2014年03月24日

天国の鍵

小学生の頃、近所に「金田」という在日コリアンのジャンク屋がありました。妹がその家の娘と仲良しだったものですから、私も割り込むようになり、やがて、悪童の友人たちと一緒に、広大な敷地の中、無造作に積み上げられた廃車の山を、車から車へと飛び移って遊ぶようになりました。

今から思えば危険極まりないのですが、不思議と廃車に押し潰されて死んだ子はいませんでした。ところが、しばらくして、テレビの映画番組で『007/ゴールドフィンガー』を観たのです。その中に、ジェームズ・ボンドが廃車に閉じ込められたままプレスされそうになる恐ろしいシーンがありました。しかも、ハロルド坂田演じる「オッド・ジョブ/よろず屋」という殺し屋は、実は朝鮮人という設定です。それ以来、何となくジャンク屋には寄り付かなくなってしまったのでした。それはともかく、廃車の山の中から、私たちが競い合って集めていた物があるのです。それは、自動車のイグニッションキーでした。それで、私たちは自分らを「キイハンター」と呼んでいました。

集め始めてみると、時折、珍しい自動車のキーが出て来るのです。例えば、アメ車のキーがあったりしたら、もう絶叫ものです。あるいは、銀色の頭蓋骨とか親指マリリン・モンローとかの面白いキーホルダーが付けられた物もあったのです。それを持ち帰って、高砂屋のお菓子の空き缶の中に溜め込んでいた訳です。

伝統的な日本家屋で育った者にとって、鍵は憧れの的でした。何しろ、和風建築というのは、障子と襖を全て取り払ったら、前庭から中庭まで、風が吹き抜けて通る構造です。その点、鍵は個室のシンボルです。自分だけの世界を作り出すことが出来るのです。必死になって、自動車のイグニッションキー等を収集したのは、「自分だけの世界を持ちたい」という願望の表われだったのでしょう。

教会の牧師になって良かったことの一つに、沢山の鍵をお預かりする喜びがあります。単に建物の管理人と言ってしまえばそれまでです。けれども、建物の開け閉めをするということは、それだけの責任を委ねられているのですから、最初にお預かりした時には、身の引き締まる思いがしたものです。

キリスト教会は使徒ペトロを祖としています。そして、イエスさまはペトロに「天国の鍵」を託されました。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。…わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で繋ぐことは、天上でも繋がれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイによる福音書一六章一八〜一九節)。

そこで、ローマカトリック教会は、ペトロを初代教皇とし、教皇の紋章にも交差する「鍵」がデザインされています。しかし、考えてみると、「鍵」は独占と孤絶のシンボルでもあります。カトリックはともかく、プロテンタント教会はそれで良いのでしょうか。

【会報「行人坂」No.248 2014年3月発行より】

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2014年02月20日

大好きなゴジラ

1.ヌイグルミ

小学生時代、私が将来に夢描いていたのは、怪獣のヌイグルミに入って演技をするスーツアクターに成ることでした。ゴジラの中に入っていた中島春雄こそが、私のヒーローだったのです。『地球攻撃命令/ゴジラ対ガイガン』(1972年)を最後に、中島はスーツアクターを引退したのですが、時を同じくして、私の「怪獣熱」も急速に冷めて行きました。西部劇やオカルト映画、クンフー映画にシフトして行ったのです。

そんなこんなで、「ガイガン」に続く『ゴジラ対メガロ』(1973年)に至っては、結婚して子どもたちが生まれ、彼らと一緒にビデオで鑑賞したのが最初だったのです。その空白期間たるや、何と30年に及びます。その「メガロ」には、スーパーロボットのジェットジャガーが登場、ゴジラとタッグを組んで、ガイガン+メガロのヒール(悪役)と対決するのです。所謂「怪獣プロレス」です。これには、当時、保育園児だった長男が噴き出して、ケラケラ笑い出す始末でした。映画の最後に、小学生の男の子がロボットの奮戦振りに、「ジェットジャガー、良かったぞぉ!」とエールを送るのですが(もろ、子ども向け!)、それを二男は口真似して、何度も繰り返していました。

その傍らで、私は冷や汗を流していたのです。ああ、少年時代に観なくて良かった。あの時、もしも劇場に足を運んで観ていたら、恥ずかしさの余りに、怪獣映画ファンだったことも後悔して、永遠に魂の奥底に封印してしまい、無かったことにしていたかも知れません。年齢を重ねて、余裕をもって鑑賞できたことを、神に感謝したものです。

近年公開された、ギレルモ・デル・トロの『パシフィック・リム』(2013年)は、怪獣と対決するロボットの話です。『パシフィック・リム』は、『ゴジラ』シリーズ初期の監督、本多猪四郎と「ダイナメーション」のレイ・ハリーハウゼンに捧げられています(献呈の辞が出て来ます)。けれども、実際には(公開から丁度40年の歳月を経た)『ゴジラ対メガロ』のラインではないかと、私は心密かに考えているのです。

2.窓の外に眼

「怪獣熱」は冷めてしまった私ですが、決して「怪獣魂」までは失われてはいませんでした。その後、悪魔主義、猟奇趣味が高じて、挙句に裏返って、キリスト教の牧師になってしまったくらいですから、何がどのように作用するのか、人生は全くの謎です。

私くらいの年季になると、昔の『ゴジラ』(1954年)を観ても、『ガメラ3/邪神覚醒』(1999年)を観ても、『グエムル/漢江の怪物』(2006年)を観ても、『第9地区』(2009年)を観ても、キリストの御足の跡を見ることが出来るのです。まあ、これは殆ど「妄想」と言っても構いません。

例えば、コルコバードのキリスト像が『巨人ゴーレム』や『大魔神』よろしく、突然、歩き始めて、山を下りて行き(勿論、両手を開いたままです)、オリンピックの準備未だ整わぬリオデジャネイロを破壊して回るような、そんな怪獣映画を想像してしまうのです。あのキリストは身長が39.6メートル、両手の長さが左右30メートルですから、建物を破壊するにも余り大き過ぎず、リアリティが保たれると思うのです。

そう言えば、ハリウッドで製作され、今や完成間近の『ゴジラ』の新作は、何でもゴジラの図体が「地球規模の大きさに成る」とも噂されていて、予告編を見ながら、正直、私は心配でなりませんでした。渡辺謙やジュリエット・ビノッシュ、懐かしの宝田明まで引っ張り出しているようですが、余りスケール(尺度)が大きくなり過ぎると、人間の感覚は現実感を失ってしまい、コミカルに感じるようになるのです。

昨年、アニメがヒットした『進撃の巨人』の場合なども、50メートル級の超大型巨人は別にして、通常が3〜15メートルとされていました。この設定が怖いのです。2階、3階の窓から怪物の眼球が覗いている怖さなのです。『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明が語っていたように、少年時代に『フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン』(1965年)や『フランケンシュタインの怪獣/サンダ対ガイラ』(1966年)を見て感じたという、身長20メートル前後の怖さというものがあるのです。

3.モンスター

誰しも「鬼」と言えば、虎縞の腰巻を着けた角の生えた大男を想像するでしょう。けれども、そのように図像化される以前、「鬼」は「死霊、死者の魂魄」を意味していました。つまり、見えないものだったのです。同じように「怪獣、怪物」を意味する「モンスター」の語源は「モーンストルム/monstrum」、この語の第一義は「戒め、警告、予兆」なのです。つまり、モンスターもまた、目には見えないものだったのです。目には見えないものの徴や兆しを、別の何かに認めることで、古来、人間は危険を回避して来たのです。

そのように考えると、怪獣映画において、怪獣たちの全体像が中々画面に現われないのも道理かも知れません。姿を現わした瞬間、図像化されてしまった瞬間に、対象化されたそれは、もはや不気味な「モンスター」では無くなってしまうのです。丁度、ローランド・エメリッヒ版の『GODZILLA』(1998年)が「大きなウミイグアナ」でしかなかったというマヌケな展開で、観客の失笑を買ったパターンです。

見えないからこそ、私たちは恐怖と不安を抱くのです。見えてしまったら、実は何も怖くないのかも知れません。つまり、私たち、人類は偶像を刻み、絵に描くことによって、神々や仏、鬼や怪物、悪魔なども対象化して来たのです。要するに、怖いものでは無くして来たのです。その意味では、アッラーの神を描くことを一切禁じているムスリムが、もしかしたら、その辺りの極意を一番心得ているのかも知れません。

牧師 朝日研一朗

【2014年3月の月報より】

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2014年02月17日

命の道を教えて

1.危険がいっぱい

世の中に「苦労人」と呼ばれる人がいます。それと同じように、教会にも「苦労教会」があると思います。例えば、欧米の宣教団体の資金提供を受けて、大きな土地を取得して、立派な会堂を建設してしまった教会があります。他方、バザーをしたりして、募金を集めながら、あちらこちらと用地を探し求めて、民家の屋根に十字架を付けたような会堂を、やっとの思いで建てた教会もあります。

私たちが生まれる時に、家庭の環境や貧富を選べないのと同じように、教会もまた、その創設時に、平等の条件で生まれて来る訳ではありません。更に言えば、こうして土地や建物が手に入ったからと言って、教会の歩みが保証される訳ではありません。

現に、行人坂教会の前身である日本組合京橋基督教会は、創立から20年後に関東大震災で焼失してしまいます。しかし、この世にある教会にとって、被災の悲劇は特別なことではありません。関東大震災、阪神大震災、東日本大震災は言うまでもなく、その他にも、中規模の地震、台風や洪水、火山の噴火によって被災した教会は、どけだけ多くあることでしょうか。失火、放火、不審火などで消失した教会もあります。

忘れてはいけません。太平洋戦争末期、米軍の焦土作戦によって戦災を受けた教会も数多くあります。敗戦直後、当教会が韓国目黒教会に会場を提供したり、麻布狸穴教会と協同で礼拝を営んだりした事実からも、そんな歴史の一端を見ることが出来ます。間借りしながらでも存続できれば未だしも、空襲で会堂を失い、戦時下で再建の目途が立たないまま、他の教会に吸収合併された教会もあるのです。

その歴史から考えると、どちらかと言えば、行人坂は「苦労教会」の部類に入るかも知れません。しかし、艱難に遭うのは世の常、況して、教会が難儀するのは、キリストの十字架に相応しいことです。パウロが「コリントの信徒への手紙二」11章16節以下で述べている通りです。ここで、パウロが繰り返す「難」という語「キンデュノス」は「危険」という意味です。

2.太陽がいっぱい

パウロが「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」と言っているように、キリスト者にとっても、キリスト教会にとっても一番大切なのは、自らの「弱さに関わる事柄」です。強さではなく弱さについて敏感に反応する感性が、私たちに問われています。なぜなら、それこそが十字架だからです。

それを敷衍させて行けば、大きさ、立派さ、数の多さに目を向けるのではなく、小さな事柄、質素さ、一人一人の姿に目を向けて行くことでしょう。誰もが目を見張るような、この世の栄光や権威ではなく、この世では隠されている神さまの御光や御力を探し求める努力をすることです。何しろ、パウロによれば「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(前掲書12章9節)そうですから。

行人坂教会よりも「大きな教会」、大規模教会は幾らもあります。時折、「大きな教会」を羨ましがる信徒が居られます。あるいは、「大きな教会」に引け目を感じるらしい信徒も居られます。しかし、カテドラルのような礼拝堂が「教会」でしょうか。ビリー・グラハムのスタジアム集会のようなものが「教会」でしょうか。

勿論、礼拝だって何だって人数が多い方が盛り上がるし、献金も多いから財政上も安定するし、奉仕者も多いから多面的な働きが出来るのかも知れません。それでも、私自身は「教会は余り大き過ぎない方が良い」と思っています。「マス」や「メガ」は悪魔の巣窟と化し易いのです。イエスさまが「神と富とに仕えることはできない」(マタイによる福音書6章24節)と言われる通りです。イエスさまの仰る「富」とは「マモン」です。中世には、人間の金銭欲に付け入る悪魔とされました。

私たちの暮らしを振り返れば、自ずと分かることです。生活して行くためには、ある程度の財政的な基盤が必要です。ご飯も毎日食べなくてはいけないし、子供を学校にもやらなければならないし、家の補修もしなくてはならないし、少しは交際費や遊興費もないといけません。けれども、余計な財産を持っていると、ろくなことにはなりません。分不相応な富を得て、家庭が崩壊し、身を滅ぼすプロットは、如何にも有り触れています。教会も少し貧乏臭いくらいの方が正常なのです。

教会にとって大切な事柄は規模の大小、富の大小ではないことを、改めて私たちは意識する必要があります。太陽はいっぱい要りません。太陽は一つで十分なのです。

3.足跡がいっぱい

「強さではなくて弱さを」と言いましたが、何も「粗探し」をする必要はありません。そうではなくて、人間が力自慢する要素ではなく、人間の力の及ばなかった点で、神さまが働かれた痕跡を見つけるのです。

人間の力自慢はよくあります。私自身、南大阪教会で伝道師をしていた頃、友人たちを礼拝堂に案内して自慢していました。「これは、村野藤吾が設計した会堂で…」等と説明して悦に入っていたものです。若気の至りとしか言いようがありません。会堂建築時には、未だ赴任してさえいなかったのに…。

今でも他の教会を訪問した時、その教会の牧師さんや役員さんから、会堂自慢、パイプオルガン自慢、ステンドグラス自慢などを聞かされることは珍しくありません。自分も「同じ穴の狢」であることを認めた上で申しますが、立ち止まって考えれば、惨めなことです(ヨハネの黙示録3章17節)。

幸い、行人坂教会の礼拝堂をお見せした人たちに、私がそのような自慢をしたことは一度もありません。自慢しようと思ったこともありません。却って、お客様の方で(その年季や雰囲気を)褒めてくださって(お世辞や社交辞令かも知れませんが)、「ああ、そうなんだ。どこがいいのか分からないけど、いいんだ」と思わされたことが一度ならずあります。上手く言えませんが、それが行人坂教会の良さなのかも知れません。古びた会堂ですが、そこここに、イエスさまの歩まれた御跡があるのです。

礼拝も、そのような礼拝でありたいと思います。荘厳なパイプオルガンの響きも、立派な聖歌隊のハーモニーもありません。牧師も権威の無さそうな人だし、会衆の人数も高齢化のせいか減少気味。でも、私たち自身の力や働きではなくて、イエスさまが来て働いてくださっているのです。そこに希望を置きたいと思うのです。恐らく、私たちの弱さを見るに見かねて、やって来られたのです。まさしく「十字架はわが希望」(crux spes mea)です。

ナメクジの通った跡が銀色に輝いているように、イエスさまの御足の跡も、きっと何かが輝いていると思うのです。今は余裕を無くした時代ですから、それは余裕が無いと見えないと思います。

それだから、忙しい教会よりはゆったりとした教会を、一部の隙の無い教会よりも隙だらけの教会を、権威のある教会よりも遜った教会を目指したいと思うのです。礼拝も宣教も、教会形成も教会教育も、祈りも奉仕も、急がず焦らず「百年の計」と心得て、大勢の人たちと一緒に歩いて行きたいと思うのです。

牧師 朝日研一朗

【行人坂教会創立110周年記念文集(2014年2月)より】

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2014年01月25日

光あるところ影がある

1.新島襄の手紙

「先日桂兄より、〔メソジスト派の〕銀座教会のわが新肴丁教会の頭の上〔階上〕に移し、大不都合を生じ云々、明細に御記し一書ご投与に預かり、小生もこれがため甚だ心痛仕り候。しかしながら右の挙動はクリスチャンのなすべき事か否かは、目ある者は見るべき、心ある者考うべし。我輩決して頓着するに及ばず。少年書生の?歎(こうたん)不平を鳴らす者もあるべけれども、なにとぞ桂兄その他の兄弟とも克々ご相談ありて、至急にその所を御立ち退き、少しも不平の色をも顕さず、わが教会の信徒はどこまでも基督の僕たるを表明すべし。定めて移転するに当たりては幾分かのご入費もあるべけれども、これは横浜のグリーン先生とも速やかにご相談あり、またご不足あらば幾分か西京(京都)信徒中よりもご加勢仕るべく候間、ご遠慮これなきよう仕りたく候。」

新島襄が小崎弘道に宛てた手紙の一節です(同志社編『新島襄の手紙』岩波文庫)。日付は1880年(明治13年)2月25日と成っています。小崎は後に、この新肴町教会の後裔として霊南坂教会、更には番町教会の設立に関わっていくのです。文中の「桂兄」とは、新肴町教会を創立した中心人物の1人、桂時亮(かつら・ときあき)です。

この一件には、普段温厚な新島も心を痛め、「これがクリスチャンの為すべき事か!」とまで述べて憤激しています。実際、同志社の学生の中にも、怒り歎く者が数多くあったようです。しかし、新島は「どうせ借家」と思い切ったのか、「頓着するに及ばず」と言い放ち、むしろ「至急にその所を御立ち退き、少しも不平の色をも顕さず、わが教会の信徒はどこまでも基督の僕たるを表明すべし」と、小崎に潔く勧めています。

2.創立の光と影

当時、津田仙が新肴町に農学校の分校を所有していて、組合教会はその建物の2階の1室を借り受けて、新肴町教会として日曜礼拝を守っていました。津田仙は明治の農学者、(津田塾の設立者)津田梅子の父親です。青山学院女子部の前身である「救世学校」の創立者でもあります。ところが、築地美以(メソジスト)教会(もしくは「東京福音会」でしょうか)が津田から農学校の建物ごと買い取ってしまい、銀座美以教会を移設したのです。

その辺りの事情を『銀座教会九十年史』に引用されている、田村直臣著『信仰五十年史』から孫引きします。「…幸にも津田先生は我等に同情を寄せられ、新肴町分校の建物全部を僅かなる金にて譲り渡された。其の建物は学校に用いられてゐたから、二階も下も三ツの教室に別れて居った。我等は三百円を投じて、其二階の仕切りを取り外して一ツの室とし、其れを会堂に用ゐ、下は一部を牧師館に、一部を貸家として、其の上り高を以て、政府の納める月賦となし、新教会堂を新肴町に設け、銀座教会を京橋教会と改称した。」

「我等が津田先生から其の分校を譲り受けた結果、組合教会は他に立退かなければならぬ場となったが、急に移るべき場所もなく日曜日の如き二階は長老教会、階下は組合教会の集会を同時に催したことがあった。」 銀座教会側からすると、こういう和気藹々な表現に変わります。先の新島の手紙にあった「右の挙動はクリスチャンのなすべき事か否かは、目ある者は見るべき、心ある者考うべし」と読み合わせると、受ける印象の違いは明らかです。また、建物2階部分の改装だけに「3百円」(現在の3百万円くらい)をポンッと使ってしまうところ等、「東京福音会」の資金が潤沢だったことが分かります。

対して、組合教会の「日本基督伝道会社」の窮状ぶりを、同じ新島の手紙(小崎宛て)に読み取ることが出来ます。「貧乏なる伝道会社より受くるを辞するは少(すこ)しく君の心に快なるべし。しかし、君の貴重なる時間を幾分か教授に費やして、自己の学識進歩、並びに東京市中の伝道に失うところ幾何(いくばく)ぞ。なにとぞこれを天秤に懸け賜え。もし月々ご不足あらば小生までこれを告げ賜え。小生幾分か会社に関せず、主基督のために尽力すべし。主のために働く者はその償(つぐない)を受けて苦しからず。」

資金力の違いは、アメリカの宣教団からの協力援助の有無です。結局は「小崎らが他の教会とは異なって、外国依存を排し、自主独立を強く目指していたこともあり、その経済的困難や集会の不振は覆うべくもなかった」(『行人坂教会百年史』p.3)との説明に尽きます。

3.誰による政治

とは言え、そんな出来事も今は昔、銀座教会も青山学院も内実としては、もはやメソジストとは言えません。メソジストの政治形態である「監督制」が機能していないからです。因みに、先程からメソジストの略称として「美以」という漢字の熟語が出て来ますが、これこそは「Methodist Episcopal」の頭文字「ME」の当て字です。「エピスコーパル」とは「監督教会、監督主義」の意味です。

その上、先の事件から数年後には、小崎その人が積極的に、組合教会と一致教会(長老派)との合同を推進するようになります。大河ドラマ『八重の桜』には(当然)全く触れられていませんでしたが、新島襄の寿命が10年以上短くなったのは、この「教会合同問題」によるとされています。新島は終生「合同」反対を貫きました。寡頭政治(長老主義)を受け入れれば、組合教会の生命である自由と民主主義(会衆主義)は失われると考えていたようです。実際、当時の日本人で、「教派/denomination」というものを正しく理解していたのは、新島だけだったのでしょう。

そもそも日本のプロテンタント諸派には、教派が枝分かれして行った歴史が欠落しています。ですから、表向きは「学閥」として存在しているだけのように思われます。しかし、これは新島が主張し続けたように、教会の政治形態の違いなのです。政治制度に対する無理解は、教会においても致命的なのです。このことは、私たちも心して覚えて置くべきです。

牧師 朝日研一朗

【2014年2月の月報より】

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2013年12月26日

八重の桜も散りぬるを

1.山本八重

毎週、楽しみにしていたNHKの大河ドラマ『八重の桜』が終わってしまいました。前年の『平清盛』程ではないにしろ、低視聴率だったと聞いています。新機軸を打ち出していたドラマだっただけに残念でした。

例えば、ドラマは、米国内戦「南北戦争」の戦闘場面から始まっていました。この戦争に使用された武器弾薬が、その後、戊辰戦争と会津戦争に使用されたことは、以前から指摘されていましたが、それを実際に映像で見せたところに新鮮な説得力がありました。

『八重の桜』には、様々な銃火器が出て来ました。オランダの「ゲベール銃」は既に時代遅れでした。「ゲベール」を改良したのが「ミニエー銃」です。その「ミニエー」から発展したのが、南軍の主力銃「エンフィールド銃」で、これが幕末にアメリカから5万挺も輸入されています。「エンフィールド」を更に改良したのが「スナイドル銃」です。山本覚馬が長崎で大量買い付けに成功しながら、会津戦争に間に合わなかったのが、そのプロイセン版「ドライゼ銃」です。覚馬から会津の八重に届けられた1挺が「スナイドル」の米国版「スペンサー銃」です。しかも、歩兵用のライフルを騎兵用に短銃身化した物(カービン銃)で、7連発でした。史上初の「後装式」(後ろ込め)だったのです。

「無煙火薬」は1890年代以後ですから、これらの銃器は全て「黒色火薬」を使っています。銃器に詳しい私の友人は、黒色火薬の発火時の猛烈な反動を考えると、「女が撃てるはずはない。肩の骨が外れてしまう」と言って批判していました。まあ、それだからこそ、八重が米俵を軽々と担いだり、大山巖と腕相撲をしたりする逸話を加えて、彼女の怪力女ぶりを必死に強調していたのでしょう。

2.武田惣角

会津の人で、私が一番興味を持っているのは、武田惣角(1859−1943)という人物です。合気道の開祖にして、「皇武館」設立者として有名な、植芝盛平という人がいますが、その植芝盛平の師匠に当たる武道家です。「講道館」柔道の創始者、嘉納治五郎(1860−1930)がほぼ同年代に居り、相前後しますが、清朝には、洪家拳の黄飛鴻/ウォン・フェイホン(1847−1924)、秘宗拳の霍元甲/フォ・ユァンジャア(1868−1910)という凄い武術家が出ています。沖縄空手の喜屋武朝徳(1870−1945)も忘れてはなりません。

余談になりますが、最近、(ブルース・リーの師匠だったということからでしょうか)急に映画やドラマで人気が高まっている、詠春拳の葉問/イップ・マン(1893−1972)は、植芝盛平(1883−1969)と活動時期が重なっています。それはともかく、銃器鉄砲万能の時代、19世紀末から20世紀初頭に、これだけの武道家が出て来ているという事には、何か深い意味があるように思います。

さて、武田惣角です。惣角は「大東流合気柔術」の創始者とされています。彼は会津藩士の家に生まれました。祖父の武田惣右衛門は「御式内」と言われる武術の専門家でした。この「御式内」は、名前の通り「会津藩士以外の者に教えたり伝えたりすることが禁止」されていました。これが「大東流合気柔術」の源流とされています。更に、惣右衛門は陰陽師でもあって、京都の土御門家(安倍晴明の子孫)から叙任を受けています。その「御式内」と陰陽道を、会津藩家老の西郷頼母(『八重の桜』で、西田敏行が演じていた)に教えたのが、惣右衛門だそうです。父親の武田惣吉は、宮相撲の力士で、禁門の変、戊辰戦争、会津戦争を戦っていますが、全く『八重の桜』には登場しませんでした。但し、惣角の母親、富は日新館の居合術指南役の黒河内伝五郎の娘でした。黒河内(ドラマでは、六平直政が演じていました)は、山本八重に薙刀の稽古をつける先生です。

惣角が物心ついた頃には、明治時代になっていました。家を継ぐのを嫌がって、西南戦争の西郷軍に加わろうとした程の変り種です。それにしても、会津の人間が薩摩の西郷に加勢しようとは何という了見でしょう。その後、惣角は全国を行脚して、他流試合、野試合を繰り返し、実践武術としての「大東流合気柔術」を磨いて行くのです。

3.近代日本

『八重の桜』には、近代兵器と古武術の相克が描かれていて、私の想像力を掻き立てたのでした。これが最終回での、徳富蘇峰(覇権主義の近代的国家論を展開)との対決に生きて来たのだと思います。

幕末から昭和までの日本近代史は、戦争に明け暮れた歴史でした。戊辰戦争、会津戦争、西南戦争、それら内戦の後は、琉球処分、台湾出兵、日清戦争、日露戦争、満州事変、日中戦争、ノモンハン戦争、アジア・太平洋戦争と続き、どんな大義名分を言おうとも、日本は単なる「戦争国家」と化して行きます。実際の八重はどうだったのかは知りませんが、少なくともドラマの作者は「別の道」を懸命に模索する、八重の姿を描いたのです。

「猪一郎さん、力は、未来を切り拓くために、使わねばなんねぇよ。昔、わだすが生まれ育った会津という国は、大きな力に呑み込まれた。わだすは銃を持って戦った。最後の一発を撃ち尽くすまで。一人でも多ぐの敵を倒すために。…んだけんじょ、もしも今、わだすが最後の一発の銃弾を撃つとしたら…」。そう言って、再び鶴ヶ城に立った八重は、空を覆う黒雲に向かって、最後の一発を発射します。黒雲から陽光が差し込んで来ます。「わだすは諦めねえ」。

武術の修練は「型稽古」にあります。自分の体をどのように動かして、どのような力の使い方をするのかを徹底的に学ぶのです。大切なのは「力を何のために使うのか」なのです。

最後に正岡子規の句を。「一重づつ一重づつ散れ八重桜」(1886年)。

牧師 朝日研一朗

【2014年1月の月報より】

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2013年11月23日

冬の楽しみ

1.越冬

今思い出しても、やはり、北海道の冬は厳しいものでした。3月の初旬になっても尚、街全体が氷雪に閉ざされていることも多く、中空と地上を灰色に覆いながら降り止まぬ雪を見ながら、思わず「もういい加減にしてくれ!」と泣き叫びそうになったことが、幾度かありました。実際、4ヶ月も雪に埋もれて暮らしていると、元気な人でも鬱状態に陥ってしまいます。況して、体調を崩している人や弱っている人はテキメンです。

私たちが住んでいた琴似という街は、札幌の中でも早くから「和人/シサム」が居留地を置いた所です。近所には「琴似屯田兵屋」が文化財として保存されていました。1874年(明治7年)、札幌で初めて屯田兵が入植した所です。その屯田兵たちに付いて、京都の辺りから女郎も何十名かやって来たそうですが、冬を越すことが出来ず、次の春までに全員死亡していたという話を耳にしたことがあります。私は、吹雪く琴似の街を歩きながら、何度も、その話を思い返したものです。

「越冬」等と言うと、動物や鳥や虫の話と思われるかも知れません。しかし、私たち、人間も冬の寒さを乗り越えるために、それなりの意識が必要なのではないでしょうか。実際、東京の冬は穏やかな晴れの日が多く続き、過ごし易いと思います。さすがに徳川家が幕府を開いただけのことはあります。北海道や東北、北陸、甲信越、山陰地方などの冬の厳しさを思えば、天国みたいなものです。けれども、それだけに「越冬」意識が低く、冬を迎えることが上手では無いように思うのです。

2.遊び

北海道に赴任した時、先輩の牧師たちから「冬を楽しむように」「冬の楽しみを見つけるように」と異口同音に勧められました。しかし、残念ながら、私はスキーにもスケートにも行かずに、教会の玄関前とベランダの雪かきだけを「運動代わり」にして過ごしてしまったのでした。けれども、「冬の楽しみ」を全く味わうことが無かった訳ではありません。確かに、楽しい事はありました。

例えば、主日礼拝と諸集会が終わると、幼い子どもたちを自動車に乗せて、毎週のように「農試公園」に行きました。そこには、高低差10メートルくらいの緩やかなダウンヒルが作ってあり、幼児がプラスチック製の橇に乗って滑り降りるのです。そんなことを日が暮れるまで繰り返していました。

2人の子供を保育園に連れて行く時には、木橇に乗せて、後ろから押して歩きました。歩いて買い物に行く場合にも、木橇を使っていました。その当時は、妻が「生活クラブ生協」に入っていて、集積所の担当をしてくださっている方のお家まで、木橇に長男を乗せて行きました。橇が重い方が道路で滑る危険が少ないのです。

毎年、積雪が完全な根雪と化す1月には、ベランダの雪を固めて、大きなカマクラを造りました。北海道の雪はパウダースノウで、案外、雪だるま等も作りにくいのですが、根雪になると、水分が多くなり、何でも造れるようになります。札幌の雪祭りが2月上旬に開催されているのも、同じ理由かと思います。雪山を造り、それを踏み固めて、その後に横穴を掘って行きます。最後に天井を広げて完成します。

琴似中央通教会はビルのような建物で、牧師館はビルの4〜5階部分に当たります。ベランダは4階です。ベランダ一杯に出来た雪山の上を、幼い子たちが歩いていたのですから、妻は心中穏やかでは無かったようです。ベランダに柵があるのですが、雪山はそれよりも高く聳え立っていたからです。こんなことも、今となっては、楽しい冬の思い出です。

3.祝祭

古来、日本各地には夏祭りがあります。それだけ、日本の夏が苛酷で、過ごし難く、辛かったのです。だからこそ、祭りが生まれたのではないでしょうか。「夏の楽しみ」を作り、意識することで、苦しい夏を乗り越えようとしていたのです。思えば、同じような思いから、クリスマスも誕生したのではないでしょうか。

クリスマスが発達したのはヨーロッパ、特に雪深い諸国においてです。クリスマスは、古代ローマの冬至祭、「太陽の誕生祭り」に対抗して、教会が「義の太陽イエス・キリストの降誕」をお祝いしたのが始まりとされています。それがローマから北上してヨーロッパ各地に広がり、3世紀末に定着したそうです。

ところが、それから百年も経った385年の記録「エテリア巡礼記」(邦訳は『エゲリア巡礼記』、太田強正訳、サンパウロ)によると、コンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)やアンティオキア(現在のアンタキヤ)では、既にクリスマスが守られていたのに、エルサレムでは全く受け入れられていなかったそうです。それから更に150年を経た530年頃になって漸く、エジプトのアレクサンドリアの教会で採用されるようになり、エルサレムの教会がそれに続いたとされています。つまり、ヨーロッパでクリスマスがお祝いされるようになって、250年の歳月を経た後に、クリスマスは聖地エルサレムに輸入(逆輸入?)されたという皮肉なお話です。

寒くて冷えるからこそ、嬉しいものがあります。湯たんぽ、お風呂、お鍋、熱燗…。熱いお茶、ホットワインを嗜む人もあるでしょう。そう言えば、札幌には、暖炉の前で熱いココアを飲ませてくれるお店がありました。私には、寝床での読書用に、妻が買ってくれた(指が出せる)手袋があります。温かいこと、熱いことに有り難味を感じる季節なのです。つまり、寒くて冷え込んで来れば、それに適った楽しみ、それに応じた嬉しさを、私たちは求めて来たのです。クリスマスは、間違いなく、その1つでしょう。

牧師 朝日研一朗

【2013年12月の月報より】

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2013年10月26日

『八重の桜』人物解説

1.襄とジョー

うちの息子たちは「オダギリジョー異常」というネタが大好きです。ただ、画面にオダギリジョーが出たら、そう言ってみるだけという、限りなく下らないネタです。NHK大河ドラマの『八重の桜』の「新島襄役にオダギリジョー」と聞いた時には、思わず笑ってしまいました(単なる名前の語呂合わせかよ)。しかし、さすがはドラマです。毎週、見ていると「まあ、こんなのもアリかも」と思ってしまいます。

「赤シャツ」も真っ青になる程、徹底的にアチャラカに描かれた新島襄に、見ている私たち(同志社卒業生)の顔は紅潮します。しかし、明治維新の4年前に脱国した新島は、ボストンの名士の養子と成り、フィリップス・アカデミー、アーモスト大学、アンドーヴァー神学校に学びます。当時のアメリカの最高級の教育を受けるのです。

フィリップスは米国のエリートを養成するボーディング・スクール(寄宿制私立高等学校)で、英国のパブリック・スクールに当たります。アーモスト(アマーストとも言う)は、ハーバード大学神学部がユニテリアン(単一性論者)の牙城と化したことに危機感を覚えたクリスチャンが設立した名門カレッジです。後々、余り学問が得意でないことがバレる新島ですが、単に学歴のみならず、言葉やエチケットや価値観も最良を得たはずです。

これに匹敵するのは、津田塾大学の創立者となる津田梅子、「鹿鳴館の花」となって大山巌と結婚する山川捨松(水原希子演)くらいでしょうか。しかし、帰国後の梅子は通訳を介さないでは日本人と話せなくなっていたそうです。捨松も大山と英語で会話して、初めて安らぎを得たと言いますから、当時の帰国子女の苦労が思い遣られます。

2.熊本バンド

1871年(明治4年)、熊本藩が青少年教育のために洋学校を開設、教官として米国から北軍の陸軍大尉、リロイ・ランシング・ジェーンズを招きました。ジェーンズは熱心な信仰者であったので、数年後には御法度のキリスト教を説くようになり、有志学生35名が熊本城外花岡山で祈祷会を催し、キリスト教をもって祖国を救う誓いを立てます。これを「熊本バンド」と言います。当然、洋学校は閉鎖、ジェーンズは解雇、バンドのメンバーは大変な迫害を受けます。そして、創立間もない同志社に流れて来るのです。

ドラマで最初に登場したのが、柄本時生演じる金森通倫でした。そう言えば、柄本の母親の角替和枝は三軒茶屋教会の会員でしたね。金森は岡山教会、東京番町教会の牧師を歴任した人物です。思想的な振幅が激しく、棄教したり、救世軍に入ったり、ホーリネス運動にハマったりした挙句、最後には洞窟で暮らす「今仙人」となります。自民党の石破茂は曾孫に当たります。当教会の初代牧師、二宮邦次郎先生も金森通倫から洗礼を受けています。

日本のジャーナリズムの草分けとなる徳富猪一郎(蘇峰)は、若い女子に人気の中村蒼が演じています。古川雄輝演じる小崎弘道と言えば、霊南坂教会の建設にYMCA創立で有名ですが、そもそも京橋の新肴町教会の牧師として赴任しているのです。つまり、行人坂教会の前史に深い所縁があります。「青年」「宗教」という日本語の作者でもあります。

阿部亮平演じる海老名喜三郎(弾正)は、安中教会、本郷教会、神戸教会を歴任。伊勢みや子(坂田梨香子演)と結婚します(海老名弾正の二女、大下あやさんに生前、私はお目に掛かったことがあります)。彼の門下の渡瀬常吉は、朝鮮伝道を行なって、京城教会と平壌教会を設立します。永岡佑の演じる市原盛宏は、代理教員の立場で強権的な授業運営をして、在学生からボイコットを受ける話がありました。この人は後にイェール大学で経済学を学んで、横浜市長、朝鮮銀行初代総裁となります。

黄川田将也の演じる伊勢(横井)時雄は、山本覚馬の娘、みね(三根梓演)と結婚します。今治教会、本郷教会の牧師、政治家、新聞記者にもなります。実は、彼は幕末の儒学者、横井小楠の長男なのです。そう言えば、『龍馬伝』で、福井藩主、松平春嶽の政治顧問をしていた小楠に、龍馬が教えを乞う場面がありました。

他にも「熊本バンド」には、宮川経輝(大阪教会)、不破唯次郎(前橋教会)、蔵原惟郭(政友会創立)、浮田和民(天満教会から早稲田の政治学へ)、下村孝太郎(日本で初めて硫化アンモニウムの大量生産に成功した化学者)、吉田作弥(外務省)、原田助(神戸教会)、大久保真次郎(北米移民の日系人教会)、家永(辻)豊吉(法学者、慶応と一橋)、そして、小説家の徳冨健次郎(盧花)がいます。盧花、いずれ出て来るでしょうね。

3.バンド以外

英学校設立の際、一番に学生になりながら、「自分は医者になりたい」と言って同志社を去って行くのが、礼保の演じた杉田(元良)勇次郎(兵庫県の三田藩出身)です。ドラマの中では「熊本バンド」の連中に愚弄されて、散々に苛められていました。しかし、実際のところ、彼はボストン大学に留学して、ジョン・デューイの薫陶を受け、プラグマティズムを日本に紹介します(東大教授)。あの最初の8人の中には、福知山出身の中島力造(倫理学)や上野栄三郎(京都大丸社長)もいたはずです。

津田仙(津田梅子の父親)は、青山学院や筑波大学附属盲学校の創立に関わった偉大な教育者ですが、新島とも親しく、長男の津田元親を同志社に学ばせています。

湯浅治郎、湯浅吉郎の兄弟(上州安中出身)も忘れてはいけません。吉郎はイェール大学で聖書学を学び、古典ヘブル語を習得した、恐らく最初の日本人です。治郎は政治家として活躍、廃娼運動の推進者でした。治郎の息子には、洋画家の湯浅一郎、農学者、昆虫学者の湯浅八郎がいます。八郎は京大で、今西錦司、森下正明、内田俊郎らの動物生態学者を育て、やがて国際基督教大学(ICU)の初代総長となる人物です。

牧師 朝日研一朗

【2013年11月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 14:08 | ┣会報巻頭言など

2013年10月16日

不安は魂を食いつくす

何とも恐ろしげな、薄気味悪い言葉を、しばしば天気予報で耳にするようになりました。「これまでに経験したことのないような大雨」という表現です。それをワイドショーに出ているタレント風情が喋るならいざ知らず、真っ当なニュース番組や天気予報の中で、天気予報士が言うのですから堪りません。

2012年7月に気象庁予報部が発表した「記録的な大雨に関する情報」の中で初めて使われた表現だったようです。「熊本県と大分県を中心に、これまでに経験したことのないような大雨になっています。この地域の方は厳重に警戒してください」と言われたのです。その後、繰り返し、この表現を耳にするようになりました。今年は、山口県・島根県、秋田県を襲った集中豪雨で同じ表現が使われていました。

「経験があるから彼は恐れる」(expertus metuit)というラテン語の慣用句があります。アウグスティヌスと同時代の古代ローマの詩人、ホラティウスの『書簡集』の中の一節だそうです。「経験した者だけが知り得る恐怖」というものがあるのです。つまり、本来ならば「未経験」であることは「恐れを知らぬ」ことに通じるのです。戦場で最初に斃れるのは「恐れを知らぬ」新兵です。

「これまでに経験したことのないような」という「未経験」を指す表現が、私たちに語り掛けているのは、きっと「恐怖」ではなく「不安」なのでしょう。敢えて分類すれば、「恐怖」は経験した者の抱く感情であり、「不安」は未経験の者の抱く感情なのかも知れません。竜巻を間近に経験した人が「恐ろしかった」と言って、インタビューに答えているのを見ても分かります。

そもそも警報というものは、私たちの「不安」を掻き立てるためにあります。そう言えば、子供の頃、サイレンの音が怖かったという思いを持たれた方は多いでしょう。火の見櫓の半鐘の音、空襲警報、パトカーや救急車のサイレン、どれも私たちに「不安」を与えるために鳴っているのです。

「サイレン」の語源は、ギリシア神話に登場する海の怪物「セイレーン」です。上半身が人間の女性、下半身が鳥という異形の姿ながら、美しい歌声で海上航行中の船員を惑わし、船を座礁させて、死体の山を築きます。してみると、「不安」は私たちを「幻惑」させるものでもあるらしい。危機感を煽るだけで問題が解決することはありません。むしろ「不安は魂を食いつくす」(Angst essen Seele auf)と言います。最も大切なのは、他者の経験に聴き、その経験に思いを巡らす想像力ではないでしょうか。

今年は、行人坂教会の創立110周年記念の年ですが、同時に関東大震災の90周年、行人坂教会の前身である、京橋基督教会の被災90周年を記念する年でもあるのです。

【会報「行人坂」No.247 2013年10月20日発行より】

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2013年09月28日

自分の魂を取り戻す

1.あまちゃん

NHK朝の連続テレビ小説『あまちゃん』が終了します。実は、この原稿を書いている現時点では、最終回は未来形なのです。けれども、来週からの「『あまちゃん』のない生活」を想像すると、本当に遣り切れなくなります。予告編を見る限り、杏主演の『ごちそうさん』も悪くはなさそうですが、この大きな喪失感を埋められるのか、甚だ心配です。

どうやら、そんな風に感じているのは、私だけではないようで、放映期間も半ばの頃から「日曜日は『あまちゃん』がないから楽しくない」というファンの声が雑誌に採り上げられていました。そして、遂には誰が作った造語か、「ペットロス」ならぬ「あまロス」等という語まで出来てしまいました。これらは週刊誌などに書いてあるネタに過ぎません。しかし、我が家でも、妻が「『あまちゃん』は鎹(かすがい)」という新しい諺を作ってしまいました。私たちは、何かと喧嘩ばかりしている夫婦なのですが、『あまちゃん』の話をしている時は、楽しく和やかな雰囲気の会話が成立するのです。

例えば、「タイトルで跳んでいるアキちゃんの格好、“J”なんだって」とか、「原宿駅のプラットホームに『おら、「あまちゃん」が大好きだ!』(扶桑社から出ているファンブック)の巨大看板が出ていたよ」とか、「『あまちゃん歌のアルバム』というCDが出ていて、「潮騒のメモリー」も「暦の上ではディセンバー」も「地元に帰ろう」も「南部ダイバー」も入っている」とか、「NHK渋谷のスタジオパークのカフェで「まめぶ汁」が食べられる」とか、「東銀座の岩手県のアンテナショップでも食べられる」とか、そんな他愛もないことを喋るのが嬉しくて堪らなかったのです。

2.自分は自分

『あまちゃん』の物語やキャラ、全体に散りばめられた小ネタとパロディの数々を、改めて採り上げるつもりはありません。私には「ファンブック」に書いてある以上のことは言えませんし、見ていない人には、コアな内容説明など全く無意味でしょう。

それでも、私の注目したワンポイントを申し上げます。これまでも田舎から上京/上阪して来るヒロインの物語は数多あったのですが、今回のヒロインは東京生まれの東京育ちでありながら、母親に連れられて、生まれて初めて母の生家に戻ったのです。その架空の町「北三陸市」(ロケは久慈市)で、地元漁協の海女クラブ会長をしている祖母と出会って、海に落とされて、自分も海女になることを決意するのです。

この第1週で、ヒロインは訛るようになってしまうのです。東京で生まれ育ったヒロインが訛りで喋るようになって、そこから若い生命感が弾けるように顕われて来るのです。まるで、これまで封印されていた彼女の魂が蘇ったようでした。

例えば、宮崎駿の『魔女の宅急便』の中にも「魔女は呪文で飛ぶのではない。箒で飛ぶのでもない。魔女は血で飛ぶ」という名台詞がありましたが、『あまちゃん』のヒロイン、アキの場合も、彼女の中にある海女の血の為せる業かと思わせます。実際、海に浮かんで「きもちいいーッ」と叫ぶアキを見て、海に落とした祖母(夏ばっぱ=宮本信子)が満面の笑みを浮かべて「やっぱり、おらの孫だ」と言う場面があります。

その意味では、私たちもまた、生き馬の目を抜くような都会で暮らしていて、自分の言葉を奪われ、自分の血を封印されてしまい、本当の自分、「自分が自分であること」を失ってしまっているのかも知れません。勿論、現実には、故郷にUターンすれば、本当の自分を取り戻すことが出来るとか、田舎の方言を使えば、それで取り戻せる等という図式的なものではありません。「血」と言っても、恭しく御先祖様を奉るとか、血族主義で固まるとか、そんな単純なものでもないと思います。

ともかく、一種のイニシエーション(通過儀礼)によって、一旦、自分自身の魂を取り戻したヒロインは、以後、東京に行こうが地元に帰ろうが、全くスタンスがブレなくなるのです。女優の鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)からも「天野アキを演じさせたら、あなたの右に出る者はいない」と太鼓判を押されます。

3.共に生きる

そんなアキに比べると、相方のユイは、アイドル志望の女子高生がグレてヤンキーになる変貌ぶりを見るにつけ、これぞ「女優」という役柄です。アキ役の能年玲奈が素朴な「天然」を演じているとすると、ユイ役の橋本愛はキャラクターの不安定さを武器にして、色々な表情を演じているのです。

アキとユイとは、劇中の台詞でも「太陽と月」に喩えられて、「光と影」のような対称として描かれています。「シャドウ」や「影武者」がキーワードのドラマですから、影の果たす役割は重要なのです。そして、もう1つの暗喩は、宮沢賢治の『双子の星』でしょう。音楽担当の大友英良は劇伴として、『双子の星』の主題歌「星めぐりの歌」(宮沢賢治作詞作曲)のメロディーを繰り返し流しています。

『双子の星』のチュンセ童子とポウセ童子の慈愛、『銀河鉄道の夜』のジョバンニとカムパネルラの死別、『グスコーブドリの伝記』のブドリとネリ兄姉の別れ、『ひかりの素足』の一郎と楢夫兄弟の死別…。一連の宮沢賢治作品における、2人1組の童話を思い出させるのです。勿論、宮沢賢治のように悲劇に終わったりしないのでしょうが、背景にあるモチーフは間違いなく宮沢賢治の世界です。

「自分が自分であること」は大切なテーマですが、それだけでは、ただの独善とエゴでしかありません。同時に、そんな自分が「誰と共に生きるのか」というテーマが加わって、そこで初めて、人生はホンモノになるのです。本当の自分の魂に到達できるのです。

牧師 朝日研一朗

【2013年10月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 16:23 | ┣会報巻頭言など

2013年08月25日

夏休みの忘れ物

1.宅配便

滞在する先方に、事前に宅配便を送って置く。あるいは、帰る直前、自宅宛てに宅配便を送って置く。恐らく、誰もが普通にしていることです。出来るだけ手持ちの荷物を減らすためです。車椅子の同伴者があれば尚更です。

今年も夏休みを利用して、鹿児島大学の霧島リハビリテーションセンターに、二男を入院させることが出来ました。とは言え、昨年より1週間ほど短い日程でした。しかも、長男の夏期講習があり、彼を独り東京に残して置くことも出来ませんでしたから、往路と前半の11日間を妻が担当し、後半の11日と復路とを私が担当するように、夫婦で交替して、病院の付き添いに当たりました。

霧島を離れる数日前に、病院の売店で段ボール箱を貰って、逗留しているホテルに持ち帰り、済んだ物から少しずつ箱詰めをして行きます。やり終えた夏休みの宿題、読書感想文、読み終えた本、洗濯して畳んだ着替え、病院の陶芸教室で作ったお皿、お土産…。前日夕方には、段ボールは満タンに成り、発送を終えることが出来ました。ところが、不思議なもので、退院の朝、病院に行ってみると、後から後から荷物が出て来るのです。結局、二男の旅行鞄も私のリュック(ドイツ陸軍の背嚢です。オーケーへの買い出しにピッタリ)も、気付けばパンパンに膨らんでいました。

さて、帰宅して翌々日、霧島から段ボールが届きました。箱から出して整理して行くのですが、何かが足りないような気がしてなりません。入れ忘れてしまった何かがあるのです。それは、こちらに送り届けることの出来ないものなのです。それは、私自身が目を閉じて、思い出すことで、漸く脳裏に広がって行く情景なのです。

2.十字架

霧島リハビリテーションセンターの庭には、小さな東屋があって、足湯を楽しむことが出来ます。勿論、盛夏の真昼間、屋根があるとは言え、そんな所で足湯に浸かる人は誰もいません。それでも、二男が足湯に入りたいと言うので、装具を脱がせて、足湯に入れてやりました。私は彼が倒れないように背後に立って、上体を支えています。

真夏の青い空に、白い入道雲、山々の緑、蝉の鳴き声、滴る汗、あちらこちらから温泉の白い蒸気が立ち昇っています。

二男が山の上に目を遣って、「十字架」と言いました。見れば、山の頂上に1本、大きな松の木があって、中央の幹から左右の手のように枝が分かれていて、その有様は「十字架」のようです。ホテルや道路から見ていた時には気付きませんでした。角度が違うと、まるで分からないのです。しかし、病院の庭の足湯に座って見ると、その角度からは、確かに「十字架」に見えるのです。それも、リオデジャネイロの「コルコバードのキリスト像」に見えるのです。御存知でしょうか。山の上で、キリストが両腕を広げて、全ての人を迎えてくれているのです。ポルトガル語の正式名称は「Cristo Redentor/贖い主なるキリスト」と言うのだそうですが、あのキリスト像のように見えるのです。

所謂「心霊写真」と同じです。記念写真の背景に写り込んだ木や草の葉っぱや岩石が人間の顔に見えたりするのです。それは、私たちの脳が「人間」を「顔」として認識するシステムを持っているからです。幼児に絵を描かせれば、巨大な円形に目と口のある顔で、それに申し訳程度に手足の線画が付け足してあります。認識論的には、あれこそが最もプリミティヴな「人間」の姿なのです。

つまり、私たちは常に「顔」としての「人間」を無意識に、あらゆる風景の中に探しているのです。言うまでも無く、単なる目の錯覚なのですが、そんなことを言ったら、私たちの認識するものは全て錯覚と言っても良いのです。恋をすると、相手が美しく見えるのも錯覚なのです。赤ん坊が可愛く見えるのも錯覚なのです。家族が仲良く幸せに感じるのも錯覚なのです。ペットの犬猫が懐いてくれていると思われるのも錯覚なのです。自分が職場や社会から評価されていると考えるのも錯覚なのです。

しかしながら、錯覚は錯覚であっても、どのような錯覚を見るかということが問題なのです。「心霊写真」には何の意味もありません。しかし、恋人が美しく思われ、赤ん坊が可愛く見え、家族が幸せに感じる、それは大きな意味のあることなのです。それを説くことが信仰です。同じように、山の上の1本松に、両腕を広げて万人を迎えんとするキリスト像を重ね見ることもまた、意味のあることなのだと思います。

3.愛の歌

ボサノバの名曲に「コルコバード/Corcovado」があります。それこそ、キリスト像の立つ「コルコバードの丘」の情景が歌い込まれています。アントニオ・カルロス・ジョビンの作詞作曲です。ジャズの名盤『ゲッツ/ジルベルト』では、英詞も付けられて「Quiet nights of quiet stars」(アストラッド・ジルベルトのヴォーカル!)という歌い出しでも知られています。素晴らしい歌詞(ポルトガル原詞)なので、ご紹介しましょう。

「1つの場所、1本のギター/この愛、1つの歌/それらが愛する人を幸せにする。/考えるための静寂と/夢見るための時間がある。/窓の向こうにはコルコバードの丘が見える/キリスト像が美しく微笑み掛けている。/…/悲しみに沈み/世界を信じられなかった私が/あなたに出会い/知ることが出来た/幸せの意味を。」

きっと、コルコバードのキリスト像も、イエスさまがマルタに仰ったように「大切なものは数多くは無い。たった1つだけなのだよ」(ルカによる福音書10章42節)と、作詞者に語り掛けたのでしょう。そんな、胸の熱くなる詞ではありませんか。

牧師 朝日研一朗

【2013年9月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 09:59 | ┣会報巻頭言など