はじめに
旧約聖書・詩編46編は、宗教改革者マルチン・ルターが愛した詩として知られています。 預言者イザヤの影響を受けたと思える将来の希望を語る詩です。この詩篇46編の言葉を暗誦して、大きな病気の手術に臨んだ人がいます。この詩篇46篇の賛美歌を口ずさみ力をもらいながら困難なプロジェクトに取り組んだ会社員の方がいます。
思いもよらない困難や試練がやって来るような時にも、神と共にあれば恐れることはない。そんな確固とした信仰を詠(うた)ったのが、詩篇46篇です。今日は、多くの人の心の支えになった詩篇46篇を共に味わっていきましょう。
ルターの紹介
10月31日は、プロテスタントの教会は宗教改革記念日です。1517年10月31日、 ドイツの修道僧マルチン・ルターがドイツ・ヴィッテンベルグの教会の壁に「95箇条の提題」を掲げたことから始まります。宗教改革とは聖書のことば「正しい者は信仰によって生きる」ということばの意味の再発見、言い換えれば「信仰義認論」の再発見です。ルターの主張はこのようなものです。

わたしたちを真実に生かす力は人間の行う行いからきているのではなく、神により頼む信仰からくる。たとえ私たちに弱さや失敗があっても信仰により恵みにより正しい者とされる。この宗教改革での福音の真理の発見が私たちプロテスタント教会のアイデンティティであり、原動力なのです。
「行いのない者を、値なしに信仰のみで正しいものと認める」という「信仰義認論」は、「不敬虔」 「罪人」「ダメで弱い私たち」をこそ受け入れ愛して私たちの罪のために十字架にかかったイエス様をを想い起こさせます。
詩篇46篇の詩は「宗教改革の鬨の声 (War Cry)」 とも呼ばれます。ルターは、当時の既得権益、特に贖宥状【免罪符】を買わないと罪が赦されない、救われない、という考えに対して、No!(ドイツ語でNein!)をつきつけ、孤軍奮闘で戦いました。その時にルターをなぐさめたのが、詩篇46篇の言葉です。
詩篇46

こちらのスライドをご覧ください。詩篇46篇は、神の天地創造、神が支配する歴史、終末の希望という壮大なスケールの要素がつまっています。46篇は3つのボディに分かれます。
- 2-4節 激動の中の信仰
- 5-8節 神の都の描写
- 9-12節 神の歴史支配の完成

2-4節 には大激動の時代が描かれます。 大地が破壊されます。こちらの3節をもう一度読みます。
3わたしたちは決して恐れない地が姿を変え山々が揺らいで海の中に移るとも4海の水が騒ぎ、沸き返りその高ぶるさまに山々が震えるとも。
「海」 は混沌の象徴です。 海が 泡立って怪物のようになり轟く様が歌われています。 天地創造の際に神は、ことばにより天地万物を作りました。想像してみてください、山々が海の真中に飛び混む映像を。
「初めに神は天地を創造された。地は混沌で闇が深淵のおもてにあり神の霊が・・・」
その「混沌」 が人間の世界を飲み込もうしているかのような描写が、こちら詩篇46章3節です。
しかし、この天変地異のカオスのただ中で、 この詩人は 「恐れない」 (3節) と断言します。
なぜなら、神が共におられるからです。 中近東地方は激しい地震の多い所で、有史以来、どれだけ多くの文明都市が崩壊し、滅亡したかわかりません。しかし、万軍の主が、われらの側に味方しておられるなら、何も恐れることはない。
「神はわたしたちの避けどころ、 わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」 (2節)
「神はわれらの避け所、また力なり。なやめるときのいと近き助けなり」(文語訳聖書)
猛暑、地震、台風や水害の被害等のニュースが近年も続きます。相次ぐ戦争のニュースに心を痛めます。 また、私たち個人のレベルでも、苦難や悩みもたくさんあります。その苦難の時、必ずやそこにいまして助けてくださる、と聖書にはあります。神様ご自身が私たちの避難所である、というの2節です。
こちらのスライドで「必ずやそこにしまして」は文語訳聖書や口語訳聖書では「いと近き」と訳されています。「いと近き」とは・・・原文の「ニムツァー メオッド」です。この「メオッド」には「大能、力」という意味もあり「力強く助けてくださる。確かに助けてくださる。速やかに助けてくださる」というニュアンスのことばです。
たとえ現在は苦難のどん底で絶望的であっても、もうすぐそこに救いが見えている。「力強くも、確かに、殊のほか近い」救助が待っている。必ず見いだされる助けがある。これをイザヤに影響を受けた詩人は知っていました。「人生楽ありゃ、苦もあるさ」。私たちには、人生苦というか、さまざまの困難な問題やチャレンジがあります。
しかし聖書の神は、苦難の中において「助け(エズラー)」として発見される生きて働く神です。このような背景で3節「わたしたちは決して恐れない」と詩人は宣言し、告白しています。
使徒パウロは言いました。「神がわれらの味方であるなら、だれがわれらに敵しえようか」(ローマ人への手紙8章31節)。白洋舎というクリーニング会社の創業者の物語を三浦綾子さんが『夕あり朝あり』という小説に、このことばがでてきました。
どのように敵の大軍があっても、天の万軍には敵わず、われらの神である。われらは眠っても覚めても、神と共にある。この信仰を実践した方が私の知り合いにいます。その方は暗誦した「私らは恐れじ!」「神そのなかにいませば都はうごかじ」「汝静まりて我の神たるを知れ」「神我らの味方するなら誰か我らに敵せんや」(詩篇46)と賛美歌377「神はわがやぐら」を口ずさみながら、手術に臨みました。

第二部 (5-8節) は場面が急に変り、静かな、静かな川の流れ、 朝もや たなびく清い神の都の描写で始まります。
「大河とその流れは、神の都に喜びを与える いと高き神のいます聖所に。 神はその中にいまし、 都は揺らぐことがない。 夜明けとともに、 神は助けをお与えになる。」 (5、6節)
文語訳では、「神そのなか にいませば都はうごかじ」
神の平安のある所、 聖霊の恵み に憩う現実を描写しています。大河とその流れ、この大きい川というのは原語で「(ナハル)」です。これは灼熱の夏にも水が涸れることのない流れを指します。そして、この川から流れ出る支流は都に流れ込み、都を潤します。
イエス様は言いました。「わたしを信じた者は聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川になって流れ出るようになる」(ヨハネ7:37)
エルサレムの都に豊かな水が流れていったのと同じように、私たちの心の中にも聖書のことばにより聖霊により命の川が流れていきます。

第三部の9-12節では詩人は「終末に起こる神の歴史支配の完成」を歌っています。
10節「地の果てまで、戦いを断ち弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる」
ここは、平和を来たらせるために諸々の力と対峙し、独り戦わせる方としての神様が描写されています。
- 「力を捨てよ 知れわたしは神。 国々にあがめられこの地であがめられる」(新共同訳聖書)
- 「静まって、わたしこそ神であ ることを知れ!」(口語訳聖書)
- 「汝静まりて我の神たるを知れ(文語訳聖書)」
たしかに、目の前の現実は、世界で戦争があり、不条理なこと悲惨なこと、悲しいことが消えないようにもみえます。しかし、終末の歴史の完成へと導くという信 仰に立って断言しているのが、この詩篇46の後半です。以前、広島の世界平和記念聖堂の鐘と平和の話をしましたが、その時のイザヤ書2章の終末の希望と呼応するものが、この詩篇46篇にはあります。
結論
私たちの周囲にも、いろいろなトラブルがあります。不安になることがあります。苦難のどん底で絶望的になることもあります。傷つくこともがあります。ネガティブな思いが、頭の中に投げ込まれます。
しかし敵が誇らかにも勝つかに見える時に、なお「誇るものは誇れ。周囲は泡立ち震い動け。されど、わが主キリストよ、あなたは私と共にある!」 ルターがこの言葉に励まされました。私たちも心と思いを詩篇46編の言葉で満たしていこうではありませか。
*このお話を後にご一緒に歌う賛美歌「377(神はわが砦)」はルターが詩篇46篇を主題に作詞作曲した曲です。ルター自身も詩篇46篇をよく読み、味わい、研究しました。そして宗教改革に取り組み傷ついた時に、詩篇46篇のことばに慰めを受けていました。