2021年08月26日

アルファベット談義

1.コロナの変異株

8月下旬現在、東京都内の新型コロナウイルス新規感染者の殆ど(99%)が「デルタ株」に置き換わったと言われています。報道などで「デルタ株が猛威を振るっている」という言い回しを耳にすることが多くなりました。

「デルタ/δ」はギリシア語で、英語のアルファベット「d」に当たります。インド由来の変異種ですね。その前に流行していたのが、イギリス由来の変異種「アルファ株」でした。「アルファ/α」もギリシア語です。

他にも、南アフリカ由来の「ベータ/β」株とか、ブラジル由来の「ガンマ/γ」株とか、ペルー由来の「カッパ/κ」株もありました(麺麻や河童なら良かったのに…)。最近では、東京五輪の影響なのか、ペルー由来の「ラムダ/λ」株も国内で発見されています。現在、南米の感染者の20%は「ラムダ株」に感染しているとされています。

ギリシア語で「アルファ/α」「ベータ/β」「ガンマ/γ」「デルタ/δ」と順番に来ているのに、その後「エプシーロン/ε」「ゼータ/ζ」「エータ/η」「セータ/θ」「イオータ/ι」と、4つも飛ばして、どうして「カッパ/κ」「ラムダ/λ」に成るのかと、疑問に感じていました。…そう思って「国立感染症研究所」のデータを覗いてみたら、4つの変異株も、ちゃんと載っていました。リスク評価が低いので、名前が出て来なかったんですね。

それはともかく、WHO(世界保健機構)は変異種を3つの枠に分類しているようです。@「懸念される変異株」、A「注目すべき変異株」、B「甚大な被害が想定される変異株」です。「アルファ」「ベータ」「ガンマ」「デルタ」は@に分類されていて、「ラムダ」はAに分類されています。今の所、Bの存在は確認されていません。「災害級」と言われる「デルタ株」ですら、未だBの域に達していないということです。

2.アルファオメガ

ギリシア語のアルファベットの文字は、未だ13も残っています。これからも「新型コロナウイルス」の変異は続いて行くのでしょうか。因みに、最後の24番目に控えているのが「オーメガ/ω」です。「オーメガ」は「ああ、デカイ!」という感嘆語です。今風に言えば「ああ、ヤバイ!」ですかね。「オメガ/Ω」は「腕時計だけにして貰いたい」というのが、私の正直な感想です。

「オーメガ」の小文字「ω」はマンガの子猫の口元のように可愛いのに、大文字「Ω」を見ると、原水爆実験のキノコ雲を思わせるではありませんか。そんな妄想に耽っていると、キリストの御言葉が聴こえて来ました(ああ、ヤバイ!)。「わたしはアルファであり、オメガである」(「ヨハネの黙示録」1章8節、21章6節、22章13節)。

「アルファ」はギリシア語の最初の文字、「オメガ」(正確には「オーメガ」)は最後の文字です。それで「ヨハネの黙示録」では、この御言葉に続いて「最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」と宣言されるのです。

現在でも、礼拝堂の講壇やステンドグラスなどに「アルファ/Α」と「オメガ/Ω」が組み合わせ文字「アルファオメガ」として描かれていたりします。カトリック教会などの壁画では、右手で祝福のポーズ(人差し指と中指を伸ばす)、左手に聖書を抱えたキリストが天の玉座に腰掛けている御姿で描かれています。その背景に、万物の始まりを示す「アルファ」、万物の終わりを示す「オメガ」が描かれています。

「わたしはアルファであり、オメガ」は「ヨハネの黙示録」のオリジナルではなくて、旧約聖書「イザヤ書」が典拠です。「イザヤ書」41章4節「この事を起こし、成し遂げたのは誰か。/それは、主なるわたし。/初めから代々の人を呼び出すもの/初めであり、後の代と共にいるもの」。44章6節「わたしは初めであり、終わりである。/わたしをおいて神はない」。48章12節「わたしは神、初めであり、また終わりであるもの」。

3.タウ十字架伝説

この段階では、ヘブライ語の「ローシュ/初め」と「アハリート/終わり」という語が使われているだけです。しかし、後のラビ文書(「ミシュナ」や「タルムード」)の中で、ヘブライ文字の最初と最後、即ち「アーレフ」と「ターウ」の文字の組み合わせが用いられるようになったそうです。

要するに「アルファオメガ」とは、@神が「永遠の存在/the Eternal One」であること、更には、A万物の本源であること、Bそこから神の命の力を与えられたキリストこそが万物の「完成者」であること、そのような信仰の告白なのです。そう言えば、ヘブライ文字の最後の「ターウ」には「記号、印」の意味に加え(現代ヘブライ語では「音符」も「ターウ」です)、「十字架」という意味もあるという与太話も聞いたことがあります。

それは恐らく「タウ十字架」のことでは無いかと思います。英語の「T」に当たるのがギリシア語「タウ/Τ」ですが、音の近いヘブライ語の「ターウ」と混同されたのでしょう。要するに「T字型をした十字架」のことです。イエスさまが貼り付けにされた十字架は、私たちが礼拝堂に掲げている「ラテン十字架」ではなくて、史的には「タウ十字架」だった可能性が高いとされています。

「エゼキエル書」9章4節では、神さまが預言者エゼキエルに「都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印(ターウ)を付けよ」と命じています。この「印」が「タウ十字架」を指すと考えられたのです。アッシジのフランシスコは自らの修道会に「タウ十字架」を採用し、「清貧、貞潔、従順」の誓いの印としたのでした。「嘆き悲しむ者」全ての慰めを祈りつつ…。

牧師 朝日研一朗

【2021年9月の月報より】

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2021年07月31日

我々は単なる数なり Numerus sumus

1.核兵器五輪

コロナ禍の今、オリンピック東京大会が開催中です。私も息子と一緒に、サッカー日本代表の試合だけは欠かさず観ていますが、「平和月間」の8月に相応しく、核弾頭保有国のランキングを発表したいと思います。

ロシア6,260発、米国5,550発、中国350発、フランス290発、英国225発、パキスタン165発、インド160発、イスラエル90発、北朝鮮40発(2021年6月1日現在、長崎大学核兵器廃絶研究センター)と成っています。しかも、現在の核兵器1発の破壊力は、広島型原爆「リトルボーイ」の百倍と言われています。あの「リトルボーイ」等というフザケタ名前の通りに、かつての原爆の破壊力が如何にも「ごく小さい」と言われているかのような、異常な錯覚に陥りそうです。

世界に1万3千発余の核兵器が存在し、総計6千6百メガトンの破壊力があると言われています。広島の「リトルボーイ」が15キロトン、長崎の「ファットマン」が21キロトンです。「メガトン」とは「キロトン」の千倍を意味します。つまり、TNT爆薬の爆発に換算すると、1メガトンは百万トンです。その6千6百倍ですから、66億トンでしょうか。原爆投下直後の広島や長崎の惨状を思い浮かべながら、その3億倍、2億倍をイメージしてみるしかありません。

勿論、そんなことを、原爆を体験していない私たちがイメージすることは不可能です。けれども、その2億倍なんて、たとえ被爆者の人でも想像することは出来ないでしょう。

2.関心喪失点

先日、逝去されたジャーナリスト、立花隆が「単位とイメージ」という文章の中で、こんなことを書いていたのを思い出します。少し長くなりますが、引用させて頂きます。

「核兵器の実験があるたびに、あるいは核戦略が問題にされるたびに、われわれはメガトンということばをきき、広島原爆何千発分という表現をきく。しかし、広島の被爆者のケロイドの写真を見て、食事がノドを通らぬ思いをした人たちでさえ、そうした数字をきいても、まるっきり無感動に受け止めてしまっている。」

「なぜだろうか? 慣れだろうか? それもある。が、それだけではない。人間には、イメージできる量の限界がある。量が大きくなりすぎても小さくなりすぎても、人間は無感動になって、関心を失ってしまう。」(立花隆著『文明の逆説』講談社文庫より)

この後、立花は「パーキンソンの法則」(Parkinson’ s law)を援用します。シリル・ノースコート・パーキンソン(Cyril Northcote Parkinson)は英国の政治学者・歴史学者です。自国の官僚制を分析した結果、人間が金額に対して(それも大きな金額と小さな金額に対して)「関心喪失点」を持っていることを発見したのです。

英国の財務委員会が1千万ポンドの原子炉建造計画の予算見積もり審議に要した時間は僅か2分半だったそうです。それに対して、事務職員の自転車置き場を350ポンドで作る予算審議に対しては、「屋根をトタンにすれば300ポンドで出来る」という意見が出て、45分間の議論。共同福祉委員会の会合の茶菓代、月35シリングの予算請求に対しては、1時間15分も沸騰した議論が続いたと言うのです。

多分、この時代(1950年代末)は1ポンドが(現在の貨幣価値で)5千円くらいの時代です。シリングは1ポンドの20分の1ですから、茶菓代35シリングは8,750円。自転車置き場の300ポンドは150万円。原子炉建造は500億円です。

ここからパーキンソンは、小さい数字の「関心喪失点」は、その人が賭け事で失っても良い金額、もしくは、慈善団体に寄付しても良いと思っている金額に等しいとしました。大きい数字の「関心喪失点」について、パーキンソンは書いていなかったそうで、立花は「私見だが、たぶんその人が一どきに費消した経験がある金額の十倍から二十倍くらいが極大点になるのではあるまいか」と述べています。

3.数字の魔力

例えば、悪名高き「アベノマスク」の費用総額は260億円だったそうです(内、配送費76億円)。当初言われていた466億円に比べれば、ズッとマシですが、それでも、詰まらない思い付きのために行なわれた、途方も無い無駄遣いです。私が安倍元首相なら国民に申し訳なくて、首を括っているはずです。

「東京オリンピック・パラリンピック」の大会経費は(今の所)1兆6440億円と言われています。歴代五輪の中で最も経費がかかった大会と成る見込みです。しかも、これまた、チケット販売などの回収は無くなり、観客による宿泊費、旅行費、飲食費などで事業者に零れ落ちる利鞘も全く見込めなくなりました。「夢の跡」には、用途を失った沢山の巨大施設が残ることでしょう(選手村はマンションとして売り出すそうですが…)。五輪の後も、しばらくは、各種競技の大会などを積極的に誘致するのでしょうが、そんなに利用料を見込めるものではありません。

結局、1兆6440億円と聞いても、260億円と聞いても、私たちにとってはイメージすることの出来ない数字です。核爆弾の66億トンも同様です。コロナの感染者数、死者数、重症患者数などの発表にも、私は大きな違和感を抱いています。その一人一人に人生があり、暮らしがあり、愛する家族が居るのです。それが全く見えない。

アッシリア帝国に攻め滅ぼされようとする、北王国イスラエルに向かって、ホセアは言いました。「これはあなたがたが自分の戦車を頼み、/勇士の多いことを頼んだためである。」(ホセア書10章13節/日本聖書協会訳)。

牧師 朝日研一朗

【2021年8月の月報より】

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2021年06月23日

カインの烙印

1.毒の盛り皿

「東京都の小池百合子知事は31日、新型コロナウイルスの新たな感染者が463人確認されたと発表した。30日の367人を上回り、2日連続で過去最高を上回った。200人を超えるのは4日連続。100人を超えるのは23日連続となる。7月の累計は6466人となり、最多だった4月の3748人を大きく上回った。…」

これは「朝日新聞デジタル」から拾い出した記事です。但し、昨年の記事です(2020年7月31日)。僅か1年前の記事ですが、これを読むと、長期化する「コロナ禍」の中で、私たちの感覚がどんなに麻痺してしまっているか分かります。因みに、2021年7月22日、東京の新規陽性者数は435人、遡って1週間の平均は405.9人、6月6日から22日までの17日間累計は7043人と成っているのです。

ワクチンの大規模接種、職域接種などの様子が盛んに報道され、声高に喧伝されるにつれて、人流の抑制が効かなくなっています。私の身の周りでも、二度のワクチン接種を終えた高齢者からは「安心しました」という喜びの声が聞かれます。「個人的な安心感」という意味では、誠に結構な話です。しかし、この国が「集団免疫」とやらを獲得するには「程遠い」という厳しい現実認識を持つべきかと思います。国民の7割が接種すれば「集団免疫」が獲得されると言われていますが、現在、1回のみの接種者が18%、2回接種者が8%、つまり、国民の2割程度に過ぎないのです。

昨今の人流増加、根拠なき安心感については「箍(タガ)が外れている」と感ぜざるを得ません。この危機感の欠落、感覚の麻痺には度し難いものがあります。「カミカゼ五輪」「本土決戦」断行も相俟(あいま)って、「毒を喰らわば皿まで」という事でしょうか。

2.悪魔の奴隷

身体機能の「麻痺」は「パララシス/paralysis」と言います。この語と「オリンピック」とを組み合わせた造語が「パラリンピック/Paralympic」です。「マルコによる福音書」2章には「中風の人/パラリュティコス」が登場して、イエスさまによって癒されています。その語源がギリシア語である事が分かります。

それでは、身体機能の「麻痺」ではなく、「心の麻痺」の方は如何でしょうか。「テモテへの手紙T」4章に、人々を迷わせて信仰の道を踏み外させる「偽り者/プセウドロゴス」に対する批判の言葉があります(「プセウドス/虚偽」+「ロゴス/言葉」)。4章2節「このこと(信仰から脱落する者がいる事)は、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。彼らは自分の良心に焼印を押されて居り」、善男善女の結婚を禁じたり、食物規定を強要したりしていたそうです。

「良心に焼印を押されている」は余り直訳に過ぎて、私たちには何の事なのか、チンプンカンプンです。福音派の「新改訳」は「彼らは良心が麻痺しており…」と訳しています。これが分かり易い。ここには「カウステーリアゾー/焼印を押す」という動詞が使われています。そこで「自分の良心を焼き金で焼かれている、自分の良心に焼印を押されている」と訳されているのです。古代社会には、所有者が家畜と同じように「奴隷に焼印を押す」習慣があったと思われます。そこから「罪の奴隷、悪魔の奴隷に成っている」という意味に転じたと言うのです。つまり、自身の「良心が悪魔の奴隷(所有物)に成っている」とするならば、それ即ち「良心が麻痺している」事なのです。

「良心」は英語で「コンシャンス/conscience」と言います。「コン/con-」は「com-/共に」、「サイエンス/science」は(「科学」と訳される事が多いですが)本来は「知識」です。ギリシア語も同じで、「良心」と訳されている「シュネイデーシス」は「シュン/共に」+「ヌース/知識、思考、分別」なのです。語源の「シュノイダ」という語は「ある事柄を誰かと共に知る、共に考える」事なのです。ですから、独り善がりや独断専行は「良心」から最も懸け離れた横暴なのです。「最初から結論ありき」等というのは、まさしく「良心を悪魔の奴隷にして」しまっているのです。

3.偽ブランド

その昔、アラン・ラッド(『シェーン』の人)主演の『烙印/Branded』(1950年)という西部劇がありました。賭博師が悪党に唆されて、行方不明の牧場主の息子に成り済まして、牧場の財産を横領しようと企んだものの、牧場主の娘を愛するようになって、善の道に立ち帰るという粗筋です。題名の「ブランデッド」とは、牧場主が焼印を押して、自らの所有とした畜牛(cattle)の事です。

つまり「ブランド」があるか無いか、どんな「ブランド」が押されているかで、所有者が判別されるのです。他所の牧場の「烙印/ブランド」のある畜牛を持っていたら、「牛泥棒」として縛り首にされるのです。現代では「ブランド品」等と言って「商標、銘柄」という意味で使われますが、「偽ブランド」を販売したら、手が後ろに回るのは同じです。言うまでもありませんが、「オリンピック」もブランドです。

五輪のエンブレムの入った商品に、特別な価値があるとされているのは、ブランドだからです。五輪のメダリストに対しても「レジェンド」として最高の敬意が払われています。私もスポーツ観戦は好きですから、目くじらは立てたく無いのですが、「オリンピック貴族」とも言われる「IOC/国際オリンピック委員会」一族による、破格の贅沢三昧な要求などを耳にするにつけ、アスリートの流す血と汗と涙を(それに加えて国民の税金を)糧にして私腹を肥やし続けている人たちがいるのだと実感しました。「感動のドラマ」の陰で、ビッグマネーが動く、このカラクリだけは、この際、見据えて置いた方が良いと思います。

牧師 朝日研一朗

【2021年7月の月報より】

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2021年05月29日

ひとりぼっちじゃない

1.ぼっち礼拝

当教会では「緊急事態宣言」発出に伴う休止中には、音声配信を行なっています。けれども、これは所謂「ライヴ」ではなく、事前に「録音」されたものです。それとは別に、日曜日の午前10時半に、牧師は礼拝堂において、会員とその家族、教友、CSの子どもたちとその家族のために祈りを奉げています。お一人お一人の名前を唱えてお祈ります。勿論、コロナ禍の収束のためにも祈れないではいられません。

カトリック教会では、聖職者(司教、司祭、助祭)のみで「非公開ミサ」を執り行なっているそうです。プロテスタント教会でも大規模教会では、数名の教職(牧師、副牧師、伝道師)が通常のプログラムに則って、礼拝を執り行なっているそうです。それを「YouTube」で配信なさっているのです。

さて、私の場合ですが、独りで祈っているので、冗談半分に「ぼっち礼拝」等と名付けていました。それを妻(現在、京都にいます)に言うと、このように叱咤されたのでした。「そんな悲しいことを牧師が言っちゃいけないよ。神さまがいらっしゃるでしょう!」。

自分の愚かさに呆然としました。そんな当たり前のことすらも、私は忘れてしまっていたのです。否、むしろ、私たちが「独りぼっち」と感じる時にこそ、孤独や孤立、疎外に悩んでいる時にこそ、主なる神は側近くにいて下さるのです。

2.共にある主

その秘義を私たちに最も明らかに示してくれたのが「インマヌエル/神は我々と共におられる」という御言葉であったはずです。この「インマヌエル」という語は、有名なクリスマスの記事の中に出て来ます。許婚のマリアの懐妊を知り、離縁しようと悩むヨセフに、主の天使が語り掛けたのでした。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/その名はインマヌエルと呼ばれる。」(「マタイによる福音書」1章23節)。この「インマヌエル預言」は「イザヤ書」7章14節からの引用です。ヘブライ語の「インマーヌー・エール」の「エール」が「神」です。「イム」が「共に」、「アーヌー」が「私たち」です。直訳は「神は我らと共に」です。従って「おられる」とか「いる」とかの動詞は、飽く迄も説明的な付加に過ぎません。

例えば、ドイツの宗教改革者、マルティン・ルターは、ヴォルムスの国会に召喚されて審問を受けた時、「我ここに立つ。他に為し能はず。神よ、我を助け給へ。/Hier stehe Ich. Ich kann nicht anders. Gott hilffe mir.」と言ったそうですが、この「我ここに立つ」も「神は我らと共に」を前提としていると考えられます。

ルターの名文句「我ここに立つ」は、ディズニーの大ヒット映画『アナと雪の女王』の、これまた大ヒットナンバー「ありのままの/Let It Go」の中の、最も重要な歌詞に受け継がれています。「Here I stand and here I stay/ここに私は立つ、ここに私は留まる」です。怪物呼ばわりされ、祖国を追われたエルサが最果ての山に辿り着き、そこに自らの氷の城を築き、自分独りで生きて行く決心を謳い上げる、最も感動的な場面です。「ここに立つ!」と、自らの足でドンッと地を踏むエルサの姿は、恐らく、これを幼少時に観た少女たちの心に深く刻まれたはずです。そして、もう後10年もすれば、その子たちが声を上げ始めるに違いありません。これもまた、ルターの遠い反響なのです。

3.孤独の中で

ベン・E・キングの大ヒット曲「スタンド・バイ・ミー/Stand by Me」(1961年)もまた、同じ心情を歌ったナンバーです。実は「スタンド・バイ・ミー」は、黒人霊歌「主よ、我が傍らに立ち給え/Lord, Stand by Me」(1905年)にインスパイアされたものだと言われています。要するに「神への呼び掛け」を「友への呼び掛け」に置き変えたのですが、あの歌を聴いて、私たちの魂が震えるのは、その底流に「神への呼び掛け」が隠されているからなのです。「孤独な魂」の叫びなのです。

コロナ禍の現在、孤独に苦しみ悩む人が増えていると聞きます。インターネットに飛び付く気持ちも分からないではありませんが、ネットの世界は「危険がいっぱい」です。むしろ、こんな時だからこそ、自らの孤独を深めて欲しいと、私は思うのです。実は、信仰にとって「孤独」は重要な要素です。魂が孤独でなければ、本当に神に近付くこと等は出来ないのです。神さまを呼び求めることもないのです。

14世紀ドイツの神秘主義者、マイスター・エックハルトは「離在/アプゲシャイデンハイト/Abgescheidenheit」という語で表現しました。独和辞典では「隠遁、隠居」等と訳されていますが、神秘主義の研究者の間では「離在、離脱」と訳されています。「思い煩いなく純粋であろうと欲する者は、唯一のもの、即ち、離在を得なければならない」。これはエックハルトが「ルカによる福音書」10章41〜42節「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、なくてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」(協会訳)という御言葉に付け加えた註釈です。

この世から離れ、社会から退き、愛する家族や友と別れ、独りぼっちになった時、その時にこそ「なくてならぬものは多くは無い。たった一つである」と仰る御方に近付くことが出来るのでは無いでしょうか。孤独の中でこそ「共に居られる」神と出会うのです。

16世紀のスペインの神秘家、サン・ファン・デラ・クルス(十字架の聖ヨハネ)も言います。「孤独な鳥の条件は五つある。/第一に、孤独な鳥は高く高く飛ぶ。/第二に、孤独な鳥は仲間や同類に煩わされない。/第三に、孤独な鳥は嘴を天に向ける。/第四に、孤独な鳥は決まった色を持たない。/第五に、孤独な鳥は優しく歌う」。

牧師 朝日研一朗

【2021年6月の月報より】

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2021年04月25日

天国への階段

1.ツェッペリン

もう長い年月、久しく忘れていた、一つの光景と音色が蘇って来ました。

障碍のある次男が京都の大学に進学し、その支援のために妻も京都に行ったことが契機となり、母教会のメンバーと約30年ぶりに連絡を取り合うようになったのです。

学生時代に通っていた母教会では、礼拝が終わると、毎週「ポトラック/Potluk」(持ち寄りの食事会)が行なわれていました。貧乏学生の私たちは、専ら食べる係でした。いや、それは幾ら何でも言い過ぎ。食事の後片付け(テーブルや椅子の収納と皿洗い)を担当していました。しかしながら、牧師から「お前、日頃ろくなもん食ってないんだから、もっと食べろ」等と勧められるまま、それを真に受けていたのは事実です。片付けが終了すると、庭に出てタバコを吸ったり、皆で次の会報の相談をしたり、お喋りをしながら、のんびりと日曜日の午後を過ごしていたものです。

そんな傍らで、Y君はアコースティックギターを爪弾いていました。礼拝の奏楽のために彼が持ち込んだギターでしたが、今思えば、下宿で練習するよりも、心置きなく弾けたからかも知れません。練習していたのは、どれもブリティッシュ・ロックの曲でした。その定番の練習曲の1つが、1970年代英国のロックバンド、レッド・ツェッペリン(Led Zeppelin)の「天国への階段/Stairway to Heaven」(1971年)でした。勿論、彼が弾くのは、ギターソロのイントロ部分だけだったのですが、私も大スキな曲だったので、彼がそれを弾き始めた時だけは、思わず、うっとりと耳を傾けていたものです。

因みに、当時、文学部国文学科に在籍していて「作家になりたい」と言っていた、そのY君も牧師になり、今は岩手県の教会にいます。

2.メイクイーン

急に思い出したのは、主の「昇天日/Ascension Day」のことを考えていたからでもあります。イースター(復活日)から40日目の木曜日が「昇天日」です。「使徒信条」に「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまへり」とあるように、このキリスト昇天こそが復活の御業の完成とされています。実は「偲ぶ会」(昨年、コロナ禍のために延期された)を5月に開催することにしたのも、この「昇天日」に因んでのことです。

そこで、ツェッペリンの「天国への階段」を聴き直してみると、歌詞の中に「生垣の中からざわめきが聞こえても驚かなくていい/それはメイクイーンを迎えるための掃除なのだから」という一節があったりして、益々、啓示のように感じてしまったのでした。「メイクイーン/May queen」は文字通り「五月の女王」です。「五月祭」の際に、白いドレスを着て、花の冠を被って踊る少女のことです。勿論、ジャガイモの「メークイーン」という品種も英国発祥で、「五月の女王」から採られたものです。

大学時代の先輩(これまた国文科)Mは、福岡女学院で国語の教師をしています。彼から女学院では、毎年5月18日の創立記念日には「メイポール・ダンス」が行なわれると聞いてビックリしたことがあります。「メイポール/五月柱」と呼ばれる、飾り付けをした柱の周りで、夏服(当然、白い)に衣替えした女学院の生徒たち(中学2年生)が、柱に結ばれた紅白のリボンを持って、大群舞を繰り広げるのです。ポールの高さは3.5メートル、リボンは12本です。学年全員が参加するのですから、校庭にポールは何本も立てられるのでしょう。1916年から行なわれているそうです。「それで、ジャガイモの女王を選ぶんよね」と言われて、思わず「それって、メークイーンじゃん!」と応えたのを思い出します。

福岡女学院はセーラー服の発祥校としても知られていますが、創立者は、米国メソジスト監督教会の宣教師、ジェニー・ギール(Jenny Gheer)です。厳格なメソジスト系の学校で、キリスト教以前に遡る習俗が行なわれているのは奇異に思われます。しかし、そこにも歴史の変転があるのです。英国本土では、イースターやペンテコステ(聖霊降臨日)にも「メイポール・ダンス」が行なわれていたのですが、ピューリタン(清教徒)の批判を浴びて一旦は廃れました。それが、19世紀末に民謡収集家のセシル・シャープ(Cecil Sharp)のフィールドワークにより発掘、再評価され、学校教育に導入されるに至ったそうです(讃美歌104番「愛する二人に」(The Water Is Wide)が歌えるのも、この人の御蔭です)。

3.グリッターズ

さて、ツェッペリンの「天国への階段」は、こんな歌詞で始まります。「輝くもの全て黄金なりと信じる婦人がいる。/彼女は天国へと続く階段を買おうとしている。/そこに辿り着きさえすれば/たとえ商店が全て閉まっていても/それが一言で手に入れられると思っている。/ああ、彼女は天国への階段を買うつもりなのだ」。

作詞・作曲は、ジミー・ペイジ(Jimmy Page)とロバート・プラント(Robert Plant)の共作ということに成っています。ペイジの静かなアコースティック・ギター・ソロ、プラントの呟きか呻きのような歌声で始まり、最後にはハードなシャウトに達して、また静かに終息して行きます。演奏時間8分にも及ぶ大曲です。

実は、冒頭の「輝くもの全て黄金なり」と思い込んでいる女性の妄執は「輝くもの全てが黄金に非ず/All that glitters is not gold」(「輝くものが全て黄金であるとは限らない」)という言葉のモジリなのです。シェイクスピアの『ヴェニスの商人』の中で、ポーシャに求婚したモロッコの大公が、彼女に渡した黄金の宝石箱の中に入っていた紙切れの警句、それが「輝くもの全てが金に非ず」だったのです。

今の世の中は「光輝くもの/グリッターズ」に満ち溢れています。しかし、私たちにとって、本当に「輝いているもの」とは何でしょうか。

牧師 朝日研一朗

【2021年5月の月報より】

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2021年03月28日

テウルギアの復権

1.層雲堆を成して

聖所聖域と呼ばれる場所は、ある日突然に生まれるのではなく、古い祠や寺院の上に建て増しされます。聖なる都エルサレムもまた、ダビデ王が征服する以前から、先住のエブス人の聖所でした。更に遡ると「創世記」14章には、サレム(エルサレムの古名)の祭司王メルキゼデクが、戦功を上げた族長アブラハムを祝福したという記事があります。現在では、キリスト教徒やイスラームも、エルサレムを「聖地」と指定しているために、却って厄介な事態を引き起こしているのは御存知の通りです。

同じように、それぞれの宗派が旨とする聖典も、ある日突然に生まれたのではなく、他の宗教の聖典経典や説話説法、教義教訓や戒律など幾つもの古い伝承が積み重なって形成されて行ったものです。例えば「創世記」6〜8章の「洪水物語」は、バビロニアの「ギルガメシュ叙事詩」や「アトラ・ハシース叙事詩」が原型に成っていますし、「ヨブ記」は、アッカド語の「ルドゥルル・ベル・メネキ」や「バビロニアの神義論」から「罪なき義人の苦しみ」というテーマを受け継いで発展させた傑作です。

「これ、まんま、パクリじゃん」「オリジナルでは無いから価値が無い」等と考えるのは、著作権で金儲けが出来るように成った近現代の浅墓な論理です。むしろ「詠み人知らず」のまま、時代を超えて語り継がれ歌い継がれ、引用され借用され、時代や状況に応じて改変され、語り手や歌い手、聞き手の思念が何層にも積み重ねられたテキスト(本文)であればこそ、尚の事、尊いと言えるのでは無いでしょうか。そのような骨太なテキストは、実に多種多様な読み方を受容してくれます。つまり、懐が深いのです。

丁度、皆さんが愛でる薔薇の花と同じです。チベット原産ですが、中近東や北アフリカに拡がり、クレオパトラやネロ帝に愛好されました。イスラーム世界ではムハンマドやアッラーを象徴する花とされ、十字軍が欧州に持ち帰っては聖母マリアの花とされました。数千年に渡り、交雑による品種改良が繰り返された結果、今の薔薇が存在しているのです。

2.聖なる過越の宴

イースター(復活日)の前の1週間を「受難週/Passion Week」と言います。カトリック教会では「聖週間/Holy Week」と呼んでいます。イースターの前の日曜日が「棕梠の主日/Palm Sunday」です。その週の木曜日は、主イエスが「最後の晩餐」の時、弟子たちの足をお洗いになった「洗足木曜日/Maundy Thursday」、その翌日の金曜日は主イエスが十字架に磔にされた「受難日/Good Friday」と成っています。

悲しむべき「受難日」なのに「グッド」と言うのは、「良い」の意味ではなく、教会によって「聖別された」の意味です。「洗足木曜日」の「モーンディ」はラテン語の「マンダートゥム/mandātum/委任、命令、指図」から来ています。「私があなたがたに与える新しい命令(a new commandment)」(英訳聖書「NRSV/新欽定訳」)です。即ち「ヨハネによる福音書」13章34節「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」に当たります。

さて「洗足木曜日」から始まる「受難週」のクライマックスとも言える3日間ですが、カトリック教会では「聖なる過越の3日間/Sacrum Trīduum Paschale/サクルム・トリードゥーム・パスカレ」と言います。1570年のトリエント公会議で、この典礼が確立したと言われています。それ以前には、教会は土曜日の晩から(日没と共に翌日のイースターが始まります)徹夜の祈祷をしていただけでした。

確かに「最後の晩餐」とは「過越祭」の食事(儀式)に他なりません。「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」(「マタイによる福音書」26章30節)と書いてあるのも、過越の食事の終わりに歌う「ハレル詩編」(「詩編」115〜118編)の事でしょう。

3.神に働き掛ける

「出エジプト」の出来事を祝う春の祝祭が「過越祭」です。英語では文字通り「パスオーヴァー/Passover/過ぎ越す」と訳されています。主なる神ヤハウェの命令に従って、供犠(くぎ)として小羊を屠り、その血を自宅の鴨居と柱に塗ったイスラエルの民の家では、災いが「過ぎ越した」のです。しかし、何も知らないエジプト人の家では、その家の初子が全て死んだのです(「出エジプト記」12章29〜30節)。

何が「過ぎ越した」のかと言えば、ズバリ、死神です。バビロニアの疫病と死を司る祟り神「ネルガル」との類似点を指摘する聖書学者もいます。ヘブライ語で「過越祭」を「ペサハ」と言いますが、その語源は「霊魂を宥める」という意味のアッカド語「パサッハ」と同じなのだそうです。つまり、本来「過越祭」は「厄除けと霊的な加護」を祈る儀式だったのです。家内安全と疫病退散のための魔除けの儀式なのです。

ローマ教会の堕落(免罪符)からの反動もあってでしょう、宗教改革以後、キリスト教会では、祈りは専ら内面的(霊的)なものが尊ばれ、聖書的な裏付けが必要とされました。その結果、「悔い改め」「感謝」「賛美」ばかりが重んじられ、「祈願」は軽視されて来ました。しかし、本来「祈願」こそは、祈りの中心では無かったでしょうか。

「テウルギア/Theurgia」という語があります。「招魂術、妖術」等と訳されることが多いのですが、語義的には「神働術」と訳すべきでしょう。要するに「神に働き掛ける術(すべ)としての祈り」です。祈りは、私たち人間の側から神さまへの呼び掛け、助けを求める叫びや悲鳴、訴えや嘆願です。「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え」という「主の祈り」を嚆矢としますが、子どもが親に糧(パンや卵)を求めるのと同じように、もっと素直に、もっと飾らずに、「コロナ禍」の今こそ、自分たちの加護や癒しを祈りましょう。

牧師 朝日研一朗

【2021年4月の月報より】

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2021年02月28日

本日モ誠ニ晴天也

1.青天と霹靂

何と暖かな陽射しでしょうか。物干しの洗濯物も心地良さそうに、穏やかな風に揺られています。何年か前に妻が庭に植えた薔薇が、遠慮がちに小さな赤い蕾を膨らませています。これが2月も半ば、冬の只中であることが信じられません。

テレビの天気予報では、北海道沿岸部では「今日の夜から明日に掛けて、数年に一度の猛吹雪に見舞われるため、出来るだけ外出を控えるように」と呼び掛けていました。ほんの十数年前まで、私も北海道で暮らしていたというのに、あたかも異世界の現象のように思われます。しかしながら、私が未だに、こうして東京の温暖な冬に違和感を抱いてしまうのは、どうやら、単なる個人的な問題では無いようなのです。

昔から東京に暮らしている人たちからも、この数年の暖冬に戸惑っているという声を聞きます。「春日和(はるびより)」という語がありますが、本来は4月の季語です(因みに「小春日和」は10月に使うべき語です。念のため…)。「2月の春日和」等、むしろ、地球温暖化による異常気象ではないかと心配の種です。

最近では、もう殆ど耳にしませんが、旧暦の睦月(正月)、如月(二月)、弥生(三月)を「三春(みはる、さんしゅん)」と言ったそうです。但し、ここに言う「春」とは「新年」のことです。「新春初売りセール」が「正月の特売」であるのと同じ道理です。しかも、旧暦と新暦とでは一月以上のズレが生じますので、私がこの文章を書いている2月16日は、旧暦の1月5日に当たります。ともかく、幾ら温暖な東京であっても、こんなに温暖で良いはずは無いのです。心地悪さに違和感を抱くのは当たり前のことですが、「2月の春日和」の心地良さに違和感を抱くこともまた、感受性のアンテナでは無いでしょうか。

2.義士に烈士

東京(江戸)で勃発した、歴史上の「三大事件」というのを御存知でしょうか。1703年1月30日(元禄15年12月14日)の「赤穂浪士討ち入り」、1860年3月24日(安政7年3月3日)の「桜田門外の変」、そして1936年2月26日の「二・二六事件」です。いずれも芝居や映画、ドラマの題材に採り上げられる、日本人の心象に深く関わる歴史的大事件です。そして、その3つ共に「春の雪景色」の中で織り成されているのです。どうやら、その辺りに、何か私たちの美意識を擽(くすぐ)るものがあるようです。

但し、その内実たるや、共通して暗殺(テロリズム)であるということに慄然とします。白い雪に飛び散る赤い血、まさに「日の丸」の旗ではありませんか。我が国には、政府要人を暗殺するテロリストを、忠君報国に殉じた烈士徇名と称える気風があるのです。

大石内蔵助(くらのすけ)の妻りくの実家が同郷、但馬国豊岡藩(家老の京極家)です。そんな地元贔屓の親近感も手伝って、東京に赴任して最初に訪ねた寺は(「赤穂義士」の墓地がある)泉岳寺でした。要するに「忠臣蔵」が好きな私なのですが、冷静に考えてみると、「義士」なんぞと言っても、結局はテロリストなのです。しかし、昨今の無差別テロ等と違って、一般人に危害を加えていない点、潔く自首している点において評価されるのでしょう。

吉良屋敷に討ち入りを果たした旧赤穂藩の浪人は「赤穂義士」と呼ばれています。それと同じように「桜田門外の変」で、大老井伊直弼の駕籠(彦根藩の行列)に斬り込んだ水戸藩や薩摩藩の脱藩浪人も「桜田烈士」と呼ばれます。

これは日本だけの事情では無いようで、韓国では、1909年にハルピン駅構内で、伊藤博文を暗殺した安重根(アン・ジュンクン)が「愛国烈士」「独立烈士」として、今も尊敬を集めています。平生の安重根は、熱心なカトリック信徒で、「義士」と呼ばれるに相応しい立派な人物だったそうです。暗殺事件後、投獄されていた旅順監獄では、日本人の看守、典獄(刑務所長)、弁護士なども彼の人品から深い感化を受けたと言われています。

ドイツの神学者にして、ルーテル派の牧師であった、ディートリヒ・ボンヘッファーが「ヒトラー暗殺計画」を進めた「黒いオーケストラ/Schwarze Kapelle」のメンバーだったことも今や、よく知られています。東洋風に言えば、彼もまた「烈士、義士」なのでしょう。

3.春を尋ねて

『啄木鳥探偵處(きつつきたんていどころ)』という、伊井圭のミステリ小説があります(創元推理文庫)。「啄木鳥」の名からも察せられる如く、歌人の石川啄木が「ホームズ役」、金田一京助が「ワトスン役」を務めます。横溝正史の創作した探偵「金田一耕助」の名前が、この言語学者の名前から採られていることを考え合わせると、愉快な気持ちに成ります(横溝は当初、「菊田一○○」という名前を考えていたそうです)。

昨年、アニメ化されたのですが、二人ともBLマンガ風の美青年にされていて、笑いが止まりませんでした(これじゃあ、朝霧カフカ+春河35の『文豪ストレイドッグス』と変わらない)。しかも、アニメ版では、野村胡堂(あらえびす)、平井太郎(江戸川乱歩)、吉井勇、萩原朔太郎、若山牧水、芥川龍之助などの面々も登場して、これが悉くイケメンなのです。唯一史実に近いのは、啄木の「クズ男」ぶりだけという有様です。

昨年の「緊急事態宣言」中に、深夜枠で放映されていたのですが、スウィングジャズ風のOP主題歌「本日モ誠ニ晴天也」が、私の頭から離れなくなってしまい、「宣言」明けにカラオケに行ったら「必ず歌うぞ!」と決心したのでした。

確かに「本日モ誠ニ晴天也」です。とは言え、こんなに晴れやかな日であっても、心晴れぬ日々が続きます。「盡日尋春不見春/尽日(じんじつ)、春を尋ねて、春を見ず」(戴益)とは、今まさしく是です。「一日中、春を探し求めたのに、春は見つからなかった」という意味です。しかしながら、世の「春」は思わぬところに生まれているのです。

牧師 朝日研一朗

【2021年3月の月報より】

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2021年01月31日

コロナ禍の落穂拾い

1.渡り鳥シリーズ

先日「NHK-BSシネマ」で、小林旭主演の「日活アクション」『ギターを持った渡り鳥』(1959年)を録画して、何年かぶりに観ました。今回、観直すと、冒頭のシーンから映像の美しさに圧倒されました。昭和新山から下って来る牧草を積んだ馬車、馬車を降りて函館に向かって歩き始める旭(勿論、背中にはギター)、そして、函館山から展望した市内の全景、それが「百万ドルの夜景」に変わるタイトル…。溜め息が出ました。

話の筋は説明する程のものではありません。第1作の『南国土佐を後にして』(1959年)から第10作『渡り鳥故郷へ帰る』(1962年)に至るまで(実は『ギターを持った渡り鳥』はシリーズ2作目なのです)、「渡り鳥」シリーズは、同じパターンを実直に踏襲して行きます。キャスティングで一目瞭然です。旭扮する滝伸次がヒーロー、相手役のヒロインは浅丘ルリ子、地元のボスが金子信雄(大抵はキャバレーの経営者)、キャバレーのマダムが渡辺美佐子か楠侑子、そのフロアショーで踊るダンサーが白木マリ、ヒーローのライバルとして、拳銃や賭博で対決するのが宍戸錠。

極端な話、舞台と成る土地が変わるだけです。@高知、東京、A函館、B宮崎、C佐渡、D裏磐梯、E摩周湖、F香港、バンコク、G雲仙、長崎、佐世保、H函館、I高松というような具合です。『ギター』のラストシーン、青函連絡船の波止場で、ルリ子が旭に「どこに行くの?」と尋ねると「佐渡にでも行ってみようかと思って」「あいつ(昔の恋人)の墓参りをしてやらないと…」と答えるのですが、この後の第3作『口笛が流れる港町』(1960年)は宮崎が舞台で、佐渡に行くのは第4作『渡り鳥いつまた帰る』(1960年)です。

青函連絡船を切ない眼差しで見送るルリ子を、中原早苗が「あの人は必ず帰って来るわ」と慰めるのですが、それに対して、彼女はキッパリと「いいえ、あの人は帰って来ないわ。私にはあの人の心が分かるもの」と断言するのです。本来、泣かせる台詞のはずですが、どこに行こうと、毎回、相手役は浅丘ルリ子だと知っている私としては、思わず吹き出してしまったのでした(最終作にして姉妹編の『故郷へ帰る』のみ笹森礼子)。

2.太陽がいっぱい

「コロナ禍」で外出が憚られるように成って以来、昔、観損ねた映画、もう一度観てみたい映画を録画して、空いた時間に観ています。「日活」で言えば、『太陽の季節』(1956年)、『狂った果実』(1956年)、『あいつと私』(1961年)が出色でした。『太陽の季節』と『狂った果実』は鎌倉や逗子、葉山あたりが舞台、『あいつと私』の舞台は田園調布と慶應日吉キャンパス、軽井沢です。改めて観ると、3作とも共通して、非常に裕福な家庭の若者たちの話で、私などは引け目を感じてしまいます。数十年後の私が観て、そう思うのですから、当時これを観た貧しい若者たちが憧れと妬みの入り混じった気持ちを抱いたであろうことは、想像に難くありません。それでも『あいつと私』のモダニズムには、うっとりと見惚れてしまいます(裕次郎は「オースチン・ヒーレー100」に乗って通学している!!)。

そのような相反する感情で思い出されるのが、昨年12月に亡くなった作詞家、なかにし礼のエピソードです。なかにしは元タカラジェンヌでシャンソン歌手の深緑夏代(歌劇団では、越路吹雪とコンビで知られた)に依頼されて、シャンソンの訳詞をしていました。「なかにし礼」というペンネームも、フランシス・レイ(Francis Lai)から採ったと言われています。なかにしの家は満州からの引き揚げ者で、彼は小樽や青森の暗い海を見詰めて、少年時代を送ったのです。ですから、真夏の湘南の海で戯れる若者たち(所謂「太陽族」の係累)に対しては、ただ怨嗟しか感じていなかったそうです。そんな彼の心にズシンッと響いたのが、1960年のフランス映画『太陽がいっぱい』(Plain Soleil)だったのでした。

3.今日でお別れね

地中海でヨットに乗って、女の子と遊び呆けて暮らしている、金持ちの放蕩息子フィリップ(モーリス・ロネ)を殺して、彼に成り済まそうとする貧乏で孤独な青年トム(アラン・ドロン)の悲劇ですが、ナポリ湾に浮かぶイスキア島の南端サンタンジェロの風景(トニー・リーヴス著『世界の映画ロケ地大事典』による)を、なかにしは湘南の海に、自身の心情をトム・リプリーに重ねていたと言います。そんな感情が後に(1967年)、菅原洋一の「今日でお別れ」(作曲:宇井あきら、編曲:早川博二)に結実したのです。

♪「今日でお別れね/もう逢えない」という歌い出し、覚えて居られる方も多いと思いますが、ニーノ・ロータ作曲の『太陽がいっぱい』のテーマそっくりです(!)。作曲の宇井は元シャンソン歌手、なかにしの先輩ですし、編曲の早川はトランペット奏者です(「太陽がいっぱい」の主旋律がトランペットだったことを忘れてはいけません)。しかも「今日でお別れ」の伴奏はマンドリンなのです(「太陽がいっぱい」も)。

しかしながら「太陽族」的な湘南文化に対して怨嗟を抱いていた、なかにし礼を、シャンソンの訳詞などという地味な世界から引っ張り出して、歌謡曲の作詞家として大成功に導いたのが、他でもありません、元祖「太陽族」石原裕次郎なのです。新婚旅行中のなかにしが下田のホテル滞在中に、偶然ホテルのバーで隣席に成ったのが、『太平洋ひとりぼっち』撮影中の裕次郎だったそうです。「シャンソンの訳詞なんてやってないで、日本の歌謡曲の歌詞を書きなさいよ」と勧められて、石原プロに行ったのがキッカケだったと言います。

考えてみたら、裕次郎を発掘してスターダムに押し上げた立役者は、松竹歌劇団出身(「男装の麗人」の異名を欲しい儘にした)水の江瀧子です。水の江は1950年代、日本映画界初の女性プロデューサーとして、日活の黄金時代を作ったのでした。深緑夏代の愛称が「ターコ」、水の江の愛称が「ターキー」だったのも似ています。歌劇団、恐るべし(!)。

牧師 朝日研一朗

【2021年2月の月報より】

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2020年12月19日

真っ直ぐな線は短い

一、スパゲッティ

イマドキの若い人たちが「オンラインゲーム」にハマった挙句に「ゲーム依存症」になって、やがては「ネトゲ廃人」…等という、ごく月並みな固定観念しか抱いていなかった私にとって、「オンライン」というレトロニム(再命名)用語は、どこかしら自分には関わりの無い事柄と感じていました。

ところが、今や「コロナ禍」も手伝って、何かと言えば、公然と「オンライン」です。多くの企業では「オンライン会議」が当たり前。学校は「オンライン授業」、学習塾から習い事まで「オンライン・レッスン」、病院は「オンライン診療」です。友人たちと「オンライン飲み会」をして、恋人たちは「オンライン・ディナー」です。食事もネット注文で「ウーバーイーツ」や「出前館」が宅配してくれます。エンタメやアートの世界も「オンライン・イベント」「オンライン・コンサート」の花盛り。それと軌を一にするようにして、キリスト教や仏教などの宗教の世界でも「オンライン礼拝」が確実に拡がり始めています。

振り返ってみれば、もう何年も前から、ネットショッピング(オンライン通販)で、どんな品物でも注文できて、「買い物カゴ」に入れたら、翌日には品物が届くという時代に成っていたのでした。わざわざ映画館に行かなくても、オンラインで新作映画を観ることが出来るのでした。それどころか、最近では「Netflix」「Amazon Prime Video」「Hulu」等の「VOD/ビデオ・オン・デマンド」の動画配信でなければ観ることの出来ない作品が一杯です。

二、ラインの黄金

何もかもが一斉に雪崩を打って「オンライン」に移行しているかのように見えますが、これは勿論「オンライン」のシステムが莫大な富をもたらしているからです。その大元にいるのは、消費資本主義のマモン(富の悪魔)であることを忘れてはなりません。

オンラインは利用者にとって便利で快適です。お気に入りの品物を探し歩いたり、雨の日に外出したり、店員とやり取りする必要もありません。自室に居ながらにして、サービスを供給してくれているように思えます。しかし、それは金銭を支払って得られる「有料サービス」です。その代償として、私たちの口座からは預金が引き落とされています。そして何より、オンラインの有料サービスを利用することにより、私たちは、自分たちの側がサービスすることを忘れてしまうのです。

実際に足を運んでも無駄足に終わることが多々あります。折角辿り着いたお店が閉店していたり、見付からないこともあります。「骨折り損」です。けれども、そこにこそ、私たちの愛があり、サービス(仕えること、礼拝すること)があるのです。

「真っ直ぐなる線が最も短し/līnea rēctā brevissima/リーネア・レークター・ブレウィッシマ」というラテン語の格言があります。十九世紀フランスの政治家、フランソワ・ギゾー(カルヴァン派でした)の言葉と伝えられます。目的の早期達成を最優先する国家主義的な言葉です。しかしながら、私はこのように言い換えたいと思います。「オンライン万能の時代も、案外と短いのではないか」と。


【会報「行人坂」No.260 2020年12月発行より】

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2020年11月29日

黄金の子牛を求めて

1.内なる悪

11月に入ってから、盛んに「新型コロナウイルスのワクチン開発の成功」というニュースが飛び交っています。

米国製薬大手の「ファイザー/Pfizer」とドイツのバイオテクノロジー企業「ビオンテック(もしくはバイオエヌテック)/BioNTech」が共同開発しているワクチンでは、治験の結果、90%以上の有効性が得られたと言います。それに続いて、米国の新興バイオテクノロジー企業「モデルナ/Moderna」も同様の発表をしました。更に、英国の製薬大手「アストラゼネカ/AstraZeneca」がオックスフォード大学と共同開発したワクチンも重症化を防ぐという臨床試験データを発表しました。

その発表の度に、株価が上昇するのを見ていると、ワクチン開発競争も人命を救うためと言うよりは金儲けのためという経済の基本原理を、つくづく思わされます。そもそも「バイオテクノロジー企業」と言えば、私など、ゲームや映画の『バイオハザード/Bio Hazard』に登場する「アンブレラ社」を思い出す訳です。

「バイオハザード」とは、細菌やウイルス等の有害物質が、研究室や病院から外部に漏れることで引き起こされる「生物災害」を意味します。『バイオハザード』では、アンブレラ社の研究施設で開発中のウイルス兵器「T-ウイルス」が施設内で漏れて、「バイオハザード」が発生、感染者たちは「アンデッド/ゾンビ」と変わり果て、特殊部隊の隊員たちに襲い掛かって来るのです。「バイオハザード」下の「サバイバル」がテーマです。

『バイオハザード』は、1996年に日本のゲーム会社「カプコン/CAPCOM」がクリエートした「PlayStation/プレステ」用のゲームソフト、及び、その実写映画化ですが、海外でのタイトルは「Resident Evil/内在する悪」でした。「生物災害」も単なる事故ではなく、企業側が仕組んだ実験であり、特殊部隊の派遣も、災害の収束を期してのものではなく、生物化学兵器の実戦データを得るためのものだったという展開です。

2.ワクチン

勿論「バイテク企業」と聞くだけで「バイオハザード」を連想してしまうのは、私の極端に歪んだ精神が作り上げた妄想に過ぎません。更に聖書の知識を加えて、妄想を加速するのが、キリスト教の牧師のヤバイところです。

「ワクチン」の語源は、ラテン語の「vaccīna/ウァッキーナ」です。「種痘疹、牛痘疹」という意味です。皆さんの右腕には「種痘」の傷跡がありますか。1976年(昭和51年)までは、天然痘の予防接種は義務化されていました。やがて、天然痘の国内発症が無くなり、1975年(昭和50年)以後に生まれた人には、種痘の跡はありません。もう1つは、結核の予防接種ワクチン「BCG」です。こちらは左右どちらでも「上腕」なら良かったみたいで、右の人も左の人もいます。

天然痘の予防接種を行なった功績者と言えば、18世紀英国の医師にして科学者のエドワード・ジェンナーです。彼はウイルスに感染した雌牛から「牛痘」を取り出して、人間に接種したところが、ウイルスに対する免疫を獲得できたという話です。それで、これが「ワクシニア・ウイルス/Vaccinia virus」と呼ばれるように成りました。「ワクチン」という語の始まりです。ラテン語の「雌牛/vacca/ウァッカ」が起源なのです。

「雌牛は我々に乳を、鶏は卵を与える/vaccae nōbīs lāc, gallīnae ōvā praebent」というラテン語の成句がありますが、雌牛は乳のみならず、天然痘のワクチンも与えてくれたのです。そう言えば、インフルエンザのワクチンも鶏の卵を使って培養されていますね。

3.物質主義

「彼らは早くも我が彼等に命ぜし道を離れ、己(おのれ)のために犢(こうし)を鑄(い)なしてそれを拝み、其(それ)に犠牲(いけにへ)を獻(ささ)げて言ふ、イスラエルよ是(これ)は汝をエジプトの地より導きのぼりし汝の神なりと」(「出エジプト記」32章8節/文語訳)という聖句を思い出します(句点は、読み易いように私が入れました)。

有名な「黄金の子牛/Golden calf」の場面です。モーセがシナイ山で、主なる神から律法を受け取っている間に、その山麓に宿営するイスラエルの民は不安の余り、エジプト人から「行き掛けの駄賃」とばかり頂戴した金を鋳造して、偶像を作り出し、「これがエジプトから脱出させてくれた神様だあ」と言って拝んだという話です。

ヘブライ語の「ラーヘム」、即ち「己(おのれ)のために」(「日本聖書協会訳」は「自分のために」、「新改訳」は「自分たちのために」)という所が、偶像礼拝の本質を暴露しています(残念ながら「新共同訳」も「協会共同訳」も抜けています)。

アロンとイスラエルの民が拝んだ「黄金の子牛」は、エジプト神話の天空の太母神「ハトホル/Hathor」が起源と思われます。彼女は「天界の雌牛」として崇拝され、その乳房から天の川が生まれ、毎日、太陽を生んでいると信じられていました。細長い雌牛の角を生やし、その両角の中に赤い太陽の円盤を載せた姿で描かれています。

ワクチン開発が成功し、待ち望む人たちに供給され、ウイルスの感染を防ぎ、罹患者の重症化を防ぐとしたら、素晴らしいことです。しかし、それは何のためでしょうか。またしても、以前と同じような大量生産大量消費の世界に、何の反省もなく戻って、「黄金の子牛」に仕えるだけのためだとしたら、それは余りにも虚しいことのように思うのです。

旧約聖書(古典ヘブライ語)では「黄金の子牛」は「エゲレー・ザーハーブ」と表現されていますが、現代ヘブライ語で「黄金の子牛/エーゲル・ハ・ザーハーブ」と言ったら「金銭崇拝、物質主義」を意味します。

牧師 朝日研一朗

【2020年12月の月報より】

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