「私たちも父の家へ」

須田 拓牧師

放蕩息子の話は、悔い改めの話としてよく知られています。財産の分け前をもらって遠く離れた地で放蕩の限りを尽くした息子が、そこで悔い改め、父の家に帰ってきたところ、父は帰ってきた息子を見るなり駆け寄り、喜んで、祝宴を開いたという話です。 

 この放蕩息子は明らかに、主が食事を共にしていた徴税人や罪人と呼ばれる、当時、神を畏れない、最も救われ難い者と見なされていた人々が意識されています。しかし私たちこそ、日々神から心離れ、与えられている賜物を神や隣人のために用いず無駄遣いし、その自分を自分ではどうにもできない救われ難い者です。しかし、その私たちを神はあの息子のように愛し、帰ってくれば喜んで必ず受け入れてくださるというのです。

 神は決して、私たちのどうしようもない部分を見て見ぬふりをしておられるのではありません。神は、それをご自分の独り子に負わせるほどに真剣に扱い、その上で、心配せずに戻ってきなさいと仰います。    

しかし私たちはあの放蕩息子と違って、父の許に帰ろうとすらしない者です。そこで、この話の前に「探す」話があることが重要です。実際、主は天に帰られた後、聖霊を送って、そのような私たちを探し出し、連れてきてまでくださったのではないでしょうか。

 私たちは知らず知らずのうちにこの物語の主人公にされているのかもしれません。今、神に心を向け礼拝しているのは、私たちが聖霊によって見つけ出されてきたからです。そして洗礼式において、迷っていた者がキリストにしっかりと結ばれ、神の子というあの息子と同じ立場にされ、よく帰ってきたと歓迎されます。そして、また心が離れてしまう私たちを、神は門の前にまで出て、「いつでも帰ってお出で」と呼んで待っていてくださるのです。

 私たちには、いつどんな時にも帰ることのできるところがあります。ここ教会は聖書の御言葉を通して神の招きと愛の声とで満ちており、そして神は聖餐の食卓という祝宴を開いてくださいます。だからこそここには歌声があり、喜びの音色が響き渡るのです。そしてここに帰ってくること、それこそが悔い改めであるのです。ルカによる福音書15章1-3, 11b-32節

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