2013年12月26日

八重の桜も散りぬるを

1.山本八重

毎週、楽しみにしていたNHKの大河ドラマ『八重の桜』が終わってしまいました。前年の『平清盛』程ではないにしろ、低視聴率だったと聞いています。新機軸を打ち出していたドラマだっただけに残念でした。

例えば、ドラマは、米国内戦「南北戦争」の戦闘場面から始まっていました。この戦争に使用された武器弾薬が、その後、戊辰戦争と会津戦争に使用されたことは、以前から指摘されていましたが、それを実際に映像で見せたところに新鮮な説得力がありました。

『八重の桜』には、様々な銃火器が出て来ました。オランダの「ゲベール銃」は既に時代遅れでした。「ゲベール」を改良したのが「ミニエー銃」です。その「ミニエー」から発展したのが、南軍の主力銃「エンフィールド銃」で、これが幕末にアメリカから5万挺も輸入されています。「エンフィールド」を更に改良したのが「スナイドル銃」です。山本覚馬が長崎で大量買い付けに成功しながら、会津戦争に間に合わなかったのが、そのプロイセン版「ドライゼ銃」です。覚馬から会津の八重に届けられた1挺が「スナイドル」の米国版「スペンサー銃」です。しかも、歩兵用のライフルを騎兵用に短銃身化した物(カービン銃)で、7連発でした。史上初の「後装式」(後ろ込め)だったのです。

「無煙火薬」は1890年代以後ですから、これらの銃器は全て「黒色火薬」を使っています。銃器に詳しい私の友人は、黒色火薬の発火時の猛烈な反動を考えると、「女が撃てるはずはない。肩の骨が外れてしまう」と言って批判していました。まあ、それだからこそ、八重が米俵を軽々と担いだり、大山巖と腕相撲をしたりする逸話を加えて、彼女の怪力女ぶりを必死に強調していたのでしょう。

2.武田惣角

会津の人で、私が一番興味を持っているのは、武田惣角(1859−1943)という人物です。合気道の開祖にして、「皇武館」設立者として有名な、植芝盛平という人がいますが、その植芝盛平の師匠に当たる武道家です。「講道館」柔道の創始者、嘉納治五郎(1860−1930)がほぼ同年代に居り、相前後しますが、清朝には、洪家拳の黄飛鴻/ウォン・フェイホン(1847−1924)、秘宗拳の霍元甲/フォ・ユァンジャア(1868−1910)という凄い武術家が出ています。沖縄空手の喜屋武朝徳(1870−1945)も忘れてはなりません。

余談になりますが、最近、(ブルース・リーの師匠だったということからでしょうか)急に映画やドラマで人気が高まっている、詠春拳の葉問/イップ・マン(1893−1972)は、植芝盛平(1883−1969)と活動時期が重なっています。それはともかく、銃器鉄砲万能の時代、19世紀末から20世紀初頭に、これだけの武道家が出て来ているという事には、何か深い意味があるように思います。

さて、武田惣角です。惣角は「大東流合気柔術」の創始者とされています。彼は会津藩士の家に生まれました。祖父の武田惣右衛門は「御式内」と言われる武術の専門家でした。この「御式内」は、名前の通り「会津藩士以外の者に教えたり伝えたりすることが禁止」されていました。これが「大東流合気柔術」の源流とされています。更に、惣右衛門は陰陽師でもあって、京都の土御門家(安倍晴明の子孫)から叙任を受けています。その「御式内」と陰陽道を、会津藩家老の西郷頼母(『八重の桜』で、西田敏行が演じていた)に教えたのが、惣右衛門だそうです。父親の武田惣吉は、宮相撲の力士で、禁門の変、戊辰戦争、会津戦争を戦っていますが、全く『八重の桜』には登場しませんでした。但し、惣角の母親、富は日新館の居合術指南役の黒河内伝五郎の娘でした。黒河内(ドラマでは、六平直政が演じていました)は、山本八重に薙刀の稽古をつける先生です。

惣角が物心ついた頃には、明治時代になっていました。家を継ぐのを嫌がって、西南戦争の西郷軍に加わろうとした程の変り種です。それにしても、会津の人間が薩摩の西郷に加勢しようとは何という了見でしょう。その後、惣角は全国を行脚して、他流試合、野試合を繰り返し、実践武術としての「大東流合気柔術」を磨いて行くのです。

3.近代日本

『八重の桜』には、近代兵器と古武術の相克が描かれていて、私の想像力を掻き立てたのでした。これが最終回での、徳富蘇峰(覇権主義の近代的国家論を展開)との対決に生きて来たのだと思います。

幕末から昭和までの日本近代史は、戦争に明け暮れた歴史でした。戊辰戦争、会津戦争、西南戦争、それら内戦の後は、琉球処分、台湾出兵、日清戦争、日露戦争、満州事変、日中戦争、ノモンハン戦争、アジア・太平洋戦争と続き、どんな大義名分を言おうとも、日本は単なる「戦争国家」と化して行きます。実際の八重はどうだったのかは知りませんが、少なくともドラマの作者は「別の道」を懸命に模索する、八重の姿を描いたのです。

「猪一郎さん、力は、未来を切り拓くために、使わねばなんねぇよ。昔、わだすが生まれ育った会津という国は、大きな力に呑み込まれた。わだすは銃を持って戦った。最後の一発を撃ち尽くすまで。一人でも多ぐの敵を倒すために。…んだけんじょ、もしも今、わだすが最後の一発の銃弾を撃つとしたら…」。そう言って、再び鶴ヶ城に立った八重は、空を覆う黒雲に向かって、最後の一発を発射します。黒雲から陽光が差し込んで来ます。「わだすは諦めねえ」。

武術の修練は「型稽古」にあります。自分の体をどのように動かして、どのような力の使い方をするのかを徹底的に学ぶのです。大切なのは「力を何のために使うのか」なのです。

最後に正岡子規の句を。「一重づつ一重づつ散れ八重桜」(1886年)。

牧師 朝日研一朗

【2014年1月の月報より】

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2013年11月23日

冬の楽しみ

1.越冬

今思い出しても、やはり、北海道の冬は厳しいものでした。3月の初旬になっても尚、街全体が氷雪に閉ざされていることも多く、中空と地上を灰色に覆いながら降り止まぬ雪を見ながら、思わず「もういい加減にしてくれ!」と泣き叫びそうになったことが、幾度かありました。実際、4ヶ月も雪に埋もれて暮らしていると、元気な人でも鬱状態に陥ってしまいます。況して、体調を崩している人や弱っている人はテキメンです。

私たちが住んでいた琴似という街は、札幌の中でも早くから「和人/シサム」が居留地を置いた所です。近所には「琴似屯田兵屋」が文化財として保存されていました。1874年(明治7年)、札幌で初めて屯田兵が入植した所です。その屯田兵たちに付いて、京都の辺りから女郎も何十名かやって来たそうですが、冬を越すことが出来ず、次の春までに全員死亡していたという話を耳にしたことがあります。私は、吹雪く琴似の街を歩きながら、何度も、その話を思い返したものです。

「越冬」等と言うと、動物や鳥や虫の話と思われるかも知れません。しかし、私たち、人間も冬の寒さを乗り越えるために、それなりの意識が必要なのではないでしょうか。実際、東京の冬は穏やかな晴れの日が多く続き、過ごし易いと思います。さすがに徳川家が幕府を開いただけのことはあります。北海道や東北、北陸、甲信越、山陰地方などの冬の厳しさを思えば、天国みたいなものです。けれども、それだけに「越冬」意識が低く、冬を迎えることが上手では無いように思うのです。

2.遊び

北海道に赴任した時、先輩の牧師たちから「冬を楽しむように」「冬の楽しみを見つけるように」と異口同音に勧められました。しかし、残念ながら、私はスキーにもスケートにも行かずに、教会の玄関前とベランダの雪かきだけを「運動代わり」にして過ごしてしまったのでした。けれども、「冬の楽しみ」を全く味わうことが無かった訳ではありません。確かに、楽しい事はありました。

例えば、主日礼拝と諸集会が終わると、幼い子どもたちを自動車に乗せて、毎週のように「農試公園」に行きました。そこには、高低差10メートルくらいの緩やかなダウンヒルが作ってあり、幼児がプラスチック製の橇に乗って滑り降りるのです。そんなことを日が暮れるまで繰り返していました。

2人の子供を保育園に連れて行く時には、木橇に乗せて、後ろから押して歩きました。歩いて買い物に行く場合にも、木橇を使っていました。その当時は、妻が「生活クラブ生協」に入っていて、集積所の担当をしてくださっている方のお家まで、木橇に長男を乗せて行きました。橇が重い方が道路で滑る危険が少ないのです。

毎年、積雪が完全な根雪と化す1月には、ベランダの雪を固めて、大きなカマクラを造りました。北海道の雪はパウダースノウで、案外、雪だるま等も作りにくいのですが、根雪になると、水分が多くなり、何でも造れるようになります。札幌の雪祭りが2月上旬に開催されているのも、同じ理由かと思います。雪山を造り、それを踏み固めて、その後に横穴を掘って行きます。最後に天井を広げて完成します。

琴似中央通教会はビルのような建物で、牧師館はビルの4〜5階部分に当たります。ベランダは4階です。ベランダ一杯に出来た雪山の上を、幼い子たちが歩いていたのですから、妻は心中穏やかでは無かったようです。ベランダに柵があるのですが、雪山はそれよりも高く聳え立っていたからです。こんなことも、今となっては、楽しい冬の思い出です。

3.祝祭

古来、日本各地には夏祭りがあります。それだけ、日本の夏が苛酷で、過ごし難く、辛かったのです。だからこそ、祭りが生まれたのではないでしょうか。「夏の楽しみ」を作り、意識することで、苦しい夏を乗り越えようとしていたのです。思えば、同じような思いから、クリスマスも誕生したのではないでしょうか。

クリスマスが発達したのはヨーロッパ、特に雪深い諸国においてです。クリスマスは、古代ローマの冬至祭、「太陽の誕生祭り」に対抗して、教会が「義の太陽イエス・キリストの降誕」をお祝いしたのが始まりとされています。それがローマから北上してヨーロッパ各地に広がり、3世紀末に定着したそうです。

ところが、それから百年も経った385年の記録「エテリア巡礼記」(邦訳は『エゲリア巡礼記』、太田強正訳、サンパウロ)によると、コンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)やアンティオキア(現在のアンタキヤ)では、既にクリスマスが守られていたのに、エルサレムでは全く受け入れられていなかったそうです。それから更に150年を経た530年頃になって漸く、エジプトのアレクサンドリアの教会で採用されるようになり、エルサレムの教会がそれに続いたとされています。つまり、ヨーロッパでクリスマスがお祝いされるようになって、250年の歳月を経た後に、クリスマスは聖地エルサレムに輸入(逆輸入?)されたという皮肉なお話です。

寒くて冷えるからこそ、嬉しいものがあります。湯たんぽ、お風呂、お鍋、熱燗…。熱いお茶、ホットワインを嗜む人もあるでしょう。そう言えば、札幌には、暖炉の前で熱いココアを飲ませてくれるお店がありました。私には、寝床での読書用に、妻が買ってくれた(指が出せる)手袋があります。温かいこと、熱いことに有り難味を感じる季節なのです。つまり、寒くて冷え込んで来れば、それに適った楽しみ、それに応じた嬉しさを、私たちは求めて来たのです。クリスマスは、間違いなく、その1つでしょう。

牧師 朝日研一朗

【2013年12月の月報より】

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2013年10月26日

『八重の桜』人物解説

1.襄とジョー

うちの息子たちは「オダギリジョー異常」というネタが大好きです。ただ、画面にオダギリジョーが出たら、そう言ってみるだけという、限りなく下らないネタです。NHK大河ドラマの『八重の桜』の「新島襄役にオダギリジョー」と聞いた時には、思わず笑ってしまいました(単なる名前の語呂合わせかよ)。しかし、さすがはドラマです。毎週、見ていると「まあ、こんなのもアリかも」と思ってしまいます。

「赤シャツ」も真っ青になる程、徹底的にアチャラカに描かれた新島襄に、見ている私たち(同志社卒業生)の顔は紅潮します。しかし、明治維新の4年前に脱国した新島は、ボストンの名士の養子と成り、フィリップス・アカデミー、アーモスト大学、アンドーヴァー神学校に学びます。当時のアメリカの最高級の教育を受けるのです。

フィリップスは米国のエリートを養成するボーディング・スクール(寄宿制私立高等学校)で、英国のパブリック・スクールに当たります。アーモスト(アマーストとも言う)は、ハーバード大学神学部がユニテリアン(単一性論者)の牙城と化したことに危機感を覚えたクリスチャンが設立した名門カレッジです。後々、余り学問が得意でないことがバレる新島ですが、単に学歴のみならず、言葉やエチケットや価値観も最良を得たはずです。

これに匹敵するのは、津田塾大学の創立者となる津田梅子、「鹿鳴館の花」となって大山巌と結婚する山川捨松(水原希子演)くらいでしょうか。しかし、帰国後の梅子は通訳を介さないでは日本人と話せなくなっていたそうです。捨松も大山と英語で会話して、初めて安らぎを得たと言いますから、当時の帰国子女の苦労が思い遣られます。

2.熊本バンド

1871年(明治4年)、熊本藩が青少年教育のために洋学校を開設、教官として米国から北軍の陸軍大尉、リロイ・ランシング・ジェーンズを招きました。ジェーンズは熱心な信仰者であったので、数年後には御法度のキリスト教を説くようになり、有志学生35名が熊本城外花岡山で祈祷会を催し、キリスト教をもって祖国を救う誓いを立てます。これを「熊本バンド」と言います。当然、洋学校は閉鎖、ジェーンズは解雇、バンドのメンバーは大変な迫害を受けます。そして、創立間もない同志社に流れて来るのです。

ドラマで最初に登場したのが、柄本時生演じる金森通倫でした。そう言えば、柄本の母親の角替和枝は三軒茶屋教会の会員でしたね。金森は岡山教会、東京番町教会の牧師を歴任した人物です。思想的な振幅が激しく、棄教したり、救世軍に入ったり、ホーリネス運動にハマったりした挙句、最後には洞窟で暮らす「今仙人」となります。自民党の石破茂は曾孫に当たります。当教会の初代牧師、二宮邦次郎先生も金森通倫から洗礼を受けています。

日本のジャーナリズムの草分けとなる徳富猪一郎(蘇峰)は、若い女子に人気の中村蒼が演じています。古川雄輝演じる小崎弘道と言えば、霊南坂教会の建設にYMCA創立で有名ですが、そもそも京橋の新肴町教会の牧師として赴任しているのです。つまり、行人坂教会の前史に深い所縁があります。「青年」「宗教」という日本語の作者でもあります。

阿部亮平演じる海老名喜三郎(弾正)は、安中教会、本郷教会、神戸教会を歴任。伊勢みや子(坂田梨香子演)と結婚します(海老名弾正の二女、大下あやさんに生前、私はお目に掛かったことがあります)。彼の門下の渡瀬常吉は、朝鮮伝道を行なって、京城教会と平壌教会を設立します。永岡佑の演じる市原盛宏は、代理教員の立場で強権的な授業運営をして、在学生からボイコットを受ける話がありました。この人は後にイェール大学で経済学を学んで、横浜市長、朝鮮銀行初代総裁となります。

黄川田将也の演じる伊勢(横井)時雄は、山本覚馬の娘、みね(三根梓演)と結婚します。今治教会、本郷教会の牧師、政治家、新聞記者にもなります。実は、彼は幕末の儒学者、横井小楠の長男なのです。そう言えば、『龍馬伝』で、福井藩主、松平春嶽の政治顧問をしていた小楠に、龍馬が教えを乞う場面がありました。

他にも「熊本バンド」には、宮川経輝(大阪教会)、不破唯次郎(前橋教会)、蔵原惟郭(政友会創立)、浮田和民(天満教会から早稲田の政治学へ)、下村孝太郎(日本で初めて硫化アンモニウムの大量生産に成功した化学者)、吉田作弥(外務省)、原田助(神戸教会)、大久保真次郎(北米移民の日系人教会)、家永(辻)豊吉(法学者、慶応と一橋)、そして、小説家の徳冨健次郎(盧花)がいます。盧花、いずれ出て来るでしょうね。

3.バンド以外

英学校設立の際、一番に学生になりながら、「自分は医者になりたい」と言って同志社を去って行くのが、礼保の演じた杉田(元良)勇次郎(兵庫県の三田藩出身)です。ドラマの中では「熊本バンド」の連中に愚弄されて、散々に苛められていました。しかし、実際のところ、彼はボストン大学に留学して、ジョン・デューイの薫陶を受け、プラグマティズムを日本に紹介します(東大教授)。あの最初の8人の中には、福知山出身の中島力造(倫理学)や上野栄三郎(京都大丸社長)もいたはずです。

津田仙(津田梅子の父親)は、青山学院や筑波大学附属盲学校の創立に関わった偉大な教育者ですが、新島とも親しく、長男の津田元親を同志社に学ばせています。

湯浅治郎、湯浅吉郎の兄弟(上州安中出身)も忘れてはいけません。吉郎はイェール大学で聖書学を学び、古典ヘブル語を習得した、恐らく最初の日本人です。治郎は政治家として活躍、廃娼運動の推進者でした。治郎の息子には、洋画家の湯浅一郎、農学者、昆虫学者の湯浅八郎がいます。八郎は京大で、今西錦司、森下正明、内田俊郎らの動物生態学者を育て、やがて国際基督教大学(ICU)の初代総長となる人物です。

牧師 朝日研一朗

【2013年11月の月報より】

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2013年10月16日

不安は魂を食いつくす

何とも恐ろしげな、薄気味悪い言葉を、しばしば天気予報で耳にするようになりました。「これまでに経験したことのないような大雨」という表現です。それをワイドショーに出ているタレント風情が喋るならいざ知らず、真っ当なニュース番組や天気予報の中で、天気予報士が言うのですから堪りません。

2012年7月に気象庁予報部が発表した「記録的な大雨に関する情報」の中で初めて使われた表現だったようです。「熊本県と大分県を中心に、これまでに経験したことのないような大雨になっています。この地域の方は厳重に警戒してください」と言われたのです。その後、繰り返し、この表現を耳にするようになりました。今年は、山口県・島根県、秋田県を襲った集中豪雨で同じ表現が使われていました。

「経験があるから彼は恐れる」(expertus metuit)というラテン語の慣用句があります。アウグスティヌスと同時代の古代ローマの詩人、ホラティウスの『書簡集』の中の一節だそうです。「経験した者だけが知り得る恐怖」というものがあるのです。つまり、本来ならば「未経験」であることは「恐れを知らぬ」ことに通じるのです。戦場で最初に斃れるのは「恐れを知らぬ」新兵です。

「これまでに経験したことのないような」という「未経験」を指す表現が、私たちに語り掛けているのは、きっと「恐怖」ではなく「不安」なのでしょう。敢えて分類すれば、「恐怖」は経験した者の抱く感情であり、「不安」は未経験の者の抱く感情なのかも知れません。竜巻を間近に経験した人が「恐ろしかった」と言って、インタビューに答えているのを見ても分かります。

そもそも警報というものは、私たちの「不安」を掻き立てるためにあります。そう言えば、子供の頃、サイレンの音が怖かったという思いを持たれた方は多いでしょう。火の見櫓の半鐘の音、空襲警報、パトカーや救急車のサイレン、どれも私たちに「不安」を与えるために鳴っているのです。

「サイレン」の語源は、ギリシア神話に登場する海の怪物「セイレーン」です。上半身が人間の女性、下半身が鳥という異形の姿ながら、美しい歌声で海上航行中の船員を惑わし、船を座礁させて、死体の山を築きます。してみると、「不安」は私たちを「幻惑」させるものでもあるらしい。危機感を煽るだけで問題が解決することはありません。むしろ「不安は魂を食いつくす」(Angst essen Seele auf)と言います。最も大切なのは、他者の経験に聴き、その経験に思いを巡らす想像力ではないでしょうか。

今年は、行人坂教会の創立110周年記念の年ですが、同時に関東大震災の90周年、行人坂教会の前身である、京橋基督教会の被災90周年を記念する年でもあるのです。

【会報「行人坂」No.247 2013年10月20日発行より】

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2013年09月28日

自分の魂を取り戻す

1.あまちゃん

NHK朝の連続テレビ小説『あまちゃん』が終了します。実は、この原稿を書いている現時点では、最終回は未来形なのです。けれども、来週からの「『あまちゃん』のない生活」を想像すると、本当に遣り切れなくなります。予告編を見る限り、杏主演の『ごちそうさん』も悪くはなさそうですが、この大きな喪失感を埋められるのか、甚だ心配です。

どうやら、そんな風に感じているのは、私だけではないようで、放映期間も半ばの頃から「日曜日は『あまちゃん』がないから楽しくない」というファンの声が雑誌に採り上げられていました。そして、遂には誰が作った造語か、「ペットロス」ならぬ「あまロス」等という語まで出来てしまいました。これらは週刊誌などに書いてあるネタに過ぎません。しかし、我が家でも、妻が「『あまちゃん』は鎹(かすがい)」という新しい諺を作ってしまいました。私たちは、何かと喧嘩ばかりしている夫婦なのですが、『あまちゃん』の話をしている時は、楽しく和やかな雰囲気の会話が成立するのです。

例えば、「タイトルで跳んでいるアキちゃんの格好、“J”なんだって」とか、「原宿駅のプラットホームに『おら、「あまちゃん」が大好きだ!』(扶桑社から出ているファンブック)の巨大看板が出ていたよ」とか、「『あまちゃん歌のアルバム』というCDが出ていて、「潮騒のメモリー」も「暦の上ではディセンバー」も「地元に帰ろう」も「南部ダイバー」も入っている」とか、「NHK渋谷のスタジオパークのカフェで「まめぶ汁」が食べられる」とか、「東銀座の岩手県のアンテナショップでも食べられる」とか、そんな他愛もないことを喋るのが嬉しくて堪らなかったのです。

2.自分は自分

『あまちゃん』の物語やキャラ、全体に散りばめられた小ネタとパロディの数々を、改めて採り上げるつもりはありません。私には「ファンブック」に書いてある以上のことは言えませんし、見ていない人には、コアな内容説明など全く無意味でしょう。

それでも、私の注目したワンポイントを申し上げます。これまでも田舎から上京/上阪して来るヒロインの物語は数多あったのですが、今回のヒロインは東京生まれの東京育ちでありながら、母親に連れられて、生まれて初めて母の生家に戻ったのです。その架空の町「北三陸市」(ロケは久慈市)で、地元漁協の海女クラブ会長をしている祖母と出会って、海に落とされて、自分も海女になることを決意するのです。

この第1週で、ヒロインは訛るようになってしまうのです。東京で生まれ育ったヒロインが訛りで喋るようになって、そこから若い生命感が弾けるように顕われて来るのです。まるで、これまで封印されていた彼女の魂が蘇ったようでした。

例えば、宮崎駿の『魔女の宅急便』の中にも「魔女は呪文で飛ぶのではない。箒で飛ぶのでもない。魔女は血で飛ぶ」という名台詞がありましたが、『あまちゃん』のヒロイン、アキの場合も、彼女の中にある海女の血の為せる業かと思わせます。実際、海に浮かんで「きもちいいーッ」と叫ぶアキを見て、海に落とした祖母(夏ばっぱ=宮本信子)が満面の笑みを浮かべて「やっぱり、おらの孫だ」と言う場面があります。

その意味では、私たちもまた、生き馬の目を抜くような都会で暮らしていて、自分の言葉を奪われ、自分の血を封印されてしまい、本当の自分、「自分が自分であること」を失ってしまっているのかも知れません。勿論、現実には、故郷にUターンすれば、本当の自分を取り戻すことが出来るとか、田舎の方言を使えば、それで取り戻せる等という図式的なものではありません。「血」と言っても、恭しく御先祖様を奉るとか、血族主義で固まるとか、そんな単純なものでもないと思います。

ともかく、一種のイニシエーション(通過儀礼)によって、一旦、自分自身の魂を取り戻したヒロインは、以後、東京に行こうが地元に帰ろうが、全くスタンスがブレなくなるのです。女優の鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)からも「天野アキを演じさせたら、あなたの右に出る者はいない」と太鼓判を押されます。

3.共に生きる

そんなアキに比べると、相方のユイは、アイドル志望の女子高生がグレてヤンキーになる変貌ぶりを見るにつけ、これぞ「女優」という役柄です。アキ役の能年玲奈が素朴な「天然」を演じているとすると、ユイ役の橋本愛はキャラクターの不安定さを武器にして、色々な表情を演じているのです。

アキとユイとは、劇中の台詞でも「太陽と月」に喩えられて、「光と影」のような対称として描かれています。「シャドウ」や「影武者」がキーワードのドラマですから、影の果たす役割は重要なのです。そして、もう1つの暗喩は、宮沢賢治の『双子の星』でしょう。音楽担当の大友英良は劇伴として、『双子の星』の主題歌「星めぐりの歌」(宮沢賢治作詞作曲)のメロディーを繰り返し流しています。

『双子の星』のチュンセ童子とポウセ童子の慈愛、『銀河鉄道の夜』のジョバンニとカムパネルラの死別、『グスコーブドリの伝記』のブドリとネリ兄姉の別れ、『ひかりの素足』の一郎と楢夫兄弟の死別…。一連の宮沢賢治作品における、2人1組の童話を思い出させるのです。勿論、宮沢賢治のように悲劇に終わったりしないのでしょうが、背景にあるモチーフは間違いなく宮沢賢治の世界です。

「自分が自分であること」は大切なテーマですが、それだけでは、ただの独善とエゴでしかありません。同時に、そんな自分が「誰と共に生きるのか」というテーマが加わって、そこで初めて、人生はホンモノになるのです。本当の自分の魂に到達できるのです。

牧師 朝日研一朗

【2013年10月の月報より】

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2013年08月25日

夏休みの忘れ物

1.宅配便

滞在する先方に、事前に宅配便を送って置く。あるいは、帰る直前、自宅宛てに宅配便を送って置く。恐らく、誰もが普通にしていることです。出来るだけ手持ちの荷物を減らすためです。車椅子の同伴者があれば尚更です。

今年も夏休みを利用して、鹿児島大学の霧島リハビリテーションセンターに、二男を入院させることが出来ました。とは言え、昨年より1週間ほど短い日程でした。しかも、長男の夏期講習があり、彼を独り東京に残して置くことも出来ませんでしたから、往路と前半の11日間を妻が担当し、後半の11日と復路とを私が担当するように、夫婦で交替して、病院の付き添いに当たりました。

霧島を離れる数日前に、病院の売店で段ボール箱を貰って、逗留しているホテルに持ち帰り、済んだ物から少しずつ箱詰めをして行きます。やり終えた夏休みの宿題、読書感想文、読み終えた本、洗濯して畳んだ着替え、病院の陶芸教室で作ったお皿、お土産…。前日夕方には、段ボールは満タンに成り、発送を終えることが出来ました。ところが、不思議なもので、退院の朝、病院に行ってみると、後から後から荷物が出て来るのです。結局、二男の旅行鞄も私のリュック(ドイツ陸軍の背嚢です。オーケーへの買い出しにピッタリ)も、気付けばパンパンに膨らんでいました。

さて、帰宅して翌々日、霧島から段ボールが届きました。箱から出して整理して行くのですが、何かが足りないような気がしてなりません。入れ忘れてしまった何かがあるのです。それは、こちらに送り届けることの出来ないものなのです。それは、私自身が目を閉じて、思い出すことで、漸く脳裏に広がって行く情景なのです。

2.十字架

霧島リハビリテーションセンターの庭には、小さな東屋があって、足湯を楽しむことが出来ます。勿論、盛夏の真昼間、屋根があるとは言え、そんな所で足湯に浸かる人は誰もいません。それでも、二男が足湯に入りたいと言うので、装具を脱がせて、足湯に入れてやりました。私は彼が倒れないように背後に立って、上体を支えています。

真夏の青い空に、白い入道雲、山々の緑、蝉の鳴き声、滴る汗、あちらこちらから温泉の白い蒸気が立ち昇っています。

二男が山の上に目を遣って、「十字架」と言いました。見れば、山の頂上に1本、大きな松の木があって、中央の幹から左右の手のように枝が分かれていて、その有様は「十字架」のようです。ホテルや道路から見ていた時には気付きませんでした。角度が違うと、まるで分からないのです。しかし、病院の庭の足湯に座って見ると、その角度からは、確かに「十字架」に見えるのです。それも、リオデジャネイロの「コルコバードのキリスト像」に見えるのです。御存知でしょうか。山の上で、キリストが両腕を広げて、全ての人を迎えてくれているのです。ポルトガル語の正式名称は「Cristo Redentor/贖い主なるキリスト」と言うのだそうですが、あのキリスト像のように見えるのです。

所謂「心霊写真」と同じです。記念写真の背景に写り込んだ木や草の葉っぱや岩石が人間の顔に見えたりするのです。それは、私たちの脳が「人間」を「顔」として認識するシステムを持っているからです。幼児に絵を描かせれば、巨大な円形に目と口のある顔で、それに申し訳程度に手足の線画が付け足してあります。認識論的には、あれこそが最もプリミティヴな「人間」の姿なのです。

つまり、私たちは常に「顔」としての「人間」を無意識に、あらゆる風景の中に探しているのです。言うまでも無く、単なる目の錯覚なのですが、そんなことを言ったら、私たちの認識するものは全て錯覚と言っても良いのです。恋をすると、相手が美しく見えるのも錯覚なのです。赤ん坊が可愛く見えるのも錯覚なのです。家族が仲良く幸せに感じるのも錯覚なのです。ペットの犬猫が懐いてくれていると思われるのも錯覚なのです。自分が職場や社会から評価されていると考えるのも錯覚なのです。

しかしながら、錯覚は錯覚であっても、どのような錯覚を見るかということが問題なのです。「心霊写真」には何の意味もありません。しかし、恋人が美しく思われ、赤ん坊が可愛く見え、家族が幸せに感じる、それは大きな意味のあることなのです。それを説くことが信仰です。同じように、山の上の1本松に、両腕を広げて万人を迎えんとするキリスト像を重ね見ることもまた、意味のあることなのだと思います。

3.愛の歌

ボサノバの名曲に「コルコバード/Corcovado」があります。それこそ、キリスト像の立つ「コルコバードの丘」の情景が歌い込まれています。アントニオ・カルロス・ジョビンの作詞作曲です。ジャズの名盤『ゲッツ/ジルベルト』では、英詞も付けられて「Quiet nights of quiet stars」(アストラッド・ジルベルトのヴォーカル!)という歌い出しでも知られています。素晴らしい歌詞(ポルトガル原詞)なので、ご紹介しましょう。

「1つの場所、1本のギター/この愛、1つの歌/それらが愛する人を幸せにする。/考えるための静寂と/夢見るための時間がある。/窓の向こうにはコルコバードの丘が見える/キリスト像が美しく微笑み掛けている。/…/悲しみに沈み/世界を信じられなかった私が/あなたに出会い/知ることが出来た/幸せの意味を。」

きっと、コルコバードのキリスト像も、イエスさまがマルタに仰ったように「大切なものは数多くは無い。たった1つだけなのだよ」(ルカによる福音書10章42節)と、作詞者に語り掛けたのでしょう。そんな、胸の熱くなる詞ではありませんか。

牧師 朝日研一朗

【2013年9月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 09:59 | ┣会報巻頭言など

2013年07月26日

ゲリラ豪雨

1.前方の視界

南九州に暮らしていた頃、台風と集中豪雨は珍しくありませんでした。珍しくないとは言え、実際には、毎年やって来る台風の猛威は凄まじいものでした。集中豪雨も、私のような本州から来た者にとっては、あたかも「熱帯のスコール」のように思われました。地元の人が大抵、裸足に草履なのは、大雨が降って膝まで水に浸かっても平気だからです。

南九州では、自動車を運転していて、思わず低速運転せざるを得ないような、大雨も何度か経験しました。けれども、運転に支障を感じる程の集中豪雨を体験したのは、意外なことに、九州時代ではありません。

忘れ難い集中豪雨の思い出、その1回目は、但馬の実家へ里帰りの途中、中国自動車道の吉川JCTの辺りでした。もう1回は、軽井沢の東日本ユースキャンプに行く途中、上信越自動車道の藤岡JCTの辺りでした。いずれの場合も、余りの豪雨のために前方の視界が遮られて、高速道路であるにも拘わらず、30〜20キロまで減速せざるを得ませんでした。前方が見えないままの運転くらい、恐ろしいことはありません。

そう言えば、映画の『ザ・フォッグ』『ミスト』も斯くやと思うような濃霧に突入したことも何度かありました。北海道時代には、猛烈な地吹雪のために、フロントガラスの向こうが「ホワイトアウト」ということがありました。

2.豪雨と落雷

去る7月23日の「ゲリラ豪雨」にも驚かされました。翌日のニュースでも採り上げられていたので、御覧になった方も多いでしょう。目黒川が氾濫の寸前まで行きました。1時間に百ミリの集中豪雨が続き、水位が急上昇しました。沿岸地域では、サイレンが鳴り響きました。水位上昇が護岸から2.5メートルに達すると、自動的に警報機のサイレンが鳴るようになっているのです。

ネットの投稿写真で見ると、下流の五反田大橋は橋桁近くまで水が来ていました。どうやら、行人坂教会の辺りの目黒川も、氾濫まで残り2メートルというところだったようです。目黒川は氾濫せずとも、降水量の多さに道路の排水が追い付かず、山手通は(場所によっては)脹脛(ふくらはぎ)まで水嵩が来て、マンホールの蓋が浮いていたそうです。その結果、大鳥神社前交差点のアンダーパスは水没し、山手通は大渋滞となりました。

何でも目黒区民センターの近所の一般家庭では、トイレから下水が逆流して噴き出したそうです。やはり、川の近くだからでしょうか。川が氾濫する以前に、川に流している排水道に水が溢れてしまったのでしょう。

目黒川とは無関係ですが、ネットには、世田谷区の駒沢大学のキャンパスが水没した投稿写真、五反田や目黒中町の冠水した道路の写真もありました。恐らく、これらの地域は窪地に成っていて、周辺の地域から水が流れ込んで来たのではないでしょうか。

落雷も凄かったようです。目黒清掃工場の避雷針には、あの日だけで、3発もの雷が落ちたそうです。東急池上線は停電、エスカレーターもエレベーターも動かなくなりました。車椅子の子供を抱える家庭としては、そういう出来事がとても恐ろしく感じられます。また、東急東横線の学芸大学駅は雨漏りのために、パニック状態に成ったと言います。

3.菅原道真公

いつまでも鳴り止まない雷鳴を聞きながら、私は「清涼殿落雷事件」を思い出していました。旧約聖書の神、ヤハウェも「栄光の神の雷鳴は轟く」と、その御声が雷鳴に喩えられています(詩編29編3〜10節)。昔の人が天の雷光、雷鳴、落雷をどれだけ恐れていたか、よく分かります。

「天神様」「学問の神様」として知られる菅原道真ですが、その実体は「祟り神」であり、「雷神」として畏怖されているのです。菅原道真は幼少期から詩歌の才に秀で、官僚と成っても業績を重ね、朝廷随一の天才と言われ、宇多(うだ)天皇の寵愛を受けて右大臣にまで出世したのです。ところが、時の左大臣、藤原時平に妬まれて、讒言を受け、大宰府に左遷され、失意の内に僻地の九州で亡くなります。

ところが、その死後、彼は日本宗教史上、最大最強の怨霊と成って(夢枕獏の『陰陽師』にも登場しますね)、朝廷に祟りをもたらします。時平はじめ、その子孫を次々に病死させ、遂には御所の清涼殿に雷を落として、政府要人を皆殺しにしてしまいました。特に、左遷に直接関与した藤原清貫(きよつら)等は、落雷の直撃を受けて、丸焦げに成った上に、胸が裂けて、内臓が溢れ出ていたと言われています。

これが、930年の「清涼殿落雷事件」です。それは「延長8年6月26日」、現在の暦で言えば、7月24日のことでした。奇しくも、あの「ゲリラ豪雨」と1日違いだったのです。丁度、24日の「聖書と祈りの集い」のテキストは「ヨブ記」26章でした。「神について私たちの聞き得ることは何と僅かなことか/その雷鳴の力強さを誰が悟り得よう」の註解で、私は菅公の「清涼殿落雷事件」の話をしたのです。聖研の準備をするのは前週の水曜日ですから、私にも少し「預言する霊」が与えられたようです。

神道では「魂鎮め」と言って、「怨霊」を慰撫し、「英霊」や「神」へと祭り上げます。故に「鎮魂」と言います。生者に祟らないように鎮めるのです。しかし、キリスト教の「レクイエム」は「死者が生前に犯した罪が、神の慈悲によって赦され、永遠の安息が与えられるように祈る」ものです。「死者のためのミサ/Missa pro defunctis」の冒頭の句「主よ、彼らに永遠の安息を与え、彼らを絶えざる光をもて照らし給え/Requiem aeternam dona eis,Domine: et lux perpetua luceat eis」から来ているのです。有難くて涙が出ます。

牧師 朝日研一朗

【2013年8月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 22:26 | ┣会報巻頭言など

2013年06月29日

ご自宅で礼拝を

1.放談会から

行人坂教会では、毎年1月に「役員放談会」というものを開催しています。クリスマスの諸行事が終わり、新年度定期総会の準備に忙しくなる前に、牧師と役員が集って、文字通り「放談」をするのです。「放談」ですから「無責任な思い付き」を出し合うのです。

私の着任後しばらくは、もう少し真面目に「役員懇談会」等と称していました。この機会に、日頃の役員会では、報告と協議事項に追われて、話題に出来ないことを懇談しよう。あるいは、新年度の「牧会方針案」に、牧師だけではなく役員のアイデアも盛り込もう。そんなことを考えて始めたものです。

その後、余り真面目にやっていたのでは、ダイナミックな意見、自由で生き生きとした意見が出ないと気付き、「懇談会」ではなく「放談会」と名称変更したのです。因みに、定期総会後、つまり、役員改選後の5月の「懇談会」は「懇談会」のままにして置いたのですが、これも新年度は、遂に「放談会」と化してしまいました。

2.瓢箪から駒

さて、1月の「放談会」で出された意見の中から、一気に具体化しつつあるのが、電話回線を利用した「礼拝音声配信サービス」です。

「放談会」の席上、ある役員が「今は礼拝に通うことが出来ているが、将来、高齢になったり、病床に就いたら、礼拝できなくなるのか」と問題提起をなさったことが発端でした。そこで思い出されたのが「多回線音声応答装置・サービスホン」の存在でした。教会の指定番号に電話を掛けるだけで、その日その時に行われている礼拝の実況が聴けるのです。昔、私が伝道師、副牧師として在任した南大阪教会が、逸早く、そのシステムを導入していました。南大阪教会では「福音コール」という愛称を付けていました。システム導入に取り組んだ岩橋常久牧師は、既に横浜の紅葉坂教会に転任なさっていましたが、早速お電話をして、資料をドッサリお送り頂き、翌々月の役員会に諮ることが出来ました。その際に、設置に向けて取り組むことが決定されました。

4月14日には、実際に運用なさっている教会から話を伺おうということで、2名の前役員と共に、中渋谷教会に赴き、M長老から詳しく運用のノウハウを教わりました。その中渋谷教会の事例を紹介した『教団新報』の記事(2008年3月1日号)から、以下、引用してみたいと思います。

「電話回線で礼拝が守れることで高齢者は安心して老いることができる。自宅にいる限り礼拝を守ることができるということが大きな力になっている。電話機の進化もそれに一役買っている。電話のオンフック機能の普及によって、ずっと受話器を支えていなくても、礼拝を聞くことができるようになった。」

「オンフック機能」とは「スピーカー機能」のことです。しかも、この記事が掲載された5年前から電話機の機能は更に向上し、子機でも可能になっています。子機を利用すれば、ベッドの傍らに置いて、礼拝を聞くことが出来ます。最近では携帯電話(セルラー)の普及も著しく、高齢者でも携帯電話を利用されている方は大勢おられます。さすれば、「自宅にいる限り」という制約すら、絶対では無くなっているのです(但し、病院と特定の施設、公共交通機関では、携帯電話の使用は控えなくてはなりません)。

しかも、各自の利用料(自己負担額)は1回の礼拝につき、(東京24区内の場合)180〜250円が電話料金に加算される程度のことです。そう、礼拝に通う電車賃、バス料金くらいの値段なのです。

3.本物の礼拝

ご高齢のため、その他の理由のため、今現在、長期間にわたって、礼拝をお休みになっている会員の10家庭に、アンケートを取って、ご利用を促す予定です。このシステムを導入するために、取り敢えず6つの専用回線を設置します。利用希望者が大勢おられれば、12回線に増設することも考えています。

設置の初期費用に46万円余を支出します。設置すれば、月額利用料として1万1千円余を、教会は毎月負担して行くことになります。しかし、お金の問題以上に大切な課題があります。それは、最初にあった問題提起です。「高齢になって通えなくなったら、礼拝に参加できなくなる」という現状を放置して、無策のまま、手を拱(こまね)いているのは、教会の在り方として善くないという認識です。

私自身も、その時その場に共にいるのが「本物の礼拝」で、映像や音声を流しても「本物の礼拝」ではないと思い込んでいました。そのように教え込まれて来たからです。しかし、「礼拝に参加したい」「礼拝を聞きたい」、それも「他でもない、行人坂教会の礼拝を!!」という切なる願いを、信仰の先輩たちが持っておられたと思い至った時に、今まで自分は何と無為無策であったかと、大いに反省した次第です。

行人坂教会の礼拝に思いを寄せながら、天国に召されて行った、姉妹兄弟たちのお顔が思い浮かびます。しかし、今からでも遅くはありません。1年後、数年後に、通えなくなるかも知れない信仰の友たちのためにも、早急に設置に踏み切ろうと、6月役員会は決断したのです。最初の利用者が、たとえ誰もいなくても、設置しようと決定したのです。

その昔、『ティファニーで朝食を』という題名の映画がありました。そもそも、高級宝飾店のティファニーに食堂はないのですが、あたかも「ティファニーで朝食を食べるような身分」というヒロインの憧れを表現したのです。私たちが願い求めているのは、そんな贅沢なことではありません。ただ「自宅で行人坂教会の礼拝を」、それだけのことなのです。

牧師 朝日研一朗

【2013年7月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 18:13 | ┣会報巻頭言など

2013年05月26日

アナログの価値

1.惜別の思い

私の頭の中はアナログで、今でも中古レコード店に出入りして、昔のレコードを漁っています。子供が大病をした後、理由は分かりませんが、何か潮が引くようにしてCDを買うのを止めてしまいました。その後、東京YMCA山手学舎の聖書研究を担当することになり、高田馬場に行くようになりました。高田馬場は学生街ですから、古本屋や中古レコード店や名画座が生き残っています(但し、昔ながらの喫茶店は既に滅亡していました)。それで、またもや、レコードを買うようになったのです。

高田馬場のレコード店で、ナナ・ムスクーリ、オルネラ・ヴァノーニ、ガル・コスタ、ジャニス・イアン、マリ・ウィルソン、タミー・ウィネット、アン・マレー、マルレーネ・ディートリッヒ、マリー・ラフォレ、リンダ・ルイス、ダイアナ・ロス等のLPレコードを、5百円から千円前後で手に入れました。イヴ・モンタンやバルバラ(これは妻の趣味ですが)も買いました。ターンテーブルに乗せて聴くのは面倒臭いのですが、やはり、女性歌手のレコードを聴く楽しみはジャケットにあります。

山手学舎の舎生(18〜25歳の大学生)は、私が買って来るのがレコードだと聞いて、「写真集だと思っていました」と驚いていました。彼らにとっては、生まれた時からCDがあって、そのCDも消費される物です。今や楽曲をPC(パソコン)やモバイル(携帯電話とか)にダウンロードするのが当たり前です。音楽媒体も映像媒体も、いつでも引き出せるのですから、品物として購入して、狭い部屋を更に狭くする必要は全くありません。

そんな時代ですから、今年の4月、JR高田馬場駅前のCDショップ「ムトウ楽器店」(創業89年の老舗レコード店)が閉店してしまいました。私は自分のためにCDを買わなくなっていましたが、子どものために『ドラゴンボール』や『HUNTER×HUNTER』のCDを、妻のためにアリス=紗良・オットの『展覧会の絵』や『ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ集』のCDを、「ムトウ」で買ったものです。クラシック・コーナーが中2階にあって、何か格調高い感じがしたものです。

2.中性子爆弾

私の後輩にFという男がいて、北海道で牧師をしています。大学時代には、彼から私は、ジョン・メイオールやクリーム等のブリティッシュ・ロックの魅力を教えて貰ったのですが、なぜか今はクラシックのLPレコードだけをコレクションしているのです。何年か前に、その男が上京した時、蒲田教会のH牧師と一緒に歓迎飲み会をしました。その席上、彼は、こんな風に薀蓄を垂れていました。

「もしも、地球上のどこかで戦争が起こって、その戦争で中性子爆弾が使われたら、CDやDVDやPCに記録されたデータなんかは、全て飛んでしまうの。だから、結局、最後まで音楽を聴くことが出来るのはレコードなの」。

発売当時「半永久的」と謳われていたにも拘わらず、10年、20年経つ内にCDの音質も劣化するという悲しい事実に直面して、私も愕然としていたものですから、この時は「そうだ、そうだ!」と言って、彼の自論を支持したのでした。科学的な説明は忘れましたが、事実、そのように成るのだということで、納得できるものでした。

ところが、後になって、よくよく考えてみると、中性子爆弾が爆発して、大気圏内のPCデータが全て飛んでしまうのであれば、私たちが使っているオーディオセット(アンプやターンテーブル)だって、やはり、ガラクタ同然に成るはずなのです。1980年代以後、マイコン(マイクロコンピュータ)の組み込まれていない機械など、恐らく、ただの1つも存在しません。結局、レコードのデータは飛ばなくても、それを聴くための道具は存在しなくなるのです(1970年代以前のオーディオセットをお持ちの方は別です)。

たとえ、皆さんが、自分はコンピュータ等と無縁の生活と思っておられるとしても、家庭電化製品には全てマイコンが入っています。テレビ、DVDデッキ、エアコン、電子レンジ、炊飯電子ジャー、ミキサー、攪拌器、冷蔵庫、電話器、ウォシュレット型の便器、温水器型の風呂、ドライヤー、電気こたつ、電気毛布、ガスストーブ、扇風機、デジカメ、自動車…。居間から台所、寝室、外出と移動しながら、見渡してみました。全滅です。

3.電話で礼拝

今年の1月末から、行人坂教会のHP(ホームページ)でも、礼拝の音声を聴くことが出来るようになりました。毎週、「前奏」から祝祷の後の短い「後奏」までがアップされています。「説教」だけ聴いてみようと思えば、そのポイントまで飛ばすことも出来ます。しかし、若い世代と違って、高齢者の場合、PCを持っている人は余りありません。残念ながら、このようなサービスも、高齢のために礼拝に集うことの難しい人たちにとっては、それ程に有益ではありません。

お宅にプッシュホンがあれば、礼拝時に教会と電話で繋いで、スピーカーボタンを押すだけで、礼拝を聴くことの出来る「多回線音声応答装置・サービスホン」の設置に向けて、現在、教会はシステムの導入を進めています。聞くところによると、利用者(自宅で礼拝を聴く人)の負担は、1時間半2百円か3百円だそうです。

いずれは「スカイプ」を利用する時代も来るのでしょう。しかし、今、礼拝を必要としている高齢者や長期自宅療養者が簡単に利用できるシステムの導入が、何より求められています。丁度、今でもカセットテープで音楽を聴く人がいるのと同じように。誰もが持っている家電で、ボタン1つで、自宅にいながらにして、礼拝に参加することが出来るのです。

近々、申し込みの希望を取りたいと思います。どうぞ、お知らせ下さいますように。

牧師 朝日研一朗

【2013年6月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 08:48 | ┣会報巻頭言など

2013年04月28日

連続テレビ小説

1.あまちゃん?

先日、淡路島で地震があり、心配になって兵庫県の実家の母に電話をしました。「但馬は何でも無かった」との報告に安堵しました。なぜか、話題はNHK「連続テレビ小説」の『あまちゃん』の話になり、ヒロインの天野アキを演じる能年玲奈が隣町の神崎町出身であることを教わりました。所謂「平成の大合併」で、現在は「神崎郡神河町」と成りましたが、以前は「神崎郡神崎町」で、私の高校の同級生にも、この町から通っている子は大勢いました。残念ながら、当時、能年ちゃん程の可愛い子はいませんでしたが…。

ついでに、母は「『八重の桜』を毎週見ている」という話をしました。余り「大河ドラマ」に関心の無さそうな母が見ている理由は、山本八重(綾瀬はるか)の最初の夫に成る川崎尚之助(長谷川博己)が但馬出石藩の出身だからなのです。母は城下町出石の出身で、それを今でも大切にしているのです。それから、母は「あんたの母校、同志社の新島襄さんも出て来るしな」と付け加えたものでした。

人が連続ドラマを見るのには色々な動機付けがあるのです。但し、母は『あまちゃん』は見ていません。「朝の忙しい時間に足を取られるから」というのが理由でした。そんな母も、私たち夫婦が北海道に住んでいた頃には、「毎朝、『すずらん』を見て、あんたたちのことを思い出している」と言っていたのですが…。きっと、見なくなるのにも色々な理由があるのでしょう。

2.最近の連ドラ

そう言えば、この何年か、再び「連続テレビ小説」を見るようになっていました。思い返せば、二男が『ゲゲゲの女房』を楽しみに見るように成ってからでした。その前の『ウェルかめ』等は全く見た覚えがありません。ところが、大病をして生還した二男が小学校に復学する時、彼が大好きだった水木しげる翁(『ゲゲゲの鬼太郎』)の力を借りたのでした。二男は『ゲゲゲの女房』を見終わってから、のんびり登校したものです。『ゲゲゲの女房』の脚本家は山本むつみ、『八重の桜』のホンを書いている人です。

その後の『てっぱん』は殆ど見ませんでした。尾道は私の好きな町ですが、時折、見るとはなしに見ていると、理解と常識を絶する展開があり(例えば、京野ことみのエピソードとか)、呆れたことを覚えています。

次の『おひさま』の世界は、もはや妻の独壇場と言っても構いません。先日もBSで再放送していましたが、特に後半、ヒロインの連れ合いに成る高良健吾の出演以後は、妻は欠かさず見ていました。岡田惠和の脚本もよく出来ていて、東日本大震災の影響が意識下にあるようで、何度も貰い泣きしそうになりました。

やはり、圧巻は『カーネーション』です。妻の「面白い」という勧めによって、私が真剣に見始めたのは、ヒロインが「紳士服ロイヤル」(団時朗が店主)に務め始めた辺りからなのですが、尾野真千子の迫力、小原家の面々の上手さ、人間の心の襞を嘗め回すようなジットリコッテリした脚本(渡辺あや)に圧倒されてしまいました。濱田マリなんて、40歳代前半で、あんな老け役演ってしまって、どうなるのだろうと、老婆心ながら心配しました。晩年の夏木マリに変わってからも面白かったです。『カーネーション』を見る度に、グッと来ているものですから、「お父さんは泣き上戸」と子供に言われる始末でした。

『梅ちゃん先生』(尾崎将也脚本)は、ヒロインが診療所を開業して、結婚した辺りで、見なくなってしまいました。全体としてホンも出演者も薄っぺらな印象でした。『純と愛』(遊川和彦脚本)は、第3部の「宮古編」まで耐えましたが、とうとう最後の1週間で堪忍袋の緒が切れて、見るのを止めてしまいました。この脚本家、介護の問題とか採り上げるのは結構だけれども、余りにも安直で、思慮が足りなくて、愛想が尽きました。出演陣も『梅ちゃん』以上に下手糞な人を集めていました(除く:余貴美子)。

今までの所、『あまちゃん』は絶好調です。「さすがはクドカン!!」(脚本は宮藤官九郎)と溜め息の出るような、キャラクター群と台詞回しです。今週、漸く気付いたのですが、この物語、近未来ならぬ「2008年」という「近過去」なのです。やがて「2011年3月11日」が来るのです。脚本の中に、予めセットされているのです。そう考えると、さしものクドカンも自爆するような気がして、些か心配になって参ります。

3.連ドラの法則

子供の時には、家族と一緒に『藍より青く』『鳩子の海』『雲のじゅうたん』等を見ていました。『マー姉ちゃん』くらいまでは、実家で暮らしていました。実家を出て行けば、「連ドラ」は見なくなるものなのですね。

断片的ながら、再び「連ドラ」を見たのは、『澪つくし』と『はね駒』です。南大阪教会の事務室にテレビが置いてあったのです。そこで出前の丼物を食べながら、事務のUさんやTさんと一緒に見ていたものです。不思議なもので、事務員さんのいる教会を出ると、また見なくなるものなのですね。

また飛んで、三度「連ドラ」に復帰したのは『やんちゃくれ』からです。結婚して、家庭生活が整えられて、見るようになるのです。『すずらん』『あすか』『私の青空』『オードリー』…。しかし、長男が生まれ、二男が生まれて、男の子2人に手が掛かるようになって、見る余裕が無くなってしまいました。『ちゅらさん』と『ほんまもん』辺りで打ち止めです。その後、舞台が九州と言うことで、例外的に『わかば』(宮崎県日南市)と『風のハルカ』(大分県湯布院町)を見た記憶があります。

この何年か、子供が成長して、また見始めました。以上、不思議な「連ドラ」の法則です。

牧師 朝日研一朗

【2013年5月の月報より】


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