2006年09月17日

信仰はコミュニティから

去る6月18日、行人坂教会の牧師就任式を催していただきました。心から感謝申し上げます。司式をして下さった高橋津賀子先生(馬込教会)からは、とても素晴らしい式辞をいただきました。祝賀会では、南支区を代表して橋爪忠夫先生(洗足教会)から、全国同信伝道会を代表して定家修身先生(武蔵野扶桑教会)から、ウィットに富んだ祝辞をいただきました。会員の皆さんも準備や進行に心を砕いて下さいました。その甲斐あって、非常にスマートな祝賀会が行なわれました。

このような一連の行事、儀式と言えば、儀式に過ぎませんが、一つ一つ、為すべき事を為し終えて、少しづつ、行人坂教会として、牧師と信徒との関係が結ばれていくのです。私自身、代表役員の登記変更を終え、就任式を終え、色々な行事や毎週の礼拝、祈祷会などを積み重ねながら、あるいは、会員のお宅に訪問しながら、「ああ、段々と、行人坂教会の牧師に成って行っているな」と感じています。

文化人類学には「通過儀礼/イニシエーション」という用語があります。最近では「単なる通過儀礼として」等と、間違った使われ方をしてしまいますが、そういう感覚はお粗末としか言いようがありませんが通過儀礼を経なければ、私たちが変えられるという体験をする事は難しいのです。

神と会衆との前に信仰を告白し、洗礼を受けて、信仰共同体の中に迎え入れられるという体験をしてこそ、私たちはクリスチャンに成るのです。信仰は個人の内面的な問題ではなくて、教会が共同体として積み重ねて行く経験です。つまり、「私のもの」ではなく「私たちのもの」です。また、「私たち」という自覚、共通感覚を持つ事なしに、信仰者であり続ける事は出来ません。

信仰が個人のものでしかないとしたら、こんなに脆いものはありません。個人としては、如何にも弱々しい信仰なのですが、共同体として証しされる時には、大きくされ、強められるのです。それが教会という場なのです。イエスさまが「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカによる福音書17章21節)とか、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書18章20節)と言われるのは、そういう事です。

皆さんとご一緒に、教会共同体(コミュニティ)としての体験を積み重ねて参りたいと思います。悲しい別れも、喜ばしい出会いも、共にして参りましょう。


【会報「行人坂」No.233 2006年9月17日発行より】

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