ニューヨーク国連広場の「イザヤ・ウォール」と呼ばれる壁があります。先ほど朗読された旧約聖書・イザヤ書2章の「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」ということばが刻まれています。
「鋤(すき)」は畑を耕し野菜や穀物をつくる道具です。終わりの日に神の裁きと戒めにより「剣、槍」といった戦争の道具が「鋤、鎌」といった農具にうちかえられ、戦いがない世が来るだろう、とイザヤは言っています。
そして、国連には、イザヤ2章をモチーフにしたブロンズ像もあるそうです。この像は、剣を打ち直して鋤としています。
今日は平和聖日です。「イザヤが預言する平和が、イエス・キリストにおいて実現する」という聖書の記述をみていきます。
お祈り
天と地を造られた神様。イザヤ書における平和のことばに、今日、私たち一人ひとりが耳を傾けることができますように。主の平和がありますように。折しも、広島に原爆が投下された本日、広島、長崎の原子爆弾の犠牲となられた数多くの方々に謹んで哀悼の誠を捧げます。また、今なお被爆の後遺症に苦しまれている方々に、慰めと癒やしがありますように心からお見舞いを申し上げます。平和の君、イエス・キリストのお名前でお祈りします。
聖書の平和
平和とはどのような状態でしょうか。一般的に平和とは「戦争のない状態」を指します。しかし旧約聖書で平和(シャローム)という言葉は、争いがない状態という消極的な意味より一歩進み「皆が幸せ、健全」「完全」「平和・和解を積極的に作り出す」という広いニュアンスがあります。
広島市の爆心地から直線距離で1キロメートルあまりの所に「世界平和記念聖堂」というカトリックの教会があります。1945年8月6日午前8時15分、この場所に4人の神父と、伝道師や神学生、保母たちなどがいました。当時の教会の建物は木造ながら爆風に耐え、爆心地から1キロメートににもかかわらず全員が奇跡的に助かりました。しかしその後に巻き起こった火災が、あたり一帯を焼き尽くしてしまいます。
当時の主任司祭フーゴ・ラサール神父は、被爆で大けがを負ったにもかかわらず、同年12月20日、周囲の反対を押し切って、郊外の避難先から爆心地の焼けた教会に舞い戻ります。同伴者はフーベルト・チースリク神父のみでした。2人の神父はトタン板で自分たちでつくった3畳ほどのバラックを教会堂 兼住居とし、そこで被爆後初めてのクリスマスミサを執り行いました。
その後、戦後の混乱の中、教会再建に奔走し「世界平和記念聖堂」が完成を見るのは、8年後の1954年ことでした。
教会の建物には次のように書かれています。
此の聖堂は、昭和20年8月6日広島に投下されたる世界最初の原子爆弾の犠牲となりし人々の追憶と慰霊のために、また万国民の友愛と平和のしるしとしてここに建てられたり。而して此の聖堂によりて恒に伝へらるべきものは虚偽に非ずして真実、権力に非ずして正義、憎悪に非ずして慈愛、即ち人類に平和をもたらす神への道たるべし。故に此の聖堂に来り拝するすべての人々は、逝ける犠牲者の永遠の安息と人類相互の恒久の平安とのために祈られんことを。
昭和二十九年八月六日
憎しみに対して憎しみで返す。暴力に対して暴力を返す。その連鎖がエスカレートして争いを生み出します。国と国、民族と民族。会社と会社の争い、友達との争い、家族の中の争い。すべての争いは、憎しみや暴力の連鎖の結果ではないでしょうか。その負の連鎖を断ち切る決意と祈りが、「憎悪に非ずして慈愛」という言葉に込められています。
世界平和記念聖堂にドイツから4つの鐘が贈られました。全ての鐘に平和を祈る文字が刻まれています。この鐘は、西ドイツのボフメル・フェラインという会社が戦後、平和のシンボルとして作り日本に贈られたそうです。ボフメル・フェライン社は第二次世界大戦の時は武器を作っていた会社です。その同じ会社が、今度は戦争で使われた武器を溶かし、その鉄で鐘を作った、といわれています。こんな言葉が鐘に刻まれているそうです。
戦争の武器が、平和の道具の鐘に打ち直される。これはまさに、イザヤが説く終末の平和の実現です。広島に原爆が投下されてから78年目にあたる今日8月6日も、平和を祈り、世界平和記念聖堂の鐘が鳴ります。
「終末」の平和
「終末の平和」という見出しがイザヤ書2章の冒頭についています。イザヤは「終わりの日」にダビデの子孫の中から再び王様が救い主として現れると預言しました。それは弱く貧しい人のために正義を行い、戦争のない世界が築き上げられるだろう、という預言です。
イザヤ書2章が書かれた当時、現実の世界では、平和とは程遠い状態が当時続いていました。一種の戦国時代であり戦いがあるのが常でした。アッシリア、エジプトが攻めてくる脅威が差し迫っていました。国がなくなり民族ごと生命が奪われる強い恐怖がありました。政情は不安定で政権にクーデターで王様は代わり、不正な裁判が横行していました。
しかし、メシアが到来する終わりの日には、主が正しく国々をさばいてくださり完全な平和がもたらされる、というのです。終わりの日には、もはや悪がはびこることがない、人に騙されこともないのです。「初めに神が天と地を創った」時の完全な調和の回復です。メシアが来て、神と人が、そして人と人が和解し平和が訪れる。これがイザヤが預言する終末の平和です。
平和としての福音
「剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」というイザヤが預言する終わりの時の平和をみてきました。
メシアが来るという預言はイエスキリストの誕生という形で成就します。それがクリスマスです。
イエス・キリストが生まれる時、羊飼いに天使が表れて讃美しました。
いと高き所に栄光が神にあるように
地の上に平和が御心にかなう人にありますように。
クリスマスの中心メッセージは「平和」です。学生が「毎日がクリスマス」という言葉を最近教えてくれました。キリスト教の中心メッセージは、平和であり喜びなのだから、毎月、毎日クリスマスの喜びを持ち続けましょう、ということだそうです。
聖書によれば、かつて私たちは神と敵対していました。しかし主イエスの十字架の血で私たちは赦されました。神様と和解しました。平安を得ました。そして、私たち一人ひとりに、和解の努めを託されました。
私たちは現実には個人レベルでも私たちは憎しみあったり、裁きあったりします。世界各地で戦争や紛争が絶えません。理由もなく命を殺められたり、迫害されている人々がいます。私たち人間の「罪」ゆえに私たちはやりたい善いことをできずにかえってやりたくない悪を行ってしまう存在です。だからこそ、私たちにには私たちの罪を赦してくださる主イエスが必要です。
クリスマスに一人の方の洗礼が予定されています。洗礼とは神の赦しと平和・和解を受け取ることです。言い換えるなら、①父なる神の恵みを受け取ること、②神様が差し出してくださる子なるキリストの愛というプレゼントを受け入れること、③心に平和をくださる聖霊との交わりの中に入ることです。クリスマス礼拝では洗礼を共に祝福できたらと願っています。
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。
この猛暑を乗り越えて、平和を祈りつつ、喜びの季節クリスマスを健康な体で喜びをもって迎えられますように、お祈りします。
お祈り
「ヤコブの言えよ、主の光の中を歩もう」
平和の君なるイエス様。
先人たちの努力により、この日本が復興し平和が保たれていることに心より感謝します。世界を見渡せば戦争、紛争が各地であります。犠牲になった方、残されたご遺族のためにお祈りします。
どうか望みの神があなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもってみたし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。平和の君、イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン。