説 教 ”天よりも高く” 朝日研一朗牧師
聖 書 エフェソの信徒への手紙 4章7〜16節(p.356)
賛 美 歌 27、341、490、338、336、522、28
交読詩篇 104編24〜30節(p.118)
※ CSスタッフ任職式、奏楽者任職式
賛美歌練習 (6月の月歌:19番) 礼拝後 於 礼拝堂
あいさつの会(相互交流の会) 賛美歌練習後
(さんび)礼拝堂、(聖書輪読)記念室、(Café de 行人坂)階下ホール
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標語 『互いに愛し、互いに尊敬し合う』
きょうだい愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
(ローマの信徒への手紙12章9節)
1.讃美歌
4月15日、復活節第2主日の礼拝、メッセージの直前に、讃美歌334番「よみがえりの日に」を唱和しました。すると、何だか宮崎駿のアニメの音楽、つまり、久石譲を思わせるようなメロディーだったのです。そこで開口一番、「今歌った讃美歌、何だか、久石譲みたいな曲調の讃美歌でしたね。久石譲の芸名は、クインシー・ジョーンズの名前から採ったという駄洒落説がありまして…」等と口火を切ったのでした。
礼拝が終わって、玄関で立ち話をしていると、お二人の方が、こんな感想を述べられたのでした。「むしろ、先週のイースター礼拝で、洗礼式に歌った69番『神はそのひとり子を』の方が宮崎アニメのテーマ曲を思わせます」と。こちらは「噺の枕」は忘れてしまっていて、無責任にも「ええ?何の話ですか?」等と尋ね返す有様でした。
それはともかく、お二人共に70歳代の方々でしたので、「宮崎アニメを御覧になっているのか!」と、些か意外な気がしました。「お孫さんと一緒に御覧になるのかなあ」と想像したりもしました。宮崎アニメの(世代を超えた)影響力の大きさを思うと共に、その中にあって、久石譲の音楽が果たしている効果も再認識しました。
2.久石譲
『風の谷のナウシカ』(1984年)、『天空の城ラピュタ』(1986年)、『となりのトトロ』(1988年)、『魔女の宅急便』(1989年)、『紅の豚』(1992年)、『もののけ姫』(1997年)、『千と千尋の神隠し』(2001年)、『ハウルの動く城』(2004年)、『崖の上のポニョ』(2008年)、以上の9作品が(現在までのところ)宮崎駿監督と久石譲音楽のコラボレーション作品です。確かに、どの作品も久石の音楽抜きには考えられません。
久石譲はテリー・ライリーやフィリップ・グラスの影響を受けて、ミニマル・ミュージック(現代音楽の1ジャンル、反復する電子音楽)の音楽家として出発したそうです。確かに、『風の谷のナウシカ』のタイトルのイントロとか、『天空の城ラピュタ』の海賊ドーラ一家の羽ばたき飛行機「フラップター」のシーンとか、典型的なミニマルです。
久石の映画音楽には宮崎作品だけではなく、澤井信一郎、北野武、大林宣彦とのコラボがありますし、近年では、韓国の『トンマッコルへようこそ』(2005年)、香港の『西遊記リローデッド』(2005年)、中国の『海洋天堂』(2010年)も担当しています。
3.作曲家
そう言えば、「こどもさんびか」には、安部正義、鳥居忠五郎、大中寅二、小山章三、高浪晋一といった讃美歌作曲家に混じって、一般音楽業界の作曲家の作品もありました。具体的に挙げると、例えば、「こどもさんびか/改訂版」の62番「サウロよ」は福田和禾子、100番「せかいのこどもは」は山本直純、101番「はたけにおやさい」は子門真人、58番「どんなにちいさいことりでも」は広瀬量平でした。「改訂版」には掲載されませんでしたが、前の「こどもさんびか/合本」の107番「イエスさまって」は中田喜直、115A番「イースターのあさはやく」は真鍋理一郎でした。
中田喜直は『ちいさい秋みつけた』『夏の思い出』『めだかの学校』等の童謡で有名です。山本直純は説明不要でしょう。福田和禾子は「NHKおかあさんといっしょ」のメインコンポーザーを長年務めた人でしたし、子門真人は『仮面ライダー』や『科学忍者隊ガッチャマン』の主題歌でお馴染み、アニメ歌手、童謡歌手としてオファーをしたのでしょう。広瀬量平、真鍋理一郎といった「純音楽」の作曲家に、讃美歌編集委員会が作曲を依頼したのは、恐らく、歌曲・合唱曲分野での業績からでしょう。
私は寡聞にして、子門真人が日本聖公会の会員であること(芸名の子門は洗礼名「シモン」から)以外は、上記の作曲家たちとキリスト教会との繋がりを知りません。まあ、広瀬量平がカトリック作家の遠藤周作の親友であったこと、後年、同志社女子大の大学院で講師を務めていたこと、山本直純が自由学園の出身で、私の師匠、深田未来生牧師のクラスメートであったこと、亡くなる3年前に、お連れ合いのカトリック信仰に連なって、病床洗礼を受けたこと等の事実はあります。しかし、時期的に見ても、内面的にも「こどもさんびか」への楽曲提供とは何の関係も無いでしょう。真鍋理一郎は『甘露門交響曲』で、世界仏教音楽祭で2位を受賞しています。数年前に亡くなった福田和禾子の葬儀は、九品仏の浄土宗浄真寺(玉川聖学院の近所)でした。
今はどうか知りませんが、少なくとも以前は「こどもさんびか」の楽曲提供依頼に、キリスト教信仰の有無は関係なかったようなのです。社会的なコネ(人脈)は何かあったかも知れませんが…。そこで、これは単なる私の勝手な妄想なのですが、久石譲作曲の讃美歌、特に「こどもさんびか」があったら、どんなものだろうかと考えたのです。彼のメロディーには唱歌(即ち、讃美歌)の伝統を受け継ぐ何かがあるのです。
4.普遍性
現在の「こどもさんびか/改訂版」には、私の友人たちの作品も何曲か入っています。94番「ふしぎなかぜが」、102番「わたしたちのたべるもの」、115番「このはなのように」(川上盾)、131番「かなしいことがあっても」(生地善人)です。「改訂版」に載った時には「漸く我々、若いロック世代の讃美歌が…」等と思ったものですが、よく考えてみたら、何のことはない、私たちも50歳代です。
しかし、素晴らしい歌は世代を乗り越えます。何歳の人でも、子供でも高齢者でも、その人たちの心にそっと寄り添ってくれる、そんな讃美歌が求められています。
【2012年5月の月報より】
1.遠い春よ
これ程に、春の訪れが待ち遠しく感じられた年があったでしようか。北海道から東北、日本海沿岸地域では、近年稀に見る降雪量でした。屋根の落雪、雪崩によって死傷した人たちも大勢いました。首都圏でも2度の積雪。我が教会のメンバーにも、滑って打撲傷を受けた人が居られました。花粉アレルギーに悩まされる時期が来ても尚、朝夕、冷え込んでいました。漸く春一番の到来かと思えば、冷たいだけの突風でした。仮設住宅や避難先で過ごさねばならぬ長い冬は、言い知れぬ辛さでしよう。
そんな季節柄、何度も何度も、私の脳裏に蘇って来る歌がありました。松任谷由実の『春よ、来い』です。皆さんもサビの部分は御存知でしよう。「春よ、遠い春よ/瞼閉じればそこに/愛をくれし君の/なつかしき声がする」。元々は、1994年度後期のNHK朝の連続テレビ小説の主題歌だったのです。橋田壽賀子が自伝的な要素の濃い脚本を書き、安田成美主演で始まったものの、途中降板してしまい(中田喜子に替わった)、橋田の「飼い犬に手を噛まれた」発言など、週刊誌で話題に成ったものでした。
当時の私は、朝の連続テレビ小説を見る習慣は無く、番組そのものは全く見た記憶がありません。しかし、ワイドショーや週刊誌を賑わした騒動は辛うじて記憶しています。勿論、主題歌の方は大ヒットしたので、よく覚えています。これ以後、卒業式に使われることも多かったようです。カラオケに行った折も、何度か耳にした覚えがあります。
2.春よ来い
春の訪れが遅く感じられる余りに、私のような者すら、「春よ、遠い春よ」とか「春よ、まだ見ぬ春」とか、その歌詞の一節を、思わず知らず口ずさんでいたのです。
そう言えば、昨年の「紅白歌合戦」では、紅組トリの歌として、松住谷を中心に出場者全員による合唱で、被災地へのエールとして歌われていました。その時には、最後のリフレインの部分に、相馬御風作詞・弘田龍太郎作曲の童謡『春よ来い』の「春よ来い/早く来い」をリミックスして歌っていて、編曲の妙にゾクッとしたものです。やはり、あれも松任谷正隆の手になるアレンジなのでしようか。
「春よ来い/早く来い/あるきはじめた/みいちゃんが/赤い鼻緒の/じょじょはいて/おんもへ出たいと/待っている」。「みいちゃん」とは、この童謡の作者、相馬御風の娘、文子の愛称なのだそうです。相馬の暮らした新潟県糸魚川市は、年間降雪量4メートルにも達する大降雪地帯なのだそうです。よちよち歩きの愛娘が「赤い鼻緒の」付いた下駄(草履)を履いて、外で遊びたいと願っているのです。
確かに、ここにも「遠い春」が歌われています。そして、相馬御風は同郷の良寛上人の研究家としても有名です。良寛(1758〜1831)は曹洞宗の僧侶ですが、歌人や書家、漢詩人としても有名です。良寛と言えば、子供たちと無邪気にかくれんぼや手鞠、凧揚げや独楽廻し等をして、遊ぶことを好んだエピソードが有名です。
しかしながら、水上勉の説によると、一見、微笑ましく思われるエピソードにも、その背景には、当時の悲惨な現実があったということです。水上によれば、良寛は、貧しい越後の女の子たちが上州木崎の宿場町に身売りされて、「飯盛女」とされて行くのを見ながら、何も出来なかったのです。「飯盛女]とは、昼間は女中奉公(文字通りの「おさんどん」)をさせられながら、夜になれば宿泊客相手に春を鬻(ひさ)ぐ女たちです。要するに、女郎です。そして、上州木崎には、「飯盛女」をさせられた挙句に、十代や二十代で病死、過労死した子たちの墓石が、無縁墓地の中に幾つもあるそうです。墓碑を解読して見れば、皆、越後の出雲崎、寺泊、地蔵堂から売られて来た女の子たち。その没年から察するに、良寛和尚と一緒に遊んだかも知れない子たちなのです。
売られて行く子供たちの過酷な運命を知りながら、何一つしてやれない忸怩たる思いが良寛にあったのだと、水上は推測します。そして、そんな無力な良寛が唯一、子供たちにして上げられることが「遊び」だったのだと言うのです。だから、良寛が子供と遊んだというエピソードは、無邪気な話でも微笑ましい話でもなくて、壮絶な悲哀と苦悶に満ちた祈りのようなものだったのです。
3.里の春日
もう少し詳しくお知りになりたい方は、水上勉の『良寛を歩く』(日本放送協会出版)をお買い求め下さい。因みに、私が「水上良寛」のことを教わったのは、九州にいた十数年前、犬養光博牧師によってでした。
犬養牧師は、1965年以来、筑豊の閉山炭鉱のある福吉という町に移り住み、福吉伝道所を続けて居られます。お若い頃には、長距離トラックの運転手をしたりしながら、自身の足場としての福吉、筑豊に立ち尽くして行かれました。恐らく、彼の著書『筑豊に生きて』(日本基督教団出版局)は絶版でしょう。改めて本を調べてみたら「1971年初版」「定価580円」とありました。今なら文庫本の値段です。 1965〜1969年の間に、犬養牧師がガリ版刷りで作られた「月刊福吉」を纏めただけの本です。
ある地方、地域の住民の中に身を置き続け、そこに「蒔かれた種」として一生を献げる、そんな牧師(サラリーマンではない牧師)が、僅かながら日本にも居られるのです。他にも、青森の六ヶ所村の岩田雅一牧師(八戸北伝道所)、大阪釜ヶ崎の故金井愛明牧師(釜ヶ崎伝道所)等のお姿が思い浮かびます。それは、さながら、現代の良寛のように思われるのです。
最後に、良寛の和歌を1つ紹介します。「この里に手まりつきつつ子供らと遊ぶ春日は暮れずともよし」。地蔵堂にて詠まれた歌です。
【2012年4月の月報より】