天地創造
「初めに神は天と地を造られた」これは旧約聖書「創世記」の冒頭のことばです。神様は6日間で、この世界をお造りになりました。天と地を分け、光と闇を分け、空と水を分けました。海と陸を分け、神様は草や実のなる木を作りました。創造主は昼と夜を分け、太陽と月を作りました。続いて、鳥、魚、動物、を作り、ご自分の作ったそれら大自然をみて「良い(Good)」とされました。そして最後に人間を作り「とても良い(Very Good)」と言われました。
神様はお作りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めてよかった。
ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の天井画「天地創造」は旧約聖書の「創世記」に基づいて描かれたもので、この世界と人間は神によって造り出されたことをモチーフにしています。
映画『ET』の元ネタになったとも言われているこの絵画は、創造主なる神が人間を神の似姿に造った瞬間を切り取っています。
詩編には、被造物や人間が、神様によって創造されたことが書かれています。
御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた。主は大海の水をせきとめ、深淵の水を倉に納められた。(詩編33:6-7)
洗礼で変わったこと
教会では洗礼(バプテスマ)という儀式があります。これはクリスチャンになるための式典です。
この前の月曜日に、フェリス女学院大学の学生の方が行人坂教会に遊びに来てくださいました。その学生は2022年末のクリスマスに洗礼を受けてクリスチャンになりました。「クリスチャンになってなにか変わりましたか?」と学生の方に伺ったところ「基本的には変わっていませんが、洗礼を受けて死ぬことが少しだけ怖くなくなりました」と言っていました。
学生の方の初々しい洗礼のお話を聴き、私がバプテスマを受けた時の新鮮な気持ちを思い出しました。私の場合、洗礼を受けて変わったことは、自然の景色を眺めている時の見え方が変わったことです。
私がクリスチャンになったのは20年以上前、大学生の時です。私は幼稚園から高校まで新潟市で育ちました。小中学校の通学路には田んぼがあり、春には田植えや鳥の鳴き声を聴いていました。夏にはかえるがなく音、秋にはすすきが風にゆらぐ秋空をみて、四季折々の草木に囲まれて育ちました。冬の塾の帰りの自転車ではオリオン座が綺麗に見えたのを覚えています。自然に感動する感性は、洗礼前は、あまりなかったように思います。しかし、バプテスマを受けクリスチャンになってから同じ自然を見ても感情の動きが変わりました。
たとえば、同じ夕焼けの空を見ても、「うわー!神様のデザインされた雲と空のグラデーションだ!」と感激するようになりました。紫陽花の葉っぱが雨に濡れて太陽の光がキラキラ光っているのをみても感動が違います。新潟に帰省する時の越後山脈の山々の頂きをみた時も「キレイだなー」と心に迫ってきます。
そして「こんな美しい大自然をデザインされた神様が、私のことも神の作品としてデザインしてくださったのかー!」と神様に愛されている嬉しさ、天と共にいる喜びをジワリジワリと感じるようになりました。
皆さんはクリスチャンになって、洗礼を受けて、変化したことはありますか?ある方は「同じようにオルガンを演奏していても心持ちが変わった」という方もいました。「同じ聖書を読むのでも心に染み入るようになった」という方もいました。ぜひ、みなさんの洗礼に至るストーリー、行人坂教会に導かれるにいたったストーリーを聞かせて頂けたら幸いです。
あざみがあっても
私の友達が、茨城県で「エデン農園」という無農薬野菜を育てています。ちょうどエデン農園は昨日、今日(2023年6月25日)であざみが満開だ、と教えていただきました。あざみのとげは刺さると本当に痛いそうです。
天地創造の時、この地上は完全な状態でした。アダムとイブがエデンの園で善悪を知る木の実を食べてから、被造物も堕落しました。それにより大地には茨とアザミが増えました。
「あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。大地は、あなたに対して茨とアザミを生えさせ、あなたは野の草を食べる。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。」
人間にも罪の性質が入りました。これはアダムとイブ以来、今日まで続いています。愛したいのに憎んでしまう。平和に暮らしたいのに心がザワザワしてしまう。パウロも「自分はやりたいなと思う善いことができなくて、かえって自分でやりたくないと思っている悪をしてしまう」と言っています。
しかし、イエス・キリストがこの十字架で死んで3日目に復活したことで、被造物が回復を始めました。イエス・キリストの十字架で流された血によって私たちの罪は赦され、神様と和解をして平安を得ました。
今でも、この地上には様々な問題があり被造物はうめいています。しかしキリストが再び来て、被造物が完全に回復し、新しい天、新しい地が造られることを私たちは待ち望んでいます。
私たちの中には古い性質が残っていて、怒ったり、敵意をもったりします。私たちは、信仰によって調和のある神の目からみたら麗しい「神の国」を先取りしているのです。いばらもあざみもない世界の信仰による先取りです。同時にキリストが再び来られて「霊の体」で私たちも復活する希望をもって待っているのです。
交読詩編や讃美歌の「海も、川も、森も、鳥も、動物もみんなで創造主なる神様を讃美している」という歌詞を聴くと、ディズニー映画で動物もお花も喜んで歌っている楽しい風景を思い浮かべます。
イエス・キリストを信じる時に、新しい命の息が私たちの中に新たに息吹かれる。私たちは「新しい人」として、栄光から栄光へと変えられていくわけです。本来造られた時のVery Goodの状態が回復していきます。私たちの中に聖霊を息吹いてくださった神様は、美しい花や自然よりも、もっと装って私たちを愛して、備えてくださっているのです。
結論
最後に「ハレルヤ」という言葉をご紹介して、今日のお話を終えたいと思います。ハレルヤということばは、クリスチャンでなくても聴いたことある方が多いのではないでしょうか。(たとえば、JPOPの歌詞でも米津玄師「パプリカ」のサビ、ハレルヤ夢を描いたなら心遊ばせあなたに届け。SMAPのshakeのサビ「明日ならハレルヤ」、湘南乃風 晴ル矢 歌詞「今日は雨でも明日はハレルヤ」etc.)
ハレルヤとは喜びの言葉です。私は20代後半から東京バプテスト教会という代官山の教会に長く通っていました。インターナショナルな教会で、牧師の説教中に黒人の方が話に感動すると「ハレルーヤ!」と嬉しそうに説教の途中で叫んでいました。
詩編はテヒリームといいます。この単語は「たたえる、讃美する」を意味する動詞ヒッレールの派生名詞で「讃美」を意味します。この動詞の複数命令形ハレルーに神の名前ヤハウェの短縮形やーを付した形(ハレル+ヤー)が、ハレルヤです。ヤハウェを讃えよという意味です。
この詩編(テヒリーム)には「ハッピーハッピー!順調で何も問題なし」という部分だけ出てくるでしょうか。いや、違います。怒り、痛み、悲しみ、恐れ。そんなマイナスな感情も多く出てきます。ネガティブな思い、ポジティブな感謝も詩編の中に頻出します。
救いを求めて神に嘆き訴える祈りや「相手をやっつけてください神様」という復讐の祈り、嘆きと鬱々として言葉・・・。ドロドロとして人間の感情が出ています。これらも全て含めて詩編(讃美)なのです。
私たちは誰もが人間関係や自分の健康で、痛み、とまどい、嘆きがあります。しかし、それにもかかわらず、イエス様が一緒にいてくれるから、私たちには持っていない力を持っている大いなる方を喜びと感謝をもってたたえるのが讃美です。
山も丘も一緒に 讃美の歌を歌おう
うみも おがわも いつしよに 讃美の歌を歌おう
もりも はやしも いつしよに讃美の歌を歌おう
とりも けものも いつしょに讃美の歌を歌おう
海や小川や森や林や鳥や動物が神様を讃美しています。同じように、私たちもたとえ試練があったとしても讃美して前を向く力を神様に祈り求めて参りましょう。私たちの計画以上の計画を私たちに実現してくださる創造主なる神を信頼して、世界の善いものに目を向けていき、感謝と讃美の人生を歩んでいこうではありませんか。