2013年03月31日

ナラティヴム

1.読み聞かせ

2009年4月初め、二男が突然、小児脳梗塞(脳幹梗塞)という病気を発症し、生死の境を彷徨いました。意識を取り戻したものの、重い四肢麻痺と構音障碍が残りました。2ヶ月の急性期入院と半年間のリハビリ入院期間が終了し、車椅子ながらも下目黒小学校に復帰することが出来たのは、3学期に成ってからでした。寒い季節でもあり、後遺症や免疫力の低下もあったのでしょう。2日登校しては1日休むというような学校生活でした。

朝に私が二男を送り、午後に妻が迎えに行くという毎日が始まりました。そんな時、私たち夫婦は、PTAの方から「読み聞かせ」のボランティアに誘われました。月1回、ほんの10分程の「朝の会」のことです。2011年の2学期から始めたのだったと記憶しています。何しろ慌しい朝の時間です。始めた当初は、完全に失念してしまっていて、夫婦して穴を開けるという大失態を演じたことがあります(突然の欠席にも対応できるように、区民ボランティアのベテランさんがサポートして下さっているのですが…)。

この失敗を反省して以来、基本的には、私が参加し、妻は1年1回か2回くらいの特別出演に成っています。私が「読み聞かせ」をしようと思った契機は、二男が愛して止まぬ下目黒小学校の、その子どもたちに、何か関わりを持ちたいと思ったからです。保護者の、しかも、お父さんの「読み聞かせ」は珍しがられたようで、現在、下目黒小学校のHPにも写真がアップされています(2013年3月10日付け3年生のページ「今年度最後の読み聞かせ」)。

2.語りと騙り

@長谷川集平:『トリゴラス』(文研出版)、Aマイケル・ローゼン作・クエンティン・ブレーク絵:『悲しい本』(あかね書房)、B長谷川集平:『はせがわくんきらいや』(ブッキング)、Cキティ・クローザー:『ちいさな死神くん』(講談社)、Dエヴァ・シュヴァンクマイエローヴァー:『オテサーネク』(水声社)、E長谷川集平:『すいみんぶそく』(童心社)、F宮部みゆき作・吉田尚令絵:『悪い本』(岩崎書店)、Gかのこ作・米倉斉加年絵『トトとタロー』(アートン)、H皆川博子作・宇野亜喜良絵:『マイマイとナイナイ』(岩崎書店)、Iアーサー・ビナード作・ベン・シャーン絵:『ここが家だ/ベン・シャーンの第五福竜丸』(集英社)、J八百板洋子作・齋藤芽生絵:『吸血鬼のおはなし』(福音館書店)、K本橋成一:『チェルノブイリからの風』(影書房)、L鳥山明:『てんしのトッチオ』(集英社)、M杉山亮作・竹内通雅絵『きんたろう』(小学館)、N京極夏彦作・町田尚子絵:『いるのいないの』(岩崎書店)…。順番は適当ですが、これまで採り上げた本です。

こうして並べてみると、ACEは典型的な「死の教育/デス・エデュケーション」です。Bは森永砒素ミルク中毒、Iは第五福竜丸の被曝、Kはチェルノブイリ原発事故を扱った社会的なテーマの作品です。@は怪獣、Dは人喰い樹、Fは心の闇、Hは体の中にいる他者、Jは吸血鬼、Nは家に憑依した霊と、恐怖と怪奇と不安をテーマにしています。Gは全く分類不能です。LとMだけが辛うじて痛快な作品です。

実は、私は「読み聞かせ」という語が余り好きではありません。「聞かせ」という部分に、何か押し付けがましさと言うか、強制力を感じてしまうのです。それで、私自身は「語り」と呼んでいます。文化人類学や旧約聖書学、古典文献学や言語学では「ナラティヴム/Narativum」と言われる部分を担当していると、自分では心得ています。勿論「語り」は「騙り」に通じてもいます。けれども、それだからと言って、即ち「嘘」等という訳ではありません。フィクションの中にもリアリズムがあり、ファンタジーの中にも現実世界が反映されて居り、嘘八百の戯作の中にも真実が込められているのです。

3.愛を叫ぶ獣

私が「語り=騙り」に拘っているのは、思い返してみると、子ども時代に見たテレビドラマの影響かも知れません。『アウターリミッツ』『宇宙大作戦』『未知の世界/ミステリーゾーン』『悪魔の異形』『プリズナーNo.6』『四次元への招待』『ヒッチコック劇場』『オーソン・ウェルズ劇場』等の米英ドラマ、円谷プロ製作の『ウルトラQ』『怪奇大作戦』『恐怖劇場アンバランス』も忘れる事は出来ません。

例えば、『アウターリミッツ』にはハーラン・エリスン(『世界の中心で愛を叫んだけもの』)が、『ミステリーゾーン』にはリチャード・マシスン(『地球最後の男』『ある日どこかで』)が台本が書いた作品もあったのです。幼少時に、これらの作品に触れた御蔭で、私は自ら命を絶つこともせずに、投げ槍になることも無く、今も生きるを得ているのです。

今の子どもたちが、それに匹敵する「語り」に出会っているか、それは知りません。『世にも奇妙な物語』『本当にあった怖い話』『トリハダ』等の現代のショートショートが、果たして、私たちが生きる力を得た程に、今の子どもたちに与えてくれるのか、私には分かりません。時代状況も、子どもを取り巻く環境も違うからです。しかし、私は、かつて私が受けたように、子どもたちに語ろうと思います。

ハーラン・エリスンやリチャード・マシスンには遠く及びませんし、金城哲夫や市川森一や上原正三に比ぶべくもありませんが、「子どもたちに、生きる力を届けたい」という、その心意気だけは失わないで、子どもに向かって「語り」を続けていきたいと思っているのです。その意味では、小学校の「読み聞かせ」も、教会学校の「子どもの礼拝」のメッセージも、私にとっては同じなのです。

世界に対する違和感だったり、居心地の悪さだったり、漠然とした不安だったり、そういうものが、結局、最後の最後には「生きる力」に成って行くのです。なぜなら、私たちがこの世に生きるということは、まさしく、そういうことに他ならないからです。

牧師 朝日研一朗

【2013年4月の月報より】

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2013年03月24日

トンネル脱出法

行人坂教会創立の年、1903年2月に、どんな出来事があったのか調べてみたら、「中央本線笹子トンネル開通」と書いてあって、一瞬ドキッとしました。勿論、鉄道線路ですから、先の崩落事故とは関係がありません。それでも、驚きました。

スイスの作家に、フリードリヒ・デュレンマット(1921〜90年)という人がいて、「トンネル」という短編があります(カフェ光文社古典新訳文庫『失脚/巫女の死/デュレンマット傑作選』)。親の脛をかじって大学に通っている肥満児が、週末をバーゼルの自宅で過ごそうと、夕刻の満員列車に乗り込みます。

葉巻に火をつけようと思ったら、運悪く列車がトンネルに入ります。トンネルから出たらと辛抱しているのですが、少しもトンネルを抜けません。その内に「バーゼル行きの線に、こんな長いトンネルはなかったはずだ」「きっと、列車を間違ったのだ」と焦ります。けれども、他の乗客も検札も「これは、バーゼル、ジュネーヴ行き」と頓着がありません。やがて、彼は一人の車掌を捕まえて、漸く「このトンネルの長さは異常だ」と納得させます。

肥満児と車掌は危険を冒して、機関室まで辿り着きます。ところが、そこには運転士の姿はありません。列車は運転士無人のまま暴走していたのです。二人は汗水たらして努力してみますが、列車は全く制御不能です。止まりません。しかも、トンネルは次第に地の奥底に向かって下降して行くようなのです。

ここで車掌が告白します。「実は、運転士と助手は既に飛び降りていた」と。彼は目視していながらも、余りの異常な事態に、何もしないでやり過ごしていたのです。意を決した車掌は、客車に戻って、恐らく、今はパニック状態に陥っているであろう、乗客の面倒を見に行くと申し述べます。最後に、職業倫理を発揮したのです。ところが、肥満児は機関室の床に座り込んだまま動こうとしません。彼は「何もしなくていいんです」と呟きました。

翻訳者(増本浩子)による解説によると、デュレンマットの最初の草稿では「神が私たちを落下させたのだから、私たちは神のもとへと突き進んで行くだけです」という言葉で終わっていたそうです。まるで、黒澤明の『暴走機関車』のようですが、列車が真っ暗なトンネルの中を走り続けているというイメージは、むしろ、テレビの空想科学ドラマ『ウルトラQ』第10話「地底超特急西へ」に近いかも知れません。また、黒澤は「暴走機関車」に核戦争のイメージを付与したようですが、デュレンマットは、第二次世界大戦の戦火を、スイスという「檻」の中から、何も出来ないまま目撃しなければならなかったそうです。それで、デュレンマットは牧師の息子でありながら、信仰を失ってしまったそうなのです。

日本社会は「長いトンネルに入ったままだ」「出口のないトンネル」等と言われます。トンネルやスランプを考える時、車掌の生き方も肥満児の生き方もあると思うのです。せめて同じ列車に乗っている者は、誰かを悪者にしないで、お互いの道を認め合うしかありません。

【会報「行人坂」No.246 2013年3月24日発行より】

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2013年02月23日

レプトン銅貨をささげよう

1.寡婦の献金

福音書の中に「やもめの献金」というエピソードがあります。「マルコによる福音書」12章41〜44節、「ルカによる福音書」21章1〜4節に「並行記事」があります。どちらも僅か4節しかない短い記事です。

イエスが神殿の片隅に座って、人々が賽銭箱に献金を入れる様子を御覧になっています。日本の初詣の賽銭と同じで、お金持ちは沢山入れています。しかし、イエスさまが目を留められたのは、1人の貧しい寡婦でした。女性が父や夫の「所有物」と見なされていた時代です。社会福祉も何も整備されていない2千年前です。一家の働き手を失った未亡人は、親族の哀れみに縋(すが)る以外には、ジャン=フランソワ・ミレーが描いたように「落穂拾い」でもするしかありません。

そんな極貧の中にある寡婦が「レプトン銅貨」2枚を賽銭箱に入れるのを、イエスさまは見て居られました。「レプトン銅貨」2枚で買えるのは「小麦粉1掴み」だったと言われています。それは、当時のユダヤ社会で「1日の命を繋ぐ最低量の食糧」とされた表現です。日本なら、差し詰め「ご飯1膳」と言ったところでしょうか。仮に5キロ米が2千円とすると、1膳36円です。

その寡婦を見て、イエスさまは弟子たちに言われました。「はっきり言って置く。この貧しい寡婦は、賽銭箱に入れている人の中で、誰よりも沢山入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物を全て、生活費を全部入れたからである」。

2.礼拝の献金

今更、言うまでもありませんが、プロテンタント教会は、私たちの献金によって成り立っています。そして、大雑把に分けると、献金は2種類から成っています。1つは、礼拝の中で奉げられる「礼拝献金」です。これは礼拝の席上で集められるので「席上献金」とも言われます。

もう1つは「月定献金」「特別献金」「季節献金」等の献金です。「月定献金」は、年間を通して、教会活動を支えるために自分の収入の中から一定の金額を奉げていくものです。これは、信徒である私が神さまと交わす約束という意味で「約定献金」とも言われます。「特別献金」は、誕生日や受洗日、結婚記念日、召天記念日、その他、個人的な感謝や祈念のために奉げられるものです。「季節献金」は「クリスマス献金」「イースター献金」「夏期献金」です。「季節献金」だけは、毎回、目標額が設定されていますから、その目標額到達のために、自らが奉げるのみならず、「目標が達成されますように」と祈りを合わせていくのです。以上、「月定」「特別」「季節」の、3種類の献金は、専用の袋に入れて、個人名を記して奉げるので、昔から教会では「袋献金」と総称されています。

要するに、献金には「礼拝献金/席上献金」と「袋献金」の2種類があるのです。そして「礼拝献金/席上献金」は完全に匿名の献金であり、「袋献金」は教会会計が領収すると、奉げた個人に対して受け取り書が発行されます。会員に対しては袋に会計印が押されて返却され、非会員に対しては領収書を郵送しています。

勿論、何事にも例外はあり、匿名で「クリスマス献金」や「イースター献金」を奉げる人もあります。「袋献金」は基本的に会員の務めですが、非会員でも「クリスマス献金」や「イースター献金」、あるいは「特別献金」を奉げて下さることは少なくありません。

さて、「礼拝献金/席上献金」は、その日に礼拝に出席した者が、大人も子供も、会員も非会員も、信者も未信者も、一緒に奉げる献金です。そして、礼拝学では「献金こそは礼拝のクライマックスである」と言われています。なぜなら、「献金」とは「奉献」であり、「奉献」とは、神の召しと恵みに対して「これは私たちの献身のしるしです。清めてお受け取り下さい」と、自らを差し出して行く応答の儀式だからです。

3.匿名の献金

私が行人坂教会に赴任して、7年目が終わろうとしています。その間、ズッと気になっていることがありました。この機会に書き記します。「礼拝献金/席上献金」と「袋献金」とは全く異なる種類の献金であるということが、理解されていないように思うのです。

多くの教会では、受付台に南京錠付きの木製の箱が置いてあり、礼拝に出席する会員は、そこに予め「袋献金」を入れて行きます。勿論、礼拝のクライマックスである「奉献の祈り」の際には、献金当番が集約した「席上献金」と共に、聖餐台の前に運ばれて来て、それもまた「献身のしるし」として、神さまに奉げられるのです。本当に徹底して、献金の意義を明確にして行くためには、そのようにしたら良いかも知れません。ただ、行人坂には行人坂の伝統があり、会員の皆さんの意見も聞く必要があるでしょう。

ここで私が申し上げたいのは、1つだけです。「袋献金」を出しても、それによって「礼拝献金/席上献金」を奉げたことにはならないということです。「袋献金」は個人の献げ物ですが、「礼拝献金/席上献金」は会衆の献げ物です。

こんな不況の時代です。年金も減らされる一方で、誰もが経済的に疲弊しています。遠方から交通費を使って来ている人もいらっしゃいます。無理を言うつもりは毛頭ありません。「レプトン銅貨」で良いのです。「袋献金」とは別に、それを一緒に奉げて頂きたいのです。「礼拝献金/席上献金」は「匿名の献金」です。そこに名前はありません。誰に気兼ねする必要も、体裁や立場を考える必要もありません。名前の書いていない献金であっても、そこに込められた祈りを、イエスさまは見詰めて居られます。寡婦の祈りと「レプトン銅貨」36円を加えて、私たちの「献身のしるし」を確かなものとして参りましょう。

牧師 朝日研一朗

【2013年3月の月報より】

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2013年01月26日

幻の映像作家と京橋教会

1.京橋教会

私たちの行人坂教会は、2月第1主日をもって、創立110周年記念の年度に入ります。丁度、そんな折、牧師のもとに、ある問い合わせの電話がありました。それは、行人坂教会の前身である日本組合京橋基督教会時代についての事柄でした。お電話の主は、佐藤洋さんと仰る(高良健吾似の)青年で、現在、早稲田大学大学院文学研究科博士課程後期で、映画史を研究している方でした。

行人坂教会の初代牧師は、二宮邦次郎先生です。現在の牧師館の玄関にも「二宮邦次郎牧師記念牧師館」とプレートが貼ってある通りです。二宮牧師は同志社に学び、新島襄から洗礼を受け、郷里の備中高梁でキリスト教の伝道します。これが現在の高梁教会の基礎と成っています。更に瀬戸内海を渡って、今治、松山で伝道に活躍されました。松山教会と松山女学校(松山東雲学園)の設立にも寄与されています。その後、意を決して上京し、京橋教会の設立に尽力されたのです。

その京橋教会の草創期、二宮牧師を助けて、教会形成に協力なさったのが、松岡鎮枝姉です。鎮枝姉は、幼くして息子さんを亡くされたことを契機に、1903年、洗礼を受けて居られます。以後、ご自宅を開放して、木曜日の夜に聖書研究会を開催して居られたそうです。かの社会事業家、留岡幸助牧師(監獄制度の改革者、報徳主義者)とも幼馴染で、京橋教会が報徳銀行の土地建物を購入する場面でも、鎮枝姉が留岡牧師(当時、霊南坂教会)に相談しながら事を進めていたそうです。

その鎮枝姉の家庭で行なわれていた聖書研究会に出席していた人物の一人に、能勢克男という人物がいました。この能勢克男こそが、佐藤さんが研究している映画史のテーマなのだそうです。

2.能勢克男

能勢克男(1894−1979)は、同志社大学法学部の教授、弁護士という肩書きに留まらず、京都家庭消費者組合(現在の京都生活協同組合)の設立者、週刊誌『土曜日』の発行責任者を務めて、治安維持法で投獄までされている、戦前の日本を代表するリベラル知識人です。戦後は、夕刊京都新聞社(現在の京都新聞)を設立し、編集局長を務めています。更には、「松川事件」(米占領下で起こった奇怪な事件の1つ)では、弁護団に参加して、冤罪の容疑者を救うために活躍しています。

これだけでも凄い人なのですが、能勢は映画作家でもあったのです。琵琶湖から京都市内の疎水を辿る『疎水、流れに沿って』(1934年)、モガの最先端とされたバスガールの日常を追った『飛んでゐる處女』(1935年)、「土曜日」同人のピクニックを撮影した『土曜日の一周年』(1937年)等の、8ミリによるドキュメンタリー映画を撮っているのです。

1989年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で、『疎水』が上映されて、大反響を呼んで以来、「幻の映像作家」として再評価されているのです。上映会が行なわれたり、DVD『ファシズムと文化新聞「土曜日」の時代/1930年代能勢克男映像作品集』(六花出版)が発売されたりしています。

この能勢克男が松岡鎮枝姉の甥に当たるのだそうです。東京帝国大学に入学した1915年以後、松岡家の木曜日の会に出席していたらしいのです。出席者の中には、能勢の親友、田中耕太郎もいたのです。田中は、戦後の第1次吉田内閣の文部大臣、日本国憲法に署名した一人です。その後、最高裁長官を任じられ、「砂川事件」の判決では「統治行為論」という玉虫色の判決を下したことでも有名です。

佐藤洋さんは、能勢克男が松岡家の聖書研究会に大きな影響を受けたのではないかと推察されているのです。以下、佐藤さんのお便りです。「数年間の研究で、能勢克男の思想的原動力として、キリスト教の影響が生涯大きかったことは、実証されてまいりましたが、そのディティールを考えていくと、多感な学生時代に、京橋教会、木曜の集まりで受けた影響が、とても大きかったのではないかと、僕は考えています。」

3.苗床教会

「能勢さんの映画運動は、とても特異なものでした。自分で8ミリカメラをもって、仲間たちとつくったドキュメンタリー映画が、まず表現として、とてもすぐれています。そして、観客の集まり(消費組合)を京都映画クラブとしてつくりだします。京都映画クラブは、撮影所の見学会をしたり、入場料金の割引をしたり、合評会をしたりで、先駆的な観客団体でした。僕はずっと、どうして能勢さんは、こんなに特別ですばらしいことができたのだろうか?と考えてまいりました。」

佐藤さんから頂いたお便りを読みながら、私も学生時代に「京都映画サークル協議会」という団体に所属していて、岩波ホール系の映画や昔の埋もれた名作を観たことを思い出しました。そう言えば、会場になっていたのは、いつも「勤労会館」だったのですが、能勢の「京都映画クラブ」と何か繋がりがあるのでしょうか。

そんな個人的な思い出はともかく、創立110周年の記念年が幕開けしようとする時期に、京橋教会草創期についての問い合わせを受け、当時の「月報」「会報」「前進」「あけぼの」「二宮邦次郎先生の面影」等の文献を閲覧させて貰いたいという申し出のあったことに、不思議な御導きのようなものを感じないではいられませんでした。

早速、教会資料委員会に本件を依頼して、佐藤さんが資料を閲覧し、研究に協力して頂けるようお願いしました。京橋教会=行人坂教会は、キリスト教信仰の普及伝道のみならず、日本の思想史・文化史にも大きく貢献した点が実証されるとしたら素晴らしいことです。

牧師 朝日研一朗

【2013年2月の月報より】

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2013年01月01日

教会の天使に告ぐ

1.故木村知己牧師

行人坂教会は、2013年2月8日に、創立110周年記念日を迎えようとしています。それを受けて、2月第1主日には「創立110周年記念礼拝」を執り行ないます。京都から木村良己牧師(同志社中学校・高等学校校長)をお迎えして、礼拝の講壇を担当して頂きます。そう成るまでの経緯をお話します。

当初、当教会の7代目牧師を務められた、木村知己先生(1957〜81年在任)をお迎えする予定でした。しかしながら、木村先生は、2012年1月に胃癌が発見され、余命宣告まで受けられました。それでも、治験薬の効果でしょうか、半年後には小康を得られ、浅墓な私は「この分なら、意外に長らえて、創立記念礼拝に来て頂けるかも…」等と、身勝手な期待に胸を膨らませていたのでした。

実は、木村先生自身も、かなり末期まで、再び行人坂教会の講壇に立って、「御言葉の役者」(「えきしゃ」と読みます)を務めたい、それをもって御自身の牧師人生の総括としたい、あるいは、行人坂教会と和解をした上で恩讐の彼方へと旅立ちたいと、心底、願っておられたのでした。先生のことですから、無論、その思いは単なる感傷ではなく、御自身の神学に裏付けされたものであったはずです。

木村先生に成り代わって説明する神学を、私は持ち合わせていません。けれども、お気持ちだけは痛い程に分かりましたので、「何とかして、木村先生を行人坂教会の講壇にお迎えすることが出来ますように」と祈り続けていました。それは、和解と許し合い、過去の自己受容こそが、行人坂教会にとっても必要な事柄であると思われたからです。

2.教会の運命分析

昔、拾い読みした心理学の本(荻野恒一著『現象学と精神科学』)の中に、ハンガリーの精神分析学者、レオポルド・ゾンディという人の話が紹介されていました。ゾンディは、幾つかの家系を調査した結果、数代前の先祖と同じような運命を辿る子孫がいることを発見し、それを「先祖無意識」と命名しました。そこから、ゾンディは「運命分析」とか「家霊分析」等というトンデモ研究を始めます。

ゾンディの刺激的な研究は未完成な上に、現在では、破壊的なカルト宗教団体(統一協会)や怪しげなオカルト団体も、自分たちに都合よく引用して悪用していますので、十分に注意が必要です。しかし、昔ならば「因果」等と言って表現されたものが、人間の深層心理に関わるものとして分析される、その手法自体は科学的なのです。彼の師匠であるジクムント・フロイトが、「個人」の深層心理を研究したことを、ゾンディは「家系」レベルに置き換えたということです。

さて、私が話題にしているのは、この行人坂教会のことです。時代と共に、教会の置かれた状況は異なり、教会形成の担い手も違っていますが、教会にも「家霊」のようなものがあるのではなかろうかと思うのです。「ヨハネの黙示録」の著者、パトモスのヨハネならば、差し詰め「行人坂にある教会の天使」という表現をするかも知れません。その教会の歩みにおいて、何度も繰り返されるパターンです。行人坂教会について言えば、教会も牧師も双方共に傷付いて、別れて行くパターンです。

この数十年に限っても、このパターンは、木村知己牧師のみならず、伊藤義清牧師(1982〜95年在任)、小川義雄牧師(1996〜2005年在任)と繰り返されています。勿論、傷付いて去って行くのは、牧師とその家族だけではありません。教会形成の主力と成って労していた信徒たちも離れて行きます。教会のトラブルに疲れ果て、「転出」したり、「別帳」と成ったりするのです。更には、その都度、教会は「無牧師」と成り、多くの会員は心細い思いで過ごさなくてはなりません。

第3代目の牧師、吉田隆吉先生(1937〜42年在任)は突然の辞任を表明し、多くの会員の必死の慰留にも拘わらず、京都教会へ転任してしまいました。生前、木村先生は「それが行人坂のトラウマに成っているのかも知れない」と話しておられました。その後は、定家都志男牧師が3年、三井久牧師も3年、塚原要牧師が4年という短い在任期間で辞任されています。定家牧師時代は、戦争末期から敗戦にかけての一番困難な時代でしたから、何とも言えませんが、三井牧師、塚原牧師は、到底、戦後の「キリスト教ブーム」「伝道の黄金時代」とは思われぬような、余りにも短すぎるサイクルです。

3.呪いを祝福へと

「行人坂教会には京橋教会時代から延べ16年間おつとめしたが、随分苦労が多かった。牧師としての職務はいいが、教会から月給を貰って働くのは実にいやだと思うことが多かった。会員にはいろいろな人種がいて、牧師を雇っている積りで、実に失敬なごう慢な人間もあったことを思い出し、今も腹が立ってならぬことがある。」

第2代目の牧師、高橋皐三先生(1920〜36年在任)による『思い出の記/子供たちに話した父の一生』(キリスト新聞社)からの一節です。行人坂教会の前身である京橋教会の会堂は、1923年9月1日の関東大震災で焼失します。その後、目黒に会堂建築を果たすまでの2年余を、数軒の会員宅を会場にして礼拝を守られたのです。この最も困難な時代を牧会されて、信徒と苦楽を共に分かち合われたであろう高橋牧師にして、このような文章を書き残しておられるのです。

そう言えば、行人坂教会の創立110周年は、関東大震災による会堂焼失から数えて、90年の節目の年でもあるのです。負のスパイラルを断ち切ると言うか、イエスさまが仰ったように「呪い」を「祝福」と変えて、「神の業が現われる」ようにしなくてはなりません。

牧師 朝日研一朗

【2013年1月の月報より】

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2012年12月01日

本当のクリスマス

1.乏しいクリスマス

私は今、ある年のクリスマスを思い出しています。私が洗礼を受けた母教会は、上賀茂伝道所(現・京都上賀茂教会)と言います。日曜日に深田未来生・ローラ御夫妻のお宅を開放して頂き、礼拝を行なっていました。お二人はUMC(United Methodist Church)の派遣した宣教師でもあって、その住居もUMCの所有でした。

その当時、ローラさんは京都YWCAのリーダーとして活躍されていて、経済格差の問題や飢餓の問題、女性を取り巻く問題、在日外国人の人権問題、環境問題などに携わっておられました。ある年のアドベント、彼女が「『乏しいクリスマス』を行なってはどうか」という提案を為さったのでした。どの教会でも(これは教会に限ったことではありませんが)、クリスマスと言えば、御馳走を用意してお祭り騒ぎです。時には、敢えて、慎ましい糧を分かち合う「乏しいクリスマス」の愛餐を行なって、貧困に悩む地域や人々を覚えてはどうか…。そのような話でした。

彼女の提案を受けて、実際に私たちは(本音は渋々ながら)「乏しいクリスマス」を開催したのでした。例年、イヴの夕礼拝後の愛餐に集まる豪勢な持ち寄りを「今年はやりません」とお断りした上で、教友に御案内申し上げました。すると、参加者が通常の日曜礼拝並みに少なく、閑散として寂しい限りでした。

こうして、結局「乏しいクリスマス」は1年限りのことと成ったのですが、それが今、私には、忘れ難いクリスマスとして思い出されるのです。あの時は「ええ、どうして、わざわざ御馳走のチャンスを潰すのさ」と反発していたのですが、今は「あの実験をもっと積極的に応援するべきだったのではないか」と後悔しているのです。

2.陳腐なクリスマス

当時、1980年代の前半で、未だ「バブル期」には入っていませんでした。しかし、もう数年を経過すれば、バブルは絶頂期に達し、山下達郎の大ヒット曲『クリスマス・イブ』に代表されるような、若者たちのクリスマスイメージ(クリスマスイヴは恋人と過ごす)が支配的に成ります。

あの時代、日本社会において、クリスマスのイメージは確実にリッチでお洒落な方向に向かっていました。いいえ、戦後社会が一貫して目指して来たものが遂に現出しつつあったのです。クリスマスイヴに、プレッピー(金持ちのボンボンの私立大学生)が恋人を誘って、予約したレストランに連れて行って、アクセサリーかプラチナの指輪か何かをプレゼントする…。このように書くと、如何にも陳腐に思われますが、今も街中に、美しいクリスマスのイルミネーションとして、それと同質の陳腐さが溢れています。

恐らく、私たち日本人が、キリスト教に含まれる数多の要素の中で、クリスマスに飛び付いたのは、そもそもが異教起源の祭りだからでしょう。言うまでも無く、クリスマスは、ミトラ教やドルイド教、北欧のユール祭、ローマの冬至祭、ゲルマンのオーディンの収穫感謝祭、ドナールの聖木祭などのハイブリッド(雑種)です。

異教的な要素が濃いから、クリスマスはダメだとは、私は思いません。そもそも「イエスの降誕」の記事からして、「東方の三博士」の登場によって、イエスさまが「異教徒の救い主」「異邦人の救い主」であることが言われているからです。「異邦人が…大きな光を見る」(マタイによる福音書4章15〜16節)ことこそ、福音の醍醐味です。クリスマスの夜に、正統的なユダヤ教徒の枠外にいる人たち(ベドウィンと異教徒の学者)が飼い葉桶に集められたのです。その意味では、現在のクリスマスも同じです。教会という狭い枠を超えた祭りなのです。従って、クリスマスを非キリスト教徒がお祝いしてくれることに対して、私は、神さまの深い御経綸を見る思いです。

そうは言っても、クリスマスが余りにもコマーシャルベースに(商業路線で)流されることに対しては、陳腐な印象を受けてしまいます。世間を批判して済む問題ではありません。キリスト教会の中にも、この時とばかりに華美に走る傾向があります。表参道にも見劣りしないイルミネーション、横浜港に負けないクリスマスツリーを…と、考えてはイケナイのです。何も「ヘロデの宮殿」に対抗する必要はありません。

3.教会のクリスマス

「乏しいクリスマス」を企画した時、ローラさんから、わざわざ、クリスマスに断食を行なうキリスト教のグループもあることを聞きました。確かに、そういう迎え方もあるのでしょう。「3.11」後の日本社会において、そのような信仰告白、神へのアプローチの仕方も必要かも知れません。けれども、クリスマスを楽しみにしている子どもを見ていると、無理強いは出来ません。そこまで追求すると偏屈に成ってしまいそうな気もします。むしろ、身の丈に合ったクリスマスをしましょう。

そこそこに質素に、明るく楽しい中にも、慎ましさを表現していきたいと思うのです。世間が華美に走るならば、そんなものと競合しないで、こちらは控え目なクリスマスを作ったら良いのです。それが教会らしいクリスマスでは無いでしょうか。もっと派手なクリスマスは、他に幾らでもあります。それを知っていて尚、キリスト教会のイヴ礼拝に来てくれる人がいます。多分、求めておられるのは「本当のクリスマス」です。

「本当のクリスマス」とは、キリスト信者が粛々と行なっている礼拝のことに他なりません。大きな仕掛けは要らないのです。近所の人たちも未信者の人たちも、イヴの夜には、キリスト信者に混ぜて貰って、ほんのちょっとだけ、神さまにお祈りしてみたいのです。それだけなのです。それで十分なのです。有り難い、感謝すべき話ではありませんか。

牧師 朝日研一朗

【2012年12月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 16:03 | ┣会報巻頭言など

2012年10月29日

ここかしこを歩く者

1.竹田城

自分の生まれ故郷が映画のロケ地になるのは、嬉しいような恥ずかしいような複雑な気分です。私の実家(兵庫県朝来市)の近くにある竹田城址は、近年「日本のマチュピチュ」とか「天空の城」とかいう変なキャッチコピーのせいで、急激に、訪れる客が増えているそうです。その上、高倉健主演の映画『あなたへ』の中で、田中裕子が歌を披露する回想場面のロケ地に使われてしまいました。

私が子供の頃は、小学校の遠足の定番目的地でしたし、自転車に乗って遊びに行くこともありました。私の同級生などは、城址で遊んでいた時に、偶然、戦国時代の日本刀を発見して、地元の教育委員会から表彰されました。つまり、当時は、人っ子一人居らず、戦国時代からのままの状態で荒れ果てていたのです。

単なる廃墟に過ぎなかった城址を、観光に利用する契機に成ったのは、1990年の角川映画『天と地と』でした。石垣の上にオープンセットを建てたのです。勿論、撮影終了と共にオープンセットは取り壊されて、元通りの城址です。その何年か後、九州から遊びに来た親友を連れて1回、結婚前の妻を連れて1回、遊びに行っていますが、山城へ向かう道路が拡張整備された程度で、変化はありませんでした。

小学校時代、変人だった私は、わざわざ荒れ模様の日を選んで、天守閣跡に登り、ムーミン谷のような村々を見下ろしながら、『嵐が丘』のヒースクリフを気取って「吹けよ風、呼べよ嵐」と絶叫していたものです。そんな私としては、どうか、昔のまま、荒涼としたままの雰囲気でありますようにと祈るばかりです。

2.アド街

そう言えば、私が行人坂教会に赴任した数年前、「目黒はラーメン激戦区」ということで、盛んに権之助坂に軒を連ねるラーメン屋が取材されていました。東京に来たばかりの、田舎者の私にとっては、自分の暮らしている近所の風景がテレビの中に映し出されるのは、驚異以外の何ものでもありませんでした。

ある日曜日の午後、何気なくテレビを見ていたら、落語家のヨネスケが権之助坂の某ラーメン店に入って、麺を啜っている場面がライヴで放映されていました。当時、小学校3年生くらいだった長男が「見て来る!」と叫ぶや、息急き切って、権之助坂に走って行ったことが思い出されます。彼は帰って来るなり「本当に、ヨネスケがいた!」と興奮気味に報告してくれました。余談ですが、この類いのレポート番組では「まずい」とは言えないので、美味しくなかった場合、ヨネスケは神妙な顔つきで「中々…」と言うのだそうです。

9月半ばだったでしょうか、目黒の「さんま祭り」に当て込んで、テレビ東京の『出没!アド街ック天国』が「目黒大鳥神社」という特集を組んでいました。1週間前の予告編を見た時から、私は期待に胸を脹らませて、自分なりに「ベスト30」を予想していました。ところが、実際に番組を見ると、かなり予想は裏切られました。エリア設定が間違っていたのです。私としては、元競馬場ブロンズ周辺から権之助坂界隈までの範囲を想定していたのですが、番組の設定エリアは目黒川で切られていたのです。

「大鳥神社」「目黒不動尊」「五百羅漢寺」「目黒寄生虫館」といった寺社仏閣と名所は予想通りでしたが、私の好きな「蛸薬師成就院」や「甘藷先生の墓/青木昆陽碑」は除外されていました。お店も、私の予想通りだったのは、たこ焼きの「頑固蛸」、洋菓子の「OGGI」、和菓子の「玉川屋」、蕎麦屋の「川せみ」、喫茶の「CHUM APARTMENT」の、僅か5軒に過ぎませんでした。私の御用達「大久保だんご」は、ランク外で採り上げられていました。因みに、私は豆大福、妻はおはぎ、長男はみたらし、二男は磯部焼きと決まっています。この店は長男の(下目黒小時代の)同級生のお母さんが看板娘です。もう1軒ランク外で採り上げられていた「gentile」というパン屋(堀井印刷の隣)は、二男の(中目黒幼稚園時代の)同級生の両親が経営しています。

ランクインしたお店で言えば、「八ッ目や/にしむら」「味一」「ながみね」は、残念ながら今一歩、思索が及びませんでした。イタリア料理の「Antica Trattoria Nostalgica」も、長男か二男だかの同級生の親がやっている店でしたが、高級志向が強く、私には無縁なため、思いも寄りませんでした。第1位の「大鳥神社」は、長男の友人のお宅ですが、神主の息子のアキノリ君は「うちには取材撮影の挨拶には来なかったよ」とボヤいていたそうです。内容も「さんま祭り」の宣伝が中心で、地元民としては何か物足りない感じがしました。

3.商売人

旧約聖書で「商人」と訳されているヘブル語「ソヘール」は動詞「サハル」の分詞です。「ここかしこを歩く者」という意味です。もう1つの「商人/ロケール」も「ロカル/行き巡る」から来ています。アブラハムの時代から王国時代までは、「商人」とは、都と地方とを行き来する行商人のことだったのです。新約聖書で「商人」と訳されるギリシア語「エムポロス」も「ポロス/旅行」から来ています。歩き回るのが商人の仕事だったのです。

今は、お店を求めて巡り歩くのはお客の方です。昔ながらの雑誌やテレビの紹介のみならず、グルメナビのようなネット系のランキング情報まであって、その方面の対策にも心を向けなくてならず、商売も大変な時代です。情報に振り回されて、客が行列を作ったかとも思えば、潮が引くように客足が遠のき、閑古鳥が鳴くという状況もあるそうです。

私たちは現在、溢れ返る程の情報に心を乱されて暮らしています。しかし、情報が一杯あること、便利なことが幸せではありません。それが幸せと何の関係もないことは言うまでもありません。時には、情報面での「断捨離」が必要なのかも知れません。

牧師 朝日研一朗

【2012年11月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 08:40 | ┣会報巻頭言など

2012年10月23日

天の万象を見よ

宮崎港から大阪南港に向かうフェリーに乗りました。お盆のUターンラッシュの最中でしたから、「三等客室」が取れただけでも、大変にラッキーだったと言うべきでしょう。日本のフェリーに「三等」があるか…ですって。「特等個室」「一等個室」「二等寝台」の下位なのですから、明確に「三等」と呼ぶべきなのですが、フェリー会社は「二等客室」と言って譲りません。どうせ、鮨詰め状態の雑魚寝です。消灯時間の始まる何時間も前から、薄っぺらなマットレスの上に体を横たえ、アイマスク代わりのタオルを顔に被せて、寝る態勢を固めていました。

すると、甲板に出ていた長男が慌てて戻って来て、「お父さん、凄く星が綺麗だよ。一緒に見ようよ」と言いました。洋上から見る星空の、何と美しいことでしょう。甲板に上がるや忽ち、「夏の大三角形」(琴座のベガ、鷲座のアルタイル、白鳥座のデネブ)が目に飛び込んで来ました。全く探す必要がないのです。これなら、織姫と彦星も互いの姿を見失うことがなく、幸せです。

更に感動したのが「銀河」です。織姫と彦星とを隔てる「天の川」と言っても良いでしょう。ガス状の星間物質、宇宙の塵が光の帯のように広がっているのです。これを古代ギリシア人は「ガラクシアス」と呼びました。「ミルク」という意味です。英語の「ギャラクシー」と「ミルキー・ウェイ」の両方の語源です。

「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。…」 夜空を見上げていると、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の「午后の授業」、先生の質問が聞こえて来るようでした。「ほんとうは何か」、私には分かっていません。

「…その星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油の球にもあたるのです。そんなら何がその川の水にあたるのかと云いますと、それは真空という光をある速さで伝えるもので、太陽や地球もやっぱりそのなかに浮かんでいるのです。つまりは私どもも天の川の水のなかに棲んでいるわけです。…」

「私どもも天の川の水のなかに棲んでいる」という公案のような、奇妙な言葉を思い出しました。それと共に、改めて思い知らされたのは、私たちの暮らす都市からは、夜の闇が失われてしまい、その結果「天の川」を見ることも出来ないという事実です。これは逆説的に聞こえるかも知れませんが、私たちの暮らしが「足が地に付かない」ものだという、何よりの証拠です。地上のネオンが天上の光を隠してしまったことで、私たちは、自らが生かされている場も見失ってしまっているように思います。

「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したか見よ」(イザヤ書四〇章二六節)。目を高く上げることで、却って、しっかりと地に足を付けて歩むことが出来るのです。

【会報「行人坂」No.245 2012年10月21日発行より】

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2012年10月01日

秋の夜に、蚊を見る

1.哀れ蚊

就寝前の小用を足していたら、何かが視界の端を霞めましたので、無意識に両手でパチンと叩きました。すると、小さな蚊が墜落して行くのが見えました。ほんの1週間程前まで、こちらが必死に叩き潰そうとしても、私の裏をかくかのように、したたかに立ち回っていたのですが、もはや、そんな活力はありませんでした。

白黒の縞模様の憎らしい藪蚊ではありません。潰すと赤い鮮血を掌に残す忌々しい吸血虫ではありません。もう弱り果てているのです。腰を下ろして、床の上に墜落した蚊を、よくよく見れば、未だヒクヒクと動いているではありませんか。生きているのに、死ぬのを待つばかりなのです。

幼い日に耳にした「哀れ蚊(あわれが)や」と、母親の囁く声が頭の中に甦って来ました。「秋になったのに、辛うじて生きている、でも、もう産卵を終えて、死ぬのを待つばかりの蚊を、哀れ蚊と言うんや」。

産卵を終えたのですから、メスの蚊に違いありません。しかも、オスの蚊などは、卵を産み付けるや、直ちに死んで行く運命ですから、母の言う「哀れ蚊」がオスであろうはずはありません。しかし、どう仕様もなく、私には「哀れ蚊」がオスに思われてしまうのです。それは、愚かな自己憐憫の反映に過ぎないのでしょうか。

2.垂れ絹

そう言えば、弱々しい声の例えに「蚊の鳴くような声」と言い、か細い脚の例えに「蚊の臑」と言います。「蚊の涙」は「雀の涙」の更にミクロ版です。敵の攻撃に何の痛手も受けていないと威張る時には、「蚊の食う程にも堪えぬわ」等と言います。漢字で「蚊脚」は「細い字」の例え、「蚊軍」は「敵の軍勢」を貶める物言いのようです。

因みに、英語の「モスキート」はスペイン語から来ているそうです。子供の頃に見た『モスキート爆撃隊』(Mosquito Squadron)という戦争映画がありました。ナチスのV3ロケットの開発基地を攻撃する英国空軍「モスキート隊」の話ですが、低空高速爆撃機がベニヤ板で出来ていたのが忘れられません。偶然、エイリアンの血を吸った蚊が体長2メートルに巨大化する『モスキート』(Mosquito)というB級怪獣映画もありました。

聖書には「蚊」は出て来ません。但し、旧約聖書続編「ユディト記」13章に、傑女ユディトが、アッシリア帝国の将軍、ホロフェルネスの寝首を斬り落とす場面に「蚊帳」が登場します。酔い痴れて眠りに就いたホロフェルネスの寝台に行き、彼女は「力いっぱい、二度、首に切り付けた。すると、頭は体から切り離された。ユディトは体の方を寝台から転がし、天蓋の垂れ絹を柱から取り外した」と書いてあります。この「寝台の垂れ絹」と訳されているのが「蚊帳」ではないかと言われています。

残念ながら、この後の将軍の首に対する扱い方が、如何にも粗忽と言わざるを得ません。「猶予せずに外へ出て、侍女にホロフェルネスの首を手渡すと、侍女はそれを食糧を入れる袋に放り込んだ。そして、二人は、いつもの通り祈りに行くかのようにして出て行った」。どうか、願わくば、グスタフ・クリムト描きし『ユディト』のように、ホロフェルネスの生首を腰に纏わり付かせて、艶然と微笑んで欲しかった。しかし、実際の聖書の描写は、今風に言えば「スーパーのレジ袋に入れて、生ゴミ回収の日に集積所にポイ!」です。何と即物的なことでしょう。これでは、まるで、桐野夏生の小説『OUT/妻たちの犯罪』と同じです。

3.蚋と蚊

限りなく「蚊」に近いのが「出エジプト記」8章の「蚋の災い」です。エジプトに下された「十大災厄」の3番目です。日本語聖書には「ぶよ」と書いてありますが、日本の学術語では「ぶゆ」が正式だそうです。英米の註解書では「Prosimulium yeroense」と同定されていて、和名に直せば「きあしおおぶゆ」と言います。しかし、取り敢えず「蚋」と訳されてはいるものの、ヘブル語の「ケーン」が「蚋」と確定した訳ではありません。「蚊」も「蚋」も含めた害虫なのでしょう。

「蚋」と言えば、新約聖書にも出て来ます。「マタイによる福音書」23章24節、律法学者とファリサイ派の人々の偽善を非難して、イエスさまはアジって居られます。「あなたたちは蚋1匹さえも漉して除くが、駱駝は飲み込んでいる」。

蚋は人や家畜に付くだけではなく、飲み物の中にも落ちるので、ワイン等を漉して飲む必要があったようです。偽善者は「蚋1匹は漉している」、つまり、儀式上の些細な事柄には拘っているのに、「駱駝は飲み込んでいる」、つまり、最も大事にしなければならない教えを捨て置いているということです。

古代ユダヤにも「昆虫食」はあって、「レビ記」11章には「蝗の類は食べて良い」と明記してあります。しかし、それ以外の「羽があり、4本の足で動き、群れを成す昆虫は全て汚らわしい物である」そうです。昆虫は「6本足」なのに「4本の足で動く」とは何のことなのか見当もつきませんが、ともかく、食用可の昆虫は「バッタ、蝗の類」だけで、それ以外の昆虫は全て「汚らわしい物」だったのです。

きっと、律法に忠実な人たちは、そんな「汚らわしい物」が誤って喉を通らないように、細心の注意を払い、慎重にワインやミルクを漉していたのでしょう。勿論、私たちだって、飲み物に蝿や虻、蚊や蚋が入れば、衛生上、取り除いて飲むか、捨てる等します。

忘れられがちですが、駱駝もまた、食べてはいけない動物でした。「蹄が分かれただけの生き物は食べてはならない。駱駝は反芻するが、蹄が分かれていないから、汚れた物である」(レビ記11章4節)。駱駝に対する食物禁忌があることが前提に成っているのです。

牧師 朝日研一朗 朝日 です。

【2012年10月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 10:55 | ┣会報巻頭言など

2012年08月26日

ある少年の夏

1.川平メソッド

夏休みを利用して、二男が「鹿児島大学医学部附属霧島リハビリテーションセンター」に入院する運びとなりました。8月2日から9月2日までの丁度1ヶ月間です。川平和美ドクターの居られる病院です。

「NHKスペシャル」で紹介され、『あさイチ』でも採り上げられ、脳卒中後遺症の麻痺のリハビリ法が全国的に知られるようになりました。「川平メソッド」は正式には「促通反復療法」と言われます。タッピングにより筋肉に刺激を与えて、麻痺した腕や脚の反復運動を行なうのです。そうすることで、ダメージを受けた経路を迂回して、新たな神経回路を患者が自律的に獲得して行くのです。その方向付けが「促通反復療法」です。

これまで、川平ドクターの著書は専門書籍に限られていましたが、ごく最近、『やさしい図解「川平法」/決定版!家庭でできる脳卒中片マヒのリハビリ』(小学館)という一般向けの本が出版されて、大いに評判に成っているようです。

実は、二男が小児脳梗塞を発症し、両手両足の麻痺、発話困難が明らかになった3年前から、絶望の淵にあった私たちを、何とかして「霧島」の川平ドクターと繋ごうと必死に働きかけを続けて下さった方があったのです。友人の作家、NKさんです。彼女自身、息子さんが幼少時に脳炎脳症に罹り、川平ドクターのお世話になっていたのです。

しかし、発症直後の夏は急性期病院にありました。2年目の夏は「初台リハビリテーション病院」が特別入院プログラムを提供して下さり、退院後の生活に憔悴していた私たちは矢も盾もなく飛び付いたのでした。3年目の夏には、家族旅行を優先してしまいました。こうして、4回目の夏を迎えて、私たち家族にも、漸くNKさんのお誘いに応じられる余裕が生まれたのです。このように時が巡って来るのを辛抱強く待ちながら、彼女は川平ドクターのお連れ合い、Mさんと連絡を取り続けて下さっていたのです。

2.霧島ドライヴ

霧島へのドライヴも大変でした。「霧島の別荘を使って頂戴!」というNKさんのお言葉に甘えて、自家用車で出発したのですが、名古屋を越えた辺りで、予約していたフェリー(大阪南港から宮崎港に向かう)が「台風のため欠航」と成ったことが判明しました。台風は接近中というだけなのですが、その影響で外海は高波なのです。

仕方なく高速を走り続けて、広島に1泊、翌日の午前中に九州に渡り、霧島に入った頃には夕方でした。最初は「東京−神奈川−静岡−愛知−三重−滋賀−京都−大阪−兵庫−岡山−広島−山口−福岡−佐賀−熊本−宮崎−鹿児島」と、地理の勉強がてら、子どもたちと通過した都府県名を唱えていたのですが、もう1つ別の台風が接近して来て、土砂降りの雨と強風とが断続的に襲って来るではありませんか。

穏やかな天候の時でも、高速のパーキングエリアで休憩する度に、車椅子の二男を降ろしてトイレに連れて行くのは骨が折れました。とりわけ、迫り来る山中の夕闇、豪雨と強風の只中、私たちばかりか、NKさんのご家族も総出で、二男を別荘の中に収容する時などは、一種の修羅場と化していました。

けれども、ズッと後になって、旅行中も入院後も変わらず、二男が健康な状態にあったことに気付きました。「こんな大旅行を出来るくらいに、体力がついて、元気になったのだ…」と、しみじみと夫婦で話し合ったものです。

センターに行ってみて、二男と同じように、夏休みを利用して「霧島」に入院するためにやって来ている子どもが大勢いることを知りました。鹿児島市内から来ているAちゃんは、中学1年生の愛らしい女の子。脳梗塞を発症して車椅子です。二男と同室になったDくんは中学3年生。滋賀の彦根市から来ています。彼は杖で歩行が出来ますが、片方の手にも麻痺があるようです。鹿児島市内から来た三つ子ちゃんは小学校3年生です。3人共に半身麻痺があります。更に、可愛い4歳の女の子がいて、傍目には全く麻痺があるようには見えません。でも、何かの麻痺があるから来ているのでしょう。

3.美しい夏の日

先に東京に戻らなくてはならず、私と長男が霧島に滞在したのは2週間足らずでしたが、晴れ渡る日は少なく、その名前の通り、俄かに霧雨が降って来ることが多かったように思います。その合間に、南九州独特の陽光がギラギラする世界でした。別荘のある山からは錦江湾が一望できるのですが、靄に包まれて桜島は見えません。それでも、その幻視画のような風景に、長男は感心すること頻りでした。

因みに、「霧島」と言われる地域は、鹿児島県と宮崎県とに跨っています。それで思い出されたのが、宮崎県出身の映画監督、黒木和雄が撮った『美しい夏キリシマ』(2002年)でした。宮崎県側の霧島に疎開した自身の少年時代を綴った作品です。『TOMORROW/明日』(1988年)、『父と暮らせば』(2004年)と合わせて、黒木監督の「戦争レクイエム三部作」と呼ばれています。その『美しい夏キリシマ』の英語版の題名は「A Boy’s Summer in 1945」だったことを思い出したのです。

どんな男の子にも「少年の夏」があります。山野を駆け巡って、虫採りや山歩きに興じたり、海辺に行って、釣りや素潜りを満喫する。それこそ典型的なイメージですが、それだけが「少年の夏」ではありません。ステレオタイプに囚われると、リハビリに精を出す二男の姿が可哀想にも思われます。しかし、妻からの電話では、今日は、前述のAちゃん、後から入院した女子高生のお姉さんとトランプをするとか…。きっと、彼自身の「少年の夏」も今、それなりに輝いているはずです。

牧師 朝日研一朗

【2012年9月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 11:17 | ┣会報巻頭言など