2012年10月29日

ここかしこを歩く者

1.竹田城

自分の生まれ故郷が映画のロケ地になるのは、嬉しいような恥ずかしいような複雑な気分です。私の実家(兵庫県朝来市)の近くにある竹田城址は、近年「日本のマチュピチュ」とか「天空の城」とかいう変なキャッチコピーのせいで、急激に、訪れる客が増えているそうです。その上、高倉健主演の映画『あなたへ』の中で、田中裕子が歌を披露する回想場面のロケ地に使われてしまいました。

私が子供の頃は、小学校の遠足の定番目的地でしたし、自転車に乗って遊びに行くこともありました。私の同級生などは、城址で遊んでいた時に、偶然、戦国時代の日本刀を発見して、地元の教育委員会から表彰されました。つまり、当時は、人っ子一人居らず、戦国時代からのままの状態で荒れ果てていたのです。

単なる廃墟に過ぎなかった城址を、観光に利用する契機に成ったのは、1990年の角川映画『天と地と』でした。石垣の上にオープンセットを建てたのです。勿論、撮影終了と共にオープンセットは取り壊されて、元通りの城址です。その何年か後、九州から遊びに来た親友を連れて1回、結婚前の妻を連れて1回、遊びに行っていますが、山城へ向かう道路が拡張整備された程度で、変化はありませんでした。

小学校時代、変人だった私は、わざわざ荒れ模様の日を選んで、天守閣跡に登り、ムーミン谷のような村々を見下ろしながら、『嵐が丘』のヒースクリフを気取って「吹けよ風、呼べよ嵐」と絶叫していたものです。そんな私としては、どうか、昔のまま、荒涼としたままの雰囲気でありますようにと祈るばかりです。

2.アド街

そう言えば、私が行人坂教会に赴任した数年前、「目黒はラーメン激戦区」ということで、盛んに権之助坂に軒を連ねるラーメン屋が取材されていました。東京に来たばかりの、田舎者の私にとっては、自分の暮らしている近所の風景がテレビの中に映し出されるのは、驚異以外の何ものでもありませんでした。

ある日曜日の午後、何気なくテレビを見ていたら、落語家のヨネスケが権之助坂の某ラーメン店に入って、麺を啜っている場面がライヴで放映されていました。当時、小学校3年生くらいだった長男が「見て来る!」と叫ぶや、息急き切って、権之助坂に走って行ったことが思い出されます。彼は帰って来るなり「本当に、ヨネスケがいた!」と興奮気味に報告してくれました。余談ですが、この類いのレポート番組では「まずい」とは言えないので、美味しくなかった場合、ヨネスケは神妙な顔つきで「中々…」と言うのだそうです。

9月半ばだったでしょうか、目黒の「さんま祭り」に当て込んで、テレビ東京の『出没!アド街ック天国』が「目黒大鳥神社」という特集を組んでいました。1週間前の予告編を見た時から、私は期待に胸を脹らませて、自分なりに「ベスト30」を予想していました。ところが、実際に番組を見ると、かなり予想は裏切られました。エリア設定が間違っていたのです。私としては、元競馬場ブロンズ周辺から権之助坂界隈までの範囲を想定していたのですが、番組の設定エリアは目黒川で切られていたのです。

「大鳥神社」「目黒不動尊」「五百羅漢寺」「目黒寄生虫館」といった寺社仏閣と名所は予想通りでしたが、私の好きな「蛸薬師成就院」や「甘藷先生の墓/青木昆陽碑」は除外されていました。お店も、私の予想通りだったのは、たこ焼きの「頑固蛸」、洋菓子の「OGGI」、和菓子の「玉川屋」、蕎麦屋の「川せみ」、喫茶の「CHUM APARTMENT」の、僅か5軒に過ぎませんでした。私の御用達「大久保だんご」は、ランク外で採り上げられていました。因みに、私は豆大福、妻はおはぎ、長男はみたらし、二男は磯部焼きと決まっています。この店は長男の(下目黒小時代の)同級生のお母さんが看板娘です。もう1軒ランク外で採り上げられていた「gentile」というパン屋(堀井印刷の隣)は、二男の(中目黒幼稚園時代の)同級生の両親が経営しています。

ランクインしたお店で言えば、「八ッ目や/にしむら」「味一」「ながみね」は、残念ながら今一歩、思索が及びませんでした。イタリア料理の「Antica Trattoria Nostalgica」も、長男か二男だかの同級生の親がやっている店でしたが、高級志向が強く、私には無縁なため、思いも寄りませんでした。第1位の「大鳥神社」は、長男の友人のお宅ですが、神主の息子のアキノリ君は「うちには取材撮影の挨拶には来なかったよ」とボヤいていたそうです。内容も「さんま祭り」の宣伝が中心で、地元民としては何か物足りない感じがしました。

3.商売人

旧約聖書で「商人」と訳されているヘブル語「ソヘール」は動詞「サハル」の分詞です。「ここかしこを歩く者」という意味です。もう1つの「商人/ロケール」も「ロカル/行き巡る」から来ています。アブラハムの時代から王国時代までは、「商人」とは、都と地方とを行き来する行商人のことだったのです。新約聖書で「商人」と訳されるギリシア語「エムポロス」も「ポロス/旅行」から来ています。歩き回るのが商人の仕事だったのです。

今は、お店を求めて巡り歩くのはお客の方です。昔ながらの雑誌やテレビの紹介のみならず、グルメナビのようなネット系のランキング情報まであって、その方面の対策にも心を向けなくてならず、商売も大変な時代です。情報に振り回されて、客が行列を作ったかとも思えば、潮が引くように客足が遠のき、閑古鳥が鳴くという状況もあるそうです。

私たちは現在、溢れ返る程の情報に心を乱されて暮らしています。しかし、情報が一杯あること、便利なことが幸せではありません。それが幸せと何の関係もないことは言うまでもありません。時には、情報面での「断捨離」が必要なのかも知れません。

牧師 朝日研一朗

【2012年11月の月報より】

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2012年10月23日

天の万象を見よ

宮崎港から大阪南港に向かうフェリーに乗りました。お盆のUターンラッシュの最中でしたから、「三等客室」が取れただけでも、大変にラッキーだったと言うべきでしょう。日本のフェリーに「三等」があるか…ですって。「特等個室」「一等個室」「二等寝台」の下位なのですから、明確に「三等」と呼ぶべきなのですが、フェリー会社は「二等客室」と言って譲りません。どうせ、鮨詰め状態の雑魚寝です。消灯時間の始まる何時間も前から、薄っぺらなマットレスの上に体を横たえ、アイマスク代わりのタオルを顔に被せて、寝る態勢を固めていました。

すると、甲板に出ていた長男が慌てて戻って来て、「お父さん、凄く星が綺麗だよ。一緒に見ようよ」と言いました。洋上から見る星空の、何と美しいことでしょう。甲板に上がるや忽ち、「夏の大三角形」(琴座のベガ、鷲座のアルタイル、白鳥座のデネブ)が目に飛び込んで来ました。全く探す必要がないのです。これなら、織姫と彦星も互いの姿を見失うことがなく、幸せです。

更に感動したのが「銀河」です。織姫と彦星とを隔てる「天の川」と言っても良いでしょう。ガス状の星間物質、宇宙の塵が光の帯のように広がっているのです。これを古代ギリシア人は「ガラクシアス」と呼びました。「ミルク」という意味です。英語の「ギャラクシー」と「ミルキー・ウェイ」の両方の語源です。

「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。…」 夜空を見上げていると、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の「午后の授業」、先生の質問が聞こえて来るようでした。「ほんとうは何か」、私には分かっていません。

「…その星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油の球にもあたるのです。そんなら何がその川の水にあたるのかと云いますと、それは真空という光をある速さで伝えるもので、太陽や地球もやっぱりそのなかに浮かんでいるのです。つまりは私どもも天の川の水のなかに棲んでいるわけです。…」

「私どもも天の川の水のなかに棲んでいる」という公案のような、奇妙な言葉を思い出しました。それと共に、改めて思い知らされたのは、私たちの暮らす都市からは、夜の闇が失われてしまい、その結果「天の川」を見ることも出来ないという事実です。これは逆説的に聞こえるかも知れませんが、私たちの暮らしが「足が地に付かない」ものだという、何よりの証拠です。地上のネオンが天上の光を隠してしまったことで、私たちは、自らが生かされている場も見失ってしまっているように思います。

「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したか見よ」(イザヤ書四〇章二六節)。目を高く上げることで、却って、しっかりと地に足を付けて歩むことが出来るのです。

【会報「行人坂」No.245 2012年10月21日発行より】

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2012年10月01日

秋の夜に、蚊を見る

1.哀れ蚊

就寝前の小用を足していたら、何かが視界の端を霞めましたので、無意識に両手でパチンと叩きました。すると、小さな蚊が墜落して行くのが見えました。ほんの1週間程前まで、こちらが必死に叩き潰そうとしても、私の裏をかくかのように、したたかに立ち回っていたのですが、もはや、そんな活力はありませんでした。

白黒の縞模様の憎らしい藪蚊ではありません。潰すと赤い鮮血を掌に残す忌々しい吸血虫ではありません。もう弱り果てているのです。腰を下ろして、床の上に墜落した蚊を、よくよく見れば、未だヒクヒクと動いているではありませんか。生きているのに、死ぬのを待つばかりなのです。

幼い日に耳にした「哀れ蚊(あわれが)や」と、母親の囁く声が頭の中に甦って来ました。「秋になったのに、辛うじて生きている、でも、もう産卵を終えて、死ぬのを待つばかりの蚊を、哀れ蚊と言うんや」。

産卵を終えたのですから、メスの蚊に違いありません。しかも、オスの蚊などは、卵を産み付けるや、直ちに死んで行く運命ですから、母の言う「哀れ蚊」がオスであろうはずはありません。しかし、どう仕様もなく、私には「哀れ蚊」がオスに思われてしまうのです。それは、愚かな自己憐憫の反映に過ぎないのでしょうか。

2.垂れ絹

そう言えば、弱々しい声の例えに「蚊の鳴くような声」と言い、か細い脚の例えに「蚊の臑」と言います。「蚊の涙」は「雀の涙」の更にミクロ版です。敵の攻撃に何の痛手も受けていないと威張る時には、「蚊の食う程にも堪えぬわ」等と言います。漢字で「蚊脚」は「細い字」の例え、「蚊軍」は「敵の軍勢」を貶める物言いのようです。

因みに、英語の「モスキート」はスペイン語から来ているそうです。子供の頃に見た『モスキート爆撃隊』(Mosquito Squadron)という戦争映画がありました。ナチスのV3ロケットの開発基地を攻撃する英国空軍「モスキート隊」の話ですが、低空高速爆撃機がベニヤ板で出来ていたのが忘れられません。偶然、エイリアンの血を吸った蚊が体長2メートルに巨大化する『モスキート』(Mosquito)というB級怪獣映画もありました。

聖書には「蚊」は出て来ません。但し、旧約聖書続編「ユディト記」13章に、傑女ユディトが、アッシリア帝国の将軍、ホロフェルネスの寝首を斬り落とす場面に「蚊帳」が登場します。酔い痴れて眠りに就いたホロフェルネスの寝台に行き、彼女は「力いっぱい、二度、首に切り付けた。すると、頭は体から切り離された。ユディトは体の方を寝台から転がし、天蓋の垂れ絹を柱から取り外した」と書いてあります。この「寝台の垂れ絹」と訳されているのが「蚊帳」ではないかと言われています。

残念ながら、この後の将軍の首に対する扱い方が、如何にも粗忽と言わざるを得ません。「猶予せずに外へ出て、侍女にホロフェルネスの首を手渡すと、侍女はそれを食糧を入れる袋に放り込んだ。そして、二人は、いつもの通り祈りに行くかのようにして出て行った」。どうか、願わくば、グスタフ・クリムト描きし『ユディト』のように、ホロフェルネスの生首を腰に纏わり付かせて、艶然と微笑んで欲しかった。しかし、実際の聖書の描写は、今風に言えば「スーパーのレジ袋に入れて、生ゴミ回収の日に集積所にポイ!」です。何と即物的なことでしょう。これでは、まるで、桐野夏生の小説『OUT/妻たちの犯罪』と同じです。

3.蚋と蚊

限りなく「蚊」に近いのが「出エジプト記」8章の「蚋の災い」です。エジプトに下された「十大災厄」の3番目です。日本語聖書には「ぶよ」と書いてありますが、日本の学術語では「ぶゆ」が正式だそうです。英米の註解書では「Prosimulium yeroense」と同定されていて、和名に直せば「きあしおおぶゆ」と言います。しかし、取り敢えず「蚋」と訳されてはいるものの、ヘブル語の「ケーン」が「蚋」と確定した訳ではありません。「蚊」も「蚋」も含めた害虫なのでしょう。

「蚋」と言えば、新約聖書にも出て来ます。「マタイによる福音書」23章24節、律法学者とファリサイ派の人々の偽善を非難して、イエスさまはアジって居られます。「あなたたちは蚋1匹さえも漉して除くが、駱駝は飲み込んでいる」。

蚋は人や家畜に付くだけではなく、飲み物の中にも落ちるので、ワイン等を漉して飲む必要があったようです。偽善者は「蚋1匹は漉している」、つまり、儀式上の些細な事柄には拘っているのに、「駱駝は飲み込んでいる」、つまり、最も大事にしなければならない教えを捨て置いているということです。

古代ユダヤにも「昆虫食」はあって、「レビ記」11章には「蝗の類は食べて良い」と明記してあります。しかし、それ以外の「羽があり、4本の足で動き、群れを成す昆虫は全て汚らわしい物である」そうです。昆虫は「6本足」なのに「4本の足で動く」とは何のことなのか見当もつきませんが、ともかく、食用可の昆虫は「バッタ、蝗の類」だけで、それ以外の昆虫は全て「汚らわしい物」だったのです。

きっと、律法に忠実な人たちは、そんな「汚らわしい物」が誤って喉を通らないように、細心の注意を払い、慎重にワインやミルクを漉していたのでしょう。勿論、私たちだって、飲み物に蝿や虻、蚊や蚋が入れば、衛生上、取り除いて飲むか、捨てる等します。

忘れられがちですが、駱駝もまた、食べてはいけない動物でした。「蹄が分かれただけの生き物は食べてはならない。駱駝は反芻するが、蹄が分かれていないから、汚れた物である」(レビ記11章4節)。駱駝に対する食物禁忌があることが前提に成っているのです。

牧師 朝日研一朗 朝日 です。

【2012年10月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 10:55 | ┣会報巻頭言など

2012年08月26日

ある少年の夏

1.川平メソッド

夏休みを利用して、二男が「鹿児島大学医学部附属霧島リハビリテーションセンター」に入院する運びとなりました。8月2日から9月2日までの丁度1ヶ月間です。川平和美ドクターの居られる病院です。

「NHKスペシャル」で紹介され、『あさイチ』でも採り上げられ、脳卒中後遺症の麻痺のリハビリ法が全国的に知られるようになりました。「川平メソッド」は正式には「促通反復療法」と言われます。タッピングにより筋肉に刺激を与えて、麻痺した腕や脚の反復運動を行なうのです。そうすることで、ダメージを受けた経路を迂回して、新たな神経回路を患者が自律的に獲得して行くのです。その方向付けが「促通反復療法」です。

これまで、川平ドクターの著書は専門書籍に限られていましたが、ごく最近、『やさしい図解「川平法」/決定版!家庭でできる脳卒中片マヒのリハビリ』(小学館)という一般向けの本が出版されて、大いに評判に成っているようです。

実は、二男が小児脳梗塞を発症し、両手両足の麻痺、発話困難が明らかになった3年前から、絶望の淵にあった私たちを、何とかして「霧島」の川平ドクターと繋ごうと必死に働きかけを続けて下さった方があったのです。友人の作家、NKさんです。彼女自身、息子さんが幼少時に脳炎脳症に罹り、川平ドクターのお世話になっていたのです。

しかし、発症直後の夏は急性期病院にありました。2年目の夏は「初台リハビリテーション病院」が特別入院プログラムを提供して下さり、退院後の生活に憔悴していた私たちは矢も盾もなく飛び付いたのでした。3年目の夏には、家族旅行を優先してしまいました。こうして、4回目の夏を迎えて、私たち家族にも、漸くNKさんのお誘いに応じられる余裕が生まれたのです。このように時が巡って来るのを辛抱強く待ちながら、彼女は川平ドクターのお連れ合い、Mさんと連絡を取り続けて下さっていたのです。

2.霧島ドライヴ

霧島へのドライヴも大変でした。「霧島の別荘を使って頂戴!」というNKさんのお言葉に甘えて、自家用車で出発したのですが、名古屋を越えた辺りで、予約していたフェリー(大阪南港から宮崎港に向かう)が「台風のため欠航」と成ったことが判明しました。台風は接近中というだけなのですが、その影響で外海は高波なのです。

仕方なく高速を走り続けて、広島に1泊、翌日の午前中に九州に渡り、霧島に入った頃には夕方でした。最初は「東京−神奈川−静岡−愛知−三重−滋賀−京都−大阪−兵庫−岡山−広島−山口−福岡−佐賀−熊本−宮崎−鹿児島」と、地理の勉強がてら、子どもたちと通過した都府県名を唱えていたのですが、もう1つ別の台風が接近して来て、土砂降りの雨と強風とが断続的に襲って来るではありませんか。

穏やかな天候の時でも、高速のパーキングエリアで休憩する度に、車椅子の二男を降ろしてトイレに連れて行くのは骨が折れました。とりわけ、迫り来る山中の夕闇、豪雨と強風の只中、私たちばかりか、NKさんのご家族も総出で、二男を別荘の中に収容する時などは、一種の修羅場と化していました。

けれども、ズッと後になって、旅行中も入院後も変わらず、二男が健康な状態にあったことに気付きました。「こんな大旅行を出来るくらいに、体力がついて、元気になったのだ…」と、しみじみと夫婦で話し合ったものです。

センターに行ってみて、二男と同じように、夏休みを利用して「霧島」に入院するためにやって来ている子どもが大勢いることを知りました。鹿児島市内から来ているAちゃんは、中学1年生の愛らしい女の子。脳梗塞を発症して車椅子です。二男と同室になったDくんは中学3年生。滋賀の彦根市から来ています。彼は杖で歩行が出来ますが、片方の手にも麻痺があるようです。鹿児島市内から来た三つ子ちゃんは小学校3年生です。3人共に半身麻痺があります。更に、可愛い4歳の女の子がいて、傍目には全く麻痺があるようには見えません。でも、何かの麻痺があるから来ているのでしょう。

3.美しい夏の日

先に東京に戻らなくてはならず、私と長男が霧島に滞在したのは2週間足らずでしたが、晴れ渡る日は少なく、その名前の通り、俄かに霧雨が降って来ることが多かったように思います。その合間に、南九州独特の陽光がギラギラする世界でした。別荘のある山からは錦江湾が一望できるのですが、靄に包まれて桜島は見えません。それでも、その幻視画のような風景に、長男は感心すること頻りでした。

因みに、「霧島」と言われる地域は、鹿児島県と宮崎県とに跨っています。それで思い出されたのが、宮崎県出身の映画監督、黒木和雄が撮った『美しい夏キリシマ』(2002年)でした。宮崎県側の霧島に疎開した自身の少年時代を綴った作品です。『TOMORROW/明日』(1988年)、『父と暮らせば』(2004年)と合わせて、黒木監督の「戦争レクイエム三部作」と呼ばれています。その『美しい夏キリシマ』の英語版の題名は「A Boy’s Summer in 1945」だったことを思い出したのです。

どんな男の子にも「少年の夏」があります。山野を駆け巡って、虫採りや山歩きに興じたり、海辺に行って、釣りや素潜りを満喫する。それこそ典型的なイメージですが、それだけが「少年の夏」ではありません。ステレオタイプに囚われると、リハビリに精を出す二男の姿が可哀想にも思われます。しかし、妻からの電話では、今日は、前述のAちゃん、後から入院した女子高生のお姉さんとトランプをするとか…。きっと、彼自身の「少年の夏」も今、それなりに輝いているはずです。

牧師 朝日研一朗

【2012年9月の月報より】

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2012年08月01日

フランチェスコ映画

1.フランコ・ゼフィレッリ

「ホサナ広場」が主催して、礼拝堂で映画の上映会をすることになりました。昨年、購入した液晶プロジェクターとスクリーンを活用していただく良い機会です。そこで何を上映するかということで、色々な映画の題名が挙げられましたが、結局『ブラザー・サン シスター・ムーン』(1972年)に決まったようです。

『ブラザー・サン シスター・ムーン』(Brother Sun,Sister Moon)は英語の題名です。イタリアの原題は「Fratello Sole,Sorella Luna」と言います。

監督のフランコ・ゼフィレッリは、『じゃじゃ馬ならし』(1967年)、『ロミオとジュリエット』(1968年)、『ナザレのイエス』(1977年)、『チャンプ』(1979年)、『エンドレス・ラブ』(1981年)が日本では知られています。本国ではヴィスコンティの弟子筋として、オペラ演出家の知名度の方が高く、80年代に入ると、『トラヴィアータ〜1985・椿姫〜』(1982年)、『オテロ』(1987年)、『トスカニーニ〜愛と情熱の日々〜』(1988年)等のオペラ映画、音楽映画を手懸けるようになりました。ゼフィレッリ作品で、私が最後に劇場に観に行ったのは、シャルロット・ゲインズブール主演の『ジェイン・エア』(1996年)でした。

2.リリアーナ・カヴァーニ

要するに、アッシジのフランチェスコの伝記映画です。「聖フランシスコ」と言うことは、アメリカの「サンフランシスコ/桑港」の街の由来でもあります。フランチェスコはカトリックの聖人の中でも最も人気が高く、何度も映画化されています。

「ネオ・リアリスモ」の巨匠、ロベルト・ロッセリーニ監督(イングリッド・バーグマンと不倫したくせに、実は敬虔なカトリック信者)が、1950年に『神の道化師、フランチェスコ』を撮っています。1961年には、『カサブランカ』のマイケル・カーティス監督が『剣と十字架』というハリウッド製の剣戟映画に仕立てています。

しかし、「フランチェスコ映画」の製作に3回も関わったのは、リリアーナ・カヴァーニ監督を措いて他にありません。彼女の場合は「フランチェスコに取り憑かれている」「フランチェスコに恋焦がれている」と言っても過言ではありません。『愛の嵐』、『ルー・サロメ/善悪の彼岸』、『愛の謝肉祭』、『卍/ベルリン・アフェア』(谷崎潤一郎原作、高樹澪主演!)等の愛欲ドロドロ映画で知られる女性監督です。しかるに、彼女の監督デビュー作(29歳)は意外にも『アッシジのフランチェスコ』(1966年)なのです。

この作品、日本では公開されていませんが、「キネマ旬報」の資料には「聖人フランチェスコを史上最初のヒッピーとして捉えたので、轟々たる非難を浴びた」と書いてあります。そして、23年後には、当時人気のあったアメリカの俳優ミッキー・ロークを主演に招いて、再び『フランチェスコ』(1989年)に挑んでいるのです。実は、このカヴァーニが『ブラザー・サン シスター・ムーン』でも、4名の脚本家の中に名を連ねているのです。

やはり「史上最初のヒッピー」という辺りの、斬新な解釈が認められての登用なのでしょう。『ブラザー・サン…』で、フランチェスコを演じるグラハム・フォークナーが何もかも脱ぎ捨てて、スッポンポンになる美しい場面なども、当時流行したストリーキングやヌーディスト等に通じるのかも知れません。スコットランドのフォークシンガー、ドノヴァンが主題歌を担当しているのも、ヒッピー世代への目配せです。但し、ドノヴァンと映画製作会社との間に、権利関係の係争が生じて、ドノヴァンの歌はレコードに入りませんでした。私の持っているサントラにも、カティア・ラニエッリ(音楽を担当したリズ・オルトラーニの奥さん)が(小林幸子のように)熱唱するイタリア語の歌しか入っていません。

3.カンティコ・デル・ソレ

日本で上映されたフィルムも、日本で発売されたVHS、LD、DVD等も、押しなべて上映時間は121分です。それが「インターナショナル・バージョン」です。しかし、イタリア完全版は135分あるのだそうです。

中学生の頃に観て以来ですから、かなり記憶も怪しくなって来ているのですが、クララを演じたジュディ・バウカーには、瑞々しい印象を受けました。彼女は他には、テレビの『黒馬物語』(NHKで放送していた)のヴィッキー役、『タイタンの戦い』のアンドロメダ王女役くらいしか見た覚えがありません。その他の出演者では、執政官役のアドルフォ・チェリ(『007/サンダーボール作戦』のラルゴ)くらいでしょうか。

クライマックスで、教皇インノケンティウス3世役で登場するのが英国の名優、アレック・ギネスです。『戦場にかける橋』、『アラビアのロレンス』、『ローマ帝国の滅亡』、『ドクトル・ジバゴ』、『さらばベルリンの灯』、『クロムウェル』等の大作映画の顔です(個人的には『マダムと泥棒』をお勧めします)。しかし、この教皇役、ローレンス・オリヴィエが病気で降板したための代役だったのです。そう言えば、『スター・ウォーズ』のオビワン・ケノービ役も、三船敏郎がオファーを蹴った後の代役でした。

そろそろ、題名の「ブラザー・サン」と「シスター・ムーン」を説明します。聖フランチェスコの祈りとして知られる「太陽讃歌」(Cantico del Sole)の一節、「私たちの兄弟である太陽の故に、主を誉めたたえましょう」「私たちの姉妹である月の故に、…主を誉めたたえましょう」です。「讃美歌21」223番(旧「讃美歌」75番)「造られたものは」は、フランチェスコの「太陽讃歌」を翻案した歌詞です。しかし、残念ながら、汎神論ギリギリの自然賛美は日本語の歌詞に反映されていません。その徹底した自然賛美の故に、アッシジのフランチェスコは現在、カトリックでは「環境保護の聖人」とされ、仏教徒をはじめ自然や環境を大切にする多くの異教徒から尊敬されているのですが…。

牧師 朝日研一朗

【2012年8月の月報より】

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2012年07月01日

コルセット生活

1.風が吹けば

映画『風と共に去りぬ』の巻頭間も無く、ヴィヴィアン・リー扮するスカーレット・オハラがコルセットを装着する場面があります。太った黒人のメイドにコルセットの紐をギューギューと締められて、とても苦しそうです。メイドを演じたのは、ハッティ・マクダニエルという女優さんです。『風と共に去りぬ』の演技によって、黒人女性として初のアカデミー賞の受賞者(助演女優賞)となりました。因みに、彼女はアメリカのラジオ番組の中で、初めて歌った黒人女性でもあります。

この4月に、再び腰痛を患って以来、毎日欠かさず、私はコルセットを装着するようになりました。勿論、背中に紐の付いたコルセットではありません。現代の腰痛用コルセットですから、現代技術の利器、マジックテープの御蔭で着脱も簡単です。しかしながら、それでも面倒臭いものです。トイレで用を足すのにも、その都度、外さなくてはなりません。外さなくては「出」が悪いのです。従って、外出先では、個室便所の空きを探して回らなくてはなりません。

「面倒臭いなあ」と考える私の脳裏に、なぜでしょうか、先程ご紹介した『風と共に去りぬ』の場面が再生されるようになったのです。勿論、自分をヴィヴィアン・リーに重ねる訳には参りません。体型的には、ハッティ・マクダニエルです。

そもそも、私は『風と共に去りぬ』等は好きな映画ではありません。何しろ、クラーク・ゲーブル演ずるレット・バトラーの正体はKKK団です。KKKとは「Ku Klux Klan/クー・クラックス・クラン」、白装束に白い三角頭巾を被って、燃える十字架を掲げてのデモ行進で有名な、白人優越主義の秘密結社です。

それに、昔から言いますよね。「世の男性諸氏は『風と共に去りぬ』のヒロイン、スカーレットを好むような女性と付き合ってはいけない。また、女性は『ローマの休日』のヒロイン、アン王女を好むような男性は敬遠すべきである」と。…それはともかく、コルセットを装着し始めたせいで、好きでも無い映画が急に身近かに感じられるようになったのですから、不思議です。まさに「風が吹けば桶屋が儲かる」です。

2.服飾の記号

映画『風と共に去りぬ』において、スカーレット・オハラが装着するコルセットは、19世紀アメリカ南部の富裕白人社会の記号です。彼らは、あたかもヨーロッパの王侯貴族のような生活を送っていました。コルセットという下着は、独りでは装着することが出来ません。メイドの手を必要とするのです。奴隷制度とそれによって支えられたプランテーション農業の上に、コルセットを着ける生活があったのです。

そんなことを考えていたら、もう1本の映画の場面、コルセットの記憶が浮かび上がって来ました。1975年のオーストラリア映画『ピクニックatハンギング・ロック』です。1900年、「ハンギングロック」と呼ばれるアボリジニの聖域に、ピクニックに出掛けた寄宿制女学校の生徒たちが「神隠し」に遭う物語です。その冒頭の場面には、ゲオルグ・ザンフィルの吹くパンフルートが流れるのですが、女生徒たちが数珠繋ぎになって、お互いにコルセットの紐を締め合うスケッチが挿入されていたと思います。女学校では、生徒さんたちがお互いにコルセットの紐を結び合っていたのです。

この映画では、コルセットは性的抑圧の記号なのかも知れません。ハンギングロックで行方不明になった少女たちに何があったのかは、最後まで解き明かされることはありません。女教師1名と女生徒2名は発見されますが、彼女ら自身にも、何が起こったのかは分かりません。但し、発見された時、「スカートを履かず、ズロースだけだった」とか「靴も履かず、裸足だったのに擦り傷も無かった」と台詞で説明されるだけです。そして、1名の女生徒は発見されないままでした。

下駄や草履、雪駄を履いて生活している、アジア人の私たちには、とても想像できませんが、この当時、英国などでは、裸足は大変に恥ずかしいことだったのです。今でも時折、ドラマで、西欧人が靴を履いたままベッドの上に寝転ぶ場面を目にします。私なら、ホテルの部屋に入ると、先ず靴と靴下を脱ぐでしょう。ともかく、この映画の時代設定である20世紀初頭には、コルセットの時代は終焉を迎えつつあります。

それとは対照的にビザール趣味で、登場人物が男性も女性も全員、コルセット姿で歌い踊っていたのが、同じ1975年のミュージカル映画『ロッキー・ホラー・ショー』でありました。ここでのコルセットは、もはや抑圧の記号ではなく、異性装嗜好(トランスヴェスティズム)の記号と化しています。コルセットは自由に性差を横断するのです。

3.馴染み重ね

私は数年前まで、毎日、腕時計を着けていました。しかし、何度も修理をしながら、20年近く愛用していた物が、いよいよ壊れた時、もう腕時計をするのを止めてしまったのです。それ以前には、腕時計が体の一部のように感じられていました。寝る時と風呂に入る時は別として、一日中、装着したままでした。

自転車でも自動車でも乗り慣れて来ると、他の車種に違和感を抱くようになります。住み慣れた家、使い慣れた道具、食べ慣れた家庭料理の味、見慣れた近所の風景、着慣れた普段着、通い慣れた教会…。こういうことを「身体化」と総称して良いのでは無いでしょうか。体に馴染むのと同じように、他の人たちともお馴染みになります。空気や場に馴染むということもあります。

現在、コルセットに馴染み始めています。御一緒に「コルセット生活」をしませんか。

牧師 朝日研一朗  朝日です。

【2012年7月の月報より】

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2012年06月01日

たとえ塔は崩れ

1.東京タワー

数日前に「東京スカイツリー」が開業しました。怪獣映画の華やかなりし頃ならば、早速、映画の中で「破壊されなくてはならぬ名所」です。

因みに、東京タワーを最初に破壊した怪獣を御存知でしょうか。怪獣映画ファンの間では常識ですが、『モスラ』(1961年)です。モスラの幼虫が孵化のために繭を作り、東京タワーが折れ曲がるのです。テレビの怪獣では、『ウルトラQ』第16話「ガラモンの逆襲」(1966年)が記憶に鮮やかです。そして、何と言っても忘れ難いのが『ガメラ/大怪獣空中決戦』(1995年)、折れた東京タワーの上に、ギャオスが営巣して卵を温める場面です。

よく「ゴジラが東京タワーを破壊した」と主張する人がいますが、それは間違いです。第1作目の『ゴジラ』(1954年)が、ラジオ中継中の鉄塔を破壊する場面なのです。この時、ゴジラは、品川国鉄操車場、銀座和光ビルの時計台、松坂屋、国会議事堂、上野動物園、浅草、勝鬨橋を破壊して回ります(まるで東京名所巡りです)。しかし、不思議なことに皇居と東京タワーは破壊しません。どうして「ゴジラは、皇居を踏めないか」については、既に赤坂憲雄(日本精神史)による、『ゴジラ』と三島由紀夫『英霊の聲』との比較研究がありますので、ご参照ください。問題は東京タワーです。

2.ゴジラの夢

その後の「ゴジラ映画」でも、東京タワーは破壊され続けています。例えば、『三大怪獣/地球最大の決戦』(1964年)ではキングギドラが、『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ/東京SOS』(2003年)ではモスラが、『ゴジラ/FINAL WARS』(2004年)ではモンスターX(カイザーギドラ)が東京タワーを破壊します。

少し趣旨が異なりますが、『キングコングの逆襲』(1967年)では、女性を捕らえて逃げるメカニコングを、キングコングが東京タワーに追い詰めて、タワーの鉄骨に掴まりながら、2匹が格闘を繰り広げます。結局、メカニコングが落下して壊れるのですが…。

しかし、不思議なことに、ゴジラ自身が直接、東京タワーを破壊することはありませんでした。漸く、ゴジラが東京タワーを破壊するのは、怪獣映画ではない、『ALWAYS/続・三丁目の夕日』(2007年)冒頭の、「鈴木オート」社長(堤真一)の夢の場面です。この映画冒頭の怪獣の夢は、『ALWAYS/三丁目の夕日’64』(2012年)では、「鈴木オート」社長がガメラ(のような怪獣)に変身するという展開に成ります。

さて、この『ALWAYS』シリーズの怪獣の夢、山崎貴監督の趣味なのでしょう。しかし、案外、夢オチの原典は『男はつらいよ/寅次郎真実一路』(1984年)冒頭、寅さんの夢に現われる「ギララ」にあるのでは無いでしょうか。『宇宙大怪獣ギララ』(1967年)は、松竹が製作した唯一の怪獣映画です。

3.タワー破壊

別に、ゴジラはタワーを破壊しないという、固い信念を持っている訳ではありません。東京タワー以外のタワーを幾つも破壊しています。『モスラ対ゴジラ』(1964年)では名古屋テレビ塔を、『ゴジラVSビオランテ』(1989年)では大阪ツインタワーを、『ゴジラVSキングギドラ』(1991年)では札幌テレビ塔と東京都庁を、『ゴジラVSモスラ』(1992年)では「みなとみらい21」を、『ゴジラVSメカゴジラ』(1993年)では京都タワーを、『ゴジラVSスペースゴジラ』(1994年)では福岡タワーを破壊しています。「タワー」と言いながらも、純粋な塔ではなく、ビルディングの場合もありますが、以上の記録を見ると、特にバブル期に製作された「平成ゴジラ」シリーズでは、各都市のタワーが破壊されるのが恒例行事と化していることが分かります。

ゴジラ以外の怪獣たちもタワーを破壊するのが大好きです。『三大怪獣/地球最大の決戦』では、キングギドラが横浜マリンタワーを、『ゴジラ/FINAL WARS』では、アンギラスが上海タワーを、ジラ(アメリカ・ゴジラ)がシドニー・タワーを破壊します。

兵庫県出身者としては、神戸のポートタワーが忘れられているようで心配でした。でも、思い出しましたよ。『大怪獣決闘/ガメラ対バルゴン』(1966年)では冷凍怪獣バルゴンが、テレビの『ウルトラセブン』第14〜15話「ウルトラ警備隊西へ」前後編(1967年)ではキングジョーが破壊してくれていました。

古い話で恐縮ですが、1959年の英国映画『怪獣ゴルゴ』(Gorgo)では、ゴルゴがロンドンの時計塔「ビッグベン」を破壊する場面があります。この怪獣の名前と造形は明らかにゴジラのパクリですが、「人間に捕らえられた子供を取り返しに来た怪獣」というモチーフは、後々、日活唯一の怪獣映画『大巨獣ガッパ』(1967年)から、スピルバーグの『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』(1997年)に至るまで再利用されることになります。

4.われらの塔

タワーに限らず、ランドマークと成るような高層建築は、そもそも破壊され、崩れ落ちることが予感される物なのでは無いでしょうか。今更「創世記」11章の「バベルの塔」を引用する必要もありません。私たちは、現実に「9.11」の世界貿易センタービルの崩壊を見てしまったのですから…。ディノ・デ・ラウレンティスの製作した、1976年版『キングコング』(King Kong)は、エンパイア・ステート・ビルではなく、世界貿易センターがクライマックスですが、今改めて見直すと、不思議な感慨で胸が一杯になります。

そんなことを考えながら、「讃美歌21」の400番を思い出しました。「たとえ塔は崩れ/瓦礫となるとも/主の教会から/鐘はなお響く」…という歌詞のデンマークの讃美歌です。

牧師 朝日研一朗   朝日です。

【2012年6月の月報より】

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2012年05月02日

久石譲に讃美歌を

1.讃美歌

4月15日、復活節第2主日の礼拝、メッセージの直前に、讃美歌334番「よみがえりの日に」を唱和しました。すると、何だか宮崎駿のアニメの音楽、つまり、久石譲を思わせるようなメロディーだったのです。そこで開口一番、「今歌った讃美歌、何だか、久石譲みたいな曲調の讃美歌でしたね。久石譲の芸名は、クインシー・ジョーンズの名前から採ったという駄洒落説がありまして…」等と口火を切ったのでした。

礼拝が終わって、玄関で立ち話をしていると、お二人の方が、こんな感想を述べられたのでした。「むしろ、先週のイースター礼拝で、洗礼式に歌った69番『神はそのひとり子を』の方が宮崎アニメのテーマ曲を思わせます」と。こちらは「噺の枕」は忘れてしまっていて、無責任にも「ええ?何の話ですか?」等と尋ね返す有様でした。

それはともかく、お二人共に70歳代の方々でしたので、「宮崎アニメを御覧になっているのか!」と、些か意外な気がしました。「お孫さんと一緒に御覧になるのかなあ」と想像したりもしました。宮崎アニメの(世代を超えた)影響力の大きさを思うと共に、その中にあって、久石譲の音楽が果たしている効果も再認識しました。

2.久石譲

『風の谷のナウシカ』(1984年)、『天空の城ラピュタ』(1986年)、『となりのトトロ』(1988年)、『魔女の宅急便』(1989年)、『紅の豚』(1992年)、『もののけ姫』(1997年)、『千と千尋の神隠し』(2001年)、『ハウルの動く城』(2004年)、『崖の上のポニョ』(2008年)、以上の9作品が(現在までのところ)宮崎駿監督と久石譲音楽のコラボレーション作品です。確かに、どの作品も久石の音楽抜きには考えられません。

久石譲はテリー・ライリーやフィリップ・グラスの影響を受けて、ミニマル・ミュージック(現代音楽の1ジャンル、反復する電子音楽)の音楽家として出発したそうです。確かに、『風の谷のナウシカ』のタイトルのイントロとか、『天空の城ラピュタ』の海賊ドーラ一家の羽ばたき飛行機「フラップター」のシーンとか、典型的なミニマルです。

久石の映画音楽には宮崎作品だけではなく、澤井信一郎、北野武、大林宣彦とのコラボがありますし、近年では、韓国の『トンマッコルへようこそ』(2005年)、香港の『西遊記リローデッド』(2005年)、中国の『海洋天堂』(2010年)も担当しています。

3.作曲家

そう言えば、「こどもさんびか」には、安部正義、鳥居忠五郎、大中寅二、小山章三、高浪晋一といった讃美歌作曲家に混じって、一般音楽業界の作曲家の作品もありました。具体的に挙げると、例えば、「こどもさんびか/改訂版」の62番「サウロよ」は福田和禾子、100番「せかいのこどもは」は山本直純、101番「はたけにおやさい」は子門真人、58番「どんなにちいさいことりでも」は広瀬量平でした。「改訂版」には掲載されませんでしたが、前の「こどもさんびか/合本」の107番「イエスさまって」は中田喜直、115A番「イースターのあさはやく」は真鍋理一郎でした。

中田喜直は『ちいさい秋みつけた』『夏の思い出』『めだかの学校』等の童謡で有名です。山本直純は説明不要でしょう。福田和禾子は「NHKおかあさんといっしょ」のメインコンポーザーを長年務めた人でしたし、子門真人は『仮面ライダー』や『科学忍者隊ガッチャマン』の主題歌でお馴染み、アニメ歌手、童謡歌手としてオファーをしたのでしょう。広瀬量平、真鍋理一郎といった「純音楽」の作曲家に、讃美歌編集委員会が作曲を依頼したのは、恐らく、歌曲・合唱曲分野での業績からでしょう。

私は寡聞にして、子門真人が日本聖公会の会員であること(芸名の子門は洗礼名「シモン」から)以外は、上記の作曲家たちとキリスト教会との繋がりを知りません。まあ、広瀬量平がカトリック作家の遠藤周作の親友であったこと、後年、同志社女子大の大学院で講師を務めていたこと、山本直純が自由学園の出身で、私の師匠、深田未来生牧師のクラスメートであったこと、亡くなる3年前に、お連れ合いのカトリック信仰に連なって、病床洗礼を受けたこと等の事実はあります。しかし、時期的に見ても、内面的にも「こどもさんびか」への楽曲提供とは何の関係も無いでしょう。真鍋理一郎は『甘露門交響曲』で、世界仏教音楽祭で2位を受賞しています。数年前に亡くなった福田和禾子の葬儀は、九品仏の浄土宗浄真寺(玉川聖学院の近所)でした。

今はどうか知りませんが、少なくとも以前は「こどもさんびか」の楽曲提供依頼に、キリスト教信仰の有無は関係なかったようなのです。社会的なコネ(人脈)は何かあったかも知れませんが…。そこで、これは単なる私の勝手な妄想なのですが、久石譲作曲の讃美歌、特に「こどもさんびか」があったら、どんなものだろうかと考えたのです。彼のメロディーには唱歌(即ち、讃美歌)の伝統を受け継ぐ何かがあるのです。

4.普遍性

現在の「こどもさんびか/改訂版」には、私の友人たちの作品も何曲か入っています。94番「ふしぎなかぜが」、102番「わたしたちのたべるもの」、115番「このはなのように」(川上盾)、131番「かなしいことがあっても」(生地善人)です。「改訂版」に載った時には「漸く我々、若いロック世代の讃美歌が…」等と思ったものですが、よく考えてみたら、何のことはない、私たちも50歳代です。

しかし、素晴らしい歌は世代を乗り越えます。何歳の人でも、子供でも高齢者でも、その人たちの心にそっと寄り添ってくれる、そんな讃美歌が求められています。

牧師 朝日研一朗   朝日です。

【2012年5月の月報より】

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2012年03月31日

遠すぎる春

1.遠い春よ

これ程に、春の訪れが待ち遠しく感じられた年があったでしようか。北海道から東北、日本海沿岸地域では、近年稀に見る降雪量でした。屋根の落雪、雪崩によって死傷した人たちも大勢いました。首都圏でも2度の積雪。我が教会のメンバーにも、滑って打撲傷を受けた人が居られました。花粉アレルギーに悩まされる時期が来ても尚、朝夕、冷え込んでいました。漸く春一番の到来かと思えば、冷たいだけの突風でした。仮設住宅や避難先で過ごさねばならぬ長い冬は、言い知れぬ辛さでしよう。

そんな季節柄、何度も何度も、私の脳裏に蘇って来る歌がありました。松任谷由実の『春よ、来い』です。皆さんもサビの部分は御存知でしよう。「春よ、遠い春よ/瞼閉じればそこに/愛をくれし君の/なつかしき声がする」。元々は、1994年度後期のNHK朝の連続テレビ小説の主題歌だったのです。橋田壽賀子が自伝的な要素の濃い脚本を書き、安田成美主演で始まったものの、途中降板してしまい(中田喜子に替わった)、橋田の「飼い犬に手を噛まれた」発言など、週刊誌で話題に成ったものでした。

当時の私は、朝の連続テレビ小説を見る習慣は無く、番組そのものは全く見た記憶がありません。しかし、ワイドショーや週刊誌を賑わした騒動は辛うじて記憶しています。勿論、主題歌の方は大ヒットしたので、よく覚えています。これ以後、卒業式に使われることも多かったようです。カラオケに行った折も、何度か耳にした覚えがあります。

2.春よ来い

春の訪れが遅く感じられる余りに、私のような者すら、「春よ、遠い春よ」とか「春よ、まだ見ぬ春」とか、その歌詞の一節を、思わず知らず口ずさんでいたのです。

そう言えば、昨年の「紅白歌合戦」では、紅組トリの歌として、松住谷を中心に出場者全員による合唱で、被災地へのエールとして歌われていました。その時には、最後のリフレインの部分に、相馬御風作詞・弘田龍太郎作曲の童謡『春よ来い』の「春よ来い/早く来い」をリミックスして歌っていて、編曲の妙にゾクッとしたものです。やはり、あれも松任谷正隆の手になるアレンジなのでしようか。

「春よ来い/早く来い/あるきはじめた/みいちゃんが/赤い鼻緒の/じょじょはいて/おんもへ出たいと/待っている」。「みいちゃん」とは、この童謡の作者、相馬御風の娘、文子の愛称なのだそうです。相馬の暮らした新潟県糸魚川市は、年間降雪量4メートルにも達する大降雪地帯なのだそうです。よちよち歩きの愛娘が「赤い鼻緒の」付いた下駄(草履)を履いて、外で遊びたいと願っているのです。

確かに、ここにも「遠い春」が歌われています。そして、相馬御風は同郷の良寛上人の研究家としても有名です。良寛(1758〜1831)は曹洞宗の僧侶ですが、歌人や書家、漢詩人としても有名です。良寛と言えば、子供たちと無邪気にかくれんぼや手鞠、凧揚げや独楽廻し等をして、遊ぶことを好んだエピソードが有名です。

しかしながら、水上勉の説によると、一見、微笑ましく思われるエピソードにも、その背景には、当時の悲惨な現実があったということです。水上によれば、良寛は、貧しい越後の女の子たちが上州木崎の宿場町に身売りされて、「飯盛女」とされて行くのを見ながら、何も出来なかったのです。「飯盛女]とは、昼間は女中奉公(文字通りの「おさんどん」)をさせられながら、夜になれば宿泊客相手に春を鬻(ひさ)ぐ女たちです。要するに、女郎です。そして、上州木崎には、「飯盛女」をさせられた挙句に、十代や二十代で病死、過労死した子たちの墓石が、無縁墓地の中に幾つもあるそうです。墓碑を解読して見れば、皆、越後の出雲崎、寺泊、地蔵堂から売られて来た女の子たち。その没年から察するに、良寛和尚と一緒に遊んだかも知れない子たちなのです。

売られて行く子供たちの過酷な運命を知りながら、何一つしてやれない忸怩たる思いが良寛にあったのだと、水上は推測します。そして、そんな無力な良寛が唯一、子供たちにして上げられることが「遊び」だったのだと言うのです。だから、良寛が子供と遊んだというエピソードは、無邪気な話でも微笑ましい話でもなくて、壮絶な悲哀と苦悶に満ちた祈りのようなものだったのです。

3.里の春日

もう少し詳しくお知りになりたい方は、水上勉の『良寛を歩く』(日本放送協会出版)をお買い求め下さい。因みに、私が「水上良寛」のことを教わったのは、九州にいた十数年前、犬養光博牧師によってでした。

犬養牧師は、1965年以来、筑豊の閉山炭鉱のある福吉という町に移り住み、福吉伝道所を続けて居られます。お若い頃には、長距離トラックの運転手をしたりしながら、自身の足場としての福吉、筑豊に立ち尽くして行かれました。恐らく、彼の著書『筑豊に生きて』(日本基督教団出版局)は絶版でしょう。改めて本を調べてみたら「1971年初版」「定価580円」とありました。今なら文庫本の値段です。 1965〜1969年の間に、犬養牧師がガリ版刷りで作られた「月刊福吉」を纏めただけの本です。

ある地方、地域の住民の中に身を置き続け、そこに「蒔かれた種」として一生を献げる、そんな牧師(サラリーマンではない牧師)が、僅かながら日本にも居られるのです。他にも、青森の六ヶ所村の岩田雅一牧師(八戸北伝道所)、大阪釜ヶ崎の故金井愛明牧師(釜ヶ崎伝道所)等のお姿が思い浮かびます。それは、さながら、現代の良寛のように思われるのです。

最後に、良寛の和歌を1つ紹介します。「この里に手まりつきつつ子供らと遊ぶ春日は暮れずともよし」。地蔵堂にて詠まれた歌です。

牧師 朝日研一朗   朝日です。

【2012年4月の月報より】

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2012年03月10日

我らが流浪の果てに

1.灰の水曜日

丁度、「灰の水曜曰」に成ったので、久しぶりに書棚の奥から、大学時代に買ったT.S.エリオットの詩集(Faber Paperbacks)を取り出して、「灰の水曜曰」(1930年)に目を通してみました。30年を経て本が黄ばんだだけで、私の英語の読解力が向上した訳もなく、相変わらず、何が言いたいのか全く分かりませんでした。

それでも、第4詩の末尾に付された「and after this our exile/我らが流浪の果てに」というフレーズが心に引っ掛かりました。「3.11」の震災と津波、原発事故から1年が過ぎようとしていて、走馬灯のように様々なニュース映像が思い出されたのでした。津波で瓦礫の山と化した被災地、家族の安否を問うメモ用紙が貼り出された掲示板、被災者で溢れ返る避難所、仮設住宅、放射能汚染による全町村民避難、自主避難した人たち、ポケット線量計を首から提げて外出する福島の子どもたち…。

このフレーズの直前には、「イチイの木から、風が千の囁き声を振り落とすまで]という、これまた意味不明な言葉があります。「イチイ」は、別名「アララギ」(伊藤左千夫、斎藤茂吉、島木赤彦らの流れを流行短歌運動と同じ)とも言います。そう言えば、北海道では「オンコ」と呼んでいました。エリオットの詩に出て来る「yew/ユー」は「ヨーロッパイチイ」です。英国やアイルランドでは、必ずと言って良い程に教会の庭に植えられていて、樹齢千年以上の古木もあるそうです。

古い教会の敷地には、当然、墓地もあります。イチイの木は亡霊の依り代であるのかも知れません。千年を経たイチイの木には、千もの亡霊(残念)が依り憑いているかも知れません。そこに「聖霊」を表わす「風」が吹いて、枝を揺すぶって、祓い落とすのでしょうか。そして「千の風になって」飛んで行くのでしょうか。「千の囁き声/a thousand whispers」が「千の風/a thousand winds」へと昇華されるのでしょうか。

2.エグザイル

そして、問題は「この我らがエグザイル」と嘆息と折りの込められたフレーズです。「エグザイル/exile」を「亡命」と訳すべきか、「追放」と訳すべきか、大いに迷います。大文字ならば、旧約聖書の「バビロン捕囚」を意味するのですが…。「亡命」と言えば、政治的な迫害や宗教的な弾圧を受けて、他国へ逃れることを意味します。「追放」と言えば、害悪を及ぼしたり、罪科を問われて、退けられ、追い払われることを意味します。

ラテン語の「エクスシリウム/exsilium」、その動詞形の「エクスシリオ/exsilio」の第一義は「飛び出る]、第二義は「急ぎ去る、逃げ去る」です。

どちらかと言えば、「追放」よりは「亡命」でしょうか。けれども、原義からすれば、「避難」という語が最も適切な気がします。具体的に、「3.11」後を念頭に置いて、避難生活を余儀なくされている被災者の姿を想像すると、ごく自然に「難民」という語が思い浮かびました。

遠隔地へ「避難」をしているから、「エグザイル」ではありません。津波や地震によって、一瞬にして家族や住む家を失った人たちの苦難は想像を絶しています。しかし、それだけが「エグザイル」ではありません。以前から暮らしている同じ町や村に踏み留まり、同じ家に暮らしていても、子どもへの放射性物質の影響を心配しつつ、胸が張り裂けそうにして生きている。それもまた「エグザイル」なのです。非常な困難を抱えて生活していかなくてはならないとしたら、それもまた「難民」では無いでしょうか。

実際、「難民]は他国の話ではありません。敗戦後の引き揚げをした人たちは、ある期間、確かに「難民」の経験を為さったのです。そもそも、明治以来、帝国政府は臣民に「移民」を奨励して、積極的に海外に送り出しました。榎本武揚の提案した政策と言われています。ハワイ移民、カリフォルニア移民、南米移民、やがては「満蒙開拓移民」へと受け継がれて行きます。これを、豊浦志朗(冒険小説家の船戸与一)は「棄民政策」と呼んでいました。在日コリアンの人たちに対して、政府が北朝鮮への「帰還運動」を奨励したのも、今思えば「棄民政策」の一環だったように思います。

阪神大震災の後、家族や家屋、職場を失った人々が神戸を離れて、人口は10万人減ったとされています。その後、人口は回復傾向にありますが、そのまま、神戸に戻らなかった市民の中には「難民化」の憂き目を見た人も少なくなかったはずです。

3.困難は続く

今年、奇しくも「3.11」は日曜日です。 日本各地で「3.11」関連の様々な行事が為されるでしょう。色々な宗旨宗派の中でも「追悼」「供養」「記念」と銘打った儀式が執り行なわれることでしょう。日曜日ですから、当然、キリスト教会の礼拝でも「3.11」に触れない訳はありません。

しかしながら、この震災に起因する「災害」は未だ継続中です。福島第一原発は未だ「冷温停止」状態にすら成っていません。冷温停止作業、施設瓦礫撤去作業、近隣地の「除染」作業などに携わる人たちには、被爆を前提にした労働が続きます。今後、更に放射性物質は拡散して、全国、全世界に広がって行くでしょう。

旧約聖書の「エグザイル/バビロン捕囚」は半世紀続きましたが、日本の「エグザイル」は今後、何十年(何百年)続くのか、見当がつきません。例えば、報道に一番よく出て来るセシウム137の半減期が30年です。30年放射線を出し続けて、漸く半分に成るのです。日本の「エグザイル」は今始まったばかりなのです。

今も困難を抱えて生き悩む人たち、未来において私たちの「負の遺産」を背負わされる子たちの苦難が続くのです。「3.11」は長大な「エグザイル」の始まりに過ぎません。

牧師 朝日研一朗   朝日です。

【2012年3月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 15:43 | ┣会報巻頭言など