私の母は喘息の持病を持っています。20年以上前、母が弟の住む仙台に遊びに行きました。当時、私の弟は東北大学の工学部に在籍していた弟は、大学に近い山の上に住んでいました。店も少なく、あまり車通りもない地域です。母は、運が悪いことに弟の家に滞在中に喘息の発作がでました。弟は当時車を持っていませんでした。救急車の到着時間もわからない状態でした。
その時、めったに通らないタクシーが弟の家の前をたまたま通りました。母と弟はタクシーをつかまえ病院に行き、速やかに治療を受けることができたそうです。母は「偶然タクシーが通ってラッキーだった」と言っていました。私にとっては母が神様に守られた体験でした。
今日は「神様が私たちを守ってくださる」という点に注目して、旧約聖書・詩編121編をみていきます。
わたしの助けはどこから来るのか
詩編121編は「都に上る歌」で始まります。この言葉は「都詣での歌」「宮に登る歌」とも訳されたりします(原語ヘブライ語で「シール・ハ・マアロース」)。「宮」とはエルサレムの神殿のことです。人々はエルサレムの神殿に、いけにえをささげ礼拝をするために、遠くから毎年旅をしていました。いわゆる「巡礼」です。
現在のイスラエルの地図です。左が地中海です。下線の街が、神殿があったエルサレム、そして右側の縦長の海が死海です。死海とは海の塩分が海水の10倍高いため人間がプカプカ浮かぶ地上でもっとも低い地点に位置する海です。
死海とエルサレムの距離はわずか30kmほどです。死海は海抜マイナス430メートル。一方、エルサレムは海抜754メートル。その標高差は1200メートルです。私はエルサレムに2010年1月に行きましたが、エルサレムに向かう坂は、なかなかの勾配でした。
教会から目黒駅へ向かう「行人坂」も急ですが、エルサレムへ向かう登り坂は行人坂以上に急な坂もあったと記憶しています。しかも詩編が書かれた当時は舗装された道路もありませんでした。「山々に向かって目を上げる」とありますが日本の緑が生い茂る山々と違って、茶色の岩山が多いです。岩がゴツゴツした道を暑い中歩く巡礼者たちは、体力も相当使ったと思います。
「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ」は、太宰治が死の直前に書いた小説『桜桃(おうとう)』の冒頭にも出てきます。この言葉は多くの日本人のクリスチャンに愛されてきました。日本は美しい山々が国土の至る所に広がっており万葉集の初めから山を歌う歌があり、日本人の心の琴線に触れてきたのかもしれません。
そして「わたしの助けはどこから来るのか」と詩人は問います。辛い状況の切実な問いです。その問いがどれくらい続いた後でしょうか。詩人は自ら応えて「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」と告白します。では、「天地を造られた主」とはどのような方でしょうか。
1,2節「わたし」は、3節以降「あなた」に置き換えられています。
3節4節には、神ヤハウェは「私たちの足がよろめかないように歩みを支えてくださり方」「まどろむことなく守ってくださる方」として描かれています。私たちを創造された主は「今も働きたもう神」であるとの信仰が、この言葉に込められています。そして3節以降「守る」ということばが6回繰り返されています。
まどろむこともなく
教会の方から「Jesus Never Sleeping Eye」というイコンのことを教えて頂きました。イコンとは、東方正教(ロシア正教など)の方々が家で祈る時に用いるものです。このイコンは「イスラエルを守る方は、まどろむことなく眠ることもない」を彷彿とさせます。
5節では、神は私たちを強い日差しから覆う陰であると告白します。「おおう陰」とは、あたかも鳥がその翼をもってひなを守るように、私たちを守るイメージです。真夏の東京も日差しが強いので「太陽が打つ」ということが感覚的にわかる気がします。
「イスラエル旅行に行くなら4月ー8月は暑すぎるから1月から3月がいいですよ」と旅行会社の方に言われました。砂漠の地において、昼は灼熱地獄であり、太陽は大いなる脅威です。その中にあって主はあなたを砂漠の熱から守り、あなたを覆って下さる。また、パレスチナやアラビアなど西アジアにおいて満月の夜、屋外に立つ時、青い月光に打たれると考えられていました。巡礼の歌は「主がすべての災いを遠ざけて、あなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの、主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに」と続きます。行きの道を主が守ってくださったように、帰りの途も守ってくださることを祈り歌う巡礼者の気持ちはいかなるものだったでしょうか。
8節の「出で立つのも帰るのも」は、もともと農業の表現ですが私たちの生活領域のすべてにおいてという意味です。
以上、詩編126編は、神(ヤハウェ)はあらゆる災いから守るため、私たちの一挙手一投足を憶えて共にいてくださると歌われています。
女子学院の試練
詩編121編は、バビロン捕囚という民族最大の苦難の中で言葉が紡がれ編まれた詩です。この詩は苦難の中にいる多くの人に励ましを与えてきました。病気になりこれから手術をする方が詩編121を唱え勇気をもらいました。職場で苦難にあり絶望している人がこの詩を暗記して心の支えにしていました。
東京都千代田区に女子学院という学校があります。女子学院の毎朝の礼拝は讃美歌155番「山べにむかいて」のチャイムで始められるそうです。女子学院は1949年に、戦災で焼失後やっと前年に建てた新校舎を深夜の原因不明の火事にて焼失します。翌朝、何も知らずに登校した生徒たちは、瓦礫と化し、まだ焼け焦げた匂いがくすぶっている新校舎を前に呆然と立ち尽くしたそうです。「ようやく自分たちの学校に通えると喜んでいた矢先に、また学校が焼けてしまった」と泣いていた在校生を前に、山本つち院長は「我、山に向かいて目をあぐ、我が扶助はいづこよりきたるや。我が扶助は、天地をつくり給えるエホバより来たる」を朗読しました。そして瓦礫を前に生徒・教員一同と共に 「山べにむかいて」を歌ったそうです。
せっかく再建された校舎が全焼し、未来も希望がないと感じる方もいたと思います。そんな中で、山本先生が凛とした表情で上を向き詩編121編を読み「山べにむかいて我目を上ぐ」を共に歌った経験が、その場にいた生徒にとってその後の人生の試練を受けた時の励みになったそうです。
今も守ってくださる神様
以上、詩編の詩人が「どん底の最悪の状態にもかかわらず神様が守る」と希望をもって告白したことをみてきました。
私たちの人生の旅も様々なことが起きます。自分の思ったようにいかないことも少なくありません。困難な状況で八方塞がりで「自分の助けはどこから来るのだろう?」と問いかける時があります。「状況が全然よくならない。神様の助けなんてないのでは」と意気消沈する時があります。人生の試練の中、今がどん底のように思える時もあります。
だからこそ同じようなどん底の中で歌われた「わたしの助けは来る天地を造られた主のもとから」という言葉に励まされます。私たちの人生の旅は、幾山河を超えて天のふるさとを目指す旅です。人生の初めから終わりまで神様の臨在の中に歩むことができるように、信仰の生涯を歩むことができるようにお祈りします。
お祈り
天にまします私たちのお父様。
私たちが、毎日、行くのも帰るのも主が見守ってくださるように。私たちの助けが天地を造られた主からくることを感謝します(2節)。どうか主が私たちのこの地上の旅を助けて足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように(3節)。1週間の歩みの後、また喜びと感謝をささげものとして、あなたの御前に集まることができますように。