行人坂教会 公式サイト ご案内

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はじめに・・・・・・・・当教会からのご挨拶があります。
行人坂教会について・・・当教会の歴史・沿革についてご紹介します。
 礼拝・集会の案内・・・当教会で行っている礼拝と集会のご案内です。
 教会へのアクセス・・・当教会への交通、付近の地図、連絡先です。
牧師ご挨拶・・・・・・・当教会牧師のご紹介で、本人のプロフィールもあります。
牧師の書斎から・・・・・当教会牧師のメッセージ、記事を集めています。
 会報巻頭言など・・・・当教会会報「行人坂」に掲載された牧師のメッセージ集です。
 こんにゃく問答・・・・同じく、会報「行人坂」に掲載された教理問答集です。
教会からのお知らせ・・・各種イベント(イースター、クリスマス諸行事、バザーなど)のご案内です。
毎週の礼拝案内・・・・・毎週の主日礼拝のご案内(概要)があります。
      *最新情報*礼拝終了後は当日の音声録音を聴くことができます
毎週の講壇から・・・・・毎週の主日礼拝での説教の要約をまとめてあります。
教会アルバム・・・・・・当教会で過去開催された行事の写真集です。
オリジナル賛美歌など・・当教会の会員有志が作成したオリジナル賛美歌をご紹介します。
リンク・・・・・・・・・日本キリスト教団他の関連サイトへのリンク集です。

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それでは、どうぞご覧下さい。なお、以下は最近の記事です。


2020年06月30日

7月第1主日礼拝

       7月 5日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”神さまの宿題はレポート”     朝日研一朗牧師
聖  書  ローマの信徒への手紙 10章14〜21節(p.288)
讃 美 歌  27、138、490、226、405、28
交読詩篇  詩編126編1〜6節(p.147)

posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2020年06月29日

木が歩いているような…【マルコ8:22〜26】

聖句「すると、盲人は見えるようになって、言った。『人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。』」(8:24)

1.《歩く木》 中南米の熱帯雨林には「歩く椰子の木」があるそうです。幹から突き出た「支柱根」が日向で成長し、日陰は枯れるので、結果的には年10センチ程移動しているのです。ガジュマルの「気根」も同じです。トールキンの『指輪物語』の森の番人エント、ウィンダムの『トリフィド時代』の食人植物など、ファンタジーの世界では「歩く木」が登場することがあります。

2.《木の人》 本田哲郎神父は、この盲人の言葉を「人たちが見えます。木のようなのが歩いているのが分かります」と訳して居られます。少しユーモラスですが、この盲人の人生の苦難を思えば、滑稽とまでは言えません。奇跡の舞台は、ベトサイダの「村の外」ですから、彼が目撃した「木のような人」は野良仕事から帰る農民、旅人の一行だったのかも知れません。ベトサイダは「町」とも「村」とも言われる規模の集落でした。この盲人が視力の回復途上で目にした何かも「人」とも「木」とも映り、その違いは曖昧だったのでしょう。

3.《旅の人》 「どうしてイエスさまは一発で癒して上げられなかったのか?」と呟く人がいますが、見えなかった目が少しずつ見えるようになる、このプロセスにこそ、この奇跡のリアリティがあると思います。「見る」の動詞もギリシア語で4種類も使われていて「見る」にも色々あるのです。「木を見て森を見ず」と言いますが、私たちが見落とす事柄も多いのです。星野道夫の『旅する木』では、トウヒの種子が大木となり、流木となり、薪として燃やされ、灰として大気を漂い…、そんな壮大な旅が紹介されています。私たちは永遠に生きられる訳ではありませんが、私たちも永遠の時の中で生かされているのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:55 | 毎週の講壇から

2020年06月28日

信仰は冠す coronat fides

1.自発的奉仕

去る4月7日、日本政府は「改正新型インフルエンザ等対策特別措置法」に基づき「緊急事態宣言」を「発出」しました。それを受けて、東京都は都内事業者に対する「休業」と都民に対する「外出自粛」を要請しました。

私たちの教会でも、信徒(教会員と教友、教会学校の子どもたちと家族)の生命と健康を最優先に考えて、教会の諸集会を完全に休止しました。そして、当初5月6日までとされていた「休業要請期間」は延長されて、5月31日まで続きました。

折りしも5月31日は、ペンテコステ(聖霊降臨日)当日でした。幾つかの福音派教会では、この日を記念して大きなイベント(「伝道集会」「決起集会」「復興聖会」等)を打っていました。私たちの教会では、ペンテコステは辛抱して、もう1週間の猶予をもって準備をして、6月7日の三位一体主日から主日礼拝を再開としました。それでも、礼拝出席や公共交通機関の利用、外出そのものに不安を感じる人たちも多いと思いましたので、奉仕の当番を外した上で、「無理して礼拝に出席しなくても良い」「家族の反対を押し切ってまで来ることは無い」と通知しました。

実際には矛盾もあります。コロナ禍以前と同じく「奏楽者/オルガニスト」は当番制で奉仕を続けて居られます。礼拝の「司式者」には事前の祈りと準備が欠かせません。誰かが予め引き受けなくてはなりません。当日、早めに来て受付に立つ「礼拝担当者」も同様です。私たちの教会の場合、「司式」と「担当」は、役員と役員経験者による奉仕と成っていますが、現在までの所、自発的な申し出に委ねています。

2.礼拝の継続

そう言えば、所謂「自粛期間」の中にあっても、牧師と役員だけで礼拝を続けていた教会がありました。役員(教派によっては「長老」「執事」等とも言う)は一般信徒(平信徒)とは異なり、教会形成に対して特別な責務を負うと考えられているのです。

同じプロテスタント教会でも、カルヴァン派の流れを汲む教会では、「長老/Presbyter」は牧師や神学教師と共に「平信徒/Layman」の訓練に携わる特別な立場にあります。因みに、「執事/Deacon」と言う場合には、本来、施与や慈善などの奉仕に当たる者ですが、現在では、教会運営を主導する「役員」と同様の意味で使われるように成りました。それはともかく、牧師もまた「宣教長老」、長老の一人に過ぎません。と言う訳で、「自粛期間」にも拘わらず、牧師と長老(役員)だけで礼拝を守り続けた教会があったのです。

会衆派の流れを汲む教会(私たちの教会もそうですが)では、牧師を含めて、礼拝出席者の全員が「会衆/Congregation」という立場を採ります。ですから、「会衆/集められた人たち」がいないにも拘わらず、礼拝を行なう必要はありません。しかし、大規模教会では、牧師や副牧師、伝道師、主事だけで礼拝を守っていたようです。

カトリック東京大司教区は3月半ばには「非公開ミサ」としました。つまり、一般信徒が「主日ミサに与る義務を免除」したのです。カテドラル(大聖堂)では、聖職者だけで典礼を行ない、中小規模教会では「司祭が自室でミサを奉げた」そうです。プロテスタント教会の対応(牧師と役員だけで礼拝を守る、教職だけで礼拝を守る)も概ね、カトリックの「非公開ミサ」を参考にしていると思います。

そもそも、礼拝出席10人前後の小規模教会では、いつもと同じように礼拝をしていたという話も伝え聞きました。但し、近所の「自粛警察」からのクレームと飛沫感染を怖れて、声を出さずに讃美歌の歌詞を心の中で読んだそうです。

これを機に「YouTube」「Zoom」等による映像のネット配信を始めた教会もありました。何が正しい事なのかはさて置き、どの教会も苦労していますね(苦笑)。

3.やってる感

教会の姿勢として、日曜日の礼拝は何が何でも続けるという意識が働いているのです。出来る限り「休止」という語は使いたくないみたいです。「非公開ミサ」やってる、「ネット配信」やってる、少人数礼拝やってる、教職だけの礼拝やってる…。「やってる感」を大切にしていたのです。自粛で「開店休業」状態のラーメン屋と同じく、悲痛な「やってる」が各個教会でも展開されていたのです。斯く言う私も、日曜日の定時には礼拝堂に行き、30分から1時間を祈ったり、賛美したりして過ごしていました。

コロナウイルスの「コロナ/冠」という語との関連で「coronat fides/コローナート・フィデース/信仰は冠す」というラテン語の成句を思い出しました。「信仰は必ず報いられる」という意味です。但し、「とにかく主日礼拝だけは守り続ける」という拘りが、本当に「信仰」と言えるのか、これについては吟味が必要です。単なる「やってる感」のもたらした自己満足では無かったのか。つまり、これらの礼拝やミサは、本当に神さまとの応答や交流をもたらしていたのか、それが問われるべきでしょう。

ネット配信の場合などが具体的に分り易いと思いますが、メッセージや賛美や祈りを在宅の信徒に届けると言ったら綺麗ですが、「ちゃんと礼拝を続けていますよ」というアリバイのようにも思われるのです。つまり、人に届けることにのみ執心していて、そこで神さまの御臨在は置き去りにされている、そんな面は無かったと言い切れるでしょうか。これは、私自身の「5分間礼拝」配信に対する反省でもあります。

礼拝堂で、私が独り行なっていた「ぼっち礼拝」も然り。執り成しの祈りを忘れなかったつもりですが、続ける内「やってる感」に終始していたかも知れません。やはり、礼拝は召され集められた者たちが時間と空間を共にする処から生まれると、私は思っています。

牧師 朝日研一朗

【2020年7月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 06:00 | ┣会報巻頭言など

2020年06月23日

6月第4主日礼拝

       6月28日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”木が歩いているような…音楽    朝日研一朗牧師
聖  書  マルコによる福音書 8章22〜26節(p.77)
讃 美 歌  27、350、490、340、289、26
交読詩篇  詩編37編23〜29節(p.44)

・・・当日の音声録音を聴く
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2020年06月22日

いちばん大事なものは何?【ルカ16:1〜13】

聖句「不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。」(16:11)

1.《盗賊と義賊》 盗賊は他人の財産を盗む犯罪者、悪党です。しかし、民衆から「義賊」として称えられる者たちもいます。「梁山泊」頭目の宋江、鼠小僧次郎吉や石川五右衛門、デリンジャー、女盗賊プーラン等です。フィクションの世界では、ロビン・フッド、ルパン、怪傑ゾロが思い出されます。彼らが「義賊」と呼ばれるのは「弱きを助け、強きを挫く」からに他なりません。

2.《マモン洗浄》 この「いんちきマネージャー」も悪党です。金持ちの主人から預かっている財産を横領、嘘の会計報告をしたことがバレたのです。その時に彼が取った行動は、主人の債務者から利息を棒引きすることでした。「不正にまみれた富/マモン」を「喜捨」によって清めたのです。それによって、主人の債務者たちに恩を売って、解雇された時の備えをしたのみならず、主人の持つ「不正にまみれた富」を「資金洗浄/マネーロンダリング」したのです。だからこそ、更なる損失を被った主人が、彼の「抜け目ないやり方」を褒めているのです。

3.《富の使い道》 同胞から利息を取ること自体が「不正」なのです。その「不正にまみれた富」が「いんちきマネージャー」の機転によって「真の富」「本当に価値あるもの」へと変えられたのです。「小事に忠実な者は大事にも忠実なり」と言われますが、「小事」とは、正しい「富の使い道」、困窮者を助けるという信仰者としての義務を意味します。「大事」は、天地万物を創造された神さまのことです。コロナ禍によって休業を余儀なくされた中小企業や店舗、個人事業者が悲鳴を上げていますが、他方「持続化給付金」は一部の企業や天下り役人によって中抜きされています。権力による搾取そのものです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:55 | 毎週の講壇から

2020年06月16日

6月第3主日礼拝

       6月21日(日) 午前10時30分〜11時30分
説  教 ”いちばん大事なものは何?音楽   朝日研一朗牧師
聖  書  ルカによる福音書 16章1〜13節(p.140)
讃 美 歌  27、350、364、370、26
交読詩篇  詩編37編23〜29節(p.44)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 06:00 | 毎週の礼拝案内

2020年06月15日

おめで鯛の尾頭付き【マタイ7:7〜12】

聖句「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。」(7:9,10)

1.《ダラバ?》 NHKで『夢食堂の料理人』という単発ドラマがありました。1964年の東京五輪の選手村に出来た「富士食堂」が舞台です。世界各国から集まった7千人の選手団に食事を提供するために、日本各地から招聘された3百人のコックが悪戦苦闘します。主人公のコックが、ホームシックのアフリカ選手を励ますために、チャドの郷土料理「ダラバ」に挑戦するのでした。

2.《色々な魚》 その魚料理にはティラピアを使いますが、当時、日本に無かったので、マダイを代用していました。福音書のペトロゆかりの魚とされるのが、そのティラピア(カワスズメ)です。ガリラヤ湖には他にも、ユダヤ教徒が安息日に食べるニゴイ、大量に網に掛かるイワシの仲間があります。「魚を欲しがる我が子に、蛇を与えるバカ親がいるか?」と、イエスさまが仰るのは、ガリラヤ湖のナマズが蛇のように長かったことからの類推とされます。鱗や鰭の無い魚は、旧約の律法で食べることを禁じられていたのです。

3.《パンと魚》 似ていると言うなら、当時のパンはフスマを除いていませんから色も黒く、丸いので石ころのようでした。パレスチナは石ころだらけの土地です。でも、親がパンと石、魚と蛇を間違って、子に与えることはありません。同じく天の神さまも、求める人たちには「良い物」をくださいます。思えば、パンも魚も、イエスさまのシンボルでした。大切なのは、探し求める心、諦めないでドアを叩き続ける根性です。それを育むのが、キリスト教の祈りです。誰でも最初からある訳ではありません。子どもも大人も同じ、「三匹の鯛」の喩えの通り、褒められ認められて、自信とやる気が養われるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:56 | 毎週の講壇から

2020年06月14日

子どもの日・花の日

今日は子どもの日・花の日礼拝でした。

礼拝の中で奏楽者任職式も執り行われました。

60600614子どもの日・花の日

こどもの礼拝は次週6/21(日)から再開します。

posted by 行人坂教会 at 21:28 | 教会アルバム

2020年06月12日

旭日亭菜単(続き)その58

  • 「短編ミステリの二百年vol.1」(モーム、フォークナー他著、小森収編、深町眞理子他訳、創元推理文庫)
    編者の小森収による論文が巻末にあります。でも未だ序章と1章だけなので、このシリーズの続刊に載るのでしょう。結構、読み応えがあります。さて、「ミステリ」と聞いて、単純に本格推理物などを期待して貰ったら困りますが、本書収録の諸作が面白くないはずはありません。ウールリッチの「さらばニューヨーク」は「暁の死線」に匹敵する名作です。スティーヴンスンの「クリームタルトを持った若者の話」には奇譚の面白さが、イーヴリン・ウォーの「アザニア島事件」には三面記事の面白さがあります。実は、冒頭のリチャード・ハーディング・デイヴィスの「霧の中」には見事に騙されました。「つまんねぇ話だな」と思って読み始めたら、語り手がリレー形式に成っていて、何回も引っ繰り返されてしまうのです。ラニアンの「ブッチの子守歌」、こういう語り口も好きだなあ。
  • 「ヤービの深い秋」(梨木香歩著、小沢さかえ画、福音館)
    「小さい人たち」ヤービの一行と「大きい人たち」ウタドリさんの一行とが、それぞれ別の理由で「ややこし森」(人間は「テーブル森林渓谷」と呼んでいる)の「テーブル・マッシュルーム」を探しに行くのです。「キノコのために作曲をしている」と言ったのは、現代音楽の巨匠、ジョン・ケージだったでしょうか。その昔、著者に薦められて『ジョン・ケージ/小鳥たちのために』(青土社)を読んだ事が思い出されます。その後、私もキノコ粘菌系のホラーに深い愛着を覚えるように成りました。「キノコホテル」のマリアンヌ東雲も大スキです。やはり、子どもと一緒に自然の中に踏み込んで行く事(大人は事前の経験と準備が必要ですが…)、これが子どもの成長に必要なのです。それが前提で、この決め台詞があります。「成長する子どもを、だまってかたわらで見守る。…だまって、というのはむずかしいことですがね。彼らが成長したい方向へ成長するのを手助けする、といった方がいいかもしれません」。
  • 「幽霊島/平井呈一怪談翻訳集成」(A・ブラックウッド他著、平井呈一訳、創元推理文庫)
    メアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」と同じく、レマン湖畔の「ディオダティ荘の怪奇談義」がキッカケに成って生まれたとして有名な、ポリドリの「吸血鬼」、初めて読みました。つまんねぇ。歴史的作品として読むべき課題に過ぎません。但し、こんな作品も平井翁に翻訳して頂いているから読めるのです(感謝)。吸血鬼物なら、ローリングの「サラの墓」やマリオン・クロフォードの「血こそ命なれば」「死骨の咲顔」でしょう。「塔のなかの部屋」のベンソンは、カンタベリー大主教E・W・ベンソン(キプリアヌス研究の著書があります)の息子、「のど斬り農場」のベレスフォードも牧師の息子、「ライデンの一室」のバーラムは王室礼拝堂付きの牧師、M・R・ジェームズは言わずと知れたケンブリッジ大学の聖書学者です。現代の牧師たちの中からも怪談作者が出ることを望みます。フレンド派のハーヴェイによる「サラー・ベネットの憑きもの」が収穫でした。殺戮の戦場であっても、青空には小鳥の囀る残酷を「ルカによる福音書」16章26節の聖句から説き起こす件が面白かった。ブラックウッドの表題作は勿論、底知れぬ怖さがあって絶品です。
  • 「鬼滅の刃」第1巻「残酷」〜第6巻「鬼殺隊柱合裁判」(吾峠呼世晴作、集英社)
    評判なので、二男のコミックスを借りて読んでみました。大正時代に日本刀を振り回す登場人物たちは『るろうに剣心』(「るろ剣」は明治時代だけど)ですね。家族を鬼に皆殺しにされた炭治郎が天狗の面を付けた老人の下で修行し(『ドラゴンボール』の孫悟飯じっちゃんが狐面を付けていたのを思い出す)、「鬼殺隊」入隊の最終選抜試験(『HUNTER×HUNTER』)をクリアして、更なる修行によって呼吸法を身に付けてレベルアップ(『ジョジョの奇妙な冒険』の波紋とか『H×H』の念能力とか)…。「ジャンプ」系マンガの王道です。善逸(『ソウルイーター』のクロナを思い出させるトリックスター)や伊之助(猪の被り物の下は美少年、『もののけ姫』か)といった同期の剣士たちと行動を共にするように成って来て、俄然エンジンが掛かります。でも、やはり、この作品の最大の魅力は、炭治郎が背負う笈(木製の箱)に入っている禰豆子の存在でしょう。妖怪の「折り畳み入道」や江戸川乱歩の『押絵と旅する男』を思い出します。手毬を操る童女の鬼、朱紗丸と禰豆子が戦う場面では、二人とも着物の裾捲くり、親爺世代はこれが一番楽しかったりして…。
  • 「夜鳥」(モーリス・ルヴェル著、田中早苗訳、創元推理文庫)
    先の「フランス怪談集」に「或る精神異常者」が入っていて、昨年夏に京都の一乗寺の恵文社で購入したまま未読だったのを思い出した次第です。リラダンの流れを汲む「残酷物語/Contes cruels」として紹介されますが、フランスのジャン・ローラン監督の短編映画と似た淫靡な感触があります。麻酔の効かないままの手術(「麻酔」)、猛犬、狂犬に噛み殺される間男(「犬舎」)や不義の子(「生きぬ児」)、稲穂刈りの大鎌(サイス)で首チョンパされる姦婦と間男(「麦畑」)…。ルヴェルの残酷は愛から生まれたものばかり。とりわけ、愛人に硫酸で顔を灼かれて失明した男が、彼女の罪を許して告訴を取り下げたものの…(オチの言えない)「暗中の接吻」、死刑を求刑した男の冤罪に苦しんだ検事の後半生を描く「自責」等は皮肉に満ちたドンデン返しです。乞食が盲目の乞食に施す「幻想」は、チャップリンの『街の日』を思い出しますし、1人の子どもを取り合った挙句の「二人の母親」は、「列王記上」3章、ソロモン王の「大岡裁き」の遠い谺を思わせて、独特なペーソスがあります。
posted by 行人坂教会 at 21:05 | 牧師の書斎から

2020年06月11日

次週「聖書と祈りの集い」休会のお知らせ

2020年6月17日(水)の「聖書と祈りの集い」は朝の部・夜の部共に休会となります。   
posted by 行人坂教会 at 09:54 | 教会からのお知らせ