説 教 ”わたしたちの理解” 岡崎菜佳子牧師
聖 書 ヨハネによる福音書16:12〜24(新約p.200)
讃 美 歌 27、340、490、338(@、C)、479、29
交読詩篇 詩編 23編1〜6節(p.29)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
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人の一生は過去と現在と未来から成っています。黙示録記者は神を『今おられ、かつておられ、やがて来られる方』と表現しました。終末論を土台にした発想です。人の生き方は過去や未来に影響を受けます。過去の本当に嬉しかった思い出は現在を支える力です。思い出したくない過去もあり、人には言えない罪深い記憶に苦しめば人生は灰色です。次に未来。順風満帆な時の未来は可能性を無限に感じますが、そうでない時の未来は不安や絶望です。人は歳と共に能力や体力が衰えていきます。すると未来は不安の種になります。過去の悔いや未来への不安は時折悪魔のように来襲し、現在の自分から生きる力を奪って行きます。
黙示録の背景はローマ帝国の激しい弾圧です。その状況下、アジア州の七つの教会のことを記者は心配しています。彼は『今おられ、かつておられ、やがて来られる方』と神を捉えました。今おられる神―イエス・キリストこそ私の神そのものですという宣言です。神はこの私の罪を恵みで許し、平安で包んでくださるという信仰告白です。かつておられた神―自分を祝福する神は過去も支配された神だという認識です。神は自分の過去の失敗や悲しみを拭い取り、罪を赦し、支配された方です。辛かった過去の日々を“どうぞ忘れさせてください”と祈ることのできる神でもあります。やがて来られる神―これはあらゆる未来が神のみ手の中にあるという意味です。それを信仰により理解できた時、私たちの存在は希望に変わります。
教会群のリーダーだった黙示録の記者は晩年パトモス島に流されました。過酷な条件下で、彼は主イエス・キリストの霊を与えられ、勝利者キリストの幻を見て黙示録を書き記しましたが、それこそ聖霊の働きです。教会はこの世で微力ですが、神に自由に用いられ希望の光を証しすることは、私たちキリスト者の誇りです。
秋葉正二牧師
言葉はコミュニケーションを図る上で便利ですが、時に人を殺す力も持ちます。教会暦ではイースターからペンテコステへ、つまり神を信じる一人一人に語る言葉が与えられる季節へ向かうのですが、今日は神の言葉に注目します。
今日の箇所はイエスが誘惑を受ける場面で、言葉について考えさせます。「道を外させる者」という意味の悪魔は、神の道から踏み外させる誘惑を3つ試みます。今日はその最初の誘惑です。空腹を覚えるイエスに「神に頼み、石をパンに変えてもらえ」と迫るのです。自分が変わるのではなく、自分の都合に合わせて神を変える誘惑です。この誘惑に対してイエスは「人はパンだけで生きるのではない。神の言葉によって生きる」と答えました。
「人は神の言葉によって生きる」。この発言の根底にはユダヤ教の世界観、特に創世記に描かれた神の言葉への理解があります。創造物語は「地は混沌で、闇が深淵のおもて」と暗闇とカオスの状態に始まり、そこに「光あれ」と神の宣言が差し込みます。この1章の創造物語はバビロン捕囚時代に今のような形に編纂されたと言われます。古代イスラエルが新バビロニア帝国に戦争に負け、多くの人が奴隷として外国に囚われた時代。自由も出口もない抑圧と差別こそが、その当時の現実(混沌と闇)だったのです。
聖書は、その絶望と闇の中で神は言葉を投げかけ、光となってくださったと語ります。創世記において神の言葉は、闇の中で様々な存在を「命あるもの」として浮かび上がらせていきます。混沌や闇の中で見えなくなっているものたちの名を呼び、存在を確認するのです。そしてこの言葉の力をイエスは体験的に知っていました。イエスはこの誘惑直前に洗礼を受けました。その時イエスは「これはわたしの愛する子」という神の語りかけを受け、この言葉と共に試練の場に臨んでいます。「神の言葉、愛が人を生かす」これがイエスの実感であり、信念なのです。
神はわたしたちに語りかけることで、この存在に触れ、共に生きている事実に導きます。そのような言葉を神から受けているのです。さらに言えば、今度はその愛の言葉をわたしたちが他者に扱うように信じられ、託されているのです。
佐原光児牧師
使徒言行録を読んでいると、エウティコ青年のエピソードにほっとさせられる。トロアスという港町に形成されていた教会の成熟した信仰が、共同体の一つの在り方を示唆してくれているからだろう。パウロの説教中に眠りこけて、窓から転落してしまったこの愛すべき青年に対して、彼らは咎めはしなかった。物語は「人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた」と結ばれる。「エウティコ」とは幸いな男――幸男くんという意味の名。まじめで一途でみんなに愛された青年。しかしときにとんでもないドジをやらかしてくれる青年。そんなエウティコが生きてあることが、教会の恥ではなく、皆の慰めであるような人々の集まり。この教会の芒洋としたおおらかさを見ていると、信仰共同体がどうすればほんとうの意味で強い集団になれるのかというヒントを与えてくれているように思う。
かつて食品への異物混入が世間を騒がせた時、養老孟司は異物混入を嫌悪する日本人の異常さを指摘していった。「もしきたないものを徹底的に嫌うとすれば、自分のなかにある汚れたものを、一切否定することになる。ところが人間は自分のなかにさまざまなきたないものを抱え込んでいる。したがって不潔をあまりに嫌う態度は、結局は自分との折り合いをつかなくしてしまう」。共同体も同じこと。極端な潔癖主義、純粋志向は、集団を弱体化させてしまう。異質なものを排除するのではなく、多少のことは大目にみて、大人の度量を示せる集団。多少ずっこけた青年がいても、むしろいのちがあって、皆が一緒にいられることを慰めと感じることのできる人々。初代教会はこうやって、共同体として時代を生き抜いてゆく高い免疫力をつけていったのではないか。それは、すでにイエスの思想の中に、時代の制約からくる排他性を乗り越えようとする可能性が内包されていたからこそ、そういった懐の深さが教会のなかに育っていたのだろう。
人間は誰一人同じではない。一人ひとりが皆違った存在だ。その私たちが、互いに異質なものを提供しあい、受け入れ合うことで、教会が時代に対する免疫力を高めてゆく――それこそが「聖徒の交わり」といえるのではないか。
青木直人牧師
以前、四国の松山教会に在任していました。松山教会は1885年に二宮邦次郎という牧師によって設立された教会です。実は二宮邦次郎牧師は1903年に行人坂教会の前身である日本組合教会京橋教会を設立した初代の牧師でもあります。二宮牧師が松山教会を創設した時代はキリスト教や教会に対する迫害の強い時代でした。松山での伝道は非常に困難でしたが、二宮牧師は果敢に伝道に取り組みます。しかし、二宮邦次郎の働きは牧師だけではなく、松山教会創設の翌年に女子のために四国で最初の高等学校を創立し、さらに貧困ゆえに学校にも行けず、昼間から街中でたむろしているこどもたちのために「夜間学校」を作り、職業教育を行ったのです。二宮は教会を建て、伝道だけではなく、当時の社会で片隅に置かれていた女性や学校にも行けなかった子供たちのための働きをしたのです。それらも福音の宣教であったのです。二宮邦次郎の口癖は「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかるためです」でした。
わたしは若い頃、しばらく大阪の浪花教会の副牧師でした。その時の主任牧師は三井久牧師で、「行人坂教会百年史」には「1947年4月、東大森教会牧師であった三井久牧師を行人坂教会の牧師として正式に招聘した」とあります。三井牧師は行人坂教会での3年間の牧会の後、浪花教会へ転任したのです。
三井牧師も教会内だけでなく、日本の教会には労働者がほとんどいないことを反省して、「関西労働者伝道」という活動を行い、責任者となっていました。教会はただ教会のために存在しているのではなく、神の造られたこの世界の中で社会の片隅に置かれている人々と共に生きることを主張していました。
行人坂教会はいま新しい牧師を招聘しようとしています。どのような牧師を招聘するのか、そして行人坂教会はいま世界が直面している現実(リアル)に対してどのようにイエス・キリストの福音を伝えていくのか、教会が建てられている近隣地域の課題をどう担って行くのか、それがいま問われているのではないでしょうか?
上林順一郎牧師
生命について聖書は様々に語ります。創世記のノアの洪水物語には、『“わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉に過ぎないのだから”。こうして、人の一生は120年となった』とあります。人の生命は有限だという神の宣言です。ならば私たちは永遠に生きることをあきらめなければならないのか?
一方、興味深いことも語られています。悪を行う人間に神は心を痛め、人を造ったことを後悔して地上からなくそうとされますが、神に忠実なノアを見て、箱舟で彼と家族を救っています。神に忠実な者に救いの手が差し伸べられているのです。どうも神の前での人間の生き方がその人の生命の在り方に関係しているようです。
その深い意味はやがてイエスさまの口を通して明らかにされていきます。テキストでは、金持ちの男が『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか?』と尋ねています。この人は金持ちで、律法厳守の信仰生活を送りつつも「死んだら自分の存在は無くなるのか?」と悩んでいたのでしょう。イエスさまの答えは簡潔でした。『持っている物を売り払い、貧しい人々に施せ、それから私に従ってきなさい』。これは財産云々の問題ではなく、神に信頼する心の在り方の問題です。
弟子たちには『神の国に入るのは、何と難しいことか』と言われます。人間の弱さに対する憐れみ、悲しみが溢れています。財産や能力に頼る人間の弱さをイエスさまはじっと見つめておられます。『金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい』という言葉を聞けば、誰でも『それでは、だれが救われるのだろうか』となります。しかしイエスさまはこうも言われるのです。『人間にできることではないが、神にはできる』。私たちは神に祈ることができるのです。これは救いです。イエスさまは、人の存在は生物学的な死をもって一切が無になるのではない、ということを明らかにしてくれています。
死の不安から私たちを救ってくれるのは復活信仰です。愛する家族や多くの愛する人たちと永遠の命を受け継ぎたい、復活信仰にはその答えがあります。
秋葉正二牧師