けて、巡礼の旅は命がけでした。何しろ、人間の手が加えられた土地(農地)の遥か彼方(未知の土地)を目指して進んで行かなくてはならないのです。

古くは、エルサレムやアンティオキアの巡礼が盛んでした。シリア・パレスチナ地方がイスラーム支配下に置かれるとコンスタンティノポリス、東ローマ帝国が滅亡すると、ローマ巡礼、ローマ教皇庁が頽廃した後は、スペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラ、イタリア中部のロレート、フランスのルルドと、次々に新しい聖地が生まれます。

本来は、キリスト所縁(ゆかり)の場所、聖遺物がある場所が聖地だったのですが、聖遺物を移転した先、癒しの奇跡が起こった場所が、新たな聖地に成りました。その意味で「アニメツーリズム」は基本的なスタイルを継承しているのです。前述の『らき☆すた』『かんなぎ』『ラブライブ!』『君の名は。』に、神社が組み込まれているのも偶然ではありません。

3.聖時礼拝

聖地巡礼に対する批判は、アウグスティヌス以来あり、宗教改革の教会は巡礼を廃止しました。プロテスタントが巡礼を廃止した理由としては、根底に「聖遺物崇敬」があること、巡礼行によって救いに至るという「功徳、功績」主義であることが挙げられます。しかも、現代においては、命がけの危険を冒して、苦難の巡礼するということはありません。旅行は困難、試練ではなく、単なる慰安に成ってしまっています。

「聖遺物崇敬」だけが問題なのではありません。そもそも「聖地」と言われるくらいです。「聖地」とは最近流行の「パワースポット」でもあります。特定の場所を「聖なる」と規定することもまた、偶像化の危険を伴います。反対に、別の場所が「穢(けが)れた場所/忌み地」と見なされ、住民が差別されます。所詮は「ハレ」と「ケガレ」の二分法です。

むしろ、私たち、キリスト者は特定の「場所」を神聖視するのではなく、私たちが共に礼拝賛美する「時間」をこそ、神さまが聖化して下さる(潔めて下さる)と考えるべきでは無いでしょうか。その方が、聖遺物や聖地などの偶像を乗り越えて来た、現代のキリスト教が到達した信仰に相応しいと思います。聖書の神さまは「場所/トポス」にではなくて、「時間/カイロス」にこそ宿り給う、私はそのように考えるのです。この「時間」こそが「永遠」と繋がっているのです。延いては、天上の友と私たちとを結び合わせてくれるのです。

牧師 朝日研一朗

【2019年7月の月報より】

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2019年05月26日

黒いペンテコステ

1.告発歌曲

クラシック音楽ファンならば、エドワード・エルガー、マイケル・ティペット、ベンジャミン・ブリテン等の20世紀英国を代表する作曲家の名前は知っているはずです。

エルガーと言えば、行進曲「威風堂々」(Pomp and Circumstance)、アニメやドラマになった『のだめカンタービレ』に使用された「ヴァイオリン・ソナタ ホ短調」、ピアノの発表会で弾かれることも多い「愛の挨拶」(Salut d’amour)で知られています。また、ブリテンと言えば、「青少年のための管弦楽入門」(The Young Person’s Guide to the Orchestra)、能の「隅田川」を翻案した歌劇「カーリュー・リヴァー」(Curlew River)、圧倒的なスケールの「戦争レクイエム」(War Requiem)が有名です。ティペットは、前者2人には知名度で及びませんが、ナチスのユダヤ人迫害に抗議して作曲されたオラトリオ「われらの時代の子」(A Child of Our Time)があります。

このエルガー、ティペット、ブリテンの後継者がピーター・マックスウェル・デイヴィス(1934〜2016)です。彼の作品に「黒いペンテコステ」(Black Pentecost)という歌曲があるのです。メゾソプラノ+バリトンとオーケストラによる4部構成の作品です。マックスウェル・デイヴィスは音楽家として絶頂期にあった頃、ロンドンを離れて、スコットランドのオークニー諸島へ移住、終生そこに暮らしました。

マックスウェル・デイヴィスは、1979年、オークニー諸島出身の詩人にして作家、ジョージ・マッカイ・ブラウン(1921〜1996)と親交を結び、彼の『グリーンヴォー』(Greenvoe/「緑の入り江」とでも訳したら良いのでしょうか)という小説(1971年)をテクストにして、上記の歌曲を作曲しました。

2.環境汚染

この作品は、1960年代末から70年代の初め、英国の軍産複合体がオークニー諸島に「黒星作戦/Operation Black Star」というプロジェクト名で、巨大な石油コンビナートを建設した結果、深刻な環境汚染が引き起こされたことを告発したものです。私は「黒星作戦」のことは何も知らないのですが、想像するに、恐らく、北海油田の基地として建設されたのではないでしょうか。

マックスウェル・デイヴィスには、ウラン鉱山の採掘による環境汚染を、ミュージカル風に告発した「イエローケーキ」(Yellow Cake Revue)という作品もあります。英国の名女優、エレノア・ブロンが主役を演じたそうです。

「イエローケーキ」と言うと、「くまのプーさん」の「蜂蜜ケーキ」を思わせる美味しそうな名前ですが、実は、ウラン鉱石精製過程の濾過液から得られるウラン含有の高い粉末のことです。今年4月、東京都内の男子高校生が高性能爆薬「四硝酸エリスリトール/ETN」を製造、所持していたことで書類送検されました。「ETN」はプラスチック爆弾として知られる「ペンスリット」と似た爆薬です。しかも、彼はインターネットでウランを購入、精製した「イエローケーキ」をオークションサイトに出品していたのです。昨年8月、19歳の大学生が高性能爆薬「過酸化アセトン/APEX」を作って検挙されたのですが、その関連で、今年に入ってから「イエローケーキ」高校生も書類送検されたのです。驚くべきことに、高校生が放射性物質を製造販売していたのです。

因みに「過酸化アセトン」は「サタンの母/Mother of Satan」とも呼ばれ、各地のテロ事件(2015年パリ、16年ブリュッセル、17年マンチェスター:アリアナ・グランデのコンサート、19年復活日のスリランカ等)に使用されています。

さて、マッカイ・ブラウンの詩「黒い天使たち/Black Angels」の最後に「黒いペンテコステ/Black Pentecost」という語が出て来るのです。「今こそ、凍える天使たちよ/黒いペンテコステの狂騒と燃え殻から/谷間を守り給え」。原詩は「Now,cold angels,/keep the valley from the bedlam and cinders of a Black Pentecost」となっています。

ペンテコステのイメージカラーは「炎の舌」の赤です。もしくは、聖霊による洗礼の白です。米国では、ペンテコステを「Whitsunday/ホイットサンディ」と言います。「ホワイト・サンディ/白い日曜日」のことです。特に浸礼(全身ドブンッと洗礼槽に漬かる)の伝統を守る教会において、ペンテコステに受洗志願者たちが「白い衣」を着て、式に臨んだことから来ているのです。そうしてみると、「黒いペンテコステ」の黒は、重油による海洋汚染を示すことで、神の創造された自然を汚す人間たちの欲望を告発していることが分かります。

3.聖霊冒瀆

「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」(マルコによる福音書3章28〜29節)。「マタイによる福音書」の並行文では「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」と付け加えられています。また「ルカによる福音書」12章10節には「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されない」と言われています。

イエスさまの悪口を言う者ですら赦されるが、聖霊に対する冒瀆(悪口、呪い、誹謗中傷、侮辱、汚し)は赦されないと、主は仰るのです。勿論、聖霊を自己目的(商売、組織拡大)に利用しようとする輩などは一溜まりもありません。

どうして聖霊の冒瀆は赦されないのか、私たち人間には分かりません。ただ、何となく、ペンテコステを迎えるに当たり、「黒いペンテコステ」の楽曲を思い出したのです。そして、この世には、赦されない罪というものも確かにあるのでは無いかと思ったのでした。

牧師 朝日研一朗

【2019年6月の月報より】

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2019年04月28日

炎と怒りの時代に

1.神殿と商人

今年の4月15〜16日、パリのノートルダム大聖堂で大規模な火災が発生し、中央の木造部分から大きな炎が上がり、無残に尖塔が焼け落ちました。丁度「受難週」(カトリックでは「聖週間」)の始まった翌日の事件でもあり、符牒めいた何かが感じられました。

古来「受難週」には、それぞれの日に読むべき聖書記事というものが決められています。それによると、日曜日(棕梠の主日)には「エルサレム入城」、月曜日は「宮清め」、火曜日は「終末の預言」、水曜日は「ベタニアでの塗油、ユダの裏切り」、木曜日(洗足木曜日)は「最後の晩餐、ゲツセマネ、捕縛と審問」、金曜日(受難日)は「ピラトの審問、ユダの死、十字架、埋葬」と成っているのです。

大聖堂に火の手が上がった月曜日は、イエスさまが「神殿から商人を追い出す」場面です。「『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった」と、「イザヤ書」56章7節を引用しながら、神殿の境内に陣取った両替商や鳩売りの屋台を蹴り飛ばしての大暴れです。

ノートルダム大聖堂は、年間1300万人もの観光客が訪れる、パリ屈指の名所です。大聖堂再建のための寄付の呼び掛けが始まるや、1週間足らずで、8億5千万ユーロ(約1070億円)もの寄付金が集まりました(4月22日現在)。ルイ・ヴィトンやディオール等を傘下に置くLVMHグループ、グッチ等を有するケリング社、石油会社トタル、保険会社アクサ、BNPパリバ(銀行)のオーナー株主、大富豪が巨額の寄付をしたようです。更には、米国のIT大手アップル社、ディズニー等も協力を申し出ているそうです。

これに対して、国内から不協和音が響いています。貧困問題には何の関心も示さない大富豪たちが、僅か一晩で何億ユーロもの巨額の資金を拠出する事を見せ付けたと言うのです。富の不平等な分配に抗議し、低所得者層の困窮を訴える「黄色いベスト/ジレ・ジョーヌ」の運動の記憶も生々しい中、時を置かずに、こういう現実が露骨に表面化すると、確かに何とも言えない複雑な気持ちに成ります。

2.教会と爆弾

大聖堂は翌朝まで燃え続けました。「受難週」の火曜日は、イエスさまの語られた譬え話、律法学者やファリサイ派との論争、終末の預言を読む日です。

特に「マタイによる福音書」23〜24章には、「小黙示録」と呼ばれるような終末預言が纏められています。「エルサレムのために嘆く」(23章37節〜39節)、「神殿の崩壊を予告する」(24章1〜2節)、「終末の徴」(3〜14節)、「大きな苦難を予告する」(15〜28節)、「人の子が来る」(29〜31節)、「いちじくの木の教え」(32〜35節)、「目を覚ましていなさい」(36〜44節)と続き、「これでもか!」と言うくらいです。

「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」(24章7〜12節)。

すると、4月21日、イースターの朝、スリランカで連続爆破テロ事件が発生してしまいました。3百人以上の死者、4百人以上の負傷者を出しました。爆弾テロの標的と成ったのは、外国人の利用が多い高級ホテルと共に、3つの教会でした。首都コロンボの「聖アンソニー教会」、その北にあるニゴンボの「聖セバスティアン教会」、この西海岸の2つはローマ・カトリック教会でした。東海岸、バッティカロアの「ザイオン教会」は、プロテスタント福音派「ライトハウス」の流れを汲む教会のようです。

2016年12月、カイロの聖ペトロ教会(コプト教会の司教座の置かれた聖マルコ大聖堂に隣接する)では、自爆テロにより25人が死亡、49人が負傷しています。翌2017年4月9日には、タンタの聖ゲオルギウス教会、アレクサンドリアの聖マルコ教会において、45人が死亡、130人以上が負傷しています。イースター1週前の「棕梠の主日」(東方教会では「聖枝祭」)を狙ったテロでした。いずれも「ISIL/アイシル/イスラム国」系の組織による犯行だったようで、決行時期や方法を見ると、今回の事件の雛形のように思われます。

3.不安と覚悟

ノートルダム大聖堂の火災、スリランカの教会に対する自爆テロ、この2つの出来事には直接の関係はありません。けれども、敵対や憎しみや不法の連鎖、宗教施設を利用して商売をする者、宗教対立を利用して敵愾心を煽る偽預言者、愛と寛容の消滅などという、極めて現代的な要素が共通して両者に混在しているように思うのです。

「イザヤ書」66章15節に「見よ、主は火と共に来られる。/主の戦車はつむじ風のように来る。/怒りと共に憤りを/叱咤と共に火と炎を送られる」という預言があります。ドナルド・トランプ大統領の暴露本、『炎と怒り/トランプ政権の内幕』(Fire and Fury: Inside the Trump White House)の題名の出典です。書名の「炎と怒り」の「怒り」は、トランプの制御不能な情緒不安定ぶりを、「炎」は米国の強大な軍事力を表現しています。強大な軍事力(核兵器や細菌兵器を含む)を動かすことの出来る超大国のトップが、歴史上かつて無い程に、情緒不安定で独善的な人物であるという事実は、それ自体が一種のホラーです。

今日、経済や政治、軍事や宗教、テクノロジーや社会制度など、私たちの周りを見ても、不安定な要因が増しているように思います。しかし、こんな邪な時代であれば尚の事、私たちは、覚悟と諦念をもって、キリストの愛を表わして行かなくてはなりません。

牧師 朝日研一朗

【2019年5月の月報より】

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2019年04月21日

平和を食べる人は幸せか?

彼女(結城アンナ)と彼女の妹?(小学生)が無邪気に踊りながら、「わたし作る人」と言います。テーブルで待っているボーイフレンド(佐藤佑介)が笑顔で「ボク食べる人」と言います。最後に、三人並んで出来立てのラーメンを食べるのでした。一九七五年、ハウス食品の「シャンメン醤油味」(インスタントラーメン)のテレビ広告です。その当時、「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」から、性的役割分業を固定化する性差別的表現として叩かれたものです。

イエスさまの「山上の説教」の巻頭に置かれている「八福の教え」「真福八端」(ラテン語では「ベアーティテュードー/Beatitudo」と言います)、その七番目の祝福は「平和を実現する人々は、幸いである」です(「マタイによる福音書」五章九節)。むしろ、少し直訳的に「平和をつくり出す人たちは…」「平和をつくる者は…」と訳した方が良いと思います。ギリシア語の「エイレーノポイオス/仲介者、調停者」それ自体が「エイレーネー/平和」と「ポイエオー/つくる、生み出す、創造する」の合成語だからです。

どの翻訳聖書も「つくる」という動詞に力点を置いています。ラテン語訳「ウルガタ聖書」は、平和を「フィンゴー/造り上げる、創造する」人、ドイツ語訳「チューリヒ聖書」は、平和を「フェルティゲン/製造する」人です。フランス語訳「エルサレム聖書」に至っては平和の「アルチザン/職人、熟練工」としています。

多くの英訳聖書では「平和をつくる人」は「ピースメーカー」と訳されます。そこから拝借して、(西部劇でお馴染み)コルト社の45口径6連発回転式拳銃「SAA/シングル・アクション・アーミー」の通称、冷戦時代のコンヴェア社の戦略爆撃機(六発)「B-36」の愛称として使われているのは、何とも皮肉な話です。北米大陸への植民者が圧倒的な武力を用いて彼らの平和を作って来た歴史(卑怯な「飛び道具」から無差別攻撃を意味する「戦略爆撃」に至るまで)を思わされます。

そして改めて「平和をつくる」とは、一体どんなことなのだろうかと考えた時、自然と「わたし作る人、ボク食べる人」という往年のキャッチコピーが思い出されたのです。イエスさまは「平和をつくる人たち」を祝福されましたが、祝福の裏には、必ず呪詛があることを忘れてはなりません。「平和を食べる人たち」「平和を貪る人たち」もいるはずです。もしかしたら、私たちは、したり顔で「平和の尊さ」等を説きながら、その実、自分たちの平和と安逸を貪っているだけなのではないでしょうか。

今と成っては、笑顔で「ボク食べる人」と言って、テーブルで待っているだけの男の子など、如何にも幼稚で依存的にしか見えません。佐藤佑介は「脆弱な美少年」キャラ(『恋は緑の風の中』『スプーン一杯の幸せ』)だったのですが、まさか、私たちに、そんな態度が許されるはずはありません。況して、私たちがイエスさまから召し出されている使命は「ラーメンを作ること」ではなくて「平和をつくること」なのですから。私たちには、身近な所から、人と人とを和解させる務めが与えられているのです。


【会報「行人坂」No.258 2019年4月発行より】

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2019年03月31日

死者に永遠の安息を

1.生ける死者

レント(受難節)からイースター(復活日)に掛けての季節、毎年、私は「復活」とは何だろうかと思いを巡らせます。言うまでも無く、キリスト教信者が目標にしている「復活」とは「キリストの復活の命に与(あずか)る」ことです。つまり「主にある復活」「主による復活」です。逆を言うなら「主によらない復活」「主と共には無い復活」という邪道も存在する訳です。凡そ、ホラー小説、ホラー映画の真骨頂は、ここにあります。

ロシアの作家、レオニード・アンドレーフの『ラザルス』は、「ヨハネによる福音書」11章で、キリストによって墓から呼び戻されたラザロが辿る、恐怖の人生を描いた物語です。再生したラザロの体からは死臭が消えず、死の世界を見た目は虚無に満ちています。最初は、歓迎していたベタニア村の住民も、次第に彼を避けるようになり、遂にはマリア、マルタの姉妹からも見捨てられて、各地をさ迷い歩きます。やがて「死者の中から甦った男」という評判を聞き付けたローマ皇帝に召喚されますが、正面から彼の目に見入ってしまった皇帝は恐怖の余り、ラザロの両眼を抉り出して放逐するのです。

物語の幕切れ、沈み行く夕陽を追うようにして、両の手を前に伸ばして、盲目のラザロが荒野を歩いて行く姿は、そのまま「ゾンビ」「生ける死者」です。『ラザルス』(1918年)が「世界最初のゾンビ小説」と呼ばれる所以です。

この小説の中では、ラザルス(ラザロ)は不信者(キリストを信じない者)として描かれています。キリストによって復活させられたにも拘わらず、彼自身は信仰の無い者だったが故に「主によらない復活」だったのです。即ち「生ける死者」と成った訳です。

2.恐怖の復活

「モダンホラー」における同趣旨の作品として、すぐに思い出されるのが、スティーヴン・キングの『ペット・セマタリー』(1983年)です。田舎町に引っ越して来た若い医師の家族が主人公です。ルイスとレイチェルの若夫婦に、幼い娘アイリーン、生まれたばかりの息子ゲージの幸せな4人家族です。

けれども、ある日、可愛がっていた猫が交通事故で死んでしまいます。幼い娘に猫の死を伝えられないルイスは、隣人のジャドに勧められるまま、裏山の「ペット霊園」に埋葬します。すると、翌朝、死んだはずの愛猫が帰って来たのです。但し、猫は腐臭を発してヒョコヒョコ歩く、別の凶暴な「何か」に変わり果てていました。呪いの力を借りて、人間が死者を復活させようとすると、恐ろしい事が起こるのです。

この話が本当に恐ろしくなるのは、この後です。今度は息子のゲージがタンクローリーに轢かれて死んでしまうのです。ルイスはジャドの制止を振り切って、息子の死体を抱きかかえて裏山に向かうのですが…。この後の展開はご想像にお任せします。

キングの小説がホラーなのは、愛猫や愛児が化け物に成って襲い掛かって来るからではありません(それも結構、怖いけど…)。それ以上に、愛する子どもを亡くしてしまう事があり得るという、世界の現実に対する恐怖です。こんなに恐ろしい事は他に無いのです。愛するが故の恐怖です。深く愛するが故に、その人の命が突然に奪われる事は、耐え難い恐怖なのです。だから、本当の恐怖は悲しみに彩られているのです。

ウィリアム・ワイマーク・ジェイコブスの短編『猿の手』(1902年)は、持ち主の願いを3つ叶えてくれるという「猿の手」のミイラが巻き起こす恐怖を描いています。老夫妻が「死んだ息子を生き返らせてくれ!」と「猿の手」に願ったために、深夜、死んだ息子が帰って来るのです。激しく玄関のドアをノックする音、半狂乱に成って息子を出迎えに走る妻…。小学生の時に読んだのですが、思い出すだけで、今も身の毛が弥立ちます。「猿の手」の教訓は「定められた運命を無理に変えようとすれば災いが伴う」という事です。

ホラー小説の古典、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』(1818年)においても「人間の手による復活」が描かれます。医学生、ヴィクター・フランケンシュタインが死体を繋ぎ合わせて蘇生実験を繰り返した挙句、「怪物」を生み出してしまうのは、母の病死が契機です。「神の摂理に反する科学による創造」として語られる事が多いのですが、死体が材料に成っている事を考えると、むしろ「主によらない復活」がテーマでは無いでしょうか。

このように、キリストによらぬ復活の試みは悉(ことごと)く失敗するのです。人間の科学や呪術の力による復活は、神の御業の醜悪極まりないパロディに成り果ているのです。

3.アドベント

今のところ、私たちが死者に対して出来る事は、神に祈る事だけです。日本では「レクイエム」が「鎮魂歌」と訳される場合がありますが、その訳語は正しくありません。「レクイエム」とは「死者のためのミサ曲/Missa pro defunctis」の入祭唱の最初の言葉「Requiem aeternam dona eis,Donine:/主よ、永遠の安息を彼らにお与えください」「et lux perpetua luceat eis./そして永久の光が彼らを照らしますように」から来ています。荒ぶる「魂を鎮める」のではなく「永遠の平安、休息」を願っているのです。

レクイエムの最後は「楽園歌」です。これは出棺の際に歌われました。「楽園へ/天使たちがあなたを導いてくださいますように/…天使の合唱隊はあなたを迎え/かつて貧しかったラザロと共に/永遠の平安を得る事が出来ますように」。

愛する者の死は、私たちにとって大きな悲しみです。しかし、私たちが求めるのは「主による復活」である事を忘れてはなりません。その時が来るまでは、今は亡き愛する人の「安息」をこそ祈るべきです。私たちも静かに信頼して、イエスさまの「再臨/Adventus」の時を待ちましょう。「復活」を待ち望む事もまた「アドベント」なのです。

牧師 朝日研一朗

【2019年4月の月報より】

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2019年02月24日

アキレスと亀

1.クドカンは韋駄天

私は毎週、NHKの大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』を楽しみに観ています。しかしながら、何でも、前作『西郷どん/SEGODON』を超えるワースト低視聴率を記録していると聞きます。「どうして!?」「クドカン(宮藤官九郎)の脚本は、こんなに面白いのに!?」「VFX(特撮による視覚効果)で再現された明治の東京の風景も、こんなに美しいのに!?」「これだけの豪華キャストなのに!?」「音楽(大友良英)も、タイトルデザイン(山口晃)も、題字(横尾忠則)も、こんなに凄いのに!?」と、私が独りで喚いているのを、家族は冷ややかな眼差しで見詰めています。

連ドラ『あまちゃん』とカブる楽屋落ちキャスト(杉本哲太、平泉成、橋本愛、小泉今日子、荒川良々、ピエール瀧)が要所に配してあるのも愉快です。古今亭志ん生(ビートたけし)の内儀、りんの役で(志ん生の実の孫)池波志乃が出ていたりするのも粋な計らいです。森山未來、パンクバンド「銀杏BOYS」の峯田和伸、劇団「大人計画」の松尾スズキ、岩松了、田口トモロヲというコアな脇役(何と姜尚中まで登場!)、誰も彼もキャラが立っています。若い女性視聴者への目配せもあるものの(生田斗真、松坂桃李、星野源、神木隆之介)、結果的には、玄人好みに走り過ぎているのでしょう。

妻が家事をしながら台詞だけを耳で聞いていて「お芝居を観ているみたいね」と漏らしていました。結局、低視聴率の原因はこれに尽きるのか…。恐らく、クドカンは突っ走り過ぎて、マニアではない普通の人を置き去りにしているのでしょう。その意味で、クドカンこそは文字通り、現代の日本エンタメ界の「韋駄天」であることは間違いありません。

2.大森兵蔵と安仁子

さて、東京高等師範校長(にして講道館館長)嘉納治五郎(役所広司)に協力して、「大日本体育協会」を運営しているのが、大森兵蔵(おおもりひょうぞう)(竹野内豊)と安仁子(シャーロット・ケイト・フォックス)の夫妻です。ドラマの中では、アメリカ帰りの兵蔵が思わず英語を口走り、安仁子が日本語に翻訳し直すという、まるでコントを見ているような、頓珍漢な場面が頻発します。

ドラマの主人公、金栗四三(かなくりしそう)(中村勘九郎)のストックホルム五輪出場が決まるや、安仁子が英会話とマナーの特訓をするのですが、四三を「フォーティスリー!/Forty-Three!」と呼び、東京高師助教授の可児徳(かにいさお)(古舘寛治)を「ミスター・クラブ!/Mr.Crab!」と呼ぶのです。古舘の顔が本当に「蟹」のように見え始めます。

大森兵蔵は日本初のオリンピック代表チームの監督となります。彼は同志社普通校(同志社大学)、東京商業学校(一橋大学)を中退して渡米、スタンフォード大学、国際YMCAトレーニングスクールを卒業して、東京YMCA初代体育主事となった人物です。バスケットボールとバレーボールを日本に導入したのも大森です(因みに、可児徳はドッヂボールを日本に導入した人物です)。

大森安仁子こと、アニー・シェプリーは兵蔵と結婚した時、既に50歳で、兵蔵は19歳も年下でした(Ch・K・フォックスは若くて綺麗過ぎです)。ドラマの中でも、永井道明(ながいどうめい)(杉本哲太)と可児徳の二人が、「あの出しゃばり女め!」「何でも兵蔵はあの女のハウスボーイだったらしいですよ」「ハウスボーイって何だ?」「小僧ですよ!」「道理で尻に敷かれているはずだよな!」と陰口を叩く場面があります。ところが何と、衝立(ついたて)の向こうには大森夫妻がいて、何もかも筒抜けだったのです。冷や汗を流す二人に、安仁子が憎々しげな表情で「何にも、聞こえませんでした!」と怒鳴る所は抱腹絶倒の名場面でした(この時、兵蔵が咳き込んでいるのは、後々の伏線です)。

大森夫妻は私財を投じて、貧困のため学ぶことの出来ない子どもたちのための教育と生活文化向上のための施設「有憐園」を、淀橋区柏木(現・西新宿8丁目)に開設します。日本のセツルメント事業の草分けです。

大森夫妻はクリスチャンでしたが、欧米の信仰や文化を一方的に押し付ける人たちでは無かったようです。ですから、兵蔵が英語を口走るとか、安仁子のマナー教室に四三が疲れ果てるとか、それは飽く迄、コントのネタです。何しろ、安仁子は日本文化にも造詣が深く、64歳の時には「紫式部日記」「和泉式部日記」「更級日記」を併せて英訳し(土居光知と共訳)、それは後に米国で出版されているのです(「Diaries of Court Ladies of Old Japan」)。

3.日本の走るコース

「韋駄天」はヒンドゥー教の軍神「スカンダ/Skanda」が仏教に入って来たものです。スカンダは常に雷神インドラをライバル視していて、決着をつけるため、二人はカイラス山の周りを走って競争するのです。恐らく、この話から「足の速い人」のことを「韋駄天」と呼ぶように成ったのでしょう。

西洋で「韋駄天」と言えば、ギリシア神話の「アキレウス/Achilleus」でしょうか。トロイア戦争の形勢を逆転させた英雄ですが、弱点の踵(かかと)を、敵将パリスの弓で射抜かれて(アキレス腱)、壮烈な戦死を遂げます。そこで思い出されるのが「アキレスと亀」というゼノンのパラドックスです。この世で最も歩みの遅い亀と、最も速いアキレスが徒競走をするのですが、ハンデを貰って先の地点から出発した亀を、アキレスは永遠に追い抜くことが出来ないという数学上のパラドックスです。

アキレスでは無いにせよ、猛ダッシュで西欧文明に追い付こうとした明治日本、戦後日本ですが、未だに追い付けないでいるように思います。何だか、私たちは当初から、自分の走るべきコース(走路)を間違えてしまっていたような気がしてならないのです。

牧師 朝日研一朗

【2019年3月の月報より】

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2019年01月27日

感じて、漢字の世界

1.珍妙な当て字

子どもの頃、新聞記事の見出しに「米軍」という文字があるのを(ベトナム戦争の戦況を伝えていたのでしょう)見て、父親に尋ねたことがあります。「アメリカ人はパン食で、米を食べないのに、どうして「米軍」なの?」。勿論、すぐに父は「アメリカ」の漢字音写「亜米利加」の「米」であることを教えてくれました。

ところが、私も子どもながら簡単には引き下がりません。「それじゃあ、どうして頭文字の「亜」では無いの?」。父が答えます。「他にも「亜弗利加/アフリカ」や「亜拉比亜/アラビア」や「亜爾然丁/アルゼンチン」があるからだ」。私は更に重ねて「フランス人は仏教徒ではなくて、大半はキリスト教徒なのに、どうして「仏」等という文字が当ててあるの?」と尋ねたのでした。父の答えは「音写は適当に近い音の漢字を当てているので、特に深い意味内容は無いのだ」ということでした。父は大学での専攻が人文地理学だったので、こういう話はお得意だったのです。

しかし、相変わらず、その後も、私の頭の中には「米飯給食のアメリカ(亜米利加)軍」「仏像のように螺髪になったフランス(仏蘭西)人」「ハミ子のドイツ(独逸)人」「チューリップならぬ胡蝶蘭を手にしたオランダ(阿蘭陀)人」「土まみれのトルコ(土耳古)人」「埃まみれのエジプト(埃及)人」「いつも素っ裸で歩くロシア(露西亜)人」「ワインに悪酔いしたポルトガル(葡萄牙)人」「インスタント縮れ麺を食べるビルマ(緬甸)人」等が徘徊することになったのでした。

そう言えば、何年か前、八王子在住のドイツ人の漢字研究家が祖国「ドイツ」に「独」の漢字を当てるのは「不愉快だから止めて欲しい」と訴えている新聞記事を読んだことがあります。「獣偏」を使っている所に差別意識が伺えるとのことでした。その関連で言うと「ユダヤ」も「猶太」と書きましたね。「猶」は、猿の一種で疑い深い性質なので「疑う、躊躇う」の意味があるそうです。こっちの方が余程、問題です。

2.映画と当て字

長じて映画ファンに成った私は、戦前の映画を好んで観るように成りました。そしたらあるわあるわ、読めない漢字の外国映画の題名…。まあ、『聖林(ハリウッド)ホテル』に『巴里(パリ)祭』くらいは、誰でも読めるでしょう。

リア・デ・プティのハリウッド進出第1作のヴァンプ物『神我に二十仙(セント)を給ふ』、英国のスパイ映画『空襲と毒瓦斯(ガス)』、ジャネット・マクドナルドの歌も有名な、災害スペクタクル映画『桑港(サンフランシスコ)』、社会諷刺劇『市俄古(シカゴ)』、怪人フー・マンチュウの『成吉斯汗(ジンギスカン)の仮面』、マルレーネ・ディートリッヒ主演の『西班牙(スペイン)狂想曲』、恋愛喜劇の『大紐育(ニューヨーク)』、青春の思い出を描く名作『たそがれの維納(ウィーン)』…。『桃源郷』に「テュランドット」、『胡椒娘』に「パプリカ」とルビを振るに至っては、もはや完全な遊び心です。

「ハリウッド」に「聖林」の漢字を当てたのは「Hollywood」の「holly/柊」を「holy/聖なる」と読み違えたことから来ているのですが、映画の都、即ち、映画ファンにとっての「聖地」という意味で、今でも日本では「ハリウッド」=「聖林」が通用してしまうのですから馬鹿に出来たものではありません。

『七年目の浮気』の香港版のポスターを見た時に、主演女優が「瑪麗蓮・梦露」と成っていたのにも感動しました。言うまでもありません、マリリン・モンローです。「瑪瑙(めのう)」や「睡蓮」のように「麗しく」、「梦(夢)」のような美女で、少し「露出」あります…みたいな…。面白すぎる。

他にも挙げて置きます。エリザベス・テイラーは「伊莉沙白・泰勒」、ソフィア・ローレンは「蘇菲亞・羅蘭」、ブリジット・バルドーは「碧姫・芭社」、グレイス・ケリーは「格蕾絲・凱利」、エヴァ・ガードナーは「愛娃・嘉コ納」、キャサリン・ヘップバーンは「凱瑟琳・赫本」、オードリー・ヘップバーンは「奥黛麗・赫本」です。漢字を見ると発情してしまいそうです。

3.聖書と当て字

礼拝のメッセージや聖書研究の準備などをしていて、疲れた時には、私は中国語訳聖書を開くようにしています。「和合本/Chinese Union Version」という、中国語圏で最も普及している翻訳聖書です。

中国語訳聖書の何が面白いかと言って、やはり、固有名詞の当て字です。「伊甸園/エデンの園」、「亞當/アダム」と「夏娃/エバ」、「該隠/カイン」と「亞伯/アベル」、洪水と来たら「挪亞/ノア」、族長は「亞伯拉罕/アブラハム」「以撤/イサク」「雅各/ヤコブ」。エジプトからカナンへ「約瑟/ヨセフ」「摩西/モーセ」「約書亞/ヨシュア」「參孫/サムソン」。王様は「大衛/ダビデ」「所羅門/ソロモン」。預言者は「以利亞/エリヤ」「以利沙/エリシャ」に「以賽亞/イザヤ」「耶利米亞/エレミヤ」「以西結/エゼキエル」…。

女性の名前を補充しましょう。「撤拉/サラ」「利百加/リベカ」「利亞/レア」「拉結/ラケル」「她瑪/タマル」「米利暗/ミリアム」「大利拉/デリラ」「路得/ルツ」「拔示巴/バトシェバ」「耶洗別/イゼベル」「以斯帖/エステル」…。

新約に移って、「耶穌基督/イエス・キリスト」は言うに及ばず、「馬利亞/マリア」「希律/ヘロデ」「約翰/ヨハネ」「撤但/サタン」「拿撤勒/ナザレ」「西門・彼得/シモン・ペトロ」「法利賽/ファリサイ」「耶路撤冷/エルサレム」「本丟・彼拉多/ポンティオ・ピラト」「巴拉巴/バラバ」「各各多/ゴルゴタ」「抹大拉的馬利亞/マグダラのマリア」「保羅/パウロ」。福音書記者は「馬太/マタイ」「馬可/マルコ」「路加/ルカ」です。

牧師 朝日研一朗

【2019年2月の月報より】

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2018年12月30日

新しい時をめざし

1.大アルカナ

荒木飛呂彦の人気マンガ『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズには、ディオ・ブランドーという強烈な悪役が登場します。彼は己の野望を遂げるために、自ら「石仮面」を被り、吸血鬼と成る道を選びます。更には、魔女エンヤ婆によって「スタンド/Stand/幽波紋」と呼ばれる超能力を手に入れるのでした。「スタンド」とは、能力者(術者)が自由に操ることの出来る守護霊のような存在です。

第3部では「DIO」という名前で、大勢の「スタンド使い」を手下に加えて、世界を支配しようとしています。このDIOが操るのが「世界(ザ・ワールド)」というスタンドです。時間を停止させた上で、敵を自由に攻撃する事が出来るのです。そして、DIOがスタンドを発動させる時、「『世界(ザ・ワールド)』ッ! 時よ止まれ!」と叫びます。そして、彼が「時は動き出す」と呟いた時には、既に敵は死んでいる訳です。

「世界/ザ・ワールド」とは、タロットカードの「大アルカナ」第22番目のカードです。カード番号は0から始まりますので、「]]T」と表示されていますが、実際には22番目なのです。「大アルカナ」はヘブライ語のアルファベット22文字に対応するとされています。最終カードですから「ターウ」に該当します。「成就、完成、総合、完璧」等の意味があります。ギリシア語なら「オメガ/Ω」(「わたしはアルファであり、オメガである」)、英語なら「ゼット/Z」(『ウルトラマン』の「ゼットン」、『マジンガーZ』、『ドラゴンボールZ』、『ワールド・ウォーZ』)です。

2.時よ止まれ

「時よ止まれ!」という宣言は、恐らく、ゲーテの戯曲『ファウスト』の禁句から来ているのでしょう。この世に絶望したファウストの前に、悪魔メフィストフェレスが現われて、契約を交わします。

(メフィストフェレス)「どうです、手を打ちませんか。/御契約をなさいませんか、あなたがこの世にある限りは/わたしの術でたんと面白い目を見せて差し上げます。/まだ人間が見たこともないような面白いものをね」。(ファウスト)「己がある刹那に向かって、『とまれ/お前は本当に美しい』といったら/己はお前に存分に料理されていい。/己はよろこんで滅んで行く。/そうしたら葬式の鐘が鳴るがいい/その時は君の奉公も終るのだ。/時計が停り、針も落ちるがいい。/己のすべては終るのだ」(高橋義孝訳)。

「とまれ、お前は本当に美しい/Verweile doch! Du bist so schön」。「この瞬間よ止まれ、汝は如何にも美しい」とか「時よ止まれ、君は美しい」等、訳し方は色々ですが、要するに「それを言っちゃあ、おしめぇよ」です。禁じ手だけに強烈な力のある呪文(ファウストにとっては自己呪詛)と成っているのです。

さて、マンガの世界と違って、私たちには「時を止める」ことは出来ません。旧約聖書の「列王記下」20章(もしくは「イザヤ書」38章の並行記事)には、神さまが「日時計に落ちた影を、十度後戻りさせ」て、つまり、時を巻き戻して、ヒゼキヤ王の病を癒して寿命を延ばす徴としたというエピソードがあります。しかし、神ならぬ人の身である私たちには、勿論、時間を巻き戻すことも出来ません。

しかし、一つだけ出来ることがあります。新しく出発することです。元日に新年の抱負を語り合ったり、その決意を書初めにしたりするのも、再出発のチャンスとするためです。初夢にその年の運勢が表われると言ってみたり、初詣に行った人たちが御神籤を引いてみたりするのも、仕切り直しでしょうか。日本で「正月三が日」を休んでいるのは、仕事を休むことで、象徴的に「時を止める」宗教的な儀礼なのかも知れません。

3.新しい時を

古今東西、新年は大きな節目とされて来ましたが、毎日を新しい日として受け止めることも出来ると思います。例えば、古代エジプトでは、1日は夜明けと共に始まるとされていました。日本と同じです。ところが、メソポタミアでは、1日は夕方から始まったのです。ギリシアでは、1日は日没から日没までとされていました。ローマでは、現在と同じく夜半から1日の時間経過を考えていました。このように国や文化、宗教によって「始まり」の感覚は違うのです。

旧約聖書でも幾つかの文脈では、1日が朝から始まったとする表現があります。しかしながら、比較的後期の文書では、1日は日没から日没までとしているのです。そして、ユダヤ教では1日を日没から考えるように成りました。旧約聖書の中ですら、異なる考え方があったということです。

ともかく、毎日毎日を新しく生きることが望ましいのですが、残念ながら「日日是好日」として「日々新たにされて」生きるのは、案外と難しいことなのです。

そこで1週間ごとに「新たにされて」出発しようというのが「主日礼拝」を守る習慣です。古代のクリスチャンたちは「週の初めの日」を「主の日/キュリアケー・ヘメラ、ヘーメラ・トゥ・キュリオゥ」として守りました。ラテン語で「Dies Domini/ディエース・ドミニ」と言いました。フランス語の「ディマーンシュ/dimanche」もイタリア語の「ドメニカ/doménica」もスペイン語の「ドミンゴ/domingo」も「ドミヌス/Dominus/主」という語が起源です。日曜日ごとに復活の主を礼拝し、日々の罪を赦され、思い煩いを取り払われ、イエスさまの慰めと励ましを頂いて、再出発することが出来るのです。

現代人は肉体の健康や美容にばかり目を奪われて、魂の健康と美容は疎かにしているように思います。新しい年、主日を守る生活をすることで、内面から輝こうではありませんか。

牧師 朝日研一朗

【2019年1月の月報より】

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