行人坂教会 公式サイト ご案内

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行人坂教会について・・・当教会の歴史・沿革についてご紹介します。
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 教会へのアクセス・・・当教会への交通、付近の地図、連絡先です。
牧師ご挨拶・・・・・・・当教会牧師のご紹介で、本人のプロフィールもあります。
牧師の書斎から・・・・・当教会牧師のメッセージ、記事を集めています。
 会報巻頭言など・・・・当教会会報「行人坂」に掲載された牧師のメッセージ集です。
 こんにゃく問答・・・・同じく、会報「行人坂」に掲載された教理問答集です。
教会からのお知らせ・・・各種イベント(イースター、クリスマス諸行事、バザーなど)のご案内です。
毎週の礼拝案内・・・・・毎週の主日礼拝のご案内(概要)があります。
      *最新情報*礼拝終了後は当日の音声録音を聴くことができます
毎週の講壇から・・・・・毎週の主日礼拝での説教の要約をまとめてあります。
教会アルバム・・・・・・当教会で過去開催された行事の写真集です。
オリジナル賛美歌など・・当教会の会員有志が作成したオリジナル賛美歌をご紹介します。
リンク・・・・・・・・・日本キリスト教団他の関連サイトへのリンク集です。

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それでは、どうぞご覧下さい。なお、以下は最近の記事です。


2021年04月17日

旭日亭菜単(続き)その64

  • 「シオンズ・フィクション/イスラエルSF傑作選」(中村融他訳、竹書房文庫)
    こんな奇特な企画が通ったのも、中国SFのアンソロジー『折りたたみ北京』(その内に読みます)が売れたせいでしょう。『第四惑星の反乱』や『生きていた火星人』のシルヴァーバーグが「まえがき」を書いていますが、ヘブライ聖書(旧約)がSFイメージの宝庫であり「語り(騙り)/ナラティヴ」の最高峰であることを改めて証してくれています。この本、女性作家の作品が数多く採り上げられていることにも共感が持てます。エレナ・ゴメルの「エルサレムの死神」が私の推しです。リーブレヒトの「夜の似合う場所」も「アポカリプス物」に新しい地平を拓いています。ガイ・ハソンの「完璧な娘」には、シャーリー・ジャクソンとマーベルの「X-メン」をブレンドした匂いがあります。ヤエル・フルマンの「男の夢」は、主人公が自分の意志とは無関係に、夢に見た女性を自分の隣に有無を言わさず転送させてしまう特殊能力(病気)を持っていて、遣る瀬無い悲劇としか言いようがありません。
  • 「ゴールデンカムイ」第25巻(野田サトル作、集英社)
    北海道時代、新千歳空港に友人を迎えに行くと、道道16号線を通って支笏湖に出たものです。「支笏湖公園線」とか「支笏湖スカイロード」と言われます。冬季には『アナ雪』の世界「霧氷ロード」と化すことがあります。第241話「消えたカムイ」〜第242話「交互に」に北海道式の凄まじい森林伐採が出て来ますが、ある日、16号線を走っていて、片側の森林が丸裸に成っているのを見て驚愕したことを思い出しました。切り裂きジャックと顔面刺青男(元ネタはイーライ・ロス監督の『ホーンテッド』か)、二人の犯罪者の刺青人皮を求めて「札幌に終結する全勢力」って、「網走監獄クライマックス」の再現でしょうか。
  • 「世界最終戦争の夢」(H・G・ウェルズ著、阿部知二訳、創元SF文庫)
    往年のパニック映画『巨大蟻の帝国』(バート・I・ゴードン監督)では、核廃棄物の影響でアフリカゾウくらいに巨大化した蟻の軍団が人間を襲います。まあ、ゴミ映画の1本ですが、その原作とされているのが、巻頭の「アリの帝国」です。勿論、上記の映画とは似ても似つかぬ深い内容です。むしろ、小説で言えばコンラッドの「闇の奥」、映画ならソール・バス監督の『フェイズW/戦慄!昆虫パニック』に近い。外来種による生態系の崩壊、ウイルス感染のパンデミックを予感させる作風です。同趣向の巻末「クモの谷」も絶品です。「盲人村」はアンデス山脈の奥地に、風土病と遺伝により全住民が盲人の村があるという、昨今の『犬鳴村』『樹海村』等の「実録!恐怖の村シリーズ」元祖とも言うべき作品でした。
  • 「龍の起源」(荒川紘著、角川ソフィア文庫)
    著者は東洋の龍と西洋のドラゴンの起源を遡り、そこに古代から現代まで人間の魂に宿る宇宙観(コスモロジー)を再構築して行きます。日本の民俗学者が陥りがちな狭隘さ、海外の神話に対する知識不足などは全くありません。「創世記」や「ヨハネの黙示録」等も文献として取り上げていますが、神話学や古典文献学のみならず、聖書学にも目配せが行き届いています。それ故、メソポタミア神話やインド神話、仏教説話や日本の記紀神話などの解説も、心安らかに受け容れる事が出来ました。世界各地の土器や壺に残る「渦巻文」は、以前から気に成っていたのですが、漸く腑に落ちた心地です。素人にも読み易い文章で、胸を躍らせながら読み進むことが出来ます。そして結論部分では、農業や科学技術の抱える根源的な問題にまで踏み込み、文明批判が展開されます。
  • 「19世紀イタリア怪奇幻想短篇集」(橋本勝雄編訳、光文社古典新訳文庫)
    恐らく、幻想小説の見直しと再評価は世界的な潮流なのでしょう。タルケッティの「木苺の中の魂」は、怪奇短篇としての美点を全て兼ね備えた作品です。カミッロ・ボイトの「クリスマスの夜」は、若くして病死した美しい姉の面影に取り憑かれた青年の物語です。読んでいる間、シチリア島のカプチン修道会納骨堂に安置されているロザリア(世界一美しい少女のミイラ)を思い出していました。因みに、前者はエットーレ・スコーラ監督の映画『パッション・ダモーレ』の原作者、後者はルキノ・ヴィスコンティ監督の映画『夏の嵐』の原作者です。そう言えば、アッリーゴ・ボイトの「黒のビショップ」の場合も、ジッロ・ポンテコルヴォ監督の『ケマダの戦い』を連想しました。カトリックの司祭が体験した怪異譚、レミージョ・ゼーナの「死者の告解」、神聖冒瀆語満載の艶笑譚、インブリアーニの「三匹のカタツムリ」は対極に位置しながら、いずれもイタリアのお国柄を感じさせるものでした。
posted by 行人坂教会 at 21:41 | 牧師の書斎から

2021年04月13日

4月第3主日礼拝

       4月18日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”何のために生きるのか音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  ローマの信徒への手紙 14章1〜12節(p.293)
讃 美 歌  27、320、490、196、518、88
交読詩篇  詩編66編1〜9節(p.73)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2021年04月12日

イエスの顔も三度【ヨハネ 21:1〜14】

聖句「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現われたのは、これでもう三度目である。」(21:14)

1.《魂の暗証番号》 最近は、年配者が若い人に説教する姿が見られなくなりました。昔の人は叱るにしても、諺や格言を織り交ぜていました。その人の人生観や職業倫理を裏打ちするものだったのでしょう。愛誦聖句も同じです。朝な夕なに唱えて自分を律する聖句は、私たちの魂の一部になります。クレジットカードの暗証番号みたいなものです。愛誦聖句を忘れるようでは、天国の扉は開きません。

2.《見ずに信じる》 「仏の顔も三度」の由来は、コーサラ国の毘瑠璃王(ヴィドゥーダバ)の軍勢が母の祖国、釈迦族を攻めた時、釈尊が教え諭して戦を押し留めるのですが、遂に4度目に釈迦族を滅ぼしてしまう故事です。「仏の顔」は釈迦の威光ですが、3度までしか効かなかったようです。聖書の「神の御顔」も神の栄光と臨在を意味します。私たち人間が見ることは出来ません。ただ仰ぐのです。イエスさまの復活の御姿も「見る」ものではありません。「ヨハネによる福音書」20章では、マグダラのマリアから始まり「見る」という動詞が繰り返されますが、「見ないうちは信じない」トマスに対して、主は「見ないで信じる者になりなさい」と言われて、復活は見るものではなく信じるものだと解き明かされるのです。

3.《毎日の朝御飯》 21章は後日譚です。最近の映画やアニメはエンディングのクレジットの後に付け足しのドラマが続いたりします。これを映画業界では「ポスト・クレジット・シーン」と言います。派遣命令が出された後に、どうして弟子たちが漁師なんかやっているのでしょうか。それは、私たちの日常生活の中に復活の主が居られるというメッセージです。夜通し働いた弟子たちのために朝御飯を用意して待っているイエスさまは、私たちの家族、学生食堂のおばちゃんのようです。聖礼典だの秘蹟だのと勿体ぶったものではありません。もはや「見たの見ないの」と喧嘩する弟子は一人もいません。イエスさまがそこに居られるのが当たり前なので、誰も「あなたは誰か?」と問うたりしないのです。だって「これでももう3度目」なのですから。私たちの暮らしの中に主は居られるのです。 

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:54 | 毎週の講壇から

2021年04月06日

4月第2主日礼拝

      4月11日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”イエスの顔も三度音楽       朝日研一朗牧師
聖  書  ヨハネによる福音書 21章1〜14節(p.211)
讃 美 歌  27、320、490、553、326、88
交読詩篇  詩編66編1〜9節(p.73)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2021年04月05日

どこかで朝が始まっている【マタイ 28:1〜10】

聖句「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」(28:8)

1.《朝のリレー》 谷川俊太郎に「朝のリレー」という詩があります。初出は1968年の詩集ですが、1980年代に中学の国語の教科書に掲載され、2004年にはコーヒー会社のCMにも使用されて、多くの人に知られるようになりました。世界の各地に暮らす若者や子どもたちが時間差で朝を迎える様子が、地球上の人から人へと「朝がリレー」されていると表現されています。

2.《何を繋ぐか》 東京五輪の聖火リレーが始まりましたが、正直、コロナ禍とあって素直に祝福できません。聖火リレーの起源は古代ギリシアの「松明競争」と言われます。競技会の前に騎手や走者が松明を消さないように注意しながら、神殿までリレーする宗教儀礼でした。近代リレーの発祥は、米国の大学が大陸横断の「駅馬車」や「早馬」の制度をヒントにして、バトンを手渡すトラック競技を始めたとされています。米国の消防士の消防訓練競技で手旗をリレーしたという説もあります。日本の「駅伝」では「襷を繋ぐ」と言います。駅から駅へ馬を乗り換える「伝馬」制度を利用する役人が、朝廷から支給された「駅鈴」が襷の起源とも言われます。しかし、目に見えない何かを繋ぐリレーもあるのです。

3.《希望の朝だ》 最初に主の復活を伝えられたのは「マグダラのマリアともう一人のマリア」でした。「もう一人のマリア」とは「小ヤコブとヨセの母マリア」です。息子2人を主の弟子として送り出し、自らもガリラヤから従って来て、一行の世話をしていた女性です。十字架の最期を見届け、朝一番に墓参りにも来ています。彼女たちは、そこで転がる墓石、天使の啓示、逃亡する番兵、主の復活という出来事に出会うのです。福音を弟子たちに伝えるために、彼女たちは走ります。聖書の中で女性が走る場面は珍しいと思います。伝え聞いたペトロも墓に走ります。さながら「箱根駅伝」の往路と復路のようです。この2人の女性たちから、復活を伝える「朝のリレー」が始まり、2千年後の私たちの所に届きました。今日に至るまで、途絶える事無く続けられているのです。それが主日礼拝です。 

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:54 | 毎週の講壇から

2021年04月04日

イースター

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イースター礼拝の後、みなさんで記念写真を撮りました。撮る瞬間だけマスクを外しました。

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posted by 行人坂教会 at 15:07 | 教会アルバム

2021年03月30日

イースター(復活日)礼拝

      4月 4日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”どこかで朝が始まっている音楽   朝日研一朗牧師
聖  書  マタイによる福音書 28章1〜10節(p.59)
讃 美 歌  27、320、490、331、329、80、88
交読詩篇  詩編66編1〜9節(p.73)
聖 餐 式  テイクアウト用ポーションタイプ

・イースター写真撮影   礼拝後       礼拝堂

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 12:53 | 毎週の礼拝案内

2021年03月29日

ぞうきんのこころ【ヨハネ13:1〜11】

聖句「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(13:1)

1.《洗足と千束》 大田区には「千束」と「洗足」の地名が混在しています。その昔この地域は寺領だったので「稲千本分」の年貢が免ぜられていたので「千束」だったそうです。その後、日蓮が旅の途中、池で足を洗った伝説が加わり「洗足」の字が当てられたとか。ところが、1926年、この地に前田若尾が「洗足高等女学校」というキリスト主義学校を設立したのです。勿論、イエスさまの「洗足」の御業を建学の精神に掲げて校名にしたのでした。

2.《跣足と清貧》 カトリック教会には「跣足(せんそく)」と銘打った修道会があります。これは、アッシジのフランシスコとキアラ(クララ)が古代の使徒たちに倣って「裸足」で旅をしたことから来ています。それは清貧の実践でしたが、同時に、贅沢三昧を極めたローマ教会の内部改革を促す運動でもありました。因みに、日本では「清貧」と言われますが、ラテン語の「パウペルタース/貧しさ」には、「清い」等という自己主張はありません。そうではなくて、ただ単に「キリストは貧しさと苦しみの中に共に居られる」という信念です。安土桃山時代、フランシスコ会修道士が初めて入って来た時、貧しさを旨とする姿を見て、キリシタンの信仰に入った庶民も多かったと言われています。

3.《足を洗う主》 過越祭の食事(最後の晩餐)の直前、主は弟子たちの足を一人一人洗われました。人に仕える姿を身をもって示された等という教育実践のようなことではなく、洗足の御業そのものがキリストの御心そのものだったのです。確かに「大地/フムス」に触れる足は、私たちが地上の存在(この世の者)であるという限界を常に教えてくれます。その足を洗う主の御姿は「謙遜/フムス」そのものです。ペトロとの対話に気を取られますが、ここで最も焦点が当てられるべきは、イスカリオテのユダの存在です。主は裏切る者の足も洗われたのです。イエスさまは既に悪魔に取り憑かれている者をも「主の晩餐」に招かれているのです。そして手ずから聖餐のパンを差し出されたのです(直接、彼の口に入れたのかも知れません)。これが「世にある彼自身の弟子たちを愛して」愛し抜かれたという事柄の真骨頂なのです。裏切ったり、見捨てたり、逃げ出したり、否認したり、信じなかったりする弟子たちであっても、イエスさまの魂の一部なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:52 | 毎週の講壇から

2021年03月28日

3月第4主日礼拝(棕梠の主日、受難週)

      3月28日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”ぞうきんのこころ音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  ヨハネによる福音書 13章1〜11節(p.194)
讃 美 歌  150、543、487、29
交読詩篇  詩編86編5〜10節(p.98)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 10:10 | 毎週の礼拝案内