行人坂教会 公式サイト ご案内

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 こんにゃく問答・・・・同じく、会報「行人坂」に掲載された教理問答集です。
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      *最新情報*礼拝終了後は当日の音声録音を聴くことができます
毎週の講壇から・・・・・毎週の主日礼拝での説教の要約をまとめてあります。
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リンク・・・・・・・・・日本キリスト教団他の関連サイトへのリンク集です。

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それでは、どうぞご覧下さい。なお、以下は最近の記事です。


2017年06月20日

6月第4主日礼拝

       6月25日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 すべて借り物=@         朝日研一朗牧師
聖  書  コリントの信徒への手紙T 4章6〜15節(p.303)
讃 美 歌  27、135、34、218、25
交読詩編  詩編99編1〜9節(p.112)

讃美歌練習(7月の月歌:128番)  礼拝後     礼拝堂

posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2017年06月19日

愛は朝ごとに新しく【哀歌3:22〜33】

聖句「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。」(3:22,23)

1.《ラメント》 「哀歌」を「ラメント」と呼ぶのはラテン語の題名から来ています。クラシックにもポップスにも「ラメント/哀歌、悲歌」と題された曲があります。「エレジー」とは何が違うのでしょうか。マンガ家の田亀源五郎は「主体における悲しみを歌うのがエレジー、それに対して、客体への悲しみの情感を歌ったのがラメントではないか」と分析しています。

2.《死屍累々》 「哀歌」は5章、5つの詩から構成されていますが、第3章以外は「バビロン捕囚」時代の作品です。その内容もバビロニアに攻め滅ぼされて廃墟と化したエルサレムの情景、それに先立つエルサレム攻囲(籠城)の期間に、餓死した子どもたち、その肉を食べる母親の凄まじい姿、死屍累々たる情景が描かれています。「何故?」という疑問詞で始まりますが、「ああ」「あゝ哀しいかな」とも訳される語です。大きなショックやダメージを受けた時、私たちも「どうして!?」と漏らしますが、納得できる答えが得られると思ってのことではありません。思わず知らずに口を突いて出る呻きなのです。

3.《エレジー》 大石芳野の写真集『戦争は終わっても終わらない』を思い出しました。直接被害を受けなかった人は忘れてしまうのです。しかし、戦争や犯罪や災害を現在も続く出来事として生きている人もいるのです。どうして「哀歌」第3章だけに「個人の嘆きの歌/エレジー」が挿入されているのか、不思議でした。個人的な苦難の体験を民族的な苦難と結び付け、歴史上の苦難から自分の人生の苦難を見詰め直す作業をしているのです。更には、神の慈しみと憐れみの大きさが、その苦難を包み込んでくれるのです。私たちが「真実」に程遠い人間だとしても、神は「来る朝毎に」愛を「更新」されるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:53 | 毎週の講壇から

2017年06月13日

6月第3主日礼拝

       6月18日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 愛は朝ごとに新しく=@音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  哀歌 3章22〜33節(p.1289)
讃 美 歌  27、135、490、472、210、25
交読詩編  詩編99編1〜9節(p.112)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2017年06月12日

土に仕えるのが人【創世記2:4b〜15】

聖句「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」(2:15)

1.《大魔神!》 往年の大映の特撮映画に『大魔神』があります。時は下克上の戦国時代、所は丹波国、家老の大館左馬之助は主君に謀反を起こして、国主となりました。左馬之助は砦建設のために領民に過酷な労働を強い、山の武人像を破壊しますが、それが憤怒の形相の大魔神となって暴れます。最後には、娘の自己犠牲的な祈りによって魔神は怒りを鎮め、元の土塊に戻るのです。

2.《ゴーレム》 『大魔神』の元ネタは、戦前の独仏で何度も映画化された『巨人ゴーレム』です。時は17世紀の初め、所はプラハ、神聖ローマ帝国皇帝となったルドルフ2世は、ユダヤ人を迫害しゲットーに閉じ込めます。ユダヤの民は教会の隅にあるゴーレム像に救いを託しますが、像は警察長官によって略奪されて鎖で縛られます。獅子の咆哮を耳にしたラビの妻は、秘密の文字によってゴーレムを起動させます。ゴーレムは牢獄を破壊し、ユダヤ人を解放して、国家権力と戦うのです。虐げられた民のために暴君と戦うのも、ヒロインが鍵を握っているのも、使命を終えると土塊に戻るのも『大魔神』と同じです。

3.《土と人間》 墓から掘り出される『フランケンシュタイン』も含めて、これらの「人造人間」のモチーフは「創世記」の人間創造からの類推なのです。人間は神によって土から造られ、死んで土に返るのだと教えられているのです。宮崎駿監督の『天空の城ラピュタ』の中で、ヒロインのシータは「土から離れては生きられないのよ!」と叫びます。私たちは「天空の城」に住んでいる訳ではありませんが、土に触れずに生活しています。「土を耕す」は「土に仕える」と訳すべき語です。土を守り、土の世話をし、土から離れないで、いつか土に戻って行くことが、神から私たちに与えられた使命なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:51 | 毎週の講壇から

子どもの日・花の日

6月11日(日)は子どもの日花の日礼拝でした。

子どもの日花の日礼拝
posted by 行人坂教会 at 15:26 | 教会アルバム

2017年06月06日

6月第2主日礼拝(子どもの日・花の日)

       6月11日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 土に仕えるのが人=@音楽      朝日研一朗牧師
聖  書  創世記 2章4b〜15節(p.2)
讃 美 歌  27、62、135、「神の愛よ、聖なる霊よ」、348、25
交 読 文  クリスティナ・ロセッティの祈り

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2017年06月05日

酔ってなんかいません【使徒言行録2:1〜16】

聖句「今は朝の9時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。」(2:15)

1.《霊は神の息吹》 神さまとイエスさまが使徒たちに「約束されたもの」、それが「聖霊」でした。「霊」と言うと、私たちは怪しげなものを連想してしまいがちですが、ギリシア語の「プネウマ」もラテン語の「スピーリトゥス」も第一義は「風」です。聖霊とは神の息吹だったのです。風と同じく目に見えませんが、その響きや存在を魂で感じることが出来るものなのです。

2.《ガリラヤの人》 使徒たちが各地の多言語で福音を証するのを聴いて、人々は「なぜガリラヤの人たちが…」と言って驚きます。外国語なのに変な話です。14の言語が挙げられて、少数言語も大切にされています。お国言葉で直接に伝えたいというのが、神さまの何よりの願いでした。それ故、東北弁(ガリラヤ訛り)を感じ取ったのでしょう。外国語で喋っているのに方言を感じるということは、使徒たちが彼ら自身の言葉、取り繕わない人柄が聴いた人々の心に響いたからです。「聖霊に満たされ、霊≠ェ語らせるままに」と言っても、「憑霊」されて意識を乗っ取られているのでは無かったということです。

3.《聖霊を満たす》 「新しい葡萄酒に酔っているのだ」と片付けようとする人たちもいました。「新しい葡萄酒/グレウコス」とは「ムスト」、発酵途中の葡萄液です。発酵が進めば、アルコール分が11%の「どぶろく」にも成ります。ペトロは「酔ってなんかいません」と反論しますが、酔っている人に限って「酔っていない」と抗弁するものです。教会が生まれた日から、教会は世間から「酔っているんじゃないか」との謗りを受けていたのです。私たちも、折に触れて自己吟味するべきです。自己陶酔したり、思い込みに取り憑かれたり、自己主張や我欲の虜になってはいないでしょうか。14世紀の神秘主義者、タウラーは「空になった分だけ、私たちを満たす、それが聖霊の働き」と言います。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:51 | 毎週の講壇から

旭日亭菜単(続き)その38

このレヴュー、大高宏雄さんの『昭和の女優/官能・エロ映画の時代』を採り上げたことがキッカケで、アニメ演出家の西村大樹さんに発見して頂き、大高さん御本人にも覗いて頂けたとの由。感無量です。ありがとうございました。

  • 「居心地の悪い部屋」(ブライアン・エヴンソン、アンナ・カヴァン他著、岸本佐知子編訳、河出文庫)
    ジョイス・キャロル・オーツの短編が入っているから買いました。彼女の「やあ!やってるかい」は、脳味噌筋肉のマッチョ男のジョガーを撃ち殺す最高にイカした作品です。でも特に印象深かったのは、エヴンソンの「父、まばたきもせず」です。娘の遺体を黙々と埋葬する父親の、一切の感情を排した描写に動揺しました。ダニエル・オロズコの「オリエンテーション」は、新入社員に対する事務的説明のみで構成されています。ケン・カルファスの「喜びと哀愁の野球トリビア・クイズ」は、題名通り野球クイズと蘊蓄の繰り返しなのに、読み終えて言い知れぬ哀しみに沈められます。ルイス・アルベルト・ウレアの「チャメトラ」は、メキシコの戦場を舞台にした幻想小説ですが、グロテスクでありながら鮮血の美を湛える内容に圧倒されます。例えば、戦友の頭の銃創から血の代わりに、小さな汽車、実家の建物、家具、両親、彼が寝た女たち等、彼の記憶が次々と流れ出して来る描写などは、なぜか『進撃の巨人』を思い出しました。幽霊を見るより人間が怖いのが、カヴァンの「あざ」、ルイス・ロビンソンの「潜水夫」(ケッチャムの「食人族」シリーズと同じくメイン州が舞台)です。
  • 「FUNGI 菌類小説選集/第1コロニー」(オリン・グレイ&シルヴィア・モレーノ=ガルシア編、野村芳夫訳、Pヴァイン)
    東宝の映画『マタンゴ』がトラウマになった人が編集したキノコ短編集。世界中にいるのですね。収録作品は、キノコへの偏愛、もしくはキノコへの恐怖がテーマになっている以外は、ホラーからウエスタンまでジャンルも広範です。しかし、キノコを題材にしているという段階で既に、ファンタジーの領域に入らざるを得ないのです。ジョン・ケージはキノコたちのために音楽を作り続けたそうですが(キノコが喜んだかどうかは別として)、キノコを聴衆に選んだ段階で既に、人間の聴衆を拒絶しています。演奏者も、チケット買って聴きに来る客も、間違いなく人間だというのに…。いや、それは皆「キノコ人間/Mushroom People」だったのかも知れません。そうでなければ、誰が好んで、あんな音楽を…。もしかしたら、こんな小説を面白がって読んでいる私自身も、菌類に寄生されてしまっているのかも知れません(足は既に白癬菌にやられています)。収録作では、巻末の「野生のキノコ」(ジェーン・ヘルテンシュタイン)に最も心動かされました。チェルノブイリの婆ちゃんたちも同じですが、東欧やロシアの人たちは、どうして、こんなにもキノコ狩りに血道を上げるのでしょうか。斯く言う私も、小学生時代、松茸狩りにハマッていました。
  • 「失われた宗教を生きる人々/中東の秘教を求めて」(ジェラード・ラッセル著、臼井美子訳、亜紀書房)
    ユダヤ教グノーシス主義から派生したマンダ教、古代イラン系宗教のヤズィード教、ゾロアスター教、イスラーム分派のドゥルーズ派、「サマリア五書」を奉ずるサマリア人、エジプトのコプト教、パキスタンとアフガニスタン国境の山岳地帯に住むカラージャ族、以上、7つのマイノリティグループが採り上げられています。ドゥルーズ派は布教をせず、閉ざされたコミュニティの中で、文字通り秘教化しており、ヤズィード教徒も聖職者のみが「真理」を秘匿しているため、一般信徒には教義すら知らされていません。その2つは余りにも特異な例ですが、ゾロアスター教は一旦、ペルシア帝国の国教にまでなりました。ムスリム化以前のエジプトでは、コプト教が広く信仰されていました。しかし、いずれも現地では、コミュニティそのものが消滅の危機に瀕しています。絶滅危惧種は生物学だけでの話ではなく、人間の民族、言語、文化、宗教においても言えることです。そして多様性を失った世界は必ずや滅亡するのです。ムスリムがコプト教徒を迫害することで、彼らの多くが国外に脱出した結果、将来エジプトが被ることになるダメージの大きさは計り知れないのです。非常に明晰かつ丁寧な翻訳に感銘を受けますが、それだけに「失われた宗教」というデリカシーの欠如した題名が惜しまれます。せめて「失われゆく」「消えつつある宗教」にして欲しかった。
  • 「中国侠客列伝」(井波律子著、講談社学術文庫)
    子どもの頃、テレビで東映任侠映画(高倉健の『日本侠客伝』『昭和残侠伝』とか藤純子の『日本女侠伝』等)を観ていました。ですから、昔から「任侠」という生き方に興味がありました。随分、後になってからですが、キン・フーの『侠女』も観ました。中国が任侠の本場です。高倉健が中国で人気があったのも、チャン・イーモウが彼のために『単騎、千里を走る』を撮ったのも、彼が一貫して「侠の物語」を演じて来た役者だったからでしょう。因みに「美髯公 千里 単騎を走らせ」は『三国志演義』の一節です。「義理と人情の板挟み」に悩む話も時折りありますが、基本、中国の侠者たちは自らの自由意志で行動し、既成の権力や権威、この世の常識に反抗する者たちが圧倒的に多いのです。だから、著者も『水滸伝』の宋江が嫌いなのでしょう。宋江は梁山泊軍団のリーダーとして立ちながら、朝廷の招安(罪の赦免、官軍への編入)へ路線変更することで、結局、軍団壊滅をもたらすのです。でも実際、宋江のように生真面目な余りに、権力者に体よく利用されてしまうタイプの人間は珍しくありません。「愛国者は国家に裏切られる」のが世の習いです。
  • 「ドラゴン・ヴォランの部屋/レ・ファニュ傑作選」(ジョゼフ・シェリダン・レ・ファニュ著、千葉康樹訳、創元推理文庫)
    『吸血鬼カーミラ』のレ・ファニュは、フランスから英国に亡命したユグノーの子孫。しかも、牧師の家庭にありながらも、生まれ育ったのがカトリック信仰と妖精伝説に包まれたアイルランドだったのです。そんな屈折した情愛が作品の端々から偲ばれます。「ロバート・アーダ卿の運命」「ティローン州にある名家の物語」「ウルトー・ド・レイシー」の3作品は、所謂「呪われた城主」ものです。それにしても「ロバート」の死神や「ウルトー」の亡霊よりも、(『レベッカ』の設定を思い出させる)「ティローン」の狂女が恐ろしいです。少女が妖精の世界へ連れ去られる「ローラ・シルヴァー・ベル」には、彼女を守ろうとする善い魔女の呪術も詳細に描かれていて、素朴な民話風ながら読み応えがあります。「妖精とは、洗礼をまだ受けていない者に力を揮(ふる)う」という説には、成る程と思いました。少女ローラの家庭は、成人に達してから洗礼を授ける宗派(多分、改革派)なのです。表題作は、フランスを舞台にしたゴチック犯罪小説です。読んでいる内に、カルメニャック警部の台詞が『名探偵ポアロ』の熊倉一雄の声で聞こえて来ました。
posted by 行人坂教会 at 17:08 | 牧師の書斎から

2017年05月30日

ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝

       6月 4日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 酔ってなんかいません=@音楽    朝日研一朗牧師
聖  書  使徒言行録 2章1〜16節(p.214)
讃 美 歌  27、135、490、406、346、75、25
交読詩編  詩編99編1〜9節(p.112)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2017年05月29日

憐れみは裁きに打ち勝つ【ヤコブ2:1〜13】

聖句「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(2:13)

1.《見栄が晴れる》 往年のバラエティ番組『欽ちゃんのどこまでやるの!』では、萩本欽一と真屋順子演ずる夫妻は長男に「見栄晴」と名付けます。あたかもバブル景気の到来を予言するような名前です。日本人はマモンに魂を売り渡し、大いに見栄を張って、ブランド物を買い漁りました。しかし、彼の名前は「見栄を張る」のではなく「見栄」という霧が「晴れる」の意味でした。

2.《盛装と普段着》 「見栄」は他人の目を意識して、自分を取り繕うことです。都市生活は「見栄」なくしては考えられません。都市化とは「見栄」が増大することです。しかし、お洒落や身嗜みも大切です。教会にも「盛装の礼拝」があります。主の御前に出るから一張羅を着て行くのです。「普段着の礼拝」を主張する人もいます。御前に出るのだから自然体でと考えるのです。大切なのは、私たちに「神の御前に出る」という意識があるかどうかです。聖フランシスコは「裸のキリストに裸で従え」と教えました。人目ではなく、主の御眼差しを意識しましょう。ドレスコードはありませんが、聖書が教会のコードです。

3.《ベンチシート》 最も大切なのは「隣人愛」の律法です。「人を分け隔てしない」ことです。しかし、「ヤコブの手紙」の時代には、既に身なりで人を偏り見る出来事が教会の中でも頻発していたのです。「サマリア人の譬え話」では、サマリア人が旅人に「憐れみをかけた」ことが、即ち「隣人に成った」ことだと、イエスさまが教えて居られます。漢字の通り「憐れみ」の心が、その人の傍らに押し出して「隣人」と成るのです。実際に悩み苦しむ人の横に座るのが「隣人」です。多くの教会の礼拝堂がベンチの座席を採用しているのも同じ理由です。見知らぬ他人、仲の悪い者とも同席することが出来るのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:33 | 毎週の講壇から