行人坂教会 公式サイト ご案内

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はじめに・・・・・・・・当教会からのご挨拶があります。
行人坂教会について・・・当教会の歴史・沿革についてご紹介します。
 礼拝・集会の案内・・・当教会で行っている礼拝と集会のご案内です。
 教会へのアクセス・・・当教会への交通、付近の地図、連絡先です。
牧師ご挨拶・・・・・・・当教会牧師のご紹介で、本人のプロフィールもあります。
牧師の書斎から・・・・・当教会牧師のメッセージ、記事を集めています。
 会報巻頭言など・・・・当教会会報「行人坂」に掲載された牧師のメッセージ集です。
 こんにゃく問答・・・・同じく、会報「行人坂」に掲載された教理問答集です。
教会からのお知らせ・・・各種イベント(イースター、クリスマス諸行事、バザーなど)のご案内です。
毎週の礼拝案内・・・・・毎週の主日礼拝のご案内(概要)があります。
      *最新情報*礼拝終了後は当日の音声録音を聴くことができます
毎週の講壇から・・・・・毎週の主日礼拝での説教の要約をまとめてあります。
教会アルバム・・・・・・当教会で過去開催された行事の写真集です。
オリジナル賛美歌など・・当教会の会員有志が作成したオリジナル賛美歌をご紹介します。
リンク・・・・・・・・・日本キリスト教団他の関連サイトへのリンク集です。

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それでは、どうぞご覧下さい。なお、以下は最近の記事です。


2017年クリスマスコンサート、イヴ讃美礼拝、年末年始の「聖書と祈りの集い」について

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  ※ 2017年12月27日、2018年1月3日の「聖書と祈りの集い」は午前の部・午後の部共に休会です。

 

2017年12月12日

12月第3主日礼拝(アドベント第3主日)

      12月17日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 飼い葉桶に一本の藁を=@     朝日研一朗牧師
聖  書  ルカによる福音書 2章1〜7節(p.102)
讃 美 歌  27、245、269、256、24
交読詩編  詩編19編8〜15節(p.25)

posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2017年12月11日

飼い葉桶を知っていますか【イザヤ1:2〜9】

聖句「牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず、わたしの民は見分けない。」(1:3)

1.《降誕セット》 「教会が一番質素なクリスマス」という川柳を作りました。商業施設や一般家庭の方が華やかにクリスマスの装飾をしていて、キリスト教会が一番地味かも知れません。最近では、雛人形、五月人形の感覚で「降誕セット」を飾る所もあります。しかし「降誕セット」はツリーやリースよりも、クリスマスとは何であるかを明示している点、福音的であるかも知れません。

2.《プレゼピオ》 13世紀の修道士、アッシジのフランチェスコが「降誕セット」を考案したとされています。聖書を読めない庶民や子どもが見ても、クリスマスが何であるか理解できるようにしたのです。当初は「活人画」「聖劇」に近いものでしたが、人形を使うようになり、家庭用の小型セットも生産されて普及したのです。その心は真ん中に置かれた「飼い葉桶」にあります。発祥地イタリア語の「プレゼピオ」は、ラテン語の「プレ/の前に」と「セピオー/囲む、取り巻く、守る」に溯ります。それを見詰める時、私たち自身が飼い葉桶を、御子イエスを「取り巻く」巡礼者になる仕掛けなのです。

3.《主を知る時》 イザヤの預言を読むと「しかし、イスラエルは知らず」という所で胸を突かれます。讃美歌の「ああベツレヘムよ」の「ひとみな眠りて知らぬ間にぞ/み子なるキリスト生まれたもう」を思い出します。誰もクリスマスを知らないのです。同じく、世の中には、誰も知らない悲しみや痛み、分かって貰えない苦しみも数多くあります。「夜」は相互交流が断絶し、孤独に悩む時間の象徴です。「同床異夢」です。しかし、クリスマスを知った私たちは、「知ったかぶり」と「知らん振り」を止めて、知ったことを元手にして、改めて生きることを始めたい。その時に「夜」は終わり、夜明けが来るのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 11:00 | 毎週の礼拝案内

2017年12月05日

12月第2主日礼拝(アドベント第2主日)

      12月10日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 飼い葉桶を知っていますか=@音楽  朝日研一朗牧師
聖  書  イザヤ書 1章2〜9節(p.1061)
讃 美 歌  27、245、229、267、24
交読詩編  詩編19編8〜11節(p.25)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2017年12月04日

CSクリスマス礼拝と祝会

12月3日㈰、CSクリスマス礼拝と祝会がありました。

20171203 CSクリスマス礼拝と祝会
posted by 行人坂教会 at 22:48 | 教会アルバム

光が闇の底まで降りる【ルカ1:67〜80】

聖句「この憐れみによって、高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」(1:78,79)

1.《ベネディクトゥス》 キリスト者は、クリスマスに先立ってアドベントを守ります。聖書においても、イエスさまの御降誕に先立って洗礼者ヨハネの誕生物語があるのです。その父親ザカリヤの賛美は、歌い出しのラテン語を採って「ベネディクトゥス/ほめたたえよ」の名で知られ、古くは、埋葬式の灌水と燻香の直前に歌われていました。お目出度い誕生の歌なのに、なぜでしょうか。

2.《死の陰の谷を歩む》 79節「暗黒と死の陰に座している者たち」を陰府に置かれた「死者」と捉えたからです。「スキア/陰」には影法師のような輪郭がありますが、所詮「スコティア/暗黒」の中に置かれているのですから、真っ暗闇なのです。有名な「詩編」23編にも「たとひ我、死の陰の谷を行くとも災ひを恐れじ」と詠まれている「死の影の谷」です。英国の怪奇作家、W・H・ホジソンの短編『失われた子供たちの谷』には、幼い娘を亡くした男が、子どもたちの暮らす楽園「光の谷」を求めて彷徨う挿話があります。それによると、驚くべきことに「光の谷」は「死の陰の谷」と隣り合わせに成っているのです。

3.《クリスマスの極意》 洗礼者ヨハネは、イエスさまに先立って道を備えた人物とされています。洗礼という儀式も、ヨルダン川でヨハネの始めたものです。洗礼/バプテスマは「水に浸す」事ですから「滴礼」を認めず「浸礼」を絶対視する教派もありますが、本来を目指すならば「流水」でなければなりません。レオナルド・ダ・ヴィンチは大地を1匹の魚に、水を空気に、河川や海を血管に譬えました。私たちの身の周りには、数え切れない程の暗闇と陰があります。けれども、「憐れみの光」である主は、どこまでも深く下降して下さいます。谷底で倒れ伏している私たちを照らし、導いて下さるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:07 | 毎週の講壇から

2017年11月30日

2017年クリスマス関連の諸行事のご案内

2017年の行人坂教会の「クリスマス関連の諸行事のご案内」のパンフレットです。

クリスマス関連の諸行事のご案内2017


行人坂教会 クリスマス関連諸行事のご案内

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クリスマスの自由

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posted by 行人坂教会 at 22:18 | 教会からのお知らせ

特別伝道礼拝

11月26日(日)、特別伝道礼拝に大西秀樹医師をお招きし、奨励をして頂きました。昼食は焼きそばでした。午後からは特別公開講座でした。

20171126特別伝道礼拝と特別公開講座
posted by 行人坂教会 at 16:54 | 教会アルバム

2017年11月29日

旭日亭菜単(続き)その42

  • 「大貧帳」(内田百闥、中公文庫)
    教授室の隣の喫煙室で、百鬼園先生が、文科系と思しき甲君、物理の乙君、化学の丙君ら教師仲間を相手に、火だの水だのと論争するも、数学の丁君から一言「水は物質で、火は現象です」とトドメを刺されます。そこから、百鬼園先生、自論を展開して曰く「金は物質ではなく、現象である」、遂には「Time is money」と言うが如く「金は時の現在の如きもの」「この世には存在しない」と喝破する辺り、感動的です(「百鬼園新装」)。これは、単なる思弁ではなく、とことん金にだらしなくて、年中金欠なのに贅沢が身に付いてしまっていて、それでいて身なりや見栄には何の頓着も無く、その癖、金貸し、借金取りの類いに無縁の暮らしが出来ない、複雑怪奇な百鬼園先生が、その人生の中から獲得した真理に他なりません。盲腸の手術をした田氏を見舞った序でに、「退院祝いに、新しいのを買いなさい」と説いて、病人の帽子(しかも、ボルサリーノ)を貰って帰る話は凄い。まるで「説教強盗」です。京都から岡山に帰る汽車賃が足りず悶々とする少年時代の「二銭紀」も、初めて独り旅をするドキドキ感に溢れています。要するに、百鬼園先生の借金癖は、アルコール等と同じく、一種の依存症だったのではないでしょうか。どうして、こうまで借金をしてしまうのか、周りの誰もが理解不能だったはずです。でも、借金の利子が膨らんで生活を圧迫して行くドキドキ感に、彼は初体験を重ねていたのではあるまいかと思うのです。
  • 「死の舞踏/恐怖についての10章」(スティーヴン・キング著、安野玲訳、ちくま文庫)
    先ず膨大なページ数に圧倒されますが、読み始めてみると、底抜け脱線の例話や雑談が続き、絞れば半分くらいに収まったのではないかと思いました。映画、ラジオ、テレビ、コミック、そして小説と、ホラーというジャンルによって、様々な表現領域を横断して行きますが、その知識量の豊かさ、分析の深さは帝王キングならではです。これに触発されて、誰かホラー音楽やホラー演劇(グラン・ギニョールかしら)について書けば良いのに…。さて、キング自身は作家ですから、彼の本領が遺憾無く発揮されるのは、第9章です。ピーター・ストラウブの『ゴースト・ストーリー』、シャーリィ・ジャクソンの『丘の屋敷』、アイラ・レヴィンの『ローズマリーの赤ちゃん』、ジャック・フィニィの『盗まれた街』、レイ・ブラッドベリの『何かが道をやってくる』、リチャード・マシスンの『縮みゆく男』、ハーラン・エリスンの『クロウトウン』等がホラー分析の教材にされています。私が中学時代に一気読みした、ジェームズ・ハーバートの『鼠』も高く評価されていて、自分事のように嬉しくなりました。「ジョナサン・エドワーズの説教」だの、「メソジストの信条」だの、「分析せんがために聖書を読むべからず」だの、「カルヴィニスト的道徳観の名残のようなものがある」だの、言葉の端々から、キングが信仰深いメソの家庭に育った片鱗が伺えます。信仰は彼のホラーにとって必要不可欠な要素なのです。町田智浩の「解説」によると、スタンリー・キューブリックがキングに直接電話をかけて「君は神を信じているのか?」と問うと、即座に「イエス」と答えたとの由。
  • 「プリニウス」第6巻(ヤマザキマリ+とり・みき作、新潮社)
    動物や鳥と交流する例の少年が、ティルス出身のフェニキア人という設定に成りました。ネロ帝がご執心の女奴隷プラウティナは、ブリタニア人のキリスト教徒。ネロの愛人、ポッパエアに取り入っている高級宝石商のレヴィテはユダヤ人。第一次ユダヤ戦争を平定することになる、司令官ヴェスパシアヌスも登場します。段々と新約聖書の世界に近付いて参ります。と言うか、ローマ大火とキリスト教徒迫害だから、シェンキェヴィッチの『クォ・ヴァディス』でしょうかね。そして、哲人セネカも登場します。新約外典に「パウロとセネカの往復書簡」というのがありました。作画も綺麗だし、ストーリー展開も上手だし、毎回、安心して読めて文句の付けようがありません。
  • 「宇宙船ビーグル号の冒険」(A・E・ヴァン・ヴォークト著、沼沢洽治訳、創元SF文庫)
    子ども時代に読んだ1冊です。懐かしくて再読しました。テレビの『宇宙大作戦』の何度目かの再放送を楽しみにしていた当時の私にとって、宇宙の猛獣ケアル、幻影鳥人リーム人、超生物イクストル、巨大無形生命体アナビスと、4大モンスターが登場する物語に興奮したものです。ケアルが生命体のイドを食べ、古代都市の遺跡が発端になるので、初めて『禁断の惑星』を観た時には「ビーグル号だ!」と叫んだくらいです。今読み直すと、イクストルがクルーの腹部に卵を産み付けるのも、船外に放出するのも『エイリアン』そのものです。著者が映画会社を訴えて、5万ドルを手にしたのも頷けます。ビーグル号が前代未聞の危機に直面する度に、主人公のエリオット・グローヴナーが手探りで解決法を導き出して行き、それが船内での彼の地位向上に繋がるという展開です。子どもの時には全く意識しませんでしたが、アメリカの企業を舞台にした出世物語と同じですね。因みに、考古学者の苅田は、パット・モリタの顔、しかも久米明の声で、私の脳内テレビが勝手にキャスティングして放映してしまうのでした。
  • 「アド・アストラ/スキピオとハンニバル」第12巻(カガノミハチ作、集英社)
    スキピオ・アフリカヌスの活躍が続きます。バグラデス川の戦いで、西ヌミディアとカルタゴの連合軍を殲滅するところがクライマックス。その後、ハンニバルがイタリア半島から呼び戻されて、ザマの戦いに至る訳ですが、スキピオとカルタゴとの間で進められていた和平工作が出て来ません。カルタゴの元老院も一枚岩ではなくて、カンナエ前後のローマ上層部と同じ状況にあったはずです。ハンニバルがアフリカに上陸して、カルタゴ側の事情は全て省略されています。結果、好戦派がカルタゴの主導権を握るのですが、その一連の展開が、スキピオとハンニバルとの頂上会談というドラマに集約されています。勿論、これは完全なフィクション。伝説によると、二人が直接対話したのは、ハンニバルがカルタゴを追われ、セレウコス朝シリアのアンティオコス3世の下で軍事顧問を務めていた時、場所はエフェソスとされています。因みに、アンティオコス3世は、ローマには小アジアの領土を奪われたものの、プトレマイオス朝エジプトからユダヤを奪い取り、ヘレニズム化を進めた王で、旧約聖書続編「マカバイ記」にも登場します。
  • 「もののあはれ/ケン・リュウ短篇傑作集2」(ケン・リュウ著、古沢嘉通編訳、ハヤカワ文庫)
    表題作は、小惑星の衝突前に地球を脱出した宇宙船の、唯一の日本人クルーの物語。著者は「もののあはれ」という美意識を少し深読みし過ぎているような気もします。しかし、最後の日本人の死と共に、固有の言語や文化、観念も消え去って行くというモチーフは、今や現実的に感じられるようになりました。「円弧」と「波」は姉妹編。いずれもヒロインが科学技術によってアンチエイジングを成し遂げる話で、女性読者は羨望をもって貪り読むこと請け合い。但し、両者の結末は似て非なるもの。「信仰への道を納得して進むために、必要なのは1ビットのエラーだ」というテーゼが出て来る「1ビットのエラー」は、シリウスから届く光の中に、愛する者の死の瞬間、キリストが十字架に掛けられた瞬間、今とは異なる時間を受け取ることで、永遠と繋がる幸せを説いています。巻末「良い狩りを」は、妖怪退治師(道教の退魔師)の息子と妖狐の娘との慕情がテーマ。しかるに、物語の舞台は清朝末期からパラレルワールドの香港に移ります(当然、スチームパンクだし…)。このコンビが活躍するエンタテインメントも出来たでしょうに、著者の関心はそちらに向かいません。でも、もしかしたらハリウッドが目を付けて、原作とは似ても似付かぬB級映画に仕上げるかも知れません。
posted by 行人坂教会 at 13:55 | 牧師の書斎から

2017年11月28日

12月第1主日礼拝(アドベント第1主日)

      12月 3日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 光が暗闇の底まで降りる音楽    朝日研一朗牧師
聖  書  ルカによる福音書 1章67〜80節(p.102)
讃 美 歌  27、245、247、236、81、24
交読詩編  詩編19編8〜11節(p.25)

・みんなで会堂掃除    礼拝後     礼拝堂、階下ホール

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2017年11月27日

向こう側を通る【ルカ10:25〜37】

聖句「ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。」(10:31)

1.《この三人》 追い剥ぎに遭った旅人が重傷を負って倒れていますが、通り掛った祭司もレビ人も、なぜか彼を助けません。サマリア人だけが助けます。「誰が旅人の隣人に成ったか?」と、イエスさまは尋ねます。答は簡単です。この譬え話が物事の善悪の判断を問うだけのものなら、登場人物は3人要りません。この3人は、私たち自身の心の動きを象徴的に描いているのです。

2.《向こう側》 河瀬直美監督の『あん』という映画があります。ヒロイン徳江(樹木希林)はハンセン氏病の元患者ですが、社会の人たちと繋がりたいと願い、どら焼き屋で餡を捏ねる仕事をします。彼女の作る餡は美味しいと評判を呼びますが、やがて彼女の手が変形していることから元患者であることが噂となり、客は絶え、店も潰れてしまいます。彼女は社会的な死を体験することになるのです。義憤を感じますが、しかし、どら焼きを買わなくなった人たちに、私たちは石を投げることは出来ません。倒れている旅人を見て見ぬ振りをして「向こう側」を歩く、祭司やレビ人と同じことを、私たちもしているのです。

3.《心のドア》 私たちの心の中には「祭司とレビ人」が宿っていますが、善を求める心、即ち「サマリア人」もいるのです。物理的、心的距離が無関心を生み出します。ヴィーゼルは無関心を鈍感と捉えて「人を助ける時には、ただドアを開けるだけで良い」と言いました。何もかも出来ませんし、誰でもが出来る訳でもありません。しかし、実際に出来た人もいます。また、私たちには祈ることが出来るのです。そして、フランクルが言うように「人は死ぬまで成長できる」のです。心を開き、祈り続ければ、それは必ず行動に結び付き、道の反対側を通り過ぎる回数が少しずつ減って行くはずです。

大西秀樹医師

posted by 行人坂教会 at 19:50 | 毎週の講壇から