2017年01月01日

日課と勤行と覚醒

1.朝の顔ぶれ

朝の7時半頃、二男の車椅子を押して、スクールバスの停車場所に送って行くのが、私の日課です(お迎えは妻が担当してくれています)。朝は出勤時間、登校時間ですから、また、ジョギングや犬の散歩も日課ですから、ほぼ同じような顔ぶれの人たちと擦れ違います。やはり、朝は皆が一定の方向性をもって動き始める時間帯なのです。それに比べると、夕方のお迎え時間はバラツキが大きいようです。  最近の定番を紹介しましょう。先ず家を出ると、向かいのマンションの清掃作業員、次に隣のマンションのKさんに「お早うございます」。バーコード会社の「SATO」に出社する中年男性2〜3名(50歳代)、女性2名(30歳代)、若手社員1名(20歳代)等が歩いています。雅叙園に向かって急ぐフィリピン人の女性(30歳代)が見えます。二男の小学校時代の同級生IS子ちゃんの家の前を通ると、出勤するお母さんに遭遇することもあります。「お早うございます」。  「セブン-イレブン」の角でタバコを吸っている会社員2名(40歳代)、建設作業員1〜2名(20〜40歳代)、「セブン」から太鼓橋の間で、女子高生、40歳代OL2名、若いフリーター風男性(30歳代)、ジョギングの女性(30歳代)、太鼓橋の上で女子高生、黒いプードル3匹を散歩させる奥さん(60〜70歳代)、そして、毎日、橋の上には、コンビニのパンと珈琲の朝食を食べている若禿げで背の低い男性(30歳代)がいます。女子中学生(以前、教会学校に来ていたMMちゃん)と会うこともあります。「お早う」。

2.去り行く人

こうして毎朝、同じような顔ぶれを見ていると、挨拶を交わさぬ人であっても、自ずと親近感が湧いて来るものです。そうかと思えば、ある時から、急に見なくなる顔もあるのです。転勤、転居、退職、労働時間帯の変更もあるかも知れませんが、場合によっては、その人の不在が、そのまま「その人の死」を意味します。  例えば、「ヤマト運輸」に務めていた男性(50歳代)は、教会に集金に来ていた時期があったので、顔馴染みでしたが、ある日、太鼓橋の上を、お連れ合いの介助を受けつつ、脚を引き摺りながら歩いているのを見て、驚いたものです。それから時折り、朝のリハビリに出会っていたものの、挨拶を交わすだけで、お尋ねする余裕はありませんでしたが、恐らく、脳梗塞か何かで麻痺した体で散歩されていたのです。しかも、その何ヶ月か後には、車椅子に乗ったお連れ合いを、今度は、彼が押していたのです。最近お見掛けしませんが、回復されて仕事を再開されたのなら良いのですが…。  昨年までは、日出高校の男女生徒が登校する姿をよく見掛けたものです。余りにも仲が良さそうなので、私たちは「高校生夫婦」と名付けていました。その昔、鶴見辰吾と伊藤麻衣子が主演した『高校聖夫婦』という大映ドラマがあったのです。戯れ合いながら登校している姿を遠目に見ながら、私は思わずビートルズの「All You Need Is Love」を口ずさんでしまいました。「Love,love,love」という歌い出しは、二男も知っていて(子ども番組の「ポンキッキーズ」で流れていたからでしょう)、目の前を歩く二人の姿と音楽が重なったと見えて、笑いを堪えるのに必死だったようです。  朝、二人を見る度に、私たち親子は「Love,love,love」と(勿論、本人たちの耳には届かないように)囃し立てて、歌っていたものです。二人が蛸のように吸い付いて歩いている日もあれば、喧嘩をしているのか、距離を置いて歩いている日もありました。しかし、私たちは変わらず「Love,love,love」と歌い続けました。卒業してしまったらしく、今年度から姿を見なくなってしまいました。今も仲良く暮らしているでしょうか。あれだけ私たちを笑わせてくれたのですから、別れていなければ良いのですが…。

3.宙吊り状態

エドガー・アラン・ポーの短編に『ヴァルデマール氏の病気の真相』という恐ろしい作品があります。催眠術の研究をしている「私」は、友人のヴァルデマール氏の協力を仰ぎ、彼の臨終の瞬間に催眠術を掛けるのです。すると、ヴァルデマール氏はトランス(催眠夢遊)に陥りつつ、尚も生き続けている「宙吊り状態」に成ってしまうのでした。肉体は死んでいるのに意識が半分残っているのです。  やがて、彼の肉体は腐敗が進み、周囲の人間が耐え難い程に成りました。それでも意識が完全に失われることがありません。遂に「私」は催眠術を解く決心をして、彼の意識を覚醒させます。そして、意識が覚醒すると同時に、忘れていた死の現実がヴァルデマール氏の精神に流れ込んで来て、瞬時にして肉体は崩れ去って行くのでした。  毎日、同じことを繰り返していると、ヴァルデマール氏のような状態に置かれているような気分に成ることがあります。同じ電車に乗り、同じ職場や学校に通い、同じような顔ぶれで、同じようなことを繰り返しているような錯覚に陥ります。  しかし「宙吊り状態」は「サスペンス/緊張状態」でもあるのです。タロットカードにも「宙吊りにされた男」があります。逆さに吊るされていて手も足も出ませんが、実は、大きな可能性を秘めたカードなのです。  私は、朝のルーティーンな日課であっても、意識することによって、トランスからリアルへの移行が出来ると考えています。「宙吊り状態」は不安なので、誰もが逃れたいと思いますが、実は、そこに心を向けることによってしか、私たちは現実を生きることは出来ないのです。「聖務日課/Liturgia horarum」とは、1日の定時に祈るための祈祷文ですが、同じ務め(勤行)を繰り返すことで、初めて信仰生活は深められるのです。

牧師 朝日研一朗

【2017年1月の月報より】

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2016年11月27日

通い続ける意味

1.信楽焼きの狸

私が小さい頃、しばしば、家族の会話の中に「カヨイ」という語が聞かれたものです。子供心に「カヨイ」とは何なのか気に成っていましたが、結局、改めて親に尋ねることも無いままに、いつか、記憶の底に沈んでしまっていました。

それが「通い帳」の略であること、「通い帳」とは、主に「銀行預金通帳」のことを言っていたのだと閃いたのは、ごく最近のことです。このように何十年も放置していた語の音が、ある日突然、記憶の底から浮かび上がって来て、年齢を経てから了解することがあるのです。それにしても、「通帳」が死語化した時代に突入してから、漸く「カヨイ」の正体に思い至るとは、皮肉な話です。実際、クレジットカード全盛の昨今では「通帳」そのものが死語に成りつつあります。未だ辛うじて「通帳」は存在していますが、それを持ち歩く人は少ないと思います。

「カヨイ」と言えば、もう1つ、信楽焼きの狸を思い出されるのではないでしょうか。あの狸は、編み笠を被り、右手に「徳利」を、左手に「通い帳」、もしくは「御通」と書かれた台帳を持っています。商売繁盛の置き物ですから、「タヌキ」は「他を抜く」に、「徳利」は「利徳、儲け」に通じます。「通い帳」は「売り掛け帳」です。通常は信用売買(ツケ)をしている取引先も、大晦日には支払いをしなければなりません。それで、あの狸は「カヨイ」を手にしているのです。この季節(師走)にピッタリの置き物と言えましょう。

2.いつも一緒に

キリスト教会もまた、アドベント(待降節)、クリスマス(降誕節)を迎えようとしています。昔から、教会には「クリスマス信者」というカテゴリーがあり、クリスマスにだけ来る会員(クリスマスにしか来ない会員)がいるのです。クリスマスは、日頃、礼拝から遠ざかっていた人たちが帰って来る季節なのです。

「信楽の狸」で言えば、主日礼拝に通わないで、溜まりに溜まったツケの支払いが回って来るということかと、そんなイヤミなことを考えてしまいます。

しかし、この「クリスマス信者」にしても、見方を変えることで、こちらの心持ちが全く違って参ります。「たとえ、クリスマスだけでも来てくれるから嬉しい」と感謝して歓迎するか、「クリスマスにしか来ない『恵み泥棒』」等と陰口を叩くか、その心持ち1つで、私たち自身の信仰の在り方までが左右されてしまうのです。

この「恵み泥棒」というのは、昔の牧師たちが多用していた語です。礼拝出席も奉仕も献金もせず、教会を支える義務も果たさずに、神さまの御恵みにだけ与ろうとしている姿勢を揶揄した表現なのです。

「『恵み泥棒』に成ってはいけません!」等と戒めて、真面目な信徒たちを養成するために、牧師が編み出した用語と思います。しかし、その佇まいたるや、どこかしら「放蕩息子の譬え話」(ルカによる福音書15章11〜32節)に登場する、狭量な兄の風情を思い出させるのです。真面目な兄は、畑仕事から帰って来て、祝宴が開かれているのを見ると、拗ねてしまいます。「この通り、私は何年もお父さんに仕えています。言い付けに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友だちと宴会をするために、子山羊1匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食い潰して帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」。

拗ねてしまった兄に対して、父親は何と言って答えていたでしょうか。「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ」。

「いつも一緒にいる」と、その有り難味は見えなくなり、取り立てて喜びや感謝を感じなく成るものです(家族、仕事や日課、日常生活、健康、空気や水)。失ってみて初めて、その有り難さに気付くのが、私たちの常です。教会生活、神さまの恵みも同じです。その中にいると、それが当たり前に成って、殊更に意識しなくなるのです。

しかし「いつも一緒にいる」は、それこそ、アドベントのメッセージそのものです。「この名は、『神は我々と共に居られる』という意味である」(マタイによる福音書1章23節)。そして、もう1つのアドベント、再臨へと向かう希望でもあります。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(同28章20節)。

3.信仰を貯える

「いつも一緒にいる」というのは「暮らし」のことです。主日礼拝が日常生活の中心に成っている場合に、そのように言うことが出来ます。1年に日曜日が52回として、45回以上の回転数があって、シングルな(一人前の)会員なのです。

但し、そのような幸いは長くは続きません。中には、何十年も、そのような教会生活を続けることの出来た人もあります。しかし、病気や怪我その他の患いによって、礼拝に通えなくなったり、高齢に成ると共に、礼拝へ行く回数を減らさざるを得なくなったりします。誰もが遂には、全く通えなくなるのです。

私たちは、主日礼拝に通える間に、出来るだけ通って置かなくてはなりません。やがて通いたくても通えなくなるからです。「クリスマス信者」等と言わずに、久しぶりに会えた人を喜んで迎えなくてはなりません。やがて会いたくても会えなくなるからです。

「教会暦」を何度も巡って、教会の歳時記が肌身に付いて、礼拝生活をするのが当たり前に成ったら、その時こそは(たとえ有り難味を感じなくなっていたとしても)、神さまが「あなたといつも一緒にいる」暮らしなのです。この暮らしの実感を、しっかりと貯えて置くことが、信仰のエネルギーなのです。

牧師 朝日研一朗

【2016年12月の月報より】

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2016年10月30日

交替の時を待ちながら

1.ボブ・ディラン?

去る10月13日、「ボブ・ディランにノーベル文学賞!」と、冗談のようなニュースが流れました。それは冗談でもデマでも無く、ノーベル委員会の正式な決定だったようです。

子どもたちに「ボブ・ディランって誰?」と訊かれて、アニメ『ジョジョの奇妙な冒険/ダイヤモンドは砕けない』で、岸辺露伴の使うスタンド「ヘブンズ・ドアー」から説き起こし、私のカラオケの持ち歌「Knockin’ on Heaven’s Door」を披露して聞かせたものです。この歌は、ディランがサム・ペキンパー監督の映画『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』(1973年)のために書いたものです(ディラン自身も出演しています)。

さて、その後、委員会からディラン本人に連絡が付かず(と言うか、ディラン本人がノーベル委員会からの連絡に応じようとしなかったのでしょう)、委員会は困惑。委員長のペール・ベストベリィは「ディラン氏は無礼で、傲慢だ。でも、それが彼ってもんだ」とコメントしたという話です(「朝日新聞DIGITAL」より)。

まあ、実際、ボブ・ディランが礼服を着用して、ノーベル賞受賞記念晩餐会の席に座って、ヴィクトリア皇太子(さすが、スウェーデンは女性の皇太子です!)、カール・フィリップ王子やマデレーン王女などのベルナドッテ王朝の面々、スウェーデンの王族たちと語らっている姿など、私には想像できません。

2.ウディ・ガスリー

ボブ・デイランは、ウディ・ガスリーに憧れてギターを弾き、歌い始めた人です。ウディ・ガスリーとは、20世紀初めの大恐慌時代に活躍したフォークシンガーです。全米を季節労働者として放浪した人です。

銀行の抵当に農地を奪われて、オクラホマからカリフォルニアへ移住して行く貧農たちの事を「オーキー/Okie」と言いました(スタインベック『怒りの葡萄』)。また、汽車賃が無くて、列車の屋根にタダ乗りする「渡り鳥労働者」の事を「ホーボー/Hobo」と言いました。ガスリーこそは「オーキー」「ホーボー」として暮らしながら、その中から、庶民の歌(フォークソング)を作った人だったのです。

ガスリーの「我が祖国/This Land Is Your Land」を知らぬ人はいないでしょう。あの曲は貧しい放浪生活の中から生まれたのです。それは、アーヴィング・バーリン(「ホワイト・クリスマス」で有名な)作曲の愛国歌、「神よアメリカを祝福し給え/God Bless America」に対する強烈なアンチテーゼ、ガスリーからの痛烈なアンサーソングと言われています。

そんな「ガスリーの再来」「ガスリーの後継者」であったボブ・ディランであっても、2012年には、オバマ大統領から「大統領自由勲章」を授かっているのです。「大統領自由勲章」の過去の叙勲者を見ても、思想信条の違いに彼が拘っていないことは明らかです。名誉とか名声を否定している訳でも無さそうです。しかし、やっぱり、ノーベル賞の受賞記念講演や晩餐会は不似合いな気がします。

3.マイ・リリース

ボブ・ディランはユダヤ人ですから、彼の歌詞の中には、旧約聖書の引用やパロディが沢山あります。「アイ・シャル・ビー・リリースト/I Shall Be Released」(1967年)は、その前年の「ルービン・カーター事件」を歌ったものとされています。

ルービン・カーターはアフリカ系アメリカ人、プロボクサーで、ウェルター級の元チャンピオンでしたが、1966年に3人の白人を拳銃で撃ち殺した容疑で逮捕され、凶器も発見されぬまま、全員白人の陪審員によって終身刑を言い渡されました。以後、検察側の隠蔽工作が露見して、冤罪の可能性が高まり、1988年に釈放されます。22年間も投獄されていた訳です。この事件は、デンゼル・ワシントン主演の『ザ・ハリケーン』(1999年)という映画でも採り上げられています。

ディランの「I Shall Be Released」は「俺は釈放されるべきなんだ」と訳されています。しかし、これが旧約聖書「ヨブ記」からの引用であることは、意外に知られていません。「ヨブ記」14章14節「人は死んでしまえば、もう生きなくてもよいのです。/苦役のような私の人生ですから/交替の時が来るのを私は待ち望んでいます」。「苦役」と訳されている「ツァーバー」というヘブル語も「兵役、服役、賦役」という意味で、確かに、ディランの歌に通じています。

最後の「交替の時が…」云々の部分は「NRSV/新改訂標準訳」では「until my release should come」と成っています。まさに「リリース」です。「直訳に近い」との定評のある、前の「口語訳/協会訳」では「わが解放の来るまで待つでしょう」と訳されていました。ところが、ヘブル語原典は「解放」ではなく「ハリーフィーム/物々交換」なのです。だから「新共同訳」は熟慮の末に「交替」と訳したのです。

このように「ヨブ記」を背景にして読み直してみると、ストレートなプロテストソングではなく、かなり厭世的な歌詞という印象が深まります。「ルービン・カーター事件」を想定して「解放」や「釈放」と読むと、内容が特定の時代や事件に限定されてしまって、却って、つまらないと思うのです。

ディラン自身がオートバイ事故のために重傷を負っての休養中に、この曲は「地下室」で収録されたと言われています。むしろ、体験としての痛みや苦しみ、個人的な疲労感や倦怠感を歌っていると、私は感じるのです。因みに「ハリーフィーム」には「リニューアル」の意味もあり、イメージは「再開、復活、元気回復、蘇えり」まで拡がります。あるいは、本当は「早く元気にしてくれよ」と、神に祈っていただけかも知れません。

牧師 朝日研一朗

【2016年11月の月報より】

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2016年10月22日

ゴジラとは何か?

夏休みの終わり、子どもと一緒に、映画『シン・ゴジラ』(庵野秀明監督)を観て来ました。一昨年も、アメリカ映画の『GODZILLA/ゴジラ』(ギャレス・エドワーズ監督)を観に行ったのですが、日本映画としての「ゴジラ」は、2004年の『ゴジラ/FINAL WARS』(北村龍平監督)以来ですから、それこそ12年ぶりになります。あの時には、家族四人揃って観に行ったのですが、「まだ札幌に住んでいたのだ」とか「二男にとっては、あれが映画館デビューだった」と思い出すと、胸が熱くなります。

さて、「ゴジラ」は漢字で「呉爾羅」と表記されます。大戸島(架空の離島)で古来「荒ぶる神」として畏れられる怪物の名前でした。ビキニ環礁における水爆実験のために被爆して目覚めた恐竜に、その名前を冠したというのが、第一作『ゴジラ』(1954年)の設定なのです。映画の中では、「呉爾羅」の怒りを鎮めるために舞う、神楽も見ることが出来ます。

そもそも「荒ぶる神/荒振神」とは、「高天原」系の神々に服属しない地方神のことです。朝鮮半島からやって来た「天孫族」が朝廷の始祖と見なされる一方、それに敵対する「八岐大蛇/ヤマタノオロチ」は先住民「出雲族」の象徴なのです。「ヤマトタケル/日本武尊」を倒す「伊吹大明神」も「牛のような大きな白猪」、もしくは「大蛇」とされています。

2001年の『ゴジラ・モスラ・キングギドラ/大怪獣総攻撃』では、ゴジラは太平洋戦争の死者たちの残留思念の集合体、つまり、怨霊であり、「兵器では決して殺せない」と断言されていました。眼球が白濁していて、ゾンビ、即ち「生ける死者」を思わせる造形でした。この作品では、ゴジラが「呉爾羅」と表記されるのみならず、この怨霊から日本を護るために、死力を尽くして戦いを挑む「護国三聖獣」のバラゴン、モスラ、ギドラも、それぞれ「婆羅吽」「最珠羅」「魏怒羅」と表記されます。

民俗学者にして「東北学」の提唱者、赤坂憲雄が1992年に発表した論考「ゴジラは、なぜ皇居を踏めないか?/三島由紀夫『英霊の聲』と『ゴジラ』が戦後天皇制に突きつけたものとは何か?」に触発された作品だったのです。

日本には、怨霊を祀り上げて守護神に変える信仰があります。大宰府に左遷されて憤死した菅原道真を祀る天満宮、平将門の首を祀る神田明神、讃岐に流されて悶死した崇徳上皇を祀る白峰宮や白峯神社、金刀比羅宮…。靖國神社の祭神(「英霊」)も同じです。怨霊でありながら、日本を代表するキャラであるゴジラもまた、その系譜に属しているのです。

ゴジラのフィギュアは、美少女フィギュアと同じくらい、世界中で人気があります。その意味では、まさに「偶像/アイドル」と言っても良いでしょう。しかし、幾らマニアでも、それに跪いて祈る人はいません。旧約聖書が非難する偶像と同一視して、忌み嫌う必要はありません。しかし、このような映画のキャラ(しかも、怪獣)の背後にも、日本独自の信仰が流れていることを、私たちが見過ごしてはなりません。


【会報「行人坂」No.253 2016年10月発行より】

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2016年09月25日

雨のあとは上天気

1.ロングレイン

先日、テレビの天気予報を見ていたら、アナウンサーが「梅雨前線は…」と口走ってしまいました。咄嗟に私は「それを言うなら、秋雨前線でしょう」と、テレビに向かって反論しましたが、当然、向こうは聞いてくれていない訳で、そのまま天気予報のコーナーは終了しました。しかも、この失言にスタジオでは誰も気付かず、視聴者からの反応も無かったようで、訂正されることはありませんでした。

その後、雨音を聞く度に、私は「そうかあ、梅雨前線なんだ」と独りごちています。そう言われたら、そんな気がして来るのでした。事実、今年の秋は梅雨と見紛うばかりに雨の日が続いているのでした。この文章を書いている今は、所謂「シルバーウィーク」ですが、週日ズッと「雨のち曇り」「曇りのち雨」という予報です。

残念ながら、湿気嫌いな私にとって「雨音はショパンの調べ」ではありません。ただ鬱陶しいだけです。そんな雨音を聞きながら塞ぎ込んでいると、昔読んだレイ・ブラッドベリの短編に「長雨」(Long Rain)という恐ろしい小説があったことを思い出しました。彼の短編集『ウは宇宙船のウ』(R Is for Rocket)の中の一編です。

2.雨降りやまず

宇宙船が不時着した惑星はジャングルに覆われていて、引っ切り無しに雨が降り続いています。生き残った4人の宇宙飛行士たちは、植民者の作った「太陽ドーム」(人工太陽が設置されている)を目指して、ジャングルの中を歩き続けているのです。疲労と雨のせいで、彼らの顔は真っ白になり、制服はカビが生えて緑かがっています。

「太陽ドーム」に着いたかと思えば、それは自分たちの宇宙船でした。ジャングルの中を歩き回った挙句、戻って来てしまったのです。死んだ乗組員の口からはキノコが生えて、胞子を飛ばしています。食糧も尽き掛けています。漸く辿り着いた「太陽ドーム」は異星人の攻撃を受けて廃墟と化していました。やがて「電気嵐」に襲われて1人が焼死、絶望の余り乱心した1人が立ったまま(!)溺死、1人がピストル自殺します。

実は、1962年に出版された短編なので、舞台は「金星」という設定に成っているのです。現代の天文学からすれば、金星が「雨の降り止んだことのない」惑星だなんて、全くのデタラメです。その後、二酸化硫黄の雲から硫酸の雨が降っている惑星として、金星を描くSFも随分とありましたが、その硫酸の雨でさえも地上には届いていないことが、現代では明らかに成っています。実際の金星は二酸化炭素の濃度が異常に高く、その温室効果のため、地表の温度は4〜5百度もあるそうです。

そう考えると、ブラッドベリの「雨の降り止んだことのない」惑星という設定は、SF的奇想であり、怖いながらも、どこかしらロマンチックな趣きすら感じさせるのです。そう言えば、瀬川瑛子の演歌にも「雨降りやまず」というのがありました。渡哲也にも同名別曲がありました。

「金星では雨の降りやんだことなんてありませんよ。ただもう、いつまでもいつまでも降り続いているんです。金星にきて10年になりますが、1分、いや1秒でも、雨がざあざあ降っていないのを見たことがありませんね」(大西尹明訳、創元推理文庫)

3.俄かでない雨

聖書の舞台、パレスチナ地方では「雨は冬」と相場が決まっています。地中海式気候のパレスチナの1年は、夏の「乾季」と冬の「雨季」とに分かれています。乾季には一滴の雨も降りません。雨季は11月初めから3月までだそうで、湿った西風が雨を運んで来るそうです。しかも、雨季の降雨だけが大地を潤してくれる水分ですから、農民にとっては、それこそ「天の恵み」であって、これが少ないようだと旱魃と成って、飢饉の原因にも成り兼ねません。ですから、秋の収穫祭である「仮庵祭」(秋分の日に近い満月から1週間行なわれる)の最終日には、雨乞いの祈りが厳かに奉げられたそうです。

雨季の雨も3つに分類されています。

「申命記」11章13〜14節「もし私が今日あなたたちに命じる戒めに、あなたたちがひたすら聞き従い、あなたたちの神、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして仕えるならば、私は、その季節季節に、あなたたちの土地に、秋の雨と春の雨を降らせる。あなたには穀物、新しい葡萄酒、オリーブ油の収穫がある」。

本来、聖書の世界には「春秋」という季節の観念は存在しません。「秋の雨」と意訳されているのが「イオーレー/前の雨」、10月末から11月に掛けて、乾季の終了と共に降り始め、土地を潤して耕作可能な土地に戻してくれる雨です。「春の雨」と意訳されているのが「マレコーシュ/後の雨」、3〜4月に降り、夏の作物を成長させて、穀物を実らせるので「祝福の雨」とされています。

この2つの間に「冬の雨」があります。「私たちは主を知ろう/切に主を知ることを求めよう/主は明日の光のように必ず現われ出で/冬の雨のように、私たちに臨み/春の雨のように地を潤される」(日本聖書協会訳)。「冬の雨」は、12月中旬から2月末に降る長雨です。大量に降ることで井戸や水槽の水が満たされるのです。地元住民は雨樋を設置して、この雨水を水槽に貯えて置くそうです。

この「冬の雨/ゲシェム」は、ただ単に「雨」という意味なのです。俄かでは無い、本降りの「雨」を言うのです。「新共同訳」では「降り注ぐ雨のように」と訳していますが、これが直訳の感覚に近いかも知れません。「ゲシェム・ショーテープ/続けざまの雨」と言えば「豪雨」、「ヤーラド・ゲシェム」と言えば「雨が降る」と成ります。

牧師 朝日研一朗

【2016年10月の月報より】

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2016年08月28日

ぼくなつ/牧師の夏休み

1.人はパンにて生くる

8月21日の朝、「東京都パラリンピック選手発掘プログラム」に参加する、二男の介助者として「東京都障害者総合スポーツセンター」(北区十条台)に行きました。  当初は自動車で行こうと思ったのですが、駐車場に限りがあるとのことで、公共交通機関を利用することにしました。王子駅や池袋駅からセンターまで、車椅子対応の送迎バスも、それぞれ1時間に1本くらいの割合で出ています。しかし、これも本数に限りがあるので、都営三田線西巣鴨駅から徒歩で行くことにしました。

西巣鴨駅の近辺(滝野川5丁目)に「ベーカリーMOGUMOGU(モグモグ)」というパン屋があって、そこでランチを購入しようと考えたのです。これは行って見てビックリ仰天。噂どおり驚きの安さで、目黒で暮らすということは、富士山の上で高い缶ジュースを買うのと同じことなのだと思い知らされました。天然酵母食パンが1斤235円、イギリス食パンが1斤255円、バゲットが1本300円、パン・ド・カンパーニュ300円、きなこ揚げパン100円、チョココルネ125円、栗のデニッシュ210円…。食いしん坊の私は思わず全種類を買って帰ろうかと思ったくらいです。それは何とか踏み止まり、結局、私がトルネードフランクチョリソー160円とホットドッグ210円を、二男がチキンと牛蒡155円と照り焼きチキンコッペ240円を買いました。1980年代にタイムリープしたような気分でした。

ランチを購入したまでは良かったのですが、ここからセンターまでの道程が案外に遠く、折から茹だるような酷暑の中、路線バスで言うと、6つくらい停留所を車椅子を押しながら歩くことになりました。ひたすらランチを楽しみにしながら…。

2.もう1つのスポーツ

「パラリンピック」という語は、聖書とも関係があります。「マルコによる福音書」2章、「マタイによる福音書」9章、「ルカによる福音書」5章には、イエスさまがカファルナウムで「中風の人を癒す」有名な物語があります。4人の友だちが床に寝たままの人を、御前に運んで来る話です。あの「中風の人」が「パラリュティコス」というギリシア語なのです。「パラリュオー/弱らせる、力を削ぐ、半身不随になる、麻痺する」から来た語です。英語では「Paralystic/パラリュスティック」と言います。

これと「オリンピック/Olympic」との合成語が「パラリンピック」です。そう言えば、聖書の中には、古代オリンピックの描写も出て来ます。「コリントの信徒への手紙T」9章24〜27節、「フィリピの信徒への手紙」3章12〜16節で、パウロが信仰者の生き方を、ランニングやボクシングの競技者に譬えているのです。また、聖書で「罪」を表わすギリシア語「ハマルティア」も、アーチェリーの「的外れ」から来ているのです。

因みに「パラリンピック」という名称が使用されるように成ったのは、1988年のソウル大会からです。それ以前には「国際ストーク・マンデヴィル競技大会/International Stoke Mandeville Games」と呼ばれていました。

ナチスの迫害を逃れて、ドイツから英国に亡命したユダヤ人医師、ルートヴィヒ・グットマンが「パラリンピックの父」と呼ばれています。彼は戦時下「ストーク・マンデヴィル病院」脊髄損傷センターの所長に就任して、傷痍軍人たちの治療に当たっていましたが、その中から「手術よりもスポーツを」という閃きを得て、1948年から病院でスポーツ大会を開催するようになったのです。やがてオランダからの参加者も得て国際化し、1960年に、オリンピック後のローマで国際大会(車椅子競技大会)を開いたのが、後に「第1回パラリンピック」と位置付けられています。つまり、「第2回パラリンピック」は、意外や意外、1964年の東京だったということです。

さて、当日も「水泳」「陸上競技」「バドミントン」「ゴールボール」「シッティングバレー」「車いすテニス」「車いすフェンシング」「アーチェリー」「柔道」等、多種多様な競技体験が行なわれましたが、障碍もまた多種多様です。陸上競技でも義足の人と視覚障碍者とでは、全くジャンルが異なる訳です。ここには、健常者とは違う「もう1つのスポーツ/パラ・スポーツ/para-sports」の世界があります。

二男は「ボッチャ/Boccia」と「ボート」体験をして来ました。「ボッチャ」はイタリア語で「ボール」を意味します。南仏プロヴァンスの「ペタンク/pétanque」に似た競技と言って置きましょう。これまでも何度か彼の試合や練習を見学していたのですが、介助者として手伝ったのは初めてだったので、とても緊張しました。

3.「迷い道くねくね」

家族や友人たちの間では、私の方向音痴は知られています。センターからの帰り道、素直に王子駅行きの送迎バスに乗れば良いものを、また西巣鴨のパン屋に寄って、お土産を買おう等と欲を出したのが、そもそもの過ちでした。「ひとつ曲がり角、ひとつ間違えて」、気が付いたら、王子神社の前に来ていたのです。

ここまで来たら、素直に東京メトロ東西線の王子駅から目黒に帰れば良いものを、またぞろ炎天下を逆戻りして、西巣鴨に戻って行ったのでした。余りの暑さに、途中2度ばかりスーパーマーケットに入って涼を取りました。

それにしても、方向音痴の私と車椅子の二男の散歩は、常に異界への扉を開きます。象に乗った普賢菩薩と獅子に乗った文殊菩薩を脇侍とした釈迦三尊の石像に引かれて、つい古いお寺の境内に入って行ったり、立派なランチュウの入った水槽を幾つも並べた民家の車庫に侵入したり、「クロユリ団地」のような廃墟の中を通ったり…。残念ながら、西巣鴨に着いた時には、パン屋に立ち寄る元気はもう残っていませんでした。

牧師 朝日研一朗

【2016年9月の月報より】

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2016年07月31日

灰色のバスに乗って

1.真夏の悪夢

7月26日の未明、変な夢を見ました。残念ながら、前後の物語は、もう思い出せなくなっていますが、とにかく覚えている場面をお話しましょう。

田舎の小学校の校舎の、2階の廊下に立ち尽くして、私たちは廊下の窓から外の風景を見詰めていました。自分の卒業した小学校ではありません。どこかの見知らぬ小学校です。晴れ渡る初夏、遠くには、なだらかな山々、その手前に川の流れ、こちらに向かっては、自然林の点在する田園風景が続いています。

私の周りには、やはり何かを察して廊下に飛び出して来た学友たちがいます。そうです。何か異常事態が起こったのでした。突然、数キロ先の畑で爆発音が響き、土煙がモクモクと立ち上り、やがて、それは上空で「キノコ雲」に変わりました。私の周りの学友たちが悲鳴を上げて「原爆だ!」と叫びました。

しかし、その「キノコ雲」は原爆によるものではありませんでした。原因は竜巻だったのです。私たちのいる窓の下には、大きなプールがあって、そこには、なぜかイルカがいて、いつも2階の窓際までジャンプして、私たちから餌を貰っていたのですが、折り悪くジャンプしたイルカは、旋風に吹き飛ばされてしまいました。私たちはその後、プールに下りて、イルカを水の中に戻してやるのに、とても苦労をしたのでした。

久しぶりに夢を見ました。と言うか、目覚めても覚えているような、生々しい夢でした。階下に降りると、妻から「大変な事件が起こっているよ!」と告げられたのでした。

2.暴力の連鎖

26日未明、相模原市緑区の障がい者施設「津久井やまゆり園」(社会福祉法人「かながわ共同会」運営)に、26歳の元職員が侵入、ナイフと包丁で入所者を切り裂いて行き、現時点で19名が死亡、負傷者は20名に上るとされています。自ら警察署に出頭した男は「障害者がいなくなればいいと思った」との供述をしているとか、容疑者の尿と血液からは、大麻の陽性反応が出たとも報道されています。

咄嗟に、昨年末の米国の事件を思い出しました。カリフォルニア州サンバーナーディノの障がい者支援の福祉施設「インランド・リージョナル・センター/Inland Regional Center」に、男女3名が侵入して、銃を乱射、14名が死亡、17名が負傷したのでした。犯人たちは「ISIL/アイシル」「アル=ヌスラ戦線」「アル・シャバーブ」等のイスラム過激派に影響を受けた連中でした。私が、相模原市の事件と共通性を感じたのは、犯人の1人、サイード・ファルクが「職員」であったという点です。

そう言えば、「川崎老人ホーム殺人」もありました。昨年末、川崎市の介護付き有料老人ホーム「Sアミーユ川崎幸町」では、入居者の老人たちが次々に転落死しましたが、年が明けてから、職員がベランダから投げ落として殺害していた事が明らかになりました。これ程に極端な事例ではありませんが、職員が施設の入所者や病院の入院患者に虐待を加えて「事件化」する事は珍しくありません。忘れてならないのは、反対に、職員が利用者(入所者)から暴力を受けるケースも多々あるという事です。

暴力を振るわないまでも、暴言を吐く入所者もいるかも知れません。あるいは、場合によっては、認知症の悪化などによって恐慌を来たして、結果的に暴れてしまう患者もいるかも知れません。精神障がい者施設でも知的障がい者施設でも皆無とは言えないでしょう。職場環境が劣悪であれば、その職員の受ける痛手も大きいでしょう。このような悪循環(暴力の連鎖)が社会の至る所で起こっているように思うのです。

3.灰色のバス

「津久井やまゆり園事件」の犯人は、「大量虐殺」であるという点で、2008年の「秋葉原通り魔事件」の加藤智大をも思い出させます。薬物依存症の患者であったとすれば、また別の局面の問題にも発展するでしょう。しかし、彼の「障害者がいなくなればいいと思った」という発言には、私たち人間の魂の奥深くにまで根を下ろした、恐ろしい罪を感じないではいられません。

『灰色のバスがやってきた』(フランツ・ルツィウス著、山下公子訳、1991年、草思社)という本を御存知でしょうか。大戦中のナチスによるユダヤ人絶滅政策は知られています。しかし、ドイツ本国と占領地では、25万人以上の障がい者たちもまた「安楽死」の名の下に、組織的に虐殺されて行ったのです。その中には、身寄りのない老人たちも「お国のために戦った」はずの傷病兵も含まれていたのです。

ある日、施設や病院、学校の前に「灰色のバス」がやって来て、行く先も知らされぬまま強制移送され、殆ど全ての人たちが二度と生きては帰って来なかったのです。ドイツ語の原題は「Verschlppt/無理やり連れ去られて、こっそり連れ出されて」と言います。ドイツで出版されたのが1987年です。生き残った者たちが皆無に近かったので、戦後40年以上も知られなかった事件だったのです。

これが「ナチス的な虐殺」だとすれば、「日本的な虐殺」スタイルもあります。今でも障がい児と無理心中をする親御さん、認知症の連れ合いや親と無理心中をする人たちが後を絶ちません。その人たちもまた「灰色のバス」に乗せたのだなと思います。いや、一緒に「灰色のバス」に乗って行こうとしたのかも知れません。正直を言うと、肢体不自由児を抱える私自身の心の中にも「灰色のバス」は、時折り停車しているのかも知れません。

大量虐殺の犯人を許すことは出来ませんが、私自身の魂にも暴力は根を下ろし、幹から枝を伸ばしいて、それが「灰色のバス」の停車場と成っているような気もするのです。

牧師 朝日研一朗

【2016年8月の月報より】

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2016年06月26日

貧者の書籍 Biblia Pauperum

1.早稲田の古書店

早稲田界隈を歩いていて、最近、気付いたのは、古書店の閉店時間が早過ぎることです。午後7時を回ると、申し合わせたように、店主たちがシャッターを閉め始めるのです。以前は、もう少し遅くまで営業してくれていたように思うのですが、私の錯覚でしょうか。先日も、山手学舎の聖書研究会の前に、何軒か古書店を覗こうと足を伸ばしてみたら、悉く閉まっていました。

学生たち(多分、早稲田の)は、未だ通りをウジャウジャ歩いています。何しろ最近の大学と来たら、夜間部(二部)を廃止した結果でしょうか、講義は夜の9時頃までやっているのです。学生が歩いているのに、古書店が軒並みシャッターを下ろしている。このギャップに気付いて、私は衝撃を受けました。それ程までに、昨今の学生さんは本を読まないし買わないのかも知れません。

古本と言えば神保町ですが、転売業者である「せどり」の手を経て、店頭に並ぶので、神保町の値段は「吹っ掛け」です。資源ゴミ同然にして仕入れた書籍を、1万2万で売っていたりするのです。神保町に比べると、学生街ということもあって、早稲田界隈の古書店は適切な値段で販売してくれていて、好感が持てます。神保町は「古書の街」として有名で、まるで観光地のようにして(少なくとも表向きは)賑わっています。けれども、各地の街の古書店の灯火が消えかかっていることに、寂しさを禁じ得ません。

早稲田界隈で、我が一番のお気に入りの古書店は「古書現世」です。向井透史という人が営む、狭いけれども内容の濃い古書店です。この向井さんには『早稲田古本屋街』(未來社)という著書もあります。ここも夜の7時には閉まるのですが、黄昏時に行くと、すぐ近くの「源兵衛子育地蔵尊」が赤い灯明に照らされていて、まるで、つげ義春のマンガの中に入ってしまったような錯覚に陥ります。

2.京都の変な書店

私が学生時代を過ごした京都にも、その当時、数多くの有名な書店がありました。吉本隆明が京都に来ると、必ず立ち寄っていたという「三月書房」は、古書店ではありませんが、店主の思索が垣間見える、凝りまくった品揃えと絶妙の並び方でした。ここで私は、深夜叢書社創立20周年記念レコード『灰とダイヤモンド』7インチEP盤(一柳慧+森田利明+辰己弦楽四重奏団)を買いました。私の宝物の1つです。

河原町三条の「アスタルテ書房」は幻想文学専門でした。靴を脱いでスリッパに履き換えて上がると、応接間と言うか、好事家のための一種のサロンでした。永井荷風、泉鏡花、三島由紀夫、澁澤龍彦、サド、バタイユ、コクトーなどの奇覯本、四谷シモンの人形や金子國義の絵、そして、なぜかフランス製の木馬まで置いてあったりしました。昨年、店主の佐々木一彌さんが亡くなって、今は閉店したと聞きます。私は、牧神社関係の書籍を皆ここで購入したと記憶します。

京都大学のある百万遍には「オデッサ書房」という極左の書店がありました。ここには、一般の書籍は全く無く、極左党派のブックレットが所狭しと並んでいました。そこで私が買い求めたのは、桐山襲の小説『パルチザン伝説』でした。昭和天皇暗殺計画を描いた暗鬱なテロリズム小説ですが、第19回文藝賞候補になり、雑誌「文藝」(河出書房新社)にも掲載されたにも拘わらず、単行本化が中止され、当時は地下出版でしか入手できなかったのです。1度しか行っていないのに忘れ難いお店です。

何年か前に、友人の本郷燎くん(彫刻家の本郷新の孫、俳優の本郷淳と柳川慶子の息子)が遊びに来た時に、『街を変える小さな店』(京阪神エルマガジン)という本を手土産に持って来ました。それは、京都の一乗寺にある「恵文社」という本屋の店長による、書店の存在理由を問い直す刺激的な内容でした。実に一乗寺には「京一会館」という3本立ての名画座があり、毎週そこに通っていた私は、映画を観終わると、「恵文社」でコミックスを買い漁っていたのです。驚いたことに、そこでは、漫画家のサイン本(但し、ガロ系、COM系ばかり)が普通に売られていたりしたのです。

3.書籍の手触りを

修学旅行は別として、私が初めて自分の意志で東京に来たのは1985年のことです。修士論文のために国会図書館で資料収集するというのは表向きで、実際のところは、古本と古レコードを漁りに来ていたのです。友だちのアパートに転がり込んで宿泊所を確保するや、朝から晩まで、お店回りをしていました。

神保町を行ったり来たり、繰り返し往復しました。忘れ難いのが、今は無き「日清堂書店」です。学術洋書の専門店でした。京都にも大谷大学の近くに「至誠堂」という店がありましたが、さすがは東京、質量共に圧倒されたものです。勿論、今は跡形もありません。「北沢書店」は英語書籍専門店ですが、今や絵本児童書専門に成ってしまった1階にも、かつて美術書の洋書が無造作に積み上げられていたのです。映画関係の書籍を安く購入したものです。そう言えば、最近「教文館洋書部」も縮小されて、「キリスト教書籍」のフロアの片隅に間借りするような状態になりました。

洋書は「アマゾン」とかでネット注文する方が遥かに安く手に入るのです。インターネット販売全盛の時代、わざわざ高価な代理料を支払って注文する必要は無いのです。長男の携帯電話で頼めば、『グリモワール』『ソロモンの鍵』等の魔道書も簡単に購入できるのです。それでも、やはり、自分の手に取って、自分の掌で書籍の感触を確かめてから買いたいのです。私などは差し詰め「本の精霊」にでも取り憑かれているのでしょう。

牧師 朝日研一朗

【2016年7月の月報より】

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2016年05月29日

東京YMCA山手学舎

1.山手学舎

私は月に1回、高田馬場に通っています。東京YMCA山手学舎に行き、その舎生さんたちと聖書研究会をしているのです。昨年秋に留学生が1名途中入舎しました。この春6名が退舎して、3名が新入舎しました。それで差し引き現在、舎生は12名です。ここで、ザッと12人の紹介をして置きましょう。

早稲田大学商学部4年生のM君(宮崎市出身)、さすが、彼の作った「チキン南蛮」は絶品でした。東京大学法学部4年生のS君(桐生市出身)は頭脳明晰な人ですが、ここに来て、実存的な悩みを抱えています。立教大学経済学部3年生のF君(北海道八雲町出身)は、元高校球児のスポーツマンです。東京大学文学部3年生のK君(豊島区出身)は官僚を目指していますが、時折り見せるズッコケぶりが憎めません。東京農業大学国際食糧情報学部2年生のF君(志木市出身)はバスケットボール選手、『黒子のバスケ』の「敵キャラ」に出て来そうな体格の持ち主です。東京理科大学理学部2年生のI君(新潟市出身)は、数学科なのに、小説を書くのが趣味の文学青年です。駒澤大学経済学部2年生のN君(苫小牧市出身)は、アニメ『銀魂』のファンで、不思議な個性の持ち主です。早稲田大学法学部1年生(日大を退学して入り直した)のK君(長野市出身)は、政治家の事務所でバイトをしていて、将来、自分も政界に関わりを持ちたいと思っています。

昨年秋に入舎したのが、早稲田大学大学院創造理工学研究科1年生のY君(四川省出身)です。十把一絡げに「中国人は…」等と言ってはダメです。非常に奥床しい性格の人です。そして春に、早稲田大学文学部3年生のM君(下関市出身)、早稲田大学基礎理工学部1年生のK君(三島市出身)とY君(和歌山市出身)が加わりました。

2.聖書研究

改めて確認してみると、私が山手学舎の聖書研究を担当するようになったのは2011年度からでした。月1回(と言っても、夏休みや年度替りがあって、実際には年に9回程度ですが)の聖書研究に通い、加えて、入舎式と退舎式の礼拝説教を担当させて頂いています。当教会のKさんから依頼されてのことでした。Kさん自身も山手学舎の出身であり、現在「山手学舎OB会・後援会」の中心メンバーです。

依頼を受けたのは丁度、二男が肢体不自由児と成って間も無くの頃でした。当時、私自身の気分としては、夜に外出するのも億劫だったのです。ところが、妻が「外に出て、若い人たちと接した方が良いよ!」と背中を押してくれたのです。こうして仕方なく始めた務めでしたが、少しずつ学舎に行くのが楽しみに成って来ました。

1つには、高田馬場という街の魅力もあります。早稲田界隈には、今でも古書店が並んでいます。例えば、ある日のコース。タレントの郷ひろしさんが店主を務める、中古レコード屋「レコーズ・ハリー」で、60〜90年代の歌謡曲やポップスの盤を漁りながらお喋りをし、もう1軒の中古レコード店「タイム」にも立ち寄ります(残念ながら、この春に閉店)。「早稲田松竹」の2本立て興行のポスターを眺めながら、「元祖仲屋むげん堂」でインド&ネパール雑貨を物色、時間調整のために日本茶専門喫茶「茶々工房」で「ほうじチャイ」を飲みます。忽ち気分は学生時代にタイムリープです。

このような趣味的なモチベーションもありますが、勿論、それだけではありません。地方から上京して来て、経済的にも厳しい中で、学業とアルバイトに精を出している学生たちに対して、次第に、私は強いシンパシーを抱くようになりました。

親元を離れて都会で暮らす心細さ、仕送りやバイト料で繋ぐ綱渡りのような生活、将来への夢と希望、不安と迷い…。自分もまた、かつて同じだったからです。そんな学生たちに寄宿舎(安心して暮らせる場)を提供しているのが、東京YMCA山手学舎なのです。それと同じように、聖書研究の場も「精神的な宿り木」に成れたらと思っています。聖書には「生きるためのヒント」や「隠れスイッチ」が色々あるからです。聖書が思い込みや社会通念、固定観念を突き崩してくれたり、価値の逆転や発想の転換を促してくれたり、大切な何かに気付かせてくれたり、そんなことが一杯あるのです。

3.反時代的

何しろ、イマドキ2人1部屋です。「日直」の務めや「舎懇」というミーティングもあり、その上、「聖研」もあるのです。舎生の多くは夏休みに成ると、強制ではありませんが、石巻にボランティアに行ったり、YMCAキャンプのリーダーとして奉仕したりしています。山手センターのバザーでは、カレーを調理販売しています。

奉仕活動が日常的にあるのです。これは、全くイマドキではありません。

イマドキの学生さんは、自宅から通うかワンルームマンションに暮らしています。個室の中で、社会や他人と関わりを持たないで、孤立していることが、暮らしの前提に成っています。しかし、これは「暮らし」とは言えません。ペットショップのケージに入っている子犬や子猫と同じ眺めです。ところが、学舎では、同室者が話し掛けてくるし、お互いに気遣いも必要だし、夜には、鬱陶しい同室者の鼾や寝言や歯軋りが聞こえて来たりもするのです。でも、ここから「共に生きる」事が始まるのです。

当番ならば、他人のゴミも一緒に出したり、共用スペースである食堂やトイレや風呂を掃除したりしなければなりません。しかし、それが「暮らし」なのです。この「暮らし」の経験がその後の人生の原点に成って行くのです。山手学舎のOBたちが数十年の時を経ても、交流を続けていることを見れば、それは明白です。「時代」は「暮らし」の実感を喪失させ、人との関わりを断ち切る方向へと進んでいます。従って「反時代的」は最大の賛辞です。

牧師 朝日研一朗

【2016年6月の月報より】

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2016年04月24日

不安の立像

1.ゴジラの足音

2016年4月14日(木)夜、翌日の前夜式の準備も終わり、私は子どもたちと居間で寛いでいました。長男が「お父さん、もう新作ゴジラの最新予告映像が出ているよ」と教えてくれたので、彼のスマホを奪い取り、興奮して見ていました

『エヴァンゲリオン』の庵野秀明と、平成『ガメラ』三部作や平成版『日本沈没』等を手掛けた樋口真嗣とが、共同で監督をした『シン・ゴジラ』(GODZILLA Resurgence)です。2011年に『巨神兵 東京に現わる』で、コンビを組んだ二人です。その時、「巨神兵」を造型した竹谷隆之が、ゴジラの造型を担当しています。竹谷は雨宮慶太作品(『ゼイラム』二部作、『鉄機甲ミカヅキ』『牙狼/GARO』)の造型師です。そのせいか、何か得体の知れぬ禍々しさを感じさせる予告編でした

敢えて言葉にするならば、それは「妖怪のようなゴジラ」でした。派手な都市破壊の場面は余り無かったように思います。しかし、都市の中に立ち尽くしているゴジラの絵に、感覚を逆撫でされるような気味悪さがありました。まるで「マンモスフラワー」のような…。あれは「ゴジラ」と言うよりは、むしろ「ビオランテ」のようでした。長男は「何かキモイ」と漏らしました。でも、その時には、何が「キモイ」のか分かりませんでした

見終わった後しばらく、そんな感想を語り合っていると、突然、ドンッと地鳴りが響きました。それは「ゴジラの足音」のように思われました。午後8時58分、東京23区で震度2の地震があったのです。テレビの速報で「震度2」と言われましたが、私たちにとっては、それ以上に、何かしら気味悪さを感じさせる一撃でした。

2.不吉なる予兆

その予感は現実のものと成りました。その28分後、「緊急地震速報」のチャイム音が「チャンチャン、チャンチャン」と、テレビから鳴り響き、「緊急地震速報です。強い揺れに警戒してください」というアナウンスが被さりました。午後9時26分、熊本で震度7(マグニチュード6.4)の最初の地震が発生したのです。東京で私たちが感じた震度2の揺れと、熊本の地震との関連性は無いとされています。しかし、今でも大勢の人が皮膚感覚として「あれは前兆だった」という実感を持っているのです

ところで、あの「緊急地震速報」のチャイム音は、伊福部達(いふくべ・とおる)という東大の音響工学の先生が考案したものです。その名前から推察される通り、『ゴジラ』や『大魔神』の音楽で知られる現代音楽の作曲家、伊福部昭は彼の叔父に当たります。伊福部昭の交響曲「シンフォニア・タプカーラ/Sinfonia Tapkaara」(1954年)の第3楽章「Vivace」冒頭の和音の引用だったのです

伊福部昭は北海道で生まれ育ち、アイヌの人たちとの交流の中で幼少期を過ごしました。そのせいか、アイヌ音楽を素材に使うことが多いのです。「タプカーラ」は、アイヌ語で「立って踊る」という意味です

そして思い出したのは、1995年の阪神大震災の時に被災した知人の子どもさんが、1月17日午前5時46分、激震にマンションが揺さ振られ、轟音と共に部屋の中を家具が飛び回った瞬間を思い返して、「ゴジラが来たと思った」と証言したことです。ここでも「ゴジラ」に繋がるのですから不思議です

「怪獣/モンスター」がラテン語の「モーンストルム/monstrum/警告、予兆」から来ていることは、以前にも申し上げました。更に言えば、動詞の「モネオー/moneo/思い出させる、注意する、戒める」から派生したものです。この国の為政者と官僚たちは、これらの出来事を通して、東日本大震災と原発事故による難民に思いを向け、原発再稼動を強行したことを悔い改めなければならないのです。さもないと、これからも、このような事象は頻発し、私たちは「一億総難民化」してしまうでしょう。

3.死すべき存在

現在、私たちは皆、言い知れぬ不安を感じながら暮らしています。高度経済成長時代に対する素朴なノスタルジー等は、もう疾うの昔に消費してしまいました。私たちを不安に陥れているのは、首都直下型地震などの激甚災害だけではありません。やがて、テロの危険も現実に成るでしょう。収束しない原発事故、深く静かに進行する放射能汚染、急激な少子高齢化、地方の過疎空洞化、経済成長神話の崩壊…

しかしながら、私たちが、このような数多くの不安を感じながら生きることは、とても大切だと思うのです。むしろ、何も感じないことの方が恐ろしいと思うのです。とても不安であることを素直に告白しようではありませんか。真っ当な人間ならば、自分の将来に、自分の子孫の将来に、底知れぬ不安を感じるはずです

テレビを点ければ、外国人が日本を誉めてくれる番組と、無芸タレントがガツガツ大食している番組しかありません。かなり前から、そんな袋小路のような状態が続いていて、異常だと思っていました。今は、熊本の群発地震が中心に報道されています。この不安と悲しみに満ちた世界こそが、この世界の現実なのです

その昔、諸星大二郎に『不安の立像』という恐ろしい作品がありました(短編集『アダムの肋骨』(奇想天外社)収録)。白昼、ある駅で飛び込み自殺があり、電車が停まりました。サラリーマンの一人は車窓から、自殺現場に立つ奇妙な影のような生き物を見るのですが、他の乗客たちは誰も気付きません…(続きはご自分で読んでください!)

私たちは「死すべき存在」なのですから、本来、存在の不安と向き合って生きて行かなくてはならないのです。それは、私たち自身の実存が作り出す影のようなものなのです。

牧師 朝日研一朗

【2016年5月の月報より】

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