大いなる「しかし」〜聖書の逆説〜

高校一年生の長男が、この前の平日、礼拝堂で何人かの教会員の方の前でピアノを弾かせていただきました。親の至らなさにもかかわらず、大変素晴らしい男性に神様が成長させてくださって感謝しかありません。長男の名前は恵吾といいます。「吾恵み汝にたれり(わたしの恵みはあなたに十分です)」という聖書のことばから恵吾という名前を頂きました。
「私は弱い、しかし、そこに神の力が働く」。聖書には、このような逆説的な表現がみられます。今日は「しかし」という言葉に注目して、キリスト教の逆説的な表現を共にみてまいりましょう。

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最後の晩餐の会話

この絵画はレオナルドダ・ビンチの絵画「最後の晩餐」です。「最後の晩餐」でイエス・キリストは「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っていると言いました。イエス・キリストは弟子たちと「過ぎ越しの食事」をしながらお別れのことばを述べられたのです。

この最後の晩餐のわずか数時間後にイエス様は、イスカリオテのユダたちにより捕らえられます。弟子たちは逃げ、主イエスは十字架につけられます。

だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。

ヨハネによる福音書16:32、「散らされて」は旧約聖書「ゼカリヤ書」13:7の成就

イエス様が「これから、あなたたちは散り散りにされ逃げていき、私一人を取り残します」と言ったのは、弟子たちを責めたり意気消沈させるためではありません。そうではなく弟子たちはバラバラになりイエス様は十字架で死刑になり、弟子たちが困難に直面すること見越して、予め励ますためでした。

これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている

あなたがたは世で苦難がある」とはイエスの弟子であることで体験する困難のことです。「最後の晩餐」の数日前エルサレムの人々は「ホサナ!」と熱狂してイエス様を町に迎え入れていました。しかし同じ民衆が今度は手のひらを返したように「イエスを十字架につけろ!」と言うことになります。弟子たちがイエス・キリストの死後に周囲の人々から憎しみを向けられ、迫害されるであろうことを「あなたがたは世で苦難がある」と弟子たちに伝えたのです。

勇気を出しなさい」ということばは、ギリシャ語で「サルセオー」です。「雄々しかれ」(文語訳聖書)「安心しなさい」(塚本虎二訳)「元気を出しなさい」(ケセン語訳)など訳されています。

わたしは既に世に勝っている」とはイエス様が十字架で死んで三日目にその死の中からよみがえり私たちの罪を贖ってくださったということです。十字架での死は惨めな敗北のように思われました。当時の人々にとって「十字架」という単語は名前を聞くのもおぞましいものでした。

しかし、主イエスは死からよみがえられたことで、この世を支配している悪魔を完全に打ち破られたのです。それが「わたしはすでに世に勝っている」という言葉の意味です。フェリス女学院大学の学生が「洗礼を受けて死ぬのが少しだけ怖くなくなった」と言っていました。これも十字架で罪と死の力が打ち破られたという信仰の告白です。

大いなる「しかし」

「パラドックス(逆説)」という言葉があります。聖書は「逆説の書」です。

「弱い時にこそ、強い」「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを与える」など逆説的な表現が何度も出てきます。聖書の中の「しかし」というキーワードに「パラドックス(逆説)」が端的に現れています。

草は枯れ花はしぼむ。しかし神のことばは永遠にたつ。

「彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

このように聖書の「しかし」は、永遠の生命の希望につながります。

良い知らせ

「パラドックス」は、パラ+ドクサ(栄光に反して)という意味があります。イエスの十字架と復活こそ、究極のパラドックスです。

新約聖書が書かれた当時のローマ帝国において「十字架」というのは、もっとも惨めな死刑手段でした。また弱さ、屈辱、敗北の象徴でした。イエス様に嫉妬したエルサレムの指導者は、この残虐な処刑台にイエス様をかけました。「王の王、主の主」であるイエスが栄光を失いみじめな状態になりました。

しかし、3日目に復活し「死」と「罪」に打ち勝ったイエス様が、逆に栄光をお受けになった。これは究極の逆説(パラドックス)なのです。

結論

誰でも、苦しいこと、悲しいこと、傷つくことがあります。仕事先や家族、友達との関係ので、不条理なことがあります。素直な人、真面目な人ほど、悪い人にふりまわされるようなこともあります。「なんで自分だけ」「こんなはずじゃなかったのに!」という突然の不幸があります。状況が良くならず気持ちが沈んだりイライラすることもあります

そんな私たちに「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と主イエスは言われます。

イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも変わりません。そのイエス様が私たちと共にいてくださるのです。「聖霊(助け主)」が、私たちをとりなしてくださっています。そのイエス様に信頼して委ねて、今週1週間も歩んでいこうではありませんか。

「なんじら世にありて艱難あり、されど雄々しかれ。我すでに世に勝てり」

・2023-07-02 行人坂教会 関智征
・聖書箇所:ヨハネによる福音書16:25~33(新約p.201)

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