この支配からの卒業 〜律法の呪いからの自由

聖書箇所:ガラテヤ信徒への手紙3章9~14節

讃美歌317番「主はわが罪ゆえ」は、マルティン・ルターが作詞した曲です。イエス・キリストの復活により滅びは過ぎた、罪が赦されたという喜びの歌です。前奏で演奏くださった「主は死にたまいしがよみがえりて」というコラール前奏も讃美歌317番にあわせて演奏してくださいました。

このルターという人物は、1517年に宗教改革を行いました。1517年という年号は重要なので覚えて頂けたらと思いますが、語呂合わせで「ひとこと、いな」で年号を覚えた方もいるかもしれません。ルターが何に「いな!(No!)」をとなえたのでしょうか。それは、私たちが何かよいことをしたから救われる、私達が立派な人間になったから救われるという功績主義に対して、No!といったのです。

私たちがなにか良いことを行ったからとか立派な人間に成長したから救われるわけではありません。そうではなく私たちの中に弱さや失敗はあるなかでも、信仰によってわたしたちは義とされる。この「信仰による義人は生きる」ルターが強調した信仰義認とは何だったのでしょうか。それをガラテヤ書3章からみていきましょう。

ガラテヤ人への手紙が書かれた当時、パウロの論敵は「信仰に加えて律法の行いも必要だ」と主張しました。しかし、パウロは論敵の考えに徹底して抗います。

ガラテヤ人への手紙3章10節では申命記を引用して律法の書に書いてある一部を守ってもすべてを守らなければ呪われます」といいます。もともと神様はシナイ山でモーセに十戒の石の板を授けてくださいました。これは「十戒をはじめとする律法を守れば祝福されるが、律法を守れないと呪いがある」というものでした(申命記的歴史観)。旧約聖書のイスラエルの人々は何度も何度も律法を破り、その都度神様が憐れみで赦してくれますが、それでもまた律法を守れないという状態でした。これが古い契約です。

律法の実行に頼る者は誰でも呪われる。それでは希望はないのでしょうか。いいえ、決してそんなことはありません。この「贖い出す」ことに希望があります。

「贖う」という単語はどんな意味でしょうか。この漢字は貝偏がついているので、モノの売り買いと関係しています。たとえば、販、財、貯などの漢字は貝偏です。

昔は貝殻で支払いをしていたので貝偏の漢字は金銭の支払いなどに関係があります。

「贖う」のギリシャ語、エクスアゴラゾーとは、アゴラの広場にいた奴隷が買い取られ自由になるということでした。

ギリシャでは「アゴラの広場」の奴隷が、代価を支払うことで自由人とされました。同じように、イエス・キリストによる贖いとは、イエス様という代価が支払われることで、私たちが罪と死の奴隷状態から買い取られ自由にされることを意味します。イエス様ご自身が、身代金としてご自分の命を与えるために来た、とおっしゃています。

律法そのものに「木にかけられる者は呪われている」と書かれています。木にかけられた者とは十字架にかかった者ということです。それにもかかわらず、律法を与えた神が「木にかけられた者」である主イエスを「復活」させたからには、律法はその役目を終えたのだとパウロは主張しています。当時のユダヤ人たちは自分たちはまだバビロン捕囚の奴隷状態が続いている自己認識していました。

しかし、キリストが私たちのために呪いとなり、神様は私たちを律法の呪いから買い取ってくださいました。それは「シナイ契約(律法)という古い契約」から、「イエスの血による新しい契約」に変わるということでもありました。

キリストは十字架で死んで律法による呪いを引き受けることで、律法の軛から人間を解放してくだしました。

主イエスの復活。それは罪の支配からの卒業です。死の奴隷という戦いからの卒業でした。罪を赦された死の奴隷から自由にされた私たちは、御霊の実を結び隣人を愛する自由も与えられました。さらには、やがて来る新しい天、新しい地を待ち望む希望も与えられました。

今日、フェリス女学院大学の学生の方が何人か来てくださいました。彼女たちのうちお二人は、この前のクリスマスに「洗礼」を受けてクリスチャンになった方々です。

洗礼式とは、クリスチャンになる儀式のことを指しますが、教会によっては、顔も含めて全身を水に浸す洗礼式バプテスマをする教会もあります。その意味は「水に浸すことで古い自分が死に、水の中から起き上がることでキリストとともに新しい命が復活する」ということです。

皆さんが洗礼を受けた時のことを思い出してみてください。どんなきっかけで洗礼を受けましたか?お一人お一人、洗礼に至る経緯をぜひ、お話を伺えたらと思っておりますが、洗礼を受けたのは、私達が何か良いことを達成したからでしょうか。私達が立派な人間に成長できたからでしょうか。そうではありません。

私達は神の基準の律法に達することはできませんが、イエス様のまことゆえに罪赦され永遠の命を持つ。それを私達が信仰により受け入れたのではないでしょうか?

私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪の体が滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。私たちの古い人は死に、「新しい人」が生まれました。

このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい」。罪に対して死んだ人は、罪との関係が切れています。一方、神に対して生きている人は、神とつながっています。それが永遠の命です。罪と死の奴隷状態から卒業して、新しい命に生きる、ということです。

結論

最後に信仰義認における義という漢字のことをお話します。

私達は、どうしても「我」が出てくる存在です。「私が!私が!」と自分の功績を自慢したり「自分はしっかりやってきた」という尺度のもと人を見下してしまうかもしれません。「自分が正しい」と考え相手を裁いてしまったり、相手を傷つけてしまうこともあります。行いの達成という自分のはかりで他人をはかってしまいます。自分の基準で「アラ探し」して人を貶めたり「あいつはダメだ」 などレッテルを人に貼るのが私たちではないでしょうか。

しかし、いつでも正しい人なんているのかな、というと誰もいません。義人はいない、一人もいない。

このように律法に従って生きようとするかぎり、私たちは恵みを拒んでしまいます。どんなに真実に生きようとしてもやりたくない悪いことをしてしまう存在です。励ましたくても責めたり妬んだり卑屈になってしまう。我が出てくるのがのが私たちではないでしょうか。この私たちの弱さや欠点、我の強さ、限界があるので、私たちは自分の力では救いに達することができません。どんなに立派な人でも自分の力で神のきよさの基準を満たすことはできません

だからこそ、子羊イエスが、私たちをおおってくださり、神様の一方的な恵みで、イエス様という対価が支払われることで、私たちは信仰によって義とされる。それがこの漢字の形にも現れているような気がします。

イエス様が十字架にかかり私たちの代わりに呪われた者となりました。主イエスの十字架と復活により、私たち一人一人も、教会も祝福を受け継ぐ者となりました。私たちがどんなに失敗しても、自分を責めたり自分を否定したりする弱さの中にいても、子羊イエスの贖いのゆえに、私たちは信仰により義とされたのです。赦されて神の子供とされたのです。ルターが説く「信仰のみ」というのは、神様の一方的な恵みで私達は赦されたということです。

以上「信仰義認とは信仰によって私達が罪と死の奴隷状態から卒業し、新しい人として活きることだ」とみてきました。

私たち行人坂教会も神様の祝福を受け継ぐ信仰共同体です。主イエスの十字架という代価が支払われたことで、私達が罪と死の奴隷状態から自由にされ、命の新しさで生かされている。この喜びを携え、この1週間も感謝して歩んでいこうではありませんか。

祈り

愛する天のお父様。キリスト・イエスが十字架にかかり、私たちの呪いを受けてくださり、私たちが罪の奴隷状態から買い取られ自由にされたことを感謝します。私たちの不完全さや弱さや破れにもかかわらず、キリストの贖いにより義とされて解放されている恵みに感謝します。「信仰による義人は生きる」この神の約束に信頼し、私達が御霊によって完成する日を期待しつつ、主が再び来たりたまふことを待ち望むことができますように。またアブラハムの祝福を受け継ぐ神の子の共同体として、私たちが感謝して生きられますように助けてください。聖霊をとおして主イエスが私たちの思いと心を創り変えてください。私たちが毎日新しい心によって、神と人を愛することができますように。

2023年4月23日 関智征

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