2012年02月24日

われらの時代のイコン

パソコンの画面(ディスプレイ)脇に並ぶ小図像を「アイコン」と言います。この「アイコン」という語は、東方正教会で大切にされている板絵の聖画像「イコン」から来ているそうです。最初に「アイコン」と命名したのは「マック」(アップル社)だそうで、それを「ウィンドウズ」(マイクロソフト社)も踏襲しているということです。

そもそも「イコン」は、ギリシア語の「エイコーン」(「面像」という意味)から来ています。「エイコーン」をラテン語にすると「イマゴ」、英語の「イメージ」の語源です。例えば「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です」(コロサイの信徒への手紙1章15節)という聖句の中にある「神の姿」は、ラテン語で言えば「イマゴ・デイ」です。「神の画像」と訳しても良いでしょう。

東方正教会の伝説では、最初にイコンを描いたのは「福音書記者の聖ルカ」とされています。ル力が「聖母子像」を描いたのだそうです。但し、現存するイコンの殆どは、10世紀以後に、ロシア・バルカン地方で作られたものです。

東方正教会の信徒にとって、イコンは「天国に通じる窓」とされています。以下、高橋保行司祭の著作、『イコンのこころ』『イコンのあゆみ』『イコンのかたち』(春秋社)から得た知識です。高橋司祭は神田の「ニコライ堂」、東京復活大聖堂教会に奉職なさった人物です。イコンは「聖堂」の中にだけあるものでは無くて、曰本の仏壇や神棚のように、各人の家庭に安置されて、それを前にして祈るのです。また、信徒にとって、それは、神の御心を解き明かす「聖書」でもあるのだそうです。

私自身は、15世紀ロシアのイコン画家、アンドレイ・ルブリョーフに興味があります。しかし、厳密に言えば、彼の「作品」等というものは存在しません。有名な『至聖三者』(聖三位一体)は、ルブリョーフの代表作とされていますが、美術的にも、ただ「ルブリョーフ派」と表記されるに留まっています。それは、イコンというものが作家の個性を発揮する媒体ではなく、礼拝すべきものとされていたからです。同じ時代に、西方のカトリック教会では、ルネサンスの華が開き、ダヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ等が互いに腕を競い合って、自分の「作品」を発表していました。如何にも対照的です。

イコンには「贋作」は存在しません。芸術作品として価値が高まったり、売買される物では無いからです。主題も決められていて、既に画風が確立しているので、それを模倣して描いても構いません。それをもって礼拝に奉仕することが出来さえすれば、それは立派なイコンなのです。

別に「聖画」を教会に飾ろうとは思いません。プロテスタント教会の伝統の中には、イコンも存在しません。しかし、もしも「天国に通じる窓」が、私たちの暮らしの至る所に、開かれていたら、素晴らしいと思うのです。私たちにとっての「イコン」は何でしょうか。

【会報「行人坂」No.244 2012年2月19日発行より】

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2011年10月24日

スズメのいのち

今年の六月頃だったでしょうか、二男が、下校の際、近所で飛べなくなっている子スズメを発見しました。二男にせがまれるまま、家に連れて帰って来てしまいました。巣立ちしたばかりの子スズメでした。生まれつきなのか、それとも、巣から出て怪我をしたのか、片方の羽根が傷付いて、広がらなくなっていました。しかも、足も折れているようで、スズメ特有のホッピングが出来ません。

人間が野生のスズメを飼うことは、大変に難しいことであると承知していましたので、子どもには「二、三日で死ぬだろう。何も期待するな」と宣告していました。それでも、家族で話し合って、取り敢えず名前を付けることにしました。最初は、私の提案で「ジャック」としました。言うまでもなく、映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』で、ジョニー・デップ演じる海賊「ジャック・スパロー/スズメのジャック」からの借用です。ところが、二男の再提案によって「ジャッピー」と改名されました。

段ボール箱の中にボロ切れを敷いて「巣」を作ったのですが、問題は飲食です。それでも、水は何とかなりました。小さなコップに水を入れて、頭を突っ込むと、ジャッピーは嘴をパクパク開けていました。幸い教会の中庭からは、活きの良いミミズが幾らでも取れます。食糧の確保は簡単なのですが、本人が少しも食べてくれないのです。

丁度その頃、クレア・キップスの『ある小さなスズメの記録』(文藝春秋社)を読み終えたばかりでしたので、訳者の梨木香歩さんに電話をして相談しました。彼女は、我が家のジャッピーが、キップスの飼っていたスズメ「クラレンス」と全く同じ境遇であることを知って、大いに驚いていました。

「強制給餌しかないわねぇ」というのが結論でした。片手で嘴を強制的に押し開いて、ピンセットか爪楊枝を使って、ミミズの切れ端(刺し身)を□の中に挿入するのです。「最初は抵抗すると思うけども、この人たちはぼくに悪い事をしようとしているのでないんだと、必ず分かって貰えるはず」と言っていました。

ところが、私は愚かにも、彼女の有り難い助言に素直に従うことが出来ませんでした。ジャッピーは片羽根と足以外は元気なのですから、新鮮なミミズを「巣」の中に入れてさえ置けば、自分で食べると判断してしまったのです。今思えば、何としても彼の命を長らえさせようという、必死の思いが足りなかったのかも知れません。

三日目の朝、段ボールの「巣」の中で、冷たくなっているジャッピーを発見しました。「食べたはず」と私が思い込んでいた餌のミミズは、段ボールの隙間から干物に成って見つかりました。そこで初めて、彼が何も食べていなくて餓死したことを知って愕然としたのです。命の問題においては、時に「強制」が必要な事態があるのです。

スズメは、聖書の神さまが大好きな小鳥です。大変に申し訳ないことをしました。

【会報「行人坂」No.243 2011年10月23日発行より】

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2011年03月31日

あなたの富のあるところ

2010年12月25日、クリスマスの朝、群馬県児童相談所の玄関に10個のランドセルがプレゼントとして置かれているのを、職員が発見しました。贈り主は、30年前のマンガ『タイガーマスク』の主人公「伊達直人」を名乗っていました。その報道が話題になるや、摸倣が瞬く間に広がり、全国の児童養護施設に、様々なプレゼントが置かれるようになりました。今や「タイガーマスク運動」と呼ばれています。

「伊達直人」という名乗りの仕方が、多くの人々の胸の奥にヒットしたのだと思います。『肝っ王かあさん』の京塚昌子も登場しましたが、プレゼントの届け主の名前には、圧倒的にマンガやアニメの主人公が多かったのです。少し挙げてみましょう。

矢吹丈(『あしたのジョー』)、ドラえもん、アンパンマン、ウルトラの父(『ウルトラマン』シリーズ)、星飛雄馬(『巨人の星』)、あさりちゃん、島村ジョー(『サイボーグ009』)、ルパン三世、麻宮サキ(『スケバン刑事』)、綾波レイ(『新世紀エヴァンゲリオン』)、野原しんのすけ(『クレヨンしんちゃん』)、ムスカ(『天空の城ラピュタ』)、涼宮ハルヒ、不動遊星(『遊戯王5D's』)、スティッチ、仮面ライダー、みなしごハッチ、デビルマン、愛の戦士レインボーマン、ちびまる子、大神一郎(『サクラ大戦』シリーズ)、平沢唯(『けいおん!』)……。

あたかも「コミケ」(コミックマーケット)のコスプレ大会の様相を呈しています。これらの新旧キヤラが勢揃いしている様子を想像すると、壮観ですらあります。そして、60〜20歳代の幅広い「マンガ・アニメ世代」が、一斉に集結したかのような印象があるのです。

その顔ぶれを丁寧に眺めると、貧困のモチーフ(『巨人の星』『レインボーマン』)、孤児と非行少年のモチーフ(『あしたのジョー』『サイボーグ009』『みなしごハッチ』『スケバン刑事』)、児童虐待(ネグレクト)のモチーフ(『エヴァンゲリオン』)も垣間見えたりします。「涼宮ハルヒ」の精神不安定ぶりも気になるところです。

それはともかく、「伊達直人」登場の第一報に接した瞬間、自動的に『タイガーマスク』のエンディングテーマ『みなし児のバラード』(作詞・木谷梨男、作曲・菊池俊輔作曲、歌・新田洋)が、私の頭の中で鳴り始めたのでした。それも映像を伴って、繰り返し……。それは突然に、まるでテレビのスイッチが入ったという感じでした。

「あたたかい人の情も/胸をうつ熱い涙も/知らないで育った/僕はみなし児さ/強ければそれでいいんだ/力さえあればいいんだ/ひねくれて星をにらんだ僕なのさ/ああ、だけど、そんな僕でも/あの子らは慕ってくれる/それだから、みんなの幸せ祈るのさ」。

この歌を披露すると、二男が教えてくれました。「『遊戯王』の不動遊星もみなし児。『スティッチ』のリロもみなし児。「NARUTO」もみなし児だよ。『ゲゲゲの鬼太郎』も母さんは死んじやったんだよ。」すると、なぜか「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」(マタイ福音書6章21節)という聖句が、私の頭に浮かんだのでした。

【会報「行人坂」No.242 2011年3月27日発行より】

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2010年10月17日

真理は時の娘

今年の夏は、御巣鷹山の日航機墜落事故から25年の節目に当たり、例年に比べて、マスコミの報道も扱いが大きかったように思います。あの事故に遭遇して亡くなった乗客の中には、夏休み期間中ということで、大勢の子どもたちも含まれていました。

9歳の野球少年は、25メートルプールを泳ぎ切った御褒美で、念願の甲子園行きを家族からプレゼントされたのです。その頃、航空会社が「可愛い子には独り旅を」というようなキャンペーンを展開していたことも影響していたのでしょうか。テレビでお母さんの証言が紹介されていたそうです。偶然、その番組を見た妻は、25年の時を経て尚、悔やんでも悔やみ切れない、その余りの痛ましさに言葉を失っていました。

私自身も、新聞で、その子のお兄ちゃんの証言を読み、絶句しました。出発直前に、つまらない兄弟喧嘩をして、お兄ちゃんは思わず「お前なんか、もう帰って来るな!」と言ってしまったのです。勿論、事故で弟が死んだのは自分の罵倒のせいではない、頭では理解できるのですが、それでも何年も何年も自分を責め続けていたという、お兄ちゃんの気持ちが察せられて、私の胸も詰まりました。

「あの時、もしも、こうしていれば・・・」「あの時、こうしてさえいなければ・・・」「こんな事故には遭わなかったかも知れない」と、遺族は思い巡らし、自分を責め続けるのです。突然の不幸を経験した人ならば、誰でもが知っているはずです。ここに立ち塞がるのが「時間の不可逆性」という現実です。失われてしまった命は戻って来ないのです。出来ることなら、あの時以前に時間を巻き戻して、子どもの命を救いたいと思うのですが、今となっては、もはや取り返しがつかないのです。

さて、SF小説の世界には、H・G・ウェルズの『タイム・マシン』(1895年)を始祖とする「時間SFもの」というジャンルがあります。R・A・ハインラインの『夏への扉』(1956年)、筒井康隆の『時をかける少女』(1967年)、B・J・ベイリーの『時間衝突』(1973年)、R・マシスンの『ある日どこかで』(1976年)等は、マニアでなくても御存知の方は多いでしょう。時間旅行を利用して、未完の目的を達成したり、仇敵に復讐したり、不幸な過去をやり直したり、秘めたままの恋心を告白したり・・・。物語の世界だからこそ、現実を超越できるのです。しかしながら、時間旅行によっても、現実は願った方向に変えられなかったという展開が大多数を占めています。

けれども、私たちの人生は「何も変えられなかった」という悲観で終わるものではありません。命がけの試みや切なる願いによって、確かに何かが変えられているのです。「真理は時の娘/Veritas temporis filia」という格言があります。真理は、今日は未だ隠されているかも知れないが、きっと、いつの日にか明らかになるという意味です。私たちが生きていて味わう悲しみや苦しみの意味も、いずれ明らかにされる日が来るのでしょう。

【会報「行人坂」No.241 2010年10月17日発行より】

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2010年03月28日

朝の栄光と真夜中の太陽

先日、テレビのドキュメンタリー番組で「モーニング・グローリー」を撮影するとか言っていたので、何の事かも分からないままに見てしまいました。「モーニング・グローリー」を直訳すれば「朝の栄光」です。あるいは「朝顔」の花です。しかし、これは、時折オーストラリア北東部などで見られる気象現象なのだそうです。

高度二千メートル上空に、巨大なロール状の雲の帯が、長さ千キロメートルにもわたって延々と続いているのです。しかも、一時間に60キロのスピードで移動するのです。その雲の帯が三列に並んでいる珍しいケースもあるそうです。英語では「モーニング・グローリー・クラウド」と言うのだそうです。早朝に起こることが多いので、そんな名前が付けられたのでしょう。聖書の中では、「雲の柱」「雲に乗る者」「雲のように囲む証人」等、「雲」が神の臨在や栄光を表わすシンボルである事も思い出されます。

この「モーニング・グローリー」という用語を耳にして、私は、大昔の映画を思い出しました。キャサリン・ヘップバーンとダグラス・フェアバンクス・ジュニア、アドルフ・マンジューが共演した『勝利の朝』(1933年)です。まさしく原題が「モーニング・グローリー」でした。ブロードウェイに憧れて上京した娘が、我儘な主演女優が降板したために、主役の座を射止める(一夜明けると、「朝顔」が咲いていたように)という定番です。後に、スーザン・ストラスバーグ主演の『女優志願』としてリメイクされました。

それから次に、バーブラ・ストライサンド主演の『スター誕生』(1976年)を思い出しました。これは、ジャネット・ゲイナー版(1937年)、ジュディ・ガーランド版(1954年)に続く三度目の映画化です。ロックシンガーの話に変えてありますが、妻が大スターになり、夫が落ちぶれて自滅するパターンは同じです。

この映画の主題歌の中に「Two lights that shine as one, /Morning glory and midnight sun」という一節があったことが思い出されたのです。ポール・ウィリアムズが詞を書いていて、その年のアカデミー主題歌賞を受賞したのでした。「ふたつの光がひとつに結ばれて輝く/それは朝の栄光と真夜中の太陽」と、そんな風な歌詞でした。

そうすると、俄然、気になるのが「ミッドナイト・サン/真夜中の太陽」です。調べてみれば、これまた気象用語にありました。極圏内で、真夏、もしくは真冬に見られる「真夜中の太陽」というものがあるのだそうです。

こうしてみると、「朝の栄光」と「真夜中の太陽」とは同時に存在できないものだということに気付きました。朝と真夜中という時間の別のみならず、その気象現象が発生する地域も全く違うのです。ポール・ウィリアムズの歌詞がとても重く胸に沁みました。私たちの命は重なり合うことはないのです。しかし、いつの日か、その命の光が一つに結ばれる、そんな日が来るのを信じて待っているのです。


【会報「行人坂」No.240 2010年3月28日発行より】

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2009年10月04日

蝉時雨なく夏も終わり

1.蝉時雨

本来は本州の南半分に生息していたクマゼミが次第に北上し、それに伴って、アブラゼミの生息領域が減っているという話を聞きます。「地球温暖化の影響」が言われていました。ところが、最近、新たに耳にした話によると、アブラゼミが減少して、クマゼミが増加している原因は、カラスの捕食にあるというのです。

天敵に襲われると、クマゼミはかなり遠くまで飛んで逃げるのですが、アブラゼミは近くの木に飛んで移動するだけなのだそうです。都市化と共に、樹木の数は疎らになり、カラスの数は増加しています。その結果、アブラゼミが捕食され、その数を減らし、その分だけ、クマゼミの生息領域が広がったということだそうです。

2.見栄え

子どもの頃、兵庫県は但馬地方で育った私は、クマゼミという物を見たことがありませんでした。クマゼミを見るためには、姫路など播磨地方まで足を伸ばさなくてはなりませんでした。黒くて頑丈そうなクマゼミは、男の子の憧れでした。アブラゼミを見慣れていた私たちにとっては、尚更、クマゼミの方が希少価値が感じられたのでした。

同じようなことが.、他の生物にも言えます。私たちは、鮎や鱒よりもブルーギルを、鮒や鯉よりもブラックバスを、ヌマエビよりもアメリカザリガニを、イシガメやクサガメよりもミシシッピアカミミガメを、珍しがって求めたのでした。在来種よりも外来種の方が見栄えよく感じられたのでした。今思えば、実に愚かなことでした。

犬や猫などのペット業界では、舶来信仰のような、この感覚が現在も罷り通っています。血統書というブランドと共に、次々にブームが繰り返されて、目新しい犬や猫の種類が消費されています。

3.大人様

本当に大切なのは、見栄えではないのです。お子様には分からないかも知れませんが、そういうことを弁えているのが大人なのです。見栄えとかブランドとか、ブームとかトレンドとか、そういう表面的なものではない価値というものがある。それを知っているのが成熟した人間だと思います。

そういう人はブームが去っても、変わらずに同じ立ち位置にいますし、ブランドのマークが付いて無くても、良品か否かを判別することが出来るのです。ある時期から、私は、時流や潮流に「流されない」人になりたいと思っていました。かと言って、「マイナー志向」に陥ってしまっては偏屈になります。心持ちとしては、もっと軽やかに、もっとポップであっても良いと思っています。今年は「日本プロテンタント宣教一五〇周年」だそうですが、教会の在り方も同じです。要は、その地に根を生やした、愛と祈りがあるかどうかです。


【会報「行人坂」No.239 2009年10月4日発行より】

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2009年03月29日

重要、かつ不快なこと

日頃の礼拝にはお見えにならないお客様から、讃美歌の歌声を褒めていただくことがあります。お世辞半分とは思いますが、歌声を褒められれば、本人も悪い気はしないものです。先日、支区婦人部の集会の際に 「今日は、三大テノールのような、先生の美声を聴かせていただきまして!」と、他教会の婦人に褒められて、すっかり、赤面してしまいました。それにしても、「三大テノール」との譬えには仰天しました。

「確かに、この髭と太鼓腹はパヴァロッティかも知れませんね」と返して、咄嗟に謙遜のポーズはとってみたものの、予想もしない表現に、危うく、舞い上がってしまうところでした。また、別な時には、「声楽をなさっているのですか?」と尋ねられたこともあります。いつも、答えは「カラオケをやっているだけ」です。しかしながら、そのカラオケも、昨年は一回しか行っていません。

さて、そのカラオケ。イギリス政府が国民に行なったアンケート調査において、「最も重要と思いつつも、最も不快と感じる発明品」の第一位に選ばれたという記事を、年末の新聞で読みました。携帯電話を抑え、堂々、22パーセントの支持票を集めたそうです。そう言えば、数年前には、「カラオケを発明し、互いに寛容になる新しい手段を人々に提供した」業績に対して、井上大佑という方に「イグノーベル賞」の「平和賞」が授与されていました。言うまでもなく、これは「ノーベル賞」のパロディで、かなり皮肉と諧謔が込められているのですが、カラオケが内包するアンビバレンスに、私は大変興味を覚えます。

何を隠そう、私は元々、カラオケが大嫌いだったのです。とりわけ、酒の飲めない私にとっては、パブ等で酔い痴れて歌う感覚が、更に嫌悪感を深めていたのです。ところが、九州教区時代、地区の先輩牧師たちを連れて、カラオケボックスに入ってみたら、意外に楽しかったのです。戦中派の牧師たちは、軍歌しか歌えません。山田耕筰の「燃ゆる大空」、藤原義江の「討匪行」、高木東六の「空の神兵」等を、一緒に大合唱したものです。しかも、この時代には、戦時中の記録映像や戦争映画の一場面も挿入されるようになって、すっかりカラオケに魅せられてしまったのでした。

教会生活の中にも、不快感を味合わされることはないではありません。その不快さに耐え切れず、教会から離れてしまう人もいます。他者と共にあることは、基本的に不快なことなのです。カラオケの嫌いな人にとってのカラオケみたいなものです。しかし、異なる他者と付き合うことは重要なことです。避けたり、受容したり、我慢したり、棲み分けをしたり、時には、衝突したり…。それでも、やっぱり、極めて重要なことです。


【会報「行人坂」No.238 2009年3月29日発行より】

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2008年08月24日

同じ時代を生きて

1979年、大江健三郎が「同時代ゲーム」という小説を発表して、「同時代」という言葉が持て囃されたものです。気がつけば、もう30年近くの時が経過しているのですね。あの小説は好きになれませんでしたが、「同時代」という言葉は大好きです。横の広がり、空間的な広がりを感じるのです。

「連想ゲーム」をしていくと、ユング心理学の「共時性」という言葉も思い出されます。「共時性」とは、イメージ的によく似た複数の事象が空間を超えて存在することです。直接の因果関係はないのに、同じような出来事が随伴して生起することです。 神学生時代のこと、ニューヨークのユニオン神学校教授だった小山晃佑さんと、一度だけお話するチャンスがありました。当時、「時速5キロの神」という論文を発表(1982年)された後だったと思います。タイのチェンマイでの経験を基に紡がれた「水牛の神学」によって、70年代から世界的に知られていました。

雑談の中で、こんな話が出ました。「西洋において、キリスト教の宣教がヨーロッパの北限まで伝播したのも6世紀、東洋において、仏教の布教が東限である日本にまで達したのも同じ6世紀、これには深い意味がある」と。このような感覚を「共時性」と言います。大抵の学問は「因果性」の論理(因果律)に支配されていますが、それとは全く異なる考え方や感じ方があるのです。

イギリスのロックバンド、ポリスが 「シンクロニシティ」(Synchronicity)というアルバムをヒットさせたのもこの頃(1983年)でした。スティングの歌う「見つめていたい」(Every Breath You Take)はシングルカットされて、ヒットチャート入りし、毎週のようにMTVで流されていました。ポール・ボウルズの「シェルタリング・スカイ」(後に映画化されて有名になった) の第1章と同じ、「サハラ砂漠でお茶を」(Tea in the Sahara)という題名の曲も入っていました。「シンクロニシティ」とは、まさに「共時性」の英訳です。そう言えば、シンクロナイズドスイミングが五輪の正式競技に採用されたのも、その翌年の1984年のロサンゼルス・オリンピックからです。これもまた、シンクロしています。

さて、年配の人が「最近の若い者は…」と苦言を呈するのは今に始まったことではありません。SF作家のアシモフによると、紀元前2800年頃の古代アッシリアの粘土板にも、古代ギリシアの哲学者プラトンの著作にもあるとの由。山手線の中で「最近の若い奴らは…」と、小学生が会話していたという笑い話もあります。

若者たちの側でも、結局、同じ世代で固まってしまって、他の世代との交流が少ないのです。更に言うと、老若に関係なく、これは私たち皆に共通する問題です。「同世代」 の心地良さも分かりますが、時には「同時代」の刺激を味わってみてはどうでしょう。

「同世代」ではなく、「同時代」の広がりをもって、共に生きている。それが教会という場です。


【会報「行人坂」No.237 2008年8月24日発行より】

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2008年05月11日

「あしたの星か、谷のゆりか」

1.谷間の百合

JR目黒駅西口は再開発によって、近年、大きなビルが林立するようになりました。殊更に「高層」と言わず、普通のマンションやオフィスビルに比べても、教会の建物はズッと低いのです。自然、教会はビルの中に埋もれてしまって、表通りからは目立たなくなります。何しろ、行人坂教会は表通りには面しておらず、権之助坂と行人坂との中間地点に建っているのです。けれども、権之助坂を左折して、なだらかな斜面を歩きながら見る、教会の風情は中々シブイと思います。

近所には、ホリプロがあり、アイドルの子が多く通う日出学園があります。宮崎駿の「千と千尋の神隠し」の「油屋」のモデルになり、映画「大奥」のロケにも使われた「目黒雅叙園」があります。これら俗世の名所に埋もれるようにして、行人坂教会は建っています。けれども、私は、それでこそ「谷間の百合」(Le Lys dans la valée)であろうと思います。

2.子ども祝福

2007年度から、毎週の主日礼拝の中に「子ども祝福」の時間を入れています。時間的には、5分程のものですが、毎週、行なうことによって、おとなの出席者も、子どもたちを覚えて下さるようになりましたし、子どもたちの方でも「オトナの礼拝」の中に踏み込むことで、何かを得ていると思います。

お母さんやお婆ちゃんに伴なわれて礼拝に来ている子たち、教会学校礼拝が終わった後も残って、遊んでいる子たちが、いつか、礼拝に繋がりますようにという祈りが原点でした。しかし、このコーナーが出来たことで、礼拝の雰囲気が華やいだように思います。事実、子どもたちを見て、笑顔と元気を与えられると言う人たちもいらっしゃいます。

「子ども祝福」とは、子どもたちを祝福する儀式であるばかりか、子どもたちの存在を通して、礼拝に集っているおとなたちを、そして、教会共同体そのものを祝福する儀式なのかも知れません。


【南の枝 第94号(日本基督教団東京教区南支区2008年5月11日発行)のコラム「こんなことをしています」より】

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2008年02月03日

谷問の百合

行人坂教会の招聘委員会からのお招きを受けて、私が初めて行人坂教会を訪れたのは、2005年9月15日のことでした。目黒駅から行人坂に向かう角地では、大きな工事が始まっていました。招聘委員の細川さんが「ここにも、もうすぐ大きなマンションが建つようです」と教えて下さいました。

その高層ビルの外観を明確に意識したのは、2006年3月14日のことでした。故國米秀一さんの納骨式を終えての帰り、ハイヤーが碑文谷の辺りで、目黒通りに左折すると同時に、その巨大な立像が目の中に飛び込んで来たのです。いみじくも、國米弘一さんが「これは目黒のランドマークになりますね」と仰ったのが思い出されます。最近では、余り使わなくなりましたが、「摩天楼」という言葉が連想されました。

その「パークタワー目黒」、この12月から入居が始まったようですが、どんな人がお住まいになるのでしょうか。行人坂を登りながら見上げると、私たちは、ただ、その高さに圧倒されるばかりです。我が家の子たちは、ビルを見上げて「絶対に100階はあるよ」と言っていました。

そこで早速、調べてみました。三井住友銀行目黒駅前支店の跡地に建てられたのですね。建てたのは三井不動産。「JR山手線内29駅の中で3番目に高い土地」に建っていることが売りのようです。ビルの建っている高台は標高31メートルあり、海抜ゼロメートル地点から見ると、ビル10階分の高さに当たります。その上に、地上28階、115メートルの建物が乗っている訳です。子供たちの言うように「100階」はありませんでしたが、確かに「100メートル」は越しています。家の前の路地から見上げれば、優に150メートル程に見えるのです。子供たちに言わせれば「ゴジラ」、聖書的に言えば「バベルの塔」でしょうか。

さて、行人坂教会の周辺の変貌ぶりは大変なものです。「周りに高いマンションの建物ができて、その中に教会が埋もれてしまっている」とは、古くからの信徒の方の口から聞かれる言葉です。なるほど、表の目黒通りから覗いても、これでは教会の十字架も見えません。確かに目立たなくなってしまいました。けれども、それを嘆いてみても詮無いことです。むしろ、銀座教会や富士見町教会に代表されるような「表通りの教会」とは、異なる価値観で教会形成をしていくべきでしょう。

例えば、「裏通りの教会」としての価値は無いのでしょうか。「穴場の教会」というキーワードはどうでしょうか。バルザックの小説から「谷間の百合」(Le Lys dans la Valée)としても良いでしょう。勿論、旧約聖書の「雅歌」から採られた言葉です。「讃美歌」512番には「きみは谷のゆり、あしたの星、うつし世にたぐいもなし」と歌われています。「バベルの塔」と「谷間の百合」と、いずれが主イエスに相応しいでしょうか。私たちは「谷間の百合」としての徳を磨いていくべきでは無いでしょうか。


【会報「行人坂」No.236 2008年2月3日発行より】

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