行人坂教会 公式サイト ご案内

当サイトの内容は左記の「メニュー」からご覧になれます。


はじめに・・・・・・・・当教会からのご挨拶があります。
行人坂教会について・・・当教会の歴史・沿革についてご紹介します。
 礼拝・集会の案内・・・当教会で行っている礼拝と集会のご案内です。
 教会へのアクセス・・・当教会への交通、付近の地図、連絡先です。
牧師ご挨拶・・・・・・・当教会牧師のご紹介で、本人のプロフィールもあります。
牧師の書斎から・・・・・当教会牧師のメッセージ、記事を集めています。
 会報巻頭言など・・・・当教会会報「行人坂」に掲載された牧師のメッセージ集です。
 こんにゃく問答・・・・同じく、会報「行人坂」に掲載された教理問答集です。
教会からのお知らせ・・・各種イベント(イースター、クリスマス諸行事、バザーなど)のご案内です。
毎週の礼拝案内・・・・・毎週の主日礼拝のご案内(概要)があります。
      *最新情報*礼拝終了後は当日の音声録音を聴くことができます
毎週の講壇から・・・・・毎週の主日礼拝での説教の要約をまとめてあります。
教会アルバム・・・・・・当教会で過去開催された行事の写真集です。
オリジナル賛美歌など・・当教会の会員有志が作成したオリジナル賛美歌をご紹介します。
リンク・・・・・・・・・日本キリスト教団他の関連サイトへのリンク集です。

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それでは、どうぞご覧下さい。なお、以下は最近の記事です。


行人坂教会からのお知らせ


12月28日(水)および2017年1月4日(水)の「聖書と祈りの集い」は午前の部・午後の部共に休会です。



2016年12月06日

12月第2主日礼拝(アドベント第3主日)

      12月11日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 我らが人生の客=@        朝日研一朗牧師
聖  書  ヨハネの黙示録 3章14〜22節(p.456)
讃 美 歌  27、273、490、396、430、26
交読詩編  詩編24編1〜10節(p.29)

・めぐみ会クリスマスお茶会  正午〜午後2時  階下ホール

posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2016年12月05日

【暗いこの世の光として】ヨハネ12:44〜50

聖句「わたしを信じる者が、誰も暗闇の中に留まることのないように、わたしは光として世に来た。」(12:46)

1.《ランタンの光》 ハロウィンには、カボチャを刳り貫いて作った「ジャック・オー・ランタン」という「鬼火」の提灯が付き物です。あの灯火を見ると、私は幼少時代の地蔵盆を思い出します。夏休みとは言え、辻の地蔵堂に子どもが夜遅くまで遊びつつ灯明を守るのです。提灯を持って地蔵堂への参拝を呼びかけますが、大人たちは賽銭を供えると共に、子どもにお菓子を振る舞うのです。

2.《一隅を照らす》 ハロウィンの原型は、聖マルティヌスの祭りです。紀元4世紀のトゥールの司教、マルティヌスは、ローマ軍騎兵としてアミアンに駐屯していた時、吹雪の中で震える半裸の物乞いに、自分のマントを切り裂いて差し出します。その物乞いがキリストだったのです。その祭りでも子どもたちがランタンを灯して、教会へ招きます。最澄の言葉に「一隅を照らす」があります。隅は光の届きにくい薄暗い所です。誰もが競い合って光の当たる中心に出ようとしますが、押し退けられる人や弾き出される人もいるはずです。クリスマスこそは「この世界の片隅に」生きる人たちを光で照らす物語だったはずです。

3.《光として来た》 イエスさまは「光として世に来た」はずの御方です。しかし、世界に冠たる大都市ではなく田舎町に、宮殿ではなく家畜小屋にお生まれになりました。「誰も暗闇の中に留まることのないように」と仰るのですから、それが必然だったのです。主は「光として」来られたのですから、他の人を押し退けて、光の当たる場所に出ようとは為さいません。むしろ、私たちが光の照らす場所を目指すのは、自らが「闇の人」であるからです。イエスさまは自分から片隅に生きて「一隅を照らす」のです。それは「誰も孤立してはいけない」「私たちは一緒にいる」「神さまはあなたと共にいる/インマヌエル」のメッセージです。それを身をもって示されたのがクリスマスなのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:50 | 毎週の礼拝案内

2016年11月29日

12月第1主日礼拝(アドベント第2主日)

      12月 4日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 暗いこの世の光として=@音楽    朝日研一朗牧師
聖  書  ヨハネによる福音書 12章44〜50節(p.193)
讃 美 歌  27、273、490、573、252、79、26
交読詩編  詩編24編1〜10節(p.29)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2016年11月28日

【富める者、貧しき者】Uコリント8:8〜15

聖句「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(8:9)

1.《貧富の差》 数年前『リッチマン、プアウーマン』というドラマがOLや女子学生の間で話題でしたが、その題名は、米国の劇作家アーウィン・ショーの大河小説『富めるもの貧しきもの/Rich Man,Poor Man』のモジリです。ドイツ移民の家庭に育った3人の子たちが各々、激動の時代を生きる中で、貧富の差に関係なく、人間としての苦悩と喜びを経験していくのです。

2.《出会い系》 「箴言」22章2節に「富める者と貧しい者とは共に世に居る/全てこれらを造られたのは主である」とあります。この聖句は、イエスさまの「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」にまで反響しています。しかし「経済格差も主の御心」とばかりに、現状追認主義的に受け止められ兼ねません。新共同訳は「金持ちと貧乏な人が出会う/主はそのどちらも造られた」と訳しました。両者の「出会い」の中に、神の創造の御業が顕われるのです。主の御心は「出会い系」なのです。富める者と貧しい者とが出会い、そこで人は「互いに生きる者」と成るのです。そのことを、神は望んで居られるのです。

3.《降誕の夜》 世間では、クリスマスは楽しく豊かなイベントと捉えられていますが、聖書の描くクリスマスは貧困状況です。イエスさまは泊まる場所も無く、寒々しい家畜小屋か洞窟にお生まれになったのです。幼稚園の聖劇なら、意地悪な宿屋の主人か女将さんの出番です。家畜小屋を提供する比較的優しい宿屋も描かれるでしょう。ところが、聖書には、そのようなコミュニケーションが一切欠落しています。全く「出会い」が存在しないのです。目に見えにくい現代の貧困問題との共通性を感じます。しかし、弁解は禁物です。私たち自身が見ようとしていないのです。クリスマスに出会うのに、貧富の差は関係ありません。豊かさは貧しさに、貧しさは豊かさへと変えられるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:49 | 毎週の講壇から

2016年11月27日

通い続ける意味

1.信楽焼きの狸

私が小さい頃、しばしば、家族の会話の中に「カヨイ」という語が聞かれたものです。子供心に「カヨイ」とは何なのか気に成っていましたが、結局、改めて親に尋ねることも無いままに、いつか、記憶の底に沈んでしまっていました。

それが「通い帳」の略であること、「通い帳」とは、主に「銀行預金通帳」のことを言っていたのだと閃いたのは、ごく最近のことです。このように何十年も放置していた語の音が、ある日突然、記憶の底から浮かび上がって来て、年齢を経てから了解することがあるのです。それにしても、「通帳」が死語化した時代に突入してから、漸く「カヨイ」の正体に思い至るとは、皮肉な話です。実際、クレジットカード全盛の昨今では「通帳」そのものが死語に成りつつあります。未だ辛うじて「通帳」は存在していますが、それを持ち歩く人は少ないと思います。

「カヨイ」と言えば、もう1つ、信楽焼きの狸を思い出されるのではないでしょうか。あの狸は、編み笠を被り、右手に「徳利」を、左手に「通い帳」、もしくは「御通」と書かれた台帳を持っています。商売繁盛の置き物ですから、「タヌキ」は「他を抜く」に、「徳利」は「利徳、儲け」に通じます。「通い帳」は「売り掛け帳」です。通常は信用売買(ツケ)をしている取引先も、大晦日には支払いをしなければなりません。それで、あの狸は「カヨイ」を手にしているのです。この季節(師走)にピッタリの置き物と言えましょう。

2.いつも一緒に

キリスト教会もまた、アドベント(待降節)、クリスマス(降誕節)を迎えようとしています。昔から、教会には「クリスマス信者」というカテゴリーがあり、クリスマスにだけ来る会員(クリスマスにしか来ない会員)がいるのです。クリスマスは、日頃、礼拝から遠ざかっていた人たちが帰って来る季節なのです。

「信楽の狸」で言えば、主日礼拝に通わないで、溜まりに溜まったツケの支払いが回って来るということかと、そんなイヤミなことを考えてしまいます。

しかし、この「クリスマス信者」にしても、見方を変えることで、こちらの心持ちが全く違って参ります。「たとえ、クリスマスだけでも来てくれるから嬉しい」と感謝して歓迎するか、「クリスマスにしか来ない『恵み泥棒』」等と陰口を叩くか、その心持ち1つで、私たち自身の信仰の在り方までが左右されてしまうのです。

この「恵み泥棒」というのは、昔の牧師たちが多用していた語です。礼拝出席も奉仕も献金もせず、教会を支える義務も果たさずに、神さまの御恵みにだけ与ろうとしている姿勢を揶揄した表現なのです。

「『恵み泥棒』に成ってはいけません!」等と戒めて、真面目な信徒たちを養成するために、牧師が編み出した用語と思います。しかし、その佇まいたるや、どこかしら「放蕩息子の譬え話」(ルカによる福音書15章11〜32節)に登場する、狭量な兄の風情を思い出させるのです。真面目な兄は、畑仕事から帰って来て、祝宴が開かれているのを見ると、拗ねてしまいます。「この通り、私は何年もお父さんに仕えています。言い付けに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友だちと宴会をするために、子山羊1匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食い潰して帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」。

拗ねてしまった兄に対して、父親は何と言って答えていたでしょうか。「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ」。

「いつも一緒にいる」と、その有り難味は見えなくなり、取り立てて喜びや感謝を感じなく成るものです(家族、仕事や日課、日常生活、健康、空気や水)。失ってみて初めて、その有り難さに気付くのが、私たちの常です。教会生活、神さまの恵みも同じです。その中にいると、それが当たり前に成って、殊更に意識しなくなるのです。

しかし「いつも一緒にいる」は、それこそ、アドベントのメッセージそのものです。「この名は、『神は我々と共に居られる』という意味である」(マタイによる福音書1章23節)。そして、もう1つのアドベント、再臨へと向かう希望でもあります。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(同28章20節)。

3.信仰を貯える

「いつも一緒にいる」というのは「暮らし」のことです。主日礼拝が日常生活の中心に成っている場合に、そのように言うことが出来ます。1年に日曜日が52回として、45回以上の回転数があって、シングルな(一人前の)会員なのです。

但し、そのような幸いは長くは続きません。中には、何十年も、そのような教会生活を続けることの出来た人もあります。しかし、病気や怪我その他の患いによって、礼拝に通えなくなったり、高齢に成ると共に、礼拝へ行く回数を減らさざるを得なくなったりします。誰もが遂には、全く通えなくなるのです。

私たちは、主日礼拝に通える間に、出来るだけ通って置かなくてはなりません。やがて通いたくても通えなくなるからです。「クリスマス信者」等と言わずに、久しぶりに会えた人を喜んで迎えなくてはなりません。やがて会いたくても会えなくなるからです。

「教会暦」を何度も巡って、教会の歳時記が肌身に付いて、礼拝生活をするのが当たり前に成ったら、その時こそは(たとえ有り難味を感じなくなっていたとしても)、神さまが「あなたといつも一緒にいる」暮らしなのです。この暮らしの実感を、しっかりと貯えて置くことが、信仰のエネルギーなのです。

牧師 朝日研一朗

【2016年12月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 06:00 | ┣会報巻頭言など

2016年11月26日

明日からアドベント

玄関にリースを飾りました

2016アドベントリース
posted by 行人坂教会 at 20:55 | 毎週の礼拝案内

2016年11月22日

11月第4主日礼拝(アドベント第1主日)

      11月27日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 富める者、貧しき者=@音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  コリントの信徒への手紙U 8章8〜15節(p.334)
讃 美 歌  27、136、490、232、256、25
交読詩編  詩編105編1〜11節(p.119)

讃美歌練習(12月の月歌:273番) 礼拝後    礼拝堂


・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2016年11月21日

【悲しみの収穫】マタイ9:35〜38

聖句「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(9:37,38)

1.《かき集める》 英語の「収穫/harvest」は「秋」の意味でもありますが、古英語の「かき集める」の意味から来ているそうです。荒木飛呂彦のマンガ『ジョジョの奇妙な冒険』には「ハーヴェスト」という「スタンド」が登場します。「スタンド使い」が命じると、虫のような姿の5百体ほどの分身(スタンド)が、一斉に町中から落し物の小銭やクーポン券を「かき集めて」来るのです。

2.《死神の収穫》 「収穫」はギリシア語で「テリスモス」と言います。麦の穂や牧草を「刈り取る」という意味です。モンゴメリーの『赤毛のアン』の最後から2番目の章は、マシュー小父さんが突然死する話です。その題名は「死という命の刈入れ人/The Reaper Whose Name Is Death」と言います。古来、西洋では、死神は大鎌(サイス)を手にした姿で描かれていて、「神に仕える農夫」という呼び名もあるのです。米英軍が使用している軍用無人航空機「MQ-9」は、オペレーターは国内の作戦室で珈琲を飲みながら、イラクやシリアを攻撃する恐るべき兵器ですが、これも「リーパー」と呼ばれています。

3.《働き手たち》 一口に「収穫」と言っても色々です。イエスさまは何を収穫して居られたのでしょうか。主は病気や患いを負う人たちを癒し続けられます。「飼い主のいない羊の群れのように弱り果て、打ち拉がれているのを見て」御自身も痛み苦しまれています。イエスさまは、この世の悲しみと苦しみ、痛みと悩みを取り除こうとして、そのために働く人を求めて居られたのです。「収穫」と言うと、自分の利益に成ること、自分が豊かに、偉く賢く成ること、自己目標が達成されることばかりを考えます(教会も例外ではありません)。主の仰る「働き手」は苦しんでいる人と共に生きる人です。無力でも構いません。人を愛して、その苦しみを思って、涙を流す心、それさえあれば良いのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:50 | 毎週の講壇から

2016年11月20日

2016収穫感謝合同礼拝

子どもたちも、司式や聖書朗読、献金のお祈りをしました。

2016収穫感謝合同礼拝

礼拝後、収穫感謝日パーティーがありました。持ち寄った食材で作った豚汁、果物、海の幸の鉄板焼きをいただきました。

2016収穫感謝日記念パーティー

餅つきをしたり、教会の庭の杏の木の実から作った3年ものの杏酒もいただきました。(杏酒はとてもおいしかったです。)

2016収穫感謝日記念パーティー2

来週のアドベントの準備もしました。子どもたちとクリスマスツリーを飾りました。

2016アドベントの準備
posted by 行人坂教会 at 20:27 | 教会アルバム

2016クリスマスイヴ賛美礼拝のお知らせ

次のご案内を出しております。

2016行人坂教会クリスマスイヴ賛美礼拝
posted by 行人坂教会 at 09:53 | 教会からのお知らせ