メッセージ:腹には苦く、口には甘い
聖 書:ヨハネの黙示録 10章8〜11節(p.464)
讃 美 歌:222番「キリストよ、光の主よ」
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標語 『主イエスの道を歩こう』
わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
(ヨハネによる福音書14章6節)
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主日礼拝、諸集会休止のお知らせ(第2回)
行人坂教会における主日礼拝、CSこどもの礼拝(教会学校)、聖書と祈りの集い、委員会活動、団体活動を、しばらくの間、すべて休止いたします。休止期間、及び活動再開につきましては、「緊急事態宣言」解除を目安として、改めて判断させていただきます。
「夜の日時計/horologium nocturnum」
1.ヒゼキヤの祈り
旧約聖書「列王記下」20章(及び「イザヤ書」38章)に「ヒゼキヤの病気」という記事があります。ヒゼキヤ(Hezekiah)は、紀元前715年〜687年(686年との説も)に、南王国ユダを治めた国王です。超大国アッシリアの脅威の迫る中、国の舵取りをしなければなりませんでした。しかも、緊迫する政治情勢下で、彼は死の病を患います。
病からの回復を必死に祈るヒゼキヤに、預言者イザヤが神の託宣を告げます。「私はあなたの祈りを聞き、涙を見た。私はあなたを癒す。私はあなたの寿命を15年延ばし、アッシリア王の手から、あなたの都を救い出す」。
そして、その託宣の確かさの証として、神さまは「日時計」の影を10度後戻りさせるという徴を示されたのでした。
「日時計」はヘブライ語で「マーアロース/階段」です。階段の影で建物の壁に時を示したようです。古代パレスチナの町、ゲゼルの遺跡からは、旅行用に携帯する日時計(6センチほどの幅)も発掘されています。そこには、紀元前13世紀のファラオ(メルエンプタハ)の名前と姿が描かれていて、非常に古い物であることが分かります。
2.ホーロロギウム
ヒゼキヤの「日時計」はラテン語「ウルガタ聖書」では「ホーロロギウム/hōrologium」と訳されています。それを目にした時、私は「horologium nocturnum/ホーロロギウム・ノクトゥルム/夜の日時計」という物があったことを思い出したのです。英語で「ノクターナル/nocturnal」と呼ばれる装置です。
中世以前、時計のない時代には、海上で時刻を知るために、昼間は日時計、夜は「ノクターナル」という装置が使われていたそうです。「ノクターナル」は北極星とこぐま座ベータ星「コカブ/Kochab」との角度から時間を知る装置で、13世紀頃から用いられ、16世紀には、広く行き渡っていたそうです〔以上、飯島幸人著「航海技術の歴史物語」(成山書店、2002年)から〕。「星時計」と呼ぶ人もいます。
3.夜間に朝を想う
「ノクターナル」という語から「ノクターン/nocturne/夜想曲」を連想する人も多いと思います。キリスト教で「ノクターン/nocturn」と言えば、カトリック教会の「聖務日課/時禱」の1つ「宵課(しょうか)、夜課/Nocturna/ノクトゥルナ」が思い出されます。
「宵課/宵の祈り」は、何と「朝課/Matutinus/マートゥーティーヌス」の一部です。しかも「朝課/朝の祈り」と言いながら、やはり、実際には、真夜中の祈りなのです。これは、日没と共に日が変わるという、旧約聖書以来の認識から来ています。12月24日の日没後に行なわれる、クリスマスイヴの礼拝が降誕日、12月25日と認識されるのと同じです。真夜中に朝を覚えて祈るのです。
「コロナ禍」の時代を生きている私たちもまた、真っ暗な夜のような時間を過ごしています。しかし、そんな時にこそ「星時計」を通して、夜空に輝く光のアリカを探したいと思います。「夜の日時計」を通して、夜明けを待ちながら、ご一緒に祈りたいと思うのです。
音声配信礼拝の予告
主日礼拝、諸集会休止のお知らせ(第2回)
主の御名を賛美します。
去る1月8日、日本政府は、首都圏(一都三県)に対して「緊急事態宣言」を発出しました。それに伴い、1月10日の主日礼拝後、会衆(一般会員と教友)の陪席の上、(公開)臨時役員会を招集、再び教会の諸集会を休止することを決定いたしました。
行人坂教会における主日礼拝、CSこどもの礼拝(教会学校)、聖書と祈りの集い、委員会活動、団体活動を、しばらくの間すべて休止いたします。休止期間、及び活動再開につきましては「緊急事態宣言」解除を目安として、改めて判断させていただきます。
6月7日の再開以来、集会そのものは、できる限りの感染対策をして開催して参りました。しかしながら、更なる感染の拡大、あるいは「感染爆発」が予想される中、外出そのもの(公共交通機関を利用しての往復など)が、礼拝参加者の命と健康を危機に晒すことを鑑み、休止を判断しました。
「緊急事態宣言」解除の予定日(2月7日)を、教会活動再開の目安にしていますが、期間が延長される場合には、引き続き休止します。
尚、前回と同じように、毎週日曜日の礼拝時に音声配信を、行人坂教会HP上にアップいたします。パソコン、スマホ、タブレット端末などをお持ちの方は、ご利用ください。
2021年1月12日(火) 日本基督教団 行人坂教会 牧師 朝日研一朗
聖句「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」(14:5)
1.《ぽっぽや》 映画『鉄道員(ぽっぽや)』で高倉健扮する主人公、乙松は北海道のローカル線の終着駅の駅長です。生後2ヶ月の娘が病死した時も、入院中の愛妻が臨終を迎えた時も、鉄道員としての職務を全うしたために、その最期を看取ることが出来ませんでした。定年退職を控えた乙松の前に、幼児、中学生、高校生の3姉妹が順に現われます。それは、幼くして亡くなった娘が成長して行く自分の姿を見せようとして、彼の前に現われたのでした。
2.《四角四面》 『鉄道員(ぽっぽや)』(1999年)の下地に成っているのは、イタリア映画の『鉄道員』(1956年)でしょう。いずれの主人公も、鉄道員としての職務に誇りを持ち、家庭の事情よりもダイヤと乗客の足を守り、職務を全うすることを第一に考えているのです。愚直を通り越して偏屈と言っても良いくらいです。昔の職人気質や職業人のプロ意識なのです。イエスさまの御言葉を読みながら、自分の息子が穴に落ちても、気付かない人もいるでしょうし、仕事を優先する人もいるかも知れないと思いました。イエス一行を自宅に招いて宴会を開いたファリサイ派の議員も、同席した「律法の専門家やファリサイ派の人々」も、決して悪い人たちではなく、ただ自分の職務に忠実な人たちだったのではないでしょうか。
3.《救いの手》 律法には「たとえ敵の驢馬でも荷物の下敷きに成っているのを見たら助けよ」「同胞の驢馬や牛が倒れているのを見て見ぬ振りをするな」と教えられています。況してや自分の家畜なら、自分の息子なら尚更でしょう。言うまでもありません。宴会の席上に「水腫を患っている人」がいました。リンパ液の病気で、体に浮腫が出ているのです。同席していたのですから、議員の身内に違いありません。しかし、居並ぶ面々は、イエスさまから改めて「安息日に病気の治療は許されるか?」と訊かれると、職業意識が邪魔をして黙り込んでしまったのです。議員は誰よりも癒しを願っていたはずです。それなのに私情を差し挟むことは許されないと沈黙してしまうのです。融通の利かない「律法バカ」なのです。彼らこそが井戸に落ちて上がれないのです。イエスさまはそんな面々を通り過ぎて、彼を癒されました。大切なのは愛、神が良しとされるのは愛、私たちを天国へと連れて行ってくれるものがあるとしたら、それは愛だけです。
朝日研一朗牧師
聖句「ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。」(2:22,23)
1.《巣ごもり生活》 昨年はコロナウイルス感染拡大に伴い「外出自粛」が叫ばれました。在宅で仕事をする「テレワーク」や、外出を減らして「おうち時間」が増えた結果、「巣ごもり需要」と言って調理器具や食品、ゲームや書籍、動画配信サービス、健康器具、家具、学習教材などの販売収益が倍増したそうです。このように「コロナ禍」で大儲けした人がいる一方、仕事や職場を失った人たちも多数あることを思うと、とても遣り切れない気持ちに成ります。
2.《引きこもり?》 昨年は「引きこもり」に取材した番組も多くありました。所謂「8050問題」もありますが、失職や高齢の親の介護を契機に引きこもる人も増えています。米国精神医学会の診断マニュアルに「社会的撤退/Social Withdrawal」とあったのを翻訳したのが「引きこもり」の語源です。聖書にも「引きこもり」が出て来ます。単に時代に迎合したのではなく、キリストの「公生涯」を如何に位置付けるかという問題があります。降誕から洗礼者の登場までの約30年間、イエスさまの動向について、知られざる期間があるのです。社会的に孤立しても、人から知られていなくても、生きている人たちがいるのです。
3.《ナザレの人?》 ヘロデの死後にユダヤ地方の統治を継いだ、アルケラオは大変な悪政を行なったそうです。そこで、ヨセフ一家はガリラヤ地方のナザレに移住したと言うのです。ここに「ルカによる福音書」のクリスマス物語との齟齬があります。「ルカ」では、マリアもヨセフも最初からナザレに住んでいた設定ですが、この「マタイ」では、故郷のベツレヘムに戻らず、泣く泣く東北の片田舎に移住するのです。この齟齬を「面白い」と思うか否かで、信仰の在り方(寛容と不寛容)が分かれます。「彼はナザレの人と呼ばれる」という預言は旧約聖書にはありません。むしろ「ナザレから何か良いものが出るだろうか?」と言われているのです。しかし、その方が本当のキリスト、王宮にではなく飼い葉桶に生まれたイエスさまに相応しいと思います。寄る辺ない亡命者の憂愁、片田舎に引き籠る者の孤立感、田舎者の鬱屈を、イエスさまは御存知なのです。
朝日研一朗牧師
聖句「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。」(2:13)
1.《子どもの祭》 12月28日は「幼な子殉教者の日」、ヘロデ王に虐殺されたベツレヘムの幼児を記念する日です。クリスマスは「子どもの祭」と言われます。降誕図やプレゼピオは飼い葉桶の赤ん坊を中心にしていますし、サンタが子どもたちにプレゼントを届けます。しかし、幼児虐殺の出来事をも踏まえた上で、クリスマスを受け止めるべきです。現代社会にも子どもの虐殺や虐待はあります。現代にもヘロデ王はいるのです。私たちの中にもヘロデがいるのです。
2.《ガブリエル》 ヘロデの幼児虐殺に先立って、エジプトへの逃避の記事があります。父ヨセフの夢に天使が現われて、危機を知らせ、一家をエジプトに脱出させるのです。この天使の名前は語られませんが、ザカリアとマリアに「受胎告知」をしたガブリエルとされています。羊飼いに救い主の降誕を告げたのも、イースターの朝、墓の前で女弟子たちに主の復活を告げたのも、同じくガブリエルとされています。「ダニエル書」以来、主の御言葉を伝えるのはガブリエルと決まっているのです。御子イエスさまと違って、私たちには神の御心は分かりません。それでも「御心ならば」と、神の御言葉に従って行くべき時があるのです。
3.《雌伏と雄飛》 ガブリエルがヨセフに命じている「連れて行け」には「受け容れる、引き取る、迎え入れる、信じて受け容れる」の意味があります。許婚マリアの懐妊に苦しむヨセフに「迎え入れよ」と告げられた語と同じです。ヨセフは、天使の言った通りに忠実に実行します。男性が父親として「腹を括る」瞬間です。「エジプトに逃げよ」の「逃げる」は「難を免れる」、「エジプトへ去り」の「去る」は「退く」です。「退く」ことは不名誉ではありません。時折り、イエスさまが群集から離れて、山や海辺で祈られた時の「退く」と同じです。私たちの人生にも、将来のチャンスを我慢強く待つ「雌伏」の時が必要なのです。その対語は「雄飛」ですが、オスメスの役割分担と読むべきではありません。タマシギやエミュー、ウコッケイ等は、雄鳥が抱卵して雛を養育するのですから。むしろ「雌伏」を経て初めて、勢いよく羽ばたく「雄飛」の日も巡って来るというものです。
朝日研一朗牧師