メメント・モリ

聖書箇所:詩編90編1−12(旧約p.929)

 

目次

キリスト教は何を信じているのか

皆さんは教会に通うクリスチャンが何を信じているかご存知でしょうか。今日、礼拝にご参加くださっている中には、親御さんやお祖父様お祖母様、ご親族の方がクリスチャンで、行人坂教会に通っていたという方もいらっしゃいます。中には小さい時に家族に連れられて教会学校に通っていたという方もいらっしゃるのではないでしょうか。

教会では天に召された方、亡くなった方を「天上の友」とお呼びしております。行人坂教会ではその方々を偲びお祈りする場を今日、設けさせていただきました。

皆様のご親族は、何を信じていたのか。キリスト教の死生観とはどのようなものか。今日はメメント・モリということばを手がかりに旧約聖書の「詩篇」という詩をご一緒に見てまいりましょう!その上で、イエス・キリストの信仰により、天上の友とまた会う希望がある、ということを今日はお話します。

祈り

恵みと憐れみに富みたもう主なる神様。あなたはすべての時、すべての場において、わたしたちを顧み、守り、導いてくださいます。あなたは私達の敬愛する「天上の友」をみもとに召されました。天上の友の方々は、その生涯をあなたによって守られ歩むべき道のりを歩みとおし、果たすべきわざを果たし御元へ帰りました。ここに天上の友を偲び、ことに今年天に帰られた方々のご遺族の慰めのためにお祈りいたします。主イエス・キリストのお名前でお祈りします。

メメント・モリ

「メメント・モリ」という言葉があります。キリスト教修道院の格言です。 「死を覚えよ」という意味です。

今ほど朗読された旧約聖書・詩篇90篇は、お葬式でもしばしば使われる聖書箇所です。この詩に「メメント・モリ」死を覚えよ、という内容があります。

あなたは人を塵に返し

「人の子よ、帰れ」と仰せになります

創世記では、エデンの園においてアダムとエバが創造主なる神様によって土の塵から作られた、とあります。そして神様は「あなたは塵だから塵に帰る」。人は土の塵から作られたものにすぎない。という人間観、死生観があります。

千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。

夜の一時とは、夜の警備の交代シフトの4時間を指します。千年も神様の目から見たら4時間にすぎない。すなわち、永久の時間軸、永遠の時間軸で考えると、私達の一生は、ほんのはかないものです。

5あなたは眠りの中に人を漂わせ

朝が来れば、人は草のように移ろいます。

6朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい

夕べにはしおれ、枯れて行きます。

5節の「草」とは旧約聖書において人生のはかなさのたとえ。人間の一生は6節にあるように「朝に花を咲かせ、夕べにはしおれ枯れるのです」。どんなに隆盛を極めて贅の限りを尽くしても人間はいつか亡くなるんだという虚無感を詠んだ詩です。

明日の朝、確実に目が覚める保証があるでしょうか。私たちは意外と危うい可能性の中で生きています。長生きするだろうと思われていた人が、思いがけず短命で終わることもあります。逆に、病気がちで短命を気遣われていた方がかえって長寿を全うする場合もあります。 

男性が81.05歳、女性が87.09歳。これは、厚生労働省の平均寿命統計データです。平均寿命の統計は自分がそこまで生きられることを必ずしも保証する数字ではありません。私自身、42歳の時に、死に至る大病を経験しました。

奇跡的に一命をとりとめました。毎日元気に生きていることが、当たり前のことではなく、本当に有り難いことだと知りました。当たり前なことは一つもない。全ては神様に守られ、神様の恵みと哀れみで生かされている。生きているのではなく、神様に生かされている。その生かされている奇跡に感謝をささげに私自身も毎週礼拝に出席しております。

「メメント・モリ」 (死を覚えよ)の格言のもとになることばが10節以下にあります。

10人生の年月は七十年程のものです。

健やかな人が八十年を数えても

得るところは労苦と災いにすぎません。

瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります

11御怒りの力を誰が知りえましょうか。

あなたを畏れ敬うにつれて

あなたの憤りをも知ることでしょう。

当時の平均死亡年齢は35-50歳と推定されますが、理想の寿命として70-80歳と詩人は書きました。月本昭男『詩篇の思想と信仰』Ⅳ、p.246

「得るところは労苦と災いにすぎません」短い一生をあくせくと働き生きても、それが労苦と災のためなら、そこに意義はあるのか。なんと虚しいことではないかと詩人も問いかけます。

12生涯の日を正しく数えるように教えてください。

知恵ある心を得ることができますように。

「自分の寿命、齢を正しく数えさせてください。人間の命がはかなく人は必ず死ぬことを覚えさせてください」という祈りです。この祈りから、メメント・モリという考え方がきていています。

私たちの人生は、春夏秋冬の季節で表されることがあります。人生のそれぞれの季節、順調なときもあれば逆境の時もあります。

このお話の後に歌う讃美歌385番「花彩る春を」は、人生の春、夏、秋、冬を歌っています。天上の友の方の人生の各季節はどのようなものだったでしょうか。

1番

花彩る春を この友は生きた、

  いのち満たす愛を 歌いつつ。

  悩みつまずくとき、この友の歌が

  私をつれもどす 主の道へ。  

2番

緑もえる夏を この友は生きた、

  いのち活かす道を 求めつつ。

  悩みつまずくとき、この友のすがた

  私をふりかえる 主の道で。

讃美歌385番「花彩る春を」

天上の友たちも、それぞれの場所で、その季節季節、賢明に生きて、地面に根を張って実を結び、天に凱旋していきました。そして、今も天から私達を見守り祈ってくださっています。

皆様も気が付かない間に、たまたま、守られていたことはありませんか。その背後に誰かが皆様の幸せと安全と健康と末永い祝福を祈ってくれていたのではないでしょうか。

なによりも、イエス様が「大丈夫!」と地上で暮らす私たちのことを毎日祈り、見守ってくれています。 そして「明日のことは心配しなくてもよい」と語ってくださっています。

天上の友のご家族と少しお話をする機会がありましたが、そのご遺族のお友達も洗礼を受けた方がいらっしゃる、ということです。「洗礼ってなんですか。幼児洗礼と洗礼は違うのですか。」と質問をいただきました。

先ほど、礼拝の中で共に朗読した使徒信条には、こうあります。「イエス・キリストが十字架で死に、葬られ、よみにくだり、三日目によみがえり」これがキリスト教の信仰告白です。イエス・キリストはこの十字架にかかり、3日目に死から復活して死と罪に打ち勝った、と聖書にはあります。「あなたの罪は赦された」というイエスキリストの言葉が洗礼式でも宣言されます。

一般的に「死んだら終わり」という考えもあります。しかし、聖書の死生観は、この地上での命の終わりは、永遠の命の始まりです。イエス・キリストの信実により罪が赦され「永遠の命」が与えられます。天に召された方とまた会う希望がある。

さらには、この地上の人生の中でも、人知を超えた平安が約束されています。そして「あなたには明日生きる意味がある」という希望と励ましすらイエス・キリストは与えてくださっています。その新しい生命は自分以外の他者にも開かれた生命。キリストの体の一部として生かされる生命。神の栄光のため、誰かの幸せのために用いる生命です。

礼拝堂にはゆっくりとした時間が流れています。私たちはお仕事や学校や家事など、毎日のせわしい生活で静まる時間がとれなかったりするのではないでしょうか。私達人間は感謝を忘れてしまう生き物です。

だからこそ、わたしたちは日曜日に教会に集まり、祈り静まり、神様に感謝をささげています。ぜひ、折に触れて教会にお越しください。皆様が礼拝で一緒に祈る時、天に先にいかれたお父様お母様も共に祈ってくれています。これからクリスマスシーズンですので、もしよければ行人坂教会へのお越しをお待ちしております。

結論

以上、聖書における「メメントモリ(死を覚えよ)」の詩をみてきました。死と罪に打ち勝つ永遠の命の喜び、天上の友とまた会える希望が聖書にはあることをみてきました。

このお話の後「永眠者記念式」では、前方のスクリーンで教会で天に召された方々のお名前が表示されます。行人坂教会はお陰様で今年120周年を迎えました。120年の間、教会を支えてくださってきた天上の友のために、またご遺族のために祈る時間を持ちます。

今日ここにおられるお一人お一人、天におくった大切な方がいらっしゃると思います。どうぞ、これからの永眠者記念式では、皆様それぞれ、亡くなられた誰か大切な人のことを想い起こし、その方の周りの方のために祈る時間にして頂けたら幸いです。祈りをささげます。  

  祈り

主よ。この行人坂教会の地で、この礼拝堂で祈ってくれた天上の友がいました。そのご家族、ご近親の方々の上に、あなたの豊かな祝福がありますようにお祈りします。

あなたによって与えられた天上の友との交わりは、永久に失われることはありません。天上の友の方々は、そのイエス・キリスト信仰によって、今もなおあなたの恵みを語り、証しています。どうか、天上の友の方々に与えられている平安と慰めを、ここに集うわたしたち一人一人にもお与えください。

神様。私達が、生涯の日を正しく数えるように教えてください。

知恵ある心を得ることができますように助けてください。

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