一、スパゲッティ
イマドキの若い人たちが「オンラインゲーム」にハマった挙句に「ゲーム依存症」になって、やがては「ネトゲ廃人」…等という、ごく月並みな固定観念しか抱いていなかった私にとって、「オンライン」というレトロニム(再命名)用語は、どこかしら自分には関わりの無い事柄と感じていました。
ところが、今や「コロナ禍」も手伝って、何かと言えば、公然と「オンライン」です。多くの企業では「オンライン会議」が当たり前。学校は「オンライン授業」、学習塾から習い事まで「オンライン・レッスン」、病院は「オンライン診療」です。友人たちと「オンライン飲み会」をして、恋人たちは「オンライン・ディナー」です。食事もネット注文で「ウーバーイーツ」や「出前館」が宅配してくれます。エンタメやアートの世界も「オンライン・イベント」「オンライン・コンサート」の花盛り。それと軌を一にするようにして、キリスト教や仏教などの宗教の世界でも「オンライン礼拝」が確実に拡がり始めています。
振り返ってみれば、もう何年も前から、ネットショッピング(オンライン通販)で、どんな品物でも注文できて、「買い物カゴ」に入れたら、翌日には品物が届くという時代に成っていたのでした。わざわざ映画館に行かなくても、オンラインで新作映画を観ることが出来るのでした。それどころか、最近では「Netflix」「Amazon Prime Video」「Hulu」等の「VOD/ビデオ・オン・デマンド」の動画配信でなければ観ることの出来ない作品が一杯です。
二、ラインの黄金
何もかもが一斉に雪崩を打って「オンライン」に移行しているかのように見えますが、これは勿論「オンライン」のシステムが莫大な富をもたらしているからです。その大元にいるのは、消費資本主義のマモン(富の悪魔)であることを忘れてはなりません。
オンラインは利用者にとって便利で快適です。お気に入りの品物を探し歩いたり、雨の日に外出したり、店員とやり取りする必要もありません。自室に居ながらにして、サービスを供給してくれているように思えます。しかし、それは金銭を支払って得られる「有料サービス」です。その代償として、私たちの口座からは預金が引き落とされています。そして何より、オンラインの有料サービスを利用することにより、私たちは、自分たちの側がサービスすることを忘れてしまうのです。
実際に足を運んでも無駄足に終わることが多々あります。折角辿り着いたお店が閉店していたり、見付からないこともあります。「骨折り損」です。けれども、そこにこそ、私たちの愛があり、サービス(仕えること、礼拝すること)があるのです。
「真っ直ぐなる線が最も短し/līnea rēctā brevissima/リーネア・レークター・ブレウィッシマ」というラテン語の格言があります。十九世紀フランスの政治家、フランソワ・ギゾー(カルヴァン派でした)の言葉と伝えられます。目的の早期達成を最優先する国家主義的な言葉です。しかしながら、私はこのように言い換えたいと思います。「オンライン万能の時代も、案外と短いのではないか」と。
【会報「行人坂」No.260 2020年12月発行より】