2007年03月18日

キリスト教こんにゃく問答 I  「教理問答」 

1.論争はお好き?

とかく、宗教をしている人は論争(ポレミック)が好きです。けれども、私自身は論争が苦手です。教区総会などに出席しても、発言する事はありません。きっと、頭が悪いのでしょう。議事とか会議制とかが得手ではないのです。「論争のための論争」という事も世の中には多く、熱心に自己主張している人を見ると、「それじゃあ、お譲りしますわ」 という気分になってしまうのです。

編集委員会で 「連載を書くように」と仰せ付かりました。しかも、信徒教育の立場から「教理問答を」とのことです。「教理問答」とは、英語で「カテキズム」と言って、キリスト教の信仰、教理(教義)を教えるためのカリキュラムです。古代には、テキスト(書物)ではなくて、口頭で問答することで、教師は入門者に教えたそうです。ギリシア語で「カテケシス」と言って、「教会教育」を意味します。

例えば、パウロは「わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方を取ります。」 (コリントの信徒への手紙114章19節) と言っていますが、ここで「教える」 と訳されているのが「カテケシス」です。パウロも教会教育、信徒教育の必要性を痛感していたのです。「キリスト教の信仰や教えを正しく継承していきたい」 という信仰の先達の思いがあったのでしょう。あるいは、他宗教や他宗派からの批判に対しても、「信徒たる者、ちゃんと自らの信仰を弁明できなければ…」という熱意から、教理 (教義) というものが整理され、積み重ねられていったのでしょう。

しかし、西方のキリスト教は論争に傾き過ぎたきらいがあります。「教理問答」が熱心に行なわれるようになったのは、ワルドー派、モラヴィア兄弟団、フス派、ウィクリフ派などの 「分派」 が登場した時代から、宗教改革の時代にかけてなのです。分派 (セクト) が自らの理論武装のために、競い合って 「教理問答集」 を作ったのです。この辺り、安保闘争時代の左翼と似ています。

日本にキリスト教が入って来た戦国時代にも、キリスト教と仏教との宗論(宗教論争)は各地で盛んに行なわれました。1569年(永禄2年)、織田信長の御前宗論では、ザビエルの弟子フロイスが法華宗の朝山日乗を論破したとの記録が残っています。けれども、論破したからと言って、何でしょうか。

2.問いと答え

「問答」と言う以上、「問い」とそれに対する「答え」が用意されています。けれども、現実の信仰生活に「答え」は用意されていません。神さまへの問いかけ、神さまからの問いかけ、自らへの問いかけ、他人への問いかけ…。信仰生活には「問いかけ」があるだけです。厳粛な人生に、安直な答えは相応しくありません。聖書は人生の「虎の巻」ではありません。せいぜい、「考えるためのヒント集」 です。

神さまは、私たちに 「答案用紙に模範解答を書くように」と命じられている訳ではなく、「あなたなりに、精一杯、信仰の人生を生きてみなさい」 と仰っているのです。それは、聖書の様々な物語から始まって、私たち自身の人生や生活の物語に続いているのです。ですから、何か答えを出すことが大切なのではありません。真理を求め続けること、色んな事を考えたり思ったりして、気づいて行くことが大切なのではないでしょうか。たとえ、小さな事でも、アクションを起こして行くことが大切なのです。

時折、キリスト教主義の学校などで、聖書科の教師が生徒たち(多くは未信者)に「旧約聖書39巻、新約聖書27巻」の題名を丸暗記させているという話を耳にします。「うちの学校の生徒たちは、9割方の子が聖書の巻名を正確に覚えています」等と、得々として語る教師を見ると、呆れ果てて溜息が出ます。テストを採点するのには便利でしょうが、大切なのは、教えの心でしょう。多分、イエスさまがお聞きになったら、怒って教壇を引っ繰返すことでしょう。

それでも、「私なりの答え」というものは、少しくらい用意してあった方が、何かと便利かも知れません。しかし、答えが用意されるためには、日頃からの問いかけの姿勢が必要なのです。算数の試験と違って、模範解答のために設問があるのではなく、私たちが問いかけながら生きる姿勢があって、そこに答えが与えられていくのです。つまり、問いかけるのは私たち、答えて下さるのは神さまです。反対に、神さまから問いかけられて、私たちが答えを求められることもあるでしょう。

このような応答関係が信仰生活なのです。いつでも、関係が安定しているはずはありません。夫婦だって、親子だって、波風はあります。相手が神さまなら尚更です。迷ったり、疑ったり、躓いたりしながら、それでも投げないで、諦めないで、しぶとく付き合っていくからこそ、信頼や愛が膨らんでいくのです。

3.こんにゃく問答

 基本的に、私は「無信者」とは論争をしません。せいぜい「負けるが勝ち」 と心得て置きましょう。キリスト者は、神さまから問いかけられ、神さまに問いかける生活をしています。キリスト信者に限らず、本当の宗教者ならば、そのような問いかけを有しています。映画を見ない人、映画の嫌いな人と、映画の話をすることはありません。同じように、宗教に何の関心も興味もない人と議論しても詮なきことです。

三笑亭夢楽の落語に 「こんにゃく問答」 というのがあります。ひょんな行き掛かりから、こんにゃく屋の六兵衛さんが和尚に化けて、永平寺の修行僧、沙弥托善と禅問答をする羽目になってしまいます。問答は、両者の誤解から、六兵衛さんの圧勝に終わります。六兵衛はこんにゃくを売る話をしていたのですが、相手の僧は仏教の奥義について論じていると誤解してしまっていたのです。

そう言えば、昔、同じような内容の映画を見たことがあります。1979年のアメリカ映画「チャンス」(Beeing There)です。無学な庭師の言うことを、政界の大立者や大統領までが受け入れていくのです。主人公は単なる庭師に過ぎません。彼は庭の話をしているだけなのですが、政治家たちは、それを政治や経済の隠喩と誤解してしまうのです。しかし、キリスト教のシンボリズム (象徴学) に詳しい人なら、「庭師」がキリストを表わしていることは、すぐに察しが付きます。

行き掛かり上、私も牧師になってしまいました。ですから、差し詰め、こんにゃく屋の六兵衛のような者ではないかと、自分では思っています。私自身は「庭師」ではなく「こんにゃく屋」に過ぎません。きっと、私には、世間一般の立派な牧師のように「教理問答」は出来ません。けれども、六兵衛が化けた偽和尚のように「こんにゃく問答」は出来るでしょう。これから、そういう連載をしてみたいと思っています。


【会報「行人坂」No.234 2007年3月18日発行より】

posted by 行人坂教会 at 07:46 | ┗こんにゃく問答