行人坂教会 公式サイト ご案内

当サイトの内容は左記の「メニュー」からご覧になれます。


はじめに・・・・・・・・当教会からのご挨拶があります。
行人坂教会について・・・当教会の歴史・沿革についてご紹介します。
 礼拝・集会の案内・・・当教会で行っている礼拝と集会のご案内です。
 教会へのアクセス・・・当教会への交通、付近の地図、連絡先です。
牧師ご挨拶・・・・・・・当教会牧師のご紹介で、本人のプロフィールもあります。
牧師の書斎から・・・・・当教会牧師のメッセージ、記事を集めています。
 会報巻頭言など・・・・当教会会報「行人坂」に掲載された牧師のメッセージ集です。
 こんにゃく問答・・・・同じく、会報「行人坂」に掲載された教理問答集です。
教会からのお知らせ・・・各種イベント(イースター、クリスマス諸行事、バザーなど)のご案内です。
毎週の礼拝案内・・・・・毎週の主日礼拝のご案内(概要)があります。
      *最新情報*礼拝終了後は当日の音声録音を聴くことができます
毎週の講壇から・・・・・毎週の主日礼拝での説教の要約をまとめてあります。
教会アルバム・・・・・・当教会で過去開催された行事の写真集です。
オリジナル賛美歌など・・当教会の会員有志が作成したオリジナル賛美歌をご紹介します。
リンク・・・・・・・・・日本キリスト教団他の関連サイトへのリンク集です。

また、見やすくするためにメニューの上、ページ末尾、右端に、次のボタンを設置してあります。


help-gyonizaka-site-ic1.gif・・・・クリックすると、文字の大きさを中、大、最大の3種類に変更できます。
help-gyonizaka-site-ic5.gifまたはhelp-gyonizaka-site-ic2.gif・・この部分をクリックすると、そのページの最下段まで移動します。
help-gyonizaka-site-ic4.gifまたはhelp-gyonizaka-site-ic3.gif・・この部分をクリックすると、そのページの最上段まで移動します。
help-gyonizaka-site-ic6.gif・・・この部分をクリックすると当サイトのトップページに戻ります。

それでは、どうぞご覧下さい。なお、以下は最近の記事です。


行人坂教会からのお知らせ

2020年8月中は、毎週水曜日の「聖書と祈りの集い」は午前の部・午後の部共に休会です。



2020年08月04日

8月第2主日礼拝

       8月 9日(日) 午前10時30分〜11時30分
平和メッセージ  ”エルサレムの石音楽   作:朝日研一朗牧師
聖  書  ルカによる福音書 19章37〜44節(p.147)
讃 美 歌  27、428、490、308、578、29
交読詩篇  詩編68編1〜11節(p.75)


・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2020年08月03日

神の言葉は鎖に繋がれない【Uテモテ2:8〜13】

聖句「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。」(2:9)

1.《平和を祈る日》 8月15日は天皇の終戦詔勅が発布された日に過ぎず、実際の戦闘は8月末まで続いていました。沖縄(6月23日)、広島(8月6日)、長崎(8月9日)と祈念する日には地域による時差があります。教団は8月第1主日を「平和聖日」としましたが、カトリック教会の「世界平和の日」は1月1日、国連の呼びかける「国際平和の日」は9月21日です。

2.《使徒は辛いよ》 大切なのは、平和を祈り求め、平和を作り出していくことです。ある教会の牧師が「平和を作り出す人たちは幸い」と説教の表題を付けたら、看板の奉仕者が間違って「平和を作り出す人たちは辛い」と書いてしまいました。笑い話ですが、それも真実です。世の中が好戦ムードに湧き立つ中で「平和」を主張すれば迫害されます。戦闘下では「非戦」を呟くだけで処刑されてしまいます。「テモテ書」は、ローマで獄中にあったパウロが語るという形式の書簡です。パウロの真作ではありませんが、殉教を前にした彼の心情が偲ばれます。

3.《福音の真理に》 「鎖につながれて」は「監獄に囚われて」とも訳せますが、続く「神の言葉はつながれない」の関連で「鎖」と成っています。この聖句は「バルメン宣言」の第6条のテーゼの前に掲げられているのです。ヒトラー政権下で 「告白教会」が表明した信仰告白ですが、主の御言葉と御業は、人間の願望や国家目的や計画経済などからは完全に自由であり、人間の目論見に御言葉を仕えさせてはならないと言うのです。「ナチス的思考」は、現代日本の教会の中にも起こり得るのです。本末転倒が起こり得るのが、人間の現実なのです。私たちは「人間の不真実」に対して「神の真実」を掲げて参りましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:55 | 毎週の講壇から

2020年07月28日

8月第1主日礼拝(平和聖日)

       8月 2日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”神の言葉は鎖に繋がれない音楽   朝日研一朗牧師
聖  書  テモテへの手紙U 2章8〜13節(p.392)
讃 美 歌  27、428、490、491、237、29
交読詩篇  詩編68編1〜11節(p.75)

・臨時総会     正午〜午後3時     礼拝堂

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2020年07月27日

み名があがめられますように【使徒言行録19:11〜20】

聖句「このことがエフェソに住む…人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。」(19:17)

1.《主の祈り》 コロナ禍の時代に入り、今や礼拝出席が「信仰の砦」と言い切れなくなって参りました。集会そのものに不安を感じる人がいる状況の中、キリスト教信仰の「最後の砦」と言えるのは「主の祈り」です。私たちの祈りと願いは各人多様です。クリスチャンと言えども、教派によって信条は異なります。しかし「主の祈り」を唱えるという一事だけは変わらないのです。

2.《皆の祈り》 17世紀の魔女裁判では「主の祈り」が唱えられず処刑された人もいました。こうなると命懸けです。前半の「御名・御国・御心」を求める祈りの中では、地上での「御国の完成」「御心の成就」は遠いかも知れません。しかし「御名」をあがめることだけは日常的に出来ることです。私たちの礼拝がそうです。また、未信者や他宗教の人であっても、教会の業に賛意を示したり、協力してくださるなら、即ち「御名」があがめられているのです。エフェソの住民たちがそうでした。「御名の祈り」こそは「皆の祈り」なのです。

3.《神を仰ぐ》 「あがめる」は「メガリュノー」の受身「大きくなる」です。「主の祈り」の「あがめる」は「聖とする」、「テサロニケの信徒への手紙U」では「栄光を帰する」という動詞が使われています。しかし、その心は1つです。私たちの名ではなく、神さまの御名こそが賛美されますようにとの祈りです。パウロの時代にも、イエスさまのお名前を利用して悪魔祓いをする祈祷師たちがいました。今も主の御名を利用して、教祖を飾ろうとする新興宗教やカルトは後を絶ちません。「仰げば尊し我が師の恩」と歌われます。儒教です。米国の歌集にある原曲では、主の御もとでの再会を約束する歌なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:52 | 毎週の講壇から

2020年07月26日

どこへ行くのか

1.ゴートゥ事業

新型コロナウイルス感染拡大が続く中、政府は1兆6千8百億円もの大規模な補正予算を組んで、「Go Toキャンペーン事業」を始めました。

第一弾は「Go To Travel」、大きな打撃を受けた観光業者に対する支援策です。期間中に旅行代理店を通して旅行、宿泊したら、代金の2分の1程度のクーポンが貰えるそうです。第二弾は「Go To Eat」、飲食業者に対する支援策です。期間中にオンライン予約サイトを通して飲食をしたら、ポイントが貰えるそうです。

実は、まだ続きます。第三弾は「Go to Event」、期間中にチケット会社を通してイベントやエンタメ(劇場や娯楽施設)のチケットを購入したら、2割分のクーポンが貰えると言うのです。第四弾は「Go to 商店街」、この辺りに成ると、もうサッパリ分かりませんが、地域の商店街がイベントを開催したり、公告や販売促進活動をしたり、新商品を開発したりするのを支援するようです。

しかしながら、皆さんも御存知の通り、旅行を奨励する第一弾から躓いてしまいました。都道府県知事や地方自治体の首長から一斉に、感染拡大を懸念する声が上がり、東京都民は「Go To Travel」から外されてしまいました。既に旅行を予約していた東京都民のキャンセルが相次ぎ、そのキャンセル料を、政府が補償することになったそうです。このドタバタ振り、まるで下手糞な喜劇のようです。

とは言え、これによって、またもや国民の血税が湯水のように流されて行くのですから、笑って済ませられるものではありません。税金泥棒して特定業者にだけ手渡すと言うので、「強盗キャンペーン」、感染拡大させた上に財政破綻を招くと言うので、「Go To Hell(地獄行き)キャンペーン」と揶揄されるのも当然です。

2.キャンペーン

それにしても、いつから日本政府は「商業キャンペーン」を企画する会社の真似事を始めたのでしょうか。我が国の国土交通省や経済産業省は、広告代理店の「電通」に乗っ取られてしまったのでしょうか。

「キャンペーン/campaign」とは「組織的運動、活動」のことです。「交通安全運動」「販売促進運動」「募金活動」等が「キャンペーン」の代表です。でも、米国で「キャンペーン」と言えば、大統領選や議員選、州知事選などの「選挙活動、選挙戦」です。その意味では、「Go To キャンペーン」も、旅行業者、飲食業者、チケット業者、商店街と順番に特定業種を支援することで(と言っても、単なる税金のバラ撒きですが)、秋に行なわれるとも噂される総選挙のために、支持票獲得を狙った「企画」なのかも知れません。

そもそも「キャンペーン」等というチャラい語が謳い文句として出て来ること自体が、日本国の国家政策に相応しくないと、私は思っているのです。振り返れば、バブル時代は「キャンペーンガール」(略して「キャンギャル」)の全盛期でした。高度経済成長期には「イベントコンパニオン」と称していたものです。

私にとっては「キャンペーン」と言えば、街頭で「キャンギャル」が、ハイレグ水着やレースクイーンのコスプレで「販売促進」のプロモーションをやらされている、そんなイメージなのです。要するに、完全な「色物」なのです。

3.行き先が不明

先日、NHKの「BSシネマ」で『クォ・ヴァディス』(Quo Vadis)を放映していたので、録画して観たのでした。ポーランドの作家、ヘンリック・シェンキェヴィチの原作を、ハリウッドで映画化した懐かしの名画(1951年)です。所謂「聖書もの」「キリスト教もの」の「スペクタクル映画/Epic Film」です。

東方遠征から凱旋したローマ帝国の軍司令官、マルクス・ウィニキウスが、ローマに捕囚されている、小国(スラブ系)の王女、リギア(キリスト教徒の娘)と出会って、恋に落ちるのですが、ネロ帝によるローマの大火とキリスト教徒に対する迫害の中で、信仰に目覚めるという筋書きです。彼らに関わる人物として、使徒ペトロやパウロも登場します。ネロの廷臣として、『サテュリコン』のペトロニウスやセネカも登場します。

さて、タイトルの「クォ・ヴァディス」の由来です。ネロ帝の迫害を逃れたペトロが、ローマを去るべくアッピア街道を歩いていた時、朝の光の中に、キリストが顕われます。思わずペトロは「主よ、何処にか行き給うや?」と問うのです。それが「Quo vadis,Domine?」です。ラテン語の発音は「クォー・ウァーディス・ドミネ」です。すると、キリストが答えて曰く「汝、我が民を見捨てなば、我、ローマに行きて今一度、十字架に掛からん」。それを聴いたペトロは殉教を覚悟して引き返して行くのです。

この「主よ、何処に…」は「ヨハネによる福音書」13章36節に出て来るペトロの台詞でもあります。「主よ、どこへ行かれるのですか」。英訳では「Lord,where are You going?」と訳されています。

新聞やテレビのニュース番組で、政府主導の「Go To キャンペーン事業」の一連の騒動を見たり聞いたりしながら、しきりに「クォ・ヴァディス」の問いが思い出されて仕方がありませんでした。私たちは、一体どこへ連れて行かれようとしているのでしょうか。

総額260億円(調達費184億円、配送費76億円)を使ってしまったという厚生労働省の「アベノマスク」配布事業と言い、後戻りは出来ないのでしょうか。引き返すことは出来ないのでしょうか。因みに、旧約聖書では「悔い改め」という語は「シューブ」というヘブライ語です。即ち「悪しき道から離れること」「御もとに立ち返ること」を意味します。

牧師 朝日研一朗

【2020年8月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 06:00 | ┣会報巻頭言など

2020年07月21日

7月第4主日礼拝

       7月26日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”み名があがめられますように音楽  朝日研一朗牧師
聖  書  使徒言行録 19章11〜20節(p.251)
讃 美 歌  27、138、490、63@〜A、63B〜C、28
交読詩篇  詩編126編1〜6節(p.147)

・讃美歌練習(8月の月歌:428番)    礼拝後    礼拝堂

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2020年07月20日

疲れた使徒たちのレスパイト【マルコ6:30〜44】

聖句「イエスは、『さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい』と言われた。」(6:31)

1.《現代人の疲れ》 こんなにも私たちが疲れ果てているのは、産業革命以降、急速に激変する生活環境に適応できないからです。その筆頭に挙げられるのは、都市の人口過密です。多くの実験動物を狭いケージの中に入れたままにして置くと、ストレスで死んだり殺し合いを始めます。しかし、人間は過酷な環境に置かれても耐えているのです。疲れるのも当たり前なのです。

2.《休息を求めて》 十二使徒はイエスさまに派遣されて宣教の旅に出掛けていたのですが、今漸く帰って来たのです。疲れ果てていました。しかし、イエスさまの周囲には、癒しや教えを求める人が出入りしていて休養できません。そこで「人里離れた所」で「休み」を取るように、主は言われたのです。アリストテレスは「休み」を3つに分類しています。「パイディア/娯楽」「アナパウシス/疲労回復のための保養」「スコレー/真理を求めるためのゆとり」です。ここに出て来る「休み」は「アナパウシス」ですが、3つのバランスが大切なのです。

3.《息を吹き返す》 ところが、舟で湖を渡ってみると、そこにも群集が押し寄せていました。使徒たちの休息は台無しに成ってしまいました。使徒たちは「早く解散させましょう」と進言します。「自分で…何か食べる物を買いに行くでしょう」は「自己責任論」です。それに対して、群集の寄る辺なさに心痛められた主は「あなたがたが食べ物を与えなさい」と仰り、奇跡を起こされました。食べ終わって皆が満腹しても、尚「十二の籠」がパンと魚で満たされました。十二人の使徒たちも満たされたのです。「レスパイト」とは「息を吹き返す」こと、イエスさまの聖霊(愛)を受けて癒され、生き返ることなのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:52 | 毎週の講壇から

2020年07月17日

旭日亭菜単(続き)その59

  • 「澁澤龍彦訳 暗黒怪奇短篇集」(澁澤龍彦訳、河出文庫)
    シュペルヴィエルの「ひとさらい」とマンディアルグの「死の劇場」は再読です。今回の収穫は、ドルヴィリの「罪のなかの幸福」でしょう。父親によって最高の剣士として育てられた女オートクレールと、サヴィニイ伯爵との不倫話ですが、二人がセックスのみならずフェンシングによっても結ばれているのが肝です。私も長男の付き添いで、フェンシング道場に通っていた時期がありますので、一瞬の肉体の躍動の中に性別や道徳の境界線をも易々と超えるような、エクススタシス(忘我、痙攣)のような感覚があると思います。レオノラ・カリントンの「最初の舞踏会」では、少女の身代わりにハイエナが舞踏会デヴューします。女中の顔の皮を剥いで被ったハイエナですが、身体に染み付いた腐肉の臭いだけは如何ともし難かったのです。揺れ動く思春期の少女の思念を物語化した名作です。
  • 「アイヌ童話集」(金田一京助・荒木田家寿著、角川ソフィア文庫)
    読んでいて、東映動画の『太陽の王子ホルスの大冒険』を思い出しましたが、それもそのはず、そもそも「ホルス」は北欧神話ではなくて、アイヌ神話の「オキクルミと悪魔の子」から生まれた作品です。本書の中にも「オキクルミの昔話」として纏められています。金田一の末弟、荒木田の経歴(中川裕の「解説」)を見ると、1937年の「キネマ旬報」誌の懸賞に、自作『彼女の出發』が入選し、成瀬巳喜男監督が映画化する予定…との資料があるとの由。成瀬のPCL時代の末期でもあり、恐らく、この企画は頓挫したのでしょう。しかしながら、成瀬が二十年後に、児童文学者、石森延男の『コタンの口笛』を映画化していることを思い出して、私は何か不思議な符号のようなものを感じるのでした。
  • 「ゴーストリイ・フォークロア/17世紀〜20世紀初頭の英国怪異譚」(南條竹則著、角川書店)
    やはり、同業者の誼か、独立教会(18世紀英国における会衆派の別名)の牧師、エドマンド・ジョーンズの著書からの紹介を最も興味深く読みました。著者によれば、この人、カルヴィン派(スコットランド改革教会)の影響を受けていたり、ハウエル・ハリス(ウェールズにおけるカルヴィン主義メソジスト派の創始者)とも友好関係にあったようです。本文には、浸礼派(バプティスト)やクエーカーの人物の体験した怪異譚も紹介されているので、18世紀当時、英国のプロテスタント諸派が緩やかな連帯を持っていたことが伺えます。それはともかく、日本の人魂に当たる「屍蝋燭」、バンシーの係累と思しき「キヒラース」、「魔犬/地獄の犬」、牧師でありながら魔法使いに成ったデイヴィッド・ルイド等、実に面白い話が出て来ます。近代の科学万能主義に対する反論として著されながらも、現代では、フォークロアとしての価値が高く認められた文書です。
  • 「旅に出る時ほほえみを」(ナターリヤ・ソコローワ著、草鹿外吉訳、白水社)
    地底を掘り進む巨大アンドロイド「怪獣17P」と、その開発者である「人間」との心の絆を描いた作品ですが、そんな大筋から想像されるようなセンチメンタリズムとは無縁です。この「怪獣」の描写は、東宝特撮作品『キングコングの逆襲』において、メカニコングが「エレメントX」を採掘する情景と音楽(あの伊福部昭の)を、どうしてもイメージしてしまいます。国家総統による独裁と統制がエスカレートして、港湾労働者のストを弾圧し、「人間」の属する科学アカデミーからも研究の自由が奪われ、遂には「怪獣」を軍事利用しようとします。「人間」は名誉剥奪されて国外追放と成ります。丁度、習近平の独裁下「香港国家安全維持法」が成立した時でしたので、胸が詰まるような気持ちに成りました。そんな中、この「怪獣」は「人間」のために歌うのです。「あんまり背嚢につめるなよ。/一日 二日 三日じゃない―/二度と帰らぬ旅だもの…/旅に出るとき ほほえみを、/一度や 二度や 三度じゃない/旅は哀しくなるものさ…」。
  • 「縮みゆく男」(リチャード・マシスン著、本間有訳、扶桑社ミステリー)
    これは凄い小説でした。実存主義文学(サルトルの『嘔吐』)に比して論じる向きもあるようですが、この不条理な恐怖こそはマシスンの到達点です。正体不明(放射能?)の霧を浴びた男の体が1日に1/7インチ(0.36センチ)ずつ縮んで行くのです。緩慢なスピードでありながら、確実に進行して行き、治療方法は見付かりません。妻の背より低くなり、やがて幼い娘よりも、飼い猫よりも小さく成って行きます。その底知れぬ恐怖、周囲の無理解に対する苛立ち…。社会生活からの排除と差別、日常生活の困難、巨大化する衣服や家具、遂には、飼い猫や鼠、女郎蜘蛛などが襲い掛かって来ます。心身の障碍、進行性の病気、加齢による衰弱などの隠喩として読んで行くことも出来ます。日常の全てが恐怖に変わるのです。
  • 「二壜の調味料」(ロード・ダンセイニ著、小林晋訳、ハヤカワ文庫)
    所謂「安楽椅子探偵」物です。名探偵リンリーが警察の依頼を受けて自室で推理して行きます。助手は調味料「ナムヌモ」の訪問販売をしているスメザーズです。この人がワトソンのような語り手に成っています。私には、その語りが熊倉一雄の声で聞こえて来ます(但し、「名探偵ポアロ」ではなくて「ヒッチコック劇場」風ですが…)。この「リンリー=スメザーズ」のシリーズは本書の前半だけでした。予想に反して、後半の短編が面白かった。悪ガキ3人組が公園の池で、自作のポンポン船(『崖の上のポニョ』を想起せよ)に魚雷を仕込んで、金持ちの子どもの船を撃沈する「ラウンド・ポンドの海賊」が愉快。大戦前夜、ラディカルな発言をする国会議員の議会演説を、戦争を回避するために阻止しようとする「演説」のドンデン返し(先日読んだ「霧の中」を思い出します)。落雷による殺人を計画する「稲妻の殺人」も珍妙な味わいです。
posted by 行人坂教会 at 15:19 | 牧師の書斎から

2020年07月14日

7月第3主日礼拝

       7月19日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”疲れた使徒たちのレスパイト音楽  朝日研一朗牧師
聖  書  マルコによる福音書 6章30〜44節(p.72)
讃 美 歌  27、138、490、87、432、28
交読詩篇  詩編126編1〜6節(p.147)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2020年07月13日

女やもめに花は咲くか?【マルコ12:41〜44】

聖句「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(12:44)

1.《プレゼント》 米国のクリスマスソング「リトル・ドラマー・ボーイ」では、貧しい少年が小太鼓を叩いて、御子イエスの誕生を祝います。アナトール・フランスの小説『聖母の軽業師』では、修道士に成った元軽業師が聖母を讃えるために礼拝堂でジャグリングをします。それを見咎めた他の修道士たちは「冒瀆」と非難しますが、聖母が祭壇を降りて来て、軽業師の汗を拭うのです。

2.《砕かれた心》 何を奉げるか、幾ら献金するかではないのです。神の御前に自分自身を投げ出すのです。それを「献身」と言います。それこそが信仰の核心です。「詩編」51編では「打ち砕かれた霊」「打ち砕かれた心」と言われます。世間では「もう心が折れてしまいそう」と否定的に言われますが、信仰の世界では、心の折れた人のみが御前に進み出ることが出来るのです。エゴイズムに満ちた人や自信満々、得意満面の人は御前に近付くことすら出来ないのです。自らに絶望した人だからこそ、神さまに希望を託すしかないのです。

3.《生活費全部》 ある貧しい寡婦が神殿の賽銭箱にレプトン銅貨2枚を入れました。「レプトン」とは「薄い物」、当時の最小単位の硬貨でした。今風に言えば「ワンコイン」百円です。2千年前の聖書に「生活費/ビオス」という語が出て来るのが驚きです。「ビオス」には「人生、生涯、生活」の意味もあります。寡婦の生活の行き詰まりが偲ばれます。暮らしが成り立たない、生計が折れてしまっているのです。ここには何も安易な解決策は提示されていません。イエスさまも彼女を見詰めているだけです。けれども、苦しみや悲しみの中から注ぎ出されるものに、主なる神さまは目を留めて居られるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:00 | 毎週の講壇から