2014年12月23日

歌っているのは誰?

1.バロック

今でこそ、大きな声で讃美歌が歌えるようになりましたが、私も昔は、裏声でボソボソと歌っていたのです。顔を上げ、声帯と口を開いて、お腹から声を出すようにして歌う等ということはありませんでした。況して、人前で歌う、あるいは、人と一緒に歌うこと等、考えたこともありませんでした。

そんな私が、いつの頃から声を出して歌うようになったのでしょうか。洗礼を受けてキリスト者になった後も、讃美歌を歌うことを「楽しい」と思ったことはありませんでした。礼拝で歌わなくてはならないから、仕方なく歌っていただけでした。

それでも、毎週の礼拝に出ていると、時々、その旋律や歌詞に胸打たれることがありました。何週間か経ってから、ふと思い出して、「あれ、何番だったかしら?」と、「讃美歌」のページを捲ることもありましたが、礼拝の時しか捲らない「讃美歌」の本は、初心者には、知らない歌ばかり、同じような歌ばかりに見えて、結局、分からず仕舞いということになってしまったものでした。

勿論、大学の神学部では「教会音楽の歴史」は学びますが、讃美歌を歌うことはありませんでした。しかも、「教会音楽の歴史」の講義は、バロック時代のドイツ宗教音楽に限定されていました。ブクステフーデ、シュッツ、パッヘルベル、大バッハ、ここまでです。凄く偏っていると思いませんか。要するに、「讃美歌は、それぞれ自分の通っている教会で、実地に歌って覚えなさい」ということだったのでしょう。

2.河内音頭

そんな状態で、伝道師(牧師見習い)として教会に赴任しました。赴任した教会では、すぐさま「次の日曜日から夕礼拝を担当すること」を言い渡されました。まあ、聖書のお話は何とかなります(色々と「実験」をさせて貰いました)が、困ったのは讃美歌の選定です。音符が読めない人間にとっては、巻末の「聖書引照索引」で選ぶよりありません。それ以外に選定基準、選定根拠が考えられなかったのです。

ところが、実際の礼拝となると、折角、オルガニストが弾いて下さっても、選んだ本人が歌えない、礼拝出席者も歌えないということが起こってしまったのです。そして、半世紀以上のキャリアを誇る牧師(主任担任教師)が、その実、余り讃美歌を御存知ないという、驚愕の事実を発見したのでした。そう思って意識し始めると、成る程、朝の礼拝も似たり寄ったりの歌ばかりです。「讃美歌」第一編は567番までありましたが、その内、実際に礼拝や家庭集会で歌われているのは、どんなに多く見積もっても、せいぜい50曲程度のものでした。つまり、11分の1だったのです。

半年も経って慣れて来ると、「自分の歌えない歌は選ばないようにしよう」と思って、私も冒険を慎むようになりました。しかし、神さまは、そんな私に「歌う心」を与えようとされたのです。1年後、老牧師が隠退され、新任牧師が赴任しました。彼は合唱の経験があり、未知の歌も積極的に採り上げました。「第二編」や「ともにうたおう」(第三編)、いのちのことば社の「友よ歌おう」等も歌いました。何より、彼自身が歌うことが大好きでしたから、多少、音程が外れても、よく知らない歌でも、一生懸命に歌って居られました。今思えば、あのH牧師が私の讃美歌の師匠でした。

その後、私は宮崎県の小規模教会に赴任しました。私自身も、以前よりは数多くの讃美歌が歌えるようになっていました。ここでは、率先して声の出せる人は私しかいません。そこで「河内音頭」よろしく、♪「唄の文句は小粋でも/わたしゃ未熟で/とっても上手くも/きっちり実際まことに/見事に読めないけれど/八千八声のホトトギス/血を吐くまでも/務めましょ」の心意気で歌い続けたのでした。なぜなら、歌声の無い礼拝くらい、薄ら寒いものはありませんから。それは、教会の規模の大小とは何の関係もありません。

3.讃美歌21

札幌の教会に転任して、何年か経った時、いよいよ「讃美歌21」への切り替えを真剣に考えざるを得なくなりました。牧師のキャリアを10年積み重ねて、漸く讃美歌を意識して選んだり、歌ったり出来るようになったというのに、その愛着のある讃美歌集を措いて、新しい讃美歌集に切り替えるのです。これは、正直、大変な苦痛でした。しかし、幸いなことに、北海道の教会は(開拓地だからか)進取の気質に富んでいて、奏楽者や聖歌隊が保守的な私の背中を押してくれたのです。

忘れもしません。2000年の4月第1主日からでした。行人坂教会で「讃美歌21」を使用するようになったのは、1998年からですから、それより2年も遅れて、私はスタートしたのです。新しい讃美歌には馴染みが無く、不安を通り越して、恐怖と憎しみすら感じました。まるで、父親の横暴で実母が離縁された後にやって来る、見知らぬ継母と接しなければならない、子どものような複雑な心境でした。

しかし、毎月、奏楽者たちと会議をして、次の月の讃美歌を選定するようにしました。そんな中、新しい愛唱歌にも出会いました。そして、それまで、自分の讃美歌選びが如何に無考えであったかと思い知りました。オルガニストに番号を通知するのも2週間前、練習する人は大変でしたでしょう。そんなことにも気が付きませんでした。

私は今、歌い慣れない讃美歌があると、前の週に、インターネットで該当する曲を探して試聴するようにしています。教会学校礼拝の後には、奏楽者に弾いて貰って練習をします。その上で、主日礼拝前には、毎週、早く来た会衆と讃美歌練習をしているのです。新しい出会いを恐れてはなりません。「河内音頭」の言う通り、私たちは「未熟」なのですから。

牧師 朝日研一朗

【2015年1月の月報より】

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2014年11月25日

こどものすきなイエスさまの

1.嬉しい楽しいクリスマス

♪「うれしいうれしいクリスマス/かんかんかんかん鐘の音/こどもの好きなイエスさまの/お生まれなさったこのよい日/うれしいうれしいクリスマス/かんかんかんかん鐘の音」(『こどもさんびか』24番/岡本敏明作詞作曲)。

2002年に出版された『こどもさんびか改訂版』からは消え去ってしまいましたが、かつて教会幼稚園、教会保育園、教会学校で「うれしいうれしい」は盛んに歌われていました。皆で輪唱して楽しむための「遊び歌」の一種です。従って、歌詞も「嬉しい」「楽しい」に「かんかん鐘の音」「りんりん鈴の音」が入る、ごく単純なものでした。どうしても、メッセージ性が薄いように感じられ、ひたすら「嬉しい楽しい」だけの「クリスマス」を言っているとしか思われませんでした。『改訂版』の選に漏れたのも、やはり、歌詞の脳天気さが災いしたとしか思われません。

しかし、昔、盛んに歌った讃美歌というものは、何の愛着も持っていなかった歌であるにもかかわらず、時折、何の脈絡もなく思い出されるものです。ふと口ずさんでいる自分に気づいて、驚かされることがあります。仄暗い水の底から、あたかも、お岩と小平の死体を裏表に釘付けにした戸板のように、沈めても沈めても、意識の表層に浮かび上がって来るのです(嗚呼、どうしてホラーな喩えしか出来ないのだろう)。

アドベント(待降節)を迎えるに当たって、今回、私が思い出したのは、この「うれしいうれしい」だったのです。この歌の中の「こどもの好きなイエスさまの/お生まれなさったこのよい日」という歌詞が、私の(怪奇小説の読み過ぎで)腐った脳細胞に執拗に絡み付いて離れようとはしないのです。

2.子ども好きのイエスさま

そもそも「こどもの好きな」キリスト像は、子どもに対する教育(キリスト教教育)が普及するにつれて広がって行った、特化されたイメージだと思われるのです。それは一体、どのような裏付けがあって言われて来たことなのでしょうか。

近世には、プロテンタントの諸教派が競い合うようにして、受洗志願者や堅信礼を迎える子どもたちに「教理問答」を勉強させるようになりました。一種の「理論武装」であったのでしょう。やがて、ローマカトリック教会もその必要性に気づき、後に続いたのです。近代になり、欧米では「日曜学校」が最盛期を迎えます。丁度、日本にキリスト教が再び入って来たのが、その時代でした。

キリスト教が日本の近代教育に果たした役割については、今更言うまでもありません。特に女子教育と幼児教育において、その功績は計り知れません。なぜに女子教育と幼児教育なのかと言えば、それこそ明治政府が捨て置いた部分だったのです。今でも時折、キリスト教を「女子供の宗教」であるかのように蔑む人がいるのですが(男性優位主義者にして大日本主義者)、それこそは、キリスト教なくして日本の女子教育と幼児教育は存在しなかったことの裏返し証明になっているのです。

少子化のため減少したとは言え、現在でもキリスト教幼稚園、保育園、こども園の数は、日本全国に相当数あります。「キリスト教保育連盟」に加盟している園だけでも870園はあるくらいです。教会の牧師が教会幼稚園・保育園の園長を兼ねているというパターンは、日本では一般にも浸透したイメージです。幼稚園・保育園を経営しながらでなければ、牧師の生活を維持できなかった現実が背景にあるのです。

そんな訳で、日本では明治以降、「こどもの好きなイエスさま」のイメージが隅々まで浸透して行ったのです。そのイメージを支え続けた根拠は、聖書にも無いではありません。例えば、「マタイによる福音書」18章1〜5節「天の国で一番偉い者」とその並行記事、同19章13〜15節「子供を祝福する」とその並行記事です。しかし、それでも、クリスマスのイメージの大きさには遠く及びません。聖書など全く読んだことのない人でも、クリスマスと言えば「子どもたちが喜ぶ祭り」というイメージ、先入観を持っているのです。

3.ヴィイを呼んでおいで!

私は、ロシア正教のイコンを初めて目にした時の衝撃を忘れることが出来ません。子どもの頃、『妖婆・死棺の呪い』(Viy)という映画をテレビで観ました(後に『魔女伝説/ヴィー』と改題、劇場公開、ビデオ化されました)。1967年のソ連映画で、ニコライ・ゴーゴリの怪奇小説『ヴィイ』の映画化でした。原作は、小学校の図書館にあった「世界怪奇スリラー全集」(秋田書店)か何かで読んでいたのですが、映画を観て驚いたのは、ロシア正教の聖堂の壁一面に描かれた、キリストのイコンが異様で恐ろしかったことです。これはもう「遺恨」としか言いようがない程に。

今思えば、怪奇映画としての効果を上げるために異様に描いてあったのでしょう。後に、本物のイコンを見て行く中で、あれは極端に歪められたものだったのだと気づきました。それでも、子ども心には恐ろしかったです。映画のクライマックスに登場する魑魅魍魎の群れよりも怖かったです。そのせいか、以後、何を見ても余り恐ろしいと思わなくなってしまいました。まあ、何にでも例外はあるもので、桑田二郎(旧・桑田次郎)、楳図かずお、日野日出志のマンガには、一定のトラウマがありますが…。

そんな訳で、牧師になって、子どもたちと一緒に、♪「こどもの好きなイエスさまの/お生まれなさったこのよい日」と歌いながらも、頭の片隅には、いつも『妖婆・死棺の呪い』 の、キリストの「恐怖イコン」が蘇って来るのでした(さすがは「蘇連」!)。少なくとも、あのイコンを見る限り、到底「子どもがお好きな」ようにはお見受け出来ませんでした。

牧師 朝日研一朗

【2014年12月の月報より】

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2014年10月23日

ダニー・ボーイ

1.ダニ払いの日々

6月の末だったでしょうか、蚊に刺されたのか、痒いなと思っていたら、それはダニだったのです。両手首、両足首の何箇所も瘤になって腫れ上がりました。そう言えば、天候不順で、長く布団を干していませんでした。

幾ら天日干しをしても、摂氏50℃を超えなければ、ダニは死滅しません。たとえ布団の表面が高温に成っても、ダニは布団の内部に潜り込むだけなのです。また、幾ら布団を叩いても、内部に潜んでいたダニと埃が表面に浮き出るだけです。けれども、それを辛抱強く繰り返し、直接に掃除機をかけることで、徐々にダニを駆逐することに成功しました。

けれども、その頃には、両手足首は悲惨な状態に成り果てていました。家族からも気味悪がられる程でしたが、私は呑気に「戦前のフランス映画に『蚤払いの一夜』というのがあったなあ」等と考えていました。以前、ノミに集られたこともありますが、ノミはその立ち姿や顔付きが余りにも人間に似ていて、思わず殺すのを躊躇してしまった程です。

2.ムシムシ大行進

大阪時代、教会学校に来ていた女子中学生から、生まれたばかりの子猫を貰い受けて、しばらく飼っていたことがありました。けれども、若気の至り、すぐに同棲生活は破綻し、泣く泣く猫を実家に帰したのです。すると、離縁された猫の恨みでしょうか。いいえ、宿主がいなくなったために、ネコノミが私の血を吸い始めたのです。この時は、殺虫剤の薫蒸を数回行なったのではなかったでしょうか。

宮崎時代、小学生を引率してビーチキャンプに行った時、面白半分に半身を砂に埋めたまま、迂闊にも一晩眠ってしまいました。朝起きてみたら、全身をハマトビムシに覆われていました。生物の腐った屍骸や浜に打ち上げられた海草を食べる虫です。

北海道時代、青少年ワークキャンプに行った時、焚き火を囲んで、青年たちと徹夜でお喋りをしました。半ズボンなのに防虫を怠ったせいで、両足をブヨに刺されて、翌日から猛烈な痒みに襲われました。北海道の森林には、ヤブカは少ないのですが、ブヨが沢山います。エジプトの魔術師の台詞ではありませんが、まさしく「これは神の指の働きでございます」(出エジプト記8章15節)としか言いようのない痒みでした。

3.吸血に性別なし

手首の腫れに気付いた人から「どうしたのですか?」と尋ねられると、正直に「ダニですよ」と答えつつも、照れ隠しに、アイルランド民謡「ダニー・ボーイ」を歌いました。けれども、すぐに、吸血するのは雌だから、むしろ「ダニー・ガール」ではないかと考えました。ところが、調べてみると、ダニもノミも、雌雄両方が吸血することが分かったのでした。

マンデラ夫人は独房で1匹のハエに慰められたと言いますが、私は未だその境地に至りません。

【会報「行人坂」No.249 2014年10月発行より】

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万霊節の夜に

1.幻想三人組

英国の詩人にして幻想文学作家、チャールズ・ウィリアムズ(1886〜1945年)を御存知でしょうか。『ナルニア国物語』のC・S・ルイス(1898〜1962年)や『指輪物語』のJ・R・R・トールキン(1892〜1973年)らと共に「インクリングス」(仄めかし、微かな音)と銘打った談話サークルを結成して、作品の批評をし合っていたそうです。

盟友であるルイスやトールキンの作品が世界中で読まれ、この日本でも大変な人気を博しているのに比べると、ウィリアムズは、如何にも知名度が低いのです。何しろ、彼の作品で邦訳されているのは、『万霊節の夜』(蜂谷昭雄訳/国書刊行会「世界幻想文学大系」第1期、第14巻として)1冊のみなのです。それも1985年に出版されて以来で、今では「品切増刷未定」と成っています。ルイス、トールキンと共に「オクスフォード幻想文学三羽烏」と称されながらも、ウィリアムズの著作は、殆ど日本に紹介されていないのです。

C・S・ルイスは、幼少時、母の信仰するアイルランド国教会の中で育てられ、長じては、イングランド国教会に帰依したのみならず、自ら「信徒伝道者」を名乗って、著作を通じてキリスト教信仰の普及に努めました。また、J・R・R・トールキンは終生、熱心なカトリック信者であり、教皇ピウス12世の勅令により「エルサレム聖書」が翻訳刊行された際には、その英訳(「ヨナ書」)を担当しているくらいです。C・ウィリアムズも、信仰深い両親のもとに生まれ、イングランド国教会で幼児洗礼、堅信礼を受けています。メソジスト教会系の事務所に勤務していたこともあります。

確かに、ウィリアムズは一時、オカルト団体「黄金の暁」教団に参加したりはしますが、オカルトに血迷って、一時的に棄教したのは、ルイスも同じです。ルイスに勝るとも劣らずキリスト教神学小説を書いているのに、キリスト教系の出版社すら、彼の作品には見向きもしません。私には、そのことが残念でなりません。

2.ハロウィン

ウィリアムズの『万霊節の夜』(All Hallow’s Eve)は、終戦の年、1945年に出版されています。ウィリアムズの没年でもありますから、彼の最後の長編なのではないでしょうか。ナチスドイツの大空襲の際に亡くなった2人の女性、レスターとイヴリンが幽霊と成って、この世に遺して来た男性の愛を確かめるべく、薄明のロンドン市街を彷徨います。やがて、彼女たちは、世界征服の野望を抱き、新興宗教教団を率いるサイモン牧師と対決することになるのでした。因みに「サイモン牧師」は「使徒言行録」8章の「魔術師シモン/シモン・マゴス」がモデルになっています。

突然に、ウィリアムズの『万霊節の夜』を思い出したのは、今年の「聖徒の日/永眠者記念礼拝」(11月第1主日)が丁度、11月2日に当たり、「諸魂日/All Souls’ Day」と重なっていたからです。その前日、11月1日が「諸聖徒日/All Saints’ Day」です。中世のカトリック教会では、「聖人崇敬」が盛んになるにつれて、「諸聖徒日」を列聖された殉教者、聖人のためだけの記念日とし、その他一般逝去者は「諸魂日」に記念したのです。勿論、プロテンタント教会に「聖人崇敬」はありませんから、11月最初の日曜日を「聖徒の日」として定め、全永眠者のための礼拝として守っているのです。

さて、私見ですが「万霊節」というのは、本来の趣旨からすると「諸魂日」(11月2日)のことでしょう。しかも、「万霊節」は英語の「ハロウィン/Halloween」の訳語とされています。先のC・ウィリアムズの小説も、原題は「All Hallow’s Eve/諸聖徒日の前夜」でした。「Hallow’s Eve」が訛って「Halloween」と成ったとされています。ところが、実際には、「ハロウィン」のお祭り騒ぎは11月1日(諸聖徒日)の前夜、10月31日に行なわれています。この辺りの微妙な日のズレ具合が「世俗化」ということなのでしょう。

「クリスマス/Christmas Day」よりも「クリスマスイヴ/Christmas Eve」が盛り上がるように、「諸聖徒の日/All Hallow’s Day/All Saints’ Day」なんかよりも「ハロウィン/All Hallow’s Eve」の方が盛り上がるのです。勿論、「ハロウィン」は「教会暦」には入っていません。時折、「こんなに日本でもハロウィンが定着しているのだから、教会でもお祝いしてみたらどうですか?」との、有り難い助言を頂戴しますが、残念ながら無理かと思います。教会行事(礼拝儀式)とは全く相容れないものだからです。

3.商魂と招魂

近年のハロウィン流行は、恐らく、日本の若者たちのコスプレ趣味と合致してのことでしょう。思い思いの仮装をして練り歩くのは、確かに楽しそうです。昨年、広尾を散歩していたら、黄昏の時間帯に、仮装した小さな子どもたちが大勢やって来る光景を目にしました。フェリーニの『カビリアの夜』のラストシークェンスを思い出す程に、幻想的でした。家々の前に灯されたカボチャ(ジャコランタン)のキャンドルも、私は嫌いではありません。小学校の頃の地蔵盆の灯明を思い出すからです。

ハロウィンは教会と無関係の異教の祭りで、今更、取り込みようも無いと思います。けれども、「聖徒の日」の前夜、もしくは当日の夜、私たちはキャンドルの1本でも灯して、先に召された兄弟姉妹のことを思い出してみるのも悪くはないでしょう。お祭り騒ぎをしなくても、私たちに相応しい「招魂」の仕方はあるのではないでしょうか。ハロウィンの「商魂」より、祈りによる「招魂」をお勧め申し上げます。

今の世の中、とかくコマーシャリズム(営利主義、商業主義)に流されがちです。けれども、何にせよ、魂に関することですから、余り無節操に商売に利用してはいけません。少し度が過ぎるのではないでしょうか。このままでは、決して良いことはありません。

牧師 朝日研一朗

【2014年11月の月報より】

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2014年09月24日

叫びとささやき

1.悲鳴と絶叫

「誰か、助けてーッ!」と、泣き叫ぶ女性の声が響き渡りました。ある土曜日の午後、私は二男をリハビリに連れて行き、Hリハビリテーション病院のロビーで、テレビの相撲中継を眺めながら、いつの間にか半睡状態に陥っていました。突然、後ろから聞こえた絶叫に目を覚まして、慌てて振り返りました。何か「事故」が起こったと思ったのです。

ロビーにいた他の人たちは皆、私と同じように思ったはずです。入院の患者さんたち、通院外来の患者さんたちは、リハビリの最中でした。彼らはリハビリルームにいます。ロビーの待合に残っていたのは、(私自身も含めて)大半が患者の家族たちでした。ですから、「誰か助けて!」の叫びに、車椅子の転倒事故かと思って、立ち上がった人たち、近づいた人たちもいました。勿論、病院のスタッフも飛び出して行きました。

後ろを見ると、初老の上品そうな女性が車椅子に乗っており、それを押していた若い女性(30歳代くらいか)が泣き叫んでいたのです。車椅子の手押しハンドル部分を辛うじて手放さないではいましたが、彼女自身は蹲り、フロアに膝を付き、泣き叫んでいたのです。彼女の叫びは続きました。

「お兄ちゃんは何もしないの。何もしないで、お母さんに暴言を吐くばかりなの。もう堪らない。もう我慢できない!!」と叫んでいました。病院スタッフが何とかして宥めようとしましたが、却って、火に油を注ぐ結果となり、彼女はロビーの家族に向かって「皆さん、聞いてください!」と叫び始めたのです。

2.修羅と愁嘆

ロビーにいる者たちは「事故」ではないと判明し、病院スタッフが対応を始めると共に、潮が引くようにして、テレビの方に向き直りました。私自身もそうしました。決して冷淡なのではありません。彼女の家族のプライバシーに対して、興味本位に触れようとは、誰も思わなかったのです。そこにいる者たちは皆、重い肢体麻痺を抱える家族に同伴して通院している人たちです。面白半分に見物すること等しません。

自分たちの家族も車椅子の生活をしており、自身も介護生活を続けているのです。同じような苦しみと悲しみとを抱えています。そして同時に、自分の状況と他人の状況とが決して同じようではないことを、身に沁みて知っているのです。だから、他の人との「比較」は決してしません。それは「地獄」を生み出す素だからです。つまり、彼女の悲鳴と絶叫は、そこにいた家族が多かれ少なかれ共有するものなのですが、同時に、だからと言って、そのままに無責任に共感してしまって、良いものではないのです。

それだから、私たちはテレビに向き直りました。ジロジロと見物する人は誰一人としていませんでした。「知らん振り」ではありません。それこそが、精一杯の配慮なのです。それでも、彼女の切実な訴えは耳に入って来ました。

やがて、病院のスタッフから「別室でソーシャルワーカーがご相談に乗ります」とでも告げられたのでしょう。スタッフに付き添われて、彼女は母親の車椅子を押しながら、テレビ画面の横から奥の診察室の方へと消えて行きました。しかし、通り過ぎながら、私たちに向かって、同じような訴えを繰り返していました。私たちは「あなたを無視している訳ではないよ」「あなたの叫びは届いたよ」という合図として、彼女が側を通る時に、無言のまま深く頷いて挨拶を送りました。

車椅子の母親は白髪で眼鏡を掛けた女性でしたが、これだけの愁嘆場を娘が演じたというのに、全く頓着していない風情でした。そう、私の目に「上品そう」に見えたのは、彼女が無表情、無感情だったからなのだと、その時に悟りました。車椅子を押す娘には、同じくらいの年代の男性が付き添っていました。どうやら、この人物は彼女の糾弾した「お兄ちゃん」ではなく、彼女の夫なのでしょう。やがて30分くらい経ってから、男性が診察室の方に足早に歩いて行きました。これが連絡を受けて戻って来た「お兄ちゃん」なのでしょう。

3.ささやく声

それでも未だ、彼女は叫ぶことが出来て、自分の感情を爆発させることが出来て、良かったと思います。糾弾の対象となる、不甲斐ない「お兄ちゃん」が存在してくれていて、良かったと思います。叫ぶことも出来ず、泣き喚くことも出来ずに、介護の不眠不休とストレスから、鬱病や神経症を発症する家族、身体的な病気に罹る家族も少なくないからです。患者と共倒れになってしまう介護家族も多いのです。

私は後になってから、むしろ、表情を無くした車椅子の母親のことを強く思い起こすようになりました。一言も喋らないのは「嚥下障害」「構音障害」のせいかも知れません。何の表情も見られないのは「感情障害」のせいかも知れません。脳梗塞や脳卒中によって、脳がダメージを受けると、「高次脳機能障害」を起こして、無感情になったり、突然に怒ったり笑ったり泣いたりして、感情のコントロールが出来なくなることもあります。失語症の状態に陥ることもあるのです。

彼女(車椅子の母親)は叫びたくても叫ぶことも出来ない。泣きたくても泣くことも出来ないのかも知れなのです。私たちには、介護される側の気持ちは分からないのです。介護する者は(家族であっても)、介護の相手が余りに受動的である場合、ついつい物体のように取り扱ってしまうことがあるのです。況して、相手が感情や表情を表わさず、言葉を失っていたら、尚更に対象化、物象化はエスカレートすることでしょう。

「火の後に、静かにささやく声が聞こえた」(列王記上19章12節)。叫びには、思わず耳を傾けます。しかし、囁き、静かな細い声は聞き漏らしてしまうものです。

牧師 朝日研一朗

【2014年10月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 10:21 | ┣会報巻頭言など

2014年08月27日

礼拝の献げもの

1.探し求める

J・S・バッハの器楽曲に「音楽の捧げもの」(Musikalisches Opfer/BWV.1079)があります。詳しいことは知りませんが、バッハがプロイセンのフリードリヒ大王(彼自身、作曲家でした)に献呈したので、「音楽の捧げもの」と呼ばれているのでしょう。9つの楽曲から構成されていますが、私は、その第5曲目「6声のリチェルカーレ」(Ricercare a 6)というのが大好きです。

実を言うと、余りバッハには興味がありませんでした。けれども、高校時代に愛聴していたNHK-FMの番組に「現代の音楽」というのがあって、毎回、ペンデレツキやヘンツェ、リゲティやクセナキスの不協和音を楽しみにしていたのです。その頃の私は「ロックならプログレ、ジャズならフリー」という風に、脳天をハンマーで叩くようなものが真の音楽であると堅く信じていたのです。

「現代の音楽」が始まると(私の聴いていた頃は)、新ウィーン楽派のアントン・ヴェーベルンがオーケストラ用に編曲した「6声のリチェルカーレ」が流れるのです。そして、音楽評論家の上浪渡(うえなみわたる)のナレーションが被さるのでした。ラジオを通して、あたかも陰府の世界から聴こえて来るような雰囲気に、私はゾクゾクしたものです(殆ど「霊界ラジオ」ですね)。調べてみたら、上浪さん、2003年に亡くなっていました。日本基督教団井草教会でお葬儀が行われています。

因みに「リチェルカーレ」とは「探求」を意味するイタリア語だそうです。後に続く旋法や調を「探し求める」ことに由来するそうです。ルネサンス音楽や初期バロック音楽の様式なのだそうですが、何かしら神秘的な語です。

2.席上献金袋

この9月から、毎週の主日礼拝の際、受付台の上に「礼拝(席上)献金袋」を置くことになりました。礼拝委員会で企画して、役員会の承認を得て、モデルを作成して、改めて役員会で意見交換をして作り直しました。封筒の両面に、礼拝(席上)献金の主旨について説明書きがしてあります。

「礼拝(席上)献金袋」、その下に「Please Use for Offering」と英語の記載も加えたのは外国の人も出席されることがあるからです。この「Offering/献金、献げもの」という語を改めて見ていて、バッハの「捧げもの/Opfer」を思い出した訳です。

その後には、このように書きました。「礼拝(席上)献金は、今日、神さまから与えられた恵みと祝福に感謝してささげます。あるいは、明日への願いと希望を託してささげます。金額に決まりはありません。むしろ、神さまは、ささげる人の魂を見ておられます。祈りをこめて献金をおささげしましょう。キリスト教の礼拝に初めていらっしゃる等して、お持ち合わせのない方、「献金」の主旨に納得できない方は、どうぞ、この袋を、そのまま、係が回す献金かご(黒色布製)の中にお入れください。」

裏面には、献金についての聖句を書きました。「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。(コリントの信徒への手紙U9章6〜7節)」

どうぞ、会員の皆さんも一度手に取って御覧ください。記載からもお分かりのように、封筒の「献金袋」を用意したのは、礼拝に初めていらっしゃった人、教会の礼拝に慣れていない人への配慮です。

今年の初め、八木谷涼子著『もっと教会を行きやすくする本/「新来者」から日本のキリスト教界へ』(キリスト新聞社)という、画期的な本が出版されました。「伝道」「宣教」「信仰の継承」等、観念論を云々する前に、是非とも読まなければならない本です。その中で、新来者にとって最も意味不明で困惑するのは「献金」と「聖餐式」であることが言われています。しかも、多くの教会において何の説明も行なわれないまま、粛々と為されていて、新来者は置き去りにされている時間なのです。

3.楽園への鍵

以前から「礼拝(席上)献金袋」を使用している教会は数多くあります。しかし、我が行人坂教会では、これまで、そのような配慮をして参りませんでした。勿論、会員の皆さんに「礼拝(席上)献金袋」の使用を強制するものではありません。これまで通り、裸のまま、係が廻す「献金かご」(黒色布製)の中に入れて下さって結構です。反対に「礼拝(席上)献金袋」を使用して下さっても結構です。

教会によって「礼拝献金」の時間の在り方は、実に様々です。会衆が講壇の前まで行列をして、各自お祈りしながら、銀のお盆の上に紙幣やコインを置いて行く教会もあります。これを礼拝学では「奉献の行進/Offertory Procession」と言います。「奉献」としての「献金」と「聖餐」とは繋がっているのです。「差し上げる、奉げる」という意味の「アナフォラ/anaphora」という語(ヘブライ人への手紙7章27節)が、東方教会においては「聖餐」を呼ぶ名称と成っているくらいです。そもそも「奉献」は、キリストが御自身を与え給うたことに対する応答なのです(コリントの信徒への手紙U8章9節)。

「月定献金/約定献金」は、教会運営を支えるために会員に課せられた責任ですが、「礼拝(席上)献金」には、会員であるか否か、キリスト者である否かの区別はありません。その時その場に共に集っていること、「存在と時間」の共有だけが重要なのです。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカによる福音書23章43節)の御言葉を開く鍵なのです。

牧師 朝日研一朗

【2014年9月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 09:32 | ┣会報巻頭言など

2014年07月23日

惨劇のイマジネーション

1.ソンタグ

「特に日本映画の場合にそうなのだが、必ずしも日本映画ばかりではなく、一般に、核兵器の使用や未来の核戦争の可能性によって、大量の創傷が現実に存在するという気持を観客は持たされる。空想科学映画のほとんどはこの創傷の証人であり、ある意味で、これを払拭しようとする試みである。」

アメリカの批評家、スーザン・ソンタグの古典的な評論集、『反解釈』の中の「惨劇のイマジネーション」(1965年/邦訳1971年:河村錠一郎訳)からの引用です。ソンタグの『反解釈』は70年安保以降のサブカル世代には「聖書」のように崇められた本でした。

「空想科学映画」として、ソンタグが具体的に題名を挙げているいるのは、『キング・コング』(1933年)、『地球最後の日』(1951年)、『遊星よりの物体X』(1951年)、『宇宙水爆戦』(1955年)、『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(1956年)、『縮みゆく人間』(1957年)、『生きていた人形』(1958年)、『ハエ男の恐怖』(1958年)、『脳を喰う怪物』(1958年)、『地球全滅』(1959年)、『光る眼』(1960年)、『タイムマシン』(1960年)等です。日本映画からも『空の大怪獣ラドン』(1956年)、『地球防衛軍』(1957年)、『美女と液体人間』(1958年)、『宇宙大戦争』(1959年)が採り上げられています。

それにしても、翻訳をした人は、映画にもSFにも全く無関心だったようで、公開作品の邦題すら満足に表記できていませんでした。そもそも、ソンタグ自身が『ラドン』について詳述しながらも『ゴジラ』に全く言及しない不徹底ぶりです。彼女が「ラドン」に特別な思い入れを持った、コアなファンだったということでは決してないと思います。恐らく、単に執筆時点で「ゴジラ」を見ていなかったのでしょう。

2.トラウマ

それでも、ソンタグの慧眼には敬意を表さない訳には参りません。いみじくも彼女が断言しているように、SF映画や怪獣映画は「現実に存在する」「創傷の証人」として、観客に戦争の傷痍や被爆の後遺症を想起させる働き、訴えかける役割を果たしているのです。

例えば、『ゴジラ』(1954年)の台詞の中で、何度、戦争への言及があるでしょうか。電車で通勤中の会社員が溜息混じりに「ああ、また疎開か」と呟きます。また、ある女性は「折角、長崎の原爆を生き延びた大切な体なんだから…」と言います。ゴジラに蹂躙される銀座で、戦争未亡人と思しき女性が子どもたちを抱きしめて「もうすぐ、お父ちゃまのところへ行くのよ」と言い聞かせます。

ところが、この後、まるで野戦病院の如き「救急介護所」の場面で、母親だけが亡くなり、生き残った女の子も被曝していることが明らかになります。しかも、この女の子にガイガーカウンター(放射線測定装置)を向けた放射線技師の田畑は押し黙ったまま、恵美子(河内桃子)に向かって左右に首を振って絶望的であることを伝えます。

この場面での伊福部昭の音楽は『原爆の子』(1952年)、『ひろしま』(1953年)の曲調と見事にかぶっています(2年後の『ビルマの竪琴』の「白骨街道」の劇伴にも通じます)。『ゴジラ』が『原爆の子』『ひろしま』と共に、伊福部の「原爆三部作」と呼ばれる所以です。

品川、田町、新橋、銀座、日比谷、数寄屋橋、永田町、上野、浅草…。ゴジラの通った跡は火の海と化しています。辛うじて高台に避難した人たちは、夜空を焦がして燃え上がる東京の街を呆然として見詰めています。古生物学者の山根博士(志村喬)の息子、新吉が思わず「畜生!」「畜生!」と、悲痛な叫びを発します。ゴジラが勝鬨橋を破壊する前の場面ですから、隅田川から東京湾へ向かっている訳です。そう、これは東京大空襲の再現なのです。

このように、『ゴジラ』は戦火の記憶を痛烈に呼び覚ます作品であったのです。当時の観客の感想にも「戦争を思い出すからイヤだ」という意味のものが数多くあったようです。さて、ここまでは、大勢の人たちが指摘していることです。問題はここからです。

3.チンプカ

私が『ゴジラ』を劇場で観た時点(1980年代)では、「もうすぐ、お父ちゃまのところへ行くのよ」の台詞が、若い観客の大爆笑を誘った事実を、どうしても言い添えねばなりません。「戦争を思い出」させる悲痛な描写の1つであったはずが、製作から30年を経て、あたかもコメディのように変質してしまっていたのです。

そうです。ソンタグの慧眼が本当に鋭いのは、この点なのです。「現実に存在する」戦争の傷痍と核の脅威を、この種の映画作品は想起させるのみならず、同時に「払拭させる試み」にも成り得ていたということなのです。

『ゴジラ』の監督、本多猪四郎は、8年間も日中戦争に従軍させられた挙句、大陸で終戦を迎え、復員して帰郷する列車から壊滅した広島の惨状を目撃するという衝撃的な体験をしています。また、音楽の伊福部昭は、兄の勲が戦時下研究の放射線障害により、28歳の若さで死亡して居り、核と放射能に対しては、終生、強い怨嗟の念を抱いていたと言われています。いずれも「ゴジラ製作神話」として語り継がれている話です。

つまり、本多も伊福部も表現のモチベーションにおいては、かなり「本気モード」だったということなのです。にも拘わらず、時代の変化が人々の記憶を風化させるのみならず、表現そのものが「陳腐化」という宿痾を内包しているのです。

新作『GODZILLA/ゴジラ』には、福島第一原発からMUTOという別の怪獣が登場するそうです。「ゴジラ」生誕60周年に、自衛隊が米軍の先兵と成って(世界展開して)奉仕するという、愚かな憲法解釈が国会で承認され、安倍首相の肝煎りで原発推進に舵取りがされる、これ以上に皮肉な「惨劇」、イマジネーションの欠落は存在しません。

牧師 朝日研一朗

【2014年8月の月報より】

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2014年05月24日

心のバリアフリー

1.車椅子

二男が車椅子で生活するようになって早や6年の歳月が過ぎました。小学校2年生だった彼も、何とか生き永らえて、この春から中学1年生になりました。小学校に復帰した小学2年生の3学期には、1日登校しては1日休むというような生活でしたが、現在は、かなり免疫力が付いたと見えて、殆ど病欠がありません。教会の皆様のお祈りとお励まし、神さまの御守りの御蔭と感謝申し上げます。

さて、リハビリに連れて行ったり、お散歩に出たり、映画に行ったりする度に、車椅子から東京の街の荒廃ぶりが見えて来ます。正直、よくぞ、パラリンピック等を招致したものだと呆れ返ります。多分、東京都庁も日本国政府も「オリンピックがカレーライスで、パラリンピックは福神漬け」くらいにしか考えていないと思いますが、バリアフリーに関して、世界の意識は向上しています。そんな中、1兆円もの予算を投入した上で、認識の低さを世界にアピールして笑いものにならなければ良いが…と危惧しています。

2.バリア

地方暮らしだと、必然的に自家用車を使うことになりますが、東京では、公共交通機関を利用することが大切だと思います。昨年まで、妻は意識的に公共交通機関を利用して、二男と共にリハビリに通っていました。その方が二男にとっても、外界からの刺激が多くあって良いのです。けれども、そんな中で、妻から繰り返し聞かされたのは、駅のエレベーターを利用する人たちのマナーの悪さです。

当然ながら、車椅子の人は(ある程度、ベビーカーの親たちもでしょうが)エスカレーターや階段を使ってプラットホームに辿り着くことは出来ません。ところが、所謂「健常者」の大人たちが(時には割り込みまでして)「我先に」とエレベーターに乗り込む場面に遭遇するのです。車椅子でエレベーターを待っている人間がいるのに、そんな存在は見えないかのように、スマホとかに見入っているのです。あるいは、家族だけ、連れ合いだけで自閉的世界を作って、お喋りに余念が無いのです。

自律歩行が出来ても杖を必要とする人、手押し車や歩行器を必要とする人がいます。あるいは、一見「健常者」に見えても、内臓や血管に病気を抱えている人がいます。高齢者も大変なのです。しかし、そういう人たちは、動作や仕草を見れば分かります。そういう人たちではないのです。身体的には、明らかに元気な、丈夫な人が「楽だから」「速いから」という理由で、無考えにエレベーターを利用しているのです。そうそう、ガラガラとキャスターを転がして横行闊歩する、あの大きなキャリーケースの流行も、周囲への配慮と注意を著しく欠いていることが多く、危険極まりありません。

それでも、車椅子の存在にハッと気付いて、配慮してくださる人、場所や順番を譲ってくださる人もいます。そういう人たちに出会うと、もう、それだけで嬉しくなります。些細なことと思われるでしょうが、そこに幸せがあるのです。だから、私たちは、心を込めて「ありがとうございます」と申し上げます。

車椅子の人がいること等、目に入らない、まるで「透明人間」であるかように徹底的に無視した上、自分の子どもと喋り、エレベーターを家族だけで独占して乗り込む人もいます。そうかと思うと、自分の子どもを制止して、「どうぞ、お先に」と言ってくださった人もあります。確かに親の姿勢を見ていると、子どもの行く末が浮かびます。駅のエレベーターこそは、人間模様の縮図、家族模様の露出なのです

本当に色々な人たちに出会います。お互いへの配慮と注意は、自然と言葉掛けや挨拶を生み出します。その一方、車椅子を無視する人のタイプとして「コミュニケーション不全」とでも言うような症状が見えて来ます。見知らぬ他者との会話や接触を極端に嫌っている(恐れている)ようです。つまり、自分の周囲に強固なバリア(障壁)を作っているのです。

3.フリー 

段差や坂道にも苦労しますが、車椅子の息子と共に移動していて、一番悲しい思いをさせられるのは、人の心にあるバリア(障壁)です。妻も、二男との外出から戻って来て、段差や坂道などの大変さを訴えたことはありません。それは、時間をかけて慎重にしたり、遠回りをしたり、駅員さんに手伝って貰ったりすることで解決できることなのです。むしろ、辛いのは、人の冷淡で横柄な態度や心無い行ないです。

勿論、誰の心にもバリアはあります。障がい児が無垢な訳でもありませんし、障がいを持った子の親たちも、それぞれの心に強烈なバリアを持っています。自分の子よりも軽い麻痺の子を見て妬んだり、自分の子よりも重い障がいを抱える子を見て安心したりしています。結構おぞましいのです。知的障がいや言語障がいの有無によっても、肢体不自由の多少によっても、逐一、そのような感情に振り回されています。

数年前から、特別支援学校の通級に、二男を連れて行っていました。そこで、親御さんたちを見ていると、同じ種類の障がいを抱えている子たち、入院時期が重なっていた子たちのグループが自然に生まれていて、そのお母さんたちの結束力の強さに弾かれると言うか、引け目を感じることがありました。そういうのも、一種のバリアなのでしょう。これは誰にでも言えることですが、人間にとって「個」として生きることには、いつも辛さが付き纏いますから、「要塞家族」を形成したり、あるいは「セクト」によって防衛したりするのです。しかし、傍目から観ても、それが自由な関係とは思われませんでした。

どうしたら、私たちの魂は、もっと自由に成れるのでしょうか。現に私たちが囚われの身であることを意識することで、地道に壁を1つ1つ壊していくより他はありません。

牧師 朝日研一朗

【2014年6月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 09:50 | ┣会報巻頭言など

2014年04月23日

丈夫な人に医者は要らない

1.緊急入院

去る4月2日、急性虫垂炎(つまり、盲腸炎)のために緊急入院をしました。最初に駈け込んだ厚生中央病院では「手術が2つも入っているから」という理由を付けられて、入院させて貰えず、そこから日赤医療センターへ救急車で搬送されるという、如何にも大袈裟な展開と相成りました。

翌3日に手術。手術を怖がる人は大勢いますが、盲腸炎は簡単な手術でしょうから、怖くは感じませんでした。いや、それよりも何よりも、痛みが耐え難く、何でも良いから早く切って欲しいというのが、正直な感情でした。全身麻酔は初体験でしたが、昔から、歯医者や外科で部分麻酔は何度も受けていて、あの感覚は大好きなのです。ですから、別段、麻酔の不安もありませんでした。手術室に運ばれて、台の上に寝かされて、麻酔を受けて、そのまま意識を失いました。そして、術後に名前を呼ばれて、目覚めた時にも、さほど不快な気分ではありませんでした。

むしろ、術後の夜こそ、再び痛みとの闘いです。点滴に痛み止めも入れて貰っているのですが堪りません。腕には点滴、尿道にはドレイン(管)が入っており、両脚には静脈血栓塞栓症(エコノミークラス症候群)予防の血流マッサージのバンドが装着してあって、始終、ボッコンボッコンと動いています。風呂屋のマッサージ機は大好きなのですが、こちらは余り楽しくはありません。

翌々日、血流マッサージバンドと尿ドレインを外して貰い、漸く生き返ったような気がしました。トイレに行く時、真っ直ぐ歩いているつもりなのに、実際には、体がフラフラしていたのに驚きました。ドレインのせいで、数日は小便の度に、膀胱に痛みを感じました。

2.院内生活

日赤に搬送されて驚いたのは、その病室が教会のメンバーのHさんが入って居られた部屋だったことです。かつて、お見舞いにお訪ねした部屋に、今度は自分が入院患者の立場で身を置くことになるとは、何か不思議な気持ちでした。

手術を前に、若いナースが下腹部の体毛を剃りに来るとは聞いていました。実際に、その通りだったのですが、残念ながら、痛みで意識が朦朧としていて、恥ずかしいとも嬉しいとも、何の感慨も湧きません。床屋のように、熱いタオルとシャボンとカミソリを期待していたのですが、電気カミソリを使って刈り上げるので、情緒もヘッタクレもありません。こういうのを「散文的」と言うのでしょう。

むしろ、驚いたのは、臍(へそ)のゴマも取ることです。臍の中にオリーブ油を入れて、しばらく漬け込みます。すると、臍のゴマがふやけて取り易くなるそうです。臍の中に指を入れてホジ繰り返され、気持ち悪くて吐きそうでした。

もう一つ、手術して驚いたのは、声が小さくなってしまったことでした。手術後に、妻と子どもたちが見舞いに来てくれたのですが、いつも隣近所にまで響くような大声で怒鳴っている私が、それこそ蚊の鳴くような声で囁いているのを聞き、その姿を見て、哀れに思ったのでしょう、子どもたちはハアハア言って笑い転げていました。

しかも、その事実にすら、自分では全く気付かなくて、妻に指摘されて初めて分かったような次第でした。「病院に入ると、声を奪い取られるのよ」と、妻は魔女のように暗示めいたことを言います。けれども、後から考えると、数日間、点滴だけで、絶食が続いているのですから、当然のことでしょう。

点滴が外れると、男の嗜み(髭剃り)が復活します。普段は毎朝、超特急で行なう髭剃りの儀式ですが、入院中はたっぷり時間をかけて楽しむことが出来ます。ところが、病室の洗面台を占拠して、神妙に髭剃りをしているところ、折悪く、内科部長だか外科部長だかの総回診と重なり、大勢のドクターやインターンに囲まれて、鏡越しに容態を訊かれるというヘンテコな場面が現出してしまいました。

水糊のような重湯が粥に変わり、それに副食が付くようになった時には、美味しくて涙が出ました。やはり、飢えのないところに感謝は生まれません。

3.声の回復

3月31日から始まった、連続テレビ小説『花子とアン』を楽しみにしていたのに、手術の前後、テレビを見ることが出来ませんでした。本格的に鑑賞し始めたのは、やはり退院後でした。

スコット先生が窓辺で歌う「O Waly Waly」は、イングランド南西部サマセット地方に伝わる民謡です。伊原剛志が思わず「美しい歌じゃ」と呟いたように、私たち夫婦も「綺麗な歌」とうっとりしていました。すると、「『讃美歌21』に載っています」と、奏楽者のYさんが教えてくださいました。「讃美歌21」104番「愛する二人は」という結婚式の讃美歌になっていました。勿論、ブライアン・レンによる英語の歌詞(When love is found)は、後から付けられた讃美歌の詞で、スコット先生の歌っていた原詞とは異なります。

因みに、私の持っている英語の讃美歌集「Anglican Hymns Old & New」を調べ直してみたら、アイザック・ウォッツによる詞、フレッド・プラット・グリーンによる詞、ジョン・L・ベルとグレアム・モールによる詞と、3つも入っていました。英語圏で、このメロディーがどんなに愛されているか、よく分かります。

皆さんのお祈りとお励ましに支えられて、4月13日の主日礼拝から復帰して、また、大きな声を出して、讃美歌を歌い、講壇の奉仕に当たることが出来るようになりました。お腹から声が出るようになることこそが、私にとっての「イースター」でありました。

牧師 朝日研一朗

【2014年5月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 12:01 | ┣会報巻頭言など

2014年03月26日

羊たちの沈黙

1.卒業の季節

「卒業」と聞いたら、空港のエスカレーターを昇るダスティン・ホフマンの佇まいに、サイモン&ガーファンクルの歌う「サウンド・オブ・サイレンス」が被さるという、私も古い世代に属しています。思わず鶴田浩二の「こんなことを申し上げる私も/やっぱり古い人間でござんしょうかね」という苦笑いの台詞が浮かびます。ところで、「サウンド・オブ・サイレンス」の歌詞が「ヨブ記」4章12節以下から採られているという(旧約聖書学の大家)浅野順一先生の珍説、ご存知ですか。

それからまた、「卒業」と聞いたら、尾崎豊の「これからは何が俺を縛りつけるのだろう/あと何度自分自身を卒業すれば/本当の自分にたどり着けるのだろう」という、狼の遠吠えのような絶叫を思い出してしまう、私もおります。あれには今思い出しても、胸を掻き毟られるような悲痛さがありました。いずれも大昔の「卒業」です。

アメリカン・ニューシネマの代表作、『卒業』(The Graduate)が1967年、日本の公開が1968年、リバイバルが1971年でした。尾崎豊の荒ぶる名曲、『卒業』リリースは1985年、シングルCD化が1989年、再リリースが1999年でした。いずれの「卒業」にも既成の良識や価値観への異議申し立てが込められていたのですが、昨今、そういう反逆めいたものは、本当に流行らなくなりましたね。

2.卒業ソング

それどころか、昨今は「卒業ソング」と呼ばれるジャンルが、日本の音楽業界の中に厳然と確立していて、それが『仰げば尊し』や『蛍の光』等と共に、そのまま卒業式で使用されて、感動の再生産がされる時代になりました。

それでは、具体的に挙げてみましょう。改めて調べてみると、「卒業ソング」のジャンルが確立して、意識的なセールスが始まったのは、2000年前後からでした。kiroroの『未来へ』(1998年)、アクアマリンの『COSMOS』(1999年)、森山直太朗(森山良子の息子)の『さくら』(2003年)、レミオロメンの『3月9日』(2004年)、ゆずの『栄光への架橋』(2004年)、コブクロの『桜』(2005年)、奥華子の『ガーネット』(2006年)、川嶋あいの『旅立ちの日に…』(2006年)、アンジェラ・アキの『手紙〜拝啓 十五の君へ〜』(2008年)、いきものがかりの『YELL(エール)』(2009年)、AKB48の『桜の栞』(2010年)…。

いずれ劣らぬ名曲です。実際、混声二部合唱曲とかに編曲されて、卒業式に歌われているのです。「来賓の方々」「ご家族の方々」も、うっとりとして耳傾けることの出来る作品に仕上がっています。アンジェラ・アキの『手紙』は2008年の、いきものがかりの『YELL(エール)』は2009年の、NHK全国学校音楽コンクール中学生の部の課題曲です。出会いと別れの哀歓を上手に謳い上げていますし、地味だけど頑張っている人への応援歌であったりもします。

とにかく、若者自身をも含む、広い世代の支持を受けて「卒業ソング」が売れているのです。けれども、どれもこれも「お利口さん」な歌ばかりで、悶死した尾崎豊のように、誰彼構わず牙を剥いて噛み付くような歌は、今や全く聴かれなくなってしまっているのです。いや、探せばあるのでしょう。しかし、少なくとも音楽業界メジャーからは駆逐されて、多分、アンダーグラウンドに追いやられてしまっているようなのです。そこに、私は、消費経済と権威主義との癒着を思わせる、一種の不健全さを感じないではいられません。

3.卒業式の罠

我が家の息子兄弟も、最近、それぞれに中学校と小学校を卒業しました。長男の卒業式には出られなかったのですが、二男の卒業式には出席しました。『君が代』の時には起立して、自作の替え歌を(裏声で)披露しました。歌詞の内容は『スター・ウォーズ』です。「おらがヨーダ/小さいけれども/強い騎士だ/ジェダイ・マスター/May the Force be with you(フォースと共にあらんことを)/ウーウウゥー」。

冗談はさて置き、卒業式は「東日本大震災の犠牲者を思っての1分間の黙祷」で始まりました。悪いことではありませんから、一応、私も真面目に黙祷を奉げたのですが、終わった瞬間に、一体、自分は誰のことを思っていたのだろうかと、違和感を抱かざるを得ませんでした。「東日本大震災の被災者」というカテゴリーが、余りにも十把一絡げです。そこに、何だか、政府主催の「全国戦没者追悼式」や靖國参拝と似た雰囲気があったのです。

校長が卒業生の門出を祝しての式辞の中で、「日本国の、大震災の復興は、君たちの双肩に掛かっている」と熱く語っていました。それも「皇国の興廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」という訓示を思い出させるものでした。今の大人が責任を丸投げにして、未来に「負の遺産」(放射能とか財政赤字とか)を押し付けようとしているかの如くです。

「日本のために」「日本の将来のために」と、過度に「日本」が強調されていたようにも思いました。二男の同級生は国際色豊かで、私の知る限りでも、50名中5名の「ハーフ&ハーフ」(ロシア系、米国系、韓国系、中国系、スペイン系)がいるのに…。ナショナリズムの鼓舞は全く不要に思われました。

オーテス・ケーリの『真珠湾収容所の捕虜たち』(ちくま文庫)という本の中に、こんな件(くだり)があります。ケーリさんが、ある留学希望の学生に志望理由を英文で書かせた時の話です(内容から見て、1950年の文章)。「『日本のために』ということが書いてあった。なぜ『世界人類のため』と書けないのだろうか。私が、いつもゴツンと来るところだ」。

日本社会は今や、近視眼的に国粋化しつつあります。そして、尾崎豊の言う「縛られたかよわき子羊」は、何も深く考えることもないまま、それを自然に受け入れているのです。

牧師 朝日研一朗

【2014年4月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 06:23 | ┣会報巻頭言など