行人坂教会 公式サイト ご案内

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はじめに・・・・・・・・当教会からのご挨拶があります。
行人坂教会について・・・当教会の歴史・沿革についてご紹介します。
 礼拝・集会の案内・・・当教会で行っている礼拝と集会のご案内です。
 教会へのアクセス・・・当教会への交通、付近の地図、連絡先です。
牧師ご挨拶・・・・・・・当教会牧師のご紹介で、本人のプロフィールもあります。
牧師の書斎から・・・・・当教会牧師のメッセージ、記事を集めています。
 会報巻頭言など・・・・当教会会報「行人坂」に掲載された牧師のメッセージ集です。
 こんにゃく問答・・・・同じく、会報「行人坂」に掲載された教理問答集です。
教会からのお知らせ・・・各種イベント(イースター、クリスマス諸行事、バザーなど)のご案内です。
毎週の礼拝案内・・・・・毎週の主日礼拝のご案内(概要)があります。
      *最新情報*礼拝終了後は当日の音声録音を聴くことができます
毎週の講壇から・・・・・毎週の主日礼拝での説教の要約をまとめてあります。
教会アルバム・・・・・・当教会で過去開催された行事の写真集です。
オリジナル賛美歌など・・当教会の会員有志が作成したオリジナル賛美歌をご紹介します。
リンク・・・・・・・・・日本キリスト教団他の関連サイトへのリンク集です。

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それでは、どうぞご覧下さい。なお、以下は最近の記事です。


行人坂教会からのお知らせ


2017年8月中、毎週水曜日の「聖書と祈りの集い」は午前の部・午後の部共に休会です。



2017年07月18日

7月第4主日礼拝

       7月23日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 天使と野獣=@音楽         朝日研一朗牧師
聖  書  マルコによる福音書 1章12〜13節(p.61)
讃 美 歌  27、128、490、142、284、26
交読詩編  詩編143編1〜6節(p.160)

・讃美歌練習(8月の月歌:554番) 礼拝後     礼拝堂

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2017年07月17日

主の言葉は響き渡る【Tテサロニケ1:2〜10】

聖句「主の言葉があなたがたの所から出て、マケドニア州とアカイア州に響き渡った…ので、何も付け加えて言う必要はないほどです。」(1:8)

1.《ノイズ》 礼拝説教が佳境に入った時に、折り悪く、教会の側をちり紙交換車がアナウンスをしながら通り、苦笑せざるを得ないことがありました。選挙カー、右翼街宣車、ちり紙交換、移動販売車など、英語では「sound trucks/音響トラック車」と言いますが、日本独自の文化です。「騒音」の対語は「清音、楽音」と言いますが、騒音か否かは、個々人の快不快に左右されます。

2.《コール》 美しい音楽も歌声も「聞きたくない」人にとっては騒音です。世間でも「子どもの声は騒音か、それとも希望の響きか」は大きなテーマと成っています。テサロニケの信徒たちの「信仰の働き、愛の労苦、希望の忍耐」はマケドニアとアカイアに「響き渡っている」とパウロは言います。「主の言葉は響き渡る」という言い回しは「詩編」19編2〜5節から採られています。「響き」はヘブル語で「コール」、ラッパの響きも雷鳴の轟きも、声や音色も「コール」です。サイモン&ガーファンクルのヒット曲「サウンド・オブ・サイレンス」も「その声も聞こえないのに/その響きは全地に普く」から来ているのです。

3.《神の声》 何万人もの人々が暮らしている都会生活では、言葉も歌も大量に消費されて行きます。話していても、互いの気持ちが通じ合うことは思いの他、少ないのです。喧騒と音響が溢れているのに、意味のある音が受け止められません。しかし、昔の人は空を仰ぐだけで神の御言葉を思ったのです。パウロの「あなたがたの信仰が至る所で伝えられている」は、メディアの無い時代、大袈裟かも知れません。しかし、教会の人たちは覚えて祈っていた。「知る人ぞ知る」のです。また、神さまさえ御存知ならば、誰からも知られなくても良いのです。何しろ、信仰とは「神のみぞ知るセカイ」なのですから。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:52 | 毎週の講壇から

2017年07月11日

7月第3主日礼拝

       7月16日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 主の言葉は響き渡る=@音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  テサロニケの信徒への手紙T 1章2〜10節(p.374)
讃 美 歌  27、128、490、54、457、26
交読詩編  詩編143編1〜6節(p.160)


・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2017年07月10日

神の国は、飲み食いではなく【ローマ14:13〜23】

聖句「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(14:17)

1.《ハラール》 イスラム圏から来日する観光客の増加と共に、イスラム法に照らして食べても良いと認定された食材の専門店、ハラール料理を提供する店が出て来ました。その認証を与える協会も含めて「ハラルビジネス」と言います。しかし、ハラールも実際には、国と民族と文化による温度差、意識の個人差もあり、食物タブーを厳密に守っていられない状況もあるのです。

2.《棲み分け》 「ローマの信徒」たちは「ヘレニスト」(ギリシア語を母語ととして外国で暮らすユダヤ人)に「異邦人」も加わる混成集団でした。文化的、宗教的背景も異なります。しかし、そのような人たちが共に集まって礼拝を守っていたところに活気が溢れていたのです。米国キリスト教史を学ぶと、移民は宗教集団であり、各民族、各宗派ごとに棲み分けがあることに気付きます。しかしながら、パウロの時代のキリスト者の集まりには、未だ棲み分けはなかったのです。当然そこに衝突も生まれます。にもかかわらず、それでも礼拝を共にして行ったところに、パウロの果たした役割があったのです。

3.《愛に従う》 当時の礼拝は、食事を共にしながら祈り、賛美し、キリストを記念したのです。食事が各自持ち寄りだったのか、給食だったのか、会場の主催者提供だったのか定かではありませんが、戒律を守る人の前に禁忌とされた食材を置くのは、如何にも愛がありません。一種のハラスメントです。それ故、パウロは「神の国は飲食にあらず」と叱っているのです。ところで、イエスさまは反対に「神の国は大宴会」と仰っています。主の慈悲に限りが無いことに気付く日が来ます。その日には、私たちが選んだものも拒んだものも、全て与えられることでしょう(映画『バベットの晩餐会』より)。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:49 | 毎週の講壇から

旭日亭菜単(続き)その39

  • 「紙の動物園/ケン・リュウ短篇傑作集1」(ケン・リュウ著、古沢嘉通編訳、ハヤカワ文庫)
    読み始めてすぐに、同じ中国系のテッド・チャン(『あなたの人生の物語』)を思い出しました。深い喪失感に裏打ちされたファンタジーなのです。案の定、著者自身が「チャン作品にこれまで大きな影響を与えられている」と付記していました。折紙の動物たちが命を吹き込まれて戯れる表題作、同じように漢字が魔法の力を顕わす巻末の「文字占い師」、「結縄」には、縄を編むことで記録される言語が出て来ます。「心智五行」では、体内にバクテリアを取り込むことで、ある惑星の環境への適応を果たした部族が登場します。一旦、北米白人の目に触れることで異化された「東洋のエキゾチシズム」、これがケン・リュウの方術です。彼の作品には、米国白人社会に憧れを抱きながらも、彼らによって手痛く裏切られる中国人が繰り返し描かれています。「太平洋横断海底トンネル小史」では、相手は日本帝国です。しかし、米国白人も日帝も、中国共産党も台湾国民党も、憎しみの対象としては描かれないのです。「文字占い師」の中で、甘さんは在台米軍の情報将校と国民党の軍属から、最愛の息子を眼前で殺され、自身も凄惨な拷問を受けた挙句に殺されるのですが、カート・ヴォネガットのように、怨みを超越してしまっているのです。痛みが憎しみに流れないのです。その点、優雅ですらあります。
  • 「世界ファンタスティック映画狂時代」(友成純一著、洋泉社)
    著者が「キネマ旬報」に連載していた「びっくり王国大作戦」は欠かさず読んでいました。フランスのアヴォリアッツ、カタルーニャのシチェス、ポルトガルのファンタスポルト等の「ファンタスティック映画祭」にプレスとして参加し続け、世界中のホラーやスプラッター、エログロ映画を観まくった著者が、そこで出会った映画人たちとの交流を含めて綴った貴重な記録です。ピーター・ジャクソン、タランティーノ、トビー・フーパー等、ビッグネームも出て来ますが、やはり、巻末の第5章「ファンタで出会った凄い人たち」が凄い!の一言。『ソサエティ』のブライアン・ユズナ、『リトルショップ・オブ・テラーズ』のイワン・カルドソ、『コフィン・ジョー』のホセ・モジカ・マリンズ、『ネクロマンティック』のユルグ・ブットゲライト、『ゾンパイア/死霊大戦』のオラフ・イッテンバッハ等の記述は、VHS乱発時代の狂奔を思い出して、ニヤニヤしました。「君の名字、ブットゲライトっていうのか? 日本ではそう呼ばれているが」、それに対して「俺の名前か、それは?」と、Buttgereit本人が応える珍問答は涙が出る程に微笑ましい。
  • 「興亡の世界史/ケルトの水脈」(原聖著、講談社学術文庫)
    妻が一時期、セシルさんというブルターニュ人からフランス語を習っていました。彼女は黒沢清監督の大ファンで、水木しげるの『墓場の鬼太郎』も読んでいました。それは、彼女の中に流れるケルトの血のせいかも知れません。我らが柳田國男も、ブルターニュの民族学者、ポール・セビヨから方法論を学んでいたのです。日本民俗学との接点も深いのです。民族移動に伴う文化や言語の連続性については、「言語が存続するか消滅するかの境目を移住者の視点から考えると、家族をともなうか単身なのかが大きな分岐点となる」との卓見。「自文化に対する自負心が、文化的権威を背景にした「文明開化」の思想、これこそキリスト教が本来持つ普遍性(カトリシテ)の思想にもつながる」。つまり、文化的優位性の自意識があって初めて、伝道者は異文化の地に乗り出す布教の覚悟を固めると、著者は指摘しています。欧米の宣教師のみならず、イスラムの布教、仏教の伝播、全てに言えることです。日本のキリスト教界について言えば、現在、韓国系の教会が日本の布教活動に熱心なのも、彼らの優越感が大きく作用しているはずです。それに対して、昔ながらの教会においては、伝道意欲が低いと非難されがちです。しかし、それは日本の土着文化、土着宗教に敬意を払い、同じ目線に立とうという所に到達したからなのです。例えば、ブルターニュでは「布教者のキリスト教化はまったく強引なところがなく、一歩前進一歩後退の状態にあった」「布教者が異教に寛容であった」と著者は言います。これがケルト的キリスト教を育んだのです。私がケルト十字架を特に愛しているのも、このスタンスを是とするからです。「土着的な独自のものと普遍的なものとが入り交じって一つの文化を構成」すること、日本文化と日本的感性を愛する牧師としての理想です。
  • 「シュトヘル/悪霊」第14巻(伊藤悠作、小学館)
    完結しちゃいました。主要登場人物が一堂に南宋国都江堰に集結。命のやり取りです。但し、急変する展開もアクションも、良い意味で物語に従属しています。その物語とは…。国は滅んでも民は生きる。民は滅んでも人は生きる。人は死んでも文字は生き残る。文字を使う人が消えれば文字も死ぬ。しかし、死んだ文字でも、それに人が触れることで息を吹き返す。今失われつつあるのは生物多様性だけではありません。グローバリズムという暴力の中で、人間の言語や文化、信仰の多様性も急激に失われているのです。些か駆け足ながらも、そういうことを深く思わされる幕切れでした。この日本でも、地方の町村の人口減少のために、人々の暮らし、風土が消滅しています。もはや止めようのないことだとは思います。その代わりに、私たちは未来に向けて、何かの種子を蒔く責任があるように思うのです。
  • 「ヒトラーの描いた薔薇」(ハーラン・エリスン著、伊藤典夫他訳、ハヤカワ文庫)
    エリスンはテレビドラマの台本を書いていただけあって、すぐに映画化できそうな作品があります。「血を流す石像」では、NYの聖パトリック大聖堂の尖塔に施されたガーゴイルの意匠が実体化して、枢機卿を串刺しに、尼僧を股裂きに、「ジーザス運動」の群集を虐殺します。『空の大怪獣Q』のラリー・コーエンに映画化して貰いたいです。このように、著者のキリスト教に対する嫌悪が、どの作品からも醸し出されていて、その反骨ぶりには脱帽です。日本で神社神道に対して、ここまで牙を剝いて愚弄できる作家が一人でもいるでしょうか。「睡眠時の夢の効用」では、ジェリー・ファウェル(80年代を代表するTV伝道師、「モラル・マジョリティ」でレーガン政権を支えた)を名指しで「糞野郎」呼ばわりしています(勿論、88年の作品)。表題作に至っては、エリスン自身はユダヤ人でありながら、地獄に堕とされたヒトラーの姿を詩情豊かに描いています。「クロウトウン」には絶句。主人公の青年弁護士は自宅で恋人を堕胎させますが、トイレに流した胎児を探して来るように、恋人に要求され、マンホールの蓋を開けて下水道に降りて行きます。この初期設定だけで、もう降参です。こちらは、コーエンの『悪魔の赤ちゃん』を思い出させます。
posted by 行人坂教会 at 09:11 | 毎週の礼拝案内

2017年07月04日

7月第2主日礼拝

       7月 9日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 神の国は、飲み食いではなく=@音楽 朝日研一朗牧師
聖  書  ローマの信徒への手紙 14章13〜23節(p.294)
讃 美 歌  27、128、490、129、487、26
交読詩編  詩編143編1〜6節(p.160)

青空カフェ    礼拝後      玄関バルコニー

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2017年07月03日

ここに私がいます【イザヤ6:1〜8】

聖句「そのとき、わたしは主の御声を聞いた。…わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください』」(6:8)

1.《セラフィム》 かつてカトリックのミサでは「サンクトゥス/聖なるかな」の「三聖唱」の合図に、鈴を鳴らして注意喚起したそうです。礼拝の中心だったのです。聖書の中では「セラフィム」という天上の生き物が歌います。5世紀のシリアの神学者、偽ディオニシオス・アレオパギタによれば、全9段階の「天使の位階」の最上位にあって主に仕える天使とされています。

2.《声を聴く心》 「イザヤの召命」は、紀元前739年とされています。預言者を待ち受けるのは、アッシリア帝国の勃興による未曾有の国難です。モーセと同じく、イザヤも主の召命を辞退しようとします。しかし、熾天使セラフィムによって清められて、御前に召し出されるのです。昨今「得意を仕事に」のキャンペーンが盛んですが、預言者も使徒も得意だから成っていません。むしろ、自分の得手不得手、好き嫌いを超えたところで、神に召されることを「召命」と言います。この「召命」という語は、ギリシア語でもラテン語でも「天職、職業」の語源なのです。大切なのは、神の呼びかけを聴き取るか否かです。

3.《自分の仕事》 御声を聴いたイザヤは「ここにいます」と応えます。「ああ」「見よ」という感嘆語に通じる語です。「お遣わし下さい」はギリシア語では「使徒」に通じます。躊躇し不安を抱きながらも引き受けたのです。好きな事だけやっているのは子どもです。哲学者の内田樹は、「自分の仕事」ではない「みんなの仕事」を、敢えて「自分の仕事」として引き受けるのが、おとなの生き方だと書いています(『街場の共同体論』)。旧約の預言者たち、新約の使徒たち、そして誰よりイエスさま(十字架!)こそは、そのようにして自分の人生に、神の御旨を引き受けて行った人たちだったのではないでしょうか。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:52 | 毎週の講壇から

2017年06月27日

7月第1主日礼拝

       7月 2日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 ここに私がいます=@音楽      朝日研一朗牧師
聖  書  イザヤ書 6章1〜8節(p.1069)
讃 美 歌  27、128、226、519、76、26
交読詩編  詩編143編1〜6節(p.160)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2017年06月26日

すべて借り物【Tコリント4:6〜13】

聖句「あなたを他の者たちよりも、優れた者としたのは、誰です。一体あなたの持っているもので、頂かなかったものがあるでしょうか。」(4:7)

1.《牧師就任式》 各地の教会で新任牧師の就任式が行なわれる季節です。私が祝電に書き添えるメッセージに「比較は友人を敵となす」があります。紀元前3世紀の劇作家、フィレモンの言葉です。前任者と比べて論評されるのは不愉快であるばかりか、その人固有の人生や人格を否定して、物象化することです。その人が取り替えの利かない人であると感じる、それが愛と信頼です。

2.《地道な働き》 アポロは、パウロよりも先にエフェソやコリントで伝道活動に当たった人物です。特にコリントでは大きな働きをしたらしく、熱烈な支持者がいたようです。後から来たパウロは、雄弁家として知られるアポロと比較されて、かなりの屈辱を味わったようです。家族と同じく、教会もまた、信仰を同じくする者たちの共同体ですから、愛と信頼によって支えられています。そこに比較による相対評価が入ることは、即ち、共同体としての破綻を意味します。また、カリスマ的な存在が去った後、個人崇拝に傾いた在り方を本筋に戻して、始末をするのは、骨の折れる割りに目立たない地味な仕事なのです。

3.《人間の真価》 パウロはコリントの人たちに「人と人とを比べて、高ぶることのないように」と勧告しています。自分は棚に上げて、他人の値踏みをしている時、私たちは高慢に成っているのです。また、私たちは自らを特別な存在だと思いたがる悪い癖があります。しかし、他の人たちより優れた所はなく、あったとしても、それは神さまからの頂き物、貰い物、いずれお返しする借り物に過ぎません。神さまから見たら、私たちは皆「他人の褌(ふんどし)で相撲を取っている」ようなものです。高慢ちきを捨てた時、神さまから一人一人に与えられている、掛け替えの無さ、人間の真価が見えて来るのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:50 | 毎週の講壇から

2017年06月25日

天使の挨拶

1.現代の保育園

近所に「アンジェリカ保育園」があります。有名なラブホ「目黒エンペラー」の並び「パークキューブ目黒タワー」という高層マンションの1階に入っています。当然、園庭などというものは存在しません。頭の古い私などは、それだけで「託児所」としか思えません。試しにHPを見てみると、「会社概要」「社名」「代表取締役」「株式会社」等の語が並んでいて益々、保育園とは思えなくなります。

「各園のご紹介」を見ると、東京23区内に手広く15施設を経営されているとの由。「大切にしていること」として「食育」「英語」「リズム」「絵本」を挙げて居られます。特に「食育」については、埼玉県の直営農園で栽培した安全な野菜を使用した給食であること、それを子どもたちが実体験するためのカリキュラムもあることが書いてありました。「リズム体操」は、園庭の無いことを補うためのプログラムでしょう。

「英語」は「ネイティブの先生が保育士として子どもたちに接する機会を設けています」とのことです。「ネイティブの先生」と言っても、どうやら「原住民の先生」や「先住民の先生」のことではないようです。私などは「色々な少数民族の先生が来たら面白いのに!」と思ってしまうのですが、残念ながら、単に英語の「ネイティヴ・スピーカー/母語話者」という意味のようです。そう言えば、時折り幼児を「お散歩カー」(映画『猿の惑星』で人間を捕らえて入れる檻の馬車みたいな)に入れて、彼らが英語の童謡を歌いながら移動している珍妙な風景を目にしたことがあります。

とにかく、旧態依然の私たちが抱く保育園のイメージで捉えると、今風の「保育園」には大きなギャップを感ぜざるを得ません。でも、きっと、これが現代の親御さんたちが求めている保育に違いないのです。

2.天使とエロス

私が「アンジェリカ保育園」のことを書きたいと思ったのは、郵便局に用を済ませた帰りに、丁度、お昼寝の時間だったのでしょう、保育士の女性がお二人、外で相談をされている場に出くわしたのです。側を通り過ぎる時に、私は見るとも無く、彼女らの揃いのTシャツを目にしたのでした。そこには「nursery Angelica」というカッコ良いロゴと共に、弓矢を弾く2人の「天使」の姿が描かれていました。

ん、違うぞ。「弓矢を弾く天使」って…。これ「天使」ではなくて、ローマ神話の「クピードー」でしょう。つまり、ギリシア神話の「エロース」でしょう。「アンジェリカ」の名前もイタリア語の「angelicato/天使のような」から派生した女の子の名前「Angèlica/アンジェリカ」から採ってお付けになったに違いありません。でも、エンブレムは「天使」ではなくて、「エロース」なのです。つまり、恋愛と性愛とを司る神なのです。エロースの「黄金の矢」で射抜かれた者は愛情に取り憑かれ、反対に「鉛の矢」で射抜かれた者は恋愛を嫌悪するのです。左右対象に描かれた2人のエロース(反対方向を向いている)は、当然、黄金の矢と鉛の矢を示していますから、恋愛依存症と恋愛恐怖症とを暗示しているのです。子どもの親御さんたちは、そんなことは思いも寄らないでしょう。実際、殆どの日本人は「天使」と「クピードー/エロース」の違いを意識していません。

お菓子メーカーの「森永」と言えば「エンゼル」が有名です。「森永」の創業者、森永太一郎は熱心なクリスチャンでありました。終生、伝道の意欲を失わなかった人です。米国で製菓修行を終えた森永が、帰国して最初の発売したマシュマロは「天使の糧」として売り出されました。勿論、「出エジプト記」の「天の糧/マナ」のイメージでしす。その発想は今も「森永マンナ」というビスケットの商品名として受け継がれています。しかし、エンブレムに描かれていたのは、聖書由来の「天使」ではなくて「クピードー」でした。しかるに、彼はその登録商標を「エンゼル/天使」と呼んだのです。以来、誰もがあれを「エンゼルマーク」と呼んでいるのです。

「天使」と「クピードー/エロース」との混淆を招いた一因は、確かに森永太一郎にあります。但し、これは彼独りの責任ではありません。当時の米国でも「天使」、即ち、聖書由来の「ケルビム/智天使」「セラフィム/熾天使」を描く場合には、幼児体型の「クピードー」を模していたのです。既に西欧社会でも混同されていたのです。

3.天使の挨拶を

ラテン語の慣用句には「天使」に纏わる面白い言葉があります。「angelica vestis/アンゲリカ・ウェスティス/天使の衣装」と言ったら「白い死に装束」をも意味します。「angelus tutelaris/アンゲルス・トゥーテーラーリス/後見の天使」と言ったら「守護天使」のことです。そして「angelica Salutatio/アンゲリカ・サルーターティオー/天使の挨拶」は、「ルカによる福音書」1章28節「おめでとう、恵まれた方」という「受胎告知」の第一声を意味します。所謂「アヴェ・マリア」です。

「サルーターティオー」には「挨拶、敬礼」以外に「訪問」という意味もあります。形容詞の「サルーターリス」には「健康に良い、有用な、無病息災の」と共に「救いの」という意味があります。それらを溯ると「サルース/健康、幸い、無事、安全/救済」という語に辿り着きます。「挨拶」が「健康」や「救済」に繋がって行くのです。これは、とても大切なことのように思うのです。自分から挨拶をするのは、何より、自身の健康のため、自身の救いのためであることを忘れてはなりません。

そして、あなた自身もまた、誰かにとっての「天使」かも知れないのです。神さまから遣わされた「御使い」となる可能性を、お互いに誰もが秘めているのです。

牧師 朝日研一朗

【2017年7月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 06:00 | ┣会報巻頭言など