説 教 ”種の山に、備えあり” 米倉美佐男牧師
聖 書 創世記22:1〜14(旧約p.31)、ヨハネによる福音書3:16(新約p.167)
讃 美 歌 27、180、490、390、436(@C)、88
交読詩篇 詩篇84:1〜13
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
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「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち」(1節)とは、神さまが私たちにエッサイの家系から救い主を与えるとの預言の言葉です。ですからこの箇所は昔からアドベントの期間に、キリストの誕生の意味を想起するために読まれてきました。
エッサイとはイスラエルの王ダビデの父です。ダビデ王はイスラエル王国の繁栄の象徴でした。しかし自分たちの知恵や力により頼み、度重なる神さまへの背反により、王国は滅亡していきます。「エッサイの株」とは切り倒された王国のことを指しています。しかし神さまはその切り株から新しい若枝を生えさせると語るのです。
人間の目には終わりと見えるところにこそ、神さまの救いの業が現れます。それがイザヤの預言でした。人間の不信仰や失敗、途方に暮れるような葛藤の中にこそ、神さまは様々な形でご自身を現わされる方です。だからこそ私たちは不安の多い社会にあっても、希望を見失わずに歩むことができるのです。
私たちの心の中にも「大きな木」が存在しているかもしれません。自分中心の言動や傲慢さ、驕り高ぶりという「大きな木」を切り倒さなければ、心の中にキリストをお迎えすることはできないのです。神さまは私たちの失敗、もうダメだというところから新しい道を開いてくださいます。不安の絶えない社会状況の中にあっても、必ず進むべき希望の道が示されていることに感謝しつつ、この1年の歩みを進めていきたいと思います。
原牧人牧師
テキストは「カナの婚礼」です。舞台は婚礼の披露宴、母マリアは披露宴を取り仕切っているようなので、親しい人の結婚式でしょう。ユダヤの婚礼披露宴は興に乗ると一週間も続きましたから、何とも大変な行事です。そこでは「ぶどう酒」が振舞われました。1章の洗礼者ヨハネの厳しい空気の記事のすぐ後にこの記事の配置ですから、1章から2章は厳しさから喜びへの移り変わりです。
さて、宴もたけなわ、心をまろやかにするぶどう酒がなくなりました。マリアは息子に声をかけます。『ぶどう酒がなくなりました』。彼女は息子に何か只者ではない直感がしたのか、遠慮がちな物言いです。対するイエスさまの応答、『婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのです』。何と冷たい言い方でしょうか。しかしヨハネが伝えたかったことは、すぐ後の『わたしの時はまだ来ていません』という部分でしょう。さて、イエスさまが召使いたちに甕一杯に水を汲ませ、それを宴会の世話役のところへ持って行かせると、水はぶどう酒に変わっていました。このイエスさまの奇跡を、ヨハネは「栄光を現した」「最初のしるし」と言います。ヨハネ福音書はこの後もイエスさまは人々が驚くような「しるし」をたくさん示します。奇跡という神さまの「しるし」を使いながら、「皆さん、この凄いしるしの意味が分かりますか」と読者へ問いかけているのかもしれません。
また先述の通り、鍵は『わたしの時はまだ来ていません』にあるようです。母は息子が只者ではないと感じつつ、息子が何とかしてくれるだろうと思い、『ぶどう酒がなくなりました』と言ったのでしょうか。対するイエスさまの返事は「素っ気ない、冷たい」ものです。これはマリアとはまったく違う視点からの言葉です。イエスさまは既に父である神さまの意志を感じ始めておられたのでしょう。たとえ相手が母であっても、人間の意志を神の意志に優先させることは出来なかったのです。
『わたしの時はまだ来ていません』には、人間の時間に対する認識を超えた、いわば神の時間が介在しています。「わたしの時」という表現は、神の子として神の意志を実現する「時」を意味し、「十字架と復活の時」を示唆します。ヨハネにとってイエスさまの「しるし」は、奇跡を行う能力ではなく、新しい恵みと真理を示す権威の「しるし」なのです。奇跡よりもはるかに大きな栄光が神の独り子にはある、そうヨハネはこの福音書で言いたいのです。『それで、弟子たちはイエスを信じた』とありますが、この時弟子たちは聖霊を受けたに違いありません。イエス・キリストの新しい創造の業、これは恵みであり、こんなに大きな喜びは他にはありません。
秋葉正二牧師
私が最初にキリスト教を知ったのは、小学校の同級生が教会学校のクリスマス・パーティなどを楽しんでいたからでした。私は教会学校に憧れましたが、保護者が連れて行ってくれないと敷居が高いと感じました。私は小さな頃は親戚宅で育ち、実家に帰ってからも共働きの両親にあまり構われませんでしたから、「世話を焼いてくれる親」「家族連れの行動」を羨ましく思っていました。とはいえ親は教育熱心で、東京の大学・大学院に通うことを支えてくれ、私はそのありがたみを実感するようになりました。博士号を取らないと大学の雇用を打ち切られるという瀬戸際に立った時は、親の長年の支援を裏切ってしまうと絶望しました。そんな折、近所の猫(当時の小川牧師先生の飼い猫でしょうか)に招かれて見上げたのが行人坂教会でした。そこから「聖書と祈りの会」などに参加させていただき、心の支えを得て仕事や生活を立て直すことができました。
研究では「社会的ジレンマ」という問題を考えています。「全体としては協力した方が良いが、1人1人は『ただ乗り』した方が得」という構造です。社会ではよく見られるもので、例えば二酸化炭素排出を減らした方が地球環境には良いが各国は経済発展のために排出したいという問題や、小学校の給食を維持したいが給食費を払わない(払えない)保護者が増えると維持が難しくなるといった問題です。アメリカの研究者・アクセルロッド博士は、世の中に「常に協力する」「状況や相手に合わせて協力する」「常に協力しない」という行動がある場合、「常に協力しない」人を増やさないためには、
@最初は相手に親切に(niceに)振舞う、
A相手が親切なら親切を続ける、
B相手が裏切っても改心したらすぐ許す、
という行動を提案しています。こんな人が多い世界では、「常に協力しない」という行動は得にならないので、協力行動が増えると考えたのです。
キリスト教や多くの宗教は、「niceな人」を増やすことに寄与していると思います。特に大人が子供たちを育もうとすることはとても大事で、それは人生で他者と「長いおつきあい」をする上での礎になると感じています。
谷口尚子さん
今日、1月1日には初詣ということで神社やお寺に行くのが一般的ですが、この時期を元旦にした起源は教会です。明治に入るまで、暦は太陰暦で、元旦は2月3日頃、今の豆まきの時期です。明治に入って太陽暦を導入して以来、冬のこの日に1月1日を祝うようになったのです。
それでは、旧新約聖書全体において1月1日が最初に登場しているのは、どこかと言うと、創世記8章13節「ノアが601歳のとき、最初の月の1日に、地上の水は乾いた。ノアは箱舟の覆いを取り外して眺めた。見よ、地の面は乾いていた」です。
この箇所は、話の流れとしては、創世記7章6節、7章22節、8章3~4節の延長上にありますが、中でも注目すべきは、8章10節に、「更に7日待って、彼は再び鳩を箱舟から放した」と、また8章12節に「彼は更に七日待って、鳩を放した。彼はもはやノアのもとに帰ってこなかった」と記されていることです。
以上によって浮上するのが、7日の意義です。今日最も一般的なのは、創世記2章1節の安息日です。その7日目は安息日と呼ばれ、律法とも置き換えられ、安息日論争が生まれ、そこから、レビ記23章41節のような主の祭としての7日間も関心が寄せられていますが、余裕としての7日に思いめぐらす者は、まずいないのではないでしょうか。勝海舟はその余裕の意義を語ったことでも偉大なのです。その余裕を心に秘めると、創世記8章7節、カラス「地上から水が退くのを待って・・」とあることに気づかされます。それによって、世界の創始を余裕を持って受けとめるだけでなく、カラスの眼差しからも受けとめるよう促していないでしょうか。
安田治夫牧師
本日のイザヤ書では、二つに分かれたイスラエルが大国によって滅ぼされる絶望の時代に、「一人のみどりごが私たちのために生まれた」という希望の言葉が語られています。真の「平和」が絶えることがないという神の約束です。この約束の実現はなんと700年後でした。新約聖書は、イエスがこの約束の成就だと証しし(マタイ4:14−16)、後には古代イスラエルだけではなくすべての人の救い主として全世界に広まっていきました。創世記には神は人を土塊から造られご自分の息を吹き込まれたとあります。もろいけれども神にかたどられている私たちの心の奥底に、神の正義や愛を求めるものがあるからではないでしょうか。
しかし私たちの社会も、自分の心の中も、神の似姿からほど遠い現実です。それでも罪に対して開き直ったり見て見ぬふりをしていては、問題が解決しません。そのためにイエス・キリストが与えられました。「人間にはできないことも、神にはできる」(ルカ18:27)とあるように、私たちが救われるためです。ヘブライ人への手紙には、イエスは「偉大な大祭司、神の子」でありながら「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく」完全に寄り添うことが出来ると書かれています。ルカによる福音書には、弱小国イスラエルの難民のような神の子の誕生が描かれています。動物と野宿する羊飼いたちにとり「あなたがたへのしるし」でした。
そしてイエスの最期は、十字架により私たちの罪を負いました。人には理解が出来ないほどの愛、完全な無償の愛が世界を救うと示してくださいました。徹底した愛を通して真実の愛を教え、「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」とおっしゃいました(ヨハネ15:12)。ですからクリスマスの精神は、私たちに何の見返りを求めずにご自分を与えてくださった主を覚え、私たちも人のために何かを差し出したり寄付をしたりする事です。さらに主の復活を通して、私たちの罪がいかに大きくても、神の愛が打ち勝つと明らかになりました。だからあきらめなくていい、私たちは変われる、愛せるようになれる。愛を身につけるのは生涯学習です。教会は、聖書という神の言葉をテキストに、交わりの中で愛を学ぶところです。イエス様という魂のインストラクターが共におられます。憐みを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
キスト岡崎さゆ里宣教師牧師